【静かなる】北条時政こそ日本国の覇王【ドン】 [無断転載禁止]©2ch.net
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政子は父親と兄にうまく利用されたわけだ
まあ、あれだけ担ぎがいのある神輿は希少価値だよね 徳川家康よりも優秀な子孫が多いという意味で日本最高の血統 最後の執権 北条守時の末裔
https://www.kanto-sozan.com/2016/08/08/我こそは-最後の執権-北条守時の末裔-自らのルーツを訪ねて-守時光睴氏%EF%BD%9341年卒/ 俳優の高倉健は北条の子孫だとして
北条氏菩提寺の宝戒寺に卒塔婆を寄進している >>210 元々、伊豆に流された頼朝の知名度を利用して成り上がった奴やないけ。 頼朝亡き後にリーダーとして牽引できるのが北条しかいなかった
多くの諸侯は将軍頼家ではなく、北条が推戴しようとしていた実朝の支持を表明していた 初代執権の立場になれたんだからこの上ない栄華だろ。
一人で清盛と頼朝を超えてしまった あまり知られていないが時政は15人ぐらい子供を作ったなんて
とんでもない絶倫の漁食家。 世が世なら北条時政を目指して足利や徳川の下で執権になろうとした者も現れたかも >>223 将軍の血統がコロコロ変わってるのに執権の血統は変わらんのだから、
江戸時代の役職で例えれば、執権は大老というより将軍だろ。大老は内管領でないかい? >>224
時政は若い頃から漁色家だった
逆に晩年は伊豆に幽閉されておとなしくしてた
家康は若い頃は主君である今川義元の命令で結婚した
築山殿一人を妻として守っていた時期があり割とおとなしくしてた
家康は年を取るほどに漁色家になり
関ケ原で勝利した後60歳過ぎて以降も側室の数は増える一方
70過ぎてから出陣した大坂の役では曾孫より若い16歳の側室を同伴して楽しんだ 天皇→将軍→執権と権力の三重構造(鎌倉幕府末期は執権の下に北条得宗家の四重構造?)を作り上げたある意味非常に日本人的な英雄 元寇の頃
フビライ・ハン「日本国王にこの書を届けよ」
使者「ははー」
使者「日本国王にこの書を届けにきた。日本国王に面会願いたいが日本国王はどちらにおいでだ?」
太宰府役人たち「日本国王って誰のこと?天皇陛下なら京都においでだけど、実質的には国王は鎌倉の将軍様?いや今では北条家の執権様か?それとも…」
みたいなことが起きていたのかも 執権自体も形骸化し始めたのが時頼の頃から
長時に執権職を移譲後も自身は得宗として君臨し続けたから 合議を重んじる日本の社会に於いては将軍親政は成立し難いんじゃないかな スレチだけど足利尊氏は天下を取った割りには全然覇王っぽくなくて英雄という印象も弱いし、あんなんでよく天下取れたな
北条早雲があの時代にいたら早雲に天下取られそう >>228
少し違う。
天皇ー将軍ー執権ー得宗家ー内管領 の五重構造
後醍醐天皇の倒幕が無く、鎌倉幕府がしばらく続いたら長崎氏が代々 日本の支配者になってた。
長崎円喜こそ最強の覇王だよ。 徳川家康と北条時政には共通点が多いな
家康本人は頼朝を崇拝してたみたいだが 共通点といえば司馬仲達もな
上の方のレスでは違いも説明されていたが >>243
似てないだろ
家康は信長・秀吉が死んだことによる棚ぼたで
天下取れたのは60歳だったしな 棚ぼたじゃねえぞ
関ヶ原でも大阪の陣でも圧倒してるぞ >>246
家康が棚ぼただったら時政も棚ぼたに違いない
頼朝が自分より早く死ななければチャンスはなかった
時政はあの時代にしては長寿だったが頼家も分別の付く年齢になっていただろう
頼家と秀頼の人望を比較しても大差がない
政子と淀殿なら圧倒的に政子の方が人望がある 実朝 金槐和歌集がなにをいおうとピーク。死んでるし。 時政が天下人だった期間って1年10カ月程度だから短いな。
鎌倉時代当時から北条家初代を義時として時政を無視する傾向があった。
まあこれは牧ノ方事件の結果だけどね。 子孫である得宗家自ら時政を黒歴史にしてる。 時政は牧氏事件を見る限り相当な野心家だけど、義時は道理重視の生真面目さを感じる >>248
北条家が独走態勢になったのは
義時・泰時によって承久の乱で朝廷に勝利してからで
時政の時代には大したことなかっただろ
時政は晩年、軟禁蟄居だしな 危機的状況が続いたからな
頼家陣営に勝利できたのは運良く和田義盛や結城朝光、三浦義村と共闘が可能だったことと、北条時政の戦略が向こうよりも一枚上だったことに他ならない 和田義盛は強大な軍事力を誇っていたし、本気になれば将軍御所を強襲できる自信があったと思う とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
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PUA 覇王覇王覇王覇王覇王覇王覇王覇王覇王覇王覇王覇王覇王なんだってよかっけーな 朝廷の権威を完全に無効化した北条義時こそ人類最強! 北条ほどの名君揃いの一族が、室町初期までに一族根絶やしにされて誰も生き残ることはできなかったのはなぜだろうか? >>275
因果応報
栄枯盛衰
傲れるものは久しからずや
諸行無常
こんな感じか? 130年も日本を支配してたんだから十分すぎるだろ
ただ4代目からの執権には短命が多すぎる ,
北条一族は短期間だが天皇家を超越して日本の王に君臨した。
天皇家を超えた一族は北条一族しかいない。 皇位簒奪を狙った足利義満はいいところまで行ったんだけどな 天皇を超えたいなら皇位を簒奪するんじゃなくて義時みたいに島流しにしてしまえばいい なんで日本の天皇(家)は中国の皇帝(家)みたいにならんかったんだろうな?
中国だと例えば秦が倒されると同時に皇帝家も滅亡して後に劉邦が漢を建国して皇帝に収まる…という具合なのに
前代の統治者一族をそのまま残しておいたのは、その方が都合が良かったにしても不穏要素も残るのに その質問は誰も答えられない
なにせ蘇我入鹿の頃からだからな
それ以前は知らん 政治とは無縁の神道の最高神官の役目が天皇にはあるからだろ
天皇はローマ法王と同じだと思え
皇帝は政治の統治者だが天皇は神道の最高神官 そのかわり政治に干渉する天皇は武家から強制的に排除された
実際に天皇が政治に口を出すとろくなことが起きていない
天皇を政治の頂点にして全国民に天皇崇拝を強制した大日本帝国が70数年で崩壊したのもそれなのだ
天皇が祭祀者である限り国は平和だが
天皇が政治に口を出すと戦乱の世になる つまり卑弥呼方式がベストなわけだ
日本は変わってないな >>286
明治〜戦前って天皇が政治に口出ししてたっけ?
形はともかく実質的に議会政治で決まってなかったか? 対米開戦も天皇が許可を出したから起きてしまったわけだよw
その裏では重臣たちが暗躍してたとはいえな。 頼朝じゃ所詮天皇の末裔か
一度フビライに占領されればよかったな 九州だけ占領されちゃって関門海峡が国境になって睨み合うという展開になっていたら今頃九州は異国情緒漂う地になっていただろうな 北条氏と鎌倉幕府
執権北条氏は、なぜ自ら将軍とならなかったのか。その謎を解き明かした興味深い本です。
鎌倉時代の武士の荒々しい実像を初めて知った思いがしました。鎌倉時代の武士たちは、自分たちを「勇士」と称していたが、要するに野蛮人だった。
京都の王朝貴族は東国武士を蔑んで「東夷」(あずまえびす。東に住む野蛮人)と呼んだが、そのとおりだった
紛争解決方法として相手を殺すことを即座に選ぶ武士たちが作った鎌倉幕府は、まさに蛮族の政権であり、王朝のような知識の蓄積はほとんどなかった。
鎌倉武士たちは支配機構を手探りで作っていった。鎌倉幕府の歴史は、東夷たちの悪戦苦闘の歴史であり、すなわちムダな流血の連続だった 鎌倉武士の心得
「家を継ぐからには心がけねばならない。常に馬の餌の為に庭草はボーボーにしておけ。調練場には生首を絶やすな。人殺しは常にやっておけ。」
「門前を通る坊さんや乞食、修験者は弓の的に丁度良い。しつこく逃げるから弓の標的として活用せよ。」
「武士と生まれたからには殺しまくれ!」 なにわ武士だよ源平は
治承四年、ポンコツ平家と臆病な畿内童貞侍の皆さん、水鳥の羽音に狼狽し我先にと逃げ帰る。
山槐記…宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww
吉記…於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww
吾妻鏡…所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww
寿永二年、ポンコツ平氏は山城、大和、摂津、和泉、紀伊の包茎侍どもを招集(『盛衰記』)、木曽討伐に向かうも惨敗。
河内長野の貞弘戦死、季国戦死、摂津の重経、紀宗時らは尻尾を巻いて逃げ帰りました。
寿永三年、負け犬行家さんと石川源氏が連合で木曽に喧嘩を吹っ掛けるも、信濃の猛将樋口様にビビって小便漏らしながら逃亡。
【なにわのトップ】
摂津の国守護は剛毅の士・長沼宗政様(下野国出身)
河内の国守護は知勇兼備・三浦義村様(相模国出身)
和泉の国守護は弓馬無双・佐原義連様(相模国出身)
悲報、相模和田氏出身の河内国司・藤原秀康さんと弟の秀澄さんが長年の京暮らしで都の悪風に染まり
幕府から「天下乱逆の根源、この両人の謀計に起こる(承久の乱)」とまで言われてしまう。 >>307
政子の功績は差っ引かれそう
まともにやると義時が姉政子の金魚の糞になってしまうからな
時政は政子と義政に隠居させられているから
かなり黒く描かれるだろ 鎌倉を拠点にしたのは時政は平直方、頼朝は直方の婿になった源頼義と義家を意識してるから 北条義時の父親とか紹介されるんだろうか?
頼朝を祭り上げたのはほかならぬ時政 そうか?政子の舅で一か八かの賭けに出ただけだと思うけど 頼朝が拠点にした大倉は平直方が源頼義に娘と屋敷を譲った場所。 承久の乱で北条一強になったことが後で役だった
元冦の時、関東と京都が並立していたら、九州で負ける、分裂、内応で日本史が大きく変わっていた可能性 鎌倉幕府八代執権時宗
江戸幕府八代将軍吉宗
どちらも名君として誉高いのに室町幕府八代将軍義政ってどうなの? 三谷が言う前から、歴史好きの大抵の人間が思っていたことだが、カツオとサザエに放逐された波平だよな。 北条が平直方の子孫というのは、さすがに仮冒や僭称の類いで事実ではなかろう。 北条家は政治は恐ろしく強いが
戦は弱そう
こういう一族が今の日本の政治家にいればいいのに 〉〉329
小沢は壊し屋で一族の結束も弱そうだから
なんかイメージと違う 鉄の結束と言えば田中角栄の田中派、それを継いだ竹下登の竹下派
旧田中派・竹下派系を駆逐して自派を最大派閥にした小泉純一郎、及び安倍晋三こそが現代の北条時政に一番近いのかも 北条家は政治力が高い官僚タイプだね
こういうのは木曽義仲や新田義貞のような武闘派(軍人)に弱い
頼朝(政治家)は武闘派には対応できるが官僚には取り込まれて弱い
今の政治にも近い気がする
ジャンケンみたいなもんか
木曽義仲→源頼朝→北条家→新田義貞 頼朝に便乗して成り上がったパシリだろ
最後は息子と娘によって、元の伊豆の田舎に押し込められて終了 なぜ漫画やアニメ、ゲームの話ばかりしているのか?という事にもなってくる。
『マクロス 北条』調べてみた? 北条政子の読みが当たった!
いやただの恋愛感情かもしれん 「太閤殿の恩を忘れたのか?」などと演説してどちらに付くか迷っている豊臣恩顧の中間派を取り込んでいればひょっとすれば歴史が変わっていたかも いや、大阪冬の陣・夏の陣で滅亡の瀬戸際に立たされる前に石田三成と徳川家康が戦になった時点で何らかの手を打っていればあるいは・・・ 主家が豊臣に乗っ取られようと最後まで一切表に出てこなかった織田信長夫人 >>343
関ケ原は立場上、家康は秀頼家臣として秀頼のために戦った体をとっていたし
大坂の役ではねねは大坂城入りしようとして
家康がねねの実兄にねねを京都から出さないように命じている
>>342
信長正室に関しては本当にどこで何をしていたか生きていたか死んでいたか記録がない そうかなあ?
「いつの時代でも」っていうのがなんか引っ掛かる
例えば三国志での真の実力者は孔明か曹操だと思うんだけど、実は司馬懿が真の実力者なのか? おてもやん「聖火リレーでドンチャン騒ぎ
五輪コロナが大爆発や
よっしゃ、よっしゃあ」 この人ほど「晩節を汚す」という言葉が当てはまる人はいないよね? >>352
豊臣秀吉「おーっほん!誰かワシの噂してるな」 >>353
秀吉もそうなんだけど徳川家に後に滅ぼされる
時政は身内から排除されるって所だけ違うな
北条家自体は存続してるし時政の方が有能なのかもね 1984年は小説「静かなるドン」作者、ミハイル・ショーロホフが亡くなった年
2012年は漫画「静かなるドン」が完結した年
【1984】昭和59年vs平成24年【2012】
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/mukashi/1570215905/ >>354
秀吉は後継者が幼い秀頼一人しかいなかったせいで家康に付け入られたけど
秀吉自身はすべての権力を手中にした権力者のまま死んだ
時政は生きてるうちから娘と息子に実権奪われ軟禁状態にされた
別に時政の方が秀吉より有能だったってことでもあるまい >>352
西郷隆盛は?
西南戦争で大将に祭り上げられて敗死していなければ5000円札が10000円札の紙幣の肖像画に選ばれていたかも
なんとなく >>357
西郷は違うと思うけどね
まー最後がなければ札束にはなったかもしれないが 近年はお札になる人は文化・教育・医療・経済に限られるから西郷はないのでは
2024年 渋沢栄一(経済人)、津田梅子(教育者)、北里柴三郎(医者)
2004年 野口英世(医者)、樋口一葉(作家)
2000年 紫式部(作家)
1984年 福沢諭吉(教育者)、新渡戸稲造(教育者)、夏目漱石(作家)
これより前になると伊藤博文、板垣退助らの政治家も出てくるが
西郷が長生きしてれば初代総理大臣になってたとも思えないし
明治7年に下野してるしむしろ西南戦争のトップになったからこそ
鹿児島の人にあれほど愛されて2回も大河になったのだけど なるほどね
西郷隆盛は晩節を汚したというよりは源義経と同じで判官贔屓される悲劇のヒーローなのかも知れないな >>322
元寇の時に時宗以外の奴だったらそもそも
元にさっさと使者送っていて。少なくとも死者殺すことはしないだろうから
そもそも元寇は起きてない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています