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古事記以前の書物について [無断転載禁止]©2ch.net
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0001日本@名無史さん垢版2017/08/31(木) 16:49:17.24
ウエツフミ、豊国文字など本当の日本の歴史について
詳しいかたいますか?
時系列が難しすぎて混乱しています。
だれか教えてください。
0094日本@名無史さん垢版2017/09/14(木) 06:06:01.33
天之日矛は、どうもひっかるなぁ

名称や宝の名前がどうも日本語くさいというか…
意訳して日本語になってると言うより
初めから日本語だったんじゃないかって感じ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%83%92%E3%83%9C%E3%82%B3#.E5.9E.82.E4.BB.81.E5.A4.A9.E7.9A.8788.E5.B9.B4.E6.9D.A1
↑の話も出雲振根の話を下敷きにしてる様に見える
https://kotobank.jp/word/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E6%8C%AF%E6%A0%B9-1053819

日本神話をむりやり新羅と関係づけてるんじゃないだろうか?
(もとは常世とかだったりして?)
都怒我阿羅斯等とかにしても

そもそも、大和朝廷に応神天皇以前の記録が
まともにあったのかが怪しい
0095日本@名無史さん垢版2017/09/14(木) 13:18:47.21
>>89
金石文などの「非文書」文字記録の発見はなかなか難しいのではないでしょうかね。
未発掘の古墳を発掘すれば、断片的なものは発見できるかもしれませんが。
ペトログリフなどと同様に、それが彫りつけられた年代の推定が容易ではありません。
法隆寺金堂薬師象光背銘などは、記紀よりも古い記録であると考えられたこともありますが、これは、後の時代に追加されたものであろうと考えられていますね。
「天皇」の号の使用開始はいつか?という点で注目されたものですが。
0096日本@名無史さん垢版2017/09/14(木) 20:00:06.20
ペトログリフって何?ヒエログリフのこと?
ろくに調べずに書いたんだろうけど古代エジプトでは必ず○王の治世〇年目って書くから年代の特定はそんなに難しくない
だからナルメルというすごい昔の王様ですら即位期間がかなりハッキリしてるわけ
0097日本@名無史さん垢版2017/09/14(木) 20:06:03.68
おっとググったらマジであったなペトログリフ
岩絵のことか
でも古墳時代にはすでに年号の使用が見られるのでそれほど年代の特定は難しくないのでは
未盗掘の古墳から見つかったのなら改竄の可能性もないだろうしな
0098日本@名無史さん垢版2017/09/14(木) 20:53:14.21
>>92
古い方は、委奴国王のとき 57年
新しい方は、倭面土国王のとき 107年 
じゃないの?
0099日本@名無史さん垢版2017/09/14(木) 21:24:22.00
>>98
そもそも考古学的に前漢鏡、後漢鏡とされているよ。
7. 奧津鏡
8. 邊津鏡
この二枚なんだけどね。
日矛は便利に使い回されている称号に見える。

>>93
>故 其天之日矛持渡來物者 玉津寶云而
は、饒速日の十種の神宝と被っている。
0100日本@名無史さん垢版2017/09/14(木) 21:30:26.47
倭面土国は何と読むのですか?
ヤマトですねわかります
0101日本@名無史さん垢版2017/09/14(木) 22:01:13.53
[天]  之 日 [矛]
[阿毎]多利思[北孤]

[北孤]が[矛]に文字変換 置き換えされている
[北孤]の[孤]は[孤竹]の[孤]で王の称
[北孤]は華夏の皇帝のシンボルの北極星を踏まえた呼称なのだろう
[矛]は当時の倭語ではおそらく[mo]あたりで発声されていたんだろう
[鉾]の偏省略形の[牟]は[mo]音だと比較的容易に解析可能だろう
[都市牛利]の[牛]も[牟]のさらなる省略形で[mo]音ならむ

天之日矛は『三國遺事』に出てくる[延烏郎]とコモンで
男の太陽神です
0102日本@名無史さん垢版2017/09/14(木) 22:13:06.47
最後の一行で台無しだよ。
モオ〜
0103日本@名無史さん垢版2017/09/14(木) 22:13:47.95
>>100
九州の地名ですね。
0104日本@名無史さん垢版2017/09/14(木) 22:32:18.50
倭面土はイェミェトと読みます
大和ですありがとうございました
0105日本@名無史さん垢版2017/09/14(木) 22:42:29.39
>>99
>7. 奧津鏡
>8. 邊津鏡
これらは、おなじような鏡が多く産出する九州地方から後の時代に入手されて宝としておさめられたの?
国宝の「海部氏系図」の内容は信用できるの?
誰が(学者)がその国宝としての価値を評価したの。
0106日本@名無史さん垢版2017/09/15(金) 00:35:38.74
伝承通りなら、高天原で天照王が孫の饒速日に渡し、それを持って船で関西までやってきた。
系図を否定する意味もないし、記紀などと矛盾はない上に、記紀にない部分を補うことができます。
0107日本@名無史さん垢版2017/09/15(金) 14:05:59.35
>>3
そして鉄剣や仏像の裏面に書かれた文章だけが残ったんだよな

法隆寺の仏像の文章は聖徳太子について書かれてて興味深いぞ
0108日本@名無史さん垢版2017/09/15(金) 14:15:33.95
鉄剣の文字で重要なのは3つ

そのうち2つはワカタケルの鉄剣
熊本と埼玉から出てくる
九州から関東まで出兵し征服
中国の書に出てくる倭王武の記述の通りの覇王である

残りの1つは奈良の石上神宮(物部氏の神社)に残された百済王からの贈り物である七支刀
ここには「倭王旨」の文字が見られる
物部、旨とくればその正体は「ウマシマジ」
記紀で物部の祖先とされるウマシマジは倭王だったことがわかり、それと同時に
古代において大王位は天孫族の独占ではなく、物部など他の豪族が大王となっていた時期があったことがわかる
0109日本@名無史さん垢版2017/09/15(金) 14:18:51.15
古代において大王位は天孫族の独占ではなかった

日本書紀編纂において、天孫族の権威性を高めるために
天孫以外の大王の存在を消す必要があると考えた朝廷は

過去の書物の一切を禁書としたのだろう

しかし、法隆寺の仏像や古神社に残る鉄剣までは燃やすことができなかったと
0110日本@名無史さん垢版2017/09/15(金) 14:34:46.04
一方法隆寺の仏像からも面白い文章が見つかる

それは「大王天皇」という言葉だ

天皇号の成立初期において、

大王 と 天皇 という称号は並立可能なものだった

倭国の最高権力者を大王とするなら

では天皇とはもともとはどういう役割の称号だったのだろう
0111日本@名無史さん垢版2017/09/15(金) 21:41:10.30
>>110
もともと、天皇と敵対する勢力があってそこを制圧して、天皇が唯一の絶対権力にしたんじゃない?
敗れた勢力は、日本書紀や古事記などの天皇の前の系譜を伝えてた勢力。
それを書き換えて、良い感じに天皇が神の系譜と記したんじゃないかと、俺は思ってる。
0112日本@名無史さん垢版2017/09/15(金) 22:09:03.88
>>111
俺も実はそう思うんだよな

神武東征にあたる畿内への外部勢力の侵入は実は7世紀であって
それまではずっと物部と葛城(鴨)の古豪二氏が畿内を仕切ってた

倭の五王に代表される倭王もみな物部か葛城の人間

天孫族の畿内侵入は、定説よりずっと後の7世紀
白村江の敗戦で九州が唐に占領されたときに
九州豪族(天孫族)が畿内に逃れてきて起きた

古代天皇の多くは葛城か三輪に居住した

これはシンプルに、葛城と三輪(物部)の二氏が王権を争っていたということではないか

天孫なんていなかった
0113日本@名無史さん垢版2017/09/15(金) 22:32:23.04
>>112
え?九州って唐に占領されたことあるの?
無知ですまない。

白村江の敗戦で確実に天皇派の敵対していた勢力は衰えたよね。
でも、俺が思うに制圧というより、合併吸収と言うほうが強かったのかなとも思う。
どっちにせよ、色々掘り起こしたり遺跡発掘を宮内庁がしてほしくないんだろな。
彼らは薄々真実を知ってそう。
実は天皇家は乗っ取り政権で、その昔巨大な勢力があって、文化があってってさ。
その旧勢力の一族がサンカの民になったり蝦夷になったりって。
そこで、日本の古代文字とか使われてたとかロマンがある。
0114日本@名無史さん垢版2017/09/15(金) 23:57:54.33
【白村江の戦いと倭国滅亡】

663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。

668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。

671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。

筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。

701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。
0115日本@名無史さん垢版2017/09/16(土) 01:17:00.00
>>114
勉強になった!ありがとう。
ちょうどこの辺の歴史知りたかったんだ。感謝。
やっぱりこの辺の歴史およそ100年分がすっぽり抜けてるあたり、真実が隠されてそうだね。
0116日本@名無史さん垢版2017/09/19(火) 02:34:48.01
>>111
例えば蘇我氏ひとつをとっても、自分の屋敷を宮門 みかど と称し、行き過ぎが見られたので、
って書いてあるけど、普通に天皇家がNo.1とはいいきれない状態だったんじゃないかなと
別に蘇我氏の方が残って天皇家の位置にいたかもしれない、くらいの力関係で
畿内ですら固まってなかったのではと思えたりする そう考えると、崇峻や聖徳太子を誅殺
するくらい、当時まだどの氏族が天皇家か固まりきってないとすれば、
蘇我氏の方にとっては単なる普通の権力争いだったりして、話がぜんぜん違ってくる
0117日本@名無史さん垢版2017/09/19(火) 07:30:44.61
それを言うと物部もそうで、アマテラスの孫の饒速日が神武より先に畿内に権力を確立していたのが物部の祖。
神武は奈良盆地の片隅で居候させてもらっていただけ。
蘇我に滅ぼされるまでは物部が最高権力者だったのではないか。
大君家と大臣家と大連家のどこが優勢かと言う話に過ぎない。
0118日本@名無史さん垢版2017/09/19(火) 21:48:40.15
初心者にも分かりやすく概略教えてくれ
0119日本@名無史さん垢版2017/09/19(火) 22:32:51.16
物部の先代旧事本紀も斎部の古語拾遺も殆ど紀記と同じ神話を伝承してるのやからそないな突飛もない影の歴史なんてあらへんで

空想しすぎやわ
0120日本@名無史さん垢版2017/09/19(火) 22:56:43.54
断片的な情報をつなぐと、以下のような感じ。

高天原(海の国)のアマテラス(海の王)は、親戚の大国主が治める稲穂が豊かに茂る陸上(豊葦原中国)が欲しくなった。
そこで船で軍勢を送り脅し、降伏した大国主を殺して国を取った(出雲の国譲り)。
そして孫のニギハヤヒを関西に、孫のニニギを九州に王として派遣した。
奈良盆地には大国主の一族(三輪山の神、富美の一族)が生き残っていて、ニギハヤヒを王として迎えた(後の物部大連家)。
九州に降ったニニギの末裔であるイワレヒコは、九州倭国の戦乱(倭国大乱)で九州を逃れて、奈良にいた親戚のニギハヤヒ一族を頼って落ち延びてきた(後の天皇家)。
蘇我大臣家がいつ頃奈良盆地に来たのかは分からない。
古代のヤマト王権はこれらの家系により共同で運営されていたが、蘇我大臣家と天皇家は物部大連家を滅ぼした(物部戦争)。
次に天皇家が蘇我氏を滅ぼした(乙巳の変)。
こうして天皇家が畿内の覇者となった。
0121日本@名無史さん垢版2017/09/20(水) 00:35:47.48
九州の歴史では、蘇我氏の祖は武内宿禰ではっきりしているのだけれど、畿内の歴史では蘇我氏は出自不明なのだな。
0122日本@名無史さん垢版2017/09/20(水) 14:51:32.22
魏志倭人伝はゲルマーニアガリア戦記クラスの神書物
0123日本@名無史さん垢版2017/09/24(日) 18:03:08.60
ふむ。

出雲口承によると
出雲族@島根、元インダス文明の担い手
出雲族の嫁による徐福の長子の子孫@石見、丹波、笛吹、後の海部家、尾張家。海幸彦に仮託
宗像家の嫁による徐福の次子の子孫@吉野ヶ里、妻、熊野、後の物部氏。山幸彦に仮託

出雲族と徐福族の諍いがあって、出雲族の王家が
葛城に移住。後の三輪氏、賀茂氏

徐福の長子五十猛の子、海村雲が葛城における大王となる。後の綏靖、安寧の后妃は三輪氏から。

という。

この辺りは、国宝海部氏系図通りの内容で
出雲族と海部家の伝承が一致する、そうな。

それと合わせて徐福の到来は紀元前220年くらい
到来の証拠が、出雲、丹波、綾羅木遺跡などから出た石笛のトウケンだという。

また、丹波地域の弥生時代の開発が
紀元前2世紀、1世紀ということで製鉄遺跡が残っているから、出雲口承が考古遺跡から裏付けられるように思う。

ただ、石見からなぜ丹波に移民する必要があったのかは出雲口承では語られない。不明。
0124日本@名無史さん垢版2017/09/24(日) 18:58:21.16
三輪氏、賀茂氏の次に丹波から村雲が丹波人を
連れてきて葛城首長と認めた。これが第一段階。

次に天日矛が但馬から播磨に攻めてきて
現地の地理がよくわからないから想像だけど
これは西播磨の話のようで

これにより、出雲本国と葛城との関係が寸断されてしまって、日矛族と全面対決して撃退した。
葦原色許男と争った話が播磨風土記にある。ここと整合する。

ここで撃退したのは孝霊天皇の時代だという。
その後、孝霊天皇は出雲本国に(どういうわけか)
戦争状態になったという。

孝霊天皇は瀬戸内吉備に伝承を多く残す。

三輪賀茂と村雲族で日矛族が手に負えないので
九州から物部氏が熊野まで来たので、それを賀茂氏が引き入れて日矛族を追い払った。

日矛族が奈良にいた証拠が近鉄但馬駅の地名という。

その後、物部氏が奈良を制した。これがウマシマジという。それまでの村雲族から出た孝霊天皇は奈良を追い出された、孝霊天皇の後は奈良では開花天皇が継いだ。ただ、開花天皇の兄の大彦は物部嫌いで銅鐸派だったという。
0125日本@名無史さん垢版2017/09/24(日) 19:17:30.46
ウマシマジの物部は后妃を開花天皇に入れる。

物部は道教祭祀として鏡の祭祀を開始し
それまでの三輪山の祭祀の並立状態になるという。

出雲口承は年代がはっきりしないけど
多分銅鐸祭祀がまだ存在していたということだからこれが2世紀後半、唐古・鍵遺跡が生きている頃。

古代氏族の系譜研究をしている宝賀氏によると
神武即位は176年という。つまり、神武東征は二世紀末。神武東征は物部東征だった!という。

その後、物部氏は旧勢力の大彦を奈良から追い払う、伊賀から北陸へ。また東海にも。これが狗奴國という。
村雲族を追い払う、丹波に戻った方が海部家
伊勢尾張に移ったのが尾張氏という。

近江北陸伊勢尾張を繋ぐ交通の要に、伊勢遺跡がある。守山市。考古学的な前後関係は
伊勢遺跡の後で纒向遺跡になるらしい。
また唐古・鍵遺跡の衰退の後に纒向遺跡があらわれるようです。
なので、物部氏が奈良にやって来て銅鐸祭祀が北陸や東海に移り、元奈良勢力がどうも伊勢遺跡の主体だったのではないかというのが私の見立てです。
0126subo垢版2017/09/24(日) 19:31:00.87
>>123
なるほど
0127日本@名無史さん垢版2017/09/24(日) 20:07:36.70
その後、九州は妻にいた
崇神天皇が 宇佐と連合してもう一度東へ
この宇佐の女王が 親魏倭王の卑弥呼だという。

東征半ばに崇神天皇とこの宇佐族の親魏倭王の卑弥呼は病没。崇神天皇の子 垂仁天皇が続行。

崇神天皇と宇佐の親魏倭王の卑弥呼の子
豊来入彦と豊鋤入姫も随伴。

日矛族の末裔、田道間守は出雲本国を攻略
これが神宝検校に仮託。先に奈良入り。
垂仁天皇は三輪山祭祀を認めることにして
出雲と同盟、これが当麻蹴速の相撲エピソードに仮託。

しかし、親魏倭王を継承した豊鋤入姫を擁立することを宗主国から求められたため、沙穂姫の三輪山祭祀を排し、豊鋤入姫に檜原神社で祭祀をさせる。豊来入彦は開花天皇の後の丹波道主を追い詰め垂仁天皇の王権確立に貢献したという。ここで当初村雲族の王権は交代した。

その後、親魏倭王が目障りになって
出雲本国と密かに同盟した垂仁天皇は
出雲本国兵を奈良に引き入れて
豊来入彦らを奈良から追い出す。豊来入彦らは尾張や東海に移る。

さらに追い詰めて
豊来入彦らは上野下野へ
出雲族は東海を経由して武蔵上総あたりに。

その直後の垂仁天皇の治世は何かあったんだ
ろうけど神功皇后まで以下略。
0128日本@名無史さん垢版2017/09/24(日) 20:07:53.15
垂仁天皇の生存年中が親魏倭王の景初年間なのでこれが3世紀半ば。従来の紀年研究では崇神天皇没は318となっており、これはかなり差がある。

ただし、古墳時代の開始年代の議論のある3世紀半ばに土師部の祖、野見宿禰が登場するため
ここは整合している。どちらが妥当か?

また、宇佐族を母系とする豊来入彦が関東に来たことは、新撰姓氏録の各氏族系譜に残っておりここも整合する。
0129日本@名無史さん垢版2017/09/24(日) 20:26:24.44
出雲口承は当然現代的な意味での
解釈が入っているので
また当事者の視点での「証言」なので
どこまでが「真実」なのか
見極める必要があります。
0130日本@名無史さん垢版2017/09/24(日) 20:29:04.45
宇佐古伝によると

神武天皇と景行天皇は兄弟だという。
0131伊都国女王垢版2017/09/24(日) 20:40:30.62
>>130
神功皇后が卑弥呼より120年後なので、その祖父の代の景行は4世紀初めくらいだろう。
神武と兄弟は無理がある。
0132日本@名無史さん垢版2017/09/24(日) 20:47:45.42
神武天皇が宮崎から北上する際、
宇佐族の海人である佐伯氏と争った。

宇佐族は服属することにし神武天皇族に
宇佐の地を屯田地として与えた。

宇佐族は古くから大陸との交流し
大陸王朝の制度に明るかったからだという。

宇佐津姫と神武天皇には
宇佐稚屋そして安芸に移ってミモロワケが生まれた。宇佐津姫も神武天皇も安芸で没し
景行天皇が後見したという。

ミモロワケは大陸王朝の文化取得に励み
本邦の卜占を定め
現在の宮中祭祀の八神を定める英邁英傑だったという。

宇佐稚屋は二十代で亡くなり一子 押人の後見をしたミモロワケは景行天皇の指示により
東遷を続行し、押人を王朝創始の大王になしたという。
0133日本@名無史さん垢版2017/09/24(日) 20:51:12.63
>>131
その通りです。

ここは宇佐古伝を記述する際
宇佐家の伝承に現代的な解釈が入ったせいで
帰ってよくわからなくなっているのです。

したがって

貴重な古伝といってもそのまま鵜呑みにするのはダメで、
当事者の視点だけでなくいろんな資料との
付き合わせが必須なのだと思います。
0134日本@名無史さん垢版2017/09/24(日) 21:09:26.87
宇佐古伝の一面の正しさというのは
宮中祭祀と
卜占についてです。

後に宇佐八幡宮神託事件があるように
宇佐と天皇家との繋がりがどこかであったはずだか記紀ではいっさい宇佐との関わりが記されないという状態です。

そして卜占については
神武と同世代の天種子の後が中臣氏に繋がるのですが、
宇佐古俗の服属儀礼で、自分の妻を差し出した事実を
後代の自家系譜の上申時に憚って架空の人物名に仕立てて朝廷に提出したことによるという。

つまり天種子は後の天皇家につながる人で
その子が宇佐家に残り、宇佐家で洗練された卜占の技術を宮中に持ち込んだ。

それまでの畿内の祭祀は神奈備の三輪山祭祀
物部の道教起源の鏡の祭祀。
いつどのように「現在の宮中祭祀」が始まったのか?

亀卜鹿卜など卜占を中臣が独占したのはなぜか?
皇族だったから。
天皇家の母系の宇佐族の祭祀が引き継がれたから。
0135日本@名無史さん垢版2017/09/24(日) 21:21:43.50
宇佐古伝の神武天皇といっている部分は
出雲口承でいう崇神天皇とかんがえると
ある程度矛盾がなくなります。

出雲口承では崇神は東征途上で亡くなっている
崇神と宇佐の姫は婚姻した
東征中に宇佐の姫出雲口承では親魏倭王の卑弥呼のも東征中に亡くなっている。

出雲口承でいう豊来入彦が
宇佐古伝にいうミモロワケなら
どちらも東国関東に向かって子孫が土着したことが共通している。

つまり、古伝はやはり一定の事実を残してはいる、ただし、その原伝承の本意が失われて
記述者の現代的な解釈が入っている。こういうことです。

ただ宇佐古伝では親魏倭王、大陸に朝貢したとは全く言及がない。原伝承にはあったかもしれないが、意味がわからなすぎで現代には失伝されたかもしれないことが惜しまれます。
0136日本@名無史さん垢版2017/09/25(月) 03:06:40.69
>>121
葛城の鴨族(出雲王国の分家。神=王族をカモと発音していたので、後に鴨の文字が当てられた。(鴨は、甲+鳥。甲は神に同じ、鳥(トリ)は十霊(トリ)最高神。また、葛城のトビ家を暗示))の末裔。
0137日本@名無史さん垢版2017/09/25(月) 07:27:29.02
そういう氏族はあちこちにいて、例えば肥国の隈クマ=カミとかもそう。
葛城が特別というわけではない。
三種の神器を持っていたわけでも、漢や魏から倭王として冊封されていたわけでもない。
0138日本@名無史さん垢版2017/10/14(土) 07:21:53.33
>>52
「神功皇后の朝鮮侵攻」そのものがでっちあげの可能性もあるってことだよね
0139日本@名無史さん垢版2017/10/14(土) 07:51:25.14
朝鮮側にも倭国が繰り返し侵攻してきたことは記録されているよ。
0140日本@名無史さん垢版2017/10/14(土) 12:05:48.18
>>138
うん、そこは古事記の表記からして神話で
まず事実で無かったと見ていい
0141日本@名無史さん垢版2017/10/14(土) 12:17:05.94
朝鮮側の首都を包囲しているからねえ
倭寇レベルじゃなくて、それなりの軍隊が出動してるよね
朝鮮半島の倭領に軍隊が常駐してたんだろうな
0142日本@名無史さん垢版2017/10/14(土) 12:21:15.07
>>140
三国史記との比較で、4世紀末のことであったと考えられていたはず。
国軍による侵攻でも寇の字を使うことができる(元寇など)ので、倭国による組織的な侵攻も倭寇と呼ぶ。
0144日本@名無史さん垢版2017/10/14(土) 13:00:08.82
>>142
いや、最近おもったけど神功皇后は完全に神話
わずかの事実性もない

で、三国史記は日本書紀よりずっと後に出来たもんだから

むしろソースんも一部がそもそも日本書紀の可能性がある
つまり、さしてあてにならないとみてる

百済も新羅も滅んでしまってたので
三国史記があらわされた当時からして資料が散逸してしまってたろう

で、滅びなかった日本の日本書紀などの資料は残ってたけど
それ自体が、まあさして信用できないだろうって話

こう書くと朝鮮びいきと思われるだろうけど…・・
むしろ、自分は最近まで
朝鮮・韓国がらみの話は、あまり興味もなく調べてなかったんだよね。
それが最近、ちょっと思う事あって、
朝鮮の資料を調べだしてる所。
で、このあたりの事は日本書紀のが
ぜんぜん信用できないんじゃないかと思い出してる所。
0146日本@名無史さん垢版2017/10/14(土) 13:08:02.17
日本書紀が嘘だらけなのは同意するが、三国史記と日本書紀では、神功皇后の侵攻に対応する記事が120年ずれているんだよね。
だから、三国史記が日本書紀を参考にしたというよりも、別個の資料をもとに日本書紀ご年代を前倒ししたんだろう。
0149日本@名無史さん垢版2017/10/14(土) 13:12:11.77
>>144
>いや、最近おもったけど神功皇后は完全に神話
>わずかの事実性もない

で、日本書紀でも創作が目立つのが神功皇后の下りだけど、完全な嘘でもないと思う。
仲哀が死んでから応神が生まれるまでの日数について細かく記し、臨月を遅らせるために石を抱いていたという話まで加えている。
これは、応神が仲哀の子供ではないのではないかという疑いがその当時からあったということだろう。
それはベースとなる事実があったということだよ。
そして、石を抱いたら生まれるのが遅くなるなんてことはないから、実際には応神は仲哀の子供ではなく、武内の子供なんだよ。
0150日本@名無史さん垢版2017/10/14(土) 13:13:35.76
日本側の記事は三韓征伐、朝鮮側の記事は倭寇だろう。
0153日本@名無史さん垢版2017/10/14(土) 14:43:15.92
一時的にしろ百済も新羅も倭に取られたことを書いているのだから、正直じゃないか。
百済は倭と高句麗の両天秤をかけていたんだよ。
最近、韓ドラで見ていたからよくわかる。
三国のバランスは非常に危うい。
倭国の支援を百済はよく使っていたらしいよ。
記紀にも、百済王が七支刀を贈ってきたことが記載され、実物も存在している。
半島情勢に倭が介入していたことは間違いない。

半島側の記録も国内の記録も信用できないと言い始めたら、歴史を研究する意味はなくなるね。
0154日本@名無史さん垢版2017/10/14(土) 14:58:57.06
実在しない人物だと書いてない?
0155日本@名無史さん垢版2017/10/14(土) 15:07:23.32
『遅れてやってきた倭種』

それと系統の違う家がない?本物の家?
0156日本@名無史さん垢版2017/10/14(土) 16:37:42.74
まあ、神功皇后は福岡あたりの豪族で
それを記紀に組み込んだだけだろうな。
おそらくは聖徳太子のアメタリシヒコも
そのたぐいだろう。
0157日本@名無史さん垢版2017/10/14(土) 17:01:59.32
畿内にいたのが豪族だよ。
福岡にいたのは倭国王。
0159日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 02:15:18.93
漢文なら分からんけど万葉仮名表記なら上代特殊仮名遣でググれ
0160日本@名無史さん垢版2017/10/27(金) 14:08:15.06
上宮記ってどんな書物だったんだろう?
応神から継体までの系譜は失われた日本書紀の系図以外はここにしか残ってなかったんだよね?
0161日本@名無史さん垢版2017/10/27(金) 17:48:38.23
天皇記というのがあったよ。
乙巳の変で焼失した。
0164日本@名無史さん垢版2017/10/27(金) 22:02:02.73
大王が元首であったという根拠すらない。
天皇記を所有していたのが蘇我家なら、大臣記だったかもしれない。
物部氏に先代旧事本紀があったように、蘇我氏を中心とした歴史書があったのだろう。
0165日本@名無史さん垢版2017/10/27(金) 22:10:14.62
>>164
稲荷山古墳出土鉄剣、、江田船山鉄刀銘、隅田八幡神社人物画像鏡は、いずれも「大王」
まあ元首であったことも間違いなかろう
0169日本@名無史さん垢版2017/11/01(水) 20:14:29.64
>>160

一部分を引用されて書物や、書名だけ伝わってる書物って気になるよね

どっかの寺社に写本でもあればいいのになぁ
0170日本@名無史さん垢版2017/11/03(金) 00:15:05.87
>>169
そもそも、文字が伝わって日本国内で長文が書かれるようになったのがいつ頃かだよなあ…
ワカタケルの剣の頃には国内でも文字による記録があるから、同時代の記録が発掘される可能性も無いとは言えんけど、
出てくるとしたら寺社よりも古墳だろうな
0171日本@名無史さん垢版2017/11/03(金) 02:47:00.95
主な寺社の記録は、明治維新の廃仏毀釈でほとんど消滅していますね。
戦国時代の下克上でも多くの旧家が消えて、蔵書が散逸しています。
あとは、8世紀初頭に日本書紀以外の歴史書を禁止扱いして焚書を行なっています。
0172日本@名無史さん垢版2017/11/03(金) 21:21:01.93
>>169
>一部分を引用されて書物や、書名だけ伝わってる書物って気になるよね

これって、たとえ国選正史でも、その内容に、その文書に「信憑性を
持たせるための選出としての架空の文書」が記されている、という可能性
はないですかね?
偽書の中に、「⚫⚫に曰く」というかたちで、⚫⚫という架空文書
が出されてくるそうですが。
0173日本@名無史さん垢版2017/11/04(土) 10:22:55.65
>>170
おそらく、応神天皇からだろう。
記紀では、応神天皇のころ、千字文が伝ったとされる。

千字文そのものエピソードは、事実でないんだろうけど、
おそらく、記紀のあらわされた当時からして、
畿内でまともな文字情報がたどれたのが、
応神時代までだったと思われる。
(そういう背景から造られた故事なんだろう)

で、応神天皇の名称から存在してそうな点を考えてみても、
まともな記録があったのも応神天皇までで。
それ以前は(創作)神話だと思われる。
(さらに、現代の天皇家は継体天皇からで)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E8.AB.A1.E5.8F.B7.E3.81.8B.E5.AE.9F.E5.90.8D.E3.81.8B
>応神天皇の名とされる「ホムダワケ」(『日本書紀』では誉田別、
>『古事記』では品陀和気と表記)は、実は生前に使われた実名だった、
>とする説がある。
>とくに応神天皇から継体天皇にかけての名は概して素朴であり、
>ワカタケルのように明らかに生前の実名と証明されたものもある。

>王仁が伝えたとされる千字文が、王仁の時代には成立していないことなど
>史料解釈上実在を疑問視する説も多数存在する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E4%BB%81#.E8.A8.98.E9.8C.B2
0174日本@名無史さん垢版2017/11/04(土) 13:20:27.11
素朴だからとか、それ以前は創作だとか、なんの根拠もない。
くだらない。
0175日本@名無史さん垢版2017/11/23(木) 02:22:53.64
写本じゃなくて、原本で残ってる日本最古の書物ってなんでしょう?
0176日本@名無史さん垢版2017/11/23(木) 02:47:39.76
白村江の戦いで敗戦して
半島領土を失ったので
新たに国境を確立するために記紀が編纂されたので
それ以前の歴史=半島も日本の一部だった歴史を抹消せざるを得なかった
蘇我氏は半島における総督府長官みたいなものだったので
蘇我氏の歴史はある程度削除された
記紀に改竄の痕跡が見受けられるのはこれが原因
0178日本@名無史さん垢版2017/11/23(木) 08:36:43.09
>>176
>それ以前の歴史=半島も日本の一部だった歴史を抹消せざるを得なかった
どうしてでしょう
歴史をあるがままに記述するのにどんな不都合があったのでしょう
0179日本@名無史さん垢版2017/11/23(木) 08:48:39.68
レコンキスタが興って半島奪還戦争に進展する可能性があるから

大陸への領土的野心は日本列島統治が揺らぐ可能性があるから

戦勝国である唐・新羅に、日本書紀の歴史観でいいかお伺いを立てる必要があったから

あれ、これって第二次世界大戦後の日本と同じで笑えないね
0180日本@名無史さん垢版2017/11/23(木) 09:12:03.24
>>176
だったら神功皇后が半島をボコった記述も白村江でボコられた記述も抹消するんじゃね?
神功皇后なんて実在が疑問視されてたりするんだし
0181日本@名無史さん垢版2017/11/23(木) 09:32:43.07
むしろ7世紀後半の記紀の編纂直前の政変こそ、隠したかったのではないかな。
唐の後ろ盾によって筑紫倭国から政権を畿内が奪ったことを隠したかったのだろう。
0187日本@名無史さん垢版2017/12/06(水) 17:11:13.39
>>185
技術や文化が遅れている北方騎馬民族に中華民族がなんども征服されてるという東アジア史の常識も知らないのか
0188日本@名無史さん垢版2017/12/07(木) 07:03:00.76
そりゃ、馬があったからって事になる
0189日本@名無史さん垢版2017/12/07(木) 07:57:30.64
乗馬技術を技術ととらえるならば、中原が技術に秀でているというのは主観に過ぎなくなる。
だが、3世紀の奈良と筑紫の技術水準の差はそれ以上に著しい。
0190日本@名無史さん垢版2017/12/07(木) 08:49:00.65
>>164
出雲の伝承(不文)では葛城の出雲神(カモ)族〜磯城王朝。その末が蘇我氏(王家)

「臣/オミ」の称号は元々は出雲の王族である証だったそうです。
0191日本@名無史さん垢版2017/12/07(木) 09:38:14.49
>>142
日本(倭国)側の国、組織が関与しない海賊団も倭寇。
更に、中国沿岸〜朝鮮半島の海賊団が素性を隠蔽して倭寇に偽装して(騙って)荒らし回ったから悪質。
0192日本@名無史さん垢版2017/12/07(木) 12:26:16.34
>>191
でも、史書に載るような大規模な軍事行動は筑紫倭国の兵だよ。
もともと天津神(海の神)と呼ばれるだけあって、対馬海峡を拠点とした水軍が政権を取ったようなものだからね。
0193日本@名無史さん垢版2017/12/07(木) 12:27:03.54
>>190
蘇我氏は筑紫の覇者となった武内宿禰の末裔。
0194日本@名無史さん垢版2017/12/07(木) 13:18:09.42
そんなの後付けだろ
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