>>517の続き
上文曰十寸爲尺。此及夫字下云周制八寸爲尺。
上の文では十寸を尺と為すとある ここに及びその字は、下で周の制度では八寸を尺と為すという

別周制之異乎古也。王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
別の周の制度は古と異なるなり 王制曰く、古は周尺を以って八尺を歩と為す
今、周尺を以って六尺四寸を歩と為す

鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
鄭注では、周尺の長さ(数)はいまだにはっきりとしない 礼制から考えるに、周はなお十寸を以って尺としたようだ

 葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
 けだし、六国時(春秋時代)には、多くの変乱した法度が用いられていた
 あるいは周尺は八寸という 歩を以ってさらに八と為す(八尺が歩) 八八、六十四寸となる(今以周尺六尺四寸爲步と一致する)
  
鄭意八寸爲尺。周末始有之。與許說異。然許亦曰諸侯力政。
鄭(のいうこと)は八寸を尺と為す、という意味になる
周末の頃に、この測り方が始まった 異説ももちろんありうる 諸侯の力政のためということもまたありうる

分爲七國。田𤲮異畮。車涂異軌。律令異法。則其說亦未嘗不合也。
七国に分かれた時代(戦国時代)である 田の大きさ、車の車輪の幅、律令の法も、国ごとに異なっていた
すなわち、その説くところもまたいまだかつて合わないのもしょうがない

左傳。天威不違顏咫尺。咫尺並言。不云二尺也。
佐伝(左氏春秋伝) 天威不違顏咫尺 天子の威光、咫尺に顔を違らざる
咫尺を並べていう 二尺とは言わざるなり(咫と尺は同じ長さ(=八尺)ではない)

國語、列子皆言其長尺有咫。亦不言其長二尺也。是可證周未嘗八寸爲尺矣。
国語(春秋外伝)では、列子皆その長さを「尺有咫」という
またその長さを二尺とは言わざるなり
これ、周はいまだかつて八寸を尺と為さざる証というべきや