邪馬台国畿内説 Part292
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1508698905/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。 ◆7−2
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−3
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法より、筆者は里程から如何程に南方であるか具体的に推計して倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことは、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。 ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12−1
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。 ◆FAQ 12−2
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26-1
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。 ◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42−1
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ! ◆FAQ 42−2
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BV型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BW型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され(金原2011)ていること、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏である。
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)西北至都護治所二千二百五十八里、北接尉犂、南至小宛可三日行、
…西通精絕二千里。
(精絕國)北至都護治所二千七百二十三里、南至戎盧國四日行、
…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)東北至都護治所六十日行、
東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
(大月氏國)東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行,
南與罽賓接。
(以上、漢書西域上) スレ主はサイコパス?
24時間畿内説スレ終わったら即立ててるよ。
しかもテンプレ60以上も毎回書き込む異様さ。
病院行った方がいいぞ? ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蝉県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】なし
>>50.52.63は荒らしです。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏である。
倭人の国ではあり得ないという理由は?? 畿内説は破綻しました
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】なし >>63
>>63
サイコパスは24時間待機してて荒らす岡上だな
執拗さが異様さになるレベル
病院が収容すべきだ >>69
3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏ですから。 >>70
こういう荒らしがいやらしい
まともに反論できないのか? 3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏だという理由は??? 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡という根拠は??? 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県だという理由は???? スレ主はサイコパス?
畿内説スレ終わったら24時間いつでも即スレを立ててるよ。
しかもテンプレを>>1 〜 >>66までを毎回書き込む異様さ。
病院行った方がいいぞ?
スレ主はハロワ行った方がいい。 >>77
おい岡上、昼休み終わってるぞ
早くハロワ行け なぜか、僕たちの台本貼り付け係がミスしているようだね。。。
それとも、だれかが台詞を転用しているのだろうか、、、 >>79
おかしいな、僕たちの台本貼り付け係は一昨日からインターネットのつながらない地域にいるはずなのに。。。
やっぱり、誰かが転用しているのだろうね、、、 >>80
そうだね、、、しかも台本の一部をキナイコシバージョンと称して改ざんして貼り付けてあるよ。。。。 >>81
上手にやってくれるのならいいのだが、テンプレートを張り付けている老人が自作自演で狂ったように貼り付けて、自分への同情を買いながら、僕たちと勘違いしている岡上氏への反感が起きるのを狙っているのかもしれないね。。。。 >>82
そうだね、、、あのキナイコシバージョンというのは僕たちの著作を改ざんされたことを抜きにしても、、妙に心をいらだたせるね、、、、頭が悪そうだし。。。。 >>83
そうだね、、、あのキナイコシバージョンというのは僕たちの著作を改ざんされたことを抜きにしても、、妙に心をいらだたせるね、、、、頭が悪そうだし。。。。 >>83
いずれにしろ、対応は、僕たちのあの最終目的への是々非々で決めれば良いんじゃないかな、、、 >>85
そうだね、、、
僕たちの最終目的は、ひとえに、あの奈良の古墳が、邪馬台国とは、全く無関係だったことを、くだらない調査や、宣伝のために納税している国民に、伝えることなのだからね。。。 3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏だという理由はないといこと?? >>72
なら銅矛文化圏である九州が畿内国に服属してたなんてのもありえないな
同じ論拠だろ? >>88
根拠がないということは勝手な妄想ということだな
畿内説の得意技 テンプレートの嘘が、一つづつ丁寧に、暴かれているね、、、 >>67
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 つまり、狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡というのは理由がないんだね??? モモソ媛や田油津媛やミカヨリ媛のどこをどう読めばヒミコという発音に近いのか。
わしにはさっぱり分からない。
普通に「ヒミ、ヒメ、ヒム」で該当者を探しましょう。
ほら、いた。
https://textream-cimg.west.edge.storage-yahoo.jp/t/d9/8e/1835208-bcygobf9qoc0aha4ac9a5a4ada4jbfmbd8a4dea4la1aa/2378/a2b50a37a4da540443c9d9c6eed57474.png
天皇系図のイの一番にいるのに何で気づかないのでしょうか。
まぁ無理もない、気づかれないように名前を加飾されて時代もBC660年頃に設定されましたからね。
ps:トヨもいます♪ 小さくて見えないね、これでどうだろ。
https://goo.gl/KDMvWt
ヒミコ、トヨ、天皇系図のイの一番にいる。
神武東征紀とは実際は「女王国であった」ことを隠すために大げさな記述にされた。 >>1が毎回50近いテンプレを貼るが、
俺には「へぇ、瀬戸内系の物部ってそんなんだったんだ」と感心しながら読んでいる。w
纏向遺跡は物部の遺跡であり卑弥呼がいるわけはない。 なんだ、テンプレートは物部とやらの説明だったのか
で、物部ってなんですか、、、、 テンプレートが物部の説明だとはっきりした今、邪馬台国はどこにあったのだろうか、 「南→東」などの嘘吐きダマシは、×。
⤴
これを打ち砕かない限り、畿内説は馬鹿にされる。 通説だという根拠は????????
???????????? 通説とは、世間一般に知られているものだろ???????
そこら辺の大学生くらいなら知ってるはずでは?
実際には、殆どの人にしられていない。 なぜ、キナイコシは物部国の歴史を、邪馬台国の物としてすり替えたのだろうか、、、 >>109
おそらくは、火の国のどこかではないかな、、、 >>110
>>113
>>114
通説とは根拠は無いけどこうだろうと言われてるだけの説ですよ
内容がホントか嘘かは分からない
取りあえずの叩き台の説だと思った方がいい。 ひいては畿内説もそうだな
議論の叩き台というだけで根拠はない 江戸時代の国学者が万世一系を騙るために歴史をでっち上げて、それが通説として今でもまかり通ってる悲喜劇 291の>>860
>「周髀」とは「周代にあったものだった」と認識している人間は
周代にはそう発言しない。
ゆえに「周髀算経」と言う書名の本が書かれたのは周代ではない <
あぁ、まだ判っていないんだな?。
周代には、秦も含めて春秋戦国期の群雄時代があって、いろんな国の興亡があったので、
「周」の王室、という国での話は、「周」という文言を付けなければならない、んだよ。 >>112
不弥国から南に水行しても何もないから南→東
九州説こそ短里だの水行の基点は帯方からだのほざいてバカにされている 291の>>876で追加
>邪馬台国は畿内でよし <
「南≠東」だから、×。 291の>>879
>邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。<
「邪馬壹國→邪馬台国」や「大和説→畿内説」などの、
嘘吐きダマシのサギの、クズ板のスレです。
もう「南≠東」で嘘吐きダマシが確定なので、ロマンはありませんが、
人種差別殺戮戦争狂の皇国史観の狂態を眺めつつ、
我々九州説は、更なる真実を探求しましょう。 「これが通説なんだ!」「通説だから正しい!」「なぜなら通説だから!」
↑なんだこいつw 九州説の捏造体質も困ったものだな
九州説はそういうもんだから仕方ないのか >>126
根拠があれば通説ではなく定説。
>>129
通説だから正しいなんてことはないし
通説を根拠には出来ないですね。 >>135
正しいのだと世間で通用してる説が
通説だろ 加羅と安羅は3世紀当時の代表的な遺跡があって、楽浪系の遺物が出てて、地名も同じだって根拠があるだろ
定説でいいな? 291の>>880
>魏志倭人伝の南は奥のこと。<
いや、不彌國で「萬二千余里」はほぼ消化されており、邪馬壹國は。不彌國のすぐ南に「入口」がある。
>単純に当時の漢人は日本列島が九州を付け根として南に伸びる列島だと思ってたというだけで 奥に奥に進んだことを南に行ったと誤記してただけ。<
いや、明帝の詔書の内容を実行して記録した魏使らは、(・・・・大和説者とは違って)殆ど誤記をしない。
>その場合、邪馬台国はただのヤマト国の音訳に過ぎず<
「邪馬台国」なんて記録は全くないんだから、「ヤマト国の音訳」もない。
>大和地域に文字通り存在したことになる<
どこにも「東方の大和地域」を指定するような文言はない。
>クナ国もその先の関東にあったことになる。<
「南≠東」であるから、大和も関東も×。
不可知部分が殆どである自然や歴史では、
知り得た「観察実験計測や史料事実情報」からの帰納的確率的推論をすべきであり、
その「知り得た観察実験計測や史料事実情報」を否定して自由に曲解したら、
そりゃ無限に沢山の可能性(例えば南を否定したら全方向に可能性だ出来る)がある事になって、
大和や関東の特定にも、全く確率が無くなってしまう。
>魏志の南=中国から見て奥、って解釈で全て解決できる。<
史料事実を否定する事が出来るんなら、全て何でも自由自在に分裂幻覚の妄想も可能であり、
そんなものは・・・・思想宗教の病気でしかない。 291の>>884
>そこから船で南へ沿岸を航行し、20日かけ大隅半島を抑えている投馬国へ着く。
大隅半島を南へ漕ぎ出し黒潮に乗る。黒潮は時速7Kmであり、何もせずとも1日に150Km進む。黒潮は自然と潮岬に接岸する。(現代において観測され証明されている)つまり10日で潮岬に流れ着く。
熊野に上陸し、陸行1ヶ月でヤマトに至る。
これが魏志倭人伝当時の邪馬台国へ至るルートである。<
不彌國で「萬二千余里」は、殆ど消化されているから、
邪馬壹國は不彌國のすぐ南にある事になり、
そうならない読み方は、全て史料事実の曲解捏造の犯罪者になる 291の>>891
>もう失ってるよ。 九州説も東遷説も、すべてをね。<
もう「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者は、
全てを失っているよ。 >>138
本当か嘘か分からないが
世間でよく知られてる説が通説。 >>920
>勅使が纒向まで来れば、卑弥呼が纒向にいていいんだろう?<
「勅使が纒向まで来た」とは書いていないし、
「南≠東」だから、纏向は始めから×。 >>147
違うでしょ
それだと九州説にも該当するが
九州説は通説ではない 世間的に通用してて反対者が少数派なのが通説でしょ
反対者が事実上いないのが定説
いずれも新発見で覆ることがある 俺が定説を出すまでは邪馬台国論争だと今のところ通説も定説も無いな。 天照だの邇邇芸だの神武東征だの書いてある日本書紀なんて、あとからきた逃亡百済人の作りばなしさ。勿論、対馬海峡から、人の移入なんてそれまで殆どない。箸墓だよ、箸墓。 箸墓が邪馬台国も大和も説明できちゃうキーワードなんだ。
熊野は黒潮のぶつかるところで、縄文時代から揚子江流域からの漂着民が多いんだ。 それで、江南米をたまたま持ち込んだ越人、呉人が米作に適した場所を探したわけさ。
すると、どうだろう、今の奈良盆地に大きな沼地があった。彼らがここで、周辺の縄文人と自然と共生関係を作って、弥生人になったわけ。平和なもんだよ。
後に、瀬戸内、朝鮮半島経由で、先祖の地中国に行けることが分かったそいつらが水銀のことを始皇帝に教えたのさ。 魏志倭人伝がその証拠さ。南越、その後呉のテリトリーとなった地域の風俗が倭人のと一致していると記されているものね。そして丹のことも。
とにかく、それで、ペルシャを経由して、始皇帝の都にたどり着いていたイスラエルの失われた10部族、アンフィクチュオニーが、水銀と奈良の沼地、平原広沢のことを知ったわけ。
アンフィクチュオニーに析出されたのが霊的威力者ジョセフさ。
ジョセフが彼らを率いて奈良にやってきたのだものね。なんのことはない徐福のことだよ。
そのとき、水稲以外の穀物や桃、馬匹文化も伝わって来たのさ。でも、穀物に限って言えば、やっぱり、適所適材、奈良盆地には栄養価の高い水稲だけが残ったんだよ。
キビとかアワとかは、徐福が通った瀬戸内海では根付いたのにね。奈良にそれを売り込みにきた商人は、美しく輝く黄金色の奈良盆地みて青ざめただろうよ。 そして羨み妬んだ。このときの軋轢が倭国乱だろうね。
すったもんだはあったと思うよ。でも、徐福はそれを乗り越えた。そして、奈良の弥生人を指導して通勤王国、咸陽と驪山陵をトポロジー的に想起させる邪馬台国をつくったのだろうね。
そう、弥生人たちは通勤してたのさ。沼地を裸足で。気持ちのいいもんだよ。川船を両岸で引っ張ってくれる男たちだって勿論裸足さ。冬だって裸足だよ、弥生人は丈夫だったのさ。毎日、往復4、5時間かけても構いやしない。
だって、イスラエルから殆ど歩いてきた霊的威力者が付いているんだぜ。文句言う奴なんて一人もいないさ。そしてやっぱり、徐福が、ポピュリズムというものをよくわかっていたのが大きかったのだろうね。(続く) だからこそ、縄文人、越人、呉人、そして最後にやってきた徐福が率いたアンフィクチュオニーと彼らに一緒についてきた秦人がキマイラ的に連合できたのさ。
でも徐福と卑弥呼にどんな関連があるのか?って、決まっているじゃないか、箸墓だよ、箸墓。日本書紀に霊的威力者徐福のことが書いてあるだろ。勿論、大国主のことさ。わかるだろ。
箸墓に眠ってる卑弥呼の、霊的夫さ。逃亡百済人もここは本当のことを書かざるを得なかったのさ。
それから、投馬国だよ、投馬国。わかってるよね。鞆の浦さ。
投馬国と書かれた鞆の浦が、東とか南を説明しちゃうキーなのさ。
投馬国が面している瀬戸内は東向きの潮が速いところがあって、大和川の河口まであっというまにいけるのさ。そこから川船に乗り換えれば、奈良の沼地までは目と鼻の先さ。
帰路は山陽道を陸路で引き返し投馬国までの往路と復路を作り上げたわけ。
すると、どうだろう、投馬国から奈良まで水行では10日、陸行では1月の魏志倭人伝に書かれている、あの有名な最終行程じゃないか。
彼らがこれを、帯方郡の役人に伝えたわけ。そのときの通訳がいい加減な奴だったのだろうね。だから東が南になったわけ。
単純なもんだよ。
魏志倭人伝がその証拠さ。
だって、九州北部から投馬国と書かれた鞆の浦の方角も東が南になってるじゃないか。通訳がいい加減な奴だったのさ。
投馬国だよ、投馬国。
だから狗奴国は東国だろうね。
なにしろいい加減な通訳は東を南に間違う癖があるものね。
そして、周旋だよ、周旋。
帯方郡の外交官は邪馬台国と狗奴国を周旋しに来たのさ。
つまり、紛争を解決するため、交渉役になってくれたのさ。
ほんの少しだけど、運悪く、殺された兵士や奴隷もいたようだね。
でも、魏の役人のおかげで丸くおさまったのさ。
平和なもんだよ。
五千里は卑弥呼の城と卑弥弓呼の城の往復距離だろうね。
周旋だよ、周旋。
帯方郡の外交官は周旋役になってくれたのさ。(完) 完璧な説だよ、完璧な説。
徐福の通勤王国、咸陽と驪山陵をトポロジー的に想起させる邪馬台国説。
論破なんて、絶対に無理さ。
亜流や九州説が暴れているが、構いやしない。 >>125
>不弥国から南に水行しても何もないから<
不彌國で「萬二千余里」が殆ど消費されているから、
魏使らは、不彌國から南に水行しなかった。
>南→東<
史料事実は「南」だし、
「南≠東」だから「南→東」は嘘つきダマシだし、
「南」以外の方向は全部×。
>九州説こそ短里だの水行の基点は帯方からだのほざいてバカにされている<
大和説こそ、
長里では6倍位違って全く合わない事を隠し、
「南」の否定は「南以外の全方向」なのに、
何の記載も特定も書かれていない「東」に特定しているし、
「投馬國記載には途中の移動の動詞が書かれていないから、
魏使らは通っていない側副傍線行程記載」である事を隠し、
「水行十日陸行一月」の数量記載対象は、
その直前の「女王之所都」までの全行程になる事を隠して、
バカにされている。 あらゆる分野で定説に逆らってるからね
天地がひっくり返らない限り
九州説に未来は無い >>164
6倍位違うって、計算した?
してないよね
いい加減なことばかり言ってる >>164
不彌國で「萬二千余里」が殆ど消費されているとか嘘をつくな
不彌国までで1万7百里
北九州の端の不彌国から女王国までまだ1300里あるんだよ
九州説は都合の悪い事を適当に誤魔化すから
説として信用がないし採用もされないんだよ >>134
>九州説の捏造体質も困ったものだな
九州説はそういうもんだから仕方ないのか<
大和説の、「南→東」などの史料事実の捏造体質も、困ったものだな。
大和説者は、
人種差別の殺され殺し合う戦争的な皇国史観にクルったキョクウの・・・・人種だから、
しかたがないのか。 >>168
考古学者ってのは自称だからなw
飲み屋の雑談とかわらん >>137
>じゃ、定説でいいな<
いや、大和説は、
「南→東」などのように、史料事実の曲解捏造をしているし、
国民の7割が承認していないんだから、
「定説」にはなっていないよ。 >>174
考古学者というのが自称だ
という証拠は?
⁇⁇ >>174
九州説の素人じいさんが幾ら自称しても
考古学者にならんけど? >>154
>九州説は通説ではない <
いや、国民の過半数が賛成しているから、通説。 >>157
>箸墓だよ、箸墓。 箸墓が邪馬台国も大和も説明できちゃうキーワードなんだ。<
「南≠東」だから、箸墓は×だよ。 >>159
>箸墓に眠ってる卑弥呼の、霊的夫さ<
「南≠東」だから、箸墓は×だよ。 国民の大部分に納得できるような根拠を示せないのは、文学部の自称考古学者さんたちが、とんちんかんなことやってるからだろw
ゴッドハンドとかさ >>181
考古学博士という博士号がないと
どうして考古学者というのが自称だ、ということになるんだ?
言ってることに脈絡が無い >>188
日本の他称考古学者さんたちはプロだな。 >>182
一般人がいくら支持したからって学説的に通説にはならん 歴史修正主義者の人たちは金印とか邪馬台国とか中国の最初の日本の記録から
修正しないといけないから大変なんだよ そういえば、あのゴッドハンドを学会wはなぜ何年も見抜けなかったのかな? >>186
東大の九州説派が横槍入れて教科書にちゃんとした説明載せさせないからだよ >>161
>完璧な説だよ、完璧な説。 徐福の通勤王国、咸陽と驪山陵をトポロジー的に想起させる邪馬台国説。
論破なんて、絶対に無理さ。<
「南≠東」だから、大和説は、始めから×さ。
しかし、分裂幻覚の病人の妄小説的な妄想は、死ぬまでは、誰にも止められないよ。
>亜流や九州説が暴れているが、構いやしない。<
「南→東」などの嘘吐きダマシの、
分裂幻覚妄想とはっきりしている・・・・大和説者が暴れているが、
構いやしない。 >>163
>議論から逃げ回り 荒らしてばかりの九州説 <
「南→東」などの嘘吐きダマシの議論から逃げ回り、
荒らしてばかりの大和説。 ゴッドハンドは確か素人、騙され続けたのはプロwの考古学者
素人一人に騙され続けるプロ集団が学会の正体www
あまり学会wとか持ち出して話されても説得力ありませんよw >>193
学会に旧石器の研究者がほとんどいないからだよ
専門外なので、わからない >>165
「南→東」などの、あらゆる分野で史料事実に逆らってるからね。
天地がひっくり返らない限り、
大和説に未来は無い 。 >>168
>学会では畿内説が通説なんだが <
国民では、九州説が過半数の支持で、大和説は3割の支持しかないから、
九州説が通説なんだが。 陳寿が日本の地理を正しく書き残してたら元寇で日本は終わってた悪寒 >>197
伝統的に東大は九州説だ
文部省と繋がりが深いから教科書に邪馬台国の場所は畿内説と
九州説の2つがありますなんて載せやがる
発掘や出土品の科学調査によって畿内説が主流ですなんて絶対書かない >>169
>不彌國で「萬二千余里」が殆ど消費されているとか嘘をつくな 不彌国までで1万7百里
北九州の端の不彌国から女王国までまだ1300里あるんだよ<
魏使らは、「方四百余里」の對海國と、「方三百里」の一大國の、国内見聞移動をした、
という行程が書かれているんだから、
「7百余里〜1400余里」の移動距離を加えなければならなくなる。
大和説は都合の悪い事を適当に誤魔化すから、
説として信用がないし、国民に採用もされないんだよ。 >>209
もちろん東大そのものに九州説唱えてる人はいないよ
けど教科書の記載は今だに畿内説と九州説で争いがありますなんだよ
それとも畿内説で決着がつきましたとでも書いてたか? >>208
政府が皇国主義を担がなくなった瞬間に
東大はサラリと九州説を捨ててるよ >>173
>この人あきらかにマトモでない<
「南→東」などの「史料事実の否定」の嘘吐きダマシを肯定する、この人や、大和説者は、
明らかにマトモではない。 >>179
>九州説者は精神病患者と変わらんけどな <
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシをする大和説者は、
精神病患者と変わらんけどな。 >>210
方とは面積の事だし
方400里と方300里の記述をどう解釈すれば
7百余里〜1400余里を足さなければならない事になるのか
これこそ九州説の誤魔化しであり
邪馬台国の位置を強引に北九州に持っていくための
牽強付会であり循環論法 >>211
まだ森浩一の弟子が何人か生き残ってるから教科書も両論併記は下ろせない。
じき定年で消えるから変わる。 >>212
表向きはね
実は捨ててないから」教科書でいまだに畿内説対九州説なんて乗っけてる >>215
精神病、とくに統合失調症の症状の一つに
人のやった事をそっくりそのまま繰り返すというのがあってだな >>191
>一般人がいくら支持したからって学説的に通説にはならん<
「南→東」などの史料事実の曲解捏造の大和説者の嘘吐きダマシがバレれば、
幾ら大和説者が支持したって、学問的に科学的に、通説にはなれないよ。 >>220
まだ森浩一の弟子が何人か生き残ってるからだよ >>196
>九州説は大変だな <
「南→東」などの史料事実の否定抹殺の嘘吐きダマシをした大和説者は、
大変だね。 >>202
>九州説って妄想の世界で生きてるんだな <
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシをしている大和説者って、
分裂幻覚妄想の「脳の病気」の世界で生きてるんだね?。 >>203
>史料事実に逆らうことは 別に悪くない <
信頼性の高い史料事実は確率が高いから、
それに逆らって否定する事は、確率が低過ぎて、悪い。 >>225
精神病と言われてそのまま繰り返してるな
統合失調症の症状に人のやった事をそのまま繰り返すというのがあるが
やっぱりザラコクはそうなんだな >>212
>政府が皇国主義を担がなくなった瞬間に 東大はサラリと九州説を捨ててるよ<
Yahooでの議論で、「東大出」を名乗った「天誅」や「yamatogawakonan」が 、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の大和説を唱えていたから、
「東大」とか言っても、何の信頼性もななく、信用しないよ。 >>186
その通り。
南を東と言い換えたり、魏志倭人伝にないものばかりを根拠にして畿内説を持ち上げるから、御用学者なんて信用されなくなった。 >>216
>方とは面積の事だし<
いや、外接正方形近似での一辺表示。
>方400里と方300里の記述をどう解釈すれば
7百余里〜1400余里を足さなければならない事になるのか <
大よそ、「一辺分の移動位から二辺分の移動位の、二国分の合計」になるから。
>これこそ九州説の誤魔化しであり 邪馬台国の位置を強引に北九州に持っていくための
牽強付会であり循環論法<
何だ?、この男は、「循環論法の曲解誹謗」の・・・・投稿子であったのか。
根拠と結論とは、「違っている」内容だから、循環論法にならないよ。 >>203
>>>201
>史料事実に逆らうことは
>別に悪くない
魏志倭人伝に逆らうなら、邪馬台国論争から離脱しなよ。 畿内厨は前スレでわけわからん文句言ってたな
2進法、2進数習わなかったのか?
偶数個は0、奇数個は1で問題は桁の計算の基礎となる箇所をどう振り分けるかの問題だ 以下、スレ主および>>168さんお答えいただければ幸いです
>学会では畿内説が通説なんだが<
⤴
1、学会の幹部級メンバーの名前と出身大学を挙げよ
2、通説とは確定なのか、多数派の名前と出身大学を挙げよ
3、なぜ、アンケート等で畿内説が支持されない理由を学会は分析してるか答えよ
4、学会では南➡東の主な根拠を挙げよ
5、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いっぱいあるが
6、学会が畿内説を通説とする、誰もが納得する説を3つ挙げよ
以前書き込みましたが、私は明日から妻と2泊3日で正倉院展に出かけますので、日曜に拝見させていただきます。
なお、正倉院展の開会式にも参列しますがキウスでは招待されてませんのであしからず。 >>217
>まだ森浩一の弟子が何人か生き残ってるから教科書も両論併記は下ろせない。
じき定年で消えるから変わる。<
世間の皆様。
怖いですねえ。
森浩一の弟子らが定年退職していなくなったら、
世間の人の投票の九州説多数の結果にも拘わらず、
教科書は「大和説と九州説の両輪併記」を止めて、
子供らに、「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説だけを強制的に教えるんだって。
何だか、「自衛隊は軍や戦力ではない」という嘘吐きダマシみたいですね。 >>230
「一辺分の移動位から二辺分の移動位の、二国分の合計」になろうとも
魏志倭人伝は移動距離を表記する時は一貫して
100里で何々に至る、のように移動距離をはっきり記載している
記載のない距離を記載のない移動方法で都合のいい数字を導き出すのは
これを誤魔化しと言わずに何と言うのか
1万2千里は北九州を指すはずだから方400里と方300里から
それに合わせるための数字を操作して導き出すのは
循環論法と言われても仕方がない すいません>>233は私です
なお、今回は纏向には寄りません、妻が同行ですので
妻が夕食はホテルでなく外で食したいと言っていますので
おすすめのお店(和食希望、予約なしで入れる、美味しい)があれば、書きこんでいただければ明日朝拝見します。
勝手なお願いですので無視していただいて結構です
(パーティはありません・・以前はあったのですが時世でしょう) ありゃりゃ「南≠東」先生最初からなまほうそーになってますやん
>>958
>「南≠東」で卑弥呼が筑紫なら、壹與も当然筑紫。<
もちろんいっしゅんでこーさん
ところでちょーせんはんとーをみなみにいったりひがしにいったりとーなんの海岸まで歩いてそこから滅びた呉からひったくった高速帆船で山陰までひっととびすなわちすいぎょー10かりくぎょー1つきのかのーせーあらしまへん?(かわいらしーまいこさんふー >>242
近くにいる鹿を捕まえて丸焼きにして食べたらいい >>219
>精神病、とくに統合失調症の症状の一つに
人のやった事をそっくりそのまま繰り返すというのがあってだな <
精神病、とくに統合失調症の症状の一つに
自分の分裂幻覚の妄想を、そっくりそのままブツブツを呟く事を繰り返して、
自分の頭の中でそれが確信になって、殺人事件を起こすというのがあってだな。
皇国史観戦争狂の大和説者の「南→東」などの嘘吐きダマシも、
自己反芻が嵩じれば、殺人事件に発展してしまう事も有り得る訳で。 >>236
今こそが畿内説と九州説で対立がありますって
嘘つきダマシが教科書に載ってるんだよ なんだ鼻ホジはザラコクに絡まれたのか、壹與は筑豊かもな >>245
うわっ
また繰り返してるな
これはもう確定 あたまが変でないと九州説になれない
というのは本当な、気がする スイマセン
ご存知だと思いますが正倉院展は明後日からです
明日は開会式と内覧会です
興味があれば明後日(土曜)にお出かけください そうやって畿内説スレで呼びかけを行って
ノコノコ出向いていったスレ住人を一網打尽にする積りだな >>211
わえのつれとーきょーだいがくのこーがくけーですがamsのとーけー処理にけちつけてました(くわしーことはきーたがわすれた(いっときわ理解した(まじ 畿内説がデタラメの限りを尽くした結果、日本の歴史学会が信頼を失った。 畿内厨は時間があったら正倉院展にいくといい(街宣車でいくなよ >>233
以前、天理市民だと言っていたが、嘘だったんだな >>232
犬神せんせーか
はじかくからクイズはスルーじゃな(^^ 邪馬台国に興味があるなら、正倉院展よりも橿考研博か近つ飛鳥博へいくべき
それぞれで何をやっているのかは各位でググってくれ >>247
ちくほーて炭田あったとこでしたかな
月がー出た出たーおんぷ
ちごてたらすまんです >>242
新大宮にミシュランにも載ったことがある割烹屋がある
予約ないと無理だろうけど 邪馬台国に興味あるなら吉野ヶ里歴史公園にいくといい あらかじめいっしゅんでこーさん(「南≠東」先生対策 >>242
平城宮近くの彩華ラーメン
本店は天理だけど 九州説はまず邪馬台国の比定地を話し合って統一せいや >>263
ならの女子もやったけど佐賀のひとらもフレンドリーでしたわ
しょーばいっけよりもあいそゆーせんやった(なぜかせんでん >>269
太古の昔に佐賀から奈良にいっぱい人が移住したからな >>270
なんやろどーせジョフクやろ(じしんあり >>259
奈良は各地にばらけて困ります。
考古学なら・・・博物館
飛鳥から平城なら・・・博物館とか
ある程度は行ったつもりですが、あまりにも分散されすぎです。(税金の無駄遣い??)
>>263
吉野ケ里は行きましたよ、妻の母方の実家が糸島ですから・・糸島に行くと途中由緒あるお寺が火災で道が混んでました
S62?ぐらいでしょうか 畿内説こそ邪馬台国の比定地を話し合って統一しろよ。 >>272
行ったといいつつ具体的名称をあげることのできない、嘘つキウス >>275
畿内だから現在の奈良と京都大阪の一部辺りでほぼ統一されてるが >>274さんありがとう
〆は茶粥に決めました、良いお店が有りましたらご紹介ください
>>273 メッ
常時ハンネつけるにはどうしたらいいのですか?スレ主も大変だと思います
IDが一番判り易いのですが・・ >>271
佐賀に鹿がいないのは奈良にいったからなんや >>224
>畿内説は学問的に通説なんだが<
学問的には、確率の高い史料事実に拠った帰納的推論の九州説が、国民の支持を受けて通説なんだが。
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、学問的にも世間的にも、
始めから通説の権利はないよ。 スレ主にとってはライフワークだから苦にならないだろ >>280
だから国民の支持があったって学問的に通説にはならないから 妻が明日早いから寝支度しなさいと言うので
失礼します・・・・・なお昨日は書き込んでません(気に食わない人、痛いところを突く人=キウスでしょうね)
日曜に書きこみます
ザラコクさん・・勉強に成ります
岡上さんは時折顔を見せるだけであまり書きこんでいないと思いますよ
謎の九州説論者の方が書きこんでます(この方も相当、畿内説にとって手ごわいと思います)
では、寝支度に・・失礼します 魏志の時代も南は南。
畿内で邪馬台国論は魚のいない池で釣りをするようなもの。
徳川埋蔵金とか好きなやつが嵌るやつ。 >>227
>精神病と言われてそのまま繰り返してるな
統合失調症の症状に人のやった事をそのまま繰り返すというのがあるが
やっぱりザラコクはそうなんだな <
やっぱりアホだね、この男は。
統合失調症の症状は、自分の脳内の幻覚妄想に自分の脳が共鳴してしまうのであり、
他人の話は全く信用せずに逆に拒否否定してしまうんだから、
「人のやった事」も信用しないので、「そのまま繰り返す」という事は原則としてないんだよ。 >>284
実は磁極は数百年単位で15度とか動く場合がある >>288
俺のことだな
ここくだらない内容なので書きこんでいないけど。 >>286
統合失調症によくある緊張症と呼ばれるもの
一般的には、以下のような症状が目立ちます。
精神活動が停止したかのように、じっとして動かない。
他人に取らされた、
あるいは自発的に取った奇妙な姿勢のまま、じっとしている。
他人の指示を無視したり、抵抗したりする。
言葉に反応しない、言葉を発さない。外部からの刺激に反応しない、
あるいは反発する。
普通の動作を、わざとらしく演じる。しかめ面をする。
無目的な運動を、頻繁に繰り返し行う。
理由もなく興奮する。他人の言葉や動作をまねる。 >>237
>「一辺分の移動位から二辺分の移動位の、二国分の合計」になろうとも
魏志倭人伝は移動距離を表記する時は一貫して
100里で何々に至る、のように移動距離をはっきり記載している <
いや、陳寿は、對海國と一大國の広さと途中での見聞記録を書いているから、
両国内での移動があった事も、認識している。
>記載のない距離を記載のない移動方法で都合のいい数字を導き出すのは
これを誤魔化しと言わずに何と言うのか <
記載のある移動の里数の概数が判るのに、それを全体里数合計に入れない、を記載のない移動方法で都合のいい数字を導き出すのは
これを誤魔化しと言わずに何と言うのか
1万2千里は北九州を指すはずだから方400里と方300里から
それに合わせるための数字を操作して導き出すのは
循環論法と言われても仕方がない >>292
じゃあ何で1万2千里なんて陳寿は書いたの? >>292
統合失調症の症状
・他人の指示を無視したり抵抗したりする
合ってるな スレ主=九州説だな
畿内説の下らなさを何気なくテンプレで散りばめてるな >>295
FAQ(ファッキュー)の質問だけ読んだら九州説確定だもんな。 >>237
>「一辺分の移動位から二辺分の移動位の、二国分の合計」になろうとも
魏志倭人伝は移動距離を表記する時は一貫して
100里で何々に至る、のように移動距離をはっきり記載している <
いや、陳寿は、對海國と一大國の広さと途中での見聞記録を書いているから、
両国内での移動があった事も、認識している。
>記載のない距離を記載のない移動方法で都合のいい数字を導き出すのは
これを誤魔化しと言わずに何と言うのか <
記載されている移動の里数の概数が判るのに、
それを全体里数合計に入れないで合計数値を導き出すのは、
これを誤魔化しと言わずに何と言うのか 。
>1万2千里は北九州を指すはずだから方400里と方300里から
それに合わせるための数字を操作して導き出すのは
循環論法と言われても仕方がない <
部分行程移動距離合計を推定したら、別個に書かれた合計里数とほぼ一致した、
という事は、結論を前提にしていない推論であったから、
循環論法になっていないよ。」 >>240
>いや畿内を指す<
「南→東」だから、×。 >>295
なるほど。
これは気がつかなかった。
確かにあのテンプレを読めば畿内説がいかに妄想で塗り固められたくだらない説かわかるもんな。 >>296
答えられないので循環論法とか言い訳してるな。 >>249
>あたまが変でないと九州説になれない
というのは本当な、気がする <
あたまが変でないと、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者になれない 、
というのは本当な、気がする 。 古田さんは人が良すぎたな
消去法は採らなかった
それに比べ今や畿内説は他説排除に進んでる感あり
自信が無いのだろう
鳥越さんは理にかない わかりやすいのだが、何故干されたのだろう。 >>282
だから、国民の支持がなく、「南→東」などの嘘つき騙しがバレたら、
国民的にも学問的にも、通説にはならないから 。 キウスが何の目的で正倉院展に行くのか知らんが警備体制は大丈夫なのか >>93
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 >>298
陳寿が認識してたら何里移動とか書いてなきゃそもそもの証明にならん
記載されている移動の里数の概数がわかるとか言っているが
方400里、方300里と書いてあるだけ
これから移動距離を魏志倭人伝に記載されていない方法で
移動距離を700里だの1400里だの導き出せたとするのは
いくら何でも根拠としては扱えない
やはり1万2千里に都合のいい数字を導き出すための
循環論法的手法と言わざるを得ない
そもそも方400里、方300里とあるだけで
どうやって移動距離を導き出したのか
不自然なインチキ計算をやったに決まっている >>307
出たな統合失調症の症状一つ
他人のマネをする 反日運動家の偽書専門高校教員も京都御所の近くに住みたがるんだよな >>287
>実は磁極は数百年単位で15度とか動く場合がある <
周髀算経も礼記も、太陽の影で東西を決めているから、自転が問題であり、
磁極の位置は関係がないよ。 >>313
世界で初めて方位磁針を使ったのはどこの国だ? >>293
>じゃあ何で1万2千里なんて陳寿は書いたの?<
「自郡至女王國萬二千餘里」は、陳寿が書いたのではないよ。
同じ事が魏略にも書かれているから、初めから「記録にあった」事であり、
魏使らの記録にあったんだよ。 方位磁石なんて関係ないじゃん
南は太陽、星でわかるよ >>316
正確に言うと自転軸と磁極は一致しない
何万年か前には南と北が逆だったそうだ 畿内説が鉄器文化否定を越えて自転軸を動かし始めましたwww 魏の複数人が複数回お天道様の下で来日したんだろ。
南と東を間違えるなんてありえねー。 >>317
関係ないなら何で羅針盤がどの船にも取り付けられてるんでしょうかね >>319
うわっ
自転軸と磁極が一緒だと思ってるバカだ もし方位磁石を使って方角を測定していたなら
現在の方角とズレていた可能性があるよ
古代中国にはあったらしいし
まあ確率は低いだろうけど1つの可能性として >>320
逸文だから全文が分からんからな
行程記事も途中が脱落してるな。 磁極の変化は数百万年単位です。
一つ言っていいですか?
ばーーーーーーかwww
負け犬ぷぎゃーーーーwww >>310
>陳寿が認識してたら何里移動とか書いてなきゃそもそもの証明にならん
記載されている移動の里数の概数がわかるとか言っているが 方400里、方300里と書いてあるだけ
これから移動距離を魏志倭人伝に記載されていない方法で
移動距離を700里だの1400里だの導き出せたとするのは いくら何でも根拠としては扱えない <
陳寿は、「余」を使って近似的に書いているんだから、厳格な証明自体が不要。
大体でよい。
>やはり1万2千里に都合のいい数字を導き出すための 循環論法的手法と言わざるを得ない<
「結論先にありき」ではなく、史料事実からの推論であるから、
循環論法になっていない。
>そもそも方400里、方300里とあるだけで どうやって移動距離を導き出したのか <
大体「一辺長か?二辺長か?、その間か?」という事になる。
>不自然なインチキ計算をやったに決まっている <
この男が、「古田計算でほぼぴったり合う」事が悔しくて、
変なインチキ邪推で古田誹謗をしているに決まっている。 40kmが76.5kmの誤差の範囲内なので「計算はほぼぴったり合う」と
偽書専門の高校の先生は主張している >>327
1万年〜2万年で180度変わるんだぞ
千年単位だと18度
2千年だと36度
また不規則で急激な変化がある場合もあるという
負けはお前だ >>311
>出たな統合失調症の症状一つ 他人のマネをする <じぶん
統合失調症は、自分の頭の中の分裂幻覚妄想に閉じ籠る事が主症状であり、
「他人の命令に従う」事を嫌うのであり、
だから、「他人の真似」は随伴的症状であるっから、原則としてしない。 >>328
ぴったり合うのが余計怪しいんだよ
100里500里1000里だけの大雑把な単位で
無理やり合わせた証拠だろ 「名を捨てて実を取る」
高校の教員を辞めて偽書を売るということ >>331
へぇ〜
もう何もないからポールシフトを悪用したいんだねw
で、ゆっくり変わってるの?
磁極が測定され始めたここ100〜200年でどれくらい変わってるの?
数値を出してくれるかな?
そして弥生時代なら×10だよね?
ギャハハハハw ざーんねん!www >>312
>反日運動家の偽書専門高校教員も京都御所の近くに住みたがるんだよな<
古田さんは、「反日運動家」ではないな。
「日本国民や日本国」を大事にする思考を、ずっと持っておられた。 >>332
良くわからない事を言われた場合単なる反発から
適当な事言って誤魔化す性格なのが良くわかった
統合失調症によくある緊張症状と呼ばれるものの一つ
・他人の指示に反発する >>314
>世界で初めて方位磁針を使ったのはどこの国だ?<
周髀算経には、方位磁石を使った、という記載はないよ。 「日本国民や日本国」を大事にする高校教員は偽書で日本人を騙したりしない >>316
>極地が動く=自転軸が動く<
地球の自転軸の極と、地磁気の極は、全く違うよ。 方位磁針の人類初出が【11世紀】の中国『夢渓筆談』
羅針盤もその頃に開発
畿内説がんばれ! >>335
岩石に含まれる痕跡から
100〜200年前どころか数億年前の磁極の状態もわかるのだ
つうか弥生時代なら×10の意味がわからんが
魏の当時の磁極のデータは探せばどっかに載ってるんじゃないの
まあ別に本気で当時は磁極が40度ズレていて
中国の使者は古代の方位磁石でそれを測ったから
現在で見れば東の所を南と記載したなんて主張をする気はないが
あくまでも半分遊びで可能性を言ってみただけだ >>341
書物に初めて記載されたのがそれというだけで
実際はもっと前から使われてたのかもよ? >>342
なにかの本を読んだんだねw
なにかの本を読んだんだねw
なにかの本を読んだんだねw
君に一つ教えてあげよう。
弥生時代に磁極がずれていたという驚くべきデータを示す
論文なり本なりを探してごらん。
見つかったら、ここに書きこむがいい。
世界がアーーッと驚くw
見つからなかったら、
邪馬台国は
やっぱり
北部九州にあった。 >>320
>魏略といっても幼学書の逸文だろ<
何だ?。また意味不明の分裂幻覚の妄想の症状か?。
逸文であっても、「自郡至女王國萬二千餘里」という内容が魏略にも書かれていた、
という事は否定出来ない。 >>341
中国の書物に11世紀に初出
さて、どれだけさかのぼれるでしょうか >>325
>もし方位磁石を使って方角を測定していたなら
現在の方角とズレていた可能性があるよ<
周髀算経には、方位磁石の事は書かれていない。
>古代中国にはあったらしいし まあ確率は低いだろうけど1つの可能性として <
あったとしても参考程度。 >>326
>逸文だから全文が分からんからな
行程記事も途中が脱落してるな。<
魏略としては、「自郡至女王國萬二千餘里」という記録情報の存在が記載しておけば、
それで十分。 偽書専門の古田さんの史料批判は、売り物としての商品価値が基準 >>330
>40kmが76.5kmの誤差の範囲内なので<
この男は、一大國と末盧國の一寸千里の計測地を「勝手な判断」し、
一寸千里の計測の有効数字の範囲内になる事も、こっそり隠している。
>「計算はほぼぴったり合う」と 偽書専門の高校の先生は主張している <
「余」のある部分里数の合計でも、郡と女王之所都での一寸千里でも、
萬二千余里が求められた、という事も、この詐欺師は隠している。 >>333
>ぴったり合うのが余計怪しいんだよ
100里500里1000里だけの大雑把な単位で 無理やり合わせた証拠だろ<
古田さんは、部分里数の合計の数字と、郡〜女王之所都間の総里数とが合う事が出来る、
という事は知っておられたが、
「余」のある「有効数字1桁近似値」である事も知っておられた。 >>326
>行程記事も途中が脱落してるな。
なんか抜けてたか? 偽書専門で名を残した古田さんは、棒の影を使ったけれども
松浦半島の曲線の海岸線で距離を稼げると言っておられた
また萬二千余里は各行程の合計とは独立した推論値で
計算には各行程の合計も使うとも言っておられた >>356
伊都までの記事しかない
その先はごっそり抜けてる >>334
>「名を捨てて実を取る」 高校の教員を辞めて偽書を売るということにょう<
この男は、どうやら、
和田キヨエをたぶらかして、尿入り?の一升瓶を沢山、旧喜八郎家の中に置いておく、
という嘘つき騙しの詐欺をした偽書説派の 仲間なんだな?。 >>339
「日本国民や日本国」を大事にしない人種差別的戦争主義の皇国史観の、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
「尿入り?一升瓶での偽書」という冤罪のでっち上げでも、日本人を騙したりする。 偽書専門の古田さんは、和田キヨエさんを犯人に仕立て上げれば
まだ偽書で商売を続けられると考えた
日本国民を大事にする偽書専門の高校教員として 偽書専門の古田さんのビジネスパートナーの和田喜八郎は、
「熊野」の写真を「津軽」として盗用したとして40万円(一審は20万円)を支払うよう判決が出されている >>342
>岩石に含まれる痕跡から
100〜200年前どころか数億年前の磁極の状態もわかるのだ
つうか弥生時代なら×10の意味がわからんが
魏の当時の磁極のデータは探せばどっかに載ってるんじゃないの
まあ別に本気で当時は磁極が40度ズレていて
中国の使者は古代の方位磁石でそれを測ったから
現在で見れば東の所を南と記載したなんて主張をする気はないが
あくまでも半分遊びで可能性を言ってみただけだ <
あれ?、この偽書説派の大和説者は、「あくまでも半分遊びで」と書いているが、
最初に地磁気を持ち出した時には、そんな「遊びだ」なんで言い方ではなかったぞ。
「地磁気と自転軸の違い」の議論に負けて、言い訳をして逃げようとしてんだな?。 >>350
史料批判をした史料事実専門の古田さんは、後漢書や記紀は半分×書で半分〇書。
「幼学書」って何だい?。
分裂幻覚妄想の症状か?。 偽書専門の古田さんはよく声闘(ソント)しておられた
日本では火病と呼んでいる >>351
>周じゃなくて魏の時代の話だよ <
魏の直前の漢代末に、周髀算経が、再収集注釈がなされたんだよ。 >>353
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
大和説にとっては都合の悪い史料事実は、否定抹殺して、
上手く解釈すれば都合がよくなる、と思った史料は、曲解捏造して、
世間の人々を騙せる売り物としての商品価値の有無が基準。 >>368
それがそのまま偽書専門の古田さんの商売の手口 >>368
商品価値なんぞを持ち出すとは
持ち出す側のそれが本音なのだろうな
学問とは太極拳 偽書専門の古田さんは日本の学者、行政、マスコミと
偽書商売のじゃまをする日本人はウソ吐きダマシのサギ師と罵る >>357
偽書や一升瓶専門で名を残した・・・・詐欺師の大和説者。
古田さんは、棒の影は使われず、
松浦半島の曲線の海岸線で距離を稼げる、とも言っておられなかった。
また萬二千余里は各行程の合計とは独立した推論値でもある、と言ったのは、
一寸千里を使う私であり、古田さんはまだ言っておられなかった。
古田さんは、計算には各行程の合計も使う、という事だけを言っておられた。 >>372
松浦半島の曲線の海岸線で距離を稼がないなら千里は約40km
偽書専門の古田さんが言ったことと、加古川爺が言張ってるだけのをはっきり分けて書かないと
いつもは偽書専門の古田さんが言っていたことだけを根拠にしてるから >>362
偽書専門の偽書説派の大和説者は、和田キヨエさんをたぶらかして偽証造りをやらせれば、
まだ偽書説で商売を続けられると考えた。
日本国民を欺くための偽書説専門の謀略家として ・・・。 >>374
いや、「熊野」の写真を「津軽」として盗用したとして40万円(一審は20万円)を支払うよう判決が出されたのは
偽書専門の古田さんのビジネスパートナー >>362
東日流三郡誌の貸し出す前に、一応文書を読んで勉強して驚いた和田喜八郎は、
自分でも証拠集めをしようとしたが、素人であるために、
「写真なら原本ではない事は明らかだろう」と思って、他の本の写真を貼ってしまい、
裁判を起こされて罰金を払ったが、
偽書説派の要求した「裁判所の偽書説の認知」は、拒否された。
「熊野」の写真を「津軽」に貼れば、他本の引用であることは自明。 >>363
よく解らない事に口を挟まない方がいいよ >>376
論文については、別府市在住の歴史愛好家との類似性を認めつつも、
著作権侵害か否かについての判断をしなかったというだけのこと
どう思っても他人の写真は盗んではいけない
偽書専門の古田さんは盗んだものでも気にしないかもしれないが 偽書専門の古田さんの末端構成員の考える人類の常識と
学者、一般の日本人の常識は違う 野村氏の訴訟の理由
「私の撮った熊野の石垣の写真を、熊野のものとして引用されていたなら、私も告訴はし ませんでした。
それを津軽の深山の城跡の石垣として紹介されていたので、説明を求めた のですが、
何も回答がなく、訂正する気もないようなので、誤った歴史観が形成されてゆくのを、
知って知らぬふりができずに止むなく訴えたのです」
(斎藤「『東日流誌』についての総合的批判そのII」『季刊邪馬台国』五三号、所収) 「日本で出土した銅鏡を、日本のものとして引用されていたなら、私も告訴はし ませんでした。
それを洛陽の畑から出たものとして紹介されていたので、説明を求めた のですが、
何も回答がなく、訂正する気もないようなので、誤った歴史観が形成されてゆくのを、
知って知らぬふりができずに止むなく訴えたのです」 洛陽の三角縁神獣鏡の所有者の王趁意氏は告訴されていないから
別の人のことだな 悪く言うと
成り済まし、騙りのような家があるのかな
明治頃に何やらと言っている人がいたり、
即席的に作られたので、何も中身がない
本物とか、
そういう家の人を殺そうとした、
冤罪事件に巻き込もうとした
とか
誰か言ってなかった? むかーし住んでいたところ?
調べてみると
◇◇◇◇◇
◇◇◇◇◇
このようなブロック、壁があったり、
ワッフルのような形
戦国時代でいうと、
武田氏関係の一族なのかな、
友好関係があったとか 銀??とか言うのもいたかな〜、
家に凄い刀が飾ってあって・・・・
広瀬座というところに行ったり
老婆談 謎の埼玉名字辞典?
家と同じような名前の家でしょ
上野、いまの群馬県、長野県が何やら、
たしか駆け落ちが何やらという話もしていた、
騎馬の話? >>365
>偽書専門の古田さんは<
嘘を付くな、・・・・。
古田さんは、史料批判と史料事実からの帰納的確率的推論が専門。
>よく声闘(ソント)しておられた 日本では火病と呼んでいる<
声闘(ソント)とか火病なんて文言は知らんよ。
キョクウ宗教の人種差別的殺戮戦争の皇国史観の、
「南→東」などの嘘つき騙しの詐欺師の、
分裂幻覚妄想の・・・・は、
自分らの仲間の中だけに通用する・・・・文言を造作するもの。 箕輪 伝説?
偶然、同じようなタイトル?
というだけなのかな むかーし住んでいたところは、
伊達郡のほうだよ
と言っていたり >>389
古田が史料批判したり帰納したりした形跡はないな
あるなら証拠だして >>369
それがそのまま、
「南→東」などの嘘つき騙しの、
人種差別的殺戮戦争の皇国史観のキョクウの大和説者らの、
ヘイトスピーチの手口。 >>393
このように
ザラコクのやってることは
史料批判の盲目的否定と
偏向思想押し付けによる
声闘 >>370
太極拳なんて変なものを持ち出すとは 、
それが持ち出す側の本音なんだろうな 。
科学や学問は、
不可知部分が殆どである自然や歴史において、
僅かに知り得た事実からの「残りの不可知部分への帰納的確率的推論」をすべし。 ザラコクって、スターリン礼賛やりすぎて除名になった
元共産党員とか? >>371
キョクウ殺人戦争狂の皇国史観大和説者は、
政府文部省の学者、行政、マスコミなどに浸透して、
事実からのまともな帰納的確率的推論をする学者のじゃまをして、
ウソ吐きダマシのサギ師とへいとすぴーちして罵る。 >>397
ウソ吐きダマシだ、サギ師だと
毎日100回くらい
ヘイトスピーチして罵ってるのって
ザラコクだよな >>373
>松浦半島の曲線の海岸線で距離を稼がないなら千里は約40km <
ほら、またこの男は、出発地点と到着地点を言わずに、
約40km というインチキを宣伝している。
>偽書専門の古田さんが言ったこと<
ほらまた、この男は、史料批判に拠った存在史料を、偽書と決めつけて古田さんへのヘイトスピーチをしている。
>加古川爺が言張ってるだけのをはっきり分けて書かないと<
おや?、この男は「加古川」という間違いをしゃべったから、
どうやら、例の葛城説のssnらしい。 >>397
相手がひとこと畿内説を唱えただけで
キョクウ殺人戦争狂だとか
皇国史観だとかレッテル貼って
罵声の限りを尽すのがザラコク >>400
お前や古田は、出発地点と到着地点を言ったのか? >>400
史料批判に拠った存在史料って
まさか、ツガルなんとか誌のこと?
⁉︎ 他説批判に入る畿内説論者
末期的症状 自説をあきらめたか 魏志の時代も南は南。
畿内で邪馬台国論は魚のいない池で釣りをするようなもの。
徳川埋蔵金とか好きなやつが嵌るやつ。 >>375
>いや、「熊野」の写真を「津軽」として盗用したとして40万円(一審は20万円)を支払うよう判決が出されたのは<
いや、江戸から明治の和田家文書には、当然、「写真」など存在しない、という事は自明。
だから、喜八郎さんの自費出版本の写真は、たまたま見た本の中の写真を、
何の気もなく悪意など当然なく、転載しただけである事は明らか。
そして、裁判所は、原告側の偽書説派の「偽書」認定の請求は、
当然の事ながら、拒否 した。 スレ主はサイコパス?
畿内説スレが終わると24時間いつでも即スレを立てる。
しかもテンプレを>>1 から>>66まで毎回書き込む異様さ。
病院行った方がいいんじゃないか?
スレ主は仕事しないの?ハロワにでもまず行ってみては? >>378
>論文については、別府市在住の歴史愛好家との類似性を認めつつも、
著作権侵害か否かについての判断をしなかったというだけのこと<
偽書説派は、「偽書」認定を裁判所に求めたが、拒絶された形。
>どう思っても他人の写真は盗んではいけない<
私らのような素人オジンも、(喜八郎さんと同じように)、
PCや書籍に書かれたものを紹介する時に、
それが著作権法に触れるのか?なんて、考えた事もない。
そもそも、投稿やホームページや出版されたものに価値を認めて転写する、
なんて事は、普通の常識では極めて当たり前の事であり、
それが嫌なら、始めから「転載禁止」を禁止するか?、投稿や出版をしなければよい。 >>358
目的地が伊都だから、伊都までの記事で問題ない
邪馬台国までは陳寿が倭人からの伝聞記事を付け足したんだろう >>379
人種差別的殺戮戦争の皇国史観のキョクウの大和説の構成員学者らの考える常識と、
普通の学者や一般の日本人の常識や、人類の常識とは、全く違う。 卑弥呼に金印を渡すことが目的の使いが伊都国を目的にとしていたのだから、卑弥呼が伊都国にいたのは当然。 >>404
何いってんだかイミフ
他説を批判することが
自説を諦めることになるなら
このスレにいつも来る九州説は
諦め果てられ飽きられ、捨てられてる説だな >>408
>私らのような素人オジンも、(喜八郎さんと同じように)、
>PCや書籍に書かれたものを紹介する時に、
>それが著作権法に触れるのか?なんて、考えた事もない。
いや、それは
社会人としてダメだろう >>380
>野村氏の訴訟の理由
「私の撮った熊野の石垣の写真を、熊野のものとして引用されていたなら、私も告訴はし ませんでした。
それを津軽の深山の城跡の石垣として紹介されていたので、説明を求めた のですが、
何も回答がなく、訂正する気もないようなので、誤った歴史観が形成されてゆくのを、
知って知らぬふりができずに止むなく訴えたのです」
(斎藤「『東日流誌』についての総合的批判そのII」『季刊邪馬台国』五三号、所収)<
何だ?、こりゃ。
普通の人間は、そんな写真の有無など、一々探し回って調べるものではないんだから、
こりゃ、野村は、始めから喜八郎さんの出版物のミス探しに執着していた偽書説派であった事になり、
喜八郎さんの「津軽の石垣の他の例」の挙証を、曲解していた・・・・キョクウであった、
という事になるだけではないか。
野村は、始めから偽書説派に賛同していた >>397
>キョクウ殺人戦争狂の皇国史観大和説者は、
いや全く逆。
「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならん(本居宣長)」
この思想をベースに出てきたのが九州説。
もっと言えば説でもなく「世論誘導」。
大和だ九州だと論争してる間は古代天皇の朝貢という重い荷物を定着させずに済む。
その定着させないという状況を永遠に創ろうとした。
相撲で言えば永遠の水入り。
これは天才の発想だ。
つまり新井白石や本居宣長が心にもない九州説という「ごきぶりホイホイ」を仕掛けたわけだ。
捕まって身動き取れないゴキブリの気分はどうだ?w
まぁもう75歳だしそのままゴミ箱に捨てられろw >>406
>たまたま見た本の中の写真を、
>何の気もなく悪意など当然なく、転載しただけである事は明らか。
ウソを言うな偽書専門高校教師古田の末端構成員
被害者の野村氏は、偽書専門古田のビジネスパートナーから頼まれたので、善意で写真を送付したんだよ >>414
自分の撮った写真を盗用されて
文句を言ったら罵られて
悪者にされるのか >>387
>むかーし住んでいたところ? 調べてみると
◇◇◇◇◇
◇◇◇◇◇
このようなブロック、壁があったり、 ワッフルのような形
戦国時代でいうと、 武田氏関係の一族なのかな、 友好関係があったとか <
ふーん、この「伊達、川崎」の投稿男も、
偽書説派で「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説派の、
人種差別的・・・・キョクウであったのか。 >>392
>古田が史料批判したり帰納したりした形跡はないな あるなら証拠だして<
最初の論文の「邪馬壹國」や、その次の初期5部作位を呼んで見な。
殆ど、史料批判と帰納的推論ばっかりだよ。 >>394
このように、
人種差別殺戮戦争のキョクウの皇国史観の・・・・大和説者や偽書説者らのやってる事は、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシと、
古田さんらの史料批判での帰納的確率的推論の盲目的否定と、
キョクウ偏向思想での国民の洗脳のヘイトスピーチ的街宣。 >>396
>ザラコクって、スターリン礼賛やりすぎて除名になった 元共産党員とか?<
共産党なんて、全く知らないね。
ハングリーと、高慢なタカ派の唯我独尊の・・・・人種の存在と、組織化が、
殺し合い戦争の原因であり、
日本国憲法が最もベターだ、と思っている素人オジン。 >>399
ウソ吐きダマシだ、サギ師だと
毎日100回くらい 批判され、罵しられてるのって、
高慢で、タカ派で、殺し合い戦争狂で、唯我独尊で、反日本国憲法の、
「南→東」などの嘘吐きダマシの・・・・人種の大和説派、だよな。 >>401
>相手がひとこと畿内説を唱えただけで キョクウ殺人戦争狂だとか 皇国史観だとかレッテル貼って
罵声の限りを尽すのがザラコク <
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシを、敢えてしてまでして、
大和天皇家一元列島支配教を主張し続ける、という人種は、
宗教的な皇国史観にクルってしまった人種である、
という事以外には考えられないから。 >>425
大和天皇家一元列島支配教なんて、一体どこの誰が主張してるの?
ザラコクの脳内だけで発生してる珍現象でしょ? 自分の気に入らないモノを何でも
反動主義者だーとか、資本主義的たーとか
レッテルを貼って糾弾する
スターリン時代の体制派の圧政ソックリなんだよね
ザラコクの言い草ってさ >>402
>お前や古田は、出発地点と到着地点を言ったのか?<
古田読解や作図では、「出発+途中の移動説明+到着」が原則になっており、
私は、更に、大きさが明確な国間距離の測定点に関しては、
原則として、出発地点や到着地点は「居住外縁部」説だよ。 >>309
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 >>403
>史料批判に拠った存在史料って まさか、ツガルなんとか誌のこと? ⁉︎<
古田さんは、当然、東日流外三郡誌などの和田家文書の、
信頼性の史料批判をされたよ。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 テンプレートが、、、宗教的な皇国史観にクルってしまった人種、、、の作り物だとはっきりした今、邪馬台国はどこにあったのだろうか、 >>430
つまり古田は、出発地点と到着地点が具体的にどこだかは言葉を濁して、ハッキリは言わなかったんだね? >>345
魏略には行程記事もあるから元々は行程記事の合計が2000里で合ってたんだろうな
魏志倭人伝でも魏略と同じ資料が基になってて行程記事の合計が2000里で合ってるはず
日での行程は後の別資料によるものだな。 >>403
>>私らのような素人オジンも、(喜八郎さんと同じように)、
PCや書籍に書かれたものを紹介する時に、
それが著作権法に触れるのか?なんて、考えた事もない。<
>いや、それは 社会人としてダメだろう<
いや、魏志も後代史書も記紀なども、
全て人々に読んで貰って承認し引用して世間に広めて貰おう、という意図で書かれている。
それが、人類の常識であり、暗黙の了解事項。
それが嫌なら、「転載禁止」を表紙に書くか?、
始めから、公開出版せずに、頭の中で考えて、人に知られないようにするか?、
だけにすればよい。 というか自分で考えてレスしてないんだよね
固定化した定説をスポークスマンのごとく話してるだけ
だから話が通じない >>438
魏略を読んだこと無いでしょ
だから、そんなトンチンカンなこと考える ようするに「畿内史観」の人間は畿内史観の定説を延々述べてるだけ
「古田史観」の人間は古田史観の定説を延々述べてるだけ
古田史観の人間は古田史観の矛盾や不合理を認めないし、
畿内史観の人間は畿内史観の矛盾や不合理を認めない
それって進歩ないよね
自説批判が出来なきゃ進歩ないじゃん
どっちも壊れたテープ状態 >>434
おそらくは、火の国のどこかではないかな、、、 >>434
おそらくは、火の国のどこかではないかな、、、 皆さんは一次資料のみから結論を導き出す能力が欠如してますね^^
だから誰それがこう書いてたとかそういう話ばかり^^
だれを信じるかという宗教の世界^^ >>441
魏略は一部しか残ってないし
残ってる内容も不正確だな。 >>222
森浩一の弟子ってどういうところにいる人たちなんですか?
大学の教授?
それとも自治体で遺跡の発掘とかやってる人? >>443
古田史観の定説なんてものは無い
形容矛盾 で、「ずれた定説」をもとにさらに論理を積み上げて、「新しい定説」を作っていくんだけど
土台がずれてるからその新しい定説はもっとずれたものになるわけで
その大きなずれと現実を擦り合わせるために「ご都合主義的な解釈」「定説に合致する一例のみを取り上げて、合致しない他の百例は無視する(または後代の捏造と認定する)」ということを行うわけじゃん
だから箸墓や巻向の年代はどんどん遡っていくし、筑紫君磐井が武烈天皇だなんてことになる >>440
こういう具体性のないカキコをする人は
自分がどんだけ無内容でカラッポな存在か
理解できてないんだね
かわいそうな人さ >>453
誰もおまえのことだなんて言ってないのになんでそんな必死に噛みついてくるんだ?w
そんなに図星だったか?w
w >>452
具体性ゼロ
自分に酔ってるだけ
なぜなら、他人への批判のつもりで言ってる言葉が
自分自身に当てはまってるから >>454
あら? >>452はお前じゃないとでも? >>452
だからそこで一旦もとに戻って「土台となる定説自体が間違ってるんじゃないか?」
と考えなきゃいけないんだよ
でも結局は「古田先生を否定するわけにはいかない」「畿内説の前提を疑って、九州説に味方するようなことをしてはいけない」みたいな、
そういう「非学問的態度」が勝っちゃって、議論が進まなくなるんだよ
「先人に忖度すること」は学問では間違いなんだよね
先人の『発想』は参考にしてもいいけど先人の『結論』を受け継いじゃったら思考停止だから
『結論』に対してはフラットな態度で、党派主義も捨てて、改めて資料と向き合わないと 東日流外三郡誌、和田家文書には、邪馬台国に関係があるどんな事が書いてあったの?
そんなに重要な内容なの? >>460
実際は、図星言われた岡上が発狂してるよな >>458
ほらな
どこまで行っても具体的な話が出てこない >>462
だからお前に言ってるわけじゃないのに何で必死に反論しちゃうの?
w 自説を部分的に否定する勇気を持とうぜって話だよ
それができないと永遠にずれていくよ >>462
他人の説を実際には知らないで
なんとなくイメージしてるだけで
それで無理して批判しようとして
しかも長文を書くから
ああいうブザマなことになる 奈良の狂った老人は、「キウス」や「岡上」をどう使い分けて認定しているのだろうか、、、 邪馬台国論争は宮内庁が解体されない限り結論は出ないだろうね
ほんとは全国の古墳を発掘調査するべきなんだけど
だからそういう意味で早く天皇制なんて違憲審判されて廃止されればいいのにね
天皇が存在するから宮内庁も存在して、だから古墳が調査されないわけだから >>464
具体性がサッパリないな
お前こそ自説を否定すべきじゃないか >>464
それは具体的に、どういうことなの?
w >>470
お前はすべてのレスにレスつけていくわけじゃないだろ?
なぜお前はそのレスを選んでレスしたんだ?
なにがお前の心に引っかったんだ?
w >>416
>>たまたま見た本の中の写真を、
何の気もなく悪意など当然なく、転載しただけである事は明らか。<
>ウソを言うな・・・高校教師古田の末端構成員
被害者の野村氏は、・・・古田のビジネスパートナーから頼まれたので、善意で写真を送付したんだよ<
そんな言い訳は、通らないよ。
それなら、参考写真として掲載された事情が明らかなんだから、
喜八郎さんに悪意など全くなく、ミスの謝罪程度で済むものを、
野村が偽書説派の陰謀に組して、裁判まで起こして、
喜八郎さんらを追い落とそうとした事は明らか。 >>475
一人芝居のイタコ芸とか、無様の極地だね。 >>476
ミスも認めなきゃ謝罪もしなかったから訴えられたんだろ 必死に岡上連呼してるやつのほうが端から見たら発狂してるように見えるからお前の印象操作は失敗 >>417
>自分の撮った写真を盗用されてさ<
盗用になっていないよ。参考写真であった事は、明らか。
>文句を言ったら罵られて 悪者にされるのか <
ミスの謝罪訂正文位で済む事を、嘘つきダマシの偽書説派に組して、
写真を公開宣伝してくれた喜八郎さんを、わざわざ裁判にまで起こした野村は、
「偽書説派への悪質な転向」をした事が明らか。 >>479
ああ、先ほどから少なくとも2人、正論をいう人が投稿しているのに、奈良の狂人が噛みついてきているね、、、 >>486
岡上が必死に印象操作しようとしているが
バレバレである >>485
参考写真だと、どうして盗用にならないんだ?
言ってることが支離滅裂だな。 >>486
うわべだけ正論を装って他説に中身のない誹謗をしてる人だろ
一名だ >>487
今を時めく主流説が
いったい何に負けるの? >>419
>ザラコク見境なしだな w<
何故そのような、普通では出て来ないような、
不可解な事を書き出す必要があったのか?を考えれば、
「伊達川崎」男の意図や悪意の精神構造は、バレバレなんだよ。 >>428
>大和天皇家一元列島支配教なんて、一体どこの誰が主張してるの?
ザラコクの脳内だけで発生してる珍現象でしょ?<
Yahooの天誅やhnらや、大学の古代史学者らや、この5chの大和説者らや、
の深層心理に存在しているの。 >>429
>自分の気に入らないモノを何でも 反動主義者だーとか、資本主義的たーとか
レッテルを貼って糾弾する スターリン時代の体制派の圧政ソックリなんだよね
ザラコクの言い草ってさ<
私は、日本国憲法に拠って、個人の生存共存の自由と平和が大事であり、
組織化は、エスカレートが必須であり、戦争の原因になるから、嫌いなの。 >>435
>つまり古田は、出発地点と到着地点が具体的にどこだかは、
言葉を濁して、ハッキリは言わなかったんだね?<
古田さんも、史料に記載されていない事は、原則として議論されない。 >>451
古田さんの誤りを訂正して矛盾を全て解決したのが
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)です。 >>474
思わず突っ込まずには居られなかったんだよ >>476
>喜八郎さんに悪意など全くなく
そこが偽書専門高校教師古田や末端構成員と日本人の常識の違い
他人のものは他人のもの、他所のものは他所のもので、悪意はないという言い訳は通らない
所有者の許可なく熊野の「猪垣」の写真を津軽山中の「耶馬台城」として使った事実に対して
40万円を支払うよう判決が出された >>485
>ミスの謝罪訂正文位で済む事を、嘘つきダマシの偽書説派に組して、
>写真を公開宣伝してくれた喜八郎さんを
野村氏は、喜八郎が盗用する8年前に、日本経済新聞に「謎の猪垣熊野に眠る」との見出しで発表している
喜八郎は熊野のことなど書いてないのでミスではない >>495
存在してるって証拠は?
ザラコクの脳内妄想でないと立証できる? >>496
でも、深層心理では大好きなんでしょ?
偶像崇拝嗜好や好戦的・高圧的な言動、平気で嘘をつく生活態度などでわかるよ 就業時間中に会社のPC使って5ちゃんに多数投稿してる経営者という事実だけで、その思考・行動がまともではないことは確定 >>503
天皇崇拝、軍備肯定のネトウヨ畿内説くんのことじゃんそれ >>505
で、そんなひとが
キミの脳内以外のどこに実在するか
具体的に言ってくれたまえ 熊野の猪垣は、江戸時代、イノシシやシカから農作物を守るため、
村人たちの手で造られ、年中行事として修理を重ねてきた
熊野古道を歩く当時の巡礼者たちにとっては、山中を抜けて猪垣が見えると、
「そろそろ人里が近い」と判断する目印にもなっていたという(読売) >>486
残念だね。。。
レベルの一番低い者が、つまらない中傷で、興味深い議論を台無しにしてしまったね。。。。 だいたい
畿内説は古代の天皇家支配を認めない不敬な左翼
と久しく呼ばれて来たもんだがねぇ
皇国主義起源の九州説や
万世一系信奉の東遷説などの輩が
どのツラ下げて
畿内説を右翼と呼ぶやら 天皇家の大和支配の起源を不当に遡らせようとしているだろ。
現代版の万世一系説じゃないか。 >>511
そんなことしてるって証拠は?
アンチは、また嘘ついて中傷? >>513
どうして九州説や東遷説は
そんな悪いことをするの? またか、またテンプレートを貼り付けている狂人が、論破されているね。。。 >>515
毎日そんなウソをついて、岡上は何が楽しいんだ?
そういえば、岡上氏の高度なレベルの投稿が懐かしいね。。。
このレベルの低いスレッドには、もったいなかったけれども、、、、 皇紀〜年なんて信じているのは、
頭の悪い人間なんじゃないの?田舎者とか 九州説も東遷説も
もう畿内説に反論することは
諦めてしまった。
勝てないと悟ったのだろう。
ても、中傷することは決してやめない。
よほど悔しいのだろうね。 311大震災おめでとうございます^^^^^^^
どのスレなのか知らないけど、
このような書き込みがあったとか
それと、このような説
『神武 311』 そんな下らない荒らしをしてて、九州説はそれで気がすむのか?
正面から挑む気概を忘れ果てたのか? 『天孫降臨』
グーグルで検索すると、
とある俳優の画像が出てくるはず、お酒の広告?
出演していた作品を調べてみて、
311大震災くらいの時期のもの スレ主はサイコパス?
畿内説スレが終わると24時間いつでも即スレを立てる。
しかもテンプレを>>1 から>>66まで毎回書き込む異様さ。
病院行った方がいいんじゃないか?
スレ主は仕事しないの? たしかKPOPのアイドルグループが出演していたドラマ?
手に扇(扇子)のようなもの持った人物が現れ・・・
追い出されるようなシーン・・・・・・・・311??
ネット用語なのかな
「死んだ・・・は、良い・・・人」 魏志の時代も南は南。
畿内で邪馬台国論は魚のいない池で釣りをするようなもの。
徳川埋蔵金とか好きなやつが嵌るやつ。 >>525
ウソまでついて中傷するとか、岡上は人間やめてますね 何やら・・・マサミチみたいな役名だと思った、
カノ?マサミチ もう畿内説に勝てないのは思い知ったから、あとはイヤガラセが出来ればいいんだろうな 偶然なのかな?
当時、その作品を観ていたような?
次回予告などを観て、
これは危険だなと思っていた
手に扇のようなモノを持っている人物が現れるシーン(次回予告) なぜかドラゴンボールのような話?
宇宙王子のような人物が現れたり、テレパシーで助けられた?助けた?とか かなり前の話になるんだけど、
信on内のロールプレイに似ているんだけど、
宇宙からやってきたというRP
カタコトという設定とか 確か2005年頃だと思った、
そういうロールプレイをしていた
当時の風雲 雑賀? >>536
さあね
お昼の1時間と深夜しか現れないからね
どうだろうね
彼が24時間いるようなウソをついてた岡上は24時間いるみたいだけど ゲーム内の知人なんだけど、
エヴァンゲリオンが好きなのかな?
絵を描いている人なのかな?
「そろそろ絵を描かないとw」と言っている人がいたり 本物だったとか?
『松傾』長竿?『ムー帝国 太陽の紋章』
赤恥かいた嘘つき男が
必死に連投荒らしで
スレ流し中
テンプレートの嘘が、一つづつ丁寧に、暴かれているね、、、 キナイコシは、なぜスレッドに張り付いているのだろうか。。。。 どこか(他のスレッド)で、
見たような気がするんだけど
「川崎に住んでいるんじゃないの?」
「誰々って、川崎に住んでいるでしょ」 >>546
間違い
神奈川は べー
ジャン は横浜特有 >>517
仕方ないよ、、、、
囲碁でもよくいわれるけども、名局ができるには二人の天才が要ると、、、
この畿内説者のレベルの低いスレッドでは、岡上氏の能力の全てを引き出せないからね。。。。
岡上氏が投稿しなくなったのも、そういうことなんじゃないのかな、 それにしても、
そのドラマに登場したキャラと、
同じような名前の人物がいない?仙台のほうにいない?
犯罪者なのかな『□野 正道』という名前の人 おめでとう^^^
と言っている人々がいたみたいだよ、
それも、かなりいたとか
本当に、どうしたんだろう 家も、
むかーし伊達郡のほうに住んでいた事があるんだよ(老婆談)
それと謎の震災後、
このような事を言っている人もいなかった?
「親戚でも殺されたのか?」
「聖人でも殺したのか」 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 岡上はそうだといいと思ってるんだよね?
かんがえるのは、いいことだよ
でも、口に出すと
それは
ウソをつく
という罪になる行為になるんだ
もっと、かんがえてごらん 何を言ってるんだ?
そろそろ頭のビョーインに行ったほうが良いぞ 頭が弱く生まれついた、というのは本人の罪じゃないよね
そう思うと、九州説の人にどう接していいのか
うん、悩んでしまうね 『□野 完』もそう
wiki 犯罪者だと書いてない?
遠い親戚?にしては、全然似ていなかったり、
家はアイヌのような系統のような気がする >>480
>ミスも認めなきゃ謝罪もしなかったから訴えられたんだろ <
ここの偽書説派の説明が正しかったんなら、
八郎さんは、おそらく「説明不足ミス」の指摘?に対応出来なくて、
偽書説派の策略で、突然裁判を起こされた。 >>570
□野 完氏も、そうなんじゃないの?
詳しいことはわからないけど、
陰謀論、陰謀説というのがあるでしょ、
最初は否定していたの? >>489
>参考写真だと、どうして盗用にならないんだ? 言ってることが支離滅裂だな。<
ここの偽書説派の説明では、
野村は、写真そのものか?、写真入り本か?を送った時点で、
参考にして貰う事を、承服していた事になる。 >>570
説明不足じゃなく、あきらかに嘘をついたから
訴えられたんでしょ? >>573
目的外使用だ
訴えられるし
当然敗訴する >>492
>今を時めく主流説が いったい何に負けるの?<
「南→東」などの沢山の嘘つき騙しがバレた事で、
負けたの。 ジャイアンツの投手も
嫌われていると書いてない?
調べてみると、
そのような話が出てきたり
才能を潰そうとしている人がいるのかな、
あいつは本当の天才、秀才の家系だ・・・とか >>573
理由もいわず、嘘つき騙しとか罵ってるのって
ザラコクだけだろ
w >>495
>それと畿内説は関係ないでしょ?<
「伊達や川崎」男が、時々、九州説批判になり、
大和説応援になるような事を漏らしていたから、
結局関係があった。 >>579
自分たちの敵は自動的に畿内説になるのか?
実際は皆からの嫌われ者なのに 昔からあったと書いてあるでしょ?
これは、とあるスレで見た
『ミラーマン 冤罪』
それと
『天津罪 国津罪』とか 死して天神となった・・・
このような人物がいるでしょ?
本当は雷を起こしていたとか、
怨霊だったのかな? >>500
>>喜八郎さんに悪意など全くなく<
>そこが偽書専門高校教師古田や末端構成員と日本人の常識の違い
他人のものは他人のもの、他所のものは他所のもので、悪意はないという言い訳は通らない<
ここの偽書説派の説明では、
写真は古田派の人を介して喜八郎さんに齎されたようだから、
喜八郎さんは、他人のもの、という意識は希薄であった。
>所有者の許可なく熊野の「猪垣」の写真を津軽山中の「耶馬台城」として使った事実に対して
40万円を支払うよう判決が出された <
津軽の山中の山城の参考史料とした使用であった?から、
慰謝料程度のものであった、という訳。
元から偽書説派で反古田であった?野村の、本性がバレただけ。 気になっているというか、
知っているワードを検索すると
ゴーロー、ゴローちゃん?
という名前が出て来たり
何々ゴロー? 家の近所なんだけど
「セメント・・・」と検索してみると
「ゴローちゃんばりに」
という記事が出てきたり、名前が同じというだけだと思うけど >>583
なんで加害者側が偉そうに
被害者を罵ってるの?
? ガンダムのサングラス・・・検索した時も
ゴローズ何やら?
このようなタイトル? ゴローズbar?だったかな
『ガンダム シャア テレビ』
確か、そのような記事(サイト)があったような >>502
>存在してるって証拠は? ザラコクの脳内妄想でないと立証できる?<
Yahooでの、今のtextreamに変わる前の天誅らとの議論で、天誅に、
「天皇家は、天地開闢以来、大和で統治していた」という意見なのか?、と質問したら、
天誅は「そうだ」と答えた。
しかし、Yahooは、textreamに変わる前の議論内容を封印して、
一切見、見るも検索も何も出来ないようにした。 少しググってみた
もしかしてタマゴローと出てきた
『タマゴロー』? >>509
>だいたい 畿内説は古代の天皇家支配を認めない不敬な左翼
と久しく呼ばれて来たもんだがねぇ<
その頃は、5世紀頃までの大和天皇家の列島支配を、認めなかったから。
>皇国主義起源の九州説や<
(古田説以外の)九州説も、5世紀の倭の五王は大和王であった、という意見であった筈だよ。
>万世一系信奉の東遷説などの輩が どのツラ下げて 畿内説を右翼と呼ぶやら<
「天誅」という文言は、皇国史観支配の武闘思想であり、右翼そのものだよ。 >>514
どうして大和説者は、
「南→東」などの嘘吐きダマシなどの、そんな悪いことをするの?。 >>594
「天誅」は克殷のことだろ
皇国史観と関係ない
ザラコクの妄想 >>594
ザラコクのコジツケ=イチャモン体質がモロ出ててワロタ
こういう人間が圧政しく権力側にいたら笑えんけどな ザラコクって、得意げに正義を騙る我欲漬けサディストぽいね >>519
>皇紀〜年なんて信じているのは、 頭の悪い人間なんじゃないの?田舎者とか <
そう言えば、Yahooの京大の医者であった大和説のhnは、
「hn2602」?というネームを持っていたが、
「hn2602」とは「皇紀〜年」という意味であるそうで、
彼は、戦争での実践戦闘の講釈をしきりにしゃべっていた・・・・だったよ。 >>520
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者も 、
もう九州説に反論することは 諦めてしまった。
勝てないと悟ったのろう。 ても、中傷することは決してやめない。
よほど悔しいのだろうね。 >>523
そんな下らない荒らしをしてて、大和説はそれで気がすむのか?。
「南→東」などの嘘吐きダマシの指摘に、
正面から挑む気概を忘れ果てたのか?。 >>531
もう九州説に勝てないのは思い知ったから、
あとはイヤガラセが出来ればいいんだろうな 。 >>583
>ここの偽書説派の説明では、
>写真は古田派の人を介して喜八郎さんに齎されたようだから
>喜八郎さんは、他人のもの、という意識は希薄であった。
偽書専門古田が著作権侵害犯罪に関わっていたのかな?
どろぼう喜八郎は東日流外三郡誌には猪垣に関連する記述はないと野村氏に返答しているから
最初から野村氏所有の熊野の写真だと知っていて
津軽山中の「耶馬台城」に使ったんだよ 勝ち目がないと悟った畿内説は個人攻撃に走るしかないわけか。
情けないね。
一応は学問板のはずなのにね。 >>567
頭が弱く生まれついて、「南→東」の嘘吐きダマシをし、
天皇家に縋りついて、戦争をしようとした、というのは本人の罪じゃないよね。
そう思うと、大和説の人にどう接していいのか 、
うん、悩んでしまうね 。 >>571
>そんな空想なんの意味がある?<
皇国史観大和説の偽書説派の説明の通りであっても、
実際には「偽書説派と野村」の結託での策謀であった、
という事を世間の人々に知って貰う、
という意味がある、 >>608
そんな作り話、誰が信じると思う?
だいたい偽書派って東遷説の安本たちだろ?
畿内説は関わってないぞ >>574
>説明不足じゃなく、あきらかに嘘をついたから 訴えられたんでしょ?<
ここの大和説偽書説派の説明通りであるんなら、
明らかに喜八郎さんの、「参考写真である」事の「断り説明の、書き足らず」、だな。
それを、訂正文追加で済むものを、
偽書説派にそそのかされ共鳴した野村が、
喜八郎さんを罪に落として偽書説も併せて認めさせようとして、
裁判まで起こして、世間の人々を騙そうとした。 >>613
そんな言い訳が通るなら
世の中いくらウソついても許されるだろ
ザラコク天国だな >>613
説明書き足らずじゃなくて
ウソの説明書きすぎだろ
だから裁判おこされて
敗訴した >>575
>目的外使用だ 訴えられるし 当然敗訴する<
喜八郎さんの「単純な説明書きの不足」であり、
「訂正文書」で済む程度の事であり、
罰金も少額であり、
偽書説側の「偽書」認定請求は、当然黙殺された。 このひとは嘘をつくことを、まったく悪いと思ってないんだよ >>616
黙殺されたというのはウソ
学問上の議論に裁判所は踏み込まないという判断がちゃんと示された >>578
>理由もいわず、嘘つき騙しとか罵ってるのって ザラコクだけだろ w<
「南→東」などの嘘吐きダマシの指摘に、反論も理由も言えずに逃げているってのは、
大和説者ばかりだろ?。w。 あの判決、独自の創作だから盗作とは認めがたい、とか何とか言って事実上偽書認定してなかった?
うろ覚えだけど >>619
反論も理由も言えずに逃げているってのは
ウソでしょ? >>580
>自分たちの敵は自動的に畿内説になるのか?<
大和説者が、「南→東」などの嘘吐きダマシのサギシで、国民の敵だからだよ。
>実際は皆からの嫌われ者なのに <
国民の投票では、九州説が過半数で、大和説は3割しかないいんだよ。 >>622
国民の投票なんて、いつ有った?
???? >>584
>でも盗用で敗訴<
でも、説明不足ミスで、少額過料だけ。 >>622
東遷説の安本が古田にケンカ売っても畿内説のせいだと言う
狂った主張 国民の敵は他者の写真どろぼうや、そのどろぼうを擁護する集団だろ >>587
>なんで加害者側が偉そうに 被害者を罵ってるの? ? <
何で、「説明不足ミス」程度のものでしかなかったのに、
裁判を起こして、「和田家文書は偽書だ」と認めさせようとしたの?。 捏造や歪曲をまったく悪いことだと思ってないのが
ザラコク >>629
邪馬台城の跡だとかウソ説明をつけることの
どこが「説明不足ミス」程度のものなの? どろぼうがバレたら訂正すればいいというのが
偽書専門古田の末端構成員の言い分 他人の冤罪を口汚く罵って丸一日を年365回。自分の嘘偽りは糾弾されても蛙の顔に水。
それがザラコク。 倭国大乱
◎吉備が少しずつ瀬戸内海の支配を進める。
2世紀末までに播磨、淡路島と吉備に落とされていく。
◎九州南東部の投馬国。吉備などの西瀬戸内海の海人と手を組み、九州北部を征圧。
伊都国に一大卒、苅田にも拠点を構える。
◎伊勢尾張の勢力
打倒畿内のクナを目指し、西征。
甲賀、伊賀と兵を進め、南近江を征圧。
さらに伊賀→宇陀方面からヤマトに進軍。
大きく分けて、この3つの勢力が卑弥呼共立で手を組んだんだな。 魏志倭人伝には、伊都国が千戸しか人がいないと書かれている。漢数字で千と万は間違えるはずはないので、実際千戸程度しかいなかったんだろうね。
もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
3世紀半ばに大兵団が置かれていた場所の候補地は博多那珂地区しかない。
博多も区域としては伊都国に含まれるが、一大率が支配していたのだろう。
つまり伊都国は、平原周辺(王とその取り巻き)以外の大部分を一大率に召し取られたと考えると矛盾がない。
魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。
奴国は不弥国と伊都国の中間にある。地図を見ると遠賀川がその辺りにある。
遠賀川流域は、縄文時代〜弥生時代にかけての石器の一大製造拠点。その石器は九州全土に広がり、特に九州北部に強い影響力を持っていた。
また遠賀川流域の飯塚市から、行橋市には古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路であった。
奴国は2万戸の大国であり、遠賀川流域一帯の国であったと考えられる。
問題は不弥国である。
魏志倭人伝によると伊都国と同じように千戸しかないとある。壱岐ですら三千戸であることを考えるとかなり不自然。
行橋市の北は京都郡、苅田。
石塚山古墳など早期の前方後円墳がある。
巨大古墳のあるところは、労働力の集積地(非農業人口集積地)。つまり拠点地域。
不弥国も伊都国と同じように、大部分の領地を女王国に召し取られた可能性がある。
その地域支配の拠点が苅田辺りに作られていた可能性がある。
九州北部支配の拠点、博多那珂地区の一大率と苅田の駐屯兵団。少なくとも二ヶ所は魏志倭人伝の時代から存在。 宮崎、大淀川流域、生目古墳群。
円形周溝墓、前方後円墳、三世紀後半〜。
魏志倭人伝と近い時代に、宮崎にかなりの労働力(人口集積)があったことが分かる。
畿内、ヤマトの旗を同じくする勢力。
女王国メンバーの投馬国だね。 邪馬台国へのルートである。
魏志倭人伝において、ます到着するのは末盧国である。500里をはるばる歩き、伊都国(博多湾一帯)に至る。
伊都国から奴国(飯塚市を中心とした遠賀川流域一帯)へ。さらに東に進み、周防灘に面する不弥国(行橋市から宇佐)に至る。飯塚市から行橋市に古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時、玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路だった。
そこから船で南へ沿岸を航行し、20日かけ大隅半島を抑えている投馬国へ着く。
大隅半島を南へ漕ぎ出し黒潮に乗る。黒潮は時速7Kmであり、何もせずとも1日に150Km進む。黒潮は自然と潮岬に接岸する。(現代において観測され証明されている)つまり10日で潮岬に流れ着く。
熊野に上陸し、陸行1ヶ月でヤマトに至る。
これが魏志倭人伝当時の邪馬台国へ至るルートである。 卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけ。
結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。この時に吉備の勢力が大和入りしたんだね。
吉備の兵は他の国々の兵と共に纒向に駐屯。
これが纒向で伊勢尾張、吉備、丹波近江、大分の土器が出土する理由。
在来系の土器も勿論多数出土している。
纒向の南の芝遺跡は纒向と入れ替わるように弥生時代後期に消退するし、芝遺跡からも人々が纒向の営みに動員されたんだろうね。 九州説が荒らしてるという根拠か?
畿内説が自説のスレを荒らしても何の得もないからな 九州説が荒らしてるという根拠か?
畿内説が自説のスレを荒らしても何の得もないからな 九州説が荒らしてるという根拠か?
畿内説が自説のスレを荒らしても何の得もないからな 九州説が荒らしてるという根拠か?
畿内説が自説のスレを荒らしても何の得もないからな 九州説が荒らしてるという根拠か?
畿内説が自説のスレを荒らしても何の得もないからな 九州説が荒らしてるという根拠か?
畿内説が自説のスレを荒らしても何の得もないからな 九州説が荒らしてるという根拠か?
畿内説が自説のスレを荒らしても何の得もないからな 九州説が荒らしてるという根拠か?
畿内説が自説のスレを荒らしても何の得もないからな 九州説が荒らしてるという根拠か?
畿内説が自説のスレを荒らしても何の得もないからな 九州説が荒らしてるという根拠か?
畿内説が自説のスレを荒らしても何の得もないからな 九州説が荒らしてるという根拠か?
畿内説が自説のスレを荒らしても何の得もないからな 九州説が荒らしてるという根拠か?
畿内説が自説のスレを荒らしても何の得もないからな 上にも書いてあったけど
統合失調症の患者はよく他人のやった事をそのまま繰り返したりするらしいな 最近とみに自演じいさんのエキセントリックさが増している。
精神的に破綻が近づいてる感じ。 こんなナリフリ構わない荒らしぶりは
畿内説圧勝を認めたようなもんだ
惨めな末期症状さ >>691
罵倒しか出来ないのは
論破され尽した敗北者 九州説は畿内説に比べてあまりに非論理的なので
いずれ畿内設備反論できなくなってただ荒らすのみになる
前に予想した通り >>694
そういう書き込みが、お前をもっと惨めにする。 >>592
>つまり、証拠がないんだね?<
Yahooがどういう意図で、textreamという掲示板にして、
過去レスを見れなくしたのか?は知らんよ。
しかし、証拠が欲しければ、京大に行って、天誅という人物を探して聞いてみな。
東大を出て、京大に移って、教授クラスの身分になって、
東京の博物館の展示の差し替えを直ぐに命令出来る身分であったんだから、
調べれば直ぐに判る筈だよ。 >>596
>「天誅」は克殷のことだろ 皇国史観と関係ない ザラコクの妄想<
「天誅」とは、「天や天子や天皇に代わりて誅を実行する」の意味であり、
幕末〜維新の頃に「天誅組」の事件もあった。 >>704
天誅が皇国史観の言葉なら
中国古典で使われているわけがない
しかし実際には使われている
よってザラコクのコジツケ中傷である >>604
ここの偽書説派の説明では、 写真は古田派の人を介して喜八郎さんに齎されたようだから
喜八郎さんは、他人のもの、という意識は希薄であった。
だから、喜八郎さんが「東日流外三郡誌には猪垣に関連する記述はない」と、
野村氏に返答している事も、当然の事であり、
最初から「野村氏所有の熊野の写真が津軽の山城の参考写真になる」と思って、
使ったんだよ 。
だからひょっとすると、野村氏も、
偽書専門の大和説者らの「喜八郎さんへの謀略」に関わっていたのかな?。 >>609
>そんな作り話、誰が信じると思う? だいたい偽書派って東遷説の安本たちだろ?
畿内説は関わってないぞ <
古田さんの九州王朝説は、皇国史観や大和説の根幹を揺るがすものだから、
安本と大和説者が、偽書説派として手を握ったんだよ。 >>614
>そんな言い訳が通るなら 世の中いくらウソついても許されるだろ <
ウソではないだろうね。
本来の「東日流外三郡誌」に存在しない筈の「写真」を使った、という事は、
喜八郎さんは、始めから「類似の石垣」の写真で、
津軽の山城の実態を判り易く説明したつもりであったんだな。 >>682
>>681に自己レスする程病んでる。
自分に呟くのはもう末期。 >>615
>説明書き足らずじゃなくて ウソの説明書きすぎだろ<
「ウソの説明」ではないね。
本来の「東日流外三郡誌」に存在しない筈の「写真」を使った、という事は、
喜八郎さんは、始めから「類似の石垣」の写真で、
津軽の山城の実態を判り易く説明したつもりであったんだな。
>だから裁判おこされて 敗訴した <
野村と偽書説側は、喜八郎さんを「刑事的犯罪者」にする事が出来ず、
裁判所に求めた和田家文書の「偽書」の判断も拒絶され、
僅かな慰謝料?か過料で済まされた。 >>617
>このひとは嘘をつくことを、まったく悪いと思ってないんだよ<
「嘘」ではなく、「説明不足」。 >>618
>黙殺されたというのはウソ 学問上の議論に裁判所は踏み込まないという判断がちゃんと示された<
偽書説派は、わざわざ和田家文書全体の「偽書」の判決も貰おうとして
裁判所に否定された。 >>723
裁判所が偽書説を否定したと宣伝した人は
詐欺師ね >>625
>東遷説の安本が古田にケンカ売っても畿内説のせいだと言う 狂った主張 <
反古田で一致していた「南→東の嘘つき騙し」の大和説者と、
皇国史観の右翼の詐欺組織につながった安本が、
偽書説でもタッグを組んだ。 >>626
>説明不足ミスだなんて判決でてないよ <
犯罪行為だ、というような判決は、出ていないよ。 >>628
国民の敵は、
「南→東」などの嘘つき騙しの犯罪の宣伝や、その犯罪を擁護する集団だろ?。 >>630
「南→東」などの史料事実の捏造や歪曲を、
まったく悪いことだと思ってないのが 大和説者。 >>631
>城の跡だとかウソ説明をつけることの
どこが「説明不足ミス」程度のものなの?<
で一体、どういう説明になっていたの?。
喜八郎さんは、「邪馬台」が 津軽にあった、という説明をしていたの?。
近畿や九州説ではなかったの?。 「311」「ぽぽぽぽーん」
資格や資質がないという事を言っているんだよ、
徳? >>632
「南→東」などの嘘つき騙しがバレたも、知らん振りしてればいいというのが、
偽書説とのタッグを組んだ大和説の末端構成員の作戦。 >>633
他人の冤罪を口汚く罵って丸一日。
自分らの「南→東」などの嘘偽りは、糾弾されても蛙の顔に水。
それが大和説者。 もののけ姫「神殺し」とか?
何だったかな?を退治、殺すときも、
そのような台詞があった
テンノウから、
書が届いたのか、使者が来たのか
聖人、神殺し〜資格 徳の高さ無し >>637
>倭国大乱<
「倭国大乱」なんて存在しないよ。「倭國亂」だよ。
>◎伊勢尾張の勢力
打倒畿内のクナを目指し、西征。 甲賀、伊賀と兵を進め、南近江を征圧。
さらに伊賀→宇陀方面からヤマトに進軍。 大きく分けて、この
3つの勢力が卑弥呼共立で手を組んだんだな。<
「南≒東」だから、×ですね。 『ワンピース 粉雪』
というアニメにも登場するけど、同じような話 >>642
>卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけ。
結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる<
「南≒東」だから、×。 >>657
「南→東」などの嘘つき騙しの指摘に反論できなくなった大和説者が荒らしおる。 >>666
大和説者が荒らしてるという根拠か?。
大和説者の「南→東」などの嘘つき騙しの指摘に反論が出来ず、
大和説が殆ど壊滅的になったからな。 >>692
こんなナリフリ構わない荒らしぶりは、
九州説の圧勝を認めたようなもんだ 。
惨めな末期症状さ。 >>693
罵倒しか出来ないのは、
論破され尽した敗北者大和説。 >>695
大和説は九州説に比べてあまりに非論理的なので、
いずれ九州設に反論できなくなって、ただ荒らすのみになる。
前に予想れた通り。 >>698
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
敗北してとうとう発狂してしまいました。 もののけ姫でしょ、
なぜか「アサノ」という人物が出てきたり キュウリの葉、葱の華・・・
などの写っている写真
家の先祖でしょ
たしかアサノセメント?
関係の会社で仕事をしていたと言っているよ
松(もみ)の木の立てられている写真とか
セメントのようなものも写っていたでしょ、
コンクリートのブロック >>717
野村氏が喜八郎に対して起こした損害賠償請求の民事訴訟で
刑事訴訟ではないし、そもそも古文書に関する文書偽造の法律はない
裁判所は野村氏の写真を「知られざる東日流日下王国」で盗用しているか、
日経新聞掲載記事中から東日流外三郡誌で盗用しているかの判断しかしてない
写真盗用は、著作財産権侵害および著作者人格権侵害を認め
論文盗用は、野村氏の新聞記事は熊野の石垣についての調査報告で
東日流外三郡誌とは内容が異なるので斥けた
つまり喜八郎は写真泥棒であった 何の葉なのか知らないけど、
キュウリのような葉
河童 河伯? 『松傾』と同じような家
上の名前の読み方も、本当は「す」のほう?みたいなことを言ってる 白い服の写真も貼り付けたはず、
写真の裏に『松傾』と同じような名字、氏 姓?
でも暴力団、ヤクザでもない ガンダムの話なのかな、
鬼のようなものに搭乗していたり 南→東を理論立てて解説しないと、
ザラコクは引かない(^^) >>757
スレ主をバカにしてるだけなのになんでお前がレスしてくるの? >>755
実験をすれば判る
ザラコクに理論の内容解説をしてみろと言えば
逃げるか、説明に失敗するかなので
証明される >>758
テンプレは畿内説の概要を説明してるのだから
テンプレが破綻してると言う者があれば
畿内説の者なら誰でも
理由を聞く >>762
そんな事実があると言うなら
証拠を出すように
出せなければ
ただの中傷 スレ主をバカにするとなぜか名無しの擁護がつくんだがw >>761みたいなオウム返しばかりなんだよね
内容が無いね、九州説ってさ スレ主は毎日ここに貼り付いてんだよ暇だから
しかもこんな早朝からな >>766
畿内説スレで畿内説をバカにすれば
そうなるのは当然だろ?
理由がわからなければ相当な池沼 スレ主個人をバカにしてるんだが
畿内説論者的にもバカをさらし続けるスレ主の存在は迷惑だろ >>768-769
ブーメランになってるの気づかないのはバカすぎる。 >>771
またウソをついてるな
テンプレをバカにしてたくせ >>768
早朝って、普通に出勤前のんびり出来るひとときでは? >>711
>天誅が皇国史観の言葉なら 中国古典で使われているわけがない
しかし実際には使われている よってザラコクのコジツケ中傷である<
Yahooでは、「京大の天誅」は、
私が「幕末の天誅組の天誅の意味か?」と尋ねたら、返事をしなかった。
そしてしばらくして、Yahoo掲示板に「天誅」の名前の投稿が無くなって、
半年位してからパラパラっと投稿が復活し、大和説の「ハイエナ」らが喜んで歓迎したが、
その後、また投稿が無くなって、Yahoo掲示板はtextreamに変わった、
という事であったと記憶する。
年齢は私より10歳位年下であった、と思うが、
何故投稿が止まったり消えたのか?や、亡くなったのか?は、
知らない。 >>722
大和説派と偽書説派も、堕ちるとこまで落ちた。 >>724
別の裁判なのに、裁判所に偽書説を肯定を要求した人種は 、
詐欺師グループね 。 >>736
『後漢書』卷85 東夷列傳第75
「桓 靈 "倭國大亂" 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」
「後漢書」出典の「倭國大亂」を「新字体:倭国大乱」に置き換えただけ。なお三国志の「倭國亂(倭国乱)」でも問題ない。
歴史用語として「倭国大乱」が広く用いられているだけだから問題ない。 >>778
さて、またザラコクが嘘をついていたわけだが
wwwwwwwwww
0590 日本@名無史さん 2017/10/27 16:54:52
>>502
>存在してるって証拠は? ザラコクの脳内妄想でないと立証できる?<
Yahooでの、今のtextreamに変わる前の天誅らとの議論で、天誅に、
「天皇家は、天地開闢以来、大和で統治していた」という意見なのか?、と質問したら、
天誅は「そうだ」と答えた。 九州説か・・・
キウスといいザラコクといい
際限なくウソを、つく連中だな ある意味、笑える判決。
偽書かどうかは司法判断になじまないと言いながら
「前者には後者の記述にヒントを得たと見られる部分があるという程度に止まるというべきである。」
・・・言っちゃってるな、偽書だって。 ザラコクは
「証拠がないのでワテクシ嘘つき放題でっす」
と宣言してるようなもんだな 24時間張り付いて>>1-66を張り付ける超人
24時間張り付いて見えない敵に同じ罵声を浴びせ続ける超人
世の中には想像を絶する人物が2人もいるのだなあ。 >>788
ほら、また交代でキウスがウソをつき始めた
w >>788
1が来るのはだいたい
深夜か、お昼
嘘はいけないよ >>726
>犯罪行為だ、というような判決は、出ていないよ。
あのなあ・・・
不法行為を認定されて敗訴したんだが。 ウソつくことは
息をして二酸化炭素を吐く
くらいにしか思ってなさそうだね >>748
>野村氏が喜八郎に対して起こした損害賠償請求の民事訴訟で
刑事訴訟ではないし、そもそも古文書に関する文書偽造の法律はない<
実態は、野村は、自分から自分の売名のために?写真を提供したようであり、
実質的な損害は全くなかった。
それなのに、敢えて裁判を起こした、という事は、偽書説派と野村の策謀。
>裁判所は野村氏の写真を「知られざる東日流日下王国」で盗用しているか、 <
野村は、自分から写真を提供したらしいから、「盗用」になっていない。
>日経新聞掲載記事中から東日流外三郡誌で盗用しているかの判断しかしてない<
喜八郎さんは、「邪馬台」は、大和と筑紫の両方説であるから、熊野の石垣は大和のものだろう、と思っていた筈。
>写真盗用は<
盗用になっていない。
>著作財産権侵害および著作者人格権侵害を認め <
そんな事を言い出せば、この掲示板の投稿も、著作財産権侵害および著作者人格権侵害ばっかり。
>論文盗用は、野村氏の新聞記事は熊野の石垣についての調査報告で
東日流外三郡誌とは内容が異なるので斥けた <
「盗用」になっていない。
>つまり喜八郎は写真泥棒であった <
つまり、この投稿男も、偽書説派や野村と同じ仲間であり、喜八郎さんを策略で貶めようとするサギシ仲間であった。 >>759
実験をしたから判っている。
大和説者に、
「南≠東」や、
「大和は、倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」や、
白村江で唐と戦ったのは(大和日本国ではなく)倭国や倭衆や倭賊であった事や、
祇園山の殉葬奴婢百余人や、平原の21枚の「尚方作」鏡や、
庄内や三角縁や前方後円墳が筑紫先行や、
吉備や大和の「有槨」墓は有槨習慣部族の新規渡来を意味する、
などの史料実態への反論内容を説明してみろと言えば、
大和説者らは、逃げるか、説明に失敗するかなので、
証明される 。 >>767
〜みたいな「オウム返しされる」ばかりなんだよね。
内容が無いからね、大和説ってさ。 >>795
>「南≠東」や、
FAQ3に回答があるな スレ主はサイコパス?
畿内説スレ終わったら24時間いつでも即スレを立ててるよ。
しかもテンプレを>>1 〜>>66までを毎回書き込む異様さ。
病院行った方がいいぞ?
スレ主はニートなの? 魏志の時代も南は南。
畿内で邪馬台国論は魚のいない池で釣りをするようなもの。
徳川埋蔵金とか好きなやつが嵌るやつ。 >>795
>「大和は、倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」や、
そんなこと書いた史料があるのか?
とザラコクは難詰されているが
黙殺してる >>769
>スレ主は毎日ここに貼り付いてんだよ暇だから。
しかもこんな早朝からな。
>じじいだから朝起きるのも早いもんな。<
春成?は「じじい」なのか?。 >>795
>白村江で唐と戦ったのは(大和日本国ではなく)倭国や倭衆や倭賊であった事や、
金石文で唐と戦ったのは日本だとあると
ザラコクは指摘をうけたが
黙殺してる >>795
>祇園山の殉葬奴婢百余人や、平原の21枚の「尚方作」鏡や、
発掘調査で殉葬は無いとされてるとも
平原の「尚方作」鏡は国産だとも
指摘されてるが無視して
ザラコクは強弁するのみ >>795
>庄内や三角縁や前方後円墳が筑紫先行や、
考古学的にありえないと指摘されてるが
ザラコクは理由もなく言い張るのみ >>775
なぜ大和説信者には、嘘つきが多いのか。
人種差別殺戮戦争の皇国史観の、思想宗教的な・・・・が多いから。 >>795
>吉備や大和の「有槨」墓は有槨習慣部族の新規渡来を意味する、
根拠なしと指摘されてる >>795
>などの史料実態への反論内容を説明してみろと言えば、
実態じゃなくてザラコクの珍解釈 キウスやザラコクが嘘ついてるって言われると、どれが嘘だかよくわかるのに、畿内説が嘘ついてるって言ってる奴は何が嘘だか隠す >>781
>『後漢書』卷85 東夷列傳第75
「桓 靈 "倭國大亂" 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」
「後漢書」出典の「倭國大亂」を「新字体:倭国大乱」に置き換えただけ。<
「大」は、「皇帝や天子に関係する」事や内容を示す事が多く、
また後漢書は、前代史書記載に関して「誇大な意味になるような書き変えの文言」が多いので、
半分×説明になってしまう。
>なお三国志の「倭國亂(倭国乱)」でも問題ない。
歴史用語として「倭国大乱」が広く用いられているだけだから問題ない。<
「倭国大乱」と書けば、「天子や皇帝への反乱」という事も意味する事になり、
不正確であり、曲解する事も起こり得る。 >>783
大和説者か・・・。
スレ主といい偽書説派といい、
際限なくウソを、つく連中だな。 >>813
いつまでキナイコシの出勤前のヒトトキが続くか、後からスレッドをみればわかるね、、、 >>785
>ある意味、笑える判決。
偽書かどうかは司法判断になじまないと言いながら
「前者には後者の記述にヒントを得たと見られる部分があるという程度に止まるというべきである。」
・・・言っちゃってるな、偽書だって。<
この男も何か勘違いしているな。
写真が載ったのは「知られざる東日流日下王国」という喜八郎さんの著書であって、
「偽書説」対象の「東日流外三郡誌」などの和田家文書ではないんだよ。
だから、
「偽書」が問題になったのは、明治大正昭和写本群であり、
「前者」とは野村氏の写真情報であり、
「後者」とは「知られざる東日流日下王国」という喜八郎さんの本なんだよ。 >>820
ザラコクがまたウソをついているよ
笑えるね
判決文
「「東日流外三郡誌」全体と本件論文とを対比して検討するとしても、前者は長大な史書の体裁をなすものであるのに対して、後者は本件石垣の調査結果の報告論文である」
前者とは「東日流外三郡誌」全体 >>820
それ詳しいこと全く知らないけど、あなたが今相手にしてる>>785が無知なんだってことはわかったww いつまでも、どこまでも
生あるかぎりウソをつく
それがザラコク 実際には>>822が嘘つきであることが
天下に明らかになった >>820
後者は本件石垣の調査結果の報告論文
前者は東日流外三郡誌
75歳はわけわかってないな >>822
全く知らないのに
理由もなくザラコクの味方する人って・・・ >>820
>「前者には後者の記述にヒントを得たと見られる部分があるという程度に止まるというべきである。」
・・・
>「前者」とは野村氏の写真情報であり、
>「後者」とは「知られざる東日流日下王国」という喜八郎さんの本なんだよ。
野村氏の写真情報には「知られざる東日流日下王国」という喜八郎さんの本の記述にヒントを得たと見られる部分がある
と裁判所が思っていたなら
どうして喜八郎氏サイドが敗訴したの?
ザラコクの思考は支離滅裂だ >>828
このキウスのヘイトスピーチシリーズって
あきらかに九州説の首しめてないか? >>820
つか
原告の写真情報に、被告の本の記述にヒントを得た個所があるって?
ザラコクは何を考えてんの? >>791
>>犯罪行為だ、というような判決は、出ていないよ。<
>あのなあ・・・ 不法行為を認定されて敗訴したんだが。<
喜八郎さんは、「邪馬台国=大和説」でもあった筈で、
津軽は、大和の邪馬台国からの避難流民が作った邪馬台国説であった筈で、
だから、熊野の石垣と同じようなものが津軽にあった、と言いたかったんだから、
古田さんらの仲間を介して手に入れた野村の写真を貼ったのであり、
別に普通の行為であり、
野村氏までの了解や引用先の説明がなかったらしい、というだけであり、
別に取り立てた「不法行為」にはなっていない。 >>827
1.ウソついて畿内説を貶めたい人
2.とおりすがりの白痴
3.ザラコク本人
どれ? >>792
大和説者や偽書説派は、違法でも不法でも犯罪できゃオッケー的な、アレか。 >>793
大和説者や偽書説派は、
ウソつくことは、
息をして二酸化炭素を吐く、
くらいにしか思ってなさそうだね 。 >>800
>>「大和は、倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」や、<
>そんなこと書いた史料があるのか? とザラコクは難詰されているが 黙殺してる<
何度も書いて来た。
大和の日本国伝があるは、旧唐書や唐会要や新唐書であり、
それらの総括が根拠。 >>840
つまり「大和は、倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」
と書いてある史料なんて、無いと認めるね? >>831
おれは畿内説の立場だけどここのテンプレ貼ってる奴は畿内説の恥さらしだと思ってるよ >>833
被控訴人和田は本件写真が控訴人撮影の本件石垣等の写真であることを知りながら、
所在場所も被写体も全く別の対象物であるとの虚偽の説明を付して掲載したのである。 >>844
感情に理由はないよ
存在が恥ずかしいなあと思うから恥さらしだって言ってるだけ >>850
そりゃそうだよ
見てて恥ずかしいもんは恥ずかしいだろ
うんこを見て汚いなあと思うのと同じ 成分分析するまでもなくうんこは汚いじゃん
それをうんこ本人が「俺が汚いという理由は?」とか言ったってね
「知らんよ、ってかくせーから話しかけんか」って話でしょw ここまでの事実
自分は畿内説だと名乗る男が現れ、突然
1は恥さらしだと言ったが、理由は無かった
畿内説だという証拠も出さなかった >>802
>>白村江で唐と戦ったのは(大和日本国ではなく)倭国や倭衆や倭賊であった事や、<
>金石文で唐と戦ったのは日本だとあると<
筑紫倭国も大和もどちらも「日本」と名乗ったし、
日本国は倭国内の附庸国であるから、一部は白村江に参加した可能性もあり、
「日本」とあっても、大和の根拠であった事にはならない。
そして、倭国伝と日本国伝とを区別している旧唐書などの証言では、
白村江の対戦相手は、(日本国ではなく)倭国であったんだよ。
>ザラコクは指摘をうけたが 黙殺してる<
この投稿男は、その金石文の文面を提示しないし、出来ない。 キウスのかつてのアダ名は、東遷脱糞厨
理由は排泄物の話が異様に好きだったので >>857
>筑紫倭国も大和もどちらも「日本」と名乗ったし、
根拠なし >>803
>>祇園山の殉葬奴婢百余人や、平原の21枚の「尚方作」鏡や、<
>発掘調査で殉葬は無いとされてるとも<
発掘報告自体が、ほぼ同時埋葬である実態を書いており、
50年位で62人以上の陪葬が起きる筈もない。
>平原の「尚方作」鏡は国産だとも 指摘されてるが無視して ザラコクは強弁するのみ <
柳田らの報告書は知らんから、「尚方作」と書けるのは魏の工房しかなく、
明帝鏡が「元」になっている、と「元」と書いておいた。 新羅と百済の戦いは筑紫倭國(源氏)と畿内ヤマト(平氏)の代理戦争であった
源氏の時代は筑紫倭國の時代、平氏の時代は畿内ヤマトの時代である(ザラコクは絡むでない 新羅は白旗を掲げて戦い百済は赤旗を掲げて戦った
また源氏は白旗を掲げて戦い平氏は赤旗を掲げて戦った
日の丸の白は源氏、赤は平氏を意味する(基本である >>863
仕方ないよ、、、
2013年のあの日以来、とぎれていないのだもの、、、 >>861
またウソついてるね
須恵器も出てるのに 【日本の歴史】
1世紀
倭奴国 漢と通じ金印を貰う
倭国=朝鮮半島南岸〜対馬〜壱岐〜九州北岸
海洋民による海洋国家
後漢書「倭奴国は倭の極南界」
2世紀前半
九州銅矛圏vs近畿銅鐸圏
近畿銅鐸圏の王、帥升が後漢に朝貢
北宋通典「倭面土国(ヤマト国)王帥升」
2世紀後半
銅矛圏の一部勢力(安曇氏)が大阪侵略(大阪湾型銅戈)→倭国大乱
→卑弥呼即位により銅矛圏と銅鐸圏が和睦し同盟
出雲、吉備は従わず(狗奴国)
銅矛圏の王も廃されず伊都国に残る
魏志倭人伝「邪馬台国(ヤマト国)女王卑弥呼」「伊都国、世有王」
旧宗主国倭奴国王族の住吉氏、領地の朝鮮半島南部に亡命、新羅王として即位
(住吉神 中筒男=新羅王2代目 南解次次雄)
3世紀前半
邪馬台国連合=北部九州、近畿
出雲、吉備は銅輸入ルートから締め出され、銅器を使わない独自の祭祀を開始
(出雲=四隅突出墓、吉備=特殊器台)
丹波地方にいた住吉王族残党が新羅合流(丹波〜若狭湾は四隅突出墓の空白地帯)
(住吉神 底筒男=新羅王4代目 昔脱解) 畿内厨は正倉院展に行ってキウスと楽しい歴史話でもしたらどうだ >>876
九州説に理由はないよ
排泄物が好きなだけさ 筑紫倭國はニホン、畿内ヤマトはニッポン(基本である 知らんが、深夜しか来ないから、それなりに忙しいんじゃないの? 1に情け容赦なく論破されたときの恐怖が
キウスをロティサリー・チキンにしてしまった >>886
それは嘘だな。
ザラコクと区別されてるだろ? >>895
おまけに小心チキンだからな
証拠を聞かれると逃げるんだぜ
可哀想なほど慌ててな 馬鹿九爺はウソを千回つくと信じる奴も出てくると思ってるのさ
だからウソをつくことに意義があるんだ、奴にはね? >>895
>>896
自分がそうだから相手がそう見えるだけだろ ここは火だるまになってのたうちまわる畿内説を生暖かく見守るスレ >>901
あんまり現実から逃避しない方がいいと思うぞ いや、実際、誰も読まないテンプレを、反発されながらも改定しながら貼り続けている姿を想像すると、哀れというかキモいというか。 ついにキモイとか小学生並みの悪口しか出なくなったか >>906
そうやって現実逃避してるあいだに
どんどん畿内説との差が開いて
自分たちが取り残されて
惨めになっていくと
自覚できない
九州説 ↑これって、畿内説が九州説の悪口を書いているように思えるけどね。 >>804
>>庄内や三角縁や前方後円墳が筑紫先行や、<
>考古学的にありえないと指摘されてるが ザラコクは理由もなく言い張るのみ<
庄内は、柳田がついうっかり発言。
三角縁神獣鏡は、Yahooで、
天誅含め複数以上の大和説者が「志登」が一番古いと証言。
前方後円墳は、晋→壹與の天円地方思想と、モンゴル高句麗からの伝来路に拠る那珂八幡など。
「有槨」と同じく、墓制の大変更はその部族の渡来無くしては困難である事。 >>806
>>吉備や大和の「有槨」墓は有槨習慣部族の新規渡来を意味する、<
>根拠なしと指摘されてる<
墓埋葬様式の全く別様式への変更は、別部族の渡来や伝来以外に考え難い事と、
大和説学者自体が、「有槨」の吉備→ホケノへの伝来状態を記載していた。 >>916
柳田に「ついうっかり発言」なんてありません
ザラコクの妄想
「志登」が一番古いと証言・・・なんて
存在した証拠がありません
ザラコクの脳内変換でしょ
前方後円墳が晋→壹與の天円地方思想とかモンゴル高句麗からの伝来とか、なんの根拠もあーりません
もう周溝墓からの発展段階が細かく解明されてます
情弱の一語に尽きる >>918
墓埋葬様式の全く別様式への変更
なんかじゃないと解明済み
時代遅れの妄想ね >>820
>判決文
「東日流外三郡誌」全体と本件論文とを対比して検討するとしても、
前者は長大な史書の体裁をなすものであるのに対して、
後者は本件石垣の調査結果の報告論文である」<
何だ?、そんな文の事であったんなら、この男の、
「前者とは「東日流外三郡誌」全体 「前者には後者の記述にヒントを得たと見られる部分があるという程度に止まるというべきである。」
・・・言っちゃってるな、偽書だって」
の「偽書」が成立しておらず、「偽書」という文言が虚偽になるではないか。
私は、この男に「偽書」と言われたから、
喜八郎本が野村写真の偽書になっている、
と解した説明をしたんだよ。 >>915
小学生並みの悪口しか言わないというのが
九州説の客観的評価 >>921
なんで偽書が成立しないの?
現代人の書いたものからヒントを受けてるんでしょ?
現代人が書いた偽書だよね。 >>823
いつまでも、どこまでも、生あるかぎりウソを付き続ける。
それが「南→東」などの嘘吐きダマシの・・・・大和説者。 >>830
>野村氏の写真情報には
「知られざる東日流日下王国」という喜八郎さんの本の記述にヒントを得たと見られる部分がある
と裁判所が思っていたなら <
何を曲解してんだい?。逆だよ。
私の始めからの理解は、
「喜八郎さんの本の記述」は、「野村氏の写真情報」が傍証になった、
と言ったんだよ。
>どうして喜八郎氏サイドが敗訴したの? ザラコクの思考は支離滅裂だ<
だから、始めから、喜八郎さん側には不法行為や犯罪意図は全くなく、
説明不足であっただけだった、と言って来たんだよ。 【倭と日本の歴史】
1世紀
倭奴国(後の伊都国)漢と通じ金印を貰う
倭国=朝鮮半島南岸〜対馬〜壱岐〜九州北岸
海洋民(天津神)による海洋国家
後漢書「倭奴国は倭の極南界」
近畿に饒速日が基盤を築く
2世紀前半
九州銅矛圏vs近畿銅鐸圏
筑紫倭国の王、帥升が後漢に朝貢
北宋通典「倭面土国(ヤマト国)王帥升」
2世紀後半
筑紫倭国の内乱で天孫族が伊都を離れる→倭国大乱
筑後(後の肥国)の卑弥呼即位により内乱が終結したが、肥後は従わず(狗奴国)
魏志倭人伝「邪馬台国(ヤマト国)女王卑弥呼」「伊都国、世有王」
3世紀前半
邪馬台国連合=筑紫、肥国、豊国
畿内では神武らが前方後円墳を作り始めた饒速日王権の元で葛城鴨王のもとに居候
3世紀後半
壹與の元で肥後も含めた九州北部が発展
神武らにより開拓された瀬戸内海ルートが定着
4世紀前半
筑紫倭国の女王神夏磯姫が景行とともに九州北部を制圧し、筑紫倭国の実権を掌握
4世紀後半
神功皇后と武内宿禰が、景行の孫の仲哀一家と羽白熊鷲、田油津姫らを倒して筑紫倭国の王へ >>831
>このキウスのヘイトスピーチシリーズって あきらかに九州説の首しめてないか?<
キウスってどんなお方なのか?は知らないし、どれがキウス氏の投稿なのか?も知らんが。
どなたであっても、大和説への批判の内容は、随分参考になっているよ。
だから、あきらかに大和説の首しめている、と思うよ。 >>832
>つか 原告の写真情報に、被告の本の記述にヒントを得た個所があるって?
ザラコクは何を考えてんの?<
つか、この・・・・男は、まだ何やら逆の宣伝をしているね。
喜八郎さんの本は、野村の写真が、
「邪馬台の大和→津軽への逃亡流浪建国」説の
の参考(証拠)写真になる、
って言ってんだよ。 >>931
裁判所は、そんな身勝手な弁解を認めませんでした
敗訴 >881
スレ終了と共にどんな日のどんな時間もスレ主がスレ立ててるから無職は間違いないよ スレ主は今もここにいる
名無しで毎日張り付いてるからねw >>937
などとキウスか嘘をついて中傷してます
w このスレは畿内説スレじゃないから
スレ主の自己満世界のスレだよ >>833
>「不法行為」だって判決が出てるんだよさ<
そりゃ、その裁判官もおかしいんだわ。
新聞に出たような写真を参考根拠にした位で「不法行為」になるんなら、
この掲示板の投稿も、飲み屋や銭湯での井戸端談義も、全ての書籍も、
殆ど皆「不法行為」になってしまうわ。 >>841
>「大和は、倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」
と書いてある史料なんて、無いと認めるね? <
あるよ。
新唐書や旧唐書や唐会要が史料。 >>846
>被控訴人和田は本件写真が控訴人撮影の本件石垣等の写真であることを知りながら、
所在場所も被写体も全く別の対象物であるとの虚偽の説明を付して掲載したのである。<
だから、喜八郎さんの「説明不足」であった、と言ってんだよ。 >>839
>スレ主は斉藤忠<
あれ?。
春成?ではなくて、斎藤忠だったの?。
この男は、確か東大だった筈で、
古田さんの「関東に大王あり」でこっぴどく批判されていた人物だね?。 喜八郎さんが正しいか否かがこのスレで重要なのだろうか?
個人攻撃しても、邪馬台国論争と関係あるのだろうか? >>859
>>筑紫倭国も大和もどちらも「日本」と名乗ったし、<
>根拠なし<
筑紫倭国は、釈日本紀の「晋の惠帝に倭国が日本と名乗った」、という情報。
大和は、釈日本紀引用の「大和の小野妹子が隋文帝に日本国を名乗って叱られた?」、
って情報。 >>867
>(祇園山の件)またウソついてるね 須恵器も出てるのに<
筑紫の陶器の伝来や製作は、(陶邑に比べて)相当古く、
弥生期から「弥生土器と陶器の混在」の発掘が見られ、
その後も、筑紫平野部に、陶器製作遺跡が早くから幾つも見られた筈。 >>944
安本は東日流外三郡誌を偽書だと言ったんだろ 後は日本海側の勢力がどのようになってたかだな。
まずは丹後半島の歴史を解明しないとな。 >>868
>2世紀前半 九州銅矛圏vs近畿銅鐸圏 近畿銅鐸圏の王、帥升が後漢に朝貢 <
「近畿銅鐸圏の王、帥升」が×ね。
帥升は倭奴國王の国の後裔で、卑弥呼までの王として書かれているし、
近畿に持って来た時点で「南→東」に違反して×になる。
>北宋通典「倭面土国(ヤマト国)王帥升」<
唐政府の支配下の通典は、
大和の「皇国史観の嘘吐きダマシの説明」を踏襲した半分×書であるから、
根拠にならないね。
>2世紀後半 銅矛圏の一部勢力(安曇氏)が大阪侵略(大阪湾型銅戈)→倭国大乱
→卑弥呼即位により銅矛圏と銅鐸圏が和睦し同盟 出雲、吉備は従わず(狗奴国)<
これは、「南→東」で×ね。 >>870
>だれがいつ「元」って書いたの?<
私は、
柳田らは、平原の21枚の「尚方作」の方格規矩鏡も国内製の破鏡である、という意見のようであり、
それを確認する事が出来ないが、
「尚方作」鏡は、明帝の工房で造られた、という事が確定で、否定が出来ないので、
平原の21枚の「尚方作」の方格規矩鏡は、
明帝の尚方で造られた鏡を「元」にして国内で造られた、という可能性もあるから、
という意味で、始めから「元」という文字を入れて置いた。 >>962
素人おじんザラコクが
独断で書いたのだね? 邪馬台国問題がSTAP(スタップ)細胞問題に、ひどく似てきている。
STAP細胞は、存在するのか?
邪馬台国は、奈良県に存在したのか?
この二つは、同一の次元で語られてもよい状況にあるといえる。
この二つは、宣伝は、はなやかであったが(あるいは、はなやかであるが)、エビデンス(存在証明)が示されていない。
ともに、証明が、ひどく杜撰(ずさん)である。
ともに、夢物語である可能性が、きわめて大きい。
そして、大きな金の動く利権構造が、すけて見えるのも共通している。予算獲得のためのツールになっているところが似ている。
さらに、存在を主張する人たちは、存在を強く信じこんでいるところも似ている。
学問も、科学も、ときどき、大きな病気にかかる。
いま、その病気のうちの、つぎの二つをとりあげよう。
@ 意図的な詐欺タイプ
A 根拠のない思いこみにもとづく妄想タイプ >>878
>九州説に理由はないよ 排泄物が好きささなだけさ<
大和説には理由がないよ。
排泄物だけではなく、嘘つきダマシの口先サギが好きな・・・・であるだけだよ。 >>897
>畿内説は捏造なんぞしない 九州説と違って<
九州説は、
大和説の「南→東」などのような史料事実の否定曲解のような、
嘘つきダマシの捏造サギなんぞしないよ。 大和説は他人の忠告を素直に聞くことができず、
すべて悪口にしか聞こえない病気にかかっているね >>898
アホの大和説のガキサギシは、ウソを千回つくと信じる奴も出てくると思ってるのさ。
だからウソをつくことに意義があるんだ、奴らにはね。 >>911
そうやって現実逃避してるあいだに、 どんどん九州説との差が開いて、
自分たちが取り残されて 惨めになっていくと、
自覚できない「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説。 畿内説の空しい努力は賢い民衆には通じない
だからいつまで経っても九州説は敗れない >>912
議論に負けて小学生並みの悪口言うだけの、
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説。 >>920
>墓埋葬様式の全く別様式への変更 なんかじゃないと解明済み 時代遅れの妄想ね<
ダメだよ。
卑弥呼や壹與の頃は、確実に「有棺無槨」であって、
吉備とホケノに突然「有棺有槨」になったんだから、
吉備とホケノは、確実に壹與よりも後であり、
筑紫倭国の東征以外に、新たな「有槨」部族の渡来権力奪取があった、
と考えるしかないんだよ。 >>977
まともに反論できずに
精神病患者のように人の書いた事をくり返すだけの九州説 >>923
小学生並みの悪口しか言わないというのが 大和説の客観的評価。 >>924
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説勢って、その程度だよね 。 >>979
方形周溝墓はずっと「有棺無槨」なんだが
何か不服があるのか? >>982
そうだね
畿内説から見ると、君たちはそういう人たちだね
それかどうかしたのかい? >>982
レスをそのままくり返すという
小学生以下のことをするというのが九州説の客観的評価 >>925
>なんで偽書が成立しないの?<
偽書説者側の筆跡鑑定のダマシの失敗が、完全に暴かれたから。
>現代人の書いたものからヒントを受けてるんでしょ?<
逆。
喜八郎さんの本は、新聞情報の野村の写真が、参考になった。
>現代人が書いた偽書だよね。<
喜八郎本も、偽書ではない。 スレ主はサイコパス?
畿内説スレ終わったら24時間いつでも即スレを立ててるよ。
しかもテンプレを>>1 〜>>66までを毎回書き込む異様さ。
病院行った方がいいカモ? >>928
「南→東」の嘘吐きダマシや、
「喜八郎本の参考写真→著作権侵害」などの人権侵害が大好きの、
人種差別的人殺し戦争の皇国史観の・・・・大和説者。 >>936
裁判所は、
参考写真掲載が犯罪であるとか、関係のない和田家文書の偽書認定とか、
そんな身勝手な主張を認めませんでした。
だから、実際は、野村や偽書説者側の敗訴。 >>989
オイ人種差別というのはどっから出てきたんだよ >>961
裁判判決を曲解捏造する不法大和説偽書説一派が、イター 。 >>963
>素人おじんザラコクが 独断で書いたのだね?<
柳田らの解釈を一旦尊重して「元」と書いたの。 >>967
大和説はもう、
中傷しかできないんだね。 >>981
「南→東」などの嘘吐きダマシのように、
精神病患者のように、まともに「史料事実からの反論」できずに 、
書いた事の鸚鵡返しをくり返されるだけの大和説 。 >>984
>方形周溝墓はずっと「有棺無槨」なんだが
何か不服があるのか? <
方形周溝墓の所にも、後から「有棺有槨」部族の渡来があった。 >>985
そうだね
九州説から見ると、君たちはそういう人たちだね
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