>>812
前線の経験が無あ机上の空論の大村益次郎や小栗上野介じゃ、>>127の岩国の被差別民系
維新団にゃ勝てんし、ましてや>>813の安芸神機隊にゃ当然勝てんよ。
小栗さんの東海道封鎖も中山道から攻められとんじゃけぇ最初から破綻しとるし。
浜通りの戊辰戦争で功利主義の大村益次郎はどう指揮するんか?
結局戦闘で勝利を得るんは、戦術の常識から外れて、敵さんへの思いもせん非常識な
攻撃することなんよ。 広島県の安芸の賀茂、豊田の芸南と備後の壮丁の福山連隊も、
無謀な正面激突で勝利したし。
「敵前で橋を渡るなどということは、常識はずれだ。せっかく連隊主力が上流で
渡河したのだから、そのコースを利用するのが常道である。が、本道上に待機していた
一部隊は、本隊が対岸で戦闘を始めると、やにわに橋を突っ走って行ったのである。
どういう考えだったのか、それは判らない。 「たいしたこたァ、にゃァ(ない)」
と、思ったのだろう。 しかし、この無謀な突撃で、橋梁付近が一大乱戦場になった
のは事実だ。大戦果には必ず、こういう常識はずれの行動が付随していることが多い。
捨て身になって奮戦していたグルカ兵が、この緒戦に敗れてからは、日本軍の姿さえ
見れば、逃散するか、両手を頭上に上げてゴム林から出て来たのは、この最初の一撃が
いかに痛烈であったかの証明であろう。」
『市川少佐は仰天した。(またか!)と思った。しかし今度だけは無茶だ! とも思った。
しかし、放ってはおけない。「各部隊前へ!」より他になかった…。
 仙台幼年学校の区隊長から、この歩兵十一連隊(広島)の第三大隊に転任して来た
市川正は、しばしば戦理に合わぬ攻撃法をやらかす部下たちを、ほとんどあきれていた。
(これが伝統と言うものだろう!)と、そう思うより他なかった。
しかし、激戦場にぶつかると、てんで頼もしかった。勝つこと以外には何も考えて
いないのだった。 「とにかく、こうしましょうや」と提案する中隊長たちの方法は、
てんで敵を無視していた。けれどもそれは百発百中、成功するのだった。』