徳川編纂の史記「当代記」に本能寺の変の時、光秀の年齢が享年67歳と付記されてる
67歳だったと取って付けて書き込まれてる訳だけど
どうも、光秀の仕事ぶりや交友関係、子供の年齢、肖像画を見ると67歳は無いなーと思う
信長の家来になったばかりの1570年、金ヶ崎の退き口で殿軍を務めたのは池田勝正を頭に秀吉と光秀
秀吉当時33歳、池田勝正は31〜40歳、光秀55歳?
殿って逃げ足の速い30代の人が適任かと
光秀は京での政治力と共に武力も買われたと思うけど
人間50年と言ってた信長が50歳をとっくに過ぎてる光秀をわざわざ足利義昭からヘッドハンティングするだろうか?
享年67歳なら、妻の煕子の父親だと言われてる妻木広忠の一つ年下になる

当代記は何か間違いではないのかな?
それか、天海は光秀ではないと否定する為に光秀の年齢を20歳くらい詐称したのではないのかな?