徳川将軍家の後継争いについて語るスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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一見順当そうなで、実はいろいろあったよなぁ・・・
秀忠.家光.家綱.綱吉.家宣.家継.吉宗.家治.家慶.家茂・・・のあと「誰っ?」って
世継ぎ争いって、結構奥深いと思うのは俺だけか? >>556
>綱吉的には面白くない存在
先に「影の徳川宗家」と比喩したが、光長は将軍家の養子になろうがなるまいが、
母親 同母妹 その他で「八百屋の孫」より華麗なる一族の本当の御曹司なんだな。
彼奴をまず粛清することで「将軍デビュー」を果たした綱吉はさい先の良い良いスタートを切った。
これは大きかった。 ちょっと大げさに言うと足利義満における山名氏や大内氏の役目を
光長が担わされたんじゃないか。 光圀のような偏屈が秀忠の跡継ぎは兄秀康の越前家に譲るべしと
考えていたようだが、
家康の秀康出生にかかわる疑念と秀忠を後継者にした経緯、
秀忠・家光の越前松平家への敵視と加賀前田家への懐柔、
前田家への備えとして大封を得た越前家の地政学的な価値低下、
前田家の親藩化、
この流れは、綱吉が将軍になる以前から続いている 547 550 553 557は俺だよ。文体の癖も同じだろ。 あとは知らねえな。
前に越前論争してた片方も俺だよ。
>>559
これで得心したか? 当時、女子は人格のない、閨閥づくりの「将棋の駒」だよね。
実の子には限りがあるから「養女」を活用したわけだ。
だが、野郎は別。
跡継ぎ…将軍家となればなおさらだけど、越前が臣籍に下っていること以前に、
秀忠血統の幕府が秀康血統の男子を西の丸に迎え入れられることは、
ありえないと思うよ。 >>554
江戸城登城時、御三家は大手門から入ってるから臣下
御三卿は裏からこっそり、こっちは親族 たしかに御三卿は「将軍の家族」扱い。
御三家の登城は、大手門⇒表玄関⇒大廊下で、将軍との対面は白書院。
御三卿は、平河門⇒御風呂屋玄関⇒御控座敷で、対面は御座の間。
但し、登城経路を詳しく見ると、
大手門⇒下乗橋⇒大手三之門⇒中之門⇒中雀門へ至る過程で、
御三家は中之門まで駕籠に乗ることができたが、他の大名は下乗橋の手前で
駕籠から降りなければならなかった。 綱吉と将軍の座を争った 有栖川宮幸仁親王の忘れ形見である。 外様でありながら、晩年の藤堂高虎だけは奥まで駕籠で入れた
御三家は親藩ではなく、御三家という家格である >>563
綱紀以降の加賀前田家はどこまで輿で行けたのですか?
>>565
それは確か、高虎が高齢で体が効かんのでお勤めご勘弁と申し出たところ、家光がそれを許さず、
「輿に乗ってヨシ」と取り計らった例外規定だったんじゃないけ?
まあ、破格の厚遇には違いないがね。
大体 高虎の出世自体が異例の厚遇だし。 相手が祖父ちゃん子の家光だし。 田安卿の姻戚だから大丈夫だろうとたかを括って、本来籠を使うべきところ、禁止された上げ輿で登城して処罰を受けた大名もいる 藤堂高虎は外様なのに譜代よりも厚遇されたからな
まあ子孫も鳥羽伏見で真っ先に裏切るということで、ご先祖高虎の教えをよく守ったよなww >>569
少なくとも幕末の連中はさすが高虎の子孫と納得したようだぞw うん?
藤堂高虎は誰を裏切ったのかね? 後学のために教えてくれんか>上の3人の誰か 表玄関まで乗輿できたのは勅使だけ。
中之門を駕籠に乗ったまま通り、中雀門の手前まで進めたのは、
御三家以外は、寛永寺貫主を兼ねる日光門跡輪王寺宮と増上寺法主のみ、と伝えられている。
ただ、これは原理原則で、大名の格付けがオーソライズされていく以前の政宗、高虎の扱いはともかく、
その時世、時世で例外はいろいろあったみたい。
だから加賀前田家の光高、綱紀、慶寧らがどうだったか?
自分も知りたいです。
増上寺については、 >573
前田家について質問した566だけど、質問理由は綱吉の時代に前田家を御三家に準ずる待遇にした。 城中の控室とか謁見の席次とか。だから、それ以降(前田綱紀以降)の前田家の登城待遇は如何かと。 増上寺については、貞享3年当時の31世法主、流譽故巌が幕府に願い出て、
本丸表玄関まで乗輿せずに、中雀門(で下輿して御玄関まで歩行し、
表向に入ることにしたという記録からすると、
日光門跡と増上寺法主は、表玄関まで乗り付けていたとも解釈される。
ただ、36世顕譽祐天の時、秀忠以後、家光〜綱吉までずっと寛永寺に葬られてきた
将軍の霊柩が家宣に至って増上寺に葬られるとなり、増上寺の役僧らは増長して、
幕府に以前のように寛永寺貫主同様、表玄関までの乗輿を許可しろと強訴した。
困惑する幕閣の中で、間部詮房一人泰然として、祐天大僧正の発意なら祐天を流罪にし、
役僧の企てなら彼らを処刑し、御代替の御威光になると言って寺を踏み潰すべし.と一蹴
したそうだ。
恐懼した増上寺は謝罪して、粛々と法会を行ったという。 加賀前田家が御三家に準じる扱いを受けたというのは、
「徳川実紀」の元禄2年8月9日の記述で、「松平加賀守綱紀今まで五節には。
表にて拝賀すといへども。 この後白木書院にて拝賀すべしと命ぜらる」
と書かれていることが根拠になっている。 実は、将軍側近の新御番組頭格の中野播磨守清茂(隠居して石翁)が、義理ながら曾孫にあたる加賀の犬千代(前田慶寧)を13代将軍に据えようと画策し、
老中の林肥後守忠英や、大目付の本多越中守を指示し、大塩残党に家慶を襲撃させる計画があった 光高や綱紀や慶寧
誰にしたって加賀から将軍はありえへんだろうな
もちろん吉里もそやけど
逆に水戸から将軍を出せへんというウソが信じられとんのが不思議だ 今徳川名乗ってる連中の大半が水戸系なのが笑えるwww
家斉の子作りは全く役に立たなかったなw
似たケースが尾張綱誠 前田慶寧とか将軍の外孫だけど
思いっきり尊王攘夷派で長州寄りだったじゃん 徳川幕府の失敗は朱子学の採用だな
朱子学採用したら朝廷が正統と見なされるようになるとは想像すらできなかったんだろうな
それくらい室町期以降の朝廷には政治的求心力がなかった
室町期から江戸初期の朝廷って相撲の吉田司家程度の存在だったんだろうな
免状発行元として重宝はするが、別になくても困らない程度の >>582
朱子学否定して実力主義だったら
幼将軍だった4代家綱の頃に幕府が潰れてたかもしれん
幼児でも馬鹿でも障碍者でも家康の血筋が主君だと決まっているのだから
将軍として崇めろと言うのに最適だったのが朱子学 >>582
家康は外孫の松姫(後の徳川和子)を後水尾天皇に入内させて
徳川家の家格上昇させようと躍起になって朝廷工作してたし
秀忠は後水尾天皇の寵女を追い出してまで和子を中宮に立て
後水尾天皇の二条城行幸のために新御殿まで建造したし
家光は和子の頼みで後水尾天皇の離宮造営費を全額負担したし
朝廷に求心力なかったらそこまでするわけがない 家格アゲではないわな。 あれは足利義満の皇位簒奪論者に対して批判者が
「いや、あれは義満の家格アゲを狙ったもの」と主張し、 一応 そういう流れが大勢になった。
別に義満は家格アゲを狙ったわけでもないし、秀忠もそうなんだろうと思うけどね。 >>585
なくても困らないなら外戚になる必要もない 朝廷はある種「ハンコ」だった
但し、「めくらハン」
権威の源泉ではあったことは確かだが、
>>582の言うとおり「政治的」求心力はなかったというべき
家康も家光も過去レスにあるとおり、太政大臣への昇進を当初辞退し、
秀吉のように朝廷の伝統的、形式的というか、はっきり言って形骸化したな権威に
寄りかかるスタンスはなく、ただいいように利用しただけって感じ >>582
朝廷に他の武家と仲良くされちゃ困るから
徳川の娘を嫁がせて莫大な金を貢いだんだろ
求心力がないならそんなことをする必要なし
家光以降の将軍正室は皇族か摂家の息女(養女を含む)に限られたし 将軍家が大名家から正室もらうと面倒なことになるからな
実際島津が近衛の養女って形とって将軍家に輿入れさせてかなりバランスが崩れて
幕末期の島津家を強大化するきっかけにしてしまっている
その点恰好の嫁の実家が政治的に無力な皇族か摂家なわけでね 皇女も皇族なんだがな
家継は成人せず破談、家茂は成婚 >>591
文盲w
朝廷と仲良くしたいから朝廷の構成員である
皇族・摂家の姫と将軍の縁組をしたんだが? >>592
将軍家茂は皇女和宮と婚姻
義兄にあたる孝明天皇にお供して孝明天皇の賀茂詣・石清水詣の警護を担当し
将軍は天皇の家来であると印象付けた >>592
室町時代の将軍は公家の日野家から正室もらってたけど
公家は無力どころか完全に日野家に牛耳られてた時期も長かった >>592
島津は摂家の近衛家と
前田は摂家の二条家と
大名の中には特定の公家と何度も姻戚となり
幕府関係なく姻戚である公家と仲良くするところが多かった
それも外様の大藩がw
朝廷と外様大名の姻戚関係の強さが幕末に影響するんだけどね 家茂が天皇の風下に立つことを頑なに拒めばよかったものを・・・
家斉家慶ならそこまで卑屈になることもなかっただろうな
家茂のせいで幕府崩壊が早まったとも言える >>598
時勢だよ時勢
将軍宣下なんてずっと将軍が上段にいて、勅使が下段にいたんだぞ
それが家茂の頃は逆になっちまうんだから
>>597
島津家と近衛家は実は付き合いが深いからねえ
そもそも島津家って近衛家の荘園である島津荘の荘官になったことで生まれた家だからねえ
元々は比企一族なんだよね
頼朝の子孫とか嘘言ってるけどwww BSと言えば昨夜の「諸説あり!」では綱吉をあげまくってたな。 近年 綱吉を改革者として再評価する論調をよくみる。
このスレでも綱吉ネタ多かったし。 将軍後継争いと言えば幕末か、尾張VS紀州が定番なのに、
このスレは家重ネタや清武ネタで盛り上がってユニークだね。 家重が政治的才覚に優れていることを知った時は衝撃だった
郡上八幡一揆の処理は凡庸な君主では絶対無理だわ 日本史より謎な金儲けできる方法とか
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