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天皇制と身分制度について持論を吐き出すスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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0001日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/05(水) 10:01:43.18
 『 日本における「身分」や「家格」は天皇家との距離で決まる。
日本人はすべてこの物差しで<格付け>される。』
このテーゼは「宮中席次」「叙勲制度」「菊栄親睦会」という形で
華族制度廃止後の現在にも当てはまる。
日本人の身分意識、家格制度と幕府 天皇制と庶民、その他あれこれと
スレタイや>>1に少しでも引っ掛かってたら良し。一家言お持ちの方々、
胸に秘めていた持論を吐き出して下さい。(近現代の話題OK)
0002日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/05(水) 10:07:14.92
【朝廷の枠内に収まってしまった幕府】
◆歴代の武家政権トップは自己と他の武士(大名・御家人など)を区別し序列化を図り、
独自の秩序を作っていた。身分や家格のランクを表すものとしては幕府内の席次、
主君からの偏諱・賜姓、衣服、邸宅の面積や門構え,屋形号その他沢山あるが、
最も解り易いのは官位であろう。だが、官位と言うのは元来天皇との距離を示すツールである。
 武家政権は朝廷から独立した組織と社会原理を創造・発展させながらも、
「格付け」に官位を初めとする朝廷関連の「物差し」を主軸に持ってきた。
いくつかケースを書いてみる。

まず、豊臣政権を見てみよう。豊臣秀吉は関白になり、有力諸侯を積極的に公卿・諸太夫に任官させ、
公家の家格制度に合わせて清華成大名・公家成大名を創出したことはよく知られている。
秀吉は有力大名に豊臣姓を下賜した。松平や徳川などの苗字ではなく氏(うじ)である。
例えば家康は豊臣朝臣家康となる。秀吉は朝廷より「豊臣氏」の氏長者に任ぜられ、
五大老などの豊臣氏一族の宗家となった。(続きます)
0003日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/05(水) 10:10:43.27
◆官位を最大限有効活用したのは徳川幕府であろう。
大名・旗本は石高や将軍家との親疎、歴史などで武家を格付けし、ことに官位は
江戸中期にその家ごとに極位極官が定められた。
それと徳川時代に初めて源氏の長者が将軍と完全セットになった。
(足利時代は義満から始まり義政あたりで終わった。詳細は各自で調査してね。)
ここで一つ指摘して置きたいのは武家の頂点である徳川将軍家である。
禁中並びに公家諸法度では宮中席次についてわざわざ皇族より大臣(三公)が上席と定められた。
これは徳川宗家が左右大臣であるため、皇族より上位に付ける措置であった。
公家側は猛反対したが結局押し切られた。徳川宗家は朝廷の席次で摂関家と同格になった。

次に鎌倉幕府を見てみる。幕府創設期 源頼朝は官位叙任を源氏一族に限定した。(のちに崩れるが)
また御門葉を創設し源氏一門を格付けした。(新田などの一部の源氏が排斥された)。
まあ源氏云々は幕府内の格付けであるが、そもそも流人の頼朝が東国武士の棟梁に
担がれた理由が「軍事貴族 源家」という貴種だったからであり、
この「貴種」こそ「天皇との距離」が物差しとなっている。(続きます)
0004日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/05(水) 10:15:46.80
◆じゃあ、北条氏はどうなんだ、朝廷とはあんまり関わらなかったじゃないか、
と言う指摘もあろうが、源氏将軍亡き後、京都より摂家・皇族を鎌倉殿に頂いて、
一同「ハハーつ」と傅いておるわけだから何おか況やである。
朝廷より貴種を鎌倉殿に迎えることが政権存続のキモになっているわけだから、
ある意味では朝廷との補完性が一番高い武家政権とも言える。 
また、官位上昇に興味が無かった北条得宗家も、その官位は従四位であり、
足利氏(従五位)ら有力御家人の上位をキープし続けたことを留意しておきたい。

 このように、歴代の武家政権は大名たちを序列化組織化するツールに
朝廷の古臭い物差しをわざわざ積極活用したことに留意するべきである。 
そしてそれは現代にも当てはまる。日本人は天皇制から派生する「格付け」から無縁であったことは一度もない。(一旦終わり)
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