邪馬台国畿内説 Part256 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1501617925/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に面している
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その死亡時期は3世紀中葉である(FAQ30参照)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる
したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場である(FAQ26参照)
その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントにほかならない
そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、
乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、
乃ち布留0期にあるとみることが出来よう ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山並びに渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である
箸中山、行灯山並びに渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない
この神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう
因みに、女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある
これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、
箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する
この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である
乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ
弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があり、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期に中国製威信財の入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争を回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりがあったことを示しており、此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう
後段で触れるところの寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた
纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の大勢という現実を踏まえたものであろう
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する
初期ヤマト政権の性格をアンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは有益である ◆5(倭国の形成と気候変動)
南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況や河内と吉備の交流の深さ等も鑑みれば、
東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を纒向の地に擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの連合であろう
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生し、その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている
それが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあったことは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる
換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起している(松木2014)
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型並びに楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着した(吉田2014)
分節化した統合性の象徴として小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開、
これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる
(この項続く) (続き)
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある
権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する
宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)
これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する
この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る
前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していることと、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料を突合すると、
対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう
北部九州の土器編年で言えば、卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である
そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである
ことに、土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である
その最終段階では、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる
それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である
自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか
A:九州は倭国の一部なので問題ない
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである
水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の値を示し(南2008)、桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南,今津ら2013) である
これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くこと
魏使は九州を出ていないではないか
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか
A:沖縄本島付近の南海上となるため、畿内説以外の説も無理である(◆FAQ40参照)
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できない
このように、行程記事には明らかに誤情報が含まれているので、所在地比定には採用しない
検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる
A:誰も纒向遺跡=邪馬台国だなどと主張はしていない
纒向遺跡は巫女王の居た王都であり国ではない
また、邪馬台国を大和国とする諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって領域としての令制大和国という定義ではない
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した
対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す
(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕がでる(久住2006)
畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系の土器が発見される(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する ◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した
つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である
考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる
前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」とみられる
使訳通じる30国のうち両者の構成比が不明であるが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる
よって判断材料とならない
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、ほとんど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」ともいう(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである
よって否定材料にならない
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる
この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い
準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である
また倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は未だ提示されてない
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える
このことは白鳥庫吉以来縷々指摘されているが、有効な反論がない
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する
したがって測定は存在しない
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば
異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は
信頼できる基準ではないか
これに基づいた里程論で邪馬台国は
九州島内に求められる
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する
ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている
江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く
A:そのような整合性は認められない
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ
(この項続く) (続き)
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている
つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した
これは信用ならない
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)と土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる
一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある
基壇部は水平方向から見ると隆起していない
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない
箸中山古墳の築造過程は
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
と推定できる
葬送儀礼の最も重要な局面で方丘が存在していない可能性があるといえる
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している
方丘築造が後出であるという判断は
箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと
箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で
前方部盛土に遮られる形で消失していること
椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で
前方部に盛土がないこと
等による ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県であり(設楽1989)、九州ではない
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか
A:7世紀或いはそれ以前の出来事について日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報に依拠するのは、学問的でない
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表しているに過ぎない
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること
・唐会要より錯誤発生の過程が時系列的に認識できること
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること
等を勘案すると、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い
卑弥呼の墓があるのは九州だ
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう
弥生絹があるのは九州のみ
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定されている(布目1999)
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している
弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2015)と一致する
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる
九州説にとって不利な条件と言える ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ
箸墓の築造と時間差があるだろう
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である
よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
(この項続く) (続き)
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、並びに初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定されている(次山2009)
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い
これが部分的利用に留まる所以である
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ
伊都国は隆盛のさなかである
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある
これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている
しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿並びに禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である
九州でいいではないか
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している
行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す ◆FAQ 41
Q:平原1号
九州には古くから三種の神器がある
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう
(この項続く) (続き)
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている
また王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている
これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である
弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばからとした(金2011)
これは陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない
確かな根拠などないだろう
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)→1BV型式(3世紀中葉)→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する(高久2009)
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)並びに庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている。
国産に決まっている
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑みるに、景初四年は実在したと考えざるを得ない
史料上で抹殺された年号は珍しくない
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元とともに慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なることとなった
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させるためには景初四年正月の実在が必須である
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、いくつかの記事にその痕跡をとどめている
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌ただしく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定するところの、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである
ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例がなく、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認されている(金原2011)SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している
これが魏晋鏡だろう
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい
2世紀の鏡である
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯もしくは圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)が共存する
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)などがある
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:もとより、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう
これを倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである
少なくともこの政治体制は、甕棺分布域の縮小や漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には最終的な崩壊を迎えたものと推定される(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する微高地上の遺跡とされている
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない
(この項続く) (続き)
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿る遺跡群として極めて重要視されている ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である
「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない
上古音nagが順当であろう
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある
建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】なし >>1
注意*書き込みは
根拠のある内容をお願いします
自分でも守れよ。 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル 前スレの後半は
大変良い議論で勉強に成りました。
テンプレはあまり関心は有りませんが、
スレ提供に感謝します。
できれば、スレ主も議論にご参加ください ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:もとより、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう
これを倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである
少なくともこの政治体制は、甕棺分布域の縮小や漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には最終的な崩壊を迎えたものと推定される(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない
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なにをグダグダ言ってんだ。
纏向は4世紀初〜前半の崇神の時代は王都であった。
しかしそれ以前の3世紀には王都であった文献も伝承も謂れも何もない。
ヒミコがいるわけないだろハゲ。 基本的にどの国でも新支配の台頭で旧支配者は悪となるか存在抹消される
中国でも王朝交代で焚書当たり前だからね
んで、天皇誕生って日本誕生でもあるから、それ以前に王権があった史跡というのは都合が良くない
特に日本書紀に反する物とかね
だから藤原家祖先の中臣鎌足以前の豪族の資料って少ないし、戦国時代でも日本で重視されたのは源氏平氏だろ?
古代日本史のタブーは、天孫族の出自にふれる事ではないだろうか。 倭人伝では、倭国、邪馬台国は平和な国として記述されている。
其の後、4、5、6世紀に何が起こったのでしょうか。
記紀で天孫族の出自を神とする本当の理由はどこにあったのでしょうか。 >>60
畿内は平和で明るい農村の地、九州のように戦乱の跡(武器やそれで砕かれた骨等)は皆無 六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する狂人のみが発症する、心の病。
その症状は、自らに批判的な書き込みを、すべて畿内説スレの>>1◆q8leUXpsw.によるものだと思い込む、というもの。
原因は、逆立ちしても>>1◆q8leUXpsw.に遠く及ばないという圧倒的な差を自覚した上での被害妄想、
あるいは自らを客観視できなくなった六拾弐病患者による、>>1◆q8leUXpsw.は自分をマークしているに違いないと思い込む、
自己に対する超絶な過大評価である。 キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度
>>1のトリに似せた英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうともする最低のクズである
自分に否定的なカキコはすべて畿内説スレの>>1によるものだと思い込む、「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しを多用すること、
2ちゃんでは一般的ではない「スレ主」の頻発、名前欄への書き込み多用、ageなどの特徴ですぐに判別できる
勝手に「本日のMVP」を決めるなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs ◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E
キウスの書き込みを褒めたり、「ワロタ」と応じたり、キウスに対して礼を言ったりする書き込みは、すべてキウス自身の自演である
「キウス扱いされた」などと他人を装う書き込みもするが、バレバレ
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求するが、自分はすぐに名無しに戻るダブスタ、トリスタ上等の卑怯者
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊
日本語の読み書きが満足にできないほか、日本史や日本の地理に関する基礎知識も持ち合わせていないこと、
マスメディアで散々取り上げられる土用の丑の日の日付けを間違っていることなどから、
日本の義務教育を受けていない、海外在住者なのではないかと推測されている ザラコク
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」からの呼称だが、2ちゃんではハンネを使用していない
全レスバカとも
自分の操作ミスを投稿制限と思い込み2ちゃん運営陣を非難したり、
.netと.scの区別がつかず、.scに書き込んだ内容が.netに無いのは運営に消されたからだと主張するような、「超」のつく非常識人物
九州王朝説を唱えた古田武彦の熱狂的支持者で、古田支持者の分裂を招いた、偽書『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張する狂信者
歴史学や考古学に対する知識は皆無で、「素人おじん」を自称しているが、
その「素人」が、古田説に否定的な専門家を平気でこき下ろすという、常人には理解不能な思考の持ち主
ネットリテラシーが皆無で、マナー違反を繰り返す傍若無人ぶりが周囲から嫌悪される原因のひとつであるが、本人に自覚は全くない
リテラシーも皆無で、実際には自分の主張に否定的な内容のものであっても、自身に都合良く脳内変換していることがしばしばある
「全レスバカ」の異称とおり、とにかく自分の信奉する説に否定的な書き込みにはレスを返したがり、その結果、投稿数が異常に多い
レスをつけるということへの執着により、別テーマのスレにコピペしてまでレスを書き込むというもしばしば
しかし、つけるレスは、全文引用したあげく、「自分が支持しないからこの書き込みは間違いだ!」という意味の文言か罵詈雑言しかない無内容のもの
これでも本人は、「自分の主張には必ず理由を明示している」と主張しているのであるから、どだいまともな議論は望むべくもない
以前はYahoo掲示板に常駐していたが、倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近2ちゃんに居付いてしまった
生きる傲慢であり、典型的「六拾弐病」患者 岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張するウソつき
糸クズとも
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読んだり、
伊都国を女王国であると主張したり、
八咫鏡の文様には八咫烏があると主張したり、
お笑いエピソードには事欠かない
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッキナー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である 大和朝廷については、任那政府とは“兄弟”または“親子”関係の政府で、日本では「任那政府」は「大和朝廷」の植民地政権のように書かれている。
しかし、当時の朝鮮半島に比べると日本は後進国であり、後進国から先進国へ植民地をつくったとは考えにくく、大和朝廷は朝鮮半島からの派遣(亡命)者とそれを受け入れた国との連合政府だったと考える。
このため、白村江の戦いでは百済へ援軍を送ったのだろう。つまり、大和朝廷は九州倭人+渡来人の集団が初期の政権であろう。、
また大和朝廷は、九州に始まり勢力を東方へ延ばし、近畿地方へ至る。
よって倭国の中心は九州にあり、のちにヤマト王権により倭国は消滅。 また、その話をしているの?
『遅れてやって来た倭種 藤原氏』
それと『伊達の桃太郎』
門人と書かれている人物、この家は何の系統なんだろう
別にオニ退治の話をしているわけではないよ むかーし伊達郡?そっちに住んでいたことがあるような事を言っていたり、
おそらく寺院に通っていたと思う
自分の家の事?かもしれないのに、
なんで知らないんだよ?と思うかもしれにけど
仕事しに、こっちに来ていて、
留守中??に泥棒のようなものに入られたと言っている 買ったのか、譲ってもらったのか、
または盗んだのか、当人は知っているんだと思う
『サイバーパンク special』
謎の人物 川崎区に住んでいるような話 コミックを調べてみると
四神 四聖獣の事も書いてある
西遊記 オズ 天空の剣・・・など 本当に、あの先祖の写真になる
葱の華、キュウリの葉・・・・。
河童?
泥棒のようなものに入られたというのは、
いつ頃の話なんだろう 中国側の文献では隋書よりも新唐書の方が遣唐使や留学生などの交流が重なっていて、日本への知見がずっと深まっている
新唐書には空海や橘勢逸の名前も出てくるほどだ。
そこには、倭王は昔、筑紫城に居た、その後神武の時に大和州に移った、と明記されている。
これは、記紀の記述そのままで、日本国内になんら利害の無い中国側の記述だから、奈良平安当時の日本側支配層の共通認識をそのまま率直に記述したものだ。 つまり、東遷そのものはあったのだ。 阿波説は前方後円墳の発祥地という説があるし、吉備や出雲の特徴もあるので根拠として薄い。
何よりも前方後円墳の規模・数ともに畿内よりも劣っているので阿波は邪馬台国ではない。 門人となっている人物、
上の名前の読み方「ス」のほう?
家は、本当は「ス」のほう、
老婆が「カ」と言ってるだけだよ
という話 記紀神話に九州北部を征服したらしいエピソードがない
また、、九州北部には「ヤマト」と読める地名が少なくない。
邪馬台国は九州北部、ヤマト王権発祥もしかり、
ただ邪馬台国=ヤマト王権か、邪馬台国と違う勢力がヤマト王権かは諸説あり不明 おかしいな〜と思っているでしょ
家に、それらしきものは何もないけど、
人形の写真なんかも、出来すぎているというか
何か知っているという感じ、
すべて知っている? >>67
なんか考古学者が主張してないと、主張しちゃいけないみたいな発想は、根本的に賛同できませんね。
ここ日本史板ですよ。
それに、私が主張している点も独自説でもなくて、それぞれ考古学者の主張がありますよね?
・日本海ルート説 : 小路田、北條も肯定的
・卑弥呼248年死亡説 : 誰というか、世間の通説(笑)
・伊都国東遷 : 柳田
・畿内おける内向花文鏡尊重 : 寺澤、菅谷、福永
こういう点を無視して勝手に「確定」とか言ってるテンプレが嫌いなだけなんですけどね。 >>78
北部九州は畿内ヤマト王都の出先だから当然 >>78
神武東征の時期が問題だろうね。
2世紀末より前なら、邪馬台国は畿内政権とは別の国だろ。
それを畿内説が否定しまくるから議論にならなくなる。 『よくテレビで鷹の像が乗ってる』
白いケースの話?なかに入っていたもの 255の>>875
>阿波の勢力は、卑弥呼を共立した国々の一つだったんだろうね。<
これもダメ。
卑弥呼共立は、九州やその周辺のみ。
阿波は、Y-N系であるから、おそらく大陸や楽浪からの渡来系であり、
出雲系の銅鐸祭祀の「毛人」部族の一つ。 ケースのなかに
電電太鼓 福助 笠の人形 本
あと・・・よくわからないもの
△の話だと思う おかしなFAQも指摘しておきます。
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
そもそも、このFAQ、1さんの立場なら、まったく必要ないでしょ?
FAQ47に「倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁」とあるんだから、
金印がイトでもナ国でも、まったく畿内には関係ない話です。
しかも、方言差を無視して、古代の音韻が既に「確定」している、なんて妄想も甚だしいですね。
それに「三段読み」という最大の弱点を放置して「倭の奴国」に確定は有りえません。
まだwikiの方が公平ですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%A7%94%E5%A5%B4%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E5%8D%B0
まぁ、どうも「伊都国」と読ませたくない一心で無用なFAQを立てたというのが実情ですね。 255の>>877
>捏造は止めろ。 妄想書くなら九州のスレにどうぞ。 誰も見ないけど。<
捏造は止めろ。
妄想書くなら「南→東の嘘つきダマシ」というスレを立てればよい。。
誰も見ないけど。 数年前の、とあるスレ
何も言っていないのに、
どこかの代表か何か何かなんですか?
というレスがあったり
ストーカー? >>87
賛成。
倭奴国が金印を拝領したのは、考古学的には奴国ではなく伊都国に王墓が建設されている時期だ。
倭奴国として記されていたのは後の伊都国だろう。
おそらく意図的にその辺りの言い換えを用いていたのだろう。
騙すためというよりは、古典文学でありがちな、縁やかけことぱとして。 セイントセイヤの話なのかな
下の名前『市』というような 255の>>879
>鉄器もない 青銅器もない 木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる<
これは、どこの話であったのかな?。
ホケノの事?。 白い服の裏に『市』でしょ、
親の名前も『市』だと言っていたよ
何なんだろう >>75
これはアキレタな
新唐書に遣唐使だってさ
歴史知識ゼロなのか
恥ずかしいやつ それにしても老婆だよ、
二本松のほうの出身でしょ
リューマ?カクベエ?
そのような名前の・・・いたような、
菊人形というのがあって
ということも言っていた、
よくわからない話だよ 255の>>882
>物部も忌部も民を酷使して、巨大古墳を作らせた張本人だろう。
まぁ巨大古墳は元々は、纒向駐屯が長期化した副産物だろうが。(インフラ整備の飽和) <
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国の、田舎のご大尽であり、
母国での倭奴國の後裔の、伊都国や奴國との関係が強く継続しており、
だから、墓性も、筑紫倭國の墓を模倣して、
大きくして背伸びする事で、威張ろうとしたんだろうね。 >>76
>阿波説は前方後円墳の発祥地という説があるし、吉備や出雲の特徴もあるので根拠として薄い。
吉備や出雲も、阿波から進出した、忌部一族(吉備忌部・出雲忌部)が拓殖した地域なんですよ。 @阿波
>何よりも前方後円墳の規模・数ともに畿内よりも劣っているので阿波は邪馬台国ではない。
畿内の前方後円墳は倭国(阿波)の有力豪族(大王の臣下)のお墓なんですよ。 @阿波 スレ主=>>63=>>64=>>65=>>66=>>67=キウス連呼
異常なくらいテンプレ批判する奴を嫌う
論戦はしない、無知だから >>85
九州だ 畿内だと喧しいが、「丹山」一つだけで、とっくに決定してしまってるでしょ。 @阿波 わかりやすくいうと
□□覚明氏
上の名前、同じ漢字を書く、
だけど読み方が違うと言っている
「す□の」
隠された暗号? >>87
なんかいっぱい書いてるが
よく見ると何も反論してない
ただ悪口を言ってる
おかしなカキコ 覚兵衛?
調べてみると旧姓が違っていたりするけど
どういう話なんだろう
「貰った眼だ」みたいな話? 万華鏡写輪眼でいうと貰った眼だ・・・みたいな話なのかな
どちらかの眼だよ、
穴が開けられた写真が貼られていた事がなかった?
たしか覚兵衛?の写真だったような 写真か画像をコピーし、眼に穴をあけて、
貼り付けたのかな
たしか、あったような 覚?家と同じ名前じゃない?
ちなみに家は川崎区に住んでいるんだけど
むかーし伊達郡というところに住んでいた >>889
>バカかな? 吉備も投馬国も卑弥呼を共立した30ヶ国の一つ。<
バカかな?。
「吉備が卑弥呼を共立した30ヶ国の一つ」なんてどこにも書かれていないし、
逆に、「其餘旁國遠絶、不可得詳」の21国と、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」とが、
はっきり書き分けられていて、
21国の中に足摺付近の「侏儒國」の名前がないんだから、
吉備が卑弥呼を共立した30ヶ国の一つではない。
>あくまで王は女王卑弥呼。三世紀中頃以降、女王国(初期ヤマト政権)の墓制は前方後円墳。
那珂八幡古墳があるだろう。おそらく一大率の長官の墓だろうね。<
「南≠東」だから、卑弥呼は、始めからヤマトの女王ではないし、
卑弥呼は、阿毎氏ではなく、姫氏。。 255の>>895
>何の問題もない 後円墳の直径だもの <
「径」というものは、
「方〜」では表せない方形以外の、
「長径」での表記文字なんだよ。 225の>>896
>その楼閣の絵が鍵唐古にあるというのをどう見るかですね。 <
おそらく、出雲系銅鐸部族の楼閣?であり、
大和盆地内で、まだ、神武後裔の阿毎氏に服属する事を拒否していた部族。 >>87
まぁ、どうも「伊都国」と読みたい一心で無駄なカキコをしたというのが実情ですね。 誰か殺したりしたの?
この外道・・・が!
と言ったりしている人がいたけど
写輪眼関係の話? 纏向は4世紀初〜前半の崇神の時代は王都であった。
しかしそれ以前の3世紀に王都であった文献も伝承も謂れも何もない。
ではそれ以前、3世紀の宮(王都)はどこにあった?
葛城だろ。
欠史8代のうち孝安まで葛城だろ。
しかし葛城に天皇がいたとして、それは女王国ではない。
おまえらそう思うだろ。
女王国と天皇のイメージが合わないだろ。
天皇・皇后という称号は7世紀に創られた。
それ以前は大王(おおきみ)だな。
では孝安まで大王であったか。
違う。
大王なら后(奥さん)以外に複数の「妃」がいるはずだ。
しかし神武から孝安まで妃がいない。
彼らは大王ではなかった。
3世紀推定世代系図
(大王)
ヒメ踏鞴 神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ蹈鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初) 御所長柄の多鈕細文鏡はB型
御所長柄の首長が王を称した可能性は有る
面径の近似したB型2面が小郡若山の甕から出土
B型は慶尚北道月城入室里
江原道の襄陽釘岩里と横城講林里で出土
粗文鏡から進化した細文鏡の分布域は倭人伝でいうところの韓地
おそらくは箕子の末の準王の子孫とその取巻きの韓氏に絡んでいるはず
御所長柄のロケーションは紀ノ川側からのアクセスがとても便利 225の>>897
>なにがデタラメ? 具体的な指摘のできない方がデタラメでしょ<
「南→東」の嘘つきダマシや、
「大和は筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」などの、
史料事実を否定抹殺した事がデタラメ。 >>118
>御所長柄の首長が王を称した可能性は有る
とりあえずありがとう。
しかし、
>御所長柄の首長が王を称した
首長?
バカたれ。
神だ。
高天原に住んでた神々だ。
神は水源に住むのだ。
名柄は見事な水源だ。
下々の者が食料を運ぶのだ。
神を首長などとは君は頭が高い。
控えろ。 255の>>904
>(孝霊)北部九州に邪馬台国は100%ありませんよ。 私は安本先生と直接対決したい位ですね。<
「大和に邪馬壹國」は、99.5%以上ありませんよ。
「南≠東」であるし、
大和は、
「倭國の中の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」
という関係しか繋がっていなかったんだから。
>倭人伝を完全否定しない限りは無理ですから。<
倭人伝の記載を完全否定しない限り、大和説は無理ですから。 小郡若山に居られなくなった理由として
大切に取り扱われたツール:鏡種のその遷移が関係しているだろう
細文鏡ががらっと漢鏡に置換わった背景には
小郡若山に居られなくなった首長とその族の移動があってあたりまえ >>120
禁書の詔勅が8世紀初頭にあり、7世紀に滅亡した筑紫倭国の史料を破棄したことが明らか。 >>110
>姫氏というのが、
>後の神武になったの?
神武は博多の天孫族王家。
姫氏は有明海沿岸の肥国王家。 255の>>906
>大半の北部九州説はそこに伊都があった事を証明してるだけですね。
ここの書き込みを見てるだけでもわかります。
平原は女王国から派遣されていた人物の拠点、それで全て説明可能です。<
大和説者は全員が、最低「南→東」の嘘つきダマシである事を証明してる、
というだけですね。
ここの書き込みを見てるだけでもわかります。
大和は、「筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」の田舎のご大尽であった、
という事、それで全て説明可能です。 証拠はない!何故なら隠蔽されたからだ!
バカがひっかかる陰謀論 >(孝霊)北部九州に邪馬台国は100%ありませんよ。 私は安本先生と直接対決したい位ですね。
九州説というのは、天皇の朝貢を認めたくなかった畿内説者(本居宣長や新井白石)から出て来たウンコなのだから、
100%ないのは当たり前。 畿内説側はこれで反論したことになっていると思っているのかな。 >>130
それは昔の九州説で、今は誰もそんなことを唱えていない。
畿内説の主張はいつも時代錯誤。 >>131
反論って何に?
トンデモさんはいつも日本語が不自由 >>132
そんな言い訳で歴史的事実は変わらんのだが 255の>>919
>まず倭人伝に丹と鉄の文言が何回登場して、 全文言中何パーセント占めるか聞きたいね。<
九州には、丹山も丹木も鉛丹も朱丹も、
鉄鏃も五尺刀も矛も絹なども十分にあるが、
それらのものが、大和に、
九州を大きく上回る位あるのか?が聞きたいねえ。 >>132
でも九州説は本居宣長の時代からさしたる進歩がないよな 225の>>923
>(孝霊)柏原、信貴山周辺が何らかの拠点なのは否定出来ません。
何しろ弥生中期に多細紐文鏡の最大級のものが
この場所にありますからね。誉田神社、最古のものもこの場所です。
宇佐よりも古いのも触れられませんが事実ですよ。<
多細紐文鏡は、当然半島系部族の渡来を示すのであり、
饒速日でもよいし、出雲経由の半島部族の渡来でもよい。 >>136
印象操作はやめていただけませんかねえw 225の>>931
>丹は紀伊半島が最大級の産出地、<
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国で、
倭國の「地方の市を監督する大倭職」であったんだから、
大和周辺の産物は、市を介していくらでも筑紫に搬入して貰える。 225の>>941
>倭人伝において行程論は戸数とセットですよ。
大半の九州説はそれを無視してる時点で論外です。 <
孝霊は、行程論では、「南」を無視している点で論外であるし、
戸数でも孝霊は、
馬韓の「凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸」を無視している点でも、
論外です。 225の>>931
>丹は紀伊半島が最大級の産出地
有る有る鷺乙 『古事記』で最初から「大御神」と呼ばれているのは、伊邪那岐大御神を除けば天照大御神と迦毛大御神だけである。
ならばまず第一に【迦毛大御神】とは誰なのか考える。
別名アジスキタカヒコネ。
キーワードは「高天原」「暴れる」「剣」
これはもうスサノオ。
天照大御神こと高姫(シタテルヒメ)は実際は妹。
2人とも高天原(御所市高天)に実在した。
最高神・迦毛大御神ことスサノオ。
107年洛陽に渡り中華皇帝・安帝に土下座朝貢。
そこから日本神話の創作が始まった。
天照大御神は卑弥呼を意識して「夫がいない、弟がいる、別名が大日孁貴神(おおひるめ)」などと創作された。
後世の人間が卑弥呼と間違えてくれるようにエサを撒いたのだw
実際のヒミコは5世代後。
■2世紀から4世紀まで
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
(4世紀初〜前)崇神 255の>>953
>お前が捏造、山口や岡山からも出ていて貨泉とも被る。
はっきり河内を目指したルートが弥生中期にある。<
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国や、「倭種」の、
「地方の市を監督する大倭職の国」のルート上であり、
大和と河内とは、別の部族の支配地。 255の>>954
>吉野ヶ里で千戸程度だよ、北部九州に収まるわけないですw <
吉野ヶ里クラスなら、筑紫だけでも何十ヵ国も入れるよ。 >>147
アホ、14万戸維持出来る位の水田跡見つけてから言えよw
畿内は水田跡なら既に北部九州以上に確認出来るだろう。 255の>>958
>奴国で三万戸ですが?
>鉄器ゼロ遺跡で0戸だよ、収まるわけないですw<
この人らは、何を言いたいんでしょうかねえ?。
さっぱり分からない。
脳の病人なんでしょうか。 255の>>961
>卑弥呼が鏡を貰うのは三世紀以降の話ですよ。
それ以前にあるものは邪馬台国以前の権力構図の参考にはなっても
卑弥呼に関しての証拠にはなり得ません。
これも実は九州説の印象操作ですね。
書き逃げで申し訳ないが懇親会に呼ばれているので失礼します。<
この意味不明な投稿も、孝霊の印象操作なんでしょうね。
孝霊は、脳の病人です。 >>139
全く同意する。
劣化する一方だしな、このスレなんか見るとw
もはや今残ってるの安物をはじめ常軌を逸した劣悪なのばっかりw 225の>>962
>7万戸の国は北部九州に限らず、今のところ日本どこでも比定不可能だね <
馬韓で、
「凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸」、
なんですから、
北部九州で十分可能です。 >>149
日本語理解出来ない人ですか?
それともまた基地害のふりして呟き荒らしします? 畿内から出る多細紐文鏡はどうでもいい。
それよりその時代が銅鐸祭祀であった事の方が重要。
銅鐸祭祀の王権は一つしかない。
出雲系神族だ。
スサノオ、大物主、事代主を輩出した。
ヒミコことヒメ踏鞴五十鈴は事代主(えべっさん)の娘さん。
卑弥呼の鬼道とは銅鐸である。
中国人が中国発祥の鏡祭祀を鬼道などと表現しない。
出雲系神族の王権は崇神によって終わる。
神が「鴨」に変えられた。
彼らの聖地は「熊野」に変えられた。 九州なんて遺跡の規模に対して水田跡以外と少ないからな。
奈良盆地は葛城地方にかなりの広さで確認できつつある。 zarakoku悪言集
畿内説者や安本派の九州説者に対して吐いた悪言
人殺し
ケダモノ
大量殺人者
狐憑き
脳の病人 >>148
>畿内は水田跡なら既に北部九州以上に確認出来るだろう。
これだから畿内説はアホ
なんでも畿内が一番だと思い込む
井の中の蛙
稲作先進地域の九州北部に敵うわけないだろ >>69
遅れてやって来た倭種、面白い表現だな。
伊勢湾、大阪湾、吉備、能登半島は倭人の集積地だが、その他の沿岸部にも広く海洋民族である倭人の領域は広がっていたのかもな。
魏書東夷伝韓条に韓(馬韓、弁韓、辰韓)は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と隣接していると記されている。 この記述が気になるね。
朝鮮半島南部の沿岸部の島々は、元々倭の領域だったのかもね。
BC4〜5世紀頃に淡路島に渡来した倭人勢力。
畿内に置いては、弥生時代中期には、唐古鍵など内陸に勢力を広げたが、基本海洋民族の倭人の居住地は沿岸部だろうね。
朝鮮半島に置いて魏志の時点では、倭人の居住地は島嶼部など沿岸部が主だったが、その後内陸に勢力を拡大した可能性もある。 >>156
へえ、そうなんですか。
ちなみにソースは?
伊都国の平原遺跡における神道の祭祀を見て鬼道と呼んだのでしょうね。
八咫の鏡などは本国にもないものだし、鳥居なども珍しかったでしょう。 >>164
>朝鮮半島南部の沿岸部の島々は、元々倭の領域だったのかもね。
もともと倭人は漁撈を得意とする入墨のある海洋民族で、朝鮮半島の南岸から九州北岸に倭国があり、その極南界に都である奴国がある、というのが中国側の認識です。 九州北部の国々は、女王国(親魏倭王卑弥呼を王とする国)ではない、即ち倭国でもないというのが、魏志の時点での認識です。
魏志倭人伝当時の九州状況
女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。
九州における女王国メンバーは、九州南部を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。投馬国は神武の本貫。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。
女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。
◎重要なのは、一大率支配下の北部九州や伊都国は、女王国ですらなく倭国でもないこと。 >>167
>>>165
>妄想乙
>時代が違うのにね
>>164
>魏書東夷伝韓条に韓(馬韓、弁韓、辰韓)は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と隣接していると記されている。 この記述が気になるね。
時代は違わないですよ。 >>165
三世紀という年代的にも鬼道は後の道教だよ。
元々中国の雑多な祭祀を鬼道と呼ぶ。 >>169
>ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
>一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
>一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。
よくもまあ魏志倭人伝にないデタラメを並べられますね。 >>172
倭国の神道も、雑多な祭祀の一つとして鬼道と呼ばれたのでしょう。 ◎重要なのは、一大率支配下の北部九州や伊都国は、女王国ですらなく倭国でもないこと。
かつて金印まで拝領した北部九州が倭国に含まれないわけはない。
3世紀の時点で、畿内などという勢力の枠組みそのものが存在した痕跡がない。 >>175
それは委奴国=伊都国王の金印。
倭国とは何の関係もない。 >>171
理由も言わずに言い張るだけとは
さすがトンデモ説
>>176
一大率は率に重きがあり、帥と発音も意味も同じとされる。
つまりは太宰の帥のこと。
一大国は明らかに壱岐のことなので、一支国の書き間違いだろうと言われています。 一大率は、ヒッキーだった卑弥呼の代わりに都周辺の支配を行なった。 倭国の都は筑紫の伊都だよ。
魏志には帯方郡から12000里で女王国とされ、10000里で九州北岸に到着している(対馬海峡の幅が3000里とされている)。
福岡県を出ることはまずない。
狭い糸島水道と日向峠以外には進入路がない一方、クシフル山からは糸島平野も博多湾も一望できた。
伊都の東側にクシフル山があり、その日向峠に山城を築き、高千穂宮と呼ばれた。
邇邇芸が、ここは日の出も夕日も照って、朝鮮半島にもまっすぐ道が続く良いところだと評した。
防衛にも外交にも非常に有利だった。
奈良時代には怡土城、戦国時代には高祖城と呼ばれた。
伊都国の東にそびえる王宮は太陽信仰や神仙思想といった初期の神道の舞台でもあり、魏志には日本独自の神道が鬼道の呼称で記された。
魏志には、伊都には代々王がいて、女王が治めていると書かれている。
伊都より北には一大卒を置き検察し、南は狗奴国(熊本)、東には海を渡ってやはり倭人の住む倭地(本州)があるとされている。
伊都は王権の象徴である金印や八咫の鏡が継承されてきた倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は死後に伊都の平原遺跡に埋葬され、八咫の鏡を含む三種の神器が副葬され、鳥居が建てられた。 中国江南から広がった下戸遺伝子。
中国南部の文化である銅鐸。
島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。
日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、大阪湾と伊勢湾。
淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。
唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。
呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。
弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備が中心。
倭人とは記紀で言うなら、イザナギ一派だろうね。 >>182
>魏志には、伊都には代々王がいて、女王が治めていると書かれている。
真っ赤なウソ >>169
帯方郡から投馬国まで行程水行20日、里程なら2万里なんだよ スサノオは難しいが、イザナギの子なので、倭人勢力なのは間違いない。
内陸を荒らしに来る記述があることから、元々は海に拠点を置いたまま、各地を転々とする海賊みたいな存在だったのかな。 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 >>190
よく言った!
(=´∀`)人(´∀`=) >>183
> 弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
>倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備が中心。
その倭人とは、忌部一族を指します。 @阿波 >>189
> 内陸を荒らしに来る記述があることから、元々は海に拠点を置いたまま、各地を転々とする海賊みたいな存在だったのかな。
それも、忌部一族の進出を指しています。 @阿波 >>183
>イザナギの宮があったとされる淡路島。
>倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備が中心。
>倭人とは記紀で言うなら、イザナギ一派だろうね。
捏造乙。
畿内説は考古学的裏付けがないことばかり並べ立てる。
イザナギ所縁の地は博多住吉。
周りは紀元前から王墓がある倭国最古の都である奴国であり、イザナギは王の名に他ならない。
稲作伝来の地も考古学的に博多湾沿岸。
伊勢でも淡路島でもない。 >>197
>伊勢でも淡路島でもない。
それは、忌部一族の本拠、「阿波」なのです。 @阿波 >>190
そういうウソを平気で言い続けてきたから九州説の信用が地に堕ちたのに
言い張るだけで根拠を出さないクズ説が詐欺師であることは
世間からマル見え見え
だから
九州説は支持者を失ったのだ >>197
畿内説支えてるのは考古学的裏づけが主なんだが >>197
>イザナギ所縁の地は博多住吉
博多住吉ってラーメン屋?
豚骨? >>192
いくら一生懸命に説明されても「謂れ」がない。
筑紫から弥生時代の硯が出たよね?
ならば王統譜の伝承は可能であったはず。
にもかかわらず伝承がない。
祀られてる神もいない。
2世紀前半から3世紀後半まで存在した王権の説明ができない。
そんな地域にヒミコはいない。 >>201
住吉神社だよ。
イザナギが黄泉の国から帰ってきて禊を行なった地である筑紫の日向の小戸(福岡市西区小戸)に立てられたのを、奴国の中心部であった現在の博多の地に移動した。 >三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、
@八咫鏡(やたのかがみ)
アマテラスのご神体でも何でもない。
崇神の母系・物部が日本に持ち込んだ外国の蕃神。
行き場がなくて今でも伊勢神宮境内を20年に一度ウロウロ。
A八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
出雲振根事件の際に出雲から奪った神宝であろう。
B草那芸之大刀(くさなぎのたち)
ヤマタノオロチ云々はもちろん嘘。
スサノオことアジスキタカヒコネ(迦毛大御神(かものおおみかみ))が持ってた神度剣であろう。
この奪った剣で建飯賀田須命を殺したのかもしれない。
つまり三種の神器は崇神によるクーデターの証拠。
気味が悪いから皇室は伊勢神宮に行かなかった。
熱田神宮には行ったっけ?
たぶん行ってないだろう。 卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。
筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。
肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。
考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。
九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。
邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。
邪馬台国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。 【伊都国】
魏志において王がいて魏の郡使が駐在すると書かれた伊都国は、人口が1000戸と少ない。
卑弥呼の王宮の下女は1000人とあり、伊都には王族の他に王宮を運営する舎人と采女、その家族がいたことになる。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都は明確に分離されていた。
伊都国には平原遺跡という3世紀頃の女王墓があり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、特に史上最大の銅鏡であるいわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、強大な権力があったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
伊都国の卑弥呼の宮はどのようなものだったか。
糸島市には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクジフル山の山頂を囲む怡土城および高祖城があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。
ニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓である。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、平原遺跡からは八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。
http://maps.gsi.go.jp/#13/33.541752/130.280342/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
高祖山連峰の
第二峰 416ピーク 高祖山
第一峰 419ピーク くしふる岳
伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。 >>205
イザナギとイザナミは、明らかに凪の波であり、海洋民族であった倭人にとっての重要な言葉。
蛇ではイザナミの方が説明できない。 >>206
>つまり三種の神器は崇神によるクーデターの証拠。
畿内説は反日か。 >>207
そんなこと言ってる考古学者は誰もいない
詐欺だな >>203
>筑紫から弥生時代の硯が出たよね?
>ならば王統譜の伝承は可能であったはず。
古事記と日本書紀には、アマテラスの孫のニニギが筑紫の日向で王に即位したことが記されている。
イザナギが禊をした筑紫の日向と同じところだ。 >>204
博多の住吉大社は普通に住吉三神だし。
ヒミコの時代とは関係ない。
ただし面白い事を言ってあげようか。
スサノオやアマテラスの実像はアジスキタカヒコネやシタテルヒメを見ればいい。
スサノオやアマテラスはイザナギ・イザナミから生まれていない、あれは創作。
実際は大国主神と多紀理毘売命の子供。
多紀理毘売命は「宗像三女神」の一柱。 スサノオこと倭国王帥升は実在した。
実際の両親は大国主神と多紀理毘売命。
御所市になぜ住吉神社があるのか、謎が解けた。 大国主というのは代々王の名称。
「村長さん」と同じ。
もちろん村長どころの人物ではない。
「大国の主」
大国とは倭国全体。
北部九州、出雲、瀬戸内、畿内、東海を含めての倭国全体。 >>204
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」とは、徳島県阿南市橘町周辺を指しています。
その証拠に、その沖合に浮かぶ伊島には「当所神社」が鎮座しており、御祭神に奥津三神(下記)が祀られています。
・奧疎神(おきざかる)
・奧津那藝佐毘古神(おきつなぎさびこ)
・奧津甲斐辨羅神(おきつかいひべら)
面白い事に、この奥津三神は、伊邪那岐が黄泉の国から帰還した際、
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊祓をした時に、最後に産まれた神々です。
しかも、この奥津三神は、日本で唯一、伊島にのみ見られる神で、
日本の他の神社で、他に奥津三神を祀る神社は、何処にもありません。
「奥津三神」 なぜ、このようなマイナーな神を阿波のみで祀るのでしょうか? >>219
>北部九州、出雲、瀬戸内、畿内、東海を含めての倭国全体。
その中心地は「四国の阿波」 忌部一族の本拠地 @阿波 255の>>970
>弥生中期には既に畿内と往来していた、
もうそれだけで充分畿内説は説明できちゃうw<
弥生中期には既に
、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた神武らの別種の旧小国が、
大和の磐余付近を占拠出来ていた。
もうそれだけで、充分大和説は説明できちゃうw。 >なぜ、このようなマイナーな神を阿波のみで祀るのでしょうか?
阿波がマイナーだから >>219
その通り。
その大国主を倒した後に筑紫で即位して倭王となったのがニニギとされている。
その都が筑紫の日向のクシフル岳、すなわち伊都国の東にある高祖山の南の峰、クシフル山。
つまり伊都国が倭国全体を治めた倭国の都。 >>220
>イザナギは徐福、イザナミはお辰である
時代が違う。 255の>>978
>九州説はさすがにムリありすぎw <
大和説や偽書説派は、
「南≠東」や、
大和は、「筑紫城の倭 奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」の「倭國の地方の市を監督する大倭職の田舎のご大尽であり、
大和が倭國を併合吸収継承出来たのは、ようやくは白村江の後になってからであり、
卑弥呼の墓の「大作冢徑百餘歩jun葬者奴婢百餘人」を満たす墓は祇園山しかない、という事と、
文献だけではなく、考古でも、矛や鉄鏃や鏡や土師器や陶器や古墳や絹や「大道が何本もある弥ハイテク工業地域の存在」などで、
博多から大宰府地域が卑弥呼の首都圏であった、という事と、
偽書説派の筆跡鑑定などの挙証の嘘つきダマシの欺瞞を暴かれた事などで、
さすがにムリありすぎw 。 >>229
徐福についてはホアカリ、スサノオ、神武天皇など諸説ありますが 高天原に住吉神社がある。
https://goo.gl/maps/xbECA5WwuRD2
これが謎だった。
倭国王帥升ことスサノオこと 迦毛大御神(かものおおみかみ)ことアジスキタカヒコネ。
母親が宗像三女神のタキリヒメだったのだ。 255の>>98
>1敵対勢力の記事なんて西日本のすべてにあるよ。<
「自昔、祖禰躬kwan甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十五國・・・」があったからでしょう。 >>231
いずれも確証がない。
ニニギが伊都国王なら、イザナギやアマテラスもせいぜい紀元前後になる。
徐福はもっと古い。 筑紫城も、阿波にあったようだ。
「市場町史」より引用
一〇 筑紫城 大影字境目
『阿波志』阿波郡山川の部に筑紫城 亦大影村に在りとあり、
『阿波郡誌』などに筑紫城 大字大影八町坂の南端にあり、東西二〇間(約三六メートル)南北凡六〇間(約一一〇メートル)平坦にして中央に二塚あり、
一を経塚といひ他は詳ならす、西南は大影谷を環らし、東方は境川回り、周囲七町(約七七〇メートル)高さ凡五〇間(約九〇メートル)山頂を経野といふ、城主姓名伝はらす。
とあるが全ての条件を満たす場所は見つかっていない。また遺物が出土したり遺構が残っていないので、どこに城があって、だれが居館していたのかわからない。
郷土研究家の人たちは、総合的に考えてAの地点であろうかと言っている。その理由は、@昔の讃岐から阿波への通路(讃岐―御番所―平間―大影―大楢番所―日開谷の谷川沿いの蛇行した道)A大影村関係B熊野神社関係などである。
一方地元の人たちは、古老からの伝承としてBの地点であろうかと言っている。八丁坂の峠から三割ぐらい下った南斜面にあったが、昔大雨があって崩壊した。そこには番所をちょっと大きくしたような建物があったという。
大影地区で古い石造文化財を調査していると樫原道治という地元の人が、五名への昔の道Cへ案内してくれた。今は余り人の通らない古道の両側に、凝灰岩製の五輪塔が土に一部うずもれて散在していた。
これら五輪塔に関わる人たちが筑紫城のことを知っているのでなかろうか。 >>227
>その大国主を倒した後に筑紫で即位して倭王となったのがニニギとされている。
話 を つ く る な! ガジンは元異人だから徐福ということにしたいんだろうな
全羅道と同じ文化なんだけど >>237
出雲の国譲りから天孫降臨のくだりだよ。
出雲から筑紫への政権交代の記録だよ。 >>217
>スサノオやアマテラスの実像はアジスキタカヒコネやシタテルヒメを見ればいい。
時代が違う。
>スサノオやアマテラスはイザナギ・イザナミから生まれていない、あれは創作。
そんなことを言い出したら、何でもありになってしまう。 255の>>983
>卑弥呼を共立した勢力は、30ヶ国。 普通に考えて敵対勢力だらけ。<
「東征毛人五十五國」時代。
>古墳時代は、全国平定の時代。西日本も例外ではない。<
倭國の別種の旧小国の大和は「市を監督する大倭職」と、
倭國の「東征毛人五十五國 」のお手伝いでのおこぼれ頂戴で、富誇った。
>魏の使者を迎えるのに太平洋ルートを選択せざる得ない理由は、そこにある。
九州から大隅半島経由で潮岬までワープだからな。<
魏使らは、皇帝の詔書や金印や下賜品のような大事なものを運ばなければならなかったから、
人類の常識の「安全最短が原則」であり、
「黒潮に任せて生死は運次第」なんて事は絶対にしないし、
侏儒國までしか行っていない。 >出雲から筑紫への政権交代の記録だよ。
そんなもんないわハゲ。
高天原(御所市高天)だ。
タケミカヅチもそこにいた。
高木神社という小さな神社に祀られている。
半チョン田舎っぺは引っ込んでろ。 255の>>987
>三世紀の北部九州に中国鏡とかほとんど無いよね <
洛陽晋墓と同じタイプの蝙蝠鈕座内行花文鏡のような鏡は、
日本では九州を中心に出土し、奈良県からは全く出ない。 やっぱり九州説の勝利だったんだな
そろそろ敗北が知りたい 出雲の大国主が統治していた国々を明け渡したんだから
北部九州は出雲の従属国だった >>226
筑紫城も、阿波にあったようだ。
「市場町史」より引用
一〇 筑紫城 大影字境目
『阿波志』阿波郡山川の部に筑紫城 亦大影村に在りとあり、
『阿波郡誌』などに筑紫城 大字大影八町坂の南端にあり、東西二〇間(約三六メートル)南北凡六〇間(約一一〇メートル)平坦にして中央に二塚あり、
一を経塚といひ他は詳ならす、西南は大影谷を環らし、東方は境川回り、周囲七町(約七七〇メートル)高さ凡五〇間(約九〇メートル)山頂を経野といふ、城主姓名伝はらす。
とあるが全ての条件を満たす場所は見つかっていない。また遺物が出土したり遺構が残っていないので、どこに城があって、だれが居館していたのかわからない。
郷土研究家の人たちは、総合的に考えてAの地点であろうかと言っている。その理由は、@昔の讃岐から阿波への通路(讃岐―御番所―平間―大影―大楢番所―日開谷の谷川沿いの蛇行した道)A大影村関係B熊野神社関係などである。
一方地元の人たちは、古老からの伝承としてBの地点であろうかと言っている。八丁坂の峠から三割ぐらい下った南斜面にあったが、昔大雨があって崩壊した。そこには番所をちょっと大きくしたような建物があったという。
大影地区で古い石造文化財を調査していると樫原道治という地元の人が、五名への昔の道Cへ案内してくれた。今は余り人の通らない古道の両側に、凝灰岩製の五輪塔が土に一部うずもれて散在していた。
これら五輪塔に関わる人たちが筑紫城のことを知っているのでなかろうか。 >>スサノオやアマテラスはイザナギ・イザナミから生まれていない、あれは創作。
>そんなことを言い出したら、何でもありになってしまう。
じゃエッチせず子供作ったとか鼻から生まれたとかを信じてるのか?w 255の>>989
>あくまでもデマで塗り固める九州説は末期症状だな <
あくまでも、デマや「南→東」などの嘘つきダマシで塗り固める大和説は、末期症状だな 。 福岡半チョン田舎っぺは神話まで盗みに来る。
ほんとチョンそっくりだ。
半分チョンなのだから仕方ないが。 >>238
全羅道は旧百済であり畿内ヤマトが作った
徐福は邪馬台国の開祖なのです >>246
出雲が権勢を誇っていた時期はあったのだろう。
ただし伊都国の邇邇芸政権、後漢書では倭奴国だが、その成立後は筑紫が都であった。 >>250
神話を盗んだのは畿内説。
つ『盗まれた神話』 >>243
>高天原(御所市高天)だ。
そんな田舎に何か遺跡があるか? 255の>>997
>途絶えたから伊都国は没落しちゃったわけだし<
阿毎氏の伊都国は、
姫氏の卑弥呼時代や、317年からの久留米付近の東海姫氏國時代であっても、
倭國内の大勢力であり続け、
阿毎氏系の磐井を出した後も、阿毎タリシホコを出すなど、倭国の王家となり、
没落していない。 伊都国は邇邇芸ではなくて、五十迹手の先祖が高麗国から来ました。 255の>>1000
>九州説終わってるよ <
大和説は、99.5%以上、終わってるよ。 >>257
高麗国の名が示す通り、時代が違う。
邇邇芸の末裔はすでに畿内に引っ越したよ。 >>258
畿内説(名前自体がすでに詐欺)は99.9%終わっているよ。 九州北部には紀元前から続く多数の王墓がある。
考古学的には他に倭国の都はあり得ない。 >>261
金印は当然、政庁におかれた
皇帝の金印が地方の首長に下賜されるわけがない
印文のルールとは、二段国名が取られていたこと
「漢の委の奴の国王」
↑3段細切れ読み 根本的にまちがい!! イトまたはイドと読みます >>261
考古学的には阿波以外に倭国の都はあり得ない。 @阿波 考古学者が主張してもいないことを
「考古学的には」と枕につけて主張するのは詐欺行為 >>259
五十迹手の先祖の時代の国名がわからないから
五十迹手の時代の国名で書いているんだよ >>269
どつちにしろ、記紀ではその前に天孫族は筑紫を出ているから、関係ないよ。
時代錯誤。 ★1800年目の結論〜邪馬台国は移動した!(たぶん!) >>272
考古学的にああだ!こうだ!と主張してるんだから
そう言ってる考古学者がいなきゃ
変だろ? 東夷伝で狗の漢字が使われている箇所は
夫餘伝 狗加
狗邪韓國
對馬國 官曰卑狗
一大國 官亦曰卑狗
狗奴國 官有狗古智卑狗
掖邪狗
犬へんは北方の民族の狄に使う
委奴の読みはイヌ、イナだろう
壱岐から当時日本にいなかった猫の骨が出ている
鉄も猫も起源はアナトリアから遊牧民がなめし革と共に東アジアに伝えた >>277
匈奴は何て読むんだよw
はい、苦しい言い訳終了 >>275
筑紫の日向への天孫降臨の話はこのスレで何度目?
筑紫の日向は住吉神社の故地でもあるのだから、福岡市と糸島市の間の日向峠一帯しかないだろう。
まさか、宮崎県だなどという、考古学的に根拠のない誤読はしないよね? >>274
>★1800年目の結論〜邪馬台国は移動した!(たぶん!)
畿内説は東遷を前提としないと成り立たないけれど、それは多分間違い。 筑紫日向伊都国の天孫族が保有していたはずの八咫の鏡を、神武は持っていなかった。
饒速日との対面では天の羽羽矢を見せて身分を明かした。
では倭国の王権の証とされた八咫の鏡は誰が持っていたのか?
3世紀に卑弥呼とともに平原遺跡に何枚かが副葬された。
壹與は肥前河上神社の祭神となった。
4世紀には筑紫の女王である神夏磯姫が八咫の鏡を所有していた。
その孫の田油津姫は筑後から筑豊を支配していた。
彼らは肥国から進出して筑紫を支配していたのだろう。 >>279
日向峠なんか福岡県民でも西部地域の人しか知らない
連呼は無駄 >>284
福岡県民はもっと郷土愛を持った方がいい。 アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓であると考えられる。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、平原遺跡からは八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。
伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。
平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ない。
卑弥呼の王宮の下女は1000人とあり、伊都には王族の他に王宮を運営する舎人と采女、その家族だけがいたことになる。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都は明確に分離されていたと考えられる。 福岡県の高祖山の最高峰は高地山。
いわゆる高千穂と同じであろう。
古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
九州では、国邑の名前としてフル、ハラ、バルなどを用いる。
http://maps.gsi.go.jp/#13/33.541752/130.280342/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
高祖山連峰の
第二峰 416ピーク 高祖山
第一峰 419ピーク くしふる山
糸島市には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む怡土城および高祖城があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。
筑紫とは、そもそも博多湾を抑える要所である高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。 >>279
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」とは、徳島県阿南市橘町周辺を指しています。
「阿波の岐原」とあるように。 @阿波 >>286
福岡の地理を知ってる福岡県民は郷土愛を持ってるだろう
伊都厨は福岡の地理を知らない >>80
>(岡上)
・日本海ルート説: 小路田、北條も肯定的
・卑弥呼248年死亡説: 誰というか、世間の通説(笑)
・伊都国東遷: 柳田
・畿内おける内向花文鏡尊重: 寺澤、菅谷、福永<
ふーん?。本当か?どうかは知らんが、
この通りだと、小路田、北條も、柳田も、「南→東」などの史料事実を否定曲解している事になるし、
寺澤、菅谷、福永の大和説も、
筑紫に蝙蝠鈕座内向花文鏡がいくつもあって大和にはないんだから、
自己矛盾になってしまうね。
>こういう点を無視して勝手に「確定」とか言ってるテンプレが嫌いなだけなんですけどね。<
賛成。 >>287
平原一号は二世紀末だよ
時代が合わないからダメ >>81
>北部九州は畿内ヤマト王都の出先だから当然<
「南≠東」や、
大和は、「筑紫城の倭 奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」の、
「倭國の地方の市を監督する大倭職の田舎のご大尽であり、
大和が倭國を併合吸収継承出来たのは、ようやくは白村江の後になってからであるから、
「畿内ヤマト王都」は、×ね。 >>292
>>こういう点を無視して勝手に「確定」とか言ってるテンプレが嫌いなだけなんですけどね。<
>
>賛成。
同意 平原遺跡の超大型内行花文鏡は、後漢鏡より後のものだから、魏の時代、すなわち卑弥呼の時代のものだ。 >>291
>筑紫も日向もないではないか。
筑紫は阿波郡地域
日向は地名ではなく、東や南の方向を指します >>299
後漢鏡より後のものだって根拠は?
??? >>300
クシフルは亀旨峰と同じ
降臨神話のある各地に流布してる伝説的地名に過ぎない
実在する特定の場所じゃないよ 北部九州の糸島市にある「高祖神社」も原田大六の説によれば「彦火火出見尊の墓」という。
その説の根拠は「古事記」に「ここは韓国(からくに)に向かい、
笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。
故、ここはいと吉き地」とある事から推定したものである。
(「実在した神話」原田大六著)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日向は宮崎。
神武の先妻アヒラツヒメの痕跡が日南市にしかない。
また崇神時代に宮崎神宮が建立されてる。
この時代に宮崎と認知されてた証拠。
福岡にそんなものはない。
神話でも歴史でも何でも盗むのだな福岡半チョン田舎っぺは。 >>87
>◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?<
松野氏姫氏系図伝承では、
火の国山門渡来して来た呉王夫差の遺民(の一部?)は、
「順」(字は去漫)の時に、「委奴」の地に移って、
その8代位後の「熊鹿文」(姓姫氏、称卑弥子、熊津彦)が、
「後漢光武中元二年正月私通漢土受印綬僭称委奴国王」と左注説明がされている。 神武の子・キスミミはどこにいた?
これも福岡か?
いい加減にしろカッペ。
キスミミの末裔は地元で王であっただろうと容易に推測できる。
それを景行天皇が討ちに行ったのだ。
理由は神武の男系王朝が2つもいらないからだ。 >>306
はいはい、万年筆かなんかで書いてある古文書ね
もう結構 キスミミの末裔を景行が討ちに行った。
ところが日本書紀には熊襲征伐と書かれた。
怒った隼人が日本書紀上梓の年に反乱を起こす。
どうだ、筋が通ってるだろ。 畿内スレで九州説を必死で語りまくるのは滑稽だね。
誰も興味もないのに。 >>90
>賛成。 倭奴国が金印を拝領したのは、考古学的には奴国ではなく伊都国に王墓が建設されている時期だ。
倭奴国として記されていたのは後の伊都国だろう。 おそらく意図的にその辺りの言い換えを用いていたのだろう。
騙すためというよりは、古典文学でありがちな、縁やかけことぱとして。<
松野氏姫氏系図に、明確に「委奴」という地名や国名が存在する、という事は、
「委奴國」というのが、当時の呼称であったのであり、
その国名が、卑弥呼の頃には全く消失している、という事は、
阿毎氏系の伊都国と、非阿毎氏系の(たった百里しか離れていない)奴國とに、
分裂する争いがあって、分裂したのではないか?、と思っている。 >>293
柳田が3世紀って言ってるじゃん
考古学無視ですか 岐須美美命(きすみみのみこと、生没年不詳)は、『古事記』に伝わる古代日本の皇族。
初代神武天皇と、阿多小椅君の妹の阿比良比売(吾平津媛)との間に生まれた皇子である。
同母兄に手研耳命がいる。『日本書紀』に記載はなく[1]、
『古事記』でも事績に関する記載はない。
そりゃ書けないだろ。
キズミミの末裔を討ちに行ったのが景行の九州遠征の理由だからな。 >>305
>日向は宮崎。
>神武の先妻アヒラツヒメの痕跡が日南市にしかない。
王墓も新幹線もない田舎は黙っとれ 本当に畿内説以外は何の説得力もないな。
薄い知識で物語組み立ててるだけじゃん。 九州説なんてマジで興味ないんだけどね。
スレ違いはいい加減消えて欲しい、人に迷惑かけるなよ。 >>318
>薄い知識で物語組み立ててるだけじゃん。
物語も組み立てられない畿内厨 畿内説は物語を捏造する必要ないからな。
邪馬台国はヤマトで何の問題もない。 >>321
物語なんか作ってどうすんの
歴史を解明するんじゃないの? 畿内は悲しいくらいに何もないからなあ。
九州は材料が沢山ありすぎるから整理するのが大変w >>110
>姫氏というのが、 後の神武になったの?<
神武らは(姫氏ではなく)阿毎氏なの。
渡来して来た姫氏の一部が火の国山門から北上して、
委奴の地で、天孫族の阿毎氏と合同(婚姻?)して委奴國を造っていたようであり、
その中で、阿毎氏の傍系であったヒクホホデミ系の五瀬や神武らは、
姫氏勢力に勝てないと思ったのか?、「猶東に行かむ」として、別種として東征して行ったらしく、
残った委奴國か出た「委奴國王」が、後漢に朝貢し、
更にその後で、委奴國が、阿毎氏の伊都国と、百里の至近距離の奴國に分裂したんだろう、
と考えられるんですよ。 九州説を語りたいなら他でやれよ、マジ迷惑。
常識ない奴が何を主張しても無駄だから。 >>317
高祖は天皇家の祖という意味だぞ
お前はどこの人間だ? >>324
整理したいなら九州スレでやれよ。
やっぱり九州説は日本語が読めない朝鮮人なのか? >>322
畿内の4〜7世紀は阿波の豪族の墓場 @阿波 朝鮮人と九州説の主張の仕方が同じというのは事実みたいだね。 何でも起源にしないと気がすまないのも全く同じだねw 西日本で一番朝鮮系の遺伝子が多いのは畿内だけどね。 >>307
>キスミミの末裔は地元で王であっただろうと容易に推測できる。
>それを景行天皇が討ちに行ったのだ。
へえ、そうなんだ。
耳垂とかは卑弥呼のいた邪馬台国の末裔でもあるのでは?
>理由は神武の男系王朝が2つもいらないからだ。
そりゃただの天皇家の内紛じゃん。
九州にもあったんだな。 >>129
>証拠はない!何故なら隠蔽されたからだ! バカがひっかかる陰謀論 <
記紀が、「倭國の存在や歴史を隠蔽して、倭國の歴史を盗用造作した」という証拠は幾らでもある。
例えば、卑弥呼や壹與の二人の事績を、神功の事績であるかのように神功紀に挿入したり、
「厩戸→聖徳太子」のでっち上げをした事だ。
アホは、そんな大和政権の陰謀に引っかかる。 >>333
邪馬台国畿内説スレとは何の関係もない話。
いい加減スレ荒らしは消えろ。 というか、魏志倭人伝には九州の地名人名が溢れているのに、畿内の地名人名は出てこないよね。
それでなんで畿内だと思うんだろうね。 >>338
お前が無知なだけだ、畿内説じゃないならさっさと消えろ。 >>168
>九州説は捏造が好きだなあ<
大和説は、「南→東」などの嘘つきダマシばっかりだなあ。 >>169
>ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。<
この投稿子も、「南→東」の嘘つきダマシの大和説者ね。 九州説は悪口言うだけで反論ができない
消えたのは当然だな >>333
>西日本で一番朝鮮系の遺伝子が多いのは畿内だけどね。
朝鮮系の遺伝子って具体的に何?
ハプログループで言ってくれ。 >>334
>そりゃただの天皇家の内紛じゃん。
天皇家の内紛って…
力が抜ける。 そもそも畿内説が前提のスレ。
ワシの考えた九州説中心古代史なんて何の興味もない。金貰っても断るよw
いい加減マジ迷惑だね。 >>328
>高祖は天皇家の祖という意味だぞ
勝手に意味を作るなw >>179
>一大国は明らかに壱岐のことなので、一支国の書き間違いだろうと言われています<
「大」と「支」は、全く字形が違うし、
裴松之も宋明清代の校勘学者の誰も校勘対象にはしていませんから、
陳寿原本でも「一大」であった事になり、
だから、後代史書での「一支」の記載の方が、
後代の「壱岐」呼称につられて、「何でも間違いだ」としたアホ学者がいた、
という事になります。 >>180
>捏造は九州説のお家芸<
「南→東」などの、
陳寿記載という史料実態への改竄捏造は、
大和説者のお家芸。 畿内説以外はお引き取りください。
該当スレでどうぞ。 >>183
>呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。
弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備が中心。<
「南≠東」や、
大和は、「筑紫城の倭 奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」の「倭國の地方の市を監督する大倭職の田舎のご大尽であり、
大和が倭國を併合吸収継承出来たのは、ようやくは白村江の後になってからであるから、
中心は、北部九州であり、大和ではなく、東征があっただけ。 >>185
>ほらな 二百年間進歩してtないのが九州説 <
ほらな。
二百年間、半分×書の記紀に騙されたままで、進歩していないのが、大和説 。 >>187
大和説=「南→東」などの、史料事実の否定捏造だな 。 >>199
そういうウソを平気で言い続けてきたから、大和説の信用が地に堕ちた。
言い張るだけで根拠を出さないクズ説が詐欺師であることは 世間からマル見え見え 。
だから 大和説は、国民の過半数や6割位からの、支持も失ったのだ。 >>200
>畿内説支えてるのは考古学的裏づけが主なんだが <
大和説を支えてるのは、文献考古共に、
史料実態への曲解や否定抹殺が主なんだが・・・。 >>203
>いくら一生懸命に説明されても「謂れ」がない。 筑紫から弥生時代の硯が出たよね?
ならば王統譜の伝承は可能であったはず。 にもかかわらず伝承がない。<
大和の禁書政策や記紀で抹殺されたが、
それでも、松野氏姫氏系図や歴代中国史書群に書き残された。
>祀られてる神もいない。<
筑紫には、神武らの一族らや兄弟の伝承や神社が沢山ある。
>2世紀前半から3世紀後半まで存在した王権の説明ができない。<
紀元前から紀元後8世紀頃までの「存在した王権」の説明が出来る。
>そんな地域にヒミコはいない。<
「南→東」だから、大和には卑弥呼はいない。 >>211
>筑紫妄想の皆さん方は日本古来の文化を知らないから <
大和妄想の皆さん方は、日本古来の「三種の神器」文化を知らないから。 >>364
オウム返ししか出来ない恥ずかしい人だな
あんたは中身がなさすぎ >>212
>そんなこと言ってる考古学者は誰もいない <
日本の考古学者の殆どは、「大和天皇家一元列島支配」の宗教の、
文部省や権力学者やマスコミや右翼の支配下になっているアホであり、
まともな学者は、殆どいない。
>詐欺だな <
日本の考古学者の殆どは、アホサギシだな。 >>214
>何を言われても証拠を出さないのが九州説<
何を言われても、証拠を出せないのが、大和説。
何を言われても、「南→東」の嘘つきダマシに反論出来ないのが大和説。
何を言われても、文献考古の史料を曲解捏造するのが大和説。 >>215
>何を言われても証拠を出さないのが九州説<
何を言われても、
何の反論も出来ずに、口先言葉尻で誹謗して逃げるばかりなのが、
大和説。 >>217
博多の住吉大社の住吉三神も、「宗像三女神」も、
勿論、年代も氏も違うから、卑弥呼とは関係がない。 >>369
毎日そういう見え見えのウソばかりついてて
なんか楽しいの?
むなしくなんない?
>>218
>スサノオこと倭国王帥升は実在した。<
スサノオは、紀元前3世紀以前であり、倭国王帥升は2世紀であるから、
始めから違う人物。 >>219
>大国とは倭国全体。北部九州、出雲、瀬戸内、畿内、東海を含めての倭国全体。<
いや、梁代になっても、出雲の文身國と、筑紫倭國とは、区別されていた。 ザラコクはただオウム返しをしてるだけ。
yahoo掲示板時代から今もまったく同じ。
何一つ新しい見解を述べるわけではない。
昔、自分が読んだ本を正しいと思い込み、
それをひたすら繰り返すだけの哀れな男。
ただハゲていただけの75年の生涯。 もうすぐだろうけど、死ぬとき何を思うんだろうね
空虚な人生の果て・・・ ザラコクが戦前に生まれて特高刑事かなんかになってなくてよかったと、しみじみ思う >>365
>筑紫には、神武らの一族らや兄弟の伝承や神社が沢山ある。
具体的に何? >>349
>天皇家の内紛って…
>力が抜ける。
ああ、九州にいたのは神武の家系でも天皇家に含めないんだ。
なるほどね。 >>265
>考古学者が主張してもいないことを
「考古学的には」と枕につけて主張するのは詐欺行為 <
考古での、「発掘事実」の報告と、
それに対する発掘者らの解釈や説明とは、
区別しておかなければならない。
「発掘者らの解釈や説明」に対して、
「考古学的には」と枕につけて絶対だ主張するのは、詐欺行為。 >>382
それって
「俺たち他人の褌穿いて踊りたいです」宣言
そのものだよ >>293
>平原一号は二世紀末だよ <
卑弥呼への下賜鏡も、洛陽晋墓と同じタイプの鏡も含まれているようだし、
「玉の女王」であるから壹與の墓であるようだ。
>時代が合わないからダメ<
平原は、土器は周溝だし、少な過ぎるし、
土器自体が重複や後代まで使用の可能性も十分に有り得るから、
平原の年代の絶対的な根拠にはならない。 >>297
>負け組の悲哀<
大和説は、議論に負け組の悲哀。 >>382
つまり「考古学的には・・・だ」と言ってる人は
1 多くの考古学者はこう解釈してる
2 俺様:さまこう
の二人 種だな >>302
>後漢鏡より後のものだって根拠は? ???<
蝙蝠鈕座内行花文鏡は、洛陽焼溝漢墓からも洛陽晋墓からも出土するが、詳しく見ると文様に少し違いがある。
洛陽晋墓の鏡には円がひとつ多いのである。
日本からは、洛陽晋墓のタイプも洛陽焼溝漢墓のタイプも両方出土しており
そして、洛陽晋墓の円がひとつ多いタイプが、筑紫の遺跡群から出土していて、
大和からは出土していない。 >>390
これはさすがに無学そのものってレベルのトンデモ説だな >>307
>日向は宮崎。 神武の先妻アヒラツヒメの痕跡が日南市にしかない。 また崇神時代に宮崎神宮が建立されてる。
この時代に宮崎と認知されてた証拠。 福岡にそんなものはない。 <
福岡には、五瀬や神武の兄弟や、姉のナルタ姫や、
天孫族のヒクホホデミらの神社や伝承がある。 >>307
>神武の子・キスミミはどこにいた? これも福岡か?<
ウガヤフキアエズは、宮崎県に行った後、筑紫に戻った話がないから、
宮崎県にそのままいた事になり、
だから、五瀬や神武ら兄弟も宮崎で生まれて、成人してから委奴の地に行った事になり、
だから、神武の子にとっては、宮崎が郷里。 >>382
同意
わけもわからず考古学的にと言われたら
余計に信用できなくなるよな 考古学的にを、根拠としたいのだろうが
其の手は桑名の焼き蛤 >>308
>(松野氏姫氏系図)はいはい、万年筆かなんかで書いてある古文書ね もう結構<
江戸末から明治の鈴木真年東大教授は、当然「万年筆」なんて知らないし使わないんだから、
画像のような系図になっていたのは、
尾池氏や平野氏が、国会図書館や静嘉堂にあったものを転写したもの。 >>393
>ウガヤフキアエズは、宮崎県に行った後、筑紫に戻った話がないから、
そんな話あったっけ? >>394
まあな
形而上学的に
とか、言われるのと同じだ >>310
>畿内スレで九州説を必死で語りまくるのは滑稽だね。 誰も興味もないのに。<
大和説スレで、九州説ばかりが語りまくられるのを見る事は、滑稽だね。
大和説者は、一生懸命反論するが、何の甲斐のないようだから。 >>318
>本当に畿内説以外は何の説得力もないな。
薄い知識で物語組み立ててるだけじゃん。<
本当に九州説以外は、何の説得力もないな。
薄い知識で物語組み立て、都合の悪い話は、抹殺してるだけじゃん。 >>319
>窮すると 怒鳴って誤魔化す 九州説<
「南→東」などのように、
窮すると、怒鳴って誤魔化す 大和説。 このスレで畿内説を語るのは孝霊厨、鴨厨、岡上ぐらいだろ >>393
確かに伊都にはニニギや彦火火出見の足跡はあるけど、ウガヤフキアエズの足跡ははっきりしないな。
でも筑紫を空にするわけはないから、誰か他のものが筑紫の王を務めてきたんじゃないか?
その後を継ぐために神武らが呼び戻されたのかな?
神武らの出立は筑紫だからなあ。 >>320
>九州説なんてマジで興味ないんだけどね。
スレ違いはいい加減消えて欲しい、人に迷惑かけるなよ。<
大和説なんて、本当は、「南→東」の嘘つきで、マジで興味ないんだけどね。
こんな嘘つきダマシの・・・・スレは、いい加減消えて欲しい。
相手にしているのは、世間の人々が騙されては黙過し難いから。
人に迷惑かけるなよ。 >>322
>畿内説は物語を捏造する必要ないからな。邪馬台国はヤマトで何の問題もない。<
大和説は、「南→東」などの嘘つきダマシの詐欺ばかりだからな。
邪馬壹國は九州で、何の問題もない。 そう考えると、日向三代とやらもまだ謎が多いな。
記と紀で名前が違うし。
それが筑紫を舞台とした倭国大乱につながるのかもしれない。
そして神武らが去った後に混乱を収拾するために卑弥呼の共立されると。
よく、九州北部は様々な勢力がせめぎ合っていたと言われるけれど、それこそまさに天皇家(皇祖を含め)の内紛の歴史そのものだよ。 >>323
>物語なんか作ってどうすんの 歴史を解明するんじゃないの?<
「南→東」などのような嘘つきダマシをしてどうすんの?。
史料事実からの確率の高い帰納的推論をして、歴史を解明するんじゃなかったの?。 >>407
伊都国の高祖宮の祭神彦火火出見に配慮して皇祖ではなく高祖の方が良かったかな? >>327
>九州説を語りたいなら他でやれよ、マジ迷惑。
常識ない奴が何を主張しても無駄だから。<
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説を語りたいなら、他でやれよ、マジ迷惑。
嘘をつく奴が、何を主張しても無駄だから。 >>404
南小路遺跡は木花咲耶姫の墓。
というか、一号墓と二号墓は夫婦と言われているので、これが邇邇芸と木花咲耶姫の墓かと。 >>329
>整理したいなら九州スレでやれよ。
やっぱり九州説は日本語が読めない朝鮮人なのか?<
「南→東」の嘘つきダマシの大和説を宣伝したいんなら、2chを撤退して、
自分のホームページでも造ってでやれよ。
やっぱり大和説者は、
憲法も読めない人種差別ヘイトスピーチの、
・・・・キョクウばかりなのか?。 >>331
>朝鮮人と九州説の主張の仕方が同じというのは事実みたいだね。<
大和説者と、キョクウのヘイトスピーチ人種差別の・・・・の主張の仕方が、
同じというのは事実みたいだね。 >>415
でも実際の遺跡は男性の可能性が高い。
考古学的な実績を優先しよう。
そもそも磐長姫は返してしまったから、いるはずがない。
後世に祭神を書き換えたのだろう。 畿内説の学生さん、どのくらいテンプレ理解しているのだろか。 >>420
キウスの理解度は0だからキウスを基準にすると何倍しても0になっちまうぞ 釣られちゃった、スレ主
WWWWWWWWWWWWW ニニギの墓は宮崎。
山そのものが墓域。
神武も畝傍山そのものが墓域。
福岡は関係がない。
邪魔だ消えなさい。 元からキウスだとバレてるから釣ったことにはならないぞ
バカには釣りやバレる意味は分からんだろうがな >>420=>>421=>>>>424=スレ主
WWWWWWWWWWWWWWWW
天理市の件突っ込んだら、テンプレ加筆したのも面白かったよ キウス連呼爺さん=スレ主
も直ぐにわかったよ
WWWWWWWWWWWWW
テンプレの中に挿入したときは大笑い キウスって正体を突っ込まれるとすぐに馬脚を現すのな ちっちゃな頃から悪ガキで
15で不良と呼ばれたよ
ナイフみたいにとがっては
触るものみな傷つけた
あー わかってくれとは言わないが
そんなに俺が悪いのか
ララバイ ララバイ おやすみよ
ギザギザハートの子守唄
では、おやすみよ 自分の書き込みに突っ込まれたら全て>>1認定
バレバレなのが原因なのに理解できないようだ >そんなに俺が悪いのか
やっぱり自分の悪行を分かっていない引用だな 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう 自分の愚かさを客観視できない思い上がりの塊=キウス 邪馬「壹」國
↓
↓→→→ここで間違えた人誰?
↓
邪馬「臺」国・・・・・(臺灣の臺)
↓→→→ここは理解できる
邪馬「台」国・・・・・(台湾の台) >>436
だれか知らないが日本人だろう
三国志の写本も邪馬「壹」國 ・・・(原本は無い) 邪馬「臺」国
↓
三国志の原本に近い写本を見て書かれた史書は邪馬「臺」国
↓
宋代の印刷屋が意図的に邪馬「壹」国に改変 名古屋市緑区の
タイワン料理店へ行ったら
「臺灣」と書いてあった。
邪馬壹國を読みや発音からヤマトにつなげるのは疑問
邪馬壹國≠ヤマト王権じゃないの >>438
ありがとう
似てるから間違えたのでしょう
中国にとってはどうでも良い事だが
日本の考古学には迷惑な話ですね 否???
宋代の印刷屋がヤマトに似せるためにあえて改字した???
謎 新井白石や本居宣長は邪馬「臺」国・・・・・(臺灣の臺)
で邪馬台国を論じていたのだろうか
そうであれば、畿内(ヤマト)を眼中に入れる要素の一つであったのだろうね。 >>442
避諱ですか、
いずれにせよ邪馬台国論争でのポイントですね。 釈日本紀は「臺」だね
松下見林、異称日本伝も「臺」 >>444
通説は「臺」、「壹」という人は素人だけ >>443
興味ある発想
両名に責任は無いが、大きな間違いを犯していたかも >>447
白石や宣長が邪馬壹國OR邪馬臺国で論じたかは知る由も無し
邪馬壹國だと思うよ、博識ダカラ 教科書も
邪馬壹國を
<略称> 邪馬台国とかヤマタイコクとカタカナ表記する必要がある >>449
簡単 彼らの書物に「邪馬台国」をどのように表記しているか見れば良い
おれは見たこと無いので知らない 誰か教えてくれないか 現行の活字本だと「台」なんだよね
原本にあたる必要があるんだけど、江戸時代のやつは見にくい 倭国大乱(九州北部〜西日本各地の戦乱)
↓
ヤマト部族の卑弥呼を女王に共立
↓
九州北部から近畿にかけての邪馬台国連合の成立
↓
邪馬台=ヤマトの名称を継承し近畿を本拠地とする
↓
238年に魏に使者を送る(親魏倭王)
↓
卑弥呼死後に男王が立ち内乱となる
↓
壹與が王に立つ
↓
倭の五王
↓
ヤマト王権
↓
天皇家
政治機構は近畿に移り主導権は最終的に天皇家へ移った
現在、天皇家が祈祷を行うのは卑弥呼のシャーマニズムの名残、国王が祈祷を継承している >>455
>↓
>邪馬台=ヤマトの名称を継承し近畿を本拠地とする
>↓
この行には決定的に根拠がない。 >>455
ヤマト部族というのは銅鐸民族のことかな 為になったサンキュウ
「壹」「壹」「台」
邪馬壹國からヤマトは発声上から導き出すのは難しいな。
ヤマトやそれに類似する地名等が多いからと言って邪馬台国と関連付けるのは?だ
ヤマト王権を語るには良いとおもうが
売り言葉に買い言葉のヤマトの呼び名に近い地名等の多寡を競うのは邪馬台国論叢では重きをなさない。
たぶん、売ってきたのは畿内説だろうが また、新井白石や本居宣長が台で記述していたら(仮定)
臺灣の「臺」で邪馬台国と表示したのであろう。(わかりやすいように)
すると、彼らは畿内ヤマト王権を無視できなかった
そこに葛藤があったかもしれない。
以上推測、勘違いもあると思うが、思うままにカキコミ 9秒台ならず、サニブラウンら日本3選手は準決敗退
5:40〜決勝 ボルト3連覇なるか >>464 あんたも観てたの
準決ボルト余裕だったな 金 ガトリン 銀 コールマン 銅 ボルト
ひょっとして邪馬壹國はジャマイカ?(笑) >>462
倭 を やまと と読むのは訓読みだから✖ 寺澤ごとき考古厨が歴史を騙るからおかしくなる
身の程をわきまえるべき >>459
「壹」→「臺」→「台」
[台無し]の語源だったりして・・・ 真の紛いモノ
という曲があるみたいなんだけど
何なんだろう >>458
鏡をもらっているんだから、鏡文化だよ。 >>337
>邪馬台国畿内説スレとは何の関係もない話。 いい加減スレ荒らしは消えろ<
邪馬台国畿内説スレのスレ主は、「南→東」の嘘つきダマシのサギシ。
いい加減に、嘘つきダマシのスレ主も、スレも、大和説者も消えろ。 >>344
>九州説は日本語読めない奴しかいないよね。<
大和説者は、「南」という日本語の漢字も読めず、
「東」の事だ、という曲解妄想しか出来ない奴しかいないよね。 >>347
>九州説は悪口言うだけで反論ができない 消えたのは当然だな<
大和説者は、人種差別的文言で悪口言うだけで、反論ができない 。
消えたのは当然だな。 >>350
>そもそも畿内説が前提のスレ。<
そもそもここも、「天下の2ch」という公共的な(言論の自由な)掲示板の広場。
>ワシの考えた九州説中心古代史なんて何の興味もない。金貰っても断るよw
いい加減マジ迷惑だね。<
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説中心の古代史論なんて、何の興味もない。
金貰っても断るよw 。
いい加減マジ迷惑だしね。
要するにザラコクは
邪馬台国畿内説の人は全員「南→東」の嘘つきダマシのサギシだと言ってるんだ。
邪馬台国畿内説のスレに勝手にやってきて畿内説のものは消えろと24時間わめき続ける
ザラコクは、そんな
狂った人 >>356
>畿内説以外はお引き取りください。
該当スレでどうぞ。<
「南→東」などのような嘘つきダマシの大和説者は、
世間のためにはなりませんから、
お引き取りください。
>該当スレでどうぞ。<
病院か留置場にどうぞ。 要するにこいつは議論じゃなく
ただイヤガラセに来てるってことだ >>455
>卑弥呼死後に男王が立ち内乱となる
>↓
>壹與が王に立つ
卑弥呼死後立った男王とは、葛城王朝の中で唯一、磯城の人物と思われる安寧であろう。
『日本書紀』では「磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)」、
『古事記』では「師木津日子玉手見命」
神武の時代、神武の血統ではないのに日本書紀に「王」と記されてる異色の人物がいる。
鴨王こと事実上の最高実力者クシヒガタだ。
安寧はこのクシヒガタの娘ヌナソコナカツ媛と結婚する。
王位を狙ったことが分かる。
そしてヒミコことヒメ踏鞴の死後、一瞬だけ王位についた。
が混乱。
そして天トヨツ媛という13歳の娘が王位に就く。 >>361
>ここは畿内説のスレ<
ここは、2chという公共性の高い掲示板。
>大和説なんて関係ないんだけど <
河内ですら、ずっと大和とは別の、(筑紫倭国の中での)別支配地域であったのであり、
「大和説→畿内説」という摩り替え自体が、
既に嘘つきダマシになっていたんだよ。 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。 >>367
>オウム返ししか出来ない恥ずかしい人だな あんたは中身がなさすぎ<
オウム返しをされるような、根拠のない非論理ない事しか言えない人種だな、
大和説者らは。
あんたらは、「南→東」などのような、嘘つきダマシをしゃべり過ぎ。 >>491
オノコロ島こと沼島遠景。
https://goo.gl/2VFn2g
どこかで見たことない?
前方後円墳の遠景と同じ。
特に左端の斜めに切り下がった部分。
箸墓以降の前方後円墳に多い特徴。
前方後円墳とはオノコロ島こと沼島を模したものであった。 >>372
>毎日そういう見え見えのウソばかりついてて なんか楽しいの?<
毎日、「南→東」などのような、そういう見え見えのウソばかりついてて、なんか楽しいの?。
>むなしくなんない?<
「見え見えのウソ」でも、繰り返し宣伝されると、国民の中には、
騙されて興奮しておかしな考えになってしまう方はいるかも知れない事が、
黙過し難い。 王太子でしょ
諸蕃?が正統(正当)という話になるんじゃないの 胸に傷を付け・・・
時間(期限)内にクリアしなければ終了
お前は死んでいる
あのゲームでは逆になっている
と言っている人がいたり
髪の色だけで言っているのかな >>493
>オウム返しをされるような、根拠のない非論理ない事しか言えない人種だな、
>大和説者らは。
この一文を読んだだけでも
ザラコクの頭が狂ってることがよくわかる
詳しいことはわからないけど、
そもそもの始まり?
頂上(タワー)から、
地上に降りてきて・・・別人となって、再び現れるの?
飛び降り、
死んだように思わせているだけとか >>499
根拠のある論理的な文にオウム返しすると
根拠のない非論理な文になるね
だからオウム返し男のザラコクは
いつも根拠のない非論理な事しか言えない 数年前だったかな?
偶然、観たんだけど、この話にも似ている
youtube動画
『SaGa2の「死闘の果てに」をメタルアレンジ』 わかったわかった
九州説の優勝ってことでもう決着させようや >>503
そういうウソをつくことでしか畿内説に報復できない九州説が哀れすぎる
『古事記』で最初から「大御神」と呼ばれているのは、
伊邪那岐大御神をのぞけば天照大御神と迦毛大御神だけである。
この迦毛大御神とは誰なのかを考えないと。
だれか考えた人はいるのか。
文献史学者は何をしてきた。
迦毛大御神こそが日本の歴史の最重要人物ではないか。
迦毛大御神ことアジスキタカヒコネはスサノオである。
断言していい。
住んだのは高天原(御所市高天)。
2世紀初頭、畿内X期。
高天原にいたアマテラスがヒミコであるという九州説は虚構であり完全瓦解。 ヒント?
九州説=トンデモは全員知ってるつもりだが 邪馬台国糸島説なんて
糸クズ厨以外にいないんじゃない? >>375
>>博多の住吉大社の住吉三神も、「宗像三女神」も、
勿論、年代も氏も違うから、卑弥呼とは関係がない。<
>どう違うのか?<
住吉三神も宗像三女神も、紀元前3世紀頃のアマテラスの子であるようにされているが、
卑弥呼は紀元後3世紀。 >>379
>>筑紫には、神武らの一族らや兄弟の伝承や神社が沢山ある。<
>具体的に何?<
内倉武久氏の「卑弥呼と神武が明かす古代」の162〜1691頁参照。 >>384
>つまり東遷じいさんは詐欺師<
つまり、「南→東」の嘘つきダマシで、
「大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」などを否定する、
大和説者は詐欺師。 >>394
>わけもわからず考古学的にと言われたら 余計に信用できなくなるよな <
「南→東」などの嘘つきダマシである事がはっきりしている「大和説考古学者」が、
考古発掘事実の「自己解釈の報告文」を書いたって、
そんなものははじめから、全く、信用できなくなるよな。 ザラコクははじめからわけもわかってない考古無知だから >>397
>>ウガヤフキアエズは、宮崎県に行った後、筑紫に戻った話がないから、<
>そんな話あったっけ?<
「盗まれた神話」での、古田さんの「記紀のウガヤフキアエズの記載の分析」。 大分の歴史愛好家の写真を盗んでたのが喜八郎
反日運動家古田の親友 いくら九州やら阿波やら喚いたところで
今まで散々悪行三昧なんだから信用してもらえるはずないだろ。
ザラコク?既に電波爺さんという認識しかないのに
何を言ったところで逆効果。
むしろ畿内説の信憑性を裏付けるだけだからな。 >>518
「天の〜」という名前のことじゃない?
いわゆる天津神のこと。 >>519
でも、ザラコクは「畿内説→大和説」などという嘘つきダマシの詐欺師なんでしょ? 反日運動家古田のパシリが筑紫説で荒らしをするのは
筑紫の人ではないから
地域間対立が反日運動家古田のパシリの本来の目的 『でんぱ』で検索、
検索しようとすると、でんぱ組というのが出てくるんだけど
>>524
>ザラコク?既に電波爺さんという認識しかないのに
何か繋がりがあるのかな、
同じような系統とか 反日パシリの荒らしは「悪いことする時は日本人と言うんだよな、必ずね」と同じ 日本昔話などによると
☁の上に、何か乗っているんじゃなかった? >>531
証拠でもあるのか?
無脳無学のトンデモは
中傷しか能がないんだな >>403
確かに伊都にはニニギや彦火火出見の足跡はあるけど、ウガヤフキアエズの足跡ははっきりしないな。
でも筑紫を空にするわけはないから、誰か他のものが筑紫の王を務めてきたんじゃないか?
その後を継ぐために神武らが呼び戻されたのかな?
神武らの出立は筑紫だからなあ。<
ウガヤフキアエズという名前は、
鵜の「カヤを葺く」という事が業務のような「家臣的な名前」であり、
「国王」的な名前ではなく、
だから、宮崎に派遣されたとしても、天孫族の直系的な王ではなく、
支流の傍系的な家柄の人であった可能性が高く、
だから、ウガヤフキアエズの子の五瀬命らが筑紫に戻ったとしても、
他の直系らと比べて、まったくうだつが上がらない事になり、
それが「猶東に行かむ」として東征しなければならなかった理由であったんでしょう。 なるほどね。
ウガヤフキアエズ自身が分家的な扱いであり、他に彦火火出見の長男としての筑紫の王がいたと。 今日は宇陀の方で色々と取材を兼ねて
招待を受けたり楽しませてもらってますよ。
今日天候が心配された榛原の花火大会も問題ないようで何よりです。
古代史においてその土地を訪れるどころか
本当に無知な方が散見されるのは困ったもんです。 >>438
>邪馬「臺」国
↓
三国志の原本に近い写本を見て書かれた史書は邪馬「臺」国
↓
宋代の印刷屋が意図的に邪馬「壹」国に改変 <
宋明清代には三国志の版本は何種類もあり、それらでは全て「邪馬壹國」となっており、
宋明清代の校勘学者は、誰一人「壹」に校勘をしていない。
という事は、宋代の(版刻の底辺に供された)写本群は、全て「邪馬壹國」であった、という事であり、
写本の間には「臺→壹」の間違いをした写本家はいなかった、という事。
そして、5世紀の范曄と同時代の裴松之も三国志の「邪馬壹國」を見ていて、
後漢書の「邪馬臺國」との考証をしていない事になる。 また今日は先日から台風の加減か夏なのに大気が澄んでいて、
以前から畝傍山近くで狙っていた満月と太陽を
魚眼レンズで同時に撮影する事に成功。
実地で見るとやはり山の頂は何らかの意味があった事は色々わかりますよ。 >>445
>釈日本紀は「臺」だね 松下見林、異称日本伝も「臺」 <
かれらはいずれも、
唐代の「梁書の「後漢書中心主義」からの、「壹と臺との錯誤」論の盛行、
に惑わされている事になる。 >>446
>通説は「臺」、「壹」という人は素人だけ <
魏志の史料事実や実態は、「邪馬壹國」。
「邪馬臺國」という人間は、
後代の唐代史家の「何でも間違いだ」説のアホ説の飛びついたアホであっただけ。 孝霊厨
名古屋の臺灣ラーメン食べにきてちょ
邪馬臺國からヤマト連想できない事わかるから 台湾ラーメン美味しいよな、津島にあるラーメンショップのネギラーメンも美味しいぞ 臺は、陵墓的古稱だから
邪馬臺國は、「山+陵墓」の国と解すればよい
つまり、大きな前方後円墳を造る国ということで決定した >>455
>九州北部から近畿にかけての邪馬台国連合の成立 <
「邪馬台国」なんて存在しないし、近畿は「南→東」だから、始めから×。
>↓ 邪馬台=ヤマトの名称を継承し近畿を本拠地とする <
「邪馬台=ヤマト」というダマシが、大和説者の嘘つきダマシ。 >>456
>邪馬「壹」国と言ってるのは、高校教師古田のみ<
中国の裴松之や宋明清代の考証校勘学者は、皆、
「邪馬壹國や壹與でよい」 として来た。 邪馬臺國
倭国
何れもヤマトと読みでは結びつかない
やまとの地は邪馬台国と無関係 >>466
>寺澤薫<
「南→東」などの嘘つきダマシである事がはっきりしているから、
そのような・・・・的サギシは、「何を書こう」と、始めから信用しない。 >>470
>九州説 もはや出来ることはデマと中傷のみ <
大和説者。
もはや出来る事は、
「南→東」などの嘘つきダマシと、
「口先言葉尻」での誹謗と、
「ヘイトスピーチ的人種差別」のみ。 >>472
>九州説 もはや出来ることはウソと悪口のみ <
大和説 もはや出来ることはウソと悪口のみ。 『倭』
このような字も、
出来すぎているような気がする
杖をついて、歩いているの? 日本国は倭国の別種である。(『旧唐書』東夷伝「日本国」
日本はもと小国だったが、倭国を併合した。(『旧唐書』東夷伝「日本国」)
日本は古の倭奴国である。(新唐書』東夷伝)
日本を「やまと」と読むのは音訓によっていない( 『釈日本紀』巻第十六秘訓一) >>476
>鏡もらえない平原 w <
平原は、下賜鏡も継承したし、自前でも鏡が造れたらしい。 『卑弥呼』
画像を検索すると、そのような画が出てきたり。
後付け、ねつ造?偽造というの? >>480
>よほど畿内説が気になるんだなw<
大和説者は、よほど「南→東」の嘘つきダマシの指摘が、気になるんだなw?。 >>485
>要するにザラコクは
邪馬台国畿内説の人は全員「南→東」の嘘つきダマシのサギシだと言ってるんだ。<
間違いなく事実だよ。 一、倭国は一〜二世紀には九州北部から朝鮮半島南部にかけてあった国で、やがて九州島全体、
さらにはその周囲の島々を含む国となり、少なくとも七世紀中頃までは九州に存在していた。
二、日本国は、倭国とは別種の、畿内大和を中心とした、畿内圏内の国であり、六世紀末に初めて中国と通交するようになった。
三、七世紀のある時期に、日本国は九州の倭国を併合し、かつての日本国は日本全体の都となった。 >>487
>要するにこいつは議論じゃなく
ただイヤガラセに来てるってことだ <
要するに、こいつら「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者は、
議論じゃなく 、ただ、
詐欺をしに来てるってことだ。 >>569
関係ない畿内説スレに居候してる時点で説得力ゼロだぞw
気になって仕方ない証拠だな。 『三貴子』
三貴神?というのは何なの
天照→ヒミコ? >>571
これほど稚拙で呆れた論はないww
三世紀以降神獣鏡や丹が畿内に集中してる時点で全くナンセンス。 >>575
3世紀のいつだ?
卑弥呼より後のことを持ち出しても意味がないぞ。 >>575
3世紀に平原遺跡に膨大な威信材が集中しているから、何もない畿内について述べてもナンセンス。 三世紀末の卑弥呼より前の事出しても全く意味はないわw
邪馬台国は卑弥呼の都、九州の奴国は関係ないんだしな。 >>491
>難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。<
「淡島」は徳島であり、淡路島とは違う。
また「自凝島」も、「オノコロ島」と同じものであるのか?が疑問。
>古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。<
「淡島→淡路島」の曲解は、当然、記紀が出来てから発生した。 >>566[
知ってのうえの書き込みだと思いますが
訓読みは和語です。 >>491
沼島は、大阪湾の難波からは見えないから、オノコロ島にならない。 >>505
>そういうウソをつくことでしか畿内説に報復できない九州説が哀れすぎる <
「南≠東」などの史料実態を隠して、
そういうウソをつくことでしか九州説に報復できない大和説が、哀れすぎる 。 >>573
畿内説のスレですが、畿内説の方はテンプレ無視はいけません。
他説を相手に四苦八苦は如何かと
>>1
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう >>512
>ヒント? 九州説=トンデモは全員知ってるつもりだが<
ヒント?。
大和説=「南→東」などのトンデモ、
は、全員知ってる筈だが 。 >>580
> 「淡島」は徳島であり
よく知ってるな ザラコク 某徳永氏の曲だよな〜
誰もが同じ 空の下で という曲
調べてみればわかる『徳永英明 誰もが同じ 空の下で』 ほとんど同じような話、意味だと思う
『日本昔話 雲』 >>518
>阿毎は姓じゃないよw <
俀王姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩奚隹彌。 世界昔話でも同じ
ただ、私の国が元祖なんだよ、起源(発祥)なんだよ
と言いたいだけのような気がする
でも、そういうモノもあると思う >>522
>大分の歴史愛好家の写真を盗んでたのが喜八郎<
喜八郎さんは、素人オジンと同じように、
「出版物に出ている写真」は証拠として自由に使えるんだろう、
と思っていた普通の素人であっただけ。
>反日運動家古田の親友<
古田さんは、日本国家主義者。 >>523
>トンデモ本イラネ<
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説の トンデモ本は、イラネ。 >>522
>>591
???????????????????????????????????????????????????
??????????????????????????????????????????????????? >>524
>いくら九州やら阿波やら喚いたところで
今まで散々悪行三昧なんだから信用してもらえるはずないだろ。
ザラコク?既に電波爺さんという認識しかないのに
何を言ったところで逆効果。
むしろ畿内説の信憑性を裏付けるだけだからな。<
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者は、
「南→東」に関する反論をしない限り、何を言ったところで逆効果。
むしろ九州説の信憑性を裏付けるだけだからな。 >>527
>でも、ザラコクは「畿内説→大和説」などという嘘つきダマシの詐欺師なんでしょ?<
でも、大和説者は、「南→東」や「大和説→畿内説」などという嘘つきダマシの、
詐欺師ばかりなんでしょ?。 >>528
>反日運動家古田のパシリが筑紫説で荒らしをするのは 筑紫の人ではないから
地域間対立が反日運動家古田のパシリの本来の目的 <
古田さんは、どちらか?と言えば、「日本国全体のため」という思想。 全1亡者
全1亡者(ぜんいちもうじゃ)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する狂人。
畿内説の批判的な書き込みするとテンプレ読めとかテンプレに書いてあるという
原因は、逆立ちして圧倒的な他説との差を自覚した上での被害妄想、
あるいは自らを客観視できなくなり俺に違いないと思い込む、 自己に対する超絶な過大評価である。
すなわちスレ主そのものである >>554
>臺は、陵墓的古稱だから 邪馬臺國は、「山+陵墓」の国と解すればよい
つまり、大きな前方後円墳を造る国ということで決定した <
「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。
因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹」
だから、「臺」は、ここでは、
「天子の宮殿、および天子直属の中央政庁」
の意味で使われている。 >>598
日本を憎しみ続けた反日運動家古田は史料批判を知らなかったために
偽書でちょんぼをこいてしまった
ちょんぼとはもともと麻雀用語で、冲和(チョンフォウ:虚しいあがり)という
虚しいあがりだったことを仲間からも指摘された古田は火病で顔がひん曲がってしまった >>600
倭人伝では中央政庁の臺で使っているために
大きな前方後円墳を造る国である邪馬臺國の臺を壹の字に変えた >>573
>関係ない畿内説スレに居候してる時点で説得力ゼロだぞw
気になって仕方ない証拠だな。<
畿内説スレに居候されて、
「南→東」などの嘘つきダマシを指摘されて、反論も出来ない時点で、
大和説側の説得力ゼロだぞw 。
気になって仕方ない証拠だな。 >>559
盲信者が変な妄想を抱いてるね
次はアリストテレスもそう読んでたとか言い出すかな 寺澤さんは纏向遺跡研究家として観て欲しい
彼が邪馬台国に走ったのは残念
功を焦りすぎた
地方の研究家で良かった
いまや引くに引かれぬだろう、学問に私情は禁物と君は言っていた
一途な研究者時代の貴君は若い者も憧れていたし、尊敬もしていた。
なぜ豹変したのだろうか?
生涯一研究者を貫き通すべきだった。
後戻りはできないが、纏向遺跡の更なる研究に期待します >>603
なぜ「南→東」とされているかは歴史学者の著書から引用してあげたが
50年間裴松之注すら知らなかった程度の反日パシリに理解するのは無理 >>575
>これほど稚拙で呆れた論はないww 三世紀以降神獣鏡や丹が畿内に集中してる時点で全くナンセンス。<
神獣鏡は大和に出るようになったのは、4世紀。
九州には、丹山も丹木も鉛丹らしきものもあり、朱丹が使われた墓もあるから、
丹は、九州の別種分家の「市」を監督する大倭職の大和の近くにあったって、
市で運べば済むだけ。 第321回 邪馬台国の会
に寺澤さんが講演したとき、冷や冷やで拝聴してました
安本さんが大人の対応してくれました
あれは反省すべきでしたが、いまだ変わらぬあなたは???? >>587
>三世紀末の卑弥呼より前の事出しても全く意味はないわw
邪馬台国は卑弥呼の都、九州の奴国は関係ないんだしな。<
この意味不明投稿は何?。
「南→東」の嘘つきダマシの大和説の・・・・?。 >>599
ワロタがタイミングが悪い
新スレ立った直後がいい もう少し参考文献増やした方が良いです
邪馬台国本いっぱいあります、貴君の学も上がると思います
最近のこのスレのカキコミを拝見させていただくと、素人とは思えない他説の論者が多くいます
このスレ全般に言えますが畿内説を語るには脆弱すぎる人多いです。
九州説ですが時折、畿内説で捨てがたい所は、時折、助け舟を出しています。
孝霊雁さんもいい事書き込んでますよ・・是々非ですが
過去、私は常にコテハンつけてますと宣言したスレ主と別人???? 第321回 邪馬台国の会 30周年特別講演会
ハゲがずらり >>615
ウゼーーーーーーーーーーーーーーー去れ
以 上 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
☟
<真実を探求しましょう>
邪馬「壹」國
↓
邪馬「臺」国・・・・・(臺灣の臺)
↓
邪馬「台」国・・・・・(台湾の台) >>611も
ウゼーーーーーーーーーーーーーーー去れ
以 上 ザラコク=畿内説そのもの
まぁいいや
マラソン見ようぜ、川内9位だったけど凄い奴だ
女子応援しようぜ、個人的には安藤応援 >>621
忍者走りの清田さん大好き
しばし観戦、あんたもな >>606
寺澤先生こんな下世話な2ちゃん見てねーし ディクソンのカルガモ走りも捨てがたいよ!
忍者VSカルガモVs? >寺澤
纏向遺跡を「筑紫、吉備、讃岐、播磨」の要素と言いながら、
先代旧事本紀を想起しない時点でダメ学者。
偽書と言われてるから史料価値がゼロなんて思ってるならなおの事ダメ学者。
子供の頃、H・シュリーマンの話を読んだだろうに大人になったらすっかり初心を忘れてる。 「カルガモ」ディクソン後半???
忍者清田はマイペース
安藤、重友もいい走り
邪馬台国論叢は
九州が一歩出てる
畿内の巻き返しに期待
猛追する阿波ガンバレ >>625
寺澤は中身のない目立ちたがり屋
研究者であるが学者という認識無い
私利私欲が強すぎる
今さら過去の発言を訂正できないから
一生、箸墓=卑弥呼、纒向=邪馬台国の王都=初期ヤマト王権発祥の地で通すしかない
だから、将来ある若い考古学を志す者を洗脳するしかない。
畿内説にとって彼はがん細胞に似たり寄ったりかな 最後はケニア、エチオピアの選手が金だろうな。
走りに余裕がある。
>>627
寺澤は豹変するから、畿内でもっと有力な遺跡が見つかった時の答弁すでに用意してる
忍者走り清田に期待、先頭集団キープ >>629
食いつきが悪いです
マラソン見ましょう
少し清田離されましたが応援しましょう 少しは過去の私の指示思い出したようですね
「無視する」「静観する」
昨日は釣られすぎです。
やりすぎたと思い話題を変えました
これ、私
436
邪馬「壹」國
↓
↓→→→ここで間違えた人誰?
↓
邪馬「臺」国・・・・・(臺灣の臺)
↓→→→ここは理解できる
邪馬「台」国・・・・・(台湾の台) キウスが寺澤氏に対して名誉毀損
訴えられても文句いえないな 全一病キウスには
自分に対する突っ込みが>>1だけではない
という発想がない >>625
寺澤は考古厨なんだから地面を掘り返すことしか知らない
文献の知識がないのは当たり前 >>625
いまだにシュリーマンに幻想を抱いてる奴がいるんだな >>594
>???????????????????????????????????????????????????
??????????????????????????????????????????????????? <
古田さんは、
大和説者のような、思想宗教的な「強い人種差別的国家至上主義」志向はなく、
「人類皆平等」の感覚で、
ただ史料などの事実関係からの推論に関心を持っておられただけであるが、
日本国民が、
「文部省やマスコミや学者らに騙されて、間違った思想に偏ってしまう」事には、
危機感を持っておられた。 >九州が一歩出てる
>畿内の巻き返しに期待
>猛追する阿波ガンバレ
「九州説」とか「畿内説」とか、漠然とした広範地域名の説。
推して知るべし。 @阿波 >>601
>日本を憎しみ続けた反日運動家古田は史料批判を知らなかったために
偽書でちょんぼをこいてしまった <
国民が、
「文部省やマスコミや権力学者」らに拠って、誤った歴史像や戦争思想を植え付けられる事に、
危機感を持たれた古田さんは、
貴重な伝承記録である和田家文書群も、
「文部省やマスコミや権力学者」らに拠って失われ、
和田家の人々が、村八分やパッシングを受けて崩壊させられる事にも、危機感を持たれた。 >>602
>倭人伝では中央政庁の臺で使っているために
大きな前方後円墳を造る国である邪馬臺國の臺を壹の字に変えた<
三国志の魏志倭人伝では、
始めから「邪馬壹國」であり、「壹與」であり、
邪馬臺國や臺與ではなかった。 >>606
>寺澤さんは纏向遺跡研究家として観て欲しい 彼が邪馬台国に走ったのは残念
功を焦りすぎた 地方の研究家で良かった
いまや引くに引かれぬだろう、学問に私情は禁物と君は言っていた
一途な研究者時代の貴君は若い者も憧れていたし、尊敬もしていた。
なぜ豹変したのだろうか? 生涯一研究者を貫き通すべきだった。
後戻りはできないが、纏向遺跡の更なる研究に期待します <
後戻りせずに、「南→東」などの「嘘吐きダマシの大和説を主張した」事が、
寺澤の精神構造の本質であり、
思想宗教での「結論先にありき」の人種の「学問的な限界」でしょう。
不可知部分が殆どである自然や歴史の学問においては、
自然や歴史での事実関係からの帰納的な確率の高い(客観的な)推論をすべきであり、
思想宗教的な私情は、禁物です。 >>607
>なぜ「南→東」とされているかは歴史学者の著書から引用してあげたが <
「歴史学者の著書」など、何の史料価値もない。
史料事実は「南」。
>50年間裴松之注すら知らなかった程度の反日パシリに理解するのは無理<
裴松之注なんて、古田第1書から書かれていたよ。 >>608
>ウソはいかんな <
>>>邪馬「壹」国と言ってるのは、高校教師古田のみ<
>>中国の裴松之や宋明清代の考証校勘学者は、皆、
「邪馬壹國や壹與でよい」 として来た。<
のどこが「ウソ」なのか?を、
「言わない」事がいかんな。 >>610
>第321回 邪馬台国の会 に寺澤さんが講演したとき、冷や冷やで拝聴してました
安本さんが大人の対応してくれました
あれは反省すべきでしたが、いまだ変わらぬあなたは????<
寺澤も安本も、「大和天皇家一元西日本支配」の思想宗教である事では、同じ穴の貉。
あれも反省すべきでしたが、
このように、
「何を批判しようとしているのか?」が全く分からない意味不明な投稿をする、
このいまだ変わらぬ投稿子は、やはり同じ穴の貉????。 >>621
>ザラコク=畿内説そのもの
ザラコク=反「大和説」そのもの >>623
>寺澤先生こんな下世話な2ちゃん見てねーし<
寺澤は、「南→東」の嘘つきダマシのサギシだから、
こんな「仲間が立てた?2ちゃんのスレ」なんて見てねーし。
古田さん自身は、「史料事実」を探し求めておられたから、
始めから史料事実を抹殺する事から始まったような、
こんなスレを見られるはずもなかった。 大和だけでは遺跡が貧弱すぎて邪馬台国の人口の説明ができなくなって、畿内全域に拡大して辻褄を合わせようとした苦肉の策が畿内説。
邪馬台国は都する所と説明されている魏志倭人伝は無視。
卑弥呼の称号が親魏倭王なので、広域の名前は倭国のはずなのにそれも無視。 ちなみになぜ大和なのかと言えば、神武天皇が即位したと記紀にあるから。
つまりはヤマト王権が古くから大和にあったとする万世一系説の現代版が畿内説。 >>653
ありがとうございました。
七万戸の苦肉の策というこですね。 >>653
>大和だけでは遺跡が貧弱すぎて邪馬台国の人口の説明ができなくなって、畿内全域に拡大して辻褄を合わせようとした苦肉の策が畿内説。
それもあるけど、一番は海に面していないからじゃないの? @阿波 >>623
>寺澤先生こんな下世話な2ちゃん見てねーし<
寺澤は、「南→東」の嘘つきダマシのサギシだから、
こんな「仲間が立てた?2ちゃんのスレ」なんて見てねーし。
古田さん自身は、「史料事実」を探し求めておられたから、
始めから史料事実を抹殺する事から始まったような、
こんなスレを見られるはずもなかった。 >>653
そういう嘘を平気でつけるのがトンデモ説のサイコ >>658
>それもあるけど、一番は海に面していないからじゃないの? @阿波
これも嘘? @阿波 「若杉山遺跡:弥生時代終末〜古墳時代初頭にかけての辰砂採掘遺跡
1950年代には遺跡の存在は知られていたが、1984年(昭和59年)からの徳島県博物館による発掘調査で、その実態が明らかとなった。
全国的にみても辰砂を採掘する遺跡として唯一のもの。」
以後、邪馬台国問題は一気に解決してしまいました。 戸数 は、あまり重要視しません。
当時の日本の人口推計から相当な乖離があります、
国の大きさの判断と >>659
ザラコクが嘘以外のことを言うことは滅多にない
ごくたまに間違えて本当のことを言う 戸数は国の人口の大小を表しており、
実数値では無い。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>663
>戸数は国の人口の大小を表しており、 実数値では無い。<
古田さんの、三国志での「戸」の使用例の分析に拠って、
「戸」は、魏政府への「納税や兵役単位」としての数え方をするものであり、
だから、原則は「生計を持った成人男性戸主」数の数え方であり、
従来の「妻子を含めて1戸≒5人という数え方」は、間違っていた事になり、
「1戸≒1〜2人」位が妥当。
また、だから「戸」で書かれた国は、魏の支配を承諾した国である事になり、
それに対して「家」で書かれた国は、魏の支配を拒否した国であったんだろう、
という事にもなり、
魏志に書かれた国に関しても、そのような理解が必要。 >>666
なるほど、古田ってデタラメばっか書いてんだなー 畿内厨の品性がどんどん下劣になってきているな
勝者の貫禄なぞどこにも見あたらない、
ただ醜悪な姿をさらし続けている。
かえって九州説の正しさを証明しているようなものだ こういった悪口しか言えない九州説の実態が
かえって畿内説の正しさを証明しているようなものだ >>664
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 >>672
こんなふうに九州説は悪いことしてる自覚のないところが恐ろしい >>671
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 >>671
こんなふうにウソを平気でつく人が現代社会には25人に一人くらいいるらしい
恐ろしいことだ 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>674
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 九州説に決まったとしても畿内説の諸君には敗者の矜持をもって
正々堂々とした書き込みをしてほしいものだね
他人の書き込みをけなしてひたすら時間を空費するような無様な姿を
なるべくさらさないようにしないと 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 >>683
> 論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
>有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
「九州説」とか「畿内説」とか、漠然とした広範地域名の妄想説。
推して知るべし。 @阿波 九州説というのは
九州のどこかに邪馬台国がある
という共通性だけの漠然としたカテゴリーだが
畿内説というのは
畿内という具体的なエリアが邪馬台国だ
というハッキリ具体性のある特定の説だ
カテゴリーが違う >>686
>畿内という具体的なエリアが邪馬台国だ
>というハッキリ具体性のある特定の説だ
本来は「大和説」と言いたいところだが、海に面していないから「畿内説」にしたんじゃないの? @阿波 >>661
>戸数 は、あまり重要視しません。
>当時の日本の人口推計から相当な乖離があります、
>国の大きさの判断と
畿内説では戸数も説明できない。 >>689
妄想乙
なんの根拠もない想像だろ
いつもそうだ
w >>691
纏向が女王の所都であると言い切ってるんだから「大和説」でいいのでは? @阿波 >>697
本来は「大和説」と言いたいところだが、海に面していないから「畿内説」にしたんじゃないの? @阿波 >>700
ひとことも理由を言わない奴って
オカシイひと?
>>689
>本来は「大和説」と言いたいところだが、海に面していないから「畿内説」にしたんじゃないの? @阿波
それもあるな。
畿内説というのは、魏志倭人伝に合致しない問題が山積しており、それをどう言いくるめるかに100年以上も腐心しているという説なんだよ。 海が欲しかったから大和説から畿内説へか?
間違ったな、陸行が説明できなくなった >>670
>こういった悪口しか言えない九州説の実態が
かえって畿内説の正しさを証明しているようなものだ <
こういったように、「戸」や「南≠東」などの指摘に論理的な反論をせずに、
悪口しか言えない大和説の実態が 、
かえって九州説の正しさを証明しているようなものだ な。 >>673
>こんなふうに九州説は悪いことしてる自覚のないところが恐ろしい <
こんなふうに大和説者は、悪いことしてる自覚のないところが恐ろしい 。 >>675
>こんなふうにウソを平気でつく人が現代社会には25人に一人くらいいるらしい
恐ろしいことだ <
こんなふうに、「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者や、
憲法違反の、秘密保護法や安保戦争法や共謀罪などの戦争推進の嘘つきダマシなどの、
「ウソを平気でつく人が現代日本社会には3割くらいいるらしい 」、
という事が、
恐ろしいことだ 。 >>681
>九州説は、ウソの羅列だけに なってしまった <
大和説は、
「南≠東」や、
大和は、「筑紫城の倭 奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」の、
「倭國の地方の市を監督する大倭職の田舎のご大尽であり、
大和が倭國を併合吸収継承出来たのは、ようやくは白村江の後になってからであり、
卑弥呼の墓の「大作冢徑百餘歩jun葬者奴婢百餘人」を満たす墓は、
祇園山しかない、という事と、
文献だけではなく、考古でも、
矛や鉄鏃や鏡や土師器や陶器や古墳や絹や、
「大道が何本もある弥ハイテク工業地域の存在」などで、
ウソの羅列だけに なってしまった。
結局、畿内説に反論できなくなったから
こんなウソや中傷で憂さを晴らしてるんだろ
なんとも卑劣なこった
>>684
>性懲りも無くまた同じデマ貼ってら<
大和説者は、性懲りも無く、また同じデマを、貼ってら 。 >>695
>このように九州説はいつも根拠がない <
このように大和説者は、いつも、口先ばかりであり、論拠が言えない。 >>699
>九州説は論理的な思考ができない <
大和説者は、
「南≠東」や、
大和は、「筑紫城の倭 奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」の、
「倭國の地方の市を監督する大倭職の田舎のご大尽であり、
大和が倭國を併合吸収継承出来たのは、ようやくは白村江の後になってからであり、
卑弥呼の墓の、
「大作冢徑百餘歩jun葬者奴婢百餘人」
を満たす墓は祇園山しかない、という事と、
文献だけではなく、考古でも、
矛や鉄鏃や鏡や土師器や陶器や古墳や絹や、
「大道が何本もある弥ハイテク工業地域の存在」などで、
博多から大宰府地域が卑弥呼の首都圏であった、という事と、
偽書説派の筆跡鑑定などの挙証の嘘つきダマシの欺瞞を暴いた事、
などへの、
論理的な反論の、論拠が言えない。。 >>712
>結局、畿内説に反論できなくなったから こんなウソや中傷で憂さを晴らしてるんだろ
なんとも卑劣なこった <
結局、大和説者は、
九州説に論理的な反論ができなくなくなったから、
こんなウソや中傷で憂さを晴らしてるんだろ?。
なんとも卑劣なこった。
思考停止してオウム返し連発か
こんなザマだから
九州説が滅ぶ
畿内説のまともな反論がないよね、もう畿内説は終わったの? >>715
筆跡鑑定はバッチリ結果が出ちゃってて
反論できてない、でしょ? >>718
なにに対して反論がないと?
?????? >>718
ほら、また具体的内容のないイチャモンばかり!
これだからトンデモ説は困ったもんだ 畿内説への反論って
大抵のものは
FAQが処理済みだよね >>722
あれで答えたつもりになっているのは1だけだろう? >>638
日本人を、天皇を憎しみ続けた反日運動家の古田は
大和民族に対する恨みと憧れが入り混じった一元史観なので
大和朝廷に関わっていない歴史には価値が無いと考え
天皇が各地の歴史を盗んだとホラを言いふらした
マヌケちょんぼ火病爺古田自身も天皇を憎しみながら
縁もゆかりも無い京都の外れに住んだ >>640
短里なんぞではもう客離れがとめられない
危機感を持った反日運動家古田は喜八郎の小便偽書に飛びついた「こ、これだっ!」
虚しいあがりであった あんたの負け、何も論じてない
☟
>>712
>結局、畿内説に反論できなくなったから こんなウソや中傷で憂さを晴らしてるんだろ
なんとも卑劣なこった <
>>717
>思考停止してオウム返し連発か こんなザマだから
九州説が滅ぶ > >>641
始めから三国志の魏志倭人伝が邪馬壹國であったら
避諱されるべき臺の字が使われることはない >>615 このスレ全般に言えますが畿内説を語るには脆弱すぎる人多いです
条件反射による茶化しかできない畿内厨!!! >>616
考古学者 森浩一氏
ヤマタイ国奈良説をとなえる人が知らぬ顔をしている問題がある。(中略)
倭人伝では、”養蚕をおこない、糸をつむぎ、細やかな(けん)や緜(めん)を作っている”。
作っていただけでなく、魏へ二度めに派遣された使者が献じた品物のなかに、”倭錦、青、緜衣、帛布”などがある。
(中略)
布目氏(布目順郎氏、京都工芸繊維大学名誉教授)の名著に『絹の東伝』(小学館)がある。目次を見ると、
『絹を出した遺跡の分布から邪馬台国の所在地等を探る』の項目がある。
簡単に言えば、弥生時代にかぎると、絹の出土しているのは福岡、佐賀、長崎の三県に集中し、前方後円墳の時代、
つまり4世紀とそれ以降になると奈良や京都にも出土しはじめる事実を東伝と表現された。
布目氏の結論はいうまでもなかろう。倭人伝の絹の記事に対応できるのは、北部九州であり、ヤマタイ国もそのなかに
求めるべきだということである。この事実は論破しにくいので、つい知らぬ顔になるのだろう。 >>730
ほとんど 名無しの>>1の書き込みです >>643
反日運動のためには日本人学者の研究は何の利用価値もない
裴松之注を知らなかったのはパシリのお前ぐらい >>657
反日運動家の古田が探し求めていたのは
小便偽書やペン書き系図 >>711
祇園山古墳は集団墓地
「大道が何本もある弥ハイテク工業地域の存在」←ウソの羅列 いいぞ、いいぞ、我慢、我慢
WWWWWWWWWWWW 【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 「其国」は2世紀前半から3世紀後半の「トヨ」までは存在した。
この人たちの事は日本人はしっかり伝承してるし神として祀ってきた。
大物主、事代主…
今の天皇家の前王権。
ヒミコとは単純明快な人物。
ゆえ80歳のお婆ちゃんをも納得させれる人物。
わしが80歳のお婆ちゃんから「ヒミコはだれですか?」と聞かれたら、
「えべっさん(事代主)の娘さんです」と答える。 >>733
自己投影のマボロシだよ
自分は名無しで大量書き込みしてますって
自白みたいなもんだろ >>739
コピペすらできず、年中無休で揚げ足取りの畿内説に未来はない!!
関西の考古学者と積極的に意見交換を続けられている服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)によると、
「邪馬台国」畿内説に立つ考古学者の根本的な理由は、列島内最大規模の巨大古墳群が近畿にあることから、古墳時代に
おける列島内の中心権力者が畿内にいた証拠であり、弥生時代もそうであったはずということのようです。そのため、
巨大前方後円墳の始原を畿内の古墳時代前期の纒向型前方後円墳であるとみなし、その編年を弥生時代(卑弥呼の時代、
3世紀前半)に編年操作しようとしていると思われます。
何度も指摘してきましたが、「邪馬台国」畿内説なるものは、『三国志』倭人伝に記された倭国中心国名を改竄し
(邪馬壹国→邪馬台国)、その方角も改竄し(南→東)、その距離(12000余里)も無視し、倭国の文物(鉄・絹・銅鏡)
も無視・軽視するなどの研究不正のオンパレードで、およそ学説(学問的仮説)と呼べる代物ではありません。 寺沢薫
1950年(昭和25年)、東京都生まれ。1973年(昭和48年)、同志社大学文学部文化学科(文化史学専攻)を卒業。
その後奈良県教育委員会に入り、奈良県立橿原考古学研究所の研究員として発掘調査にたずさわった。
2012年4月、奈良県桜井市に設立された纒向学研究センターセンター長に就任する。
古田武彦
福島県喜多方市生まれ。旧制中学の英語教師をしていた父親の転勤にともなって、広島県に育つ。旧制広島高校を経て、
1945年(昭和20年)、東北帝国大学法文学部日本思想史学科に入り村岡典嗣に師事する。
大学卒業後は公立高等学校教員(地方公務員)となる。
1969年(昭和44年)、『史学雑誌』に邪馬壹国説を発表。1970年(昭和45年)に教職を離れ、以後研究に専念する。 例の埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)の稲荷山古墳出土鉄剣
(表)
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比?、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、
「辛亥の年七月中、記す[2]。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ
^ 宮崎市定は『謎の七支刀 五世紀の東アジアと日本』(中公新書、1983年 )124〜126頁で、
「記す」の繰り返しは漢文として稚拙であるので「記」を氏族名と見て、「記のヲワケの臣」が人名であるとした。
↑明らかに、記(木、喜、鬼、姫)氏、氏族名だよ 無視されてるけど宮崎市定はただしい…
もちろん紀氏は東海姫氏国(日本)の国姓・姫氏の一派に属する
↑これ、百済国書の「貴国」が固有名詞だってはなしともつながる
東海姫氏国(日本
百済国書の「貴国」
↑九州王朝の紀ノ國 >>732
死んでる学者にしか頼れない九州説は
死んでる説
w >>738
反応が速すぎます。
流れに沿って少し質問しましょうか。
畿内説の畿内の範囲は?
大和説のヤマトの範囲は?
近畿説の近畿の範囲は? >>741
>「えべっさん(事代主)の娘さんです」と答える。
それだと出雲国譲りが2世紀になってしまう。
神武東征は3世紀中頃か?
いろいろ矛盾しないか? 服部静尚というのは考古学者でもなんでもない素人のおっさんなのかな? >>747
おまえ、いつも張り付いてるな
孤独な老人が多い畿内厨!!!
圧倒的な真実に古いも新しいもない
真実はつねに新しい… >>744
まあ、こんな史料批判全否定のトンデモ説が学問的に通用するはずもなく、末路は押して知るべし >>751
あたまにブーメランが刺さってる死体
それが九州説 >>750
477 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2016/09/02(金) 17:02:04.88
仮説からくる自論だからね。。オハナシにならない
247 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/03/31(金) 23:27:42.19
つい先日おバカな九州説じいさんが
九州説支持者が圧倒的に多いという現実だー!と叫びながら持って来たアンケート
http://v-183-181-162-19.ub-freebit.net./wakoku/surveys/top
の現実が、あらまあ
回答者の72.7%が自称「マニア・在野研究家」であったという
笑えすぎる現実
↑シュリーマンの例の発掘も、「仮説からくる自論」
「仮説からくる自論」を軽んじてはならない…
なぜか、差別主義者が多い畿内厨
なぜか、権威主義者が多い畿内厨 >>754
まいどながら
自論とかいう言葉を独特な意味に使ってるのは
キウスだね >>755
そうやってくそ面白くないレスを返して馬齢を重ねるだけ
宮崎市定は『謎の七支刀 五世紀の東アジアと日本』(中公新書、1983年 )124〜126頁で、
「記す」の繰り返しは漢文として稚拙であるので「記」を氏族名と見て、「記のヲワケの臣」が人名であるとした。
↑明らかに、記(木、喜、鬼、姫)氏、氏族名だよ 無視されてるけど宮崎市定はただしい…
無視されてるけど宮崎市定はただしい…
↑なぜ、ただしい説が無視されるのか おまえらのような存在が… 島原の宮ア康平が1967年『まぼろしの邪馬台国』でブームを作ったから
1969年に高校教師の古田が二番煎じで書いたのが「邪馬壹国」 >>687
でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。。 大和説→おおよそ今の奈良県
畿内説→山城・大和・河内・和泉・摂津の5か国
近畿説→大阪府・京都府・兵庫県・奈良県・三重県・滋賀県・和歌山県の2府5県(7府県)
畿すわなち都とその近隣地域という意味
但し律令制における広域行政区画
>>680
でも、インタ−ネット工作が、観光客の対応に、猫の手も借りたい筈の、黄金週間もやまなかったね。 >>758
悪意がある言い方だね、君畿内厨だろう? 安本美典は宮ア康平と同じ1967年に『邪馬台国への道』
を出版してるから落選組になるけど
古田のは所謂「あやかり商法」 >>760です
畿内説で、寺澤さんやスレ主のように邪馬台国と初期ヤマト王権を結びつけるのであれば
邪馬台国は畿内でなく大和説となり邪馬台国は奈良県(狭義では三輪山周辺か奈良盆地)となります。
結論 寺澤、スレ主は邪馬台国を奈良県に限定した説です テンプレを見る限りでは
スレタイは「邪馬台国大和説」のスレにタイトルを変えるべき >>683
信仰すること自体に喜びを見出した、畿内説が破綻していることを認めたくない、頑固な老人信者たちにも、畿内説以外の信仰対象がたくさんあることを、教えてあげられるっていうメリットもありそう。 >>766
似たようなスレはなかったっけ?
ここのスレ主は、自分以外が連番で立てた畿内説スレさえも偽スレ扱いする基地だから、まあ意味がないだろう。 >>759
そういえばこの畿内スレpart1が立てられたのもその頃だったね >>757
反論できないんだね?
負け組じいさんか >>761
ここで騙しの宣伝しているのは、
奈良の観光関係の組合員や、公務員じゃないのかもね。
それとも、専門の下請け業者なのかな、、 >>741
発想的には面白い
しかし、ばあちゃんに恵比寿は
イザナミ・イザナギの間に生まれた子供「蛭子」(ヒルコ)もしくは大国主の息子
少し難しいのでばあちゃんには、「卑弥呼は神武天皇さんの先祖の先祖の子」ぐらいがいいかな >>768
なるほど、畿内説信者さんたちに、次の信仰の対象を選んでもらうわけね。
でも、選ばれた説の論者には、負け組や、疫病神に取りつかれたようで、かえって不気味、、、 >>771
確かに、、、、
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている >>774
そんな、組織だった工作ではないと思うよ。
書いている内容が、狂人のように錯乱しているからね、、、、 765日本@名無史さん2017/08/07(月) 17:08:46.62
>>760です
畿内説で、寺澤さんやスレ主のように邪馬台国と初期ヤマト王権を結びつけるのであれば
邪馬台国は畿内でなく大和説となり邪馬台国は奈良県(狭義では三輪山周辺か奈良盆地)となります。
結論 寺澤、スレ主は邪馬台国を奈良県に限定した説です
766日本@名無史さん2017/08/07(月) 17:16:05.94>>769
テンプレを見る限りでは
スレタイは「邪馬台国大和説」のスレにタイトルを変えるべき >>766
こういうウソが平気でつけるのは
やはり異常者 ●大日本帝国陸軍
SF神話; 「猿の惑星」の猿。かつて白人(人類)を奴隷にした
実態: 数多くの戦史参照
●アマテラス・スサノオ
神話;「神産み」「アマテラスとスサノオの誓約」などなど記紀の記事
実態: 迦毛大御神(かものおおみかみ)ことアジスキタカヒコネとシタテルヒメ(」高姫)の関係。
アジスキタカヒコネは別名だからスサノオが本名。葛城の高天原に実在。
剣を持って暴れる。妹がシタテルヒメ(」高姫)ことアマテラス。
二人は大国主神と多紀理毘売命の子。
アマテラスにはアメノワカヒコという夫がいた。 >>773
>>1あほだから,
何処かの受け入れで自論無いから、質問には即答できない
名無しでスレの途中で罵声のみ
よって、テンプレ加筆修正しまくり、わけのわからんテンプレになってしまった >>775
>少し難しいのでばあちゃんには、「卑弥呼は神武天皇さんの先祖の先祖の子」ぐらいがいいかな
「神武の奥さん」でいい。
神武が先に亡くなったので「高齢で夫がいない」 >>786
ほらね
悪口を言うだけで何も反論できない
惨めなもんだな 帥升と卑弥呼の時間差は約100年。
本居は帥升と卑弥呼を一発で見抜いた。
そして意図的に九州説を創作した。
大和朝廷の朝貢を隠すためだ。
まぁおまえら300年馬鹿には意味が分かるまい。 映画館に入るにはチケットが必要なように
何か主張するには理由が必要だってことは
世間じゃ常識なんだが
九州説のトンデモ爺さんにはその常識がない
さぞかし過去に部下や家族を泣かして来たんだろう
やはり死ぬまで治らんのかね >>792
それは自分でしょ
>>791みたいに一人で自分と会話してる 日本語貧困のキウスが受け売りという言葉を知らなかったことが露見した記念カキコが>>786だ 個人研究という理由でWikipediaに掲載されなかった幻の「卑弥呼」
媛蹈鞴五十鈴媛説[編集]
初代皇后であるヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛命)を卑弥呼とする説である。[36]
記紀に初代神武天皇から6代孝安天皇まで妃の記述がない事から、彼らは大王ではなく、
魏志の記述通り、この時代を女王国とする説である。
この説では考古学的諸要素から10代崇神天皇を4世紀初頭とし、
そこから記紀による父子継承9世代ではなく、
先代旧事本紀の系図などから6世代を遡り、
1世代間を約20年として神武天皇を2世紀末、卑弥呼と同時期の人物とし、
卑弥呼を媛蹈鞴五十鈴媛命とする。
また15代応神天皇元年を390年とし、下ること30代前後の天皇平均在位が11年弱であることから、
神功皇后を含めて15代遡り、神武天皇を卑弥呼と同時期とし、卑弥呼を媛蹈鞴五十鈴媛命とする。
魏志の「年已長大、無夫壻」の記述は神武の死後、媛蹈鞴五十鈴媛命が寡婦であった状況描写とする。
この説では臺與(台与)を第4代懿徳天皇(いとくてんのう)の后である天豊津媛命とする。
また倭國王帥升を、ヒメタタライスズヒメから約5世代前のスサノオとし、
記紀編纂の際、始祖王の朝貢という不名誉な記述を避けたいがために時代を大きくずらし、
その結果100歳を超える天皇の記述になったとする。 >>785
スサノオ≠アジスキ高彦(全く別人。っていうか、仇敵)
アジスキ高彦は由緒正しい出雲帝国の西王家、神門臣家の当主(父親がいわゆる大国主命にされたオオナモチ(主王)八千矛命(↓の渡来人某らに謀略を以て殺害された))
スサノオ=天ホアカリ/ニギハヤヒ(ニニギ)/イザナギ/天御中主神/天照皇大神、、、紀元前3世紀の秦の始皇帝を二度も騙して渡来、帰化した某氏
下照媛命の配偶者は建葉槌命(天稚彦) 神武天皇の即位年代を2600年前と嘯いたのは、
実は古代出雲帝国の初代オオナモチが即位した(王政を始めた)年代が約2600年前。
それを横領したもの。
いわゆる神武天皇のモデルは数人いますが全て出雲帝国の王家の末裔の血筋(母系)。天皇家もまたしかり。 >>800
媛タタラ五十鈴媛命は(葛城の登美王家を創設した)天日方奇日方命の妹君。
父親は出雲帝国の東王家、富/向家当主で帝国の第8代スクナヒコ(副王)で有った八重波津身命(事代主神/粟島神(淡島)/シズキ神(シズの窟神)/大物主神)
母親は摂津三島の生玉依媛命。
媛タタラ五十鈴媛命が天村雲命(ホアカリ/ニギハヤヒ(ニニギ)の孫、五十猛/カゴヤマと穂屋媛(ニギハヤヒ(ホアカリ)と市杵島媛命(異母兄妹の結婚)との女)との御子)
に嫁ぐ(政略結婚する)事によって大倭国(丹波、葛城(出雲の分家/賀茂(神=王)族の連合王国))が成立。
天村雲命は大倭国の初代大王に即位(天村雲命の建位起命の尊称を奉る由縁?) >>760
そもそも弥生時代の話に律令制の枠組みを持ち込むことが時代錯誤。
畿内説は500年以上後の奈良の繁栄を投影して夢を見ているだけ。
妄想の類い。 >>803
天村雲命(神武天皇のモデルの一人目)から皇統譜のいわゆる欠史8代が概ね天村雲命から始まる王家の系譜と考えられます。
因みにホアカリ/ニギハヤヒは秦帝国からの渡来人某氏との極秘?伝承から実年代が確定されます >>806
天村雲命は唯一、忌部の郷に祀られていますから。 なんで出雲で祀られていないの? @阿波 >>760
大和説だと倭人伝と整合性が合わなくなるから畿内説を必死で叫ぶしかない
追い詰められる畿内説 >>802
文字も無い2600年前も前の事が、分るわけないだろ >>804
弥生時代の話に、一体どこの誰が律令制の枠組みを持ち込んだと?
?????? >>717
>思考停止してオウム返し連発か こんなザマだから 九州説が滅ぶ <
思考停止してしまって、「オウム返しをされてしまう」、という事の連発か。
こんなザマだから 、「南→東」などの嘘つきダマシの詐欺の大和説が滅ぶ 。 キウス書き込みは九州説への罵声、頭混乱すると書き込む
阿波説へはキウスの罵声は言わない キウス連呼爺=>>1
これ邪馬台国がどこにあったかより、確率高い >>719
>筆跡鑑定はバッチリ結果が出ちゃってて 反論できてない、でしょ?<
偽書説派の筆跡鑑定は、
始めから「章子さんの丑寅原稿の清書の筆跡」を、「喜八郎さんの筆跡だ」と間違えた鑑定になっており、
また、喜八郎さんの普段の原稿筆跡は、
http://www.geocities.co.jp/hyena_no_papa/kahitsu_genkou.html
の左に書かれたように、直線を書く事が困難で曲がってしまう「跳ね字」傾向があって、
和田家文書や章子さんのような「抑え字」では全くなく、
また、偽書説派は、和田家文書には、
秋田孝季や和田家の吉次やりくや権七や末吉や長作ら6人の違う筆跡がある事も判らず、
また、明治写本には、写本の紙代に困って、近所の商家?から譲り受けた「大福帳」の裏にまで写本しており、
そんな事は、戦後の偽作であればする筈も出来る事でもないことであり、
更に、その大福帳の和紙の当時の製造店が岐阜で見つかった事からも、
寛政原本が江戸期後半の紙に書かれていた、という笠谷鑑定も、
偽書説を全く否定する根拠になっていた。
また、偽書説派は、いくつかの文字の形の類似を根拠にしたが、
大量の写本をすれば、当然前筆跡を真似る事になるから、似ていて当然であり、
それも根拠にはならない。 最近
1 ◆q8leUXpsw.の投稿はテンプレだけ
一時、酔っぱらって名無し投稿あったけど・・・・・・ >>721
>ほら、また具体的内容のないイチャモンばかり! これだからトンデモ説は困ったもんだ <
ほら、また、「南→東」などに対する反論もないし、
具体的内容のない「口先での言葉尻へのイチャモン」ばかり! 。
これだから、トンデモ大和説は困ったもんだ。 >>815さん御迷惑かけました
>>820は無視、静観ください >>722
>畿内説への反論って 大抵のものは FAQが処理済みだよね <
トピ主への全反論は、もう以前に2回もやっておいて、処理済みだし、
「南→東」などの嘘つきダマシの詐欺に関するスレ主の反論は、
あったのかなかったのか?も、全く知らんよ。 >>808
大和説だなんて人がいるのか? 藁
あんた、いもしない人に何反論してるの? 教授したのに
「無視」「静観」
SNS症候群になり下がったのかな 前段からいきなり?????
・・・・・・・・・、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、
ここ纒向が女王の所都である >>815
いっぱいいる
>>824
ご苦労さんだが
無駄、論じろ >>725
日本人を、「大和天皇家支配に隷従する事」に、強制し続けたキョクウ戦争運動家の大和説者は 、
国内外の諸国民に対する恨みが入り混じった一元史観なので 、
大和朝廷に関わっていない歴史には価値が無いと考え、
大和天皇が各地の歴史を盗んだ事を隠し、
マヌケちょんぼの現政府も「天皇の靖国不参拝」を憎しみながら 、
「天皇家支配戦争体制」への実現に向かって行った。 >>726
「短里無し」なんぞでは、もう客離れがとめられない。
危機感を持った大和説者や偽書説派は、
「喜八郎の小便」事件の捏造に飛びついた。
「こ、これだっ!」
しかし、それも虚しいあがりであった。 >>830
日本の歴史を知らない能無しパシリ反日のオウム返し 他説来るスレでない
他スレで述べよ
ここで九州だの阿波だのスレタイを読んでから書き込め
九州説も阿波説も主戦場をここに求めるな
テンプレ
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう >>729
始めから三国志の魏志倭人伝では邪馬壹國であったから 、
避諱されるべき(天子の宮殿やその直属の中央政庁を示す)臺の字が、
使われることはない 。 キウスって特徴ある書き込みするから、
ある程度の長さの書き込みは簡単に特定できる >>840
何より異常にヘタクソな日本語が特徴さね >>734
大和説者の「反日」ヘイトスピーチのためには、
中国の校勘学者の研究も、何の利用価値もない 。
古田第1書の「裴松之注の記載」を知らなかったのは、
「南→東」の嘘つきダマシや「壹→臺」のサギシの大和説のパシリのお前ぐらい。 >>821
でも現代人の筆跡だって結論が出てるんだぜ >>843
ザラコクったらまた又嘘ついてる
知らなかったって証拠でもあるの? >>735
[反日]ヘイトスピーチ狂の大和説者が探し求めていたのは、
「沢山の小便入り一升瓶」の捏造や、鈴木真年東大教授も使えもしない「ペン書き系図」批判。 >>736
祇園山古墳は集団墓地 ←ウソの羅列。
「大道が何本もある弥ハイテク工業地域の存在」←ついうっかり本当のことを書いてしまった大和説のアホ。 >>786
>>>1あほだから,
>何処かの受け入れで自論無いから、質問には即答できない
受け売りという日本語を知らない知性の希薄な箕臼じいさん体だけ元気だね >>745
横スマソ
寺沢薫先生 の経歴でなぜ、東京都から同志社に急に飛ぶんだ
古田は東北帝国大学法文学部まで克明に書き込んでるのに
平等じゃない 、狙いは分かるが
寺沢薫先生 の経歴を東京都から同志社まで飛ばすな >>740
大和説者の「反日」ヘイトスピーチ宣伝の、
「本当の意味=殺し合い殺戮戦争狂」
の意味から理解した方が良い。 都の西北 早稲田の森に
聳そびゆる甍いらかは われらが母校
われらが日ごろの 抱負を知るや
進取の精神 学の独立
現世を忘れぬ 久遠の理想
かがやくわれらが 行手を見よや
わせだ わせだ わせだ わせだ
わせだ わせだ わせだ 罵声やオウム返しで古田のマヌケっぷりをなかったことにしようとしても
偽書だと判断しているのは畿内説だけでなく、古田の身内の日本人も主張して
残ったのは反日集団になってしまった >>747
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説学者にしか頼れない大和説は、
死んでる説。 w 。 スレ主に
「君子危うきに近寄らず」
あんた我慢のしどき
スレは進むが負けちゃダメ >>752
まあ、こんな史料批判を全否定するような、
「南→東」などの嘘つきダマシのトンデモ大和説が、
学問的に通用するはずもなく、
末路は押して知るべし。 >>753
あたまに「南→東」などの嘘つきダマシのブーメランが刺さってる死体、
それが大和説。 オウム返ししかできない加古川の反日ザラコク程度が50年間叫ぶのは
「南≠東」だけ >>853・・・過去カキコミもしかり
過去の書き込みを含め あんたの疑問、反論は是々非々でほとんど理解できる
畿内説の論客が居ないからあんた罵声される。
罵声も勲章」 >>847
祇園山古墳が集団墓地というのは研究者の判断
考古無知のザラコクは福岡の地理も遺構の場所も知らない 集団墓地というのは殉葬墓のことなんだ
殉葬、生贄、人柱とかいったら自虐史観とかいわれるからな >>865
suboは知らないことに首突っ込まなくていいから
ちゃんぽん屋の探求に専念しなさい コミュニケーション能力が劣った種族は環境の変化に対応できずに滅んだ
しかしキウスのように彼らの遺伝子を多く持っている民族は現存している >>755
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説の、あんたの真実は賞味期限切れだ。 >>760
>大和説→おおよそ今の奈良県 畿内説→山城・大和・河内・和泉・摂津の5か国 近畿説→大阪府・京都府・兵庫県・奈良県・三重県・滋賀県・和歌山県の2府5県(7府県)
畿すわなち都とその近隣地域という意味 但し律令制における広域行政区画 <
古代においては、河内と大和でも、倭国内の別の権力の地域国であった。 >>764
安本美典は宮ア康平と同じ1967年に『邪馬台国への道』 を出版してるから落選組になるけど
「南→東」などの嘘吐きダマシの詐欺の大和説のは、所謂「あやかり商法」。 畿内説のスレ
○▲◆×✖で先ずテンプレに賛同の具合を示せよ
畿内説支持者
○テンプレ通り
▲ほぼテンプレに近い
◆畿内説支持するがテンプレには是々非々
×畿内説支持だがテンプレには疑問
✖テンプレは畿内説の恥 >>875
何か言い返したいのだろうが
オウム返ししても意味をなしていない クロマニョン人と滅んだネアンデルタール人では
上気道の骨格の形状が違っていたために
ネアンデルタール人は複雑な言語を使うことができなかった 『ベリーメロン』
なぜ信onというスレだったんだろう、
この漫画の騒動、事件?の話をしている人がいたり 台風
非難勧告 ○✖世帯
具体的な避難先無し
全員避難する施設ないから 主人公?
キヨマロというのは何なの、
馬ゴンというキャラがいたり >>823
発生する災害種別に対して立退き避難が必要な場合には、当該災害に対応した指定緊急避難場所へ避難します。
ただし、既に周辺で災害が発生している場合など、立退き避難がかえって命に危険を及ぼしかねないと自ら判断する場合は、
「近隣の安全な場所」への避難や、少しでも命が助かる可能性の高い避難行動として、「屋内安全確保」を行います。
「近隣の安全な場所」:指定緊急避難場所ではないが、近隣のより安全な場所・建物等
「屋内安全確保」:その時点に居る建物内において、より安全な部屋等への移動 >>876
畿内説支持者なんて、ほとんどいないんだよ。
みんなでスレ主とその分身を叩くスレなの。 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル 滑り止め
個人的に私立の文系で早稲田にかなり高い確率で
合格する実力があるのなら
1. 上智
2. GMARCHあたりでお好きなところを
早稲田は微妙GMARCHはA/B判定くらいなら
GMARCHから2つ
早稲田記念受験レベルなら
1. GMARCHから1つ
2. 成蹊、成城などを1つ 日本史なら
私立では早慶上智
帝大なら東大、その他帝大は家庭事情や学力 国立でも考古学のあるところはあると思いますが。
例えば東大、東北大、筑波大、新潟大、福島大、岡山大・・・
あと、大学は偏差値で選ばないほうが良いと思います。
自分のやりたい分野の先生がいる大学を選んだ方がいいでしょう。
古代なら立正とか。
縄文なら國學院とか。
旧石器なら明治とか。まあ明治は何でも結構いいのか。
古墳をやるなら専修大なんかもいい先生がいますよね。
入ってから後悔しないようにね。 邪馬台国を探求したいなら
近畿や九州の大学は避けるべきです。 連投すいません
東京の大学、学力が有れば東大か早慶
若者に期待します >>895
ザラコク
海外の考古学だろ
日本なら同志社が一番 >>896
関関同立(立命館大は考古学に教授陣があまり興味ないのでに難あり) どこまで行っても畿内説への反論がないのが弱体九州説の実態だね 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル >>900
石川説か滋賀説なのか決めてからスレ立てたらいい >>1
教えた通り
我慢、我慢
いざと言うときはコテハンつけて参戦
是是非宇でたすけ舟は出す 宇陀は✖
宇陀は倭人が渡来人に降伏した地
歴史的には興味ある地区
宇陀B地区=倭人の地
邪馬台国では無いが、由緒ある倭人の地 宇陀を語れば
同和問題は解決する
宇陀は日本人そのもの
天孫族は渡来人 >>906
天孫族なんて神話
ヤマト王権と邪馬台国と関係無い
九州説の一部の輩が
東遷を持ちだした時点で九州説は終了 >>909
6割ぐらい当たってます
もし、私がキウスとしたら
9割の確率以上で貴君はスレ主です
必ずコテハン付けると言った方は何処へ
さて、これでは罵声になるので一文
畿内説では大平洋ルートが分かりやすいです。どなたかが書き込んでますが。
瀬戸内ルートも一考に値します、
南≠東 連呼爺さんには太平洋ルートで対応可能なのですが・・・・・・・・・・・・・・・畿内説の主流じゃないので気持ちは分かります 目指そう!憧れの邪馬台国へ!
BY D大学新入生来たれの応募の板広告 全キウス病のくせして何を偉そうに
相手の区別も付いていないくせに、他のやつを相手にしてんじゃねえよ >>913
>九州説の一部の輩が
> 東遷を持ちだした時点で九州説は終了
そう思う根拠は? >>765
>畿内説で、寺澤さんやスレ主のように邪馬台国と初期ヤマト王権を結びつけるのであれば
邪馬台国は畿内でなく大和説となり邪馬台国は奈良県(狭義では三輪山周辺か奈良盆地)となります。
結論 寺澤、スレ主は邪馬台国を奈良県に限定した説です <
大和説でも畿内説でも、どっちにしても、
「南≠東」だから、✖。 >>925
「南≠東」と唱えるだけで畿内説を折伏できるなら邪馬台国論争は起きてない >>795
映画館に入るにはチケットが必要なように、
何か主張するには理由が必要だってことは 世間じゃ常識なんだが、
大和説の「南→東」の嘘吐きダマシのトンデモガキらにはその常識がない 。
さぞかし過去に部下や家族を泣かして来たんだろう 。
やはり・・・・は死ぬまで治らんのかね ?。 >>828
>前段からいきなり????? ・・・・・・・・・、
箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である<
いくら誤魔化しても、「南→東」は嘘吐きダマシのサギシにしかならんから、×。 >>836
倭国の歴史を隠蔽し、日本の歴史を改竄しようとする能無しパシリの、
「反日」ヘイトスピーチも、オウム返しされ・・・。 >>837
>他説来るスレでない 他スレで述べよ ここで九州だの阿波だのスレタイを読んでから書き込め
九州説も阿波説も主戦場をここに求めるな
テンプレ 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう <
「南→東」などの嘘吐きダマシの妄想で、国民を騙そうとしているトピ主や大和説者は、
黙過し難い。 >>844
>でも現代人の筆跡だって結論が出てるんだぜ <
秋田孝季さんから長作さんまでの6人かそれ以上の筆跡が存在している、
という結論が出ているんだぜ。 >>849
>寺沢薫先生 の経歴を東京都から同志社まで飛ばすな <
経歴など関係なし。
現在において「南→東」などの嘘吐きダマシの犯罪を実行した、という事で有罪。 >>852
罵声やオウム返しで、大和説のマヌケっぷりをなかったことにしようとしても、
「南→東」だなどと宣伝しているのは、
嘘つきダマシの大和説者だけでなく、
大和説者の身内のキョクウの「反日」ヘイトスピーチの殺人鬼集団も参戦して来て、
残ったのは戦争・・・・集団ばかりになってしまった。 >>934
罵声やオウム返し
やってんのアンタだし >>862
「殉葬」の祇園山古墳を「集団墓地」と言い換えるのは、発掘報告者の曲解捏造。
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」無視の発掘報告者は、
福岡の古代史も考古も遺構の状態も判らないアホ。 >>863
>罵声されるってアンタ日本人?<
罵声するって、アンタは日本人じゃなくて、
キョクウの「人種差別的戦争狂」のヘイトスピーチの・・・・?。 >>869
地球環境の激変に際して、
遺伝子的な「多種の対応能力」を持たない「純粋種」は
環境の変化に全く対応できずに滅ぶもの。
しかし多くの混血遺伝子や、突然変異遺伝子を多く持った種族は、
環境の激変への対応能力も広くなり、永続出来るもの。 >>936
罵ったって須恵器が出てる事実は変わらないよ
調査した学者は祇園山を倭人伝と結びつけて解釈したりしてない
このことを倭人伝無視とか非難する方が変だ >>879
>クロマニョン人と滅んだネアンデルタール人では
上気道の骨格の形状が違っていたために
ネアンデルタール人は複雑な言語を使うことができなかった <
ネアンは、アフリカ以外の世界中に遺伝子を残しており、
日本人の遺伝子にもアジアの遺伝子にも、ネアンの遺伝子が2.8%位入っているらしい。
という事は、アフリカでのアダムとエバの一元発生説が否定され、
現生人類は、ネアンを含む多元発生であった、という事になる。 >>899
どこまで行っても九州説へのまともな反論がないのが、
弱体大和説の実態だね 。 >>903
ほら、大和説者は、
「南≠東」などの、「大和説への史料事実での批判」に、
史料事実でもっての、反論ができない 。 >>904
>>>1 教えた通り 我慢、我慢 いざと言うときはコテハンつけて参戦 是是非宇でたすけ舟は出す<
「南→東」などの嘘吐きダマシの詐欺は、国民には迷惑だから、
死ぬまで我慢していなさい。 >>913
大和説の一部の輩が 「南→東」などの嘘ダマシを持ちだした時点で、
大和説は終了。 >>914
>さて、これでは罵声になるので一文 畿内説では大平洋ルートが分かりやすいです。どなたかが書き込んでますが。<
大平洋ルートは、魏志の記載原則と合わないだけではなく、
「魏使らの安全最短」という人類の常識にも違反しますから、×。
>瀬戸内ルートも一考に値します、<
「南≠東」で×。
>南≠東 連呼爺さんには太平洋ルートで対応可能なのですが・・・・・・・・・・・・・・・
畿内説の主流じゃないので気持ちは分かります <
大平洋ルートは、魏志の記載原則と合わないだけではなく、
「魏使らの安全最短」という人類の常識にも違反しますから、×。 >>926
>「南≠東」と唱えるだけで畿内説を折伏できるなら邪馬台国論争は起きてない <
大和説者は、「大和天皇家が一元西日本支配」狂の・・・・集団だったから。 >>940
現代人のゲノムの1〜4%がネアンデルタール人由来であることは
現生人類とわずかに混血していたと推定されるだけで
多地域進化説の根拠なんかにはならん
2001年中期ジャワ原人の頭骨化石の発見は多地域進化説否定の根拠になっている >>948
な?.。
大和説って、狂ってるだろ?。 >>949
>現代人のゲノムの1〜4%がネアンデルタール人由来であることは
現生人類とわずかに混血していたと推定されるだけで <
そりゃ、ネアンも、我々現生人類の先祖の一つであった、という事を示すんだよ。
>多地域進化説の根拠なんかにはならん <
ネアン遺伝子がアフリカに存在しないんだから、現生人類は、最低、
アフリカとネアンの二つは存在したことになる。
>2001年中期ジャワ原人の頭骨化石の発見は多地域進化説否定の根拠になっている<
ジャワ原人の頭骨化石から、
ネアンの遺伝子も、アフリカの現生人類の遺伝子も出なかったんかい?。
それなら、ジャワ猿人も現生人類とは違った人類発生になり、絶滅した事になるだけだよ。 >>773
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 箸墓を卑弥呼墓なんて言ってるやつは破綻するさ。
ついでに平原も祇園山も。
本居宣長が文献から一発で気づいた卑弥呼をおまえらは気付かない。
あぁ300年馬鹿www
今日もお見せしましょう、これがヒミコ墓です。
https://goo.gl/DA7WRZ >>955
>今日もお見せしましょう、これがヒミコ墓です。
無礼者! @阿波 新スレ立てました
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1502150643/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>956
ほらね ピンぼけ説 うやむや説ともいう トンデモ老人の言うことは意味がわからん
いつも理由を一言も言わんから 「南≠東」で×。
ってのは、魏使が畿内に入っていないという事実を認めるなら
倭人からの伝聞に由来する、間違い又は騙され、が成立する。
実際問題、中国の史書で使者が畿内に入ったのは600年の裴世清だけだろ?
まあ五経博士と仏法僧は入京したはずだが、
中国ではこれ傀儡国の百済に贈った事になってる。
邪馬台国と言う国名は、南、水行10日、陸行1月としてしか、出てこない。
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
女王の所都。 だが、女王の名は無い。
なのに、魏使の知ってる女王国の難升米 牛利とは別の知らん役人の名が有る。
卑弥呼とは別の女王国に関する伝聞だろ。
「南≠東」は、魏使が卑弥呼に請われて九州に上陸した史実に対して
身もふたもなく、国土が存在しないよ。
中国人はもちろんだが、九州人も畿内へは入れなくないか?
瀬戸内海航路でも出雲経由でも、街道の宿場じゃないんだから
現地に補給基地や宿所を設定していくには
その地に一定以上の影響力を行使できることが必要。
であれば、九州では卑弥呼に宗教上のまつりごとの自治を任せている訳で
一大卒や大倭が畿内朝廷の直轄施設の可能性が高い。
半島進出が始まった時期なのに、屁タレ九州が東遷するとか手遅れすぎる。 >>959
>私は畿内説です 大和説ではありません <
「大和説→畿内説」の変更は、
どっちにしても「南→東」のウソダマシになることは同じであり、
また、畿内の中の河内は、特に、
古くから7世紀まで(大和とは別個に独立的な)倭国の別の植民地的地域であった可能性が高く、
だから、「大和説→畿内説」の変更は不当である。
「大和との同一関係」に疑問があり、 >>963
「大和説→畿内説」の変更ってのからしてデマだろう
古田史学スレでどうしても×にされたので、こちらに転写保存。
>>395
>>その辺を研究してる人は <
>(壹の文字の読み)もちろん研究してる人は何人もいるだろうが、どれほど確定的な成果が出ているのかは知らない。
君が知っているなら、いくつかの論文を紹介してくれ。<
古田第1書に、既に書かれていたよ。
>>古代の発音が転訛して「イチ」発音になったように <
>こんなことを書いてる時点で、君が中国語にはまったく門外漢だということがよくわかる。
自分で知りもしない研究結果をブラフに使うのはみっともないことだ。<
古田本も読まずに、自分で知りもしない研究結果をブラフに使うのは、大和説者や偽書説派に有り勝ちな事であり、
みっともないことだ。 大和より大きな国家単位があったというのがすでに妄想だもの >>959
畿内なら水行で着いた場所は邪馬台国の地で
所都まで陸行1月でいいですか。 吉備が三分割されたのは大和朝廷が恐れたからで説明がつく
大和が分割されたのは意味が分からない
大和以外にあった権力機構が大和を恐れて分割したのか? >>970
じゃあ東京都が23区に分割されてるのは誰が恐れたんだ?
wwww >>968
どこに着いたかも書いてないような報告書があるもんか。 のちの大和国より領域が大きい連合国家邪馬台国が畿内に存在していたなら
倭人伝に出てくる女王国の存在が説明できない
またしても倭人伝を歪曲する畿内厨 畿内説はとっくの昔に破たんしている
認めようとしないのは1だけ 畿内説は、邪馬台国、倭国、女王国の使い分けがめちゃくちゃ。 何も証拠を出さない
何も理由を言わない
それが九州とんでも説 >>981
妄想だというなら、邪馬台国がどういう連合体をつくっていたが
倭人伝と整合する説明をしないとな >>985
どう合わないの?
どうして何も根拠を言わないの?
バカだから?
ウソだから? >>980
使い分けがめちゃくちゃにならざるをえないんだよ >>987−989
敗北宣言ですね
畿内厨はいつも逃げてばっかり >>991
理由もなく決めつけばっかり
それが九州説だよな なぜにアンチは証拠を出さないか?
それは全てがウソだから >>991
証拠が出せなくて逃げてるのはアンチ畿内説だ
それは誰が見てもバレることなのに
平気で嘘を言う
それが九州説の異常な現状 スレ主の言いぱなっしの
性格が良く出てるな
9591 ◆q8leUXpsw. 2017/08/08(火) 10:01:32.15>>963>>968
>>957
私は畿内説です
大和説ではありません このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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