邪馬台国畿内説 Part282
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1506680420/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。 ◆6−3
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。 ◆7−2
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、前方後円墳如きで邪馬台国を名乗るんじゃねーよ、平和ボケが。
なんか川の中州の倉庫なんて持ち出すし。一家揃って歴史歪曲か。おめでてーな。
よーしパパ勝利宣言しちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、三角縁神獣鏡やるからその席空けろと。
倭国ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
筑後川の向かいに座った奴といつ戦争が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。畿内爺は、すっこんでろ。 ◆7−3
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8−1(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。 ◆8−2
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法より、筆者は里程から如何程に南方であるか具体的に推計して倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことは、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。 ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。 ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。 ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される。
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26-1
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか! ◆FAQ 26-2
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。 ◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す ◆FAQ 41−1
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。 ◆FAQ 41−2
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)
→1BV型式(3世紀中葉)
→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され(金原2011)ていること、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に語義を含意せずに用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏である。
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ56に加筆 >>1
意義なし
畿内説で確定
以後レスする必要はないためこのスレ終了で >>67
ルパン賛成!
議論しても鉄壁すぎて微動だにしないテンプレ
もう一般人にはついていけない領域に達した いやいやいや
畿内説の完璧なテンプレには平伏しますわ
これはすごい 281の>>217と>>218の返事は、
邪馬台国畿内説 PART1に転写した。 >>67
意義がないのは自演じじいの人生だ
レスしないで消えろ >>73
あなたさまの言う通り
テンプレさまが全て正しいでございますでする 281の>>221
>内地は青森から鹿児島まで、3島だろ。
琉球からはその全てが倭人の土地だ。<
琉球は、おそらく東テイ人の地だ。 >>76
FAQでいろんなゴミ九州説を論破し尽くしてるからな スレ主の努力が実を結んだんだよ
畿内説で確定
誰も文句ないよ 281の>>223
>3世紀の博多湾貿易は博多湾沿岸の楽浪商人を介したネットワークだろう
4世紀からは纒向遺跡、中田遺跡、足守川遺跡、博多湾沿岸集落は衰退し
金海貿易になるから、4世紀からのほうが玄界灘の海洋民の技術を必要とする <
博多湾沿岸集落は、筑紫倭国が
「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
であるから、
ずっと衰退していない。 >>85
うむ。
今宵は畿内説同士で語りつくそうではないか 281の>>228
>博多湾沿岸勢力は主役ではない<
4世紀以降も伊都国勢力がいたし、都市氏の松浦水軍家が残っているから、
博多湾沿岸勢力は、久留米の姫氏勢力と並んで、主役。 >>88
畿内説で確定してるんだから、そういうヨタ話は別スレにどうぞ 281の>>233
>倭国大乱を経て大和州(本州)に都(覇権)が移ったんだよ 主役は吉備<
「南≠東」や「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
に拠って×。 281の237
>なんで邪馬台国吉備説ではないの?<
「南≠東」だから。 281の237
>なんで邪馬台国吉備説ではないの?<
「南≠東」だから。 九州説は自分の巣に帰れよw
畿内説のテンプレと無関係に独り言言われても困るんだがw 281の>>239
>などと言ってる考古学者も文献学者もいない <
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説の考古学者や文献学者は、
始めから嘘つきダマシの・・・・サギシであるから、信頼性が全くなく、
彼らの「言ってる」事など、何の証拠にも論拠にもならない。 281の>>246
大和説学者は、
「南→東」の嘘つきをやっておいて、「考古学的に正しい、
「南≠東」のように漢文もよめないのに珍読して「文献学的に正しい!」。
滑稽な大和説学者。 281の>>247
>畿内は狗奴国の都 <
「南≠東」だから、×。 281の>>250
>畿内が狗奴国なら博多湾沿岸は狗奴国グループに属することになる<
大和→畿内と言い換えて誤魔化しても、
「南≠東」に拠って、狗奴國は「畿内」ではない。 281の>>251
大和説者は、
「南→東」などの嘘つきダマシを言い張るだけの、・・・・連呼人種だな 。 相手に成ってやるからかかっておいで畿内爺さん
テンプレは論破済みだから、新しいネタ持ってオイデ 281の>>262
>博多は畿内人街だからねー 当然の帰結だ <
弥生銀座は、筑紫倭国の首都であり、
近畿人は、筑紫から伝搬模倣生産した庄内などを弥生銀座などに搬入上納した。 >>100
では周髀算経にある一寸千里の法則から
どうやって一里75mの短里を導いたのか説明してもらおうか
できなければ短里は周の時代に使われていた単位というのは
大ホラ認定させてもらう 恨(ハン)のガス抜きも必要だからね
文化遺産がキズつけられるから 281の>>266
>博多湾沿岸の比恵那珂は大和型庄内甕を母胎として筑前型庄内甕が成立し<
庄内は三雲が最古。
>西新町遺跡は山陰系の在地生産が始まる<
半島人や「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」の搬入上納の、
邪馬台国の海の玄関(外港)の不彌國。
>土器工人の山陰からの移動と恒常的な交流が想定でき 山陰系工人が布留系甕の製作に関与したと考えられる(久住)<
布留は、米田は南加賀(越)が最も古い、と言っていたらしい。
>博多湾沿岸集落は畿内、出雲と同じグループ <
倭奴國や伊都国の阿毎氏が、大和と同じであり、
宗像が、陶ケンに拠って、元は出雲系であった可能性が高い。 281の>>267
「南→東」などの嘘つきダマシがバレて、打つ手のなくなった大和説は、
実際もうお陀仏 。 >>107
その通り。
完璧なテンプレにはキズ一つ付けてはならない。 281の>>268
>テンプレ読んでるのか?
投馬国を吉備あたりにしてる点で瀬戸内海ルートで使者が畿内に入ったことがわかる
テンプレ読めよ!<
「南≠東」だから、×。
テンプレは、嘘つきダマシの・・・・サギシだから、読まない。 ザラコクが1周遅れてレスするのは
そうすれば反論を受けないから そもそも纒向日代宮って、景行天皇だから4世紀だろ。 俺もう涙でテンプレ見えないよ
けど今から歯くいしばって涙を止めてテンプレを1万回読み上げるんだ 281の>>276
>筑紫の在地系土器は廃れて消滅する<
筑紫では、陶器の生産に変わって行った。
近畿や南加賀の田舎の貧乏國は、明治維新後の日本と同じように、
「安いものを人海戦術で大量に造って輸出して頑張る」しかない。 >>111
チガウダロ!チガウダロー!!
このハゲー!!! 281の>>285
>卑弥呼は文字を書けない 書けるなら卑字を使うはずがない <
魏志の、「三少帝紀齊王」に、
「(正始)四年/冬十二月、倭國女王俾彌呼遣使奉獻」と書かれているから、
卑弥呼は、上表文には「俾彌呼」と自著名していた、
という事になり、
漢字も知って書けた事になる。 テンプレをかたどった純金製のプレートがなんと今だけ100万円の大安売り
限定100個じゃよ >>103
横からですが、基本的な計算手法を示します
8尺の棒の影が1尺6寸なので、arctan(1.6/8)= 11.31度
地軸の傾きが23.4度で夏至の日はそれだけ傾いているということで、
北緯は、11.3+23.4=34.7度となります
これが一寸変化する場合は、
1.6尺→1.7尺になると考えると
arctan(1.7/8)=12.0度
北緯は 12.0+23.4=35.4度となります
地球の円周360度で4万キロですから、
(40000/360)*(35.4-34.7)=77.78キロとなり
これが一寸千里の距離ということになります
ちなみに、現在の洛陽市中心部が、北緯34.65度付近です。 281の>>289
>卑弥呼は卑字だからな<
「卑」には、「へりくだる」という意味もあるから、必ずしも「卑字」ではないし、
三少帝紀齊王:(正始)四年/冬十二月、倭國女王俾彌呼遣使奉獻
のように「俾彌呼」とも書かれているから、それが上表文の自著名であり、
「卑弥呼」は、倭側での「へりくだる」意味の通称称号であった可能性が高い。 281の296
>文字を使ったのが魏使等だとしても
倭国に来てで記録を書いてるから
滞在した場所には文字の使用の痕跡が残ってるはずだな。<
室見川の銘盤があるし、
三少帝紀齊王:(正始)四年/冬十二月、倭國女王俾彌呼遣使奉獻
の、「俾彌呼」という自著名の痕跡が残っている。 それにしてもだよ、確実に家の話だと思う
『何者にもなれないお前たち』
むかーし住んでいた事があるんだよという家に、
同じような服が干してある、紫色のもの。 >>130
常識的に考えて
三国志の三少帝紀齊王の段にでてくる、俾彌呼の文字列のことだろう
上表文に書かれていた文字列が三国志にそのまま使われたはずということだろ その家の名義?も、
銀▢となっていたり、下の名前、銀▢ 281の>>299
>香港がどれだけ経済力があっても中国の首都ではないように、北部九州も、だな<
あくまで各国の出先機関があったからこその繁栄であり、それは政治的安定性とは反比例の関係<
弥生銀座の経済力は、列島では他を圧倒しているから、
この男の例は、ウソ付きダマシのサギね。 >>124
こういうレスを待っていた
ザラコクは一寸千里を連呼するだけだからな
よーし突っ込み所が山ほどあるぞ
まず短理とは「周」髀算経にある通り周の時代に使われていた尺度という触れ込みで
魏の時代の人間は今まで一里400mで使っていた尺度を
周髀算経の一寸千里から一里75mと割り出しそれを使う事にした
だから魏史倭人伝は短里で書かれているという話なんだが
そもそも魏の人間はどうやって周髀算経の一寸千里の法則から
一里75mを割り出したのか?
微分積分などの数学知識はあったんだろうか?
地球が丸いという概念があったんだろうか? ペンギンがキュウリを切っていて・・・
『馬』という文字? >>135
テンプレに書いてあるだろ?
お前馬鹿じゃねーの? 281の>>302
>その新しい土器の技術は畿内や出雲の技術だから<
庄内は、三雲が一番古いんだよ。 281の>>309
つまり大和説者には、「南→東」の理由の答えられるような人材はいない、と・・・。 >>135
ただ単に影が一寸変化した距離が77.78kmあったと言うだけの話ですね。
周髀算経は天蓋モデルが使われていますが、
その計算の範囲においては破綻していません。 >>124
それに根本的な事を聞きたいんだが
周時代の八尺の棒の長さはいくつ?
一尺六寸の影の長さは?
周時代には普通の里より5分の1短い短里が使われていたとするなら
尺、寸もそれぞれ短尺、短寸でなくてはおかしい
それで換算すると一寸千里の法則は
夏至に南北75km離れると
約35cmの短尺の棒の影の長さが3〜4mmと
本当にこれで計算が合うのか? 平成29年度秋季特別展「古墳出現期の筑紫・吉備・畿内―2・3世紀の社会と経済―」
http://www.chikatsu-asuka.jp/?s=exhibition/special2
古墳時代がどのように始まったのか、
なぜ奈良盆地に最古の大型前方後円墳が出現したのか、
この重要な課題については、
これまでに政治的な記念物である古墳の出現やその動向を中心に、
さまざまな研究が進められてきています。
しかし、奈良県や大阪府を中心とした現在の近畿地方に、
古墳時代の政治的な中心地が形成される背景については、
依然として不明な点も多く残されています。
一方、集落遺跡に目を向けると、
定型化した大型前方後円墳の出現に先立つ時期に、 列島各地で交流拠点と考えられる大規模集落遺跡が形成されていることが、
これまでの調査・研究で明らかになりつつあります。
古墳出現に至るこの時期は、
それまでよりも人々やモノの移動が活発となっていると考えられ、
それが定型化した前方後円墳成立の基盤となったとも考えられています。
今回の特別展では、近年の発掘調査がしめす社会経済的な観点から、
ヤマト王権出現の背景について改めて検討を加え、
古墳時代の始まりについて考えてみたいと思います。 【庄内式土器】
1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。
2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。
3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。
4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。
5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。
6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。
7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。
8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。
9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。
10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。 >>137
書いてねーだろが
適当な」ウソをつくなよ 281の>>313
>北部九州が各国の出先機関が置かれたゆえに繁栄した地だとすると<
邪馬壹國の弥生銀座は、各国の搬入上納の地であったんだよ。
>では邪馬台国はどこなのか それには狗奴国の位置を同時に考えなければならない
吉備と畿内でしょう<
「南≠東」だから、×。 >>145
テンプレを信じなさい
テンプレを信じているならばそんな罵倒はできないはずですよ それにしても、おかしな話
銀?の家の隣に、テルオという人の家があったり、
親戚にいたような気がするんだけど
もれ(仮)の父親の妹と結婚した人の名前・・・・
引っ越したのかな、それとも上の名前の名義を変えたのかな? 281の>>316
>遠絶20ヵ国の中の好古都国が出雲だろう 古き好き都の名の通り<
遠絶20ヵ国と、「 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とは、
はっきり書き分けられて、違う国だ、としている。 >>141
現在の知識ならそうやって割り出せるだろうけれど
魏の時代では一寸千里から一里75mを割り出すのは無理だと思うけどな
あるいはニュートン並みの天才が居たか
そもそも一寸千里は実測値じゃないらしいし
いずれにしても一寸千里から天体学、微積分を駆使して
一里75mが割り出したとして
すなわちそれが周で使われていた尺度である
短里の証明だとは言えないと思うな 魏使は伊都国で接待漬けでさ
あとはテキトーにレポートしてたんじゃねえのか?これ 281の>>322
>違うよ 天孫降臨により内陸部に根を張って王となったんだろ
記紀史観でも都は北部九州にはない <
記紀は、倭国の存在や歴史を抹殺盗用した半分×史書であるから、
論拠にはならない。 照オ?
嫁の名字を名乗っていたのかな、
・・・違ったようがするんだけど、たしかテルオの家の名字(上の名前)だったよ、
どうなっているんだろう >>151
場所を変えて日時計の記録を
つけるだけでいいですよ。 記紀神話を読むと、葦原の中つ国の大国主を倒して邇邇芸が葦原の中つ国の王に指名されるんだけど、それで即位するのが九州北部の筑紫の日向なんだよね。
それって、大国主も筑紫にいたってことなんじゃない?
葦は稲穂のことで、葦原の中つ国は稲作先進地の博多湾沿岸のことなんだろう。 >>152
伊都が邪馬台国の王都なら、それでもいいんじゃない? 281の>>331
>記紀読めよ。<
記紀は、倭国の存在や歴史を抹殺盗用しようとした半分×史書であるから、
他の信頼出来る史料や、史料批判に拠って信頼性の確認出来る記載など以外は、
論拠にならない。 >>155
いやさそれじゃ影の長さの差がわかっても
当時の尺度がわかる事にならない
周髀算経にある一寸千里の法則から
短里が一里75mと判明したと豪語するなら
短寸は何cm?短尺は?
短里は一里75mという声ばかり大きくて
不思議と短尺、短寸の話を聞かない 281の>>332
>記紀 神功皇后の時代にやっと整備された だから魏の使者のルートもそうじゃん
北部九州でいったん船を降りて、陸路で瀬戸内海の港に出てまた船に乗ってるだろ?
フミ国は関門海峡の南だよ <
記紀は、十分な史料批判や、他の証拠がなければ、信用出来ない半分×史書。 281の>>338
>うるせー畿内説が正しいんだよ <
怖い怖い。
「南→東」の嘘つきダマシのサギシの、皇国史観狂の・・・・は、
怖い怖い。 それにしても、おかしな話だよ
テルオは死んだよ、葬式も、こっちの家族だけであげた・・・、
という連絡が来たんだけど、住んでいるとこも広島だし、
どうなっているんだろう >>161
それも本来ならわかろうはずがないよ
八尺の棒の長さは何cm?
一尺6寸の影の長さは?
まさか長里の尺度体系である
一尺約20cmをこれに使ったんじゃあないだろうな?
まさかそんなわけないよな使われていたのは短里だからな 日時計で距離よりも方向を間違える魏使ってアホ過ぎだろ 281の>>348
>考古学的には完全に吉備だもん <
「南≠東」だから×。
吉備の「槨」や天円地方思想の双方円墳は、285年頃以後。 >>164
必要なのは棒と影の長さの比ですからね。
別にセンチでもいいわけです。
比率では距離の単位は必要ありませんからね。 本当に、おかしな話だな・・・、
たしか広島県福▢市というところに住んでいるはずなんだけど、
伊達郡のほうにある、銀▢の家の隣に引っ越しでもしたのかな >>167
だから結局
夏至の正午に南北75km離れると
約35cmの短尺の棒の影の長さの差が3〜4mmになると
本当にこれで計算が合ってるのか?
合ってたら周時代の尺度は短里、短尺、短寸が用いられていたわけだし
一寸千里は実測値であり
さらに千里の距離を正確に測る技術も存在したという
九州説が何から何まで正しい事を言っていた明確な証拠となる
多分実際は計算が合わないだろうけれどな
なので逆にこれは九州説は適当なデタラメばかり言っていた証拠である 281の>>359
>それはわかるがニニギはアマテラスが天孫降臨させた子孫の一人でしかない
たとえば福岡と大分の県境にある山は「英彦山」といい ここはオシホミミ(アマテラスの息子でニニギの父)が降臨したという伝承がある
彦=日子=アマテラスの子供だよねもちろん
天孫降臨はニニギだけじゃない以上、伊都国はアマテラス系国家のうちの一つでしかないし、その王であるニニギも大王ではなく
構成国家のうちの一カ国の王にすぎない <
8世紀の記紀が、倭国の存在や歴史を抹殺盗用した半分×史書であるから、
神社伝承も8世紀に記紀に合うような造作があった可能性があるので、
記紀と同じく、半分×伝承。 281の>>362
>伊予、播磨なんかはまんまじゃん 瀬戸内海の国だよ<
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」と、
「其餘旁國遠絶、不可得詳。次・・・」の約20国は、
違うものとして、完全に書き分けられているんだよ。 281の>>364
>A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。<
「南≠東」に拠って×。 >>169
度量衡の統一令は税に関するもので、
丈尺寸分とそれをもとにした
体積、面積、重量に関するものです。
歩と里は独立した単位系であり
唐の時代以降でさえ
一歩が、5尺、6尺、5.3尺と変わっています。
奈良時代に日本では4km程度になっていますし
現代中国では1里は、1kmであり、
海里では1.86kmです。
記録は失われた可能性が高いと
考えられますが、
いくらか残る痕跡から見れば
東夷に別の里があっても
おかしくはないでしょう 281の>>366
>紀伊国もあるな 邪馬台国連合の領域が広範囲に渡るとわかる <
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」と、
「其餘旁國遠絶、不可得詳。次・・・」の約20国とは、
違うものとして、完全に書き分けられているから、×。 281の>>369
>三雲に来て志摩(嶋)郡の里数戸数がわからないことはない <
魏使らは、通過國として実地に見て直接概算するか?、
倭人に聞いて記録するしかない。
志摩(嶋)郡の里数戸数は、
見えなければ概算も出来ないし、倭人に聞かなければ判るものではない。 281の>>371
結局また、大和説は、トンデモに堕ちていく。 281の>>375
「南→東」などの嘘つき大和説の捏造癖、ここに極まる。
50年以上前には、「7帝」の中に阪大が入っていた。 中国江南から広がった下戸遺伝子。
中国南部の文化である銅鐸。
島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。
日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、大阪湾と伊勢湾。
淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。
唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。
呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。
弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、大阪湾を中心とした畿内や伊勢尾張が中心だろうね。 魏志倭人伝当時の九州状況
女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。
九州における女王国メンバーは、九州南部を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。投馬国は神武の本貫。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。
女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。
伊勢尾張、丹波など卑弥呼を擁する畿内の勢力、瀬戸内海を支配を進めていた吉備、九州北部に一大率を置き筑紫を支配下に治めた投馬国などが卑弥呼を共立し手を結んだんだね。 宮崎、大淀川流域、生目古墳群。
円形周溝墓、前方後円墳、三世紀後半〜。
魏志倭人伝と近い時代に、宮崎にかなりの労働力(人口集積)があったことが分かる。
畿内、ヤマトの旗を同じくする勢力。
女王国メンバーの投馬国だね。 魏志倭人伝には、伊都国が千戸しか人がいないと書かれている。漢数字で千と万は間違えるはずはないので、実際千戸程度しかいなかったんだろうね。
もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
3世紀半ばに大兵団が置かれていた場所の候補地は博多那珂地区しかない。
博多も区域としては伊都国に含まれるが、一大率が支配していたのだろう。
つまり伊都国は、平原周辺(王とその取り巻き)以外の大部分を一大率に召し取られたと考えると矛盾がない。
魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。
奴国は不弥国と伊都国の中間にある。地図を見ると遠賀川がその辺りにある。
遠賀川流域は、縄文時代〜弥生時代にかけての石器の一大製造拠点。その石器は九州全土に広がり、特に九州北部に強い影響力を持っていた。
また遠賀川流域の飯塚市から、行橋市には古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路であった。
奴国は2万戸の大国であり、遠賀川流域一帯の国であったと考えられる。
問題は不弥国である。
魏志倭人伝によると伊都国と同じように千戸しかないとある。壱岐ですら三千戸であることを考えるとかなり不自然。
行橋市の北は京都郡、苅田。
石塚山古墳など早期の前方後円墳がある。
巨大古墳のあるところは、労働力の集積地(非農業人口集積地)。つまり拠点地域。
不弥国も伊都国と同じように、大部分の領地を女王国に召し取られた可能性がある。
その地域支配の拠点が苅田辺りに作られていた可能性がある。
九州北部支配の拠点、博多那珂地区の一大率と苅田の駐屯兵団。少なくとも二ヶ所は魏志倭人伝の時代から存在。 それにしても、おかしな話ばかり
『山王宮 山王院』? 281の>>395
>2、海遊録では瀬戸内海ルートの南➡東は根拠とならない事が理解できましたか?
反論があればお書きください <
「南→東」ですから、魏志倭人伝では、瀬戸内海は×です。 邪馬台国へのルートである。
魏志倭人伝において、ます到着するのは末盧国である。500里をはるばる歩き、伊都国(博多湾一帯)に至る。
伊都国から奴国(飯塚市を中心とした遠賀川流域一帯)へ。さらに東に進み、周防灘に面する不弥国(行橋市から宇佐)に至る。飯塚市から行橋市に古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時、玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路だった。
そこから船で南へ沿岸を航行し、20日かけ大隅半島を抑えている投馬国へ着く。
大隅半島を南へ漕ぎ出し黒潮に乗る。黒潮は時速7Kmであり、何もせずとも1日に150Km進む。黒潮は自然と潮岬に接岸する。(現代において観測され証明されている)つまり10日で潮岬に流れ着く。
熊野に上陸し、陸行1ヶ月でヤマトに至る。
これが魏志倭人伝当時の邪馬台国へ至るルートである。 【伊都国】
伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。
伊都国の平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ないが、魏志に卑弥呼の王宮の下女は1000人とることと一致する。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都が分離されていたと考えられる。
伊都国には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む中国風山城(奈良時代は怡土城、戦国時代は高祖城と呼称される)があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。
アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓であると考えられる。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、
平原遺跡からはニニギが授かった三種の神器である八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。 卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけ。
結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。この時に吉備の勢力が大和入りしたんだね。
吉備の兵は他の国々の兵と共に纒向に駐屯。
これが纒向で伊勢尾張、吉備、丹波近江、大分の土器が出土する理由。
在来系の土器も勿論多数出土している。
纒向の南の芝遺跡は纒向と入れ替わるように弥生時代後期に消退するし、芝遺跡からも人々が纒向の営みに動員されたんだろうね。 281の>>401
「南→東」などのダマシの大和説は、ウソまみれだなー。 1世紀から2世紀初頭にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。それは当時の畿内の集落跡からの出土物からも裏付けられる。
同時期に栄えた伊勢遺跡。中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。立地的に畿内、伊勢尾張、北陸からアクセスしやすい場所だからね。
当時の倭国の仕組みが窺い知れるんじゃないかな。
男王を抱き、その元で首長達が集い祭祀を行い、政治を行う。 >>174
そうとするならば、
ちゃんとした史料に記されている根拠がなくてはいけない
それでなくてもわかっている範囲の中国の歴史を通じて
里は一里400mからそう逸脱した事はない
魏志に一文
「東夷には一里が6分の一の特殊な里があり
帯方より邪馬台国までの距離はこれを用いて記す」
とかあれば短里で魏志倭人伝が書かれたとしてもいいが
しかし周髀算経にあった記述から現在の数学を使って一里を割り出して
なので周の時代の一里は短里だったというのは
史料の扱い方があまりにも乱暴
理論的な論証のやり方とはとても言えない 1世紀から2世紀にかけて倭国の王は何処にいたのか?
ここからはあくまで個人的な推測。
倭人は海洋民族。倭人の本拠地が大和や内陸にあるとは考えにくいんだよね。
記紀にもあるとおり大和盆地はナガスネヒコなど様々な勢力が雑居していたと考えられるしね。
伊勢遺跡では銅の工房は認めているが、当時の畿内の鉄器生産が盛んなところは淡路島。
淡路島で作られた貴重な鉄器を利用しやすい、海に面した高台、丘陵が倭国の本拠地である可能性が高い。
クナ国、個人的には2世紀末までは大和、河内、和泉にまたがる国であったが、大和の地を卑弥呼側の勢力に奪われ、魏志倭人伝当時は河内、和泉であったと考えている。
クナ国に男王卑弥弓呼、官に河内彦がいるとある。
河内彦の所領は河内であろう。
残りの泉北丘陵とそれに続く上町台地は誰が支配していたのだろうか?歴史が消された場所。
淡路島の向かいにある上町台地〜泉北丘陵にかけてがクナの王卑弥弓呼の本拠地だった可能性はないだろうか?
大物主を祀ることになるオオタタネコがいたのが泉北丘陵の陶村。その近傍に卑弥弓呼がいた可能性はないだろうか?
上町台地の先端にある大阪城の下or泉北丘陵の巨大前方後円墳の下に何かあるかもね。 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。 宮内庁選定じゃなく、高槻のあたりにある「本当の継体天皇陵だろう」と言われる今城塚古墳からは、大量の埴輪が出土しているんだけど
その中に大王と近衛のほかに、何かをかざした巫女の1団らしい像が出てくるんだよね
太陽に向かって鏡をかざしている巫女達だろうと言われている
こういう像は他の古墳からも出土していて、古代の倭国の軍隊には兵の他にこういう巫女の一群が同行していた事が分かる
これが卑弥呼やアマテラスの原型だろうだよ 281の>>408
いまの「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者は、
大学や学会の上司命令で始めた人だろ。 魏志倭人伝に倭地には、100余国あると書いてある。
また卑弥呼を王として共立した国々は30ヶ国とも書いてある。
当時の日本列島は、統一までに程遠い状況なのが分かる。
言い換えると、女王国の周辺は敵対勢力、中立勢力だらけということ。統一国家へ向けての極々初期段階だということ。
全国平定に向け大きく動き出すのが古墳時代。
その先駆けが四道将軍。
四道将軍の主な派遣先、北陸、丹後半島、瀬戸内海。
それを考えると、卑弥呼の時代、日本海、瀬戸内海には敵対勢力と卑弥呼を共立した勢力が混在していた可能性が高いと思われる。
魏の使者を迎えるには、女王国ではない国々の影響を受けないルートを選ばないといけない。
果たして、日本海ルートや瀬戸内海ルートで魏の使者を安全にすなわち戦闘に巻き込まれるリスクなく迎えることが可能性だったのか? テンプレは、意図的に纒向遺跡に関する重要な事実を無視している。
◎纒向は、2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落。また発掘に携わった考古学者は、外部勢力の侵入を考えざる得ないとも言っている。
卑弥呼の居館域と推定される大型建物のある柵で囲まれたエリアだけでも、1.5haある。運動場を含めた一つの中学校位の広さはある。1000人の下女が勤めるには、十分なスペースはあるわな。
纒向遺跡全体でも3キロ平米、後世の京に匹敵する巨大さ。
湧水土壌であることを考えれば、民の住居は竪穴式住居の採用は難しかったんだろう。
高床式建物や掘立柱建物が延々と連なって建っており、住居や食糧庫だったんだろうね。
巨大古墳が幾つもあり掘りが巡らされており、鋤が沢山出土してることからも、多くの民が土木作業に従事していたのが分かる。
農業中心の集落跡とは違い、かなり特殊。いざ戦になれば、兵として駆り出される人々だったんじゃないかな。
◎纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
纒向は、ヤマトの地を征圧した兵と徴用された地元民が万単位で土木作業に従事した大集落。
卑弥呼は鬼道で民を纏める役割を担っていた。
さらに4世紀に突然消失し武器などの遺留物が無いこと(もぬけの殻)を考えると、記紀の四道将軍の記述と合致する。
◎纒向は、4世紀に意図的に解散し、民は兵として全国平定に駆り出されたと推測できる。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 元伊勢の分布は中々興味深い。
アマテラスとされる勢力。
伊勢平野から始まり、甲賀で拠点を構え琵琶湖方面へ進行、さらに伊賀で拠点を構え宇陀方面からヤマトに進行(2世紀末)。
甲賀や伊賀の元伊勢は、当時のアマテラスの勢力の足跡を訪ねた可能性も考えられる。
崇神の代以降は、丹後半島、吉備、紀伊、彦根→美濃に分布。
元々王と同床共殿であった天照大御神。
卑弥呼がいた纒向は、対狗奴国の前線基地。
王がいるのは本来勢力拡大の前線であった可能性が考えられる。
四道将軍。実は王の資格を持つ人々であった可能性もある。
つまりヤマトの地に残った崇神は、唯の留守居役であった可能性もある。
吉備津彦、丹波道主命、大彦の勢力が持ち回りで、王の地位についていた可能性もある。 【肥国】
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。
筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。
卑弥呼は肥国の山門の出身で、後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼はそれまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の天津国は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。
肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
ただし肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は必ずしも良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。 281の>>415
>卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と
狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、
吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。<
「南≠東」の嘘つきダマシだから、始めから×ね。 卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。
筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。
肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。
考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。
九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。
邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。
邪馬台国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。 【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣秀吉の淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の辺縁であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。 【狗奴国】
狗奴国王の名前は卑弥弓呼といい、卑弥呼と瓜二つである。
卑弥呼とはもとより不和であるとある。
倭国大乱は倭国の王位をめぐる争いのことである。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
このことから、狗奴国と邪馬台国は近縁関係であると推察される。
卑弥呼亡き後の争いは、狗奴国が筑紫に攻め上ったものであると考えられるが、壹與の共立によりこれが収まったということは、狗奴国も納得のいく人事であったということだ。
狗奴国熊襲は邪馬台国の南、熊本の勢力であるが、実質的には肥国の王家であり、肥前河上のヨド姫であれば熊襲の姫でもあるので狗奴国の納得のいく人事であった。
また、卑弥呼が筑後山門の出身であるならば、筑後も本来は肥国の一部に筑紫が膨張して張り出した部分であるので、卑弥呼とヨド姫も同属である。
壹與を邇邇芸の妃であり志賀島の海神の娘である豊玉姫に比定しないわけは、豊玉姫では狗奴国との争いを収める立場になれないからである。
後世には肥前のヨド姫は豊玉姫に習合されてしまうが、本来は別人である。
邇邇芸と神功皇后は天津神である筑紫王家、卑弥呼と卑弥弓呼と壹與は肥国王家、綿津見神と豊玉姫は豊国王家に属している。
いずれも連合国家である倭国を構成する中心的な王国である。 【鬼道と神道】
伊都国にあたる平原遺跡からは最大の銅鏡である八咫の鏡5枚を含む史上最多の40枚の銅鏡と、太刀と約2000個の玉、鉄器などが出土しており、三種の神器に相当する副葬品(鏡、剣、玉)が揃って出土している。
3世紀で最大の倭国の王位を象徴する八咫の鏡を用いた国家規模の祭祀に倭国の女王である卑弥呼が関わらなかったわけはない。
周囲には鳥居や御柱の跡も残っており、古代神道の形式が整っていたことがわかる。
これは3世紀においてすでに倭国には神道があったことを意味している。
ならば卑弥呼の用いた鬼道とは、中国人から見た神道そのものだったはず。
邪馬壹国は鬼道などの言葉の印象が強いため後進国のように思われがちだが、中国人から見た鬼道とは、神道の儀式を指していたと考えられる。
そして、その祭祀は畿内ではなく伊都で行われていた。
平原遺跡から出土した八咫の鏡の形式である内行花文鏡は、もともと紀元前から博多湾岸では多く出土し、漢の皇帝から王侯に冊封された証である威信材として用いられていたと考えられる。
内行花文鏡の文様は太陽を形取っていることから、天つ神としての太陽信仰の象徴として最適であったと考えられる。
漢の滅亡後に作られた平原遺跡では八咫の鏡を含めほとんどが国産の鏡となっており、漢から下賜された鏡よりも大きな内行花文鏡を完成させることで王権の象徴となったと考えられる。
後世においては、八咫の鏡を継承することが天皇位の証とされ、今日でも伊勢神宮と皇居で1枚ずつ祭られている。 【卑弥呼の王宮】
候補はいくつかあるが、いずれも魏の郡使が駐在する伊都国から遠くないことが条件となる。
・高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市の高祖神社が掲げる宮号。
糸島平野と福岡平野の間にある高祖山の南の峰をクシフル山と呼び、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮が記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城は高祖山・クシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂宮の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられ、平原遺跡からはニニギ王家の家宝である八咫の鏡が出土している。
平原遺跡は卑弥呼がいた3世紀の女王墓であり、卑弥呼が被葬者の最有力候補である。
・橿日宮
現在の香椎神宮。
卑弥呼の後継者となる筑紫の女王の一人として、景行天皇の時代に筑紫の梟帥の称号と八咫の鏡を持つ神夏磯姫(神橿日姫)がいて、その名からはおそらく橿日宮に住んでいたと思われる。
景行天皇の孫の仲哀天皇も橿日宮を拠点としており、代々の筑紫の王宮として用いられていたと考えられる。
魏志では不弥国に比定されることが多く、ここまでは距離が明記されているので郡使が往復したことは確実である。何のために往復したのかと言えば、卑弥呼に会いに行った可能性がある。
・高良宮
筑後一宮。高良大社や高良玉垂宮などからなる複合施設だが、後世の仏教との習合や神仏分離などの影響による。
近隣には卑弥呼もしくはそれに近い人物の墓と言われる祇園山古墳がある。
卑弥呼が筑後出身ならば、高良宮が元宮だったかもしれない。
伊都国までの移動は日帰りではやや厳しいか。
いずれの宮も聖地である山の西の麓にあり、王は太陽を背にして君臨したと考えられる。
これは倭国が太陽信仰をもとにした祭政一致体制であったためである。
その象徴となるのが王位の証である八咫の鏡などの内行花文鏡であり、平原遺跡に見られる鳥居や御柱などと合わせて、3世紀においてすでに神道が成立していたことをうかがわせる。
魏志において卑弥呼が用いたと記録された鬼道も、三種の神器や榊を用いた神道の儀式であったはずである。 魏書東夷伝韓条に韓(馬韓、弁韓、辰韓)は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と隣接していると記されている。 この記述が気になるね。
朝鮮半島南部の沿岸部の島々は、元々倭の領域だったのかもね。卜骨も出てるし、倭人の活動範囲だろうね。
さらに洛東江付近にある2世紀の鉄鉱石採掘跡。
日本列島の土器しか出ない採掘跡が見つかっている。
弥生時代後期には、中国本土からだけではなく日本列島からも人々が鉄を求めかなり活発に半島に進出し、日本列島に鉄をもたらしていたと考えられる。
どのような勢力がこの役割を担い、日本列島のどの地域、勢力と結びつきが強かったか解明しないといけない。 おかしな話ばかりでしょ、
探偵eyeというドラマとか 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 淡路島の鉄器製造跡(舟木、五斗長垣内遺跡)。
淡路島で利用された鉄は、
出雲→播磨東部、摂津西部→淡路島のルートで運ばれたことが分かっている。
製鉄跡は見つかっていないので、インゴットの形態で淡路島に運ばれたのだろう。
淡路島の鉄器製造は、2世紀末、卑弥呼の共立、纒向建設開始と時期を同じくして行われなくなる。 吉備に征圧されたのだろう。
広島の小丸遺跡。2世紀末〜3世紀の製鉄跡が見つかっている。たたら製鉄の始まりの可能性がある。
重要なのは、吉備ではインゴットからの鉄器製造ではなく、砂鉄からの製鉄が始まったこと。
ひょっとしたら、吉備はインゴットの入手ができない状況にあった可能性がある。 吉備の影響力が強い纒向。鉄貧乏で有名。
少し時代は下るが、鉄器製造が行われていた彦根の稲部遺跡。在来系の土器が主で在来系の勢力の集落跡と考えられる。
稲部遺跡から川を挟んで3キロ南の斗西遺跡。
吉備など纒向と似た土器構成。女王国の前線だった可能性がある。
吉備の影響力が強くなったエリアは、鉄のインゴットの入手が困難になった可能性が考えられる。
弥生時代後期、鉄鉱石の採掘、製鉄が盛んに行われていたのは、朝鮮半島である。
さらに洛東江付近にある2世紀の鉄鉱石採掘跡。
日本列島の土器しか出ない採掘跡が見つかっている。
弥生時代後期には、鉄を求めかなり活発に半島に進出し、日本列島にインゴットの形で鉄をもたらしていたと考えられる。
それは日本海側(若狭や出雲など)から、淡路島や琵琶湖北部もたらされていたのかもしれない。 あーあ九州説がとうとうコピペ連投荒らしと化しちまった
畿内説が追い詰めすぎるからだぞ? 281の>>419
>ない むしろ反邪馬台国だろう出雲は <
出雲から筑紫への搬入上納が沢山あるから、敵対していない。
>吉備と出雲が同じ銅剣を大量に作ってた時期を経て
倭国大乱の頃にはその銅剣連合が解消されている
倭国大乱のきっかけは吉備の出雲への下克上ではないか?<
分裂幻覚の妄想。倭国の瀬戸内の東征のため。
>倭国が出雲と吉備で割れたところに、畿内も狗奴国として東海阿波を従えて覇権を唱えだした
このあたりが卑弥呼の時代だろう <
「南≠東」だから、×。 かなり前の話になるけど、
信onというゲーム内に作成したキャラクター名
当時の風雲録 雑賀 卑弥呼共立、ヤマト征圧、纒向建設の主力である伊勢尾張、吉備。
倭国大乱前の纏まっていた旧倭国の体制に謀反を企てたのかもしれない。
鉄の分配に不満があったのか今のところ理由は不明だが、
結果として、3世紀吉備の影響力が強いエリアは鉄貧乏に陥っている。
朝鮮半島の鉄を求め、吉備は2世紀末〜3世紀にかけて九州北部征圧に動いた可能性がある。
畿内の中心(河内、ヤマト)を支配下に置いた4世紀。本格的に朝鮮半島への進出が始まる。 纒向で一番多いのは在来系土器。
外来系土器で一番多いのは伊勢尾張。次は吉備。この二地域が大部分。
九州東部(北部ではないw)の土器は少量。
記紀等でヤマトの地は、一見九州勢力に征圧された(神武東征など)ように書かれているが、考古学的事実はそうではない。
事実は、伊勢尾張の西征、吉備東征だろう。卑弥呼共立で伊勢尾張の勢力と吉備が手を組んだんだろう。
伊勢尾張、吉備両地域とも下戸遺伝子が色濃く分布するエリア。
倭国大乱の名の通り、ヤマト征圧は倭人同士の内乱の一場面なんだろうね。
伊勢尾張、瀬戸内海の吉備に挟まれた地域。
河内やヤマト。ここが卑弥呼と対立する卑弥弓呼の支配域。狗奴国。
神武東征の逸話にも残るように、ヤマトへの侵攻は瀬戸内海側からは紀伊半島へ迂回。
すなわち狗奴国の本拠地河内を避けたんだろうね。
もう一つ、ヤマト征圧には伊勢尾張の勢力が大きな役割を果たしたと思われる(むしろ主力)が、記紀では神武にのみ焦点が当てられている。 纒向は、卑弥呼がいた大集落。
邪馬台国はヤマト国、大和盆地一帯だな。
狗奴国から奪った地であり、対狗奴国の一時的な前線基地。
元々はそれだけの意味しかない。
民を教化し、王に忠誠を誓うようにするのが卑弥呼の役割。
纒向は、巨大な兵の駐屯地であり、民が住む大集落であり、教化システムでもある。
古墳時代にこの兵を使い全国平定を進めるんだな。(四道将軍)纒向が4世紀に突然消失し、武器が殆どでないのも説明がつく。もぬけの殻。
博多の一大率も、ミニ纒向みたいなものだろう。 1世紀後半〜2世紀後半の伊勢遺跡。
やっぱり重要だな。
出雲や、富山石川など越の影響が強く見られる建物もある。
円形に並んだ建物が30棟。中心に水の祭祀を行う施設。
畿内を中心に北陸など広範囲に跨った首長連合があった可能性がある。
クニの始まりの可能性があるね。
北陸は古墳時代の四道将軍の派遣先。
卑弥呼、そしてその流れを汲む初期ヤマト政権。実は倭国大乱でクニに対して謀叛を起こした勢力だった可能性も考えられる。 281の>>424
>邪馬台国が畿内説で確定すれば、必然的に南は東の間違いだ
この論理になんか問題あるか?<
邪馬壹國が大和だ、という証拠は全くないが、
文献考古共に、邪馬壹國は筑紫だ、という証拠ばかりある。 大和の地が卑弥呼側の勢力に制圧された後(2世紀後半以降)の、
狗奴国の版図は、河内、和泉。
卑弥呼側の勢力と狗奴国の対立はどういう結末を迎えたのか?
孝元天皇は(台与の時代か)、河内青玉繋(河内彦)の娘である埴安媛と血縁を結び、武埴安彦命が生まれる。血縁を結ぶことで、狗奴国と和睦したと考えられる。
問題なのは、この和睦が河内彦中心に行われたと考えられること。
狗奴国王卑弥弓呼&その正統はどうなったのか?
謎だな。
和睦の前に狗奴国内でクーデターがあり、卑弥弓呼の系統は抹殺されたのか追放されたのか、逃亡したのかもしれない。
何れにしても、狗奴国の正統は饒速日(実在も怪しい)ではないんだろうね。 纒向と伊勢遺跡には、大きな違いがある。
纒向は柵で囲まれた居館エリア以外は、掘立柱建物や高床建物が立ち並び民の居住空間と考えられる。首長達が居住していたと考えられる館は見つかっていない。
発掘した考古学者の言葉を借りると、2世紀末に突然現れ4世紀に突然消失した【大集落】。
魏志倭人伝においても、卑弥呼は鬼道を行い衆を惑わすとあり、民に向けて祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う祭りに近い。
一方、伊勢遺跡は30もの首長達が寄り合い、その中心で祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う政治に近い。
卑弥呼の役割を考えると、伊勢遺跡が卑弥呼の勢力下にあったとは考えにくくなる。
日と月。
伊勢遺跡の水の祭祀。夜に行われていた説もある。 281の>>432
「南→東」などのウソ付きダマシの
大和説という「結論先にありき」人種は、
皇国史観カルト宗教。 わかりやすく言うと、
当時、もれ(仮)が作成したキャラクター名
カブキでしょ 281の>>433
>魏志倭人伝の卑弥呼に関する記述、纒向の状況、このイメージにぴったりだな。
民や兵を祭祀で教化し纏める。 <
「南≠東」だから、×。 倭→大倭→大和
どれもヤマトとは読めない。
大阪湾側から見て、
河の内側にある土地が河内。カワチ。
山の外側(向こう側)にある地がヤマト、山外。
これがヤマトの本来の意味じゃないかな。
記紀でもヤマトの名を色々小細工したりいくつも名付けのエピソードを入れているのは、ヤマトの本来の意味を隠したかったんじゃないかな。
本来の意味がわかれば、名付けの主体が何処にいたか一目瞭然になるからね。 国生み神話は、元々は淡路島、大阪湾から始まった倭人の勢力拡大の話かもしれない。
八十島祭りと関係あるのかな。 現実の話
兄 弟(もれ)でしょ?
妹 5月15日生まれ
これは、かなり凄い話だよ 『松傾』
松の木(モミ?)の立てられていた写真とか、
どういう事なんだろう
数年前(震災後)に聞いた話
老婆「川俣町に東福沢、西福沢だったかな、というところがあって」 あーあ畿内説がとうとうコピペ連投荒らしと化しちまった
九州説が追い詰めすぎるからだぞ? 家の家族のなかでは、
老婆だけが知っていたことなのかな
震災後、北斗の拳【再】を観ていたり >>229
それ>>212で九州説が言われてたよね
言われてよっぽど口惜しかったの? >>229
キウス、お前がやってるのはバレてるんだぞ 九州説をコピペ荒らし化させたから畿内説の勝ちでいい? 『デスラー』
家の先祖、このような服を着ていない? 纏向とは
前代未聞の巨大祭祀空間で祭事以外に
ベニバナ染色工場や ベニバナとバジルとの漢方薬製造工場の運営をしていた
また、これらの工員とは別に
土木作業員が居て、巫女1,000人が居て、兵士が居たんだって
スゴイ都だな 『山守』?
調べてみると、林業、酒樽・・・その事が書いてあるでしょ? 瀬戸内海で、どうやったら
方位を南➡東と誤認するのか?????????????? 九州説や東遷説に
もうマトモな話のできる人材が残ってない
というのは
結果として畿内説の勝ちでを表してる状況
ということでいいがね 山の上のほうに住んでいて、
凄い土地を持っていた。
近代の話だと思う、泥棒のようなものに入られた、と言っていたり 畿内説の連投の方が多いと思うぞ。
まあ、テンプレほどではないけどな。 281の>>448
>まず方位・・・誤記か誤写でよし、これを覆す根拠なし <
誤記の確率は、0.5%以下であり、
周髀算経と周礼に太陽で東西の決め方が書かれているから、×。
>べニバナ・バジル・・・大陸との交流の証 <
交流の年代が卑弥呼の頃ではないから、×。
>次、宮内庁・・・・宮内庁の仕事に邪馬台国は含まれていない、皇国史観は畿内説と関係無い<
宮内庁を管轄する安部自民政府や、役人や文部省や学会や右翼マスコミが、皇国史観である。
>次、伊都説・・・・行程を畿内説に振るのもいいが宣伝だけ、畿内説と関係無い<
尚方作の21個の方格規矩鏡は、魏帝→卑弥呼の鏡が元になっている、という事の証拠。 281の>>450
>次 距離・・・どの説も正解なし 邪馬台国論争の決定打ならないから議論しても無理<
行程移動里数の合計と「自郡至女王國萬二千餘里」との一致や、
「計其道里、當在會稽東治之東」が、九州説の決定打。 >>249
方位を間違えるほど頭は悪かったが、夜間の航海技術は優れてたんだよ 遊んでもいいが、真面目に答てくれ
瀬戸内海で、どうやったら
方位を南➡東と誤認するのか?????????????? 281の>>454
>次 三角縁神獣鏡・・・国産でもなんでもいいが、大陸の匂いだ、多く出土するのは畿内中心<
洛陽から全く出土しないから魏朝の鏡ではない。
三角縁も神獣鏡も、呉付近や楽浪付近で盛行したものであり、
それが合わさった三角縁神獣鏡が列島に大量に出土した、という事は、
呉系楽浪鏡師群が列島で三角縁神獣鏡を造った、という事だ。 さーな
誤認じゃなくてわざとかも知れないし
推察する手がかりもほとんどないから何とも言えない 281の>>455
>次 炭素年代法・・・・・科学的だが問題も多いのは承知だが
現段階の結果を無視しちゃいかん<
AMS法が、ベータ線法に比べて2〜3割古く出る事は、判っているから、ベータ線法の結果を基にして、AMS法の結果を補正すればよい事。
>異論があれば、伊都国の遺物で炭素年代法で測定しろ<
ベータ線法か、AMS法の結果を2〜3割新しく補正して使え。 281の>>457
>次 記紀による東征・・・・文学でやれ歴史に持ち込むな <
半分偽史書の記紀や伝承的史料などであっても、
個別情報に史料批判をして、客観性や信頼性の確率を推定して、
信頼性の高い情報は、帰納的推論根拠に使わなければならない。 281の>>462
>卑弥呼の居館域と推定される大型建物のある柵で囲まれたエリアだけでも、1.5haある。運動場を含めた一つの中学校位の広さはある。1000人の下女が勤めるには、十分なスペースはあるわな。
纒向遺跡全体でも3キロ平米、後世の京に匹敵する巨大さ。 <
大きさでも弥生銀座にはるかに負けているし、
都にとっては最も必要な肝心の「住居跡」が全くのように存在しない。
だから勿論、「以婢千人自侍」事が出来るような巨大な建築もない。 >>262
有名な異常者だよ
さいきん他の掲示板で出入り禁止になったらしくてここに居着いた迷惑後期高齢者だ 281の>>474
>菊池は年代考証の裏付けなし はい 次<
「其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗」や
「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」や、
菊池の弥生からの発掘物や、江田船山や、
松野氏姫氏系図での「火の国山門」や「熊襲王ら」の記載。 他のスレにも書いたけど『本物』だよ。
探偵eyeの主人公「リン、リン。凛々しいからリン」と言っていない? 281の>>488
>畿内説でも九州説でも無い 神を信ずるか信じないか程度の質問するな ハイ次<
ほら、この男は、
「畿内説」という「大和→畿内」の拡大のインチキ文言を使ったから、
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者であった事を、
ついうっかりバラしてしまった!。
はい次。 妹でしょ、かなーり前から、家にはいないと言っているはず、結婚したんだよ
いま家にいるのは父 母 兄 弟(もれ) ザラコクは
ほとんど無内容のレスを延々と畿内説の意見に
(反論を受けないよう1スレ跨いで)つけて
あたかも九州説が畿内説を論じ負かしているかのごとく
装うのを自分の使命としている異常者
レスの内容はとうの昔に時代遅れになった説であったり
新発見によって覆った説を平気で採用するので
たびたび間違いを指摘されるも自分に都合が悪い事は
全く取り入れないので
いつまで経っても同じ間違いをくり返してはまた指摘される 何の話なのか、わからないけど
なぜか弟?髪の毛の色が白、銀、灰色のようになったり、
ウラシマンの話じゃないの? >>240
>
瀬戸内海で、どうやったら
方位を南➡東と誤認するのか
<
☝
またまた畿内説が論破されてしまったなWww 銀?
その家に凄い刀があったんだよと言っているけど、
実際は、もれ(仮)の家と同じ意味だと思う
たしか銀▢とかいう名前だったよ(老婆談) それと『ボーボボ』だよ
ググると忍者漫画の画像も出てくる、同じようなコンセプトでしょ?
髪の毛の色が・・・変化 >>273
そんなもんで論破したとか自画自賛がすぎるキウス よくわからないけど兄、弟がいて
弟じゃなかった?毛の色が変化するの 謎の伊達郡川俣町という掲示板
「ナンチョウ、ナンチョウ」と言っている人がいたり キャラクター名のアマクサ、
ウマヤドのような話だと思う wiki『naruto サイ』
サルのような面が載っていたり、山王? ポケモン、モンハンというゲーム、ロトの紋章も同じ
例えば『▢▢力夫』画像
ググればわかる 『naruto サイ』
白猫が何やらと書いてあったり
サザエさんで言うとタマ? タイやヒラメの舞い踊り
サザエさんなのか、それともイソタケル? >まず方位・・・誤記か誤写でよし、これを覆す根拠なし <
畿内説ってのはマジでこんな事言ってるの?
從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里
始度一海千餘里、至對馬國
又南渡一海千餘里、名曰瀚海
又渡一海千餘里、至末廬國
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳
と、言いつつ
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種
とも書いてある
帯方郡から南方へ移動して九州に着く
その先は詳しく書けないが東の方にも倭種の国があるよって事でしょ
魏使も編纂者も列島と半島の地理関係は把握してるじゃん
里程だって
自郡至女王國、萬二千餘里
その内帯方郡から末廬國まで計一万余里
残りは對馬國から末廬國までにみたない距離で至女王國
簡単な足し算だがその位って認識なんだろう
誤記だの誤写だの言えるんならどこだって邪馬台国に出来る 少しおかしいよな、畿内説
方位について誤認や誤情報なら
丹山だって誤認や誤情報の可能性あるよな
径百歩しかり
畿内説はご都合主義と言われてもしょうがないよな >>290
誤情報だとする根拠が有るか、無いかの差でしょ
281の>>508
>それはありえないな 大体一寸千里は計測値ではなく想像の数値だろう <
想像で、そんな多種類の数値を書き分けられるものではない。
また、倭人からの伝聞では、倭人は「里」を知らない。
という事は、魏の役人たちは、「概数」の計測をしている事になる。
>数字のキリが良すぎる<
有効数字1桁概数値の計測だ、と言える。
>南北千里の距離で影の長さの差が丁度一寸なんて 自然の中に存在する数値がこんなに都合よく一致する
確率はほぼない <
有効数字1桁の範囲内では、自然の地理的里数と合致しており、正しい確率が十分にある。
>これを基準にして周は度量衡を定めたというならともかく
なので、周牌算経に一寸千里とあったからといって 周の時代の一里75mだった、
という事の証明に する事はできない <
逆だ。周代に既に、一寸千里を始め、簡易三角測量や歩測の計測法があった。 281の>>510
「南→東」などの嘘吐きダマシの詐欺大和説に、未来なし。 281の>>514
「南→東」などの嘘吐きダマシの畿内スレを張り付て、
延々とバカ丸出しの事を喚き続けてるヤマトセツ者を見てると、
こういう基地外にはなりたく無いもんだと思えるわ 。 281の>>522
>短里は欺瞞が多すぎる<
短里は、周髀算経や魏志などの史料に見られる史料実態。
「長里だけ」説では、欺瞞が多過ぎる。
>周の時代に使われていた尺度だそうだけど
それの一里がどのくらいの距離かわからないから
周の時代のものという触れ込みの 漢の時代に書かれた周髀算経の中にある<
周の周公旦の頃の記載から始まっている周髀算経は、
始皇帝の焚書坑儒もあってかなり散逸したので、漢代始めに一旦収録され、
更に後漢末に再収集されて注釈も付けられた。
>八尺の棒の影の長さが 南北千里で一寸の差が出るという話を元に現在の知識で計算したら一里75mになったと
そもそも、周の時代の尺度がわからないなら 一寸の長さも八尺の棒の長さも何もかもわからないだろうに
どうやって割り出したのか不思議でしょうがない<
周尺の定規は出土している筈。 281の>>526
「南→東」などの嘘吐きダマシの・・・・ヤマトセツって、
よくこんなにバカで生きていけるな 。
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだな。 281の>>533
>そもそも周の時代の一尺はいくつだったん
今わかってる中国の歴史内では一尺は大体15〜25cmくらい <
周の尺定規が出土していた筈。
>短里は普通の里の6分の1ぐらいと九州説がホラを吹いているから それを元に直してみると
周の一尺は3〜4cmくらい?すると一寸は10分の1だから3〜4mm?<
尺寸系の長さは、ずっと余り変わっていない。
里歩系の方が地域で差異が大きくあって、始皇帝に拠って「1歩=6尺」の換算規定が命令された。
>一寸千里が実測だとすると3〜4mmの影の長さの差を 計測したという事になる
これはほとんど誤差<
ならない。1尺≒25cmだから1寸≒2.5cm。
>それに短里で計算すると八尺は24〜32cm <
ならない。1尺≒25cmだから8尺≒200cm=2m。
>千里は75km 影の差が3〜4mm これは多分計算するとそうはならない <
影差は約2.5cm。 >>291
方位について畿内説に根拠あったっけ
特に瀬戸内海での方位 281の>>535
>魏志倭人伝から割り出すと
一里40m〜180mくらいになるらしい <
魏志倭人伝から割り出すと 、
現実の地理的距離は、全て、
1里≒76.5mでの「有効数字1桁近似くらい」以内になる。 ベニバナ花粉、バジル花粉
バジルはやりすぎだな
3世紀から 江戸期まで バジルが日本から消えた根拠を示せないよ
だれだよ、ばらまいたの 281の>>536
>>千里は75km <
詳しくは、谷本計算では、76.5kmの方が近い数字。
>魏志倭人伝の中の距離にピッタリだな。 ついでに卑弥呼の墓の百歩も計算してくれ。
平原遺跡の大きさになるから。<
1里=300歩だから、百歩は1里の3分の1であり、
76.5mの3分の1は、25.5m。 281の>>537
>すれ主も このくらいの裁量があれば2ちゃんで騒ぐ必要ない <
スレ主も「南→東」などの嘘吐きダマシの皇国史観の脳の異常者であるから、
このくらいの裁量も当然なく、2ちゃんで騒いだアホであった。 バジルは漢方薬として優秀
纏向が初期ヤマト政権で無いことの証拠
こんな優秀な薬草を江戸期まで後世に伝えないわけが無いからね
ゴッド ハンド ?????? 281の>>538
>ピッタリになるように作り上げられた数字で計算したから そうなるに決まってる<
逆だ。
古田さんは、始めは魏志倭人伝の里数記載から、
「1里≒75〜90mの間で、75mに極めて近い」
という帰納的推論をされた。
>むしろピッタリなら逆に怪しいわ <
古田さんは、始めはピッタリではない、とされた。
しかし谷本計算が76〜77mという数字を計算されて、
古田さんの言われた「75mに極めて近い」という事にピッタリになった。
>長い距離を正確に測る方法も無かった時代に<
一寸千里や三角測量や歩測などがあった。
>つまり短里は九州説に都合のいい様にでっち上げられた尺度<
短里は、史料記載実態から帰納的な推論に拠って得られた里。 281の>>542
陳寿は大和説のために魏志倭人伝を書いたわけじゃないぞ。 ベニバナが消えた300年
バジルが消えた1300年
これが説明できなければ、年代比定の間違いか捏造と言われても仕方ない畿内説 >>299
無い
畿内説は、畿内に邪馬台国ありきから始まる宗教 ベ ニ バ ナ が 消 え た 3 0 0 年
バ ジ ル が 消 え た 1 3 0 0 年
これが説明できなければ、年代比定の間違いか捏造と言われても仕方ない畿内説 瀬 戸 内 海 で、 ど う や っ た ら
方 位 を 南 ➡ 東 と 誤 認 す る の か 畿内から出るのは魏志倭人伝に記載されていないものばかり。
邪馬台国にあると記載されているものが何も出ない纒向。 畿内説というカルトが跳梁跋扈している。
これは歴史の捏造、歪曲だよ。 バ ジ ル は 漢 方 薬 と し て 優 秀
纏 向 が 初 期 ヤ マ ト 政 権 で 無 い こ と の 証 拠
こ ん な 優 秀 な 薬 草 を 後 世 に 伝 え な い わ け が 無 い か ら ね
ベ ニ バ ナ 染 色 も な (・_・D フムフム
早朝から畿内説がまたもやピンチ 畿 内 か ら 出 る の は
倭 人 伝 に 記 載 さ れ て い な い も の ば か り。 >>1
>中国文化が急速に浸透する<
そしてすぐにその文化(文明)は消滅する??
政権が変ろうと、有益な文化(文明は)は継承・発展するのが歴史の通説なんですがね。
特にベニバナ染色やバジルの漢方薬の技術なんかはね ベニバナとバジルの花粉は
九州説がイヤガラセにばら撒いたと思う これまでも、畿内説は桃の種とか魚の骨があったから、ここが卑弥呼の神仙思想の都だと主張していた。
でも、そんなことは魏志倭人伝には記載されていない。 そもそも纒向日代宮は景行天皇だから4世紀。
箸墓の年代比定も不明点が多く、他の小さな前方後円墳に先行して大きな箸墓が作られたことになってしまっている。
そうすると、纒向に邪馬台国があったという根拠など何もないことになる。 >>318
自分達で、ばら撒いといて
九州にフルとは言語道断 巻向からは木と土器しか出てこないと思ってたが桃の種や魚の骨も出てたのか
それは女王の都にふさわしいな 纒向で検出されたバジルの花粉は江戸時代に伝来した現在のものとは違う まあ、人間が住んでいたことがわかるという程度の田舎だよね。
海運による主要交通路から外れているし、沼地だらけで耕作地がなく、まともな金属製農具もない。 ヤベー
バジルはやりすぎたな
テンプレでも隠しておいたのた >>329
畿内説が、あったという根拠を示すべきでは? 平城京跡の土坑からも纒向遺跡とは種が異なるメボウキ属の花粉が検出されている >>329
纒向が、邪馬台国ではなかった根拠を説明しているのに、理解できないアホ発見。 纒向には結局、魏志倭人伝にある下女千人の住居はなかったんだよね? 纒向で検出されたベニバナ、バジルは栽培されたとは考えられていない >>328
雨森も隠していたよ
対馬あたりの誤認を瀬戸内海に持ち出すし
支離滅裂 281の>>545
「南→東」などのウソ付きダマシのように、
魏志や周髀算経などを、大和説者は、
自分の都合のいいように好き勝手に読み替えるから困ったもんだ。 281に>>546
皇国史観ヤマトセツって、
よくこんな「南→東」などの嘘つきダマシのバカで、生きていけるな 。
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだし、
こんなやつが権力を握ったら、国民はあっという間に、
人種差別的殺し合い戦争を、やらされてしまうんだろうなあ。 281の>>550
>もう明白じゃん
銅矛圏=邪馬台国
銅鐸圏=狗奴国
出雲、吉備=中立国<
狗奴国は、「南≠東」だから、×。 281の>>555
>邪馬台国論叢で行程はどうでもいいと思うよ
北部九州まで使者が着いたのは各説とも確定だが、その後は闇 <
「闇」ではないねえ。
人類の常識や、古田さんの行程移動記載の原則の「順次式」に従えば、
「闇」ではなく、邪馬壹國は「不彌國の南にほぼ接している」という事が明らか。
>後は倭人伝に基く物証だよ<
考古的物証でも、ほぼ全て筑紫で確定的。 >>341
>古田さんの行程移動記載の原則
古田さんって野球の?
川西出身でID野球の申し子と言われた人だね。
奥さんがアナウンサーだね。
古代史と全然関係ないのだが。 281の>>559
皇国史観ヤマトセツって、
よくこんな「南→東」などの嘘つきダマシのバカで、生きていけるな 。
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだし、
こんながキョクウの皇国史観ヤマトセツ者の・・・・が権力を握ったら、
国民や子や孫もあっという間に、 人種差別的殺し合い戦争を、やらされて、
殺されてしまうんだろうなあ。 281の>>564
皇国史観ヤマトセツって、
よくこんな「南→東」などの嘘つきダマシのバカで、生きていけるな 。
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだし、
こんながキョクウの皇国史観ヤマトセツ者の・・・・が権力を握ったら、
国民や子や孫もあっという間に、 人種差別的殺し合い戦争を、やらされて、
殺されてしまうんだろうなあ。 281の>>567
>東に55ヵ国、西に66ヵ国を征服してる つまり拠点は日本列島の真ん中あたりにあったわけだ
北部九州なら西に攻める場所がないだろ <
「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」だから、
西の「衆夷六十六國」は、
昔の内に既に「服属」していた事になるので、
(東征する必要がなかった)九州全域の事。 >>345
なぜ?
西に攻めて征服したんだから九州が拠点ではおかしいだろ 281の>>573
>博多湾沿岸は後期の広矛というのはわずかしか出ない<
筑紫では、(東方の倭種に先駆けて)主要武器が、青銅器から鉄器に変わりつつあったから。 >>336
雨森を隠していたってなんのこと?
意味わからん
対馬あたりの誤認を瀬戸内海に持ち出すって、どういう意味?
一体なんのことを言ってるの?
支離滅裂 >>310
するどいw
瀬戸内海は東に進まないで沿岸航行すれば島を周回して終わるwww
航路には目標物となる島や山や半島が有って、それを右に見るか左に見るかは重要だし
本土や四国の全体像と停泊、補給港の地名を知らずに進めるものではない。 281の>>574
>当時の中国の一里は400m<
一里は400mは、周代では、秦の度量衡だったから、始皇帝が強制した。
そして周代と魏西晋代は、公的は1里76〜77mの短里。
>一里75mなんて中国の歴史の中で使われていた試しがない<
周代と魏西晋朝は使った。
>それでピッタリとかいわれても
ピッタリになるように都合のいい数字当てはめたんだろうたんだろうというだけの話<
周代の周髀算経などや、魏志などは、
史料事実であり史料実態。 281の>>577
>当時の計測でピッタリになるのは逆に怪しい <
始めから有効数字1桁概数での記載であり、
古田さんも「75m〜90mの間位で、75mに極めて近い」という判断であったんだから、
ぴったりではなかった。
>そもそも魏志倭人伝の一里の長さが場所によって40mだったり 180mだったりするから
それでピッタリになるわけがない <
有効数字1桁の近似値記載であるから、その限界以内であり、
「40mだったり 180mだったり」した恥がない。
せいぜい55mから100m位の間。 281の>>578
>畿内や出雲と同じ文化グループに属する博多湾沿岸では<
鉄鏃のホケノは、筑紫よりも50年以上遅れたし、
出雲は、筑紫とは「同じ文化圏」では全くない。
>広矛の祭祀をやっていないということ <
鉄器に変わっていったから、広矛は実用武具ではなく、威嚇用になった。 281の>>579
>いや一里200mくらいにすれば合うんじゃね <
合わないよ。
2〜4倍位狂うよ。 281の>>580
皇国史観ヤマトセツって、
よくこんな「南→東」などの嘘つきダマシのバカで、生きていけるな 。
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだし、
こんながキョクウの皇国史観ヤマトセツ者の、怖い醜い顔の・・・・が権力を握ったら、
国民や子や孫もあっという間に、 人種差別的殺し合い戦争を、やらされて、
殺されてしまうんだろうなあ。 281の>>582
>畿内説がなぜ一里200mの中里とかで計算すれば
1万2千里が畿内になるとか言い出さないのは
それが中国の歴史上使われていた証拠がないから
しかし九州説は平気な顔をして歴史上使われていた痕跡のない 短里とか言い出す <
短里は、周髀算経や周礼や淮南子や、魏志や他の中国史書群や海賦や江表伝などの史料実態であり、
書紀などでも使われている。 >>335
裁判関係無いな、
どう使っていたかだな
染色、漢方などの有用な使い方なら、空白な時代は無いな
バジルなんて江戸時代まで出てこない 281の>>586
>基づけば一里75mは間違いなんだが<
間違いではなく、(大和説者が大嫌いな)史料実態。
>わかる範囲では一里40m〜180m <
全て、有効数字1桁近似に当てはまる範囲。
50〜110m位以内。
>すなわち距離は不正確でアテにならないし<
九州と大和との比較なら、十分に根拠になる。
>それがピッタリ九州を指していようはずがない<
筑紫で、「自郡至女王國萬二千餘里」が有効数字1桁の精度で、ピッタリ合う。 >>356
裁判( ^∀^)栽培
どうでもいいよ、意味通じてる( ^∀^) 281の>>587
>それじゃ一里400mだな 何だ畿内説でも計算合うじゃん <
「自郡至女王國萬二千餘里」や「計其道里、當在會稽東治之東」とは全く合わないし、
「南」にも全く合わない。 >>1
腐れ神ザラコクの受け皿になってくれてありがとう。
この男がtextream掲示板を去ってくれてどれだけスカッとしたかw 281の>>589
皇国史観ヤマトセツって、
よくこんな「南→東」などの嘘つきダマシのバカで、生きていけるな 。
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだし、
こんながキョクウの皇国史観ヤマトセツ者の、怖い醜い顔の・・・・が権力を握ったら、
国民や子や孫もあっという間に、 人種差別的殺し合い戦争を、やらされて、
殺されてしまうんだろうなあ。 >>352
威嚇用だから「広矛」なんだよな
太陽の光が反射してギラギラすることが威嚇になる 荒神谷に埋められた銅剣は細いタイプだったから売れずに残りまとめて捨てられた
武器用なら鉄つかうしな >>361
九州説って、こんな悪口ばかり言ってるのか 281の>>594
>とにかく律歴志という度量衡の解説書と出土した基準尺というモノサシから確認された中国の歴代の度量衡は
どの時代もだいたい一尺約20cm <
尺定規はの長さは、中国では、大きな変化は殆どない。
>一歩約140cm 一里約400m <
ここでこの男がインチキをやっている。
周髀算経や周礼や淮南子が記載した一寸千里では、1里≒76.5m。
1里=300歩だから、1歩≒25.5cm。
>一里75mの短里は律歴志、基準尺のどちらもないから 存在したとは言えない <
律歴志は、周髀算経や周礼や淮南子の一寸千里の法の度量衡の史料実態が理解出来ず、
始皇帝の「1歩=6尺」の規定しか存在しない、としか考えられなかったアホ学者であったから、
そんなものは、根拠にならない。 281の>>601
「短里存在の史料実態」は、40年くらい前に結論づけられてるのに、
いまだに「存在しない」と主張する、皇国史観大和説のアホな奴がいるもんだな。 281の>>608
皇国史観ヤマトセツって、
よくこんな「南→東」などの嘘つきダマシのバカで、生きていけるな 。
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだし、
こんながキョクウの皇国史観ヤマトセツ者の、怖い醜い顔の・・・・が権力を握ったら、
国民や子や孫もあっという間に、 人種差別的殺し合い戦争を、やらされて、
殺されてしまうんだろうなあ。 >>366
淮南子が記載した一寸千里が1里≒76.5mだってのはウソだね。 281の>>609
>北部の端っこ辺りの不彌国の次に水行とあるから
少なくても北部を通り過ぎて船出するのは間違いない<
その「水行」は、投馬國の説明だが、
それには「途中の移動があった事を示す動詞」が書かれていないので、
投馬國へは移動しておらず、側副傍線行程の記載であり、
「至」だけでは「四至」の方向を示すだけの記載になるので、
「南の方向になる」というだけであり、
その後に書かれている「水行二十日」は、
「水行でなら二十日かかる」距離にある国だ、という説明になる。 281の>>614
>畿内説にも弱点はある。他説もしかり <
同じにして誤魔化してはいけない。
大和説はほぼ100%弱点ばかりであり、
九州説は、弱点は余りなく、
古田説は、ほぼ100%、誤りがない。 281の>>615
皇国史観ヤマトセツって、
よくこんな「南→東」などの嘘つきダマシのバカで、生きていけるな 。
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだし、
こんながキョクウの皇国史観ヤマトセツ者の、醜い怖い顔の・・・・が権力を握ったら、
国民や子や孫もあっという間に、 人種差別的殺し合い戦争をやらされて、
殺されてしまうんだろうなあ。 281の>>517
>九州説 考古学者が誰も言わない「考古学的に明らか」を言い張る痛い人<
考古学者の言う事には、
発掘史料事実や実態の説明と、その発掘事実に関する解釈説明があるが、
日本の考古学者は、
発掘史料事実や実態の説明は、ある程度「考古学的に明らかだ」と信用出来ても、
発掘事実に関する解釈説明は、
皇国史観での「南→東」などの嘘つきダマシの「結論先にありき」の大和説での解釈であるから、
全く信用出来ない。 >>373
自分に都合の悪いことは何でも皇国史観とレッテルを貼って攻撃か・・・
でもホントは、皇国主義なのは九州説でしょ 281の>>618
>そもそも短里の存在そのものが確認されてないんで 学会が取り上げないんだろ<
「短里の存在」は、「南」などと同じく、史料実態そのものなのであり、
それを取り上げない学会、いうそのもの自体が、
おそらく右翼皇国史観での「大和説先にありき」の脳の病気の・・・・集団。
>論文なら篠原俊次という人が書いた<
篠原も、おそらく宗教思想での史料実態を否定する・・・・。
>「一寸千(短)里」説批判というのがあるな もっと他にも批判してた本があったけどタイトル忘れた <
この男も、おそらく篠原らと同じ穴の貉。 281の>>622
皇国史観ヤマトセツ者って、
よくこんな「南→東」などの嘘つきダマシのバカで、生きていけるな 。
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだし、
こんながキョクウの皇国史観ヤマトセツ者の、醜い怖い顔の・・・・が権力を握ったら、
国民や子や孫もあっという間に、 人種差別的殺し合い戦争をやらされて、
殺されてしまうんだろうなあ。 >>374
主義主張のいかんによらず、歴史の歪曲は許されないよ。
畿内説は言い張るばかりで根拠がない。
特に魏志倭人伝そのものを信用ならないと言いだしたら、邪馬台国論争そのものが無意味になる。 >>374
アレレ
スレ主は、ヤマト王権と邪馬台国はイコールなんだが >>374
アレレ
スレ主は、ヤマト王権と邪馬台国はイコールなんだが 瀬戸内海で方位を間違えル畿内説の
脳味噌が腐ってるのだ 281の>>624
>行程記事は使わないって言ってるんだろ <
史料事実や史料実態を使わず、それから逃げる学者は、
「南」という史料事実を否定曲解する嘘つきダマシの・・・・サギシだ、
と言ってるだろ。 281の>>627
>うん 確認した人はいないな<
確認以前に、
短里での記載があった、という事は、
史料実態なんだよ、・・・・サギシさん。 281の>>631
>魏志倭人伝に書いてねーから 書いてあるとすれば律歴志
もちろん短里が記載されている律歴志は存在していない <
周髀算経や周礼や淮南子などの「一寸千里の法」の史料実態を、
理解できなかったアホな律歴志の説明は、
何の価値もなく、論拠にもならない。 インチキ歴史家の河合敦は畿内説で確定なので歴史の教科書がかわるとか
ふざけたことを言っている(実にけしからん 281の>>632
>もう明白じゃん
銅矛圏=邪馬台国
銅鐸圏=狗奴国
出雲、吉備=中立国 <
狗奴国が、「南≠東」に違反するから、×。 >>382
>確認以前に、
>短里での記載があった、という事は、
>史料実態なんだよ、・・・・サギシさん。
いや、誰も
あったって
確認してないし 281の>>635
>里数で不彌國までで <
いや、「自郡至女王國萬二千餘里」だから、
「水行十日陸行一月」の里数は、「從郡至倭〜女王之所都」の里数。
>振り出しに戻って日数換算なんてそんな書き方はしない <
行程記載の到着の後に書くのは、付加説明であり、
「從郡至倭〜女王之所都」の行程記載の直後に書かれた「水行十日陸行一月」は、
「從郡至倭〜女王之所都」の日数説明の付加説明。 281の>>636
また、例の貼り付け・・・・が出て来たから、
貼り付けのお返し。
皇国史観ヤマトセツ者って、
よくこんな「南→東」などの嘘つきダマシのバカで、生きていけるな 。
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだし、
こんながキョクウの皇国史観ヤマトセツ者の、醜い怖い顔の・・・・が権力を握ったら、
国民や子や孫もあっという間に、 人種差別的殺し合い戦争をやらされて、
殺されてしまうんだろうなあ。 281の>>637
まあ、「南」や「短里」などの史料実態の否定抹殺は、
皇国史観宗教で「大和」にしたいがための、詐欺読みだよねー。 281の>>648
>ほんなら水行うんぬんは 帯方から書き直したものではないという事でいいんだな?<
「自郡至女王國萬二千餘里」という「里数」結論が書かれていて、
不彌國で殆ど終わっているから、
「日数」記載は、付加的説明でしかない。
>不彌国から少なくとも100kmは水行した場所に<
對海國と一大國の国内見聞移動が書かれているから、
それを加えれば、不彌國で殆ど終わっている事になるんだよ。
>邪馬台国がなきゃ九州説でもおかしな事になるんだからな<
九州説は、何もおかしくならない。
大和説者は、勿論、嘘つきダマシの・・・・サギシ。 281の>>650
>五百里や百里でも書いてるのに、千三百里を省略して<
省略していない。
對海國と一大國の「方の一辺」が記載され、見聞移動があった事が記載されているんだから、
それぞれの移動距離は、最低「1辺長〜2辺長」の間位になるんだよ。
>邪馬台国に至る前に振出から日数換算したら
日本人から日本語で場所聞いてもわからないよ <
日数記載は、付加的説明。
そんな事は、・・・・大和説者には難しいかも。 281の>>654
ヤマトセツ者って、よくこんなにバカで生きていけるな。
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだな。 281の>>658
つか、
いまだにヤマトセツ者って、行程の俺解釈なんてもんで語れると思ってるんだな。
あまりのバカさ加減に可哀そうになってきた。 281の>>666
ヤマトセツ者って、よくこんなにバカで生きていけるな 。
社会生活に支障が出るレベルのパーばっかりだな。 281の>>666
いつまでたっても大和説者は、「10週説」という奇妙な・・・・文言を使って、
倭人伝の我流読みで解決しようとする。
だから100年間進歩できなかった。
そして、大和説は、消えてゆく。 281の>>667
>帯方から不彌国まで1万7千里です <
對海國と一大國の国内見聞移動距離を入れなければならないから、
殆ど萬二千余里になってしまいます。
>邪馬台国まで1万2千里です 不彌国から千3百里ほど水行しないと邪馬台国まで辿り着きません<
不彌國で、殆ど萬二千余里になっていますから、水行無しに邪馬壹國直ぐに着きます。
>不彌国の次にある水行うんぬんは 不彌国から出発したとしなければ全体の計算が合いませんね?<
不彌國の直ぐ南にある、という事になりますから、全体の計算が合います。 281の>>674
「ぼくちゃんの、のうないこうてい」
これがヤマトセツ者の全てってんだからな 。
もう本当に猿以下の知能に、憐憫の情しか出てこない 。 281の>>677
大和説は、敗けるとかいう以前だろ 、
まさかいまだに「大和説のぼくちゃんの考えたすごい行程」とか言い張って、
話になると思ってるとは思わなかった
こんな糞虫が、人間様と対等に話してるつもりになってると思うだけで笑える。 281の>>678
>北九州の端の不彌国までの里数の合計1万7百里 <
對海國と一大國の国内見聞移動里数を算定しなければならないから、
不彌國で、殆ど萬二千余里になる。
>女王国までは1万2千里 少なくとも不彌国から千3百里はどっか行かなきゃ
邪馬台国に着かないから<
着く。邪馬壹國は、不彌國の直ぐ南にある。
>不彌国の次に水行20日…と書いてあるのは
帯方から書き直したとすると千3百里余る <
對海國と一大國があるから、始めから余らない。
>つまり魏志倭人伝の記述によれば邪馬台国は九州北部ではないし<
いや、筑紫になる。
>水行20日の部分は帯方から書き直したとすると矛盾が出てしまう<
水行20日は、不彌國から投馬國への側副傍線行程の日数説明だから、矛盾が出ない。 281の>>682
>長里換算なら畿内になるんだなこれが<
短里であったし、「南≠東」だから、大和はどっちみち始めから×。 281の>>685
>短里とか無いからw<
魏志では、長里とかはないから。w。 281の>>686
>>そこだけ里の長さを変えるなよ。
対馬海峡が三千里だから、その半分もない。<
>変えてなぜ悪いんだ?<
魏使らも陳寿も、不彌國まで短里で書いて来て、
不彌國から急に長里で書く筈がないから。 281の>>690
大和説こそ、不彌國までの「短里」記載、という史料実態の長さを変えるな。 281の>>692
大和説者は、なぜそんな俺様ルールで、史料実態を否定出来ると思ってるの?。
「皇国史観という結論先にありき」の・・・・だからでしょ?。」 281の>>693
>その変な単位は誰がどうやって発明しやんだ? <
中国人が、周代以前から使っていたらしいよ。 281の>>695
>伝聞でテキトーに報告書を書いたんだろ魏使がさ
出張先でサボリーマン化してたんだよ <
倭人は「里」を知らなかったらしいから、伝聞では無理であり、
やっぱり魏使らが自分で計測した事になるんだよ。 281の>>698
つまり理由も説明できずに、「南→東」などのように、
史料実態を否定抹殺する大和説は、ダメダメのトンデモ説ということですな。
お引き取りください。 281の>>699
>萬二千餘里の先の日数行程の女王國が倭人伝どおり北部九州の南にあるか、方位が違うかということ<
いや、ウソを付いてはいけないねえ。
萬二千餘里で女王國に着いていて、「その先の日数行程など存在しない」という事。
>考古学的に北部九州沿岸と共通し、<
「共通」ではないねえ。
筑紫倭国が列島盟主であり、東方倭種は倭国の東征に拠って征服され、倭国からの伝搬模倣の旧小国であった、という事。
>5万、7万の国が想定できる文化グループは 東の本州側にある <
盟主の九州では出来るが、旧小国では無理だね。 >>変えてなぜ悪いんだ?<
こういう読み方の根拠を示してくれたら良いよ このスレ見に来た人へ
畿内説が負けているで無い
ここに来る知能指数が低い畿内説の奴が負けているだけなんだよ 頭の良い人はもう畿内説から撤退したからね。
だって考古学的に何も根拠がないんだもの。 このスレ見に来た人へ
畿内説が負けているで無い
ここに来る知能指数が低い畿内説の奴が負けているだけなんだよ
このスレ見に来た人は
九州説を唱えているのが異常者だって
思い知るだろうよ
A、又渡海一千餘里至末盧國(官略)有四千餘戸
濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆没取之
東南陸行五百里到伊都國(官略)有千餘戸
丗有王皆統屬女王國郡使往來常駐所
東南至奴國百里(官略)有二萬餘戸 東行至不彌國百里(官略)有千餘家
B、南至投馬國水行二十日(官略) 可五萬餘戸
南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月(官略) 可七萬餘戸
C、自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
次有斯馬國 次有(二十数国)
倭人伝におけるA〜Cの文脈において、投馬国、邪馬台国と言う国名が唯一示されるBの部分が前後のA、Cの文と繋がらない事を理解する必要が有る。
Aは目的地、卑弥呼の女王国の首都と2万戸の奴国及び内陸と思える隣接村の不彌國でありここから出航して延々南に水行30日と陸行1月の南海上の邪馬台国に行く理由が無い。
Cの女王国以北が膨大になり、距離、方角、戸数規模に無理が生じる。
このB文を和約すると、
(帯方郡の)南水行20日が投馬国の領土で5万戸。 つまり、後の馬韓地域。
その南水行10日(の島領)と(九州の)陸行1月部分が邪馬台国で7万戸。
この文の示す部分が、邪馬台国(=女王国)の領土である。 と書いてある。
南=南、一月行=一月行であり、倭人伝をちゃんと理解すれば当たり前のことだ。
中国では漢の代から投馬国=馬韓地域、邪馬台国=九州北部の倭人国と理解されていたという前提に立てば、この文の挿入が意味する処は明確に理解可能。
後述する、女王国所属の二十数国名を列記するにあたり、邪馬台国への経路と全体像を詳説したのである。 >>427
九州説もう諦めたら?
恥さらすだけでしょ
過去200年間いかなる学者と思いつかなかった倭人伝の読み方を発明する
考古学者が誰ひとり唱えてない新説を
考古学的に明らかと言う
こんな九州説を
世間が飽きた
藁 いまの九州説にできることは
歴史を学問的に解き明かそう思う人を
暴力で黙らせることくらいかな 文献なら九州説とか言いながら
必死に通説と違う読みを作ってる姿
滑稽 成分分析で中国製と判明した三角縁を
国産とかいう九州説は科学的に違う 材料の産地と鏡の加工地は別物というのがまだ分かってない奴w どういう方法で分析したかを良く知らないで
口から出任せを言う九州説 >>436
それ、具体的にどういう意味かね?
史学的にって、何? 国産の鏡も、中国からの
輸入原材料を使っているので
成分は同じ。 >>441
まとまり方が違うって分析結果なのを知らないの? 学問としての方法論に沿ってない論証。
突合の言葉の意味がわかってない小学生未満の知能だから仕方ないね。 成分分析をしてわかるのって、楽浪の鉛が入っているなら、
朝鮮半島〜日本で作られた可能性が高いってだけでしょ。
中国の鉛だけだったら、中国製かもしれんし、
けどやっぱり輸入された中国銅や中国青銅器を溶かして作った
日本製かもしれない。
だから結局は、鏡の形式が重要になってくるわけで、
中国から一枚も出土していない鏡というのは
日本製と考えないと学問が先に進まないよ。 >>445
根拠が無いから勉強にならないし、秋田犬。 >>439
分かったから、
馬淵論文は読んだのか? >>443
なにを言ってるんだか意味不明な文章だ
九州説の人はコレだから困る 鉛じゃなくて銀とアンチモンだ
鉛と言っているのは金属考古学の解析の事だな
あれは鏡の編年に沿わない解析結果ばかり出てる
なので銅の鉛成分で産地がわかるというのは単なる思い込み >>444
楽浪の鉛が入っているなんて言ってるのは
韓国の新井さん一人だろ
他人が調べて発表した数字をあれこれ論評だけしてる人 >>449
その鏡の編年ってのが
素人のやったヤツなんじゃないのか? >>447
馬淵論文って、安本が「江南の鉛だー」って歪曲改竄して紹介してたアレ? SPring-8による銅鏡の銀・アンチモンの解析では
前漢鏡、後漢鏡、三国・西晋鏡、国産鏡とそれぞれ
4つのまとまりに分かれた
8枚の三角縁神獣鏡のうち6枚は三国・西晋鏡のグループに
残り2枚は国産鏡のまとまりに入った 281の>>703
>何回も読んだけどやっぱり短里はなかったんじゃないの <
どこをどう読んでいるのかね?。
半島や海峡の里数記載や、
「自郡至女王國萬二千餘里」と「計其道里、當在會稽東治之東」の記載や、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」や、
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」は、
短里にしかならないよ。 >>449
>あれは鏡の編年に沿わない解析結果ばかり出てる
畿内説きたw >>444
>中国から一枚も出土していない鏡というのは
>日本製と考えないと学問が先に進まないよ。
その考え方は、実は結構怪しい。
考えてごらん。
日本でその一枚が出てしまったら、その一枚は中国で出るわけないだろ?
定義がどのくらい厳密かによるんだよ。
定義がキツくなればなるほど、中国で出なくてもオカシくなくなる。 中国から一枚も出ていないということは
中国で試作すらされていないということだな。 >>443は岡上だから
言ってることが変なのは
当たり前 金属考古学の解析結果見てみたけど
実際の歴史史料と合わない結果ばかりだよーん
金属考古学はインチキ 出土していない。
どこから持ってきたのかわからないのがしかも一枚だけ。 >>427
===畿内説の恥さらすから
スレ締めたほうが賢明===
に反応した、>>429に決定
↓
429日本@名無史さん2017/10/02(月) 17:21:43.22
>>427
九州説もう諦めたら?
恥さらすだけでしょ
☝
☝
こ こ は 畿 内 説 の ス レ で 賞
+
ざ ん ね ん で 賞 >>462
三角縁の神獣鏡なんて中国ではザクザク出てる
問題は「三角縁神獣鏡」でないことだけ >>463
白馬寺周辺の畑出土
近くには大型の陵墓あり >>457
いやでもこれは重要な指摘。
国内の神岡鉛が母データに入ってないって指摘されてた。
母データの選択が恣意的で、中国産といいたい
結論ありきの分析って批判されてた。 >>465
洛陽で見つかった1面は間違いなく三角縁神獣鏡 >>470
え
続報があったの?どう論破されてたの? 根拠
1、▲は中国で出土していない、市場で売られていた
2、▲は日本で千枚に届く勢いの枚数出土⇒1枚ぐらい中国に渡っていても不思議でない
3、これは、良くわからんが⇒▲は中国の物でないと中国人が言っている ザラコク及びに九州説よ
三角縁神獣鏡が中国で1枚も出土してないって言うのはもうやめようや
その度に見つかってるよ、出土場所もわかってるよで論破されて
何回恥をさらせば気が済むんだ
まあ畿内説にとっちゃありがたいと言えばありがたいんだが >>471
神岡はA図式だと中国鉛と似ているがB図式だとぜんぜん違う 281の>>715
>九州北部から日数で2月間<
ならんよ。
「自郡至女王國萬二千餘里」だとはっきり書かれているから、
「九州北部から日数で2月間」と読んだキミは、読み間違い。 >>465
「三角縁神獣鏡」だって初期は三角縁じゃないしな >>479
それを裏付ける論文は有るの?
3世紀の地層から発掘された証拠が無いと、出土したことにはならないよ。 畿内説は大見得切ったんだから中国からの出土証明をしろよな。 >>477
それは深刻や。
そもそも鉛同位体比で産地同定できないってことじゃないか。
馬淵さんて人がそういう反論したの?すげぇなぁものすごい穴を掘ってくるなぁ。 >>481
「出土」の意味が一致してないから噛み合ってないヨカン。 >>481
裏付ける必要はある?
少なくとも外部からの流入品ではないという事ははっきりする
まあ畑から偶然見つかった物だから出土品ではあっても
1級の考古史料と言えないのは残念だがな >>466
が出土したっていってるから、その辺りを解説してもらおう。 >>475
初心者か
もしくは、議論に無理やり着いて行こうとする
ネトウヨゆえ、 >>487
なにが穴だかわからない
九州説の言うことは理解できない
いつも理由を隠すから >>490
畑から見つかっただけなら日本から持ち込まれた骨董品が
引き揚げの時にでも廃棄された可能性などが出てくる。
中国の三世紀の地層から発掘されたものでなければ
学問的には意味がないな。 日本で何百枚も見つかっているのに
中国で正式に三世紀遺構から発掘されたのはゼロ。
日本製ですね。 >>496
ということは、日本でしか発掘されていない日本製、ということでいいですね。 281の>>716
>魏の一里は400m以外にあったって確認取れてないよ<
半島や海峡や、「自郡至女王國萬二千餘里」などが、「一里は400m」ではない証拠だよ。
>都の洛陽に近い所はそうでもないが 地方に行けば行くほど一里は短く表記される傾向がある<
いや、短くなる事、長くなる事も、同じ位である事も有り得る。
要は計測者の能力の違い。
>日本だけじゃなくてインド方面も
良くわからない土地で計測がちゃんと出来なかった証拠だろうね <
どんな人間の記録なのか?は知らんが、
海遊録の筆者のように、全く関係のない他人の計測が、魏使らの計測を否定する根拠になる筈がない。 作陽の三角縁は掘り出した人の名前も場所もわかってるよ
検索すれば記事が出てくる
ていうか九州説はホントに何も調べないのな >>495
そうであるなら
そう証明する方が早いと思うな
洛陽に日本軍が言った時の記録とか探せば出てくるかもね
ないと思うけど >>498
日本でしか発掘されていない→日本製、という推定
さして説得力はない >>495
自分でも自覚してると思いますが
ブッ飛びすぎーーーーーーーーー🌱っ 281の>>721
「南→東」の嘘吐きダマシのように、
これほどまでに、大和説は、史料事実や史料実態の否定曲解が多い・・・・。 >>500
繰り返すけど
三世紀の遺構から発掘された、という証拠が無ければ、
中国製であると主張はできないよ。 >>506
その可能性があるというだけに止まるが
中国製を否定する材料ではない 以上の結論。
三角縁神獣鏡は日本からしか発掘されていない。
中国の畑で一枚見つかったといわれているが、
畑で見つかった裏付けもないし
三世紀の遺構から出土した証明も無く、
生産地についての何の根拠にも使えない。 >>507
それが「出土」の定義だから。考古学の学問的な用語用法として。 お断り。
仕事場のPCの調子が悪くなって、作動しなくなったり、動いたりして来たから、
大和説者に対する反論が、途絶えたり、遅れたりしますので、
悪しからず。 >>499
またよくわからない事書いているな
魏志の中で洛陽近辺の一里は換算すると400mに近い
インド方面は一里200mくらいだそうだ
倭方面は一里40〜180m
地方に行けば行くほど距離が不正確なのは
道が未整備だったり土地カンがなくて
歩測などで正確に距離をはかれなかった証拠
一率で一里75mの短里はなかった証拠でもある >>510
それが
>中国製であると主張はできないよ。
という主張となんか関係あるの? 日本からしか発掘されてないから日本製
金属考古学でも日本製
どこをどうやったら中国製になんの?w 中国の畑で見つかった三角縁は
志賀島の畑で見つかったものと一緒に保留にしておこう 鉄器の無い領地に
鉄製武器を大量に副葬した古墳。
領地に鉄器が皆無の理由は、北部九州邪馬台国と敵対したから。
第二次大戦末期の日本と同じで(金属類回収令:昭和18年8月12日勅令第667号)、
領内の金属器をかき集めて鉄製武器に転用し尽くした。
鉄器古墳の主が先に君臨していて、それから邪馬台国と敵対したのか。
それとも
邪馬台国と敵対した土地が鉄器を使い果たして敗北占領され、そこに鉄器古墳の主がやって来たのか。
その答えは、鉄鏃でわかる。
ある程度大きな鉄器はかき集めることが出来ても、
細かい鉄鏃を見つけ出すのは容易ではない。
つまり、鉄鏃すら皆無の遺跡では、鉄鏃軍隊による教練が行われていなかった。
よって、鉄器が皆無の遺跡は、北西にある銅鐸環濠集落と同盟して、
領主が作ったのは、北西側の古墳群。
そこに鉄製武器の邪馬台国軍が進駐してきて、南東側に古墳を新築した。
ということが鉄鏃からわかる。 >>509
日本からしか発掘されていない、ってのも
生産地についての何の根拠にも使えない
よね >>511
嘘はいけません
中小企業の大将なら、携帯ぐらい持ってる
一流企業の社員なら、携帯ぐらい持っている
幾度も書き込むなら、両刀使いでしょ 日本からしか発掘されてないから日本製
金属考古学でも日本製
どこをどうやったら中国製になんの?w よーしいいぞ
九州説が三角縁は中国から1枚も発掘されていないと
九州説が主張すればするほど
畿内説は1枚洛陽から出土してるよとソース付きで反論できる
ボーナスステージ 出土証明を出せない畿内説が論点ずらしを開始しましたw
悔しそうw >>522
日本製だと言ってる金属考古学
って、何? >>514
ハイハイ幼稚園児はもう寝る時間だよ、お休みなさいませ。 九州説はどうして
三角縁神獣鏡が中国で1枚も見つかってないなんて
ウソをつくの? 以上の結論。
三角縁神獣鏡は日本からしか発掘されていない。
中国の畑で一枚見つかったといわれているが、
畑で見つかった裏付けもないし
三世紀の遺構から出土した証明も無く、
生産地についての何の根拠にも使えない。 >>534
検索した結論。
三角縁神獣鏡は日本からしか発掘されていない。
中国の畑で一枚見つかったといわれているが、
畑で見つかった裏付けもないし
三世紀の遺構から出土した証明も無く、
生産地についての何の根拠にも使えない。 三角縁神獣鏡が中国で1枚も見つかってないなんて
九州説はウソつきだーウソつきだー >>535
あまりの口惜しさに九州説
ついに調べればすぐわかるウソをつきはじめた模様 >>536
三角縁神獣鏡は日本からしか発掘されていない。
中国の畑で一枚見つかったといわれているが、
畑で見つかった裏付けもないし
三世紀の遺構から出土した証明も無く、
生産地についての何の根拠にも使えない。
という結論が悔しくて、
中国で一枚も発掘されていない、という表現を
中国で一枚も見つかっていない、と姑息に言いかえて
タゲ逸らしをするいつもの惨めな畿内説。 三角縁が中国から1枚も出ないと言い張ればウソつきになり
認めてしまえば日本でしか出ないから三角縁は国産説破綻
どうやら九州説はジレンマに陥ってしまったようですなぁ >>541
またウソをついてる
洛陽付近、白馬寺付近で出土
掘り出した人の名前もわかっている
これをまるで無視するのは考古学的考えと言えるのか? 三角縁が中国から1枚も考古学的に出土していない。
三角縁が中国から1枚も考古学的に出土していない。
ということを九州説は認めてしまうから、三角縁は国産説で確定。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) >>543
発掘証明は?
日本史を左右する重大証拠なんだから、
学術的な証明があるはずだよね?
無いなら、中国から考古学的出土なし。 >>543
>>掘り出した人の名前もわかっている
これは初めて聞いた、ソースキボンヌ これが逆でさ
九州説が中国の骨董屋から発見なんて言ったら
それこそ畿内説は非難囂囂なんだろうなぁ >>546
出土ではないが1枚発見
九州説は自説に不利だからとこれを無視するのである
ひどい嘘つき連中である 中国出土の三角縁は赤サビで日本から持ち込まれたものではない
ということに決定した >>550
>出土ではないが1枚発見
はい、そちらの敗北決定。 まあ、これまでだって中国から三角縁が出るたびに
あれは斜縁たーとか
これは雲気文があるからーとか
いろいろシノいで来たのが実態だよ
今回も考古学的発掘じゃないからーで済ます
いいさ
そのうちまた出るだろ >>549
ないわ
ちゃんとじっくり研究して本物らしければ本物らしいと言う
九州説なら見なかった事にしそう >>553
うわぁーやられたwwww
ンウェーイwwwww >>555
以上の結論。
三角縁神獣鏡は日本からしか発掘されていない。
中国の畑で一枚見つかったといわれているが、
畑で見つかった裏付けもないし
三世紀の遺構から出土した証明も無く、
生産地についての何の根拠にも使えない。
出土証明が無い、という話題を
本物かどうか、の話題にさりげなくすり替える。
敗北畿内説の逃げテクw >>556
横からですが
ちゃんと出て着ましたよ?
どうやらウソをついているのはそちらのようですね。 国内で発見された金印すら偽物だと言い立てて
中国で発見されたものは信じる畿内説 鉄器の無い領地に
鉄製武器を大量に副葬した古墳。
領地に鉄器が皆無の理由は、北部九州邪馬台国と敵対したから。
第二次大戦末期の日本と同じで(金属類回収令:昭和18年8月12日勅令第667号)、
領内の金属器をかき集めて鉄製武器に転用し尽くした。
鉄器古墳の主が先に君臨していて、それから邪馬台国と敵対したのか。
それとも
邪馬台国と敵対した土地が鉄器を使い果たして敗北占領され、そこに鉄器古墳の主がやって来たのか。
その答えは、鉄鏃でわかる。
ある程度大きな鉄器はかき集めることが出来ても、
細かい鉄鏃を見つけ出すのは容易ではない。
つまり、鉄鏃すら皆無の遺跡では、鉄鏃軍隊による教練が行われていなかった。
よって、鉄器が皆無の遺跡は、北西にある銅鐸環濠集落と同盟して、
領主が作ったのは、北西側の古墳群。
そこに鉄製武器の邪馬台国軍が進駐してきて、南東側に古墳を新築した。
ということが鉄鏃からわかる。 畿内説は平気でダブルスタンダードを使うよ。
いろんな土器が博多に流入すれば博多が権力を失ったと言い、しょぼい土器が纒向に流入すれば権力で集めたと言う。
九州から鏡文化が広まると求心力を失ったと言い、畿内から前方後円墳が広まったから畿内が文化の中心と言い張る。 281の>>724
>里計算で盛りあがっているようですが、 現在の?mに特定するのは難しい<
別に難しくない。
魏志は有効数字1桁概数であるから、特定ではなく、概数の範囲内であれば十分であり、
それで、長里は完全に否定される。
>邪馬台国の位置は 地図上でコンパスを使い、比例でたたき出すしかない。<
大丈夫です。
陳寿は、「自郡至女王國萬二千餘里」や「計其道里、當在會稽東治之東」と書いてくれています。 2015年に中国の骨董市で
三角縁神獣鏡を購入した人がいただけである。 >>511
ザラコク逃げたな
しかも昨日反論受けないように1スレまたいでレスするとか
書かれたもんだから
パソコンの不調のせいにして スレ主、岡上、ザラコク、キウス、@阿波、全一病・・・ その他諸々 よろしく
畿内説のスレに間違い無いので、
いろいろ、畿内説に対する疑義、批判もありますね
これだけは他説も触れられない、異論がないという確証が畿内説にありますか?
使者が北部九州まで来たのは各説異論は無いと思いますが・・・・・・・・・・・・・・・・ >>534
読んだ。これは両者痛み分け、決定打に欠ける。 >>563
これだから九州説はウソつきと言われるんだ
お前以外はちゃんと該当ページを見つけているぞ 中国で一枚も見つかっていない
から
中国で一枚も学術的な調査団によって発掘されてない
に後退した
畿内説としては、これで十分
だんだん真実が近づいている >>563
いくら口惜しくったって
そんなあからさまなウソはなー 281の>>728
だから、魏志は、
「南→東」などの嘘吐きダマシような、
そういうトンデモ大和説が通じる時代じゃないんだよ。 >>572
だからどこだよ
コレクターが骨董市で農民から買ったことしか出てこないぞ 九州説は今後三角縁の出土状況を語るに
中国から学術的な発掘品ではないが
1枚出土していると付け加えてから話す事
1枚も出ていないに類するような表現をしたら
すかさずイヤ洛陽で1枚出土してるよとツッコむからな >>577
色々調べてみて
みんなは見つけているよ ご迷惑をおかけしてます
>>543は浅学ゆえ御許しを 見苦しいなー九州説は
ページが見つからないフリなんかして 中国は盗掘も多いし銅鏡はたいした値段もつかないから
そのうちまた出るかもね スタップ細胞のバカンティ猿と同じ循環詭弁じゃんかよ
中国とアメリカの違いだけじゃんか >>577
須玖のキ鳳鏡と同じパターンだね
だから何? 発見した農民は不明でした、発見した場所も分かっていないようです >>550
駄目だよ
畿内説の学者でも今では▲の1枚について言及していない
もう、古いよ中国の▲1枚は・・・・相手にしてる人も余興だろうが???無視でいいよ 九州説の必死さは理解した
三角縁が魏鏡なら九州説は即死だからな 281の>>729
>結論 短里の存在そのものを確認した人はいない <
半島や海峡での記載や、周髀算経などで、確認された。
>基準邸を明確にして計算した人もいない<
古田さんは、「自郡至女王國萬二千餘里」にきっちり合う計算をされた。
>データから帰納した人もいない <
古田さんは、三国志全体から帰納されたし、
谷本氏は、周髀産経から帰納された。
>粗雑な感覚論だけが有る<
この投稿子のような、「南→東」などのような嘘吐きダマシの、
粗雑な・・・・のような感覚論だけが残る。 つまり出土したということ自体ウソだね
コレクターが日本から持っていったんだな そして三角縁はどう考えても魏鏡だから
九州説は半分死んでいる ベニバナ、バジル
瀬戸内海での方位誤認
明確に畿内説で論じている奴いない何故だ! 281の>>741
もしかしてここにいる大和説者は小中学生なのか?。
煽りじゃなくてマジ。 >>601
お馬鹿さん
論じてる項目、張り付ければいいじゃん 281の>>744
ほら、計算ができないと自白している。
「南→東」などの嘘吐きダマシの・・・・大和説ガキらの学力は、
古田さんや九州説者に劣る事は当然としても、
小学生にまでも劣るのさ。 景初、正始と卑弥呼が使いを送った時代の魏の年号をもち
銅出徐州 師出洛陽(銅は徐州(魏の領地・産銅で有名)、鏡師は洛陽)
と銘文があり
分析の結果魏の鏡と成分的に一致し
洛陽で1枚出土している三角縁神獣鏡
さてこれは国産品でしょうか?
それとも魏鏡でしょうか? >>603
洛陽付近の白馬寺近辺の畑で1面出土だそうだ 畿内説「三角縁が中国で見つかってないなんて嘘ばかり!」
普通の人「じゃあ見つかったの?」
畿内説「いや・・・」
なんで黙るんだよw >>604
立証義務転嫁
詐欺やったので
604が論破されたこと確定 >>611
三角縁神獣鏡の分類では
第4期に相当するものだそうだ >>609
洛陽の白馬寺付近の畑で1面出土
もう10回ぐらい書いてる気がするぞ これプラスでもスレ立ったから覚えてるわ
ここでな同じ突っ込みでなぜか黙っちゃったんだよな
まだスタップ騒動の尾を引いてたころだから、みんな鋭かった
これ以降からプラスで邪馬台国関連スレは立たなくなるんだよなぁ >>614
ならそう証明しなければならない
鏡が偽物である証拠を出せれば簡単だが
本物っぽいからそれは難しいだろう >>616
こういう荒らしをするから
九州説は亡んだ
アホやなあ >>619
発り出した人と出土場所が判明してるから >>620
> >>616
> 同じツッコミとは?
中国の骨董屋で買ったという点と
中国人が畑なんかで見つけたという点
これが信用が出来ない
ゴッドハンドじゃないのと 281の>>749
>違うよ
真っ先に青銅器祭祀を捨てて古墳築造を開始した出雲と吉備こそが先進国であり王権発生地域
出雲・吉備に王権が発生したことで銅矛圏と銅鐸圏が圧迫を受けてるという構図だよ<
違うよ。筑紫倭国が「自昔・・・東征毛人55国」したんだよ。
前方後円墳の開始は那珂八幡付近で、
285年頃に、扶余や東沃沮の「有槨」部族の流民の渡来が、吉備とホケノにあったんだよ。
>邪馬台国連合=出雲が銅矛圏を支配下に置いて成立
その南の狗奴国=吉備 銅 鐸圏=中立<
「南→東」などで、×。 >>601
ウザイと思わんでくれ
あんたの教育と思ってくれ
畿内説の学者本も統一性無い、触れたり触れなっかたり
特に以下は触れられていないと思う(畿内説の学者本が多くて読み切れないのだが・・・)
1.ベニバナ、バジルの渡来年代
2、「瀬戸内海での方位誤認 >>623
だから、掘り出した人って誰だよ、場所って具体的にどこだよ >>622
ケガキの跡が他の三角縁鏡と一緒だそうな
このケガキ作業にはどんな道具が使われたのか不明で
同じ跡を偽造するのはまず不可能なんだそうだ >>627
ソース出すのダルいから自分で調べて
何でも人に聞こうとしないでくれよ だからゴッドハンドだって
出土したと言われる場所もも出土したと言われたものも本物なんだよ
出土したと言ってる奴がインチキしただけでさ
それをトータルしてインチキだったんだよ 281の>>752
>当然二世紀後半の勢力図が重要になる<
西日本は、二世紀後半も筑紫倭国の「自昔・・・東征毛人55国」の時代だよ。 >>629
だから、どこにもないって言ってんだろ、ウソツキ野郎 >>632
出た単なるイチャモン
これだから九州説は2流以下なんだよ >>635
中国から三角縁が出てくやしいのうwwww
くやしいのうwwww
お前以外みんな該当サイト見つけてるから >>629
貴君は去った方がいい
勉学を積んだら、またここに来てください
貴君の書き込みをワードにでも落とし込んで、将来観てください
貴君の愚かさと、成長が確認できます 281の>>754
>吉備狗奴国は銅鐸圏を支配下に置いて邪馬台国と対立
最終的には狗奴国が優位な形で和睦 ってのが2〜4世紀だな<
吉備狗奴国とした時点で、「南≠東」で×。 >お前以外みんな該当サイト見つけてるから
ホントですか 三角縁は中国から1枚も見つかってないから国産という
九州説の主張は畿内説スレで粉々に論破されました 281の>>755
なぜ大和者は、理由を言わないんだろう?。 >>639
もう勘弁してくれ発言頂きました。
勘弁なんてしないけどなwww
三角縁国産説破綻wwww 281の>>756
>銅矛も銅鐸も倭人伝に出てこない 時代が違うということだ<
「矛」は、倭人伝に載っているよ。 https://www.google.co.jp/search?q=洛陽出土三角縁神獣鏡
見つからないと言ってる人はこの結果から
すきなの読みなさい。 結局、中国でみつかったやつもコレクターのイカサマということが結論のようだな あーあサイトが見つからないフリなんかして
九州説はみっともないな いや今日の九州説はマジみっともないぞ
いつもの事だけど 281の>>763
>あとその時代の長さの基準がわかる尺というモノサシは見つかってるの?<
周代の尺定規は見つかっており、周代からずっと大体同じ。
始皇帝がかえたのは、尺寸系と里歩系の換算の「1歩=6尺」の命令。 >>649
そう安本があちこちで吹聴してるな
真偽は知らんが 281の>>763
>あとその時代の長さの基準がわかる尺というモノサシは見つかってるの?<
周代の尺定規は見つかっており、周代からずっと大体同じ。
始皇帝がかえたのは、尺寸系と里歩系の換算の「1歩=6尺」の命令。 海遊録を根拠とするには確率論的には✖とか
雨森東(芳洲)の随行までは指摘しましたが、
瀬戸内海での方位の誤認は無いと書きこんだ方には敬服します
また、ベニバナも指摘しましたがバジルまで言及し、書きこんだ方にも敬服します
畿内説は支離滅裂です 安本も失礼なやっちゃな
所有してるコレクターの人は鏡の研究者でもあり
今回の三角縁について論文も書いている
ネットで和訳文が読めるよ >>659
まあこういう事言うから
九州説は少しづつ信頼を失って行く まったく三角縁神獣鏡の話すると
九州説が狂ったようになるからやり辛いよ 281の>>767
>銅矛は肝心の邪馬台国時代の前に衰退してんだよ低能が
集中的に見つかってた場所からも出なくなる <
倭人伝に「矛」は書かれているんだよ。
>そして北部九州に大型墳墓、土器祭祀、畿内の土器が流入して祭祀も生活習慣も全部塗り替わってだよアホが<
前方後円墳も庄内も、筑紫が先行し、播磨や河内から筑紫への搬入上納が多かったが、田舎の大和からは殆どなかったらしいよ。 281の>>768
>魏志倭人伝の里数を換算してみると 一里50mだったり140mだったりで
逆に一里75mの所がねーよ <
逆に、1里400mの所がねーよ。 どなたかが、(探すのが多いのでご無礼)
文明は継承され、発展する???かと書き込んでいらっしゃいましたが
まったく其の通りです。
ベニバナ染色、バジル漢方薬は文明ですね。謎の世紀を解き明かすには難題です。
畿内説はいかがお考えですか?
九州説の一部の方もしかりです・・いきなり4世紀に東征は無いと思います
私見としては
邪馬台国は九州・・・これは九州説の方が根拠を述べてますので賛同
邪馬台国は東征したかどうかは不明、邪馬台国でなく九州勢力が東征(勢力拡大というより、開拓でしょうか・・文明の拡大?)したと思います
根拠は倭人伝と文明伝達ルート・・・長くなるので止めます
(バジルはそこまで深く考えていませんでした・・反省) >>664-665
結論をまくし立てるだけで
理由をまったく言わないのが
サギ師の九州説 たしかに縁が三角で神獣っぽい模様が掛かれてはいるんだけど
デザインが日本のものとはぜんぜん違うんだよね
それを「中国でも三角縁出たぞ!」とか言っちゃう奴は素人なんだよね
専門家ほど「ああ・・・あれは・・・」って反応で畿内説の根拠として用いないのに なあ九州説よ聞いてくれ
景初、正始と卑弥呼が使いを送った時代の魏の年号をもち
銅出徐州 師出洛陽(銅は徐州(魏の領地・産銅で有名)、鏡師は洛陽)
と銘文があり
分析の結果魏の鏡と成分的に一致し
洛陽でも1枚出土している三角縁神獣鏡
ここまで証拠が上がってるのに
まだ三角縁神獣鏡を魏鏡と認めないつもり?
それはさすがに悪手すぎるだろ それにしても『ポリゴン事件』だよ、
グーグルで検索すると、なぜか「銀」というキャラクターが出てきたり。
電気が〜と言っていない?故障しているとか >>661
畿内説にお勉強させているんだよ
馬鹿な子ほど手がかかるかから、
三角縁神獣鏡がわかるまで反復練習 >>673
ほー
畿内説だと三角縁は魏鏡だけど
九州説だとどうなんの? むかーし住んでいた事があるんだよという
ところを調べてみたんだけど
・・・電気と書いてあって、
紫色の服のようなものが干してあったり
「▢▢銀▢」という家 >>657は頭のおかしい人なので、突っ込まないように >>668
洛陽の三角縁は分類すると
三角縁の第4期に相当するデザインだそうだぞ 281の>>769
>むしろ銅矛とかキュウシュウセツとやらが成り立たない大きな理由の一つだ<
矛は、九州説の根拠の一つだ。
>・九州最盛期の時でさえも九州と四国西部よりも先に分布しない・肝心の邪馬台国のころには消滅してる
<
倭人伝の頃は、「兵用矛、楯、木弓」だ。
>・邪馬台国の前に衰退し<
衰退していない。
年代の錯誤か、ダマシだし、
大和には矛がない。
>逆に「今までなかった畿内の土器、墓制、祭祀に塗りつぶされる」<
庄内も前方後円墳も、筑紫が先行だ。
>九州の限界と九州が邪馬台国に至る前に独自の祭祀を失い<
失わない。「自昔・・・東征毛人55国」だよ。
>それまでになかった畿内と吉備の文化に覆われることを意味してんだよ<
吉備も大和も、東征55国の一つだな。 >>678
じゃあ下賜鏡じゃないじゃん。年代が遅い。 >>668
何でこういうデタラメを平気で言えるのか
本気でわからない 老婆が言うには
銀??というは家の、お爺さんの家のほうの・・・
と言っている >>679
畿内より
九州は古墳時代に入るのが100年早かったらしい。 >>682
正始辺りだから下賜鏡じゃないの
日本にも正始年号の鏡が出てるから >>680
それこそウソだ
どこにそんな証拠があるんだよ >>673
たぶん貴君は
「馬鹿な子ほど手がかかる」➡「でも、可愛い」という事だと理解しますヨ 281の>>771
まさか倭人伝に書かれた矛持ち出して、邪馬壹國ではない、とか言い出すとは思わなかった。
こんな文献考古の基本も知らないパーが、珍説サイト見て浮かれて突撃してくるんだからな。
ヤマトセツ者の脳みそのなさぶりには、あきれ返るばかりだな。 >>680
中国考古学のトップがそう言ってるから間違いない >>686
第4期って編年上三世紀末だったと思うけど。 景初4年鏡があるからねえ。
あれで作者は魏の年号の知識がないことが
明白になっちゃった。 景初、正始と卑弥呼が使いを送った時代の魏の年号をもち
銅出徐州 師出洛陽(銅は徐州(魏の領地・産銅で有名)、鏡師は洛陽)
と銘文があり
分析の結果魏の鏡と成分的に一致し
洛陽でも1枚出土している三角縁神獣鏡
を、魏じゃなくて呉で作られた鏡と断じて
理論を作り上げようとするのは
あまりに道理とか論理性とかに対する冒涜ではないか >>694
四年はニセモノでいいよ
なら三年と正始はホンモノね 九州説はなんで理由をまったく言わないんだろう
?
?
? >>692
つまり・・・遠い過去の人が言ってるだけだね? >>680
>三角縁は国産 呉の工人作
三角縁は倭国(阿波)産
宮谷古墳がある矢野遺跡等鮎喰川下流集落群での作製。 @阿波 お爺さんの母親の家の話なのかな、
寺院に通っていたという話とか
真・・(不明)・宗だったかな
と
親は、そのような事を言っていたり >>669
一理としては良いと思います・・だから反論もあります
しかし邪馬台国論争の難しさは 二理、三理・・・と続くことです
基本は魏志倭人伝に如何に近づく説を出せるかです
「倭人伝が無ければ、邪馬台国も卑弥呼も存在しない」・・誰かの押し売り・学者の押し売り?
しかし、邪馬台国論争の
原点、基本は倭人伝に間違いないでしょう 九州説とは言い難いけれども
三角縁神獣鏡が国産で呉の工人とみられているのは、
呉の紀年の入ったものがあること
魏の年号でも存在しない年号のものがあること
500枚以上大量に出土していて有り難みがないこと
出土状況が他の鏡とくらべてぞんざいなこと
銘文の文章が格を備えてないこと
これくらい? キウスは翻訳ソフトを替えた方がいい
何いいたいのかさっぱり伝わらない >>698
>を、魏じゃなくて呉で作られた鏡
呉でじゃないよ
呉人が日本に来て作った国産ってことよ。 281の>>797
>しかし九州説は 一里は正確に75mではないとあっさり認めていいのかな?<
しかし、大和説者は、一里は正確に434mではないとあっさり認めていいのかな?。
>女王国まで1万2千里は九州北部を ピタリと指すと言う主張が成り立たなくなるぞ?<
その前に、行程移動里数の合計が「自郡至女王國萬二千餘里」と殆ど一致しているから、筑紫で確定なのであり、
短里は、その里数と現在地形での距離からの帰納的確率的なものであったんだよ。
>一里をどう取るかによっては畿内を指すという事にもなるからな <
6倍位にしないと大和には行けないし、
「南≠東」に拠っても、
大和は×。 >>708
三角縁神獣鏡は倭国(阿波)で作られた仿製鏡で、全国へ配られている。
根拠:気延山古墳群の宮谷古墳出土三角縁神獣鏡と同笵鏡が大分(赤塚古墳)、岡山(鶴山丸山古墳)
京都(内里古墳)、奈良(黒塚古墳)、群馬(天神山古墳)で出土している。 @阿波 スレが速すぎて・・・・
ゆるりと中身ある議論を願います・・・・・・・・・・・・
失礼します
畿内説のスレです、他説に振るのはいけません、正正堂堂
ドンコイで済むようならば、このスレは必用ないです
失礼します >>708
銘文の話は勝手に前提条件作ってるだけ
むしろ中国鏡の流れに載ってるぞ >>713
じゃあそこは
紀年鏡一般の話だったんだな。ごめんごめん素人だから。うっかりうっかり。 つーちゃんねるのネタ、ワッフルなのかな?
銀?の家、
ワッフルの壁のようなものがあって、その上に「・・・電気」と書いてある。
その上のほうに家がある、たしかに山の上のほうだよ。
住所も同じ。 >>711
畿内説は里程が長里で示されているなんて
誰も主張してないよ >>708
記年鏡の景初四年は確かに存在しないが
ほかの景初三年、正始元年は存在する
例え景初四年がニセモノだとしても景初三年、正始元年鏡が
ニセモノだという事にはならない どうなっているんだろう、このような壁
『ワッフル 壁』 ワッフルも、正方形?ではなく、ひし形 ◇のデザイン >>718
里程は畿内ではない証拠になってしまうからね。 >>719
なるほど一理ある。
過去スレでもリバイバル復古鏡って話も出てたから、複製してでも持っておきたい貴重なもの、だったのかもね。
国産鏡の根拠は
枚数が多いのと
貴重品の扱いがなされてない
この2つってことかな。 景初四年鏡と正始元年鏡が同時に製作されてんだから、両方国産ですよ >>708
景初三年に魏から銅鏡100枚下されたと魏志倭人伝にあるけれど
その後も3回ぐらい使者送ったから400枚はあってもおかしくない計算
国産のコピー品も相当数ある
出土状況は
その頃は内行花文鏡等の漢鏡が希少品となっており貴重
逆に三角縁は数が多くて日常的に使われたと思われる よ う わ か ら ん ス レ
王 者 畿 内 説 が な ぜ
日 本 国 内 の 説 を 相 手 に し て る の か
よ う わ か ら ん
畿 内 説 が 正 し い な ら 相 手 は 中 国 の 正 史 と 思 う が な
中 国 の 正 史 と 近 い の は 九 州 と 思 う
・・・思 う だ け だ か ら、根 拠 は 無 い もれ(仮)と老婆しか知らないのかな、
親は知らないと言っていたり、むかーし住んでいた家も知らないとか
その家の前に道でしょ、
そして田んぼのようなもがあって・・・林になっている >>726
景初三年→正始の改元のゴタゴタだった説が主流だけど
景初四年鏡は正直謎が多い 三角縁神獣鏡の同型鏡を分析すると鏡径に大小があり、小さくなるほど文様が不鮮明になる。
これは母鏡から鋳型を作りできた子鏡をまた同じように鋳型にとって順次コピーしていったとみられる。
踏み返しされた三角縁神獣鏡の母鏡とみられるもっとも大きな径となるものが出土した古墳をみると、北九州と吉備に片寄っていることがわかる。
これは三角縁神獣鏡の流通の起点が畿内ではないことを示しており、たとえ下賜と仮定しても
北九州から畿内にもたらされた蓋然性が高く畿内説にとって非常に不利な結果となっている。
母鏡の出土例
>藤崎方形周溝墓
>天神森古墳
>原口古墳
>名島古墳
>香椎ヶ丘古墳
>
>以上福岡
>
>湯迫車塚古墳 岡山
>赤塚古墳 大分
>造山1号噴 島根
>椿井大塚山古墳 奈良 >>732
さすが九州説
いうこと全然わけわからん >>729
卑弥呼の朝貢は景初二年と正始元年の2回でしょ 最初の100枚はサービスで、追加分は有料だな
倭国の辰砂と真珠で支払ったんだな >>737
とっくに科学的に否定されてる素人自費出版本を何度もコピペに貼り付ける変態
それがキウス 同時に作られたら国産とはどういう理屈?
あと同じ銅で同時期に作られたという分析方法を
鉛 同 位 体 以 外の方法で説明してあるなら
ぜひお教えください 老婆「広瀬座というのがあったんだよ」
たしか 稲 田 が保存されている? >>741
はいいつものザラコクのウソね
みんな耳貸さなくていいよ クナ国の版図は山城国を除く畿内+淡路島だな。
2世紀末に吉備や伊勢尾張の勢力に、淡路島や大和国を征圧されたんだね。
その結果、対クナの前線として卑弥呼が一時的に都を置いていたのがヤマトの地、これが邪馬台国。 >>737
踏み返しだと鏡の大きさはほとんど変化しないそうだぞ
むしろ鋳型が少し大きくなるそうだから
同じ鋳型で連続して作れば
コピー品の方が大きくなるんじゃないか 久しぶりだ ルールとして過去カキコミは少し読んだ
株式のスレはダメだ・・宣伝だらけだ・・
歴史板が良い
残り、畿内説で論破しなきゃ 案件はどれだ
俺の出番も作れよ 皆々さんよ
2ちゃんから5ちゃんへの変更もミニ経済だな
少しお題をくれよ畿内説 俺の出番も作れよ ではザラコクを短里なんてないというテーマで追い詰めまくって追い出してくれ 忍者アニメ、ホオズキ何やらという作品がなかった?
保存された家は移築、復元したと書いてあるから・・・、
どういう話なんだろう
家は伊達郡というところでしょ・・・それにしても老婆は詳しすぎる >>726
国産説の弱点は後にも先にも三角の系譜を追えないこと
三角は同笵製作を多様するが同時代の倭鏡にはない
三角は漢字の銘文があるが同時代の倭鏡では文字のような模様になる
三角は神仙・聖獣をきちんと認識しているが同時代の倭鏡ではわけのわからない怪獣になる
三角には仏像を文様にしているものがある
三角には倭にいない象や倭にない馬車の文様を持つものがある 政治の板もダメ------
小池は反自民で無く、都知事選挙で自民が推薦しなかった怨念だけだから面白くない
理念は自民 偶然なのかな、
もれ(仮)の母親の旧姓でしょ、近藤 >>759
あのね- 君ね- いや何も------------
>>729
正論 頭のおかしい人?
△スレにも現れるけど、
相手にされていないという事がわからないのかな >>761
解明したよ、遅かったが
皆 気づいてるから無視してたんだ
畿内説の終末だな@ ちなみに、△スレでの、もれ(仮)の書き込み
【フリーメーソン】ユダヤの陰謀【イルミナティ】118 wなし [無断転載禁止]©2ch.net
ここの「>>218」 きゅうりのような葉、葱の華・・・、
などの写っている写真があったでしょ
家の先祖の写真 こんな所に居ると九州説のイルミナティ連中に狙われるぞ
すぐに逃げるんだ >>756
なるほど
三角はコピーに値する特別扱いされた鏡で
銘文である漢字の使用に意味があって
意匠も倭人では創造できない、倭地にはいない獣の意匠である上に、創意工夫の系譜が あると。
こんなものを倭人が作れたはずがないということですね! 川崎区に住んでいるから、
家に来ると良い
現在、住んでいるところは、川崎区の南部のほうだよ
でも家に来たとしても会わないと思う、
そのような用事がないんだから >>756
国産とすると、
技術や意匠が突然現れ、
他の鏡に直接的な影響を与えず、
忽然と消えてしまう、
ということになる >>761
ダ龍鏡でググってみそ
※ダは本当は難しい漢字 >>744
オリジナルとコピーの区別ができて、オリジナルは九州に多いということ? このスレに書き込んだ
おれも馬鹿だった・・・・・・・
畿内説なんてどうでもよかったんだ・・・・・・・・
2ちゃん、5ちゃんどうでも良かったんだ、要は金・・・・・・・・・・・
「イイネ」が銭で買えるんだ
スレ主がまともなら、2ちゃんで無い方法をとる
「畿内説が論破されて成り立つスレ」
??????????????????????????????????????? wikiを読んでみて
降臨神話のところに書いてあるでしょ
眼がホオズキのように >>776
毎度キウスは何言いたいのか全く伝わってこない >>776
二度と書き込みにこなくていいぞ
いや、来るな! 来てみればわかる
兄 弟(もれ)でしょ
結婚したから家にはいないけど、
妹もいるよ まさか国産って意味を
倭人が作った鏡と思ってるのか??? >>782
本来は神様と龍だったのが、くっついてしまって、頭が二つある長胴の怪獣になってるんだぜ
これが三角が副葬されまくってる時代に作られている倭鏡なんだ
三角と比べると意匠に対する認識が天と地ほどかけ離れてることがわかるだろ もれ(仮)・・・・・・・・・・・・・・・・手慣れた奴 ネットだから、
そういう書き込みをしているだけだよ、
現実のもれ(仮)はあまり怒らないよw
兄は違う 漫画の設定と同じような?蠍座? >>786
鏡師が渡来してきたとしても、倭鏡に直接的な影響を与えていない状況はおかしいだろ >>788
いまだに呉の工人が〜とか言ってる思考停止状態が国産説の実態 >>785subo
#・・・つけい
得ること無し
誰でも suboになれる >>789
ワロタ
もれ(仮)は古いな・・・
Wwwwwwwwwwwwwwwww] 九州説はなぜ鏡作りに魏の工人が来日したとしないか
そっちの方が不自然さが少しはなくなるのに
つまりこれは魏と畿内の係わりを
九州説は一切否定しなくてはいけないから
国交のあった魏の工人でなく
国交のなかった筈の呉の工人としなくてはならないのである
とんでもない短絡的考え方である 魏には銅も鉛もなかったからな、倭国に亡命する理由もないし >三角は同笵製作を多様するが同時代の倭鏡にはない
同笵製作を多用するのは畿内の銅鐸職人さんの技法。
呉から亡命してきた鏡職人と
畿内で失業した銅鐸職人が
協力して作ったんだね。 >>789および
>>795
もれ(仮)
で盛りあがってますね
10月27日の第69回正倉院展ー「開会式・内覧会」で私だと気づいたら・・・
邪馬台国は大和王権と関係無い事がよくわかりますよ
一般公開は10月28日ですが・・
なお、私の「開会式・内覧会」招待Noは上5です 三角が畿内産なら初期ヤマト王権の物的証拠になって九州説は死亡だな 記紀に邪馬台国は書かれていない
邪馬台国と初期ヤマト王権は無関係
三角は古墳の中で低位に副葬
王権の象徴なら高位に副葬される 人伝でもらった招待状でドヤ顔とか
勘違い野郎の典型だな 家の先祖の話だよ
酒を造って・・・何やらという神話でしょ 神代のことだから、よくわからないけど、
稲田、米に甕、木材に樽?酒を造ったとか 『松傾』
この話をしているんだと思う『山守』と書いてあったりしない? キュウリの葉のようなものが写っていて
「かっぱっぱ」?
名前も「松傾」と同じ、でも読み方が何やらと言っている >>806
キウス ◆P5DBe7oqOQ
嘘つくな、上5だって?
上一桁●で0〜9 × (二桁)0〜9=100人これは少ない
上2桁で5では●1、000人
奈良国立博物館の収容人数からムリ 邪馬台国なんてなかった時代の話だぞ
と言っている人もいた >>816
これだから畿内説の素人さんの方は困るのですよ
畿内説そのものが御遊びなのに気付かない無いのかな
磯田もお遊びですよ ヤマ何やら〜とか、
キャラクター名のようなものなのかな
画像などを調べてみると、
緑色の服を着ている絵や掛け軸が出てきたり、
斧のようなものを持っている絵があったりw >>818
毎度キウスは何が言いたいのか全く伝わってこない >>805
これですね!
大陸に同笵鏡を作る文化というか志向がなかったと! 松傾、鳳凰?が何やら〜
マイク・オーの曲だと思っていたんだけど >>820
どなたか知りませんが、たぶん・・
内覧会は27日ですが28日から一般公開されます
是非 ・・・ 偶然にしては出来すぎているでしょ
『かっぱっぱ』調べてみると「うちわに『涼』」このような画像が出てきたり 老婆が言うには
馬に乗っていて、よくわからないけど何かの刀?を持っていた〜と言っていた >>805
それだと三角縁以外の倭鏡で同笵鏡がないことを説明できない
というか、銅鐸の同笵は石製鋳型で作ってる時期のもので土製鋳型になってからは同笵はない
三角縁の登場まで時間的空白があるぞ 山奥?に住んでいる人のほうが詳しい、
なぜなのか?という事になる
学問の話とか、
中国や朝鮮から入ってきたと書いてあるでしょ とある時代になって移住、
今でいう引っ越しを、しただけなのかな
なぜ詳しいのか・・・なんだよな 王母?『西王母』
調べてみると『伊達の桃太郎』と同じような話が出てきたり もののけ姫、神殺しの話とか
あのような作品は何の話なんだろう、
嫉妬団か何かがいて、
そのようなことをしたという話? 伝説なのか神話なのか
白い猪、蛇を殺したとか、
ほとんど山守の話でしょ 2chがいつの間にか5chに乗っ取られ朝鮮総連配下の通名しばき隊員や5chの商標出願の
代理人=原田學植こと(趙學植) シンスゴたちののりこえねっとTV「警察は市民の権利を守れ 」
原田學植×神原元×野間易通(のりこえねっとTube) 関係者に代わりました。IPご注意を!!
5chの代理人弁護士は通名のしばき隊員だった
http://leia.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1506910634/ むかーし住んでいたところの近所に
蓬莱橋、蓬莱川?というのがあった
とか
老婆は詳しい
伊達郡、飯野とか言っている 飯野というところがあって、
たしか川が流れていて、そこにダムがあったんだよ
と言っていた 281の>>802
>銅矛の記述?
>用兵の部分は矛は「その記述通り実戦武器だ」
巨大化して刃もついてない、しかも差し込みさえも埋まってる祭器の矛持ち出して<
広矛になったのは、当然「青銅のもろさ」のカバーのためであり、
鉄器への移行の前段階であっただけで、実践武具だ。
>毎度浮かれてるバカの姿ときたら そしてこの中国の矛は槍のことだ <
細身の槍は、(もろさが少ない)鉄の普及に伴ったもので、矛からの進化であり、矛の一種だ。
>ついでに邪馬台国の時代には衰退してもう出ない<
いや、地域と年代が違う。卑弥呼の頃はまだ青銅矛が中心であったのであり、
鉄が大量に入って来て、弥生銀座で細身の鉄槍になって行った。
そして、大和は、3世紀末以後のホケノで段階でも、まだ鉄鏃の時代だ。 281の>>803
ヤマトセツって本当にバカの集まりだな。
よくこんなバカで社会生活送れると思うわ 。
何一つ知らないのに人様と議論してるつもりなんだからあきれるしかない 。
しかし、PCが故障のようで、時間が足りないから、
このような・・・・投稿は、しばらくパスね。 281の>>808
>帯方をソウル 邪馬台国を奈良として<
「南≠東」だから、×。
>直線距離でソウルー奈良856km 856÷12000=0,071
1万2千里が直線距離で奈良を指すなら 一里を約71mと換算すると畿内を指す<
陳寿の記載は道のり距離であり、
直線距離も、×。 281の>>813
>つかなんで水行と陸行都合よく無視してんだよ
ついでに九州「過ぎてから」女王国だ<
「自郡至女王國萬二千餘里」が陳寿の行程の総括結論であり、
日数記載は、付加補足でしかない。
>九州なんざ都どころか女王国にさえ含まれてない属国だって書いてんだよ
アホ<
ヤマトなんざ、都どころか女王国にさえ含まれてない「別種の附庸国の旧小国だ」、
って書いてんだよ、アホ。 281の>>822
>おやおや一里は正確に75mでなくていいと 先ほど>>785が認めたんだが?<
有効数字1桁程度の近似値の記載だよ。
>なので残り2000里は畿内までの距離を 表す可能性も捨てきれませんなぁ<
「南≠東」だし、
魏使らや陳寿は、普通の人々だから、
大和説の・・・・アホとは違って、
「九州まで短里で記載して、その後6倍の長里で書く」、というアホな事はしないよ。 281の>>825
>「女王国まで1万2千里」なんだよ 「邪馬台国まで1万2千里」じゃねぇんだよ バカが<
「南至邪馬壹國、女王之所都」だよ、アホが。
>「日本に行って東京に行く」と同じ 「女王国に入ってから首都の邪馬台国に行く」んだよ
1万2千未満の九州は「女王国ですらない属領」って書いてんだよバカが<
「南至邪馬壹國、女王之所都」と書いてあんだよ、
「南→東」などの嘘吐きダマシの・・・・アホの大和説者が。 中華や皇帝など・・・の家のほうが凄いという事はわかっているはず
それが天津などを退治?神殺し?
と書いてあるでしょ 281の>>827
>いや普通に昔から言われてる奴があるんだけれど 不彌国までで邪馬台国まで残り1300里
これを一里400mの長里に換算すると 畿内に到着するっていう <
「南≠東」だし、
魏使らは陳寿は、不彌國までと、不彌國以後とを「違う里距離で記録する」というような、
・・・・アホではなく、普通の人。
>まあ今の畿内説はこういう説は取らないけど 魏志倭人伝の距離換算するとわかるように
距離は不正確だから参考にしないのが主流<
距離は、有効数字1桁近似値として、しっかり書かれているよ。 281の>>827
>いや普通に昔から言われてる奴があるんだけれど 不彌国までで邪馬台国まで残り1300里
これを一里400mの長里に換算すると 畿内に到着するっていう <
「南≠東」だし、
魏使らは陳寿は、不彌國までと、不彌國以後とを「違う里距離で記録する」というような、
・・・・アホではなく、普通の人。
>まあ今の畿内説はこういう説は取らないけど 魏志倭人伝の距離換算するとわかるように
距離は不正確だから参考にしないのが主流<
距離は、有効数字1桁近似値として、しっかり書かれているよ。 このようなサイトにも書いてあるはず
『記紀神話 引用』 281の>>829ほらな
「南→東」などのヤマトセツの・・・・アホって「倭人伝すら読んでない」。
どっかの珍説サイトの「里数をいじればほら!たどり着く!間違いない!」
とかいう馬鹿説見て浮かれてるんだろうよ 。
ゾウリムシ以下だなこいつら。 子供でもわかる、
お前の大好きな日本の天皇?よりも上の家でしょ 281の>>833
>認めてもいいけど そんなら帯方から1万2千里は畿内を指す事になるなぁ <
「南≠東」だから、嘘つきダマシの・・・・は認めないよ。 有効数字1桁何とかは
魏志倭人伝の距離を換算して見れば
場所によって一里の長さが3倍も違うからウソだとわかる
ザラコクは史料事実の無視をする 281の>>836
「南→東」などの嘘吐きダマシのヤマトセツのバカは、
ご自慢の脳内行程を自分のサイトで好きなだけ披露しておけよ 。
そんなアホな話見せられてるだけで可哀そうになってくる。
詐欺の病人は、隔離病院か刑務所にとっとと戻れ。 『天津神明宮』
『天津・・・・』
調べてみれば良いんだよ 281の>>838
都合が悪いから認めないわけじゃないんだぞ。
魏志倭人伝のどこも一里75mでの有効数字1桁近似以内になっているし。
長里が使われていた証拠がないから認めないんだぞ。
ちゃんとした証拠が出たら長里はあったと速攻認めるわ。
周髀算経が短里であったし、魏志も殆どが短里なんだよ。 老婆の言う泥棒のようなものに入られたという話、
それ関係の話だと思う 281の>>841
>つまり一里は75mじゃなく何メートルでもいいわけだな?<
いや、有効数字1桁近似表現 だ、という制限がある。
>なら1万2千里は畿内説にとっては畿内を指す<
不彌國までで「自郡至女王國萬二千餘里」をほぼ消化してしまっているから、
大和なんぞ、全く届かないよ。
>九州説爆発四散 <
「南→東」などの嘘吐きダマシの・・・・大和説爆発四散。 281の>>845
残念だけど一里は何mでもいいのではなく、
有効数字1桁近似値なんだそうだ 。 天津神
おそらく『デスラー』のようなキャラだと思う。
詳しいことは、わからないけど、凄い刀を持っていたと言っているし、
家に飾ってあった。 281の>>848
なんで大和説なんだよ。甘い甘い。
「一里は正確に434m」はがんとして譲ってはいけない 。
>実測と合わないとか古代にどうやって 正確に計測できたのとか <
一寸千里や三角測量や記里車や歩測などでの、有効数字1桁近似値だよ。
大和説者は、
「存在を示す証拠が一切ないとかは、気にしないで、
ザラコクの一寸千里の説明は、判らんかった事にして、押し切るしかないよ。 281の>>849
>何で長里がダメなんだ? <
地図の距離と、6倍位も違うから。
>長里にすれば邪馬台国は畿内で合う部分もあるのに <
不彌國まで短里にして、
僅かに足りなさそうな部分を造作して、その部分を長里にして、
「南→東」の嘘吐きダマシの・・・・サギをすれば、ね。 漫画だけど、このような作品でもわかる
『浅野 天津』
老婆も浅野が何やらと言っていた、
セメントの浅野だけど 281の>>852
>全部正確に一里75mになるのか?<
いや、有効数字1桁近似の記載だから、その範囲内位だよ。
>まさか途中で一里50mになったり140mになったりしないだろうな <
古田さんも、(谷本計算が出るまでは)、
「75〜90mの範囲で、75mに極めて近い」という範囲論だったんだよ。 281の>>855
>イヤ畿内説は長里をごり押しなんてしない・・・短里がありえないという立場<
イヤ、大和説は、必ず道のりのどこかで「長里」を使うから、ごり押しをしている。
>距離の記述は不正確だから<
魏志では、距離は有効数字1桁近似値の正確さ。
>1万2000里が邪馬台国を示しているものとはしない <
魏使らや陳寿は、はっきり「自郡至女王國萬二千餘里」と書いている。 281の>>860
>里は邪馬台国じゃなくて、女王国までの距離だよ <
「南至邪馬壹國、女王之所都」と書いてあるんだよ。 古田説はもう通用しないよ
短里が実測とあわない事は今では誰でも確かめられる
ネットのない時代に好き勝手に九州説に都合のいい数字をでっち上げて
詳しく調べようのない一般人を騙すのが古田説のやり方
現在ではちょっとネット検索すれば古田説のデタラメがすぐわかるから
昔みたいに周髀算経から短い里を求めた!とか
ハッタリで人を騙そうとしても
道理をわきまえないバカがわめいてるだけにしか見えない 281の>>862
>奴国までの行程だと1万6百里で 邪馬台国まで1400里足りないぞ <
魏使らは、方四百里の對海國と、方三百里の一大國の、
國内見聞移動を記録しているんだよ。 281の>>863
>誤記入 転写ミス 誤情報に基づく錯誤 原因はいくらでも考えられる<
「誤」の発生確率が0.5%以下であり、更に、宋明清代の写本版本の校勘で「南」を間違いだとした例は、0。
という事は、間違えた確率は0.5%よりはるか以下であり、
正しい確率は、99.5%を(遥かに)以上。 281の>>864
>それなら短里は一里50mでもなく100mでもなく
きっちり75m以外はないんだな?<
有効数字1桁近似値で書かれている、と言ってるだろ?。 281の>>867
>短里じゃないなら畿内は長里説だろって短絡すぎるだろ<
大和説なら、結果としても、全員「長里」説を肯定した事になるんだよ。
>畿内説は一里が所々50mになったり100mになったりするのを見て
魏志倭人伝に書いてある里は短里でも長里でもない
アバウト里だって理解している<
アバウトでも、長里では全くないし、短里としての有効数字1桁近似の範囲内だよ。 景初三年は13ヶ月で改元が翌月だから四年鏡はその表れだな
こういうのは製造現場ではよくある
梯儁は100枚とは別に使われなかった2枚を「こういうのもあるんだけど」と難升米に渡すわけね
難升米は「これはどうもすみません」と真珠20個くらいお返しすると
張政なんかも帰るときポケットぱんぱんになっていると
だいたいこうやって中国の役人社会は回ってるから その作品も同じ
老婆の言っている、
銀?あのようなキャラも出てきたり
どういう事になっているんだろう 281の>>872
>それなら一里400mの場所もありうるわけだ <
8カ所位短里の記載の確認が出来れば、
例えば、6倍の長里を「6分の1の確率だ」としても、
一つに長里が起きる可能性は、「6分の1の8乗」分の1、
の確率にしかならない。
>3世紀の事だからな 1万2千里は畿内をも指す<
まあ、1万〜10万分の1、位の確率だな。 >>875
アバウト里で話を終わらせる事は、わかりませんでした、と言ってる様な物
同じアバウトでも○○〜○○までの値と考察してるのが九州説だろ?
畿内説でもしっかり説明すべき
「でたらめ」、とするならその理由が必要
個人的には畿内説でも日程記述部分を別ルートとする説なら問題ないのだがね 281の>>877
>不彌国まで1万7百里 <
いや、對海國と一大國の国内見聞移動距離を入れると、
不彌國で「萬二千余里」は、殆ど使ってしまっている事になる。
>女王国まで1万2千里だから残り1300里 <
残りは、殆ど0里。
>これを一里400mの長里で計算すれば畿内に到達 <
約0里×400≒約0里。 >>879
>「でたらめ」、とするならその理由が必要
いくら言っても聞かないのが九州説だな 朝鮮半島でも200年以上前の李氏朝鮮後期には「地球は四角い平面じゃなかったんだ」と気がついたんだな
加古川ではまだ天円地方で書かれたものをまんま実際の地理にあてはめている
遺伝的にコリアンよりも劣っているんだろう 281の>>881
>それを何で行程に組み込まれなきゃなんないの?<
魏使らや陳寿は、渡海は「出発港〜到着港」の里数で記載(居住外縁部説)しており、
国内移動があった場合の移動距離は、当然別計算している事になるから。
>不彌国まで1万7百里だからって <
對海國と一大國の国内見聞移動距離をいれなくてはならないから、
不彌國で殆ど萬二千余里に達してしまっている事になるんだよ。
>それを1万2千里に無理やりするための悪質な欺瞞だな
皆さん、九州説はこんな誤魔化しを行うんですよ <
それを1万700里に無理やりするための悪質な欺瞞だな。
皆さん、大和説は、「南→東」などの嘘吐きダマシをするだけではなく、
こんな誤魔化しを行うんですよ。 281の>>882
>どこに? また九州説はウソつくの?<
これだけでは判らないから、また元のレスを探して読まなくてはならないが、
という事は、大和説者は、
また、相手に手間をかけさせて、間違いや放棄を誘発させて、
議論に勝ったかのように叫んで、世間の人々を騙そう、とでもするんでしょ?。 老婆の話
ネットもなかった時代、そのような本も持っていない、
調べなくても詳しい
どういう事だと思う 281の>>883
>奈良が0邪馬台国なら一里400mで 現在の地図でも比較できるぞ <
「南≠東」だし、
不彌國で萬二千余里が殆ど使い果たしているから、
どっちににしても、大和説は×だよ。 女王国の国土の南限の邪馬台国までが帯方郡から1万2千里
北西限の半島南岸狗邪韓國までが7千里、対馬まで千里、壱岐まで千里、末羅(糸島)まで千里。
魏志や後漢書の里程が議論の対象にはならんだろ?
女王国の南限は九州上陸から南に2千里の一月行に有る女王の処都、邪馬台国だよ。
ちゃんと読め 281の>>888
と、口先で結論だけを言い張るが、
なんの史料事実や史料実態証拠も、出さないのが、大和説。 281の>>889
>對馬國と一大國内の移動距離を加算するなら
末盧國、伊都國、奴國内の移動距離も加算しないといかんな <
末盧國と伊都國は国の大きさが書かれないような国。
奴國は、途中移動の動詞が書かれていないから、
始めから魏使らが通っていない側副傍線行程の国。 だって目的地が伊都だから。
奴国へは少し足を伸ばしただけ。 281の>>890
>それこそゴマカシだ。
ほかは全部が国邑から国邑までの距離なのに<
いや、陳寿は、国間距離記載は、原則として、「居住外縁部や城柵」同士の距離記載だよ。
>どうして2島だけ変えるんだ?<
他の国は「国の大きさの里数」を書いていないから。 281の>>891
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシと、
史料実態へのウソと中傷と、史料根拠にない珍説、
それが大和説のすべて 。 かなり前から気になっている、
げーりー・むーあの曲
このような対訳:馬鹿どもが、また旗を掲げている
国旗だったかな? 星の神と書いてあったり、
おそらく蚕を飼ったり機織りをしていたんだと思う 星の神 starという意味でしょ、
そらに太陽が・・・と言っている人がいたり 『ザ・モモタロウ』に登場する某キャラ
starlight starlightと言っていたり、
なぜかローラースケートを装着している? このような書き込みがあるでしょ
>かーくん が
何やらとか 281の>>899
>都合よく水行も陸行も全部無視して<
行程記載は、不彌國で「萬二千余里」がほぼ終わっているから、
「水行や陸行」記載は、付加的補足説明。
>「1万2千里で女王国」と書いてるのになぜか「邪馬台国につく」と喚くバカキュウシュウセツ<
「南至邪馬壹國、女王之所都」だから。 <281の>>901
>つまり不弥国から邪馬台国まで1400里はあるわけね <
いや、對海國と一大國の国内見聞移動距離の最大1400里を加えて、
不彌國で、萬二千余里がほぼ終わってしまう事になるの。 281の>>902
>女王国と女王の領域、邪馬台国が別けて書いてあるとわからないで浮かれてるバカがキュウシュウセツ
まぁ倭人伝読んだことないでバカサイト見てるだけだから仕方ないよね <
「從郡至倭・・・南至邪馬壹國、女王之所都」とされ、
「自郡至女王國萬二千餘里」と総括されている、という事が判らず、
有りもしない「邪馬台国」をでっち上げて、騒いでいるヤマトセツ者という・・・・人種は・・・。 281の>>904
「南→東」などの史料事実の否定曲解をして、
史料事実や史料実態の論拠を言えず、
ぼくのかんがえた珍説だけが証拠だ、といいはるのが、ヤマトセツ。 281の>>908
っていうかヤマトセツ者は、
「ぼくのかんがえた珍説行程」以外に何の根拠もないんだなw。
なんだっけ?「ヤマトに矛があるからやまたいこくなんだー」だっけ?w。
笑わせてくれる 。 281の910
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説は、
島の大きさを足さなかったり、
不彌國までで萬二千里が(短里で)ほぼ終わっているのに、
少し半端を捏造して、その捏造を長里で計算して、
付加補足記載の日数記載分で大和まで延長したり、
まるで帳尻合わせの二重帳簿のようだな。 281の>>911
あーあ、やだねぇ。
大和説みたいな事言い出したら、隔離病院か刑務所が待っているだけで、
人間お終いよ。 伊達郡の飯野
あれは何の掲示板なんだろう
ロックボトム。まいね。まいやー?
と名乗る人物が現れたり 281の>>914
>ちなみに隋書でも1万2千里が採用されてるわけだが
「用明、推古天皇の時代に『実際に双方の使者が都を往来した上で』魏志に同じ」と書いてる<
「用明、推古」なんて書いていないし、
逆に倭奴國の後裔の国であって、「自魏至于齊、梁、代與中國相通」とまで書いているから、
俀國は、筑紫倭国の位置にあった。
>つまり、1万2千里は国境までというのが中国の記述なわけだwww このころの九州に独自王朝なんてねーからwwwな?小便信者?w
都はそこからさらに進んだ場所ということ あ?もう一度水行と陸行を別に書きました?1万2千里で首都につきました?
ばーーかwwww<
何だ?、この変な男が、
和田キヨエをたぶらかして、尿入り?一升瓶を沢山旧和田家に置いておいた、
犯人の仲間であったのか?。
道理で、精神異常のような事を書くやつだな、と思えた訳だ。 芝居、歌舞伎が好きだったんだよ
と言っていたり
調べてみると、実際、そういうところがあるし 281の>>916
さあいいぞ。
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者が、
色々とわけのわからない事言って誤魔化しを行い始めたぞ。
いつものパターンだと次は撤退だな。
そして何日かして性懲りもなく同じ話をくり返す。 281の>>919
>だから ほかは全部が国邑から国邑までの距離なのに、<
陳寿の国間距離記載は、原則として、
その国に着いた事が明確になる「居住外縁部や境界の門や城郭の門」であるんだよ。
>どうして2島だけルールを変えるんだ?<
国の大きさの「方〜里」が書かれていて、その国内の見聞移動があった事も記載されているから。 281の>>921
>九州島自体が周五千里と書かれてるぞ これは足さなくていいの?<
「自郡至女王國萬二千餘里」は「從郡至倭〜南至邪馬壹國女王之所都 」であり、
「周旋」は、「周囲」ではなく「周を巡り行く」という事しか意味しないから。 281の>>926
>女王は推戴された連合王国の盟主 だから本人が治めてる「都とする邪馬台国」と「連合全部の女王国」「女王国の影響下にある国」と分けてる
1万2千里でその女王国についてんだよwww邪馬台国じゃねえんだよwww
で、九州は一大卒が配置されてヒナモリっていう辺境守備隊が配置されて「統属」してる「女王国外の属国」と書いてんだよwww
笑わせんなwwww<
そんな事は書いてないし、
「邪馬台国」なんて存在しないし・・・。 >>914
じゃあ、国の大きさの「方〜里」が書かれていないなら、国の中心地から次の国の中心地までの距離なんだな?
それでいいんだな?
「東南至奴国百里」の百里は伊都国の中心地から奴国の中心地までの距離でいいんだな?
室見川を越えられないぞ
短里説が破綻だ 281の>>932
>日数が帯方郡からのものだって言い張るなら
どこからどこまでが水行十日で、どこからどこまでが陸行一月なんだ?
誤魔化すなよ <
「循海岸水行」(歴韓國乍南乍東は水行ではない)と、「3渡海」が水行。
他は陸行。 281の933
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説らしさが出てきたな。
あらゆる証拠を無視。
ひたすら長里だ大和だと連呼。
今日も何の進歩もしませんでした。 竹取のモデルとなったのは
あしなで、てなで・・・何やら
この話だろう デスラー?なのかな
酒の話、酒のようなものを持っていたり 竹取物語に登場する貴公子たちはほぼ実在の人物で、その官位からは舞台が西暦701年、律令制の確立された年とされる。
ただ1人の仮名の人物は藤原不比等と推定されており、かぐや姫から課された課題は筑紫の龍の玉、すなわち王権を取りに行くことであったが、これを嘘偽りで済ませようとした。
嘘偽りで政権を取ろうとする企みは昔からあった。
キナイセツは今でも嘘偽りで歴史を歪曲しようとしている。 昔は大和説と言っていたのに、九州のようなめぼしい遺跡が出なかったので、範囲を広げて畿内説と呼ぶようになった。
纒向が見つかって少し風向きが変わるかと思ったが、やはり周りに遺跡が少ないし、たぶん卑弥呼と関係がない4世紀の遺跡。 >>927
昔から畿内説と言ってるよ
ザラコクの言うことはウソばっかり
怒 281の>>936
>で、中部も南部も東部も『弥生時代を通じて北部と別文化圏』だからなwww
>九州全域に影響を広げてるのは畿内だから
九州全域に庄内土器と墓制がすでに広まっているwwww<
バカだな。
薩摩の上野原遺跡が東鯷人の中心であったんだろう、という事はもう何度も書いてあるし、
宮崎が天孫族の伊都國の阿毎氏系であったらしいことも、
もう何度も書いている。 281の>>936
>で、中部も南部も東部も『弥生時代を通じて北部と別文化圏』だからなwww
>九州全域に影響を広げてるのは畿内だから
九州全域に庄内土器と墓制がすでに広まっているwwww<
バカだな。
薩摩の上野原遺跡が東鯷人の中心であったんだろう、という事はもう何度も書いてあるし、
宮崎が天孫族の伊都國の阿毎氏系であったらしいことも、
もう何度も書いている。 281の>>939
倭人伝を曲解捏造しているのが大和説。 281の>>941
>A県からB島まで船で30kmの距離を渡ります
B島は南北5kmの大きさがあります B島からC県に行くには海を10km渡ります
これでA県からC県まで行くのに40kmじゃなくて
B島の南北長を足して50kmだとか言ってるような物じゃないか<
古代の魏使らは、安全最短が原則であるから、
出来るだけ「水行よりも陸行」を選択するのだし、
B島でも、島内の山越えを選択するよりも、
海岸沿いの平坦な場所を選んで進んで行くから。 281の>>944は、もう何度も説明済みだし、
例の・・・・だから、放置しようね。 >>927
そのうち京都、滋賀、兵庫を含めて近畿説とか言い出すな 281の>>995
>ばらつきあっても九州北部に邪馬台国は収まらん <
弥生銀座がある位だし、投馬國は南九州だから、収まる。 281の>>959
>畿内のホケノや椿山から鉄器はたんまり出ている
今はもう誰も畿内に鉄器は少ないなんて言い出さない <
鉄鏃のホケノは、(吉備と同じく)、
扶余や東沃沮の「有槨」部族流民や楽浪の画文帯部族流民が入って来たから、
3世紀末から4世紀。
椿山は、鉄鏃や筑紫の鏡や三角縁があるから、ホケノよりも新しい。 その名字などの家でしょ?
日本人よりも、先に、この地に住んでいたみたいな話だよ
頭の良い人は気づいている、
東北のほうにばかり住んでいるでしょ 天津 国津、どちらも・・と言っている人がいたり
『酒の神 百済』 本当に「もののけ姫」だよ
神殺し、白い猪、森林が出てきたり、河童も出てきた? 筑紫は畿内より100年早く古墳時代になってるからな。 たしか貼り付けたはず、
同じ家の写真、家の写真
そのような植物が写っていたでしょ オジギソウ、シダ類のような植物でしょ。
キュウリのような葉、葱の華の写っているもの・・・・。
『松傾』と同じ読み?だと言っている「す」のほう 281の>>961
>その答えは、鉄鏃でわかる。<
ホケノで急に鉄鏃が多く副葬された、という事は、
鉄鏃を誇りにした部族が来たから、であり、
ホケノが突然「吉備と同じ有槨」になり、楽浪画文帯を副葬した、という事は、
大和に、扶余や東沃沮や楽浪流民が流入してきた可能性が高い。 281の>>965
>そして九州はこの時期に王墓も消滅し、銅矛や甕棺のようなまとまりもなくなる<
いや、福岡や糸島の天孫族の阿毎氏から、久留米の東海姫氏に王が変わり、
銅矛は鉄矛(鉄槍)に変わり、
墓は箱式石棺から横穴式石室(槨)にかわり、
祇園山の高塚から那珂八幡などの前方後円墳に変わって行った。
>そして九州に全くなかった大型墳墓さ<
壹與の遣使が武帝の晋朝から天円地方を教わり、
モンゴル〜高句麗の前方後円墳が伝わった。
>土器祭祀、吉備、庄内土器がまさに邪馬台国の前の時代から激しく流入する<
庄内は三雲で工夫され、東方へ伝搬して逆に搬入上納されたが、
筑紫では伽耶の陶質土器の流入で、陶器の生産が起きた。 ストーカーがいるのかな
昔から、そのような事をしている
と書いている人がいたり >>953
三雲で見つかった庄内式土器は畿内からの搬入品なんだよ 281の>>973
>つまり鏡と矛が出てくるってことは九州が独自の祭器を献上して降伏してるってことなんだよwww <
大和に「矛」なんて出土するんかい?。 家は本当は「す」のほうの読み方なんだけど、
近所に給料泥棒のようなものがいて、読み方だけ・・・何やら〜みたいな事を言っていた
同じところで仕事をしていたのかな 本当の、もれ(仮)の家は山の上のほうなんだよ、
伊達郡というところw 281の>>978
>前方後円墳は大和から九州 <
やはり那珂八幡のある弥生銀座に、
(285年の扶余の戦乱から逃げて来た流民の)伽耶の陶質土器が沢山でたから、
那珂八幡は、扶余の流民から「モンゴル〜高句麗の)前方後円墳を学んだ可能性が高い。
しかし、同じ扶余東沃沮の「槨」部族が来たらしい吉備は、まだ「双方中円墳」であり、
前方後円墳になっていないから、
那珂八幡の前方後円墳は、東瀬戸内や大和よりも早い、という事になる。 仕事のような事もしていなかったのかな、
田んぼや畑が何やらと言っていたから 281の>>993
>ところが倭人伝はA国からB島に行くなんて書いてないところがミソ
国から国と書いてある 島の大きさを足したりするのは二重帳簿サギ <
魏使らの記録や陳寿の計算は、渡海千里は海上部分であり、出発港から到着港までの距離計算。
という事は、大きな国の陸行距離は別になる。 同じような名前の人がいたと言っていたのかな、
給料が少なくて、給料泥棒のような目にあった・・・。
しょうがないから読み方を変え、
本当は草冠も繋がっていないとか、「ー」ようにしたとかしないとか(不明) >>84
>西服衆夷されてんじゃん <
「服」は、
「征」や「平」という目的語を持つ他動詞的ではなく、
目的語を持たない自動詞的であるから、
「服属させて現在服している」という意味。 前方後円墳は、東海中の蓬萊,方丈(方壺),瀛洲とよばれる三神山を表している
仙人たちが住み,不老不死の薬があるという
いずれも壺の形をしているので三壺山ともいわれる
先秦時代,渤海沿岸の燕や斉の方士たちが唱え、
歴代,宮中の池や上元節の山車等に,三神山が作られた >>103
>では周髀算経にある一寸千里の法則から どうやって一里75mの短里を導いたのか説明してもらおうか
できなければ短里は周の時代に使われていた単位というのは 大ホラ認定させてもらう <
谷本計算。 >>111
>邪馬台国は、畿内にありまあす! <
「邪馬台国」という文言は、史料にはありませんですから、
この投稿子もスレ主も、嘘つきダマシでーす!。 異面の人、日の出所の近くに有り
夷狄の邦といえども、俎豆の象存り(祭祀のかたちが伝わっている)
中國礼を失し、これを四夷に求む、猶お信あり
加古川には礼という概念はない >>969
代用に新字体を使うことは一般に許容されている
世の中の常識に従えない老人は早く隠居しろ >>129
>自著名であるという根拠はなに? <
陳寿が、
他の倭人伝の記載では「卑彌呼」とはっきり書いておいて、
突然、三少帝紀齊王に「倭國女王俾彌呼遣使奉獻」と「俾彌呼」に書き換える必要も筈もないから、
それは理由があった事になり、
卑弥呼の自署名が「俾彌呼」であった、という可能性が最も高い事になる。 松傾・・・寒い・・・と書いてあるでしょ?
同じことを言っていた、
寒いな・・・原因不明の熱のようなものが出て、腕も動かなくなって
きつね いなりの像が・・・という、あの話 そのような像が家にあったと言っているんだよ、
小さいものだよ
それを、すててしまって・・・・原因不明の熱 仕事も、かなり休んだと言っていたよ。
羽田(空港)のほうに、
そういうところがあるからと言われて、
新しい像をもらって来たら、なおったとか >>135
>まず短理とは「周」髀算経にある通り周の時代に使われていた尺度という触れ込みで
魏の時代の人間は今まで一里400mで使っていた尺度を
周髀算経の一寸千里から一里75mと割り出しそれを使う事にした
だから魏史倭人伝は短里で書かれているという話なんだが<
この男も全くのアホだね。
周代の中国人が「m」を知っている筈がない。
彼らが、周髀算経の前から知っていたのは、尺寸と里歩など、位だけだよ。
>そもそも魏の人間はどうやって周髀算経の一寸千里の法則から
一里75mを割り出したのか? 微分積分などの数学知識はあったんだろうか?
地球が丸いという概念があったんだろうか?<
夏至正午の8尺棒の影が1尺6寸で、その場所から南北に千里行ったところでは、1尺5寸と1尺7寸になる、
という計測事実と、
1里=300歩という決まりだけだよ。 >>142
>それに根本的な事を聞きたいんだが 周時代の八尺の棒の長さはいくつ?<
周代の洛陽での尺定規の8倍だよ。
>一尺六寸の影の長さは?<
1尺=10寸は変わっていないらしいよ。
>周時代には普通の里より5分の1短い短里が使われていたとするなら<
秦の始皇帝が、里歩系と尺寸系の換算が、各地や周政府や秦政府で違っていて混乱していたから、
秦の「1歩=6尺」の換算にせよ、と命令したんだよ。
>尺、寸もそれぞれ短尺、短寸でなくてはおかしい <
尺寸系はずっと、殆ど変わっていないから、短尺とか短寸とかはない。
里歩系でも1里=300歩は、殆ど変わっていない。
>それで換算すると一寸千里の法則は 夏至に南北75km離れると
約35cmの短尺の棒の影の長さが3〜4mmと 本当にこれで計算が合うのか?<
短尺なんてないよ。 >>151
>現在の知識ならそうやって割り出せるだろうけれど
魏の時代では一寸千里から一里75mを割り出すのは無理だと思うけどな
あるいはニュートン並みの天才が居たか<
関係がない。
魏の役人や魏使らは 、8尺棒を持って南北2か所での正午の影長を測れば、
周髀算経に各節季毎の影長の換算表が出来ていて、
すぐにその2地点の南北里数が計測される事になっている。
>そもそも一寸千里は実測値じゃないらしいし <
南北2地点での影長が実測であり、何千里なのか?は換算表から判る。
>いずれにしても一寸千里から天体学、微積分を駆使して 一里75mが割り出したとして
すなわちそれが周で使われていた尺度である 短里の証明だとは言えないと思うな<
短里の証明をするものではない。
南北間の2地点間の里数を測る方法。 >>159
>いやさそれじゃ影の長さの差がわかっても 当時の尺度がわかる事にならない<
尺寸系での計測から、南北方向の里歩系の「里数」を計測する方法なんだよ。 >>165
>日時計で距離よりも方向を間違える魏使ってアホ過ぎだろ <
8尺棒の日時計なら、方向も南北距離も、大体のいい精度で判るよ。 >>169
>だから結局 夏至の正午に南北75km離れると 約35cmの短尺の棒の影の長さの差が3〜4mmになると
本当にこれで計算が合ってるのか?<
短尺とか短寸とかは、存在しないから、×。 >>179
>倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、
大阪湾を中心とした畿内や伊勢尾張が中心だろうね<
「南≠東」であるから×。 周牌算経が6尺=1歩を使っているんだから
短里なんて存在しないんだよ
ご苦労様でした >>180
>ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。<
「南≠東」であるから、×。 >>181
>宮崎、大淀川流域、生目古墳群。 円形周溝墓、前方後円墳、三世紀後半〜。
魏志倭人伝と近い時代に、宮崎にかなりの労働力(人口集積)があったことが分かる。
畿内、ヤマトの旗を同じくする勢力。 女王国メンバーの投馬国だね。<
元はおそらく東テイ人の地域で、卑弥呼直前頃に、
一大率の伊都国の阿毎氏系の投馬國になり、
阿毎氏系の文化が発生した。 ザラコクの書き散らす妄言でスレが埋まるという
なんたる嫌がらせ
迷惑 >>185
>これが魏志倭人伝当時の邪馬台国へ至るルートである。<
「自郡至女王國萬二千餘里」に完全に矛盾するから、×。 九州説を唱えてる奴なんざ、大概が
自分の言うことは神の声だぁ
みたいな誇大妄想の
ボケ老人さ 短里は存在しないってことで、めでたく九州説ご臨終だね 369 返信:日本@名無史さん[] 投稿日:2017/09/11(月) 10:20:16.26
>>326
「奴」の音読み「ド」は漢音(唐代の長安付近の言語由来)だから有り得ない。
時代錯誤も甚だしいわ。
時代としては中古音の「ノ」または上古音の「ナ」と読むほうが実情に即している。
↑詭弁!!
この問題、古代のシナ人が我が国をどう呼んでいたかに尽きる
リーベン(北京官話の現代シナ語の日本)
イ、イ、委だよ ポイントは
2000年前から、共通している そこがすごい魏志倭人伝
地名の7割が一致している そこがすごい魏志倭人伝
繰り返す
「漢の委の奴の国王」
な わ
↑3段細切れ読み 根本的にまちがい!! イトまたはイドと読みます
金印は当然、政庁におかれた
皇帝の金印が地方の首長に下賜されるわけがない
印文のルールとは、二段国名が取られていたこと
三段国名の例があったら教えてもらいたい
ないだろ?? 畿内厨… 周髀算経が一歩=六尺を使ってるんじゃ、短里説は終わりだ このスレッドは1000を超えました。
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