>>16
白村江の海戦は既に滅びた百済復興が目的とされる。
新羅を叩くのなら金海、釜山から占領していくのが常道。
唐の海軍と戦うために白村江に出向くのは勝つ気が無いと考えられる。

百済の遺民を国内に配流して雇うのが面倒だったのと
百済への配流豪族や投資資産を引き上げるのが目的だったと思われる。
真の目的は日本が外交的、軍事的に唐に対抗し得ることを示すこと
戦後処理の進駐軍を九州に留めたのは、防人の配流などで
唐の海軍ごときには、畿内に進攻することは不可能である事を示したのである。

600年以降、隋唐遣使は白村江前後に集中している。
この間、日本は隋唐を先進国と仰ぎこそすれ国家としての独立を放棄してはいない。
これは、900年唐の凋落まで続く。
邪馬台国以降は南北朝、隋唐から日本に直接的に宝物や文明が下寵されることは無く
傀儡国家である百済の朝貢で下寵された五経博士、仏教、宝物を日本に献上させていた

500年まで、百済、新羅のバックで高句麗と戦い
高句麗馬と高句麗兵捕虜を移入して、甲斐、武蔵、上州、信濃に勅営御牧を軍事施設として成功させた。 
400年代のこの地方の遺跡に高句麗墳墓、前方後円墳、馬骨、馬具が多く出ている。
空白は記紀でこの間の歴史を伏せているだけの事。 馬の分布は考古学上の重要事実。

500年大伴の金村の任那割譲で新羅百済は実質日本保護下の独立国となり
663年新羅の裏切りで半島は唐の隷属国と化した。
900年空海の密教正統の相続で中国文化の吸収時代がおわった。

古代韓の文化は新羅の属国化、古代中国文明はモンゴル帝国によって滅びている。
これが、東亜文明の正統日本国の古代史である。