邪馬台国は結局どこにあったか初心者に説明するスレ2 [無断転載禁止]©2ch.net
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当方、魏志倭人伝と日本書紀の仁徳天皇までの現代語訳だけは読んだレベル也。
お互い議論しなくていいから
自分の説の説明だけやってくれ。
投稿が分割するほど長いなら名前欄を使ってくれ。
できれば初心者がググらないでいいようにしてくれ。
全く説明になってなかった前スレ
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1483681465/ 現在、日本書紀の、仁徳天皇の後を読み続けるか、古事記を読み始めるか迷っている也。
どっちが邪馬台国に近づくかおしえてくれ >>2
どちらもダメ
読むなら三国志、特に魏書
最低東夷伝は読むべし
他人の訳に頼らず自分で訳し直すと新しい発見があるかも。 >>3
了解。「最低東夷伝は読むべし 」
実は薄々そう思っていた。 魏志倭人伝のどんな現代訳を読んだかにもよるが
倭国への行き方は途中で示す方法が変化している。
里数と日数へ。だからこの部分は分けて考えるのが妥当である。
どちらも郡と表示されるところからスタートするが
前者は『邪馬台国』への道筋までは示していない。
後者にこそ『邪馬台国』を含む『倭国』の概要とその先の『他の国々』が示されているのだ。
注目するべきなのは里数で行き先を示している部分にも、日数で行き先を書いてある部分にも『奴国』が登場していることなのである。『奴国』によってようやく二つの部分が連結するのである。
その『傍國』というのは全て『邪馬台国』に接している国々であることは明白である。
従って『邪馬台国』は『伊都国』である『福岡県糸島』からみて『奴国』である『福岡平野』の向こう側にある『筑後川流域一帯』である。
恐らく『卑弥呼』の都した場所はかつて『山門』とよばれた福岡県みやま市近辺であろう。 >>5
了解。説明ありがとう。
傍という文字の意味に重みを感じる。
確かに一理ある。 >>5
漢文の変な読み方を教えるな
そんな読み方はない
文法無視は不可
里数から日数に変わったのは伊都国に常に滞在してた郡使が直接行っておらず倭人からの伝聞なので表記方法が変わっただけ
隋書に倭人は日数で距離を計るとあるだろが
なお梯雋と張政の2人は特別任務で邪馬台国まで行ってるがこれは例外 >>1
学者レベルでは邪馬台国論争は終結してる
畿内説で確定
文献解釈では100年間解決できなかったが考古学の進歩により畿内だと判明した
ある日突然畿内説に決まったのではなく30年くらいかけて徐々に判断が傾いていったわけ
だから正式発表みたいなのはない
畿内説で決まった根拠は畿内説スレのテンプレにあるが難しくて理解できないかもしれんが
一方、この板を見てすでに気づいているだろうが素人は圧倒的に九州説
あとは学者を信じるか、素人のオレサマ解釈を信じるかだけなので自分で判断するのがいい >>7
お前も嘘を教えるな
>里数から日数に変わったのは伊都国に常に滞在してた郡使が直接行っておらず倭人からの伝聞なので表記方法が変わっただけ
君の説であり、倭人からの伝聞とか根拠がない。
里数表記の行程と日数表記の行程をどう考えるかが倭人伝のツボだな
もう一つ「世有王」が重要な意味がる
自分で調べて訳すといい。 >>8
考古学は大事だ、と了解。
当方は学者レベルどころか、
畿内説スレのテンプレを理解できるレベルでないから、
少しづつ基礎知識を身に着けてゆく。
一つ質問があるのは、考古学の進歩により畿内だと判明したということは卑弥呼の骨のような決定的なものが発見されたということか、だ。 >>10
根拠は書いてあるだろが
隋書にある倭人の距離の計り方だ
大前提として文法の誤りがないことだ
漢文の文法に反したオレサマ解釈など論外 >>12
アホウw
隋書が根拠になるかwww
オレサマ文法 >>13
魏志倭人伝よりも後の時代ですら倭人は里を知らないってことだろが
そういう薄っぺらい解釈しかできんから未だに九州だと思い込んでるんだ >>14
凄く的外れな答えだなwww
郡からの行程を日数(時間)と里数(距離)で記しているだけだろ。 しかしいつになったら教科書が変わるのかな
アカデミックの場ではもう決着してるし教科書に反映してもいいと思うんだがな
学者のほぼ全員が九州説で決まりと考えていても誰も旗振り役がいないってことか
まあ誰かがリーダーシップとって動いたらその人は畿内説の爺さんたちから嫌がらせや妨害を受けて
仕事にならなくなってしまうのが目に見えてるから誰も動こうとしない
今の子供たちに正しい歴史を学ばせるためにも学者さんたちは勇気を出して欲しいと思うわ 倭人は里程を数えられないが、魏の使いは測ることができた。
なので里程と日程の二つを並べて記録した。
邪馬台国の位置は帯方郡から12000里と明記され、伊都国まで11000里ほどかかっている。
邪馬台国は伊都を中心とする国の総称であり、倭国や女王国とほぼ同義である。
古事記には、倭と書いてヤマトと読むように指示がある。
この時代の倭国、ヤマトは九州北部、筑紫国のことである。 伊都国と奴国の距離は100里、何kmか測りなさい。 >>18
>学者のほぼ全員が九州説で決まりと考えていても
おい嘘つき野郎
九州説を唱えてる学者の名前を挙げてみろ >>19
前スレ12あたりの補足と了解。
説の大枠は理解した。ありがとう。 >>19
この時代すでに畿内ヤマトが北部九州に進出してるんだが >>27
おいおい安本でさえ認めてるぞ
ただ庄内式土器を九州発祥だとか言い張ってるが
もちろん考古学者には全く相手にされてない珍説
しかも同じ庄内式土器が畿内と九州で出土しても100年近い年代差があるとまで言ってる
ここまでくると理解不能 >>24
3世紀だよ?
そんな証拠はない。
むしろ九州が畿内を支配下に置いていたかどうかが議論されるべき。 >>5
畿内説は奴国が二つあるというけど、可能性は低いでしょうね
二つあるなら別の字を使って区別するだろうし
とすると、たとえ道順が二つ表記されてなかったとしても、
貴方のいうように邪馬台国は奴国の傍らにあったことになるね >>32
少なくとも卑弥呼の直前の漢までは、倭奴国に王がいて冊封を受けている。
魏志にはその倭の内乱と卑弥呼の共立による平定が書かれ、都が移動したとは書かれていない。
そして倭奴国の金印は伊都国の細石神社に保管されていた。
伊都国が倭奴国の王権を継承した王都と考えられ、魏志にも王がいたと記載されている。
畿内の話は魏志に全く出てこない。 伊都国には王がいたが魏使は会っていない。権力がなかったのです。 郡使が伊都国から移動した形跡がない。
卑弥呼も伊都国かそのすぐ近くにいたはず。 伊都国と奴国の間にある山が高祖山とクジフル山、その麓に日向峠。
高祖山の山城である怡土城が高祖宮、別名を筑紫の日向の高千穂宮ということだろう。
高祖宮の目の前にある平原遺跡という3世紀の女王墓から、王権の象徴である八咫の鏡を含む大量の遺物が出土した。
これが卑弥呼の王宮と墓の有力候補。 1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。
2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。
3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。
4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。
5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。
6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。
7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。
8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。
9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。
10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。 つまり、九州の弱小王国は畿内の邪馬台国に博多湾の志賀島に追い詰められて金印を放り出して滅亡した。 >>40
200年前後の当時は、九州の方が先進国。
雲泥の差。 邪馬台国の時代に畿内では高床式住居だったのに九州では竪穴式住居に住んでいた。 竪穴式は断熱性がいいからね。
あの時代に高床式は拷問だな。
だから、工事現場の飯場や長屋と
推測できるわけだ。
場所的にも水が湧きやすいので
竪穴式は難しい、住環境としては劣悪なのだ 弥生の川に挟まれて暮らしたら余命数年っしょ。
実際に半分くらい流されてるみたいだし。 >>42
吉野ケ里には楼閣とみられる高床式の大規模な建物が在ったけど
畿内では未発見だねw 唐古・鍵遺跡で発見された絵画土器に描かれてたのを建てたやつだな 吉野ヶ里は同じ環濠集落内に大きめの竪穴式住居がいくつも見つかっており、
王や大臣の生活住居と推測されている。
もちろん楼閣もあるね。 紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 やはり、糸島市付近が卑弥呼の都で間違いありませんね。 >>2
日本書紀に神功皇后が卑弥呼だったと書いてあるよ。
九州の邪馬台国軍を率いて
近畿の軍勢を滅ぼした。
現代語訳が端折りすぎたんだな。 >>51
海外の資料との比較からは神功皇后は120年古く書かれていることがほぼ確実。
読者がこういう読み違いをしてくれることを期待して仕掛けてある。 九州説は本当に都合の良い解釈するんだな。
神功皇后は葛城地方生まれと書いてる事も忘れるなよw
その神功が何故畿内征伐になるんだ?
単に内政をする為戻っただけの話。 >>51
神功皇后が卑弥呼だったと注釈があること、
九州から畿内に攻めたこと、
はわかっているが
「九州の邪馬台国軍」は出どころがわからないな。
よかったら説明してくれ。 あと、議論している土器のことで、
一つ質問があるのだが、それは土器の形が同じのものが二つの離れた地域から発掘したら、後から発掘された地域は、先に発掘された地域に支配されていたことになるのかと、いうことだ >>55
逆、逆。
土器を作るのは王族ではなく人民や奴隷である。
強い国は自分の領土の人民増やそうとする。
貧しい国の人民は豊かな国へ移動する。
合戦で負ける国の人民は勝った国へ奴隷として輸送される。
だから貧しい国、弱い国の土器は同じものが古い地層から出土するのだ。 >>54
神功皇后の話は120年繰り上げられている。
卑弥呼の時代にわざと被せてある。
だからこういう説も出るが、九州説でも少数派。
最近では近江出身の説が有力じゃなかったっけ?
夫の仲哀は下関の王だな。
神功皇后は闇が深いぞ。 神功皇后の母親が葛城の高額姫という。
まぁこれは畿内出身なのは間違いないぞ。
ちなみに現在も二上山山麓、中将姫の当麻や二上には
高垣という名の一族が多い。
この辺りは大字も畑(ハタ)だしな。 神功皇后は宮簀姫命だったと言う有力な説があります。 >>57
日本書紀を作った人が、
注釈をいれたのではない可能性があるね。
武内という男が子供の父親のような気がする。 神功皇后のモデルは福岡の豪族で、
その逸話を記紀が組み込んだだけだろう。 デタラメ書いてそれに同意してるケースが目立つが、自演してるのは九州(クズ)王か? >>64
何がデタラメなのか自説を手短に開陳の上で反論してくれ
それではただの難癖ではなのか? 神功皇后は息長氏で近江の出身であり新羅がルーツだそうな 神功皇后のことは結局色々な説があるということで了解。 >>68
困ったな。何が気に障ったのか
本当にわからないぞ。
どのレスとどのレスが自演だと思っているのか、
どういう主張がデタラメだと思っているのか、
説明してくれ。
そして、できれば、
それに対する反論を紹介してくれ。 >>69
あんたがクズ王でないならなぜレスを返してきたんだ?
他人のことならスルーはずだが >>70
君が複数の人間のレスをまとめて自演認定するから、ここにいるみんなが自分のことを言われたと思っているだろう。
私が見る限り、このスレに自演はいない。
証明の手段なんてないけどな。
非生産的な話はやめようぜ。 九州王朝と言っても邪馬台国と深く関係する勢力だけでも、
邪馬台国の勢力、倭国大乱で邪馬台国と戦った勢力、狗奴国の勢力があった。
倭国大乱で邪馬台国と戦った勢力とは、糸島〜博多湾岸〜宗像を中心に活動していた筑紫(●チクシ)の勢力だ。
大和朝廷の前身であり吉田氏始めほぼすべての学者はこの勢力を邪馬台国だと考えている。
邪馬台国の勢力とは有明海沿岸の肥国の勢力だ。
邪馬台国の田油津姫が濡れ衣を着せられて神功皇后に攻め殺されてからは主導権を失った゜
4-5世紀を境に筑紫(●チクシ)の勢力は活動拠点を肥国へ移し、良山、大善寺で倭の五王等が活躍した。
筑紫(●チクシ)にちなんで肥国の中心である福岡県の地域を筑紫(◆ツクシ)と呼ぶようになったから
肥国は肥前(佐賀)と肥後(熊本)に分断されてしまった。
狗奴国の勢力は菊池などを拠点としており、仲が悪くなる以前は邪馬台国と同じ勢力である。
近代以降は熊本の勢力だけを熊襲と呼んでいるが、元々は肥国の勢力が熊襲を自称していたのである。 >>66
その新羅には元々倭人の建国伝承と倭人王がいるからな。
結局倭人伝等資料で半島まで出向いていたのは
近江辺りにもいたという事。
伊勢遺跡は重要な発見なんだよ。 >>75
ルーツと言っても何代か前にそういう先祖がいたという話だぞ。 >大阪府三島郡島本町のイジメは被害者が全部悪い
↑
イジメの加害者を擁護し被害者を非難するなんて
島本町は鬼畜の町だな >>70
俺の意見に賛同してくれる人が増えたみたいw
細部は違ってたりするけど。 >>33
左様。
『邪馬台国』は『奴国』の傍らにあるという点。
『奴国』の東西には別の国が示され、北は海である点。
この2点をもって、『邪馬台国』が『奴国』の南にあることが明白になる。 隣が南にすり替わっている。
奴国の隣は伊都国だろう。 >自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。
狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国これらの国は北にある
纏向の北にあったけ? 研究母体でもある自治体側も観光資源になりえる発掘成果に期待を寄せ、
わが町こそ”邪馬台国”だと主張します。
不利なものは排除したり研究したり公表はしません。
例えば、纏向の桃の種についての炭素年代に桜井市教委は触れません。 倭人伝の内容は女王国=邪馬台国という訳ではないからな。 >>85
女王国は瀬戸内海の国で愛媛辺りがその西側にあたる。 >>80,82
スルーする方が賢明なのだろうが、
>漢文が読めないんだね
読めないから本やサイトで現代語訳を読んでいる初心者だが、自信があるようだから、
>85がだした、
>自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。
を訳してくれ。
もしできないなら、もう、意味のないことを喚かないでくれ >>86
情報統制がしきれなかったようで
桃の種は4世紀末のものと判明したのが
洩れ伝えられています。 奴国は博多湾の奴国と、有明海の奴国があった。
漢の時代の奴国が、魏の時代に本家と分家に分かれたのではないか。
魏志倭人伝に出てくる奴国は有明海の方だ。
それによると伊都国は今の小城市になる。 >>92
自分は佐賀ルート説なのでそうであれば嬉しいが、
それなりの根拠がなければ、そう無理に
理屈を付ける必要もないんじゃないかな?
すでにある考古学的、文献学的な根拠の範囲で
無理なくやっていきましょう。 【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は旧志摩(しま、嶋)郡、福岡県糸島市
5番目の彌奴国は嶺(三根)、佐賀県神埼郡三根村にある吉野ヶ里遺跡
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖の安永田遺跡(佐賀県鳥栖市柚比町)
16番目の邪馬国は八女の室岡・亀ノ甲遺跡(福岡県八女市)
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国の範囲はおおむね筑紫国(後の筑前と筑後)に一致する。
筑紫国は、東に同盟国である豊国、南に時に敵対することがある肥国、北は対馬海峡を挟んで韓国、西は海である。 邪馬台とは、「ヤマト」に中国人が汚い字を選んで当てたものなんですか? 多分そうです。
のちの筑後ヤマトのことだったと思います。 >>96
筑後ヤマトという地名は昔からあっんですか? 正直、いつからあったかはわからないと思います。
むしろ、魏志に出てくるので、3世紀にはあったらしいなあと。 邪馬台国なんて、ありませんでした。
倭國女王卑弥呼が都をおいた邪馬壹國が、
福岡平野中央部〜筑紫平野及びその周辺丘陵部にありました。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています