【間宮林蔵】日本の探検家たちについて【伊能忠敬】 [無断転載禁止]©2ch.net
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同時期の探検家と言えば最上徳内と近藤重蔵くらいしか思いつく人が他にいない 今となっては間宮の探検って、あんまり意味なかったね。
最上や近藤も。 間宮の探検は対ロシアの防衛ライン想定という意味で重要だったでしょ
もちろんその後ロシアが攻めてこなくなったから意味がなくなったという側面はあるにしても 間宮は下級役人で、ロシアが千島を襲撃した時に徹底抗戦を訴えたことが「千島白浪」かなにかに書いてあったな。 政府の黙認ぽい非公認探検家は
みんな密偵にされちゃうよ 吉村の小説だと第一回樺太探検で間宮に同行した松田伝十郎が最初に樺太が島であることを確認したことになってるが、
その時に松田(と間宮)が到達したラッカは欧州の探検家ペルーズが探査したところよりずっと南で、
松田の言ったことは答えが当たっていただけのあてずっぽうだったというオチ。 間宮の樺太探検は、間宮の独断だよ。
幕府が命令するわけないだろw >>17
松田の同行は、松前奉行の命令だろ。
途中で分かれてるしね。 また合流したけどね
独断なら報告書もいらないはずだが
そもそも役人の間宮が勝手に異郷にいくなんてありえんし
帰国後に出世してる時点で探検が幕府の命令だとわかるんだが >>20
北海道や樺太から、どうやって、幕府に連絡して、返事をもらったのか? >>21
お前一度間宮林蔵の足跡をきちんと調べたほうがいいぞ >>21
幕府に命じられて樺太に行ったんだよ
樺太に行ってから幕府に命じられたのではない
あなたは順番が逆 樺太〜(間宮海峡)〜デレン が林蔵の独断だっけ?
吉村昭の小説によると。 さすがに幕府が大陸行きを命じるとは思えないよな
事後承諾みたいになったけど 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
QRY8P 伊能忠敬は樺太の地図もつくろうとは思わなかったのだろうか 目測かな
ある地点から岬の突端が見える角度を計測し
また別の地点から同じように角度を計測し
それによって距離がわかる とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
Z2L 色川高志(葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)の挑発
色川高志「関東連合文句があったらいつでも俺を金属バットで殴り殺しに来やがれっ!! 関東連合の糞野郎どもは俺様がぶちのめしてやるぜっ!!
賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 糞バエ関東連合どもっ!! 待ってるぜっ!!」 (挑戦状) 戦国時代、越前を治めていた戦国武将・佐々成政は雪の北アルプスを越え、黒部峡谷を渡り、遠州浜松まで出向いて
徳川家康に同盟交渉をしたという。
俗に「サラサラ越え」と呼ばれるこの山越えは
常願寺川→立山温泉→ザラ峠→中ノ谷→刈安峠→黒部川の平→針ノ木谷→針ノ木峠→籠川谷のルートを使ったというが、
当時の装備で可能なのか?
当時は寒冷地仕様のシュラフもテントもない、防寒衣もない、バーナーもない
カロリーメイトもフリーズドライ食品もない…
ないない尽くしじゃん
おまけに雪の北アルプスといえば積雪量は10m越え… そりゃまたロマンあふれる話だな
探検というよりも大冒険と呼ぶにふさわしいエピソードだ 1億人の大質問!!?笑ってコラえて!2時間SP☆4 大黒屋 光太夫(だいこくや こうだゆう、宝暦元年(1751年) - 文政11年4月15日(1828年5月28日))は、江戸時代後期の伊勢国奄芸郡白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭。
天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島(当時はロシア領アラスカの一部)のアムチトカ島に漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国した。
幕府の老中・松平定信は光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだが失脚する。 伊能 忠敬(1745年2月11日- 1818年5月17日)。1800年から1816年まで、17年をかけて日本全国を測量して『大日本沿海輿地全図』を完成。 高田屋 嘉兵衛(1769年2月7日- 1827年4月30日)。 近藤 重蔵(こんどう じゅうぞう、明和8年(1771年) - 文政12年6月16日(1829年7月16日))は、江戸時代後期の幕臣、探検家。諱は守重(もりしげ)、号は正斎・昇天真人。間宮林蔵、平山行蔵と共に“文政の三蔵”と呼ばれる。 間宮 林蔵(まみや りんぞう)は、江戸時代後期の徳川将軍家御庭番、探検家。名は倫宗(ともむね)。元武家の帰農した農民出身であり、幕府で御庭番を務めた役人であった。生年は安永4年(1775年)とも[1]。
生誕
安永9年(1780年)
死没
天保15年2月26日(1844年4月13日) 松田 伝十郎(まつだ でんじゅうろう)は、江戸時代中期から後期にかけての幕臣・探検家。諱は元敬。幼名は幸太郎。のち仁三郎。間宮林蔵と樺太を踏査し、樺太見聞の実測図を作成した。
生誕
明和6年(1769年)
死没
天保13年(1842年) 最上 徳内(もがみ とくない)は、江戸時代中期から後期にかけての探検家・江戸幕府普請役。出羽国村山郡楯岡村(現在の山形県村山市楯岡)出身。生年は宝暦5年(1755年)とも[1]。
生誕
宝暦4年(1754年)
死没
天保7年9月5日(1836年10月14日) 松浦 武四郎(まつうら たけしろう、文化15年2月6日〈1818年3月12日〉 - 明治21年〈1888年〉2月10日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家、浮世絵師、著述家、好古家。蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案した。 伊能忠敬がちょっと誤魔化して日本地図を2倍くらいの面積にしておけばよかったのに >>38
2019.7全国放送され2020.2再放送されたNHK札幌局制作
「永遠のニシパ 〜北海道と名付けた男 松浦武四郎〜」
ですね。「北海道命名150年」記念って北海道では
記念行事が諸々あったのかな?
2019年上期朝ドラ「なつぞら」にも広瀬すず演じる
アイヌ少女が登場したがこれも150年記念だったのか? >>49
国後島・択捉島商いをした箱館の廻船商人高田屋嘉兵衛が探検家に列せられるなら
同時代に松前藩の命により樺太に進出した石狩場所等の請負豪商で能登国
安部屋村出身の阿部屋伝兵衛3代目も樺太探検家に挙げてよいのかな? >>60
”Page Not Found”ですね。
引用ページの日本語名をお教え願えませんか。
財界札幌ONLINE〇〇〇? >>61
北海道開拓の先覚者達(23)〜村山伝兵衛〜 >>62
ありがとうございます。
Google経由で以下ページ表示に成功しました。
初代伝兵衛は18歳で松前に移住し阿部屋(あぶや)の称号で回漕業を営み、事業を
順調に拡大。1750〜53年には宗谷・留萌の2場所を請負うまでに成ったんですね。
財界札幌 北海道開拓の先覚者達(23)〜村山伝兵衛〜 2014年05月01日
https://www.zaikaisapporo.co.jp/blog/北海道開拓の先覚者達(23)〜村山伝兵衛〜 松前藩は樺太にも運上屋を設けていたと思うけど、なんか資料ありませんか? >>64
アニワ湾にあったよ
数人のロシア人に蹂躙されたけどな 徳川幕府とロシアでは、ロシアが軍事力で圧倒してたけど、樺太には松前藩以来の日本側が開発した権益もあったから、日露和親条約では、樺太は一方的にロシアのものとはならず、雑居地としたらしい。 >>12
天明5年(1785年)の幕府普請役山口鉄五郎、佐藤玄六郎らの
樺太や国後島上陸を果たし『蝦夷拾遺』を著した蝦夷地調査隊は
幕府要路老中田沼意次か老中格本多忠籌の命だったのでは? 間宮林蔵、近藤重蔵、松田伝十郎、最上徳内あたりの歴史ドラマてないと思うんでやって欲しいな >>68
天明5年の蝦夷地調査隊参加者は以下11名の諸氏でよいのかな?
青島俊蔵
山口鉄五郎
菴原弥六
佐藤玄六郎
皆川沖右衛門
里見平蔵、
引佐新兵衛、
大塚小一郎、
大石逸平、
鈴木清七、
最上徳内、 >>67
寛政4年(1792)9月の露西亜使節ラックスマンの大黒屋光太夫同伴
根室来航に伴い、幕命により翌寛政5年2月に蝦夷地に
派兵され後年『蝦夷地御用留』(1799年)を遺した南部藩380名も
広い意味では探検団に含めてよいのか?
何故に南部藩指名で渡海380名の指揮官は、誰々だったのだろう?
南部家の北方警衛 1 幕府蝦夷地直轄始動 1 拠南部家『蝦夷地御用留』
ttps://www.komonjokan.net/cgi-bin/komon/index.cgi?cat=komonjo&mode=details&code_no=1320 のちにロシアに拿捕された砲術師の大村治五平もその中の一人なのかな 江戸時代に船が流されカムチャツカに行った日本人船乗りが千島列島沿いに南下して帰国したらしいが、
人間の生きる力って凄いなと感動した。
まあ、これは探検ではなく冒険だね。 面白かったのは鳥島で20年も過ごして生きて帰ってきた遠州の船乗りだな。
無人島でこんなに長く生きていけるなんてすごい生命力だな。 >>53
最上徳内は著書「蝦夷草子」で以下を記述しているの?
195世界@名無史さん2020/06/24(水) 07:27:05.580
寛政年間(1790年代).北海道松前藩領のアイヌの状況を語った探検家最上もがみ徳内とくないの「蝦夷草子」に次の一節がある.
松前より西の方に,日本道風三十里ばかりにして,見市といふ村あり.此処に代々岩之助〔右は蝦夷にしてその名をイワンノシケと
言ふ.〕といふ百姓あり.平日は日本の野郎鬢なれども,冬になれば月代を剃り,蝦夷の体にかへて,正月七日に領主へ吉例に出る.
領主は書院の前庭に荒菰を敷てこれに居らせ,領主より濁酒を給はる也.これ蝦夷の遺風なり.
つまり百姓「岩之助」は,実はアイヌ人「イワンノシケ」であり,春から秋までは普通の和人の百姓として暮らしているが,冬場は
アイヌの姿に戻って様々な「蝦夷の遺風」を行っていた,というのである・・・・・・・
アイヌの歴史 Part2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1590147950/195- >>75
18世紀後葉に津軽地方に行き「西遊記」、「東遊記」を
著した京都の医師橘南谿は探検家でよいかな? 津軽だと異郷とはいいがたいから、探検冒険というよりは旅行者、かな。
西行とか松尾芭蕉とかと同じ系譜。 >>80
>津軽だと異郷とはいいがたい・・・・・・・
おいおい、それは現代の区分けだろ。現代の視野を
適用するなよ。
18世紀の津軽地方は同化以前の蝦夷聚落のある
異郷・異文化地域。 >>82
いくら異郷人が多くてもいつ殺されてもおかしくない樺太みたいに異国とは違う 吉村昭「北天の星」の主人公、中川五郎治も面白い。
これも探検ではなく冒険だけどね。 >>83
間宮林蔵は樺太から海峡渡ってアムール川下流のデレンという町まで行ってるから、これこそ冒険じゃない? なんか話がかみ合ってねえな
「冒険もしくは探検ではない」というのは津軽に行った橘南谿の話だろ >>80
横道だが、探検・冒険・旅行はどのように
異なるの?英語だと更に下記種々の語があるが?
expedition exploration venture adventure
traveling journey trip tour excursion
蛇足だが近時世間で囃されている経産省語 "Go to travel"は
誤用英語らしい。 探検冒険を特集した本にその区別が書いてあったな
冒険は「危険を冒す」だから別に辺境の地に行くことだけとは限らない
会社辞めて事業を始めるのもまた冒険というわけだ
探検は「調べる」の意味が強いのだそうです
だから異郷の地を調べに行くのが探検
もちろん危険を伴うので探検は冒険のジャンルの一つともいえる
冒険の旅も探検もどこかに行くことだから抗議の意味でどちらも旅行に含まれるってことになるだろうね なるほど、旅行代理店で宿泊や乗り物のチケット受け取って帰る時に「お気を付けて行ってらっしゃいませ」は旅行が冒険だからだな。
ちなみに今、東京へ行って接待を伴う飲食したら冒険だな。だけどキャンペーン対象外だってさ(笑)。 >>88
>異郷の地を調べに行くのが探検・・・・・・
異郷調査・探査・踏査が探険なんですね。
危険度の低いのが「探検」、高いのが「探険」でよいの? 伊能忠敬は、その意味だと、探検・冒険というイメージはないね。
かろうじて蝦夷地の山奥に行った時が探検と言えるかもしれない。
最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵の異国調査は探検であり冒険であった。 伊能忠敬も幕府の隠密じゃないかと命狙われたらしいけどね >>48 >>92
下総国佐原の商家の一介の隠居身分の伊能忠敬が
何故全国地図測量という大事業ができたのだろう?
各地特に外様藩地域では怪しまれて投獄事態も懸念
されただろうに。幕府発行の測量命令文書かなにか
携行していたのか?
地図がないと商業活動に支障があると思うんだが、
現在の国土地理院のような部門が江戸幕府には
なかったのか? >>48 >>92
下総国佐原の商家の一介の隠居身分の伊能忠敬が
何故全国地図測量という大事業ができたのだろう?
各地特に外様藩地域では怪しまれて投獄事態も懸念
されただろうに。幕府発行の測量命令文書かなにか
携行していたのか?
地図がないと商業活動に支障があると思うんだが、
現在の国土地理院のような部門が江戸幕府には
なかったのか? >>75
その江戸時代にカムチャツカ半島まで漂流帰還した
日本人船乗りって名は何でAD〇〇年頃の事なの? >>95
「継右衛門 カムチャツカ」で検索するとwikiはじめ興味深い記事がいくつか出てくるよ 色々みてたら村上貞助が出て来た。
ゴローニン受取に箱館入港したリコルドが通商交渉した際の日本側の通詞らしい。
村上貞助について詳しい方いらしたら教えてください。 少し後の時代になるけど銭谷五兵衛も詳しく知りたいな >>99
銭谷五兵衛を詳しく知りたいなら金沢市
金石本町大野湊の県立記念館がいいよ。
石川県銭屋五兵衛記念館
ttps://www.zenigo.jp/zenigo/ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています