邪馬台国畿内説を批判するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。 >>848
>倭人伝に末盧以降に西行する表現は無いから平原や那珂の遺跡をガン無視ということになる。
はやく、「平原や那珂の遺跡・大型内行花文鏡」の呪縛から解き放されることを祈念する。 @阿波 >>843
蒙古襲来の文永の役では対馬壱岐を落とした蒙古軍は、
次は肥前国沿岸の松浦郡を襲撃し、応戦した松浦党は壊滅しているよ
まさに対馬国→一支国→末蘆国と来た魏志倭人伝のように
そして博多湾に最後に上陸した >>850
>うん、だからその比定地がすでにグダグダなのがわからないかな?
グダグダというなら、↓にどう答えるの?
↓
もし古代より、唐津やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって唐津周辺が世界文化遺産になっている。 @阿波
>>852
>次は肥前国沿岸の松浦郡を襲撃し、応戦した松浦党は壊滅しているよ
それはね、宗像方面に着いてから、博多湾を西進して、出航地の平戸方面へ集結移動途中の襲撃なのよ。
いきなり、松浦郡に到着して襲撃したんじゃないのよ。 @阿波 宗像が中継点として重視されたと確認されてるのは遣隋使以降だよ。確実に畿内が日本の中心地で、すでに帆船時代ね。
邪馬台国とは時代背景が違う。
宗像から弥生中後期の遺跡・出土物として大陸・半島由来のものが見つかってたっけ? >>855
>宗像から弥生中後期の遺跡・出土物として大陸・半島由来のものが見つかってたっけ?
「田熊石畑遺跡」「今川遺跡」「手光於緑遺跡」などどうかね?
もし古代より、唐津やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって唐津周辺が世界文化遺産になっている。 @阿波 >>822
「畿内説者のレベルの低いこの重複偽スレッドでは、岡上氏の能力の全てを引き出せないからね。。。。
岡上氏が投稿しなくなったのも、そういうことなんじゃないのかな、」
とか
「岡上氏の高度なレベルの投稿が懐かしいね。。。 」
とか
「僕たちは、なぜか岡上氏だと勘違いされているね。。。
僕たちにとっては、あの博識な岡上氏と間違えられるのは光栄なのだけれども、、、、、
思い込みの激しい、キナイコシと皆に呼ばれている、奈良の狂った老人に、いわれのない誹謗をされている本当の岡上氏に、申し訳ないね。。。」
とかいうのは、自演ってことでOK?
九州説のやつが他人を誉めることってないしww 末慮国を、万津浦という地名の類似だけ(しかも現在に残っていないどころか、
典拠不明の個人蔵の文書1点にのみ記載)で決めながら、
伊都国も、奴国も、地名を無視して決めているところが、ご都合主義のダブスタ >>859
なんか、地名にしか頼るものは無いのかね? トンデモ説ってその程度? @阿波 >>855
>宗像が中継点として重視されたと確認されてるのは遣隋使以降だよ。確実に畿内が日本の中心地で、すでに帆船時代ね。
アホか。
地理的にどう見ても遥か古代から要所だろう。
縄文期から遺跡はあったはずだが? 当時の航海技術を考えると、松浦に上陸するのが最も合理的だからだよ。
帆船化し、大型化して航続能力の上がった後代の航路から類推するのは意味がない。
逆に、倭人伝の距離方位が正しいという前提で宗像を末蘆に比定すると、その後の行程が意味不明になる。
倭人伝に西行の記述が無い以上、邪馬台国の候補地は宗像より東方向、つまり瀬戸内・四国・畿内となる。
ところが、壱岐から宗像に進む方が合理的であるような航走能力を持つ船なら、九州内陸部に入る必要がない。
沿岸周り寄港補給しつつそのまま魏船で関門海峡に入ればいい。
実際、遣隋・遣唐使船も朝鮮通信使も、そういう航路を取っている。
目的地が瀬戸内・畿内・四国なら、九州でわざわざ大荷物下して、草木茂盛行不見前人なんて難所を越える意味は?
「南に水行」記述を九州中南部に取るとしても同じことだがね。 >>863
>九州でわざわざ大荷物下して、草木茂盛行不見前人なんて難所を越える意味は?
対馬海流に任せていると、簡単に福間海岸辺りに着いてしまうんですよ。
だから、八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)して、【東南】陸行500里の伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)へ向かう訳。 @阿波 >>865
>だから内陸の直方では、出入国管理にならないっての
内陸の伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。
伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、出入国管理局。
その伊都国は千戸程度だから、感田上原遺跡や帯田遺跡だろう。
大陸からの往路 玄関口(福津市周辺 万津浦)
大陸への復路 出航地(平戸市周辺)
伊都国(直方)は大陸との往路と復路の分岐点である。
だから、大陸出入りを監視出来る立地(内陸)の直方辺りに一大率(筑紫忌部)が置かれた。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>866
>内陸の伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。
>伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、出入国管理局。
内陸に出入国管理を置いたら、管理する前に「入国」してるやん
直方の伊都はおかしいし無理
万津浦にも四千戸は無理だし、いろいろ適当すぎ >対馬海流に任せていると、簡単に福間海岸辺りに着いてしまうんですよ。
だからね、その航行能力があったら、そのまま沿岸伝いに関門越えられちゃうでしょ。
内陸部に入る「必要」がないよね?って疑問のアンサーにはなってない。
魏史を単なる平和友好使節だと思ってる馬鹿なのかな?
卑弥呼以前は倭国は内乱状態、卑弥呼以後も内乱再発、宗教的祭祀で表面上安定させてるだけで、政情はまったく安定してないわけ。
卑弥呼が魏の威を借る必要があったのは、軍事地政学上の理由が大きいだろう。
魏史は表向き使節団、その実軍事監視団・調査団でもある。
邪馬台国は属国状態であるとしても、倭国情勢はいつひっくり返るかわからない。
松浦半島が仮にクソ田舎であったとしても、軍事上の要衝であるのは猿でもわかるよね?
可能性は低いとはいえ、魏からの派兵・駐屯も考えると軍事的には実踏調査・監視が必要なんだよ。
魏からの航行で、仮に糸島、宗像、ひょっとしたら関門まで直行できたとしても、反邪馬台国・反魏勢力に壱岐を取られたら半島・大陸との連絡は絶たれ、完全に詰む。
壱岐から目と鼻の先の松浦も、絶対に取られてはいけないところ。
直方に出入国管理局って、何を管理してるの?不法労働者か?
そんなところに一大率や魏史の駐屯所置いても、福岡市以西の勢力の抑止にはならないよ?
福岡市以西はガン無視でいいの? >>868
>だからね、その航行能力があったら、そのまま沿岸伝いに関門越えられちゃうでしょ。
残念ながら、関門海峡を渡りきる航行能力と汐待施設が整備されていなかったので超えられなかったんですよ。残念でした。
だから、内陸部に入る「必要」があったんですね。 これが疑問のアンサーでございます。 @阿波 >>868
>松浦半島が仮にクソ田舎であったとしても、軍事上の要衝であるのは猿でもわかるよね?
猿だけど分からない。 だって、魏使が上陸した形跡が無いもん。 そんな所が軍事上の要衝になどなる訳が無い。 @阿波 >>868
>直方に出入国管理局って、何を管理してるの?不法労働者か?
大陸・半島との交易品管理に決まってるでしょ。 もちろん生口管理もね。 @阿波 >>868
>そんなところに一大率や魏史の駐屯所置いても、福岡市以西の勢力の抑止にはならないよ?
福岡市以西の勢力も筑紫忌部だから心配ご無用。
>福岡市以西はガン無視でいいの?
福岡市以西の勢力も筑紫忌部だから心配ご無用。 @阿波 阿波のやっていることは、歴史学ではなく、神学なんだな
神学は、何でも「神の御業」といえばそれで終了
阿波は、何を言われても、それは忌部、というだけ
相手にしてもしょうがなさそう >>874
> 阿波は、何を言われても、それは忌部、というだけ
だって、忌部一族以外にいないでしょ。 全国へ進出していった部族は。
忌部も抹殺するつもりかね? @阿波 阿波じゃなくても里程原理主義者ってみんなこんな感じだけどね。
地政学的考察とか、弥生期の政情とか考える知能ないから。 >>878
いやいやいや、里程からいってもおかしいだろ泡インベの言ってることはw >>879
どこがおかしいのかも言えないのかな? @阿波 末慮を出所不明で検証不能な万津浦一つで決めるのがおかしい
壱岐国から末慮国が、南から外れすぎ
壱岐国から東へ航海してきて奴国をスキップするのは、魏使のお役目からもやってはいけないこと
以上より、万津浦を末慮国の比定地と考えるのは不当
直方は内陸であり、出入国管理を行う場所として不当
直方には十分な平地がない
直方付近に、伊都国の地名がない
最初の二カ国だけでも、ボロボロ また議論が止まっちゃったな
阿波が出てくると話がムダな方向に流れるからいやなんだよな だいたい、咫が漢尺の八寸って言ってる連中が、短里だの東夷伝里だのを主張するのが噴飯もの
漢尺の長さが正確に伝わっていて、既に使われなくなっている咫が周尺の八寸であることも
知っていて、それなのに6尺が歩、300歩が里っていうのが伝わっていないと主張できるのが
本当にご都合主義
さらに記録するのが魏の建忠校尉梯儁、塞曹掾史張政なんだから、魏晋里を知らない訳がないし
魏晋里以外で記録する理由がない 倭では里も咫も歩も、独自の体系で運用していたってことだよ。 どうしても万二千里にしたかったわけだからね
しょうがないね >>887
>倭では里も咫も歩も、独自の体系で運用していたってことだよ。
では、なぜ尺だけは漢尺を使うんだい?
しかも、漢尺にはない咫を、漢尺基準の換算値で使ったとも主張するなんて
理に合わないだろ? >>888
>どうしても万二千里にしたかったわけだからね
>しょうがないね
つまり、実測値ではないし、
その里程を元に比定地を求めようとしても徒労だってことだよな >>891
>魏志倭人伝は都合が悪いため否定したいキナイコシ
いや? 九州説、特に伊都国説を唱える八咫バカの人たちにとってこそ、
都合が悪いと思うけど?
卑彌呼以死大作冢徑百餘歩
平原1号墓を卑弥呼の墓にしようと思っても、これではどうしようもないだろ?
そういえば、「一歩36センチでぽくぽく歩く」っていうコピペ、見なくなったねww 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。
その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。 >>893
>弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。
朱丹は禁句! @阿波 其四年 倭王復遺使大夫伊聲耆 掖邪狗等八人 上獻生口 倭錦 絳青縑 緜衣 帛布 丹木 𤝔 短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹
錦って絹織物で、倭から倭錦や異文雜錦を贈ってますよ
卑弥呼の都が在ったなら周辺から絹織物が出土するはずですね。 >>898
3世紀の絹織物が出土してるのは北部九州だけなんですけど。 >>897
>其四年 倭王復遺使大夫伊聲耆 掖邪狗等八人 上獻生口 倭錦 絳青縑 緜衣 帛布 丹 木𤝔 短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬
> 錦って絹織物で、倭から倭錦や異文雜錦を贈ってますよ
そうですね。 倭国(阿波)から、丹や倭絹を送ってますね。 絹も織っていたんでしょうね。 @阿波 メモメモ
この「極」が、淮南子: 時則訓 の「東方之極」の「極」なんだよ
「使驛所傳、極於此矣」は
「使譯の傳うる所、此に於いて極まる。」
要するに、情報が伝わってきた(得られた)ところはここが限界=「極」ってこと
東の世界の端を南に行ったところに「黒歯國」があって、
南の世界の端を西へ行くところに「裸国」があるからね
淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「?齒民」、玄股民、毛民、勞民; メモメモ
記紀では伊都國は村扱い(在筑紫國之伊斗村也:仲哀記)で、
國造すら置かれていないような地域
國造ではなく県主レベル(筑紫伊覩縣主祖五十迹手:神功紀) メモメモ
端山古墳 墳丘長78.5メートル周濠を含むと全長は約99メートル
築山古墳 墳丘長60メートル周濠を含むと全長は約105メートル
>大きい古墳だから住民の多いところには
>作れないという話をしてるのだが?
畿内の大古墳と比べたらちゃちいものだが、
かなりの面積をつぶさないと作れないだろ?
住居いくつ分になるかな?
でも、伊都國中枢に作ってある
これらが、伊都國王家筋の墳墓
これと比べても平原1号墓はしょぼい
そんなのを卑弥呼の墓と言い張るのが惨めにならないんだからすごいよな メモメモ
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え
四方に5〜9mの平坦部、てなサイズがある
オレは纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
これ全部、弥生時代だよな?
北部九州は、地方王権の伸張に乗り遅れた地域なんだよ
そんなところに倭王がいる訳ないだろ? メモメモ
九州説の頭の悪いところは、萬二千里が「女王国までの距離」であって
「邪馬台国までの距離じゃない」ことを理解していないこと
魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略 「自帯方至女國万二千余里」
後漢書 「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書 「去帶方萬二千餘里」
隋書 「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書 「去京師一萬四千里」
新唐書 「去京師萬四千里」
邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる
ざっくりしているのは実測値ではなく、淮南子時則訓からの観念的な値だからというのも
何度も教えている
漢文が読めなくて、原文を確認していないから、延々と頭の悪い書き込みを
続けている訳だ
隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを
意味している
隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、
『古云』が付いている訳だ
この萬二千里に全てを託している九州説は、萬二千里に意味がないことが
明らかになった時点で無理なんだよ メモメモ
魏志倭人伝で、九州に上陸してすぐ
末廬國から伊都国を、本当は「北東」なのに、「東南」陸行って間違ってるね
魏志倭人伝では狗奴国は「南」なのに、後漢書では「東」度海千餘里至拘奴國になってるね
どちらかは間違いだね
隋書では、対馬から壱岐が「東」に間違ってるね
旧唐書でも
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴?城,南去太和城十餘里,
東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
とあって、内容を確認すると
陽苴?城は現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る
となっているけれど
実際には成都から安南は「東南」
大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ
どうしてだろうね?
探せばまだまだいくらでもあると思うよ
大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね メモメモ
魏志倭人伝の旅程記事に混乱があるのは確かだ
1.淮南子の世界の東の果てまで萬二千里という概念
2.漢委奴國王、倭国王帥升等の朝献の時の北部九州までの「里」程
3.卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程
これらが、陳寿の手元にあって、これを総合して旅程を書いたのだろう
また、2.の時の里程には別の目的地(倭面土国)行きが紛れている可能性が
高いし、魏志倭人伝の旅程と実際の邪馬台国までの経路は一致しない可能性が高い
旅程記事は、中国の研究者の読み方でも、放射読みも最後の邪馬台国までの日程を
総距離と見るのも、漢文の文法からいって明らかな誤読
北部九州=邪馬台国というのは、誤読の上に成り立っているだけで、普通に
漢文として読めば、伊都国、奴国と邪馬台国が別であるのは誰が読んでも明らか
この時点で、伊都国にある平原1号墓が卑弥呼の墓というのは、ありえない 残念だったな九州なんて嘘吐いても直ぐにばれるよなw
グクれば一発で3世紀の絹織物が出土してるのは北部九州だけって分かる。 メモメモ
<萬二千里の変遷>
淮南子:碣石山→東方之極
後漢書:楽浪郡→倭
魏志: 帯方郡→倭
要は中国の国境から辺境まで「萬二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「萬二千里」は変わらない メモメモ
黒齒國は山海經にも出てくる伝説上の国だし、裸國も淮南子に出てくる世界の端の国
淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「?齒民」、玄股民、毛民、勞民;
そして、前にも挙げた淮南子:時則訓を再掲すると
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,萬二千里。
魏志倭人伝の世界観では、
淮南子:墬形訓の大人國、時則訓の大人之國を倭國に当てているように見える
だからこそ「倭」國なのかもしれない
墬形訓の自「東南」至東北方だから、倭國は倭人在帶方「東南」大海之中だし、
時則訓の世界の端だから「萬二千里」
そして東の端を南へ下っていくと「?齒民」がいて、
墬形訓の自西南至東南方の段落にある「裸國民」はさらに遠くの扱いになる
こうして見ると、魏使の報告書になかった部分は、
淮南子を参照して書いているのは明らかだな >>915
大笑い
それ、安本のトンデモページじゃないかww >>906
>纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
>これ全部、弥生時代だよな?
は?
古墳時代だろ。 >>920
最古の絹も北部九州だし
人に難癖付けないで自分で調べてみろよ
3世紀頃まで絹は北部九州だから。 陳寿は実際には邪馬台国はおろか、倭国にすら行ってない。
他者からの伝聞をまとめただけ。
三国志が正史として認められたのは唐代に入ってから。
過去の「文献」にはどの程度当たれたのだろうか?編纂時はあくまで私撰、帝の命を受け…という類のものではない。
魏史は公務として来訪したわけだから当然、記録は残して奏上しているだろう。
しかし、旅程など軍事機密に当たる部分もあるだろうから、陳寿が全ての公文書に目を通せる立場にあったのかどうか?
三国志成立は280年以降とされるから、東夷伝の編纂はそれ以前、実際に倭地に足を踏み入れた人物も存でおかしくない時代。
当事者への直接取材がメインだった可能性も否定できない。
記憶をもとに口述されたものを記録、であれば数値や方位が曖昧であっても不自然ではない。
大まかな出来事に相違はないだろうが。 メモメモ
地の果てまでが萬二千里というのは、>>2で淮南子の数字を出しているが、
その前の山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少r、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている メモメモ
山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元 >>907
>無い物をどうやって贈ったんだよw
無いものは遅れない。 当たり前。
そうですね。 倭国(阿波)から、丹や倭絹を送ってますね。 絹も織っていたんでしょうね。 @阿波 >>926
>出土例は?
丹はあるけど絹は無い。
丹と絹を送っているので、絹も織っていたんでしょうね。 @阿波 >>928
>願望かよw
絹が出ようが出まいが、倭国(阿波)にとって、どうでもいいんですよ。
もう、倭国(阿波)の根拠、腹いっぱいだから。
少し、分けようか? @阿波 >>929
阿波説は願望のみで出来てるってことですね
分かりますw 邪馬台国論争でトンデモな事言いだす奴って、歴史学とか考古学とかじゃない、門外のバックグラウンドな奴が多いよね。
古田武彦だって本業は思想史だし。あとは地元の郷土史家とか、作家とか。宮崎康平もアマチュアだし。
歴史学者や考古学者が気付いてない着眼点を持つ俺ってSGEEEEEEEEEEE!とか思ってるんだろうか。
みんなどこか、あすかあきおの匂いがする。 考古学だけしかやってる奴が
おかしな畿内説とか言い出すよりマシな史論だけどね。 >>932
>考古学だけしかやってる奴が
>おかしな畿内説とか言い出すよりマシな史論だけどね。
これ、日本語か? 普通の日本人が書く普通の日本語に翻訳すると
考古学だけしかやってない奴が
言い出したおかしな畿内説より
よっぽどましな仮説だけどね
くらいかな
>>932は、もっと自然な日本語が書けるようになれるといいね >>935
うるせー まだ日本語に慣れてねーんだよニダ >>931
中国古代思想に関する話題で専門家(中国古代思想史・古代文学の専門家)に
自分の妄想のみを論拠に異議申し立てする基地害とか、むちゃくちゃだよねね 普通の日本人が書き下しを読んだり、漢文の心得がある奴が読んだりした程度では
「史書からは邪馬台国の位置は比定できない」が結論だよ。
だから考古学的検証がメインになる。
ネイティブの古代漢語話者が読めばまた違うのかも知れないが。
文献的なアプローチだと「魏志のみの記述では存在確認できない」わけだしね。
後代の書は基本的に魏志の引用だし、比較文書が無い。
山本勘助だって、甲陽軍鑑のみの記載では存在すら怪しい、市河家文書、真下家文書あってもなお「軍師だったのかどうかはわからん」のが現評価だろうが。
魏志を頼りに比定が可能だと考えるのは、歴史学からはむしろ真逆のスタンス。 考古学的に畿内説といっても、三角と古墳は単なる年代詐欺だしね。
纒向からでたのは銅鐸とか桃の種、紅花とかばっかり愚にも付かないものばかり。
これで結論ありきじゃないとかあきれるわ >>940
>だから考古学的検証がメインになる。
>魏志を頼りに比定が可能だと考えるのは、歴史学からはむしろ真逆のスタンス。
魏志を考古学的検証をした結果、ついに決着をみた。 それは「其山有丹」。 @阿波 >>942
年代詐欺と主張するくせに
詐欺と断定する根拠は上げない
これこそ詐欺 畿内説でないと困る方々が多いんでしょう。
もはや学問ではなく政治ですけどね。 三角縁を根拠に畿内に持ってくるのは少なくとも詐欺。
魏鏡でないものを下賜鏡と認めるのはどう考えても無理。 そもそも、陳寿が参考にしたと思われる文献の記録者自身が実際に邪馬台国に行ってない疑いが強いでしょ。
梯儁は印綬を携えた最VIP級公使だから卑弥呼に謁見できた可能性は高いが、その他は?
張政は「檄文を以て諭した」とあるんだから、会えてない可能性が高いね。謁見してたらそのように書くだろう。
●「自為王以来少有見者」 たぶん宗教的理由だろうが、そもそも会える人間は限られてる。一般郡史レベルでは無理だったのかも。日本の地方県の知事レベルではローマ法王にはなかなか会えない、みたいな感じか。
●「郡使往來常所駐」 の記述もそれを裏打ちする。中位以下の郡史は伊都国で足止め。
●それまでは、実測不可能な海路ですら「〇〇里」表記なのに、投馬国・邪馬台国に至って突如「〇〇日」表記になる。
隋書には「夷人不知里數但計以日」とあるんだから、日数表記は「倭人の距離」であって、魏史が計測したものではないことがわかる。
魏史が実踏してたらここは当然〇〇里でないと整合性が取れない。
つまり、魏志の原資料作者は「『投馬国・邪馬台国には』行ってない」。
伊都国で留め置かれ、そこからせいぜい徒歩圏内(100里)しか移動できてない。
原資料著者が見た「倭国」の文化習俗は伊都国からの移動が許された範囲内の事だから、これは「北部九州の描写」という事でいいだろう。 逆立ちしても邪馬台国畿内越を批判できないスレ
ww >>949
>そもそも、陳寿が参考にしたと思われる文献の記録者自身が実際に邪馬台国に行ってない疑いが強いでしょ。
後漢から魏にかけての公的記録を総合して書いているはず。
>張政は「檄文を以て諭した」とあるんだから、会えてない可能性が高いね。謁見してたらそのように書くだろう。
檄文は皇帝からのものでは?
>隋書には「夷人不知里數但計以日」とあるんだから、日数表記は「倭人の距離」であって、魏史が計測したものではないことがわかる。
その通り。
>原資料著者が見た「倭国」の文化習俗は伊都国からの移動が許された範囲内の事だから、これは「北部九州の描写」という事でいいだろう。
その上で卑弥呼に謁見しているはずだから、邪馬台国は九州北部。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。