邪馬台国畿内説 Part250 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1499763825/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に面している
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その死亡時期は3世紀中葉である(FAQ30参照)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる
したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場である(FAQ26参照)
その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントにほかならない
そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、
乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、
乃ち布留0期にあるとみることが出来よう ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山並びに渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である
箸中山、行灯山並びに渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない
この神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう
因みに、女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある
これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、
箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する
この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である
乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ
弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があり、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期に中国製威信財の入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争を回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりがあったことを示しており、此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう
後段で触れるところの寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた
纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の大勢という現実を踏まえたものであろう
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する
初期ヤマト政権の性格をアンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは有益である ◆5(倭国の形成と気候変動)
南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況や河内と吉備の交流の深さ等も鑑みれば、
東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を纒向の地に擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの連合であろう
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生し、その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている
それが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあったことは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる
換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起している(松木2014)
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型並びに楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着した(吉田2014)
分節化した統合性の象徴として小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開、
これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる
(この項続く) (続き)
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある
権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する
宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)
これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する
この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る
前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していることと、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料を突合すると、
対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう
北部九州の土器編年で言えば、卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である
そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである
ことに、土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である
その最終段階では、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる
それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である
自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか
A:九州は倭国の一部なので問題ない
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである
水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の値を示し(南2008)、桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南,今津ら2013) である
これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くこと
魏使は九州を出ていないではないか
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか
A:沖縄本島付近の南海上となるため、畿内説以外の説も無理である(◆FAQ40参照)
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できない
このように、行程記事には明らかに誤情報が含まれているので、所在地比定には採用しない
検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる
A:誰も纒向遺跡=邪馬台国だなどと主張はしていない
纒向遺跡は巫女王の居た王都であり国ではない
また、邪馬台国を大和国とする諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって領域としての令制大和国という定義ではない
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した
対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す
(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕がでる(久住2006)
畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系の土器が発見される(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する ◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した
つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である
考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである
よって否定材料にならない
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる
この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い
準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である
また倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は未だ提示されてない
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える
このことは白鳥庫吉以来縷々指摘されているが、有効な反論がない
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する
したがって測定は存在しない
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば
異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は
信頼できる基準ではないか
これに基づいた里程論で邪馬台国は
九州島内に求められる
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する
ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている
江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く
A:そのような整合性は認められない
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ
(この項続く (続き)
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている
つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した
これは信用ならない
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)と土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる
一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない
A:方形のものの大きさを「径」で表現することはないので、「径百余歩」と形容された卑弥呼の冢は方型ではありえない
よって平原一号墓、祇園山古墳などが除外される
しかし「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある
基壇部は水平方向から見ると隆起していない
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない
箸中山古墳の築造過程は
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
と推定できる
葬送儀礼の最も重要な局面で方丘が存在していない可能性があるといえる
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している
方丘築造が後出であるという判断は
箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと
箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で
前方部盛土に遮られる形で消失していること
椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で
前方部に盛土がないこと
等による ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県であり(設楽1989)、九州ではない
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか
A:7世紀或いはそれ以前の出来事について日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報に依拠するのは、学問的でない
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表しているに過ぎない
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること
・唐会要より錯誤発生の過程が時系列的に認識できること
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること
等を勘案すると、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い
卑弥呼の墓があるのは九州だ
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう
弥生絹があるのは九州のみ
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定されている(布目1999)
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している
弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2015)と一致する
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる
九州説にとって不利な条件と言える FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ
箸墓の築造と時間差があるだろう
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である
よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
(この項続く) (続き)
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、並びに初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定されている(次山2009)
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い
これが部分的利用に留まる所以である
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ
伊都国は隆盛のさなかである
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある
これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている
しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿並びに禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である
九州でいいではないか
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している
行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す ◆FAQ 41
Q:平原1号
九州には古くから三種の神器がある
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう
(この項続く) (続き)
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている
また王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている
これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である
弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばからとした(金2011)
これは陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない
確かな根拠などないだろう
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)→1BV型式(3世紀中葉)→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する(高久2009)
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)並びに庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている。
国産に決まっている
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑みるに、景初四年は実在したと考えざるを得ない
史料上で抹殺された年号は珍しくない
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元とともに慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なることとなった
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させるためには景初四年正月の実在が必須である
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、いくつかの記事にその痕跡をとどめている
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌ただしく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定するところの、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである
ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例がなく、中国本土との直接交渉の結果である可能性が認められる
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認されている(金原2011)SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している
これが魏晋鏡だろう
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい
2世紀の鏡である
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯もしくは圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)が共存する
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)などがある
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:もとより、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう
これを倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである
少なくともこの政治体制は、甕棺分布域の縮小や漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には最終的な崩壊を迎えたものと推定される(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げなiい ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する微高地上の遺跡とされている
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない
(この項続く) (続き)
広大な遺跡であるため、宮内庁を含めて地権者は膨大な数にのぼり、調査には種々の制約がある
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿る遺跡群として極めて重要視されている
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意* 書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし >>48
>倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げなiい
なぜ天理市はハブられているのか。 >>47
>A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい
平原が魏代でも晋代でもいいということじゃん。 伊都国に滞在したと書かれている魏からの使いは、どこで卑弥呼と会談したのか?
卑弥呼が九州まで出てきたのか?
伊都にいた使いが卑弥呼の王宮の様子を描写しているのだが、どういうことだ?
卑弥呼も九州にいたのではないか? >>42
>また王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い
>記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている(景行紀、仲哀紀)
倭国大乱の後もまだ伊都が倭国の王都だったということだね。 >>42
>平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する
伊勢と宮中で最高の権威の象徴として扱われているけど? >>39
>「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
纒向の倉庫には千人も詰め込めるのか?
現実を見ないで妄想するのはやめろよ。 >>38
>伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう
発展して移転したんだろ?
アホか。 伊都国には郡使は常に滞在すると書いてあるが、詔書を携えた特使が滞在したとは書いてない はあ?
郡使が特使としてやってきたんだぞ。
倭と魏の皇帝の間を取り持ったのは帯方郡だよ。 特使は王都を訪問して倭の女王と直接面会して詔書を読み上げないと
伊都国のようなところで女王とは確認できない者に渡すわけにはいかない
郡使は伊都国で一大率に会えば事足りる >>67
郡使の他に特使が来たなんて書いてないな。 >>67
>特使は王都を訪問して倭の女王と直接面会して詔書を読み上げないと
だから伊都が都なんだろ。 詔書を持ってきた梯儁や張政ら特使の他に郡使が書いてあるんだよ >>72
張政は帯方郡の武官だよ。
彼が詔書を卑弥呼に手渡した。
そして彼を含めて郡使は皆、伊都に駐在した。 >>72
畿内説は口から出まかせを言うんだな。
呆れた。 詔書は皇帝の言葉の代わりで使者の所属、階級は関係ない
玄関先の伊都国でやり取りして王都に迎えないというような失礼なことはない 六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する狂人のみが発症する、心の病。
その症状は、自らに批判的な書き込みを、すべて畿内説スレの>>1◆q8leUXpsw.によるものだと思い込む、というもの。
原因は、逆立ちしても>>1◆q8leUXpsw.に遠く及ばないという圧倒的な差を自覚した上での被害妄想、
あるいは自らを客観視できなくなった六拾弐病患者による、>>1◆q8leUXpsw.は自分をマークしているに違いないと思い込む、
自己に対する超絶な過大評価である。 キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度
>>1のトリに似せた英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうともする最低のクズである
自分に否定的なカキコはすべて畿内説スレの>>1によるものだと思い込む、「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しを多用すること、
2ちゃんでは一般的ではない「スレ主」の頻発、名前欄への書き込み多用、ageなどの特徴ですぐに判別できる
勝手に「本日のMVP」を決めるなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs ◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E
キウスの書き込みを褒めたり、「ワロタ」と応じたり、キウスに対して礼を言ったりする書き込みは、すべてキウス自身の自演である
「キウス扱いされた」などと他人を装う書き込みもするが、バレバレ
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求するが、自分はすぐに名無しに戻るダブスタ、トリスタ上等の卑怯者
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊
日本語の読み書きが満足にできないほか、日本史や日本の地理に関する基礎知識も持ち合わせていないため、
日本の義務教育を受けていないのではないかと推測されている ザラコク
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」からの呼称だが、2ちゃんではハンネを使用していない
全レスバカとも
自分の操作ミスを投稿制限と思い込み2ちゃん運営陣を非難したり、
.netと.scの区別がつかず、.scに書き込んだ内容が.netに無いのは運営に消されたからだと主張するような、「超」のつく非常識人物
九州王朝説を唱えた古田武彦の熱狂的支持者で、古田支持者の分裂を招いた、偽書『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張する狂信者
歴史学や考古学に対する知識は皆無で、「素人おじん」を自称しているが、
その「素人」が、古田説に否定的な専門家を平気でこき下ろすという、常人には理解不能な思考の持ち主
ネットリテラシーが皆無で、マナー違反を繰り返す傍若無人ぶりが周囲から嫌悪される原因のひとつであるが、本人に自覚は全くない
リテラシーも皆無で、実際には自分の主張に否定的な内容のものであっても、自身に都合良く脳内変換していることがしばしばある
「全レスバカ」の異称とおり、とにかく自分の信奉する説に否定的な書き込みにはレスを返したがり、その結果、投稿数が異常に多い
レスをつけるということへの執着により、別テーマのスレにレスを書き込むというもしばしば
しかし、つけるレスは、全文引用したあげく「自分が支持しないからこの書き込みは間違いだ!」という意味の文言か罵詈雑言しかない無内容のもの
これでも本人は、「自分の主張には必ず理由を明示している」と主張しているのであるから、どだいまともな議論は望むべくもない
以前はYahoo掲示板に常駐していたが、倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近2ちゃんに居付いてしまった
生きる傲慢であり、典型的「六拾弐病」患者 >>76
つまり伊都が女王の都、卑弥呼は九州にいた。 >>81
伊都国は倭国の玄関先
伊都国王は名すら記載されてない
検察のために特に伊都国に置かれた一大率を、諸国は畏憚している >東南陸行五百里、到伊都国、
>世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。
漢の時代には倭奴国に王がいた事を意識したのかもしれないが、
漢委奴国王印は伊都国に伝えられて来たとの伝承もあるので(細石神社)、倭奴国と伊都国は本質的に同じものだったかもしれない。
それなら、魏がすんなりと卑弥呼を倭奴国の後継と承認したのも理解できる。 一大卒は卑弥呼の直轄地の伊都から北部を監視するために置かれた。 【伊都国】
伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。
平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ない。
卑弥呼の王宮の下女は1000人とあり、伊都には王族の他に王宮を運営する舎人と采女、その家族だけがいたことになる。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都は明確に分離されていたと考えられる。 まだガセネタ細石神社なんか持ち出すバカがいるのか? 岡上の「根拠」は妄想ばかり
妄想の上にいくら妄想を積み上げたところで、真実にはならないのにな 岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張するウソつき
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読んだり、
伊都国を女王国であると主張したり、
八咫鏡の文様には八咫烏があると主張したり、
お笑いエピソードには事欠かない 卑弥呼が畿内にいたなら、伊都に駐在した郡史の張政からどうやって詔書を受け取るんだい? 高祖宮ではなくて式外社の高祖神社
1507年、高祖城主原田興種が現在地へ移した
日の出の方角とは関係ない 岡上が持ち出すのって、
大抵、現代になって邪馬台国論争が注目されるようになってから、
既知害が主張しはじめた与太話ばかりなんだよな
歴史学的には全く価値を持たない話だと認識できないあたりが狂人呼ばわりされるゆえんか どこで習ったの?
勉強をしたという意味だよ
邪馬台国や神道、宗教関係について教えたりする、
専門学校?
先生のような人物がいて、
その人物から教わったの?勉強をしたという意味 >>94
伊都国を、糸島平野の北西部としている。
旧所在地でも概ね違いはない。 卑弥呼が畿内にいたなら、伊都に駐在した郡史の張政からどうやって詔書を受け取るんだい?
畿内説の弱点だよね。 糸島平野の北西部はどの遺跡のことを言ってるのかな
三雲、井原鑓溝遺跡や細石神社から高祖神社の旧所在地の方角は
日の出の方角とは関係ない >>101
三雲、井原鑓溝遺跡、細石神社の位置知らないのか? どうでもいいけど
鉄器がないマキムーとかいう集落は
海外と交流していた邪馬台国とは無関係だからw Part250 まで来たな
未だ、南➡東とする明確な回答なし
日本海ルートがいいと思うが、畿内説では少数派 >>99
畿内は遠いから常駐の為に伊都があるだけだろ。
何処が弱点なんだ、むしろ必然だよw >>106
しかも「刺史」みたいなものであるわけだから
一大率とは地方官だ
伊都国は倭国の都から遠いところにいる出先機関の長ってこと >>104という奴は生まれつきの知恵遅れでないなら老人性で痴呆になって居るのだろう
自分が望んでいる回答を相手が言うまで
相手が何を答えようが
回答が無かった
と言うことになるのだ
さて冒頭の疑問だが
どちらだろうか
存外両方かも知れぬ 249の>>973
>そもそも奴隷を埋めて副葬品とかナイだろ <
奴婢は、婢であり、
奴隷とは少し違うね。 249の>>974
>祇園山なんてどうでもいい。 竪穴式石室に奴婢は埋葬しません。 いくら屁理屈捏ねてもそれは無理。<
殉葬してくれた奴婢の墓は、当然故人や遺族の希望が優先。
墳頂の主体(卑弥呼)の箱式石棺よりも小さければよく、
形態は希望に沿うもの。
>大きさもふさわしくないし論外。<
周髀算経の度量衡に従った限り、
始皇帝の「1歩=6尺」の否定をするのであり、
従って、「1歩≒1尺」の短歩での記載。 249の>>977
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説学者の、発掘報告書や研究機関の解釈や解説などは、
全く当てになりません。
だって、嘘つきダマシの・・・・アホなんだから。 249の>>980
知り得た史料事実や史料実態に、出来るだけ沿った解釈や推論をされた古田さんは、日本の宝。
都合の悪い史料事実を全部否定曲解して来た大和説学者は、口先でのダマシだけであり、
嘘つきの・・・・サギシらの宝。 >>106
詔書を渡すためには都まで行く必要があるんだよ。
伊都までで用が足りたなら、伊都が都だよ。
王がいて、周辺諸国が恐れ憚ったんだろ。
実効支配の様子やその機構の名前(一大卒)まで書いてある。 >>108
一大卒は伊都を支配するのではなく、伊都より北の国を支配するためのものだろ。 249の>>984
>報告書の関係結論部分引用
>祇園山古墳についていえば、「周辺にその先駆的墳墓が知られていない現時点では、
一辺23〜24m、高さ6mの本墳の堂々たる墳丘が当該地域における前代からの墓制変遷の到達点とは考え難く、
規模・構造において前代の墓制とは断絶があることは明らかである。
>「以上を要するに、祇園山古墳は、その外形に畿内型古墳としての性格を示すと同時に、
墳頂部内部主体の構造と全体として集団墓としての構成をとる点で前代の墓制を踏襲しており、
外来系と在地系の両要素を合わせもつといえる」
当初の調査にあたった久留米市教育委員会(その後、高良大社文化研究所長)の古賀寿氏は、
>同墳の墳丘が地山削出しの際、周囲の埋葬主体を上面カットしたと認められる
これらからすると
在地の集団墓地があったところに、外部から方墳の被葬者が統治に来たんだろうな <
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
をよく読みな。
報告書も久留米市の説明文も、いずれも、
「祇園山以前に在地の集団墓地があって、その後に祇園山が造られた」、
という事を完全に否定している。
だから、
「ほぼ同時の追葬(殉葬や陪葬)」であったのか?や、
3世代(半世紀)や5世代(100年)の間の追加埋葬であったのか?、
が問題になり、
まず62人以上の死亡者が出る事の困難さと、
墳裾の主体群の(墳頂の主に対する)配列状態や大きさの違いや、
重なりの無さなどによって、
「先に墳頂の埋葬が終わった後のほぼ同時代の追葬」であるんだろう、と結論された。 >>100
それらの王墓はむしろ郊外の落ち着いたところだったんじゃないかな。
伊都国と呼ばれたのは前原あたりや今の市役所のあたりと考えると、高祖宮は東南になる。
まあ、あくまでもおおよその角度なんだろう。
古代倭国はかなり方角がアバウトだったみたいだし。 249の>>986
>狭い地域で見過ぎだよ。
平原遺跡は祇園山古墳に先行する同系の墳墓として存在しているだろう。<
平原は、残念ながら、
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」
に、かなり合わない。 >>117
伊都にいる郡使と卑弥呼が会いにくいなあ。
高祖宮の方が近くていい。
東側に日向クシフル山もあり、神仙思想にぴったり。
孝霊厨も満足であろうw
平原遺跡からは丹と八咫の鏡、そして聖地を示す鳥居もあったらしいしね。 高良大社 福岡県久留米市の高良山にある神社。式内社(名神大社)
主祭神 高良玉垂命
八幡大神
住吉大神
高良玉垂命と言う人物は、八幡大神や住吉大神と同時期、4世紀後半あたりの人物であろう。
神功皇后の三韓征伐(実際には新羅)に関わったのかもしれない。
祇園山古墳はこの高良玉垂命の一族の代々墓なのであろう。
それが何で卑弥呼の墓になるんだ?
アホなのか? 高祖は鷹巣とかけているかもね。
鷹や鷲はあの辺りの部族のトーテムだったらしいから。
掛詞はいかにも日本的だ。 関東の鷲宮は出雲系列らしいが、熊鰐など九州にも鷲の痕跡があるので、調べると面白そう。
畿内の鴨も同じようなものだろう。 >>124
>関東の鷲宮は出雲系列らしいが、熊鰐など九州にも鷲の痕跡があるので、調べると面白そう。
畿内の鴨も同じようなものだろう。
だから、阿波の天日鷲命なんですよ。 @阿波 崇神が4世紀初頭から前半に決まりつつある。
ならば2世紀前半から3世紀後半まで続いたヒミコを生んだ王族は、
今の天皇家の前王朝という事になる。
だれか分るじゃないか。
日本人はその王朝をちゃんと伝承してきたし、
今も神々となった彼らを信仰している。
ヒミコとは「えべっさん(事代主)の娘さん」だ。
そういうわけで今日も見ていただきましょう。
これがヒミコやその王族=神々のお墓です。
ここに参拝することは彼ら王族に呼びかけることになるのです。
場所は日本の歴史上、もっとも気高い土地、高天原(御所市高天)です。
https://goo.gl/tB2kwi 高良なんだから元は孝霊と考えますよ、孝霊厨ですからね。
三世紀以前東方面から来た人物と考えてます。
平原と同じ事ですね。 >>122
後から来た支配者が祭神を変えてしまう。
また、明治の頃にも多くの神社で祭神の変更をしている。
高良がいつから聖地であったかはわからない。
それよりも、同じ方形周溝墓の平原遺跡は2世紀、祇園山は4世紀と言い張るのは、単に卑弥呼のいた3世紀を避けたいだけなのでは? >>126
>場所は日本の歴史上、もっとも気高い土地、高天原(御所市高天)です。
高天原は船で行き来できるところ。
アマは天ではなく、海原のこと。 >>127
人と文化の流れは西から東、年貢などの収穫物は東から西。
畿内から来た田舎者が九州で勢力など持てない。 249の>>988
>そもそも祇園山が何世紀の古墳なのかも明記されていないのか。
平原遺跡が2世紀なら、祇園山は3世紀頃になるから、卑弥呼の墓の可能性があるぞ。<
通説側の古賀氏も久留米市も、大体300年頃(3〜4世紀)という説明であり、
宝賀氏は、卑弥呼の墓説で250年頃と推定しておられるが、
私は、「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」に唯一適う墓である事や、
庄内や三角縁神獣鏡や古式陶器の存在や甕棺の末期に適合する事や、
それまでの筑紫の墓群とは隔絶した「高冢的」古墳であり、285年以後になる前方後円墳の那珂八幡の前になる事から、
250年頃でよい、と考えている。 まずヒミコがだれなのか考えろ。
それからだ。
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
(4世紀初〜前)崇神
最初に気付いたのは俺ではない。
本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世らだ。
ところが発表できない。日本の歴史が中華皇帝への土下座から始まることになりショックが大きい。
彼らは記紀編纂者の心情を汲み取り、その意図を理解し、自分たちもそれに同調する。
そして卑弥呼は神功皇后、朝貢してたのは熊襲であるという訳の分からない説でごまかした。
今の日本人は中国人に劣等感など微塵もない。むしろ小馬鹿にしている。
明治人が日清戦争に勝ってくれたからだ。
本居の時代はそうではない。
当時は封印する以外なかったのだ。 >>129
>高天原は船で行き来できるところ。
アホ。 >>131
>「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」
大いに祭り事をした意味なら、平原遺跡で良い。
一歩が25センチくらいなら、平原遺跡で良い。
平原遺跡には殉葬の痕跡があり、遺跡保存のために全てを掘ってはいないらしいが、周溝墓に100名前後が埋められていた可能性があるとのこと。
条件を満たすのは平原遺跡と祇園山なのだ。
そしておそらく平原遺跡の方が古く、しかし平原遺跡も倭国大乱よりは後であり、しかも豪華な女王墓だ。
平原遺跡が卑弥呼、祇園山が壹與だろう。 そもそも、筑後川を挟んで狗奴国と戦っていたならば、祇園山や高良山は前線に近すぎる。
狗奴国と合併した後の肥国女王の壹與であれば、高良祇園山でも問題ないだろう。 伊都高祖宮が卑弥呼の宮、平原遺跡が卑弥呼の墓
筑後高良宮が壹與の墓、祇園山が壹與の墓 間違えた。
伊都高祖宮が卑弥呼の宮、平原遺跡が卑弥呼の墓
筑後高良宮が壹與の宮、祇園山が壹與の墓
外交の場でもある倭国の都は3世紀においては伊都 面白いですね。
平原→祇園山 説
平原の天照神と高良大社の高木神で、記紀と妙に符合するところが
無味乾燥で文献無視のどこかの説とは違って、非常に魅力的です。 >>139 : 岡上 ◆JN/67qb8kM
>面白いですね。
平原→祇園山 説
滑稽ですね。 @阿波 >平原の天照神と高良大社の高木神
はいはいパチモンw
本物の高天原にはタカミムスビを祀った神社、
シタテルヒメを祀った神社があります。
天照神がいないじゃないかって?
当たり前、そんな神様は後から創られました。
高天原にいたシタテルヒメ(高姫)を原像に創られました。 よりによって平原や祇園山しか候補を出せない福岡w
日本の中でもっとも邪馬台国に遠い地域w
歌が下手なくせに上手いと自惚れてる演歌歌手のようだw
さすがは半チョンのカッペ。w >>144
論文発表したときの動画を貼り付けてください >>109
>畿内は遠いから常駐の為に伊都があるだけだろ。
何処が弱点なんだ、むしろ必然だよw <
大和は、
「南≠東」だし、
「筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」であるから、
×だよ。 >>149
魏志倭人伝があってこそ邪馬台国論争があるわけである
おまけとしてトンデモ畿内説などが出てきて大騒ぎ >>122
>高良大社 福岡県久留米市の高良山にある神社。式内社(名神大社)
主祭神 高良玉垂命 八幡大神 住吉大神
高良玉垂命と言う人物は、八幡大神や住吉大神と同時期、4世紀後半あたりの人物であろう。
神功皇后の三韓征伐(実際には新羅)に関わったのかもしれない。
祇園山古墳はこの高良玉垂命の一族の代々墓なのであろう。
それが何で卑弥呼の墓になるんだ? アホなのか?<
何だ?、全然分かっちゃいないんだなあ?。
高良玉垂命は、七支刀の倭王旨の369年頃の、高良大社の初代の人。
祇園山に葬られた卑弥呼は、248年頃の姫氏であり、
年代が全く違うし、卑弥呼が高良玉垂命の祖であって、その間少し断絶かあった可能性が高い。
そして、卑弥呼の後の壹與(與止姫)は、肥前に都して平原に埋葬され、
その後しばらく伊都国系の天孫族の阿毎氏系が倭王になり、
317年頃に姫氏に変わって、久留米の「こうやの宮」付近に遷宮していたんだよ。 平原遺跡の方が古いから、平原遺跡が卑弥呼じゃないかね? >>146
そんなのないよ。
WEB上での発表だから。
東京に住んでる人は三田?のなんとか会館で発表してるみたいだけど。 >>152
>高良玉垂命は、七支刀の倭王旨の369年頃の、高良大社の初代の人。
だから神功皇后時代と言ったのがその通りではないか。
>祇園山に葬られた卑弥呼は、248年頃の姫氏であり、
年代が全く違うし、卑弥呼が高良玉垂命の祖であって、その間少し断絶かあった可能性が高い。
おまえが言ってた刀良という小汚いおばはんと高良玉垂命は同族なのか?
松野連系図に明記されてるのか? 松野連系図に高良玉垂命など載っていない。
嘘をつくな。
人に対する言われなき差別は人間として最低だ。
また国籍で人を差別してはいけない、韓国人以外は。
しかし謂れある侮蔑は別。
たとえば平気で嘘をいう男、ザラコク。
おまえは真正の穢多だ。
おいエタじじい。
梅雨明け宣言と同時にこの世を去れ。
わかったな、これは男と男の約束だぞ。 >>118
考古無知のお前が読んでるのは元大蔵官僚で考古は趣味の素人が書いた部分だろ >>156
畿内厨は自殺の教唆までするのか。
2ちゃんと言えどやり過ぎだろ。jk >>156
お前は何のためにここにいるんだ?
議論をしないなら去れよ。 >>157
趣味の素人が書いたなら歴史の捏造、隠蔽が仕事の考古学者より信用できるだろ >>160
北部九州倭国は親新羅だからな、畿内ヤマトは親百済である >>161
信用できるか否かの判断の根拠はレッドクリフか?w >>162
筑紫倭国は白村江で百済と組んでいるよ。
むしろ百済の兄弟国みたいなもの。 >>164
乙巳の変で筑紫倭国は畿内ヤマトの支配下になったので百済援軍は畿内ヤマト
の命令なのである、古田説は大きな勘違いをしている >>161
でも素人のお前らって捏造だいすきだろ? 肥人は百済の地方の全羅南道と文化が同じだから親百済だろ
加古川の上流でブタ飼ったのは肥人朝戸君、胸広使主朝戸は百済人だしな >>163
レッドクリフは最高や〜畿内ヤマトは孫呉の復興であった
歴史学者や考古学者が何ゆえに歴史を捏造、隠蔽するのかを探るのが
楽しいのである。
基本は万世一系男系継承の正当化である、それと日本は太古の昔から単一
民族というナショナリズムの洗脳な >>168
北部九州倭国は親新羅であり熊本、宮崎、鹿児島などの南九州は親百済である 北部九州倭国は親新羅ニホンであり南部九州は親百済ニッポンなのである >>171
日本は多民族国家であり、王朝はいくつもあった、ヤマト王朝の万世一系男系継承
は捏造である >>170
北部九州が親新羅で南九州が親百済というのは
歴史学者や考古学者が研究した情報なんだろ? 津軽王朝、富士王朝、飛騨王朝、出雲王朝、葛城王朝、ヤマト王朝
筑紫倭国王朝、琉球王朝などいっぱいあるな >>174
古田説では筑紫倭国は親新羅で反百済、畿内ヤマトはまったく関与していない
という立場である、この点については歴史学者や考古学者は同調している
北部九州が親新羅で南九州が親百済とかいってるのは俺以外にいないと思うけどな >>177
の古田説では筑紫倭国は親新羅で反百済はあべこべで筑紫倭国は親百済で反新羅だった >>177
その俺は何の情報からそう考えたのかを言ってるんだよw 古田説の筑紫倭国は親百済で反新羅というのはあべこべで白村江で負けた
のは畿内ヤマトであり、白村江のあと畿内ヤマトはちゃっかり筑紫倭国
を併合したというのは大きな誤りである(くれぐれもザラコクは絡むでない >>177
古田説に同調してる歴史学者や考古学者がいるわけないじゃん 俺だけが考えた、俺だけが気づいた、
そのように思ってる老人はたくさんいる >>178
出雲と新羅は一心同体なのである、国引き神話知ってるだろ、新羅の王
は倭人であった。
筑紫倭国と出雲は倭国大乱のあと卑弥呼を共立して和解した。
つまり筑紫倭国は親新羅であり筑紫の君磐井は親新羅であった
だから百済の継体が攻めたのだ 古田説では継体天皇は南九州の出身といってなかったか、ピンクの石棺は
南部九州の親百済から運んだ >>183
わかった、自費出版で本出せ、そして自分で買え
それが一番の早道だ まあ、いまどき九州説だなんて
アタマのネジが数本トんだボケ老人か
それをカモに小銭稼ごうとしてる詐欺師だわな
w
w
w >>174
だいたい、九州の南北で違うなど、妄想だろ。 >>189
筑紫倭国、新羅、源氏、北朝、一方南部九州、百済、平氏、南朝
平家の落人の言い伝えや百済王の言い伝えは全部南九州である
まえに佐賀の武雄神社いったとき、武内宿禰、神功皇后が祭神で由緒
になぜか、源氏、鎌倉幕府との深い関係とか、光源氏は筑紫倭国だよな 北部九州の邪馬台国と南部九州の狗奴国とは対立していた
日の丸の白は邪馬台国の白で赤は狗奴国の赤なのである(ふむふむ 平家の落人伝説は糸島の唐原とか筑豊の添田とか北部九州もあるぞ
佐賀は頼朝に仕えた武蔵の武藤氏(少弐氏)が入ったからだろ 南と北で単純に分けることはできない。
せめて旧国名で言いなよ。
佐賀は卑弥呼、壹與などの肥国側だったが、100年後に筑紫の神功皇后が攻め取ったのでそのようになっている。
どちらも筑紫倭国の王家だが、支配した年代が違う。
神功皇后は先祖の関係で新羅系とみられることが多いが、それは何世代も離れている。
むしろ、神功皇后と同時期に成立した武内宿禰の高良玉垂王朝や応神王朝は百済との親睦が強く、七支刀などをもらっている。
倭の五王もこの王朝と言われている。 清盛はわざわざ宗像大社を勘定して宮島の厳島神社を立てたし、平家が最後に逃げ込もうとしたのも関門海峡だから、まさにかつての神功皇后の領土だな。
それに対して、源氏の氏神は宇佐の八幡大神、つまり神功皇后の息子の応神天皇。
どちらも筑紫倭国の末裔として支配権を争ったのだよ。 >>192
糸島にあるのか知らんかった、筑豊は倭国の兄弟国かな
北部九州は基本は新羅源氏だろ、例外はあるかもしれん 日の丸は筑前福岡の旗印。
もともとは福岡=倭国だったから。
イザナギの能古島創生から国生みが始まる。 新羅なんぞ
まだ前身の小国しか無かったころの話に
こいつら、なんで
こんな時代錯誤なの?
w >>195
北部九州の海岸部と内陸部で分かれるんだよ。
沿岸部の筑紫(筑前)と豊国が神功皇后側、筑豊から筑後、肥国が卑弥呼、壹與、神夏磯姫の本来の領土(筑前も支配した)。
南九州は源氏も平家も眼中にない。 >>193
応神東征でヤマト王朝から政権を奪った、纏向の突然の消滅の原因である
当然百済も支配下になったから百済との親睦が強くなったのは当然だろう >>202
新羅と親しかった痕跡がない。
そして白村江では倭国は百済についている。 南九州はお呼びじゃないんだよ。
歴史に名前が残っていないから、宮崎投馬国の勢力は某系として消えたんだよ。 >>198
有意義なレスの連続であった、良く噛み締めるがいい 九州説に必要なもの
何も知らない清らかな頭
何も理由を言わずに言い張れる度胸
バレても気にせず平気でウソをつける勇気
這ってる黒豆を食べられる信念
>>204
白村江のとき筑紫倭国は畿内ヤマトの支配下にあったから百済につくのは
当然である
白村江のあと唐は反ヤマトの大海人を立てヤマトを攻めたのである(壬申の乱である 「卑弥呼は伊都国にいた!」説になれる必須条件
柳田が平原1号墳を三世紀だと言ったとか
出典のページ数を書いてまで
アホなデマを流せる
詐欺師の才能
w >>209
白村江で負ける前は筑紫倭国の全盛期であり、畿内の支配下などにない。
そもそも天智側が唐の傀儡であろう。
しかし天武も親唐であり、壬申の乱は唐から見ればどうでもいい内輪揉め。 >>211
詐欺師っていうのはウソがばれたときの逃げ方も考えてある奴のこと
考えてないのはタダの虚言癖病人
。 乙巳の変で隋の中臣鎌足とヤマトの中大兄皇子が共謀し筑紫倭国の王蘇我氏
を討ち、筑紫倭国をヤマトが支配下に置いた、歴史学者がどうしても隠したい
歴史の真実である デマというか柳田の平原が3世紀初頭というのは98ー99年の調査以前の説だよな
なんで2002年出版の本に載せてるのかわからんけど >>214
乙巳の変は白村江の後になったんじゃなかったのか。
ややこしい奴だ。
それに、ヤマトはそもそも倭国のことだ。
後に畿内日本国が国号も奪ったのだ。
古事記で倭とある部分が、日本書紀では日本に変更されているが、古事記によると倭の訓読みがヤマトとある。
そもそもはヤマトも邪馬台も、筑紫における呼称だ。 >>214
「乙巳の変」を「筑紫」と「大和」で語る神経がwww @阿波 >>219
乙巳の変645年、白村江の戦い663年だったと思う >>222
乙巳の変はヤマトによる筑紫倭国の王蘇我氏の暗殺であった
泡厨は罰としてドルイドと忌部氏との関係について述べよ >>218
2000年と2016年に二世紀末とかいてるのに
2002年に三世紀で確定とか書いてるというのが
怪しすぎ 【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内大和政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。 邪馬台国と関係ない話に誘導しようとしてるsuboは無視
一同徹底ね 天智天皇の即位と、唐による筑紫都督府の設置が同じ年なのが肝だな。
天智政権が傀儡であった証拠だよ。 >>218
2002年の本は調査結果を踏まえてるよ >>227
二世紀末でも共立後であることはかわらん 邪馬台国の話されんのが怖いんだろ
トンデモ説が潰れそうだから
九州説の断末魔だよ、 卑弥呼の時代はもとより、7世紀まで筑紫倭国が列島の盟主では、畿内など出る幕がない。
畿内から斉明天皇も福岡県朝倉まで出かけてきてしまうしね。 >>234
根拠も言えないトンデモ説相手に
畿内説が不利になる
可能性
ゼロ
w >>235
だよね。
年代比定の誤差を考えたら、平原遺跡が卑弥呼の墓だよ。 >>229
筑紫を占領したのは畿内ヤマトが筑紫倭国を占領してたからである
ヤマトは筑紫倭国から撤退し近江大津へと逃げこみ、百済の難民も
ヤマトと一緒に近江へ大量に移住した
天武政権は唐、新羅、筑紫倭国の連合政権であった、歴史家が絶対に認めたくない
歴史の真実である(孝霊厨も知っている 柳田の本を捏造したのがバレそうで
話題そらしかな? >>235
共立に九州が入ってたかどうか
わからんよ >>231
ヤマトの天智が勝手に即位したのであり唐が認めるわけない
故に唐から暗殺されたのである >>241
近江は淡海で、有明海のこと。
すべては九州北部の出来事だよ。 >>244
即位には宗主国となった唐の承認が必要になる。
日本書紀そのものが、唐に提出するために漢文で書かれていることを忘れてはいけない。 >>244
逆に考えるんだ。
唐が認めないのに即位できるわけがない。 九州弥生文化の研究学生社(2002/03発売)
目次
序論 伊都国研究序説
第1部 北九州の対外交渉と年代(伊都国の対外交渉のはじまり;二世紀の北部九州)
第2部 土器と鏡と青銅器(三・四世紀の土器と鏡;青銅製鋤先;青銅器の創作と終焉)
第3部 弥生後期土器と土師器(弥生後期土器編年;九州土師器の編年)
「三・四世紀の土器と鏡」という柳田の論文はまだ西新式土器直前の土器片が周溝から出る前だからな >>246
しかし日本書紀などでも、白村江の時点で畿内は空っぽになっているんだよ。 >>245
古田先生は歴史的な対立軸におおきな誤りがあることに気がついた
けど訂正することができなかった >>253
お前は古田信徒だったのか。
不出来な信徒だがな。 >>252
乙巳の変のあとヤマトは畿内から支配下に置いた筑紫に拠点を構えたのである これだよ
前スレ0693 日本@名無史さん 2017/07/13 20:24:48
柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」
(平原王墓p22)
「近年、韓国・・・から同類の瑪瑙管玉が多量に出土しており、時期については明記されていないが
共伴している土器や鉄器が三世紀前半から四世紀と考えられているものであり、多少前後するとし
ても韓国と日本で限定された時期に見られ、二世紀の古いものではない。
大型鏡の・・・銘帯の退化や主文の簡略化があり、中型鏡の・・・主文配置のずれ、L字文の逆方
向、銘文のずれ、鈕の大型化などがあり、その制作年代が三世紀になることが確実になった。」
なんか、変だ変だと思ってたんだけど
どこにも主語が書いてないんだよ
な?
へんだろ? そうか?
原文は知らんが、わかりやすいよ。
平原遺跡は3世紀と明言している。
少なくともこのスレのテンプレよりはずっと読みやすい。 >>261
わかりやすい?
どこで平原遺跡は3世紀と明言してる?
??? 2002出版の本に82の論文内容を掲載してるってことだな >>260
「・・・」で伏せ字になってるとこに
青龍三年鏡は〜とか書いてあったりして
そんな気がしてきた 神武が武力で大和を平定し大王になったなら、
日向に残してきた妻アヒラツヒメと幼いキスミミ君を呼び寄せればいい。
私ならそうする。
そしてアヒラツヒメを女性の最高の地位(7世紀以降で言えば皇后)につける。
そして中国に習い後宮に美女3千人を配置する。
美女かどうか微妙な人まで含めてもいい。
そしてローションまみれの女体プールで溺れるという中学3年生の時に見た夢を実現する。
ところが神武はこんなことを全くやっていない。
【答え】
大王ではなかったからw
神武とは大和の女王への入り婿さんw だれか本文持ってる奴
正解発表ブリーズ
楽しみやな 柳田康雄「弥生時代王権論2013」
(p317)
「拙稿のように32面の方格規矩四神鏡を含めて38面の製造技術が164年『延喜七年』銘獣首鏡以後、
235年(「青龍三年)銘方格規矩四神鏡)以前に見られる鋳造・研磨技術である」 >>260
「大型鏡の(一貴山銚子塚古墳鏡は、)銘帯の退化や主文の簡略化があり、
中型鏡の(椿井大塚山古墳鏡や「青龍三年」銘鏡に)主文配置のずれ、」
だね >>271
【答え】
神武は男色だった(ニッポンにおける男色のはじまりである >>281
その制作年代が、が主語だろ?
その、がなんだかよくわからんが、平原遺跡の鏡のことだろう。
それが3世紀に制作されたと。 >>281
そこは、平原遺跡の鏡が3世紀に制作された根拠だろう。 >>282
おまえなあ、本当に記紀を読んだか?
ヒメタタライスケヨリ姫の話とか知らんのか? >>281
意図的に都合の悪い部分を伏せ字にして
読者が平原のことと誤解するように工作してるね
これは悪質だな >>284-285
あんたが詐欺師の糸厨か
汚なすぎる
氏ねや >>288
ザケンナよ。
引用された部分だけ読んだらそう読めるだろ。
引用したやつに言えよ。 >>275 が柳田の結論だろ
2000とか2002とか古いのはいいよ 前スレ>>715の
「鋳造技術・研磨技術から方格規矩四神鏡の三二面も二世紀後半の「イト国」製の仿製鏡としている(柳田2000・2002)。
平原巫女女王墓の時期は銅鏡の鋳造技術・研磨技術・使用痕跡から二世紀末と考えており、共伴した土器・鉄器・玉類等もそれを裏付けている。」
柳田康雄「弥生王権論」2016
が柳田の結論だろ >32面の方格規矩四神鏡を含めて38面の製造技術が164年『延喜七年』銘獣首鏡以後、
>235年(「青龍三年)銘方格規矩四神鏡)以前に見られる鋳造・研磨技術である
一度廃墟と化した洛陽が復興して方格規矩四神鏡の製造も再開された。
235年以前に作成された方格規矩四神鏡100枚が239年に卑弥呼へと贈られて
そのうち32枚が平原遺跡1号墓に副葬されていたという学術論文ですな。 とにかく溝に紛れ込んだ土器のかけらよりは、
164〜235年の技術の銅鏡が出てる方が重要だわ >>297
倭国大乱後の女王墓でFA
邪馬台国論争
おわり
NHK すげえな
長文だから中略にしたのかと思ってたら
平原の鏡のことじゃないとバレちゃう部分だけ
伏字にしてたのか
詐欺師そのものだろ 引用詐欺までして2chで言い張ってもなんにもならんのにな >>299
平原と関係ない長い固有名詞だから省略してるだけだろ
内容としては、
>>297が証明されているわけだ。
詐欺とか騒いでいるお前さんの理解力が低いだけ。 >>260
>大型鏡の・・・銘帯の退化や主文の簡略化があり、中型鏡の・・・主文配置のずれ、L字文の逆方
>向、銘文のずれ、鈕の大型化などがあり、その制作年代が三世紀になることが確実になった。」
原文は
>大型鏡の『一貴山銚子塚古墳鏡は、』銘帯の退化や主文の簡略化があり、中型鏡の『椿井大塚山古墳鏡や「青龍三年」銘鏡に』主文配置のずれ、L字文の逆方
>向、銘文のずれ、鈕の大型化などがあり、その制作年代が三世紀になることが確実になった。」
主語を伏せ字にして、あたかも平原の鏡のことを言ってるように改竄したわけだ
こりゃ詐欺だわ >>290
読めないな
書いてないことなんて読めないよ 卑弥呼の治世は2世紀後半から始まるのだから
当然2世紀後半の鏡も副葬されるだろうな。
>>275のように方格規矩四神鏡が2世紀後半〜3世紀前半と断定されると、
集大成の超大型内行花文鏡などは3世紀のものとしか考えられんわけだが。 >>155
>>高良玉垂命は、七支刀の倭王旨の369年頃の、高良大社の初代の人。<
>だから神功皇后時代と言ったのがその通りではないか。<
年代が逆だから、(この投稿子=ssnのいうような)卑弥呼が高良玉垂命の子孫にはならないんですよね。
>祇園山に葬られた卑弥呼は、248年頃の姫氏であり、
年代が全く逆だし、卑弥呼が高良玉垂命の祖であって、その間少し断絶かあった可能性が高い。<
>おまえが言ってた刀良という小汚いおばはんと高良玉垂命は同族なのか?<
久留米付近にいた倭の五王頃までが「東海姫氏國」であるから、
高良大社の神職家の高良玉垂命も、姫氏自身か?、姫氏の縁者だろうなあ。
>松野連系図に明記されてるのか?<
倭王讃の2代前に「垂子(安志垂)」という名前があり、玉垂命(女性)と大体同じ頃であり、おそらく玉垂命の事だろう、と思える。 どっちにしても、後漢の滅亡や倭国大乱の後の魏や卑弥呼の時代の鏡なわけだ。 >>187
まあ、いまどき大和説だなんて、
アタマのネジが数本トんだボケ老人か?、
それをカモに小銭稼ごうとしてる「南→東」の嘘つきダマシの通説大和説学者か?、
詐欺師だわな。
w
w
w >>314
必死で頑張ってるけど、なにが詐欺師なの???
方格規矩四神鏡が3世紀にも作られていたことが確実になったわけでしょ?
青龍三年は当たり前だけど、
一貴山銚子塚のは金メッキまでされて進化しているわけだ。
ってことは、
平原の方格規矩四神鏡も3世紀に作られたものである可能性が出てきたわけだね。 >>317
わざわざ伏せ字までして、捏造そのものでは? >>310
>>275のように方格規矩四神鏡が2世紀後半〜3世紀前半と断定されると、
まだ詐欺するの?
原文は一貴山銚子塚古墳鏡・は、椿井大塚山古墳鏡・「青龍三年」銘鏡に』の制作年代が三世紀になることが確実と言っている
捏造するな >>200
「南→東」などの嘘つきダマシのサギシ、それが大和説学者。 昨日段階で
942 : 日本@名無史さん2017/07/14(金) 12:26:44.04 >>944
693の「九州弥生文化の研究2002」からの抜き出しが何かおかしいな
偽書説派の会とはなんだ?
944 : 日本@名無史さん2017/07/14(金) 12:42:56.63
942
うん
なんか、おかしい
と疑問が出てたのに
950 : 日本@名無史さん2017/07/14(金) 13:19:17.51
942、944
それはおまえの心が汚れてるからだよ
とか誤魔化してたな
やっぱり詐欺だったか >>319
あたまだいじょうぶ?
>>275に、方格規矩四神鏡が2世紀後半〜3世紀前半と書いてあるのだが? >>201
「南→東」などの、都合の悪し史料事実の否定曲解、
それが大和説学者だ。 >>319
君が力説する通り、
方格規矩四神鏡が3世紀にも作られていたことが明らかになったんだね。
ってことは、平原遺跡の方格規矩四神鏡32面こそが
2世紀後半から3世紀にかけて作られて卑弥呼に贈られた100枚の銅鏡の一部じゃないのかな。 >>322
お前こそ頭おかしいだろ
>>>275の一体どこに、方格規矩四神鏡が2世紀後半〜3世紀前半と書いてあるのだ? >>208
大和説学者に必要なもの。
何も知らない・・・・アホの頭。
理由を言わずに、都合の悪い「史料事実」の否定抹殺を言い張れる度胸 。
バレても気にせず平気でウソをつける勇気。
這ってる黒豆を食べられる信念。 確定事項
柳田が三世紀説をとったというのは
全くのデマ
>>325
お前の負けだな。
平原の方格規矩四神鏡32面の製造技術が2世紀後半〜3世紀前半
青龍三年鏡など方格規矩四神鏡が3世紀にも作られていたことが確定
方格規矩四神鏡<内行花文鏡<超大型内行花文鏡
と発展していくのだから、
平原遺跡1号墓は卑弥呼時代にピッタリ。
以上が平成29年7月15日にこのスレで得られた結論であった。 >>286
プラトニック・ラブという言葉をご存知でしょうか、もはや死語になりかけてますが
本来は男女間の精神的な愛のことではありません
古代ギリシャにおいてプラトンとソクラテスはイデア論において肉体的な少年愛
より精神的な少年愛が崇高であると熱く語り合いました
この精神的な少年愛はプラトン愛、つまりプラトニック・ラブなのです >>211
>「南→東」の嘘つきダマシの大和説になれる必須条件。
洛陽晋墓出土鏡と同じような鏡が筑紫に幾つも出ているのに、
平原は2世紀だ、と言ったり、
祇園山の62個の追葬は、一家族では50年や100年では起こりようがない事を、
起こり得ると主張する 詐欺師の才能。
w 方格規矩四神鏡は青龍三年という記年銘鏡があるのがでかいな
国産の△はこれをマネたんだろうな >>260
>近年、韓国・・・から同類の瑪瑙管玉が多量に出土しており、時期については明記されていないが
>共伴している土器や鉄器が三世紀前半から四世紀と考えられているものであり、多少前後するとし
>ても韓国と日本で限定された時期に見られ、二世紀の古いものではない。
なるほど平生る遺跡は三世紀前半から四世紀なのだな。 >>213
「南→東」などの嘘つきダマシの詐欺師っていうのは、
ウソがばれたときの逃げ方も考えてある大和説学者の奴のこと。
考えてないのはタダの虚言癖の・・・・病人 。 >>342
「二世紀の古いもの」でないって二世紀の古い段階ではないって意味だろ
歪曲するなよ職業詐欺師 >>344
これは驚いた。
歪曲してるのはそちらだな。
>近年、韓国・・・から同類の瑪瑙管玉が多量に出土しており、時期については明記されていないが
>共伴している土器や鉄器が三世紀前半から四世紀と考えられているものであり、多少前後するとし
>ても韓国と日本で限定された時期に見られ、二世紀の古いものではない。
共伴している土器や鉄器が三世紀前半から四世紀なのだから、
三世紀前半から四世紀なのだろう。 東遷説という言葉自体が畿内説断末魔の詐欺だけどな
神武東征であって、東遷などしていない >>349
詐欺師さん詐欺師さん
伏字になってる「・・・」の遺跡名は何?
ねえ教えてよ詐欺師さん >>351
欺瞞のためには東遷説の名も捨てる腐った東遷説 >>351
そこまでウソつくのか東遷説は
病気だな 3世紀平原遺跡
2世紀までの数々の王墓群
鉄器ゼロ遺跡
中国出土ゼロ銅鏡
オーバーキルにもほどがあるwww
ダメージ9999で表示されねーwww >>215
大和説者、という人種は、
「南→東」の嘘つきダマシや、
「大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」という史料実態を、
理由も言わずに無視する勇気。 平原遺跡1号墓は台与で祇園山古墳は卑弥呼か
伊都国の東遷を正当化するために平原遺跡1号墓を2世紀末に年代捏造したんだな(なるほど >>217
>邪馬台国に関係ない話はやめたい <
「邪馬台国」なんて存在もしない国の話はやめたい。 >>218
>デマというか柳田の平原が3世紀初頭というのは98ー99年の調査以前の説だよな
なんで2002年出版の本に載せてるのかわからんけど<
ふーん?、そんな関係であったんでしたか。 >>362
それ、ざらこくの投稿だぞ」」
ピンボケだな
w >>236
邪馬壹國の話されるのが怖いんだろ?。
トンデモ説が潰れそうだから。
大和説の断末魔だよ。 >>369
都合が悪くなるとクサして逃げる盗銭詐欺 やれやれwww トンデモ同志 まだやるの? @阿波 しかし糸クズは
調べられたら一発でバレるような
低レベル詐欺を
どうして平気でするんだろう
?? >>239
「南→東」などの嘘つきダマシの根拠も言えないトンデモ大和説相手に、
九州説が不利になる
可能性
ゼロ
w >>243
共立に大和が入ってたかどうかは、
全くわからんよ。
何せ、倭奴國から落ちて行った武装流民の国だからなあ。 >>246
>>卑弥呼の時代はもとより、7世紀まで筑紫倭国が列島の盟主では、畿内など出る幕がない。
畿内から斉明天皇も福岡県朝倉まで出かけてきてしまうしね。<
>それ、学問的には論外のトンデモ説だろ<
史料事実や史料実態だよ。
だから、「南→東」などのように、
史料事実や史料実態を否定して来た大和説の方が、学問的には論外のトンデモ説だろ?。 >>248
たぶん大和厨は、何でも詐欺をした。
その疑いが濃厚だ。 >>253
古田さんは、史料事実や史料実態を、ほぼ「その通り」に受けた解釈をされたから、
歴史的な対立軸にも、おおきな誤りは起きなかった。
そして、訂正する必要もなかった 。 >>259
「南→東」などの嘘つきダマシのアンチの大和説者には、
荒らしと詐欺師しかおらんのか?。 >>260
>これだよ
前スレ0693 日本@名無史さん 2017/07/13 20:24:48
柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」 (平原王墓p22)
「近年、韓国・・・から同類の瑪瑙管玉が多量に出土しており、時期については明記されていないが
共伴している土器や鉄器が三世紀前半から四世紀と考えられているものであり、多少前後するとし
ても韓国と日本で限定された時期に見られ、二世紀の古いものではない。
大型鏡の・・・銘帯の退化や主文の簡略化があり、中型鏡の・・・主文配置のずれ、L字文の逆方
向、銘文のずれ、鈕の大型化などがあり、その制作年代が三世紀になることが確実になった。」
なんか、変だ変だと思ってたんだけど どこにも主語が書いてないんだよ
な? へんだろ?<
賛成。 >>275
>柳田康雄「弥生時代王権論2013」 (p317)
「拙稿のように32面の方格規矩四神鏡を含めて38面の製造技術が164年『延喜七年』銘獣首鏡以後、
235年(「青龍三年)銘方格規矩四神鏡)以前に見られる鋳造・研磨技術である」<
ふーん?、
平原のホウ製鏡は、渡来して来た呉系の楽浪鏡師らの関与があった可能性がある?、
て事か?。 >>281
>「大型鏡の(一貴山銚子塚古墳鏡は、)銘帯の退化や主文の簡略化があり、
中型鏡の(椿井大塚山古墳鏡や「青龍三年」銘鏡に)主文配置のずれ、」 だね<
ふーん?、どちらもホウ製鏡のようだが、
銚子塚古墳鏡は楽浪鏡師の関与があった可能性がある、
という事かな?。 >>293
>「鋳造技術・研磨技術から方格規矩四神鏡の三二面も二世紀後半の「イト国」製の仿製鏡としている(柳田2000・2002)。
平原巫女女王墓の時期は銅鏡の鋳造技術・研磨技術・使用痕跡から二世紀末と考えており、共伴した土器・鉄器・玉類等もそれを裏付けている。」
柳田康雄「弥生王権論」2016 が柳田の結論だろ<
半島の「「瑪瑙」とか?の話を、柳田はどう処理したんだい?。
また、三雲の庄内とように、「都合が悪くなる事実を隠した」、んかい?。 今古田説読んでも突っ込みどころしかないんだよなw
あんなのに未だに入れ込む理由がわからん。 >>310
>>>275のように方格規矩四神鏡が2世紀後半〜3世紀前半と断定されると、
集大成の超大型内行花文鏡などは3世紀のものとしか考えられんわけだが。<
成程。 >>315
>神功皇后はどう評価しているんですか?<
半分偽書の記紀にしか原情報がなければ、神功の記載も半分×になるでしょ?。 お花畑の歴史本よりある程度真実に迫った本が読みたいなら、古田武彦
安本美典、江上波夫先生の本はお勧めです >>317
>必死で頑張ってるけど、なにが詐欺師なの???
方格規矩四神鏡が3世紀にも作られていたことが確実になったわけでしょ?
青龍三年は当たり前だけど、 一貴山銚子塚のは金メッキまでされて進化しているわけだ。
ってことは、
平原の方格規矩四神鏡も3世紀に作られたものである可能性が出てきたわけだね。<
成程。 >>329
>(平原)確定事項 柳田が三世紀説をとったというのは 全くのデマ<
変だね?。半島の瑪瑙とか、2002年の「3世紀」説は、どうなっちゃったの?。 議論がだらけてきたので戦国時代、歴史難民に出張してきたので
畿内厨は覗きにいくといい 2世紀末から土師器が全国展開し始めていくわけだから、
畿内であれ九州であれ、
ヒミコとは聞いたこともない家柄の人物ではない。
しっかりと伝承されてきてるし記紀にも記載されている。
超大物だ。
高良神社の関係者だとかもう訳の分からん小物の名前を出さないでくれ。 >>383
今、大和説読んでも、突っ込みどころしかないんだよなw 。
あんなのに未だに入れ込む大和説者の頭の中がわからん。 >しっかりと伝承されてきてるし記紀にも記載されている。
>超大物だ。
高天ヶ原におわす天照大御神 今さら翻したら自分の人生も築き上げてきた権威もズタボロだからなw >>398
>だから、捏造だったわけ
もっと詳しく
鉄器ゼロ遺跡のほう?
それとも中国出土ゼロ銅鏡のほう? 柳田論文の結果からは、平原遺跡は3世紀としか考えられないのだが
それを否定するとしたら
その根拠は? >>403
まったくだよな
大型内行花文鏡が平原遺跡から畿内へ押し寄せて
それに伴って鉄器ゼロの畿内に鉄器がもたらされるなんて
東遷じゃなくって東征レベルだよな >>394
>高天ヶ原におわす天照大御神
高天ヶ原はどこにあるの?
そこには天照大御神を祀ってる神社はあるの?
まぁ天照大御神と言ってる時点で古くはないし、
パチモン神社しか出てこないと予想できるわけだがw よかったな畿内説
内容はズタボロなのに
なんとなく議論してるような雰囲気が出来てw 邪馬台国首都の伊都に卑弥呼墓の平原遺跡だろ
鉄器は全て伊都が供給だから敵対地域や辺境には鉄器ゼロ
3世紀でなんも困らん >>408
アンチがなんにも反論しないのに、どうして畿内説がズタボロになるの? 平原遺跡は鏡や副葬品から3世紀かひょっとしたら4世紀という話しの
流れなんだろ なにをどう珍改造したら平原1号が三世紀になって卑弥呼が九州にいふことになるのやら
山本イソロクが生きててムタグチが死んでる歴史if小説かなんか? 卑弥呼の時代には九州、四国、畿内、北陸、関東までほぼ統一されていたことは、
土師器が分布していくことで分る。
平原や祇園山のような20メートル程度のしょぼい墳墓がヒミコやトヨの墓であるはずはない。
そんなのでいいなら丹波の赤坂今井の方がよほど立派。
被葬者も女性だし。
多レスで喚けば認められると思ってるならチョンと変わらないぞ。 >>391
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している 牟田口は逃げ足が早いから大勢死なすことはあっても死ぬことはないだろう 卑弥呼の時代には邪馬台国と狗奴国が係争中であり
自国の労働力を巨大墓の土盛りに浪費できないことは猿でもわかる。
そして異民族相手に海外半島領土を維持していることからも
自国の労働力を巨大墓の土盛りに浪費できないことは猿でもわかる。
平原や祇園山のような20メートル程度のしょぼい墳墓がヒミコやトヨの墓でないはずはない。
超大型内行花文鏡をはじめとする豊富な副葬品もあることだし。 >>418
それはおまえの勝手だが、
瀬戸内系物部の墳墓をヒミコと間違えるという致命的ミスを犯すわけだw
磯城=物部は卑弥呼の王族と対立してた側なのだが。 >>421
おいおいアンカーミスってるぞ
>>1-51
の間違いだろw ヤタガラスちょんぼの後が引用詐欺だったから
次は文化財損壊や掻っ払いなどの強行に及ぶだろうな 本居の時代には考古学という学問そのものがない。
しかし彼は文献から卑弥呼を探し出し、
なおかつこれは公表できないと思い、
卑弥呼は熊襲の女酋長だというワケの分らん説でごまかした。
本当のヒミコが誰か分かると中華皇帝に土下座した帥升が誰であるか判明してしまうからだ。 本居の凄いところは、
千年前の記紀編纂者の苦悩を悟り、
その真意を理解し、
そして彼らに同調した。
千年前の記紀編纂者と同じく、
卑弥呼は隠すべきだと判断した。
だから熊襲の女酋長というアホ説をわざと公表した。 本居と違い、
スサノオなんて神代の人物で実在しないと思ってる現代の知識人。
斜に構えて自分が知的だと自惚れている。
スサノオなんて神代の人物で実在しないと思ってる時点で卑弥呼は分からないはずだ。
実際はヒミコトスサノオは見事にリンクしてるのだから。
文化とは退化するのだな。 本居は「朝貢」を気にしていた。
とにかく気にしていた。
帥升、卑弥呼、台与が誰か分ってたからだ。 そういうわけで、考古学の話はもういい。
ダルい。
ヒミコが誰か簡単に分かる時代なのに。 邪馬台国はヤマトだよ。
当たり前。
本居もそれは分かってた。
あとは大和の中で磯城か葛城のどちらなのかという話。
「九州説=知恵遅れ」はもう黙っててくれ。 魏志倭人伝当時の九州状況
女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。
九州における女王国メンバーは、宮崎日向を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。
女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。
伊勢尾張、丹波など卑弥呼を擁する畿内の勢力、瀬戸内海を支配を進めていた吉備、九州北部に一大率を置き筑紫を支配下に治めた投馬国などが卑弥呼を共立し手を結んだんだね。 中国江南から広がった下戸遺伝子。
中国南部の文化である銅鐸。
島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。
日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、大阪湾と伊勢湾。
淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。
唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。
呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。
弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃が中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、畿内や伊勢尾張美濃が中心だろうね。 卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけ。
結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。この時に吉備の勢力が大和入りしたんだね。
吉備の兵は他の国々の兵と共に纒向に駐屯。
これが纒向で伊勢尾張、吉備、丹波近江、大分の土器が出土する理由。
在来系の土器も勿論多数出土している。
纒向の南の芝遺跡は纒向と入れ替わるように弥生時代後期に消退するし、芝遺跡からも人々が纒向の営みに動員されたんだろうね。 畿内における倭国大乱。
卑弥呼と卑弥弓呼の争いは、大阪湾一帯の倭人勢力と伊勢湾を拠点とする倭人勢力の争いであった可能性があるな。
倭人は、海洋民族。本拠地は沿岸部だろう。
それに吉備を拠点とする倭人勢力が、卑弥呼側として参戦と。
長江河口から潮岬に渡来した倭人勢力。
下戸遺伝子をもたらした集団。
下戸遺伝子が色濃く分布する、大阪湾、伊勢湾、紀伊、吉備。 元伊勢の分布は中々興味深い。
アマテラスとされる勢力。
伊勢平野から始まり、甲賀で拠点を構え琵琶湖方面へ進行、さらに伊賀で拠点を構え宇陀方面からヤマトに進行(2世紀末)。
甲賀や伊賀の元伊勢は、当時のアマテラスの勢力の足跡を訪ねた可能性も考えられる。
崇神の代以降は、丹後半島、吉備、紀伊、彦根→美濃に分布。
元々王と同床共殿であった天照大御神。
卑弥呼がいた纒向は、対狗奴国の前線基地。
王がいるのは本来勢力拡大の前線であった可能性が考えられる。
四道将軍。実は王の資格を持つ人々であった可能性もある。
つまりヤマトの地に残った崇神は、唯の留守居役であった可能性もある。
吉備津彦、丹波道主命、大彦の勢力が持ち回りで、王の地位についていた可能性もある。 纒向は、卑弥呼がいた大集落。
邪馬台国はヤマト国、大和盆地一帯だな。
狗奴国から奪った地であり、対狗奴国の一時的な前線基地。
元々はそれだけの意味しかない。
民を教化し、王に忠誠を誓うようにするのが卑弥呼の役割。
纒向は、巨大な兵の駐屯地であり、民が住む大集落であり、教化システムでもある。
古墳時代にこの兵を使い全国平定を進めるんだな。(四道将軍)纒向が4世紀に突然消失し、武器が殆どでないのも説明がつく。もぬけの殻。
博多の一大率も、ミニ纒向みたいなものだろう。 1世紀後半〜2世紀後半の伊勢遺跡。
やっぱり重要だな。
出雲や、富山石川など越の影響が強く見られる建物もある。
円形に並んだ建物が30棟。中心に水の祭祀を行う施設。
畿内を中心に北陸など広範囲に跨った首長連合があった可能性がある。
クニの始まりの可能性があるね。
北陸は古墳時代の四道将軍の派遣先。
卑弥呼、そしてその流れを汲む初期ヤマト政権。実は倭国大乱でクニに対して謀叛を起こした勢力だった可能性も考えられる。 1世紀から2世紀初頭にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。それは当時の畿内の集落跡からの出土物からも裏付けられる。
同時期に栄えた伊勢遺跡。中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡もそのようなものだったのかもしれない。立地的に畿内、伊勢尾張、北陸からアクセスしやすい場所だからね。
当時の倭国の仕組みが窺い知れるんじゃないかな。
男王を抱き、その元で首長達が集い祭祀を行い、政治を行う。 1世紀から2世紀にかけて倭国の王は何処にいたのか?
ここからはあくまで個人的な推測。
倭人は海洋民族。倭人の本拠地が大和や内陸にあるとは考えにくいんだよね。
記紀にもあるとおり大和盆地はナガスネヒコなど様々な勢力が雑居していたと考えられるしね。
伊勢遺跡では銅の工房は認めているが、当時の畿内の鉄器生産が盛んなところは淡路島。
淡路島で作られた貴重な鉄器を利用しやすい、海に面した高台、丘陵が倭国の本拠地である可能性が高い。
クナ国、個人的には2世紀末までは大和、河内、和泉にまたがる国であったが、大和の地を卑弥呼側の勢力に奪われ、魏志倭人伝当時は河内、和泉であったと考えている。
クナ国に男王卑弥弓呼、官に河内彦がいるとある。
河内彦の所領は河内であろう。
残りの泉北丘陵とそれに続く上町台地は誰が支配していたのだろうか?歴史が消された場所。
淡路島の向かいにある上町台地〜泉北丘陵にかけてがクナの王卑弥弓呼の本拠地だった可能性はないだろうか?
大物主を祀ることになるオオタタネコがいたのが泉北丘陵の陶村。その近傍に卑弥弓呼がいた可能性はないだろうか?
上町台地の先端にある大阪城の下or泉北丘陵の巨大前方後円墳の下に何かあるかもね。 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
元は大阪城の位置にあったとされる生国魂神社と関係あるのかな。
大阪城の下に何かあるのかな。 纒向と伊勢遺跡には、大きな違いがある。
纒向は柵で囲まれた居館エリア以外は、掘立柱建物や高床建物が立ち並び民の居住空間と考えられる。首長達が居住していたと考えられる館は見つかっていない。
発掘した考古学者の言葉を借りると、2世紀末に突然現れ4世紀に突然消失した【大集落】。
魏志倭人伝においても、卑弥呼は鬼道を行い衆を惑わすとあり、民に向けて祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う祭りに近い。
一方、伊勢遺跡は30もの首長達が寄り合い、その中心で祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う政治に近い。
卑弥呼の役割を考えると、伊勢遺跡が卑弥呼の勢力下にあったとは考えにくくなる。
日と月。 大和の地が卑弥呼側の勢力に制圧された後(2世紀後半以降)の、
狗奴国の版図は、河内、和泉。
卑弥呼側の勢力と狗奴国の対立はどういう結末を迎えたのか?
孝元天皇は(台与の時代か)、河内青玉繋(河内彦)の娘である埴安媛と血縁を結び、武埴安彦命が生まれる。血縁を結ぶことで、狗奴国と和睦したと考えられる。
問題なのは、この和睦が河内彦中心に行われたと考えられること。
狗奴国王卑弥弓呼&その正統はどうなったのか?
謎だな。
和睦の前に狗奴国内でクーデターがあり、卑弥弓呼の系統は抹殺されたのか追放されたのか、逃亡したのかもしれない。
何れにしても、狗奴国の正統は饒速日(実在も怪しい)ではないんだろうね。 卑弥呼が制圧した地なら
鉄器が捨てるほど普及してるよねw
つまりはそーいうことw >>438
銅剣、鉄器、それらの武器は北部九州の防人さんが持つもの。
北部九州の防人さんの土地にヒミコはいません、残念。
対馬に皇居をもって行かないよね?
それと同じ。 北部九州で水稲栽培が始まるのが、BC1000年頃。
呉の末裔を名乗る倭人が淡路島や畿内に渡来したのが、BC4〜5世紀。春秋時代末期。
その畿内中心に広がったのが、方形周溝墓。
天孫降臨は記紀にも書かれている通り、ニニギの婿入り。
伊都国への婿入りだろう。
つまり天孫降臨は伊都国成立以降の話。
博多平野で、婿入りを示唆する考古学的所見は、1世紀中頃の方形周溝墓の受け入れ。(三雲南小路遺跡)
畿内にあった倭人によるクニ(倭国)からの婚姻を伴った天下り(地方官の派遣)が天孫降臨だろう。
元々伊都は倭人ではない人々の国であったが、1世紀中頃畿内の倭国から伊都国の王として、倭人を迎え入れたんだろうね。
1世紀〜2世紀初頭、畿内のクナ=クニ(倭国)を中心に西日本は緩やかに纏まっていたんだよ。
天孫降臨に代表されるように伊都国など地方の国々とも血縁を結んだりしてね。
倭国大乱を経て、吉備や伊勢尾張、丹波、九州南部の投馬国などが台頭。
畿内の倭国では卑弥呼と卑弥弓呼が対立。
九州では伊都国が投馬国と吉備を中心とした一大率に支配されることになる。
結局1世紀に栄えた旧勢力は卑弥呼を共立した国々に敗退することになる。
それと同時に神話や血統まで奪われ、クナや卑弥弓呼に至っては歴史上から抹殺されてしまう。 >>446
半島領土を持って
北方を監視する部隊=一大率を
保有しているのに、誰が攻めてくるのかな?
好太王碑文にもあるよねえ
倭国が北へ攻めたって
北へ攻めるのなら、北部九州に首都があるのは当然だねw 奥野正男「卑弥呼の墓は後漢鏡、その墓は平原である」
「平原の舶載鏡の制作が後漢晩期、平原遺跡の年代は三世紀後半だ」
http://time21.sub.jp/tikusi_kodai/ronbun/ronbun_pdf/himikokagami.pdf
奥野先生は昔から気づいていた 銅矛?
3世紀倭国の主兵装は倭人伝にある鉄鏃骨鏃でしょ
部隊を教練するには
鉄鏃の一斉射撃を繰り返すよね=回収できない
対馬に皇居は持っていかないね
伊都高祖宮や香椎宮、高良宮が最適だね 銅剣、鉄器、それらの武器は北部九州の防人さんが持つもの。
鉄器も銅器もまーーーったく出土しないと
こういう思考の罠に嵌まるんだね。
かわいそw >>448
>誰が攻めてくるのかな?
中国
>好太王碑文にもあるよねえ
倭国が北へ攻めたって
北へ攻めるのなら、北部九州に首都があるのは当然だねw
崇神の時代、任那のソナカシチが来日した。
313年高句麗が楽浪を滅ぼす。
暴走する高句麗対策として日本と軍事同盟を結びに来たのだろう。
事実、彼らの不安は80年後に的中、好太王軍が南下してきた。
そして日本も応戦。
「北部九州に首都があるのは当然だね」とは何の話だ?
ソナカシチも通り過ぎたカッペが何を偉そうに言ってるんだ? >>452
中国って中国のどの国?w
魏と卑弥呼は対等同盟したね「親魏倭王」
で、3世紀に中国のどの国が攻めてくるの??? 北部九州は防人さん。
それ以外に何があるの?
http://www.geocities.jp/yasuko8787/bb-0.JPG
いまも宮内庁や皇居に武器はないよね。
その代わり権威で従えてるよね。
それと同じ。 >>453
>魏と卑弥呼は対等同盟したね「親魏倭王」
対等同盟?
中華冊封体制に入ったのだが。
何言ってんだ、おまえ。 >>455
だからさー
中国のどの国が攻めてくるの?
教えて教えてw 正史では隠されてるけど、
「八幡愚童訓」って知ってますか?
この史書の中には朝鮮諸国から襲来のあったことが記録されているのだ
開化天皇 敵数 33000人
仲哀天皇 203000人
神功天皇 308500人
応神天皇 250000人
欽明天皇 300400人
敏達天皇 明石浦までやってきた
推古天皇 430000人 武器?
そうじゃなくって、鉄器のことを言ってるのだがw
いまも宮内庁や皇居にパソコンやクーラー、テレビはあるよね。
鉄器がない場所は首都ではない。
簡単なことだねw 一大率は、どこにいたのかな?
博多か?那珂地区か?
魏志倭人伝に一大率がいるのは、伊都国とある。博多は、奴国ではなく伊都国の領域だったかもしれないね。
魏志倭人伝当時、伊都国は1000戸+一大率で構成されてたのかもね。
1000戸は伊都国王と取り巻き。
一大率は、3世紀は播磨など瀬戸内海沿岸から連れてこられた吉備の軍と、徴用された元伊都国の民、九州南部の投馬国の軍を中心に構成されていたのかもね。纒向解散後の4世紀には畿内から兵を増強が一層強まったんだろうな。 >>456
へー
金印もらった帥升をディスるんだね
で、3世紀に中国のどの国が攻めてくるの??? >>462
ホケノの発掘を期に鉄器の量で畿内が逆転するよね。
大和に王権があった証拠。
しかし>>1の言うように磯城ではない。
九州は港の物流センターのようなもの。
物流センターに本社は置かないよね?
それと同じ。 >>467
逆転って、その証拠は?
そもそも鉄器ゼロの集落は逆転もしていないし、
木器で頑張っちゃってるし、
どうすんの?w 結局のところ
真実
伊都を首都とする倭国が東アジアを席巻していた
倭国は鉄器をふんだんに使い、なかなかの先進国だった
それに我慢ならないクズが
鉄器ゼロのありふれた建物だけの集落に首都を比定してにっちもさっちもいかなくなり
ありもしない中国国家が攻めてくると捏造して
盛大に裸踊りしてるわけだw おーい
俺を無視しないでくれー
中国のどの国が攻めてくるの?
教えてくれよー 本当なのかな、
このような系図ばかりだと言っている人がいたり
本物の宮内庁→・・・・馬の骨
↓
本物
↓
本物
↓
一般人
↓
一般人
例えばの話 纒向は2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落。
巨大な軍の駐屯地であり、卑弥呼が鬼道を行って民を教化していた場所。
4世紀、纒向の兵は四道将軍に率いられ全国平定に向かい、纒向は解散。
男は兵として各地へ派遣される。
残された女子供はどうなったのかな?
誰かが奈良に女だらけの集落があったとの伝承について語っていたが、関係あるのかな? >魏と卑弥呼は対等同盟
>金印もらった帥升
こいつは本物のアフォなのか。
やはり古代史界のパラリンピックといわれる古田教徒だけある。 >纒向は2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落。
>巨大な軍の駐屯地であり
ナイスジョーク!!! 現代
宮内庁:パソコン普及
軍事力:1300年前に全国平定された日本各地に軍艦や戦闘機
3世紀
北部九州:鉄器普及
軍事力:狗奴国と戦闘中なので博多湾に一大率軍船やら北部九州各地に鉄鏃部隊 >>473
纒向は3世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落 200回近く発掘調査して鉄器が皆無なんて
ギネス申請したほうが知名度あがって儲かるんじゃね?w すごいなー
銅矛の九州が
銅鐸の畿内にひれ伏した
防人だとさw
だったら主人様の銅鐸が九州で崇め奉られてるだろがw
記紀にも倭人伝にも銅鐸が記載されてるだろがww
マジ笑えるwww 3世紀中頃のホケノ山、3世紀末の椿井大塚山、
この両古墳の発掘で鉄器は畿内が出土量において逆転。
(ソースはどこかにあった、また探しておく)
ゆえに都は畿内に合った。
大事な大事な鉄器で逆転されました、かわいそうな九州w パソコンはリサイクルが義務づけられているので廃棄できません。
未来に宮内庁跡からパソコンが出土することはありません。 >>481
年代確定しない古墳の中から鉄器が見つかろうが意味ないでしょw
鉄器ゼロの集落で
木器で頑張ってるんだからさww
領民を慈しむ王様なら
鉄器を副葬するだけじゃなくって、領民に鉄器を使わせるでしょwww >>480
今でも自衛隊員は武器を持ってない陛下にひれ伏すだろ。
それと同じ。 >>483
ほぼ確定なんだが認めないのはおまえが女々しいだけ。 >>484
だよね
3世紀も武器を持っていない、女官だけを近づける伊都の卑弥呼様に
北部九州一大率の兵士たちはひれ伏していたんだね
さすが鬼道=原始神道卑弥呼様 >>485
>ほぼ確定なんだが
え?
200回発掘して鉄器ゼロでさすがに認める気になった?w 銅鐸畿内にひれ伏したなら銅鐸祭祀が普及してるっしょ
しかし現実は内行花文鏡が神武東征 >しかし現実は内行花文鏡が神武東征
それ物部。
だから母親が物部である崇神が疫病が流行ったとき、内行花文鏡を手離した。
今でも行き場がなく伊勢神宮境内をウロウロ。
皇室は気味が悪いのか一度も伊勢神宮を参拝しなかった。
物部は皇太后を2人生んだが男系では王になってない。
九州ごときが自惚れるな。 いや待て
中国でゼロ枚出土の銅鏡が中国製になるんだから
鉄器ゼロで木器使用でもなんとかなるかもしれん
これはもう歴史に名を残す偉業を達成するかもしれんぞ
旧石器時代に負けるな!!! ゼロvs1000
か
ゼロvs10000
のちがいだろw 220年に滅びた後漢が攻めてくるから北部九州に防人を置いた
だから畿内に都があった
これが畿内説のファイナルアンサー?
ぷげらっちょw
はげらっちょw 議論でスレが進んだのではなく、基地外畿内厨がコピペ荒らしをしていただけか。 あのー
中国のどの国が攻めてきたのか返事を待っているのですが
畿内説はもう寝ちゃったんでしょうか?
後漢って冗談ですよね?
もう私も寝てもいいでしょうか? 昨日のハイライト
平原王墓を卑弥呼の墓にしたくてたまらない某氏が
年代引下げ工作で詐欺をしてたのが発覚
黒歴史の殿堂入りを果たした
傑作だった 後漢は西域にとんでもなく領土を広げたし、帯方郡も卑弥呼の代で後漢が獲得した領土だから、侵攻される不安はあっただろうね。
卑弥呼は国際情勢に機敏だったらしいし。 >>449
いいですね。あとでじっくり読ませて頂きます。
卑弥呼が殺された云々はご愛嬌ということで、コメントはしませんが、
平原は方格規矩鏡があれだけまとまって出ているのだから
下賜された銅鏡百枚に一番近いと考えるのも当然ですかね。
「『倭国大乱後』に共立された巫女王」として平原はこれ以上ない合致ぶりですね。
畿内説は箸墓を掘れないともう厳しいんじゃないでしょうかね?
肝心の魏志と合致的な発掘物で平原に勝るのは厳しいと思います。 >>412
>アンチがなんにも反論しないのに、どうして畿内説がズタボロになるの?<
「南→東」などの嘘吐きダマシや、
「大和は筑紫城の倭奴国から別れた別種の旧小国」の指摘や、
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」の墓が大和にはない、という指摘に、
大和説者がなんにも反論出来ないのに、
どうして大和説がズタボロにならないの?。 魏志倭人伝には、九州北部は一大率管轄下の属国、属領で女王国に服従と明記されてるからな。 九州北部はノーチャンス。
天皇家はかつて筑紫の王だったという通り、神武の本貫九州南部の投馬国&吉備の支配下。 >>415
>なにをどう珍改造したら平原1号が三世紀になって卑弥呼が九州にいふことになるのやら <
「南→東」などの嘘吐きダマシや、
「大和は筑紫城の倭奴国から別れた別種の旧小国」の指摘や、
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」の墓が大和にはない、という指摘の、
なにをどう珍捏造したら、卑弥呼が大和にることになるのやら。 >>500
赤瑪瑙の管玉の3,4世紀韓国大量出土は事実だし、平原の鏡は3世紀の可能性が十分にあるものという事がわかる文章じゃん
確かに出土地を隠したのはあざといと思うが、内容は大事な事を示している
おまけに青龍三年銘鏡は日本製で、紀年もその年に制作されたかどうか?が問題となる
他の紀年鏡にもいえるけど、どれも4世紀以降の墓ばかりの出土状況では三角と同じ事になるのでは?
つまり青龍三年銘鏡の制作年代はその年号より下る可能性がある >>416
>卑弥呼の時代には九州、四国、畿内、北陸、関東までほぼ統一されていたことは、
土師器が分布していくことで分る。<
土師器は、三雲の庄内だけが卑弥呼時代だし、
東方の倭種は「市」を通して筑紫付近に搬入上納したんだし、
倭王武の頃になって初めて常陸にまで達したのだし。。
>平原や祇園山のような20メートル程度のしょぼい墳墓がヒミコやトヨの墓であるはずはない。
そんなのでいいなら丹波の赤坂今井の方がよほど立派。被葬者も女性だし。<
「南→東」などの嘘吐きダマシや、
「大和は筑紫城の倭奴国から別れた別種の旧小国」の指摘や、
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」の墓が大和にはない、という指摘で、
大和説は、反論出来ずに終わったんだし。 ザラコク爺もいい加減目を覚ませよ。
筑紫辺りは奴国とはっきりしてるじゃないかw
つまり大和が旧邪馬台国の中心という事。
何の問題もないからなw >>505
戸数と丹山の問題がある限り九州説に倭人伝との矛盾は解決しないよ。 >魏と卑弥呼は対等同盟
>金印もらった帥升
こいつは本物のアフォなのか。
やはり古代史界のパラリンピックといわれる古田教徒だけある。 425 : 日本@名無史さん2017/07/15(土) 22:59:16.57
本居の時代には考古学という学問そのものがない。
しかし彼は文献から卑弥呼を探し出し、
なおかつこれは公表できないと思い、
卑弥呼は熊襲の女酋長だというワケの分らん説でごまかした。
本当のヒミコが誰か分かると中華皇帝に土下座した帥升が誰であるか判明してしまうからだ。
426 : 日本@名無史さん2017/07/15(土) 23:05:46.30
本居の凄いところは、
千年前の記紀編纂者の苦悩を悟り、
その真意を理解し、
そして彼らに同調した。
千年前の記紀編纂者と同じく、
卑弥呼は隠すべきだと判断した。
だから熊襲の女酋長というアホ説をわざと公表した。
427 : 日本@名無史さん2017/07/15(土) 23:11:43.52
本居と違い、
スサノオなんて神代の人物で実在しないと思ってる現代の知識人。
斜に構えて自分が知的だと自惚れている。
スサノオなんて神代の人物で実在しないと思ってる時点で卑弥呼は分からないはずだ。
実際はヒミコとスサノオは見事にリンクしてるのだから。
文化とは退化するのだな。 428 : 日本@名無史さん2017/07/15(土) 23:18:01.63
本居は「朝貢」を気にしていた。
とにかく気にしていた。
帥升、卑弥呼、台与が誰か分ってたからだ。 考古学もなかった時代に本居がどうやってヒミコを判明させたか教えてやろうか。
@まず名前が似ているスサノオが帥升ではないかと考えた。
A約5世代100年後にヒミコという発音に近い最高位の女性がいるか探した。
Bヒミコという発音に近い最高位の女性がいた。しかも魏志の記述通り寡婦である。では夫の神武とは何なのだと疑問をもつ。
C神武東征は女王国であった事をごまかすための大げさな記述であると理解する。
D記紀は中華への朝貢をごまかすために時代を大きく引き伸ばしたのだと確信する。
ところが発表できない。日本の歴史が中華皇帝への土下座から始まることになりショックが大きい。
そして記紀編纂者の心情を理解し、自分たちもそれに同調する。
そして卑弥呼は神功皇后、朝貢してたのは熊襲であるという訳の分からない説でごまかした。
そういうことだ。 そういうわけで>>1君
Bヒミコという発音に近い最高位の女性がいた。しかも魏志の記述通り寡婦である。
この女性が住んだのは葛城。
磯城ではない。
あきらめろ。 >>514
戸数は倭国=邪馬台国とすると問題なし
丹?
倭人伝には「山に有」なだけだから問題なし
逆に魏から貰った「真珠」が「真朱」で朱丹の意味だったら、国産は少なく貴重品だったという事になるので、中国朱がある北部九州に符号する 騙された人数は少なかったけれど
騙そうとしたのは事実だしね >>520
有ると書かれたってことは産出してるってことだから九州はペケ >>523
だから、倭人伝では「出」ではないのだから、
文献的には「有」で、しかも「山に有」だから産出していたとは限らない >>524
有ると書いておきながら産出してないという根拠は何だね? 熊本や佐賀の丹生神社は
山というより川にある。
河原に流れてきた鉱石を採取する。
山の何処かにあるのは間違いないが
わざわざ鉱脈を探すまでは
魏使はやってないようだ。
有名な糸魚川の翡翠も、
それ自体は固くて採取しにくいので
下流の河原でかけらを採取していたそうだ。 >>525
私は産出しているとは限らないと解釈しているのだが?
その上で、魏から貰った「真珠」が「真朱」で朱丹の意味だったら、国産は少なく貴重品だったという事になるので、中国朱がある北部九州に符号する、と言う事
要は山に丹があればどこでも比定okな文なだけだよ >>527
産出してないのに、どうして有ると知ってるの? 弥生時代の畿内には朱が使われていた
形跡はほとんどなく
発見されたのは二箇所のみ。
うち一か所は棺に詰めると言う
よくわからない使い方がされていたから
使用する文化はほぼなかったと見て良い。
手には入れたがどう使うか
わからなかったようだ。 >>531
トンデモはいつも出所不明の情報をつぶやく まだ言ってるの?
頭の病院に行けと言っているんだよ
オレオレ詐欺、私私詐欺?というのがあるけど
犯罪じゃなかった?利益や金品などを得ていた場合 縄文時代からの水銀朱精製跡が畿内であるのに
何寝言いってんだ、九州バカはw >>534
弥生時代はどうなん?
どう使用していたの? >>520
では奴国や投馬国は倭国ではないと?
おまえ慢性的熱中症なんじゃないのかw おかしな話だと思わない?
一般人??の真似や模倣をして、
利益や金品を得る人間なんているのかな
公人、メディアなどに露出している人々? >>536
弥生時代の精製跡なんてなら紀伊半島、特に伊勢辺りに沢山ある。
また鍵唐古でも確認されてるよ。 北部九州では朱が弥生時代から使われていたから、
阿波や紀伊の朱も九州に運ばれていたのだろう。
鉄なんかは朝鮮半島から運ばれていたので
朱が運ばれていても問題はない。 つまり北部九州が奴国で畿内は邪馬台国、これで何の問題もないな。 >>540
紀伊というか三重の朱の採掘遺跡には
縄文時代の発掘の痕跡はあっても
弥生時代の発掘の痕跡はないよ。
奈良時代にはまた採掘を再開するようだけど。 >>543
伊勢方面には弥生時代の精製跡あるけど? >>537
奴国は倭国でしょ
日程説明で併記されているのは、邪馬台(7万戸)と投馬国(5万戸)だから、投馬国は別国という解釈ね >>537
奴国は倭国でしょ
日程説明で併記されているのは、邪馬台(7万戸)と投馬国(5万戸)だから、投馬国は別国という解釈ね >>546
テンプレにある丹後赤坂今井墳丘墓は畿内じゃない
畿内ではどの様に使用していたのだろう? 倭人伝では、卜骨の風習がある倭人の丹の使い方は
朱丹を身体に塗ると書かれている
卜骨の風習がなく、断体(首狩)が見られる北部九州沿岸では
墓に輸入物の施朱が見られる 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>554
またもニセ情報で詐欺を働く東遷信者が出没してるな >>556
でも、インタ−ネット工作が、観光客の対応に、猫の手も借りたい筈の、この連休中もやまないね。 >>557
ここで騙しの宣伝しているのは、
奈良の観光関係の組合員や、公務員じゃないのかもね。
それとも、専門の下請け業者なのかな、、 >>417
>それ、脳が死んでないとむり <
大和説は、「南」や「別種の旧小国」や「殉葬奴婢百余人」のへの反論が出来なくては、
脳が腐っており、無理。 >>558
そんな、組織だった工作ではないと思うよ。
書いている内容が、狂人のように錯乱しているからね、、、、 圧倒的勝勢の畿内説に抵抗するには
ウソ情報を流すくらいしか
手がないんだろ
w >>418
>◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している<
これ、記紀が半分×書であるという事を隠して、
記紀は「ついうっかり」の都合の悪い記述を含めて、
「全部×」という誤魔化し処理で逃げる街頭サギシのテクニックであり、
その「近年の歴史学のあり方」そのものが、インチキ詐欺であった事の白状ね。
史料には、どんな×部分が多くても、一部には〇部分も存在する、という事が、
近年の科学や学問のあり方。 >>422
>それはおまえの勝手だが、
瀬戸内系物部の墳墓をヒミコと間違えるという致命的ミスを犯すわけだw
磯城=物部は卑弥呼の王族と対立してた側なのだが。<
それはお前の勝手だが。
お前は、結局、
「南」や「別種の旧小国」や「殉葬奴婢百余人」
などの問題から逃げたサギシなんだが。 >>424
この投稿子も、「南」や「別種の旧小国」や「殉葬奴婢百余人」
などの議論からこっそり逃げた輩だから、
次は、「言葉尻曲解誹謗」や文化財損壊や掻っ払いなどの強行に及ぶんだろうな。 詳しいことは、わからないけど
自首でしょ、その後に裁判などがあると思う、
それから刑務所?死刑? >>425
このssnも、相変わらず、
「南」や「別種の旧小国」や「殉葬奴婢百余人」の反論が出来ずに逃げたまま。 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 >>561
畿内説は負けているにも関わらず勝った、勝った、また勝ったといい続けた
大本営発表みたいなものなんだな
テンプレの公式発表は大本営発表ということだな(ふむふむ >>427
ssnを始め、大和説者や学者らは、脳が退化して、・・・・になっているのだな。 >>432
>ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。<
この投稿子も、結局「南」や「別種の旧小国」や「殉葬奴婢百余人」などへの反論が出来ず、
「邪馬壹國→邪馬台国」の嘘吐きダマシの書き変えをする・・・・サギシであった訳ね。 >>433
>倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃が中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、畿内や伊勢尾張美濃が中心だろうね。<
この投稿子も、結局、
「南」や「別種の旧小国」や「殉葬奴婢百余人」などの、
都合の悪い議論からこっそり逃げて隠して、
嘘つきダマシの「大和説→畿内説」を唱える・・・・サギシであった訳ね。 >>434
この投稿子も酷いね。
「南」や「別種の旧小国」や「殉葬奴婢百余人」
などの問題から、完全に逃げて、
隠している。 >>435
>畿内における倭国大乱。
この「下戸遺伝子」説者も、結局は、
「南」や「別種の旧小国」や「殉葬奴婢百余人」の議論から逃げて。
「大和説→畿内説」や「邪馬壹國→邪馬台国」の嘘吐きダマシのサギシであった訳で。 >>528
平原をはじめ、九州では丹を大量に使っているのを見たんだろうな。 >>576
そういう中傷しか出来なくなることを
負けたって云うんだよ
w >>537
奴国は邪馬台国の中の国邑。
投馬国は邪馬台国ではない。 >>528
大分で産出されてることは確実だよ
掘った遺構がなくて、地表に自然に丹が出ていることもあるから
大分になかったとは言えないというのが実情。 >>569
>州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
>有力な候補地が目白押しで
平原、祇園山といいうしょぼい墳墓が2つしかない九州に有力な候補地が目白押しだとwwww ざらこくは何を言ってる相手にも同じ返事してるな
脳が停止してbot化したようだ 九州説の勝ちで決着させていいと思う
畿内厨は悪口ばかりでまともな主張がない >>585
九州説やってると
こういうウソが
平気でつけるようになるんだな >>436
>卑弥呼がいた纒向は、対狗奴国の前線基地。
王がいるのは本来勢力拡大の前線であった可能性が考えられる。
四道将軍。実は王の資格を持つ人々であった可能性もある。
つまりヤマトの地に残った崇神は、唯の留守居役であった可能性もある。<
この投稿子も、
「南」や「別種の旧小国」や「殉葬奴婢百余人」などの問題から逃げて、
思想宗教的な大和説の「結論先にありき」の、匂わせダマシの宣伝マンをやっている訳で。
世間の皆様、怖いですから、
匂わせサギシの宣伝には、気を付けましょうね。 >>583
古墳の数なら、桁違いに九州の方が多いからね。 >>587
つまり、いちばん汚いのか東遷説ということか >>587
畿内説のいちゃもんのレベルが低すぎて悲しいよ。 >>593
田舎に行くほどスーパーとかも大きいよね。 >>594
こんな感じにいつも具体性がないクレームばかりなのが
九州説の特徴 だいたい、皇帝の詔書を持った郡使が伊都までしか来ていない時点で、卑弥呼がどこにいたかわかるだろ。 なんでも良いけど
「人を殺したりするなよw」
「仲良くしろ」と言っている人がいたはず
何の話なんだろう >>437
>纒向は、卑弥呼がいた大集落。 邪馬台国はヤマト国、大和盆地一帯だな。
狗奴国から奪った地であり、対狗奴国の一時的な前線基地。<
この投稿子も、
「南」や「別種の旧小国」や「殉葬奴婢百余人」などの基本的な問題を隠して逃げて、
嘘つきダマシの大和説の宣伝マンをやっている・・・・。
このような・・・・人種は、国民の3分の1位。
国民の過半数は、九州説。 >>596
ちいさい古墳がゾロゾロある地域と
巨大なのがドンとある地域
どっちに王様がいたと思う? 王権の証である豪華な威信材が副葬された古墳があるところ。 >>598
九州説は
またなんか史料の詐欺改竄でもしたのか?
??? >>439
>畿内を中心に北陸など広範囲に跨った首長連合があった可能性がある。
クニの始まりの可能性があるね。 北陸は古墳時代の四道将軍の派遣先。
卑弥呼、そしてその流れを汲む初期ヤマト政権。
実は倭国大乱でクニに対して謀叛を起こした勢力だった可能性も考えられる。<
この投稿子も、
「南」や「別種の旧小国」や「殉葬奴婢百余人」などをこっそり隠した「匂わせサギシ」。
読売産経などの「匂わせ記事」とそっくり。
怖い、怖い。
思想宗教に騙されたら、怖い。 古墳の大きさで見ると当然だが、
大>中>小
卑弥呼の墓は当然大であろう。
ところがもう一つ重要な尺度がある。
立地場所だ。
高地>中>低地
箸墓は低地だ。
大和盆地の高地とはどこなのかよく考えろ。
大和盆地の高地にヒミコの墓があるのだ。 >>440
>おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。<
この投稿子が、また、
「南」や「別種の旧小国」や「殉葬奴婢百余人」などを隠しての、
「匂わせ擦りこみ」の「畿内説」のダマシ宣伝をしている。 福岡説者は福岡の地理をよく知らないという特徴がある
ちょんぼや引用詐欺、連呼といった日本人社会では好まれない手法を使う >>602
結局また九州説はショーコリもなく
平原弥生王墓の年代引き下げ詐欺に
狂奔するというわけだ
業だね
>>602
結局また畿内説はショーコリもなく
箸墓古墳の年代繰り上げ詐欺に
狂奔するというわけだ
業だね
>>609
古田も唐津の地形ぜんぜん知らずに珍説作ってたけど日本人だぞ 箸墓は低地だ。
大和盆地の高地とはどこなのかよく考えろ。
大和盆地の高地にヒミコの墓があるのだ。
ほら。
https://goo.gl/DA7WRZ >>609
安物も引用詐欺の泰斗だけど日本人だぞ〜 >>441
>クナ国、個人的には
2世紀末までは大和、河内、和泉にまたがる国であったが、
大和の地を卑弥呼側の勢力に奪われ、
魏志倭人伝当時は河内、和泉であったと考えている。<
この投稿子も、「個人的には」などと控えめな態度を見せておいて、
実際には、「南」や「別種の旧小国」や「殉葬奴婢百余人」などの論点を隠して逃げて、
嘘つきダマシの大和説の「匂わせ宣伝」マンを勤めている。 >>613
ナリスマ印のニセ畿内説も大和の地形知らないぞ >>619
タタラ姫連呼しているやつな。
でも、孝霊みたいに奈良盆地しかわからないのも議論にならないしな。
難しい。 >>443
>一方、伊勢遺跡は30もの首長達が寄り合い、その中心で祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う政治に近い。
卑弥呼の役割を考えると、伊勢遺跡が卑弥呼の勢力下にあったとは考えにくくなる。
日と月。<
この投稿子も、結局は、
「南」や「別種の旧小国」や「殉葬奴婢百余人」など問題を隠して逃げて、
口先で、嘘吐きダマシの「大和説の宣伝」をしている・・・・サギシ。 何の謂れもない場所に蛙ある古墳をヒミコの墓だと言ったってむなしいだけ。
ちゃんとした謂れのある場所でないとね。
高天原のように。 ×何の謂れもない場所に蛙ある古墳
〇何の謂れもない場所にある古墳 >>444
>大和の地が卑弥呼側の勢力に制圧された後(2世紀後半以降)の、狗奴国の版図は、河内、和泉。
卑弥呼側の勢力と狗奴国の対立はどういう結末を迎えたのか?<
この投稿子も、
「南」や「別種の旧小国」や「殉葬奴婢百余人」などの問題から逃げた、
嘘つきダマシの大和説のサギシです。 >>446
>銅剣、鉄器、それらの武器は北部九州の防人さんが持つもの。
北部九州の防人さんの土地にヒミコはいません、残念。 対馬に皇居をもって行かないよね?
それと同じ。<
この投稿子も、
「南」や「別種の旧小国」や「殉葬奴婢百余人」などの問題から逃げた、
嘘つきダマシの大和説の、口先匂わせサギシです。 箸墓は低地だ。
大和盆地の高地とはどこなのかよく考えろ。
大和盆地の高地にヒミコの墓があるのだ。
ここだ。
https://goo.gl/nq8fJu >>448
この投稿子も、また、
「南」や「別種の旧小国」や「殉葬奴婢百余人」などの問題から逃げた、
嘘つきダマシの大和説のサギシです。 >>635
晩節を穢すという言葉があるけれど
この人は若い頃から穢し続けてきたんだろうな 日本の歴史上、もっともアホな世代、団塊の世代の哀れな末路がzarakoku >>449
>奥野正男「卑弥呼の墓は後漢鏡、その墓は平原である」
「平原の舶載鏡の制作が後漢晩期、平原遺跡の年代は三世紀後半だ」
http://time21.sub.jp/tikusi_kodai/ronbun/ronbun_pdf/himikokagami.pdf
奥野先生は昔から気づいていた<
奥野氏の論考の紹介、有難う御座います。
しかし、洛陽晋墓の話はなかったようですし、
平原≒卑弥呼墓説のようですね?。 >>451
>銅剣、鉄器、それらの武器は北部九州の防人さんが持つもの。 鉄器も銅器もまーーーったく出土しないと
こういう思考の罠に嵌まるんだね。 かわいそw<
この投稿子も、「防人だ」という思想宗教的な「結論先にありき」での思考で、
頭の中が一杯になる・・・・のようですね?。
おそらく大和説有りきだから、こういう思考の罠に嵌まるんだね。 かわいそw?。 >>455
>北部九州は防人さん。 それ以外に何があるの? ・・・いまも宮内庁や皇居に武器はないよね。
その代わり権威で従えてるよね。 それと同じ。<
「南≠東」や、
「大和は、筑紫城から別れた別種の旧小国」や、
卑弥呼の墓には「殉葬奴婢百余人」など史料事実以外に何があるの?。
大和は、始めから否定されている、という事でしかないんだよ。 >>632
箸墓の所在地は奈良盆地の中では決して低地ではないですよ。 >>460
「八幡愚童訓」って知ってますか?
この史書の中には朝鮮諸国から襲来のあったことが記録されているのだ
開化天皇 敵数 33000人
仲哀天皇 203000人
神功天皇 308500人
応神天皇 250000人
欽明天皇 300400人
敏達天皇 明石浦までやってきた
推古天皇 430000人 <
うーん?、
「敏達天皇 明石浦までやってきた 」は、
二中歴に書かれた、
「鏡當四 辛丑(五八一〜五八四)新羅人来従筑紫至播磨焼之」
と関係がありそうですね。 >>620
地形等に関しては近畿一円は他の方より詳しいと思いますよ。
まぁ特に奈良盆地や和歌山から吉野にかけては家の関係もあり詳しいです。 >>462
>武器? そうじゃなくって、鉄器のことを言ってるのだがw いまも宮内庁や皇居にパソコンやクーラー、テレビはあるよね。
鉄器がない場所は首都ではない。 簡単なことだねw<
ふーん?、皇宮警察は銃を持っていなかったのか?。
昔の近衛兵は、銃や剣を当然持っていたんだろうがねえ。 九州だ 畿内だと喧しいが、「丹山」一つだけで、とっくに決定してしまってるでしょ。 @阿波
阿波丹山だけで十分証明されているが、以下は補足。
@倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑
四国東部は帯方の東南に当たり、四周が海 山や島に人が居住し国を為している
A今倭水人好沈没捕魚蛤
徳島県南部海部地方などに古くから見られる漁法
B文身亦以厭大魚水禽
入墨(文身)を表した土製仮面が出土している
C種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜
吉野川中流域は古来より麻を栽培している
D倭地温暖
徳島は温暖な地である
E其木有{木冉}杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香其竹篠幹桃支有薑橘椒襄荷不知以爲滋味有爾猴黒雉
特に、橘は徳島県南部が古くからの産地である
F女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
徳島の東の海(紀伊水道)を渡る千余里で倭種国(紀伊半島)が位置する
G問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
徳島は離れた海中の洲島の上を、あるいは隔絶し、あるいは陸続きに、ひとまわりすると、五千里あまりになる
H直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華ケイ五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛 丹各五十斤
鳴門の萩原墳墓群などに中国産の真朱が使われている
I女王国への行程記述 >>464
>一大率は、3世紀は播磨など瀬戸内海沿岸から連れてこられた吉備の軍と、
徴用された元伊都国の民、九州南部の投馬国の軍を中心に構成されていたのかもね。
纒向解散後の4世紀には畿内から兵を増強が一層強まったんだろうな。<
この投稿子も、「南」や「別種の旧小国」や「殉葬奴婢百余人」などの問題を、
全く隠して逃げた、嘘つき仲間の、・・・・サギシの大和説者のようだね?。 >皇宮警察
何かの妄想?
家の先祖の写真があるでしょ
何だと思う 卑弥呼は鬼道を使って衆を掌握するとある以上は
戦地でも最新技術の集積地とは限らないですよ。
鬼道=初期段階の道教だとすれは、やはり奈良盆地東部辺りの
神獣鏡や桃の種が大量に出土する場所が祭祀場と
すれば可能性が高いはずですね。 >>467
>ホケノの発掘を期に鉄器の量で畿内が逆転するよね。大和に王権があった証拠<
ホケノ自体が、布留があったらしいから、4世紀以後になってしまうんだよね。 他のスレにも書いた
□□力夫氏とは別の家だよ、
同じ家なのかもしれないけど?そういう名前の親戚はいないし
捏造? >やはり奈良盆地東部辺りの
神獣鏡や桃の種が大量に出土する場所が祭祀場と
すれば可能性が高いはずですね。
違う。
銅鐸と鏡の接点の時代に生きたのが卑弥呼。
銅鐸と鏡が同時に出た名柄。
長柄神社は別名「姫の宮」 >>473
>纒向は2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落。
巨大な軍の駐屯地であり、卑弥呼が鬼道を行って民を教化していた場所。<
この投稿子も、
「南≠東」や、
「大和は、筑紫城から別れた別種の旧小国」や、
卑弥呼の墓には「殉葬奴婢百余人」などの、史料事実を隠して逃げて、
嘘つきダマシの大和説を宣伝する・・・・サギシであった訳で。 あの写真
他のスレッドで質問してみたところ
宮様じゃないの?という謎のレスがあったり、何なんだろう >>647
箸墓は低地だ。
あの程度で高地にならない。
頭が高い。 なるほど九州説ってのは
スローガンを連呼するばかりだ
中身がないこと夥しい
学問じゃなく政治思想みたいだ
そういうことか 何の宮なのかは知らないけど
例えば、皇族の場合
『皇族 人権 ない』
むかーしの皇族はどうなるのか?
という話とか 畿内説は極左の巣窟。
畿内説は記紀を否定し支那神話(魏志倭人伝)を軸に考える中華思想。 >>474
>>金印もらった帥升<
確か隋書が、
「漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國」
というような、
後漢書とは少し違う記載をしていましたから。 隋書では「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」だな
「邪馬壹」ではない >>481
>3世紀中頃のホケノ山、3世紀末の椿井大塚山、<
ホケノは布留もあったらしいから4世紀初頭。
椿井大塚山は、ホケノのような三角縁神獣鏡がなしではなく、
「有り」だから、ホケノよりも後。
>この両古墳の発掘で鉄器は畿内が出土量において逆転。 (ソースはどこかにあった、また探しておく)<
筑紫倭國が狗奴國との戦いが終焉して、衆夷は平穏になり、
「東征毛人五十五國」や「渡平海北九十五國」戦になり、
大和付近での戦闘も増えたから、旧小国の小国の武将らも、鉄鏃なども一杯使う事になったから。
>ゆえに都は畿内に合った。<
「南≠東」や「大和は、(白村江の後まで)筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」であったから、✖。
>大事な大事な鉄器で逆転されました、かわいそうな九州w<
鉄器を教わって一杯造って使ったのに、まだまだ「倭國の別種の旧小国」。
可哀そうな大和w。 >>484
>今でも自衛隊員は武器を持ってない陛下にひれ伏すだろ。 それと同じ。<
「南≠東」だし、「大和は倭國の中の倭奴國から別れた別種の旧小国」クラスだから、
大和の兵士は、九州倭国の陛下にひれ伏すだろ?。
それと同じ。 卑弥呼は鏡の女王。
魏の皇帝も、汝が好むから鏡をやろうと言っている。
銅鐸の畿内などお呼びではない。 >>658
銅鐸と鏡が一緒に埋められてたのは弥生中期ですよ。
しかも神仙思想ではなく太陽信仰の鏡です。
私の今のところの見解では、葛城地方は狗奴側です。 >>485
>ほぼ確定なんだが認めないのはおまえが女々しいだけ。<
「南≠東」や、
「大和は、倭國の中の倭奴國から別れた別種の旧小国」である事が、
確定的なんだから、
認めないのはおまえが女々しいだけ。 >>490
>>しかし現実は内行花文鏡が神武東征 <
>それ物部。
だから母親が物部である崇神が疫病が流行ったとき、内行花文鏡を手離した。
今でも行き場がなく伊勢神宮境内をウロウロ。
皇室は気味が悪いのか一度も伊勢神宮を参拝しなかった。
物部は皇太后を2人生んだが男系では王になってない。
九州ごときが自惚れるな。<
物部の出目も筑紫倭國。
田舎の別種の旧小国の大和ごときが自惚れるな。 「古田説」を成り立たせるためには、沼地でド田舎の「その別れた別種の旧小国」を持ち上げなければならない「ザラコク」のジレンマ。 @阿波 >>500
昨日のハイライト。
平原王墓を卑弥呼の墓にしては絶対に行けない大和説の柳田氏が、
年代を「190年位だという詐欺をしてたのが発覚。
通説大和説学者の「黒歴史の殿堂入り」を果たした
傑作だった。 >>684
こういうデマを流して恥じる良心を持たない九州説が
どれだけダメな存在か
よくわかる
www
w >>507
>魏志倭人伝には、九州北部は一大率管轄下の属国、属領で女王国に服従と明記されてるからな。<
魏志倭人伝には、九州北部は一大率管轄下の属国、属領で、
女王の都がある邪馬壹國は、(「東」にある大和ではなく)、
不彌國のすぐ南にある、と明記されてるからな。 >>508
>九州北部はノーチャンス。 天皇家はかつて筑紫の王だったという通り、神武の本貫九州南部の投馬国&吉備の支配下。<
宮崎で生まれ育った五瀬兄弟は、
筑紫城の倭奴國では巧く行かなかったので、倭國から東へ東征したんだから、
「九州南部の投馬国&吉備」は、始めからノーチャンス。 不彌國と奴国は接している、また奴国の南は鳥奴国と女王国がある
邪馬台国と接している >>676
嘘つけ、あの出土状況で時代なんかわからない。 五瀬兄弟は塩筒老翁から東に良い土地があることを聞いているので
始めから東、倭奴國とかは関係ない >>686
南って
邪馬台国がある方角なの?
不弥国から最初に出発する方角なの?
w w w まあ日向が北部九州だなんてトンデモ説はだめだろ
そんな変な日向から出発して岡湊に行く途中で宇佐を通るわけがない >>513
>ザラコク爺もいい加減目を覚ませよ。
筑紫辺りは奴国とはっきりしてるじゃないかw
つまり大和が旧邪馬台国の中心という事。 何の問題もないからなw<
「南→東」や「邪馬壹國→邪馬台国」の嘘つきや、
「大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」や、
「奴國」は伊都國の東南百里(7.6〜7,7km)付近にあった事になる事がはっきりしているんだから、
邪馬壹國は、福岡平野の南半分〜筑紫平野、及びその周辺丘陵地で十分であり、
何の問題もなく、
つまり大和が邪馬壹國の中心ではない、という事。
何の問題もないからなw。
嘘吐きダマシの通説大和説のアホ爺も、いい加減目を覚ませよ。 >>514
>戸数と丹山の問題がある限り九州説に倭人伝との矛盾は解決しないよ。<
また、何やら変な事をしゃべる・・・・大和説者が現れたらしい。
「戸数と丹山」も、九州で十分説明が付くから、何の矛盾もない。
矛盾があるのは、それが判らないらしいこの投稿子の脳の中。 海峡(たぶん関門海峡)を一度しか通過していないし。 >邪馬壹國は、福岡平野の南半分〜筑紫平野、及びその周辺丘陵地で十分であり
慶尚南道よりはるかに狭い 要するに「九州で説明がつく」ってのは
何もかも九州説用に書き換えるってこと
なんだね >>695
投馬国の五万戸が消えてるよ、まさか朝鮮半島か?
それこそ方角も滅茶苦茶だぞw
それに誰もザラコクなんて相手にしてないからいい加減時間の無駄。 >>516
>本居の時代には考古学という学問そのものがない。<
何を考えてんだい?、この・・・・アホは。
考古学だけが「学問」ではないよ。
文献史料と考古史料があれば、
その両方の説明が出来る帰納的な確率の高い推論が必要なだけだよ。
>しかし彼は文献から卑弥呼を探し出し、なおかつこれは公表できないと思い、
卑弥呼は熊襲の女酋長だというワケの分らん説でごまかした。<
この投稿子(おそらくssn)が、
大和説にとっては都合が悪いから、
「倭奴國の金印」という考古の絶対的考古史料を否定し、
古代に九州に存在した熊襲の姫氏の情報を否定抹殺しようとしているだけだ。 >>521
>でも詐欺だし <
赤瑪瑙の話の、どこが「詐欺」になっているの?。
それをちっともしゃべっていないような気がするけど?。 >>523
>有ると書かれたってことは産出してるってことだから九州はペケ <
水銀朱の山もあって、産出していたようだよ。 >>707
二世紀の古い段階じゃない(二世紀末だ)と言おうとしてるのに「二世紀じゃない」と言ってるかのようにネジ曲げ詐欺 >>674
>魏の皇帝も、汝が好むから鏡をやろうと言っている。
ソースは? >>530
>九州説は珍解釈で出来ている<
この投稿子の大和説者らも、スレ主も?、
「以朱丹塗其身體、如中國用粉也」の「朱丹」を全て「水銀朱」だと断定し、
「其山有丹」の「丹」を全て「水銀朱」だと断定し、
魏帝から下賜された「鉛丹」を全て「水銀朱」だと決め付け、
魏帝から下賜された「真珠」も「真朱」と読んで、「水銀朱」だと決め付け?、
伊聲耆掖邪狗等八人が上獻した「丹木」も、「水銀朱だ」と言い張る?、
という曲解捏造をしているかのように見える。 まずヒミコがだれなのか考えろ。
それからだ。
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
(4世紀初〜前)崇神
最初に気付いたのは本居宣長だ。
ところが発表できない。日本の歴史が中華皇帝への土下座から始まることになりショックが大きい。
彼らは記紀編纂者の心情を汲み取り、その意図を理解し、自分たちもそれに同調する。
そして卑弥呼は神功皇后、朝貢してたのは熊襲であるという訳の分からない説でごまかした。
今の日本人は中国人に劣等感など微塵もない。むしろ小馬鹿にしている。
明治人が日清戦争に勝ってくれたからだ。
本居の時代はそうではない。
当時は封印する以外なかったのだ。 ゴネ得、、、畿内説
なんで、オープンになれない????
説替えしてもいいしおもうがままでも良い。
2から3世紀の日本を、畿内説に関わらず語るのが、肝要です。
私は、以前から具不思議に思い書きこんでま。
時にはキウスと呼ばれます。
各説、倭人伝に近い説に賛同します。
現在は
九州>阿波>畿内と思ってます >>717
魏志倭人伝を読んだことあるのか?(まずそこからだ、いいな鴨厨 畿内説は無理が多い
ヤマト王権、発祥の地でよい。
九州説もいかんよ。記紀は持ちださない方が良いのですが
売り言葉、買い言葉は九州説には無用です。圧倒的に倭人伝基づく邪馬台国は九州なのですか。ら >>719
あんた、奈良県出身だな??
以前から具不思議に思い書きこんでま
↑語尾を省くのは奈良弁の特徴 畿内説に質問
宮内庁が「歴代天王・・天皇」の陵墓を比定してますが
いかにお考えですか?
宮内庁の言うとり?
もしくは、宮内庁の比定した皇族に近づけますか??
以前、畿内説の方で
モモソ=ヒミコはあり得ないという書き込みが有りましたが
彼は、最近このスレには書き込んでいない???? 私は倭人伝の記述からは畿内しか有り得ないという説ですけどね。
倭人伝の解釈から九州説は有り得ないという説です。
以前からおられる方ならわかってもらえると思いますが、
畿内説でも特異な立ち位置は認識してますからね。 以前から具不思議に思い書きこんでま
↑語尾を省くのは奈良弁の特徴
奈良県出身のカメラマン兼 古代史家の田中八郎曰く
語尾を省くのは、権力者に付け入るスキを与えないため
大和誕生と水銀―土ぐもの語る古代史の光と影 単行本 ? 2004/4
田中 八郎 (著) >>723
奈良在住者から言わせてもらうが、奈良言葉はそんなんじゃないよ。 >>727
うそをつくな!!
奈良県出身のカメラマン兼 古代史家の田中八郎曰く
以前から具不思議に思い書きこんでま
↑語尾を省くのは奈良弁の特徴 オレオレ詐欺 私私詐欺
こういうのは犯罪じゃなかった? 奈良の喋り方は奈良市近辺と桜井や橿原、葛城辺りでは微妙に違います。
五条や吉野辺りもまた違いますよ。 >>723
しかり
私は天理市在住
纏向は県教委もしはその上で調査すべき。。
桜井市の教委と言うか行政区にはスレ主も嘆いている。
◆FAQ 48
調査には種々の制約がある >>727
うそをつくな!!
おまえ、設定とちがい奈良県出身じゃないな?? >>531
>弥生時代の畿内には朱が使われていた 形跡はほとんどなく 発見されたのは二箇所のみ。
うち一か所は棺に詰めると言う
よくわからない使い方がされていたから 使用する文化はほぼなかったと見て良い。
手には入れたがどう使うか わからなかったようだ。<
成程。田舎のご大尽そのもののように見える。 >>722
言ってることにまるで中身がないな
まるで九州説そのものだ >>724
どうも考えてない
どうでもいい
政治の決めることは学問と関係ない >>732
奈良県出身ではないですよ、元々は和歌山の伊都郡あたりです。
でも奈良県に住んでる方がずっと長いですからね。 730 : 孝霊厨
神仙思想は2から3世紀に倭国を網羅したと思いますか。
時代的には、5世紀以降だと思いますが・・・
邪馬台国は神が支配したのではないと思います。
倭国で統一した神は??????????????????? >>738
道教も豊前が発祥
宇佐神宮とか不思議だろ、あんな辺鄙なとこになんで?? >>738
画文体や三角といった神獣鏡が畿内中心に
確認される以上は神仙思想的な物が
日本列島に及んでいるとみるのが自然です。
呉や狗奴国の動向までは推測せざるを得ないですが。 >>534
>縄文時代からの水銀朱精製跡が畿内であるのに 何寝言いってんだ、九州バカはw<
縄文からなら、当然「列島の縄文人全体や出雲系」の文化であったんであろうし、
弥生倭人が渡来して来ても、在地縄文人はそのまま使用しており、
弥生人もその風習を採用していた事になり、
列島全体の「丹」は、「市」を介して、筑紫倭國へも搬入上納していた事になるだけだな。 >>742
でも九州に無いじゃん
デタラメばっかり言ってるな >>740
一大卒ということばが墨子に関連してるのでは言ってた学者がいる
一大卒ということばが墨子にだけある
卑弥呼の鬼道ということばも五斗米道にある
魏の使いが見たのは当時、北部九州で栄えていた
倭流の道教だろう >>540
>弥生時代の精製跡なんてなら紀伊半島、特に伊勢辺りに沢山ある。
また鍵唐古でも確認されてるよ。<
(縄文以来の)文身國の出雲系の習俗で説明が付いてしまう。 >>745
根拠でもあるの?
九州説はいつもそう
理由も言わずに
ただ言い張るだけ 九州なら、すでに三種の神器や八咫の鏡、鳥居などがある時代なので、鬼道とは古代神道のことだろう。 >>745
祓いのまつり
なんていったか忘れたが、あれが日本神道の発祥だよ >>542
>つまり北部九州が奴国で畿内は邪馬台国、これで何の問題もないな。<
「邪馬台国」なんてないし、
「南≠東」や、
「大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」で、
何も問題がないな。 >>543
>紀伊というか三重の朱の採掘遺跡には
縄文時代の発掘の痕跡はあっても
弥生時代の発掘の痕跡はないよ。
奈良時代にはまた採掘を再開するようだけど。<
紀伊というか三重も、出雲の文身國や、毛人蝦夷系の文身習俗であった、
という事で説明が付いてしまうな。 >>746
だが神仙思想の影響ならやはり神獣鏡の状況からは、
畿内方面と言わざるを得ないですよ。
丹生神社の集中具合からみても。 邪馬台国はすでに弱かったんだよ
ただ、鉄とか絹を作る能力はあった
なぜ絹を作れたか
前漢は蚕の持ち出しを厳しく取り締まってた
なんらかの不正な手段で手に入れて
なんとか邪馬台国の産物にすることができたんだ
だから、じぶんたちのもってるチタンの少ない優良な砂鉄の産地に警戒が厳重だったんだよ
それが一大卒
あとはまじない水と御札のいわゆる鬼道
脆弱な政権、部族連合体だったからこそ狗奴国との戦いで、シナの援助がほしかったんだね >>561
圧倒的勝勢の九州説に抵抗するには、
大和説者は、ウソ情報を流すくらいしか 手がないんだろ? w 。 まず九州説の人達は倭人伝をよく読んでますか?
単なる邪馬台国特集や解釈本しか読んでないんじゃやいですかね?
ヤマタイでもヤマイチでもいいですが、戸数では最大とあります。
また卑弥呼が都と定めたともありますが、
これは生まれたとも解釈できますからね。
また卑弥呼が生まれたのか、女王として即位した
場所なのかという解釈上の選択肢もあります。
また狗奴国がどんな国か、また台与は邪馬台国の女王なのか
はっきりしてる訳ではないですよ。 >>583
>平原、祇園山といいうしょぼい墳墓が2つしかない九州に有力な候補地が目白押しだとwwww<
候補地なんて、沢山要らない。
卑弥呼と壹與の二人墓で、ちょうどピッタリなんだよ。 圧倒的勝勢の九州説に抵抗するには、
大和説者は、ウソ情報を流すくらいしか 手がないんだろ? w 。
延喜式 出挙稲数 >【稲作の分布】>古代は九州のほうが圧倒的に大きい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000
西海道 5,990,581 @@@@@@@@@@@@@@
筑前 790,063 @@@@@@@@@@
筑後 623,581
豊前 609,828 @@@@@@@@@@
豊後 743,842
肥前 692,589 @@@@@@@@@
肥後 1,579,117 @@@@@@@@@@@@@@
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3920
延喜式は10世紀だから、古代3世紀ごろはもっと差が大きいんじゃない
弥生時代の農業生産はおそらく畿内全域と九州で10倍くらいは差があったでしょう。
九州に7万戸でも畿内には7000戸とかでしょう。
畿内の狭い見識を九州や他の地方に当てはめて論じています。 文明を発明したのは縄文人
古代エジプト王国(邪馬台国)を作ったのは縄文人(シュメール人) >>761
金沢大学の半沢英一氏の著書「邪馬台国の数学と歴史学」を拝読すると、
当時の中国の数理天文学書や数学書を典拠として魏志倭人伝の行程が
極めて合理的に論証されているので、私には半沢氏の九州説が妥当と思え、
魏志倭人伝の記述の南を東に読み変えねばならない畿内説は分が悪い気がする。
第6章 傍線読法の典拠としての中国古代数学
29 『周髀算経』における先行動詞が無い「至」
30 『九章算術』における先行動詞が無い「至」
31 『九章算術』における先行動詞が有る「至」
32 中国古代数学におけるゼロ「無入」
33 中国古代数学の語法で書かれていた倭人伝行路記事
第12章 邪馬台国大和説批判
55 邪馬台国は日本最強の勢力という思い込み@@@@@@@@@@@@@@@
56 大和説の根拠としての『日本書紀』
57 日本の王は天皇だけという思い込み
58 大和説の根拠としての三角縁神獣鏡
59 下賜鏡ではありえない三角縁神獣鏡
60 卑弥呼の墓になじまない箸中山古墳@@@@@@@@@@@@@@
61 倭人伝そのものが否定する邪馬台国大和説@@@@@@@@@@@@@@
62 前史がなかった大和@@@@@@@@@@@@@@@@@
第13章 前方後円墳王権に併呑された邪馬台国
63 文献から消えた邪馬台国
64 前方後円墳創出に寄与せず、やがて前方後円墳圏に入った九州@@@@@@@
65 前方後円墳王権に併呑された邪馬台国@@@@@@@@@@@@@@@@ >>589
「南→東」や「大和が筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」や、
「殉葬奴婢百余人」などに返答不能な大和説やってると、
こういうウソが 平気でつけるようになるんだな。 >>761
平原よりしょぼくない畿内の王墓を一つでも挙げてみなよ。 神武が立ち寄ったのは、筑紫國菟狹と書いてある。
豊前ではないよ。
速水の次に出るので、関門海峡よりは東側だろうけれど。 >>597
「南→東」や、
「大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」や
「殉葬奴婢百余人」の墓で、
こんな感じに、いつも具体的な反論がなく、
クレームばかりなのが、・・・・アホの大和説狂の特徴 。 >>768
神道なんて一朝一夕に成立するわけはなく、それも起源の一つだろうけれど、伊都平原も神道の起源の一つだろうね。 平原の鏡の年代については、寺澤も柳田と同じ考えらしいな。 >>767
また根拠なしの言い張りか
だから九州説は・・・ >>601
>ちいさい古墳がゾロゾロある地域と 巨大なのがドンとある地域 どっちに王様がいたと思う?<
ちいさい古墳がゾロゾロある地域の方が、
安心して住んでいる住民が多い事になるから、
首都もある、と思う。
巨大なのがドンとあれば、そりゃ、トランプらのように、怖い王がいるんだろうなあ、と思う。 これは王の墓ですよ、という意味で三種の神器を副葬し、入り口に鳥居くらい立てただろ。 >>603
「南→東」の嘘つきダマシの大和説者は、
よく判らんが、
またなんか史料の詐欺改竄でもしたのかい? 。???。 >>601
>ちいさい古墳がゾロゾロある地域と 巨大なのがドンとある地域 どっちに王様がいたと思う?<
「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』そのものにあるのである」
『ピラミッドの謎』1975 メンデルスゾーン博士
あるいはかなりの地方に高地性集落があらわれる。
弥生中期。あらわれかたも1回ではないのです。
同じ集落をまた修復して使ったりしていますが、しかし古墳が
できるようになるとそういうものはほとんどなくなっていく。
なくなるばかりか、ここがまたおもしろいのですが、
かつての高地性集落のあったうえに、あるいはすぐ付近に、その地方でもっとも古い前方後円墳が
突如として築かれる場合がある。
いまのところこの謎はちょっと解けない。
森浩一「考古学の模索」1978 学生社
銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27
臼田 篤伸 (著)
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。 古墳が造られたのは約400年間だから
基本的に時期別に見ないとだめだよw >>>457: 孝霊厨
邪馬台国論叢自体、ぶっ飛んでますが、
言ったもん勝ちの風潮にはヘキヘキします。 邪馬台国に対する下賜品が書かれていて
ー鉛丹というのは法隆寺の壁画なんか描くときの原料として、
密陀僧に使われています。
小林行雄先生の「古代の技術」によりますと、これまでのところ
鉛丹・四酸化鉛は法隆寺以前はどうも見つかっていないのですが
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
そういうものを各50斤もらった。
近藤喬一・山口大学教授の話
「石塚山古墳の謎」海鳥社 1981 >>606
大和説者の投稿って、政府賛美ばっかりだから、
北のラジオ放送や読売産経やNHKに似てるね?。 >>773
ただ、寺澤もイト国倭王権東遷説だからな、限界はあるよ >>777
神道? 鳥居? 神道、鳥居と言えばやっぱり忌部でしょう。 @阿波
忌部の郷 忌部山黒岩 忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)
http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg 20年間ほどの期間 現在のJR法隆寺駅の南方の川岸周辺に寺院資材が大量に積み上げられて置かれた。
地名が「置留(おきどめ)」→「興留」として残る。
古建築秘話 / 伊藤平左エ門‖著 / 鳳山社 , 1962
おもしろ歴史話 法隆寺移築説
宮大工の棟梁の家系に生まれた十一世平左衛門が書いた「古建築秘話」で伊藤平左衛門は、建築に使われる
尺度の歴史的違いに着目することで、法隆寺は後世の再建で、別の場所から移築されたと結論付けた。
高麗尺で作られていて、当時奈良に都がなかった為に他所から移築と
新たな支配者による圧力のもと、転封(移封)という形で、大和の地へ強制的に移転させられた可能性が強いと思います。
今から48年前に、木造建築の専門家が本を出されています。
>>620 時期、伽藍様式が法隆寺に同等なので
大宰府の観世音寺はそんな次元じゃない
法隆寺の心柱の直径と寸法がぴったり合致 ← 法隆寺は、九州大宰府、観世音寺から移築された
鳳山社 , 1962 ← 長生きしてれば九州王朝に賛同したはず
邪馬台国に対する下賜品が書かれていて
ー鉛丹というのは法隆寺の壁画なんか描くときの原料として、
密陀僧に使われています。
小林行雄先生の「古代の技術」によりますと、これまでのところ
鉛丹・四酸化鉛は法隆寺以前はどうも見つかっていないのですが
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
そういうものを各50斤もらった。 >>781
九州の場合は早良王墓から連続的に捉えないと。
400年は畿内前提の話ですね。 >>607
>古墳の大きさで見ると当然だが、大>中>小 卑弥呼の墓は当然大であろう。
ところがもう一つ重要な尺度がある。 立地場所だ。 高地>中>低地 箸墓は低地だ。
大和盆地の高地とはどこなのかよく考えろ。 大和盆地の高地にヒミコの墓があるのだ。<
卑弥呼の墓は、当然「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」だ。
これにパスしない墓は、始めから全く権利無し、だな。 >>772
そうかな???
歴史は勝てば官軍で今の歴史学者は裏を追及してますよ。
かつて英雄だった人が,どんなに卑劣な奴だったか・・・・
歴史は勝てば官軍・・・・・記紀????ヘンテコな文献です >>609
大和説者は、九州の歴史や発掘物や文化た地理をよく知らないという特徴がある。
ちょんぼや引用詐欺、連呼といった日本人社会では好まれない手法を使う。 偽書の会は連呼人種の反日活動だから
日本政府は悪の枢軸国の政府だろうからね >>781
その通りだと思います
弥生後期=古墳初期としても
邪馬台国との関係を解き明かした学者がいません。
推測、憶測はありますが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ >>791
それは畿内前提の論理だよ。
九州の墳墓を説明できない。 >>610
結局また大和説は、ショーコリもなく、
平原弥生王墓の年代を2世紀にする詐欺に 狂奔するというわけだ 。
業だね。 >>757
古田信者はそうだが、
それ、畿内説も、でしょう
解釈はいろいろとあるのにそれを認めないのは畿内説が多いよ
いつもの日本語訳しか読んでなくて、それが正しいと思い込んでトンデモとレッテルつけるパターン 九州の歴史や発掘物や文化や地理をよく知らない連呼人種はザラコク >>612
古田さんは、
クシフルに登って周りの景色を見た事を書いておられたから、
唐津の地形もある程度知った上での説を書かれた、
日本人だぞ。 >>792 九州の歴史や発掘物や文化た地理をよく知らないという特徴がある。
日本そのものの歴史や発掘物や文化た地理をよく知らないという特徴がある。
おまけに、倭人伝すら読んでいない
読んでいれば畿内説なんてけったいな説にさんどうするわけがない 平原、祇園山は興味深いと思います。
研究が進むことを望みます。 加古川のザラコクや大阪のサイキバの九州説は反日運動だから九州人の九州説とは違う >>615
大和説者の顔は、狸のようなへらへらサギシや、稲田のような狐憑きの顔に、ひん曲がっていた。 加古川、大阪の反日連呼人種が大和説と呼ぶのは
日本の歴史が大和から始まると古くなってしまうからだな >>798
まず冷静に読んでみる事ですよ。
鉄器なんて殆ど出てきませんし多く現れる文字は丹です。
また行程ばかり詳細に論じますが、同様に重要なはずの戸数の認識が甘い。
それじゃダメですよ。
ちなみに私は田中氏ではないです、親子程の差は
ありますし桜井市に住んだ事はありません。 加古川、大阪の反日連呼人種は日本の在来民を征服したいという願望だから
筑紫から征服が始まったことにしなければならない >>662
なるほど大和説ってのは、スローガンを連呼するばかりだ。
中身がないこと夥しい。
学問じゃなく政治思想みたいだ。
そういうことか 。 >>809
そういえば前にも田中八郎かと聞いて違うと言われたの思い出した
有明湾から筑紫にかけて7万戸の営みが目に浮かぶだろ(よく想像するといい >>669
>>確か隋書が、
「漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國」
というような、
後漢書とは少し違う記載をしていましたから。<
>隋書では「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」だな 「邪馬壹」ではない<
隋書も、後漢書や梁書などと同じく、この「邪馬臺」のように、
「則魏志所謂邪馬臺者也」という筆者の考えを書いており、
後代の流行や考えや解釈での「内容説明的な書き換え記載」をする事があり、
信用出来ない事がある。 卑弥呼の時代は中央集権国家の始まりではなく
日本人にとっては共立された祭祀女王がどこの都に居しても征服されたとは考えないだろうが
反日連呼人種には国も歴史もないので日本人が誇りとしている長い歴史が嫉ましい >>814
反日偽書の会は都合がいいとこだけ使うと言ってるだけのこと ようわからない
古墳と邪馬台国の関係
卑弥呼の墓が巨大古墳群の始まり????
ならば天孫族で初めて人間と認められた人???
畿内説は良くわからない」 >>675
大和説者の頭は、たいてい、皇国史観の右翼思想で硬くなった化石。 >>678
大和説者の頭は、皇国史観で壊れてしまって、もう戻らない化石。 九州説の悪いところ
神武東征なんて持ちだす必用ないのに・・・畿内説の術中
西の勢力が東を制圧したのが史実。
神話にも一理あるが、神武東征にこだわる必要なし 史料批判もしない、考古学知識もない古田のところに残ったのは反日だけ >>813
奴国や投馬国が思い浮かぶので無理ですね。
また行程の10日や一月等のハードルもあります。
まぁ私の中で九州説の選択肢は既にないですから無理ですよ。 >>683
>中国から鏡もらえなかった人は論外<
おそらく大和説者であるが、意味不明。 >>685
こういうデマを流して恥じる良心を持たない大和説者が、
どれだけダメな存在か よくわかる www
w >>824
考古無知が読んでも意味不明か勘違いするだけ >>827
寺澤はイカン、真面目な考古学専攻の学生は??だ >>823
さがびよりを買って食べるがいい、2200年の歴史が感じられるだろう
嫁さんが佐賀とか言ってなかったか
一日航海千里の規定により帯方郡から水行10日で末蘆国
さらに伊都国経由で1月(2倍暦により実質半月
心の中で孝霊厨は納得してるであろう 纏向の発掘調査はなぜ。桜井市教委に丸投げされたのですか?
畿内説としては、国家?県でもいいと思いますが・・・・・・・・・・・・・・・
纏向の発掘調査が遅れてると思います。
せめて、県教委に委ねてはいかがでしょうか・・奈良県の行政が問題なのですか
スレ主も指摘してます。
「調査には種々の制約がある 」 寺澤は外面はいいけど橋本あたりに怒鳴りまくるから実にけしからん 寺澤は部下の手柄は自分の手柄だと思ってるだろう
掘り方が悪いというなら自分が掘って見本を示せ 寺澤の馬鹿子弟が暴れ出したな、就職先ぐらい斡旋してやるか。
倫理規定で懲戒免職しててもいい。
あぶないSNS 2ちゃんで爆破宣告した奴逮捕されたな。
ここは平和ですな・・・ 寺澤は」所詮、同支社の落ちこぼれの地方公務員
てがらも何もないが、根底はわかる・・・
彼も踊らされただけだよ。・・・ 纏向は卑弥呼と関係ないって。
ニギハヤヒが神武に屈した伝承があり、
母親が物部の崇神が宮を構え、
物部守屋が支配した。
つまり物部の遺跡だって。
卑弥呼は神(鴨)族。
住んだのは葛城でお墓は高天原。
いい加減に理解しろよ。 寺澤??
今、畿内説を代表する学者は誰ですか?
数人あげてください 今、九州説を代表する考古学者は誰ですか?
数人あげてください >>830
不満なら国会議員に陳情してこい
県でも市でも決められない 本居が、真剣に、本気で、
「邪馬台国を畿内大和、卑弥呼を神功皇后に比定した上で、神功皇后を偽称するもう一人の卑弥呼がいたとした。ニセの卑弥呼は九州南部にいた熊襲の女酋長であって、勝手に本物の卑弥呼(=神功皇后)の使いと偽って魏と通交したとした。」と考えたと思われますか?
こんなアホな説を彼が真剣に唱えるわけがない。
彼は中華への「朝貢」を異常に気にしてますね。
誰が朝貢したのか知ってたからでしょう。
名前が似てる人物、スサノオと帥升を同一人物と一度仮定するだけでヒミコは簡単に解けます。
本居ほどの人物ならやらなかったはずはない。 本居は記紀がなぜ時代を大きく引き伸ばしてるのかを理解した。
その真意を理解した。
だから自分も卑弥呼は神功皇后だとした。
卑弥呼は神功皇后ではないと知ってるからこそ、あえて神功皇后だと言ったのだ。 >>823: 孝霊厨
投馬国の比定地は何処だと思いますか?
わたしは日向です。(太平洋ルート) 名前が似てる人物、スサノオと帥升を同一人物と一度仮定するだけでヒミコは簡単に解けます。
本居ほどの人物ならやらなかったはずはない。
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
(4世紀初〜前)崇神
ほら解けた。
あっという間に解けた。 >>823
倭人伝の邪馬台国は正直文献的にはどこでも比定可能でしょ
日程記述は別文献引用の可能性があり、帯方郡起点の解釈も当然ありうる訳で。
そして、一月が一日の間違いもあり得るし、
東を南と間違ったかもしれん。
ただ一つ言えるのは倭人伝の里数行程記述が北部九州内で終了しており、考古学的にも符号している事。
つまり、北部九州以外に邪馬台国を比定する場合、北部九州との関係が密である事が条件となる。
そうでなければ倭人伝との関係性がなくなるからね。 >>852
制約を責任にするのはおかしい。
ましてや、制約のなかでの結論はおかしい。 スゴィ偏ってる人が演戯で公平ぶると
>>853みたいな滑稽な文章書いちゃうんだよね
w
w
w >>855
すいません
テンプレで疑問に思っただけです。
スレ主のの回答に疑問を・・かれも悩んでるのかな?
よろしければ、少し時間はかかりますがテンプレ精査ください これまでもテンプレを理解できなかったキウスには無理でそ 簡単
纏向調査を県橿原::に任せればよかった
桜井市に移管する必用は無かった。移管したから天理市も省かれた。
県教委も纏向は大した遺跡でないと認識してた。
しかし、桜井市教委で外部であろうが、内部であろうが結果を出す必要あった
よくある話、、、ノンキャリの悲哀 私有地を何の権利があって調査できるのか考えれば簡単にわかる話じゃん 寺澤先生は、ノンキャリだが、キャリアの腰掛とちがう
先生の本も読んで無い方が何を言うのでしょうか
テンプレの前に先生の本を読みましたか? どこの世界でも脳の腐ったモンスタークレーマーはいるもんさ >>853が偏ってるとは思わないが
一月が一日の間違いもあり得るなら、里数行程記述にも間違いがあり得るから
北部九州内で終了することも文献的には確定しないだろうけど
地理的、考古学的に北部九州との関係抜きで想定するのは無理だな >>866
保菌者 …じゃなくて文化庁から県へのの出向者だろ >>853
倭人伝の解釈で邪馬台国は何処へでも比定は出来ませんよ。
確実なのは卑弥呼が都とする場所で七万戸の国です。
また奴国や投馬国からある程度の距離がある南側の国ですね。
そのうち畿内説では方角のみ矛盾がありますが、
間違える理由が説明出来る分だけ畿内説が一番有利です。
また人物や遺跡の候補でも一番相応しいといえます。 >>867
本人じゃないんだが
北部九州と何の関係性もないところに邪馬台国が欲しいのかな >>849
私も宮崎辺り投馬国説の可能性は捨てていません。
でも半島との交流的にはやはり丹波辺りを推します。
畿内へ向かう流れも自然ですからね。 宮崎あたりはそんなに焦って倭国に入らなくても
九州最大の古墳が造られるまでゆっくりしてたらいい 実は宮崎は弥生中期には既に北部に先がけて動き出している ひょっとして中国出土ゼロの銅鏡を
先を見越して国内生産開始していたとか? 中国の学者さんが繰り返し繰り返しこれは中国の鏡じゃないって忠告、じゃなくって警告してくれてるのにね >>869 確実なのは卑弥呼が都とする場所で七万戸の国です。
↑だから、その説は延喜式的には成り立たないから 無知につけこむな、アホ
延喜式 出挙稲数 >【稲作の分布】>古代は九州のほうが圧倒的に大きい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000
西海道 5,990,581 @@@@@@@@@@@@@@
筑前 790,063 @@@@@@@@@@
筑後 623,581
豊前 609,828 @@@@@@@@@@
豊後 743,842
肥前 692,589 @@@@@@@@@
肥後 1,579,117 @@@@@@@@@@@@@@
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3920
延喜式は10世紀だから、古代3世紀ごろはもっと差が大きいんじゃない
弥生時代の農業生産はおそらく畿内全域と九州で10倍くらいは差があったでしょう。
九州に7万戸でも畿内には7000戸とかでしょう。
畿内の狭い見識を九州や他の地方に当てはめて論じています。 >>692
>五瀬兄弟は塩筒老翁から東に良い土地があることを聞いているので
始めから東、倭奴國とかは関係ない <
記紀は、半分×書であり、全面的な信頼性がない。
客観性や信頼性に勝る新唐書日本伝を読みな。 出挙は国の地方機関が種子を強制的に貸与し、収穫期に利子を付けて返済させる納税システムで
稲粟には非常に高い利子率が設定されていた
都市部(平城京や平安京)では、財物の出挙が盛んに行われていた >>693
>南って 邪馬台国がある方角なの? 不弥国から最初に出発する方角なの?
w w w<
不彌國から投馬國への記載は、途中移動の動詞が書かれていないから、
(主行程ではなく)側副傍線行程記載である事になり、
だから、不彌國からの次の主行程は、「南至邪馬壹國」になる。 >>880
反日連呼人種のザラコクの作り話は全面的な× >>700
>九州説はトンデモ読みの賜物 <
大和説は、「南→東」などの嘘吐きダマシの・・・・読みの賜物。 >>882
反日連呼人種ザラコクのご都合サギダマシ解釈 >>701
>>邪馬壹國は、福岡平野の南半分〜筑紫平野、及びその周辺丘陵地で十分であり<
>慶尚南道よりはるかに狭い<
三韓の大国よりも少し小さい位であり、十分。 >>702
>要するに「九州で説明がつく」ってのは 何もかも九州説用に書き換えるってこと
なんだね<
いや、陳寿の記載実の史料実態通り。
そして、要するに大和説者の「説明がつく」ってのは、
都合の悪い記載は、「南→東」のように、
何もかも大和説用に書き換える・・・・サギシだってこと、
なんだね。 >>886
福岡県全体でも慶尚南道の半分以下
反日連呼人種ザラコクの偽倭国は韓よりはるかに小さい 失敗。投稿ボタンを押してしまった。やり直し。
>>703
>投馬国の五万戸が消えてるよ、まさか朝鮮半島か? それこそ方角も滅茶苦茶だぞw<
不彌國から投馬國への記載は、途中移動の動詞が書かれていないから、
(主行程ではなく)側副傍線行程記載である事になり、
だから、不彌國からの次の主行程は、「南至邪馬壹國」になる。
>それに誰もザラコクなんて相手にしてないからいい加減時間の無駄。<
それにこのような「史料事実の改竄解釈」の大和説者のウソダマシの・・・・投稿に、
世間の人々が騙されてはいけないから、
時間の無駄であっても、書き続けなければならない。 >>887
史料批判もせず、記載内容をご都合サギダマシ解釈すれば
どこにでも比定できる
それを連呼するのが反日連呼人種ザラコク >>890
「史料事実の改竄解釈」のウソダマシは全部反日連呼人種ザラコクお前のこと >>210
>(平原の赤瑪瑙の件)二世紀の古い段階じゃない(二世紀末だ)と言おうとしてるのに
「二世紀じゃない」と言ってるかのようにネジ曲げ詐欺 <
半島の赤瑪瑙の盛行は、3〜4世紀だ、という話だった筈。 >>716
>証拠ある事実の指摘だな<
大和説者は、始めから、
「南→東」の嘘吐きダマシや、
「大和は筑紫城の倭奴国から別れた別種の旧小国」の無視や、
「殉葬奴婢百余人」の挙証不能だな。 >>893
反日連呼人種ザラコクは土器編年を信用しないという話だった筈 >>725
>(孝霊)私は倭人伝の記述からは畿内しか有り得ないという説ですけどね。
倭人伝の解釈から九州説は有り得ないという説です。
以前からおられる方ならわかってもらえると思いますが、
畿内説でも特異な立ち位置は認識してますからね。<
倭人伝の記述からは、「南≠東」ですから、大和は有り得ません。
孝霊も、嘘つきダマシの・・・・サギシです。 >>740
>(孝霊)画文体や三角といった神獣鏡が畿内中心に 確認される以上は神仙思想的な物が
日本列島に及んでいるとみるのが自然です。<
古田説では、「神獣鏡」ではなく「人獣鏡」説です。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai5/sankakuf.html
>呉や狗奴国の動向までは推測せざるを得ないですが。<
狗奴國は、女王國などの南に有り、大和近辺にはなりません。 >>740
>(丹)でも九州に無いじゃん デタラメばっかり言ってるな<
あるよ。デタラメばっかり言ってるな。 >>746
>一大卒ということばが墨子に関連してるのでは言ってた学者がいる
一大卒ということばが墨子にだけある
卑弥呼の鬼道ということばも五斗米道にある
魏の使いが見たのは当時、北部九州で栄えていた
倭流の道教だろう<
成程。 >>753
>だが神仙思想の影響ならやはり神獣鏡の状況からは、
畿内方面と言わざるを得ないですよ。
丹生神社の集中具合からみても。<
「南≠東」だから、×だよ。 >>757
>(孝霊)まず九州説の人達は倭人伝をよく読んでますか?<
まず孝霊や大和説の人達は、倭人伝をまともに読んでますか?。
「南が何故東になる?」んですか?。 >>774
また根拠なしの言い張りか。
だから大和説者は・・・・。 狗奴國は、女王國などの南に有り、大和近辺にはありません。
森岡秀人氏は私の尊敬する考古学者でした。弥生後期の土器年代は佐原真氏と共に編年された優れた業績として今でも有効です。
しかし芦屋市の教育委員会の職員の立場もあり邪馬台国畿内説であることは当然予測されるので積極的に氏の論文を検索しようとは思いませんでした。
たまたま小学館発行の「古代史の論点4」を開いたら氏の「年代論と邪馬台国論争」と言う論考があり一読いたしましたがその杜撰と
言うか厚かましいと言うか呆れてしまいました。
氏ほどの考古学者が知らない訳はありません。知ってて言うなら嘘ツキと言われても仕方ないでしょう。
氏に限らず邪馬台国畿内説の方は狗奴国東海説とセットで論を立てます。特定の方しか認めていない事実を互いに持たれあって
邪馬台国は畿内なのだから狗奴国は東海だ、狗奴国が東海なのだから邪馬台国畿内しかないと言った論理です。
−−6段階北部九州は各地の土器を積極的に受け入れが自らの土器を他地方に出してる気配はない。この点人・産物の動きまで示す
土器の分析から九州の一角に邪馬台国を想定することはかなり難しい相談となるだろうーー
魏志倭人伝に邪馬台国が土器の輸出をしていたと書いてありますか。邪馬台国は九州内部だけで完結した歴史です。狗奴国に
ついてはこんな書き方をしてます。
−−(狗奴国の領域について)纏向では内削りの大和庄内式土器であり(東海は)排他的位置を占めるS字甕地帯で高次元の独創性を
誇示しており他からの影響を拒んでいる(中略)いわゆる狗奴国の実質的範囲を示唆している。−−
驚いたことに氏はこれ以外の事実については全く触れていないのです。
邪馬台国問題を土器だけで結論付けた方は氏ただ一人です。森岡さん少しまともに邪馬台国に取り組んでください。
貴方氏本当はよく知っているのです。優れた考古学者なのだから纏向に邪馬台国がないことは一番よく知っている筈です。 >>901
墨子の思想は兼愛(全ての人に平等な愛)と非攻(非戦論)
朝鮮由来の武器を嬉しそうに祭器にしていた北部九州とは正反対 >>906
非攻(非戦論)とはいえ、武器つくってただろ >>907
武器を嬉しそうに祭器にまでして非戦論ってことはないw >>823
>(孝霊)奴国や投馬国が思い浮かぶので無理ですね。 また行程の10日や一月等のハードルもあります。
まぁ私の中で九州説の選択肢は既にないですから無理ですよ。<
まぁ、「南→東」の嘘吐きダマシの犯罪行為の反省がない孝霊では、
まともな歴史を語る事は、永久に無理ですよ。 >>908
墨子って、武器つくりのエキスパート
おまえ、墨子よんでないな
あくまで底の浅い畿内厨!!!! >>909
南に水行も陸行もしない嘘吐きダマシの犯罪行為の反省がないのが反日連呼人種ザラコク >>910
墨家は土木、冶金技術者で、戦は防衛のため
武器を嬉しそうに祭器にして非戦思想とはあつかましい >>912
墨子って、武器つくりのエキスパート
おまえ、墨子よんでないな 本居の凄いところは、
記紀でなぜ卑弥呼の時代に神功皇后が当てられてるのか、
その真意を理解した事。
「そうか、そういう事か。なら私も卑弥呼は神功皇后にしておこう」
千年前の記紀編纂者たちに同調、
そして真実を封印した。 >>915
本居宣長は平氏か、ヤマト王朝至上主義やな
源氏の筑紫倭国、熊襲(熊・楚)は敵対勢力ということなんだろう 古事記は出雲史観であり新羅史観、日本書記はヤマト史観であり百済史観であるので
一緒にするでない(いいな鴨厨 こういう>>917のようなバカが出てくる。
文明とは退化するのだ。
本居の時代よりはるかに退化した。 スサノオはもちろん神武も実在しないというような学者。
九州王朝説(大笑い)。
文明とは退化するのだ。
本居の時代よりはるかに退化した。 >>918
鴨厨も本居とおなじ国粋主義者で歴史修正主義ということやな
これは歴史に対する犯罪である
鴨厨みたいなのがいるから文明は退化する 古事記と日本書記の違いもわからんバカがいるからどうもならん(ぷんぷん >>920
>国粋主義者
日本の歴史は中華皇帝への土下座から始まる。
その事に気づいていながら本居は言えなかった。
俺はネットで堂々と言える。
本居の時代は日清戦争の前で中華への劣等感が拭えてない。
俺は現代人だから中華への劣等感などない、むしろ中国人を小バカにしている。
その違い。 917 : subo
>古事記は出雲史観であり新羅史観、日本書記はヤマト史観であり百済史観であるので
古事記は倭国(阿波)の古の記。 @阿波 >>925
中華への劣等感をもってないから堂々と食える。
餃子の王将=焼き餃子なんて日本料理だし。 >>853
>倭人伝の邪馬台国は正直文献的にはどこでも比定可能でしょ<
陳寿の行程説明での記載原則に従う限り、邪馬壹國は筑紫にしかならない。
>日程記述は別文献引用の可能性があり、帯方郡起点の解釈も当然ありうる訳で<
夷人は、「里を知らず日数で距離を説明した」んですから、
投馬國と裸國と黒齒國の日数記載は、倭人からの説明の伝聞情報であり、
郡〜女王の都は、魏使らの計算情報。
>そして、一月が一日の間違いもあり得るし、 東を南と間違ったかもしれん。<
そんな間違いをする確率はほぼないし、起こる筈もない。
要するに、殆ど起きない事を想定するような「嘘つきダマシ」の論は、
宗教や小説などの世界では通用しても、
学問的には×。 ・スサノオはもちろん神武も実在しないというような学者。
・九州王朝説(大笑い)。
・ヒミコは纏向にいたという考古学者。
文明とは退化するのだ。
本居の時代よりはるかに退化した。 >>926
阿波は石棒文化発祥の地
阿波は勾玉文化発祥の地
阿波は銅鐸文化発祥の地
阿波は古墳文化発祥の地 >>928
筑紫は奴国だから邪馬台国ではない。古田説なんて
いい加減誰も相手にしてないから。 >>926
阿波は石棒文化発祥の地
阿波は勾玉文化発祥の地
阿波は銅鐸文化発祥の地
阿波は古墳文化発祥の地
阿波は神道文化発祥の地
>>926
阿波は石棒文化発祥の地
阿波は勾玉文化発祥の地
阿波は銅鐸文化発祥の地
阿波は古墳文化発祥の地
阿波は土器文化発祥の地 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) >>903
後年でさえ方角間違えてる例なんて沢山あるのに
この爺さん何言ってんだか。認知症か? >後年でさえ方角間違えてる例なんて沢山あるのに
根拠のない妄想 >>869
>(孝霊)倭人伝の解釈で邪馬台国は何処へでも比定は出来ませんよ。<
出来ます。邪馬壹國は筑紫です。
>確実なのは卑弥呼が都とする場所で七万戸の国です。また奴国や投馬国からある程度の距離がある南側の国ですね。
<
七万戸は、筑紫で十分です。
また、不彌國で「自郡至女王國萬二千餘里」が殆ど終わってしまっていますから、
女王の都は、福岡平野の南半部分〜筑紫平野部であり、
卑弥呼の墓も「列島で唯一殉葬奴婢百余人に適う祇園山」が最も適切なのです。
>そのうち畿内説では方角のみ矛盾がありますが、 間違える理由が説明出来る分だけ畿内説が一番有利です。
また人物や遺跡の候補でも一番相応しいといえます。<
「南→東」の間違いをする可能性は、ほぼ0%であり、大和は×です。 >>934
現実は受け入れないとダメだよ。
それともやっぱり朝鮮人か?
日本人には何でも反対したいみたいだし。 >>936
筑紫に邪馬台国70000とか。奴国と投馬国の70000が
消えてしまいましたかww >>937
>後年でさえ方角間違えてる例なんて沢山あるのに
あらら顔真っ赤だよw
例を沢山あげてよ >>872
>(孝霊)私も宮崎辺り投馬国説の可能性は捨てていません。
でも半島との交流的にはやはり丹波辺りを推します。
畿内へ向かう流れも自然ですからね。<
結局孝霊も、
「南→東」や「大和→畿内」などの嘘つきダマシのサギシであり、
「大和は筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」の史料事実の否定をし、
「殉葬奴婢百余人」の立証も立論も出来ない・・・・アホな犯罪者です。 >>939
千年後でさえ日本が南側に延びてる地図なんて有名だろ?
隋書の時代でも百済の西側に国がある事になってるからな。 なんだ、筑紫は奴国と書いてあるのか。
本当にザラコクは嘘つきだな、やっぱり朝鮮人か? >>874
>実は宮崎は弥生中期には既に北部に先がけて動き出している <
ウガヤフキアエズ以来の宮崎は、やはり倭奴國の阿毎氏の伊都国系の国であった。 >日本が南側に延びてる地図
それは実測してないだけであって、
実測して方角を間違えるのとは全く別の話だね
>隋書の時代でも百済の西側に国がある事になってるからな
へえw
具体的になにがどう間違ってるのかな?
隋の人が実際に訪れて、方角を間違ってるんだろうね?
>後年でさえ方角間違えてる例なんて沢山あるのに
例を沢山あげてよ >>876
>ひょっとして中国出土ゼロの銅鏡を 先を見越して国内生産開始していたとか?<
三角縁なら、呉系の楽浪鏡師や楽浪流民の渡来による。 2世紀末から土師器が北九州にも出始める。
もちろん畿内にはある。
いわば同一文化だ。
その同一文化の中なら古墳の大きさは序列を決める大きな要素だ。
大>中>小
だから北九州は畿内にかなわない、あきらめろ、しつこい。
ヒミコがいたのは畿内だ。
では箸墓なのか。
序列を決める大きな要素は古墳の大きさだけではない、もう一つある。
立地だ。
高地>中>低地だ。
これに気づかないのは橿原考古研が馬鹿だから。
ヒミコの墓は高地にある。
低地にある箸墓ではない。
奈良盆地の高地、高天原と呼ばれた場所にヒミコの墓がある。
前方後円墳ではない。
こんもりとした小山が2つか3つある。
https://goo.gl/nq8fJu
卑弥呼を生んだ神々のお墓だ。 >>891
史料批判もせず、記載内容をご都合サギダマシ解釈すれば どこにでも比定できる。
それを連呼するのが皇国史観の大和説連呼人種ら。 ×その同一文化の中なら古墳の大きさは序列を決める大きな要素だ。
○タダで酷使できる生口の多さを示す要素だ。 >>941
>後年でさえ方角間違えてる例なんて沢山あるのに
例を沢山挙げられないんだね >>944
例上がってるじゃん、しかもずっと新しい時代でさえそうなのに。
隋の時代だと小さな済州島も東西と南北の広さ
間違えてるとしかいえないからな。
どうでもいいが阿波の癖が出てるぞ、下手くそだなw >>892
「史料事実の改竄解釈」のウソダマシとは、
反対者を全て「反日」呼ばわりして、国民をこっそり共感させて騙す、
右翼的国家至上主義の大和説連呼の・・・・人種のこと。
どこかの政府や、読売産経NHKや、PC会社などと同じ。 >>950
沢山というからには最低3つくらいは示さなければ沢山とは言わない 高鴨神社の社務所の裏の御神域とご神体である神山を合わせると径百余歩。
なにか古来からの「謂れ」のある場所でないとヒミコを生んだ王朝の説明はできない。
高天原(御所市高天)という「謂れ」に文句あるやつはおるまい。
纏向にも「謂れ」はある。
あのあたりはニギハヤヒが神武に屈した場所ではないか。
纏向が物部の遺跡だといい加減に気づけ、馬鹿が。 方角間違い例=倭人伝。
東治の東は九州の南で海の上ですw 魏使は複数回複数人が来日している。
彼らのもたらした現地情報としての方角が間違っていると言いたいのなら、
実際に現地を訪れた中国人が方角を間違った例を示さなければならないな。 >>897
>祇園山古墳は集団墓地<
集団墓地では、
祇園山のような、
墳裾の(複数埋葬の)墓群が、墳頂の箱式石棺の主に従属するような配置を採らないし、
「ほぼ同時期」にもならないし、
当然起こり得る「墓の重複」や「前墓の破壊」なども存在しないし、
何よりも50〜100年位では、62〜100人位の埋葬者が発生し難い。
結局、陪葬であり追葬であり、殉葬。 >>953
「古今華夷区域惣要図」
「東震旦地理図」
「輿地図」
「東南海夷図」
「石刻海夷図」 方角が正解だという証明は未来永劫不可能だからな。
何より壱岐からマツラへは方角記述が元々ない。
よって方角論なんてその程度の信憑性なんだが。 >>959
それ全部「図」じゃんw
実測してないでしょ?
意味わかりますか?
官吏が現地を訪れたにも関わらず方角を誤記載した例
を
沢山
示せないんだねw
>>960
はい、泣きが入りましたw
しょぼw 飛行機で室内移動する現代ならともかく
何日も屋外移動する古代人が太陽の方角を間違えるなどありえないな。 >後年でさえ方角間違えてる例なんて沢山あるのに
不用意な一言のために朝っぱらから資料を検索する泡れな嘘だまし説w 現地で生活する古代人は間違える事はない。
でも間違える例が多くあるという事は
普通に計測手段の不備と伝達ミスだろう。
つまり方角間違い有り得ない説は九州説の印象操作ですな。 >>965
>でも間違える例が多くあるという事は
ここまで例を沢山示せていないね 張政等は親善目的じゃなくて
南の狗奴国と戦う邪馬台国へ軍事顧問として訪れたわけだからな。
戦争相手の方角を間違えるはずも無かろう。
しかも倭人伝が書かれたのは3世紀。
張政等の誰かがまだ生きていた可能性すらある。
狗奴国の方角を改変する=邪馬台国論争から脱落 >>970
実測されてない半ば空想の地図は例にはなりませんな >>971
事顧問として訪れたって根拠は?
ただの空想でしょ 倭人伝が実測じゃないってテンプレで証明されてるよね 2回も檄告喩してるんだから、
狗奴国との戦争に絡んだ派遣であることは明らか。
狗奴国の方角を間違えることはありえませんな。 倭人伝に記載された邪馬台国がどこにあるかを論じているのに
倭人伝が間違っていると強弁する説ってなんなの?w なにか古来からの「謂れ」のある場所でないとヒミコの墓の説明はできない。
平原、祇園山、箸墓、それぞれの場所の古来からの「謂れ」を聞かせてもらおうか。 >>898
>南に水行も陸行もしないのが嘘つきダマシ邪馬一国 <
陳寿の「行程記載の原則」は理解出来ない、
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説の・・・・サギシグループ。 >>979
記紀にヒミコが記載されていないのだから
古くからの謂れがない場所でないとヒミコの墓の説明はできない。 >>976
論破されたバカは相手のコピペミスくらいにしか抵抗できない 根拠もなしに方角を間違えたと強弁しないと成り立たない泡れな説w 971 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/07/17(月) 10:00:14.17
張政等は親善目的じゃなくて
南の狗奴国と戦う邪馬台国へ軍事顧問として訪れたわけだからな。
戦争相手の方角を間違えるはずも無かろう。
しかも倭人伝が書かれたのは3世紀。
張政等の誰かがまだ生きていた可能性すらある。
狗奴国の方角を改変する=邪馬台国論争から脱落 普通の思考だと方角は間違えようがないというのを基準点に解釈を展開するのだがすさまじいな >>990
>>989
お前は今日のタコ踊り代表w >>989
言い張るだけになったな
論破されたしるしだ
w >>906
>墨子の思想は兼愛(全ての人に平等な愛)と非攻(非戦論)
朝鮮由来の武器を嬉しそうに祭器にしていた北部九州とは正反対 <
卑弥呼自身は、倭國乱の終焉のために共立された姫氏なのであり、
武器祭祀の一大率の伊都国の天孫族とは少し違うようであり、
同じ姫氏系らしい狗奴國との戦いに関わっただけ。 >>995
逆だ
お前が論破しなければ
>>989がFAで確定する >>991
根拠もなく自分が普通だと思い込む傲慢が九州説の限界だな 2回も檄告喩してるんだから、
狗奴国との戦争に絡んだ派遣であることは明らか。
狗奴国の方角を間違えることはありえませんな。 このスレッドは1000を超えました。
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