邪馬台国畿内説 Part247 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1499038801/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に面している
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その死亡時期は3世紀中葉である(FAQ30参照)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる
したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場である(FAQ26参照)
その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントにほかならない
そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、
乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、
乃ち布留0期にあるとみることが出来よう ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山並びに渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である
箸中山、行灯山並びに渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない
この神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう
因みに、女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある
これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、
箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する
この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である
乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ
弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があり、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期に中国製威信財の入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争を回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりがあったことを示しており、此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう
後段で触れるところの寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた
纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の大勢という現実を踏まえたものであろう
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する
初期ヤマト政権の性格をアンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは有益である ◆5(倭国の形成と気候変動)
南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況や河内と吉備の交流の深さ等も鑑みれば、
東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を纒向の地に擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの連合であろう
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生し、その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている
それが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に機関化した政治システムのフェイズへと進むのである
2世紀は炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編を促した
弥生社会の終焉に向けて変質を強いていた気候変動の総決算である ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあったことは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる
換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起している(松木2014)
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型並びに楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着した(吉田2014)
分節化した統合性の象徴として小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開、
これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる
(この項続く) (続き)
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある
権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する
宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)
これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する
この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る
前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していることと、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料を突合すると、
対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう
北部九州の土器編年で言えば、卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である
そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである
ことに、土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である
その最終段階では、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる
それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である
自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか
A:九州は倭国の一部なので問題ない
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである
水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の値を示し(南2008)、桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が近畿産であることは鉛同位体比分析によって判明済み(南,今津ら2013) である
これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くこと
魏使は九州を出ていないではないか
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか
A:沖縄本島付近の南海上となるため、畿内説以外の説も無理である(◆FAQ40参照)
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できない
このように、行程記事には明らかに誤情報が含まれているので、所在地比定には採用しない
検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる
A:誰も纒向遺跡=邪馬台国だなどと主張はしていない
纒向遺跡は巫女王の居た王都であり国ではない
また、邪馬台国を大和国とする諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって領域としての令制大和国という定義ではない
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した
対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す
(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕がでる(久住2006)
畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系の土器が発見される(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する ◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した
つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である
考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる
前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」とみられる
使訳通じる30国のうち両者の構成比が不明であるが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる
よって判断材料とならない
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、ほとんど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」ともいう(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである
よって否定材料にならない
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる
この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い
準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である
また倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は未だ提示されてない
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える
このことは白鳥庫吉以来縷々指摘されているが、有効な反論がない
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する
したがって測定は存在しない
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば
異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は
信頼できる基準ではないか
これに基づいた里程論で邪馬台国は
九州島内に求められる
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する
ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている
江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く
A:そのような整合性は認められない
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ
(この項続く) (続き)
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている
つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した
これは信用ならない
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)と土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる
一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない
A:方形のものの大きさを「径」で表現することはないので、「径百余歩」と形容された卑弥呼の冢は方型ではありえない
よって平原一号墓、祇園山古墳などが除外される
しかし「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある
基壇部は水平方向から見ると隆起していない
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない
箸中山古墳の築造過程は
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
と推定できる
葬送儀礼の最も重要な局面で方丘が存在していない可能性があるといえる
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している
方丘築造が後出であるという判断は
箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと
箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で
前方部盛土に遮られる形で消失していること
椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で
前方部に盛土がないこと
等による ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県であり(設楽1989)、九州ではない
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか
A:7世紀或いはそれ以前の出来事について日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報に依拠するのは、学問的でない
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表しているに過ぎない
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること
・唐会要より錯誤発生の過程が時系列的に認識できること
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること
等を勘案すると、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い
卑弥呼の墓があるのは九州だ
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう
弥生絹があるのは九州のみ
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定されている(布目1999)
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している
弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2015)と一致する
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる
九州説にとって不利な条件と言える ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ
箸墓の築造と時間差があるだろう
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である
よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
(この項続く) (続き)
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、並びに初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定されている(次山2009)
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い
これが部分的利用に留まる所以である
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ
伊都国は隆盛のさなかである
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある
これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている
しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿並びに禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である
九州でいいではないか
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している
行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある
会稽東冶は「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)であるが、諸本とも治と冶の混用が多い
「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしい
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す ◆FAQ 41
Q:平原1号
九州には古くから三種の神器がある
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう
(この項続く) (続き)
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている
また王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている
これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう またかよ「ここ纒向が女王の所都である 」
天理市はずす根拠無いのに、よく訂正しないな。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である
弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばからとした(金2011)が、これは陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない
確かな根拠などないだろう
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)→1BV型式(3世紀中葉)→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する(高久2009)
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)並びに庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている。
国産に決まっている
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑みるに、景初四年は実在したと考えざるを得ない
史料上で抹殺された年号は珍しくない
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元とともに慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なることとなった
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させるためには景初四年正月の実在が必須である
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、いくつかの記事にその痕跡をとどめている
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌ただしく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定するところの、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである
ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例がなく、中国本土との直接交渉の結果である可能性が認められる
倭人が上献した絳青縑(FAQ29参照)も重要である
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している
これが魏晋鏡だろう
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい
2世紀の鏡である
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯もしくは圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)が共存する
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)などがある
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:もとより、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう
これを倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである
少なくともこの政治体制は、甕棺分布域の縮小や漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には最終的な崩壊を迎えたものと推定される(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ46に修正、◆FAQ47に加筆 >>43
根拠・・・・・桜井市教委の範疇がいだから
考古学とは関係ないけどね >>1
今いるね!
なぜ天理市をはずすか明確な答えを望む >>53
>>1悔しそうだな。罵声だけかな?
質問に答えろよ。 >>43
根拠・・・寺澤・・BUT寺澤も答えられない
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW >>49
>もとより、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない
>倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない
え?卑弥呼のお父さん、お母さんはどこにいたの? ◆FAQ 48
Q:卑弥呼の男弟や両親・親族は纏向にいたのか? >>51
纒向遺跡は旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する微高地上の遺跡です
考古学的な範囲確認調査によるものです
むろん桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも遺跡が広がる可能性は指摘しています
しかし現状では柳本町及び渋谷町側で遺跡が未確認であるため、纒向遺跡は桜井市纒向に存する遺跡と認識されています >>49
俺は畿内論者だけど纏向も其国の範疇に入ると思ってるよ。
でも3世紀末頃は別としても3世紀前半は王権ではない。 >>60
纏向=其国でないだけで、当然その範疇に入ります
王権が三世紀前半に発生しているか否かは「王権」という単語の定義によります 考古学で卑弥呼は分らない。
最終的には日本人が培ってきた神話に答えがある。
卑弥呼や卑弥呼を生んだ王族が忘れ去られるはずがない。
彼らは神々になり今でも信仰されている。
卑弥呼とはエベッさん「事代主」の娘、ヒメ踏鞴五十鈴媛だ。
この王族「神族」の墓は、高天原(御所市高天)の日本最古の神社で今もご神体「神山」として信仰されている。
箸墓や平原や祇園山ごときが頭が高い。
今日も見ていただきましょう、これが卑弥呼の墓です。
https://goo.gl/vfsxPJ これまでも心ある人たちからあまた指摘されていると思いますが、根拠のない中傷は自分の信用を落とす以外の効果がありません
研究者側の学問的興味だけで私有地を発掘することは不可能と言ってよいほど困難です
既存建築物の建て替えや民間の土地開発行為、安全のための河川改修等などがない限り発掘調査は遅々として進まないものです
その限界の中で、考古学的調査を踏まえて、巻之内、草川地区が纒向遺跡の北辺として認識されています
この認識は将来変わるかもしれませんが、現状認識を正しく反映したものです >>63
しつこい。
誰もそんなの支持してないから、いい加減やめろよ。 >>65
うるさい。
文献で卑弥呼が誰なのかを答えてみろ。
そしてその根拠も。
それからの話だ。
まぁお前には無理に決まってるが。 >>64
まぁそれらは瀬戸内海洋集団・物部の遺跡なんですけどね。 >>64 1 ◆q8leUXpsw.
いずれにせよ、畿内や九州の遺跡(弥生時代後期 卑弥呼の時代)は
阿波に遠く及ばないのが現実。 現実から逃げてはいけません。 @阿波 >>68
答えられないお前を思考停止と言うのだよw >>59
>しかし現状では柳本町及び渋谷町側で遺跡が未確認であるため、纒向遺跡は桜井市纒向に存する遺跡と認識されています
意訳
都合が悪いのでみそっかすにしています。 >>60
>>>49
>俺は畿内論者だけど纏向も其国の範疇に入ると思ってるよ。
>でも3世紀末頃は別としても3世紀前半は王権ではない。
卑弥呼は2世紀末に即位しているのだが。
それは纒向ではないと言っているのに等しいよ。 どうやっても纒向では年代が合わないということだな。 >>66
お前の言っていることが根拠に欠ける。
イスケヨリ姫の生涯ははっきりしているし、そこに卑弥呼らしさは全くない。
たまたま年代が近かっただけ。
むしろ、魏志に記された倭国の歴史とは関係なく、畿内でごちゃごちゃやっていたということは、畿内は邪馬台国ではないということ。 >>72
その通り、其の国の範疇には入るけど纏向は王都ではないよw >>62
>>>60
>纏向=其国でないだけで、当然その範疇に入ります
>王権が三世紀前半に発生しているか否かは「王権」という単語の定義によります
王権の定義は、当時の制度にのっとり、漢や魏から王として冊封されていたことだな。
纒向が其の国の範囲に入るという証拠は? >>74
>イスケヨリ姫の生涯ははっきりしているし、そこに卑弥呼らしさは全くない。
最高位の女性、寡婦、兄が鴨王、つまり王権。
神武がいるにも関わらず「王」と日本書紀に表記されている。
で、聞こうか。
君の言う最も卑弥呼らしい人物をその根拠とともに答えてくれ。
時代も合わなければダメだよ。
さぁ言え。
まぁ言えるわけはないのだがw
あ、アマテラスもモモソ媛もダメだよ、時代が合わない。 >>76
じゃあ二世紀末から三世紀アタマの九州には王権が無いわけだ
これ確定でいいな? >>66
百襲姫に決まってるだろ。
大神神社を造り、日本神道の礎を築いた人だよ。
霊媒師であり、未来を透視をする力もあり、謀叛からの惨事を事前に退けた。
彼女の陵墓の規模が全てを物語っている。 >>79
崇神時代まで生きてるし時代が違う。
寡婦でも生涯独身でもない。
だいたい一皇女で女王とは程遠い。
顔を洗って出直してこい。 >>76
中国の常識で言えば、官爵としての「国王」と自立した「名王」とは異質のものですが、どちらも王権に該当します
同じ言葉に二つの意味があるわけです
倭人伝で、卑弥呼が制詔以前から「王」と呼ばれていることを見ても明らかと思います >>81
私はそういった一種の名文論より、個人的なカリスマと機関化した王権の区別という機能論に与しますが、結論的には同じかもしれません >>80
記紀は中国を意識した半分創作だから。
本当は百襲姫が天皇で崇神がミマキイリヒコ皇子時代の話が前半。
台与が天皇時代の話が後半。 >>82
風向きの意味がわかりませんが、9時過ぎには居なくなります
特に有効な反論を受けた憶えがありません >>79
>大神神社を造り、日本神道の礎を築いた人だよ。
なにが日本神道の礎なんだよw
崇神のクーデターを封印しただけじゃないか。
アマテラス→ニニギ→神武→崇神と伝わってきた大切な祭器ヤタノ鏡を何で放逐するの?
実際はアマテラス→ニニギ→神武と伝わってこなかったからだよ。
というかアマテラスって創作された人物だしw
あれ(ヤタノ鏡)は崇神の母系・物部が持ち込んだ蕃神。
だから疫病が発生、怖くなって放逐したんだ。
以後天皇家は伊勢神宮に参拝しない。 いづれにしても、確実に魏との交流があったTB期の北部九州で十分に影響力を行使している畿内勢力が、倭国の範囲に含まれない可能性は殆ど無いでしょう >>84
>記紀は中国を意識した半分創作だから。
ごまかすな。
行燈山古墳など崇神の墓候補、または崇神時代の人物がことごとく4世紀前後。
そんな時代まで生きたモモソが卑弥呼であるはずはない。
一番大事な時間軸をごまかすな。 >>88
そろそろ頭の病院に行った方がイイぞ。
基地貝の人。 >>88
記紀は信用できんと言ってる相手に
記紀と違うからお前は間違いだーと言っても
それはアホ >>89
おまえがな。
崇神が4世紀前半はほぼ定説になりつつある。
応神が5世紀前後、390年元年として崇神まで3〜4世代遡るだけだしね。
また稲荷山鉄研のヲワケさんから7世代前のオホヒコまで一世代20年弱で計算してもオホヒコは4世紀前半。
全然文句はないが。 中国製の小札革綴冑が3世紀後半から4世紀の畿内の古墳から出る。
十数点の出土のうち九州はわずか1点、残りはすべて畿内。
当時の日本にこんな精巧な冑は作れない。
おそらくトヨの朝貢時に入手したのだろう。
この時点で中国と通交してた主体は畿内であり邪馬台国論争は決着する。
この小札革綴冑は山城の椿井大塚山古墳から出る。
崇神に反乱を起こした武埴安彦命が挙兵した場所であり、
椿井大塚山被葬者が武埴安彦である可能性が高い。
もう一つ面白いところから出る
大阪柏原の玉手山3号墳だ。
この時代に河内の首長が中国製の小札革綴冑というお宝を手に入れていた。
被葬者の該当人物がいる。
孝元天皇の妃・埴安媛の父、河内青玉繋だ。
武埴安彦の祖父になる。
河内青玉繋→ 埴安媛→ 武埴安彦 (崇神時代)
祖父と孫、つまり同じ一族が小札革綴冑を手に入れてたのではないか。
ということは河内青玉繋はトヨの時代を生きていた。
トヨの朝貢団の一人ではないのか。
どちらにしても「欠史」などと言われてきた初期8代天皇は確実に実在した。 崇神は百襲姫の次の天皇なんだから3C中頃だろ。
で、すぐ天皇を下ろされ、娘の台与が次の天皇。 誉田御廟山が年輪年代からも5世紀初頭には完成していたし、
誉田八幡宮を創建した6世紀の欽明天皇が、
あれほどの墳墓の被葬者を間違えるなんてことは考えられないから、
応神はほぼ54世紀末の人物に決まり。
ならば崇神が3世紀中頃なんてことはあり得なくなる。
一世代40年と言う計算になる。
だから崇神は4世紀初〜前半の可能性が大。 246の745
>歴史上、ヒミコという名前に最も近く、 女王(当時の女性の最高位)で寡婦の時期があるのはヒメ踏鞴しかいない。
しかもその王統は今でも信仰対象だ。<
「南」に違反し、「殉葬奴婢百余人」がないから、×だ。 >>99は箸墓がモモソ媛の墳墓、
そして卑弥呼がモモソ媛と信じ込んでる様だ、可哀想に。
日本書紀にモモソ媛の箸墓伝承が挿入されてるだろ。
とってつけたように挿入されている。
という事はモモソ媛は卑弥呼ではないのだよ。w
日本書紀編纂者たちは卑弥呼を封印し、
本当の卑弥呼の時代をトンデモなく古くすることで帥升の朝貢を隠した。
彼らがモモソ媛を卑弥呼だと匂わすという事は、
逆説的にモモソ媛は卑弥呼ではないのだ。
それはスサノオを「弟」に設定したアマテラスも同じ。
別名・オオヒルメなんてわざとらしい話も挿入した。
モモソもアマテラスも卑弥呼ではない。 246の>>743
>学者よりもワシが正しいという痴呆になってしまった爺さんが九州説<
学者の解釈や説明よりも、文献考古の史料事実や史料実態の方が価値がある、
というのが、九州説者の原則であり、
大和説者の誤魔化している点だ。 >>102
>「殉葬奴婢百余人」がないから、×だ
神社のご神体、聖域は発掘できないのだよ、爺ちゃん。
そんな事を言ってるから古田史学は「古代界のパラリンピック」と呼ばれるのだよw zarakokuジジイ、前スレにまでレスw
そのうち2周遅れになるぞw 246の>>749
>三角縁は少なくとも日本全国に中心地から配布されているからな
あれが魏から貰った物かどうかは別にしても少なくとも畿内の中心性を見出す事は出来る<
3世紀中頃の初発中心は筑紫であり、魏帝→卑弥呼の銅鏡100枚を見て、
呉系の楽浪鏡師らは地方に出て、
大和がその中の一部を受け入れて、子弟に学ばせて、大量の粗悪な三角縁を造っただけ。 246の>>750
>>結局、その墓からも、「殉葬奴婢百余人」は、存在しなかったらしい。<
>神社の聖域なので掘れませんよ、そんな事も分からないのですか?<
ホケノでも、地下探査器械を使って、もう一つ別の墓を見つけている位だから、
地下に大量の殉葬石棺でもあれば、見つかる筈だ。
おそらく箸墓でもやってみたんだろうが、発表がないところを見ると、存在しなかったらしい。 246の>>751
本当に、「南→東」の嘘つきダマシの大和説者って、
言えば言う程、自説を貶めていくよな。
宗教思想にクルったあほだから、仕方ないんだろうけど。 >>108
立ち入り禁止の神社の御神域の意味さえ分からないらしい。
さすがは穢多非人。 >>104
文献考古の史料事実や史料実態を解釈や説明するのは学者であって
素人痴呆老人や迷惑ゴミ屋敷爺ではない 246の>>758
今日も大和セツ者は、恥を晒して逃げ帰るのでした 。 >>108
>ホケノでも、地下探査器械を使って、もう一つ別の墓を見つけている位だから、
地下に大量の殉葬石棺でもあれば、見つかる筈だ。
それ、マバカと堂ノ後の話じゃね?
おまえはオバカwww
しかも地下探査器械なんて使ってないし。
つまりこのエタ爺のいう事は全部聞きかじり、浅読み、思い込み、思い付きであることが判明した。
エタ爺は消 え ろ! 246の>>761
大和説って、「一生懸命に九州の衰退」というウソを叫び、
史料事実に存在もしない「邪馬台国」が、ある、と言って騒ぐよね。
そんな話を「これが大和が邪馬台国の証拠だ」とか言い張ってるんだから、
聞いてる方としては「?」としか思えない。
・・・・アホなんだろうなぁ。 地下探査器械って何だよwww
ドラエモンのポケットに入ってるのかw 今時九州説や九州王朝とか時代錯誤感がハンパないよな。
いつまでも夢見てんじゃないよ。 246の>>764
大和は、粗悪な鏡が沢山ある!、という事が最後の砦だったのにねぇ?。
笑えるねぇ。 >>all
前スレにまたまた台湾半ブタ半ニグロの「中国から来た来た詐欺」が働かれており、
残念な事に、無学な中卒老人のアナタ方は何も反駁できず、詐欺を本当化する事に
一役買ってしまいました。
いいですか、ここの中卒老人の方々。
日本には縄文弥生を通して、中国から渡来定着した事を証明する証拠遺跡も
その生活痕たる中国系土器・石器も一切ありません。
中国から渡来定着したと提唱している頭のおかしな考古学者も一人もおりません。
長江、江南、呉越、徐福。
これらが渡来定着した事を証明する証拠遺跡もその証拠生活文物(中国系土器・石器)も
一切ないんです、ありません!
日本人なら邪馬台国の前に、まず湾ブタの「中国から来た来た詐欺」を瞬殺できる
良い中卒老人にアナタ方はなり、それから鬼籍に入りなさい。 246の>>785
>祇園山よりよっぽどまし。w<
「殉葬奴婢百余人」がないもの同士での、傷の舐め合いや慰め合い。 >>120
>「殉葬奴婢百余人」がないもの同士での、傷の舐め合いや慰め合い。
祇園山は竪穴石室もあるので奴婢の埋葬ではないよ。
首長をトップにした後々までの代々墓。
都合よく解釈したらダメだよエタ爺さん。 246の>>791
九州には、
燕の南の倭人や、天孫族や、
呉からの姫氏や、在地の縄文系や弥生部族や、
徐福や、東テイ人などの100余りの国があったのであり、
それが徐々に統一していったから、
銅矛や甕棺の分布の変還も起きた、
という事が全く判らないのが、今の大和説者。 呉には朝鮮半島や北部九州で出土するような銅矛はない >>119
中国から渡来定着があったことは事実だから詐欺ではない >>123
で、呉のブタ半ニグロと徐福と東テイ人が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と
その生活痕たる中国系土器・石器は?
. 日本みたいな銅矛が半島や大陸にあったと思ってるバカがいるんだ
笑える 246の>>796
@沢山の鏡があるからこれが卑弥呼が貰った鏡で大和が邪馬台国だ
↓
A時代合わないし、仮に復古鏡だとしても、呉系楽浪鏡師に教えられて造った粗悪品ですが
↓
Bオリジナルを他地域に配ったに違いない
↓
C大和内ですらオリジナルもコピーも殆ど見つかりませんが
↓
D自分達だけの鏡だから良いんだ。これが三角縁神獣鏡だ
もう意味不明すぎるな。
大和説って、その場その場で適当な事言って壮絶に矛盾してるけど、
気にもしないというバカの集団だな 246の>>797
最初に「皇国史観大和説という結論先にありき」や「俺様は正しい」ありきだからなぁ、
大和説学者も、そのシンパのキョクウも、
文部省も読売産経NHKも、ssnも泡バカも孝霊もスレ主も・・・。 >>124
中国青銅器は飲食器が中心なんです。
日本青銅器に飲食器がありますか?
中国土器は三足器や単耳・双耳・直耳などの耳付きが中心なんです。
弥生土器に三足器形や耳がありますか? 大陸の甕棺墓は徐福どころかもっと大昔の黄河文明のころのものだ
東南アジアでは乳幼児用の物
どこに徐福要素があるんだよ 甕棺も銅矛も日本に来て日本独自の変化をして九州北部で発展して広まったもんだ
なんでも渡来人に結び付けるバカは何も知らないから困る >>97
「小松島・子安観音古墳 金を施した金銅製の甲冑出土」
小松島市田浦町の子安観音古墳で明治時代に出土したと見られる甲冑の破片4点が、金を施した希少なものであることが、同市教委の調査で分かった。
5世紀中ごろの制作と推定され、金銅製の甲冑は1872(明治5)年に国内最大の前方後円墳大仙凌古墳(仁徳天皇凌)の出土例があるだけ。
いずれにせよ、畿内や九州の遺跡(弥生時代後期 卑弥呼の時代)は
阿波に遠く及ばないのが現実。 現実から逃げてはいけません。 @阿波 >>125
だから、早くその証拠を出せよ。
で、中国から渡来定着した事を証明する証拠遺跡とその生活痕たる中国系土器・石器は?
で、中国から渡来定着したと狂言している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
さっさと言えよ台湾ブタチック広鼻ブラック。 >>133
甕棺も銅矛も大陸から渡来人が来て日本独自の変化をして九州北部で発展して広まった >>129
甕棺墓の登場は歴博年代でBC6、7C頃だぞ。
徐福と時代が違いすぎるし、その甕には中国土器の片鱗も見られない。
つか、中国系土器がねえんだバカ! >>135
甕棺墓、江南由来の稲、蘇州由来の絹など >>132
日本の甕棺墓は朝鮮南部から伝わった壺棺墓がルーツ。 >>141
甕棺墓は北部九州から朝鮮南部に伝わった 246の>>798
自分で言ってる事がおかしいと思わないのかねぇ、大和説者って。
まぁこの程度のアホだから大和説なんだろうがな。 甕棺の流通と一緒に日本の従来の土器等も同時に使われてる
土器は自分で作って使う物
新式の道具でもない物をわざわざ余所の道具にする意味がない
在地の人間が新技術だけ受け入れてアレンジした変化という事だ
その変化は外国と全く関係のない日本独自の物になってる
一部でも外来の影響があれば征服だの渡来人が支配だのバカ丸出しだな
こういうパーが騎馬民族説とか言い出すんだろう 成人用甕棺はベトナム、東南アジア、フィリピン、台湾北部だな
首狩の分布もだいたい一致する >>133
それら全部、朝鮮南部から弥生人が導入しただけ。 246の>>810
>卑弥呼は事代主の娘で天日方奇日方命の妹。<
こりゃ、全くの分裂幻覚のssnの妄想だ。 >>145
甕棺墓は朝鮮南部から伝わった壺甕棺がルーツ。
これが定説。 日本の甕棺の変遷は乳幼児用の小さいもの→大型化→九州北部を中心に分布と言う流れ
原型が外国から来たものでもその発展の形式は日本独自の流れの上にある
そこに共伴するのは日本の土器等であり外来の人間の影響下にある流れとは考えない >>153
古墳時代前期には糸島一部地域と周辺の石棺墓の周溝に埋葬されている程度 >>154
甕棺墓は大陸から北部九州そして朝鮮南部へとつたわる
歴博の定説はトンデモである 246の>>811
>北部九州には鏡が無いことに必死でしたいらしいが、獣首鏡も蝙蝠鈕座内行花文鏡も位至三公鏡もまだまだ北部九州が中心
まだ力は保ってる様だ 特に位至三公鏡は晋で大流行した鏡だし
この頃から大阪や兵庫での出土も増え始めるが、まだ北部九州より少ない
畿内に多い神獣鏡系は、長江流域中心に出土する鏡
北部九州経由とは別ルート交流の可能性あり?
それとも東晋時代になって都が建康になってから主流となった? <
成程。 稲作をはじめとして多くの外来の技術が日本に入ってきてるのは誰も疑問を差し挟む余地のない自明のこと
ただ基本的な生活道具が従来の物を用いている事や、受け入れた道具そのものも在地のアレンジを受けて変化している事などから、
技術の伝来が中心でありその後の発展は元の技術由来の土地にもない独自変化を遂げている
そこに征服も大量の人の移動も見いだせない >>157
朝鮮が倭人の領土であったことが悔しくて認めたくないのかな >>all
まず稲作は考古学では朝鮮でほぼ100%確定している。
これも知らない ここの中卒老人。 俺は畿内説者だが、百歩譲って邪馬台国が畿内ではないとしても、
北九州だけはあり得ない。
北九州なら吉備や丹波や四国の方がよっぽどまし。
楯築や赤坂今井という立派な墳丘墓もあるし。
ショボーい墓しかない短小九州がなんでこんなに偉そうなんだろ。
さすがは9cm半チョンw 甕棺の発展と衰退の動きはそのまま北部九州勢力の発展と衰退も示している
この甕棺の流通の動きと、九州北部でのみ生産されて配布されていた銅矛の分布は似た変遷を遂げている
元々銅矛は九州北部で作られ配られていた威信財で福岡を中心とした権威の広まりを示していると考えられる
その縮小と消滅の動きはその勢力の衰退をそのまま示していると言っていい
甕棺も同様で弥生時代の後期に入る頃に最盛期を迎えて急速に縮小して消滅している
邪馬台国の100年前には福岡を中心とした勢力は既に瓦解しているのが見えているのが分かる >>163
稲作は南から北に伝わるのである
歴博の朝鮮から九州というのはトンデモである(歴博はつぶさんといかんな >>121
隣の市の個人所有地をなぜ桜井市が勝手にほじくり返さないのか!?オカシイデハナイカ!!
ってワメいてる季違いが
まだいるのか >>162
で、それを証明する弥生土器がメインの朝鮮の証拠遺跡は?
. >>164
邪馬台国は佐賀平野である(いいな畿内厨 >>166
日本には中国から直接 稲作が伝わった痕跡はありません。
稲の粒種から農具まで、全部全部 中国とは異なっている。 こんなだから佐賀人が歩いた後はペンペン草も生えないと言われる >>170
徐福の平原広沢とは佐賀平野のことである 鏡についても福岡市周辺を出土の中心としていた物が急激に減少してその中心地が北九州市方面に移る
これもかつてのような大量副葬ではなく複数の遺跡に数枚の規模にまで減少していてとてもかつての王墓のような存在とは言い難い
福岡市周辺は土器層を見ても生活用具から庄内、吉備式の土器に変化していてその性質の変化は明確になっている
あらゆる点から九州が弥生時代前期、中期の頃に保っていた勢力を失っている様が見て取れる 鏡の分布も「北九州市方面が中心になった」というよりも、「福岡市方面が激減した結果、相対的に北九州市が目立つ」と言うだけでそこに何か大きな勢力が現れたわけではない
北九州市方面も土器層を見ると出雲などの山陰土器の強い影響下にあり他を優越するような勢力が存在していたとは言い難い
かつての銅矛や甕棺のような中心性を無くした上でこのような鏡をはじめとした衰退の姿を見せる九州には、【九州北部でさえまとめる勢力は存在しない】のが分かる
こんなところに邪馬台国などあるはずがないのが分かる 246の>>813
>邪馬台国時代じゃ中国鏡の出土はもはや畿内も九州も大差ないレベル<
いや、始原は常に九州であり、大和はそれの、ドーナツ現象よろしく、「何でも多くて大きけりゃよい」での模倣。
>そしてすぐに畿内に圧倒される かつての数を見れば明確な衰退でしかない<
いや、大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国、という事は、白村江の後まで変わらない。
>この状況を上げて「鏡の中心は九州」とか言ってんだからむしろ滑稽でならない<
「三種の神宝」の中心は筑紫である事には変わりがない。
大和には、呉系楽浪鏡師が入った事と、
同時頃に画文帯や古韓尺の楽浪流民や伽耶の陶質土器人が入って来て、
政権の一部に食い込んだ、というだけ。
>逆に九州なんて中心を失って明らかに斜陽になってる姿を証明してるだけ<
九州は、半島との戦いや、中国への臣下としての限界があっただけ。 もともと弥生時代中期から北部九州の民衆は朝鮮から来た支配層に不満を持っていたんだろうな >>178
北部九州や出雲から朝鮮に支配層としていった 長い間、半島中南部の松菊里遺跡が日本の弥生文化のルーツと言われてきた。
松菊里土器、松菊里住居など。
ところが最近、この松菊里住居のルーツが縄文時代の九州にあることが判明してきた。
つまり九州の縄文人が半島中南部まで渡っていたのであろう。 >>178
朝鮮から来たんじゃなくて、沿海州南岸から日本海を縦断して最初 島根あたりに渡来して広がったんです。
稲作とかその他の先進文化、先進技術は、渡来してから朝鮮との交流を通じて取り入れていただけなんです。
沿海州南岸から渡来したあとに 朝鮮から導入していただけなんです。
これが今の考古学での渡来人の先端です。 >>186
だからまずその沿海州のシニガイ文化の土器を提示しないとだめだろ? >>182
で、それら文化を日本に教えたのは江南だというオチの詐欺だろ。
台湾広鼻ブラック、ブタ広鼻。 >>187
國學院のサイトに文章で提示されてますよ。 >>190
前から同じこと言ってるけど、弥生渡来人がシニガイ文化人と言ってる学者は誰? 文化の伝来の出所なんて幾らでもある
別に日本に限らないどこの国だって同じ
その一部を取り上げて「そこが全てのルーツで支配者」とか言い出すバカは漫画でも読んでろ 甕棺墓から出てきた渡来人骨てな、あまりにも北方的過ぎるというか、北方人そのもので、弥生人が半島人というスタンスだと、弥生時代の半島人は北方人そのものだという事になってしまい、弥生人が半島人だという説は崩れるんだわ。
弥生人は北方の沿海州南岸から日本海を縦断して直接 島根あたりに来て広がったとするのが一番正しい。 甕棺墓の「一部から出た人骨」を全ての様に叫ぶアホ
そりゃ渡来人だっているわ >>191
俺。
沿海州から来たと言っている学者ならけっこう居るよ。
ただ土器からシニ・ガイだとズバリ指定しているのは俺のオリジナル。 >>199
甕棺墓には、甕棺の上部に頭蓋骨のみ納められた小型棺が埋置されていたりするんだけど
そういう葬送儀礼はシニガイ文化にはあるの? >>201
時代が違うだろ。
アタマ大丈夫か?
シニ・ガイ文化土器=刻目突帯文土器
刻目突帯文土器は弥生早期の土器文化。
甕棺墓は弥生前期中頃以降の墓制。 九州は平原の国産模倣鏡の副葬以後はもうかつてのような大量副葬はなくどこも数枚程度の出土の規模に縮小している
しかもそれらの地域から外に出る事もなく、後に続く事もなく完結している
更に福岡市周辺は庄内土器に、北九州市周辺は山陰土器の影響下にあり、
どちらの地域を中心に考えても『倭人伝に出てくる九州北部さえもまとめる勢力はない』のが分かる
鏡鏡と浮かれあがって邪馬台国だとか言ってる程度が知れる
せいぜい個別に中国鏡を少数手に入れる事が出来た地方集落と考えるのが自然 >>87
畿内が九州に影響力を行使した痕跡などないわけだが? >>113
>エタ爺は消 え ろ!
さすが奈良県民は発言が違うなw >>202
>>178に対して
>>186シニガイ文化人が沿海州南岸から渡来したあとに 朝鮮から導入していただけなんです。
と言ってるのはお前だろ >>133
>甕棺も銅矛も日本に来て日本独自の変化をして九州北部で発展して広まったもんだ
>なんでも渡来人に結び付けるバカは何も知らないから困る
八咫の鏡もお忘れなく。 >>185
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/clm/yw0055.html
2月26日・27日に開催された第10回九州縄文研究会 九州の縄文住居で,
これまで松菊里型住居と呼んできたような住居跡がたくさん報告されたのです。
それも,従来言われていたよりも古い,縄文後期とかの例が。
先日,やっと資料集を入手した(雨の中,箱崎の三月書房まで買いに行った)のですが,
……う〜ん,ホントに載ってますねぇ。
こんなに古いと,朝鮮半島の松菊里型住居よりも古くなるんですから,
これ,松菊里教の信者さんからは●●●の陰謀とでも言われちゃいそうです。 >>161
>そこに征服も大量の人の移動も見いだせない
大量だなんて誰が決めた?
少数が渡来して支配層になったんだよ。 >>210
縄文時代に九州から朝鮮半島に進出したということだな それまでの排他的な在地土器から生活用の土器、祭祀に至るまで吉備や庄内土器に変化してしまってる状況で
「畿内の影響なんてない」
とか流石は九州説だな
ミエナイキコエナイがお得意で 単に松菊里遺跡が実際はもっと古いだけだろ。
日本の松菊里型住居が半島から導入した文化なのは間違いないし。 >>213
その可能性が高いよね。
たしか松菊里遺跡には勾玉も出てたはず。
だから前からおかしいとは思ってた。 >>214
>それまでの排他的な在地土器から生活用の土器、祭祀に至るまで吉備や庄内土器に変化してしまってる状況で
「吉備や庄内土器」は、「東阿波型土器」の誤りですね。 @阿波 >>215
ほらこういうやつが出てくる。
なんで事実を捻じ曲げるのか。 権威の継承のシンボルたる墓の祭祀にわざわざ他地域の方式を採用してる時点でもう完全に呑みこまれてるとしか言いようがない >>216
>>218
で、いつ松菊里遺跡が縄文土器遺構、弥生土器遺構になったの? 松菊里遺跡は半島の青銅器文化の中心だからな
縄文時代の九州にはないだろ まあ全部あぼーんしたから透明のまま独り言幾らでも言っててくれ >>223
だから青銅器文化を受容した人間の話なのだが。
日本人は明治に鉄道文化を受容したよね。
それと同じ。 単に松菊里遺跡がもっと古いだけ。
そのうち修正入って、やっぱり松菊里からでしたチャンチャン >>219
これは賛成。
畿内が九州北部に飲み込まれたという意味で。 >>225
松菊里遺跡人が九州の住居文化を受容したの? >>226
そうはなりません、残念でしたチャンチャン だいたい縄文時代の黒曜石がかなり大陸奥地まで出てるだろ。
半島南部くらいは当たり前なのだが。 >>204
畿内の墓制や供献土器がどんどん入って来てるでしょ >>228
住居や墓制というのは民族そのものを表すのじゃないか。
だから縄文九州人の進出だろう。 >九州の縄文住居で,これまで松菊里型住居と呼んできたような住居跡がたくさん報告されたのです。
これって九州のどこ?
こっちのほうが修正されそうな気がするなw 九州の土器、祭器の影響は四国の東部に見られる以外は弥生時代を通じて九州から出る事がない
逆に九州は早い時期から山陰や瀬戸内海の影響を受け続けている
九州説のお馬鹿さん達はこの事実を一切見ないで何故か九州が日本を征服したみたいな妄想を抱いているから理解できないw
しまいには「庄内土器は九州から出来たものだ!」とか言い出すし
九州の土器の変化と庄内土器の発展は全く系譜にありえない物なのに
土器の変遷も知らないバカの集団だとよく分かる >>43
根拠・・・寺澤・・BUT寺澤も答えられない
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW >>234
知らんがな。
九州縄文研究会に聞いてこい。
おまえホント負けん気強いな。w
zarakokuといいおまえといい異常だわw >>238
知らないのに叫ぶのがzarakokuとお前だろw >>233
こちら側の土器があちら側にないじゃないの。
あちら側の土器はこちら側にいっぱいあるんだわ。 >>242
なくはないが、あくまでも長居したお客だな 朝鮮半島南部の『韓』が倭人の影響下に有ったって事は
漢四郡以前から倭人国100国以上と洛陽の通商が有ったわけで
中国の史記に言われてる事。
260年以降であれば百済新羅を冊封した上で
350年程度には国体を持つまでに発展させているし広開土王碑にも有る。
菜畑の水稲耕作遺跡は紀元前10世紀に遡るわけで、
中国史記にBC194年以降、箕氏朝鮮の遺民が流入したとされる
何もない時代の半島の馬韓から水稲耕作が伝承するはずがない。
アメリカインディアンがヨーロッパに産業革命みたいな話だぞ。
ちなみに、漢四郡成立の原因となった衛氏朝鮮の征伐は
中原から陸路では軍の兵糧が続かない=農業が無い、ので軍船による遠征になっている。
半島南部の『韓』は中原の影響が届かないから日本側が開拓に入ったのである。
根拠が無いとか?
魏志の話をしてるなら魏志や史記を読めば良いだけ。
260年まで、畿内と九州に交流が無いというのは評価する。
出雲は漢や半島、ウラジオ、能登、糸魚川、青森とも交易の有った海運王国だったけど、
畿内朝廷との併合は100年位まで下るように思う。
陸の王と海の王がくっついて、九州や半島に出兵した。
九州はこれまで半島同様、外国だった。 筑紫の君って、筑紫に冊封王って事じゃね?
この間の記紀は九州は日本固有の領土って言いたいだけのデタラメ。 >>245
>朝鮮半島南部の『韓』が倭人の影響下に有ったって事は
ねぇし 稲作受容と関わってるから縄文土器のようなコテコテはもういらなくなったんじゃないの。 >>245
あいかわらず考古学無視の妄想暴走だな九州説 九州説は数枚しか出ない、鏡種もバラバラ、継続するわけでもない、その遺跡限定の鏡を持ち出して「邪馬台国だ」と言い張るんだから笑わせてくれる
むしろそれまでの中心が崩壊して辺縁地域に残存する程度の残滓のような出土状態を「いまだに健在」とか言うんだからな
しかもそれ以外の要素と来たら畿内をはじめとした地域の一方的な影響を受けまくってる状態
こいつらがなぜここに邪馬台国があると言い張るのか理解できない >>244
なら、九州の土器文化があちら側にガッツリ伝わるだろうが。
バカ? 九州説は右翼が発明したのは有名だが
今だに九州説は右翼なのか? >>all
とにかく台湾広鼻ブラックの
「中国から来た来た詐欺」
だけは見たらその場で瞬殺しろよ。 >>251
九州であることは事実であるので発明ではない
ヤマトニッポンが右翼なら倭国ニホンは左翼かも >>252
沿海州来た来た詐欺は完全に笑いものだなwwww >>253
でも皇国史観に必要だから九州説を発明したんだろう? 「平原の後も鏡は出る。健在で繁栄は続いている」
という分布をみると見事なくらい福岡市周辺から外れて北九州市方面ばかり
それも「増えた」「新たな中心地」じゃなくて「福岡市周辺が減ったから目立つ」だけ
弥生時代を通じての九州の中心部が崩壊してしまった事を示すだけのものでしかないな
明らかに衰退の証明にしかなってない
これを持ち出して何が言いたいのか俺には理解できない >>256
皇国史観にとって邪馬台国は邪魔な存在なのである >>255
もう過半数はそれか、それに近い説じゃないか。
考古学者の半分近くが具体的な場所は分からないが「北方」だと言っているんだよ。
沿海州説は場所を指定しているだけエライのよ。 >>258
だから記紀から消されたし、魏志が有名になってきてしまったら田舎の土酋ということにして誤魔化さねばならなかった >>all
とにかく台湾ブタ広鼻の
「中国から来た来た詐欺」
を見たらその場で瞬殺しろ。
悪を放置して本当化させないように! まぁ九州説のスタートは国粋的な考えからだからな
学問じゃなくて
今の九州説も逆を言いたいだけのアホの巣窟だから学問じゃないしね
結局土台が同じトンデモの妄想 長江江南の方が大爆笑だろ。
あんなブタみたいな顔した、ただのブタ広鼻を持つベトナム人じゃないの。
クッサイ汚らしい。
醜悪でキモイんですよ。 しかし邪馬台国系のサイトって学者と違ってどいつもこいつも
「俺が真実を暴いた!」みたいな感じの間抜けな事叫んでる九州説だらけだな
アホのゴキブリホイホイみたいな分野なのが良く分かる >>271
間抜けな事叫んでる畿内説がいっぱいいるぞ >>271
知性が涸れて自己顕示欲の澱だけ残ってるたぐいね >>273
よく見ると東遷説なのが丸見えの馬脚鹿だろ 東日流外三郡誌を根拠とか言うバカの集まりだからなシカタナイナ しかしスレには近畿、奈良に住んでる人は何人いるんだろうね。
私は勿論奈良に住んでいるが、土地勘が全く
なさそうな人が見受けられる。 ありし日の古田がヘンテコ行程論といてて
あまりに唐津の土地勘なくて笑えたっけ >>278
まあ畿内は海に面してないと言い張るほどのアホはマレだが >>280
だから、大和説を諦めて、海に面する「畿内」説に広げたんだからな >>281
百年まえから畿内説だけど?
もともと大和説なんてもんがあったって証拠は? >>281
これもまあ過去に畿内説が一敗地にまみえたかのように捏造したい詐欺師なんだろうな >>283
>百年まえから畿内説だけど?
百年まえから、大和説を諦めて、海に面する「畿内」説に広げたんだからな その沼地が好きで、そこを目指して遥々やって来る、ムツゴロウのような説もあるとかないとか。 246の>>815
>唯一の拠り所の平原が既に国産の模倣鏡ばかりのお寒い状況だからな<
アホだな。
卑弥呼への銅鏡100枚が、
筑紫付近の各地の王や豪族に一部が分けられているし、
卑弥呼の親愛なる部下には、破鏡して鏡片にして分け与えられているし、
宗女壹與には、当然残された。 平原の模倣鏡のコピーやオリジナルがどこに配られて見つかってるって?
弥生後期の九州で見つかる鏡のどこに配布関係が見えるって?
九州の狭い範囲ですらそんなもん見つからんが
あとにも続かない、周りにも広がらないその遺跡だけの少数出土ばかり
そんな中心性や広域の発見があるなら最初から言えるだろうがw
無い物を妄想で語るだけの脳内九州説 >>286
では聞くが、その前に「大和説」を唱えていた
というのは誰だ? >>240
>>59
これでしょ
>
纒向遺跡は旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する微高地上の遺跡です
考古学的な範囲確認調査によるものです
むろん桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも遺跡が広がる可能性は指摘しています
しかし現状では柳本町及び渋谷町側で遺跡が未確認であるため、纒向遺跡は桜井市纒向に存する遺跡と認識されています
確認すればいいが、確認できない障害があるのでしょ。
また、所都についての回答になっていないね。所都は遺跡の合体でも構わないと思うよ。 >>59
?????
考古学的な範囲確認調査
?????
範疇???????? 246の>>816
>ちなみに三角縁を無視しても畿内の数が邪馬台国時代から上回るから<
「上回ら」ない 。
大和の三角縁の大量副葬は、一番早くても、箸墓の後にしかならないから、4世紀以後。
>三角縁を揶揄してれば安心できると思ってるならアホとしか <
筑紫へ渡来の呉系楽浪鏡師らに拠る三角縁などは、
紀年鏡があるから、卑弥呼の死よりも前に始まっていた可能性が高く、
志登や祇園山の三角縁は卑弥呼の死の頃になり、
不彌國の藤崎西新町の三角縁も卑弥呼の頃になり、
那珂八幡の三角縁がようやく3世紀末になる程度であり、
副葬三角縁は、大和よりも先に早く始まっている事になる。 >>295
おまえ日本語ヘタだな
何言ってるのか解らない >>298
箸墓の年代をそんなに引き下げる根拠が無いんですけど 246の>>817
>オリジナルをつくり自力で権威を打ち立てようとしたことから東遷がはじまる <
「東遷」なんてどこにもないよ。
神武らの「東征」は、紀元前1世紀であるし、
その後は、倭王武の上表にあるように「東征毛人五十五國」があったのであり、
その間に旧小国の大和が受けたのは、種々の「情報の伝来」だけだよ。、 >>294
誰もいないじゃないの? 「大和説」も「畿内説」も。 @阿波 >>282
邪馬台国=女王国と解釈する場合はね。
その辺りはまだ断定は出来ないでしょうが。
ただ百襲が産まれたという伝承があるのは
田原本の保津辺りだから、このあたりに
何らかの中心があったとは思ってる。 246の>>818
>東遷に三遷あり<
そんな事は書かれていない。 またあぼーんだらけになった
全レスバカがお目覚めか 246の>>824
>帥升=スサノオ 卑弥呼=アマテラス<
分裂幻覚妄想の・・・・。 >>306
大和説とか、言い出したあたりから確実にザラこく >>59
水系でいけば、所都は大和川と佐保川の扇状地のほうがいいんじゃないかな? こんだけ自信たっぷりなのにどこか邪馬台国かいまだに言えない九州説 >>232
>>>204
>畿内の墓制や供献土器がどんどん入って来てるでしょ
貢物ご苦労 葛城地方はやはり本来は狗奴国側で、卑弥呼とは
対立していた側と思いますね。
大和川はその境界線の役目を果たしていたのではと思います。 >>244
>今の朝鮮人はもともと九州にいたってこと?
九州から攻めて言ったんだろ。
倭寇の始まりかな? >>245
>陸の王と海の王がくっついて、九州や半島に出兵した。
>九州はこれまで半島同様、外国だった。 筑紫の君って、筑紫に冊封王って事じゃね?
>この間の記紀は九州は日本固有の領土って言いたいだけのデタラメ。
陸の王は出雲の大国主、海の王は対馬海峡のアマテラスだろ。
アマテラスが出雲を下して筑紫倭国の王になった。 >>248
>>>245
>あいかわらず考古学無視の妄想暴走だな九州説
相変わらず畿内のことしか知らないくせに。 >>295
貴君に理が有る。
スレ主は纏向遺跡の現範囲については述べてるが、
所都の範囲については言及していないね。纏向遺跡=所都と決めつけているだけだね。 >>249
>こいつらがなぜここに邪馬台国があると言い張るのか理解できない
お前が馬鹿だから。 >>251
>九州説は右翼が発明したのは有名だが
>今だに九州説は右翼なのか?
今は畿内説が右翼だな。 246の>>827
>まぁ九州の鏡が国産の模倣鏡ばかりだからな<
卑弥呼への下賜鏡と、渡来して来た楽浪鏡師の製作鏡と、ホウ製鏡があったんだよ。
>これなら三角縁の文句なんて言えんわな<
大和の三角縁は、ホケノのような楽浪流民の持ち込み鏡や、
楽浪鏡師の製作鏡と、
鏡作り神社で大和の子弟らが造った粗悪な副葬用の三角縁ばっかり。
>三角縁の出所が仮に国産模倣鏡だとしても明らかな中心性を見せて全国分布する鏡と、どこにも影響を及ぼせてない鏡じゃそもそも話にならない
邪馬台国時代の中心地がどこにあるのか、そしてどこが属国として支配されているのか
良く分かる話になるだけ <
中心は、筑紫であって、
大和は、後から筑紫の真似模倣をした事になるだけ。 >>269
>>>266
>それも東遷爺
それ誰? >>271
>「俺が真実を暴いた!」みたいな感じの間抜けな事叫んでる九州説だらけだな
それ、畿内説だろ。
皇后がどうの崇神がどうのと、うるさい。 >>276
>>>273
>よく見ると東遷説なのが丸見えの馬脚鹿だろ
東遷説と畿内説はどう違うのか。
それとも、スレ主みたいな瀬戸内ユートピア論を信じろと? >>282
>孝霊厨の説は山口県から三重県まであるからな
限りなく九州にすり寄っていてワロタ >>59
>むろん桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも
遺跡が広がる可能性は指摘しています>
どこから拾ってきましたか? >>293
>平原の模倣鏡のコピーやオリジナルがどこに配られて見つかってるって?
八咫の鏡は配布もコピーもしないよ。
王位の証なんだから。
馬鹿だろ。 >>297
王宮ならピンポイントで示せるはず。
他府県にまたがる説など、ただの苦し紛れの言い訳。 >>300
>>>298
>箸墓の年代をそんなに引き下げる根拠が無いんですけど
箸墓の年代を3世紀に引き上げる根拠に乏しいのですが。 >>304
>田原本の保津辺りだから、このあたりに
>何らかの中心があったとは思ってる。
見つけてから言え。
それまではただの妄想。 >>316
>>>312
>でも畿内系のほうが身分上じゃん
いつの時代のこと?
天皇家が九州系なのに? 246の>>852
>多分、寺澤さんと柳田さんあたりは頑張ってると思う<
寺澤は、史料事実の曲解捏造だし、柳田は「長いものに巻かれて三雲の庄内撤回」だし。
>確かに交流自体は弥生時代から活発だから、国々が纏まりつつあってもおかしくない
ただ、それが西日本という大きな範囲だと?と感じる その後のヤマト政権でもまだ苦労してる様だし<
大和は、始めから、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国、なんだよ。 で、九州説の言う邪馬台国ってどこなの?
伊都国や九州北部地域を支配下に置いてる地域が条件だからな?
つまり、九州北部は『支配下の地域』で邪馬台国じゃあり得ないからな?
北部は庄内土器が分布してる場所で畿内の影響下だからな?
でも中部も東部も南部も北部と別文化圏だからな?
九州ならどこでも良いとかあり得ないからな?
で?どこなんだ? 246の>>854
>東治の東は海だからな、まぁ完全に場所は間違えてるけどなw <
東治の東は海の向こうは、九州だよ。 奈良県天理市教委の発掘成果展「発掘の現場から−地下に眠る天理の昔々−」が、
同市守目堂町の市文化センターで開かれている。別所ツルベ遺跡(同市別所町)で見つかった縄文時代後期のヒスイの玉など、
市北部にある豊田山丘陵周辺の遺跡や古墳からの出土品を陳列している。
別所ツルベ遺跡では、平成6年の調査で、縄文時代後期の集落跡が見つかった。
ヒスイの玉は長さ約3センチ、幅2・5センチで、新潟・糸魚川付近の原産とみられ、
穴が開いていることなどから副葬品の首飾りだったと考えられている。
同遺跡の出土品としては、九州や東北など遠方から運ばれてきた土器も展示されている。
また、豊田山丘陵周辺には、古墳時代後期(6世紀ごろ)を中心にした前方後円墳が分布しており、
会場では袋塚古墳(同市別所町)の埴(はに)輪(わ)片なども展示されている >>336
>つまり、九州北部は『支配下の地域』で邪馬台国じゃあり得ないからな?
根拠は? >東南陸行五百里、到伊都国、
>世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。
漢の時代には倭奴国に王がいた事を意識したのかもしれないが、
漢委奴国王印は伊都国に伝えられて来たとの伝承もあるので(細石神社)、倭奴国と伊都国は本質的に同じものだったかもしれない。
それなら、魏がすんなりと卑弥呼を倭奴国の後継と承認したのも理解できる。 考古学には限界がある。
卑弥呼や、卑弥呼を生んだ2世紀前半から3世紀後半までの王権の事は、
必ず文献に記載されてるはず。
もう一度記紀を思い出せ。
単純明快な人物が出てくるから。 根拠は?とか言ってるよ
倭人伝読んだことないのかよ
早く邪馬台国の場所言ってみろよ
どこだよ?ほら
鏡がある?じゃあ鏡の見つかった遺跡が邪馬台国ですか?
鉄がある?じゃあ鉄の見つかった遺跡が邪馬台国ですか?
それが根拠だってんだよな?
なぁ?
言ってみろよどこだか >>332
弥生中期から後期の大集落の存在は既に確認済みだが?
それに鏡作神社の所在地の近所でもある。
更にいうと弥生末期と推定される、巻向から伸びる古道跡も確認されてますよ。
この辺り単に発掘調査がなされてない場所なんて沢山あるからね。 絶対だ間違いないとか言うくせにどこかも言えない九州説
分かった
そのご高説を聞こうじゃないか
どこにあるのかさ
九州のどこに邪馬台国があるのか 思い出せ、前期古墳は山の上にあるだろ。
卑弥呼や、卑弥呼を生んだ2世紀前半から3世紀後半までの王族は前期古墳になる。
彼らの墓も山の上にあるのだ。
大和盆地の山だ。
卑弥呼やその王族の墓が平地になどあるものか。
彼らは箸墓の被葬者より地位が高かったのだから。 >>347
まぁ奈良盆地周辺の山の尾根上に候補を求めるなら三カ所ある。
俺は何回も全て回って調査してるけどね、勿論掘る訳じゃないが。 「きゅうしゅならどこでもいいや」
この程度が九州説 >>342
>それが根拠だってんだよな?
>なぁ?
畿内の方がもっと何もない。 本当に面白いよな
「邪馬台国は九州のどこですか?」と聞くとマジで黙り込むからな
こいつら何を主張してるのか謎でしかない >>335
同意する
寺澤は単なる目立ちたがり屋・・・彼は考古学には向いてない >>343
>この辺り単に発掘調査がなされてない場所なんて沢山あるからね。
発掘してから出直してもらえませんかね。
妄想なら、四国でも関東でもどこでもいいわけで。
後世に奈良に都があったから、その500年前もそうだったと思い込んでいるだけ。 >>349
三カ所だけ? 大王は3人だけ? @阿波 まぁ瀬田遺跡の例でも判るように、遺跡の下に
また遺跡があるのが奈良盆地。
しかも調査出来るのは学校建て替え等公共工事の
機会に調査するしか手段はないんですよ。
巻向も元々は県住の建設に際して確認された物だからね。
奈良盆地の発掘なんてハードルはまだまだ高いです。 九州のどこに都が発掘されたのか教えてくれよ
九州説さんよ?
畿内の事はお前らに聞いてないから
お前らの主張する都はどこだよ?
これは聞こえないふりか一言中傷で逃げるか?
全レスキチガイ
お前に言ってんだよ 九州起源説
http://www2s.biglobe.ne.jp/~yoss/moon/bunmei.jpg どこかと言われたら、伊都国だなぁ。
後世の仮名遣いでは都はツなのだが、トにあえて都の文字をあてたのは、伊都が都であるという強烈な主張だよ。
魏志でももっとも詳しく紹介しているし、諸国は伊都の一大卒を恐れはばかるとあり、王がいるとも書いてある。
その王の名は、詳しく説明するために本文中のやや離れたところに書いてある。
卑弥呼と。 100枚の魏から貰った後漢鏡があって
7万戸の住民がいて
大きな屋敷のある都があって
径100歩の墓があって
伊都国を含めた北部九州から投馬国から全部領域に入れている
そういう国があるんだよな?九州に?
畿内の事なんて聞いてないから
九州の事を言えよ、ほら >>354
わからない人ですね、弥生遺跡自体が確認されてますよ。
これは妄想でもなんでもありません。
例えば該当するのは保津宮古遺跡なんかは
中世の遺跡の下にありますが、地盤が削られてしまってます。
まぁ保津宮古、鍵唐古辺りから大福辺り、
更に瀬田遺跡まで切れ目なく弥生集落が
広がっていた可能性だってありますからね。 伊都国は女王国と別の支配下の国だろうが
アホか
倭人伝も読んでないのか
で、仮にそこだとして何か?
ここに卑弥呼の鏡あるのか?大きなお屋敷があるのか?7万戸の住民がいるのか?径100歩の墓あるのか?倭人伝にある国々を支配下に入れてるのか?
それが答えで良いのか?
そんなものがどこにあるんだ? wikiでは調べられない
纒向学研究センター
古代学研究会 >>355
まず一つは鳥見山、これは神武伝承でも皇祖を
祀った場所という記述がある事から
何らかの遺跡は存在すると思いますよ。
あと二つは西側の山ですね。 >>365
三カ所だけ? 歴代大王は3人だけ? @阿波 >>>>353
寺澤薫って同支社卒の地方公務員
・・・・本人は早稲田に行きたがっていたようだが
畿内説の考古学には向いてるよ。
妄想続けりゃいいだけだから・・・ 鳥見山は名のとおりで西側は二上山越に大阪湾、
尾根のあるポイントでは望遠レンズでは明石海峡大橋まで望めました。
今は木々が伸びて難しいですが。
更に東側の尾根からは富士山が撮影出来る場所もありますからね。
まぁいくら視力やよくても当時そこまで見えたとは思いませんが。
奈良盆地にそんな場所がある事を知らない人が大半ですね。 学歴で人を判断してはいけないが
寺沢薫さんは何処の高校出てるのですか? >>361
遺跡は全国にあるわけで、それらとどこが違うのか教えて欲しい。 >>366
レスの意味がわかりません、私は奈良周辺で尾根上にある
弥生時代の遺跡や古墳があるかも知れない
場所を挙げているだけですよ。
大王がとかは別に特定してませんから。 >>369です、
ごめん、
>>367へ
学歴で人を判断してはいけないが
寺沢薫さんは何処の高校出てるのですか? 246の>>916
>ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。 <
「南≠東」だから、×。 >>370
それらの遺跡は弥生中期から後期にかけて、ある程度の規模をもった
集落遺跡という条件をクリアしてますすか?
しかもそれらが至近距離で重なりあってる点、
また鏡作神社のように当時の文化的時代性特徴を
裏付け証明するような神社の存在、また百襲という
卑弥呼候補が「産まれた」とされる伝承の存在。
それらを含めての話ですから、対抗するなら
それ位の条件はクリアしてからですね。 246の>>919
>こういう 漢文読む教養を持ってない人の妄想 それが九州説<
こういうような、漢文や考古の史料事実を勝手に否定したり曲解したりする分裂幻覚妄想人種、
それが大和説者。 孝霊厨
貴君の自論はわかったが少し新鮮味にかけます。
貴君のカキコミに飽きてきました。 246の>>924
>>棒を立てて、日の入りと日の出での影の先端同士を結んで東西方向を決め、
それに直交する方向で南北を決めていたから、 「方角が45度ずれ」ないの。<
>古代中国には方位磁石があったし それを元にすればズレるんじゃないの<
方位磁石があった?、としても、
それと周髀算経の方法とはかなりの誤差がある事が直ぐに判るから、
魏の役人たちは、大体の 方向だけではなく正確な方向を知ろうと思えば、
周髀算経の方法を使うの。 >>378
あなたも不思議なカキコミと思ってましたか。
私も246の>>924 ?????????????????????です >>330
どこから王宮とかまたがるとか出てきたのかわからん 寺沢薫・・・・地方公務員
1950年東京都生まれ。
同志社大学文学部文化学科卒業。
奈良県立橿原考古学研究所、奈良県教育委員会文化財保存課、
シルクロード学研究センターなどを経て、
2012年4月から桜井市纒向学研究センター所長。 >>377
というより話が常にループしてるだけだと思うけどね。
新しい発掘の話しても大半何も興味示さないでしょ?
瀬田遺跡の話でも殆ど興味示さない人が大半だし。 寺澤くんはやり手
自分でいき場所作ったんだよ。
桜井市纒向学研究センターなんて税金の無駄遣い、
桜井市立埋蔵文化財センターで研究しても良かったと思うよ。
地方公務委員の悲哀を寺澤くんに感ずるね 桜井市立埋蔵文化財センター
販売物はあるようですが、貴重な遺物は所蔵してますか? 畿内説は銭に埋もれてるな
WWWWWWWWWWWWWWWWW >>387
ありがとう
台風がよく通るから
流された遺物も畿内に比べ多いと思うよ >>380
>>>330
>どこから王宮とかまたがるとか出てきたのかわからん
畿内というか広い枠組みで誤魔化しているが、当時の関西地方に畿内というまとまりがあったというか証拠がない。
纒向なら纒向説と言えばいいのに。 >>375
>それらの遺跡は弥生中期から後期にかけて、ある程度の規模をもった
>集落遺跡という条件をクリアしてますすか?
ある程度ね。
神社なんて全国にあるし、全然根拠が足りない。
しかもその遺跡の主がはるばる魏まで朝貢した痕跡もない。
魏の使いがそこに来た跡はありますか?記録はありますか? 纒向って、東海の付属物みたいなチンケな田舎でしょ。 >>389
330がなんで297に安価打ってるのかわからん >>390
具体的な例を言えないようじゃ見苦しいだけだぞ 関西では女性の局部を
オメコ、おそそと言います
オメコ・・・ヒミコ 似てるな
九州ではオカンチョ、ボボ、チョンベ
大分県ではオメコともいう
大分県が卑弥呼の居た地じゃないかな
大分から関西にオメコが東征 >>398
阿波ではおそそ
おそそ=ももそ???? 246の>>932
>倭人伝の投馬は古来往来の有る出雲だろうけど <
「南≠東」だから、出雲は×。 結局、なんで奈良盆地に邪馬台国を探すのかちっともわからん。
奈良でもいいなら、どこでもいい。
そもそも魏から奈良に使いが来た形跡もないし。 九州の日田や朝倉の雨は本当に危ないレベルですね。
母から聞いたのですが、昭和28年高野山水害があった時、
本当に滝のような雨が続いて裏山が動いたと言ったました。
その為うちの鉱山も境界等が判らない程地形が変わって
放棄せざるを得なかったたと聞いてます。 三世紀奈良盆地や畿内には画文帯神獣鏡の出土からは
少なくとも中国大陸から人の往来があった事は確実です。
元々当初は狗奴国のエリアが大半だった証拠でしょう。 吉野ヶ里みたいな耕地と密接した砦状の中核はせいぜい在地領主館
中世の武士の館に似ている
堀と塀を廻らし物見を兼ねた楼門には朗党が見張りしている
一方、都というのは耕地を持たない
地方から運上させた税を消費するのが都であり機能は政治や経済に特化したもので良い
或いは経済の中心も他所でよく
王の住まいと儀式などを行う施設だけでも都は成り立つのかも知れない
巻向の整然とした建造物
巨大古墳
そういった王権を象徴するモニュメント的なものに特化した方がいっそ聖域として風格を持つのかも知れない
生産は地方
それを消費するのが都
平安京でも耕地は禁止されたのだ
経済も五条の市に限定されたのだ
王と官人と労役に集められた徴用民
初期の平安京はそれだけが住む街だったのだ
いわんや巻向おや >>406
>三世紀奈良盆地や畿内には画文帯神獣鏡の出土からは
少なくとも中国大陸から人の往来があった事は確実です。
根拠無し 単なる妄想 吉野ヶ里みたいな耕地と密接した砦状の中核はせいぜい在地領主館
中世の武士の館に似ている
堀と塀を廻らし物見を兼ねた楼門には朗党が見張りしている
一方、都というのは耕地を持たない
地方から運上させた税を消費するのが都であり機能は政治や経済に特化したもので良い(伊都)
或いは経済の中心も他所でよく(博多)
王の住まいと儀式などを行う施設だけでも都は成り立つのかも知れない(伊都)
生産は地方
それを消費するのが都
平安京でも耕地は禁止されたのだ
経済も五条の市に限定されたのだ
王と官人と労役に集められた徴用民
初期の平安京はそれだけが住む街だったのだ
いわんや伊都おや 【伊都国】
魏志において王がいて魏の郡使が駐在すると書かれた伊都国は、人口が1000戸と少ない。
卑弥呼の王宮の下女は1000人とあり、伊都には王族の他に王宮を運営する舎人と采女、その家族がいたことになる。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都は明確に分離されていた。
伊都国には平原遺跡という3世紀頃の女王墓があり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、特に史上最大の銅鏡であるいわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、伊都に強大な権力があったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。 >>407
>初期の平安京はそれだけが住む街だったのだ
いわんや巻向おや
なにが、「いわんや」だ。 弥生時代後期と8世紀律令都市を一緒にするアホ >>87
>いづれにしても、
確実に魏との交流があったTB期の北部九州で十分に影響力を行使している畿内勢力が、
倭国の範囲に含まれない可能性は殆ど無いでしょう<
いづれにしても、新唐書の記載から、
大和は筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国であり、
魏志の記載から、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」であり、
魏志と古事記の記載から、大和は、
「倭國の地方の市を監督する大倭職」の国であったんだよ。 >>409
奈良盆地と畿内全体では事情は違う。
それに奈良盆地にある鏡といっても、後世の古墳から古びた伝世鏡がパラパラ出る程度。
とても、筑紫や出雲を越える権力があったようには見えない。
奈良盆地を呼ぶ当時の国名がはっきりしないなど、そもそも勢力そのものがなかったようにさえ見える。
中心となる国邑もはっきりしない。
畿内説は雲をつかむような想像の産物にしか見えない。 邪馬台国論争は謎でも何でもない。 大和国=邪馬台国で決着ついている。
卑弥呼の正体は、崇神天皇の父方の大叔母。
この国の初代の倭王は、天火明命。出雲国譲りさせて統一したのは、この倭王。
卑弥呼や現在の天皇家の先祖は、邇邇芸命。
天火明命の弟(庶兄という説もある)にあたる。
邇邇芸命は、兄の天火明命の命令で、九州高千穂の統治を任されていた。
この家系がいつしか再び畿内に戻り(神武東征)、
やがて 天火明命の子孫から王位を簒奪しておこったのが倭国大乱であり
皇室系図でいうところの欠史八代の中頃の時期にあたる。 >>415
>この家系がいつしか再び畿内に戻り(神武東征)、
畿内の沼地が好きで、そこを目指して遥々やって来る、ムツゴロウのような説。 @阿波 >>105
>>「殉葬奴婢百余人」がないから、×だ<
>神社のご神体、聖域は発掘できないのだよ、<
ホケノは、地下探査をして、ホケノとは違う墓を見つけたから、
発掘出来なくても、「殉葬奴婢百余人」は確認できるんだよ。 卑弥呼の王宮には楼閣高くして、と表現されている。
だから高楼もあったのだろう。
邪馬台国は狗奴国との戦いにより戦時体制だったが、纒向にはその痕跡はない。
一方の伊都は、高祖山のクシフル岳を東に望む高祖宮が、後世に怡土城または高祖城として利用されており、卑弥呼の時代もあるいは城郭としての機能を持っていたかもしれない。
筑紫の日向の地名の符合からは、高祖宮こそかの高千穂宮との推定も成り立つ。
博多湾沿岸の紀元前から続く古代倭国の地を押さえる要害が高祖山であり、邇邇芸の即位や神武の出発地としてもふさわしい。 >>419
畿内の沼地が好きで、そこを目指して遥々やって来る、ムツゴロウのような説。 @阿波 >>111
>文献考古の史料事実や史料実態を解釈や説明するのは学者であって<
「南→東」のように、史料事実への嘘つきダマシをする大和説者は、
サギシであって、学者ではない。 >>113
>>ホケノでも、地下探査器械を使って、もう一つ別の墓を見つけている位だから、
地下に大量の殉葬石棺でもあれば、見つかる筈だ。<
>それ、マバカと堂ノ後の話じゃね? おまえはオバカwww
しかも地下探査器械なんて使ってないし。<
地下の古墳が見つかったのなら、「殉葬奴婢百余人」の墓群も見つかる筈、なんだよ。 崇神天皇を深く調べると卑弥呼も台与も分かるんだわ。
中国を意識して崇神天皇に織り込んで二人を隠したんだわ。 >>115
>地下探査器械って何だよwww <
Yahooの掲示板時代で、8年位前?にmutouha氏が「堂ノ後古墳」を紹介され、
何やら、近大?かどこかの大学が何か?新しい方法で見つけた、という事であり、
すぐにお気に入りに入れておいたが、
Yahooが、textreamに変更した時に、それまでの投稿を全部出せないようにしてしまったから、
お気に入りからも出せなくなってしまった。
Yahooって会社も、怖い会社だねえ。
その後、ピラミッドなどの内部構造の検査が出来た、という報道もあった。 >>116
今時、大和説や箸墓とかの、時代錯誤感がハンパないよな。
いつまでも夢見てんじゃないよ。 >>122
>>「殉葬奴婢百余人」がないもの同士での、傷の舐め合いや慰め合い。<
>祇園山は竪穴石室もあるので奴婢の埋葬ではないよ。<
祇園山に「石室」なんてなかった筈だよ。
「箱式石棺」と間違えてんじゃないのかい?。 >>124
>呉には朝鮮半島や北部九州で出土するような銅矛はない <
「矛盾」の説話があるんだから、呉に(材料が何であれ)「矛」がなかった筈がない。 >>127
>日本みたいな銅矛が半島や大陸にあったと思ってるバカがいるんだ
笑える<
「矛と剣」は少し違うだけであり、
半島にも(九州の銅剣とそっくりの)「銅剣」が出土している。
。 >>409
それじゃ鏡が勝手に移動してくるのかよw 今晩もキチガイが全レスしてるみたいだな
あぼーんだらけだ
独り言ご苦労さん >>428
>祇園山に「石室」なんてなかった筈だよ。
「箱式石棺」と間違えてんじゃないのかい?。
あるよ。ちゃんと調べてから書け。
http://obito1.web.fc2.com/kurume.html
◆祇園山古墳 【県史跡】
久留米市御井町299-219、高良山へ向かう道を、九州道の高架をくぐってすぐ右折し、
側道の突き当たりにあります。前期に築かれた一辺23mの方墳で、葺石があります。
埋葬施設は箱式石棺で、内部には朱が塗られていました。
墳丘の外周から甕棺墓3、石蓋土壙墓32、箱式石棺墓7、竪穴式石室13、不明7基の埋葬施設が見つかっています。
つまり奴婢に石室など作るわけないので祇園山は×
あきらめろ糞ジジイ。www >>410
独断の感想文ですか?
まあ、信ずる者は救われる程度のカキコミですね。 弥生青銅器は前半は全て朝鮮南部からの輸入品。
青銅器の製法を導入してから銅鐸など独自の器種も生まれた。
三角縁などの難しいものは半島でオーダーメイドして逆輸入してたんだと思うね。 >>407
展開がよくわからない
地方から運上させた税を消費するのが都であり機能は政治や経済に特化したもので良い
⤵
或いは経済の中心も他所でよく
王の住まいと儀式などを行う施設だけでも都は成り立つのかも知れない
⤵
そういった王権を象徴するモニュメント的なものに特化した方がいっそ聖域として風格を持つのかも知れない
⤵
生産は地方 それを消費するのが都
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
集落が有る方が良いのか、無い方が良いのか???????????
どちらでも良いととれる。纏向は消費都市でなくモニュメント?
いずれにせよ、魏の使いや、日本各地の王等々の宿泊施設は必用だろう。 地方から運上させた税を消費するのが都であり機能は政治や経済に特化したもので良い ・・・・・・集落は必用、纏向✖
⤵
或いは経済の中心も他所でよく
王の住まいと儀式などを行う施設だけでも都は成り立つのかも知れない・
そういった王権を象徴するモニュメント的なものに特化した方がいっそ聖域として風格を持つのかも知れない・・・・・・・纏向◎
⤵
生産は地方 それを消費するのが都・・・・・・・集落は必用、纏向✖
⤵
王と官人と労役に集められた徴用民 初期の平安京はそれだけが住む街だったのだ
・・・・・・・・・・・根拠もわからない、纏向は初期王都で終わってしまった?魏と何度も交流できない。 >>439
日本語が不自由な人だ
何を言いたいのか他人に伝わらない
結局は理由なにひとつないMy結論を言い張ってるだけ
纒向説
纏向遺跡=桜井市=王都
纏向遺跡が王都ならその範囲は
水系でいけば、大和川と佐保川の間の扇状地のほうがいいんじゃないかな?
天理市と橿原市が遺跡の範囲に入っても問題ないのだが、桜井市に固執するから可笑しなことになる。 キウスが中身のない頭で考えようとするからおかしなことになる >>441
おまけに畿内説じゃない人間が空想するから支離滅裂になるね >>439
賛同 邪馬台国は畿内にありきからの詭弁 畿内説に歯が立たなくてぜんぜん反論できないからひたすら悪口を書きまくるという
子供か・・・ 奈良はいくつかの大きい古墳が目立つが、
古墳の数は少ないからな >>339
だよな
纏向は王と官人と労役に集められた徴用民 それだけが住む街だったのだ
じゃな 理解に苦しむ ゴメン
○>>439
×>>339
だよな
纏向は王と官人と労役に集められた徴用民 それだけが住む街だったのだ
じゃな 理解に苦しむ >>451
こんなに日本語下手なのはお前一人だろ
芝居すんな 駄弁
用もないことをべらべらしゃべること。むだなおしゃべり。 >>448
意外 千葉、茨城が多い
やはり、蝦夷勢力とせめぎあいが烈しい地域が多くなる >>420 @阿波
>>畿内の沼地が好きで、そこを目指して遥々やって来る、ムツゴロウのような説。>
↑
比喩がおもしろいで賞 >>462
>意外 千葉、茨城が多い
それ全部、阿波から黒潮の乗って関東に進出した、関東忌部の痕跡なんですよ。
関東の神社は「天日鷲命」や「天富命」を祀っていますね。 @阿波 >>439
纒向にモニュメントなんてない。
古代で言えば、鳥居とかだろう。
平原にあるような。 >>438
>吉野ケ里が王都で平原が卑弥呼の墓と思う
卑弥呼の時代に撤収にむかったのでは? >>164
>俺は畿内説者だが、百歩譲って邪馬台国が畿内ではないとしても、
北九州だけはあり得ない。
北九州なら吉備や丹波や四国の方がよっぽどまし。
楯築や赤坂今井という立派な墳丘墓もあるし。
ショボーい墓しかない短小九州がなんでこんなに偉そうなんだろ。
さすがは9cm半チョンw<
大和説者と言う人種は、やっぱり、
「人種差別的皇国史観」にクルった・・・・ばっかりなんだ!。 >>165
>甕棺の発展と衰退の動きはそのまま北部九州勢力の発展と衰退も示している<
関係がない。
白村江での大敗までは、筑紫倭國が列島盟主であったのであり、
その支配的盟主家が、倭人の天孫族系から東海姫氏系に変わっていただけ。
>この甕棺の流通の動きと、九州北部でのみ生産されて配布されていた銅矛の分布は似た変遷を遂げている
元々銅矛は九州北部で作られ配られていた威信財で福岡を中心とした権威の広まりを示していると考えられる
その縮小と消滅の動きはその勢力の衰退をそのまま示していると言っていい
甕棺も同様で弥生時代の後期に入る頃に最盛期を迎えて急速に縮小して消滅している<
史料実態からは、銅矛も甕棺も卑弥呼の頃まで存在していた事になる。
>邪馬台国の100年前には福岡を中心とした勢力は既に瓦解しているのが見えているのが分かる<
邪馬台国なんて、史料事実に存在しないし、瓦解もなかった、。
卑弥呼共立で、北部九州王家の価値観が大きく変遷を始め、
317年頃に久留米に遷都した事から、東海姫氏國の価値観に変わった。 >>175
>鏡についても福岡市周辺を出土の中心としていた物が急激に減少してその中心地が北九州市方面に移る<
鏡片は筑紫が圧倒的中心であったままであるし、平原は、3世紀後半であるし、
その後も那珂八幡や銚子塚などに出土し、
その後で317年頃の久留米付近への遷宮に拠って、福岡市周辺が中心ではなくなった。
>これもかつてのような大量副葬ではなく
複数の遺跡に数枚の規模にまで減少していてとてもかつての王墓のような存在とは言い難い<
高良大社では、現代まで「三種の神宝」が崇められている。
>福岡市周辺は土器層を見ても生活用具から庄内、吉備式の土器に変化していてその性質の変化は明確になっている<
それは、3世紀末の那珂八幡付近での話であり、
しかし、庄内技法の出現は三雲が最も早いし、布留も(南越前よりも)筑紫が早かった可能性がある。
>あらゆる点から九州が弥生時代前期、中期の頃に保っていた勢力を失っている様が見て取れる<
あらゆる点から、
倭國の別種の旧小国の(市を監督する大倭職の)大和が富裕になって来たのは、
3世紀末〜4世紀初頭以後である、
という様が見て取れる。 平原が3世紀後半とか言ったら
一発で
お笑い枠確定だよな
こんなふうに
反論というものが全くできないのが
九州説信者の知的水準 >>176
>鏡の分布も「北九州市方面が中心になった」というよりも、
「福岡市方面が激減した結果、相対的に北九州市が目立つ」と言うだけで
そこに何か大きな勢力が現れたわけではない
北九州市方面も土器層を見ると出雲などの山陰土器の強い影響下にあり
他を優越するような勢力が存在していたとは言い難い<
姫氏の卑弥呼共立や317年の久留米遷宮に拠って、筑紫倭國の中心が、
(天孫族系が中心であった)筑前地域から、筑後地域に移っただけ。
>かつての銅矛や甕棺のような中心性を無くした上でこのような鏡をはじめとした衰退の姿を見せる九州には、<
白村江の後まで、筑紫は列島中であった。
>【九州北部でさえまとめる勢力は存在しない】のが分かる<
大和が、白村江までは、列島中心ではなかった、という事が分かる。
こんなところに邪馬台国などあるはずがないのが分かる < >>462
>>>448
>意外 千葉、茨城が多い
>
>やはり、蝦夷勢力とせめぎあいが烈しい地域が多くなる
そうなんですよ。
関東も実はかなりの勢力がいたはずで、畿内でも奈良なんて古墳が少ない方で、それで何が邪馬台国だよ、ですよ。 >>471
>その支配的盟主家が、倭人の天孫族系から東海姫氏系に変わっていただけ。
そうそう。
倭国の盟主が、甕棺の筑紫天孫族から肥国邪馬台国に代わり、卑弥呼が磐余彦や五瀬を伊都高千穂宮追い出したんですよ。 古墳の分布でも、奈良は過疎の辺境の地。
邪馬台国は夢のまた夢。 >>479
「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』そのものにあるのである」
『ピラミッドの謎』1975 メンデルスゾーン博士
あるいはかなりの地方に高地性集落があらわれる。
弥生中期。あらわれかたも1回ではないのです。
同じ集落をまた修復して使ったりしていますが、しかし古墳が
できるようになるとそういうものはほとんどなくなっていく。
なくなるばかりか、ここがまたおもしろいのですが、
かつての高地性集落のあったうえに、あるいはすぐ付近に、その地方でもっとも古い前方後円墳が
突如として築かれる場合がある。
いまのところこの謎はちょっと解けない。
森浩一「考古学の模索」1978 学生社
銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27
臼田 篤伸 (著)
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。 >>189
結局いつも、「南→東」などの大和説者は、
都合の悪い史料事実の隠蔽否定と曲解の、
トンデモが嘘つきダマシのネタなのであった。 >>480
政権交代をいちいち衰退とか揚げ足とって、その敗残兵の政権の痕跡を見て邪馬台国などと騒ぐバカもいる。 九州邪馬台国が水害に襲われている。
現代でさえこれだから、古代ではもっと自然は脅威だったろうなあ。 日本三大暴れ川(洪水や水害が多い河川のこと)
利根川(坂東太郎)
筑後川(筑紫次郎)
吉野川(四国三郎) 神功皇后を卑弥呼時代に当て、
実際の卑弥呼をトンデモない古い時代に追いやってるという事は、
当然、卑弥呼を隠したかったわけだから、
誰が見ても卑弥呼墓に近い大きさの箸墓に、
取ってつけたようにモモソ媛伝承を記載してるという事は、
卑弥呼はモモソ媛ではない。
だからそんな作為的な伝承を元に箸墓を女性墓だというのはおかしい。 >>487
だからわざわざ王墓じゃないって捏造したんでしょ 呉から王族がやって来といて、「呉」という漢字一つ伝えねえとか、
ウ ル ト ラ の バ カ だ ろ お ま え 。 >>203
>九州は平原の国産模倣鏡の副葬以後はもうかつてのような大量副葬はなくどこも数枚程度の出土の規模に縮小している<
壹與以後の男王らは、鏡祭祀そのものに関心がなかったから。
>しかもそれらの地域から外に出る事もなく、<
鏡祭祀は、呉系楽浪鏡師らに拠って、地方に広められた。
>後に続く事もなく完結している<
鏡祭祀は、三種の神器祭祀に拠って、阿毎氏の別種分家の大和や、九州北岸部族や、
姫氏の高良大社に引き継がれている。
>更に福岡市周辺は庄内土器に、北九州市周辺は山陰土器の影響下にあり、
どちらの地域を中心に考えても『倭人伝に出てくる九州北部さえもまとめる勢力はない』のが分かる<
発生はおそらく三雲であり、その後弥生銀座が西日本の中心であった。
>鏡鏡と浮かれあがって邪馬台国だとか言ってる程度が知れる
せいぜい個別に中国鏡を少数手に入れる事が出来た地方集落と考えるのが自然 <
大和は、倭奴國の別種分家の旧小国程度だ、と考えるのが自然。 信仰の対象となってない墳墓は卑弥呼の墓ではない。
箸墓を卑弥呼の墓だとすると、
卑弥呼のお父さん、お母さん、お爺ちゃん、お婆ちゃん、みんなそれなりの墳墓に埋葬されてないとおかしい。
説明できなくなる。
一族の代々墓らしきものがあり、その大きさがおおよそ径百余歩であり、
埋葬される時には当然何なりかの「部分工事」をするわけだから、
そういう墳墓があれば一応説明はつく。
有るのです。
しかも今も最古の神社がお守りして信仰対象になっている。
驚くべきことに、その神社の神殿建造が3世紀中頃から後半の孝昭天皇の頃。
箸墓など下界を見下ろす山の中腹・高台にある。
卑弥呼の墓は高天原(御所市高天)にあったのです。
今日も見ていただきましょう、これが卑弥呼を生んだ神族の代々墓です。
https://goo.gl/xAWiP6 ザラコク
それは御都合主義のかたまり
そして妄言漬けの耄碌ど素人 大和から始まる歴史をなんとしても遅らせたいだけだからな >>488
>>>487
>だからわざわざ王墓じゃないって捏造したんでしょ
そもそも箸墓が王墓だなんて誰も言っていないだろう。 >>214
>それまでの排他的な在地土器から生活用の土器、祭祀に至るまで吉備や庄内土器に変化してしまってる状況で<
庄内は、三雲が一番古いんだよ。
>「畿内の影響なんてない」 とか流石は九州説だな ミエナイキコエナイがお得意で <
河内や播磨や東瀬戸内や大和?は、
筑紫への搬入上納があっても、筑紫からの搬入がないんだから、
西日本の中心は、(東瀬戸内や大和ではなく)筑紫であった事が確定なのであり、
しかし、流石は「南→東」のウソ付きダマシの大和説者だな。
ミエナイキコエナイがお得意で。 でも百襲姫以上に卑弥呼的な人物って誰か居るか?
人間社会では独身。
霊媒師であり、予知能力者。
大神神社の創設、日本神道の礎を築く。
神憑って大物主の神を祀れと最初に言った人。
祀ったら、疫病が収まった。
何だ、卑弥呼じゃねえかw 高天原(御所市高天)から見れば磯城など下界。
ヒミコの墓などあるわけがない。
纏向古墳群の被葬者一族は瀬戸内から探しなさい。
瀬戸内の要素が色濃く出てるのだから当然でしょ。
まぁ答えは物部なんだけどね。
これに気付かない、石野、寺沢、森岡、橋本、みんなアホ。
発情期のアヒルのような顔した春成はもっとアホ。 >>497
女王ではありません。
時代が違います。
残念w
>人間社会では独身。
人間社会って何だよw というか何故か邪馬台国を消え去った幻の国にしたがってるけど中国史だと台与の後も男性王が立って中国に遣使を続けてると書いてある
そして晋宋斉梁隋と続けて使者が来て隋の時代には返礼の裴世清が倭の都に来て「邪馬台国と同じ場所」と書いてる
そして唐書の時代になっても日本への改名を経ても、記紀の系譜を引きながら改名前から現代まで同じ流れを続けていると中国政府が認識してるのが分かる
邪馬台国は幻でも何でもない >>500
ウマシマジ以降の物部の領地を割いて崇神以降3代の宮を提供したのだろう。
自分たち(物部宗家)は天理に移住。
それが布留遺跡だろう。
これに気づかない橿原考古研はアホ。 >>232
>畿内の墓制や供献土器がどんどん入って来てるでしょ <
墓制も筑紫→東瀬戸内や大和の伝搬だし、
供献土器も、筑紫への搬入上納だし。 >>503
おいzarakoku。
蝉が鳴きだす頃までに氏ねと命令したのだから絶対実行しろよ。
これは厳命だ。
分ったな。 >>496
>庄内は、三雲が一番古いんだよ。
そんな妄想がどっから湧いてくるんだ?
宇宙の果てから電波でも飛んでくるのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 九州への外来土器の流入は庄内期だけに始まった話じゃない
その前の吉備式土器、畿内式の邪馬台国後期から急激に増えだす
それも一部地域ではなくて九州の北部、中部、東部を中心にほぼ全九州に至る範囲に
その流れの中で九州の土器層と全く違う庄内式も流入してきている
つまり九州は弥生後期から瀬戸内海、畿内の地域の絶え間ない干渉を受け続けてると言う事
庄内土器を九州発祥とか言い張ったところで何の意味もない事に気が付いてない辺りが哀れだな
その場その場で適当な言い逃れ言うだけ ちなみに「九州から他地域」という土器の移動はかなり少ない
特に畿内に至っては須玖式時代の土器の破片が見つかっただけで大騒ぎになるくらい珍しい
弥生時代を通じて九州は四国以外にほとんど影響など及ぼせていないのが分かる
逆に他地域からの強い影響は受け続けている
特に衰退の決定的になっている後期になれば一方的で大規模な流入を受けているのがハッキリと見えている状態
当然この範囲の流入だから貢ぎ物などではなく大規模な文化的人的な移動を受けているという事 この土器の動きは九州から鏡が減り、中心性の象徴だった銅矛、甕棺が急激に縮小する150年ごろに該当する
史書的にも倭国大乱の時期に辺り史書との整合性がある
この九州にあった倭王の国の衰退と混乱の中、瀬戸内海、畿内の勢力が入り込んで来てこれを属領としたのが分かる 朝貢しても色々見返りをくれて、けっこう良い国際関係だったんじゃないかな。
それが一転、反中国的な世論になったのは白村江で敵国になったからだろ。
しかも負けるという失態で、ナショナリズムは最高潮に。 >>500
いいえ、
考古学的な範囲確認調査からです >>235
>九州の土器、祭器の影響は四国の東部に見られる以外は弥生時代を通じて九州から出る事がない<
倭國の「東征毛人五十五國」は、征服収奪支配であっただけ。
>逆に九州は早い時期から山陰や瀬戸内海の影響を受け続けている<
征服収奪支配地域からの搬入上納があった。
>九州説のお馬鹿さん達はこの事実を一切見ないで
何故か九州が日本を征服したみたいな妄想を抱いているから理解できないw<
「東征毛人五十五國」があったから。
>しまいには「庄内土器は九州から出来たものだ!」とか言い出すし <
東瀬戸内からの搬入上納があった那珂八幡よりも、三雲の方が古いんだから。
>九州の土器の変化と庄内土器の発展は全く系譜にありえない物なのに
土器の変遷も知らないバカの集団だとよく分かる<
一番古い三雲の庄内の技法が東瀬戸内に伝搬して、
それからまた那珂八幡に逆に搬入したんだな、
という事は、アホでも判る。 弥生時代中期後半、縄文から弥生中期までの列島内における交易とは明らかに一線を画すモノとヒトの移動が行われている。
特に瀬戸内から日向への搬入土器の種類の推移をみると初めにモノがきて、間をおいてヒト(労働力)が来ている。
なので瀬戸内側に主体性がある入植の可能性は低い。
また九州の瀬戸内系土器の起源地が、時代が下るにつれて瀬戸内西部から東部へと拡大しているというのもある。
つまり、九州側が時間をかけて瀬戸内を西から東へと交易範囲を広げている状況が推測できる。
このように九州では、各国の辺境支配により朝鮮半島南部への進出の足掛かりともなる経済的豊かさがもたらされた一方、
速やかな民衆教化が必要であった辺境では、各地で少数指導者による強権的な支配体制が敷かれた。
ただし倭国本国との付庸関係においては、距離的制約もあり在地の指導者たちに一定の内政自治が認められていた可能性がある。 >>499
じゃあ百襲姫以上に卑弥呼的な人物って誰が居るの? 7代・孝霊には複数の妃がいる。
初代・神武から6代・孝安までは后(奥さん)はいても妃がいない。
ここは重要である。
つまり神武から孝安までは大王(おおきみ)ではなかった。
この時代こそが魏志に書かれてる【女王国】であった。
この王朝の名前は神王朝だ。
最終的に10代・崇神がこの神王朝を倒す。
「神を倒した」「神を殺した」はさすがに都合が悪いので、
朝廷は神に「鴨」の字を当てた。 >>510
考古学的な範囲確認調査では、烏田川と纒向川に挟まれた扇状地だろ >>513
>じゃあ百襲姫以上に卑弥呼的な人物って誰が居るの?
百襲姫以上にってwww
●推定3世紀大王譜
@神武・「ヒメ」タタライスズ
A綏靖 ・イスズヨリヒメ 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧・ヌナソコナカツヒメ 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳・アマ「トヨ」ツ
D孝昭・ヨソタラシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安・オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。 >>508
>この九州にあった倭王の国の衰退と混乱の中、瀬戸内海、畿内の勢力が入り込んで来てこれを属領としたのが分かる
「瀬戸内海、畿内の勢力」は、「倭国(阿波)」の誤りですね。 @阿波 >>512
九州と四国東部の関係は相互的な物でありお互いの土器の流通が見えていてどちらかの支配的な立場は見えていない
そして四国もまたその後に吉備や畿内の土器の影響を受けて斉一性の中に取り込まれていく流れ
邪馬台国時代にもその後に九州の強権的指導力など見出せる状態にない >>516
で、それのどこが百襲姫以上に卑弥呼的なんだよ? あと九州は北、中、東、南と言う文化圏に弥生時代を通じて別れ続けて一度も統合されていない
どこかに中心を設定すると他地域との関係に大きな齟齬を生じてしまう
一口に九州と言ってもどこでも良いと言うわけには行かない
適当に九州内の都合のいいところに決めればいいというわけではない >>519
卑弥呼的なんだよ?
まず第一に女性の最高位でないと話にならん。
一皇女のモモソ媛は無理。
そして何度も言うが崇神時代まで生きたモモソ媛では時代が違う。
50年以上は違う。
無理。
巫女だなんだの要素は副次的なもの。
それを第一に考えるな。
まだ分らないのか馬鹿。 >>518
強権的というのは辺境の在地の少数指導者たちのこと。
具体的に顕著なのは、畿内の数は少ないが1つ当たりの規模が大きい古墳のことをいう。 >>511
那珂八幡よりも、三雲の方が古いという理由だけで
それが日本で一番古いのだと妄想してしまう
ざらこくの脳って
実は死後で腐敗してんじゃないの?
ww >>515
それは、桜井市教委が誤認してるだけです
大和川と佐保川に挟まれた扇状地です。 青銅器祭祀を見ると九州の活動範囲が弥生時代後期にも拡大できてないのが分かる
銅矛は山陰に伸びず、瀬戸内海では広形銅剣に阻まれている
その分布は四国西北部で留まっている
弥生時代後期の四国との土器の関係もこれを脱する物ではなく、その関係も相互的な交流の上にある
この動きもまず最初に四国方面からの土器の流入を見て相互関係に発展していく動きなのが分かる
九州の支配的な立場などは見いだせない >>518
>そして四国もまたその後に吉備や畿内の土器の影響を受けて斉一性の中に取り込まれていく流れ
「四国もまたその後に吉備や畿内」は「吉備や畿内もまたその後に阿波」の誤りですね。 @阿波 連姓は職業別の組合長みたいなもんだから
畿内に韓式系土器が増える5世紀くらいからだな 先代旧事本紀を偽書として無視してるうちは纏向遺跡は理解できない。
ニギハヤヒが瀬戸内勢力を伴い畿内入りした第3巻・天神本紀の世界そのままなんだから。
橿原考古研職員が無知なのか勇気がないのか知らないが、所詮は公務員だ。 >>521
これが自演でなかったら何何だっっ!てくらい凄いね >>528
なんの根拠もなくこんなこと言い張れる神経って
もう仰天レベルだろ >>533
自演じゃないですよ、別人です(ありがとう)はわたしですよ、
何でもかんでも決め付けるより、反論したら如何か >>535
自演でないなら、どうしてアレに同意できるんだ? >>249
大和説は、粗悪な三角縁ばっかりしか出ず、殆ど4世紀頃だけで継続するわけでもない。
その遺跡限定の鏡を持ち出して「邪馬台国だ」と言い張るんだから笑わせてくれる 。
むしろ、それまでの筑紫中心を、「崩壊」したとして、
辺縁地域に残存するドーナツ現象程度の残滓のような出土状態を、
「大和が列島盟主であった」とか言って、
「大和は倭國の別種の旧小国」を否定しよう、とするんだからな 。
しかもそれ以外の要素と来たら、「南→東」などでも、
筑紫は、大和をはじめとした地域の一方的な影響を受けまくってる状態だ、
という嘘つきダマシまでしている。
こいつらがなぜ「大和に邪馬壹國がある」と言い張るのかは、全く理解できない 。 >>251
大和説は、「人種差別的皇国史観」の右翼学者が発明したのは有名だが、
今だに大和説は右翼なのか?。 日本人は遺伝子も地里環境も特殊なので異人が日本の歴史を理解するのは難しいと思う >>538-539って真っ赤なウソだよね
そして書いたのはザラコクだ >>254
文献考古での、都合の悪い史料事実を、隠蔽したり否定抹殺を言い張る、
嘘つきダマシであるだけなのが、
大和説者。 >>507
>ちなみに「九州から他地域」という土器の移動はかなり少ない
都である筑紫に物資を集めた。 >>256
>でも皇国史観に必要だから九州説を発明したんだろう?<
でも、「人種差別的侵略殺戮戦争の皇国史観のどこかの政府」にとっては必要だから、
大和説を発明したんだろう?。 >>257
>「平原の後も鏡は出る。健在で繁栄は続いている」 という分布をみると見事なくらい、
福岡市周辺から外れて北九州市方面ばかり<
記紀に、筑紫城の阿毎氏の伊都国系と同じく、
「三種の神器」を掲げて身分を示す事が、北九州付近では続いていた。
>それも「増えた」「新たな中心地」じゃなくて「福岡市周辺が減ったから目立つ」だけ
弥生時代を通じての九州の中心部が崩壊してしまった事を示すだけのものでしかないな<
筑紫倭國の王家が、糸島付近の阿毎氏から、筑後の久留米付近の姫氏に変わった事と、
卑弥呼や壹與の女王ではなく、男王に変わった、という事の表れだな。
>明らかに衰退の証明にしかなってない これを持ち出して何が言いたいのか俺には理解できない <
勿論「人種差別的殺戮戦争の皇国史観」にクルった大和説者には、何を説明したって、判ろう筈もない。 >>265
まぁ大和説のスタートは国粋的な考えからだからな。 学問じゃなくて。
今の大和説者も、逆を言いたいだけのアホの巣窟だから学問じゃないしね。
結局昔も今も、土台が同じトンデモの妄想。 最近は欧米で日本文化に興味を持ってる人のほうが九州説より大和民族の感性を理解する人がいる 九州説のおじいちゃんへ
九州説の邪馬台国はどこにあるんですか?
ボケジジイに畿内の事なんて聞いてません
比定地さえも言えない程度のアホに用はありません
早く九州の邪馬台国の場所をいってくださいキチガイ 場所を聞かれるとダンマリ決め込んで遁走するいつもの九州説 >>271
しかし邪馬台国系のサイトって、九州説学者と違って、
どいつもこいつも 、都合の悪い史料事実を否定抹殺したり、曲解捏造して、
「俺が真実を暴いた!」みたいな感じの間抜けな事叫んでる大和説者だらけだな。
アホのゴキブリホイホイみたいな連中なのが良く分かる。 >>547
ザラコクって
どうしてこんな真っ赤な嘘が平気でつけるんだ? 九州説ってミンシントウみたいな奴らだよな
中身のない悪口言ってるだけで何か言った気になってるアホの集団
で自分達の意見は何もないという うんうん、そうだね
で?九州のどこなの?
邪馬台国は? 私は、佐賀近辺ですよ
畿内説も畿内の範囲は研究者によってマチマチですよ >>549
北部九州倭国民族、出雲民族の感性のことであろう >>555
畿内厨はジミントウかイシンのチンピラだったか 出雲と北部九州は方言からしてぜんぜん違う
そして九州とか北部九州とかの括りを使いたがるのはだいたい肥人 そこに径100歩の墓があって、卑弥呼の鏡があって、7万戸の住民がいて、5万戸の投馬国も含めた領域を支配してた国があるのか?
なに一つないが
なにいってんだこの猿 もしかして掘ったら見つかるかも知れないとか言う妄想の話してるのか?
ばかじゃねぇの >>560
平気な顔して嘘つくなよ
畿内の範囲が研究者によってマチマチだなんて証拠があるのか? 倭人伝の中にしか出てこない邪馬台国の話だろ?
漢字読めるなら、八女以外の何処だって言うんだよ?
魏使返した後は、筑紫の君に統治させてんだから遺跡なんて残るか怪しいだろ。 >>572
>魏使返した後は、筑紫の君に統治させてんだから
そんなこと、魏志倭人伝に書いていない ・平然と嘘をつく
・理由を言わないで結論だけ連呼する
・悪態をつく
九州説ってこれ以外に何かできるの? へぇそこに径100歩の墓があって、卑弥呼の鏡があって、7万戸の住民がいて、5万戸の投馬国も含めた領域を支配してた国があるのか?
なんにもねぇじゃん
バカじゃねぇの 畿内説=生長の家原理主義、創価学会、天理教、統一教会など >>587
こういう嫌韓差別発言をするのは東遷厨だな
まともに邪馬台国の話をする気などサラサラ無いようだ ポシンタンとかふつう知らないが
釜山でも食べられてるから北部九州でも食べてたんじゃね >>576
倭人伝が邪馬台国と名付けた地域を後に筑紫の君が統治したのは史実。
卑弥呼が世襲の王でないという事実は、持続可能な王権ではない事の証明。
卑弥呼の墓なんぞ誰が守るよ? 塚大いに作る、の主語が魏使とかなwww
渡来弥生人の魏使が古墳信仰で、九州土人を統治しようとしたんじゃねーの?
九州自体ほぼ弥生文化化してんだろうけど。 >>570
じゃあ
近江は?
伊賀市は?
伊勢は?
淀川以西は?
南紀は?
さて、畿内に入るのは? 誰も気ないことなんて聞いてねぇよ
九州のどこに邪馬台国があるのか早く言えよ >>591
九州説ってまだウソつく気?
頭おかしいの?死ぬの? へぇそこに径100歩の墓があって、卑弥呼の鏡があって、7万戸の住民がいて、5万戸の投馬国も含めた領域を支配してた国があるのか?
なんにもねぇじゃん
バカじゃねぇの 畿内の範囲が言えない畿内説
倭国の範囲が言えない畿内説 「九州のどこに邪馬台国があるの?」
と一言聞くと物凄いファビョリかたするよね
「キナイガー!キナイガー!」とか喚きだす
完璧で絶対の場所なんだからサッサと提示してぐうの音も出ない結論出せばいいのにねww
おもしろいね
九州説の痴呆おじいちゃんたちは 20メートルそこそこの方墳の平原や祇園山のどこが卑弥呼の墓なんだか。
では箸墓なのかと言うと、瀬戸内の要素を説明できないだろ。
布留0式古相という時代をかなり強引に250年に持って行かないといけない。
これは苦しい。
もっともふさわしい場所・高天原(御所市高天)に卑弥呼の墓はありますので。 馬韓は馬を与えると葬儀の際などに喰ってしまう
とは、書いてあった。 まあ、犬喰うより虎や狼や熊に喰われる方が多そう。
てか、
邪馬台国貿易以降、日本が楽浪郡への道を開き高句麗馬の移入を始めて、
大伴氏によって400年には甲斐に勅営御牧が成立し高句麗人も使ってる。
って事の方が、考古学的に重要だと思うけどね。
何が九州王国東遷だよ、卑弥呼しか見えてね〜のwww
確かに5〜600年まで九州は冊封扱いで、記紀で方針変えてるようには見えるけどね。
600年には聖徳太子は裴世清を斑鳩に迎えた。 乙巳の変で方針が変わり
664年の敗戦処理では、唐軍を九州で処理している。 中大兄はずるいw
九州王国の根拠に見えるけど、戦争も冊封国九州倭国の仕業にしてるだけだろ?
唐軍でも瀬戸内海は入れないだろうけどね。
記紀で九州政策は完全に変わっている。 天武天皇は鋭い。 >>590
>倭人伝が邪馬台国と名付けた地域を後に筑紫の君が統治したのは史実。
そんなこと、倭人伝に書いていない。 畿内説でも大阪府や琵琶湖畔の説もある?
Wikiに載ってた 畿内の事なんてお前に聞いてない
九州の邪馬台国の場所を早く言え
誰からも文句の出ない完ぺきな場所なんだろ?早く言え 今日も邪馬台国の場所さえも言えずに遁走する九州説でした >>612
完璧な場所なんて他説でも何処にもないよ
だから邪馬台国論争なの >>605
乙巳の変で倭国の蘇我氏を討ち北部九州倭国を掌握した畿内ヤマトの
中大兄皇子が白村江の敗戦を倭国のせいにするのはおかしなことである 今日は、無学な畿内説の輩が書き込んでる。
無視がよろしいかと( ◠‿◠ )( ◠‿◠ ) そもそも九州説はありもしない中国の度量衡体系を捏造しないと始まらない説だからね
根っこから嘘で出来てるのさ >>617
負けると罵って誤魔化すのが九州説伝統のインチキ手口だ つか完璧どころか「どこの辺りにあるのか」さえも言えないからな
論にすらなってない
「きゅうしゅうならどこでもいいや」
程度のお笑い話
やっぱり九州説は玩具にして遊んでると面白いわ いや、自信のある九州の邪馬台国比定地を堂々と言えばいいだけだろ?
その場所を上げちゃえばウソだらけだと言い張ってる畿内なんてぶっ飛ぶくらい凄い説得力に満ちてるんだろ?
なら上げればいいじゃん
何で言えないの?ねぇ?
キナイガーじゃねぇよ
早く言えよ邪馬台国の場所をよ >>607
>どこが強引?
250年頃から始まる布留0式古相を250年に持ってくるのはギリギリでキツいだろ。
https://goo.gl/HabRje
仮に250年頃から建造が始まったとしても卑弥呼の墓である証明にはならない。
単に250年から建造が始まった墓であるというだけ。
俺は260年頃から建造が始まった孝霊あたりの墓だと思ってる。 >>627
>250年頃から始まる布留0式古相を250年に持ってくるのはギリギリでキツいだろ。
いや、ちょうどピッタリだ >>628
いや俺には「箸墓が卑弥呼の墓なのだから」という先入観があったとしか思えない。 箸墓を卑弥呼の墓にしたいから歴博とグルになり年代を捏造したんだよ ただ畿内説を否定したいがために、
100年もずれているなんて安本や鷲崎のようなアホな話は通用しない。
ずれてるとしてせめて20年ぐらいか。 >>529
>九州の支配的な立場などは見いだせない
そりゃそうだ。
西日本全域の統一国家を夢見るのは畿内説だけ。
九州説は九州北部だけが倭国=邪馬台国なんだから。
本州はまだ国家になっていない倭種だと書いてあるだろう。 >>591
弥生時代に畿内なんて枠組みを持ち込む方がおかしい。 >>612
畿内説のスレなのに畿内説が語られない不思議 吉野ヶ里みたいな耕地と密接した砦状の中核はせいぜい在地領主館
中世の武士の館に似ている
堀と塀を廻らし物見を兼ねた楼門には朗党が見張りしている
一方、都というのは耕地を持たない
地方から運上させた税を消費するのが都であり機能は政治や経済に特化したもので良い(伊都)
或いは経済の中心も他所でよく(博多)
王の住まいと儀式などを行う施設だけでも都は成り立つのかも知れない(伊都)
生産は地方
それを消費するのが都
平安京でも耕地は禁止されたのだ
経済も五条の市に限定されたのだ
王と官人と労役に集められた徴用民
初期の平安京はそれだけが住む街だったのだ
いわんや伊都をや 阿波阿波言ってるヤツと鴨鴨言ってるヤツを見ると超 萎える。 他の畿内説よりはマシ。
ただしどちらも邪馬台国との関係を証明できていない。 九州説は何の証拠も根拠もないけど「そうだったらいいな」で邪馬台国を決めてるのが分かった
あんだけ喚き散らしてた絶対の証拠なんてなんもないと
径100歩の墓は?
魏に貰った100枚の鏡は?
宮殿は?
丹山は?
骨占は?
九州北部全域にさらに5万戸の投馬国までの広大な領域を支配下に入れてたって言う証拠は?
ただの一つも提示できませんでした
ちゃんちゃん >>640
>ただしどちらも邪馬台国との関係を証明できていない。
はぁ何言ってんだろ、偉そうに。
卑弥呼は記紀のイの一番にいる。
https://goo.gl/7KChL4
探そうともしないやつがなんで偉そうなのか。 畿内スレをバカ丸出しの寝言で荒すと九州に邪馬台国が現れるんと信じてるんだろうなぁ
脳の病気なら仕方ないね 福岡は官民一体で奴国、伊都国の認識だろ
鶴橋界隈で筑紫説を叫んでるのがいるだけで >>277
>東日流外三郡誌を根拠とか言うバカの集まりだからなシカタナイナ <
「南→東」などの嘘つきサギシの大和説者や、
「喜八郎さんの筆跡の間違い」指摘に反論も出来ない偽書説派の、
アホの集まりだったんだから。 >>29
ありし日の大和説者が、陳寿の行程記載での、
「出発説明+途中移動説明+到着説明」
という人類の常識的な記載をしている事が分らず、
「出発時に目的地方向が判った」というような、ヘンテコ行程論を主張して、
あまりに唐津付近の土地勘なくて笑えたっけ 。 伊都国も奴国も邪馬台国の属領だって書いてあるのにね >>283
>百年まえから畿内説だけど? もともと大和説なんてもんがあったって証拠は?<
元々は、奈良盆地の「大和」と、筑後の「山門」との論争であったんだよ。 >>285
これもまあ、既に、
「南≠東」で、大和説が一敗地にまみえた、
という事を隠蔽し、捏造したい嘘つきダマシの大和説の、
詐欺師なんだろうな。 >>293
>平原の模倣鏡のコピーやオリジナルがどこに配られて見つかってるって?<
誰か?、そんな(アホな?)事を言ったんかい?。
>弥生後期の九州で見つかる鏡のどこに配布関係が見えるって?
九州の狭い範囲ですらそんなもん見つからんが
あとにも続かない、周りにも広がらないその遺跡だけの少数出土ばかり<
魏帝鏡やその鏡片の配布先は、当然筑紫が中心。
>そんな中心性や広域の発見があるなら最初から言えるだろうがw
無い物を妄想で語るだけの脳内九州説<
>そんな中心性や広域の発見があるなら最初から言えるだろうがw
無い物を妄想で語るだけの脳内九州説<
最初から言ってあるよ。 >>311
>こんだけ自信たっぷりなのにどこか邪馬台国かいまだに言えない九州説 <
この投稿子も、「知らん振り」する嘘つきダマシのサギシの大和説者のようだなあ。
邪馬壹國は「福岡平野中程から筑紫平野、及びその周辺丘陵地」
なんて、もう何回書いて上げた事か。 >>316
>でも畿内系のほうが身分上じゃん <
大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種附庸国の旧小国であり、
身分は下。 ということで、九州説に決定いたしました。
ご協力ありがとうございました。 魏使は瀬戸内海の島々も出雲から敦賀、琵琶湖の説明も無しにどうやって畿内入ったの?
飛行機? 軍事情報なのに奈良への行程であんな説明したら死刑だよwww
そもそも、邪馬台国から対狗奴国で軍事支援の要請受けて着任してんのに
アドバイスだけで解決って、邪馬台国も狗奴国もどんだけ弱小だよ。
魏も魏使帰ったとき終わってるけど、邪馬台国疫病神説だな。
で、大和朝廷が半島進出したんだけど、邪馬台国は朝貢って、間抜けだろw
卑弥呼が死んで、世襲制じゃない王権で古墳作ったって誰も維持しないよ。
三角縁神獣鏡が散逸してる時点で滅びてんじゃね?
魏使が帰国したあと、何年も持続する政権じゃない、って判るだろ。
邪馬台国は筑紫の君の名を拝領した奴の国になった。
つまり、大和朝廷に冊封されてるし。 >>336
>で、九州説の言う邪馬台国ってどこなの?<
「邪馬台国」なんて、始めから存在しないよ。
「邪馬壹國」なら「福岡平野の中程〜筑紫平野、及びその周辺丘陵地」だよ。
>伊都国や九州北部地域を支配下に置いてる地域が条件だからな?<
伊都國と邪馬壹國とは、別の国だよ。
>つまり、九州北部は『支配下の地域』で邪馬台国じゃあり得ないからな?<
大和も、邪馬壹國ではないし、
筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国だよ。
>北部は庄内土器が分布してる場所で畿内の影響下だからな?<
列島の庄内は、三雲が一番古い事になるから、
東瀬戸内も大和も三雲の庄内を学習模倣した事になり、
それから、造った庄内を筑紫に搬入上納した、という事になるんだよ。
>でも中部も東部も南部も北部と別文化圏だからな?<
当たり前。30国位あるんだから。
>九州ならどこでも良いとかあり得ないからな? で?どこなんだ?<
「邪馬壹國」なら「福岡平野の中程〜筑紫平野、及びその周辺丘陵地」。 まぁ元々支離滅裂でブツブツ独り言言ってる異常者だし
邪馬台国の場所聞かれて発狂したんでしょ
そろそろログ流し始めるころじゃないかね
いつもの全然関係ない独り言言い続ける奴にキャラ変えて 小便で色付けたバカ本を聖典として崇めてる連中の宗教だからな
キュウシュウセツって
常軌を逸してて普通なんだろうよ なんでザラこくがウソばかりついてるか分かったよ
あいつ畿内説の投稿を丸写ししたあと主語とか固有名詞とかだけ書き換えてたんだ
性能の悪いボットと同じだ
脳を使ってない ツヌガアラシトは伊都国王(伊都都比古)と垂仁天皇に会っているんだよな
北九州の王統と纏向の王統と同時代に並立してたっていうことだ >>342
>早く邪馬台国の場所言ってみろよ どこだよ?ほら
鏡がある?じゃあ鏡の見つかった遺跡が邪馬台国ですか?
鉄がある?じゃあ鉄の見つかった遺跡が邪馬台国ですか?
それが根拠だってんだよな? なぁ? 言ってみろよどこだか<
このように、「南→東」の嘘つきダマシの大和説者は、
史料に存在もしない「邪馬台国」という文言を造作捏造して、
それの位置や鏡や鉄や根拠を言え、と脅迫するから、
・・・・サギシ。 >>343
>>更にいうと弥生末期と推定される、巻向から伸びる古道跡も確認されてますよ。<
そりゃ、「市」があったんだから、交易道はあっただろう。
問題は、筑紫の弥生銀座のように、
「幅5m位に統一された直線道が何本もあったのか?」
という事だよ。 >>650
倭人伝の読み方は色々あってな
女王国=邪馬台国と確定な訳でもなく、邪馬台国が倭国の京と決まった訳でもない
ただ、何も調べず、人の訳した文だけを読んでるとそこに気付かない
まずは女王国探しから
まぁ、正解が不明だから今があるのだが >>346
絶対だ間違いないとか言うくせに、
「南→東」の嘘つきダマシを言い、
「邪馬台国」という存在もしない国名のウソダマシをする大和説者。 >>665
へ〜、そ〜なんだ。 すごいね。
つーか、任那王子だったら、時代が?
ってか、垂仁天皇が270〜300年位の神功皇后時なんだな。
任那が有るなら、伊都国も朝廷の臣下に入った後だよ。
てか、逆で伊都国とか半島開拓に配流されてんじゃね?
記紀はこの時期、史料的にダメだね。 >>668
>まずは女王国探しから
女王国には丹山。 そりゃ、阿波でしょ。 @阿波 >>347
>思い出せ、前期古墳は山の上にあるだろ。
卑弥呼や、卑弥呼を生んだ2世紀前半から3世紀後半までの王族は前期古墳になる。
彼らの墓も山の上にあるのだ。 大和盆地の山だ。<
「南≠東」だから、大和盆地は始めから✖だ。
>卑弥呼やその王族の墓が平地になどあるものか。
彼らは箸墓の被葬者より地位が高かったのだから。<
だから、この投稿子も、分裂幻覚妄想の・・・・だ。 徳島産の水銀朱だけで十分証明されているが、以下は補足
@倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑
四国東部は帯方の東南に当たり、四周が海 山や島に人が居住し国を為している
A今倭水人好沈没捕魚蛤
徳島県南部海部地方などに古くから見られる漁法
B文身亦以厭大魚水禽
入墨(文身)を表した土製仮面が出土している
C種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜
吉野川中流域は古来より麻を栽培している
D倭地温暖
徳島は温暖な地である
E其木有{木冉}杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香其竹篠幹桃支有薑橘椒襄荷不知以爲滋味有爾猴黒雉
特に、橘は徳島県南部が古くからの産地である
F女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
徳島の東の海(紀伊水道)を渡る千余里で紀伊半島が位置する
G問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
徳島は離れた海中の洲島の上を、あるいは隔絶し、あるいは陸続きに、ひとまわりすると、五千里あまりになる
H直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華ケイ五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛 丹各五十斤
萩原墳墓群などに中国産の真朱が使われている
I女王国への行程 >>350
「ヤマトならどこでもいいや」 この程度が大和説 。 >>357
>九州のどこに都が発掘されたのか教えてくれよ 九州説さんよ? 畿内の事はお前らに聞いてないから
お前らの主張する都はどこだよ?<
都は、「大道」が何本もある「弥生銀座付近」。
>これは聞こえないふりか一言中傷で逃げるか? 全レスキチガイ お前に言ってんだよ <
この投稿子も、かなり・・・・症状が進行して来ているようだね。
まるで、「人種差別的殺戮戦争狂の皇国史観」狂や、どこかの国々の指導者みたい。 >>673
阿波でも良いけど阿波や淡路は大和朝廷の傍流なんで
世襲王権じゃ無かった邪馬台国みたいに270年に滅びてないだろ?
まあ、朝廷や親族の豪族も皇位継承権で親族殺すけど阿波に有ったか? >都は、「大道」が何本もある「弥生銀座付近」。
そんなところない >>404
>なら九州にもないがな<
「殉葬奴婢百余人」の墓がある。 >>406
>三世紀奈良盆地や畿内には画文帯神獣鏡の出土からは<
「三世紀」と言うよりは、「三世紀末以降」。
>少なくとも中国大陸から人の往来があった事は確実です。<
ホケノの画文帯神獣鏡は、呉系であり、楽浪系です。
>元々当初は狗奴国のエリアが大半だった証拠でしょう。<
これも、「南≠東」だから、孝霊は嘘つきダマシのサギシ。 >>670
>ってか、垂仁天皇が270〜300年位の神功皇后時なんだな。
むちゃくちゃだなw >>407
>いわんや巻向おや<
この投稿子も、「南→東」の嘘つきダマシで、
「ヤマトは、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」である事を隠した「人種差別的殺戮戦争狂の?皇国史観」の患者。 >>685
このわけワカンナイ呪いの言葉を一日中叫び続けてるおじいさんは一体何者? >>415
>邪馬台国論争は謎でも何でもない。 大和国=邪馬台国で決着ついている。・・・<
「邪馬台国」なんて存在しないし、
「大和」では、「南≠東」に矛盾しており、
「大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」にも違背しているから、✖。 日本、邪馬台国には馬が居ない。
邪馬台国以降、対馬航路で馬の移入が始まり
半島の任那を開き、楽浪郡に道を開き、
400年までに高句麗牧童に甲斐で勅営御牧を成功させた。
九州の邪馬台国と畿内の大和朝廷は無関係。
300年程度から663年までの筑紫の君は百済、新羅同様、冊封王。
百済が傀儡王権って知らないから仏教も和邇博士も五経博士も日本に来てる。
隋唐も知らないんで、戦争主体は九州倭国って事にしといた。
だから、白村江敗戦の唐海軍を九州以東に入れなかったんだろ。
まあ、瀬戸内海の防人には唐海軍じゃ太刀打ちできないのは、裴世清が見てる。
考古学の理解には、馬と古代『韓』半島植民地化の歴史は外せないんだよ。
考古学が物証なのはどうでも良いけど、倭人伝と言う文献についてを論じている訳で
その当時の状況を把握して時系列で矛盾の無い事は、歴史認識には必要だよ。
おまえら、戦前の御用学者の歴史感引きずってんの? >>423
>崇神天皇を深く調べると卑弥呼も台与も分かるんだわ。
中国を意識して崇神天皇に織り込んで二人を隠したんだわ。<
史料根拠がないから、全くの分裂幻覚の妄想。 昼は畿内説の奴、無知極まったな。
少しはましな奴画来たのでお相手しましょう。
その前に風呂入る・ >>434
>祇園山に「石室」なんてなかった筈だよ。 「箱式石棺」と間違えてんじゃないのかい?。<
>あるよ。ちゃんと調べてから書け。 http://obito1.web.fc2.com/kurume.html
◆祇園山古墳 【県史跡】 久留米市御井町299-219、高良山へ向かう道を、九州道の高架をくぐってすぐ右折し、
側道の突き当たりにあります。前期に築かれた一辺23mの方墳で、葺石があります。
埋葬施設は箱式石棺で、内部には朱が塗られていました。
墳丘の外周から甕棺墓3、石蓋土壙墓32、箱式石棺墓7、竪穴式石室13、不明7基の埋葬施設が見つかっています。<
解ったよ。
宝賀さんの
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
には、はっきりと、「その墳頂部にあるひときわ巨大な箱式石棺(内法長約二M、幅約七五CM)が内部主体となっていて、明確に槨がない。<
と書いてあるから、明らかに、
墳裾の「竪穴式石室13」は、墳頂部の箱式石棺よりも大きなものを造る訳がないのであり、小さいのであるから、
「石室のような大きな部屋状のもの」とは全く言えず、
発掘報告者の、「誇大表現」であったのであり、実態は、墳裾の箱式石棺よりも小さくて、石の壁をやや頑丈にしてあった、
と推定出来る。
>つまり奴婢に石室など作るわけないので祇園山は×<
奴婢に箱式石棺や甕棺など立派な墓を造っている事になるから、
「小さな石室的な墓」を造っても、ちっともおかしくない。 脳内妄想を「俺の解明した真実の歴史」とか喚き散らして書き続けるこの様はまごうかたなき異常者 >>436
>弥生青銅器は前半は全て朝鮮南部からの輸入品。
青銅器の製法を導入してから銅鐸など独自の器種も生まれた。
三角縁などの難しいものは半島でオーダーメイドして逆輸入してたんだと思うね。<
半島でのオーダーメイドでは、
「景初四年」鏡なんて出来ないんだし、
大和の古墳の副葬に使われたような「粗悪」な三角縁など、出来ないんだよ。 畿内説は何の証拠も根拠もないけど「そうだったらいいな」で邪馬台国を決めてるのが分かった >>650
>伊都国も奴国も邪馬台国の属領だって書いてあるのにね
畿内は卑弥呼の所領じゃないの? >>678
>阿波でも良いけど阿波や淡路は大和朝廷の傍流なんで
「大和朝廷」は8世紀、阿波から遷都して発足したんですよ。 @阿波 >>447
>畿内説に歯が立たなくてぜんぜん反論できないからひたすら悪口を書きまくるという
子供か・・・<
大和説者は、
九州説に歯が立たなくて、「南≠東」や「大和は筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」にも、
ぜんぜん反論できないから、
ひたすら悪口を書きまくるという・・・・か?。 >>678
>世襲王権じゃ無かった邪馬台国みたいに270年に滅びてないだろ?
「邪馬台国」は滅んでいないんですよ。「邪馬台国」=倭国(阿波)ですから。 @阿波 >>460
>九州説・・・ろくなもんじゃねーな <
「南→東」の嘘つきダマシのアホサギシの大和説・・・
ろくなもんじゃねーな 。 昭和50年代初期
纏向の発掘調査が県立橿原考古学研究所から桜井市教委に変わった裏事情しると恐ろしいよ。
寺澤くんも少しは聞き及んでいると思うが >>678
>まあ、朝廷や親族の豪族も皇位継承権で親族殺すけど阿波に有ったか?
倭国(阿波)に王都が在ったんだから、そういった権力闘争は「阿波」でしょっちゅう有ったんですよ。 @阿波 いい加減に、頭の病院へ行ったほうが良いんじゃないのか?
そのテンノウというのは何なの? >>477
>こんなふうに 反論というものが全くできないのが 九州説信者の知的水準<
こんなふうに、「南≠東」などのように、
「史料事実や史料実態を根拠にしての反論」というものが、
全くできないのが、嘘つきダマシの・・・・アホの大和説信者の知的水準。 『天子神璽』
天王、天皇ではないの?
何かを盗んだとか〜と言う話でしょ >>695
いろいろ出ちゃったら、殉葬じゃなくて氏族代々の墓。
殉葬なら周孔に埋めて土壌によっては遺骨は出ない可能性もある。
そもそも、古墳時代以前の九州で大規模古墳作るって、魏使の入れ知恵だろ?
そんなもん、のこってね〜よ。
世襲王権じゃ無きゃ宝物回収して上にさらに大きく作れるw
日本の皇室は千代に八千代にそう考えてるだろ。
筑紫の君でも朝鮮でも最初の前方後円墳は大和朝廷に平定された証だよ。 >>487
>誰が見ても卑弥呼墓に近い大きさの箸墓に<
「南→東」だから、✖。 テンノウ?
そもそも先住民(原住民)の話ではないはず >>710
若い方ですか?
県教委で充分、発掘調査は継続できましたよ。
変える必要はなかったのですが、変わった。
不思議でしょ。 >>489
>呉から王族がやって来といて、「呉」という漢字一つ伝えねえとか、
ウ ル ト ラ の バ カ だ ろ お ま え 。<
新撰姓氏録にも、松野氏姫氏系図にも「呉王夫差」と書かれている。
この投稿子も、史料事実を否定抹殺するウ ル ト ラ の バ カ だ ろ?、 お ま え。 >>491
>卑弥呼の墓は高天原(御所市高天)にあったのです。
今日も見ていただきましょう、これが卑弥呼を生んだ神族の代々墓です。<
「南≠東」であるし、「殉葬奴婢百余人」が立証できないから、✖。 >>494
>大和から始まる歴史をなんとしても遅らせたいだけだからな<
「人種差別的殺戮戦争狂の皇国史観教」の大和説者は、
「大和から始まる歴史」をなんとしても早くしたいだけだからな。 >>498
>高天原(御所市高天)<
これが、そもそも、ssnの、分裂幻覚の妄想なんだよね。 『伊達の桃太郎』
門人と書いてある人物がいるでしょ、
その人物の家の話だと思う
「生きてたのか!もうどうにもならないんだっつーの!」
「真似なんてしているから、こんな事になってしまった」と言っている人がいたり >>505
>>庄内は、三雲が一番古いんだよ。<
>そんな妄想がどっから湧いてくるんだ? 宇宙の果てから電波でも飛んでくるのか?<
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm >>700
渡来経路、和歌山、四国阿波、淡路島、畿内
これは、大和朝廷だけど。 BC500〜200年。
九州は呉の太白BC1000〜500なんで
以降の徐福みたいな方士、遺民は出雲とか紀州、四国に渡航してるね。
てか、縄文土人嫌えば、壱岐、隠岐、対馬、済州みたいな島に移民して貿易商になるだろ?
古代の糸魚川翡翠の広がりや出雲=隠岐の黒曜石貿易はウラジオストックでも余裕だよ。 >>706
確かに以前は橿原考古学研究所が頑張っていましたね。
いつの間にか教育委員会に変わってしまって、不思議でした。
もっとも、九州でも教育委員会が頑張っているところがあったから、そんなものかと思っていました。 >>506
>九州への外来土器の流入は庄内期だけに始まった話じゃない
その前の吉備式土器、畿内式の邪馬台国後期から急激に増えだす<
東瀬戸内や大和は、倭國の地方の附庸国の「市」の国であったから。
>それも一部地域ではなくて九州の北部、中部、東部を中心にほぼ全九州に至る範囲に
その流れの中で九州の土器層と全く違う庄内式も流入してきている<
東瀬戸内や大和からの庄内などの搬入上納は、那珂八幡付近の弥生銀座での話であり、
それより三雲の庄内の方が早いのだから、
三雲の庄内が、西日本では一番古い事になり、
東瀬戸内や大和は、三雲の庄内を教わってから、地元に帰って庄内を造り、
それをまた弥生銀座へ搬入上納した事になる。
>つまり九州は弥生後期から瀬戸内海、畿内の地域の絶え間ない干渉を受け続けてると言う事<
「東征毛人五十五國」の地域であり、大和でも「倭國の別種の旧小国」なんだから、
始めから「干渉」なんてないよ。
>庄内土器を九州発祥とか言い張ったところで何の意味もない事に気が付いてない辺りが哀れだな
その場その場で適当な言い逃れ言うだけ<
(「柳田の)三雲に反論してみな。 >>507
>ちなみに「九州から他地域」という土器の移動はかなり少ない
特に畿内に至っては須玖式時代の土器の破片が見つかっただけで大騒ぎになるくらい珍しい
弥生時代を通じて九州は四国以外にほとんど影響など及ぼせていないのが分かる
逆に他地域からの強い影響は受け続けている
特に衰退の決定的になっている後期になれば一方的で大規模な流入を受けているのがハッキリと見えている状態
当然この範囲の流入だから貢ぎ物などではなく大規模な文化的人的な移動を受けているという事<
これが、大和説の矛盾ね。
大和説は、以前は、
「大和への搬入が多いから、大和は西日本の盟主であった」
という説明をして来たが、それなら、
「筑紫への搬入が圧倒的に多く、筑紫→大和の搬入が全く無し」
であれば、筑紫が西日本の盟主になる事になる筈な訳。
私のこの矛盾の指摘で、Yahooでも、明治大の佐々木氏も、
「搬入が多い所が盟主」説の論理変更を余儀なくされた。 >>729
>「筑紫への搬入が圧倒的に多く、筑紫→大和の搬入が全く無し」
であれば、筑紫が西日本の盟主になる事になる筈な訳。
筑紫は倭国(阿波)の出先。 阿波から忌部一族が行って、落ちぶれた筑紫を再興したんだね。 @阿波 >>508
>この土器の動きは九州から鏡が減り、中心性の象徴だった銅矛、甕棺が急激に縮小する150年ごろに該当する<
ダメだよ。
那珂八幡付近での庄内や布留と伽耶の陶質土器との共存は285年以降なんだし、
祇園山に庄内が出ているし、
平原や筑紫には、洛陽晋墓の類似鏡が出土している。
>史書的にも倭国大乱の時期に辺り史書との整合性がある
この九州にあった倭王の国の衰退と混乱の中、瀬戸内海、畿内の勢力が入り込んで来てこれを属領としたのが分かる<
史書的には、筑紫倭国は、白村江の大敗の後まで、西日本の盟主であったのであり、
大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国であったんだよ。 出雲は九州、朝鮮半島を外国として貿易通商をしていた。
範囲は南京、楽浪郡、対馬、済州、壱岐、隠岐、能登、糸魚川、青森、ウラジオ
まず、認めてほしいが、そもそも弥生渡来人は軍船を持ち作れ、渡海能力が有る。
大和朝廷は東海、関東、東北南部を平定した。
これが日本海海洋大国の出雲と、併合したから九州と半島南部の『韓』を併合出来たんだろ。 >>731
>史書的には、筑紫倭国は、白村江の大敗の後まで、西日本の盟主であったのであり、
大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国であったんだよ。
九州説を成り立たせるためには、沼地でド田舎の「その別れた別種の旧小国」を持ち上げなければならない九州説のジレンマ。 @阿波 >>732
>大和朝廷は東海、関東、東北南部を平定した。
「大和朝廷」は倭国(阿波)の誤りね。「大和朝廷」は8世紀だから。 @阿波 その門人という人物は、
何かの家の末裔なのかな?
家もそうなんだけど、名前の読み方、
□□力夫氏と同じ読み方だと言っていたり
本当に末裔なのかな >私のこの矛盾の指摘で
明治大の佐々木氏が?w 完全に頭がおかしくなってるなw 発掘件数の増加によって
調査体制が整備された市町村においては
開発行為の主体や開発規模に応じて
県と市町村が調査を分担するようになった
という全国的な傾向すら知らないキウスの妄想炸裂 キュウリ、葱の華・・・謎の先祖の写真でしょ、
あの白い服の写真もそう >>734
だから、阿波は畿内系豪族の上陸地点から、踏査開拓した地域であって
王朝が畿内に有る以上、遷都した可能性が有っても傍流だよ。
魏使の供述に倭種の国、阿波は無い。 >>739
>だから、阿波は畿内系豪族の上陸地点から、踏査開拓した地域であって
畿内系豪族? 阿波から畿内へ拓殖に行った阿波の豪族のこと? 泡バカは以前のようにコテハンつけろよ
つか、なんで止めた 阿波の一番大切な役割は天然のテトラポット
後には天然の刑務所 >>739
>王朝が畿内に有る以上、遷都した可能性が有っても傍流だよ。
傍流というより、本家本元、祖地、本貫地ですね。 @阿波 >>739
>魏使の供述に倭種の国、阿波は無い。
「倭種の国」は畿内以東。 阿波は邪馬台国(女王国) >>742
うっかりしてると自演がバレるからだろjk キウスは『箸墓古墳周辺の調査』とか、知りもしないんだろうなぁ >>512
>弥生時代中期後半、縄文から弥生中期までの列島内における交易とは明らかに一線を画すモノとヒトの移動が行われている。
特に瀬戸内から日向への搬入土器の種類の推移をみると
初めにモノがきて、間をおいてヒト(労働力)が来ている。なので瀬戸内側に主体性がある入植の可能性は低い。<
日向は、元は東テイ人の地であり、それを、天孫族の伊都国の阿毎氏系のウガヤフキアエズらに拠って建てられた国であり、
だから、阿毎氏の大和とも、姻戚関係があったんだろう、と思っている。
そして、「初めにモノがきて、間をおいてヒト(労働力)が来ている」のであれば、
景行の日向遠征と少し矛盾する。
>また九州の瀬戸内系土器の起源地が、時代が下るにつれて瀬戸内西部から東部へと拡大しているというのもある。
つまり、九州側が時間をかけて瀬戸内を西から東へと交易範囲を広げている状況が推測できる。<
当然、「東征毛人五十五國」の進展を示すんだろう、と思う。
>このように九州では、各国の辺境支配により朝鮮半島南部への進出の足掛かりともなる経済的豊かさがもたらされた一方、
速やかな民衆教化が必要であった辺境では、各地で少数指導者による強権的な支配体制が敷かれた。
ただし倭国本国との付庸関係においては、距離的制約もあり在地の指導者たちに一定の内政自治が認められていた可能性がある。<
成程。 >>514
>つまり神武から孝安までは大王(おおきみ)ではなかった。 この時代こそが魏志に書かれてる【女王国】であった。<
「南≠東」であるから、×だよ。 以前から書いているけど、
成り済ましは何がしたいんだ 成り済ましと書くと反応する人がいるけど、
何があったの? 『出家 菅野』
寺院に通っていたと言っていた人じゃないの? 家は「ス」で始まるほうだと言っている、
名前の読み方 これも本当の話、川崎区に住んでいる
大島のほうにあった寺院なんかに、
よく行っていた
と言っている 各説○✖で、より倭人伝に近い説は何説?
例
畿内説 九州説
方位 ✖ ○
距離 ○ ✖
丹 ○ ✖
矛 ▲ ○
○✖は以上適当もあるが 本当の話
兄:智□
もれ(弟):
妹:知□
このような名前 面白いな
卑弥呼の墓
畿内説 九州説
女性 △(不明) ○
径 △? ×
すべて本当の話
妹:5月15日生まれ
あとアニメなのか何なのか知らないけど
『神に認められし ヒドラ』 『義』のない人は何やら
と書いている人もいたでしょ
父親の名前:□義 >>758
項目のウェイトもお互い合意が必用
また、記紀とかは持ち出さないとか、記紀に基づくものは10%ポイント挙げるルールとか
合意形成が問題 老婆も、よくわからないと言っていた
「昔、結婚した家があったんだよ、たしか香野と言ったよ」
出家した家なのかな それと老婆(旧姓:ワタナベ)だよ、なぜ創価なのか?
「私の母親は、車に轢かれて死んだんだよ。
鼻や口から血が出ていて。そのとき警察に言われたんだよ」
「これは酷いな・・・」
・・・・
老婆の妹が創価?だったから、それに入ったという話
なぜか、あの話みたいなんだけど、創価の動画 作り話のように思えるけど、すべて実話
老婆は、二本松とか、そっちのほうの生まれ、
現場に警察がいて
「これは酷いな・・・」 弥生渡来人=呉の太白系=BC1000〜BC500で九州=縄文人多くない
弥生渡来人=銅鐸系=BC500〜200=和歌山、淡路、阿波、畿内=大和朝廷
弥生渡来人=徐福=BC200〜=隠岐=出雲=大和朝廷合流
邪馬台国の対馬貿易が発覚する以前にも出雲貿易は有る。
倭の五王は出雲隠岐〜対馬壱岐〜五島〜済州〜南京だろ?
黒潮で日本に移民した大和朝廷系は半島経由の対馬海流航路を知らなかった。
出雲の国譲りって、そういうことだろ?
歴厨のおまえら、常識って理解できるのか? >>767
で、呉のブタ広鼻半ニガーと徐福が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と
その生活痕たる中国系土器は?
で、呉のベトナムチックブタと徐福が渡来定着と狂言している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
さっさと言ってみろよ台湾ベトナムチック広鼻ブラック。 弥生時代?
移民であって文明の変化じゃ無いよ。
縄文人はいきなり文明を受け入れたんだよ。
裴世清は600年で聖徳太子の斑鳩、法隆寺は長安同等だってよ。
魏も唐も日本はチベットやウイグルみたいに
侵略できないって知ってたよね。 何が人民解放だよwww 探偵eye
老婆談というか家の話に似てない?
謎の刀を持った、銀?という人物が登場すれば、家の話になってくる この独り言キチガイと全レスキチガイで同じ奴だろうな 俺の感性だと中共の人民解放軍って言うのは
悪の枢軸で日本国最大の脅威なんだけど? 違うか? あの日本昔話でしょ
たしか福島県のほうに住んでいた
と言っていた
名前の読み方も、□□力夫?と、
同じほうだと言っている 『その通りでございます』
『私が間違っていました』
という謎のレスが来たこともあった ホントの事言うと
みんな黙っちゃうの菜
失望した。 >>518
>九州と四国東部の関係は相互的な物でありお互いの土器の流通が見えていてどちらかの支配的な立場は見えていない<
九州以東は、筑紫倭国にとっては「東征毛人五十五國」の地域であり、
その「毛人」というのは、
それまで在地であった南海系と大陸系の縄文蝦夷や、
縄文以来の出雲の支配下の銅鐸祭祀部族や、
弥生期以降の大陸からの新たな多種の渡来系などが有り得、
東四国は、讃岐では、銅鐸祭祀であったところに、
新たに(出雲経由で?)大陸系前方後円墳部族が渡来し、、
その上に筑紫倭国の植民的東征があった事になる。
また徳島では、問題の原点は列島ではY-Nが津軽と徳島に多い事であり、
そのY-Nは、燕の支配地?であったらしい紅山遺跡の碧眼紅毛の鮮卑であったらしく、
その鮮卑は(匈奴に圧迫されて?)かなり広範囲に、
北朝や朝鮮や済州島や列島にも流れたようであり、
徳島にも流れて来て出雲系銅鐸祭祀の毛人蝦夷として定着していた可能性があり、
そこへ、再び、画文帯と前方後円墳の楽浪流民画(筑紫や出雲経由で?)渡来して来た、
という可能性がある。
そして四国もまたその後に吉備や畿内の土器の影響を受けて斉一性の中に取り込まれていく流れ
邪馬台国時代にもその後に九州の強権的指導力など見出せる状態にない 途中で投稿してしまったので、>>777の続き。
>>518
>そして四国もまたその後に吉備や畿内の土器の影響を受けて斉一性の中に取り込まれていく流れ<
これは、当然筑紫倭国の「東征毛人五十五國」の植民地的支配での斉一性であり、
元は出雲の系銅鐸系であってそれから「銅鐸祭祀の大衰退」を起こした吉備や播磨や大和などの流れとの斉一性。
>邪馬台国時代にもその後に九州の強権的指導力など見出せる状態にない<
「邪馬台国」なんて在りませんよ。
また、播磨の大中遺跡にも綺麗に磨かれて孔をあけられた鏡片が出土するし、
徳島にも鏡片が幾つか出土するようだから、
播磨も徳島も、卑弥呼の直接的部下が東征して来て支配した、という可能性が非常に高いんですよ。 >>777
>東四国は、讃岐では、銅鐸祭祀であったところに、
新たに(出雲経由で?)大陸系前方後円墳部族が渡来し、、
その上に筑紫倭国の植民的東征があった事になる。
讃岐も淡路も倭国(阿波)と一心同体。
変な妄想は不要です。 @阿波 >>777
>そして四国もまたその後に吉備や畿内の土器の影響を受けて斉一性の中に取り込まれていく流れ
「吉備や畿内の土器」は倭国(阿波)の「東阿波型土器」の影響を受けて斉一性の中に取り込まれていく流れなんですよ。 @阿波 >>777
>邪馬台国時代にもその後に九州の強権的指導力など見出せる状態にない
衰退していた筑紫は、阿波から進出した筑紫忌部が「強権的指導力」を発揮し、再興したんですよ。 @阿波 これも以前書いた
家の先祖、写真の人は、
□□力夫氏のような雰囲気、感じの人ではないよ 確か貼り付けたはず、
頭(髪)も短かったでしょ?
『角刈り』で、
ググると出てくる、サングラスの人物のような頭 書かなかった?
寺院に通ったりしていた
当時の職業は、わからない >>513
>じゃあ百襲姫以上に卑弥呼的な人物って誰が居るの?<
松野氏姫氏系図の刀良と、甕依姫。 『詐欺師と一緒にされるのも嫌なので』
このような広告?見たことがない? >>514
>つまり神武から孝安までは大王(おおきみ)ではなかった。 この時代こそが魏志に書かれてる【女王国】であった。 <
どっちにしても、「南≠東」で「大和は筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」であるから、
卑弥呼がいた国ではない。 >>513
>じゃあ百襲姫以上に卑弥呼的な人物って誰が居るの?
百襲姫は「百襲姫」
卑弥呼的な人物は「大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神」ですね。 @阿波 卑弥呼は記紀にイの一番に記載されてるわけで邪馬台国論争自体が終わります。
卑弥呼を生んだ2世紀前半から3世紀後半まで存在した王族の代々墓の場所も分ります。
箸墓古墳ではありません。
神武が実在したか実在しなかったかという議論も長い間ありましたが、
「神武の時代が女王国である」という「地動説」に発想を切り替えていただければすぐに理解できます。
記紀でなぜ古代天皇が100歳を超えるほど時代を大きく引き延ばしてるのかについても、
実際の卑弥呼から5世代前がスサノオになり、
日本の国史を中華皇帝への土下座という耐えられないような史実から始めれなかったというプライドの問題であることが分かります。
■2世紀から4世紀まで)
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初〜前) 『K』という謎の文字、くだら?
『天子神璽』のことだと思うんだけど >>518
>九州と四国東部の関係は相互的な物でありお互いの土器の流通が見えていてどちらかの支配的な立場は見えていない<
「国生み植民神話」期や、神武ら東征以前であれば相互的であった、としても、
姫氏の「東征毛人五十五國」時代になっては、支配的、と言うしかない。、
>そして四国もまたその後に吉備や畿内の土器の影響を受けて斉一性の中に取り込まれていく流れ <
いや、三雲の庄内が一番古い限り、
東瀬戸内の、吉備も讃岐も徳島も播磨も河内も大和も、
筑紫や出雲経由の渡来系と出雲系の銅鐸祭祀部族や毛人蝦夷系の混合状態で、
新たに支配系になった筑紫の斉一性の中になった、というしかない。
>邪馬台国時代にもその後に九州の強権的指導力など見出せる状態にない<
変な男?。
「邪馬台国」なんて、史料事実に存在しないし、
歴史の中心は「東征毛人五十五國」であったんだよ。 >>795
>いや、三雲の庄内が一番古い限り、
うそはいけません。それは、庄内式より古い、畿内第X期「東阿波型土器(薄型軽量土器)」の伝播を示唆するんですよ。 @阿波 例えると
□□力夫氏と同じ読み方だと言っている、
あの先祖の写真でしょ ザラコクは嘘だと分ってて書き込む確信犯。
これでだれか(例えば佐々木さん)が名誉を傷つけられると、
ネットの書き込みとはいえ立派な犯罪なんだけどね。
言ってもいないことを「言った」と嘘を垂れ流してるわけだから。
昔「〇〇病院は××だ」なんて適当な事を書いて裁判にまでなって500万だか取られたバカもいたよね。 名前の読み方『カ』のほうではなくて
『ス』のほうだと言っている >>522
>あと九州は北、中、東、南と言う文化圏に弥生時代を通じて別れ続けて一度も統合されていない<
これも違うだろうなあ。
鹿児島の上野原遺跡は縄文からの大遺跡であり、
それは当然東テイ人の20国の中心であったのであろうし、
大和の書紀伝承では「襲の国」として記憶されているようだが、
東テイ人は海賦に「後漢最末期に序に付いた記録」があるから、
その時までには確実に存在していたのであり、
しかし、記紀は、宮崎に(天孫族の阿毎氏の)ウガヤフキアエズが着任していた記憶を記載しており、
更に、阿毎氏の大和の景行が(倭國の南九州征伐の武将として?)遠征参加したような記載もしており、
更に、魏志には、卑弥呼の時には既に南九州は「投馬國」として、共立参加をしている記載になっていて、
その投馬國も伊都国の阿毎氏の一大率の検察下にあったような記載であり、
という事は、
卑弥呼共立の前(170〜190年頃ではなく魏になった頃)に、
南九州や鹿児島までが倭國の支配下になっていた、という事であり、
更に、魏使らは卑弥呼に会見して「年已長大=30〜35歳」という判断をしているから、
卑弥呼の誕生は205年頃になり、
共立も投馬國成立以後であるから魏代に入った225〜230年頃になる。
>どこかに中心を設定すると他地域との関係に大きな齟齬を生じてしまう
一口に九州と言ってもどこでも良いと言うわけには行かない
適当に九州内の都合のいいところに決めればいいというわけではない<
史料事実を丁寧に確認していけば、上述のような帰結が得られる。 >>527
>那珂八幡よりも、三雲の方が古いという理由だけで それが日本で一番古いのだと妄想してしまう
ざらこくの脳って 実は死後で腐敗してんじゃないの? ww<
河内での伽耶の陶質土器と(布留ではなく)庄内との共存があり、
その河内や大和の庄内が那珂八幡付近の弥生銀座に搬入されて、伽耶の陶質土器と共存し、
その共存よりも前に古い三雲の庄内があるんだから、
三雲の庄内は、河内や大和の庄内よりも古くなる。 ザラコクは自分でも間違いだと分っててもそれを信じ込んでるのだから。
歴史でもなんでもなく宗教です。
この男は歴史に向いてない。
まぁ九州王朝説の時点でどういう人物なのかお察しだが。 >>529
>青銅器祭祀を見ると九州の活動範囲が弥生時代後期にも拡大できてないのが分かる <
弥生後期には、青銅器が祭祀化的になって、実用的には鉄器に変わって行った。
>銅矛は山陰に伸びず、瀬戸内海では広形銅剣に阻まれている その分布は四国西北部で留まっている<
出雲は、梁代まで文身國として、独立的であったのであり、
西瀬戸内は、当然30国の中の「其餘旁國遠絶、不可得詳」の地域の一つの倭種であり、
どちらかと言えば、阿毎氏の伊都國の一大率の検察地域であり、
広形銅剣に価値観を持っていてもおかしくない。
>弥生時代後期の四国との土器の関係もこれを脱する物ではなく、その関係も相互的な交流の上にある<
これも時期の問題だな。
(九州の小銅鐸を除いて)当初の銅鐸祭祀の地域の境界は、四国では、中央部で東西にはっきり分断されており、
その後、筑紫倭国の「東征毛人五十五國」が進展した事になる。
>この動きもまず最初に四国方面からの土器の流入を見て相互関係に発展していく動きなのが分かる<
「東征毛人五十五國」が、「自昔」から、徐々に進展して行ったから。
>九州の支配的な立場などは見いだせない <
「東征毛人五十五國」は覆せない。 >>792
>卑弥呼は記紀にイの一番に記載されてるわけで邪馬台国論争自体が終わります。
だいたい、ヒメタタラ姫は初めの方ではなく、途中に出てくるだろう。 ●●●ケネディ大統領は何故、死なねばならなかったのか?●●●
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>九州説のおじいちゃんへ 九州説の邪馬台国はどこにあるんですか?<
「邪馬台国」なんてありませんよ。
>ボケジジイに畿内の事なんて聞いてません 比定地さえも言えない程度のアホに用はありません<
福岡平野の中程から筑紫平野、及びその周辺丘陵地bだ、ともう何んども何度も言ってある。
>早く九州の邪馬台国の場所をいってくださいキチガイ<
はいはい、やっぱりキミは、「南→東」の嘘つきダマシの・・・・サギシであったのですか?。 >>555
大和説者って、ジミントウトウみたいな奴らだよな。
都合の悪い事実や情報は全て口先で否定し、
中身のない悪口言ってるだけで何か言った気になってる、というアホの集団。
で自分達の意見は、全てソウリが説明した通りであり、何もないという。 >>569
>投馬国は後のヤマトである、卑弥呼と対立していた <
投馬國は、東テイ人の後の南九州の国である。
卑弥呼共立の一国であり、ウガヤフキアエズ以来の阿毎氏の、阿毎氏の伊都国の一大率の検察下にあった。 >>578
・平然と南→東などの史料事実の否定改竄の嘘をつく。
・理由を言わないで結論だけ連呼する。
・悪態をつく。
大和説って、これ以外に何かできるの?。 >>814
そういうウソを平然とつくのが
ざらこく >>579
何?。
福岡平野の中程〜筑紫平野及びその周辺丘陵地に、
径100歩の墓があって、卑弥呼の鏡や鏡片があって、7万戸の住民がいて、
南九州の5万戸の投馬国も含めた領域を支配してた国があるのか?、って?。
あるある。
それが判らないらしいこの投稿子は、ひょっとしたら、
「南→東」の嘘つきダマシの・・・・アホじゃねぇの?。 >>580
九州説=(護憲の)憲政党、というのが一番近い。 >>584
もしかして大和説って、
「人種差別的殺戮戦争狂の皇国史観」という心の病の一種なのか?。 >>818
ここに大和説はいません
ここは畿内説のスレです 2013.09.17
2ちゃんねる元管理人・西村ひろゆきの申告漏れは悪質過ぎる!
http://straydog.way-nifty.com/yamaokashunsuke/2013/09/post-91ee.html
●この記事が出るまで2ちゃん管理人の"ひろゆき"は「自分は2ちゃん管理人ではない」と嘘をついていましたw
↓
2012年6月29日
2ちゃん運営会社は「ペーパー会社」 登記上の役員証言
http://i.imgur.com/R1oWjxN.jpg
ひろゆき(2ちゃん管理人)は数々の民事訴訟を抱えている。
請求されている賠償金は10億円。
ひろゆきは賠償金を1円も払っていない。
2012年6月
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/ms/1431191456/677
●2ちゃんの広告主、無修正エロ動画カリビアンコム
↓
カリビアンコム…有限会社ピエロ(本社:東京都練馬区、代表取締役:陳美娟)
http://www.peeep.u●s/3ee0ef64
↑
覚醒剤SEX動画カリビアンコムは2ちゃんの大広告主でした
昔、2ちゃんにはカリビアンコムの広告がたくさんあったんです
覚醒剤SEX動画カリビアンコムを大きくしたのは2ちゃんねる管理人ひろゆき、です
2ちゃん管理人はハッキングとストーカーをしています(ハッキングは普通にしています)
2ちゃんは匿名の掲示板ではないです ●2ちゃんねるとニコニコ動画の正体●
2ちゃんねる管理人や既得権益を批判する書き込みをすると2ちゃんねる管理人からハッキングされます。
場合によってはストーカーされます。
実際2ちゃんねる管理人が書き込みをしてる所にやってきます(ストーカー)。
2ちゃんねる管理人からマークされた人は2ちゃんねるを見てるだけで今見てるなとバレてます(書き込んでなくても)。
リアルタイムで2ちゃんのどのスレを見てるか分かるようになってます。
2ちゃんから転載されてるブログ(アルファルファモザイクなど) を荒らすと、その情報はニコニコ管理人と2ちゃんねる管理人で共有されます。
場合によってはハッキングされたりストーカーされます。
31 :可愛い奥様@転載は禁止:2014/12/25(木) 08:13:17.30 ID:gDmdUXyO0
きょう発売の宝島に2ちゃんの運営者ジム・ワトキンスのインタビューがある
どうもジム・ワトキンスはciaか米軍の工作員の可能性が高い
だから2ちゃんにアジア分断工作のスレがたくさんあるんだろうね(アジア分断工作をしてるのはアメリカ)
2ちゃんねる=ひろゆき=ジム・ワトキンス(米軍人、cia)
ニコニコ動画=2ちゃんねる=自民党
ニコニコ動画=ひろゆき
ニコニコ動画=2ちゃんから転載されてるブログ(アルファルファモザイクなど)
NAVERまとめ=ひろゆき >>817
憲兵党?
ザラコクは自由主義者を虐殺したがってるの? >>596
大和説者ってまだウソつく気?。
頭おかしいの?。死ぬの?。 >>619
そもそも大和説は、中国の周髀算経の度量衡体系を無視しないと始まらない説だからね 。
根っこから嘘で出来てるのさ。 何でも良いけど
cia 米軍と書けば、すべて許されるとでも思っているのか?
そんなものは通用しないんだよ >>620
負けると罵って誤魔化すのが、大和説の伝統のインチキ手口だ。 >>626
「南→東」など嘘と中傷しか出来ない大和説。 >>806
東征毛人五十五國
と
西服衆夷六十六國
で
渡平海北九十五國
九州が西服で北に渡海だろ。
主語である自は畿内と出雲であって九州は無い。
半島に95国って400年当時は漢4郡=高句麗は含まないから
邪馬台国並みにすげー小国群だよな。
百済と新羅を筑紫の君みたいに冊封しただけだろうけどw >>828
>東征毛人五十五國
>と
>西服衆夷六十六國
>で
>渡平海北九十五國
ずばり、四国(阿波)を中心とした展開記述
東征毛人五十五國 =近畿以東
西服衆夷六十六國 =九州
渡平海北九十五國 =山陰・北陸 なんですよ。 @阿波 >>627
>250年頃から始まる布留0式古相を250年に持ってくるのはギリギリでキツいだろ。
・・・仮に250年頃から建造が始まったとしても卑弥呼の墓である証明にはならない。
単に250年から建造が始まった墓であるというだけ<
布留は、300年頃以降だよ。
だから、寺澤のインチキ。 >>631
>ただ畿内説を否定したいがために、100年もずれているなんて安本や鷲崎のようなアホな話は通用しない。
ずれてるとしてせめて20年ぐらいか。<
ダメだ。
久宝寺で、伽耶の285年頃以後の陶質土器と、(布留ではなく)庄内が併存していたんだから、
布留は300年頃以降だ。 >>829
倭の五王って、朝鮮半島利権の交渉でわざわざ南京まで渡ってるんだよ。
高句麗が滅びて漢四郡地域まで百済新羅が広がった500年位から手を引き始めてんだけどね。
600年から遣唐使。663年、唐が本土に攻めてこようが喧嘩なら買う事を示し、
900年唐の滅亡見るまで対等外交してんだよ。
渡平海北九十五國 =山陰・北陸 なんですよ。 テヨン又は@阿呆 >>832
まだそのガセネタ言い張ってるの?
とっくに真っ赤なウソとバレてるのに
足掻きが醜すぎね? 上のほうで言っている利権、
権利というのは何なんだ
騙り、
成り済ましの話じゃないのか >>642
>径100歩の墓は?<
祇園山。
>魏に貰った100枚の鏡は?<
一部は、諸国の王や豪族などに配布。一部は親しい部下に 鏡片にした下賜。
一部は、次代の王ら壹與らに残した。
>宮殿は?<
おそらく、大野付近の安徳台。
>丹山は? 骨占は?<
ある。
>九州北部全域にさらに5万戸の投馬国までの広大な領域を支配下に入れてたって言う証拠は?<
投馬國は、南九州。 例えば漫画などを描いている人でも良い
自分の家の話ではなく、
他人の家のことを描いたりしているけど、何の権利があるんだ 本当に許可取っているの?
と言っている人がいたでしょ
かなり前の、
とあるスレ参照 >>837
>投馬國は、南九州。
南九州全部が投馬國? もう、めちゃくちゃ >>645
大和説スレをバカ丸出しの寝言で守ると、
政府や学会が、表彰してくれたり、いい会社や職場に付けてくれる、と信じてるんだろうなぁ。
脳の病気なら仕方ないね 。 >>845
だからお爺ちゃん
ここは大和説のスレじゃないんですよ
お引き取りくださいね >>659
>で、大和朝廷が半島進出したんだけど、邪馬台国は朝貢って、間抜けだろw<
大和朝廷も邪馬台国もなかったんだし、
半島に進出したのは、九州筑紫倭国王朝。
>三角縁神獣鏡が散逸してる時点で滅びてんじゃね?<
呉系の楽浪鏡師らが造って回ったり、大和の子弟に教えて粗悪な副葬用の鏡を一杯造らせただけ。
>魏使が帰国したあと、何年も持続する政権じゃない、って判るだろ。
邪馬台国は筑紫の君の名を拝領した奴の国になった。<
筑紫倭国は、白村江まで、列島盟主として戦って、
大敗してから、大和に併合吸収継承された。
>つまり、大和朝廷に冊封されてるし。<
大和朝廷なんてないし、冊封もされていなかった。 >>839
最近どころか10年位前から吉外だよ。
textream掲示板もこいつがいなくなってスカッとした。
だいたい畿内説者というだけで人殺し、狂人、ケダモノ、狐憑きなんて悪言三昧。
こいつがいなくなって寂しいなんて意見は皆無w 祇園山には竪穴式石室が複数あります。
奴婢に竪穴式石室などあり得ません。
したがって祇園山が卑弥呼の墓なんてヨタ話は通用しません、残念。 >>663
「小便で色付けた」と造作捏造し、
「南→東」などの史料事実の否定曲解する嘘つきダマシの大和説学者本を、
聖典として崇めてる連中の宗教だからな。
ヤマトセツって、 常軌を逸してて普通なんだろうよ。 >>665
>ツヌガアラシトは伊都国王(伊都都比古)と垂仁天皇に会っているんだよな
北九州の王統と纏向の王統と同時代に並立してたっていうことだ<
筑紫倭国が盟主であった事を隠蔽しようとして、その存在や歴史を否定し、
大和天皇家が、
「天地開闢以来列島の支配者たるべく約束されていた」
という主張をする書紀などの記載は、「半分偽書」であり、
根拠にならないんだよ。 息をするようにウソをつく
罵倒と中傷ばっかり羅列
論理的思考せず
ザラコクの特徴って九州説の共通項では? >>848
>大和朝廷も邪馬台国もなかったんだし、
これはちょっと違うんじゃないのかな、
いわゆる神武東征後は筑紫倭国と並立だったんだろうなあ。ま、初期の神武大和は細々だったんだろうけど。
>半島に進出したのは、九州筑紫倭国王朝。
こっちはまさにその通り。
共立卑弥呼は「親魏倭王」と称されたんだし、
その後は「倭の五王」の記録もあるので、少なくとも白村江のころまで、「筑紫倭国」は明確に栄えていた。 ツヌガアラシトはアメノヒボコのことか、新羅、出雲だろ マイノリティはどうしても倭国を小さくしたがるんだよな >>864
新羅と筑紫は同盟国なのである、筑紫の君磐井は親新羅であった >>865
出雲の新羅と畿内ヤマトの百済は対立していた
唐、新羅、、出雲、筑紫VS隋(藤原氏)、百済、畿内ヤマト(中大兄皇子)
藤原氏の日本書記は百済史観なのである(古事記は新羅史観 >>866
卑弥呼の時代には倭国は北部九州であったが蘇我氏の時代に畿内まで掌握し
た、乙巳の変で実権を奪われることになるが なんで九州説って
ひとことも理由を
言わないんだろうね
今日は小便着色ウソ本を聖典扱いしてる古田教団の九州王朝説かw
バカは底なしだなw
笑い転げながら読ませてもらってるよww >>871
畿内厨が段々と歴史通になるな(いいことである 九州説では根拠というようなものは必要とされません
ワシが根拠だから ヤフーの銀河がきたら大変だぞ、無知アホ糞馬鹿が枕詞だからな ぼくののうないでそうなんだからそうなんだ
九州説の連中に理由なんて聞いちゃダメダメ
そもそも「九州のどこに邪馬台国があるんですか」と当たり前の事聞いても答えられないんだからw
なぜかそう聞くと「キナイガー!キナイガー!サベツダー!チュウショウダー!」とか喚きだす
当たり前のことさえ何も答えが無い >>668
>倭人伝の読み方は色々あってな・・・<
それがサギシの「ダマシの手法」だな。
どこかの政府の「解釈改憲」のダマシと全く同じ。
陳寿も憲法も、当然、(色々ではなく)一つの主張をしているのであり、
陳寿や憲法の記載方法を、人類の常識に従って十分に読み取って、確率の最も高い解釈や理解を求めるべし。 >>873
東遷厨はいつまで待っても歴史を勉強しないねぇ >>880
歴史家、考古学者が必死に隠蔽したがる歴史の真実を調べて暴露するのが
面白いのである 九州説のいうサギダ!サギダ!って
要するに
負けたから絶叫!!!
なんだよね >>670
>任那が有るなら、伊都国も朝廷の臣下に入った後だよ。<
大和朝廷なんて、その頃は存在しないよ。
>てか、逆で伊都国とか半島開拓に配流されてんじゃね? 記紀はこの時期、史料的にダメだね。<
記紀は、始めから「倭国の存在や歴史」を抹殺しようとした半分×偽書であり、
この時期でなくても、全体にも、
「ついうっかり的な事実記載」以外は、全く信頼性がないんだよ。 >>882
だって、畿内説は物証が無いのに騒ぐんたもん 畿内説は孫呉のヤマトに失礼である、よりによって敵対国の邪馬台国
を名乗るとは(実にけしからん 古事記は偽書だぁ!
日本書紀は偽書だぁ!
モノホンはツガルのみ!!!
っっっって、脳をやんでるね 古事記の新羅(出雲)史観はけしからんということで藤原氏は百済(ヤマト)
史観の日本書記を編纂した(基本である >>678
>世襲王権じゃ無かった邪馬台国みたいに270年に滅びてないだろ?<
邪馬壹國は、滅びておらず、倭国王家の直接的支配地名として残り、
唐の郭務ソウが李賢に大宰府付近を「邪摩惟」と報告したように、
大宰府付近の地名呼称として残っていたんだよ。 >>862
ツブガアラシトは大加羅国王子、崇神に3年仕えて帰国した。
アメニヒボコは新羅国王子、但馬国に永住した。 ツヌガアラシトは「角がある人」→角型のカブトをかぶってたんだな 経歴も何もかもがホラの和田とか言う詐欺師の小便で色付けたバカ本を聖典として崇めてるカルト教団だっけ?
キュウシュウセツって
カルト教団が何でこんな歴史スレで暴れてるんだろうね 中国製の小札革綴冑が3世紀後半から4世紀の畿内の古墳から出る。
十数点の出土のうち九州はわずか1点、残りはすべて畿内。
当時の日本にこんな精巧な冑は作れない。
おそらくトヨの朝貢時に入手したのだろう。
この時点で中国と通交してた主体は畿内であり邪馬台国論争は決着する。
この小札革綴冑は山城の椿井大塚山古墳から出る。
崇神に反乱を起こした武埴安彦命が挙兵した場所であり、
椿井大塚山被葬者が武埴安彦である可能性が高い。
もう一つ面白いところから出る
大阪柏原の玉手山3号墳だ。
この時代に河内の首長が中国製の小札革綴冑というお宝を手に入れていた。
被葬者の該当人物がいる。
孝元天皇の妃・埴安媛の父、河内青玉繋だ。
武埴安彦の祖父になる。
河内青玉繋→埴安媛 →武埴安彦(崇神時代)
祖父と孫、つまり同じ一族が小札革綴冑を手に入れてたのではないか。
ということは河内青玉繋はトヨの時代を生きていた。
トヨの朝貢団の一人ではないのか。
どちらにしても「欠史」などと言われてきた初期8代天皇は確実に実在した、
そして魏志の台与と大和朝廷がこの冑によって結びつくのだ。 >>901
小札革綴冑は孫呉の水軍が着用してたんだな >>866
>マイノリティはどうしても倭国を小さくしたがるんだよな
国粋主義者はどうしても倭国を誇大に見せたがる。 だいたい九州説に収斂してきたな
追い詰められたスレ主どうする!? >>908
なんもテンプレに反論できてないわけだし >>907
小さな筑前程度の一地方を誇大に見せようとしてるのがお前 >>688
>九州の邪馬台国と畿内の大和朝廷は無関係。<
関係あり。
大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国。
>300年程度から663年までの筑紫の君は百済、新羅同様、冊封王。<
関係がない。
大和は、倭國の地方の市を監督する大倭職の国であったのであり、
倭國の附庸国。 >>712
>いろいろ出ちゃったら、殉葬じゃなくて氏族代々の墓。<
いや、祇園山の墳裾の62個の複数埋葬は、墳頂の箱式石棺とほぼ同時期埋葬であった、と確認されている。
>殉葬なら周孔に埋めて土壌によっては遺骨は出ない可能性もある。<
62個の墓は、全て、単純に土葬したものではなく、構造物の中に入れている。 >祇園山の墳裾の62個の複数埋葬は、墳頂の箱式石棺とほぼ同時期埋葬であった、と確認されている。
されていない >62個の墓は、全て、単純に土葬したものではなく、構造物の中に入れている。
甕が構造物? あほ で?九州説の邪馬台国はどこなんだ?
径100歩の墓は?
魏に貰った100枚の鏡は?
宮殿は?
丹山は?
骨占は?
九州北部全域にさらに5万戸の投馬国までの広大な領域を支配下に入れてたって言う証拠は?
どこにあるんだ?
畿内なんて話にならないくらいの説得力に満ちた場所があるんだろ?
早く言えよ >>904
孫呉の滅亡が280年であるので時期的にピッタシカンカンである
小札革綴冑は呉服の始まりやな 径100歩の墓は?
魏に貰った100枚の鏡は?
宮殿は?
丹山は?
骨占は?
九州北部全域にさらに5万戸の投馬国までの広大な領域を支配下に入れてたって言う証拠は?
佐賀の田んぼのどこにこんなもんがあるんだ? >>921
赤壁の戦いで呉の水軍は小札革綴冑を着て魏と戦ったのである
レッドクリフや〜(戦艦ヤマトは呉の水軍の魂の結晶であった >>922
卑弥呼の墓は祇園山古墳である
投馬国は宮崎南部、鹿児島であり女王国の管轄ではない 邪馬台国貿易以降に大和朝廷が半島進出したのは馬の移入が大きな目的であって
任那設置から楽浪郡への道や物資調達の可能な村を開いた。
これが王を冊封し、結婚を管理し王子を人質とせて、中国皇帝から下寵される、
五経博士や七枝刀、仏教を献上させた 百済の建国に繋がった。
国内では大和朝廷は400年までに甲斐に高句麗人も導入して勅営御牧を成功させているし
大伴氏系の国造の前方後円墳、高句麗系積石墳墓もできている。
考古学なら有りもしない卑弥呼の墓を探すより、馬の骨でも拾えwww
狗奴国との紛争で既に斜陽化してる魏の役人に援助を依頼するような
弱体九州土人ごときにできる仕事ではない。 九州王国ワロス >>723
>渡来経路、和歌山、四国阿波、淡路島、畿内 これは、大和朝廷だけど。BC500〜200年。<
大和朝廷なんて、8世紀以後であり、古代にはないよ。 >>918
南を東とした確たる証拠が無い。
まず畿内説間で話し合ったら!
がんはれ!! >>727
>柳田は庄内式土器が九州発祥とは言ってない <
勿論言わない。
しかし、那珂八幡での「筑紫在地の庄内と、大和や?河内や播磨などからの搬入庄内の共存」を承認すれば、
その共存よりも古い三雲の庄内が、西日本では一番古い事になる。 纒向は、卑弥呼がいた大集落。
邪馬台国はヤマト国、大和盆地一帯だな。
狗奴国から奪った地であり、対狗奴国の一時的な前線基地。
元々はそれだけの意味しかない。
民を教化し、王に忠誠を誓うようにするのが卑弥呼の役割。
纒向は、巨大な兵の駐屯地であり、民が住む大集落であり、教化システムでもある。
古墳時代にこの兵を使い全国平定を進めるんだな。(四道将軍)纒向が4世紀に突然消失し、武器が殆どでないのも説明がつく。もぬけの殻。
博多の一大率も、ミニ纒向みたいなものだろう。 卑弥呼の時代の畿内は葛城王朝でありヤマト政権はまだ発生していない >卑弥呼の時代の畿内は葛城王朝でありヤマト政権はまだ発生していない
九州も九州ですが畿内も畿内ですな @阿波 >>933
>その共存よりも古い三雲の庄内が、西日本では一番古い事になる。
ならない
那珂遺跡の庄内式土器は最古段階ではないし
三雲の庄内は筑紫産
若干しか出ないような土器は搬入品 >>850
>祇園山には竪穴式石室が複数あります。<
墳頂の2m長位の箱式石棺が、墳裾の主体群よりもずっと巨大であったんだから、
墳裾の「竪穴式石室」と記載されたものは、
「槨ではなく、槨よりもずっと小さい石の構造物」であった事になり、
そんな小さいものは「石室」の「室」という広い構造物ではなく、
だから、「小型箱式石棺」レベルの「棺」であったのであり、
それを「竪穴式石室」と記録した発掘担当者は、「石室」の概念を間違えている、という事になる。
奴婢に竪穴式石室などあり得ません。
>したがって祇園山が卑弥呼の墓なんてヨタ話は通用しません、残念。<
この男も、「棺」と「槨」と「室」の区別が出来ないアホであった、という事。 >>879
皆がそう言ってるから陳寿もそういう意味で書いてるはずだと??
いやいや、誤読説は山ほどあるし、何が正しいか陳寿にしかわからん
根本となる倭人伝の解釈を多数決で決めたらいかんよ
正しいと主張し、それを根拠としたいなら、それこそその解釈が正しいとする理由を示さないと
文献的には様々な解釈があるから、各地の邪馬台国候補があるのだよ >発掘担当者は、「石室」の概念を間違えている、という事になる。
お前祇園山古墳で実見したのか?w >>857
>>大和朝廷も邪馬台国もなかったんだし、<
>これはちょっと違うんじゃないのかな、
いわゆる神武東征後は筑紫倭国と並立だったんだろうなあ。
ま、初期の神武大和は細々だったんだろうけど。<
大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国であり、
倭國の地方の市を監督する大倭職の国であり、
俀國の附庸国であり、
白村江で戦ったのも倭國や倭衆や倭賊であったのであり、
大和は、白村江の後で、ようやく倭國を併合吸収継承して、列島盟主として朝廷を名乗ったんですよ。 >>942
>大和は、白村江の後で、ようやく倭國を併合吸収継承して、列島盟主として朝廷を名乗ったんですよ。
九州説を成り立たせるためには、沼地でド田舎の「その別れた別種の旧小国」を持ち上げなければならない九州説のジレンマ。 @阿波 >>901
倭人伝の後の時代になると、畿内地区で北部九州を介さない外交ルートが開かれたのだろうね
神獣鏡の分布から、長江流域との関連性が高そうだがどうだろう? >>938
>「小型箱式石棺」レベルの「棺」であったのであり、
>それを「竪穴式石室」と記録した発掘担当者は、「石室」の概念を間違えている、という事になる。
なるかいアホ。
小型も何も体の大きさに合わせるのだが。
小型ならそれは子供。
おまえはもう古代史から身を引け。 「古田説」を成り立たせるためには、沼地でド田舎の「その別れた別種の旧小国」を持ち上げなければならない「ザラコク」のジレンマ。 @阿波 よくもまぁ祇園山程度を卑弥呼の墓などと言えたものだ。
少しは調べてから言え。
「石室」は単に種類で分別されるだけで、石室の「概念」なんてないから。 もう平気で嘘をつくようになったね。
こんな75歳にだけはなりたくない。
孫にも恥ずかしいだろ。 「九州王朝」などと、知ったかを喚き散らした某人物のせいで、
古代史研究は大混乱を招いた。
それに比べ、
「筑紫倭国」という呼称は、まことに適切である。
不毛続きだった邪馬台国論争に、新しく、スピード感を伴った展開をもたらすであろう。 >>949
>不毛続きだった邪馬台国論争に、新しく、スピード感を伴った展開をもたらすであろう。
全然もたらさないよ。
卑弥呼は記紀にイの一番に記載されてるわけで邪馬台国論争自体がもう終わります。
卑弥呼を生んだ2世紀前半から3世紀後半まで存在した王族の代々墓の場所も分ります。
箸墓古墳のある纏向ではありません。
高天原(御所市高天)です。
彼ら神々の墓は今でも日本最古の高鴨神社がお守りしています。
神武が実在したか実在しなかったかという議論も長い間ありましたが、
「神武の時代が女王国である」という「地動説」に発想を切り替えていただければすぐに理解できます。
記紀でなぜ古代天皇が100歳を超えるほど時代を大きく引き延ばされてるのかについても、
実際の卑弥呼から5世代前がスサノオになり、
日本の国史を中華皇帝への土下座という耐えられないような史実から始めれなかったというプライドの問題であることが分かります。
■2世紀から4世紀まで)
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安 ?
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初〜前) >>942
>大和は、白村江の後で、ようやく倭國を併合吸収継承して、列島盟主として朝廷を名乗ったんですよ。
「古田説」を成り立たせるためには、沼地でド田舎の「その別れた別種の旧小国」を持ち上げなければならない「ザラコク」のジレンマ。 @阿波
畿内も畿内ですが九州も九州ですな @阿波 >>911
倭国って、九州北部だけの小さな国なんだって。
ただし対馬海峡の貿易を独占してことで権勢を拡大できたのだろう。 >>928
>九州説のバカをオモチャにするのは面白いなぁw
オモチャは畿内説の方w >>944
>>>901
>
>倭人伝の後の時代になると、畿内地区で北部九州を介さない外交ルートが開かれたのだろうね
>神獣鏡の分布から、長江流域との関連性が高そうだがどうだろう?
ひどい妄想だな。
具体的にどこにそんなルートがあるんだ? >>949
はじめに説の内容を理解させる役にはたったろう。
しかしこれからは筑紫倭国でいいだろう。 >>958
長江流域から呉の鏡職人さんが来たということだな
孫呉の職人さんが作った三角縁神獣鏡、孫呉の水軍が着た小札革綴冑、ベニバナ(呉藍
いろいろ物証があるな この課題は。次回持ち越し、
説は畿内説でもいろいろあるが、統一しようぜ
南をどう東にするか議論しようぜ
畿内説のスレだからね
なんちゃって、、、、、、
だがてんふしかり、明確な解答が無い。
ここが、畿内説の最大の関門なのですよ( ◠‿◠ )( ◠‿◠ ) すまそ
テンプレさえ、南は東の根拠は、自己満足
畿内説のスレで他説相手は逃げだよ、
他説批判は他説のスレで( ◠‿◠ )
畿内説の真髄を極めないか! 畿内説の研究者で、三角は日本製で無いと統一されてる? 畿内説の研究者で、三角は日本製で無いと統一されてる? 畿内説の研究者で、三角は日本製で無いと統一されてる? あと、纏向の範囲を天理市まで広げようとする
桜井市教委のソース頼むよ、 >>965
孫呉の鏡職人さんが畿内にきて作ったんだから日本製でいいだろう 不思議なんだ、
テンプレ無視の、他説批判のカキコミ FAQ8なんか、持論だよ。
君の畿内説を探求したほうがいいと思う。
畿内説は道半ばですから 59 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/07/05(水) 07:58:10.86 >>71>>118>>295>>296>>310>>328
>>51
纒向遺跡は旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する微高地上の遺跡です
考古学的な範囲確認調査によるものです
むろん桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも遺跡が広がる可能性は指摘しています
しかし現状では柳本町及び渋谷町側で遺跡が未確認であるため、纒向遺跡は桜井市纒向に存する遺跡と認識されています 特に
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
むろん桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも遺跡が広がる可能性は指摘しています
-------------------------------------------------------------------------------------- ◆FAQ 8
A:伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である
「畿内」は「阿波」の誤りですね。 @阿波 魏志倭人伝当時の九州状況
女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。
九州における女王国メンバーは、宮崎日向を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。
女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。 魏志倭人伝において、ます到着するのは末盧国である。500里をはるばる歩き、伊都国(博多湾一帯)に至る。
伊都国から奴国(飯塚市を中心とした遠賀川流域一帯)へ。さらに東に進み、周防灘に面する不弥国(行橋市)に至る。飯塚市から行橋市に古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時、玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路だった。
そこから船で南へ沿岸を航行し、20日かけ大隅半島を抑えている投馬国へ着く。
大隅半島を南へ漕ぎ出し黒潮に乗る。黒潮は時速7Kmであり、何もせずとも1日に150Km進む。黒潮は自然と潮岬に接岸する。(現代において観測され証明されている)つまり10日で潮岬に流れ着く。
熊野に上陸し、陸行1ヶ月でヤマトに至る。
これが魏志倭人伝当時の邪馬台国へ至るルートである。
河内や和泉は当時狗奴国領、琵琶湖北部にも敵対勢力がいたため、大阪湾方面や若狭湾方面から大和盆地入りするには敵対勢力に襲われる危険が高かった。
敵対勢力の支配域に近づく必要がない太平洋ルートが、魏の使者を迎えるルートとして選択されたんだろうね。 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
元は大阪城の位置にあったとされる生国魂神社と関係あるのかな。
大阪城の下に何かあるのかな。 >>872
>今日は小便着色ウソ本を聖典扱いしてる古田教団の九州王朝説かw
バカは底なしだなw 笑い転げながら読ませてもらってるよww <
今日も、和田キヨエと偽書説派とでの「小便着色の一升瓶」のでっち上げ事件を、
またバラシテしまっているのかw。
カは底なしだなw
笑い転げながら読ませてもらってるよww >>873
>畿内厨が段々と歴史通になるな(いいことである<
畿内厨の嘘吐きダマシが、段々とバレバレになるな。
世間の皆様にとっては、いいことである。 ◆FAQ 8
A:考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される
伊勢神宮の「渡会氏」は忌部一族の末裔ですね。
「伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路」は阿波から黒潮に乗って南関東へ進出した海上交通路なんですよ。
「考古的遺物の分布」では、伊豆の神津島に阿波命を祀っています。忌部一族の停泊地だったのでしょう。 @阿波 >>874
九州説では、史料事実や史料実弟が根拠ですが、
大和説では、根拠というようなものは必要とされません。
嘘つきダマシが根拠だから。 「当時」の自然環境を軽視しすぎ。 @阿波
奈良盆地は海に面さず、発展する余地なし。
纏向は湿地帯で王都に不適。
対馬海流に流されて、末羅國=呼子・唐津は有り得ない。
瀬戸内海航路は潮流対策施設不備につき、「通し航行」不可能。
弥生の大洪水で稲作壊滅状態。 >>878
大和説の連中に理由なんて聞いちゃダメダメ 。
そもそも「史料のどこに邪馬台国があるんですか」と当たり前の事聞いても、
答えられないんだからw 。
なぜかそう聞くと「キナイガー!キナイガー!学者の意見だからダー!文部省の通説ダー!」
とか喚きだす。
当たり前のことさえ何も答えが無い。 中国江南から広がった下戸遺伝子。
中国南部の文化である銅鐸。
島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。
日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、河内や大和。
淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。
唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。
呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。
弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃が中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、畿内や伊勢尾張美濃が中心だろうね。 >>882
大和説のいう「トンでもダ!」「偽作ダ!」って、
要するに、
負けたから絶叫!!!
なんだよね 。 北部九州で水稲栽培が始まるのが、BC1000年頃。
呉の末裔を名乗る倭人が淡路島や畿内に渡来したのが、BC4〜5世紀。春秋時代末期。
その畿内中心に広がったのが、方形周溝墓。
天孫降臨は記紀にも書かれている通り、ニニギの婿入り。
伊都国への婿入りだろう。
つまり天孫降臨は伊都国成立以降の話。
博多平野で、婿入りを示唆する考古学的所見は、1世紀中頃の方形周溝墓の受け入れ。(三雲南小路遺跡)
畿内にあった倭人によるクニ(倭国)からの婚姻を伴った天下り(地方官の派遣)が天孫降臨だろう。
元々伊都は倭人ではない人々の国であったが、1世紀中頃畿内の倭国から伊都国の王として、倭人を迎え入れたんだろうね。 出雲系? なにそれ?
出雲とは、徳島県阿南市橘辺りの地域名のことですよ。 @阿波 このスレッドは1000を超えました。
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