邪馬台国畿内説 Part265 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
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◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1つに、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2つに、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
(この項続く) ◆6−2(続き)
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
(この項続く ◆7−2(続き)
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(この項続く) ◆7−3(続き)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
(この項続く) ◆8−2(続き)
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の値を示し(南2008)、桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南,今津ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。
史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。 ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する ◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。 ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。 ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
使訳通じる30国のうち両者の構成比が不明であるが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される。
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
(この項続く) (続き)
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。
弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 太陽神信仰は文明度が高い民族の所産
倭奴の物ではなかろう
半島からの渡来人がもたらしたものだ ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
(この項続く) (続き)
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。
これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
(この項続く) (続き)
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
また王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。
これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない
確かな根拠などないだろう!
(この項続く) (続き)
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)→1BV型式(3世紀中葉)→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑みるに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元とともに慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なることとなった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させるためには景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、いくつかの記事にその痕跡をとどめている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌ただしく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定するところの、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例がなく、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認されている(金原2011)SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:もとより、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これを倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、甕棺分布域の縮小や漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
(この項続く) (続き)
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。
上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ 29,38,48に修文。
>>37,59は荒らしです >>60
<>>37,59は荒らしです >
はまずいよテンプレ以外で名無し書きこみするとか
無視しないと・・・感情的になってはダメと教わらなった? >>1
FAQ5ははずし、その他も方位・距離に関することは記述しない方が良い
そして、一文
「方位・距離については・・・・・・・・・ゆえ言及しない」を入れる方が良い あんたは1どころかほとんどの人より頭が悪いんだから
余計な口出しをすると恥を書くだけじゃないのか? ========おはようございます 7時です キウスの時間です========
TOPIX
新スレが立ちました
・・・・・・・・・・スレの流れが速いので大変です スレ主さんご苦労さん
記紀・祭祀等の議論がされました
テンプレへの批判は毎回のことです
女王国は2つでもいいとの意見もありました・・・・どちらが邪馬台国でしょうか
纏向温泉構想はくだらないが、大笑いしました・・・こらっ!
思うに
誰に対して、言っているのかわからないので、できれば「>>?へ」とか付けて欲しい
話の流れが分からなくなるので、書き込む前に「新着スレ」確認後とうこうしてほしい
詐欺だからまともに読んではいけない。
読むだけで頭がおかしくなる。 スレ主は人生が空くならないのかな。
誰も読まないテンプレを毎日張り続けるだけなんて。 実にくだらないですが、清涼剤として、笑うだけですが、少しアレンジして
纒向を研究費で掘りまくり、温泉を探り当てる(偽造でも良し・・湯に鉄分入れれば尚良し)
<おもてなし>
温泉宿の女将は恐山のイタコを充てる
巫女の格好を温泉宿の女中にさせる
サン助は、元ヤクザの再就職先として、受入れる(刺青バッチリ)
健康施設 とにかく歩いてもらう(陸行) 1月歩いた人には次回割引券発行
<料理>
干し鮑と、奈良産大仏シカ鍋と三輪山ヘビの刺身、
デザートは、もちろん桃、、
<お土産>
桃の種で作った首飾り
卑弥呼饅頭改め、卑弥呼温泉饅頭 >>71
ありがとさん 笑うね
特に
温泉宿の女将は恐山のイタコを充てる …卑弥呼
サン助は、元ヤクザの再就職先として、受入れる(刺青バッチリ) ・・・入れ墨はいいね
桃の種で作った首飾り ・・・・ハックされたものはプレミアものだね 264の>>445
>方形周溝墓の中でも、特筆すべき豪華な威信材を副葬されたのが伊都国の三雲南小路遺跡と平原遺跡だよ。
他の地域の方形周溝墓はその分家だろうね。
特に倭王であることを示す璧や八咫の鏡はこの二つにそれぞれあるだけ。<
賛成。 倭人伝を読む限りでは
女王卑弥呼の国は完全に魏の冊封国で軍事的にも張政を招請して介入させている。
張政は帯方郡の小役人であり、これで理解できるのは女王国が相当な弱小国である事。
4世紀には、日本は半島に進出して400年には南朝と半島利権外交を始める。
魏の冊封を受けていた九州の弱小国、邪馬台国が継続している可能性はゼロである。
さらに弱小九州女王が瀬戸内海航路に通過可能な寄港地を開拓していた可能性は無い。
白村江戦後の唐軍の武官ですら、防人を見て九州上陸を躊躇し、畿内へも入れていない。
畿内説で畿内の王が帯方郡の田舎魏使を軍事介入に招請して招き入れていたら日本国は生まれない。
畿内説も九州説も戦前戦後の御用学者が古代の日本を邪馬台国並みに矮小化して
記紀神話の九州起源説と半島史に配慮して無意味な論争にしただけの事だ。 A、又渡一海千餘里至末盧國(官略)有四千餘戸
濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆没取之
東南陸行五百里到伊都國(官略)有千餘戸丗有王皆統屬女王國郡使往來常所駐
東南至奴國百里(官略)有二萬餘戸東行至不彌國百里(官略)有千餘家
B、南至投馬國水行二十日(官略) 可五萬餘戸
南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月(官略) 可七萬餘戸
C、自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
次有斯馬國 次有(二十数国)
倭人伝における、A〜Cの文脈において、投馬国、邪馬台国と言う国名が唯一示される
Bの部分が前後の張政の旅行記であるA、Cの文と繋がらない事を理解する必要が有る。
Aは目的地、卑弥呼の女王国の首都と2万戸の奴国及び隣接所属村の不彌國であり
出航して延々南に水行30日と陸行1月の南海上の邪馬台国に行く理由が無い。
Cの女王国以北が膨大になり、距離、方角、戸数規模に無理がある。
邪馬台国、投馬国と言う国名は、倭人伝のこのB、一文のみに登場するが
明らかに前後の魏使の報告とは別のソースからのコピペであり(ソース出せw)
陳寿がペーストすべき場所を間違えているから、前後の文脈が接続しない。
B部分削除で解決だが、邪馬台国と言う国名は歴史上から存在が消滅する。
良いけど、おまえら乙www
このB文を和約すると、
(帯方郡の)南水行20日が投馬国の領土で5万戸。 つまり、馬韓(弁韓辰韓)
その南水行10日(の島領)と(九州の)陸行1月部分が邪馬台国で7万戸。
その部分が、邪馬台国(=女王の倭国)の領土である。 と書いてある。
南=南、一月行=一月行であり、倭人伝をちゃんと理解すれば当たり前のことだ。
後述される、 参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里が、
魏使の紹介した女王の倭国であり九州の北一月行(三分の一)の範囲の国々と一致する。
一月行の文例として、隋書における倭国認識は南北三月行東西五月行とされる例が存在するが
隋使裴世清の知った倭国(九州)の南北三月行(大和の東の山までの)東西五月行と一致する。 265の>>447
>九州はただの一度もまとまった事もない いわゆる奴国や伊都国があった場所が中心として栄えた最盛期でさえも九州北部と四国西北部にしか影響がない
そしてそれ以外の東、中部、南部は完全に別文化圏 九州一つまとめた事がない程度の勢力<
卑弥呼の時で、東テイ人が消失?した状態。
>そして弥生時代後期にはその奴国や伊都国の中心性は崩壊し各集落がバラバラになって孤立する
このような状態の中で周辺地域の強い影響が広まるようになり、吉備、畿内の勢力の影響下に入っていく
これが邪馬台国の時代 <
吉備は、国生み時代の植民地。
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国。
>九州の東西南北どこに設定しようが、どこに時代を移そうが弥生時代後期からその後に至るまで九州北部さえまとめた勢力は現れない
こんなところに邪馬台国などあるわけがない <
東海姫氏國の倭王武の頃には、「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳」
のようになっていた。 264の>>449
>キュウシュウセツの妄想長文は一つも根拠がない <
大和説者は、都合の悪い史料事実を否定抹殺した嘘つきダマシの、分裂幻覚妄想の・・・・サギでしかなく、
まともな根拠は、何にもない。 265の>>455
>嘘をついちゃだめ。 九州は倭国ではありません。もちろん倭人の国でもありません。<
嘘を付いちゃダメ。
「南≠東」です。 王権は2つあったで良い
畿内はヤマトを中心とした王権
九州は北部九州を中心にした邪馬台国王権
阿波は、ヤマト王権の前身
いずれも大陸との国交あり
いずれも敵対関係、その後いずれかが日本統一 264の>>464
>これが平原遺跡だ ・・・<
全て反論否定済みの話ばかり。
>ちょうど西暦150年前後の邪馬台国前夜に九州が決定的な衰退と崩壊を始める証拠の遺跡として重要である <
21個の「尚方作」の方格規矩鏡があるから、確実に魏帝からの下賜鏡が元になっており、
だから、それだけでも、250年頃以後の墓。 264の>>466
邪馬壹國は筑紫と決着ついたので、
後は西日本をどう支配下に置いたのか解明しないといけない。
最も基本的な情報は、
「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳」。 >>85
>後は西日本をどう支配下に置いたのか解明しないといけない。
いまだに、「西日本をどう支配下に置いたのか」説明できない説とはwww
九州にも忌部一族のような全国開拓者が欲しいね。 @阿波 264の>>469
>・九州は各地域がバラバラに分裂し数百〜数千程度の小規模集落ばかりの地域になっている <
100余りの国→30国→卑弥呼共立の程度だから、当然の事。
>・九州全域に広まる庄内土器の分布と、孤立する伊都国の状態から九州が畿内の影響下にあり伊都国が監視状態にあるという状態に一致する<
庄内は三雲の発祥であり、瀬戸内倭種が模倣生産して逆に筑紫に搬入上納したもの。
>考古学的に見ても九州が小規模勢力に分裂した状態で畿内に隷属する属領であるという状態が明確に示されている
倭人伝の記述が正確だと理解できる <
「南≠東」であり、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であった。 魏書東夷伝韓条に韓(馬韓、弁韓、辰韓)は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と隣接していると記されている。 この記述が気になるね。
朝鮮半島南部の沿岸部の島々は、元々倭の領域だったのかもね。
さらに洛東江付近にある2世紀の鉄鉱石採掘跡。
日本列島の土器しか出ない採掘跡が見つかっている。
弥生時代後期には、鉄を求めかなり活発に半島に進出し、日本列島に鉄をもたらしていたと考えられる。
どのような勢力がこの役割を担い、日本列島のどの地域、勢力と結びつきが強かったか解明しないといけない。 どうでもいい。
邪馬台国がどこにあろうが、
とりあえず今までの歴史認識で十分。
大和国家が邪馬台国とつながるかどうかは二の次三の次。べつにつながらなくても困らないし。 崇神天皇が4世紀初〜前半であれば卑弥呼は決まります。
昔の考古学者さんの編年ではなく、年輪年代で裏打ちされた最近の複数の学者さんの編年では、
崇神陵墓最有力の行燈山古墳あたりが4世紀初〜前半です。
この時点でトヨもヒミコも決まります。
まずモモソ媛は論外。
アマテラスなら崇神の15代前だから2世紀前半になりますが、
これは崇神の時代を4世紀後半に設定しなければ無理なのです。
女王が住まれたのは葛城、奈良県御所市です。 264の>>472
>吉備は元祖ヤマトの分国<
逆だな。
吉備は、元は、出雲系の支配地。
そこへ筑紫の阿毎氏が国生み植民をし、
五瀬命らの東征の援助をしたから、
神武の大和の、「半分母国」的。 土師器が2世紀後半から始まり、
崇神の時代(布留1)にも引き継がれてるという事は、
途中で大きな変革はなかった証拠であり、
崇神以前の人物からトヨもヒミコも探して良いという事だ。
探せよ。
もう遅いけどね、俺が見つけたから。
(2世紀から4世紀まで)
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
(4世紀初〜前)崇神 奈良で明神山テーマでフォトコンがあるようだな。
最近明神山推しは橿考研でもそうだが孝霊厨動いてるのか? 264の>>473
>うーん。景行征西でしょう。 <
景行も、当然筑紫倭国内の(阿毎氏系の)武将クラスであり、南九州征服戦に参戦し、
その伝承を書紀は、大和の天皇であったかのような盗用をした。
同じような盗用は、崇神や小碓や仲哀や神功や応神や仁徳にもみられる。 また、テンプレートが無残に論破されているよ。。。。 264の>>476
>その通り 九州を超えて初めて「女王国」に入る 九州は「女王国に統属する」属領でしかない
考古学的にも土器や墓制から畿内の影響下に小規模な村落のままで呑み込まれているのが分かる
仮に九州北部に限定しても中心もまとまりも存在しない 逆に九州から遥か遠く離れた畿内の影響下にある属領という性格が浮かび上がる
「南≠東」であるし、
「大和は筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」であった事は曲げられない。
土器も墓制も、弥生銀座付近が発祥であり、
東方の倭種は、弥生銀座を模倣拡大して、逆に九州に土器も搬入上納などをした。 264の>>476
結局アホのヤマトセツは、
平原の21個の「尚方作」の方格規矩鏡は、魏帝から卑弥呼への下賜鏡が元になっている、
という事を、無根拠に喚いて否定抹殺するしかネタが無いと ・・・。
まぁこの程度だろうよ。 264の>>479
>実際倭人伝の記述を見ると常駐の監視官である一大卒が伊都国で周辺国や「王も」監視している
そして各国にはヒナモリと言う駐屯兵が存在している 独立国としての姿は全く見出す事が出来ない
九州はバラバラでどこを見ても中心など見つける事が出来ず、九州に広まる影響ははるか畿内の物である
史書的にも考古学的にも九州と言う地域が女王国の属領であると理解する事が出来る
こんなところに邪馬台国を設定する事は不可能である<
「南≠東」であるし、
大和は筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であったし、
平原の21個の「尚方作」方格規矩鏡は卑弥呼が貰った鏡(が元)であったし、
弥生銀座も、あるから、
筑紫であった事は動かない。 264の>>482
>これだけ広域の土器の集積は纏向だけ <
嘘を付くな。
「筑紫→纏向」の土器はなく、
「纏向→筑紫」の土器が少しあり、
筑紫へは、「半島から西日本全域の土器の搬入」があるんだから、
纏向への搬入よりもはるかに広範囲で多く、
だから、これでも、筑紫が列島の盟主であった事は、動かせない。 264の>>484
>今でいうなら 税関まで来たらそこから先が日本 更に進んで首都東京までくるようなもの
つまり、属国である境界の税関の九州から先が女王国 そこから水行して陸行して首都邪馬台国までたどり着くと言う事<
「南≠東」であるし、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」であるし、
「又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里の侏儒國は、足摺岬付近であるから、
大和には、全くならない。 >>88
>日本列島の土器しか出ない採掘跡が見つかっている。
「東阿波型土器」でしょ。 @阿波 俺は畿内説だが、多少、九州説に援護射撃するとすれば、
小郡市の津古2号から津古生掛がヒミコとトヨの時代に合う。
津古2号にいたっては纏向石塚より早いかもしれない。
こんな有力地があるのなら、苦し紛れに平原や祇園山なんぞ候補地として出さなくても良かったのに。
ところが津古生掛は消滅www
まぁアホウの土地にヒミコはいなかったという事であきらめろww 264の>>486
>そもそも1万2千里は「女王国」までの距離 そこから水行陸行して邪馬台国に辿り着く<
女王は、1万2千里の邪馬壹國の中に「女王之所都」している、と書かれている。 今日も飲尿全レスキ〇ガイが張り付いて妄想垂れ流してるのか ここを速攻で埋めてzarakokuを2周遅れにしてやるのも面白いでw
この吉外ジジイはそれでもスッポンのように食らいついてくるだろうがw どうせ消してるからせいぜい透明の中で独り言続けてればいい 264の>>547
>九州北部は女王国に征服され支配下に置かれたが、邪馬台国であるヤマトの地も同じ。
ヤマトの地も2世紀末に女王国メンバーに制圧された。
邪馬台国は別にありがたくもないよ。 歴史とはそういうもの。国家統一に至る過程で仕方がないこと。
倭国大乱前に栄華を極めたクナ国、伊都国。
クナ国(大阪湾一帯+大和)も3世紀後半には、女王国に併合される。<
「南≠東」であるし、
大和は「筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」であったし、
平原の21個の「尚方作」方格規矩鏡は卑弥呼が貰った鏡(が元)であったし、
弥生銀座も、あるから、
筑紫であった事は動かない。 誰も共感しない妄説を延々とたれ流し続けて虚しくならないのだろうか 本人の中では全員を華麗に論破してる気分で快感に酔いしれてるんだろうよ
もう半年も居座って見当違いの妄想全レス続けてる異常者だからな
キチ〇イの脳ミソなんて理解できんわ 264の>>571
>一番最低なのは、こういう風に嘘までついて他の地域の歴史を奪う輩。
弥生時代後期以降、魏志倭人伝当時も含め、九州北部は支配される側の歴史。
邪馬台国はヤマト国、卑弥呼がいたのは纒向で決着ついてます<
「南≠東」であるし、
大和は「筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」であったし、
平原の21個の「尚方作」方格規矩鏡は卑弥呼が貰った鏡(が元)であったし、
弥生銀座も、あったし、
白村江で戦ったのは(大和日本国ではなく)倭国や倭衆や倭賊であったし、
侏儒國は足摺付近であるから、
筑紫であった事は動かない。 264の>>752
バカのヤマトセツ、
では、表現として弱いんじゃないの?。
皇国史観の「日本は世界1」の国粋戦争狂の嘘つきダマシの・・・・サギシじゃないの?。 264の>>573
大和が、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国である事は認められるが、
筑紫倭国には全く及ばない、 いくら自分の珍説だらだら書いてもダメなの
じーさん分かんないのかな
畿内説に反論しないと意味がないのに 264の>>580
>現在アカデミズムの場・・・<
現在アカデミズムの場は、
皇国史観の文部省や学会やマスコミや、
右翼国粋の「日本は何でも世界1」の殺戮戦争狂の・・・・らに支配されて、
何の信頼性も価値もない。 キュウシュウセツの「反論」(いい話だったんで再録)
・そうに決まってる!と根拠も何もなく突然結論を言う
・ぼくちゃんはそう思ない!だから勝った!と
無知なだけなのに突然意味不明な勝利宣言
・史書の曲解の俺ラノベ話だけで議論が出来ると思ってる
まともな話なんて聞いた事ないわw 264の>>591
>畿内説で誰が短里なんか使ったんだ?<
スレ主が、突然、「沖縄付近になる」、としゃべったが、
長里であれば、「自郡至女王國萬二千餘里」では赤道付近に行ってしまって、
沖縄付近には全くならず、
不彌國までの里数記載は短里的に解釈し、
不彌國からの日数記載や、後漢書の「東冶の東」を使ったらしい、
という事になるから。 >>115
この人さー
ひとこと「あいつはアカだ!」と言えば相手を抹殺できた
そんな世代の体制派とおんなじ思考なんだよね >>117
ザラコクは無学だから計算違いをしてるね しかしいくら九州バカが荒らしても無駄なのによくやるよな。
既に邪馬台国は畿内で確定してるのに。 またzarakokuが暴れるてのか
yahoo!掲示板から出てくんなよ 畿内説スレを荒らすと九州に邪馬台国が出現すると思い込んでるキチ〇イの集団だからな
この異常者達は >>344
>関門海峡は昔は通れなくて
>
>神功皇后の時代
>人夫を割いて海峡を削って深くして船が通れる
>ようにしたって伝承があるんよ
これがザラコクの知的レベル >>77
>白村江戦後の唐軍の武官ですら、防人を見て九州上陸を躊躇し、畿内へも入れていない。
畿内なんて入る価値もなかったろ。
都だった太宰府はきっちり占領している。 >>124
お前自分の無知を恥じた方がいいぞ
「古事記伝」によると、「上代には長門と豊前は続いた山で、その下に洞があって、潮の通う道があり、船も往来できないので穴戸と云った。」とある。 それを神功皇后(321年-389年)が開削して関門海峡ができた。その時にできた小島が船島であると云う。 >>125
根拠なし
600年遣隋使への返書を持った隋使裴世清は
日本国の都の、法隆寺斑鳩宮で天皇と謁見している。
日出処の天子の奏上に怒った皇帝の命で来ているので
天の垂らしヒコと名乗った天皇を姓は阿毎、名は多利思北孤と報告したw
日本国は古の皇帝の冊封を受けていた九州女王国の後継ではないが、
皇帝の権威を保つため、当時の分裂小国だった別国から出来た国と矮小化した。
それが、隋書以降の日本国認識となったのであり、裴世清は無能な詐欺師。
入る価値も無かったのは、白村江まで百済同様の外国扱いだった九州。 大和政権の歴史犯罪
焚書と改竄、捏造
その尻馬にのって飯の種にしてる
近畿説はただの小役人 九州説には既にトンデモ爺さんしかいない、これはガチだな。 まず、九州説から学者が消えた
あとは頭のハッキリしてる順だな ザラコクみたくなりたくなかったら九州説信奉するのjはやめておけ というか九州説はいい加減どこに邪馬台国があるのか言えよ
全員適当に根拠もなく違うところ云うじゃねぇか 江戸幕府の歴史犯罪
金印偽造
大和朝廷や古代天皇の朝貢をごまかすため、国学者たちが九州説と言う虚構を流布
その結果、大量のアホ(九州説)が沸いた
アホ(九州説)は死ななきゃ治らない 大和朝廷や古代天皇の朝貢をごまかすため、国学者たちが九州説と言う虚構を流布
その結果、大量のアホ(九州説)が沸いた
この大量のアホ(九州説)はこれからもアホとして生きていくのだろう
がんばれアホ(九州説)!
応援してるぞアホ(九州説)!! >>129
隋使裴世清が会った倭王の阿毎の多利思北孤とは誰だ? 倭人伝の行程を解き明かした畿内の学者
誰か知らない。仮想、誤記、誤認なら聞き飽きた 裴世清が日本に来て謁見したのは推古天皇だが
アメノタリシヒコは新唐書で用明天皇の事であると書いてある
あれだな
キュウシュウセツって唐書を持ちだしてやれ倭が日本に滅ぼされただの、筑紫城だの言うけど全然唐書読んでないんだな >>138
厩戸かも知れんし島大臣かも知れん
それが、どうした? 畿内説がんはれ、がんはれ、がんはれ!
このスレを読むと九州説に賛同する奴が増加する。 キュウシュウセツは今でも行程の好き勝手な読み替えで話が出来ると思ってる原始人なのが良く分かるな
物知らない奴はこの程度の事しか言えない >>140
新唐書では用明は多利思北孤の代理だろ?
>>141
倭王じゃないでしょ? >>146
>新唐書では用明は多利思北孤の代理だろ?
なにいってんだお前?
ぼくちゃんが読んでなくて知らないから他の奴も知らないから誤魔化せるとか思ってるのか? キュウシュウセツは本当に議論のレベルにさえないな
誰も相手しないわけだ >>147
「次用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通」
目多利思比孤・・・多利思比孤の代理 こうやってあり得ないムチャクチャな読み方をしてバカ理論を展開して恥もしないのがキュウシュウセツ
そりゃ経歴詐称ジジイの小便着色本を狂信するだけの事はあるわ 264の>>612
>此の如く『魏志』の里程に處によりて甚しき伸縮を示すが故に、<
伸縮していない。
周髀算経の一寸千里や三角測量や記里車や歩測を知っている魏の役人たちや魏使らは、
スレ主や大和説者らのような、ハクチのアホではない。
>不彌國より南方一千三百餘里とあるを根據として、邪馬臺國の所在を的確に推知することは、殆ど不可能の事に屬す<
一寸千里や三角測量や記里車や歩測などで十分に可能。 264の>>614
大和説者らは、そもそも、
韓や海峡での里数の比率がほぼ正しい事の明らかな魏志倭人伝の距離方位で、
「邪馬壹國を特定しない」、
という論理矛盾に気か付かないような、アホ集団な訳で。 26の>>615
>誰が短里を主張した?<
スレ主が、
「自郡至女王國萬二千餘里」が長里なら赤道付近にまで行ってしまうのに、
何故か、突然「沖縄付近になる」、というような奇妙な事を書いたから、
どの部分か?は知らんが、
短里を肯定し主張した。 畿内説って、本当に文献を読まないで妄想ばかりなんだな。
関門海峡が穴門と呼ばれていたことも知らないし、金印が伊都国にあったことも知らない。
彼らにかかると、古代史は暗闇になってしまう。 264の>>617
大和説者は、常に、
自分の頭の中で空想した架空の「魏志の距離方向記載」を批判したり抹殺して、
架空の何かと戦っている。
滑稽である。 >>156
>金印が伊都国にあったことも知らない。
またウソついてるね?
そんなこと書いた文献は無いだろう?
九州説ってサギだよね 264の>>617
>もっと南どころか普通の里に直したら赤道近くになる
だから魏志倭人伝の距離はアテにしない
糸島は昔怡土郡と言われていて名前が似ている上に
周りにも末羅国(松浦)奴国(難(な)の県)と魏志倭人伝に出てくる
地名と一致する場所が近くにあるから<
それ、郡役人や魏使らの、
「韓や海峡での里数測定」の結果を肯定している事になるんだから、
「魏志倭人伝の距離はアテにして」いる事になるんだよ。 264の>>622
実際は、大和説の人が、ウソばっかりついてるじゃん。 分かりやすいな
恥かいて誤魔化すために怒涛のバカレス連投
流せると思ったら大間違いだけどなw
中国の歴史書なんて見た事もないで妄想で語るだけのバカだってのが分かってたけどまた明らかになったなw 九州説は頭のマトモな順に消えていき
残ったのがコレ 264の>>623
>常識的な意見だ 江戸時代の学者の見解かな?<
「皇国史観大和説だけ」という「結論先にありき」になっており、
非常識で非学問的な意見だ。
>これに比べて今じゃ単里にすれば九州だとか何とか 現代になるにつれ逆に知能が下がってるんじゃないの<
現代になるにつれて、「長里しかない」とか、「大和だけだ」とか、ますます知能が下がっているんじゃないのかい?。 264の>>629
>そのあと水行20とか陸行1月とか出てくるから
九州から船で瀬戸内海通って畿内に行ったんだろ多分<
「瀬戸内海通って畿内」は、「南≠東」だから、×ね。 264の>>639
>えっ九州は1万2千里を正しいと思ってるの
九州どころか日本を大幅に飛び出すのに <
魏使らの韓や海峡の「里数」記載との比率では、
全く、「九州どころか日本を大幅に」飛び出さない。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 >>153
魏志倭人伝に載ってる距離なんぞ適当に決まってるだろ
千里と五百里と百里しか出て来ないんだぞ 畿内スレで誰からも支持されない妄想全開な九州爺さん、
やってる事は日本で暴れる朝鮮人そのものだといい加減認識しろよw 264の>>643
>九州から船でどっかに向かうとすれば
あの頃一番デカかった畿内のヤマトだろうからな <
「南≠東」だし、
「大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であるから、
×。 264>>645
>横からだが ソウルより水行20日⇒出雲 <
「水行20日」は、不彌國からの側副傍線行程であり、それに「南」だから×。
>出雲より水行10日(陸行なら一月)⇒大和 で、何の問題も無いじゃん<
出雲の前提から×だし、出雲から「水行」で大和へ行けないから×。 64の>>647
>ちゃんと一里が算出できた?<
陳寿の記載が、有効数字1桁程度の概数であり、
算出出来たのも有効数字1桁程度で、合致。
>そんな努力してないでしょ 安直なイメージで短絡しただけでしょ 今の九州説なんてその程度<
今の大和説者は、有効数字も考えられない位の・・・・アホ。 東治の東とは九州島の南辺り、つまり
根本的に倭人伝は方角認識を間違えてます。
畿内説で方角間違え説はそれだけで説明が完了するのに
延々と「方角は間違える訳ないニダ!」と
吠えるのがザラコク爺さんだよねw
さすがに哀れとしか言いようがない。 >>171
>>>153
>魏志倭人伝に載ってる距離なんぞ適当に決まってるだろ
>千里と五百里と百里しか出て来ないんだぞ
都合が悪い記事をことごとく無視していったら、何も残らなくて完全に妄想だけになってしまった畿内説。
すでにそれは邪馬台国ですらない。 >>177
いいから魏志倭人伝の和訳見てこいよ
マジなんだから 264の>>649
>例えばだ、東京から大阪まで2000キロでーす(本当は400キロ)とか
書かれてるガイドブックがあったとしてそれに
大阪から京都まで500キロでーすとか書いてあったとしても
信用できるか?それで京都に辿り着けると思うか?<
郡を東京とし、伊都国を京都とし、都の大阪まで12000里として、
郡か郡から伊都国が10500里以上であれが、
都までは後は、残りの1500里以下であるだろう、
と十分推定出来る。、 >>83
王権は2つあったで良い
畿内はヤマトを中心とした王権
九州は北部九州を中心にした邪馬台国王権
阿波は、ヤマト王権の前身
いずれも大陸との国交あり
いずれも敵対関係、その後いずれかが日本統一
☝
九州説で賞 と 丸く収めようとしてるで賞 >>179
いつものことでんがな
恥ずかしくてハンネつけれんのやな www >>180
推測できようが辿り着けんぞ
1500里が実際どのくらいの距離かわかんねーからな
魏志倭人伝の1里は換算してみると40メートルから150メートルまで幅が出るし 平均で80メートルくらいだろ。
せいぜい2倍程度までの誤差。 畿内説がんばれ、がんばれ、がんばれ!
このスレを読むと九州説に賛同する奴が増加する。
入口の行程の解説が不十分だから いつも南≠東や距離は?となんども叫ばれる 平均に何の意味がある
最低40mから150mだから場所によっては3倍の開きが出るぞ >>151
衍字で片付けるとは凄いな
畿内説は都合の悪いことは全部なかったことにするんだwww 何しろ、畿内説ってはじめから根拠のない思い込みだから、九州からどうやって畿内にたどり着くのかさえも説明できない。
魏志倭人伝を無視して東に向かうなら、なぜ吉備ではいけないのか、なぜ出雲ではいけないのか、なぜ阿波ではいけないのか、説明できない。 >>187
こいつバカ。
平均から比べれば、半分から2倍の間。
弥生時代であることを考えれば上々だよ。
実際には倭人が先導してくれるわけだし。 都合が悪いことは信じたくないと駄々をこねているだけの畿内説 AからBまで10メートルでBからCまで30メートル
2つを平均すると20メートルです
では次のCからDまでは何メートルになるでしょう?
賢い>>191ならわかるんだよな ========こんばんわ 7時です キウスの時間です=========
TOPIX
貼り付けが多く見られました
一つづつ畿内説に反論する爺さん以前元気です・・・・たまに良い事を言います
行程について九州説から引き続き指摘を畿内説は受けています
一行のカキコミも目立ちました
264の>>665
>なぜ里程の後に日程をつなげて読もうと思ったのかな。<
陳寿は、魏使らの記録を元にしで「自郡至女王國萬二千餘里」と合計を記載し、
投馬國への「水行二十日」は、側副傍線行程で行っていないから、
倭人からの「日数」情報を記載し、
「水行十日陸行一月」は、
「從郡至倭」の「女王之所都」までの日数を、(里数記載に平行して)、
魏使らの記録に基づいて、記載した。 264の>>666
>それが400キロの所を2000キロって書かれてるようなもんだっての <
魏使らは、400キロの所を2000キロだなんての間違いはしないよ。
2000キロと書かれてりゃ、2000キロと計測した。
>そうでなけりゃ邪馬台国の場所なんか機内だってとっくに判明してる<
大和なんて、
「南≠東」や、
「大和は筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」で、
始めから×。 >>193
そもそも出題に不備がある。
それぞれをなんと記載してあるかが書いてなければ意味がない。
頭の悪い出題者のために、すべて十里と書いてあったとしよう。
平均20、標準偏差14.1だった。
ただしNが小さすぎるため、95パーセント信頼区間は広くなりすぎる。
魏志倭人伝にはもっとたくさんの距離が書いてあるから、もっと正確に出せるよ。
ああ、畿内説って本当に科学を知らないアホしか残っていないのだな。 264の>>676
また「南→東」など妄想で一人相撲してるね?.
大和説って惨めだな。 >>196
実際距離が合ってないだろ
距離が合ってたら辿れば九州を飛び出す事もないし >>197
ほう。
じゃあ>>193のCからDはいくつになるの? 自分の出題のどこが不備かもわかっていないかもしれないな。
わかるくらいなら、おおむね魏志倭人伝で倭国女王の都である伊都までたどり着けるはずだものな。 >>199
おおむね、飛び出さずに済む。
面倒だからやらないけど、おそらく最大でも筑後平野まで。 >>200
Nが小さすぎる。
以上。
この回答の意味がわからないなら、お前がバカ。 264の>>690
>逆になんで筑紫は征服されたんだろう?
鉄鏃をみても軍事的優位性は格段だったはず<
筑紫が大和に「併合吸収継承」されたのは、白村江の後。 >>184
あんたのは良くわからない
264の>>649
>例えばだ、東京から大阪まで2000キロでーす(本当は400キロ)とか
書かれてるガイドブックがあったとしてそれに
大阪から京都まで500キロでーすとか書いてあったとしても
信用できるか?それで京都に辿り着けると思うか?<
☝
(以下なら、少しはわかるが)
東京から大阪まで2000キロでーす(本当は400キロ)なら
大阪から京都まで500キロでーす(本当は100キロ)
つまり大阪から京都までは、東京の1/4
いずれにせよ、言い訳としては愚論 >>202
1里は約400mです
1万2千里は約4800kmです
帯方郡(ソウル)から4800kmはどの辺りになるでしょう? >>206
>1里は約400mです
魏志倭人伝においては、間違い。 >>203
じゃNを多く取って
ABCDEFG間の距離が10m〜100mで平均すると50mでした
次のG〜Hは何mになるでしょう? つか水行も陸行も全無視してる謎w
1万2千里を経た後に水行20日して投馬国
さらに水行10日、陸行一月で邪馬台国
こんだけ動き回ってまだ九州w
バカじゃねぇのこいつ等
しかも女王国と邪馬台国で書き分けてるのが分からない
女王国の境界にまで来てそこから都に向かってると書いてるのに
こんなもんをいつまでもこねくり回して九州とかもう脳ミソないんだろうな 264の>>692
大和説は、
文部省や右翼マスコミや権力学者らの支配に拠る、、
皇国史観の「日本は世界1」の殺戮戦争狂の宗教は集団であり、
国民の3割の右翼思想者の支持しかない。
九州説は、史料事実に準拠した正常な説であり、国民の6割が支持。
どちらがまともか明らかですな。 >>205
それは大阪と京都の場所がわかってるから言えるんであって
それじゃ
AからBまで1000kmでーす(本当は200km)
BからCまで500kmでーす(本当は150km)
なんて書いてある本に
CからDまで200kmでーすなんて書かれてても信用できないだろ >>208
内訳のデータが必要。
お前さんには科学的思考は向いていないな。
あと、魏志倭人伝のデータはそこまでバラついていない。 >>211
そんなガイドブック自体、存在しない
仮定に問題あり 行程なんかよりも大事なのは九州の扱い
【九州を過ぎると女王国】となっている
つまり九州は女王国に数えられてない
「女王国に監視された属国」
と書いてるな
一大卒に常駐され王から周辺諸国まで管理されてる土地
それが九州
メインの構成員にして貰えてないのが分かる >>209
>つか水行も陸行も全無視してる謎w
それは帯方郡からの日程。
>女王国の境界にまで来てそこから都に向かってると書いてるのに
基本的に境界という概念がない。
国は国邑でとらえるからね。
あえて言えば、狗邪韓國からはもう女王の領域。
または、女王に使える官の名前が記載されている壱岐からが女王の領域。 >>216
地名も書かれず、官吏の名も書かれず、まったく触れられていない畿内は邪馬台国の一部ですらない。 >世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。
漢委奴国王印は倭奴国に下賜されたが、考古学的には伊都国の歴代王墓の時代なので、伊都国と倭奴国は同じ国であり、表記が違うだけである。
伊都国が、王権の所在地であり、外交の舞台でもあった倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は、伊都国にいたと書いてあることになる。 >>211
倭人伝に書かれてるのA圀からB圀そしてC圀そしてD圀 (里も倭人伝に従う)
で解説すればわかりやすいと思う 帶方郡即ち臨津江口より狗邪韓國即ち金海に至る海上の距離は、大約二百餘里なるを、『魏志』には七千餘里となす。故に此間の三十五里は我が一里に當る。
又狗邪韓國より九州の末盧國即ち松浦郡に至る海上の里程は、大約六十餘里に過ぎざるを、『魏志』には之を三千餘里となす。
故に此間の五十里は我が一里に當る。
又末盧國より不彌國即ち太宰府の附近に至る陸上の距離は大約三十里を出でざるに、『魏志』には之を七百里となす。故に此間の二十三、四里は我が一里に當る。
此の如く『魏志』倭人傳に見えたる里程の標準は區々にして一定せざる上に、普通の支那里に比してもまた大に短縮せり
…
此の如く『魏志』の里程に處によりて甚しき伸縮を示すが故に、不彌國より南方一千三百餘里とあるを根據として、邪馬臺國の所在を的確に推知することは、殆ど不可能の事に屬す。 倭国王である卑弥呼を王と呼んだり女王と呼んだりするんだよ。
倭国の中に王が並び立つことはまずあり得ない。
狗奴国は例外中の例外であり、それ故に非常事態だったんだよ。
それに、そもそも倭奴国すなわち伊都国が後漢書の頃から倭国の都だったからね。 >>218
>地名も書かれず、官吏の名も書かれず、まったく触れられていない畿内は邪馬台国の一部ですらない。
は?
こいつ倭人伝も読んだことないのかよ 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 264の>>702
史料事実に拠って、直接大和説の論理を説明する事も出来ずに避けまくって、
史料事実に沿った九州説の、言葉尻を誹謗して、議論に勝ったかのように宣伝するチキン体質が、
哀れを誘う 。 >>222
は?
終始女王と書いて区別してるが
なにこの倭人伝も読んだことのないバカのお祭り >>212
ほう
ではあなたならどういった表現をしますかな? >>224
>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
>倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
邪馬台国は狗邪韓國から五千里、そのうち三千里は対馬海峡。
邪馬台国は福岡県の中。 女王国⊃邪馬壹國+投馬國
投馬國⊃狗邪韓國
邪馬壹國⊃對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國) >>214
>>185さんや>>191さんは1里平均で80mと仰ってますが
それで大体合ってると仰ってますよ >>226
陳寿は言い換えが好きなんだよ。
王と女王は区別されていないんだよ。
区別されていると思い込むから間違える。
責任の一端は陳寿にもあるけど。 >>212
内訳なんぞ別にいらねーぞ
何もわかってねーなコイツ >>233
計算のできない人が言い張ってもダメでしょう あれだなキュウシュウセツって
「ぼくちゃんは本なんて読んだこともないから他の奴らも知らないに違いないから嘘ついても誤魔化せる」
とか本当に思ってるんだな
バカだバカだと思ってたけど本気でどうしようもないバカの集まりだな 要するに内訳が出せないんでしょ
結論があって理由のないトンデモ説だから >>207
魏志倭人伝だけじゃなくて
三国志魏書東夷伝では1里が75mくらいだな。 ザラコクよ計算も出来ないクセに科学的思考とか知ったかぶりするから恥かくんだよ >>234
女王も王であることには違いないからな。 >>218
お前の倭人伝は韓国製なんじゃないのか? >>241
こう言う宣伝文句だけで内訳を出さない連中を
インチキ広告詐欺っていうんじゃないの? だから
「日本まで行く」そこから「東京まで行く」の違いでしかねーんだよ
そう書いてんだろ
「女王国に至る」そこから「邪馬台国の女王の都に着く」と
で、女王の支配領域として女王国の内容をつぶさに記載してる
つまり女王国ってのは女王の支配する国なんだよ
で、九州は属国としてそこに入れて貰えてないんだよ
こんなもんバカ読みして九州とかアホか >>246
女王国に統属されてるのは誰だ?
言ってみろ バカな事ばっかり言ってるから
ザラコクの事を今度からバカコクと呼ぼう 九州は伊都国王も周辺諸国も派遣された官吏の一大卒に監視されています
↓
これらのクニグニは女王国に「統属」しています
↓
そこから出ると女王国に入ります
倭人伝にはハッキリこう書いてんだよ
【九州は女王国の主たる構成員扱いして貰えない代官が来て監視される属国ですよ】
と
お前らの大好きな工程とやらが書いてある場所にな
まぁ読んだこともないだろうから知らないだろうけどよw >>249
「自郡至女王國」と「郡至女王國」の違い分かる
君、馬鹿そうだから分からんだろうなw >>256
凄い妄想読みですなw
哀れとしか言いようがない。 畿内厨とネトウヨの違いがわからん、なんか違いがあるのか? >>259
畿内スレで暴れる九州厨と日本で暴れる朝鮮人の違いもわかりませんよ。 「倭人伝には邪馬台国の官吏の名前も書いてないでちゅ〜」
笑い殺す気か
これがキュウシュウセツだってんだからな 内訳出せない九州詐欺
具体的に言えない九州詐欺
倭人伝など読んでない 王権は2つあったで良い
畿内はヤマトを中心とした王権
九州は北部九州を中心にした邪馬台国王権
阿波は、ヤマト王権の前身
いずれも大陸との国交あり
いずれも敵対関係、その後いずれかが日本統一 >>234
その通り
「世有王」
魏の世の王なら卑弥呼とその後の男王も含まれるので、「王」という記述になっている
女王も男王も「王」だからね
倭人伝の「男王」はちゃんと「男王」や「男子」と説明がある 王権は2つあったで良い
畿内はヤマトを中心とした王権
九州は北部九州を中心にした邪馬台国王権
阿波は、ヤマト王権の前身
いずれも大陸との国交あり
いずれも敵対関係、その後いずれかが日本統一 1万2千里を終えた先から女王国
女王国より北は派遣された一大卒が管理してます
九州の列記されたクニグニは一大卒に怯えて「統属」されています
そのすべての内容は女王に報告されています
おやおや
キュウシュウセツ君が大好きな行程の場所に色んなことが書いてあるぞ〜 264の>>830
>ヒミコという発音に近い最高位のおばはんを出せない九州説www
チ~~~~~~~ン♪<
松野氏姫氏系図には、「卑弥呼」という文言が書かれているwww。
チ~~~~~~~ン♪。 264の>>830
>ヒミコという発音に近い最高位のおばはんを出せない九州説www
チ~~~~~~~ン♪<
松野氏姫氏系図には、「卑弥呼」という文言が書かれているwww。
チ~~~~~~~ン♪。 >>262
畿内説の人は倭人伝の原文を読んだことがないようだ
いい加減に意訳されたテキストしか読んでないみたいだな。 ああ 終わった
畿内説は 算数が出来ない
畿内説は算数が出来ない
畿内説は算数が出来ない 264の>>831
ヒミコという称号の人も出せない大和説www。
完全オワコンの大和説www 。 まぁバカキュウシュウセツなんて倭人伝すら読んだことがないから仕方ないね
経歴詐称ジジイの小便のかかった偽本を「読みもしないで」崇め奉るキチ〇イだからな
小便本さえも読んだことないだろどうせwww
アホサイトの受け売り喚いてる奴だらけだから良く分かるわ >>261
具体的には「今使譯所通三十國」と書かれてますね。 >>276
できねーのは九州説ザラコクだってたったさっき証明されたが >>270
むしろかなり執拗に区別して書いてるな
女王
女王国
女王に属す
と特筆して書いてる 264の>>835
やれやれ 、
大和説は完全に、歴史学からドロップアウトしたな。 >>282
それ別に区別してるんじゃないだろ
説明してるだけ。 魏志倭人伝の記述だと伊都国通り過ぎて奴国に行って不弥国行って
そっから船出してるじゃねーか
きれで九州なわけないだろ >>276
仕方ない、
方位も、距離もデタラメ
もしくは倭人伝にイチャモンつける
駄目だ👎👎👎👎😩😩😩😩😩😩😩😩 邪馬台国の官吏は他と違ってかなり明確に書いてるな
中央に伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳?
市場管理に大倭
地方の監視に一大率
外交に大夫
名称どころか中央から地方、市場の監督や外交官の役割まで詳細に書かれている
むしろ邪馬台国の統治システムがかなりシッカリしててそれが全国に及んでるがよくわかるな 264の>>854
>何が温泉宿だ、
九州説、余裕こいてないで卑弥呼の墓を見つけて来い<
日本で唯一、「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」を満たせるのは、
祇園山だけ。 まぁキュウシュウセツのバカでどうしようもない有様が今日も良く分かっただけの話だったな 義務教育では歴史の前に算数
畿内説 算数からやり直したらいい つかバカが議論に参加してるつもりになってるのが滑稽で成らんわw
チンパンジーが服着て歩いてるだけでも笑えるのにww それよりも『筋肉処女帯』・・・など、
なんで家の写真と同じようなコンセプトなの? >>280
九州説はまた捏造かよ
最低だな
それが女王国に統属してるなんて、どこに書いてある? 鷹の像、でんでん太鼓、笠の人形・・・など。
松の木 モミ?・・・など。
きゅうりの葉?、葱の華・・・など。 帶方郡即ち臨津江口より狗邪韓國即ち金海に至る海上の距離は、大約二百餘里なるを、『魏志』には七千餘里となす。故に此間の三十五里は我が一里に當る。
又狗邪韓國より九州の末盧國即ち松浦郡に至る海上の里程は、大約六十餘里に過ぎざるを、『魏志』には之を三千餘里となす。
故に此間の五十里は我が一里に當る。
又末盧國より不彌國即ち太宰府の附近に至る陸上の距離は大約三十里を出でざるに、『魏志』には之を七百里となす。故に此間の二十三、四里は我が一里に當る。
此の如く『魏志』倭人傳に見えたる里程の標準は區々にして一定せざる上に、普通の支那里に比してもまた大に短縮せり
…
此の如く『魏志』の里程に處によりて甚しき伸縮を示すが故に、不彌國より南方一千三百餘里とあるを根據として、邪馬臺國の所在を的確に推知することは、殆ど不可能の事に屬す。
短里なんて無いのよ >>290
一里を80メートルとのたまう九州説こそ算数の勉強が必要と思われ
いや算数以前の問題か 264の>>856
纏向なんて、
「南≠東」や「大和は筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」であった事も忘れて、
地方の「市」を監督する「大倭」職の田舎のご大尽の遺跡を持ち出して、
浮かれてるバカがヤマトセツだからな。
未だに、21枚の魏帝下賜の「尚方作」の方格規矩鏡の意味さえも説明できないのに、
何を喚いてるのやら 、 「ぼくちゃんはみとめない!だからぼくちゃんのかちだ!」
はい、キュウシュウセツ君のいつもの奴が出ましたぁ >>285
どうして里数記述から日程記述に変わるのに無理やり連続で読むの?
普通は別の事柄を表す、と考えない?
だから、他文献からの引用だとも考えられる訳で
それとも、三國志の中で
行程説明の途中で里数から日程に変わった例文でもあるのかな?
不弥国の所で「行」の字があり、これが行程説明終了を表す、という説もあるしね なんか
畿内説の
歯車が
狂いだしてる
最近のこのスレの畿内説論者じゃ
九州説で決まりになっちゃう
「畿内説の友達で論客を連れてきて欲しい」 三日月?
伊達が何やらと言っていたり、
むかーし住んでいた事があるんだよ
いたて 伊達郡? 九州説の読む倭人伝は、邪馬台国の怪特別編集版だから
世間の認識と違うのは仕方ないよw >>301
いつも中傷しかできないキウスはずっと前から狂ってるよ 写っている植物も似ていない?
オジギソウ、ねむの木?の類 >>249
>「日本まで行く」そこから「東京まで行く」の違いでしかねーんだよ
日本まで行く、東京まで行く、実はほぼ同じだとわからないかな。
邪馬台国まで行く、伊都まで行く。 264の>>857
>倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、大阪湾を中心とした畿内や伊勢尾張が中心だろうね。
倭国大乱以前は、倭国はクニ=クナ(狗奴)と同一だろう。<
ダメだよ。
「南≠東」であり、
「大和は筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」であり、
大和は、倭国の地方の「市」を監督する「大倭」職の田舎のご大尽であり、、
21枚の魏帝下賜の「尚方作」が元になった方格規矩鏡が平原から出土しており、、
ヤマトは、白村江の後になって、ようやく倭国を併合吸収継承したんだよ。 264の>>857
>倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、大阪湾を中心とした畿内や伊勢尾張が中心だろうね。
倭国大乱以前は、倭国はクニ=クナ(狗奴)と同一だろう。<
ダメだよ。
「南≠東」であり、
「大和は筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」であり、
大和は、倭国の地方の「市」を監督する「大倭」職の田舎のご大尽であり、、
21枚の魏帝下賜の「尚方作」が元になった方格規矩鏡が平原から出土しており、、
ヤマトは、白村江の後になって、ようやく倭国を併合吸収継承したんだよ。 >>300
なぜならば日数表記の行程には途中に
里数表記の時に出てこなかった投馬国が出てくるからだ
なので少なくとも同じ行程をたどった物ではない事がわかる >>249
>つまり女王国ってのは女王の支配する国なんだよ
>で、九州は属国としてそこに入れて貰えてないんだよ
壱岐も対馬も伊都も、女王の支配下だけど? 伊都国王は女王国に統属してるんだよ
自分が自分に?
まさかね
トンデモ説は漢文読めない人しか騙せない
だから九州説は終わってる 264の>>858
>畿内における倭国大乱。<
「倭國亂」は、九州だよ。 家は九州の人間ではないよ、出身でもない。
読み方も、▢▢力夫と
同じ?だと言っている。 九州は倭人伝に記載があるように昔から中国と盛んに交流してた
で、隋書では倭人は里数を知らないから日数で説明するともある
つまり中国人の往来が多く中国人も地理を良く知ってる
だから里数で説明できる
ところが邪馬台国とは最近交渉が始まった
だから中国人は里数で説明できない
「倭人が案内した」と言う事だ
つまりこれが何を意味するのかと言うと「邪馬台国は九州じゃない」と言う事なんだよ
アンダスタン?
大好きな行程からこういう事が読み取れるんだよ >>272
派遣されたなんて書いてあったっけ?
一大率を伊都においたと書いてあったはず。 >>303
原文から考察してるのが九州説
何かの本に書いてある日本語訳が絶対的に正しいと信じてる畿内説という感じ >>285
>そっから船出してるじゃねーか
そんなこと書いてない。 おうバカコク
ABCDE間の距離が10m〜100mで平均が50m
だとするとE〜Fはいくつになるか答えろや >>320
水行って書いてあんぞ?
泳いでどっか行ったのか? >世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。
漢委奴国王印は倭奴国に下賜されたが、考古学的には伊都国の歴代王墓の時代なので、伊都国と倭奴国は同じ国であり、表記が違うだけである。
伊都国が、王権の所在地であり、外交の舞台でもあった倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は、伊都国にいたと書いてあることになる。 >>301
同意
お遊び程度に相手はしてやってるが、歯ごたえが無くなった 自女王國以北 特置一大率 検察諸國 諸國畏揮之 常治伊都國 於國中有如刺史
はーい倭人伝を読んだこともない、読めもしないキュウシュウセツのぼくちゃんたちー
これが倭人伝の一大卒ですよ
はじめてみたかなぁ?
だろうねぇ
しらないんだもんねぇ
よめるかなぁ? 普通に働くようになったのは、
近代になってからの話だよ
以前は伊達郡というところに住んでいた、
と言っている >>322
卑弥呼のお膝元の伊都国には強力な支配機構があり、周辺諸国はそれを恐れ憚っていたんだよ。 >>333
あのなあ、おまえ倭人伝全く読んで無いだろ 『松傾』
このような感じがしない?
むかーし住んでいた家には、本や書なんかが沢山並んでいた
と言っていたり 3世紀にもなって鉄器すら普及していない驚きの未開倉庫エリアなんて監視する必要すらないから 刺史
よめるかなぁ?
お馬鹿さんのキュウシュウセツのぼくちゃん達?
シシって読むんだよぉ?
彼らはどんな事する人なのかしらないよねぇ?
バカだからねぇ
中央から派遣されて地方を監視する役割なんだよぉ?
知らなかったねぇ?
おべんきょうになったねぇ >>332
そういうものを中国人は刺史に似てるとは思わないよ >>322
正確には常治伊都国だね
これは訳が難しい所。 >>338
素人がいくらそんな妄想書いたって
学者は鉄器が普及してたって書いてるよ 264の>>859
この「江南→大和」キチガイも毎度同じコピペして荒してるな。
和田キヨエをたぶらかした一升瓶偽造の偽書説カルト信者とか、
「尚方作」の説明も出来ない阿波ジジイとか、
鴨や葛城の独り言キチガイとか、
頭どうかしてる「反九州説」の奴が湧いてきて、
鬱陶しいな。 得々と話しているが、女王国から北とあるよね。
女王国が畿内なら、そこより北を支配しても、伊都とは関係なくなってしまう。
でも一大率は伊都においたんだろ?
おかしいだろ?
女王国が伊都だから、そこまでに出て来た対馬国や末盧国を監視していたんだよ。
これなら筋が通る。 分かるかなぁ?
派遣されて監視する役職がどうして伊都国にいるのカナァ?
都にいるわけないよねぇ?
なんで王じゃなくて女王に報告が行くのカナァ?
そもそも伊都国王と邪馬台国女王は完全に別に書いてあるよねぇ?
何で同じだと思うのカナァ?
おばかさんのキュウシュウセツくんにはむずかしかったかなぁ? 子供が映っていたでしょ
謎の帽子をかぶり、制服のようなものを着ているけど、
軍人ではないし、警官でもないと言っている
一緒にいる写っている親も、
そういう職業ではなかった >>343
書いてない
鉄に関しては、学者も3世紀前半までは空白地域と言っているよ >>347
意味の通じない変な文章
なぜ伊都と関係なくなってしまうのか?
??????? 畿内説の学者になる条件
1、方向音痴である事
2、妄想癖がある事
3、ゴッドハンドを持ってる事
4、算数が苦手である事
5、言い訳に長けてる事
6、ただひたすらに信ずることができる事
7、一人で遊ぶことができる事
8、中國の歴史が嫌いな事 一大率は女王国から北を監視したんだよな。
畿内説だとどこのことだ?
京都か?滋賀か? 以前から書いているけど、
九州、畿内の出身ではないよ >>354
ほら、負け組の九州説は中傷しかできない 一大率は女王国の北に置かれてる
「女王国じゃないところに常駐してる」んだわ
その上で伊都国にいる
報告も何もかもを女王に伝える
その官吏に周辺国は怯えている
これが「統属」してる国々の姿
支配じゃない?
伊都国が女王国だ?
なにそれ?ギャグ? >>355
>一大率は女王国から北を監視したんだよな。
そんなこと倭人伝には書いてないな >>359
自分でコピペしておいて読めないのか。
自女王國以北 特置一大率 読み方が違う・・・実際は系統が違うと書いてあるはず キュウシュウセツの能無しぶりが本当に笑えるwww
こんだけバカでよく生きていられるなwww >>364
いいから読み下してみなよ。
自女王國以北 特置一大率 検察諸國 諸國畏揮之 常治伊都國 於國中有如刺史 >>359
へえwwwww
そうなんだwww
自女王國以北 特置一大率 検察諸國 諸國畏揮之 常治伊都國 於國中有如刺史
って書いてるのに?
あ、ごめん
キュウシュウセツ君はばかだからよめないんだっけ
わるいわるい
ぜんぶひらがなでかかないとだめかな? 264の860
>1世紀から2世紀初頭(倭国大乱前)にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。
それは当時の畿内の集落跡からの出土物からも裏付けられる。<
ニギハヤヒや五瀬らの東進での「出雲系銅鐸部族や毛人との戦い」の後、
倭国の地方の市を監督する「大倭」職の市があちこちに出来て、
交流が活発になっただけ。
倭国乱は、北部九州の話。 >>294
「皆統屬女王國」この皆が「今使譯所通三十國」を指してるんだよ。 >>365
畿内説がよく使っている表現だから使っただけだよw
そこに注目するんじゃないw
自女王國以北 特置一大率
の部分だよ。 >>367
へぇwwww
じゃあおまえよんでみなwww
さぞやすばらしいよみくだししてくれるんだろうからwww
まぁどうせにげるだろうけどなwww
あ、ちゃんとひらがなでかいてやるよwww 菅原という系統〜カンノとなっていない?
家は違うと言っている これだけ無駄に時間やスレを費やしても畿内説には
何のダメージも与えてないのになw
九州説の爺さんはもう少し時間を有意義に使わないと。 >>367
自女王國以北、特に一大率を置く
諸國を検察す
諸國これを畏揮す
常に伊都國に治す
國中に於いて刺史の如く有り 264の>>861
>クナ国、個人的には2世紀末までは大和、河内、和泉にまたがる国であったが<
この時点で、この投稿もカス。 そりゃ体力0だからこれ以上のダメージは与えられんなw >>351
卑弥呼が即位したのは2世紀後半だから
鉄器が普及してない地域なんて最初から論外だよな 女王国から北には特に一大率を置く
畿内説だと意味不明になる。
九州伊都説なら、常治伊都國と同じ意味。
つまり、陳寿は同じことを別の表現で繰り返して念を押すのが得意なんだよ。 刺史って地方だけだったか?
都には都の刺史がいたんじゃなかったっけ?
ちと調べ直してくるわ 本当にキュウシュウセツは
「ぼくがしらないんだからみんな知らないはずだから誤魔化せばいい」
と思ってるのが分かるなぁw
これだから厚顔無恥なチンパンジーは困る >>357
論客を待っていました、あなたたが適任です
「畿内説の纏向まで至る、倭人伝の行程を解説してください。」
あなたほどの立派な方だと、いとも簡単に説明できます
伏してお願い申し上げます
「畿内説の纏向まで至る、倭人伝の行程を解説してください。」 【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 >>375
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。 >>385
なぜ畿内説だと意味不明になるの?
どうして九州伊都説なら常治伊都國と同じ意味になるの?
理由は? >>384
鉄器がゼロ出土だから体力0
銅鐸片だけ出土だから銅鐸属性100 家は最近、
変えたんだよと言ってる、上の名前の読み方だけ
仕事をしているところに同じような名字の人がいて、
給料泥棒のような目にあって
読み方だけを変えた >>391
「治」の意味も知らない素人か
倭人伝読んだことないのがバレバレだな 264の>>863
仁徳も、筑紫倭国の武将クラスの人物で、難波付近を拠点にして支配したが、
大和が、自らの系図伝承に取り込んだようだ。 >>391
>「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
あんた漢文ぜんぜん読めないの?
主語はなに?
目的語は? キュウシュウセツくんは刺史の事を今知ったから仕方ないよw
倭人伝なんて読んだこともないからねぇwww
トンデモサイト見て浮かれあがってるだけだもんねぇwwww >>392
本当に今日の畿内説は頭悪いな。
いいか?
一大率は女王国から北に置いたんだ。
畿内説だとどこになる?
あ、以北という語は、出発地を含むのが定義だからな。
1以上と言ったら、1も含むからな。
いいな。 264の>>864
>卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、
吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。<
「南≠東」で、始めから分裂幻覚の妄想。 日本の文字・・・漢文(漢字)から作られた
と書いてあったり
▢▢力夫のほうは、
むかーしの中華じゃないの? 邪馬台国に鉄器が多いなんて記事は倭人伝の何処にもないのになw
邪馬台国の怪編纂の倭人伝解説絵本位しかそんな記述はないwww 刺史は中原の外では一番偉い立場なんだよ。
それと同じくらいに強大な力を伊都の一大率が持っていたというわけだ。 264の>.867
>纒向は、卑弥呼がいた大集落。
邪馬台国はヤマト国、大和盆地一帯だな。<
これも、「南≠東」だから、始めから分裂幻覚の妄想。 >>402
>1以上と言ったら、1も含むからな。
証拠は? 畿内説だと、一大率が支配した女王から北とはどこのこと?
ねえねえ、答えてよ。 刺史については丁度三国志の時代にも活躍してたからな
地方で軍権を持ってそこを統治する派遣官 >>408
どこからそんなトンデモ訳を持ってきたのwww かなり前になるけど
九州スレ
・何々よ、お前はどこかの王族か何かだったのか?
と言っている人がいたよ 桃の種は特筆されてないな
あんなに大量にあればびっくらこいて特筆するな スレを読んで思ったのだが、やっぱり九州説の連中は朝鮮人なのか?
あまりに思考回路が似すぎだろ。 >>409
原文を読めアホw
一大率がいたのは女王国の北側の地域
伊都で一大率を治めていたのwww 264の>>868
>全国平定に向け大きく動き出すのが古墳時代。 その先駆けが四道将軍。
四道将軍の主な派遣先、北陸、丹後半島、瀬戸内海。 それを考えると、卑弥呼の時代、日本海、瀬戸内海には
敵対勢力と卑弥呼を共立した勢力が混在していた可能性が高いと思われる。<
倭国の別種の旧小国の大和の記紀などの四道将軍の話は、
当然、倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」 で、
大和が将軍やその部下として随行した話。 >>422
また九州説が捏造を始めた
纒向の北なんて誰も言ってないな 女王国の「北」
つまり女王国じゃありません
派遣官僚に怯える属国が九州です
キュウシュウセツ君は文字が読めるようになると良いねw
きっと色んなことが分かるようになるよwww >>413
女王から北は魏志倭人伝にf出てくる畿内より北の国だろ
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、
不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、
国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、
烏奴国、奴国のどれかじゃね >>419
畿内説だと女王国は伊都より東だか南だかにあるはず。
まさか西日本全部を女王国とする?
でもなんでそこから北を支配するの?
伊都は畿内説だと女王国に含まないんだよね? 各地の土器が集まってたことも、びっくらこいて特筆しただろうな
古墳を作ってる土木作業員が纒向に万人も集まってたらびっくらこいて特筆しただろうな >>432
畿内説だと九州は女王国の北にあるらしい。
あと、畿内説だと以ってという語の意味もわからないらしい。 糸クズは大嘘つきだからな
まともに取り合うだけ無駄というもの 住居が無いからびっくりして・・・それはただの沼地だから特筆しないなw >>434
現代の地名でいいよw
一大率が支配した、女王国の北はどこになるのw >>431
女王国の北方に配置された一大率達を治める(統率)
何か問題ある? 九州に特筆されてる事が沢山あるよね
女王国の構成員扱いされていません
派遣された官吏に監視されて怯えています
女王に統属した属国です
すごいね!流石はキュウシュウだ!間違いなく邪馬台国だね! 陳寿の頭の中では、洛陽以外を都と呼ぶのを躊躇ったんだよ。
だから、並みの王より偉い刺史を持ち出したんだ。 >>423
スレを読んで思ったのだが、やっぱり九州説の連中は朝鮮人なのか?
☝
X%#K\&batu@賞 >>445
どこのことか、現代の地名でお答えください。 264の>>870
>◎纒向は、2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落。また発掘に携わった考古学者は、
外部勢力の侵入を考えざる得ないとも言っている。
卑弥呼の居館域と推定される大型建物のある柵で囲まれたエリアだけでも、<
この時点で、「南→東」の嘘つきダマシをしているから、×。
>1.5haある。運動場を含めた一つの中学校位の広さはある。<
1000人の婢を、運動場に寝かせて置ける筈がない。 >>441
都は伊都国だから伊都国で北方の諸国に配置した一大率達を治めるんだ。 いつまでたっても環境依存文字を理解できないバカキウス >>445
常治伊都國
主語はなに?
目的語はどれ? >>442
なんで、魏志倭人伝に女王国より北にある国として出てくる
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、
不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、
鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、
烏奴国、奴国
の事だろ
北の国で暁王国の境界が尽きる所って書いてあるから
最後の奴国までが一大卒が支配してた国じゃないの
現代の地名はわからんが 数年前、△スレを読んでいたときも、
平氏、平家が〜と言っている人がいたり >>444
どうでもいいこと
支配でも、統治でも・・・・・・・聞いてなんの意味が有るの >>454
おまえ漢文がまったく読めない素人か・・・ 刺史ってのは、皇帝直属の監視役で、首都洛陽で刺史全員を統治して、
各地に派遣されて太守を監視したんだろ。
伊都の一大率も、卑弥呼直属の監視役で、首都伊都で一大率全体を統治して、
各国に派遣されて主を監視したんだろ。
やっぱり伊都が邪馬台国首都じゃないか。 >>432
それ違ってますよ
原文は「自女王國以北」だから女王国内の北側の諸国ですね >>459
どうでもよくない
捏造しちゃダメってこと 刺史の建前は皇帝から直接地方へ派遣される監視官なのだが。
建前が崩れて地方に居座って、皇帝の威光を悪用して支配者になる者が多かっただけで。 264の>>883
大和説はもう諦めろや。
いくらウソを交えてそれっぽい学説を並べ立てても、
「南≠東」のウソは、バレバレだから。 キュウシュウセツってなんで速攻でバレるウソ平気でつけるんだろうな
自分が知らないから他も知らないと思って嘘つけると本気で思ってるんだなぁ >>466
×刺史は各州に置かれる
〇各州担当の刺史が洛陽から派遣される >>469
以北の以がついている以上、女王国が含まれることを知らないから >>461
訂正してあげるね
刺史ってのは、皇帝直属の監視役で、首都洛陽で刺史全員を統治して、
各地に派遣されて太守を監視したんだろ。
女王国の北側の諸国に配置された一大率も、卑弥呼直属の監視役で、
首都伊都で各一大率達を統治して監視したんだろ。
やっぱり伊都が邪馬台国首都じゃないか。 近代になり、その家の名を名乗ったり、
勝手に名乗っている家、人もいるだろうけど 世界大百科事典 第2版の解説
しし【刺史 ci sh?】
中国の地方官名。漢の武帝の元封5年(前106)創設。
全国を13の州部に分け部刺史(略称刺史)を派遣して管内を巡察,郡守や豪民の監察に当たらせた。
後漢になると,刺史は治所を持つとともに,軍政長官も兼ね,明・清時代の総督・巡撫のように,最高の地方行政官化していった。
南北朝以後州の数が増加し,隋・唐に入って州が郡に代わると,刺史も郡の太守すなわち知事に変化。宋代には武官の上級位階名となる。
元代以後は州知事の雅名としてのみ残る。
.
出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト/世界大百科事典 第2版について | 情報 デジタル大辞泉の解説
し‐し【刺史】
1 古代中国の官名。漢代は郡国の監察官。隋・唐代では州の長官。宋代以後廃止された。
2 国守(こくしゅ)の唐名。
.
出典|小学館/デジタル大辞泉について | 情報 凡例 >>481
畿内説の人が別の畿内説の人を素人と批判してるw 264の>>885
>埼玉の稲荷山古墳から出土した鉄剣。<
主葬の粘土槨のものではなく、
脇の、左治の陪臣の、歴床の武将の鉄剣だよ。
>祖先は大彦の銘がある。<
大彦とは読めないし、
大彦の子孫が、稲荷山の陪臣、
というのもおかしい。
大彦の子孫が関東に根付いた可能性はある。< >>475
伊都が邪馬台国なら名前と行程がおかしいだろ
不弥国から水行して投馬国経由して邪馬台国に着くって書いてあるから
伊都に向かう途中に投馬国は出てこなかったろ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
刺史
しし
ci-shi; t`z?-shih
中国の官名。
元封5 (前 106) 年,前漢の武帝は全国を 13の州に分け,刺史を派遣し,6ヵ条の条文に従って地方行政を監督させた。
刺史は属官を率いるが治所はなく,秩 (俸禄) は 600石と低いものであったが,前漢末に名称が牧と改められ,秩も真 2000石となった。
後漢に再び名称が刺史に戻り,治所をもつようになり,行政官化していったが,毎年8月には管内を巡視した。
後漢末にまたも牧となり,同時に軍事権も握った。
以後地方行政の変遷とともに,名称や権限にも変化があったが,明代に完全に廃止された。
しかし刺史の名は明,清においても知州の尊称として,用いられた。 他の国にも王族がいるけど
その王族の名を騙ったり、
勝手に名乗ったりする人なんていないでしょ
近所で王様ごっこをして遊んでいるだけとか、
子供の遊びなら、仕方のないことだと思うけど ほらみろ。
>漢代は郡国の監察官
刺史のデスクはあくまでも首都にあって、
受け持ちの地方を巡回して、ちゃんと仕事しているか監視して
皇帝に報告していたんだよ。
刺史とはそういうもの。
ミイラ取りがミイラになって、皇帝の威光を使って
地方軍事権と行政権を奪ったから意味が変質していっただけ。 >>436
良い指摘です
どなたかが、かようなカキコミしてましたが、使者は特筆すべきでしょう。
◎卑弥呼の居館域と推定される大型建物のある柵で囲まれたエリアだけでも、1.5haある。運動場を含めた一つの中学校位の広さはある。
1000人の下女が勤めるには、十分なスペースはあるわな。
纒向遺跡全体でも3キロ平米、後世の京に匹敵する巨大さ。
◎纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
纒向は、ヤマトの地を征圧した兵と徴用された地元民が万単位で土木作業に従事した大集落。
卑弥呼は鬼道で民を纏める役割を担っていた。 >>486
狗邪韓國が投馬國の中の国邑なんだ
女王国⊃邪馬壹國+投馬國
投馬國⊃狗邪韓國
邪馬壹國⊃對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國) 刺史というのは昔は単なる巡回検察官で秩禄も低かったが
2世紀末には◯州牧と改称されて郡太守を統括する上官だった
三世紀にはまた◯州刺史と改称される
有事には郡太守を部下の将軍として率いる司令官になる 卑弥呼の居城の事も知らんと
倭人伝読んだこともありませんアピールはもういいから
なんでキュウシュウセツって僕がバカですってこんなに必死に叫び続けるんだろう 264の>>899
>張政は帯方郡の小役人であり、これで理解できるのは女王国が相当な弱小国である事。<
共立女王國。
>4世紀には、日本は半島に進出して400年には南朝と半島利権外交を始める。<
(大和ではなく)、筑紫倭国が「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國 」した。
>魏の冊封を受けていた九州の弱小国、邪馬台国が継続している可能性はゼロである。<
倭王武の次の倭国王哲まで、東海姫氏國王朝として継続していた。
>さらに弱小九州女王が瀬戸内海航路に通過可能な寄港地を開拓していた可能性は無い。<
倭国は、「自昔・・・東征毛人五十五國」して来た。 女王国を含む、邪馬台国北部の国々を検察して、諸国が懼れ憚る
という文を受けて、魏の刺史のような存在、と言っているのだから、
「刺史の役割の部分」について引用しているだけ。
よって、魏の刺史のような「検察機関」が伊都にもあって、各国を監視している、
というだけのこと。
中国は広いから、検察対象の州に長期間滞在したかもしれんが、
北部九州邪馬台国なら伊都在住で必要時だけ検察に赴けばよい。 すげぇなホント
倭人伝読んだこともない奴らがキュウシュウキュウシュウ叫んで集まってきてるんだ
こんだけバカでよくこいつ等人と会話してる気になれると驚く
バカの無敵ぶりは本当に凄いわ
自分がどんだけバカだか知らなきゃ恥じる事もないからなぁ 264の>>904
>畿内で当たり前。迷いは無駄<
大和が筑紫倭国を併合吸収継承出来たのは、ようやく白村江の後。 戦国時代の話になるけど
相馬氏とか伊達氏とか・・・いるでしょ、
あの周辺に住んでいたのかな >>500
3世紀にもなって鉄器ゼロ出土という驚きの結果が出た >>498
ですよね
畿内説とか生まれる余地ないですよね。 >>499
あんたが全く読んだことがないようだがw 刺史の治は各州にあったってことが理解できない無学が
九州説 畿内説の人は原文を読んだ方がいいな
読まずに思い込みで話してるな。 ======こんばんは! まもなく10時です キウスの時間です========
TOPIX
鉄の話題がでました
畿内説の行程については堂々めぐりです
女王国以北の比定も話題になりました
「刺史」について討議されました
纒向の特筆すべきことが倭人伝に記されていないとの意見がでました
プライドだけ高く実力がない
それが糸厨なんだよなあ岡上 >>498でFA
単語切り取りの畿無説が文脈無視のトンデモ解釈したいつもと変わらない夜でした。 >>506
畿内説は「自女王國以北 特置一大率」を完全無視してるなw >>493
ごたくはいいから、早く一大率が支配した地域を現代の地名で答えるんだ。
その中には伊都国が含まれるんだろうな? 264の>>911
>弧文板や前方後円墳の形状とか特殊器台とかなり吉備の影響が色濃いね <
吉備は、出雲に属してしたが、筑紫倭国の東征で、
出雲と倭国の両方の影響を受ける事になっただけの事。
>邪馬台国が畿内に成立した<
「南→東」の嘘つきダマシの・・・・。
>各勢力の集合体的な形なのが分かるな<
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国、 老婆の話も、おかしいでしょ
かなり昔の話になるのかもしれないけど、
何々様なんて言われていた家だよ
と言っていたり >>506
と言うかもう矛盾だらけだからなw
このバカどもの主張だと以下のようになる
伊都国と邪馬台国を別々に書いてるのに伊都国が邪馬台国だ
伊都国王と邪馬台国女王を別々に書いてるに伊都国王が邪馬台国女王だ
邪馬台国女王に報告が全部言ってるのに伊都国が支配してる
伊都国はとうに通り過ぎててそこから里数ですら離れた後に水行10日、陸行一月して戻ってくる
女王国の北だというのに伊都国が邪馬台国だ
刺史は中国ではずっと地方を監視する為に派遣された官吏なのに首都にいると言う
もうあれだな
自分でなにいってんだか分からないんだろうよ
バカだから 適当な言い逃れで誤魔化せると思ってる幼児以下の知能
それがキュウシュウセツ >>518
一大率いたとされる自女王國以北の地域が何処か具体的に示せないw 264の>>919
ヤマトセツの「反論」は、史料事実に拠る反論が出来ず、
・そうに決まってる!と根拠も何もなく突然結論を言う
・ぼくちゃんはそう思ない!だから勝った!と無知なだけなのに突然意味不明な勝利宣言
・史書の曲解の俺ラノベ話だけで議論が出来ると思ってる
まともな話なんて聞いた事ないわw 。 >>518
無視していないと言うなら、「自女王國以北 特置一大率」を解釈してくれよ。
現代の地名でどこのことかも答えてね! >>499
完全に罵詈雑言だけですね、恥ずかしくないですか?
そんな調子じゃ畿内説からますます人が離れますよ??
そういう私も上岡にリネームして伊都国説に乗り換えてみますか。
このスレのように畿内説の傲慢なところがもともと気にくわないですし。
この方が旗色鮮明でわかりやすいですしね。 >>526
鸚鵡返しの嘘しかつけないウソコクが900番台まで追いついてきました 職業はわからないけど
芝居や歌舞伎が好きで、
そういうものばかり観に行ったりしていた
と言っていた >>517
良い指摘です 畿内説でも説明できないと思います
九州説では伊都は候補地です。・・・・伊都を強く推す方もいますが
阿波説が「自女王國以北 特置一大率」この項目に限れば良いかもしれません >>528
自分が前から伊都国説だとの名乗ってたのを忘れたのかい? 264の>>920
>洛陽から三角縁神獣鏡が出てるんだが <
ちゃんとした出土物ではなかったり、
三角縁の類型一個、などでは、ダメだよ。 >>521
そうじゃないよw
伊都国は邪馬台国の王都
伊都国の王が邪馬台国の女王卑弥呼
伊都国までで魏使は到着
水行10日、陸行一日は帯方郡から掛かる時間で再度説明したもの >>537
もう一般人は九州説についていけないな
御愁傷様 >>348
>派遣されて監視する役職がどうして伊都国にいるのカナァ?
監視という訳は畿内説が使っているな。 >>491
魏の時代の狗邪韓国辺りは弁韓と呼ばれて12カ国国があったが
投馬国なんて出て来ないぞ
魏史韓伝の中にも出て来ないが >>541
どうして?
九州説はいつも変なことを言う >>538
一般人の7割が九州説なんですよ
一般人が理解出来ずに付いて来ないのは畿内説の方ですよ。 >>537
水行のくだりで今まで出てこなかった投馬国が突然出て来るんだが? >>542
投馬国は朝鮮半島南岸に在っても
倭だから魏史韓伝の中には無い
倭人伝の中にある。 畿内厨は、自身でも魏志で都合悪いところは解釈を放棄して無視してるでしょ。
伊都国説を攻撃する時のみ魏志をあげるとは本当姑息ですねぇ。。 >>550
それがなんで「伊都国には一大率はいない」って話になるんだ?
ちゃんと論を語れる脳がないのが九州説だな >>549
狗邪韓國も倭人伝の中に書かれており倭である。 >>552
ほら、とんでもの言うことには
こんなふうに具体性がない
w >>549
同じ魏史の中にある国の話なのになぜ何の断りも無く
違う名前にしたというのか
韓国南部に投馬国がなかったからとした方がよほど理にかなってると思うが 「 おうおう…随分と言ってくれるじゃねえか・・・
名無しスレ主の悪事を確かに見ているものが居る。遊び人の金さんという者が・・・
この背中に咲いた桜吹雪がすべてをお見通しだぜ」 >>552
畿内説にとって魏志倭人伝で都合の悪い所なんてないぞ? 倭人伝には朝鮮半島南岸も倭だったと書かれてるわけです。 >>551
だとしてもほぼ10割が平原の価値を無視しているわけでも全然ないでしょ。
ここのテンプレみたいに衰退ウンヌンなんて、どこの学者が言ってるのですかね?? >>563
ほらね
「伊都国説に乗り換えてみますか」なんて大ウソ >>563
しかし平原が邪馬台国だなんて言ってる学者なんかほぼ居ないぞ? >>563
ほぼ10割が平原は邪馬台国じゃないと言ってる キウスも糸クズも自演や成り済ましが大好き
つまり九州説支持者には頭のおかしい輩がいる >>556
邪馬台国も投馬国も7万戸、5万戸もあり
単独の国邑ではない
馬韓、弁韓、辰韓と同じ様な国邑の集合体である
狗邪韓國は投馬国の中の国邑 >>563
平原1号と2号比べて衰退してないと言う人もいないんじゃないの? >>570
狗邪韓國は投馬国の中の国邑とも書かれてないな ・古い鏡を鋳つぶした国産鏡だらけ
・周りからも祭祀への参加もなく、自分からも何も影響を広められない
・祭礼の規模は小さく個人の葬送の域を出ない
・その後の墓はもう貧相な副葬品さえもなくそれまで続いた繁栄の終焉を明確になる
・これを機に九州全域で副葬品の大量出土はなくなり、九州全体でも小型国産鏡主体になる
・この時期あたりから急激に畿内の土器が九州北部に広まり九州の土器が塗りつぶされていく
九州の終わりの始まりの遺跡としてとても重要ですね
平原は >>565
バレました??
けど、畿内厨よりは糸厨のほうがよっぽど好感ありますよ
畿内厨のひと、平原衰退説の考古学者、早く早く教えてくださいね。 >>569
明記はされていないが
里(距離)で書かれた行程と日(時間)で書かれた行程が同じ行程だから
狗邪韓國は投馬国の中の国邑だと分かる。 >>570
狗邪韓國は弁辰12国の中に弁辰狗邪國として出てくる
つまりそっちの言い分が正しければ投馬国は弁韓だったとこうなるわけだが
証拠がなければただの妄言なんだけど >>490
なんで畿内説は魏志倭人伝と関係ないことを言い立てるの? >>574
そういうことが書いてある学者の本か論文を紹介してください。
参考に読んでみますので。
不思議に手元には見当たらないので、、 考古学的にも史書的にも
小国の集まりとして畿内に支配された惨めな属国
と言う姿しか見えませんな
偉大なる九州様は 嘘をつくことが自らの信用を落とすことだと気がつかないバカばかり >>581
狗邪韓國は弁辰12国の中の弁辰狗邪國とは別の国
同じだとする根拠はない。 >>574
平原遺跡のあからさまな王権の象徴を前にして、負け犬が遠吠えしているようだw ウソと言うか何も知らない妄想で喋ってるからな
本人は「我こそ古代史のなぞを解き明かしたぞ!」とか自信満々なんだろう
裸のチンパンジーだけどな >>575岡上 ◆JN/67qb8kM
☝
時折、いたずらっ子で賞 ついに畿内説では一大率について説明できなかったな。 >>574
早く教えて教えてもらえませんか?
伊都国衰退説を勉強してみたいので。 >>594
あら、トリップが外れてしまった。
原田、柳田の両先生と真逆の意見も興味ありますね。 キュウシュウセツの猿が人間と会話してるつもりになってるのが笑える >>576
ユーモアセンス無いね
「ばくる」➡「交換する」 北海道 >>597
つまらない煽りは不要ですよ。
平原衰退説の学者を教えてくださいね。 >>575
上野祥史
「唐津地域(末盧)と糸島地域(伊都)では,漢鏡を副葬する弥生時代の首長墓の終焉に共通した様相がみえるのである。」 >>592
畿内説の説明ではボカシてあるからな
偉い畿内説の学者さんでも答えられないみたいだから
ここの連中には絶対無理でしょう。 畿内説スレでトリ付け替えて恥ずかしい自作自演すると九州に邪馬台国がわいてでくるとおもってんだろうなぁ
キュウシュウセツって本当に哀れだな 「る」の数を数えられない?
あるいは、動詞の活用を理解できない?
キウスw この流れで畿内説を支持しようと思う人はいないだろう。 でたでた
誰も見た事もないものを証拠だとか言い張るキュウシュウセツw
あれだっけ?八咫鏡には八咫烏が描いてあるんだっけ?w 畿内説は話を逸らし始めました。
今夜も敗退したようです。 >>587
えっじゃあどの国
3世紀ごろは韓国南部は弁韓と呼ばれ
12の国があったと三国志に書かれていて12の国の名前までわかってる
だから狗邪韓國が弁辰狗邪國じゃなかったとしてもその中のどれか
という事になるだけの話なんだが >>608
こういうカスみたいな書き込みしかできないんだから、畿内厨も末期症状ですね。 今からでも遅くない
伊都国説に転向した方がいいよw あーそうそう
鏡で思い出した
キュウシュウセツ大好きの神夏磯姫や五十迹手の時の鏡の話ってどういう内容だっけ?w
降伏した証に献上したんだよなぁw
あれぇ?なんで王権のシンボルが移動してんのカナァ?
降伏して差し出したって書いてあるなぁw
平原の大切なレガリアを上げて命乞いしたんだなぁ
イギリス王のケツにしかれるスクーンの石みたいなもんだな 岸本直文
「北部九州では中期までの枠組みが基本的に継承され,より広域の地域的統合に進まなかったのに対して,それ以東の西日本社会は,より広域の地域圏の形成を急速に進めたのである。」 >>610
そんなこたあない
12の国の名前は分かっていても
その国々が何処に在ったか分ってない
適当に比定されてるけどね
弁韓の南に倭人の投馬国が在ったんだね。 >>608
ヘブライ文字が書いてあるんだ、日ユ同祖論知らんのか?ばかもん >>613
気が向けばこっちのハンドルで伊都国説論者として書き込みますよ。
伊都国説は立ち位置がはっきりしていて気持ちが良いですね 投馬国が韓国のどっかの国と証明されない限りは
水行10日〜の記載は九州から出発するという事を記している可能性が
高い事になる あと八咫鏡が幾つか史書に出てくるけどそのたびに
「神に対して献上してる」な
鏡が移動してるって要は降伏と拝礼の証として描かれてるなぁ
鏡が移ったんだよな?畿内に?
王権の証が
流石は統属してる地域だなと納得できるわ スレに貼りついてばかりいると、
世情や他の学に疎くなる
まず運動不足になる
岡目八目も探求につながりますよ
井 の 中 の 蛙 に な ら ぬ よ う に
「 笑う門には福来る」 では失礼 >>616
イギリスはストーンへンジだ知らんのか?ばかもん >>619
そうなると少なくても魏史韓伝の中の弁韓の項に
投馬国が出てこなければ信憑性がないぞ >>621
伊都国説だと曖昧な所が無いでしょw
全てをスッキリ説明が出来る
韓国人には反感を買いそうだけどwww 264の>>925
>というか三角縁を否定したら畿内が邪馬台国じゃなくなると思ってるのかやたらと言うのも今更だな <
三角縁以前に、「南≠東」などで、大和説は×だよ。
>三角縁が中国鏡かどうかの是非なんて関係なく弥生時代後期から始まる畿内の全国的中心性と、九州が地方としてその強い影響下に入ってる状況には何の変化もない
卑弥呼の貰った鏡が別に三角縁である必要もない それこそ別の鏡だって構わんわけで<
全国最大の中心は弥生銀座だ。
>で、九州からは見つかる鏡も平原は国産鏡だらけだし、九州全域を見ても魏から貰ったような大量の鏡もないし配布したような中心性もない
見つかる鏡種もバラバラで、基本的に小型国産鏡だらけ
そして九州自身も畿内から三角縁を貰って大切に古墳に収めてるような立場なのに 鏡持ちだしてなんか有利になるとでも思ってんのかね
バカだから仕方ないけど <
平原の21枚の「尚方作」方格規矩鏡は魏帝の下賜鏡が元になっている。
皇国史観の大和説のアホに言っても仕方がないけど。 九州は中国との交渉の証に中国鏡にこだわり続けていたが、魏は伊都国王を頭越しに邪馬台国女王に鏡を与えてるな
日本の指導者としての地位を完全に奪われたという証だな >>624
投馬国は宮崎南部、鹿児島だ、何回もいわせるな、ばかもん >>629
そうですねぇ。
無理して巻向を古く見るよりは随分と合理的でしょうね。
記紀を生き生きと読める点も素晴らしいです。 >>634
最初からバレてるからw
前もこいつ自演失敗してたし
それからコテ変えてる 264の>>928
>那珂八幡古墳なんて畿内から頂いた三角縁を収めてる箸墓に続く頃の出現期の古墳だからな<
三角縁は、筑紫の志登や祇園山や藤崎西新町や那珂八幡が古いんだよ。
そして、箸墓は、那珂八幡の後であり、模倣なんだよ。
>九州に邪馬台国とかもうバカじゃねぇのと<
大和に邪馬台国とか、もうバカじゃねぇの?、と。 >>624
里(距離)と日(時間)は別の概念ですから続けて読むのは無理がある
中国では宇宙とは空間と時間のことで分けて考える習慣があったから
行程を説明するのに距離と時間が混在なんて例はないんですよね 里数と日数
↓
九州は倭人伝に記載があるように昔から中国と盛んに交流してた
で、隋書では倭人は里数を知らないから日数で説明するともある
つまり中国人の往来が多く中国人も地理を良く知ってる
だから里数で説明できる
ところが邪馬台国とは最近交渉が始まった
だから中国人は里数で説明できない
「倭人が案内した」と言う事だ
つまりこれが何を意味するのかと言うと「邪馬台国は九州じゃない」と言う事なんだよ
アンダスタン?
大好きな行程からこういう事が読み取れるんだよ >>636
無理して巻向を古く見るってフレーズよく聞くね
理由は聞いたことないけど ここにも書いてあるでしょ
wiki『ウサギ』
王母が何やらとか? 土器の編年は共伴してる事によって一つの基準となる
庄内土器はその当時の九州の土器と「共伴している」
それによって年代を判定している
纏向だけで勝手に編年してるとか言ってるバカは何も知らないだけだなw あの写真の撮影された日付など・・・
そのバンド、グループも活動していない時代なんだけど、
なんで詳しいんだろう
ネットもwikiもない頃の写真 >>651
それがなんで、それらしい、の?
それがなんで、それらしい、の?
説明できないのかな? >>639
里数と日数で2重に記したと言うなら
投馬国がおかしな事になる
たぶん魏使は伊都まで行って邪馬台国の場所はは倭人に聞いたんだろ >>655
朝鮮半島南岸にも倭が在ったことになるだろ
韓伝は韓のことしかかいてないから
倭人伝に続きがあるんだよ。 264の>>934
>九州は奈良時代まで別文化圏の南部以外は邪馬台国の時代には全面的に畿内の強い影響下にある<
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国。
>土器も墓制も独自性を失って畿内の様式に塗り替えられている<
庄内も布留も前方後円墳も、筑紫が先行し、近畿は、筑紫からの伝番模倣で、逆に筑紫へ搬入上納。
>三角縁も古墳も全部九州も受け入れてる状況でなにいってんだろうなこいつ等<
三角縁も筑紫が先行し、大和は呉系楽浪鏡師から子弟が教わって大量の副葬用の粗悪な三角縁を造った。
古墳も、箸墓は、那珂八幡や渡来古韓尺技術者からの学習模倣。
>九州なんて九州自身でさえもまとまってないし中心も失ってる 邪馬台国の100年くらい前の段階から
これでどこが邪馬台国とかほざいてるんだろうな <
大和が筑紫倭国を併合吸収継承出来たのは、ようやく白村江の後。 >>654
帯方郡から末蘆国まで水行10日そこから水行10日で宮崎南部の投馬国 その国境は東西五カ月の行、南北三カ月の行にして、各々海に至る。
その地勢、東高西低。
邪靡堆に都す。則ち、魏志謂うところの邪馬臺なるもの也。
この地勢とは都「七万余戸」の家々が建ってる地面の傾斜のことで
奈良盆地や巻向の山野辺の道を歩いた事の有る人はハット気付くはず
東高く緩やかな傾斜が西の方に続いてる、けっして高い山や海の事を
言ってるんじゃ無い。 >>642
素晴らしい妄想(願望)が根拠になってしまっている 「九州と中国は紀元前200年くらいからの長い付き合いがある」
当然中国からも人々の往来がある
特に伊都国のような主要な場所は中国人も知っている
それは副葬品に限らない周囲で見つかる多くの豊富な大陸文物からも明らか
だから里数を知らない倭人じゃない中国人はその行程を「里数で説明できる」
つまり、「日数で行程を示す場所」には付き合って日の浅い相手の場所に倭人の案内で行ったわけだ
九州に邪馬台国が無い理由はこんなところにも見えるわけだ ・川崎に来てからも、大島のほうにある、寺院に通っていたと聞いているよ
と言っているから、昔から川崎に住んでいたわけではないと思う。 >>660
馬鹿こけ!
東西五カ月の行、南北三カ月の行にして
ってユーラシア大陸よりデカイじゃんw 魏書東夷伝韓条に韓(馬韓、弁韓、辰韓)は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と隣接していると記されている。 この記述が気になるね。
朝鮮半島南部の沿岸部の島々は、元々倭の領域だったのかもね。
さらに洛東江付近にある2世紀の鉄鉱石採掘跡。
日本列島の土器しか出ない採掘跡が見つかっている。
弥生時代後期には、鉄を求め日本列島からかなり活発に半島に進出し、日本に鉄をもたらしていたと考えられる。
もちろん、中国本土からも鉄を求め半島への進出はあったけどね。
どのような勢力がこの役割を担い、日本列島のどの地域、勢力と結びつきが強かったか解明しないといけない。
弥生時代の東アジアの人の移動、鉄の流通が分かれば、更に当時の状況がはっきりしてくる。
古墳時代に半島からの渡来が活発になる前に、日本列島から朝鮮半島への進出があった可能性も出てくるな。 264の>>941
>畿内の中心性は「全国規模」<
筑紫→大和への搬入がないし、
半島→大和も非常に少ないし、
筑紫へは、西日本全域と半島からの搬入も最大であるから、
筑紫の中心性が全国規模。 >>666
追記。
日本列島から朝鮮半島へ行き、再び日本列島に戻ってくる。
記紀のスサノオの記述に似た人の移動が、実際にあった可能性がある。 >>664
「其瀆盧國與倭接界」書いてある以外に何か必要?
韓の国邑が倭と接する為には他に如何なる状況があるの? >>658
里数と日数で同じルートを示したんだとしたら
里で表記されてる行程に投馬国が出て来ないで
日数表記の時に急に出てくる事になるから
>>659
水行20日のあとに陸行1月また水行10日で邪馬台国となるから
投馬国が宮城南部だと邪馬台国は九州に収まるか怪しい ザラコクさんもキウスさんも岡上さんも知らないのかもしれませんが、
あなたたちが日々書き込んでいるこの掲示板は日本で生まれたもので、
書き込みのほとんどは日本人によるものです
その日本では、昔から嘘をつくことは恥ずべき行為だと考えられていて、
ネットの掲示板でも、嘘をつくことは悪行のひとつだと認識されています
自演や成り済ましも他人を欺こうとする行為、すなわち嘘です
あなたたちの祖国で嘘をつくという行為がどのように認識されているのかはわかりませんが、
少なくとも日本の掲示板に書き込む時には、嘘をつくことはやめておいた方がいいですよ >>670
だから「其瀆盧國與倭接界」と書いてあると
どうして半島南部にも倭人の国があったことになるの?
理由は? だから行程の俺解釈なんてもう意味なんてねーんだよ
そもそも方角と距離で言うなら九州もどこにも行けねーよ
だから行程そのものは何の論にもならない
こんなもんを弄繰り回してるのがキュウシュウセツだからな
しかも「それしかない」w
もう呆れるしかない そもそも伊都は家が1千戸と魏志倭人伝に書かれておるやろが
邪馬台国は7万戸ぞ
なぜ伊都=邪馬台国なんつう話が出てるんじゃ きゅうりのような葉、葱の華など・・・の写真
母親だよ、と言っている人だけ、なぜか素足に下駄 >>673
まず
韓の国邑が倭と接する為には他に如何なる状況があるの?
これにこたえてよw >>675
キュウシュウセツが理由なんて言うと思うか?w >>675
そんな話じゃない
邪馬台国は7万戸
伊都国は1千戸で邪馬台国の王都
邪馬台国は對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)の連合体 さざえさんの話じゃないのか?
と言っている人もいたけど
サザエさんも始まっていない頃の写真、
作者も生まれていないと思う >>682
韓在帶方之南,東西以海爲限,南與倭接
の方の解釈は? >>685
どういう事や
前から読んでも何も変わらんぞ >>659subo
は畿内説で太平洋ルート
畿内説の方位について説明できるのは太平洋ルートのみだ 中国は400年も交渉してる相手の土地を全く知らないと言うキュウシュウセツw
ましてや隣接して支配下にも入れていた朝鮮半島の事も全く知らないというキュウシュウセツww
どんだけバカなんだろうなこいつ等 264の>>944
>ところがまさに弥生時代後期になるとこの銅矛も甕棺も一気に縮小して消滅する <
甕棺は中国のものだったから、倭人の中の一部の中国系渡来部族が、倭国乱で勢いを無くしただけ。
銅矛は、鉄器に変わった。
>中心地とされていた平原も国産鏡だらけの周囲と何の関係も持たない個人墓の域になり<
「尚方作」の21枚の方格規矩鏡があるから、魏帝からの下賜鏡は元になっている、
>その後は継続せず消え去る<
那珂八幡や銚子塚に続き、更に楽浪滅亡の危機で、317年頃に姫氏に王位が移って、
久留米付近に遷宮して、東海姫氏國が繁栄した。
>そして周辺の集落は土器や祭祀の独自性を強め個々バラバラになっていく<
庄内も布留も、筑紫が原発。
>この時代に至って九州はまとまりも中心も失い国としての体を失った事が明瞭に読み取る事が出来る
このような状況の中で他地域の土器や祭祀が入り込み、畿内の強い影響下に入ったまま邪馬台国の時代を迎える
これが「九州の現実」
とてもじゃないが九州一つまとめる勢力さえそんざいしないで遠く畿内の干渉かに入った姿しか浮かび上がらない <
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国のまま。 >>681
アホかァー
そんなら魏志倭人伝に出てくる国の戸数全部足してみぃー
7万戸超えとるやないかーい
邪馬台国は奴国や不弥国の連合ではなく一つの国です。 >>689
韓帶方の南に在り,東西は海をもて限りと為し、南は倭と接す。
それがなに?
対馬壱岐から日本列島に繋がってるよね >>673
倭奴國は倭國之極南界也 (つまり奴国は倭国の南の端だと言ってる)
>>669
倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見この帥升がスサに音が近くスサノオのモデル
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也
光武賜以印綬 安帝永初元年
倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見 >>616
話を逸らさずに魏志倭人伝と向き合えよ。 発電、電気か何かを起こしていたんだよ、
それで何々様なんて言われ、奉られていた
何の話なんだろう >>692
改めて前から読んできたけどやっぱり1千戸が7万戸に変わったりしてなかったぞ >>617
畿内説はよそのクズ学者の受け売りだけということか。
それよりも自分の頭で魏志倭人伝をちゃんと理解しろよ。
一大率が支配していた地域はどこなんだ? >>696
東西は海
南は倭と接す
南に海がないってことは地続きで倭かある。
君韓国の方? >>696
東西は海
南は倭と接す
南に海がないってことは地続きで倭である。
君韓国の方? >>631
伊都の王が倭国女王卑弥呼なので、そんな迷解釈は成り立ちませんよ。 それから、
あの泥棒のようなものに入られた?話でしょ
神殺しのような事をしたのかな、
もしかて日本に誰か住んでいたのかな 264の>>947
>オイオイ卑弥呼の墓は直径140メートルって 魏使が書いてんじゃねーの?<
「徑百餘歩」の「徑」は長径表示であり、
周髀算経では「1歩≒1尺」であるから、「徑百餘歩」は長径25m余りになり、
箸墓は、全く×で、祇園山は〇。 >>651
韓の南は倭国に接しているけれど、半島側なので狗邪韓國と呼ばれていた。 >>701
水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝を全て矛盾なく解読する説を提案します。
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國に都して邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。 >>701
里数の行程と日数の行程は同じ行程を距離と時間で説明したもの
郡の中心地から女王国の中心地まで何里であり、日数だと何日掛かると説明している
続けて読むから意味不明の文章になる
報告者は軍人であり、正確に報告している
水行二十日は郡から狗邪韓國までに掛かる日数に当たり
水行十日は狗邪韓國から末盧國に当たる
すると陸行一月は末盧國から奴國までに当たることとなる
しかし末盧國から奴國までは陸行一月は掛からない
陸行一日あれば十分なので、陸行一月は陸行一日の誤記。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。
全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。
伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。 >>654
投馬国には行かなかったから里程は書かなかった。
邪馬台国に行かなかったら任務は果たせないから、伊都国までは来た、つまり伊都国が邪馬台国の都。 >>701
「周旋可五千餘里」奴國から奴まで國までの倭地一周の推定距離である
周旋とは次の経路
奴國→不彌國→斯馬國→已百支國→伊邪國→都支國→彌奴國→好古都國→不呼國→姐奴國→對蘇國→蘇奴國→ 呼邑國→華奴蘇奴國→
鬼國→爲吾國→鬼奴國→ 邪馬國→躬臣國→巴利國→支惟國→烏奴國→奴国
参問とは問を集めることで、倭人から聞いた情報に基づくもの
実際には周旋してないので五千餘里は魏使が倭人の話を基に計算した推定の距離
五千餘里の計算方法は
末廬國→伊都國→奴国→不彌國までの各距離 500里、100里、100里で平均距離700/3里を出し
遠回りの不彌國〜奴國の国の間数である21倍し(4900里)
最後に奴国〜不彌國100里を足したもの。 >>703
接してると、なんで海がないことになるの?
理由は? >>674
>だから行程の俺解釈なんてもう意味なんてねーんだよ
魏志倭人伝から逃げるなよ。 >>701
帯方郡〜倭の世界
帶方郡 郡 治
↓
-↓--水行7,000里----↓---------------------水行20日---
萬 投
到 狗邪韓國 馬
二 水 國
- ----------------↓---------------------- --------
千 度海1,000里 行
對馬國 方可400里(800里)
餘 渡海1,000里 ↓ 10
一大國 方可300里(600里) 女
里 海渡1,000里 ↓ 日 邪
↓ 末盧國
↓ 陸行 500里 ↓ 陸行1日(1月) 王
↓ 到 伊都國(女王の都) 馬
↓ 100里 ↓ 100里
自女王國 奴 國→不彌國→斯馬國 國
↑ ↓ 壹
烏奴國 周 已百支國
↑ 旋 ↓
支惟國 可 伊邪國 國
↑ 五 ↓
巴利國 千 都支國
↑ 里 ↓
・・・・・・・・・・・・・・・・・
-------------------------------------------------------
狗 奴 國 >>675
邪馬台国は伊都や奴国を含む倭国のこと。
何しろ、どちらもヤマトと読める。
また陳寿は繰り返し同じことを違う言葉で表現した。 思い込みに逃げ込んで過去から現在にいたる学問の蓄積から目を背けているのは誰だろうね >>705
伊都国に都する邪馬台国が、半島の南岸も支配していた。 264の>>952>
>何度も言うが九州は自らは何の影響も与える事も出来ずに一方的に文化も生活様式も塗り替えられてる属領 <
何度も言うが、大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国で、倭国の附庸国。
>まぁ考古学も史書も知らない飲尿信者じゃ仕方ないけどな<
まぁ、和田キヨエをたぶらかして尿入り一升瓶を大量に旧和田家の中に置いたような、
詐術的な皇国史観の・・・・サギシ仲間であったんだから、当然の詐欺だな。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 >>729
多数を装ういつもの自演だからw
面白い事に同時に現れない 264の>>955
あーまた、コピペして荒し始めたか 。
まぁ、皇国史観の「日本は世界1」信仰の国粋戦争狂の大和説なんてこの程度だろうよ。
九州説を荒せば、大和に邪馬壹國が現れる思ってる異常者の集まりだからな 。 >>713
>>714
投馬国は?
>>716
南に水行10日陸行1月で邪馬台国とあるが
>>717
斯馬國→已百支國→伊邪國…は
女王国の北にあって詳細の良くわからない国だろ
そこを経由して邪馬台国に行くなんて一言も書かれていない
>>722
連合国だとすると邪馬台国以外に魏志倭人伝に数が出てくる国の戸数を足すと
およそ8万戸となって邪馬台国の7万戸とは合わないんだが
戸数書いてない国もあるし連合国なら実際はさらにそれより多くなるんじゃないか 264の>>959
そして旧唐書や新唐書などを、
程度の低い俺解での曲解で否定抹殺する大和説。
流石は和田キヨエを誑し込んで大量の小便着色一升瓶を旧和田家の置いた、
皇国史観の「日本は世界1」の戦争狂の偽書説大和説カルト信者だなw。 >>722
なんか根拠でもあるの?
理由もなく結論を言い張るだけ? 伊都国は1千戸
邪馬台国は7万戸
よって伊都国は邪馬台国じゃあありえない 264の>>965
史料事実根拠や理由なしで、分裂幻覚の妄想の結論を言い張る。
それがヤマト説の・・・・ガキ。
いつもね。 >>736
キュウシュウセツが理由なんて言うと思うか? >>713
>>714
>>717
これが古田説か?
ネットで魏志倭人伝の訳文手軽に読める今の時代じゃ
デタラメの部分がすぐにわかっちまうな >>688
どこにも狗邪韓國=弁辰狗邪國、とは書いてないだろ
じゃあ倭人伝に出てくる「邪馬国」=「邪馬台国」なのか?
狗邪はおそらく加耶だろうけど、近所だから地域名が同じだけなんだろ 264の>>974
>邪馬台国の祭祀は全国の様々な地域の方式を取り入れて成立してる<
「邪馬台国」なんて、史料事実に存在しない。
>吉備の特殊器台、墓形 出雲の土木、墓制の利用法 <
吉備は、半島系出雲と筑紫の両方の影響。
>そして九州の鏡<
九州は、漢や魏帝の鏡中心で、呉系楽浪鏡師は商売にならず、地方へ出張。
>影響下に収めた地域の祭祀を一つにまとめた中心地が畿内 まさに共立
九州はその中に取り込まれたという事その証拠として九州は既に畿内に生活様式から祭祀まで塗りつぶされている<
吉備も大和も、筑紫からの伝搬と模倣。
>更に史書にある扱いからして九州は吉備や出雲と並ぶ事が出来ない属国の扱い
倭人伝にある属領としてその祭祀を奪われたという証拠でしかないな <
記紀は、筑紫倭国の存在や歴史を抹殺盗用した半分偽書であり、論拠にならない。 264の>>977
>自分で前方後「円」墳って書いといて何を言っているんだ?<
勿論、「径」は不定形の長径表現であるから、
箸墓は、方部と円部の両方での「長径」になるので、
魏志の「徑百餘歩」には全く合わないよ。 >>742
イヤ別に狗邪韓國が弁辰狗邪國でも弁辰半路國でもいいんだけど
とにかく弁韓12国のどれかに狗邪韓國は該当はするだろってだけの話
三世紀朝鮮半島南部には弁韓があってうち12国あったんだから
特定したいなら魏史韓伝のなかから狗邪韓國を探してみれば
書いてないだろうけど
とにかく投馬国も出て来ないし投馬国は朝鮮半島の国の可能性は
低いという事 264の>>978
>倭人伝にあるように九州には伊都国王がいるのに鏡の中心を女王に奪われている<
奪われていない。壹與は、おそらく(卑弥呼の姫氏とは違って)阿毎氏系。
>つまり、属国として自らの祭祀さえも持って行かれたという惨めな姿を現してるだけだな<
晒していない。大量の玉や鏡の三種の神紀を副葬されている。
>その証拠に九州は女王国に含まれない 纏向の祭祀にも参加できない扱い <
纏向は、筑紫倭国の別種の旧小国。
哀れな地方 、それが大和。 264の>>991
本当に大和説はバカの集まりだな。
まだ、史料事実ではなく、妄想で話が出来ると思ってるw。 264の>>993
>機内が邪馬台国だとする前提が3つある
一つは畿内に古墳時代の巨大集落や墳墓が確認されていること<
巨大集落は弥生銀座の方がはるかに巨大。
墳墓は、筑紫からの伝来と模倣拡大。
>もう一つはやまとという地名が邪馬台に通じること <
史料事実は、邪馬壹國だ。
>さらに魏の年号入りの三角縁神獣鏡が多数出土していること<
魏帝の100枚の鏡に絶望した呉系の楽浪鏡師らが、地方へ出稼ぎに行った物だ。
>この前提は誰の目にも明らかで覆りようがないから
誰も知らないような古文書に一言邪馬台国は九州とか書かれてたくらいじゃ
邪馬台国畿内説は覆らない <
大和説は、全てで筑紫説に負けたものだ。 264の>>997
>箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、
ここ纒向が女王の所都である。<
「南≠東」であるから、×。 264の>>1000
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。<
「南≠東」だから、×。 >>316
>ところが邪馬台国とは最近交渉が始まった
>だから中国人は里数で説明できない
ここまではよい
>「倭人が案内した」と言う事だ
そうだね
>つまりこれが何を意味するのかと言うと「邪馬台国は九州じゃない」と言う事なんだよ
そうはならんよ。
邪馬台国まで12000里なんだから
九州の範囲に収まってるから 魏使は伊都国までしか言っていない
もし邪馬台国まで行くなら、そのまま船で邪馬台国の近くの港まで行ったろう
奴国の港(奴の津=那津=博多港)という最高の港湾施設があったのに何でわざわざ末盧国なのか?
魏使の目的地が伊都国だったからだ ひで爺の研究の集大成がこのスレの一番上の方にあります >>747
>とにかく弁韓12国のどれかに狗邪韓國は該当はするだろってだけの話
何も根拠ない
>とにかく投馬国も出て来ないし投馬国は朝鮮半島の国の可能性は
>低いという事
オレはそんなバカ話は言ってない 日本書紀は韓国語で書かれていますから日本人は知る韓国人の高い文化でYAMATOの1代目の権力が誕生しました >>747
狗邪韓國は倭人伝に出てくるんだから倭国内の一国
投馬国が半島にあるとか言ってるのはアタマがおかしいやつら >自女王國以北 特置一大率 検察諸國 諸國畏揮之 常治伊都國 於國中有如刺史
>>367
女王国より北には特に1人の大率を置き
諸国を検察する
諸国はおそれはばかる
常に伊都を治めること
我が国の刺史の如し。 今でいうと、
普通に狩りをしていた人々や漁師などがいるでしょ、
確実に原住民だと思われる人々
当時、邪馬台国もないし、
天皇もいない時代なんだけど、
どういう事になるの?
この先住民(原住民)のなかの誰かが
ヒミコや天皇になった?
それとも創造神のような人物がいたとか 最近 よく目につくのは時代が全然違うものを平然と
論や反論に使用する方がいるようです。
本人が誤解してるのか、苦肉の策なのかよくわかりませんが
自信の無い事は、裏取りをするとかすべきでしょう。
また、反論できない事に粉飾して書き込むのは関心しません。 >>386
都にいるのは
刺史じゃなくて司隸校尉だよ
東京都だけが警視庁って言うようなもん。 警察、警視庁?先住民だという話だよ
成り済まし 騙り もいるみたいだけど 本物は外部からの侵入を防ぐために動員された人々
他の系統もいるのかもしれない
調べてみると朝鮮進駐軍?警察?
というのもいたと書いてあったり >>461
最初の一行は
司隸校尉です。
太守の監察ってのは合ってる。
刺史が首都にいたら仕事にならんだろーが >>756
やっと理解できた 誰を指してるのかわからんかった
ヒデ爺=ヒデー爺=ヒドイ爺=研究の集大成がこのスレの一番上の方=いわずもがな >>748
>奪われていない。壹與は、おそらく(卑弥呼の姫氏とは違って)阿毎氏系。
トヨは卑弥呼の宗女とあるので、卑弥呼が姫氏ならトヨも姫氏。
肥前一宮河上神社の祭神淀姫であり、有明海沿岸勢力である肥国の女王だよ。
つまり姫氏王家に属している。 他のスレにも書いた、
以前から書いている
皇軍とか、そんなものは関係ないんだよ >>760
女王国の北って、畿内説だとどこになるの? よく見かけるけど
チョン州 チョン州というのは何なの? >>537
これはオレオレキュウシュウセツだから
本家九州説派からは却下
支持0 岡上自身を批判するのではなく・・・・一人二役なんて彼に限った事でない、スレ主なんて何役やってるやら
本質は
岡上の書きこんだ内容を吟味すべき・・・彼なりの自負もあるし博学故手ごわいと思う
ちなみに俺は九州説だが伊都が王都とは思わない、
吉野ケ里が王都、卑弥呼の墓は平原・・・・・邪馬台国は福岡県中南部から佐賀県南部 訂正
◎・邪馬台国は福岡県中南部から佐賀県南部に至るまで >>777
なー
キュウシュウセツ論者はなんでみんなオレオレなんだ
そう言う話は 九州説スレでやって合意とって
結論 決定版だけで話せよ。 そもそも、神武が九州(日向)から東征して、大和に覇を唱えた
…というのが始まり。
邪馬台国というのが倭の中のどんな存在でどこにあったのか、
その女王の卑弥呼とは具体的にどんな存在であって誰なのか、
畿内説にしろ、九州説にしろ、根本にあるのは
皇統と関係あるものなのか、ないものなのか…ってことだ。
記紀を見る限り、神功皇后じゃないのかな?みたいな感じだけど、時代が合わない。
崇神・応神天皇より前の天皇は、とにかくいろんな数をごまかしてる。 調べたりすると
漫画、アニメの作品が出てくるけど
ほとんど日本の話でしょ、
そもそも日本の話ではない 記紀を編纂するにあたって、政治的・外交的思惑や障害があったが故に
本当の事を端的にはっきり書けなくなってしまった。
でも、そういう部分は、神話やお伽話として、言葉を濁して残したのだと思う。 どのみち、邪馬台国とか卑弥呼とかの話は崇神天皇より前の事だと思う。
欠史8代に事績がないのは、ごちゃごちゃとした大乱の時期だから。
そもそも、まず、何よりも、「どう考えても数がおかしいです。本当に有難うございました。」
…と感じる部分の縮尺をちゃんと合わせないと
どこが邪馬台国とか誰が卑弥呼とか、皇統と関係あるとかないとか、あるならあるで
場所とか人物とか比定することとかも儘ならないと思うな。 >>784
『隠された物部王国{日本ヒノモト}』 谷川健一
かつて列島に併存していた「倭国」と「日本ヒノモト」
「日本ヒノモト」はいつ、だれによって併合されたのか
物部がいたんだろ
物部も九州から、遠賀川流域から来たんだよ
東遷は2回あった
谷川健一がいってるように ただ、卑弥呼という女王(←どこかしらの場所の王の娘、ただし日子という意味と対になる日女子)を
共立した国は、中国のいう倭の全体ではないのは確かで、
今でいう日本という枠組みとしては、統一はされてないのは確かだ。
よって、どこかしらの連合地域の政権の女王という感じだと思う。 >>784
神話やお伽話にしたら、(政治的にはわかるが)、
外交先から何非現実的な事を言ってるんだ日本はバカと陰で馬鹿にされる
>>785
テンプレ(寺澤薫からの引用だが)
纒向を初期ヤマト王権と言ってるね。
記紀は邪馬台国論争と関係無いと思うがね
>>781 >>787
それを探求するのが邪馬台国論叢である 別に記紀に関係なく
九州勢力が東に勢力を拡大したというのが九州説の根幹 自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國 於國中有如刺史
畿内説でいけば伊都の比定地は????
今度は北を西にするのかね? >>788
>テンプレ(寺澤薫からの引用だが)
>纒向を初期ヤマト王権と言ってるね。
>
>記紀は邪馬台国論争と関係無いと思うがね
この人がなにを言っているのか、まったく理解できない
話題が飛躍していて、文章として意味が通らない >>791
御免
>記紀は邪馬台国論争と関係無いと思うがね
これ最後に入れようと思ったが、変なところに入ってしまった >>785
>どのみち、邪馬台国とか卑弥呼とかの話は崇神天皇より前の事だと思う。
卑弥呼の年代は確定しているのだから、崇神の方を動かせよ。 >>787
>共立した国は、中国のいう倭の全体ではないのは確かで、
倭国女王なんだから、それはない。
ただ、本州は倭国ではなく倭種としか書かれていなかった。 ======おはようございます 7時です キウスの時間です========
TOPIX
ひで爺=ヒデー爺=ヒドイ爺=研究の集大成がこのスレの一番上の方=スレ主 という事らしいです
時代錯誤の書き込みに注意された方がいました
差別的書き込みの人がいました
記紀引用は相変わらずです
以下の警告をされた方がいます。頭が痛いです(メタボです)
スレに貼りついてばかりいると、
世情や他の学に疎くなる
まず運動不足になる
>>760
常治伊都國
×常に伊都を治めること
〇常に伊都で治めること >>760
特置一大率
×女王国より北には特に1人の大率を置き
〇女王国より北には特に一大率を置き
自分流の読み方を発明したらいなんなw 畿内説の人
自女王國以北とはどこなんだ?
伊都国の近く?
伊都国は女王国の北?
すると女王国は九州ですか? >>802
邪馬台国論争の出発点は、中国の文献『三国志』のなかの、『魏志倭人伝』の記述である。
ところが、最近の邪馬台国論争は『魏志倭人伝』ばなれが、いちじるしい。『魏志倭人伝』に書かれていることと、
まったく無関係に、邪馬台国を論じているのである。
『魏志倭人伝』に書かれている事物で、考古学的に検証できるものは、ほとんどすべて、北九州を中心とする地域から出土している。
それでも、かなりな考古学者たちが、考古学的な事実をまったく無視して「邪馬台国=畿内説」をとなえたりしているのである。
『魏志倭人伝』は3度にわたり「女王国」は「伊都国」の南にあった、と記している。
「伊都国」は現在の福岡県糸島郡の地である。また、邪馬台国の戸数は、七万余戸であった。
糸島郡の南の、人口の多いところといえば筑後川の流域しかない!! >>803
いいから答えろよ。
自女王國以北とはどこなんだ? 『魏志倭人伝』に記されている事物で、遺跡・遺物として残りうるものは、圧倒的に福岡県を中心とする北九州から
出土している。
確実なもので、奈良県から出土しているものは、ほとんどない。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
この基本的な事実を、直視すべきである。
「畿内説」の考古学者たちは、なにか出土すれば、すぐ邪馬台国と結びつけて、マスコミ発表を行なう。そのほうが、
マスコミにとりあげられやすく、発掘費などを獲得しやすいということなのであろう。
「かすったら畿内説」主義である。「証明」よりも、「宣伝」主義である。
このくりかえしが、我が国の古代史像を、大きくゆがめている。 魏志倭人伝によれば、女王国の南には狗奴国があり、女王と敵対していたという
つまり女王国の所在地は邪馬臺国連合の南端付近であると分かる
卑弥呼は魏から親魏倭王と認められたのだから、その敵対国である狗奴国は
魏との交流を持っていないと考えられる
ゆえに、邪馬臺国がどこであったかは出土品の分布を見れば一目瞭然
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
金銀細工や硬玉やガラス製の勾玉など、大陸産のものが
佐賀、福岡、熊本にかけて大量に出土していることが分かる
そしてそれは熊本県八代市あたりでぷっつりと途切れている
ここが邪馬臺国と狗奴国の勢力境界線である 【狗奴国】
狗奴国王の名前は卑弥弓呼といい、卑弥呼と瓜二つである。
卑弥呼とはもとより不和であるとある。
倭国大乱は倭国の王位をめぐる争いのことである。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。 >>804
「女王国の東に海有り。」って書いてある。
近畿を支配しているはずなのに、何故大阪湾と若狭湾の記述がないのか、不自然じゃないか? >>808
南には男王卑弥弓呼が治める狗奴国があり女王国と不和で戦争状態にあった
↑明快じゃん 薩摩か熊本だよ
男王卑弥弓呼 ←菊池につながるから熊本かな?
狗奴国 ← 犬の遠吠えしてたり、犬の子孫だというバンコ神話が残ってたり犬との親和性高いから薩摩隼人?
↑いずれにせよ、この2国の北部、(女王国は)九州北部しかありえない 827 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2016/09/17(土) 19:03:33.05
>>800 邪馬台国と女王国が広域連合の全国的な存在であることを示している一つの証左でもある
↑参考までに、そのばかばかしい説、唱えている市井の学者のなまえを教えてください 森岡秀人氏は私の尊敬する考古学者でした。弥生後期の土器年代は佐原真氏と共に編年された優れた業績として今でも有効です。
しかし芦屋市の教育委員会の職員の立場もあり邪馬台国畿内説であることは当然予測されるので積極的に氏の論文を検索しようとは思いませんでした。
たまたま小学館発行の「古代史の論点4」を開いたら氏の「年代論と邪馬台国論争」と言う論考があり一読いたしましたがその杜撰と
言うか厚かましいと言うか呆れてしまいました。
氏ほどの考古学者が知らない訳はありません。知ってて言うなら嘘ツキと言われても仕方ないでしょう。
氏に限らず邪馬台国畿内説の方は狗奴国東海説とセットで論を立てます。特定の方しか認めていない事実を互いに持たれあって
邪馬台国は畿内なのだから狗奴国は東海だ、狗奴国が東海なのだから邪馬台国畿内しかないと言った論理です。
−−6段階北部九州は各地の土器を積極的に受け入れが自らの土器を他地方に出してる気配はない。この点人・産物の動きまで示す
土器の分析から九州の一角に邪馬台国を想定することはかなり難しい相談となるだろうーー
魏志倭人伝に邪馬台国が土器の輸出をしていたと書いてありますか。邪馬台国は九州内部だけで完結した歴史です。狗奴国に
ついてはこんな書き方をしてます。
−−(狗奴国の領域について)纏向では内削りの大和庄内式土器であり(東海は)排他的位置を占めるS字甕地帯で高次元の独創性を
誇示しており他からの影響を拒んでいる(中略)いわゆる狗奴国の実質的範囲を示唆している。−−
驚いたことに氏はこれ以外の事実については全く触れていないのです。
邪馬台国問題を土器だけで結論付けた方は氏ただ一人です。森岡さん少しまともに邪馬台国に取り組んでください。
貴方氏本当はよく知っているのです。優れた考古学者なのだから纏向に邪馬台国がないことは一番よく知っている筈です。 「旧銅鐸群およびそれらと組成する機会のあった武器形青銅器が埋められたことを契機として高地性集落や丘陵性集落が急増したり
より盛行する地域が確かに存在する。大量埋納遺跡を有する摂津の六甲山系や出雲の宍道周辺の丘陵はその典型例で、集落の結合
単位に大きな変動をきたし、古い青銅器群の埋棄を誘致するとともに社会構造が刷新されたことと連動する…」
(森岡秀人2004a p.184)
銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27 臼田 篤伸 (著)
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。 畿内説だと倭人伝の記述に全く合わない
自女王國以北がどこだかの説明もできないw >>814
テンプレと、たまに名無しで書き込んでいるスレ主の元ネタみたいですね。
そのまま無批判にコピペしているように見えます、 >>78
>倭人伝を読む限りでは ・・・<
倭人伝だけではダメだよ。
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国の附庸國であったのであり、
母国の九州倭国を併合吸収継承出来たのは、
ようやく、白村江で倭国が大敗した後なんだよ。 >>78
>倭人伝における、A〜Cの文脈において、投馬国、邪馬台国と言う国名が唯一示される
Bの部分が前後の張政の旅行記であるA、Cの文と繋がらない事を理解する必要が有る。<
必要がない。
倭人伝の行程記載は、
「出発説明+途中移動の説明+到着説明+付加説明」の順次式に、
きちんと書き分けられていて、
「繋がって」いる。 どうして、テンプレートは簡単に論破されてしまうのだろうか、、、 例の埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)の稲荷山古墳出土鉄剣
(表)
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比?、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、
「辛亥の年七月中、記す[2]。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ
^ 宮崎市定は『謎の七支刀 五世紀の東アジアと日本』(中公新書、1983年 )124〜126頁で、
「記す」の繰り返しは漢文として稚拙であるので「記」を氏族名と見て、「記のヲワケの臣」が人名であるとした。
↑明らかに、記(木、喜、鬼、姫)氏、氏族名だよ 無視されてるけど宮崎市定はただしい…
もちろん紀氏は東海姫氏国(日本)の国姓・姫氏の一派に属する
↑これ、百済国書の「貴国」が固有名詞だってはなしともつながる
東海姫氏国(日本)
百済国書の「貴国」 日本人になりすましてはいけない
https://pbs.twimg.com/media/DBgzi9CUQAQcZHE.jpg
今年6月に約1億3000万相当の金塊約30キロ密輸事件で逮捕された韓国籍容疑者らの名前
↓
安藤浩子 こと 金浩子(キム・ホジャ)容疑者49歳…愛知県岡崎市、事務職員
金田芳子 こと 李芳子(イ・パンジャ)容疑者66歳…愛知県岡崎市、ブティック経営
伊藤弘美 こと 呉弘美(オ・ホンミ)容疑者70歳…愛知県岡崎市、無職
芝内愛子 こと 金愛子(キム・エイジャ)容疑者43歳…愛知県蒲郡市、会社員
石川直子容疑者59歳…愛知県岡崎市、食堂作業員
指示役韓国籍の女55歳…韓国に逃亡、国際指名手配
李芳子容疑者と金愛子容疑者は親子で、他は主婦仲間という。
愛知 金塊密輸疑いの韓国籍の主婦ら「バイト感覚だった」と供述 2017年6月1日(木)
http://www.sanspo.com/geino/news/20170601/tro17060119350009-n1.html >>83
>王権は2つあったで良い 畿内はヤマトを中心とした王権 九州は北部九州を中心にした邪馬台国王権 <
よくない。
盟主は、筑紫倭国であり、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国の、倭国の附庸國であり、
倭国の地方の市を監督する「大倭」職であり、倭国内の臣下の身分だ。
>阿波は、ヤマト王権の前身<
「東征毛人五十五國」があったのだから、阿波も筑紫倭国の支配下であり、臣下の国だ。
>いずれも大陸との国交あり いずれも敵対関係、その後いずれかが日本統一 <
ダメだ。敵対関係ではなく、盟主筑紫倭国と、その臣下の附庸國の関係だった。 >>817
キウスよ、口調がアレだぞ
wwwwwwwwwwwwwww >>823
つまり筑紫は伊都、大和がヤマタイで何の問題もないな。 >>805
出土品?邪馬台国伝ではなく倭人伝だからな。
そもそも北部九州にはまともな丹山もないw
紀伊半島周辺は丹山だらけなんだしな。 >>827
畿内にも鉄や絹もある、それと同じレベルだろw
そもそも巻向の背後が丹山だらけだ。 さらに言うと北部九州は海人居住地で冬温暖という訳でもない。
丹山もあって倭人伝の気候条件に合致するのは
四国東南部と紀伊半島南部のみだしな。 >>818
>大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国の附庸國
遣隋使を送った時の奏上、日出処天子に怒った隋の皇帝は裴世清に返書を持たせた。
それを迎えた天皇は『天の垂らししヒコ』である、と名乗った。
皇帝の火病を恐れた裴世清が姓は阿毎、名は多利思北孤と報告し、
漢帝、魏帝が冊封した倭奴国、邪馬台国の倭国への支配性を強調する為に
>筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国の附庸國
と日本を矮小化して答えた。 裴世清は嘘つき。 それが隋唐の日本認識。
裴世清に斑鳩宮の天皇が謁見したのは607年であって663年の白村江以降ではない。
300年以降、日本は半島に進出し百済新羅が350年頃、建国し
日本は400年南朝に半島利権交渉に出向いているが、冊封を受けていた九州倭国には不可能。
この空白の4世紀からの、富国強兵、帝国主義政策が無ければ、高麗馬の移入は無いし、
七支刀も仏教も五経博士も献上されないし、皇国日本は建国しない。
邪馬台国論争は東亜の古代史をうやむやにする戦前戦後の御用学者の発明だろ。
記紀は歴史じゃないんだから、学問なら時系列ぐらい整えろ。 >>102
>俺は畿内説だが、<
止めておけ。いずれ後悔する。
>多少、九州説に援護射撃するとすれば、小郡市の津古2号から津古生掛がヒミコとトヨの時代に合う。 津古2号にいたっては纏向石塚より早いかもしれない。
こんな有力地があるのなら、苦し紛れに平原や祇園山なんぞ候補地として出さなくても良かったのに。ところが津古生掛は消滅www まぁアホウの土地にヒミコはいなかったという事であきらめろww<
やはり、根本的におかしくなっている。
以前から「那珂八幡古墳など」と「など」を付けて置いたのは、
津古生掛なども、那珂八幡と同じ位の「最古の前方後円墳」に相当するから。
そして、那珂八幡付近には陶質土器との併存があるから、285年頃という縛りがあり、卑弥呼や壹與とは時期がちょっと合わず
祇園山は、列島内での「高塚的墳墓としては画期的初元的」であるが、前方後円墳ではないのであり、
平原は、方形周溝で、やはりまだ前方後円墳ではない。
つまり、祇園山と平原は、津古生掛や那珂八幡よりも古い。 本居宣長「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」
はい、九州説を創作しゴキブリホイホイをしかけましたw
引っ掛かって身動きできない大量のゴキブリ=アホ=九州説wwww 【日本の起源】朝鮮半島出身の神であるスサノオがヤマタノオロチを退治した神話って朝鮮民族が日本を征服した証拠
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/bbafc7f59e87fd98e00bbb362834869d
「古事記」ではスサノオは高天原から出雲にやってきたということになっているが、「日本書紀」には異なる伝承が語られている。
それによると、スサノオは高天原から追放されてただちに出雲に降りたわけではなく、まずその子イタケルとともに新羅 の「ソシモリ」と
いう所に降り立ったというのである。 おそらく「ソシモリ」は韓の国のかなり豊かな町であったのであろう。 ところがスサノオはこのような
豊かな地に自分は住みたくないといって、舟を造り、その舟に乗って出雲の国に至る。 さらにまた「日本書紀」は、スサノオの故郷を物
語る別の一書も伝えている。 そこではスサノオがヤマタノオロチを切った剣は「韓(から)さいの剣」であるという。 それは韓国から伝来
した小刀を指す。 その小刀でヤマタノオロチを切ったのだとすれば、スサノオ自身も韓国から来たと考えるのが自然であろう。
このようにスサノオに始まる「出雲王朝」には朝鮮の陰が強く射しているのである。
■神道の起源は朝鮮半島にあり!!!
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/J/JAPbuster/20160901/20160901141507.jpg >>829
>丹山もあって倭人伝の気候条件に合致するのは
>四国東南部と紀伊半島南部のみだしな。
紀伊半島南部も畿内説の範疇なの? 紀伊説にすればいいのに。 @阿波 >>104
今日も、和田キヨエをたぶらかせて、
大量の尿入り?一升瓶を旧和田家の家の中に置いた皇国史観偽書説大和説の仲間の・・・・が、
張り付いて妄想垂れ流してるのか ?。 >>836
逆立ちしても阿波だけで七万戸は無理だから。
考古学の世界では常識レベル。 >>121
しかしいくら大和バカが荒らしても無駄なのによくやるよな。
既に邪馬壹國は筑紫で確定してるのに。 >>832
那珂八幡古墳の付近のぜんぜん別の遺跡から陶質土器が出ようが太平洋戦争時の鉄兜が出ようが、
那珂八幡古墳の築造年代には関係がないんだが。
この人は何か頭が錯乱してるのか、それとも他人を騙そうとしてるのか。
どっちでしょうね。 >>123
畿内説スレを守ると、大和に邪馬壹國が出現すると思い込んでるキチ〇イの集団だからな 。
この異常者達は。 >>828
そもそも纒向が中国人の視界に入っていない。
魏志倭人伝に記録されているのは九州のことばかり。 >>840
残念ながらここは畿内説スレなんでw
畿内説以外の書き込み=全て荒らしです。 >>844
畿内説の話をしよう。
畿内説としては、自女王國以北とはどこなんだ? >>844
正常な質問や反論をする人がゼロだからな >>843
本当に九州好きだねw
でも丹山がないから中国人は通過点位の認識ですよ。 >>847
畿内説が前提の質問じゃないとダメだろ。
位置論争するな他スレでどうぞw >>846
北部九州周辺の国だろう。
女王国は本州より東側の国だからな。
方角は東と南をざっくり間違えているにすぎない。 このスレは位置論争する場所じゃないと
わからない位の理解力しかないから
未だに九州説なんだろう。 >>851
北部九州は本州の北なのか。
それ、本気?
もう一度地図を見てごらん。 大阪や奈良から見て福岡が北に位置すると主張する畿内説。 >>852
畿内説についての質問なら構わないだろう? >>129
>600年遣隋使への返書を持った隋使裴世清は<
開皇末年には、裴清は、列島には来ていないし、国書も持参していない。
>日本国の都の、法隆寺斑鳩宮で天皇と謁見している。 <
だからこれは全くのウソ。
日出処の天子の奏上に怒った皇帝の命で来ているので
天の垂らしヒコと名乗った天皇を姓は阿毎、名は多利思北孤と報告したw
日本国は古の皇帝の冊封を受けていた九州女王国の後継ではないが、
皇帝の権威を保つため、当時の分裂小国だった別国から出来た国と矮小化した。
それが、隋書以降の日本国認識となったのであり、裴世清は無能な詐欺師。
入る価値も無かったのは、白村江まで百済同様の外国扱いだった九州。 >>838
>逆立ちしても阿波だけで七万戸は無理だから。
>考古学の世界では常識レベル。
畿内や北部九州に「矢野遺跡」「名東遺跡」「庄・蔵本遺跡」「萩原遺跡」「黒谷川郡頭遺跡」等々に匹敵する遺跡があるのだろうか?
「那賀川流域」「鮎喰川流域」「大河吉野川流域」に拡がる徳島平野はまさに、「女王国七万戸の首都」に相応しいと言える。 @阿波
「矢野遺跡」http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C6%C1%C5%E7%BB%D4%2F%CC%F0%CC%EE%B0%E4%C0%D7 倭人伝に紹介されてる邪馬台国は
魏帝から派遣された帯方郡の小役人張政が
狗奴国と紛争している女王国に軍事介入する目的で渡航した話だろ。
帯方郡から南水行20日狗邪韓国、水行10日末露国で、
その南狗奴国国境の陸行1月が邪馬台国。
完全に魏の冊封国で、周辺国の報告内容も、日本の王権とは程遠い小国なんだが・・・
前方後円墳以前の3世紀辺りまで日本の国域に含まれていたかどうかも知らん九州に
漢や魏と金印冊封外交してたという理由で、日本の王権が有ったと言う、九州説も頓珍漢だが、
畿内説ってのは、なんで大和の王墓で、魏の属国の邪馬台国や女王卑弥呼を探してるんだ?
頓珍漢も甚だしいけど、自虐史観にもほどがあるだろ?
もう確定なのでロマンはありません。 >>856がまた、途中で投稿ボタンを押した事になってしまっていたので、続き。
>日出処の天子の奏上に怒った皇帝の命で来ているので <
それは大業3年だよ。
>天の垂らしヒコと名乗った天皇を姓は阿毎、名は多利思北孤と報告したw
日本国は古の皇帝の冊封を受けていた九州女王国の後継ではないが、 <
磐井の時に、倭国では、東海姫氏國→阿毎氏の交代が起きたから。
>皇帝の権威を保つため、当時の分裂小国だった別国から出来た国と矮小化した。<
矮小化などする必要がない。
隋文帝の開皇末の時に、大和の小野妹子が「日本国」を名乗って(叱られて?)いるから、
隋は大和の存在を初めて知った。
それが新唐書の「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の事。
>それが、隋書以降の日本国認識となったのであり、裴世清は無能な詐欺師。
入る価値も無かったのは、白村江まで百済同様の外国扱いだった九州。<
この男は、史料実態が全く読めないアホ。 位置論争よりヒミコを見つけろ。
あっという間に邪馬台国論争は終わる。
崇神天皇陵=行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭。
トヨ測位まで遡ることあと数十年。
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
(4世紀初〜前)崇神
ヒミコが住んだのは葛城の高天原だ。
分かったか、バ〜〜〜〜〜〜カ! >>133
まず、大和説から、まともな学者が消えた 。
あとに残るのは、頭のおかしいものばかりだな 。 >>859
東アジアにおいては、中国から冊封されることが王権の条件だった。
魏志倭人伝もその立場に則って書かれている。
倭国女王に金印を与えて冊封していたわけで、当然その倭国は漢の頃の倭国と同じもの。
畿内に何があろうが、それは魏から冊封されていない限り、王権ではない。 >>135
>というか九州説はいい加減どこに邪馬台国があるのか言えよ
全員適当に根拠もなく違うところ云うじゃねぇか <
「邪馬壹國」は、福岡平野中央部〜筑紫平野及びその周辺丘陵地域。
もう何回書いて上げた?。 倭国王帥升とはスサノオである。
記紀編纂者たちはそれを知っていた。
日本の始祖王が膝まづいて中華皇帝に朝貢。
日本の国史を編纂するにあたり、
始祖王スサノオのこんななぶざまな記述から始めるわけにはいかない。
しかも皇帝からの見返りが何もない。
スサノオは倭王と認められなかったようだ。
朝貢は失敗した。
惨めである。
だからスサノオの時代をとんでもなく古い時代にずらし、
神代に設定し、ごまかしたのである。
その結果100歳を超える天皇が登場しようとも構わない、
あくまでプライドを優先したのである。
またスサノオが帥升だと分らないようにするためには、
5世代後の卑弥呼も分らないようにしなければいけない。
だから新称号「天皇・皇后」を採用し、
イワレヒコを初代天皇、ヒメ踏鞴を初代皇后にし、
神武東征を最大限に強調、
猛々しい男大王のイメージを創作したのである。 >>138
>隋使裴世清が会った倭王の阿毎の多利思北孤とは誰だ? <
推古や厩戸ではないねえ。 >>820
国家機関に完全否定されているのだから、仕方ないよ。。。
いや、正確には否定すらされていない。。。。
あの古墳が別のお姫様の墓だと認定されているだけだね。。。。
つまり、畿内説は正式な国家機関から相手にもされていないのさ、、、 >>140
>裴世清が日本に来て謁見したのは推古天皇だが <
唐使としての裴世清が大和に来たのは、延喜講記に拠って、唐初の「武徳」中。
>アメノタリシヒコは新唐書で用明天皇の事であると書いてある <
開皇末の用明は、裴世清とは謁見していない。
>あれだな キュウシュウセツって唐書を持ちだして
やれ倭が日本に滅ぼされただの、筑紫城だの言うけど全然唐書読んでないんだな <
この男も、何も読んでいないし、読めていないアホらしい。 平原だ、祇園山だ、纏向だ、何の「謂れ」もない場所にヒミコはいない。
大和朝廷発祥地で事代主神が住んでいた葛城。
今も高天が原(御所市高天)が存在し明神大社6社が集中する。
葛城しかないのだ。
ヒミコはヒメ蹈鞴五十鈴しかいないのだ。
イワレヒコという男は九州から来た傭兵隊長および俘囚長。
たいした男ではない。
神武時代の実質の王は日本書紀に鴨王と記されるクシヒガタ。 >>144
大和説者は、
今でも行程の好き勝手な読み替えで話が出来ると思ってる原始人なのが、
良く分かるな 。
物知らない奴はこの程度の事しか言えない 。 >>148
大和説しゃは、本当に議論のレベルにさえないな。
誰も相手しないわけだ 。 >>152
こうやってあり得ないムチャクチャな読み方をしてバカ理論を展開して、
恥もしないのが大和説者。
そりゃ、和田キヨエをたぶらかして、沢山の小便入り?一升瓶を、旧和田家の屋内に置いておく、
という詐術をした皇国史観の偽書説派の仲間で、狂信者であるだけの事はあるわ 。 >>164
大和説者は、頭に僅かにマトモさが残っていた順に消えていき、
残ったのが、まともさが完全にない、コレ 。 >>171
>魏志倭人伝に載ってる距離なんぞ適当に決まってるだろ
千里と五百里と百里しか出て来ないんだぞ<
嘘を付くな。
よく見てみろ。
また、原則は有効数字1桁程度の近似値だよ。 >>848
誰も回答見てないんだけどな
じゃあ畿内説としては、自女王國以北とはどこなんですか ? >>859
>倭国では、東海姫氏國→阿毎氏の交代が起きた
なんの、とんでもだよ? お断りだw
>新唐書の「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」
天皇は全部、中国語の阿毎多利思比孤 を名乗っても良いわけだが
用明ってのは漢風諡号で750年位の創作であって、
小野妹子が隋唐から送迎した裴世清当時の推古帝が女帝である事から、
新唐書(1060年?)は記紀以降の天皇名に関連させて適当に取り繕ってる。
記紀が天智〜天武時代、この乙巳の変辺りの歴史の修正目的で書かれていて
隋書は男王だったというなら、推古帝の即位や実在の方が怪しいってのが記紀の本質。 >>856
有阿蘇山其石無故火起接天者 俗以為異因行禱祭
九州で阿蘇見学w >>176
>東治の東とは九州島の南辺り、<
「会稽東治」とは、当然「会稽郡の東の治所」の意味であるから、南北に長く、
だから、その東も当然南北に長く、
だから「九州島の南辺り」という局所に特定する事が詐欺。
また、陳寿の行程記載は、郡の「絶対東南」にはなっておらず、
たから、南北距離で決めたのか?東南方向で決めたのか?も不明であり、
その点でも「會稽東治之東」の南北間位置は少し曖昧。
>つまり 根本的に倭人伝は方角認識を間違えてます。<
つまり、根本的に倭人伝の方角認識は、ほぼ正確、と言うべき。 >>869
>大和朝廷発祥地で事代主神が住んでいた葛城。
大和朝廷発祥地で事代主神が住んでいたのは倭国(阿波)。
式内社「事代主神社」 式内社 「建布都神社」は、同じ阿波市にあり、『ともに日本唯一 阿波にだけ在る式内社』です。
式内社「事代主神社」が全国で阿波にだけ(八百万の島根にさえ無い)あるように、事代主命は阿波の人物でしょう。
同じく、建布都神(武甕槌神)も全国で阿波にだけ(これも島根にも無い)あるように阿波の人物でしょう。 ソースは失念したが、弥生時代の方形周溝墓は九州に上陸するやいなや畿内に移動したらしい。
日本人の祖先は大陸で何やら恐ろしい思いをして追いだされる形で日本に来たのだろう。
そういう状況で北九州に都なんざあるわけがない。
九州でも防衛上の奥津城である宮崎や熊本ならまだ分かるが北九州にだけはない。
九州説はもはや宗教。
幸福の科学と変わらない。
お国自慢、ふるさと創生、田舎っぺ演歌歌手。
ダセwww >>184
>推測できようが辿り着けんぞ
1500里が実際どのくらいの距離かわかんねーからな
魏志倭人伝の1里は換算してみると40メートルから150メートルまで幅が出るし <
對海國と一大國のそれぞれの「国内見聞移動」の記録があるから、
陳寿は、当然方四百里と方三百里の(それぞれの二辺の)移動も計算に挙げており、
だから、残りは殆ど0里近くになってしまう。 >>881
>建布都神(武甕槌神)も全国で阿波にだけ(これも島根にも無い)あるように阿波の人物でしょう。
高天原があり明神大社が6社も集中する葛城をバイクでウロウロしてたら、
酒屋さんの前に地元の人しか知らない高木神社という小さな神社があった。
祭神が武甕槌神。
わしはマジで武甕槌神は実在し、ここから出発したと思ってる。
時期は1世紀末から2世紀前半。 >>882
>ソースは失念したが、弥生時代の方形周溝墓は九州に上陸するやいなや畿内に移動したらしい。
畿内に持ち込んだのは、阿波から進出した、大和忌部 @阿波 >>209
>つか水行も陸行も全無視してる謎w 1万2千里を経た後に水行20日して投馬国
さらに水行10日、陸行一月で邪馬台国
こんだけ動き回ってまだ九州w <
陳寿は、結局「計其道里、當在會稽東治之東」という結論を書いているから、
九州付近だ、と言っている訳であり、
だから、九州のはるか南方の赤道付近になる読み方をした人間やスレ主らは、
陳寿の里数記載や日数記載の意味が読めていなかったのだ、という事になる。 >>884
>酒屋さんの前に地元の人しか知らない高木神社という小さな神社があった。
>祭神が武甕槌神。
>わしはマジで武甕槌神は実在し、ここから出発したと思ってる。
「高木神社」? 神名神社じゃないよね。 社格は? 後に阿波の「建布都神社」から勧請されたものだろう。 @阿波 >>882
方形周溝墓が上陸?移動?
古墳が上陸、移動wキチガイかwww >>851
それ魏使を馬鹿にしすぎだろ
方角が全く分からいなんてwww 一人で半分のレス付けて自作自演してるスレはここですかね? >>887
>「高木神社」? 神名神社じゃないよね。 社格は?
その通り、式内社でもないしいつ頃できたかが分からない。
でも葛城にあるならそれでいいのだ。
高天原に存在するという事実だけでいいのだ。 >>888
>方形周溝墓が上陸?移動?
>古墳が上陸、
方形周溝墓を古墳などと言ってる時点で0点。
なぜ君は日本史板にいるのか? >>880
おいおい
治所が南北に長いわきゃー無いだろ
なにをバカなこと言ってるんだ wiki
方形周溝墓は特定の個人墓ではなく、複数の被葬者が見られることから、
家族の墓だったと考えられる。
しかし、着装品の有無や赤色顔料の使用の有無などから序列化ができあがっていた。
また、いくつもの方形周溝墓が密接して営まれることが多かったようである。
溝に埋葬されることもある。
弥生中期には、周囲の土を削りだし、山や丘陵、尾根の上に造られた方形台状墓も現れ、中部地方・関東地方へ伝播した。
弥生前期の中部・関東では、一度遺体を土壙して骨化させてから小型の甕や壺に埋納する再葬が行われていたが、
方形周溝墓が伝わると墓制の主流となった。
墳丘墓は、水稲耕作などと共に朝鮮半島南部から伝えられたものと考えられているが、
北部九州では方形周溝墓は極めて少ない。
福岡県東小田峰遺跡で弥生時代前期初頭の例がある
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
つまりだ。
弥生時代前期初頭に北九州に上陸したものの、あっという間に近畿や中部・関東に広がる。
これは我々日本人の祖先が大陸から逃げてきて、北九州を通り過ぎたことを意味する。
北九州のような危険な場所に邪馬台国の都があるわけがない。
弥生時代の青銅器分布でも北九州は防人が武力で守っている。
ヒミコが住んだのは北九州以外の土地。
最有力は天然の要塞ヤマトであろう。 >>882
>九州でも防衛上の奥津城である宮崎や熊本ならまだ分かるが北九州にだけはない。
宮崎なんて、博多から見たら辺境の地ですよ。
魏志倭人伝を読めば、卑弥呼が中国べったりな人物であることがよくわかります。 >>886
無理やり無関係な畿内に持っていくよりは
南に水行30日で 計其道里當在會稽東治之東 の沖縄行く方が素直だろ?
風俗説明が刺青漁民だし。 大和の漁民って刺青なの? 鮎漁で鮫かwww
沖縄が陸行1月は若干苦しいけど、台湾まで頑張って水行するかwww
地図で渡ってみて沖縄〜宮古島ってちょっと遠い感じ。 >>895
>方形周溝墓は特定の個人墓ではなく、複数の被葬者が見られることから、
>家族の墓だったと考えられる。
王の墓と庶民の墓を一緒にするな。
>北部九州では方形周溝墓は極めて少ない。
代表的な弥生王墓である伊都国の三雲南小路遺跡や平原遺跡は、あなたの目には入りませんか。 >>896
>宮崎なんて、博多から見たら辺境の地ですよ。
神武天皇の出発地・宮崎から見たら博多なんて辺境の地ですよ。 >>895
>ヒミコが住んだのは北九州以外の土地。
>最有力は天然の要塞ヤマトであろう。
ヒミコが住んだのは北九州以外の土地、倭国(阿波)。
天然の要塞が必要となるのは、7世紀の白村江の戦以後 @阿波 >>898
>代表的な弥生王墓である伊都国の三雲南小路遺跡や平原遺跡は、あなたの目には入りませんか。
平原は弥生終末期。
時系列をごちゃごちゃにするな。 >>900
>天然の要塞が必要となるのは、7世紀の白村江の戦以後
いやいや弥生時代の青銅器分布ですでに北部九州に防人がいた。
ひょっとしたら帥升の朝貢失敗で軍事的に緊迫したのかもしれない。
朝貢というのは安全保障でもあるから。 >>900
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺
阿波は侏儒國で人長三四尺だっつ〜の。 >>905
そんなこと言ってるのはボンクラ。
古代人は大陸情勢にはるかに詳しい。 対馬にこんなに「武力」が展開されてる時点で言い訳はできないだろう。
https://goo.gl/m2KfqU
邪馬台国は北九州にだけはない。
ワロタwwwww >>903
[
弥生時代の青銅器の分布] http://www.geocities.jp/yasuko8787/bb-0.JPG
「銅剣・銅矛・銅戈の分布」でも「平形銅剣の分布」でも「銅鐸の分布」でも全て倭国(阿波)が含まれている。すべての青銅器分布の中心が倭国(阿波)であり、全国に展開していったことが示されています。
それは、王権が「倭国(阿波)」にあった証拠なんですよ。 @阿波 >>910
阿波には対馬や北部九州、葛城や河内にある
弥生中期の鏡がないから無理だな。 邪馬台国は北九州にだけはない。
ワロタwwwww
まだ沖縄、南九州、四国、中部、関東の方がはるかにマシ。
邪馬台国は北九州にだけはないwwww どうみても邪馬台国は畿内しか成立しない、で確定済みだよ。 対馬に防人が存在したなんて今と何ら変わらない。
自衛隊は対馬に駐屯してるからな。
今はチョンを警戒してるのだろうが、昔は中国であろう。 墳墓の発展は九州では大型化等の傾向は見られず副葬品の増加などが主体となっている
逆に山陰や瀬戸内海、畿内では墳墓の大型化、特殊形状の発展と言う形で変化している
九州で豪華な副葬品による葬礼が行われていた時期に、他地域では全く違う大型墳墓祭礼が同時進行している
つまり両者の変化に関連性は見られず、各々独自の発展を遂げていることが分かる
墳墓を見る事で両地域の権威のあり方に繋がりが無い事がより明確になる
この事からも東征も東遷もないという考古学的な証左となっている >>911
>阿波には対馬や北部九州、葛城や河内にある
>弥生中期の鏡がないから無理だな。
弥生中期の鏡? なんという鏡? @阿波 北九州とういう言い方するな、北部九州という言い方せい
わからないなら北九州市で検索せい すっかりしょぼくれて涙目になった防人集団(九州説)www >>916
>高地性集落も「防衛上」の遺跡かもしれない。
そうとも言い切れない。
抗争跡が見られない、阿波に在る高地性集落は「交易上(通信)」・「王都モニュメント」「ランドマーク」 と考えられる。 @阿波 >>909
銅矛は武力と言うより船系の祭祀用だろ。
武器が墓から出たら軍事力無くなるし。
銅鐸は当たり前だけど平型銅剣も国内生産っぽいな。
大陸交易有った時代の九州勢力は瀬戸内海入れてないだろ。
畿内と九州明らかに異文化で対馬金印貿易が畿内は無理。
考古学者って何見てんだ? 平型銅剣なども瀬戸内海地方で独自に広まった祭器だな
九州にそんな文化は無い
むしろ九州の影響を拒否して独自性を表してるのが見えてるな
山陰、瀬戸内海は九州の影響力の拡大を阻止する動きをかなり出してるな
両者は対立関係を見る事が出来ても九州の支配などと言う寝言は見出しようがない >>912
邪馬台国は北九州市にはないが
糸島市にあったんだなw >>921
泡厨はモニュメント」「ランドマーク」とか、とぼけたテンプレ読んでるんだな >>922
>銅矛は武力と言うより船系の祭祀用だろ。
はいはい、屁理屈お疲れさん。
対馬に武力が展開されてる時点で明かな国防。
北部九州に都はありませんwwww >>923
荒神谷遺跡の地名は神(カム)庭。
カモ岩倉遺跡、川西市カモ遺跡、伊勢遺跡のあたりは蒲生(ガモウ)
銅鐸最多密集地は三河の賀茂(カモ)郷や蒲郡。
静岡は久能。
これ全部鴨族の移住地。
鴨とはカミだよ。
ヒミコはこの一族から出たのだ。 >>927
>泡厨はモニュメント」「ランドマーク」とか、とぼけたテンプレ読んでるんだな
テンプレにそんなこと書いてあるの? ほとんど読まないから、意外。 @阿波 >>929
>これ全部鴨族の移住地。
これ全部忌部一族の移住地。 ついでに鴨族?も。 @阿波 北部九州の勢力は山陰、瀬戸内海の勢力にその拡大を阻止されてそのまま動けず、
150年頃にはその勢力も崩壊して小集落の雑多なまとまりのない地域になり逆に周辺地域の一方的な影響を受ける状態に陥る
そしてそのような状態のまま邪馬台国の時代を迎えることになる
これが九州の歴史 >>907
ボンクラはおまえだろ
事実誰も攻めてきてないし
脳になんか湧いてきてんじゃね >>928
銅矛を武力だと思ってたのかw
お勉強が足りません、やり直し >>828
纒向の背後は確かに丹山だらけだが
肥前は肥前で黒曜石を縄文時代から輸出してた由緒正しい土地やぞ。 >>456
主語は「自女王國以北 特置一大率檢察」の主語と同じで省略されている
つまり、主語は一大率を置いた女王卑弥呼である
目的は一大率
女王卑弥呼が伊都国で女王国の北側に置いた一大率を治める 倭人伝を見ると九州のクニグニには「ヒナモリ」と言う役人が殆どの国にいるな
歴史民俗用語辞典
夷守:ヒナモリ(hinamori)
一般には北九州や東北にあって朝鮮や蝦夷の防衛に当たる者。
モリの用法から地方の軍事的な守備官や地方首長の原始的カバネであるとみられ
ヒナモリに関わる土地に残る文字の傾向からヒナは異民族や辺境を指していると思われる
つまり、ヒナモリとは辺境の守備隊を指した言葉であろうと考えられている
この事からヒナモリが多数見受けられる九州は辺境として守備兵を配置される場所であったと想定される 夷守:ヒナモリ
エビスモリと読まないでヒナモリと読む理由はなんででしょうね?
夷をヒナと読む例は他にあるの? 夷守の用例は日本書紀、万葉集、和名抄、延喜式とかに散見される
地名としても各地に残っている
この配置の傾向は地方で外敵や異民族の防衛の為に配置されている地域などに多い 学研全訳古語辞典:学研教育出版学研教育出版
ひな 【鄙・夷】
名詞
都から遠く離れた、開けていない所。地方。田舎。
出典万葉集 二五五
「天離(あまざか)るひなの長道(ながぢ)ゆ恋ひ来れば」
[訳] ⇒あまざかる…。 デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
馬夷麻呂 うまの-ひなまろ
奈良時代の官吏。
甲斐守(かいのかみ)をへて天平宝字(てんぴょうほうじ)3年(759)典薬頭(てんやくのかみ),4年南海道巡察使となった。
渡来系氏族である事もあってか夷の字が当たってる
やはり地方や外国人を示す言葉 鄙びた(ひなびた)とか言うけど地方や外国人に関わる事の多い場所から来た当て字だろうね
元々は音だけのヒナからだろう
多くの漢字が当たるのは漢字が来る前の由来の古い言葉に多い ヒナモリは中国、朝鮮半島から侵略を防ぐと言う目的のみならず、一大卒の性格から言って九州そのものを抑えるための軍事力である可能性が高いな
九州と言う土地の扱いが見えてくる >>934
>ボンクラはおまえだろ
>事実誰も攻めてきてないし
>脳になんか湧いてきてんじゃね
いや攻めてきた攻めてきてないの話じゃねぇし。
どこの国もずっと戦争してなくても軍はあるよね。
どんだけセンスないんだろこいつ。 ヒナモリは副官だからな、防人と同じように考えるのはちょっと違うんじゃないか >>938
「常治伊都国」の「治」の目的語が一大率だと本気で言っちゃうの?
これは笑い者だわ 王都の副官は泄謨觚、柄渠觚で各国邑の副官は卑奴母離だな。 ずっと戦争してなくても、過去に戦争したことがあるから軍を持ってるんだろな
戦争のないところに軍隊を置くのはムダでしかない 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
一大率:いちだいそつ
3世紀後半の北九州の伊都(いと)国に置かれた官名。
『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)にみえる。
一大率の官名は、『晋書(しんじょ)』にみえ、中国の剌史(しし)に比定されるが、常駐して女王国(邪馬台国(やまたいこく))以北の周辺諸国の検察を行い諸国に畏憚(いたん)されたという。
女王より京都(魏)・帯方郡(たいほうぐん)・韓(かん)諸国への使者、および帯方郡より倭国への使者を取り調べ、その文書・賜物(たまもの)を錯(あやま)りなく女王に伝送する機能も果たした。
一大率の設置主体が、魏か女王国かいずれであったかについては説が分かれる。[門脇二]
大辞林 第三版の解説
いちだいそつ【一大率】
「魏志倭人伝」にみえる官職名。
邪馬台国以北の諸国を検察するため、伊都国に置かれた。 >>953
泄謨觚、柄渠觚ってナニ語?
伊都国って人種的にどうなんだ?
韓人二世とかが主流派なんじゃないか? >>954
え!!!!!
漢文がまったく読めないの? 女王国以北だから伊都国は女王国扱いされてない監視される対象の属領だという事だな 邪馬台国から北、じゃなくて女王国から北だからな
女王国のメンバー扱いされてないのが分かる >>216
>行程なんかよりも大事なのは九州の扱い 【九州を過ぎると女王国】となっている<
なっていない。
投馬國への話は、移動の動詞が書かれていないから、魏使らが通っておらず、
不彌國からの側副傍線行程の話になっており、
だから、不彌國からの魏使らの進路は、「南至邪馬壹國」になり、
これにも移動の動詞が付いていないから、魏使らは殆ど移動せずに邪馬壹國に至れることになり、
邪馬壹國や女王の都は、九州内にある事になる。
>つまり九州は女王国に数えられてない <
女王の都は九州にある。 伊都國に泄謨觚、柄渠觚、奴国に兕馬觚
北魏に拓跋觚がいるから、〜觚は胡族系の名なんじゃないか テンプレートの主張が、論破され、破綻してしまった、最大の原因は何だろうね、、、、 >>891
高木の神は筑紫から勧請された神の代表ですね。 >>851
>>>846
>北部九州周辺の国だろう。
>女王国は本州より東側の国だからな。
>方角は東と南をざっくり間違えているにすぎない。
福岡は畿内の北に位置する⁉︎
畿内説の迷言いただきました! >>882
>ソースは失念したが、弥生時代の方形周溝墓は九州に上陸するやいなや畿内に移動したらしい。
アホだろ。
九州で平原や祇園山などの方形周溝墓が続くから、移動ではなく、九州を起点に伝播した。 >>915
>つまり両者の変化に関連性は見られず、各々独自の発展を遂げていることが分かる
魏志倭人伝が九州のことばかり報告しているのだから、畿内は邪馬台国とは関係なかった。 >>239
あれだな、大和説者って、
「国民は魏志なんて史料は、読んだこともないから、嘘ついても誤魔化せる」
とか本当に思ってるんだな。
バカだバカだと思ってたけど、本気でどうしようもないバカの集まりだな 。 >>926
北九州市は豊国、糸島市は筑紫。
古代においては別の国。 >>929
鴨と卑弥呼は関係ない。
あるというなら証拠を示せ。
鴨は古代氏族のトーテムの一つ。
出雲は鷲、筑紫は鷹、豊国は鰐、熊襲は熊。 >>939
>倭人伝を見ると九州のクニグニには「ヒナモリ」と言う役人が殆どの国にいるな
壱岐や対馬が博多から見てヒナなんだよ。 >>249
>だから 「日本まで行く」そこから「東京まで行く」の違いでしかねーんだよ
そう書いてんだろ 「女王国に至る」そこから「邪馬台国の女王の都に着く」と <
そう書いていないよ。 >>961
>女王国以北だから伊都国は女王国扱いされてない監視される対象の属領だという事だな
以ってという用語を知らないアホ >>985
知ってるなら説明してみせろよ無知爺さん 一大率は伊都から女王国以北を統括していた。
それは伊都国が女王国の中枢であることを意味する。
畿内説では、畿内の女王国以北を支配するのに、伊都に一大率を設置したことになり、矛盾する。 >>987
女王国以北というのは、女王国も含むんだよ。
伊都が女王国なら、伊都から壱岐や対馬、松浦などを支配したことになる。
わかりやすい。
畿内説だと、京都や滋賀を見張るのに伊都に一大率の事務所を置いたんだとさ。
アホだろ。 自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之・・・主語は女王卑弥呼
常治伊都國・・・・・・ここも引き続き主語は女王卑弥呼 卑奴母離は駐屯軍、一大率は直轄の近衛部隊みたいな感じかな。
中国人からは、一大率は中央から派遣する刺史のようであるとのこと。 魏志倭人伝は、邪馬台国の都、女王国が伊都であるとすると何も矛盾なく読めるが、畿内説では全ての記事が未順に満ち溢れている。
その挙句に、魏志倭人伝は間違いだらけだから参考にしないなどと言い出す始末。
魏志倭人伝を無視したら、邪馬台国も卑弥呼もないではないか。
畿内説は歴史の歪曲に他ならない。 >>279
あれ?、また、
和田キヨエをたぶらかして、沢山の尿入り?の一升瓶を、
旧和田家の中に置いた皇国史観の偽書説派が、大和説者の仲間であった、
と白状した投稿が出ているよ。 >>285
>魏志倭人伝の記述だと伊都国通り過ぎて奴国に行って不弥国行って
そっから船出してるじゃねーか<
陳寿は、そんな事を書いていないよ。 このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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