邪馬台国畿内説 Part243 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
前スレ
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◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に面している
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その死亡時期は3世紀中葉である(FAQ30参照)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる
したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場である(FAQ26参照)
その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントにほかならない
そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、
乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、
乃ち布留0期にあるとみることが出来よう ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山並びに渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である
箸中山、行灯山並びに渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない
この神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう
因みに、女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある
これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、
箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する
この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である
乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ
2世紀末の大乱期、中国製威信財の入手ルートが途絶して列島における旧世界の秩序が崩壊した後、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争を回避する目的で、この地に新たな秩序の中枢が構築された
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりがあったことを示しており、此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう
後段で触れるところの寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた
纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の大勢という現実を踏まえたものであろう
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する
初期ヤマト政権の性格をアンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは有益である ◆5(倭国の形成と気候変動)
南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況や河内と吉備の交流の深さ等も鑑みれば、
東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を纒向の地に擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの連合であろう
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生し、その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている
それが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に機関化した政治システムのフェイズへと進むのである
2世紀は炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編を促した
弥生社会の終焉に向けて変質を強いていた気候変動の総決算である ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあったことは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる
換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起している(松木2014)
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型並びに楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着した(吉田2014)
分節化した統合性の象徴として小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開、
これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる
(この項続く) (続き)
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある
権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する
宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)
これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する
この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る
前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していることと、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料を突合すると、
対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう
北部九州の土器編年で言えば、卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である
そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである
ことに、土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である
その最終段階では、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる
それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である
自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか
A:九州は倭国の一部なので問題ない
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである
水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の値を示し(南2008)、桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が近畿産であることは鉛同位体比分析によって判明済み(南,今津ら2013) である
これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くこと
魏使は九州を出ていないではないか
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか
A:沖縄本島付近の南海上となるため、畿内説以外の説も無理である(◆FAQ40参照)
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できない
このように、行程記事には明らかに誤情報が含まれているので、所在地比定には採用しない
検証にのみ用いる
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる
A:誰も纒向遺跡が邪馬台国だなどと主張はしていない
纒向遺跡は巫女王の居た王都であり国ではない
また、邪馬台国を大和国とする諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって領域としての令制大和国という定義ではない
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した
対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す
(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕がでる(久住2006)
畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系の土器が発見される(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する ◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した
つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である
考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる
前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」とみられる
使訳通じる30国のうち両者の構成比が不明であるが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる
よって判断材料とならない
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、ほとんど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」ともいう(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである
よって否定材料にならない
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる
この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い
準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である
また倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は未だ提示されてない
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える
このことは白鳥庫吉以来縷々指摘されているが、有効な反論がない
◆FAQ 18
Q:3世紀には目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する
したがって測定は存在しない
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば
異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は
信頼できる基準ではないか
これに基づいた里程論で邪馬台国は
九州島内に求められる
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する
ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている
江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く
A:そのような整合性は認められない
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ
(この項続く) (続き)
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている
つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した
これは信用ならない
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)と土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる
一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない
A:方形のものの大きさを「径」で表現することはないので、「径百余歩」と形容された卑弥呼の冢は方型ではありえない
よって平原一号墓、祇園山古墳などが除外される
しかし「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある
基壇部は水平方向から見ると隆起していない
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない
箸中山古墳の築造過程は
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
と推定できる
葬送儀礼の最も重要な局面で方丘が存在していない可能性があるといえる
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している
方丘築造が後出であるという判断は
箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと
箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で
前方部盛土に遮られる形で消失していること
椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で
前方部に盛土がないこと
等による ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県であり(設楽1989)、九州ではない
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか
A:7世紀或いはそれ以前の出来事について日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報に依拠するのは、学問的でない
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表しているに過ぎない
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること
・唐会要より錯誤発生の過程が時系列的に認識できること
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること
等を勘案すると、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い
卑弥呼の墓があるのは九州だ
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう
弥生絹があるのは九州のみ
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(3世紀末葉)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定されている(布目1999)
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している
弥生末期はわずかな発見例しかなく、品質的にも低い
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2015)と一致する
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる
九州説にとって不利な条件と言える ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ
箸墓の築造と時間差があるだろう
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である
よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
(この項続く) (続き)
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、並びに初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定されている(次山2009)
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い
これが部分的利用に留まる所以である
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ
伊都国は隆盛のさなかである
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された(馬淵WL領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある
同様の状況が荒神谷の銅剣で観察されている(馬淵ら1991)
いづれも古墳時代の倭鏡とは断絶がある
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている
しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない
なにより、漢鏡6期段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿並びに禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である
九州でいいではないか
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している
行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある
会稽東冶は「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)であるが、諸本とも治と冶の混用が多い
「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしい
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す ◆FAQ 41
Q:平原1号
九州には古くから三種の神器がある
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう
(この項続く) (続き)
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている
また王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている
これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である
弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばからとした(金2011)が、これは陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない
確かな根拠などないだろう
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)→1BV型式(3世紀中葉)→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する(高久2009)
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)並びに庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている。
国産に決まっている
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑みるに、景初四年は実在したと考えざるを得ない
史料上で抹殺された年号は珍しくない
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元とともに慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なることとなった
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させるためには景初四年正月の実在が必須である
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、いくつかの記事にその痕跡をとどめている
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌ただしく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定するところの、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである
ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例がなく、中国本土との直接交渉の結果である可能性が認められる
倭人が上献した絳青縑(FAQ29参照)も重要である
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(三世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している
これが魏晋鏡だろう
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい
2世紀の鏡である
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯もしくは圏線のあるもの(XA)と素手の消失したもの(XB)が共存する
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)などがある
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆1,3を修文 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが? >>49
岡上さん、なんで?
無理だと言う理由は? △縁さん、頑張ってるのはわかるけど・・・
粗末すぎるのはどうしようもないよ
こんなもの中華の帝国が下賜するわけない
しかも時あたかも領土拡大に血道をあげる三国時代、呉との友邦公孫氏や
琉球への奴隷狩り等の動きの中で得た最果ての東夷、こんな量産型の粗末
な物を下賜するわけない
いい加減、こんなつまらないこと だ け 精密に研究せず、もっと
いろんなことしてください
優秀な学者が素朴な疑問に何も答えられない古代史学者ということで、庶民は
おもいっきし馬鹿にしてますよ 「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』そのものにあるのである」
『ピラミッドの謎』1975 メンデルスゾーン博士
☆銅鐸文化の消滅をこじつけでしか説明できない時点で近畿説はダメ
☆巨大古墳は、先住民(銅鐸民)の反抗を封じるために作られた無益なモニュメント
☆結果ではなく過程(強制労働)に意味があった
銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27 臼田 篤伸 (著)
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。 「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』そのものにあるのである」
『ピラミッドの謎』1975 メンデルスゾーン博士
あるいはかなりの地方に高地性集落があらわれる。
弥生中期。あらわれかたも1回ではないのです。
同じ集落をまた修復して使ったりしていますが、しかし古墳が
できるようになるとそういうものはほとんどなくなっていく。
なくなるばかりか、ここがまたおもしろいのですが、
かつての高地性集落のあったうえに、あるいはすぐ付近に、その地方でもっとも古い前方後円墳が
突如として築かれる場合がある。
いまのところこの謎はちょっと解けない。
森浩一「考古学の模索」1978 学生社
銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27
臼田 篤伸 (著)
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが? 「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』そのものにあるのである」
『ピラミッドの謎』1975 メンデルスゾーン博士
「海浜型前方後円墳の時代」という良書がある。? 2015/3/31 かながわ考古学財団 5400円: 295ページ出版社: 同成社
海上から目視可能な交通の要衝に造営された海浜型前方後円墳を集成し、その立地の意義や築造背景、
古墳時代の海民統治などの実態を、新たな視点から追究する。全国の海浜型前方後円墳分布図と一覧表を収録。
第1章が素晴らしい(広瀬和雄)
C 魏志倭人伝の「一支国」で有名な壱岐島には6世紀後半7世紀前半にかけて古墳が300基つくられている
…可耕地が乏しく、玄武岩の大地に覆われた壱岐島にこれだけの有力古墳を支持するだけの食料増産は望むべくもないから
…いっそう海浜型前方後円墳の「不自然さ」が際立つ
…農耕生産が保証されない地形、可耕地が少ない地形環境だけが領域であるならば、大型墳丘をつくる力量をどのよにして首長層は蓄えたのか
…たとえば、新羅や伽耶からもたらされた鉄素材に対して、倭国から運ばれた「もの」の痕跡が彼の地では
ほとんど認められないという事実がある。「もの」が南部朝鮮から一方的に日本列島に運び込まれている。
倭王に「徳」を下賜したとみなせるなら事情は異なってくるが、そうしたことを表す証拠はない。
…中央からもたらされたり、そこを経由したとすれば、見返りは何であったのか。格別の特産物も今のところみあたらない。
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銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む [単行本] 臼田 篤伸
単行本: 260ページ出版社: 彩流社 (2010/12/27)
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの >>1-13
へぇ、さすがはもう一つの天孫降臨伝承を持つ物部だけはある。
壮大な遺跡を造ってたんだね。
強い瀬戸内の要素を説明できるのは古代物部しかないもんね。
でも残念ながらそこに卑弥呼はいないよw
2世紀前半から3世紀後半まで続いた王権が平地に墓なんて作らない。
人々を見下ろす高天原に墳墓を造った。
そして今も日本最古の神社が聖域としてお守りしてます。
これが卑弥呼の墓です。
https://goo.gl/vfsxPJ
神殿が作られた時期が孝昭天皇の頃。
つまり3世紀中頃〜後半。
出来過ぎの話だけど本当だよん♪ >>53
>天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり
その“民族戦争”である「天孫族の九州から大和への侵出」なんだけど、
なんで「大和へ」になるの?
湿地帯で片田舎の大和と、どうして“民族戦争”が起こり得るの? @阿波 2世紀前半から3世紀後半まで続いた王権が平地ではなく、
何故、山の麓の高台に住んだか分かるか?
彼らは水源の第一利用者であった。
水源に住み、湧き出る水を自由に使える者。
それが首長の証。
その首長とはカミであった。
カミとはカモ、つまり鴨である。
纏向なる平地の瀬戸内海洋下賤民・物部と卑弥呼は関係がない。
頭が高い、控えろ。 あのイワレヒコでさえ、平地(御所市柏原)にしか住めなかった。
金剛山の中腹・高天原(御所市高天)にすむ神々の地位には登れなかった。
にもかかわらず何が纏向だ、ふざけるな。
>>1は頭が高い、控えろ。 磯城・志紀
物部が支配した両地は大和川の平地部への出口を扼した、弥生においては
最重要の地
祝詞に高天原と詠われる、筑紫の高祖山連峰の日向峠は、高さでは富士山どころか
阿蘇にも霧島にも、雲仙にも負ける
それが平原から見て春分・秋分点だから重要なのであって、天下る場所は別に高地で
ある必要はない
交野には、物部の天下りの地である天孫降臨神社があるが、別にさほどの高地でも
なく、生駒よりはるかに低い
山は縄文の聖地であり、縄文人の希少な畿内においては、事実かつての聖地であっ
ても、大したことはない
三輪山も、伐採も発掘も禁じられているが、それはかつての神を封じた禁忌の地で
あるということであって、元伊勢の名前通り、伊勢神宮と同じ存在である(でしか
ない) 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>61
>筑紫の高祖山連峰の日向峠
何の神様も祀られてまへん。
せいぜい地元のチンケな神様w
しかも卑弥呼から比べてもかなり後の時代だろ。
話になりまへんw 纏向=邪馬台国など、賢い学者は既に言わなくなりつつあるが、それなりには
重要であり、弥生の大遺跡であることは間違いない
まあ、ただの飯場説もあるがw
崇神が大和川治水を推進した伝説が本当なら、そこから奈良盆地の灌漑も進み、
天下り初代の神武と並び称される理由もよくわかる
生産における祖なのである
葛城との間には、蘇我時代でも大和三山との間には大きな池があり、亀石が
その境界をなしていた。それだけ灌漑が遅れた地という事であり、研究からも
さほど生産力を有していたわけではないとされている
天下りの祖国が伝承通り九州北部・朝鮮半島南部であるとするならば、金剛山
の麓などは漢の滅亡も黄巾の乱や三国時代も知らない、鉄器を一家に一台、
などは5世紀ぐらいの田舎じゃないか >天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり
九州説を成り立たせるためには、沼地でド田舎の畿内を持ち上げなければならない九州説のジレンマ。 @阿波 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが? 理由もなくナントナクそう思う
ってのは質問じゃないよね
それは感想 >>71
◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
A:無理だと思う理由は?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
答えになってない、惨めwww 神武東征は天神東征であり、崇神東征は天孫東征である >>76
理由もなくナントナクそう思う
ってのは質問じゃないよね
それは感想
わからない? ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
Q:無理だと思う理由は?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
QをQで返し、Aが出てこないトピ主www
惨めwww >>81 : subo
>纏向の突然発生は崇神東征である
纏向の突然発生は、阿波からの古墳造営前線基地だったからなんですよ。 せめて崇神に繋げようという試みか
だが真実は
饒速日東征は天神東征であり、神武東征は天孫東征である 崇神天皇は初代畿内ヤマトの王であり初代天孫の王でもある
天孫の王が初代からというのはヤマト(天孫)史観であり
藤原氏の捏造である >>86
崇神は前王朝を倒した。
そしてその怨霊が怖いので大神神社を建てる。
崇神は自分が王であることの存在理由に神武の血筋を尊重、神武を祖にした。
「国譲り」というのは実際は血なまぐさい事件。
クーデターだ。
それは出雲振根事件でもモモソ媛の変な死に方でも分る。
しかし記紀ではそれを子供でも読める優しい神話に置き換えた。 Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これが質問ではないと逃げ始めるトピ主www
Eはescapeの意味ね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
Q:無理だと思う理由は?
E:質問じゃないのでQじゃない 葛城王朝(スサノオ系天神族、出雲)から崇神王朝(天孫族)へと交代した 小学生でもわかる質問からescapeするトピ主www >>88
疑問符がついてたら質問だってコイツどんだけ無教養なの ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
A:思うのは勝手だが理由がないので妄想 >>95
Aになってない。www
excuse(言い訳)だwww ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
Q:無理だと思う理由は?
E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想
こんなん出ました〜www >>99
質問じゃないもんな
それは単なる意見
しかも理由がない ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
Q:無理だと思う理由は?
E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想
Q:それがなんで質問なの?
またQで返してきました〜www ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は?
E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想
Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想
トピ主ぶざまwwwwww ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は?
E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想
Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想
E:質問になってない
どんどん追加されますwww ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は?
E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想
Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想
E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? >>107
なんでそんな風に思うのか解らない
脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は?
E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想
Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想
E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は?
E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない >>115
本人が一人で理解できててもしょうがないだろう
他人に伝わらない ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は?
E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想
Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想
E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は?
E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は?
E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想
Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想
E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は?
E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない
E:頭が悪すぎる 「俺様はこう思う」って勝手に妄想して
語尾に「が?」って付けても
他人への質問にはならんよなあ 出かけるので誰か代わりにやっててw
>>1をおちょくるのは楽しい。
一度もまともに答えてないwww 46 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/06/25(日) 07:05:27.01
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである
ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例がなく、中国本土との直接交渉の結果である可能性が認められる
倭人が上献した絳青縑(FAQ29参照)も重要である
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(三世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない
47 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/06/25(日) 07:05:47.88
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している
これが魏晋鏡だろう
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい
2世紀の鏡である
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯もしくは圏線のあるもの(XA)と素手の消失したもの(XB)が共存する
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)などがある
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう そもそも岡上は
「其国は2世紀前半から男王が存在している」と
なぜ「2世紀末から始まる纏向遺跡では無理」だか説明できないんだろう?
これは質問でもないし意見でもない 麻、白麻とか言っている人がいるでしょ
天子が何やらとか、
天子神璽の話なのかな ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は?
E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想
Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想
E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は?
E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない
E:頭が悪すぎる
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は?
E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想
Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想
E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は?
E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない
E:頭が悪すぎる
E:まともな質問しろよ >>131
出かけると言って出かけない
いつものパターン ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は?
E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想
Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想
E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は?
E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない
E:頭が悪すぎる
E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ 謎の名字辞典
胡(キュウリ?)、羊とか
あの白い服の素材は何なんだろう、山羊? なんで
魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
↓
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
と論理が飛躍するのか
全く理解できない 老婆が言うには
泥棒のようなものに入られ、
あの服も無くなった
と言っていたけど ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は?
E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想
Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想
E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は?
E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない
E:頭が悪すぎる
E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ
E:全く理解できない ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は?
E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想
Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想
E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は?
E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない
E:頭が悪すぎる
E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ
E:全く理解できない
E:嘘つきで偏執狂だ ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は?
E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想
Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想
E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は?
E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない
E:頭が悪すぎる
E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ
E:全く理解できない
E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの 自分ひとりで思い込んで一人で納得してるんだろうな
老人性のアレでよくあるよ ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は?
E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想
Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想
E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は?
E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない
E:頭が悪すぎる
E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ
E:全く理解できない
E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの
E:老人性のアレでよくあるよ ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は?
E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想
Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想
E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は?
E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない
E:頭が悪すぎる
E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ
E:全く理解できない
E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの
E:老人性のアレでよくあるよ
E:頭のネジが飛んでるから ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は? E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想 Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想 E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない E:頭が悪すぎる E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ E:全く理解できない E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの E:老人性のアレでよくあるよ E:頭のネジが飛んでるから
E:また壊れたのか ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は? E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想 Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想 E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない E:頭が悪すぎる E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ E:全く理解できない E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの E:老人性のアレでよくあるよ E:頭のネジが飛んでるから
E:また壊れたのか E:思考停止中 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は? E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想 Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想 E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない E:頭が悪すぎる E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ E:全く理解できない E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの E:老人性のアレでよくあるよ E:頭のネジが飛んでるから
E:また壊れたのか E:思考停止中 E:東遷説ボコボコだな ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は? E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想 Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想 E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない E:頭が悪すぎる E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ E:全く理解できない E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの E:老人性のアレでよくあるよ E:頭のネジが飛んでるから
E:また壊れたのか E:思考停止中 E:東遷説ボコボコだな
E:なぜ無理なのか説明できないまま ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は? E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想 Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想 E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない E:頭が悪すぎる E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ E:全く理解できない E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの E:老人性のアレでよくあるよ E:頭のネジが飛んでるから
E:また壊れたのか E:思考停止中 E:東遷説ボコボコだな
E:なぜ無理なのか説明できないまま E:論理破綻 E:唯我独尊症 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は? E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想 Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想 E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない E:頭が悪すぎる E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ E:全く理解できない E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの E:老人性のアレでよくあるよ E:頭のネジが飛んでるから
E:また壊れたのか E:思考停止中 E:東遷説ボコボコだな
E:なぜ無理なのか説明できないまま E:論理破綻 E:唯我独尊症
E:出かけるって嘘なのね 宗教関係の話をしているのかな、何なんだろう
『山羊』 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は? E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想 Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想 E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない E:頭が悪すぎる E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ E:全く理解できない E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの E:老人性のアレでよくあるよ E:頭のネジが飛んでるから
E:また壊れたのか E:思考停止中 E:東遷説ボコボコだな
E:なぜ無理なのか説明できないまま E:論理破綻 E:唯我独尊症
E:出かけるって嘘なのね E:思い出したように呟き荒らしする ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は? E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想 Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想 E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない E:頭が悪すぎる E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ E:全く理解できない E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの E:老人性のアレでよくあるよ E:頭のネジが飛んでるから
E:また壊れたのか E:思考停止中 E:東遷説ボコボコだな
E:なぜ無理なのか説明できないまま E:論理破綻 E:唯我独尊症
E:出かけるって嘘なのね E:思い出したように呟き荒らしする
E:こんな単調な繰り返しが平気って普通じゃないよね ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は? E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想 Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想 E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない E:頭が悪すぎる E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ E:全く理解できない E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの E:老人性のアレでよくあるよ E:頭のネジが飛んでるから
E:また壊れたのか E:思考停止中 E:東遷説ボコボコだな
E:なぜ無理なのか説明できないまま E:論理破綻 E:唯我独尊症
E:出かけるって嘘なのね E:思い出したように呟き荒らしする
E:こんな単調な繰り返しが平気って普通じゃないよね E:病んでますね 何か知っている人がいるのか、
ただストーカーがいるだけなのか?
「たしか銀というのもいたよ」
ウマヤドのような話じゃない?
上の名前は違うけど、天草というキャラクター ◆FAQ 48
「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」
と魏志にはあるが、この七八十年間の男王の墓は纏向古墳群のどこになるのか? 実際(現在)は通用しない話だと思うけど
天津罪、国津罪というものがあったり >>188
では「其國本亦以男子為王 住七八十年」の墓は纏向にないでいいな。
なのに何で纏向に卑弥呼がいたのだ? >>191
纏向にいなかった卑弥呼が何で纏向で共立されるのだ? >>194
纏向にいたのならなんで「其國本亦以男子為王 住七八十年」の墓が纏向にないのだ?
この男王はどこのいたのか? >>192
新しく造られた都に、王が前からいたら変でしょ >>195
なんで纒向になきゃいけないの?
理由は? >>196
ではその新しい都の前は男王はどこにいたのか?
王墓はどこか? >>198
そんなの判らんだろ
本当にいたかも確かじゃないし 「ふざけた事してんじゃねーぞ!!」
と言っている人がいたり、いなかった? >>199
では「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」
という魏志を否定するのだな? どこかで見たような気がするんだよな
「国際法で解決しようと言っているのだ」 だいたい住七八十年で正しいのか
往七八十年じゃないのかも決め手がない ◆FAQ 48
Q;「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」
と魏志にはあるが、この七八十年間の男王の墓は纏向古墳群のどこになるのか?
A;そんなの判らんだろ
本当にいたかも確かじゃないし
ワロタwwww
アホ丸出しwwwww >>202
倭人伝は同時代史料だから意味があるんで百数十年前の話は眉唾でもよい ◆FAQ 48
Q;「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」
と魏志にはあるが、この七八十年間の男王の墓は纏向古墳群のどこになるのか?
A;そんなの判らんだろ 本当にいたかも確かじゃないし
A;だいたい住七八十年で正しいのか 往七八十年じゃないのかも決め手がない
アハハハハハハ! どこスレッドだったかな
「いまだに未開のナニヤラ〜方式で・・・」
と書いている人がいたよ、宗教裁判のようなやり方?
通用しないやり方 >>207
往七八十年説を知らないの?
学史に無知だな 漫画やアニメ・・・ゲームなども、そうみたいだよw
気づいている人は、気づいているんだよ ◆FAQ 48
Q:「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」
と魏志にはあるが、この七八十年間の男王の墓は纏向古墳群のどこになるのか?
A:そんなの判らんだろ 本当にいたかも確かじゃないし
A:だいたい住七八十年で正しいのか 往七八十年じゃないのかも決め手がない
ヤケクソwww 藤原京の下の瀬田遺跡の円形周溝墓が2世紀後半だから
纒向の前は橿原あたりだったかもしれないし
奈良の場合、削って都造ってるからまだ瀬田遺跡のようなのが見つかるかもな 畿内説なんてその程度のもの。
矛盾だらけなのに、あとは適当に言いつくろうだけ。 ◆FAQ 48
Q:「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」
と魏志にはあるが、この七八十年間の男王の墓は纏向古墳群のどこになるのか?
A:そんなの判らんだろ 本当にいたかも確かじゃないし
A:だいたい住七八十年で正しいのか 往七八十年じゃないのかも決め手がない
アホの>>1
アホの>>1
www 卑弥呼の朝貢から往七八十年だとすると瀬田や楯築も射程に入るがなー
不確かな情報をこねくり回しても不毛だろう 天津罪、国津罪とか、
宗教裁判・・・に関係する家の人?が作品などを見ると、
わかるのかもしれないよ
そういう家の人を見つけ、選んで、作品に登場させているとか >>216
卑弥呼の朝貢から往七八十年ではなく、即位(擁立)から往七八十年前だろう。
卑弥呼は長生きなようなので、そこはきっちり考えておかねばならん。 男王と住七八十年って記事が永初元年の情報から推理したもんだとすると
これも不確かな部分多すぎ まーどっちにせよ古い倭国は乱で崩壊して新生倭国女王が共立されたんだから
男王がどこにおっても関係ないけどな それとセイントセイヤ?
なぜヒドラ・・・元帥なのか? 楯築墳丘墓は今は2世紀前半になってるんじゃないかな 大和にも弥生時代の2世紀の遺跡はあるわけだからそこから考えないと。
その時代、誰が王でどこに住んでたかを考えないと。
纏向に固執するから矛盾が出る。 ひょっとして糸クズ馬鹿は男王と卑弥呼が一計で繋がってるとかガチで決めてかかってるのかな ひどら・・・元帥?
国、国民の何かなのかな
松の木・・・オジギソウ・・・の写真 >>229
矛盾するとこんな醜態さらすのだよw
◆FAQ 48
Q:「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」
と魏志にはあるが、この七八十年間の男王の墓は纏向古墳群のどこになるのか?
A:そんなの判らんだろ 本当にいたかも確かじゃないし
A:だいたい住七八十年で正しいのか 往七八十年じゃないのかも決め手がない >>231
この馬鹿の事w
◆FAQ 48
Q:「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」
と魏志にはあるが、この七八十年間の男王の墓は纏向古墳群のどこになるのか?
A:そんなの判らんだろ 本当にいたかも確かじゃないし
A:だいたい住七八十年で正しいのか 往七八十年じゃないのかも決め手がない >>229
どうせ「俺様の絶対正しい解釈と畿内説が矛盾する」とかだろ >>232
カッコいいから矛盾という言葉を使ってみたかっただけか >>234
この醜態晒してるアホを見ればわかるw
◆FAQ 48
Q:「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」
と魏志にはあるが、この七八十年間の男王の墓は纏向古墳群のどこになるのか?
A:そんなの判らんだろ 本当にいたかも確かじゃないし
A:だいたい住七八十年で正しいのか 往七八十年じゃないのかも決め手がない 謎のキュウリの写真があるでしょ、
老婆が言うには、
父親の名前・・・市というみたいだよ あるいはこのアホとかw
◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は? E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想 Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想 E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない E:頭が悪すぎる E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ E:全く理解できない E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの E:老人性のアレでよくあるよ E:頭のネジが飛んでるから
E:また壊れたのか E:思考停止中 E:東遷説ボコボコだな
E:なぜ無理なのか説明できないまま E:論理破綻 E:唯我独尊症
E:出かけるって嘘なのね E:思い出したように呟き荒らしする
E:こんな単調な繰り返しが平気って普通じゃないよね E:病んでますね 念のためにもう一度。
このアホだw
◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は? E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想 Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想 E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない E:頭が悪すぎる E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ E:全く理解できない E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの E:老人性のアレでよくあるよ E:頭のネジが飛んでるから
E:また壊れたのか E:思考停止中 E:東遷説ボコボコだな
E:なぜ無理なのか説明できないまま E:論理破綻 E:唯我独尊症
E:出かけるって嘘なのね E:思い出したように呟き荒らしする
E:こんな単調な繰り返しが平気って普通じゃないよね E:病んでますね ◆FAQ 48
Q:「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」
と魏志にはあるが、この七八十年間の男王の墓は纏向古墳群のどこになるのか?
A:そんなの判らんだろ 本当にいたかも確かじゃないし
A:だいたい住七八十年で正しいのか 往七八十年じゃないのかも決め手がない
A:男王がどこにおっても関係ないけどな >>236
だから何と何が矛盾するの?
答えられないのか? ◆FAQ 48
Q:「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」
と魏志にはあるが、この七八十年間の男王の墓は纏向古墳群のどこになるのか?
A:そんなの判らんだろ 本当にいたかも確かじゃないし
A:だいたい住七八十年で正しいのか 往七八十年じゃないのかも決め手がない
A:男王がどこにおっても関係ないけどな
Q:何が矛盾するの? ◆FAQ 48
Q:「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」
と魏志にはあるが、この七八十年間の男王の墓は纏向古墳群のどこになるのか?
A:そんなの判らんだろ 本当にいたかも確かじゃないし
A:だいたい住七八十年で正しいのか 往七八十年じゃないのかも決め手がない
A:男王がどこにおっても関係ないけどな
Q:何が矛盾するの?
Q:答えられないのか? 国譲り
ググってみると、
他の国の元帥の画像が出てきたり
本当に何の話なんだろう 1風に書けば
A:信ぴょう性に欠ける情報なので依拠するに足りない
かな
この答えでいいね ◆FAQ 48
Q:「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」
と魏志にはあるが、この七八十年間の男王の墓は纏向古墳群のどこになるのか?
A:そんなの判らんだろ 本当にいたかも確かじゃないし
A:だいたい住七八十年で正しいのか 往七八十年じゃないのかも決め手がない
A:男王がどこにおっても関係ないけどな
Q:何が矛盾するの?
Q:答えられないのか?
E:また病気再発か ◆FAQ 48
Q:「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」
と魏志にはあるが、この七八十年間の男王の墓は纏向古墳群のどこになるのか?
A:そんなの判らんだろ 本当にいたかも確かじゃないし
A:だいたい住七八十年で正しいのか 往七八十年じゃないのかも決め手がない
A:男王がどこにおっても関係ないけどな
Q:何が矛盾するの?
Q:答えられないのか?
E:また病気再発か
E:なんの矛盾もないってことでFA? 陰謀スレ
・国民の手に戻った。民主主義と。
よくわからない事を言っている人がいたり、
ずっとオレのターン? >>251
男王の墓とやらが纏向にないといけないという理由が皆無なので何も問題がない
結論が出たようだね ◆FAQ 48
Q:「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」
と魏志にはあるが、この七八十年間の男王の墓は纏向古墳群のどこになるのか?
A:そんなの判らんだろ 本当にいたかも確かじゃないし
A:だいたい住七八十年で正しいのか 往七八十年じゃないのかも決め手がない
A:男王がどこにおっても関係ないけどな
Q:何が矛盾するの?
Q:答えられないのか?
E:また病気再発か
E:なんの矛盾もないってことでFA?
E:男王の墓とやらが纏向にないといけないという理由が皆無なので何も問題がない 今時、邪馬台国畿内説とか恥ずかしいw
老害だなwww >>255
満点の答案だな
あとは1に文章を整理してもらえばよい ひどら元帥・・・オニの軍団という説明
国譲りでググると、
他の国の元帥の画像が出てきたり >>256
論破されたキウスが悪口雑言モードに入りました >>257
変な反論してるの一人だけだからFAQにならんのでは? 日本の神話
国造りに参加した・・・船に乗りやってきた、
外国から来た、渡来人と言う説もあるが・・・? >>261
しつこく蒸し返す偏執狂だから釘刺しといて吉 >「大己貴命(おおあなむち)と少彦名命(すくなひこな)は
> 協力して天下(あめのした)を営んだ。
スクナヒコ
船に乗りやってきたと書いてあるでしょ? 本当の話
人工地震だと言っていなかった?
凄い土地を持っていたと言っていたけど 言っている人がいなかった?
「頭の病院に行ったほうがいいぞ」 あの写真の話だよ
理由はわからないけど、凄い土地を持っていた、
地主?土地か何かの神なのかな 『山王院 山王宮』
昔、この周辺に住んでいたと言っていたような?
親戚なのかな 家の先祖の写真だと言っているし、
何の話なんだろう 家の先祖の写真だと言っているのにw
何度言っても、わからない人間がいるんだよな
むかーし、住んでいたところも、そうだよ 妹:5月15日生まれ
wikiでも良い、何て書いてある ◆FAQ 48
Q:「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」
と魏志にはあるが、この七八十年間の男王の墓は纏向古墳群のどこになるのか?
A:そんなの判らんだろ 本当にいたかも確かじゃないし
A:だいたい住七八十年で正しいのか 往七八十年じゃないのかも決め手がない
A:男王がどこにおっても関係ないけどな
Q:何が矛盾するの?
Q:答えられないのか?
E:また病気再発か
E:なんの矛盾もないってことでFA?
E:男王の墓とやらが纏向にないといけないという理由が皆無なので何も問題がない
こんな男が畿内説の代表みたくふるまってたんだぜ恥ずかしい。
都合の良い部分だけ切り取って魏志のとおりだ、分かったか、
なんて恥ずかしくないのかね。
まぁ恥という概念を知らないのだろ。 どうせ偉いセンセイの受け売りしかできない馬鹿だw
何がクロスナ層だ、関係あるかいw 誰かドンと来いスレの続き立てろ。
テンプレも呟き嵐ももう要らないあ ここのスレ主は邪馬台国畿内説 PART1も
キウスキウス言いながら荒らしてるんだぜ、書き方ですぐわかる。 >>57
>・・・2世紀前半から3世紀後半まで続いた王権が平地に墓なんて作らない。
人々を見下ろす高天原に墳墓を造った。
そして今も日本最古の神社が聖域としてお守りしてます。 これが卑弥呼の墓です・・・<
「南≠東」だから、卑弥呼は奈良盆地にはいないので、✖。 >>278
わかるんだったら何番が1の書き込みなのか言ってみなよ >>58
>その“民族戦争”である「天孫族の九州から大和への侵出」なんだけど、
なんで「大和へ」になるの?<
記紀と新唐書などに、
「日本、古倭奴也。・・・其王姓阿毎氏・・・居筑紫城。 彦瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州」
などと言う事が書かれているから。
>湿地帯で片田舎の大和と、どうして“民族戦争”が起こり得るの?@阿波<
それまでの奈良盆地では出雲系の銅鐸祭祀部族が既に生活していた、
という所へ、筑紫城から神武らが侵略して来た事になったから。 >59
>・・・カミとはカモ、つまり鴨である。
纏向なる平地の瀬戸内海洋下賤民・物部と卑弥呼は関係がない。 頭が高い、控えろ。<
卑弥呼は筑紫の女王であり、大和盆地や鴨とは関係がない。
頭が高い、控えおろう。 >記紀と新唐書などに、
「日本、古倭奴也。・・・其王姓阿毎氏・・・居筑紫城。 彦瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州」
などと言う事が書かれているから。
日本(大和)、古倭(阿波)奴也。
其王姓阿毎(海人・忌部)氏
居筑紫(阿波西部)城
なんですよ。 @阿波 >>284
>それまでの奈良盆地では出雲系の銅鐸祭祀部族が既に生活していた
だ・か・ら・湿地帯で片田舎の大和に、どうして出雲系の銅鐸祭祀部族が既に生活していたの?
出雲系の銅鐸祭祀部族は「湿地帯で片田舎」が好みなの? @阿波 >>60
>あのイワレヒコでさえ、平地(御所市柏原)にしか住めなかった。
金剛山の中腹・高天原(御所市高天)にすむ神々の地位には登れなかった。
にもかかわらず何が纏向だ、ふざけるな。 >>1は頭が高い、控えろ。<
倭人の原郷は「燕の南」であるから、高天原も燕の南の方にあったのであり、
そこから海峡付近の天國や九州に天降ったのであるから、
「金剛山の中腹」など、高天原にはならない。
頭が高い、控えおろう。 >>284
わざわざ「湿地帯で片田舎の大和」などへ行かずとも、
温暖な海や山・川に恵まれた「阿波」へ来なさい。 面倒見るから @阿波 >>64
>>筑紫の高祖山連峰の日向峠<
>何の神様も祀られてまへん。せいぜい地元のチンケな神様w しかも卑弥呼から比べてもかなり後の時代だろ。
話になりまへんw <
高祖神社は漢の高祖が祀られており、
西の細石神社は磐長姫と木花開耶姫が祀られて漢委奴國王印も置かれていたし、
東の飯森神社には伊弉冉尊を祀る。 >>290
飯森神社 創建:西暦859年
細石神社 社格等 村社
ワハハハハハ!
パチモン神社乙w >>69
>九州説を成り立たせるためには、沼地でド田舎の畿内を持ち上げなければならない九州説のジレンマ。@阿波<
阿波説を成り立たせるためには、
歴代中国史書群の「南」を「東だ」といういう嘘つきダマシをしなければならないジレンマと、
「大和は、筑紫倭国の中の倭奴国から別れた別種の旧小国である」
という史料事実も否定するウソダマシをしなければならないジレンマ。 ◆FAQ 48
Q:「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」
と魏志にはあるが、この七八十年間の男王の墓は纏向古墳群のどこになるのか?
A:そんなの判らんだろ 本当にいたかも確かじゃないし
A:だいたい住七八十年で正しいのか 往七八十年じゃないのかも決め手がない
A:男王がどこにおっても関係ないけどな
Q:何が矛盾するの?
Q:答えられないのか?
E:また病気再発か
E:なんの矛盾もないってことでFA?
E:男王の墓とやらが纏向にないといけないという理由が皆無なので何も問題がない
こんな男が畿内説の代表みたくふるまってたんだぜ恥ずかしい。
都合の良い部分だけ切り取って魏志のとおりだ、分かったか、
なんて恥ずかしくないのかね。
まぁ恥という概念を知らないのだろ。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は? E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想 Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想 E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない E:頭が悪すぎる E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ E:全く理解できない E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの E:老人性のアレでよくあるよ E:頭のネジが飛んでるから
E:また壊れたのか E:思考停止中 E:東遷説ボコボコだな
E:なぜ無理なのか説明できないまま E:論理破綻 E:唯我独尊症
E:出かけるって嘘なのね E:思い出したように呟き荒らしする
E:こんな単調な繰り返しが平気って普通じゃないよね E:病んでますね >>294
>「大和は、筑紫倭国の中の倭奴国から別れた別種の旧小国である」
という史料事実も否定するウソダマシをしなければならないジレンマ。
「大和は、倭国(阿波)から別れた別種の旧小国である」という史料事実 @阿波 >>69
>九州説を成り立たせるためには、沼地でド田舎の畿内を持ち上げなければならない九州説のジレンマ。 @阿波
わざわざ「湿地帯で片田舎の大和」などへ行かずとも、
温暖な海や山・川に恵まれた「阿波」へ来なさい。 面倒見るから @阿波 >>90
>崇神は前王朝を倒した。<
崇神は、本家の筑紫倭国の「東征毛人五十五國」の応援手助けをし、
大和の周りの出雲系の銅鐸祭祀部族も征伐して、
そしてその怨霊が怖いので大神神社を建てた。 高祖(たかす)は嶋郡川邊里戸籍に書かれてる
高祖村に住んでいた韓鍛の宅蘇吉志(肥君猪手の庶母、妻、妾)だよ >>125
>ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する <
画文帯神獣鏡はその形態から、呉系の楽浪鏡師の製作と考えられ、
徳島の萩原1号墳と共に、楽浪の有棺有槨流民部族の(筑紫や出雲を経由した)渡来と考えられる。
>箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である <
箸墓は、那珂八幡の踏襲学習である事が判っており、
新井氏の分析に拠って、半島の古韓尺を用いて造られた事も判っている。
>その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された<
それが確かなら、魏使らは「倭国に馬がいなかった」事を報告しているから、
それは逆に、大和が魏使らが来た女王国ではない、という事の証拠になる。 >>125
>ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、
朝鮮半島での発見例がなく、中国本土との直接交渉の結果である可能性が認められる<
「これまで列島や朝鮮半島に存在しなかった」なんて、そりゃ無理。
おそらくその全域の調査などしていない話なんだろうし、
大和は筑紫倭国の地方の市を監督する大倭職であったんだから、
市を介して齎された可能性も幾らでも有り得る。
>倭人が上献した絳青縑(FAQ29参照)も重要である<
これもどんな論理なのか?は知らんが、
前項と同じように、市を介した、という事で、おそらく説明が可能。 >>305
おまえがキウスであり、
キウスキウスと言ってるのもお前。 >>215
>アホの>>1
誤りを直さず、恥の上塗りを続ける>1 >>247
>A:信ぴょう性に欠ける情報なので依拠するに足りない
翻訳すると、都合の悪い情報は無視します >>254
>>>251
>男王の墓とやらが纏向にないといけないという理由が皆無なので何も問題がない
>結論が出たようだね
場所が違えば別の国だよ。 >>305
無様なのは1だろう。
畿内説としてもお粗末。 >>125
>また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(三世紀末)からは、
中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、
中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない<
その「三世紀末」という判断が、そもそも箸墓が4世紀初め以降になる、
という史料実態に矛盾する。
また超大型国産鏡は、倭奴国の阿毎氏の後裔の平原に存在するのであり、
大和に超大型国産鏡が存在したのなら、それは当然平原の阿毎氏から、
別種分家の大和の市を監督する大倭職の阿毎氏へ、市を介して齎された事になり、
だから、「羅張りの夾紵製容器」も筑紫を介して齎された事になる。
そして、入手時期も、魏が公孫氏を滅ぼしてから楽浪滅亡の間、であっても十分であり、
だから、逆に、時期的に、平原が壹與の墓である傍証にもなる。 国造り
邪馬台国も無かった時代の話、
日本には天皇もいなかった
おかしな話になってこない? >>125
>洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい
2世紀の鏡である<
鏡の副葬が「伝世であった」である、という事は、
前漢〜晋までの間に副葬された、という事を示すだけであり、
「後漢鏡と見てよい」なんて、嘘つきダマシにしかならんよ。
>内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において
圏帯もしくは圏線のあるもの(XA)と素手の消失したもの(XB)が共存する<
その「漢鏡6期(2世紀)」という時期特定がおかしい。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku288.htm
の「■ 洛陽晋墓の鏡」の項を見て見ろ。
洛陽晋墓からも筑紫からも、どちらからも「蝙蝠鈕座内行花文鏡」が出土しているから、
漢鏡6期(2世紀)ではなく、晋代だ、と言うべきである。
>蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)などがある
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう<
その「共伴する遺物の紀年銘」があったんなら、
そりゃ、「洛陽焼溝漢墓」の話であり、
始めから「洛陽晋墓」のような「晋代のものではない」ではないか。
スレ主は、全くのアホサギシだねえ。 『諸蕃』
おかしな話だな〜と気づいている人もいる
「先住民だよ」と言っている人がいたり
かなり前のエミシなどのスレ 謎の名字辞典
胡=キュウリ?だとして・・・エビスと書いてあったり >>286
>>記紀と新唐書などに、
「日本、古倭奴也。・・・其王姓阿毎氏・・・居筑紫城。 彦瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州」
などと言う事が書かれているから。<
>日本(大和)、古倭(阿波)奴也。其王姓阿毎(海人・忌部)氏 居筑紫(阿波西部)城
なんですよ。 @阿波<
史料事実には、「倭=阿波」や「阿毎=海人・忌部」なんて、書かれていないし、
筑紫城は「阿波西部城」も、「南≠東」の違反だし、史料事実にもない。
という事は、この投稿子も、史料根拠のない分裂幻覚妄想ばっかりであった、
という事になる。 えびす
魚の骨が出てきたり、
貝塚・・・漁などをして生活していた時代の人
貝塚 縄文時代 当時日本という国は無いけど、
日本で一番古い、最初に現れた存在(人間)だと言っていたり
『エビス 渡来』
全部読んでいないけど、ここでもそのように言われているでしょ >>287
>>それまで(神武侵略まで)の奈良盆地では出雲系の銅鐸祭祀部族が既に生活していた <
>だ・か・ら・湿地帯で片田舎の大和に、どうして出雲系の銅鐸祭祀部族が既に生活していたの?
出雲系の銅鐸祭祀部族は「湿地帯で片田舎」が好みなの?@阿波<
私は、
神武らは、磐余近辺の 銅鐸部族などの首長たちをダマシ討ちで皆殺しにした、
という事は言ったが
「湿地帯で片田舎」なんて文言を言った事もないし、
纏向は、磐余とは全く違う場所であったのであり、
だから、この投稿をした阿波説者は、
また分裂幻覚妄想のウソダマシの犯罪を起こした事になる。 >>289
>わざわざ「湿地帯で片田舎の大和」などへ行かずとも、
温暖な海や山・川に恵まれた「阿波」へ来なさい。 面倒見るから@阿波<
「南→東」などの嘘つきダマシの分裂幻覚妄想の・・・・阿波も、
秋葉原や麻原らと同じように、直ぐに周りの人々を殺そうとするから、
怖いから嫌だ。 そのサイト?の下のほうを見てみて
2010年頃に更新したのもなのか、記事を書いたのか?
謎の震災以前のものでしょ その後、自主的に移動したのか、
関東のほうに移されたのか
そういう話みたいだよ
蝦夷スレでも言われてるよw >>293
>飯森神社 創建:西暦859年 細石神社 社格等 村社 ワハハハハハ!
パチモン神社乙w<
どちらも、大和の記紀の宗教的思想にとっては都合の悪い祭神であったのだから、
神社を造った人々には、
大和政権の意向に逆らってまで敢えて神社を造ろうとするだけの「強い伝承」があった、
という事になる。 >>297
>>「大和は、筑紫倭国の中の倭奴国から別れた別種の旧小国である」
という史料事実も否定するウソダマシをしなければならないジレンマ。<
>「大和は、倭国(阿波)から別れた別種の旧小国である」という史料事実 阿波<
「南≠東」という史料事実に拠って、倭国は阿波ではなく、
だから、阿波は、分裂幻覚妄想の・・・・の嘘つきダマシのサギシ。 俺も可笑しいと思ってた!
68 : 日本@名無史さん2017/06/25(日) 10:20:54.36
>>62
テンプレが荒らし >>298
>九州説を成り立たせるためには、沼地でド田舎の畿内を持ち上げなければならない九州説のジレンマ。@阿波<
九州説には、「南≠東」であるから、始めから、ど田舎の大和を持ち上げる必要がない。
>わざわざ「湿地帯で片田舎の大和」などへ行かずとも、<
九州で十分であるから、「湿地帯で片田舎の大和」へ行く必要がない。
>温暖な海や山・川に恵まれた「阿波」へ来なさい。 面倒見るから@阿波<
「南→東」などの嘘つきダマシの思想宗教的な分裂幻覚妄想の・・・・サギシは、
麻原やヒトラーや金日成の孫やキョクウの戦争狂らと同じように何時殺し合い戦争を引き起こすかも知れず、
怖いから、行かない。 仮名なのかもしれないけど、ニギハヤヒ?
「何がニギハヤヒだよ、トンデモw」
このような事を言っている人がいたでしょ こりゃ酷い展開ですね。
それにしても相変わらず姑息に逃げ待って、
情けないなぁ。 キュウリの葉の写真
ニギハヤヒの関係者だと思うんだけど >>301
>高祖(たかす)は
嶋郡川邊里戸籍に書かれてる 高祖村に住んでいた韓鍛の宅蘇吉志(肥君猪手の庶母、妻、妾)だよ<
「嶋郡川邊里戸籍に書かれてる」ものが、高祖神社の祭神であったのか?の根拠がない。 >>339
魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
↓
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
という理由は?
姑息に逃げ回るなよな 気づいていると思うけど、
現在(いま)の話だよ
人権侵害だと言っている人がいたり なぜか信onというスレ
「勝手なことをした奴がいる」と言っている人がいたり 「国際法で解決しようと言っているのだ」
確か、どこかで見たんだけど 兄 弟
妹がいて「りん りん」と言ってるんじゃなかった? >>345
2世紀前半の男王墓がないからだろ。
当たり前だろ、小学生でもわかる。
なに屁理屈捏ねてるんだ。
ぶざまな男だ。 例えば家
現在、家にいるのは父親、母親
兄とモレ(弟) >>339
岡上よ
魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
↓
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
という理由は?
姑息に逃げ回るなよな Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は? E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想 Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想 E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない E:頭が悪すぎる E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ E:全く理解できない E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの E:老人性のアレでよくあるよ E:頭のネジが飛んでるから
E:また壊れたのか E:思考停止中 E:東遷説ボコボコだな
E:なぜ無理なのか説明できないまま E:論理破綻 E:唯我独尊症
E:出かけるって嘘なのね E:思い出したように呟き荒らしする
E:こんな単調な繰り返しが平気って普通じゃないよね E:病んでますね
たった一問に答えられず朝鮮人特有の火病w >>1
おまえもうスレ立てるな。
畿内説はおまえでは無理だ。
精神科にでも行って治療しろ。 妹は数年前に結婚したから、
家にはいないと書いたはず
結婚をした相手も兄弟だよ、
弟のほうと結婚したんだよ
ちなみに家の先祖の写真・・・キュウリの葉、葱の華・・・。 兄 弟(もれ 仮名)
妹→兄弟の弟のほうと結婚した、200□年だったかな >>339
なあ岡上よ
魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
↓
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
という理由は?
姑息に逃げ回るなよな >>354
誰が見てもおまえが逃げ廻ってる。
恥を知れ。
徳川家康から3代の墓が100年後に創られたか?
それと同じ。
子供でも分ることを理屈こくな。
マジ死ね。 >>360
昭和天皇の墓が100年後に創られてるのか?
死ね、クズ。 >>361
だから
魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
↓
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
という理由は? >>363
85 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2017/06/25(日) 10:59:13.98
QをQで返すwwww
墓穴 >>368
いやおまえがまずQにAを返してないのだが?ww
何言ってんのこいつw 「すくなひこ・・・海神の〜」
このような事を言っている人もいた 魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
↓
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
という理由は?
理由がないなら妄想だよね 「弟だよ」
と言っているのがいたり、
弟のほうが白髪というか銀髪のようになるのかな? 兄、弟(もれ、仮)
妹でしょ・・・かなり結婚したから家にはいない、
知っている人がいるのかな
弟のほうが・・・ 魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
ならば2世紀前半から始まってないといけないよね。
当たり前だが。
なにを言い逃れしてんだきちがいキウス さてさて
魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
↓
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
という理由は何かな?
理由はないのかな? たいがいクズを見てきたが、
ここまでのクズも珍しい。
キウス、まぁ死ね。 屁っこきふがふが 尻穴くせくせ しゅらしゅしゅしゅ〜 そもそも私は今日はこれが二回目の書き込みですし、逃げ回ってるはここの1さんでしょ。
巻向は、早い見方でも3世紀からの遺跡でしょ。二世紀の「其国」の遺跡には相応しくない。相応しいのは、巻向日代宮です。 味の素は白い、郵便ポストは赤い
だkら畿内説は間違いだ
当たり前だ
とか、そのうち言いだすぞ 2世紀前半の男王墓はどこだ。逃げるな吉外キウス。
どうせまた「その理由は?」で逃げてきますよ、皆さんw
見ててくださいよw >>392
言い訳笑っちゃう
それで
魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
↓
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
という理由は何かな? どうせまた「その理由は?」で逃げてきますよ、皆さんw
見ててくださいよw ほら>>396で逃げて来たw
つづけてまた「その理由は?」で逃げてきますよ、皆さんw
見ててくださいよw 近所に、おかしな人が住んでいるのか、そのような団体があるのか?
カルト、セクトなのか?
「川崎に住んでいるよ」と言っている人がいたり >>395
それはもう誰かが回答してるだろう
不明だと 「その理由は?」
「根拠は?」
で逃げる旦那芸www >>396
おーい岡上
だから
魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
↓
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
という理由は何かな?
理由はないの? >>403
理由が答えられないんなら
逃げてるのは答えないやつだ >>401
不明ならダメだろ。
「その理由は?」
「根拠は?」
でこいつは逃げますよwww >>405
アホか、おまえがQに答えてない。
「その理由は?」
「根拠は?」
でこいつは逃げますよwww 本当の話
川崎区の南部のほうに住んでいて、弟でしょ?
浦島太郎だったかな、白髪のようになる 「その理由は?」
「根拠は?」
でこいつ(チヨン)は逃げますよwww アンチは自分の主張の理由を聞かれると火病を起こして逃げ回ります Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
A:そう思うのは妄想です
其国に2世紀前半から男王が存在していると
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
という理由がないので ではなぜ◆FAQ 46 まで、「理由は?」と聞かないのだろうか。
こいつが逃げ回ってることが誰のめにも明らか。
ぶざまな男。
面倒臭い、死ね。 >>404
なんかヤケクソで暴れまわってる様にしか見えませんね。
およそ一世紀の時間差があるのだから、巻向は魏志の「其国」には相応しいとは言えない言えないですよ。 あら、トリップはずれた。
415は私です。
>>413
悪徳企業の対応みたいですね。 >>415
およそ一世紀の時間差があるのだから、巻向は魏志の「其国」には相応しいとは言えない言えない
って理由は? 浦島太郎:四季 春夏秋冬、福島県?機織御前の御社を建てた
むかし住んでいたと言っていた周辺じゃない?
広瀬川という川があって >>422
其国に2世紀前半から男王が存在していると
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
という理由がないので >>413
A:そう思うのは妄想です
其国に2世紀前半から男王が存在していると
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
という理由がないので
理由がないという理由は?? >>415
およそ一世紀の時間差があるのだから、巻向は魏志の「其国」には相応しいとは言えない
という理由は?
「其国」とは具体的にどの国? Q47は、珍回答続出ですね。
笑わせて頂きました。。
それにしても荒れますね。 >>427
魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
↓
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
という理由は何かと質問したが回答がないので 調べてみると銀?という人もいる
老婆も、なんで謎の震災後に
話をするようになったんだろう >>433
>という理由は何かと質問したが回答がないので
という根拠は? >>434
魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
↓
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
という理由は何かと質問に回答がないので ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は? E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想 Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想 E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない E:頭が悪すぎる E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ E:全く理解できない E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの E:老人性のアレでよくあるよ E:頭のネジが飛んでるから
E:また壊れたのか E:思考停止中 E:東遷説ボコボコだな
E:なぜ無理なのか説明できないまま E:論理破綻 E:唯我独尊症
E:出かけるって嘘なのね E:思い出したように呟き荒らしする
E:こんな単調な繰り返しが平気って普通じゃないよね E:病んでますね
大笑い、火病キウスwwww はいはい逃げ回りの岡上さん
魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
↓
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
という理由は何ですか?
締め切りますよ
理由がないなら妄想ですな 兄:10月30日生まれ
まらd−な?と同じ
伊達郡川俣町という掲示板参照 >>439
>という理由は何かと質問に回答がないので
という根拠は? >>419
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
A:そう思うのは妄想です
其国に2世紀前半から男王が存在していると
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
という理由がないので
反論はないということでオK? >>345
>>>339
> 魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
> ↓
> 2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
>
>という理由は?
>姑息に逃げ回るなよな
こいつは、日本語が通じてないか、botじゃない? >>444
回答があるというなら具体的に示せ
という問いに>>444は答えられないから >>442
締め切る理由は?
そしてその根拠は?
その根拠の理由は?
以上3つを答えろ。
答えなきゃおまえは死ね。 >>448
>>444は答えられない
という理由は? 信onというゲームがあるでしょ?
たしか当時の風雲録 >>387
理由と結論を順番に明記してあるのに理解できないのはアホ。
読解力がないとか、小学校で言われなかったか?
いやしくも学問版のだから、最小限の日本語読解力を獲得してから訪日してください。 >>445
A:そう思うのは妄想です
その根拠は?
>其国に2世紀前半から男王が存在していると
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
という理由がないので
その根拠は? >>419
>悪徳企業の対応みたいですね。
畿内説論者はただの詐欺師集団ですよ。 >>449
>締め切る理由は?
お前が答えられないという理由になるからだな
>そしてその根拠は?
事実として明らかになるから
>その根拠の理由は?
ログに残るから 魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
↓
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
という理由がないことが判明しログに残りました
はい決着 >>1
>邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
その理由は?
>もう確定なのでロマンはありませんが
ロマンはないという理由は?
>勝者の貫録を見せつつ
見せる根拠は?
>更なる真実を探求しましょう
探求する理由は? >>419
>およそ一世紀の時間差があるのだから、巻向は魏志の「其国」には相応しいとは言えない言えない
これも理由がないと確定した
決着 >>1
前スレ
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1497972827/
>◆1(女王所都)
その理由は?
>奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に
その根拠は?
>人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、
その理由は?
>また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、
その理由は?
>そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
その根拠は? 数年前の△スレ
「神様の真似なんてしているから、こんなことになってしまった」
「何度も言いました、そういう事なんだっつーの!」
「もうどうにもならないんだっつーの」 >>1
>箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、
理由は?
>初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
理由は?
>乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その理由は? >>1
前スレ
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1497972827/
>◆1(女王所都)
その理由は?
>奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に
その根拠は?
>人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、
その理由は?
>また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、
その理由は?
>そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
その根拠は? >>1
>箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、
理由は?
>初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
理由は?
>乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その理由は? 予言スレでも忍者の話をしているけど、
ゲーム内に作成したキャラの事を言っているのかな
作成した、なかの人は、その謎の写真の家 「本人だよ」
「本物です」
と言っている人がいたり これも本当の話
川崎区の南部のほうに住んでいる、
家の前は駐車場になっている
後ろのほうに産業道路、横羽線 >>1
>この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、
その理由は?
>列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、
その理由は?
>ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、
突合する理由は?
>箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、
根拠は?
>ここ纒向が女王の所都である
その理由は? >>1
>箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、
理由は?
>初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
理由は?
>乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その理由は? >>1
前スレ
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1497972827/
>◆1(女王所都)
その理由は?
>奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に
その根拠は?
>人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、
その理由は?
>また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、
その理由は?
>そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
その根拠は? 気づいている人は気づいているんだよ
ナニヤラを盗んだんじゃないのか?という話
天子神璽、三種の神器? 819 : 岡上 ◆JN/67qb8kM 2017/06/24(土) 10:13:19.43 >>885
>で、ここの畿内説はちゃんと魏志との突合はやったのですか?
>畿内には二世紀前半の男王の墓がないのではないですか?
>
>説明も反論もあきらめて、もはや居直り強盗の類ですか(笑)
とか言ってて理由聞かれたら即トンズラ 天子神璽、三種の神器、冤罪事件でしょ?
うまやど・・・スサノオなど トンデモの人ってのは自分の思い込みを事実と固く信じてるから
理由を聞かれるとパニクったりキレたりするんだよ 松の木(モミ?)・・・七支刀のような形
なぜ詳しいのか?なんだよな 謎の冤罪事件
カモ 陰陽師という話
それとカモネギ?
ポケモンに登場するでしょ 最近よく見かける、
戦国時代の事などを調べてみると
誰々某などは礼儀、作法、教養がないので、
(教育)教えたとか
そういう教えなども、
どこから入って来たものなのか
アセンション? こういうのも、一部、本当の話のような気がする
『アセンション 華麗なる成長』
礼儀、作法とか、それとも、そういう事が通用しない世界なのか、
業界の人間ではないから知らないけどw あのアセンション(上昇)したいという話でしょ、
上の人間だ、
みたいな話だと思う 七支刀だか何だか知らないけど、
何かの先生のようなことが書いてあったり 書いてあるでしょ、
朝鮮人部落?
それと中華、
漢人系の人物、何かの先生なのかな・・・冤罪事件 なぜか数年前のkpopスレ
ワニさんが何やらと言っている人がいたり 「なんだ聖人でも殺したのか?」
「親戚でも殺されたのか」と言っている人もいた 老婆は詳しすぎるんだよな
むかーしウサギを飼っていた事があった。
近所には朝鮮人?ばかり住んでいた。
泥棒のようなものに入られたりもした。
家に本や書なんかが沢山並んでいた。 昨日から、書き込みが独占されているようですね。
☟
それで
魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
↓
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
という理由は何かな?
☝
似たようなカキコミ例
・都が統一しない九州説は無理だ
・丹が無い九州説は無理だ
堂々巡りの議論のための議論じゃなでしょうか?
肝心なのは、いずれの説が倭人伝に基づく物証があるかがカギでは? ◎ないでしょうか 物証が多いかがカギでしょう
✖なでしょうか 物証があるかがカギでしょう
追加
畿内説・・・・倭人伝に北部九州が記述されてるのは認めている
九州説・・・・畿内は倭人伝では記述されていない。当てはめるなら倭国外の圀 数年前の信onというスレ、
なぜか、このような事を言っている人がいたり
「いい加減に迷惑なんだよ」
暴力団関係者か何かが?いたのかな これも本当の話、親戚の話
クチの、この辺りにホクロがあるんだけど、女の人
『口.』 川崎区に住んでいるみたいだよ、
川崎区の生まれ、出身。
このような事を言っている人もいたような 何の家だったんだよw
と思うだろうけど
何かの家だったんだと思う >>506
>・丹が無い九州説は無理だ
こりゃあ無理でしょ
倭人伝に倭国の産物といてハッキリ其山有丹と書いてあるんだから
倭国とは九州のことだけだなんて種類の九州説が成り立つわけがないわ 『サイバーパンクspecial』
とある作品にロトという人物が出てくるんだけど
「寒い〜、寒いな〜」と言っていたり
なぜか川崎区の南部のほうに住んでいる >>506
>堂々巡りの議論のための議論じゃなでしょうか?
これも無い
理由がない主張だとわかったら廃案なんだからハッキリ決着がつく
堂々巡りはしない 確実に紛い物だろうけど
「仕事をしろ、このコジキが」
と言っている人もいた、ほとんど逆の話だな でも家は一般人なんだよな〜
・・・どういう事なんだろう
あのキュウリなどの写真、
家の先祖の写真なんだけどw 『魔法のペルシャ』
平家 聖徳太子?
何の話なんだろう >>513
論外
九州にあって畿内に無い物ぐらい知ってんの? >>523
参考
倭国の産物とされるもののうち、弥生後期までの鉄や絹は北九州からのみ出土する。 ちなみに家は一般人だよ、
両親も祖父母もそう、親戚も一般人 テンプレは極めて恣意的な論証としか言いようが有りません。
辻褄が合う、疑いがない・・・これらは間違いです。
後漢書「東夷伝」、魏志「倭人伝」の記述と考古学上の発見、これらを関連させて考えるとどうしても一致してこないので、様々なことに着眼して議論が続いています。
要するに物的証拠が足りないので、辻褄を合わせている、あるいは可能性が高い、といった手法をとっているに過ぎません。 >>528の言うことって具体的な指摘がなんにも無いね
ただの悪口かな? また、このような広告?が出てきたw
『詐欺師と一緒にされるのも嫌なので』 まあ個人的に言うと、どちらとも分からないので、新たな物証を待つのが一番健全な姿勢だと思います。
定説も何も無いところで議論しても主張にしかならないですし、極めて恣意的な論証しかできません。
なので、わたしの回答は「わからない(私的には九州)」です。
卑弥呼が女性だというのは、後漢書、魏志ともに記述があります。
これは間違いないでしょう。 その人物、なーんとなくだけど、
モレ(仮)の兄に似ている
でも、そのような仕事はしていないよ 黒いニット、サングラス?
角度的に雰囲気が似ているんだけど、何なんだろう 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
−弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。 ネギま『赤松氏 某』で検索すると何か出てくるよ、少なからず関連している 老婆が言うには
どのような刀なのかは、わからないけど、
むかーし、家に凄い刀が飾ってあったとか >>531だよな
こいつ睡眠何時間で貼り付いてんのよ それと陰謀スレ
「神の真似なんてしているから、こんな事になってしまった」
謎の書き込みをしている人がいたり、某こそが本当のカムなのかな? ◆FAQ 49
Q:纏向遺跡や箸墓古墳には瀬戸内の要素が強いが、
卑弥呼と瀬戸内にどんな関係があるのか? >>1
>箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、
理由は?
>初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
理由は?
>乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その理由は? Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は? E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想 Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想 E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない E:頭が悪すぎる E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ E:全く理解できない E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの E:老人性のアレでよくあるよ E:頭のネジが飛んでるから
E:また壊れたのか E:思考停止中 E:東遷説ボコボコだな
E:なぜ無理なのか説明できないまま E:論理破綻 E:唯我独尊症
E:出かけるって嘘なのね E:思い出したように呟き荒らしする
E:こんな単調な繰り返しが平気って普通じゃないよね E:病んでますね
一回も答えてません。 まてよ。
読む人間の神経を逆撫でしてアンチを増やすためのテンプレなのかもしれない。
うん、そうに違いない。 邪馬台国の話なのかな?
その写真の家なんだけど、家に凄い刀が・・・ >>547
>>>545
>書いてあるやん
逃げるなよ。 >>546
理由がないので妄想
ってAが書いてあるが >◆1(女王所都)
その理由は?
>奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に
その根拠は?
>人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、
その理由は?
>また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、
その理由は?
>そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
その根拠は? >>551
本気で言ってる?
畿内厨の開き直りも極限まで来てるな Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は? E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想 Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想 E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない E:頭が悪すぎる E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ E:全く理解できない E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの E:老人性のアレでよくあるよ E:頭のネジが飛んでるから
E:また壊れたのか E:思考停止中 E:東遷説ボコボコだな
E:なぜ無理なのか説明できないまま E:論理破綻 E:唯我独尊症
E:出かけるって嘘なのね E:思い出したように呟き荒らしする
E:こんな単調な繰り返しが平気って普通じゃないよね E:病んでますね
一回も答えてません。 畿内説の論客は皆、ここから去ってった。
ザコばかり残ってしまった。 >>557
俺の説は正しいだろ?って質問には
その答えでいい >>561
「其国は2世紀前半から男王が存在しているならば
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ」
という説が間違いだと
全世界で確定 >>562
「思うが?」って質問なら
「思うのは自由だから誰にも止められないが理由を言わないと賛同者はないね」
って答えが一番正解だな Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は? E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想 Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想 E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない E:頭が悪すぎる E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ E:全く理解できない E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの E:老人性のアレでよくあるよ E:頭のネジが飛んでるから
E:また壊れたのか E:思考停止中 E:東遷説ボコボコだな
E:なぜ無理なのか説明できないまま E:論理破綻 E:唯我独尊症
E:出かけるって嘘なのね E:思い出したように呟き荒らしする
E:こんな単調な繰り返しが平気って普通じゃないよね E:病んでますね
一回も答えてません。 箸墓古墳の年代が卑弥呼の年代と重なるとしても、それだけでは卑弥呼墓と決めつけることはできない。
魏志倭人伝にあるように卑弥呼が他の国をまとめる長であったとしても、それが即ヤマトを制したことに直結しない。
国の曙時代ですから、ヤマト勢力と卑弥呼勢力が併存していた可能性を否定できません。 >>568
理由もなく言い張る岡上のアホさが全世界に拡散します ◆FAQ 49
Q:纏向遺跡や箸墓古墳には瀬戸内の要素が強いが、
卑弥呼と瀬戸内にどんな関係があるのか? >>572
いつ提示したのか確認できるログがないから Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は? E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想 Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想 E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない E:頭が悪すぎる E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ E:全く理解できない E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの E:老人性のアレでよくあるよ E:頭のネジが飛んでるから
E:また壊れたのか E:思考停止中 E:東遷説ボコボコだな
E:なぜ無理なのか説明できないまま E:論理破綻 E:唯我独尊症
E:出かけるって嘘なのね E:思い出したように呟き荒らしする
E:こんな単調な繰り返しが平気って普通じゃないよね E:病んでますね
一回も答えてません。 Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は? E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想 Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想 E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない E:頭が悪すぎる E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ E:全く理解できない E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの E:老人性のアレでよくあるよ E:頭のネジが飛んでるから
E:また壊れたのか E:思考停止中 E:東遷説ボコボコだな
E:なぜ無理なのか説明できないまま E:論理破綻 E:唯我独尊症
E:出かけるって嘘なのね E:思い出したように呟き荒らしする
E:こんな単調な繰り返しが平気って普通じゃないよね E:病んでますね
このように逃げ回り一回も答えてません。 Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は? E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想 Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想 E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない E:頭が悪すぎる E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ E:全く理解できない E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの E:老人性のアレでよくあるよ E:頭のネジが飛んでるから
E:また壊れたのか E:思考停止中 E:東遷説ボコボコだな
E:なぜ無理なのか説明できないまま E:論理破綻 E:唯我独尊症
E:出かけるって嘘なのね E:思い出したように呟き荒らしする
E:こんな単調な繰り返しが平気って普通じゃないよね E:病んでますね
このように逃げ回り一回も答えてません。 確実に繋がっている
『赤松氏 菅野氏』
「川崎に住んでいるみたいだよ」と言っている人がいたり、ネギま?
先祖の写真も家にあるし、何なんだろう 魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
↓
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
という理由を聞かれても答えないんだろ?
なら理由がないから妄想で確定だろ Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
A:はい。2世紀前半の男王墓はありません。
したがって纏向遺跡は邪馬台国の王都ではありません。 Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
A:はい。2世紀前半の男王墓はありません。
したがって纏向遺跡は邪馬台国の王都ではありません。 >>584
2世紀前半の男王墓がないと纏向遺跡は邪馬台国の王都でない
という理由は? >>583
ここが理由
>魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
ここが結論
> 2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
わからない方がおかしいだろ Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
A:はい。2世紀前半の男王墓はありません。
したがって纏向遺跡は邪馬台国の王都ではありません。
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1498340829/l50
ここのスレ立て人を強制入院させます。 >>588
>理由がないならトンデモ説
畿内説のことですね。
わかります。 魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
↓
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ
という理由は?
理由がないなら妄想だよ Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
A:はい。2世紀前半の男王墓はありません。
したがって纏向遺跡は邪馬台国の王都ではありません。
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1498340829/l50
ここのスレ立て人を強制入院させます。
この人物はキウスと言って「希薄」という漢字を読めません。
Q:アホなのですか?
A:はい。 >>590
その理由と結論がどうやって結びつくんだ?
論理的な繋がりがないだろう ◆FAQ 49
Q:纏向遺跡や箸墓古墳には瀬戸内の要素が強いが、
卑弥呼自身と瀬戸内にどんな関係があるのか? ◆FAQ 50
Q:纏向遺跡に2世紀前半の王墓はないんやな?
はっきりせんかいボケ。 ◆FAQ 50
Q:纏向遺跡に2世紀前半の王墓はないんやな?
はっきりせんかいボケ。
あるのかないのか答えろ。 >>604
A.ないです。
纏向は邪馬台国とは関係ないクソ田舎の遺跡でしょう。 ◆FAQ 50
Q:纏向遺跡に2世紀前半の王墓はないんやな?
はっきりせんかいボケ。
あるのかないのか答えろ。
A:はい。2世紀前半の男王墓はありません。
したがって纏向遺跡は邪馬台国の王都ではありません。
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1498340829/l50
ここのスレ立て人を強制入院させます。
この人物はキウスと言って「希薄」という漢字を読めません。
Q:アホなのですか?
A:はい。 >>603
>定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる
>もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりがあったことを示しており、此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう
と書いてあったぞ >>610
ウソ「書いても自分が不利になるだけです。 朝っぱらから自分の主張には理由がないと言い張る岡上は異常者 >>612
だから吉備と卑弥呼の関係は?と聞いてるのだが >>611
では魏志の記述に合いません。
したがって邪馬台国の都ではありません。 ◆FAQ 50
Q:纏向遺跡に2世紀前半の王墓はないんやな?
はっきりせんかいボケ。
あるのかないのか答えろ。
A:はい。2世紀前半の男王墓はありません。
したがって纏向遺跡は邪馬台国の王都ではありません。
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1498340829/l50
ここのスレ立て人を強制入院させます。
この人物はキウスと言って「希薄」という漢字を読めません。
Q:アホなのですか?
A:はい。 >>621
テンプレに卑弥呼と吉備の関係が書いてあるから 瀬戸内海周辺には百襲姫を農耕や水運等の神とする
伝承が点在してるからな。その百襲が生まれた場所が
奈良盆地田原本辺りとされてるからだよ。
またその百襲姫には別名を日女命とする文献資料が
丹波地方に存在する事から、卑弥呼の事ではないかとする説があります。 絹
有田遺跡は弥生時代前期末でしたが、弥生時代中期の遺跡で絹が出土した遺跡は、
中期初頭の吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡神埼町)、中期前半の栗山(福岡県甘木市)、
吉野ヶ里、比恵(福岡市博多区)、吉武高木(福岡市西区)の各遺跡、中期中葉では朝日北(佐賀県神埼郡神埼町)
中期後半では須玖岡本(福岡県春日市)、吉野ヶ里、門田(もんでん:福岡県春日市)、樋渡(福岡市西区)、
立岩(福岡県飯塚市)、三会村(長崎県島原市)、吉ヶ浦(福岡県太宰府市)、
弥生時代後期では吉野ヶ里、栗山、宮の前(福岡市西区)唐原(福岡市東区)の各遺跡から人骨に付着、
あるいは副葬品に付着した形で絹が見つかっています。
何れも福岡県を中心にした北部九州にある遺跡です。
弥生時代に続く古墳時代になると島根県、兵庫県、京都府、大阪府、奈良県、滋賀県、熊本県、静岡県、
福井県、栃木県、茨城県、鳥取県、岡山県など広い範囲で絹の遺物が出土します。
これらの結果から、日本における養蚕の起源は北九州と考えてよいでしょう
畿内は無理がありすぎ 強弁ばかり >>630
テンプレに書いてあると言う証拠は?
また、そのテンプレが正しいという証拠は? なあ岡上、どうして自分が主張してることの理由を言いたがらないの?
理由がない主張しますって言ったら馬鹿だろう?
なんでソレが分かんないの? >>595
倭国は2世紀前半には王がいたと書いてあるのに、纒向にはそんな証拠はない。
そもそも倭国は紀元前から朝貢しているのに、畿内にはその形跡がない。 >>635
テンプレを書いた人に質問しているのに、質問で返しているからだろう。 >>638
>>>634
>安価間違ってるぞ
すまん、スレ主が逃げ回るので誤射したかもしれない。 >>629
>その百襲が生まれた場所が
奈良盆地田原本辺りとされてるからだよ。
モモソ媛は崇神の治世まで生きてるから卑弥呼ではあり得ない。
崇神が3世紀中頃にするのは無理だし。
あと周辺に瀬戸内系文化があるからと言ってもそれは関係ない。
2世紀前半からの王家なのだから墓制はその伝統を引き継ぐだろう。 おおっぴらに
魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
↓
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理
って主張してるくせ、何故その理由が言えないの? >>643
それ、理由を説明している文章だろ?
なぜ理解できずにぐちぐち言っているんだ? ◆FAQ 50
Q:纏向遺跡に2世紀前半の王墓はないんやな?
はっきりせんかいボケ。
あるのかないのか答えろ。
A:はい。2世紀前半の男王墓はありません。
したがって纏向遺跡は邪馬台国の王都ではありません。
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1498340829/l50
ここのスレ立て人を強制入院させます。
この人物はキウスと言って「希薄」という漢字を読めません。
Q:アホなのですか?
A:はい。 百襲姫が卑弥呼像を反映してるのでは?とされる部分は
幼少から淡路島や讃岐辺りで才女であるという伝承が点在している点。
また倭国大乱を西日本一帯とした場合、後に各地の支持を
得る立場に相応しい地位にある女性である点。
またその墓とされる箸墓古墳が三世紀半ばから末とされるので
規模や年代的に卑弥呼か台与の物として相応しいとする意見が多い点。
それらが百襲を卑弥呼ではないかと推測される部分だろう。 決定
スレ主はアホ
匿名で批判に絡むもアホさ加減をさらに強調する羽目に >>648
>>643
>魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。 >>645
なんで
「其国は2世紀前半から男王が存在している」
と
「2世紀末から始まる纏向遺跡では無理」
という結論が出るんだ?
因果関係を説明してもらおうじゃないか! 2世紀前半からある国が、2世紀末からの国と同じなわけないだろ。
ところで、纒向が2世紀末だなんて、誰が言い出した?
また捏造か? >>1よ
マジレスするが、俺も纏向が邪馬台国だと思ってた。
でもここで指摘されてるように2世紀前半から続いてない時点で無理。
おまえは
ただ逃げ回ってるだけで痛すぎ。 >>649
いくら罵ったって理由を説明してない事実は変わらない
>>642
百襲が台与像を反映してる可能性もあるので
どちらにせよ邪馬台国畿内説を証明するものに代わりはない。
元々都には(女王が)生まれた場所と解釈も出来る。
百襲が生まれた場所も田原本の「保津、都」という場所なのが
それを証明している。 >>652
纒向遺跡が国だなんて誰も言ってないんだが >>654
で?
畿内説支持者で纒向が邪馬台国だと言ってるのは誰なんだ? >>659
だから時代が違うし台与像を反映って意味不明。
グレーゾーンを強引に当てはめてるだけ。 でー、結局
魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
↓
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理
だという理由は何なの?
理由がないなら妄想ってことでいいよね >>662
纏向に卑弥呼がいたのなら邪馬台国
でも纏向に卑弥呼はいない。 ◆FAQ 50
Q:纏向遺跡に2世紀前半の王墓はないんやな?
はっきりせんかいボケ。
あるのかないのか答えろ。
A:はい。2世紀前半の男王墓はありません。
したがって纏向遺跡は邪馬台国の王都ではありません。
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1498340829/l50
ここのスレ立て人を強制入院させます。
この人物はキウスと言って「希薄」という漢字を読めません。
Q:アホなのですか?
A:はい。 今更だが巻向=邪馬台国ではない。
戸数の時点で有り得ない。巻向は神仙思想に影響されて
設けられた宮。鬼道の為の丹等を分配するには相応しい位置にある。 でー、結局
魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
↓
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理
だという理由は何なの?
理由がないなら妄想ってことでいいよね
という理由は何なの? >>665
1なら◆FAQ で4
>A:誰も纒向遺跡が邪馬台国だなどと主張はしていない
>纒向遺跡は巫女王の居た王都であり国ではない
と明言してますが何か? >>671
二世紀前半の何の宮ですか?
巻向遺跡以前に重要な祭祀場とすれば
今のところ伊勢遺跡がそうだと思いますが。 >>674
>誰も纒向遺跡が邪馬台国だなどと主張はしていない
>纒向遺跡は巫女王の居た王都であり国ではない
東京は日本ではないのかアホ >>676
>二世紀前半の何の宮ですか?
男王がいた宮。
お墓も教えてね。 >>681
資料不足でわからないですよ。それに
邪馬台国位置論には関係しないですね。
まぁ仮に百襲の父である孝霊天皇がそうだとするなら
墓は明神山麓か葛城山辺り、もしくは広島周辺という事になります。
勿論推測に過ぎない話ですが。 >>679
ならば東京以外に日本の首都があった時代があっても何の問題もないな
2世紀前半の王の墓が纏向になくてもなんの問題もない
纏向が倭国の都でそこに女王卑弥呼がいたことに何の問題もない アワビマン
奈良県ではアワビが獲れない
故に奈良県は邪馬台国ではあり得ない
としつこく演説していた池沼
実はまだいる 纒向遺跡=邪馬台国 ではなくて、纒向遺跡は邪馬台国の中心地というだけの話だろ
邪馬台国は、四国西部、吉備、大阪、近江などを含んだもっと広い地域
吉備の楯築遺跡などが男王の墓かもしれん つまり
魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
↓
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理
は薄馬鹿の妄言だね >>691
畿内? 邪馬台国が畿内だけとは限らんな >>691
其国は倭国であって邪馬台国じゃないから 纒向遺跡だけで倭国の中心となるような巨大な人口は持てない
これは馬鹿でもわかる話
邪馬台国そのものはかなり広い地域
纒向遺跡は卑弥呼の時代の邪馬台国の中心地 あれ〜
>>1は大和勢力が瀬戸内各地の文化を受容して卑弥呼を擁立したと言ってたがな。
ならば2世紀の大和には瀬戸内各地の文化を受容した「主体」がいたってことだよね? >>700
いつ>>1が「大和勢力が瀬戸内各地の文化を受容して卑弥呼を擁立した」と言ってた? >>701
俺の記憶では言ってたがな〜
まぁ逃げるのが得意のやつだから。
では卑弥呼を祭り上げた主体は2世紀にはどこにいた? それにしても、ほとんど出てくる
トレイン 宇都宮氏。
眼帯 伊達氏。
馬。
涼宮はるひ?
よくわからなけど・・・その他 倭国大乱で何かと揉めるから物腰の柔らかい女性を王に建てたのだよね。
では女性を王に建てた「主体=王権」は2世紀にどこにいた?
テンプレに書いてない。 もっと分かりやすく言うと、
卑弥呼の5世代前の人物(王)はどこにいた?
テンプレに書いてない。 ややこしいので訂正しよう。
卑弥呼の3世代前の人物(王)はどこにいた? >>711
>東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を纒向の地に擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの連合であろう >>716
>纒向の地に擁立した勢力の中核をなすのは瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの連合
なるほどね。
では擁立された卑弥呼の3世代前の王はどこにいた? >>715
三世代って起点は西暦何年でそこから何年前? >>720
西暦200年で60年遡って答えてくれ。 台与は卑弥呼の宗女だよね。
つまり同じ「一族・血族」であったわけだ。
この一族が西暦140年頃はどこにいたの?
纏向? 『city hunter』という曲があったはず
それとdead or alive??の曲が〜と言っていたり
あと白蛇の紋章? 墓制と言うのは基本変えないからね。
明治、大正、昭和の各天皇も天円地方という、
これは前方後円墳と同じ概念であろう古墳に埋葬されている。
という事は卑弥呼が前方後円墳なら、
そのルーツである瀬戸内から来たことになる。
つまり吉備東遷なんだwww
アホの>>1
アホの>>1
wwwwwwwwww こういうの、答えに詰まるっていうのか?
古代に判らないことがあるのは当たり前だろ?
それに1じゃないし 嘘なのか本当なのか、わからないけど
「日本の話なんですよwww」
と言っている人がいたり、どのスレッドだったかな つまり卑弥呼=箸墓だとすると、
「東瀬戸内東遷説」になるわけだ。
それでいいの? 盗まれた神話、物語と同じような話なのかな
すり替えのような事が行われ、
他の国の物語のようになってしまったとか
dead endの某曲でも言っていなかった
「かすめ取られ・・・」とか 大陸から見た二世紀前半の倭王なら帥升だろうけど
大乱を経て共立されるような新たな王に求められるのは
共立する大国が利する人材であって別に帥升の血筋である必要は無いな というか終始一貫して同じ王統の話が書いてあると思い込んでるのか
九州が先行して倭王と呼ばれる人物が出て後に畿内にその地位を奪われたという流れだろう
最初から最後まで畿内で王権が出来て邪馬台国に繋がったとか思ってる奴はどの考えだろうがまずいないと思うが 九州説の人ってさ
自分ひとりの思い込みを問答無用でもう全世界が承認してるかのような誇大妄想に溺れてるのん? 倭には最初100以上、邪馬台国の時点でも30以上の国があると書いてるんだからな この同一王統バカは九州説ですらないだろう
本当にただのバカだと思う そもそもこいつ何スレも居座って同じ事を喚き続けてるからな
そして何故かテンプレに勝利宣言をし続けると言う
異常者って本当に異常なんだなとよく分かる >>741
>そもそもこいつ何スレも居座って同じ事を喚き続けてるからな
おまえがな 男王が7、80年続いて倭国乱で卑弥呼擁立な。
ということは大事なのは2世紀。
3世紀ではない。
2世紀の説明だできない纏向説w ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これは小学生でもわかる。これに対して、
Q:無理だと思う理由は? E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想 Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想 E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない E:頭が悪すぎる E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ E:全く理解できない E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの E:老人性のアレでよくあるよ E:頭のネジが飛んでるから
E:また壊れたのか E:思考停止中 E:東遷説ボコボコだな
E:なぜ無理なのか説明できないまま E:論理破綻 E:唯我独尊症
E:出かけるって嘘なのね E:思い出したように呟き荒らしする
E:こんな単調な繰り返しが平気って普通じゃないよね E:病んでますね 男王が7、80年続いて倭国乱で卑弥呼擁立な。
ということは大事なのは2世紀。
3世紀ではない。
2世紀の説明ができない纏向説w >>745
おまえの主張に根拠がないと証明できるから 纒向は2世紀末に突然現れ4世紀に突然消失した遺跡で、外部勢力の侵入を考えざる得ないと発掘した考古学者が言っている。
記紀にも外部勢力が大和の地を制圧することで、ヤマト政権が始まったと書かれている。
2世紀末に卑弥呼を共立する国々(伊勢尾張、丹波、吉備など)にヤマトの地は制圧され纒向が作られたと考えるのが妥当。 >記紀にも外部勢力が大和の地を制圧することで、ヤマト政権が始まったと書かれている。
記紀の記載は、阿波から大和へ「遷都」したことを書いているんですよ。 @阿波
>2世紀末に卑弥呼を共立する国々(伊勢尾張、丹波、吉備など)にヤマトの地は制圧され纒向が作られたと考えるのが妥当。
伊勢尾張、丹波、吉備などはすべて阿波から進出した、忌部一族なんですよ。 @阿波 オオナムチは、いつ頃から登場したのか?
オオナムチは、イザナギの子であるスサノオの子孫と言われたり、スサノオの娘を貰ったと書かれている。
イザナギ一派(倭人)の淡路島への渡来は、春秋時代末期のBC5世紀頃。
オオナムチの登場は、当然それ以降になる。
出雲には八百神が元々いたとあるので、集落レベルの首長達が沢山いたのだろう。
それらを纏め山陰を統一したのがオオナムチ。
統一までに何度も殺され、紀国に逃れたり、スサノオの娘を貰ったりと、倭人の後ろ盾を得て、出雲を支配下に置いていったんだろうね。
四隅突出型墳、BC1世紀頃に備中の三次市で誕生し出雲に広がり、遅れて能登半島辺りにも広がる。
オオナムチの倭人の後ろ盾を得た出雲の統一は、紀元前後の可能性も考えられるね。 >>741
九州説のダメさを宣伝してるよなもんなのにね >>746
まあこれは岡上の頭の悪さをものがたるのうなQだね
「俺の意見はこうだがドヤ?」って構造だから
正しいAは「根拠なしでペケ!」だ
案の定ひとことも根拠言えないという恥晒し
ww >>754
二世紀の遺跡が巻向に無いことを指摘すると、
なぜ岡上の頭が悪いことになるのか。
畿内厨の思考回路はさっぱり解らん。 >>752
>四隅突出型墳、BC1世紀頃に備中の三次市で誕生し出雲に広がり、遅れて能登半島辺りにも広がる。
備中も出雲も能登半島辺りもすべて、阿波から進出した、忌部一族なんですよ。 @阿波 >>669
>戸数の時点で有り得ない。巻向は神仙思想に影響されて
>設けられた宮。鬼道の為の丹等を分配するには相応しい位置にある。
魏志にそんなものでてこないよ。
女王の都である邪馬台国とはどう違うの? >>675
>>>671
>あったと誰かいったか?
ああ言えばこう言う。
畿内説は逃げてばかり。 >>683
>資料不足でわからないですよ。それに
>邪馬台国位置論には関係しないですね。
わからないのに、断定的に勝利宣言するのか。
詐欺だな。 >>693
>>>691
>畿内? 邪馬台国が畿内だけとは限らんな
畿内説じゃないの?
わけわからんな。 >>695
じゃあ、倭国ってどこさ。
その根拠は? >>698
>これは馬鹿でもわかる話
>邪馬台国そのものはかなり広い地域
>纒向遺跡は卑弥呼の時代の邪馬台国の中心地
矛盾があるから言い逃れしているようにしか聞こえない。 >>707
>>>705
>テンプレ読めよ
逃げるなよ。 >>717
>>>711
>王権がないから共立なんでしょ
では、倭国大乱前の王はどこにいた? 古田史学スレで>>98への返信が2chに拒否されたので、一旦ここに保存しておく。
>改めなければならないレベルの重度の問題点を指摘して改善を求めるのが悪口か<
「南→東」の嘘吐きダマシという「出発時点からの基本的な問題点」の、
重度の問題点の指摘を隠蔽して、
その指摘を撤回させ、犯罪者的行為を擁護応援するような投稿をする、
キミの行為そのものが、世間の人々のためにならず、悪質だな。
>最低限度の、投稿制限を受けなくなるために必要な改善点を指摘してるのに悪口呼ばわりするとか、
そういう手前勝手な認識だから投稿制限されるんだよ<
いや、キミもYahooや2chと同じく、「南→東」の嘘ダマシ投稿を擁護するような投稿をしている。
>ここを変えないと議論すらできないぞ。<
それを反省しないと、議論すらできないよ。
>最低限度の姿勢、マナーを求めることが悪かよ…… <
「南→東」のような嘘吐きダマシの投稿を擁護する事が、悪だよ。 >>731
>>>729
>別に吉備でなくてもいい、東瀬戸内だ。
いい加減だな。
根拠は? >>737
>九州が先行して倭王と呼ばれる人物が出て後に畿内にその地位を奪われたという流れだろう
九州と畿内が同じ国として中国に認識されていたという証拠は?
西日本全体を包括する国家があったという証拠は? >>737
>最初から最後まで畿内で王権が出来て邪馬台国に繋がったとか思ってる奴はどの考えだろうがまずいないと思うが
畿内説を信じている人間ったら、論理が破綻している。 >>739
>倭には最初100以上、邪馬台国の時点でも30以上の国があると書いてるんだからな
畿内が含まれたいるという根拠は? >>741
>そもそもこいつ何スレも居座って同じ事を喚き続けてるからな
>そして何故かテンプレに勝利宣言をし続けると言う
>
>異常者って本当に異常なんだなとよく分かる
スレ主のことですね。
わかります。 >>755
無いとどういう論理でその結論が出るのか言語化できない幼児性
そして理由が説明出来なくてキレる二重の幼児性
つまり頭が悪いの 自演して多数の意見が賛同してるみたいにしてるのバレてないと思ってるんだろうなコレ そもそも纏向遺跡はそれまで何もなかった場所に突如として現れた大遺跡と言うのは別に畿内だろうが九州だろうが関係なく共通の認識なわけで
しかも畿内の邪馬台国は畿内だけで発展成立したのではなく吉備や周辺地域との関係で成り立ったであろう事も知られてる
今更纏向が2世紀から無いからどうのとか訳の分からん事を喚いてるこのバカは基本的な知識さえないというだけの話 >>782
>しかも畿内の邪馬台国は畿内だけで発展成立したのではなく吉備や周辺地域との関係で成り立ったであろう事も知られてる
そう思う根拠は? >>779
>>>773
>畿内と博多(奴国)が親密だから
はじめてきいたよ。
根拠は? クズ九州説は幼児性丸出しだから自分が文句つけてる畿内説のことを知ろうともしない
孫子の兵法なんか知らないんだろうな
相手は北部九州が凋落、畿内が勃興って文脈で何度も説明してるのに聞いてない
相手が倭国乱の前後で断絶があると主張してるのに
連続してるって理由もなく決めつけた上で「だから畿内説はおかしい」って言っちゃう神経
つまり「理由はないけどとにかくオレが正しいからお前は間違いなんだ」式の幼児思考なんだよ ここは基本的な事も知らないバカに授業してやるスレじゃないんで まだ、やってんのか。終わりにしたら。
魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在しているという理由は?
↓
畿内に男王が居ただろうという根拠や卑弥呼の先祖は何処の出かの根拠をしめせば事終わるのに。
論には論で返せばいいだけと思うよ。すると話が先に進む。 >>787
幼児そのもの
お前は質問にこう答えろって指図まで始めたよ >>787
お前は黙ってそのルークを前に出せばいいんだよ俺のポーンで取るから…みたい なんかさあ
詐欺師がいたいけな薄馬鹿老人騙して小銭奪うために
ありもしないようなニセ畿内説をでっち上げて
こう反論すればアナタは勝てます
みたいなこと書いたインチキ本とか
売りつけられてる人みたいな気がしてきた まぁ実際妙な珍説叫んでる奴の論調ってバカ丸出しの個人サイトの記述そのまま持ち出してきてたりするからな
バカだから本なんて読んだこともないで下らないサイトの見出しだけ読んで「我こそが古代史のなぞを解き明かした!」とかこういうスレで恥晒すんだろう スレ主、いい奴だよ。4棟の時も素直に応じたし。
クダランFAQのA(纏向≠邪馬台国)も指摘され省いたし。
次回
◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
これのA載せると思うよ。 >>786
>ここは基本的な事も知らないバカに授業してやるスレじゃないんで
根拠のないことを言い立てるのはどうかと思うよ。 >>788
>>>784
>テンプレ読んでないだろう
そう思う根拠は? >>793
>クダランFAQのA(纏向≠邪馬台国)も指摘され省いたし。
有るじゃん
◆FAQ 4
A:誰も纒向遺跡が邪馬台国だなどと主張はしていない
纒向遺跡は巫女王の居た王都であり国ではない A 卑弥呼は吉備あたりから来て、邪馬台国を畿内に建国。王都を纏向とした。
☝
こんなAになるのじゃないか?
待て?????するとテンプレの投馬国の比定地がオカシクなる。
出雲?阿波?畿内だが未だ発見されてない? そもそも
「纏向には2世紀前半からの男王の墓がないという1点で論破される」
なんて脳に障害でもなけりゃ主張せんだろ >>801
対戦相手に次に指す一手を指図するチェス選手
反則負けじゃね? >>792
畿内説でそんな奴いるじゃん。
我こそ天才とか言って、わけわからんことほざいているの。
お前の仲間じゃないのか? >>800
>自演爺は嘘ばかりつく
スレ主のことですね。 >>801
>待て?????するとテンプレの投馬国の比定地がオカシクなる。
>出雲?阿波?畿内だが未だ発見されてない?
だから、テンプレは矛盾だらけ、その場限りの嘘だらけなんだってば。
まともに取り合うだけ無駄。
畿内説にろくな議論はない。 >>807
テンプレの何と何が矛盾するの?
矛盾って言葉の意味知ってる?
中学校でてる? >>807
指差し爺の珍妙な仮説を盛り込むと破綻するって話だから
テンプレの問題じゃない
ゴミを入れればゴミが出るってだけ 畿内にも王はいただろう、魏志に書かれていないからといって
畿内は王がいないということにはならない >>810
>魏志に書かれていないからといって
魏使にも相手にされていなかったwww >>801
畿内の王は魏に朝貢してないので魏使は相手するわけない >>513
>こりゃあ無理でしょ 倭人伝に倭国の産物といてハッキリ其山有丹と書いてあるんだから
倭国とは九州のことだけだなんて種類の九州説が成り立つわけがないわ <
倭人伝の記載の「其山有丹」は、倭の山には丹が取れる山がある、という説明があるだけであり、
事実、松浦川上流山地に丹が取れる水銀鉱山もあるので、
それだけでも、九州説には何の問題もないし、
その他の九州内や東方の倭種の地にも丹山や丹木などがあったとしてても、
「地方の市」が存在するんだから、
九州説にとっては何の欠点にもならない。 >>816
>倭人伝の記載の「其山有丹」は、倭の山には丹が取れる山がある、という説明があるだけであり
事実、松浦川上流山地に丹が取れる水銀鉱山もあるので
みっともない、言い逃れ。 >>523
>反論できない惨めな敗者 それが九州説<
「南→東」などの、史料事実への嘘吐きダマシの指摘に、反論出来ず、
口先だけでの誹謗しか出来ない惨めな敗者、それが大和説者。 >>816
取れるけど取ってないものを産物として記事にするの?
そんな珍解釈で生命線を繋ごうとしてるから九州説は滅んだ 邪馬台国畿内説には、邪馬台国の位置は琵琶湖湖畔、大阪府などの説もあるのだ。 畿内説もいろいろ、九州説もいろいろ。 だから妄想説はいろいろ。 @阿波 >>58
規制に遭い返信が遅れ申し訳ない
広域広域
兵庫県の高地性集落
神戸市伯母野山遺跡(標高130メートル)、同県芦屋市会下山遺跡(えげのやまいせき、標高185メートル)、
同城山遺跡(標高250メートル)
↑田能遺跡も九州系の遺跡と考えてもいいと思う。
甕棺、銅剣の鋳型、木棺墓など。
弥生時代のほかの近畿地方の遺跡からするとやはり異質。
いずれも直線距離で、8キロから10キロ ゲリラ戦を展開するにはいい距離じゃないか?
@香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡
@紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)は、香川県三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡
↑いずれも直線距離で、8キロから10キロ ゲリラ戦を展開するにはいい距離じゃないか? >>830
畿内式甕棺だから九州系の遺跡というのはペケ 伊勢説もあったな。
紀伊説は捨てがたい。投馬国が阿波(広義では四国)。 >>833
おれは九州説だが、菊池山哉の近江説にもひかれる >>833
畿内説、身内戦争、仁義無き戦いの時代もありました。
吉野ケ里が起爆剤になり、今では畿内説の最有力の王都候補は纏向です。
吉野ケ里は、大集落群で邪馬台国のイメージに近い遺跡ですが、邪馬台国九州説の絶対的決め手ではありません。
纒向・・・畿内説の内輪の論争終結の過程であり、新たな発見が有れば又、畿内説身内戦争が始まるかもしれませんが期待できません、
今の若輩(失礼、私から観てです)の研究者は纏向に洗脳されてるような気がします。
畿内説の過去の文献や今ある畿内の遺跡、発掘物に真摯に向き合い、自分なりの研究も必要です。(研究に先生は居ても、論の違いや結果に上下の差はありません) >>835
ツーか、邪馬台国のイメージで復元しちゃったんでしょ 私の場合畿内説でも正確には畿内山城中心説かもしれないですね。
もしくは信貴生駒中心説、葛城は元々狗奴国だと思います。 >>527
>(鉄と絹)残念でした 卑弥呼の時代は違うでしょ<
初期古墳時代は、3世紀末になるから、
弥生末期は、3世紀後半までになり、
卑弥呼の時代の大和は、鉄も絹も殆ど出土しないんだよ。 何度も言うが倭人伝には邪馬台国に鉄が
豊富なんて記述は何処にもないよ。 >>528
>テンプレは極めて恣意的な論証としか言いようが有りません。
辻褄が合う、疑いがない・・・これらは間違いです。
後漢書「東夷伝」、魏志「倭人伝」の記述と考古学上の発見、これらを関連させて考えると
どうしても一致してこないので、様々なことに着眼して議論が続いています。
要するに物的証拠が足りないので、辻褄を合わせている、あるいは可能性が高い、
といった手法をとっているに過ぎません。<
賛成です。
テンプレは、おそらく皇国史観にクルった・・・・サギシです。 私は畿内説の中でも異端者とよく言われますからね。
畿内説邪教派とか、畿内説暗闇十兵衛派、畿内説拝一刀派とまで呼ばれてます。 >>810
>畿内にも王はいただろう、魏志に書かれていないからといって
>畿内は王がいないということにはならない
冊封体制に組み込まれていなければ、王ではなくただの首長。
そして、このスレで議論すべき邪馬台国とは関係ない。 >>817
>>>816
>取れるのに取らないって馬鹿ですか?
中国産の方が重宝されたからでしょ。
単にそれだけのこと。 >>530
>また、このような広告?が出てきたw 『詐欺師と一緒にされるのも嫌なので』<
また、このような広告?が出てきたw。
『「南→東」などのような嘘つきダマシの詐欺師の、
皇国史観狂と一緒にされるのも嫌なので』。 畿内は鉄が豊富ではありませんが、それは倭人伝の記述とは相反しません。
むしろ畿内に豊富なのは腐葉土です。
腐葉土は園芸をやるためには必須のものです。 >>823
テンプレに反映されてないですよ。
テンプレが纒向一辺倒なら、やはり間違いだとして批判される。 >>840
あのマルクス主義者が皇国史観なわけないじゃん >>843
じゃあ産物として記載されてるのは変だね >>836
いやいや、復元してみてから、邪馬台国ってこんな感じなんだなあと感服したんだよ。
でも時代などから、邪馬台国そのものではないことも理解しなくてはいけない。 「当時」の自然現象を軽視しすぎ。 @阿波
奈良盆地は海に面さず、発展する余地なし。
纏向は湿地帯で王都に不適。
対馬海流に流されて、末羅國=呼子・唐津は有り得ない。
瀬戸内海航路は潮流対策施設不備につき、「通し航行」不可能。
弥生の大洪水で稲作壊滅状態。 >>839
>何度も言うが倭人伝には邪馬台国に鉄が
>豊富なんて記述は何処にもないよ。
鉄を使っていた記述があり、しかし奈良盆地からは鉄は出ない。 >>531
>まあ個人的に言うと、どちらとも分からないので、
新たな物証を待つのが一番健全な姿勢だと思います。<
いえ、古い文献考古の物証でも、九州説に99.5%以上確定しています。
>定説も何も無いところで議論しても主張にしかならないですし、極めて恣意的な論証しかできません。
なので、わたしの回答は「わからない(私的には九州)」です。 卑弥呼が女性だというのは、後漢書、魏志ともに記述があります。
これは間違いないでしょう。<
「南は東に間違える」筈がありませんし、漢委奴国王の印も筑紫にありました。 >>847
テンプレは学術論文が発表されてるような説に絞ってるだけだろう
少数説を否定してるような言動は少ない >>559
>もはや畿内厨の盲目具合は宗教だな <
賛成です。 >>663
>畿内説の論客は皆、ここから去ってった。 ザコばかり残ってしまった。<
賛成です。「口先でのダマシのハヤシ言葉の雑魚」ばかり残ってしまった。 >>835
賛同
畿内説どころか日本の考古学自体、優秀な研究者が居なくなりました。
海外の考古学に目をむいてる日本人研究者が多いのもわかります。
昔は旧帝大や早慶の優秀な方が居ましたが、今や3流と言いませんが2流大学出が多いような気がします。
その意味で将来、九州説は危機となります。(2流、3流の大学数が九州は少なすぎる)
最近の宮内庁の研究者枠?の採用者の出身大学しかり、2流大学の院卒または院卒からコネです。 >>565
>「其国は2世紀前半から男王が存在しているならば2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だ」
という説が間違いだと 全世界で確定<
「倭国では2世紀前半から男王が存在している」のならば、
「2世紀末から始まる纏向遺跡」を「倭国だ」とするのは、
確かに無理だ、
という説が正しい、と全世界で確定 。 >>568
>畿内厨のアホを全世界が確認だろ <
賛成。 >>865
まさか倭国では津々浦々に男王が充満しているのだ、とか
言い出さないよ・・な・? >>571
>箸墓古墳の年代が卑弥呼の年代と重なるとしても、それだけでは卑弥呼墓と決めつけることはできない。
魏志倭人伝にあるように卑弥呼が他の国をまとめる長であったとしても、それが即ヤマトを制したことに直結しない。
国の曙時代ですから、ヤマト勢力と卑弥呼勢力が併存していた可能性を否定できません<
賛成です。
箸墓は、4世紀以降になるから卑弥呼とは全く合わないし、
「南≠東」だし、
「大和日本国は倭国の中の倭奴国から別れた別種の旧小国」とも書かれているから。 >>868
じゃあ倭国王はどこにいたのさ。
それが示せない限り、畿内説なんてただの妄想。 >>869
つまり「奈良盆地からは鉄は出ない」は嘘ね >>857
畿内説の少数派を無視しているじゃないか。 >>871
示せないと、どうして妄想なの?
理由は? >>874
少数派ってのは無視されるものだろう
それが世間ってものさ 畿内説は根拠のない妄想ばかり
テンプレを何十レス費やしても、何も証明できていない。 >>876
そのレベルって誰が決めたの?
決めた根拠は? >>878
結局、畿内説のスレではなくて、スレ主が妄想を垂れ流すスレになっている。 畿内なんて枠組みそのものが弥生時代にはなかった。
そもそも畿内説は倭国に含まれたという証拠もないし。 >>879
古代史って証明されてる必要あるのか?
有効な推定ができれば、よくない? >>883
じゃあ北京原人って名前つけちゃいけないのか? >>885
推定にすらなっていないよ。
より強力な推定があっても無視しているし。 >>887
纒向が邪馬台国というのが畿内説の多数派なの? >>883
九州なんて枠組みそのものが弥生時代にはなかった。 >>890
その根拠がないからテンプレは妄想と言われるわけで >>893
そう言ってる根拠がないからアンタは妄想自演爺と呼ばれるんだろ >>893
じゃあ具体的に何か根拠がない部分を挙げてみろよ >>896
妄想自演爺とは呼ばれてないだろ
ウソツキ自演爺と呼ばれてた筈 >>895
そういう空っぽな悪口は自分を貶めるだけだよ >>892
九州説オウンゴール
ブーメランで自己撲殺 >>612
>定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、
北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、
交流圏・通婚圏として纏まりがあったことを示しており、
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、
日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、
現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう
と書いてあったぞ <
「日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決した」と書いた瞬間に、
その筆者も、「南→東」の嘘つきダマシのサギシになる訳で。 >>900
なぜ九州が出てくるのかわからんが、九州は地理的構造だから、ないってことはないだろう。 えー、残り100レス切りましたが、畿内説について何か語った? >>907
だって島の名前じゃん。
畿内は政治的な境界だけど。 >>903
畿内も九州も特定地域の呼称で弥生時代にはなかった名称で有る音に変わりない >>908
えっ?
畿内説が論破されたのをグダグダ逃げていただけじゃん。 >>910
九州は島だけど、畿内は後世の枠組みによる。 >>629
>(孝霊)またその百襲姫には別名を日女命とする文献資料が
丹波地方に存在する事から、卑弥呼の事ではないかとする説があります。<
「南≠東」ですから、百襲姫の日女命は、卑弥呼には始めからなりません。 >>632
絹
有田遺跡は弥生時代前期末でしたが、弥生時代中期の遺跡で絹が出土した遺跡は、
中期初頭の吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡神埼町)、中期前半の栗山(福岡県甘木市)、
吉野ヶ里、比恵(福岡市博多区)、吉武高木(福岡市西区)の各遺跡、中期中葉では朝日北(佐賀県神埼郡神埼町)
中期後半では須玖岡本(福岡県春日市)、吉野ヶ里、門田(もんでん:福岡県春日市)、樋渡(福岡市西区)、
立岩(福岡県飯塚市)、三会村(長崎県島原市)、吉ヶ浦(福岡県太宰府市)、
弥生時代後期では吉野ヶ里、栗山、宮の前(福岡市西区)唐原(福岡市東区)の各遺跡から人骨に付着、
あるいは副葬品に付着した形で絹が見つかっています。
何れも福岡県を中心にした北部九州にある遺跡です。
弥生時代に続く古墳時代になると島根県、兵庫県、京都府、大阪府、奈良県、滋賀県、熊本県、静岡県、
福井県、栃木県、茨城県、鳥取県、岡山県など広い範囲で絹の遺物が出土します。
これらの結果から、日本における養蚕の起源は北九州と考えてよいでしょう
畿内は無理がありすぎ 強弁ばかり<
賛成です。 対馬や壱岐は九州(長崎)の島なんだ、畿内の領土ではない 日本における養蚕の起源は徐福が佐賀に持ってきたことから始まる(異論はないであろう >>916
弥生九州が凋落して古墳時代が畿内中心に勃興する
イイハナシダナー >>647
>: 孝霊厨・・・<
これも同じ。
「南≠東」ですから、始めから百襲姫は卑弥呼ではありません。 >>659
>(孝霊)百襲が台与像を反映してる可能性もあるので
どちらにせよ邪馬台国畿内説を証明するものに代わりはない。
元々都には(女王が)生まれた場所と解釈も出来る。
百襲が生まれた場所も田原本の「保津、都」という場所なのが
それを証明している。 <
これも同じ。
「南≠東」だから、壹與も百襲にはならない。 >>684
>ならば東京以外に日本の首都があった時代があっても何の問題もないな
2世紀前半の王の墓が纏向になくてもなんの問題もない
纏向が倭国の都でそこに女王卑弥呼がいたことに何の問題もない<
「南≠東」だから「纏向が倭国の都でそこに女王卑弥呼がいた」ことには、
始めからならない。 >>923
「南≠東」だから、筑紫も×。
このザラコクも、「南→東」の嘘つきダマシの・・・・アホの詐欺師。 >>690
>纒向遺跡=邪馬台国 ではなくて、纒向遺跡は邪馬台国の中心地というだけの話だろ
邪馬台国は、四国西部、吉備、大阪、近江などを含んだもっと広い地域
吉備の楯築遺跡などが男王の墓かもしれん<
邪馬台国なんて存在しません。
邪馬壹國は、南≠東ですから、吉備などではなく、
筑紫の倭国にあります。 >>698
>纒向遺跡だけで倭国の中心となるような巨大な人口は持てない これは馬鹿でもわかる話
邪馬台国そのものはかなり広い地域 纒向遺跡は卑弥呼の時代の邪馬台国の中心地<
邪馬台国なんてありません。
邪馬壹國は、南≠東ですから、纏向は✖であり、筑紫です。 謎の写真、本当に山王か何かの写真なのかな、何なんだろう
他のスレの話になるけど「宮様じゃないの?」と言っている人がいたり >>700
>あれ〜 >>1は大和勢力が瀬戸内各地の文化を受容して卑弥呼を擁立したと言ってたがな。
ならば2世紀の大和には瀬戸内各地の文化を受容した「主体」がいたってことだよね? <
そうか。
スレ主は、やっぱり「南→東」の嘘つきダマシ人間であったのか。 古田説は「出発と途中と到着」」の書き分けというウソダマシ説明法によって「糸島=伊都国」を唱えている。 >>716
>>東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を纒向の地に擁立した勢力の中核をなすのは、
汎列島的交易網の再構築を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの連合であろう<
纒向の地を「汎列島的交易網の再構築を目途とする、擁立した勢力の中核」だ、
と言った瞬間に、九州も含めた事になるから、
この投稿子も「南→東」の嘘つきダマシのサギシだよ。 「南≠東」だから、筑紫も×。
このザラコクも、「南→東」の嘘つきダマシの・・・・アホの詐欺師。 古田説は「出発と途中と到着」」の書き分けというウソダマシ説明法によって「糸島=伊都国」を唱えている。 「南≠東」だから、筑紫も×。
このザラコクも、「南→東」の嘘つきダマシの・・・・アホの詐欺師。 >>739
>というか終始一貫して同じ王統の話が書いてあると思い込んでるのか
九州が先行して倭王と呼ばれる人物が出て後に畿内にその地位を奪われたという流れだろう
最初から最後まで畿内で王権が出来て邪馬台国に繋がったとか思ってる奴は
どの考えだろうがまずいないと思うが <
大和日本国は、「筑紫倭国の中の倭奴国から別れた別種の旧小国」であり、
白村江の後で、亡国しそうになった倭国を併合吸収して継承した、という事が史料実態なの。 >>738
>九州説の人ってさ 自分ひとりの思い込みを
問答無用でもう全世界が承認してるかのような誇大妄想に溺れてるのん?<
大和説の人ってさ、
自分ひとりの「南→東」などの嘘つきダマシの思い込みを、問答無用で、
もう全世界が承認してるかのような誇大妄想に溺れてるのん?。 >>935
>大和日本国は、「筑紫倭国の中の倭奴国から別れた別種の旧小国」であり、
白村江の後で、亡国しそうになった倭国を併合吸収して継承した、という事が史料実態なの。
大和日本国は、「倭国(阿波)から別れた別種の旧小国」であり、
白村江の後で、倭国(阿波)から大和へ遷都して継承した、という事が史料実態なの。 古田説は「出発と途中と到着」」の書き分けというウソダマシ説明法によって「糸島=伊都国」を唱えている。 「南≠東」だから、筑紫も×。
このザラコクも、「南→東」の嘘つきダマシの・・・・アホの詐欺師。 >>739
>倭には最初100以上、邪馬台国の時点でも30以上の国があると書いてるんだからな <
倭人伝には、魏と通じる30国と、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」群とを、
はっきりと書き分けられているんだから、
それをごっちゃにしちゃ、いけないねえ。 『おみやさん』という作品があったり、何か関係しているような気がする >>740
>この同一王統バカは九州説ですらないだろう 本当にただのバカだと思う<
この「西日本全体の同一王統」バカは、大和説ですらないだろう。
本当にただのバカだと思う。 >>750
>纒向は2世紀末に突然現れ4世紀に突然消失した遺跡で、
外部勢力の侵入を考えざる得ないと発掘した考古学者が言っている。
記紀にも外部勢力が大和の地を制圧することで、
ヤマト政権が始まったと書かれている。<
神武東征は、二中歴に拠って、紀元前1世紀になる。
>2世紀末に卑弥呼を共立する国々(伊勢尾張、丹波、吉備など)に
ヤマトの地は制圧され纒向が作られたと考えるのが妥当。<
倭人伝には、
卑弥呼を共立する国々と、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」の国々とを、
きっちりと書き分けているから、別の存在。 >>751
阿波も、結局は、「南→東」の嘘つきダマシの・・・・サギシ。 >>752
>イザナギ一派(倭人)の淡路島への渡来は、春秋時代末期のBC5世紀頃。・・・
オオナムチの倭人の後ろ盾を得た出雲の統一は、紀元前後の可能性も考えられるね。<
この部分が、阿波の分裂幻覚の妄想の所産と考えられるね。 >>753
>九州説のダメさを宣伝してるよなもんなのにね <
大和説者の、「南→東」の嘘つきダマシのアホさを、
宣伝してるよなもんなのにね 。 >>913
>>>909
>実在した政治的境界でしょ?
はあ?
証拠は?
頭おかしいんじゃないの? 弥生時代に畿内という政治境界があったと言い出す始末 後に畿内となる領域は、地理的または文化交流の点からは複数の地域に分かれている。
【倭国の交易路】
日本海ルートと瀬戸内ルートがあったが、4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備されるまでは日本海ルートだけが主力であった。なお、太平洋ルートは存在しなかった模様。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→淡路島→阿波・吉備→摂津住吉 畿内厨は、見苦しくもずっと逃げ回っていましたね。
なんか、必死に岡上の人格攻撃をしてる人がいて、笑ってしまいました。
私は、平日昼間は仕事してますからね、社会人ですから。 私の原作ではないですが、面白いので、テンプレのQ&Aに追加したらどうですか??
◆FAQ 46 :
魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが?
A:900レス消費して一回もまともに答えられませんでした↓(笑)
Q:無理だと思う理由は? E:質問じゃないのでQじゃない
E:思うのは勝手だが理由がないので妄想 Q:それがなんで質問なの?
E:理由がないので妄想 E:質問になってない
Q;小学生にもわかるって根拠は? E:脳内で妄想するのは勝手だが他人には理解できない
E:他人に伝わらない E:頭が悪すぎる E:まともな質問しろよ
E:異常性がよく出てるなあ E:全く理解できない E:嘘つきで偏執狂だ
E:異常者そのもの E:老人性のアレでよくあるよ E:頭のネジが飛んでるから
E:また壊れたのか E:思考停止中 E:東遷説ボコボコだな
E:なぜ無理なのか説明できないまま E:論理破綻 E:唯我独尊症
E:出かけるって嘘なのね E:思い出したように呟き荒らしする
E:こんな単調な繰り返しが平気って普通じゃないよね E:病んでますね
◆FAQ 48 :
Q:纏向遺跡に2世紀前半の王墓はないんやな? はっきりせんかいボケ。
あるのかないのか答えろ。
A:すみません、ありません。畿内をみてもそれらしいものはないです。
たぶん吉備のほうから来たのではないですか?楯築とか、男王の墓としてどうです?
>>755
>二世紀の遺跡が巻向に無いことを指摘すると、なぜ岡上の頭が悪いことになるのか。
畿内厨の思考回路はさっぱり解らん。<
そりゃ、「南→東」のような嘘つきダマシを主張する大和説者は、分裂幻覚妄想の脳の神経思考回路に異常がある人種だから、
普通の人間には、さっぱり解らなくて当然ですよね?。 >記紀にも外部勢力が大和の地を制圧することで、ヤマト政権が始まったと書かれている。
記紀の記載は、阿波から大和へ「遷都」したことを書いているんですよ。 @阿波
>2世紀末に卑弥呼を共立する国々(伊勢尾張、丹波、吉備など)にヤマトの地は制圧され纒向が作られたと考えるのが妥当。
伊勢尾張、丹波、吉備などはすべて阿波から進出した、忌部一族なんですよ。 @阿波 >>779
>畿内と博多(奴国)が親密だから <
大和の阿毎氏は、倭国の中の筑紫城の阿毎氏の倭奴国から別れた別種の旧小国の、
倭国の地方の市を監督する大倭職の国であり、
金印を貰った倭奴国からは、阿毎氏系の伊都国が分離独立して、残った奴国系が、吉武高木付近に都を造ったらしいんだよ。、 畿内はその上位の上位の上位に筑紫を頂くが、筑紫から見ると畿内は属領の一つに過ぎず、one of them。
それを畿内と博多が親密だなどと、不届き千万。 倭地域は半島南部(弁韓)から九州・中国地方西部であって、出雲・吉備を含まない。
中国南部(揚子江中流域)を出自とする民族である。
近畿から東海にかけては中国東北部(遼東)を出自とする民族が入っており東へ開拓を進めていた。
出雲はインド系であり、吉備は中国南東部(揚子江下流域)を出自とする民族である。
概ねそういった分布で、魏史にいう倭国とは九州を中心とする地域。
卑弥呼は道教を生業とする一族で四国を本拠とし、道教による統一を受け入れた倭の諸豪族に担ぎ上げられた。
卑弥呼の一族はやがて東進し近畿を中心とする勢力に受け入れられ王室と同化する。
これが日本(ひのもと)であり、後に九州を合する。 >>782
>そもそも纏向遺跡はそれまで何もなかった場所に突如として現れた大遺跡と言うのは
別に畿内だろうが九州だろうが関係なく共通の認識なわけで
しかも畿内の邪馬台国は畿内だけで発展成立したのではなく
吉備や周辺地域との関係で成り立ったであろう事も知られてる <
邪馬台国なんて存在しないし、大和は、筑紫倭国の中の倭奴国から別れた別種の、
倭国の地方の市を監督する大倭職の国でしかなかったんだよ。
>今更纏向が2世紀から無いからどうのとか訳の分からん事を喚いてるこのバカは
基本的な知識さえないというだけの話<
今更、纏向が倭国の中心であった、とかの、訳の分からん事を喚いてるこのバカは
基本的な知識さえないというだけの話。 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
元は大阪城の位置にあったとされる生国魂神社と関係あるのかな。
大阪城の下に何かあるのかな。 >>785
>クズ九州説は幼児性丸出しだから
自分が文句つけてる畿内説のことを知ろうともしない・・・<
「南→東」の嘘つきダマシのクズ大和説は幼児性丸出しだから、
大和の阿毎氏は、倭国の中の筑紫城の阿毎氏の倭奴国から別れた別種の旧小国の、
倭国の地方の市を監督する大倭職の国であるという、
自分が文句つけてる大和説の史料事実や史料実態を知ろうともしないアホ。 >>960
ここだけの話
あれは、宇佐神宮からきてる 任侠団体
畿内説組
組員募集中
若い奴はイカン
親の言い付け守らん
畿内説から離れるなら、指の1本ぐらい もってこい >>818
>硬玉ヒスイは?<
大和などの市を介して、越の糸魚川から翡翠を流通して貰える。
>九州にないね <
強烈な高温や高圧のかかる中央構造線があるから、その近辺にもあるんだろう、と思うよ。 何が何だか
もう次スレ立てるのでしょうが
>>1整理して下さい。
◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが? >>821
>取れるけど取ってないものを産物として記事にするの?
そんな珍解釈で生命線を繋ごうとしてるから九州説は滅んだ<
取れたものを産物として魏使らに示せたから記事にされた。
そんな普通の解釈を否定して、大和説の生命線を繋ごうとしてるから、
大和説は滅んだ。 >>823
>邪馬台国畿内説には、
邪馬台国の位置は琵琶湖湖畔、大阪府などの説もあるのだ。<
邪馬台国なんて存在しない。
また、琵琶湖湖畔、大阪府説などがあっても、あくまで中心は大和だ、
というのが大和説だ。 >>830
>規制に遭い返信が遅れ申し訳ない<
何?、2chの規制に遭った?。
それは酷い話であり、私と同じだ。
>広域広域 兵庫県の高地性集落
神戸市伯母野山遺跡(標高130メートル)、同県芦屋市会下山遺跡(えげのやまいせき、標高185メートル)、
同城山遺跡(標高250メートル)
↑田能遺跡も九州系の遺跡と考えてもいいと思う。 甕棺、銅剣の鋳型、木棺墓など。
弥生時代のほかの近畿地方の遺跡からするとやはり異質。
いずれも直線距離で、8キロから10キロ ゲリラ戦を展開するにはいい距離じゃないか?
@香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡
@紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)は、香川県三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡
↑いずれも直線距離で、8キロから10キロ ゲリラ戦を展開するにはいい距離じゃないか?<
凄い「九州説の根拠」ですねえ。
こんな投稿を規制する2chとは・・・。 >>966
>取れたものを産物として魏使らに示せたから記事にされた。
そもそも、北部九州は丹が採れないから邪馬台国論争に加わる資格が無い。
それは、九州の墓はおろか、九州の遺跡に九州産の水銀朱など、どこにも使われていないという現実。 @阿波 >>831
>畿内式甕棺だから九州系の遺跡というのはペケ <
列島の甕棺は、北部九州から始まって伝搬したのであり、各地で少しずつ変化があって当然なんだよ。 縄文時代から土器棺が存在することすら知らない九州脳 >>833
>伊勢説もあったな。 紀伊説は捨てがたい。投馬国が阿波(広義では四国)。<
「南≠東」だから、全部✖。 >>839
>(孝霊)何度も言うが倭人伝には邪馬台国に鉄が 豊富なんて記述は何処にもないよ。<
何度も言うが、倭国が鉄鏃が一杯なくっちゃ、
「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」とは書かないよ。 >>846
>(孝霊)畿内は鉄が豊富ではありませんが、それは倭人伝の記述とは相反しません。
むしろ畿内に豊富なのは腐葉土です。 腐葉土は園芸をやるためには必須のものです。<
「南≠東」ですから、大和は始めから矛盾になっており、✖です。 >>851
>「当時」の自然現象を軽視しすぎ。@阿波・・・<
何時の時代であっても「安全最短の原則」などというような、
「人類の常識」に反する解釈をすべきではない。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば其国は2世紀前半から男王が存在している。
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理だと思うが? あの写真に写っている子供、
クチの、この辺りに「口.」ホクロのようなものがあるんだけどw
抱かれているほうの子供 あの写真も、老婆が、生まれるよりも前のものだから、
おかしいんだよな >>857
>テンプレは学術論文が発表されてるような説に絞ってるだけだろう
少数説を否定してるような言動は少ない <
いくら学者であろうと、多数派とか少数派であろうと、
「日の出日の入りの両方で計測された方向記載」を否定抹殺するような説は、
発表すべきではない。 初心者に近いですが
>>1
環境(気候)の変化は日本に限った事ですか? 卑弥呼の時代の状況を理解するには、倭国大乱、それ以前の倭国の状況を解明しないといけない。 八十島祭。
倭国を解明する重要な事柄のような気がするんだな。 【倭国の交易路】
日本海ルートと瀬戸内ルートがあったが、4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備されるまでは日本海ルートだけが主力であった。なお、太平洋ルートは存在しなかった模様。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→淡路島→阿波・吉備→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の勢力範囲を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪も沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、
井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある(年代は暫定的なもの)。
これらの遺跡からは、全国に先駆けてすでに三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
漢により冊封された王権の象徴としてはガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作の成立と同様にこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
さらに考古学は九州北岸のうち、宗像や遠賀川流域には甕棺墓がなく、さらに別の文化的勢力を想定する必要があることを示唆している。
ここで制作された遠賀式土器は日本海沿岸を中心に広範囲に分布している。豊玉姫は大綿津見神(海神)の娘であり海を塞き止める力を持っていたが、
大綿津見神の竜宮城のモデルが関門海峡にあった豊浦宮であるといわれていて、博多の天孫族から見た隣国である豊国の姿と考えられる。
博多湾岸の天神族が北方の朝鮮半島に向かう対馬海峡に航路を持っていたのに対して、豊国は関門海峡を中心に日本海側に航路を持っていて、
その支配域は邇藝速日命や天香山命など船に乗って日本海を攻略したアマテラスの直系ではない倭人の到達域とほぼ一致する。
この二つの国は姻戚関係を通じて早くから倭国の権力の中枢として栄えた。
さらには免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる別の倭人の勢力も想定されるが、後の狗奴国や熊襲、肥国との関連が伺える。 倭国の都は筑紫の伊都だよ。
魏志には帯方郡から12000里で女王国とされ、10000里で九州北岸に到着している(対馬海峡の幅が3000里とされている)。
福岡県を出ることはまずない。
狭い糸島水道と日向峠以外には進入路がない一方、クシフル山からは糸島平野も博多湾も一望できた。
伊都の東側にクシフル山があり、その日向峠に山城を築き、高千穂宮と呼ばれた。
邇邇芸が、ここは日の出も夕日も照って、朝鮮半島にもまっすぐ道が続く良いところだと評した。
防衛にも外交にも非常に有利だった。
奈良時代には怡土城、戦国時代には高祖城と呼ばれた。
伊都国の東にそびえる王宮は太陽信仰や神仙思想といった初期の神道の舞台でもあり、魏志には日本独自の神道が鬼道の呼称で記された。
魏志には、伊都には代々王がいて、女王が治めていると書かれている。
伊都より北には一大卒を置き検察し、南は狗奴国(熊本)、東には海を渡ってやはり倭人の住む倭地(本州)があるとされている。
伊都は王権の象徴である金印や八咫の鏡が継承されてきた倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は死後に伊都の平原遺跡に埋葬され、八咫の鏡を含む三種の神器が副葬され、鳥居が建てられた。 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
大和でも伊勢でも出雲でも九州でもなく、なぜ大阪?
宮内庁は謎の全てを知っているのかな? 邪馬台と書いてヤマトと読む。
倭と書いてヤマトと読む。
つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
魏志にある女王国もまた同義である。
卑弥呼の称号は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王(親魏倭王)である。
倭国は稲作伝来の地である玄界灘沿岸に成立し、対馬海峡の交易により発展した海洋国家であり、海人の国を意味する「天津国」とも呼ばれた。
生活の基盤が次第に漁撈から稲作と交易にシフトすると博多がその中心として発展したが、卑弥呼の時代には王都は博多からやや離れた伊都国に置かれた。
倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。
漢の時代に金印を授かり冊封され、女王卑弥呼の時に魏から冊封された。
倭国においては筑紫の他に、豊国、肥国などの有力な国があり、魏志によると東の海を渡ったところにも倭種つまり出雲や丹波、近江、越など日本海沿岸に国が続いていた。 はぁ〜♪
鉄もねえ、絹もねえ、銅矛鉄矛なんにもねぇ
鉄器とは何者だ? たまに出るのは桃の種
銅鐸はあるけれど、書かれた歴史書見たこたねぇ
楼閣ねぇ、田んぼもねぇ、万戸どころか住居がねぇ
オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜
九州へ出るだ〜
九州へ出たなら入墨ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜
はっ♪ >>864
>奈良盆地から鉄が出てるから <
奈良盆地から出る鉄は、北部九州から出る鉄に比べて、極端に少ないから。 ヤマト、纒向は、四道将軍の派遣元。
武器は全て携えて行ったんだろうね。 3世紀当時、奈良も京都も大阪も、それぞれに沼地が広がり、王都とは程遠い状況であった。
文明のある筑紫や中国は遥か遠く、特に奈良は倭国の主要交易路である日本海からも遠く、東海地方に従属する辺境の地であった。 このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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