上文曰十寸爲尺。此及夫字下云周制八寸爲尺。
上の文では十寸を尺と為すとある ここに及びその字は、下で周の制度では八寸を尺と為すという
別周制之異乎古也。王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
別の周の制度は古と異なるなり 王制曰く、古は周尺を以って八尺を歩と為す
今、周尺を以って六尺四寸を歩と為す
鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
鄭注では、周尺の長さ(数)はいまだにはっきりとしない 礼制から考えるに、周はなお十寸を以って尺としたようだ
葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
けだし、六国時(春秋時代)には、多くの変乱した法度が用いられていた
あるいは周尺は八寸という 歩を以ってさらに八と為す(八尺が歩) 八八、六十四寸となる(今以周尺六尺四寸爲步と一致する)
鄭意八寸爲尺。周末始有之。與許說異。然許亦曰諸侯力政。
鄭(のいうこと)は八寸を尺と為す、という意味になる
周末の頃に、この測り方が始まった 異説ももちろんありうる 諸侯の力政のためということもまたありうる
分爲七國。田𤲮異畮。車涂異軌。律令異法。則其說亦未嘗不合也。
七国に分かれた時代(戦国時代)である 田の大きさ、車の車輪の幅、律令の法も、国ごとに異なっていた
すなわち、その説くところもまたいまだかつて合わないのもしょうがない
左傳。天威不違顏咫尺。咫尺並言。不云二尺也。
佐伝(左氏春秋伝) 天威不違顏咫尺 天子の威光、咫尺に顔を違らざる
咫尺を並べていう 二尺とは言わざるなり(咫と尺は同じ長さ(=八尺)ではない)
國語、列子皆言其長尺有咫。亦不言其長二尺也。是可證周未嘗八寸爲尺矣。
国語(春秋外伝)では、列子皆その長さを「尺有咫」という
またその長さを二尺とは言わざるなり
これ、周はいまだかつて八寸を尺と為さざる証というべきや