天照だの邇邇芸だの神武東征だの書いてある日本書紀なんて、あとからきた逃亡百済人の作りばなしさ。勿論、対馬海峡から、人の移入なんてそれまで殆どない。箸墓だよ、箸墓。 箸墓が邪馬台国も大和も説明できちゃうキーワードなんだ。
熊野は黒潮のぶつかるところで、縄文時代から揚子江流域からの漂着民が多いんだ。 それで、江南米をたまたま持ち込んだ越人、呉人が米作に適した場所を探したわけさ。
すると、どうだろう、今の奈良盆地に大きな沼地があった。彼らがここで、周辺の縄文人と自然と共生関係を作って、弥生人になったわけ。平和なもんだよ。
後に、瀬戸内、朝鮮半島経由で、先祖の地中国に行けることが分かったそいつらが水銀のことを始皇帝に教えたのさ。 魏志倭人伝がその証拠さ。南越、その後呉のテリトリーとなった地域の風俗が倭人のと一致していると記されているものね。そして丹のことも。
とにかく、それで、ペルシャを経由して、始皇帝の都にたどり着いていたイスラエルの失われた10部族、アンフィクチュオニーが、水銀と奈良の沼地、平原広沢のことを知ったわけ。
アンフィクチュオニーに析出されたのが霊的威力者ジョセフさ。
ジョセフが彼らを率いて奈良にやってきたのだものね。なんのことはない徐福のことだよ。
そのとき、水稲以外の穀物や桃、馬匹文化も伝わって来たのさ。でも、穀物に限って言えば、やっぱり、適所適材、奈良盆地には栄養価の高い水稲だけが残ったんだよ。
キビとかアワとかは、徐福が通った瀬戸内海では根付いたのにね。奈良にそれを売り込みにきた商人は、美しく輝く黄金色の奈良盆地みて青ざめただろうよ。 そして羨み妬んだ。このときの軋轢が倭国乱だろうね。
すったもんだはあったと思うよ。でも、徐福はそれを乗り越えた。そして、奈良の弥生人を指導して通勤王国、咸陽と驪山陵をトポロジー的に想起させる邪馬台国をつくったのだろうね。
そう、弥生人たちは通勤してたのさ。沼地を裸足で。気持ちのいいもんだよ。川船を両岸で引っ張ってくれる男たちだって勿論裸足さ。冬だって裸足だよ、弥生人は丈夫だったのさ。毎日、往復4、5時間かけても構いやしない。
だって、イスラエルから殆ど歩いてきた霊的威力者が付いているんだぜ。文句言う奴なんて一人もいないさ。そしてやっぱり、徐福が、ポピュリズムというものをよくわかっていたのが大きかったのだろうね。(続く)