邪馬台国畿内説を批判するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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>>681
>野矢茂樹先生の著作は
野矢氏に下駄を預けずに、自分の言葉では書けないのかな?
邪馬台国関連スレに出没する人の中では、相当の知識を持ち、とても頭の良い人って設定なんだろ?
こっちは、伊都国説(笑)の書き込みには、何度でも馬鹿らしいと思いながらも、きちんと間違いを正しているよ
結局、まともなことが書けずに逃げてるだけだろ?
計ってもいいだろうなんてのは、科学の対象ではない
計ったとするべき理由もないし、計る可能性すらないのはきちんと論証されているのに
「計ってもいいだろう、計ったら八咫なのは事実」とか学問板で書けるのはすごいなと思うよ
九州説も伊都国説も科学ではない 畿内説も根拠のない妄想ばかりで、あれこそ科学ではない。 畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて悪口だけになってきているな。。。 岡上氏の投稿がキナイコシを追い詰めすぎたのではないのかな。。。。 >>685
事実、事実って言い張るけれど、なんか証拠でもあるの?
思考停止そのものじゃないか >>685
>平原の鏡の周が八咫
九州説・伊都国説がいう「八咫」の長さが、そもそも間違っていたら、
事実でもなんでもないだろ? 周歩が身体尺で、135センチ程度とされている
清代の注釈 清代 段玉裁《說文解字注》から引用すると
王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
となっていて、
周代でも古い時代は、周尺の八尺を歩としてたが、
今は周尺の六尺四分を歩としている
と書かれている
これで、歩=135センチから換算すると
八尺=歩=135センチなら 一尺=16.9センチ
六尺四分=135センチなら 一尺=21.1センチ
どちらにしても、漢尺の23センチとは異なるし、
咫が周尺である以上、平原1号墓出土鏡は、面径二尺にはならない
したがって、円周も八咫にはならないんだよ
>>690で書いたとおり、九州説のいう「咫」の長さが異なっていたってことだ
この数値から計算すると、咫=16.9センチ
八咫=135センチで、平原1号墓の146センチとは合わない
146センチは、7.56咫だね
都合のいい数字を恣意的に持ってくるのでなければ、こんなものだよ >>691
つまり君が延々と書いた咫の定義は誤りなんだよ。
漢尺が23センチ、平原の鏡は46センチ。
古代の倭では、漢尺を基準に径二尺、その円周が八咫という基準を用いていたということだ。
短里と同じだよ。
倭では倭なりの単位系を用いていた。 八寸を一尺とする鯨尺というのが
木材加工や建築現場で
今でも使われているよ。 倭や日本が中国とは違う独自の尺度や文化を持っていたら、何か都合が悪いのかな? >>684
>自分の言葉では書けないのかな?
ドンと来いスレかどこかで、まずは自分の言葉で書きましたが。鳥頭さんは、もう忘れましたか?
何度も説明するのは面倒なので、貴方が読みに行ってください。
で、これ↓に関する回答はまだですか?
畿内で内行花文鏡が大切にされていると、何か不都合でもあるのですか??
>>そして、二流・三流の品、三角縁を大型鏡(笑)ともちあげる。
>>これが畿内病クオリティ。
>本当に、具体的なことはいわず、いつでも自分の都合で言うことをころころ変えて、
>議論ではなく、人を茶化すことが目的って辺りが、お鏡さんクオリティですね!
意味が分かりませんが、あなたが畿内の大型鏡として、内行花文鏡を無視するから
指摘したまでです。で、なにか不都合でもあったのですか?? >>695
平原の大鏡が八咫の鏡じゃないと、なにか不都合でもあったのですか?
あったのですねw >>696
あくまで仮にですが、平原の1八咫の周長を持つ大鏡が、伊勢に伝わるとされる「八咫鏡そのもの」でなくとも、別に私は不都合ないですよ??
大和で尊重されていたのは、現に伊都国平原王墓と同じ倣製大型内行花文鏡ですから。
で、大和において、大型内行花文鏡が尊重されていると、何か不都合でもあるのですか? 「魏志倭人伝に記録された方角は信用できません(でないと困ります)」
「魏志倭人伝に記録された里程は誇張表現で信用できません(でないと困ります)」
「平原の大鏡の円周は八咫ではない(でないと困ります)」
「咫は、文飾的文言で、数詞ではない(でないと困ります)」
「平原の内向花文鏡は、欲しがる人がいなかったんだよ(でないと困ります)」
「周りに対する影響が皆無なのが、3世紀の北部九州 (でないと困ります)」
「倣製鏡は、いくらでも作れるんだから、威信材として格落ちで(ないと困ります)」
「平原の大鏡は、当然「王権の象徴」としては不適当(でないと困ります)」 >>692 さん
そうですね。
平原の大鏡が丁度漢尺で2寸なのは、これは偶然でなく、製作者の故意があると思いますね。そして、それが現在でも最大の銅鏡であることも、なんらかの故意があると思います。
この二つの事象には、ほぼ確実に故意があるのだから、
「八咫 だけ単なる偶然、漢尺で読むのはナンセンス」と言われてもね。 思考停止しているのは、貴方たちです。
早く下に答えてください。
で、大和において、大型内行花文鏡が尊重されていると、何か不都合でもあるのですか? 邪
馬
台
国
畿
内
説
を
批判したくても批判できないスレ
w >>702
>思考停止しているのは、貴方たちです。
どこが? >>704
「大和において、大型内行花文鏡が尊重されていると、何か不都合でもあるのですか?」
この質問に答えない点を思考停止と言っていますよ。 >>701
>「八咫 だけ単なる偶然、漢尺で読むのはナンセンス」と言われてもね。
実際ナンセンスでしょ?
史料無視はいかんよ あと、下の質問からもいつも逃げ回っていますね(笑)。
「畿内説における卑弥呼の墓の比定地はどの墳墓ですか??」
貴方、もう畿内説やめたらどうです? >>705
なんでそんな変な質問に答えないと
思考停止だってことにされるの?
理由がないでしょ >>707
この荒らしをやってたのは、やっぱり岡上かよ >>707
愚問に答えないと畿内説やめなきゃいけない理由は何だ? 「大和において、大型内行花文鏡が尊重されていると、何か不都合でもあるのですか?」
この程度の質問にも答えないで、絵に書いたような卑怯さですね。
>>709
全岡上病の方は、書き込みをお控え、まずはご家族に相談ください。 >>708
思考停止ぶりを指摘されて悔しかったから意味もなくそのまま言い返しただけでそ >>711
>あと、下の質問からもいつも逃げ回っていますね(笑)。
>「畿内説における卑弥呼の墓の比定地はどの墳墓ですか??」
なんてセリフは
その愚問してる奴しか言わんよ >>710
「都合に悪いことは答えないことは畿内説は答えない」と他説に思わるからです。
「大和において、大型内行花文鏡が尊重されていると、何か不都合でもあるのですか?」
そんなに答えられない質問ですかねぇ(笑) おっと訂正です。
>「都合に悪いことは畿内説は答えない、困っている」と他説に思われるからです。
それに、卑弥呼の墓の比定地を質問されただけで、困ってしまうというは、
説としてどうなんでしょう?
本当に一緒にされたく無い(笑) ないけど
畿内説論者の信頼性がなくなるけどね。
主張が一貫してないってことだから。 >>718
何で「主張が一貫してないってこと」になるの?
理由は? >>717
困ってしまうっと理由は?
妄想がすぎないか? >>721
困ってないなら、さっさと答えてください
「大和において、大型内行花文鏡が尊重されていると、何か不都合でもあるのですか?」 畿内説を批判できない岡上がゴミ
無理やりイチャモンを考えてるね >>723
困ってないと、何で意味もない質問に答えなきゃイカンのだ? >>723
何でそんなこと思いつくのか
想像もつかない >>717
「お前は安倍政権を支持するか?」とか
突然質問しても答えてもらえないのと一緒でしょ
脈絡がない 不都合とか言っちゃう発想が非学問的なのだよな
都合の良い情報だけ集めたがるチェリーピッカー体質が良く出てる 畿内で最も尊重されていた鏡は内行花文鏡。
九州で最も尊重されていた鏡も内行花文鏡。
銅鐸を用いた畿内独自の祭祀は打ち捨てられ、九州の銅鏡銅矛文化が西日本と東日本を席巻する。
その内行花文鏡の中でも最大となるのが平原遺跡の超大型内行花文鏡である。
畿内説はその鏡が持つ意味について何も答えられない。 チェリーピッカー連呼厨は何回も自己紹介しなくていいって。 「尊重されていた」っていうのが根拠のない主観に過ぎないことに気が付かない時点で岡上に学問は無理 理由はないが、とにかく「ピントが外れた」t言いたかった岡上 >>732
質問もしてないことを
相手が「何も答えられない」と
決めつける根拠は? >>737
なら質問させて頂きますよ。はいどうぞ
大和において、大型内行花文鏡が尊重されていると、何か不都合でもあるのですか? まあ>>732みたいな思い込みと独善が、東遷説を学問の世界にいられなくしたんだろうなあ >>697
>1八咫の周長を持つ大鏡
お鏡さん、あんたすげぇなww
これまで「咫」という単位があるっていう主張をしてるんだとばかり思っていたんだが
「八咫」が単位だと思ってるんだな
想像を超えていたわ
さすが、来る日も来る日もありもしない「円周を測ったら八咫」を主張してるだけあるわww
「円周は測らない」し、「漢尺に咫はない」
面径が尺の整数倍ちょうどでない限り、使い道がないんだから
「円周長を測るための単位などあり得ない」 >>692
>短里と同じだよ。
この時点で妄想確定
短里があるとしないと、九州説が成り立たないから言い張ってるだけ
魏志倭人伝の里程は、比定地がほぼ異論のない末慮国、伊都国、奴国の
3国の間の現実の距離で換算すると3倍の開きがある
測定によって、3倍も長さの異なる「単位」などない
短里なんてないんだよ
ただ、魏志倭人伝の里程標記が不正確であてにならないことが分かるだけ
>倭では倭なりの単位系を用いていた。
短里と同じってことは、「咫で計った」としないと、
九州説が成り立たないから言い張ってるだけってことだね
分かりやすいわな 三種の神器の組合せは、そこらの古墳の副葬品として普通に見られる
事実 山口県の赤妻古墳、山梨県の笛吹市平林2号墳 など
八咫鏡という名称は、皇統のレガリア以外の大鏡にも普通名詞として使われている
事実 雄略紀「別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、
使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請」
おまけ 皇統と無関係の「八尺瓊勾玉」も日本書紀にある
垂仁紀「是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有「八尺瓊勾玉」」
本物の「八咫鏡」である伊勢の御神鏡は、面径が漢尺の二尺ではない
これは推測
八咫鏡を入れる入れ物の実見記録として口径九寸の黄金鑵が記載されている
その外側の御樋代は内径が一尺六寸三分で、49センチで
面径46.5センチの鏡を入れるにはぎりぎりすぎるのも状況証拠といえる
つまり、面径二尺と主張することは、皇統のレガリアとのつながりにおいて意味がないし
三種の神器の組合せも「倭王の墓」を意味しない
そして、「八咫鏡」という名称も、皇統の皇位の証をそのままで意味するものではない
その上で、円形の鏡の周囲を「計ったら」というのが、
可能性すらほぼない恣意的すぎる「仮定」だし、
漢尺の体系にない「咫」を、「漢尺の八寸」として計算するのもご都合主義
結局は「だったらいいな」の結論ありきの数合わせなんだよ 平原1号墓が径百歩には小さすぎて、卑弥呼の墓ではあり得ないのに、
平原1号墓出土鏡が円周長を「計ったら八咫」で「八咫鏡」だから卑弥呼の墓っていうのに
どうしてこだわるの?
そうじゃないと困るから?ww >>738
>大和において、大型内行花文鏡が尊重されていると、何か不都合でもあるのですか?
???
世間では、畿内では画文帯神獣鏡が尊重されてるって言われてないか?
何をもって、大型内向花文鏡が尊重されているとか言い出してるの? >>748
>世間では、畿内では画文帯神獣鏡が尊重されてるって言われてないか?
根拠は? ごめん(>_<) 計算間違ってた
691の修正
周歩が身体尺で、135センチ程度とされている
清代の注釈 清代 段玉裁《說文解字注》から引用すると
王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
となっていて、
周代でも古い時代は、周尺の八尺を歩としてたが、
今は周尺の六尺四分を歩としている
と書かれている
これで、歩=135センチから換算すると
八尺=歩=135センチなら 一尺=16.9センチ
六尺四分=135センチなら 一尺=21.1センチ
どちらにしても、漢尺の23センチとは異なるし、
咫が周尺である以上、平原1号墓出土鏡は、面径二尺にはならない
したがって、円周も八咫にはならないんだよ
>>690で書いたとおり、九州説のいう「咫」の長さが異なっていたってことだ
この数値から計算すると、咫=16.9センチ
八咫=135センチで、平原1号墓の146センチとは合わない
146センチは、「8.63咫」だね
都合のいい数字を恣意的に持ってくるのでなければ、こんなものだよ >>750の補足
黒塚古墳は、盗掘なく埋葬時の設置場所で鏡の発掘が行われた数少ない例だが
棺内の被葬者の枕頭に画文帯神獣鏡が置かれ、三角縁神獣鏡は棺外に置かれていた >>752
修正Thanks
石槨が地震で崩れて木棺の上を覆ってて、その下で頭の位置に画文帯神獣鏡があった、
でいいんだよね >>719
>何でそんな質問するのか意味がわからない
>>714のお鏡さんの
>そんなに答えられない質問ですかねぇ(笑)
っていうのは、
誰かさんの立てた乱立荒らしスレ
「邪馬台国纏向説破綻の理由を初心者に。。。」ってところで
「逃げてないでこれに答えてごらん
ということで、日本でも大陸でもよいので、過去から現在までの、
逸話や挿話、伝承などで、鏡に限らず丸いものを計るのに径ではなく
円周(周長)で示している例があれば、できるだけ多く挙げてみてくれ」
に答えられずに逃げたことをごまかすための、オウム返しなんだよww >>755
>鏡に限らず丸いものを計るのに径ではなく
円周(周長)で示している例があれば、できるだけ多く挙げてみてくれ
横からごめん。
丸いものを計るのに径ではなく円周(周長)で示している例: 「立木」の太さ
でも、鏡は径だよ。 @阿波 黒塚の画文と三角の置き方の違いはよく知られているけど
置き方の違いには、期待された効果(機能)が違う、っていう想定もできるわけで
置き方の違い=重要度の違い、とは断言できないんだよ
岡上はそういう考古学的な思考にまったく明るくない >>756
>丸いものを計るのに径ではなく円周(周長)で示している例: 「立木」の太さ
円筒(円柱)状のものは確かにそうだね
その方が計りやすいし
でも、円盤状となると周りに紐を張るのも難しい >>751
恣意的な計算とは、お前さんの計算のようなものだよ。
キリの良い数字を使っているに決まっているから、ほぼぴったりの漢尺における径二尺が基本なんだろう。
尺度の基準としても使っていたのかもしれない。
いずれにしても、倭人には倭人なりの尺度があったのだろう。 >>757
>置き方の違いには、期待された効果(機能)が違う、っていう想定もできるわけで
>置き方の違い=重要度の違い、とは断言できないんだよ
虚しい言い訳だな。
見苦しい。 >>759
>でも、円盤状となると周りに紐を張るのも難しい
銅鏡の縁に沿って紐を張るのが難しい?
幼稚園児かよ。 >>762
そこまでして測らんでも、径でよろしいかと。 どうでもいいんだけど。 @阿波 アタ なんだから、手で測ったんだろ。あほじゃねーの >>760
>キリの良い数字を使っているに決まっているから、ほぼぴったりの漢尺における径二尺が基本なんだろう。
「決まっているから」というところが、都合のいい憶測or妄想
例えば、「主要紀年・銘文鏡 一覧」っていうページで鏡の面径見てごらん
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
面径が、きりのいい数字になってる鏡なんてないだろ?
>恣意的な計算とは、お前さんの計算のようなものだよ。
恣意的な数値の採り方をしているのが、八咫厨の人たちだよ
周尺の咫の値としては、「咫=16.9センチ」
これが一番、根拠がしっかりしてる
>倭人には倭人なりの尺度があったのだろう。
>>744から一部を再掲
短里と同じってことは、「咫で計った」としないと、
九州説が成り立たないから言い張ってるだけってことだね
分かりやすいわな >>764
>アタ なんだから、手で測ったんだろ。あほじゃねーの
で、その手は誰の手なんだ?
自分の手で、アタが何センチになるか、計ってみたら?ww アタは、中指と親指を広げた間の距離。
俺は18.5cmだな。ちなみに170センチ。 アタは半尺15cmと言われるが、これはちょっと本来的なものじゃなくて、
もとが身体尺なんだから、もうちょい大きいだろうな。
ちなみに嫁は18cmだった 身長155cm 直径一尺の円の円周を四咫と定義すると、一咫は約八寸になる。
つまり、男子の手よりやや小さい女子の手の尺のような大きさになる。
でもそれが定義なのではなく、あくまでも最初の定義は円周のはず。 >>772
恣意的に定義すれば
な ん で も o k で、皆さん、うまく釣られてくれたけれど、手を当てて(アタて)計る場合は、
八咫=円周長ではなく、八角形の八辺の和で計ることになるのは気づいたかい?
そうなると、半径23.1の円だとすると、八角形の一辺は
=23.1×sin(22.5×π/180)×2=17.7センチだ
一咫=17.7センチなら、八咫になるけれど、
これまで八咫厨の連中が主張していたのは
漢尺の八寸で、18.5センチだよな
いろいろ、合わないんだよ
まあ、計算しただけの机上の空論だからな
円周長が八咫って言うのは >>775
だいたいあってるじゃねーか。
計算ご苦労様 >>772
>でもそれが定義なのではなく、あくまでも最初の定義は円周のはず
何度も何度も書くけれど、半径が一尺、あるいは二尺ちょうどじゃないと
使い道がない単位が、単位として成立する余地はないっての
それに、円周長が最初の定義だったら、何をさておき
「円周長を咫で示した例」が多数あるはずだが、
「一例たりともない」
この、不整合を説明できない限り、
「咫の最初の定義は円周長」という主張の「説得力はゼロ」だよ 半径一尺の鏡を手でアテて図ると
八アタになると。。。
なるほど >>776
>だいたいあってる
ということは、これまで平原1号墓出土鏡の面径が二尺「ちょうど」だから
意識して作ったはず
ってのは、いみがないってことだよな?
大体合ってる、でいいんだったら、二尺ちょうどにする理由はない訳だ
つまりは、ただの偶然ってことだろ?
まったく他の事例が出せないし、
実際、鏡の面径を、尺ちょうどにするような例はないしw
>>765の部分を再掲
例えば、「主要紀年・銘文鏡 一覧」っていうページで鏡の面径見てごらん
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
面径が、きりのいい数字になってる鏡なんてないだろ?
「偶然じゃない」といえるだけの、「根拠」を状況証拠でもいいから、
そろえてから出直しておいで
こっちは、丸い円盤状のものを円周長で計った例はないっていうのと
「咫」で長さを計った例はない、というのを根拠として出してるよ
さあ、がんばれ! ちなみに、八咫厨の人たちの主張する
漢尺の八寸で18.5センチを「咫」として計算すると、
当てて計っていくと、8回で378度分になるね
18度も余分になる >>780
だからこういうこと。
平原の鏡は、当時、漢の二尺の鏡として作られた。
それを後世、倭人がアタで測ると8アタぐらいだった。
だからやっぱり八咫鏡であってるな つまり、八咫厨の人たちの言い分はこうなる訳か
平原1号墓出土鏡は、「漢尺で二尺」「ちょうど」になるようにきちんと計って作った
でも、円周は、親指から中指まで手を広げた長さがたまたま「17.5センチになる人」が
「漢尺とは関係なく」、「手を当てて計った」から、八咫になる
だから「八咫の鏡」だ
面径二尺は「きちんと測った」けど、八咫は「大体あってる」
こういうことかな?ww >>782
これ、前にも書いたんだけれどさ
>それを後世、倭人がアタで測ると8アタぐらいだった。
「後世」っていつだよ?
平原1号墓出土鏡は、「破鏡」供献されて、「埋められてる」から、
昭和になって発掘されて、復元されるまでは「計れない」んだってば!
誰が計って、誰が八咫だって、判断するんだ? 「八咫ちょうど」だから八咫の鏡に決まってるって言ってたのに、
合わないとなったら、「大体合ってる」とか言い出すww >>784
全数破砕したって、何でわかるんだ?www 古代人が1センチ一ミリ気にしてものつくってたのか? 質問スレで勝利宣言するようなみっともないマネは止めてください。
他スレにめいわくかけるな
さらしあげ 人々がこれは八咫と思うこと。
それが重要。
そしてそれが基準となる。
八咫の大きさの鏡があったと。
それを持っていたのは神にも等しい権力を持つ女王であったと。 >>789
あんたなあ
宗教を学問することはできるが
宗教じゃ学問はできないよ >>787
はい
「ぴったりだから八咫だ」説が死亡 落ち着けよ。
魏から下賜されたはずの卑弥呼の鏡はたった100枚しかない。
卑弥呼の死後に副葬品として埋葬されたのか、権威の象徴して後世まで伝来したのかさえわからない。
魏晋の消滅によって象徴的な意味は失われ、ゴミ扱いになったかも知れない。
逆に倭側の政情変化によって陳腐化した可能性もある。
永続的に大事にされたかどうかなど、誰にもわからない。
半世紀前に300台余り生産された2000GTですら、現存は約100台と言われてる。
わずか半世紀で3分の1だぞ。
2000年前の100枚なんか、1枚も残ってない可能性の方がずっと高い。
三角縁神獣鏡は出土枚数の多さから考えてイコール卑弥呼の鏡では無いだろう。
ただ、三角縁神獣鏡・その他の形式の鏡に見られる景初、正始などの紀年銘は無視してはならない。
型取り・模造コピー品であれ、国産オリジナル鏡に記銘したものであれ
「景初・正始年間の紀年銘鏡に権威があると考えた国内勢力の作」
であることは間違いない。
結論をいうと、邪馬台国だな。
真贋問わず景初・正始の紀年銘鏡が出土されれば、その場所は少なくとも邪馬台国の支配地域だった可能性が高い。
2000年後ぐらいに現代の遺跡が発掘され、「ガルダン」や「ザ・アニメージ」のプラモが発掘されたら、そこは1980〜90年代の日本である可能性が高いだろう?
本物のガンプラじゃない!パチモノだから日本じゃない!って事にはなるまい。 >>793
>魏晋の消滅によって象徴的な意味は失われ、ゴミ扱いになったかも知れない。
これは後漢鏡の話がそのまま当てはまる。
邪馬台国においてはすでに後漢鏡に漢の皇帝の権威はなく、国産の鏡の方が重要だったのである。
その中で最高峰が平原の鏡だ。
>「景初・正始年間の紀年銘鏡に権威があると考えた国内勢力の作」
>であることは間違いない。
>結論をいうと、邪馬台国だな。
飛躍している。
本来の持ち主以外が、権威づけのために複製したのだろう。
邪馬台国であれば、本物を配るだけで良い。
複製したのは、コピーブランドの構造そのものだ。
畿内は邪馬台国ではない。 >>793
邪馬台国時代の倭国には文字がないんだよ
卑弥呼が倭王になったことを諸国に知らしめるにはどうすればいい?
使者が口頭で伝えるにしても、諸国の豪族らは疑うだろうし、
あまりピンと来ないだろう
詔書の写しを作って配っても、諸国の豪族らほぼ読めない
だから魏の精巧な鏡を配れば、諸国の豪族も実感しやすい
おそらく邪馬台国は複製品を大量に作って、
傘下の国々だけでなく、中立国や敵国、遠国にも配りまくって、
卑弥呼が倭王になったことを宣伝して知らしめたと思われる >>796
そもそもそんな広域国家じゃないんだって。
鏡を持ってこられても、その意味すらわからないよ。 >>797
邪馬台国の使者が口頭で「わが邪馬台国女王殿下が、大魏の天子より倭王に任ぜられ
ましてございます その際に鏡を下賜されまして、貴国にも1枚差し上げますので、
大切になされよ」と言えば、遠い国の豪族でも驚いて邪馬台国の威光にひれ伏すだろう
戦国時代に豊臣秀吉が「余は天子様より関白に任ぜられた。遠国の大小名は戦を停止して上洛せよ」と命じたことと似ているかもしれん
戦国時代は文字があったし古代よりも情報網は発達していたから、モノを配る必要はないとは思うが >>786
>全数破砕したって、何でわかるんだ?www
破砕してないのは、「どこ」にあるんだい?ww
空想でものを言っても、無・意・味!w >>798
>邪馬台国の使者が口頭で「わが邪馬台国女王殿下が、大魏の天子より倭王に任ぜられ
>ましてございます その際に鏡を下賜されまして、貴国にも1枚差し上げますので、
>大切になされよ」と言えば、遠い国の豪族でも驚いて邪馬台国の威光にひれ伏すだろう
田舎豪族はそんなの知るか!と追い返すだろうね。
実際問題、当時ののろまな補給路では遠征は困難であり、本州の豪族が筑紫倭王家に従う理由は必ずしもない。
例外は筑紫と出雲であり、半島大陸への交易路をかけて覇を争ったかもしれない。
筑紫から出雲へは海流を利用すれば数日で着けるので、列島の代表権をかけた争いがあったのだろう。 >>784
>昭和になって発掘されて、復元されるまでは「計れない」んだってば!
>誰が計って、誰が八咫だって、判断するんだ?
副葬されるまでの間に何年間も卑弥呼が祭祀で用いていたわけだから、誰の目にも巨大でおよそ八咫の鏡であることがわかっただろうよ。 うーん、鏡ね、お前に、あげた覚えはない
これで終わりだろう 青谷上寺地遺跡は、高天原が出雲への見せしめのために滅ぼしたんだろうなあ。
だからこそ、稲佐の浜での恫喝が効いたんだよ。
大国主は自分の命を差し出す代わりに民の命を救い、社に隠れた(亡くなって祀られた)のだろう。
そして筑紫の日向の伊都国に天孫族の倭国王権が確立された。 >>797
>そもそもそんな広域国家じゃないんだって。
>鏡を持ってこられても、その意味すらわからないよ。
例えば、壱岐国の原の辻遺跡でも、畿内第V様式の影響受けた土器が出ているし、
縄文時代から広域の交流・流通があったんだよ
https://www.city.iki.nagasaki.jp/material/files/group/27/1222c2c16dd1ab975c162c72c821f1b4.pdf
四隅突出型墳丘墓の範囲も広域だし、大型銅鐸の出る範囲も広域だよ
古来そういう広域交流の中で、倭人の領域=倭国がまとまりを持って存在している
九州説の連中だけ、倭国を小さくしたがるのは何なんだ? >>800
当時の倭国なんて統一もされていない
少し後の倭の中の大国たるヤマト出雲吉備熊襲にせよ、
魏の大兵力数十万には遠く及ばない圧倒的な兵力差がある
だから当時の倭国内の国々はかなり魏に恐れをなしていたと思われる
もし本気で魏が遠征してきたら、兵力差が段違いどころか次元違いで防げないからだ
(実際は魏の水軍は対呉方面が主で、日本を遠征することはないと思うが、
当時の倭国で、そこまで楽観してわかっていたとは思えん)
だから邪馬台国のバックに魏がいるという衝撃は、現代の想像以上に大きかったと思われる >>801
>誰の目にも巨大でおよそ八咫の鏡
誰の目にも、「デカい鏡」なのは分かるだろうが、「八咫」ってのはどこから来るんだ?
>>782で「それを後世、倭人がアタで測ると」って言ってたのは、矛楯を指摘されたらもう撤回するのかい
本当にその場の思いつきだけだな!
それに、八咫ちょうどだから八咫鏡、ってのは完全に撤回するんだな?
自分でも「およそ八咫の」って書いてるぐらいだから
それより、九州説は「魏晋里が伝わってないから短里」って主張してるのに
平原1号墓出土鏡は「漢魏尺」で二尺でいいのか?
尺が正しい長さで伝わっていたら、6尺=歩で、300歩=里なんだから、魏晋里が
使えないっていうのと矛盾するんだぞ?
まあ、九州説がまともに考えてるとは思ってないけどさ >>805
>だから邪馬台国のバックに魏がいるという衝撃は、現代の想像以上に大きかったと思われる
これは九州が倭国だから成り立つ話だ。
魏の使いも伊都に滞在したからな。
卑弥呼が畿内にいたら、九州勢力がブロックしてしまうだろう。
九州からの畿内まで水行陸行が続くなら、とてもじゃないが九州など支配できず、魏は九州と手を結んだだろう。
いやむしろ実際に九州が魏と結んでいたのだろうね。 >>804
>縄文時代から広域の交流・流通があったんだよ
>古来そういう広域交流の中で、倭人の領域=倭国がまとまりを持って存在している
交易をするのと、国としてまとまるのは、ワケが違う。
交易だけなら縄文時代から列島全体で交易していたが、その時代には倭国を想定しないんだろう?
完全に矛盾している。 大陸への朝貢というのは当時としては一大事業のはずで、朝貢団を派遣した事実が知らしめられていて、初めて成果物としての紀年銘鏡が説得力を持つ。
景初・正始紀年鏡は「それを持っていておかしくないバックグラウンドがある者」が配布することに意味がある。
因果関係なしにいきなり鏡だけ出してもそれは「出自不明の謎鏡」でしかなく、権威付けにはならない。
真正の下賜鏡は数量限定のレア品なんだから、そう簡単にバラ撒けない。
真正は真の所有者がストック、配布用には模造品ということだろう。
八咫鏡に着目する人も居るが、邪馬台国関連の史料に出てくるような話ではないので邪馬台国スレ的にはあまり意味はないかな。
畿内勢力が北九州勢力を征服した際の「戦利品」なのかも知れないし、北九州勢力から畿内勢力への「献上品」かもしれないし。
高天原=九州と比定して、神器を九州由来と考えてもいいけど、神話レベルの話になってしまう。
平原遺跡時代(弥生後〜古墳前)にはすでに畿内にヤマト王権(あるいはその母体)が存在したわけで、それが九州から分派であったとしても別れたのは時代的に邪馬台国期のずっと前だろう。 >>810
>交易をするのと、国としてまとまるのは、ワケが違う。
>交易だけなら縄文時代から列島全体で交易していたが、その時代には倭国を想定しないんだろう?
>完全に矛盾している。
例えば、同じ言語を使うとか、同じものを食べるとか、そういったことが民族・倭人としてのまとまり
国としてのまとまりは、首長層の卓越から王の台頭を経て、国になっていく
九州説のいう「九州のみの倭国」は、列島内の他国の情報が大陸に伝わらないことが必要条件だから
交易・交流も否定しないと通用しない
3世紀当時、北部九州より、吉備、出雲、丹波、大和の方が、王権の発達が進んでいて、
より強い王が存在している
その状態で、各地からの交易で各地の人が北部九州にも来ていたら、北部九州の首長が
倭国王と認められるのは無理だよ >>811
>平原遺跡時代(弥生後〜古墳前)にはすでに畿内にヤマト王権(あるいはその母体)が存在したわけで、それが九州から分派であったとしても別れたのは時代的に邪馬台国期のずっと前だろう。
ここが疑問。
ヤマト王権の分派は卑弥呼とそれほど変わらぬ時代であり、まだ強勢力ではなかったのではないか? >>812
>国としてのまとまりは、首長層の卓越から王の台頭を経て、国になっていく
畿内説はどうしても力で抑える話になってしまう。
しかしそのような考古学的根拠はない。
>九州説のいう「九州のみの倭国」は、列島内の他国の情報が大陸に伝わらないことが必要条件だから
魏志倭人伝にも東の海の先にも倭人がいると書いてあり、情報そのものは伝わっている。
しかし本州の中でも筑紫に近いところである出雲を倒した後であれば、直ちに筑紫の代わりに大陸との交渉を目指す勢力はいなかっただだろう。 >>814
阿波を避けて、いくら九州と畿内と言い争っても無駄。 @阿波 >>814みたいに歴史はおろか
批判したい相手の説の内容も知らない人間が蠢いているんだから
邪馬台国畿内説を批判するなんて
夢の夢だよなぁ >3世紀当時、北部九州より、吉備、出雲、丹波、大和の方が、王権の発達が進んでいて、
>より強い王が存在している
ここ、完全に妄想だなwwww特に大和ところ。
鉄器もないのに王権とな? 銅鐸祭祀の王権かな??? なんかまた画文帯云々言っているみたいですが、それが底辺の量産品よりも一段高いというだけで、内行花文鏡の上にあるとは全然関係ない話です。
小石室で絹に包まれた画文帯が出てきたら、それが畿内最大の大きさだったら、
内行花文鏡の上にあると考えてもいいですが。現状では畿内でも内行花文鏡が階層の頂点です。
役割が違うからというのは、逃げもいいところです。
役割の差はもちろんあったでしょうが、サッカーはフォワード、野球は4番、
やっぱり階層は厳然としてあるんですよ(笑)
内行花文は王権の象徴、三角は量産の贈呈品。 wikiなどを読んでみるとわかる
>宮内庁所蔵
と書いてあったりするでしょ、
古代の宮内庁の偉い人というのが・・・三貴子 なんかまた内行花文云々言っているみたいですが、それが一段大きいというだけで、王権とは全然関係ない話です。 (笑) >>821
寺澤先生が泣いてますよ
面倒ですので、ご自分で再読ください。
王権誕生 p249
「平原一号墓の鏡は、(中略)比類ない倭製の大鏡が内行花文鏡で、後の前期古墳にも引き続き特別扱いされていることは、その可能性を強く示している。」 そんな一文を盾に王権の象徴と言われたら寺澤先生泣くよ >>818岡上
阿波を避けて、いくら九州と畿内と言い争っても無駄。 @阿波 魏志倭人伝から推測される地理関係だが、短理説を採っても実距離との乖離が大きすぎるのは周知の通り。
末廬国・伊都を定説通り松浦・糸に比定すると距離はもちろん方角も全然合わない。
1000里、100里など「キリのいい数字」の羅列から考えて「長距離=千里」「中距離=500里」「短距離=100里」ぐらいの大雑把な感覚的"表現"で、里を"単位"の概念では扱っていないんだろう。
超長距離だけど1万里ってほどじゃないかな?=7000里、超長距離よりさらに上=12000里、中距離よりちょっと少ない=400里。って感じで。
現代人でも「小一時間」なんて言ったりするだろ。この場合の「時間」は24時間制における単位時間ではない。
倭人伝を正しく読み解くには、里程の概念から脱却せねばならない。 倭人伝を正しく読み解くには、里程の概念から脱却せねばならない(でないと困ります) 狗邪韓国-1000里-対馬-1000里-一大(壱岐)国-1000里-末盧国-500里-伊都国
とあるが、
朝鮮半島-対馬間
対馬-壱岐
壱岐-松浦半島
の実際距離は実際には等距離には程遠い。
松浦半島から糸島半島の距離は、壱岐-松浦の半分でもない(むしろ同距離に近い)
上に、東南を東北に読み替える必要がある。
これは短里説だろうが、九州説だろうが畿内説だろうが、比整合してないんだから仕方ない。
逆に聞きたいんだが、魏志倭人伝の距離方位が「正確」だと思ってる奴は、一大国や末盧国、伊都国をどこに比定してんの? >>831
>逆に聞きたいんだが、魏志倭人伝の距離方位が「正確」だと思ってる奴は、一大国や末盧国、伊都国をどこに比定してんの?
末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)
↓【東南】陸行500里 福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里
不弥国(千戸)(築上町辺り) @阿波 洋上の距離は歩測や縄で実測出来ないから、海峡の幅の1000里が実際と誤差が大きいから不正確だとの主張は不当ですね、陸上の距離で判断すべきでしょう。 短里説だと伊都国-奴国100里=7〜9kmということになるけど、有力比定地である糸島平原一帯から福岡の那珂遺跡群まで、どうやったって10km以下には収まらないよ。
直線距離でも20km近くあるんだから。
長里説に立つと、今度は距離が足らなさすぎる。
陸上距離なら正確なはず!という思い込みに囚われると、距離に適合する場所を必死に探して、>>831みたいにほとんど賛同する者のないヘンテコリンな比定地を持ち出すことになるんじゃないの。 >>814
>畿内説はどうしても力で抑える話になってしまう。
これを畿内説側が言っているのを見たことがないんだが?
九州説側が「支配ー被支配の関係」って言いたがっているだけだと思う
畿内説側は全員とは言わないが、共立による祭祀の統一を基盤にした各地の首長の
統治はそのままの緩やかな連合体と見てるよ >>814
>東の海の先にも倭人がいると書いてあり
九州説はいつもこうやってごまかすよな?
原文は「女王國東渡海千餘里、復有國。皆倭種。」
渡海「千余里」だよ
どんなにがんばっても、これを本州に当てるのは無理な話
漢書地理志に見える魏略逸文では
「倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種」と冒頭の文に続けて
「度海千里復有国」とあり、千里渡ったところにも倭種に国がある、というだけの文になっている
千里渡って倭人の国がある、というのは、
半島から対馬、壱岐と千里渡ったところの島も倭種の国、というのを表していると見て矛盾がない >>832
>伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
根拠なしで無意味 >>838
>根拠なしで無意味
伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。
伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、出入国管理局。
その伊都国は千戸程度だから、感田上原遺跡や帯田遺跡だろう。
大陸からの往路 玄関口(福津市周辺 万津浦)
大陸への復路 出航地(平戸市周辺)
伊都国(直方)は大陸往復路の分岐点である。
だから、大陸出入りを監視出来る立地(内陸)の直方辺りに一大率(筑紫忌部)が置かれた。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 邪馬台国畿内説が批判できないことを
思いしらすスレだな、ここは >>832は末盧国を福津にしてるとこですでに無理があるわけ。
初手から見誤ってるから、伊都国の位置もおかしくなる。
中国の古代船がある程度天文航法ができたとしても地乗りが最も安全なのは間違いない。
壱岐から目と鼻の先に松浦半島あるのに、あえて航行距離を延ばす必要はない。
動力船じゃないんだから補給や乗員の体力の問題もあるし、松浦なら手漕ぎ船でも壱岐から日のあるうちに着ける。
可能な限り会場で夜を迎えたくはないからな。 直方には海がないから臨「津」搜露できないだろ?
万津浦なんていう、信頼度も測れない情報に飛びついて、無理なでっち上げをしているだけじゃないか >>841
対馬海流に流されて、末羅國(呼子、唐津)は有り得ない。 対馬海流に無理なく乗って、末羅國は世界遺産の宗像方面だろう。
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。推して知るべし。
もし古代より、唐津やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって唐津周辺が世界文化遺産になっている。 @阿波
>>843
>対馬海流に流されて、
これは事実、だが
>末羅國(呼子、唐津)は有り得ない。
これがご都合主義の憶測
対馬海流の流速は流軸付近で毎秒50cm程度
流軸からそれればもっと遅い
手こぎで十分に修正の効く程度の流れでしかない
>元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。推して知るべし。
これは目的地が端から異なってるんだから意味ないだろ?
東京を目指してくる人たちが鎌倉には来ないから
鎌倉には幕府はなかったってのと同程度のいい加減さ 下池山古墳自体が最上層の古墳でもないし、内行花文鏡がそれほど好んで副葬されているようにも見えないんだよな
あまり欲しがる人がいなかったように見える >>842
>直方には海がないから臨「津」搜露できないだろ?
一大率(筑紫忌部)の下っ端役人が福間海岸辺りへ出向いたんだろう。 @阿波 >>844
>これは目的地が端から異なってるんだから意味ないだろ?
もし古代より、唐津やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって唐津周辺が世界文化遺産になっている。 @阿波
海流を利用する説は、確かに一理ある。
壱岐-松浦半島でも進角を調整すれば海流はさほど問題にはならないが。
しかし、宗像地域に末盧国を採ると、後の比定地がグダグダになる。倭人伝に末盧以降に西行する表現は無いから平原や那珂の遺跡をガン無視ということになる。
何度か挙がってる大型内行花文鏡からも推察できるように、平原に重要集落があった事は確かなわけで、魏史がそれに触れないのはあまりに不自然。
末盧=宗像地域説でもいいが、倭人伝の距離方位描写がデタラメだというのを補強することになる。 >>848
>しかし、宗像地域に末盧国を採ると、後の比定地がグダグダになる。
いや、魏志倭人伝にあるとおりの距離・方向で比定地を示せる。 @阿波
末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)
↓【東南】陸行500里 福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里
不弥国(千戸)(築上町辺り) うん、だからその比定地がすでにグダグダなのがわからないかな? >>848
>倭人伝に末盧以降に西行する表現は無いから平原や那珂の遺跡をガン無視ということになる。
はやく、「平原や那珂の遺跡・大型内行花文鏡」の呪縛から解き放されることを祈念する。 @阿波 >>843
蒙古襲来の文永の役では対馬壱岐を落とした蒙古軍は、
次は肥前国沿岸の松浦郡を襲撃し、応戦した松浦党は壊滅しているよ
まさに対馬国→一支国→末蘆国と来た魏志倭人伝のように
そして博多湾に最後に上陸した >>850
>うん、だからその比定地がすでにグダグダなのがわからないかな?
グダグダというなら、↓にどう答えるの?
↓
もし古代より、唐津やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって唐津周辺が世界文化遺産になっている。 @阿波
>>852
>次は肥前国沿岸の松浦郡を襲撃し、応戦した松浦党は壊滅しているよ
それはね、宗像方面に着いてから、博多湾を西進して、出航地の平戸方面へ集結移動途中の襲撃なのよ。
いきなり、松浦郡に到着して襲撃したんじゃないのよ。 @阿波 宗像が中継点として重視されたと確認されてるのは遣隋使以降だよ。確実に畿内が日本の中心地で、すでに帆船時代ね。
邪馬台国とは時代背景が違う。
宗像から弥生中後期の遺跡・出土物として大陸・半島由来のものが見つかってたっけ? >>855
>宗像から弥生中後期の遺跡・出土物として大陸・半島由来のものが見つかってたっけ?
「田熊石畑遺跡」「今川遺跡」「手光於緑遺跡」などどうかね?
もし古代より、唐津やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって唐津周辺が世界文化遺産になっている。 @阿波 >>822
「畿内説者のレベルの低いこの重複偽スレッドでは、岡上氏の能力の全てを引き出せないからね。。。。
岡上氏が投稿しなくなったのも、そういうことなんじゃないのかな、」
とか
「岡上氏の高度なレベルの投稿が懐かしいね。。。 」
とか
「僕たちは、なぜか岡上氏だと勘違いされているね。。。
僕たちにとっては、あの博識な岡上氏と間違えられるのは光栄なのだけれども、、、、、
思い込みの激しい、キナイコシと皆に呼ばれている、奈良の狂った老人に、いわれのない誹謗をされている本当の岡上氏に、申し訳ないね。。。」
とかいうのは、自演ってことでOK?
九州説のやつが他人を誉めることってないしww 末慮国を、万津浦という地名の類似だけ(しかも現在に残っていないどころか、
典拠不明の個人蔵の文書1点にのみ記載)で決めながら、
伊都国も、奴国も、地名を無視して決めているところが、ご都合主義のダブスタ >>859
なんか、地名にしか頼るものは無いのかね? トンデモ説ってその程度? @阿波 >>855
>宗像が中継点として重視されたと確認されてるのは遣隋使以降だよ。確実に畿内が日本の中心地で、すでに帆船時代ね。
アホか。
地理的にどう見ても遥か古代から要所だろう。
縄文期から遺跡はあったはずだが? 当時の航海技術を考えると、松浦に上陸するのが最も合理的だからだよ。
帆船化し、大型化して航続能力の上がった後代の航路から類推するのは意味がない。
逆に、倭人伝の距離方位が正しいという前提で宗像を末蘆に比定すると、その後の行程が意味不明になる。
倭人伝に西行の記述が無い以上、邪馬台国の候補地は宗像より東方向、つまり瀬戸内・四国・畿内となる。
ところが、壱岐から宗像に進む方が合理的であるような航走能力を持つ船なら、九州内陸部に入る必要がない。
沿岸周り寄港補給しつつそのまま魏船で関門海峡に入ればいい。
実際、遣隋・遣唐使船も朝鮮通信使も、そういう航路を取っている。
目的地が瀬戸内・畿内・四国なら、九州でわざわざ大荷物下して、草木茂盛行不見前人なんて難所を越える意味は?
「南に水行」記述を九州中南部に取るとしても同じことだがね。 >>863
>九州でわざわざ大荷物下して、草木茂盛行不見前人なんて難所を越える意味は?
対馬海流に任せていると、簡単に福間海岸辺りに着いてしまうんですよ。
だから、八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)して、【東南】陸行500里の伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)へ向かう訳。 @阿波 >>865
>だから内陸の直方では、出入国管理にならないっての
内陸の伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。
伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、出入国管理局。
その伊都国は千戸程度だから、感田上原遺跡や帯田遺跡だろう。
大陸からの往路 玄関口(福津市周辺 万津浦)
大陸への復路 出航地(平戸市周辺)
伊都国(直方)は大陸との往路と復路の分岐点である。
だから、大陸出入りを監視出来る立地(内陸)の直方辺りに一大率(筑紫忌部)が置かれた。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>866
>内陸の伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。
>伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、出入国管理局。
内陸に出入国管理を置いたら、管理する前に「入国」してるやん
直方の伊都はおかしいし無理
万津浦にも四千戸は無理だし、いろいろ適当すぎ >対馬海流に任せていると、簡単に福間海岸辺りに着いてしまうんですよ。
だからね、その航行能力があったら、そのまま沿岸伝いに関門越えられちゃうでしょ。
内陸部に入る「必要」がないよね?って疑問のアンサーにはなってない。
魏史を単なる平和友好使節だと思ってる馬鹿なのかな?
卑弥呼以前は倭国は内乱状態、卑弥呼以後も内乱再発、宗教的祭祀で表面上安定させてるだけで、政情はまったく安定してないわけ。
卑弥呼が魏の威を借る必要があったのは、軍事地政学上の理由が大きいだろう。
魏史は表向き使節団、その実軍事監視団・調査団でもある。
邪馬台国は属国状態であるとしても、倭国情勢はいつひっくり返るかわからない。
松浦半島が仮にクソ田舎であったとしても、軍事上の要衝であるのは猿でもわかるよね?
可能性は低いとはいえ、魏からの派兵・駐屯も考えると軍事的には実踏調査・監視が必要なんだよ。
魏からの航行で、仮に糸島、宗像、ひょっとしたら関門まで直行できたとしても、反邪馬台国・反魏勢力に壱岐を取られたら半島・大陸との連絡は絶たれ、完全に詰む。
壱岐から目と鼻の先の松浦も、絶対に取られてはいけないところ。
直方に出入国管理局って、何を管理してるの?不法労働者か?
そんなところに一大率や魏史の駐屯所置いても、福岡市以西の勢力の抑止にはならないよ?
福岡市以西はガン無視でいいの? >>868
>だからね、その航行能力があったら、そのまま沿岸伝いに関門越えられちゃうでしょ。
残念ながら、関門海峡を渡りきる航行能力と汐待施設が整備されていなかったので超えられなかったんですよ。残念でした。
だから、内陸部に入る「必要」があったんですね。 これが疑問のアンサーでございます。 @阿波 >>868
>松浦半島が仮にクソ田舎であったとしても、軍事上の要衝であるのは猿でもわかるよね?
猿だけど分からない。 だって、魏使が上陸した形跡が無いもん。 そんな所が軍事上の要衝になどなる訳が無い。 @阿波 >>868
>直方に出入国管理局って、何を管理してるの?不法労働者か?
大陸・半島との交易品管理に決まってるでしょ。 もちろん生口管理もね。 @阿波 >>868
>そんなところに一大率や魏史の駐屯所置いても、福岡市以西の勢力の抑止にはならないよ?
福岡市以西の勢力も筑紫忌部だから心配ご無用。
>福岡市以西はガン無視でいいの?
福岡市以西の勢力も筑紫忌部だから心配ご無用。 @阿波 阿波のやっていることは、歴史学ではなく、神学なんだな
神学は、何でも「神の御業」といえばそれで終了
阿波は、何を言われても、それは忌部、というだけ
相手にしてもしょうがなさそう >>874
> 阿波は、何を言われても、それは忌部、というだけ
だって、忌部一族以外にいないでしょ。 全国へ進出していった部族は。
忌部も抹殺するつもりかね? @阿波 阿波じゃなくても里程原理主義者ってみんなこんな感じだけどね。
地政学的考察とか、弥生期の政情とか考える知能ないから。 >>878
いやいやいや、里程からいってもおかしいだろ泡インベの言ってることはw >>879
どこがおかしいのかも言えないのかな? @阿波 末慮を出所不明で検証不能な万津浦一つで決めるのがおかしい
壱岐国から末慮国が、南から外れすぎ
壱岐国から東へ航海してきて奴国をスキップするのは、魏使のお役目からもやってはいけないこと
以上より、万津浦を末慮国の比定地と考えるのは不当
直方は内陸であり、出入国管理を行う場所として不当
直方には十分な平地がない
直方付近に、伊都国の地名がない
最初の二カ国だけでも、ボロボロ また議論が止まっちゃったな
阿波が出てくると話がムダな方向に流れるからいやなんだよな だいたい、咫が漢尺の八寸って言ってる連中が、短里だの東夷伝里だのを主張するのが噴飯もの
漢尺の長さが正確に伝わっていて、既に使われなくなっている咫が周尺の八寸であることも
知っていて、それなのに6尺が歩、300歩が里っていうのが伝わっていないと主張できるのが
本当にご都合主義
さらに記録するのが魏の建忠校尉梯儁、塞曹掾史張政なんだから、魏晋里を知らない訳がないし
魏晋里以外で記録する理由がない 倭では里も咫も歩も、独自の体系で運用していたってことだよ。 どうしても万二千里にしたかったわけだからね
しょうがないね >>887
>倭では里も咫も歩も、独自の体系で運用していたってことだよ。
では、なぜ尺だけは漢尺を使うんだい?
しかも、漢尺にはない咫を、漢尺基準の換算値で使ったとも主張するなんて
理に合わないだろ? >>888
>どうしても万二千里にしたかったわけだからね
>しょうがないね
つまり、実測値ではないし、
その里程を元に比定地を求めようとしても徒労だってことだよな >>891
>魏志倭人伝は都合が悪いため否定したいキナイコシ
いや? 九州説、特に伊都国説を唱える八咫バカの人たちにとってこそ、
都合が悪いと思うけど?
卑彌呼以死大作冢徑百餘歩
平原1号墓を卑弥呼の墓にしようと思っても、これではどうしようもないだろ?
そういえば、「一歩36センチでぽくぽく歩く」っていうコピペ、見なくなったねww 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。
その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。 >>893
>弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。
朱丹は禁句! @阿波 其四年 倭王復遺使大夫伊聲耆 掖邪狗等八人 上獻生口 倭錦 絳青縑 緜衣 帛布 丹木 𤝔 短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹
錦って絹織物で、倭から倭錦や異文雜錦を贈ってますよ
卑弥呼の都が在ったなら周辺から絹織物が出土するはずですね。 >>898
3世紀の絹織物が出土してるのは北部九州だけなんですけど。 >>897
>其四年 倭王復遺使大夫伊聲耆 掖邪狗等八人 上獻生口 倭錦 絳青縑 緜衣 帛布 丹 木𤝔 短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬
> 錦って絹織物で、倭から倭錦や異文雜錦を贈ってますよ
そうですね。 倭国(阿波)から、丹や倭絹を送ってますね。 絹も織っていたんでしょうね。 @阿波 メモメモ
この「極」が、淮南子: 時則訓 の「東方之極」の「極」なんだよ
「使驛所傳、極於此矣」は
「使譯の傳うる所、此に於いて極まる。」
要するに、情報が伝わってきた(得られた)ところはここが限界=「極」ってこと
東の世界の端を南に行ったところに「黒歯國」があって、
南の世界の端を西へ行くところに「裸国」があるからね
淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「?齒民」、玄股民、毛民、勞民; メモメモ
記紀では伊都國は村扱い(在筑紫國之伊斗村也:仲哀記)で、
國造すら置かれていないような地域
國造ではなく県主レベル(筑紫伊覩縣主祖五十迹手:神功紀) メモメモ
端山古墳 墳丘長78.5メートル周濠を含むと全長は約99メートル
築山古墳 墳丘長60メートル周濠を含むと全長は約105メートル
>大きい古墳だから住民の多いところには
>作れないという話をしてるのだが?
畿内の大古墳と比べたらちゃちいものだが、
かなりの面積をつぶさないと作れないだろ?
住居いくつ分になるかな?
でも、伊都國中枢に作ってある
これらが、伊都國王家筋の墳墓
これと比べても平原1号墓はしょぼい
そんなのを卑弥呼の墓と言い張るのが惨めにならないんだからすごいよな メモメモ
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え
四方に5〜9mの平坦部、てなサイズがある
オレは纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
これ全部、弥生時代だよな?
北部九州は、地方王権の伸張に乗り遅れた地域なんだよ
そんなところに倭王がいる訳ないだろ? メモメモ
九州説の頭の悪いところは、萬二千里が「女王国までの距離」であって
「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと
魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略 「自帯方至女國万二千余里」
後漢書 「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書 「去帶方萬二千餘里」
隋書 「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書 「去京師一萬四千里」
新唐書 「去京師萬四千里」
邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる
ざっくりしているのは実測値ではなく、淮南子時則訓からの観念的な値だからというのも
何度も教えている
漢文が読めなくて、原文を確認していないから、延々と頭の悪い書き込みを
続けている訳だ
隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを
意味している
隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、
『古云』が付いている訳だ
この萬二千里に全てを託している九州説は、萬二千里に意味がないことが
明らかになった時点で無理なんだよ メモメモ
魏志倭人伝で、九州に上陸してすぐ
末廬國から伊都国を、本当は「北東」なのに、「東南」陸行って間違ってるね
魏志倭人伝では狗奴国は「南」なのに、後漢書では「東」度海千餘里至拘奴國になってるね
どちらかは間違いだね
隋書では、対馬から壱岐が「東」に間違ってるね
旧唐書でも
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴?城,南去太和城十餘里,
東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
とあって、内容を確認すると
陽苴?城は現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る
となっているけれど
実際には成都から安南は「東南」
大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ
どうしてだろうね?
探せばまだまだいくらでもあると思うよ
大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね メモメモ
魏志倭人伝の旅程記事に混乱があるのは確かだ
1.淮南子の世界の東の果てまで萬二千里という概念
2.漢委奴國王、倭国王帥升等の朝献の時の北部九州までの「里」程
3.卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程
これらが、陳寿の手元にあって、これを総合して旅程を書いたのだろう
また、2.の時の里程には別の目的地(倭面土国)行きが紛れている可能性が
高いし、魏志倭人伝の旅程と実際の邪馬台国までの経路は一致しない可能性が高い
旅程記事は、中国の研究者の読み方でも、放射読みも最後の邪馬台国までの日程を
総距離と見るのも、漢文の文法からいって明らかな誤読
北部九州=邪馬台国というのは、誤読の上に成り立っているだけで、普通に
漢文として読めば、伊都国、奴国と邪馬台国が別であるのは誰が読んでも明らか
この時点で、伊都国にある平原1号墓が卑弥呼の墓というのは、ありえない 残念だったな九州なんて嘘吐いても直ぐにばれるよなw
グクれば一発で3世紀の絹織物が出土してるのは北部九州だけって分かる。 メモメモ
<萬二千里の変遷>
淮南子:碣石山→東方之極
後漢書:楽浪郡→倭
魏志: 帯方郡→倭
要は中国の国境から辺境まで「萬二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「萬二千里」は変わらない メモメモ
黒齒國は山海經にも出てくる伝説上の国だし、裸國も淮南子に出てくる世界の端の国
淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「?齒民」、玄股民、毛民、勞民;
そして、前にも挙げた淮南子:時則訓を再掲すると
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,萬二千里。
魏志倭人伝の世界観では、
淮南子:墬形訓の大人國、時則訓の大人之國を倭國に当てているように見える
だからこそ「倭」國なのかもしれない
墬形訓の自「東南」至東北方だから、倭國は倭人在帶方「東南」大海之中だし、
時則訓の世界の端だから「萬二千里」
そして東の端を南へ下っていくと「?齒民」がいて、
墬形訓の自西南至東南方の段落にある「裸國民」はさらに遠くの扱いになる
こうして見ると、魏使の報告書になかった部分は、
淮南子を参照して書いているのは明らかだな >>915
大笑い
それ、安本のトンデモページじゃないかww >>906
>纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
>これ全部、弥生時代だよな?
は?
古墳時代だろ。 >>920
最古の絹も北部九州だし
人に難癖付けないで自分で調べてみろよ
3世紀頃まで絹は北部九州だから。 陳寿は実際には邪馬台国はおろか、倭国にすら行ってない。
他者からの伝聞をまとめただけ。
三国志が正史として認められたのは唐代に入ってから。
過去の「文献」にはどの程度当たれたのだろうか?編纂時はあくまで私撰、帝の命を受け…という類のものではない。
魏史は公務として来訪したわけだから当然、記録は残して奏上しているだろう。
しかし、旅程など軍事機密に当たる部分もあるだろうから、陳寿が全ての公文書に目を通せる立場にあったのかどうか?
三国志成立は280年以降とされるから、東夷伝の編纂はそれ以前、実際に倭地に足を踏み入れた人物も存でおかしくない時代。
当事者への直接取材がメインだった可能性も否定できない。
記憶をもとに口述されたものを記録、であれば数値や方位が曖昧であっても不自然ではない。
大まかな出来事に相違はないだろうが。 メモメモ
地の果てまでが萬二千里というのは、>>2で淮南子の数字を出しているが、
その前の山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少r、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている メモメモ
山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元 >>907
>無い物をどうやって贈ったんだよw
無いものは遅れない。 当たり前。
そうですね。 倭国(阿波)から、丹や倭絹を送ってますね。 絹も織っていたんでしょうね。 @阿波 >>926
>出土例は?
丹はあるけど絹は無い。
丹と絹を送っているので、絹も織っていたんでしょうね。 @阿波 >>928
>願望かよw
絹が出ようが出まいが、倭国(阿波)にとって、どうでもいいんですよ。
もう、倭国(阿波)の根拠、腹いっぱいだから。
少し、分けようか? @阿波 >>929
阿波説は願望のみで出来てるってことですね
分かりますw 邪馬台国論争でトンデモな事言いだす奴って、歴史学とか考古学とかじゃない、門外のバックグラウンドな奴が多いよね。
古田武彦だって本業は思想史だし。あとは地元の郷土史家とか、作家とか。宮崎康平もアマチュアだし。
歴史学者や考古学者が気付いてない着眼点を持つ俺ってSGEEEEEEEEEEE!とか思ってるんだろうか。
みんなどこか、あすかあきおの匂いがする。 考古学だけしかやってる奴が
おかしな畿内説とか言い出すよりマシな史論だけどね。 >>932
>考古学だけしかやってる奴が
>おかしな畿内説とか言い出すよりマシな史論だけどね。
これ、日本語か? 普通の日本人が書く普通の日本語に翻訳すると
考古学だけしかやってない奴が
言い出したおかしな畿内説より
よっぽどましな仮説だけどね
くらいかな
>>932は、もっと自然な日本語が書けるようになれるといいね >>935
うるせー まだ日本語に慣れてねーんだよニダ >>931
中国古代思想に関する話題で専門家(中国古代思想史・古代文学の専門家)に
自分の妄想のみを論拠に異議申し立てする基地害とか、むちゃくちゃだよねね 普通の日本人が書き下しを読んだり、漢文の心得がある奴が読んだりした程度では
「史書からは邪馬台国の位置は比定できない」が結論だよ。
だから考古学的検証がメインになる。
ネイティブの古代漢語話者が読めばまた違うのかも知れないが。
文献的なアプローチだと「魏志のみの記述では存在確認できない」わけだしね。
後代の書は基本的に魏志の引用だし、比較文書が無い。
山本勘助だって、甲陽軍鑑のみの記載では存在すら怪しい、市河家文書、真下家文書あってもなお「軍師だったのかどうかはわからん」のが現評価だろうが。
魏志を頼りに比定が可能だと考えるのは、歴史学からはむしろ真逆のスタンス。 考古学的に畿内説といっても、三角と古墳は単なる年代詐欺だしね。
纒向からでたのは銅鐸とか桃の種、紅花とかばっかり愚にも付かないものばかり。
これで結論ありきじゃないとかあきれるわ >>940
>だから考古学的検証がメインになる。
>魏志を頼りに比定が可能だと考えるのは、歴史学からはむしろ真逆のスタンス。
魏志を考古学的検証をした結果、ついに決着をみた。 それは「其山有丹」。 @阿波 >>942
年代詐欺と主張するくせに
詐欺と断定する根拠は上げない
これこそ詐欺 畿内説でないと困る方々が多いんでしょう。
もはや学問ではなく政治ですけどね。 三角縁を根拠に畿内に持ってくるのは少なくとも詐欺。
魏鏡でないものを下賜鏡と認めるのはどう考えても無理。 そもそも、陳寿が参考にしたと思われる文献の記録者自身が実際に邪馬台国に行ってない疑いが強いでしょ。
梯儁は印綬を携えた最VIP級公使だから卑弥呼に謁見できた可能性は高いが、その他は?
張政は「檄文を以て諭した」とあるんだから、会えてない可能性が高いね。謁見してたらそのように書くだろう。
●「自為王以来少有見者」 たぶん宗教的理由だろうが、そもそも会える人間は限られてる。一般郡史レベルでは無理だったのかも。日本の地方県の知事レベルではローマ法王にはなかなか会えない、みたいな感じか。
●「郡使往來常所駐」 の記述もそれを裏打ちする。中位以下の郡史は伊都国で足止め。
●それまでは、実測不可能な海路ですら「〇〇里」表記なのに、投馬国・邪馬台国に至って突如「〇〇日」表記になる。
隋書には「夷人不知里數但計以日」とあるんだから、日数表記は「倭人の距離」であって、魏史が計測したものではないことがわかる。
魏史が実踏してたらここは当然〇〇里でないと整合性が取れない。
つまり、魏志の原資料作者は「『投馬国・邪馬台国には』行ってない」。
伊都国で留め置かれ、そこからせいぜい徒歩圏内(100里)しか移動できてない。
原資料著者が見た「倭国」の文化習俗は伊都国からの移動が許された範囲内の事だから、これは「北部九州の描写」という事でいいだろう。 逆立ちしても邪馬台国畿内越を批判できないスレ
ww >>949
>そもそも、陳寿が参考にしたと思われる文献の記録者自身が実際に邪馬台国に行ってない疑いが強いでしょ。
後漢から魏にかけての公的記録を総合して書いているはず。
>張政は「檄文を以て諭した」とあるんだから、会えてない可能性が高いね。謁見してたらそのように書くだろう。
檄文は皇帝からのものでは?
>隋書には「夷人不知里數但計以日」とあるんだから、日数表記は「倭人の距離」であって、魏史が計測したものではないことがわかる。
その通り。
>原資料著者が見た「倭国」の文化習俗は伊都国からの移動が許された範囲内の事だから、これは「北部九州の描写」という事でいいだろう。
その上で卑弥呼に謁見しているはずだから、邪馬台国は九州北部。 >後漢から魏にかけての公的記録を総合して書いているはず。
根拠なし。
>檄文は皇帝からのものでは?
根拠なし。
>その上で卑弥呼に謁見しているはずだから
根拠なし。
いずれも「あり得ないとは言えない」が、それを「あったはず」と考えるのは難しいのでは。
陳寿が「邪馬台国に到達していない魏史」の資料を基にして編纂したと考えた方が、より多くの不自然点が合理的に説明つくでしょ。
対馬壱岐経由での半島-北九州の往来が魏晋以前から在ったのは確かだから、魏史ですらない民間人からの伝聞の可能性すらある。 >>953
>陳寿が「邪馬台国に到達していない魏史」の資料を基にして編纂したと考えた方が、より多くの不自然点が合理的に説明つくでしょ。
畿内説だから不自然になるだけ。
邪馬台国に到達していなかったら、どうやって国書とか金印を卑弥呼に届けるというのか。 >>954
>>949をよく読むといいよ。
梯儁は謁見できた可能性が高いと考えるのが自然だろうね。
でも、魏志は梯儁の書でもなければ、梯儁の記録を転記したという論拠はどこにもない。
陳寿は蜀漢-晋の人であって、魏史との直接的つながりを持たない。
梯儁の記録を基に書いたとしたら、里数表記と日数表記の混在が説明つかなさすぎるだろ。
梯儁でなくとも、帯方郡-邪馬台国を通してして到達した魏人の記録が原資料だとしたら、表記の混在をどう説明するの?
投馬国・邪馬台国に関しては「倭人からの伝聞」だとしたら自然だけどね。 >>942
>考古学的に畿内説といっても、三角と古墳は単なる年代詐欺だしね。
この言辞の方がごまかしなんだよな
弥生終末期にあたる卑弥呼の時代と古墳時代は、「古墳を作るかどうか」以外は
何も違いがない、連続した一続きの時代だ
大きな混乱の痕跡もなく、広い範囲で一斉に古墳を作り始める
この古墳を作る範囲が、そのまま倭国の範囲
九州説が主張する北部九州も、古墳時代初期から畿内大古墳の2分の1、
3分の1サイズで相似形の古墳を作り始める
その倭国の中心を求めるという命題に答えればいいだけだ >>946
>三角縁を根拠に畿内に持ってくるのは少なくとも詐欺。
>魏鏡でないものを下賜鏡と認めるのはどう考えても無理。
三角縁神獣鏡の全量を下賜鏡だと主張している人は一人もいない
この書き方自体が捏造であり詐欺
逆に、魏との交渉を記念したものであるのは明白で、
それを記念する必要があるのは、魏との交渉をした当事者以外にはあり得ない
大陸からは三角縁神獣鏡は1枚も出ていないと言う人も多いが、
「三角縁」の「神獣画像」鏡は複数出ている
魏からの下賜鏡そのものは、発掘できない天皇陵治定の大王墓クラスの
副葬品だろう やはり九州が古墳時代に入る方が早かったんだな。敗北を知りたいものだ。 >>949
>張政は「檄文を以て諭した」とあるんだから、会えてない可能性が高いね。謁見してたらそのように書くだろう。
この時点で既に卑弥呼は死んでいたと考える人も少なくない
張政は、難升米を相手とする行為しか書かれていないように見える >>949
>魏史が実踏してたらここは当然〇〇里でないと整合性が取れない。
自分でもこのすぐ上で「実測不可能な海路」って書いてるじゃないか
実踏していても、日数の方が距離感が伝わりやすいと考えれば、実測できない里程より
日数で記載されるのは特に不審はない >>958
>やはり九州が古墳時代に入る方が早かったんだな。敗北を知りたいものだ。
どうして九州説の人って、間違っているのが明らかなことでも、
負け惜しみで嘘を書くんだろう? 本当に不思議
那珂八幡古墳は、纒向石塚古墳をはじめとする纒向古墳群の纒向型前方後円墳の
模倣として、遅れて作られたもの
伊都国では、端山古墳がおそらく一番古い古墳だが、完全に古墳時代に入ってからのものだ
まあ、地域ごとの早い遅いは首長の寿命次第、死んだ順番ってのもあるけれど
定式化した前方後円墳が成立していく過程が、纒向遺跡の領域であとづけることができるし
九州の古墳は明確にその後追い
九州が前方後円墳祭祀という葬送儀礼において、纒向に本拠を置く畿内勢力に
完全に追随しているのは明白だよ
その直前に、九州に畿内と独立した勢力があって、畿内の勢力を隠して、魏王朝を騙して、
倭王として魏皇帝と交渉したっていうのは、どう見ても無理があるだろう
現実を見なよ >>956
>その倭国の中心を求めるという命題に答えればいいだけだ
その倭国の中心は「阿波」 @阿波 >>960
>やっと記念鏡を国内で作らせたことを認めたか。
500枚もあるんだから、仿世鏡が大部分なのは当たり前だろう
やっとどころか、ずっと前から誰も疑ってないぞ
そして、魏から親魏倭王に除せられたのが九州王朝なら、
「なぜその記念鏡を作ったのが『九州王朝ではない』のか?」
一番簡単な答えは、九州王朝なんていうものはなくて、
親魏倭王に除せられた卑弥呼も九州にいた王ではない、ってことだ
これが一番シンプルで分かりやすい >>953
>陳寿が「邪馬台国に到達していない魏史」の資料を基にして編纂したと考えた方が、より多くの不自然点が合理的に説明つくでしょ。
それこそ不合理。
それならわざわざ里程など書かない。
本当にそんな国(邪馬台国)があるのかどうかを確認するためにわざわざ使いを立てていたのだから。 >>955
>梯儁の記録を基に書いたとしたら、里数表記と日数表記の混在が説明つかなさすぎるだろ。
>梯儁でなくとも、帯方郡-邪馬台国を通してして到達した魏人の記録が原資料だとしたら、表記の混在をどう説明するの?
里程は帯方郡から始まっている。
日程も帯方郡からだとすれば、なんの矛盾もない。
ああ、畿内説だと矛盾するのか。
里程が九州北部で終わっているからなw >>956
>九州説が主張する北部九州も、古墳時代初期から畿内大古墳の2分の1、
>3分の1サイズで相似形の古墳を作り始める
>その倭国の中心を求めるという命題に答えればいいだけだ
卑弥呼の死後に大きな変化が生じたと考えればいい。 >逆に、魏との交渉を記念したものであるのは明白で、
それを記念する必要があるのは、魏との交渉をした当事者以外にはあり得ない<
記念した鏡なんでしょ?(笑) >>962
>その直前に、九州に畿内と独立した勢力があって、畿内の勢力を隠して、魏王朝を騙して、
>倭王として魏皇帝と交渉したっていうのは、どう見ても無理があるだろう
何が無理なのかわからんな。
むしろ、畿内が九州の頭越しに中国と交渉できるわけがない。
特に、大和は貧困弱小地域だったし。 >>949
>魏史が実踏してたらここは当然〇〇里でないと整合性が取れない。
>自分でもこのすぐ上で「実測不可能な海路」って書いてるじゃないか
そうだよ。実測不可能な末盧までの海路ですら里数表記してるという「事実」がある以上、記録者が邪馬台国に達していれば伊都国-邪馬台国間に海路があっても里数で表記するのが自然なわけ。
投馬国以降はそれを「しない」か「できない」理由がある訳だよね。
その理由は投馬国以降は倭人の伝聞情報(日数表記は倭人の習慣)で、記録者の魏人は実際の位置は知らない、とするのが一番自然なわけ。
仮に北九州に邪馬台国があったら、伊都国から徒歩圏内=実測・里数表記可能だよね?
なぜ「あえて」里数表記しなかったの?それまでは日数表記してないのに突如「日数表記の方が距離感が伝わりやすい」と思ったの?
倭人対象の報告ではなく、魏人を対象とした報告のはずなのに?
正確性はさておき、投馬国に至る前は「方角・里数表記」の法則性があるのに、投馬国以降はあえてそれを放棄する理由を教えてくれたまえ。 >>964
>そして、魏から親魏倭王に除せられたのが九州王朝なら、
>「なぜその記念鏡を作ったのが『九州王朝ではない』のか?」
畿内が九州の末裔だからだよ。 >>972
>正確性はさておき、投馬国に至る前は「方角・里数表記」の法則性があるのに、投馬国以降はあえてそれを放棄する理由を教えてくれたまえ。
投馬国は南九州だから行っていない。
邪馬台国(奴国、伊都国)への帯方郡からの総日程を書くついでに挿入された。
だから、投馬国への日程には陸路がない。 畿内の古墳の2分の1、三分の一の相似形のものを後から作ったのではなく
九州の古墳の2倍3倍の相似形のものを畿内で作った、が正解。 三角縁全てを中国製だと考える研究者は増えてるよ
学問オンチの九州説信者はともかく
畿内説論者は最新の学問の動向にもアンテナ立ててようぜ >>975
答えになってないなw
帯方郡からの総日程という珍説を披露する奴は確かに居るが(論拠は無いが)、それを以て(連続式なら不弥国、放射式なら伊都国)からの方角・距離を記載「しない」理由にならんよ。
仮に帯方郡からの総日程だとしたら、総里数記載(萬二千餘里)がある以上、不弥国or伊都国からの里数と「併記」でないとおかしいよな?
なぜ、併記せずにそれまで一貫してた方角・里数表記だけ放棄したの? >>976
だよね。
小さいものからだんだん大きくなるよね。
最初にいきなり大きい墓が作られて、それを模倣して小さいものが作られたというのが畿内説だもんな。
おかしいだろ。 >>978
>なぜ、併記せずにそれまで一貫してた方角・里数表記だけ放棄したの?
途中の里数に余りがあるから、合計するとほぼ一万二千里と考えられたんだよ。
単純合計で1万里は確実に超えているから、残りは100キロくらいしかない。
途中の誤差を勘案するとほぼ奴国付近で里程は尽きている。 このように
九州説の根拠は倭人伝の我流読みだけ
畿内説を批判する能力がない >981
あほか。
倭人伝冒頭に
「倭人在帶方東南大海之中」とちゃんと倭は帯方郡の「東南」にあると記載してるわけで。
当然、
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」と「南」と明言している以上は帯方郡からの位置ではないことは明らか。
東南か南か、どっちが正しいんだ?
同じ方角を、ある時は東南と言ったり南と言ったり適当なのか。
それとも、邪馬台国は倭国内には無い、別の国か。
そもそも帯方郡から真南は東シナ海だが。
そのへんの小島に邪馬台国を比定する説も無くはないが、トンデモの域を出ない。
また、萬二千餘里記載部分には「自郡至女王國、萬二千餘里」ときっちり書いてあるんだから、整合性的な意味では水行〜部分にもその旨注釈を入れるだろうね、普通。
水行〜部分を「帯方郡から」と仮定すると、辻褄の合わないところがさらに増えるだけ。 >>979
小さいものからだんだん大きくなってますが?
箸墓は完成形で大きい
それが三世紀半ば 前漢鏡の内行花文鏡はかなり小さいよ。
平原まで数百年かけて大きくなった。
卑弥呼の時代がピーク。 大型化に象徴的な意味があるとしても、進化や新しさとはあんまり関係ないな。
奈良の大仏は最大級だけど、だからといって鎌倉仏より新しいという事にはならない。 >>955
>でも、魏志は梯儁の書でもなければ、梯儁の記録を転記したという論拠はどこにもない。
梯儁の記録があったから梯儁のことが書かれているに決まっているだろ。
書かれているという事実が根拠だ。
お前、頭悪いだろ。 梯儁が記録した木簡は存在しただろうよ。公使なんだから。
しかし、陳寿がそれを見たという根拠はどこにもない。
お前、頭悪いだろ。 >>972の「実測不可能な末盧までの海路ですら里数表記してるという「事実」」と
>>981の「途中の里数に余りがあるから、合計するとほぼ一万二千里と考えられた」が、
互いに相容れないのは分かるかな?
実測していない数字を根拠に、比定地を探してもどこにも行き当たらないよ
実測不可能なところは、「つじつま合わせの作った数字」なんだよ
そして、萬二千里は、邪馬台国までではなく「女王国」まで
そして、魏志倭人伝の旅程は、後漢代の古い記録と魏使の報告による新しい記録を
ごちゃ混ぜにまとめてある
そこにさらに、世界の端まで萬二千里という淮南子にも書かれている中華世界の世界観と
倭国は儋耳朱崖の近くの南の国という思い込みを混ぜ込んで魏志倭人伝は書かれている
おそらく後漢代の帥升等の朝貢時で既に万里の彼方からの朝貢とされて、
対馬海峡を渡るまでが一萬里になるように数字が作られていて、
そこに末慮国−伊都国間ではない東南陸行五百里が付けられて、
計算が合わなくなって水行と陸行が日数表示になったまであってもおかしくない
まあ、北部九州から千三百里で魏晋里で畿内まで届くので特に問題はないと言えばないけれど 三国志は書かれた当初は私撰史書
陳寿は役人だけれど、公務で三国志を撰述した訳ではない
正史と認定されたのは、唐代になってから 都合の悪い記録を次々と無視する口実を見つけなくてはいけない畿内説。 >>990がたぶん正解に近い。
個人的には萬二千餘里は当時の中華的世界観による創造数値という説には賛同する。
が、倭人の住まう地という意味での「倭国」という概念があって、その中に女王統治下の「女王国」がある。
さらに、「女王国の首都」が邪馬台国。萬二千餘里は広大な「女王国」西端までの距離と考えれば他の里程記載との一応の整合性もある。
邪馬台国まで萬二千餘里とはどこにも書いてない。
女王国西端はおそらく奴国、一般的な比定では春日市あたり。大宰府の可能性もあるか?
伊都国は、「女王国以北」の属国あるいは同盟国。女王国の出張所が置かれた。
女王国西端であるところの奴国の南には敵対勢力として狗奴国があり、狗奴国=熊襲=熊本説には確証がないものの、有力ではある。
魏志倭人伝からは、他のクニはさておき、『邪馬台国の』比定は不可能。
位置情報は倭人からの伝聞であると思われる「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」しかないし、信頼性に疑いのある魏側の数値より、さらに輪をかけて信頼性が低い。 後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 当時の人たちの理解が後漢書に反映されている。
狗邪韓国が女王国の境界、王都は倭奴国。 隋書には「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」とある。
「都の邪靡堆は魏志の言うところの邪馬臺っスからね!」と。
隋書編纂時の倭の都はもちろん大和。
当時の人たちの理解が隋書に反映されている。 >>998
>隋書編纂時の倭の都はもちろん大和。
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