【初心者】スレッド立てる前に質問をPart37【歓迎】 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>839
それはつまり、国家神道体制の時期は
神職の収入&ステータスは下がったってこと? >>842
村の鎮守みたいな小さい神社は統廃合されてその土地や財産は権力者の懐に入った。
南方熊楠などが反対運動をしてやっと取りやめになった。潰された小さい神社の神職だった人は
収入が増えるとか減るとかじゃなくて全てを失った。だから立場によって色々で一概に言えないの。 小さな神社は地主レベルで所領(100石とか単位の小さな村から年貢収入が有る)なんて持ってなくて統廃合された
大きな神社は武士や貴族同様に所領を持っていたが、これは版籍奉還や秩禄処分などにより取り上げられた
「神職としての収入」は増えたかもしれんが、「神社としての収入」は減ったとこが大半じゃないの?
複数の神社を統合したけど収入は元の神社ひとつ分しか残ってないとか、そんな感じなんじゃないかなあ。たぶん。 >>845
こういうスレなんだから、過去に出たのと同じ質問が再発するのは日常茶飯事だろうとは思う 常駐荒らしとご新規さんは別問と捉えた方が。
「再度書込み」と同じ質問をする荒らしと同じ“ような”は意図が違う うちの周り、小さい神社が乱立してて、神社の数、多すぎね?って思うんですけど
神社の数ってのは、時代を重ねるごとに増えていったんでしょうか? 上物ではなく土地の所有(占有)形態だけでみれば、本当にちいさな祠や地蔵などは代官に許可を
申し出て許されて建てるというもので、社格をもつようなものは神領寺領に関わる話しになるので
封主が本社に勧進して寄進するなどして建てられるという方式。上物については大半は記録にも
残っていないので、作られて保持されているものもあれば、壊れてそのまま森林原野などに飲み
こまれたようなものも多いのではないか。 日清戦争において日本陸軍は旅順において住民虐殺を行いましたが、なぜ日本は国際法を守らなかったのでしょうか。 これのことか
https://ja.wikipedia.org/wiki/旅順虐殺事件
>一方、欧米でのジャーナリズム史研究では、旅順の「虐殺」を報道したクリールマンや、掲載された新聞ニューヨークワールド紙が
>ライバル紙と競い合って、イエロー・ジャーナリズムと呼ばれた扇情主義報道を行っていたことが定説となっている[24][25][1]。
>事件の終息[編集]
>海外の論調は次第にこの旅順での事件のようなものは戦争ではつきものであって、欧米でも例がないわけではないという風に変化していったと、
>対応に当たった伊東巳代治は報告している。ただ事件が殺傷そのものがあったことが「虐殺」ではないことは認められ、アメリカにおける報道は無くなっていった[6][17]。 19世紀から既に米国は対日謀略活動をしていた証拠ですよね? 司馬遼太郎史観の「日露戦争までの日本軍は国際法を順守してた」という記述が批判される理由に「旅順虐殺をスルーした」と言われてるんですが
この批判は妥当ですか?
なお、日露戦争以後の日本軍が国際法を順守してなかったとは私も司馬遼太郎も言ってませんのであしからず つかそもそも国際法に違反する行為をしたとき相手の反撃に耐えられない国だった頃には、違反しようと思うわけないじゃん
自国が侵略される口実を相手に提供してしまうような愚行は避けようと思うでしょ
列強の一員(ハシクレではあっても)になったと思ってから後の遵守状況が重要では。
その辺の転換点が日露戦争あたりかもしれない。 国際法どころかいまだに国内で弾圧虐殺しまくってるシナ政府に聞いてこいよ 日露戦争あたりまでが領土拡張で侵略じゃなかったの?
それ以降は領土拡張してないや。ほんと時代錯誤している
>>856はしらんが司馬遼太郎は言ってるやろ >>835
江戸時代には神職の収入が少ないからか小規模神社の神職は専業ではなく兼業が普通だった
村役人と兼業してる例とか僧侶と兼業してるとか >>859
ちょうどその頃に国際環境がかわって領土拡張できなくなったんじゃないの 司馬がしょせん小説家だと言われる点のひとつだろ。仮に住民の殺害が国際法違反だという
素朴な理解に立って表現してるとしたらそれ自体が交戦法規への無理解を表わしてるわけで。 いずれにせよ日本近代史板で相手してくれないからといって
こっちで自説の主張はご遠慮ください。どうせ住人は似たような
もんなんだから、向こうでやろう。 無理解どころか虚構の上に成り立っているからこの人の戦争体験は
司馬遼太郎伝聞の「(戦車で)ひき殺していけ」はいつどこで誰が言ったのか
ttp://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20061025/hiki 藤原信頼はなぜクーデターを起こしたのですか
後白河院の寵愛を受けて権中納言にまで取り立てられたのに 室町時代や江戸時代に将軍や大名が
天皇に謁見する時は
天皇は基本的に簾越しだったのですか? >>867
そうです。
>>866
同じく後白河院の受けてやりたい放題の信西を排除するため。
>>865
鳥羽伏見の戦いが始まってこっそり江戸に逃げ帰った時に妾を連れていた。
つまり屋敷に妾を連れていたので遊郭に入り浸ってはいないでしょう。 白鳳文化の時代は古墳はもう作らなくなったの?
高松塚古墳が使われてた後に壁画を描いたの?
壁画のみが白鳳文化にあたるのがわからない、、 >>869
高松塚古墳もキトラ古墳も白鳳文化なので古墳はまだ作ってる。
648年(大化2年)薄葬令で規模は小さくなったがまだ古墳を作っている。
天武天皇と持統天 >>870
途中で送ってしまった。
天武と持統の合葬墓もまだ古墳です。この時期の古墳は終末期古墳と呼ばれる。 白鳳文化=古墳時代後期みたいな考え方でいいのかな?
ここに頼ってよかったありがとう >>868
簾越しというのは天皇独自のものですか?
将軍や大名も家臣と面会等する時に簾越しに
なることはあったのですか? 将軍はあるね。大名は聞いたこと無い。
きほん幕府も大名も御目見制度だから、将軍は旗本御家人のみの
ばあいはそのまま、御家人以下や南蛮人がくる場合は御簾。
大名は上士にはお目見えを許すけれども下士には許さない。 ×将軍は旗本御家人のみの〜
〇将軍は大名旗本のみの〜 >>872
ちゃうちゃう
古墳時代後期はほぼ6世紀に相当
白鳳時代はその次の古墳終末期 | 大和時代 |奈良時代
|古墳時代 |飛鳥時代 →→→→|
| |飛鳥文化 白鳳文化|天平文化 高松塚古墳とか先生に聞きに言ったら「興奮した」っていうくだらない洒落言われて笑ってる >>868
徳川慶喜が江戸へ逃げ帰るときに連れていた妾はお芳だが
妾がいれば遊郭に出入りしないというものでもないしなあ
結局、将軍就任前に遊郭に出入りしてたかなんてわからないんじゃないの
西郷どんで出てくる宿場町に滞在する飯盛り女も参勤交代する大名たちが
道中で楽しむためのものだし 出入りしないとは言わないけど入り浸ってるほど暇じゃないだろう。 >>874-875
将軍や大名クラスでも謁見する時は天皇は簾越しであり、
天皇の素顔を近くではっきり見ることはかなわないわけですね
しかし、天皇の側近や世話役、側室等は身分はもっと低くとも
天皇に真近で仕え、日常的に素顔を見ていたわけですよね >>883
4代〜13代将軍までは京都に来ていないので天皇との対面はないし
後水尾天皇の二条城行幸の際には
大御所徳川秀忠、将軍徳川家光と同座で簾越しではなかったはず
この時には中宮徳川和子も一緒にいて和子を通して義父、義兄である関係もあるが
内裏へ上がるには官位が必ず必要なので
側近や側室たちも全員官位持ちだぞ
江戸時代は武家官位なので大名の官位が高いからって
内裏ではあまり意味がない >>884
>内裏へ上がるには官位が必ず必要なので
春日局の例が有名だけど、吉宗の時代に輸入された象が江戸へ行く途中で中御門天皇が上覧する為に
象に官位を与えてるしな。 平安の初期までは昇殿が許されるのは天皇の本当の身内側近のみだったのが、3位までの位階制となり
さらに身の回りの世話をおこなう蔵人にも許されるようになった。 >>887
そもそも奈良時代までは建物が寝殿造ではないため昇殿という概念がない
平安時代初期から三位以上の公卿は昇殿を許されていたよ
四位、五位で昇殿を許された者が殿上人でこれは勅許によった
尚、昇殿が許されなければ天皇に会えないということではなく
建物の中に入れないだけ
テレビドラマの奉行所の裁定の場面でお奉行さまは建物の中
裁定を受ける庶民は地面に座るみたいなもん 旧体制 旧旧体制 と並んでいたら、もはや新生稚児も、そちらにあるわけじゃないの? >>888 大極殿できたのはずいぶん古いだろ。奈良以前なはず。 徳川幕府での旗本は知行地持ちと扶持米取りで区別があったそうですが、
これをミックスした形態ってあったんでしょうか?
例えば三百石の知行持ちと五十俵の扶持米取り、みたいな形態。
ちなみに役料での追加分無しの基本給扱いで。 >>892
お早い返答どうもありがとう。
知行持ちと扶持米取りは隔絶した差なんですね。 >>893
知行持ちは一応は領地を持った殿様だけど扶持米取りはサラリーマンだからねぇ。
知行と言っても実際には代官が治めるわけだけど。 >>890
お前、大極殿の造りを知らないのか
石畳で床がないんだぞ 暴れん坊将軍の「旗本の三男坊」って江戸時代ではどんな扱いだったんですか?
こんなやつでも「ははー武士様」とかやってたわけですか?んなわけないとおもうんですが >>897
徳田新之介のは特に仕事もなくブラブラしてても誰も気にしない自由な立場ということだと思います。
嫡子は家を継ぐ立場だから勝手な行動は許されませんが次男三男は兄が死んだ場合のスペアとして
ブラブラしてるのが仕事です。死にそうにない時は適当なところで見切りをつけて養子の口を探します。
大大名の14男井伊直弼は庶子だったせいもあってどこにも養子に行かなかったんでそのままだったら
武士としての立身を諦めて茶道の新流派を開くところだった。藩主だった兄が死んだことで運命が
変わって大老にまでなった。絵師酒井抱一も姫路藩主の弟で兄のスペアとして扱われていたがお役御免と
なったら養子の口は断って絵師になった。 >>898
ちなみにあの歳でまだ養子に行ってない徳田新之助は仕官は諦めて浪人するつもりと
周りから見なされてるかもしれない。ことわざにも「すまじきものは宮仕え」とあり仕官は性に合わない
自由人も居るから。茶道・絵師・剣客など一芸があれば仕官しないでもやっていける。 >>894
知行地は代官が治めるのだと、知行主は知行地に影響を及ぼせない?
知行地に行って「へへー、お殿様だー」って農民に土下座されることもないのかな。
それだと扶持米取りと大して変わらない気がするんだけど。
あと代官が治めるって、中世の国人豪族みたいな半ば独立的に
したくないからなんだろうか? >>900
旗本は江戸定府と決まっています。つまり基本的に江戸を離れられない。幕府の御用なら別ですが。
私用で江戸を離れる場合は幕府の許可が要ります。ただし一部の旗本は参勤交代を許されていて
これを交代寄合と呼びます。寄合というのは旗本のうちで3000石以上で無役の家格で旗本寄合席とも
言います。交代寄合は参勤交代を許されているけど義務ではないのでしない家もあったらしい。
交代寄合は旗本だけど若年寄支配じゃなくて老中支配で大名に準じた扱いです。参勤交代しない
場合は領地に住んでるんだ。へー。
旗本が江戸定府なのは幕府に何か起こったらすぐに駆けつけて軍勢を編成できるようにです。 ちなみに旗本の領地は関東が多いのですが小さい旗本領が細かく入り組んでいて捕り方に追われた
無頼の徒が越境するといちいち許可を取らないと捜査できないので国定忠治とかが暴れ回ってました。
そこで幕府は関東に限って境界を越えて追跡できるFBIのような捜査官を設置しました。これを
関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)と言います。長いので関八州廻りとか八州と呼びます。 大名とかでも1村1町単位でとんでもない場所に飛び地であちこちに領地もってる
こともあるものね。そんなところは在農の者に代官職をさせており、事実上はいまの
青色申告みたいに村民の自主納税と治安の自主管理に任せておき、定期的に
奉行や代官・目付が巡回しており、ちょうどイギリスの巡回裁判所やシェリフのような
機能を果たしていたようだ。 イギリスの巡回裁判所やシェリフを引き合いに説明するって… 基本的な質問で申し訳ないんだけど代官は知行地持ちが直接面接とかして雇ってるの?
それとも藩から派遣されて来るの? 図のリンク表示方法のテスト
1、図1(http://vbsoft.sub.jp/hana/kenkoku/zuhyou/zu01.jpg)は、
2、http://vbsoft.sub.jp/hana/kenkoku/zuhyou/zu01.jpg
3、 <a href=vbsoft.sub.jp/hana/kenkoku/zuhyou/zu01.jpg> 図1</a>
4、 <a href=http://vbsoft.sub.jp/hana/kenkoku/zuhyou/zu01.jpg>図1</a>
5、 ttp://vbsoft.sub.jp/hana/kenkoku/zuhyou/zu01.jpg >>900
代官とは別に、領主のもとに年始とかに挨拶の行事みたいなのはあったらしい >>893
最初のうちは小規模なの以外は原則として知行、零細だけ扶持
後半、直轄地が足りなくなった影響から、できるだけ知行を廃止して扶持に切り替えていった 武士の家計簿にたしか
旗本だと幕府が任命した代官が統治し、年貢も届けてくれることが多い
なので旗本の子孫に取材すると知行地がどこか知らず教えてあげたら喜ばれることもある
とあったと思います
なので、高校の教材には旗本知行地は幕府直轄地とほぼ同じなどと書いてありました じぶんの領地がどこかも把握してないのが旗本じゃ幕末の動乱で右往左往するわけだ 旗本としての毎年の行事のひとつとして知行地の農村代表が年始?挨拶に来るって話も出てなかったか、
特に代官が治めてる土地だと良民と接する唯一の機会だから云々と。
扶持の場合は、さすがになかっただろうけどさ 昨日BSで銭形平次やってたんだけど、あれって下っぴきの八っつぁんも十手持ってるけど、岡っ引きはわかるけど岡っ引きの手下なんて実際には十手なんて預からせてもらえないよね?
勿論ドラマはドラマとして。 『半七捕物帳』や『銭形平次』などの時代劇において、岡っ引は常に十手を預かっているかのように描かれているが、
実際は奉行所からの要請に基づき事件のたびに奉行所に十手を取りに行ったとされている。十手を携帯する際も
見えるように帯に差すのではなく、懐などに隠し持っていた。また、時代劇で十手に房が付いていることがあるが、
房は同心以上に許されるものであって岡っ引の十手には付かない。ましてや紫色の房は要職の者が付けるものであり、
岡っ引が付けることはまずあり得ない。
つまり下っぴきはもちろん岡っ引きも公式な存在ではないので十手を常時携帯してるわけではない。手当も
奉行所からは出ないので同心が小遣いをくれるだけ。だからお上の御威光を傘に町人から袖の下を取ったり
他の商売と二足のわらじだったりした。 _>>901-902
旗本は将軍の親衛隊だから江戸在府ってことか。
参勤交代はそれを免除された格上なんだな。
いままで旗本の交代寄合が不思議だったが、旗本自身が
知行地に普通は居られなかったとは。
>>907
知行地の領民にマンパワーの要求までは出来なかったんだろうか。
奉公人が足りないからあまってる男子を江戸に寄こせとか。
でも話を伺ってると、そこまで要求出来なさそうだな。 >>914
>奉公人が足りないからあまってる男子を江戸に寄こせとか。
江戸は100万都市だから働き手はいくらでもいるよ。男ばっかだけどな。
地方で仕事にあぶれて江戸に出てきて仕事を見つけられないと無宿人になる。
そういうのが一杯いた。女は女郎屋に売り飛ばされるからあぶれるのは男ばっか。 奉公は知識集約業務だから、百姓あがりの寺子屋卒程度じゃ
とてもつとまらんでしょ。それこそ子供のころから屋敷奉公に
上がらせておかないと雑巾がけひとつですら打ち首にされかねん。 「西郷どん」の塚地武雅みたいな下男をイメージしてたよ。 >>914
室町時代の守護大名も常時在京で、江戸幕府の旗本と大差ないよ。
参勤交代なんてなくて常時在京な
ただ、遠隔地(関東と東北と九州)の大名は在京しない、どころか京都に赴くことすらないけど。
江戸幕府では遠隔地の薩摩藩島津でも参勤交代してたのと比べると、やはり室町幕府の求心力は弱いよね 室町時代の守護大名が在京してたのは政治への影響力を行使したいという面があったのでは 本来の目的は軍事だよ
南軍に京都を攻められて追い出されることが多かったから在陣させてたと思いねえ
その在京の軍を派閥争いで動員したりして大荒れになったりしてなかったかな
応仁の時とかは、その軍勢で足りないから各自が自分の領地から追加の軍勢を集めてるけどな 一休さんの
『そもさん』、『せっぱ!』って
いったい何なんですか?
(´・ω・`) >>11
壬申の乱でも「米を水に浸して食べた」という記述があるから、それぐらいは普通にする >>921
一休さんは禅僧なので修行の中に禅問答(公案)というのがあります。
禅問答というのは普通に考えたら答えが出ないようなことをあえて質問して、それに回答することで
論理を超えた境地を悟る助けになるらしいです。その禅問答の時に師匠が「そもさん」と言ったら
弟子は「せっぱ」と答えます。つまり「そもさん」は「出題します」であり「せっぱ」は「回答します」という意味になります。 中国には清史稿や清史がありますが
「江戸史」のような正史が今現在存在しないのはなぜでしょうか?
もしかして、教科書検定制度が正史なんですかね?w >>924
江戸時代の記録としては、徳川実紀、続徳川実紀があるよ >>924
江戸時代は単独の王朝ではないから、その時代を扱う歴史書を正史とみなさないだけだよ
正史というのは「王朝としての正統を記す歴史書」だからね 最初から侮辱するつもりで投稿したら反撃されて
無知さらけ出しただけだろ。質問なんかする意図
ねんだよこいつは 正史をどうとるかにかよると思います
デジタル大辞泉には「国家などが編纂した歴史」で対義語は「外史」とあります
これに従うなら徳川実紀はもちろん、会社編纂の社史あたりも比喩的に正史ということができます
逆に厳密にいうと、中国の正史は原則として滅亡した特定の王朝の歴史を紀伝体で書いたものですから
王朝交代の無い日本にはそういう意味での正史は存在しないことになると思います
確かにほとんどの国には正史は無いと思います
前代の歴史を都合よく叙述して自己正当化をはかる、中国の歴史利用の伝統を感じます 史書は世界中にいくらでもあるけれども「正史」という考え方は支那文化特有とはよく言われるね。
ただこれも漠然とした言い方なので反論しようとおもえばスキはいくらもありそう。 聖書は世界中にいくらでもあるけれども「聖書」という考え方は欧米・中東文化特有とはよく言われるね。
ただこれも漠然とした言い方なので反論しようとおもえばスキはいくらもありそう。 聖書は英語ではBibleだけどこれはラテン語のbibliaから来ていてその意味は単に書物だ。
それを有り難そうな聖書と訳したのは誰だろうな? 東山文化が15c中頃に対して桃山文化文化が16c後半って書いてあるんだけど
この間は東山文化が続いたんですか? 「聖書」という語が登場したのは根拠あるところでは
いまのところ『神天聖書』(マラッカ、1823年)みたいね
むろん一般的な語として「聖」+「書」という文脈なら
漢書に「聖哲之書」という語があるようだ。 >>938
一般名詞から固有名詞への転用とか、わりと普通にないかな
書と言えば書経(尚書)、河と言えば黄河、江と言えば長江。みたいな(@中国語での例
日本だと何があるだろう?
正倉院と言えば「東大寺の正倉院」みたいなのか?(一般名詞「正倉院」はどこの荘園にでもあるようなありふれた施設です) 東大寺の正倉院が有名になったのは
明治時代に国が正倉院展を開催して一般人の目に宝物を公開するようになったからで
それまでは「正倉院といえば東大寺」ということもなかったよ >>939
ずっと続いてたんじゃなくて取り上げるような事物が無かったということです。 >>938
ギリシャ語、ラテン語のビブリアは書物一般を指すのでしょうが
英語のバイブルはすでに固有名詞化されているのでは? ナイル、ガンジス、インダスはすべて川という意味で探せば他にもあると思います
日本史では太閤、北政所、黄門あたりがそうでしょう
地名では「京」「都」など、あと港をあらわす一般名詞の「津」があてはまると思います(大阪や三重県) 京都在住者が国司/郡司に任命されて任地に赴任したら、
単身赴任になるの?妻や子供は京都に残したまま? >>941
黄河・長江は逆の例では?
川の名前は古くは○水と書かれていて、例えば淮河なら「淮水」なんだが、黄河のことは河水、長江のことは江水とかいてある
つまり河や江は元は一般名詞ではなく固有名詞で、後に一般名詞に変わったのでは?
そう思いながら見たら、河は黄河の上流域、周や秦の首都を囲むように流れているエリアをかたどった象形文字に見えてくる >>946
普通は妻子も一緒に連れて行く、ただし時と場合による
清少納言は子供の頃、国司になった父と一緒に周防国へ下っている
紫式部も20代半ば頃、国司になった父と一緒に越前国へ下ったが
途中で父を残して単身都へ帰ってきて都の貴族と結婚している >>946
郡司は地元の有力者が選ばれるんじゃないかねぇ。 関連質問なんですが、摂津や大和などの場合は京滞在なんですかね? 昔の人たちがたくさん文書で記録を残してくれたおかげで今の歴史学の基礎になっているわけだけど、すごいことですよね。
昔の人たちが今の歴史学のために史料を残してくれたわけではないでしょうし。 >>951
お公家さんとかの日記は子孫が仕事するときに先例を確認できるように記録を残したもの。
つまり子孫のためだ。 田原と猪瀬の対談か何かで、「よく、なぜ天皇はこんなに長く続いてきたのかって問いに
『日本の歴史、伝統だから』と答えが来るが、最初から歴史や伝統だったわけがない。
その時代時代を潜りぬけて、いつしか歴史や伝統になったのだろう」みたいなことが
話されていました
日本の歴史上で、だいたいいつぐらいの時代から、天皇が「日本の歴史、伝統」あるいは
「伝統的権威」という風に認識されたのでしょうか?
確かに、田原らが言うとおり、飛鳥時代とかの頃に「天皇は日本の歴史、伝統」と思われて
いたとは思えません
その頃は「リアルな統治者」って感じでしょうね 伝統だから長く続いたんじゃなくて時代時代を乗り越えて続いてきたから結果的に伝統になったんだよ。 >>954
いや、それはわかってるって
どの時代くらいから、天皇が歴史や伝統
のように認識されたのだろうって疑問だよ それは綏靖天皇の頃からです
だいたい貴殿の仮説は目的と結果を取り違えている。当初は長く続けることが目的ではない 戦国時代はそれぞれの戦国大名が独立国家の君主だったという認識でいいんですか
イメージとしては30年戦争後の分裂したドイツ? 戦国大名は天皇陛下の臣下に過ぎなかったのに何言ってんだ? イメージとしては古代中国の戦国時代かな。周王朝が天下を治めていた時代は遠くなり各諸侯が
それぞれに王を自称するけど周王も一応まだ居る頃。「戦国時代」という用語も中国のこの時代に
由来してるし。 >>959
各諸侯じゃなくて諸侯だな。頭痛が痛いになってしまった。 ドイツは選帝侯会議という統一機関があったから微妙に日本の戦国時代とは違うね。
戦国時代みたいに互いに領地をかけて戦うというわけではなかったし。
日本の戦国時代は>>958氏が言うように春秋戦国期だろうね。中央には西周みたく将軍や
天皇がいて、権威としての中心を置いて、盟約などのさいにはタテマエとして言及しても
実質的には武力割拠している状態だとおもう。 >>957
たいていの大名は幕臣なり近隣有力者の臣下なり、弱い主従関係を残してます
主命があれば、(自分の不利益が大きいと無視するとは言え)ある程度は命令を受けて行動してます
中世的な主従関係に近いとはいえ、完全な独立勢力ではありません 支那の春秋時代。周「王」として権威を認め諸侯は「公」止まり
30年戦争「中」の分裂したドイツ? 戦争「後」なら織豊政権 でも田氏が斉を乗っ取ったり、晋の卿(大臣)である韓・魏・趙の3氏が晋を分割して諸侯に成り上がったりと
下克上が戦国時代の定義の一つだからなぁ。
日本の場合も北条早雲や斎藤道三はもちろん織田信長だって尾張守護斯波氏の守護代清洲織田氏の
分家で清洲三奉行家の家柄からのし上がった。 猪瀬ってさ、
江戸幕府は現在の国連みたいなもので、
江戸藩邸は各国の大使館みたいなものだった
とか書いてる歴史音痴の阿呆だぞ 炒飯を初めて食べた日本人って
いったい誰なんですか?
(´・ω・`) >江戸幕府は現在の国連みたいなもの
黴の生えたような、古いリベラルが仕切ってる組織と、
江戸幕府は確かに真逆だわな。 >>956
>>綏靖天皇
二代目の天皇ですやん
質問の意図が全然汲み取ってもらえてないな
正確にはいつから天皇が始まったのか分からないけど、
それが時代時代を潜りぬけて長く続き、やがて結果として
天皇=日本の歴史・伝統、または伝統的権威になり、
その認識が定着していったんだろう
その認識が始まり、広がり、定着していったのはいつ頃から
なんだろうっていうのが疑問なんだけどね
もちろん、ただひとつの正しい答えなんてないだろうけど、
何らかの見解、学説、ヒントがあれば良いなって思うだけ
戦国の頃には既に伝統的権威って認識はあったっぽいし、
さらに時代をさかのぼるんだろうとは思う それは『日本書紀』の頃からです
だいたい貴殿の意図は歴史と結果を取り違えている。現在もその認識は定着してない >>969
サンクス
『日本書紀』、つまり奈良時代の頃からって感じですか
>>貴殿の意図は歴史と結果を取り違えている。
これの意味するところが自分にはいまいち分かりません
現実に皇室は長く続いてきて、現在では皇室は日本の
歴史や伝統を象徴するものと認識されていると思いますよ
(全員とは言わないけれど、多数の国民にとって)
しかし、そういう認識をされ始めたのは平成とか
戦後とかじゃないでしょう? 自分の定義がはっきりしてないからいくらでも他人の善意からの答えを否定できる
つまり中二病のお子様ってことだよ。 「主上御謀叛」という概念もあって天皇陛下より上位の概念があるんだよ
近頃も天皇御乱心で譲位を強行されたでしょ? 例えばGHQがその伝統を認識され始めたのは絶対に戦後のことですよ!!
馬鹿な左翼は戦前からと言いたげですがw 京都御所は何故、
国宝じゃないの?
(´・ω・`) 財産権の関係があったんじゃなかったっけたしか。
完全な私有物にしておきたいから国宝の指定を
断っているものがあるという話しは別件で聞いた
ことがある 「日本の歴史、伝統」や「伝統的権威」の定義を深く考えずにお答えすると
以前にもここで申し上げた気がしますが
崇峻天皇暗殺後に蘇我馬子が天皇にならなかったことから
この時には血統上での権威は確立されていたと思っています >>974
Wikipediaの御物や正倉院によると
指定しないのは単なる慣例で
理由として「宮内庁による十分な管理が行われているので指定は不要」と宮内庁が言ってるみたいです https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1515715115/809-810n
809日本@名無史さん2018/03/25(日) 18:27:33.67>>842
天皇家の権威が他の豪族と大差ないなら
崇峻天皇暗殺後に馬子は天皇になれるでしょう。
もっと前から一定の権威を確立していたと思います。
810日本@名無史さん2018/03/25(日) 18:29:51.20
リロードせずに書き込みました。
>>808でおっしゃることとかぶってるところもあると思います。
その権威をいつどうやってかくりつしたかはよくわかりません。 >>970
>(全員とは言わないけれど、多数の国民にとって)
多数の庶民が天皇の意味を知ったのは明治政府の努力の結果です。知識人は天皇を知っているけど庶民は
それが何かよく知らなかったので明治天皇を全国各地に行幸させたり写真を配ったりして知らしめる必要があった。 >>978
ありがとうございます。こちらではなくあっちでしたか >>974
国宝相当だとは思うが今の京都御所って
一番古い部分でも幕末安政年間の建造物でそこまで古いわけじゃないからなあ >>975
犬山城天守は、10年くらい前まで旧城主の成瀬家の個人所有だったよ 重要文化財(国宝含む)になると海外に売却できなくなるので
美術品関係はいやがられる >>982
個人所有だと維持費を背負いきれないので財団法人化したんだよな。 信長と正室の濃姫との間に子供がいなかったのは、
濃姫がスッゲーブスだったからなんですか?
(´・ω・`) 定説はないけれども親族関係が複雑な絵にかいたような政略結婚だから
後難を避けて最初から手を付けなかった可能性はあるね どうしてですか? 道三の孫がいたら美濃侵掠の大義名分が立ったのでは(毛利元就みたいに 当時の美濃は土岐頼芸派の方が圧倒的多数だったんじゃないかな 竜興が義兄になるしな。当初の力関係的にはむしろ従属させられる危険のほうが高かったんじゃないか。 >>986
龍興じゃなくて義龍では
道三の後継者は長子義龍か娘婿信長か、という形で争ってたわけだろ 琉球王国の清に対する朝貢貿易が赤字だったという文をネットで見ました
朝貢は進貢側が非常に有利な貿易だと思っていたのですが本当に赤字だったのでしょうか >>990
道三が義龍に攻められて娘婿信長が救援に来たから
道三は信長に美濃国を譲るとしたんだろう
(美濃国譲り状の話は史実ではないとも言われている)
濃姫が信長に嫁いだ時点から将来は息子にではなく信長に美濃国をやるよ
と道三が心づもりしていたわけでもなんでもない
道三が側室腹の長男義龍ではなく正室腹の孫四郎や喜平次に美濃国を譲ろうとしたことが
義龍との亀裂の原因だと言われている >>993
まあ、そりゃあたりまえだな
譲り状とかデマだろうけど、信長が美濃侵攻の口実に使えそうな建前なんて、他に見当たらない
そういう理屈をでっち上げて攻め混んでたんじゃないかと思った >>992
琉球王国・沖縄の歴史を学ぼう.
ttps://www.ryukyu-history.com/ryukyu-history/post-123 >>995
「日本から借金をしている」
と夏子陽が皇帝に進言したと書かれています。
誰が琉球に金を貸したって?そして海洋交易立国の琉球が皇帝からの返礼の品を売っても返せない
ような高額な貢納品なんてのもおかしな話だと思うんだけど。
と書いてる俺も実態を知ってる訳ではないが。 >>996
判りにくい文章になってしまったのでまとめます。琉球は地場産業が無いから海上交易で儲ける国なんだから
貢納品が高額になってもそれ以上の値段で返礼品を売れないとしたら商売が下手すぎます。 琉球からの輸出品なんか赤サンゴくらいしかなかったんじゃないのか
真珠とかもなかったはずだし このスレッドは1000を超えました。
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