邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part9
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水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝を全て矛盾なく解読することができます。
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國に都して邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1506174654/l50 里数の行程と日数の行程は同じ行程を距離と時間で説明したもの
郡の中心地から女王国の中心地まで何里であり、日数だと何日掛かると説明している
続けて読むから意味不明の文章になる
報告者は軍人であり、正確に報告している
水行二十日は郡から狗邪韓國までに掛かる日数に当たり
水行十日は狗邪韓國から末盧國に当たる
すると陸行一月は末盧國から奴國までに当たることとなる
しかし末盧國から奴國までは陸行一月は掛からない
陸行一日あれば十分なので、陸行一月は陸行一日の誤記。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。
全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。
伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。 「周旋可五千餘里」奴國から奴まで國までの倭地一周の推定距離である
周旋とは次の経路
奴國→不彌國→斯馬國→已百支國→伊邪國→都支國→彌奴國→好古都國→不呼國→姐奴國→對蘇國→蘇奴國→ 呼邑國→華奴蘇奴國→
鬼國→爲吾國→鬼奴國→ 邪馬國→躬臣國→巴利國→支惟國→烏奴國→奴国
参問とは問を集めることで、倭人から聞いた情報に基づくもの
実際には周旋してないので五千餘里は魏使が倭人の話を基に計算した推定の距離
五千餘里の計算方法は
末廬國→伊都國→奴国→不彌國までの各距離 500里、100里、100里で平均距離700/3里を出し
遠回りの不彌國〜奴國の国の間数である21倍し(4900里)
最後に奴国〜不彌國100里を足したもの。 世有王
@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載) 魏の世には増減があったの意味
A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
現在、貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についている、つまりこれも魏の世には冠をつける役職についているの意味
C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)
D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。
C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は代々の意だが、魏代ではある。Bも代々の意だが、魏代ではある。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切
以上からは、世有王は、特別な使用でない限り魏の世の王が、と訳すのが適当。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼である。
それ以外が主語の場合には「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、自女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率を使い支配したのである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国の都(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い伊都国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都国より東にあったら、この文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち自女王国以北(女王国を含む)は伊都国から北であり、自女王国とは伊都国を指している。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼である。
それ以外が主語の場合には「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、自女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率を使い支配したのである。
女王国が伊都国より東にあったら、この文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
即ち自女王国以北は奴国から北であり、自女王国とは女王国の中で最大の国邑の奴国を指している。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「奴国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い奴国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。 神武東征は6世紀くらい
九州からの関西等への東方植民活動は何派もあり
最後に大和地方を手に入れたのが神武である
最後に入植した神武は製鉄技術を持っていたのでその後の入植を許さず
東方で強大化できたのである
ヤマト朝廷の系譜は神武に始まる欠史八代と天武だけであり
残りの天皇は九州倭国の天皇で崇神は九州倭国の初代天皇。 帯方郡から女王国まで万二千里、行程,水行10日陸行1月
水行10日(一万里)で末蘆国、末蘆国から伊都国経由で陸行1月(二千里)で吉野ヶ里
水行は一日航海千里の規定を適用 周旋可五千餘里とは末蘆国から伊都国の東まわりで二千里
長崎の西回りで三千里、合計五千里 邪馬台国の開祖は徐福である
平原広沢とは佐賀平野のことである 已百支國(伊万里)
伊邪國(諫早 伊佐早)
對蘇國(鳥栖)
支惟國(香椎)
對馬國(対馬)、一大國(壱岐)、末廬國(松浦半島)
伊都國(糸島)、奴国(福岡市の一部)
國の大きさはこんな感覚でしょう。 已百支國(佐世保、九十九島含む)
伊邪國(平戸本国、五島分国) 邪馬台国、伊都国、伊邪国は徐福(イザナギ)一族直轄の国である 【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 【卑弥呼の王宮の候補】
・高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市にある。
糸島平野と福岡平野の間にあるクシフル山があり、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮は記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城はクシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂宮の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられる。
高祖宮の目の前の平原遺跡からは、ニニギ王家の家宝である神宝八咫の鏡が出土している。
伊都高祖宮こそ倭国の王都であり、平原遺跡は倭国女王卑弥呼が被葬者の最有力候補である。
・橿日宮
現在の香椎神宮。
卑弥呼の後継者となる筑紫の女王の一人として、景行天皇の時代に筑紫の梟帥の称号と八咫の鏡を持つ神夏磯姫(神橿日姫)がいて、その名からはおそらく橿日宮に住んでいたと思われる。
景行天皇の孫の仲哀天皇も橿日宮を拠点としており、代々の筑紫の王宮として用いられていたと考えられる。
魏志では不弥国に比定されることが多く、ここまでは距離が明記されているので郡使が往復したことは確実である。何のために往復したのかと言えば、卑弥呼に会いに行った可能性がある。
・高良宮
筑後一宮。高良大社や高良玉垂宮などからなる複合施設だが、後世の仏教との習合や神仏分離などの影響による。
近隣には卑弥呼もしくはそれに近い人物の墓と言われる祇園山古墳がある。
卑弥呼が筑後出身ならば、高良宮が元宮だったかもしれない。
郡使が滞在した伊都国までやや遠いのと、魏志倭人伝に該当する記事もないのが不利。
すると祇園山は壹與の墓か?
いずれの宮も聖地である山の西の麓にあり、王は太陽を背にして君臨したと考えられる。
これは倭国が太陽信仰をもとにした祭政一致体制であったためである。
その象徴となるのが王位の証である八咫の鏡などの内行花文鏡である。
平原遺跡に見られる鳥居や御柱などは、3世紀において神道が成立していたことを示す。
卑弥呼が用いたと記録された鬼道も、三種の神器や榊を用いた神道の儀式であったはずである。 【伊都国】
伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。
伊都国の平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ないが、魏志に卑弥呼の王宮の下女は1000人とることと一致する。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都が分離されていたと考えられる。
伊都国には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む中国風山城(奈良時代は怡土城、戦国時代は高祖城と呼称される)があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。
アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓であると考えられる。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、
平原遺跡からはニニギが授かった三種の神器である八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
そして後漢の頃には考古学的な倭国の中心は福岡平野の奴国から糸島平野の伊都国に移動しており、後漢書の倭奴国とは、魏志倭人伝の伊都国のことであると考えられる。
伊都国が卑弥呼のいた倭国の都である。 本居宣長なら名前の似ている帥升がスサノオではないかと仮定してみたでしょう。
ならば卑弥呼も邪馬台国も1分で解けたはず。
朝貢年
266年 台与 アマトヨツ
・
238年 卑弥呼 ヒメタタラ
・
・
・
・
・
107年 倭国王・帥升 スサノオ
ところがこれは言えません。
日本の歴史が最高神スサノオの中華皇帝への土下座から始まることになりますから。
「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」(本居宣長)
だから「馭戎概言」において、九州熊襲による偽僭説を提唱しました。
つまり世論誘導です。
新井白石が大和から九州に変えたのも同じ理由でしょう。
たった1分で済んでた話を本居や新井の世論誘導により300年も論争してきたという事になります。
というわけで本居が仕掛けた「ごきぶりホイホイ」に捕まって身動きできない九州説の皆さん、こんにちは! >1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡
当時の糸島半島は、根っこの部分に海が入り込んでいてほとんど島のように分離していた
志摩郡=現糸島市の北半分+福岡市西区の北西部
つまり、島状にほぼ分離していた糸島半島のことを、嶋郡=斯馬国と呼んでいた
島状の斯馬国の南西に、小さく伊都=現糸島市の南半分
高祖山を隔てて東に巨大な奴国
伊都の西に、唐津湾〜東松浦半島を中心とした末蘆国
さらに西に、「伊」万里湾〜長崎県北部を中心とした己百支国
長崎県南部の要衝が、伊邪国=「伊」佐早=諫早
有明海大村湾橘湾に面して長崎半島と島原半島の双方に接続する
女王国から東は海なのだから、
不弥国は現北九州市の範囲でなければ辻褄が合わない。
その内陸に香椎=支惟國
>9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
蘇に対する地点という意味なのだろうね。 甕棺墓の分布していた地域とそれ以外では発展の度合いが違っただろうから
行政区分も差があったのだろう。
甕棺領域は比較的細かく行政区画が分かれ、長官をヒナモリが補佐。
甕棺領域外は比較的大きめに行政単位が取られ、ミミタリやハナタリなど。 >>28
北部九州の倭國が朝貢したのである
本居宣長はトンデモである トンデモにトンデモ呼ばわりされて草葉の陰で嘆いてるだろうなw 江戸時代は考古学的知識が少なかったから、ある程度はしょうがない。
ただ、我々よりは漢籍に親しんでいただろうに、結局は史書を歪曲して捉えるような結論に達してしまった。
それはやはり畿内説という先入観があったからだろう。
かように、畿内説は高名な学者すら足を踏み外させてしまうのである。 本居宣長は思想家だから、個人的感情で歴史を語ってはいけない
歴史の真実が曇る 委奴国王はOh!クニヌシっしょ。
政権が続いているのなら金印は志賀島細石神社いずれにせよ
破棄放置されることなくもっと警護の厳しい場所に秘匿されていたはず。
親魏倭王も卑弥呼で記紀には出てこない。あとは倭の五王もあるけど
現統は金印では冊封されてないね。
それがいいことなのか悪いことなのかは視点による。 >>36
だから、細石神社に厳重に保管されていたんだろ。
戦国時代までは、広大な社領を持つ大社だったらしい。
戦国時代以降、多くの寺社や貴族が衰退したんだよ。
それは多くの文化財の散逸も招いた。
細石神社は残ったが、江戸末期までには安全に金印を保管し続けることができなくなり、なんとかして表に出してしまおうとして志賀島で見つかったことにしたんだろうね。
おかげで今日まで伝えられることになった。 >>39
細石神社そのものについては否定しないよ。
けど、金印なんてのは漢籍に記載された超重要な日本最古の冊封威信材なわけでしょ。
現に現代日本でも国宝指定。
もし金印を貰った政権がずっと続いているのなら、国宝級の家宝として
もっと大事に保管し続けたはず。
細石神社を没落させないだろうし
没落するならするでその時に引き取るはず。 >>40
>もし金印を貰った政権がずっと続いているのなら、国宝級の家宝として
筑紫倭国は何度も王権が交代しているし、倭国そのものが7世紀には滅亡してしまっていたら?
江戸時代まで保管されていただけでも奇跡だよ。 >筑紫倭国は何度も王権が交代しているし
そこが問題なわけ。
ってことは、細石神社が保管していたとしても、
金印を入手したのが三雲南小路の王様では無かった可能性もあるってこと。
あと、倭国が滅亡して、例えば日本国になったとして、
国家権力が欲しがるものの中に金印は必ず入るでしょ。
伝世銅鏡とは比べ物にならない、世に一つの逸品なのだから。
細石神社が保管しているなら必ず献上させる。 >>42
>金印を入手したのが三雲南小路の王様では無かった可能性もあるってこと。
?
年代的に三雲南小路の王が手に入れていたはずだよ?
そこに、実は細石神社が保管していたという話がちらほらと出てきたわけだよ。
>伝世銅鏡とは比べ物にならない、世に一つの逸品なのだから。
>細石神社が保管しているなら必ず献上させる。
確かに権力者は欲しがっただろうね。
だから江戸時代まで保管できたのは奇跡なんだよ。
もう漢が滅びて何世紀もたったから気にしなくなったのかもされないけどね。
その辺りの事情はわからないよ。
神主一族の忠誠心の高さ? >>43
三雲南小路の王が金印を入手して、
細石神社が江戸時代まで金印を保管していたのであれば、
金印はずっと伊都にあったことになるから、
当然平原女王の卑弥呼は漢委奴国王金印を保持していたことになる。
239年に卑弥呼が魏から親魏倭王金印を入手する。
卑弥呼の手元に、漢委奴国王金印と親魏倭王金印の両者が揃っていたことは確実なわけだよね。
卑弥呼の次の男王そして壹與までは同一政権であるわけだから、
壹與も漢委奴国王金印と親魏倭王金印の両者を持っていたことになる。
魏が265年に滅亡。
西晋が266年に成立。
壹與は266年に晋へ朝貢したとされている。 ここで問題なのが、基本ルールとして、
金印は王朝が交代すると、前王朝から貰った金印と交換で
新規発行されるということ。
同一条件を当てはめるなら、
「交換が必要な場合」
卑弥呼が魏に朝貢したのだから、
手元の漢委奴国王金印と引き換えに、親魏倭王金印を貰い、
壹與も晋へ朝貢したのだから、
手元の親魏倭王金印と引き換えに、親晋倭王金印を貰うことになるはず。
けれども、現実には漢委奴国王金印が日本に残っているから
このパターンは現実に破綻している。
「交換が必要ない場合」
卑弥呼は魏から全く新規に親魏倭王金印を貰い、
壹與も晋から全く新規に親晋倭王金印を貰った。
この場合、壹與が親晋倭王金印を貰う貰わないに関わらず、
壹與の手元には漢委奴国王金印と親魏倭王金印の両者(+親晋倭王金印)が揃っていたことになる。
漢も魏も滅亡しているから、価値としては両者とも同等。 考えられるパターンとしては、
「交換が必要な場合」
漢委奴国王金印は須久岡本の王が貰い、倭国乱その他の何らかの戦乱で
志賀島へ埋められた。
卑弥呼は魏から親魏倭王金印を新規発行してもらい、
壹與は晋と親魏倭王金印⇔親晋倭王金印を交換してもらった。
「交換が必要ない場合」
漢委奴国王金印は三雲南小路の王などが貰い、
卑弥呼は漢委奴国王金印に加えて親魏倭王金印を貰った。
漢委奴国王金印は三雲南小路の王墓を祭る細石神社に保管され、
親魏倭王金印は平原女王墓を祭っていた神社に保管されていたが、
神社ごと滅びたか、神社ごと移動したか。 ルール上は、「交換が必要な場合」 のようだから、
細石神社に漢委奴国王金印が保管されているのは妙だな、と言っているわけです。 >>47
漢から魏への王朝交代は武力で滅ばしたのではなく
禅譲だから魏から新たに印を貰う場合
漢から貰った印は返す必要がなかったんだよ
魏から晋への王朝交代も禅譲。 >>47
>金印は王朝が交代すると、前王朝から貰った金印と交換で
>新規発行されるということ。
これはどういう根拠があるの? >>8
帯方郡から女王国までは距離が万二千里
掛かる時間が水行20日と水行10日陸行1日
>>9
周旋可五千餘里とは奴国から奴国まで
>>10
崇神天皇は九州倭国の歴史からの盗用
>>11
天武天皇はヤマト朝廷の事実上初代天皇 >>47
>ここで問題なのが、基本ルールとして、
>金印は王朝が交代すると、前王朝から貰った金印と交換で
>新規発行されるということ。
他国でも金印が出土するので、そのルール絶対ではないよ。
むしろ、卑弥呼は最初の朝貢で、あの倭奴国の倭国の女王ですよという証明として、金印を用いたのだろう。
魏は漢から禅譲されており、漢の外交関係を継承していることを呉などに対して正統性の根拠としていたのだろう。 >金印は王朝が交代すると、前王朝から貰った金印と交換で新規発行されるということ。
これ放伐の場合だろうな、前王朝から貰った金印を持ってると前王朝にまだ従ってることになるから、新王朝に忠誠を誓う証拠に前王朝から貰った金印を放棄するってことでしょうね。 あの倭国がまた来たけれど、大乱があったという話も聞いている。
金印を使って国書も認めてあるけれど、本当にそうなのか確認してこい、ということで、張政らが派遣されたわけだ。
そうしたら、後漢から伝えられた通り、帯方郡から一万二千里の彼方に王都があり、楼閣高くして兵が厳かに守っていた。
礼節を知る人々が、卑弥呼の元で暮らしていた(食事はまずい)が、隣国と長らく闘争していた。
これは確かにあの倭国が存在していたのだということになったわけだ。 その昔、倭人は呉の太白の末裔を名乗っていた。
呉の王家は変わってしまったとはいえ、倭が呉と通じることは魏にとってはまずいわけで、倭をしっかりと自分たちの側に引き入れておかなくてはいけない。
実は卑弥呼については、呉の太白の末裔の姫氏(肥国王権)との噂もあったので、ますます魏としては味方にしておかなくてはいけなかった。
そんなところであろうか。 魏使の来た時は狗奴国と戦争状態だったので平地の宮殿ではなくて
防御の堅い山上の城砦に卑弥呼の宮殿があった可能性が高い
伊都国、奴国内の適地を見てみると高祖山が最も好都合だと考えられる ※数字は実際に生きてたであろう年代
崇神天皇陵=行燈山古墳=4世紀初頭から前半
I崇神(310年)
H開化 G孝元
F孝霊
トヨ津 D孝昭 E孝安
トヨ津 (250年)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年) @神武
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
つまり魏志に書かれた女王国とは葛城王朝であった。 >>58
その通り。
そして狗奴国王は神籠石で防御した筑後の城にいた。 『新唐書』
『其王姓阿毎氏 自言初主號天御中主 至彦瀲 凡三十二世 皆以「尊」為號 居筑紫城』
『王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。』 魏志倭人伝で狗奴国の官の名前は菊池彦とある。
狗奴国は熊本で、菊池城が狗奴国の城。
邪馬台国の城は基肄城と大野城の名が邪馬台国の傍国の名前に見られる。
これら三城は古代の九州北部で最も重要な城として知られている。 >>67
>邪馬台国の城は基肄城と大野城の名が邪馬台国の傍国の名前に見られる。は基肄城と大野城の名が邪馬台国の傍国の名前に見られる。
疑念
@「邪馬台国の城」では無く、
景初二年(238年)以前は「倭の城柵」で、
景初二年(238年)以後は「倭國の城柵」と考えるのですが?
A基肄城と大野城は、其餘旁國21ヶ国のどの国を指しますか?
女王國は、「自郡至女王國萬二千餘里」であることから、
12000餘里以遠の国々を指すことになります。
12000餘里以遠の国々とは、道里12000餘里にある「奴國」「不彌國」と、
その南にある「投馬國」と最南にある「邪馬壹國」の4ヶ国を指すこととなります。
「自女王國以北・・・・其餘旁國遠絶」であることから、
其餘旁國21ヶ国は女王國以北になります。
「其南有狗奴國」であることから、女王國より南には狗奴國しかありません。
>狗奴国は熊本で、菊池城が狗奴国の城。
3世紀に鞠池城があったかどうかは別にして、間違いないでしょう。
狗古智卑狗は菊池の出身でしょう。 魏志倭人伝の使節は伊都国までしか行ってないんだろ?
なら話は簡単だ
地理は軍事機密だから倭人がヤマトの都の位置を嘘ついて教えたんだろうよ
魏が裏切ってヤマトを攻めた時に、魏の艦隊が南海で遭難するように東を南と偽った
ヤマトの中央官僚にそれだけの政治的知性があったということさ >>69
>魏志倭人伝の使節は伊都国までしか行ってないんだろ?
「東南至奴國百里」「東行至不彌國百里」
奴國へは行程を示す動詞がないので、魏の使節は行っていません。
奴國と伊都國の位置関係を示しているだけです。
不彌國へは行程を示す動詞「行」があるので、魏の使節は行っています。
帯方郡から伊都國経由不彌國までの魏の使節の行程が12000餘里となります。 >>69 ザラコクは、zarakokuではない。
最近zarakokuを見かけないが、
持病が悪化したのか生きているのか? 彼は73才のはずだが。 >基肄城と大野城の名が邪馬台国の傍国の名前に見られる。
へえ。どこに書いてあるの?
その根拠は?
663年の白村江の戦で滅亡した百済人が亡命してきて作った
7世紀の山城を
4百年もちょろまかすとはいい度胸だねw 箸墓の数十年でギャーギャー喚く口が
自説になると400〜500年遡らせようってか
さすがダブスタ九州説 >>68
>@「邪馬台国の城」では無く、
>景初二年(238年)以前は「倭の城柵」で、
>景初二年(238年)以後は「倭國の城柵」と考えるのですが?
魏志倭人伝そのものが、あまり厳密に定義せずにいろいろと言い換えをしています。
個人的には、帥升以降は倭国という認識です。
魏は漢の倭国への承認を継承しています。
>A基肄城と大野城は、其餘旁國21ヶ国のどの国を指しますか?
【邪馬台国の周辺の国】
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市) あれもこれも全部7〜8世紀以降ということになっているのは、あからさまにおかしいと思いませんか?
白村江云々にしても、すでに敗戦が確定してから城を作るはずがない。
そもそも、唐や新羅と戦うのなら、博多より内陸の大野城や基肄城がなんの役に立つというのか。
後からこじつけた説明でしょう。 >>74
>19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
>20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
根拠なし >>75
あれもこれもってどれのこと?
白村江で敗戦して、北から攻めてくる唐新羅への備えが基肄城大野城
狗奴国は南から攻めてくるのに同じ城で守ってたの?
基肄城大野城の位置だと筑後平野は火の海だけどw 閑話休題
天智六年に築かれた倭国の高安城は瀬戸内海からの進入に備えたもので、当時天智天皇の大津宮が四国の阿波にあったからこそ屋島に城を築き、
烽(とぶひ=狼煙)によって通信が容易にできるその奥の脇の峰(大滝山)に城を築いたものと考えられる。
そのことから「倭城(わき)」から美馬郡脇町の名の興りがあった可能性が高く、その他、天智紀に高安城に塩や米を運び込むとあるのだが、大滝山の北麓には「塩江」の地名も残されている。
昔から瀬戸内海から淡路島周辺である阿波の玄関の監視に充てられていた場所のようだ。
昔から瀬戸内海から淡路島周辺である阿波の玄関の監視に充てられていた場所のようだ。
ちなみに取り壊した倭の高安城の資材は大倭(奈良県)に搬出して再利用されている可能性が高い。 @阿波 神崎、鳥栖の肥前国と筑前国の国境や
大牟田荒尾の肥後国と筑後国の国境は
戦死遺体や武器の出土が多い。
最前線のせいか、鉄鏃や鉄剣などや
それらを加工したと思われる
鉄縡などが多く発見される。 >>77
>白村江で敗戦して、北から攻めてくる唐新羅への備えが基肄城大野城
>狗奴国は南から攻めてくるのに同じ城で守ってたの?
ほら、おかしいでしょ。
時代によって役割が変わった可能性もあるけれど、白村江で負けてほぼ勝敗は決したので、もはや九州北部に城を作って守る意味はなくなるんだよ。
狗奴国と戦っていた時は、伊都国を守るためにちょうどいい位置だった。 【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。 >>80
白村江で負けて朝鮮半島領土を失ったから、
次は九州北部を死守するために城が必要なんだろうが!
基肄城と大野城の配置から見て、
伊都や博多湾は戦場として消失することを覚悟の上で
絶対防衛ラインを築いたことになる。
だから7世紀のその時点を持って、北部九州から政権中枢機能の一切が移動されたのだろう。 >>80
基肄城と大野城の配置は、
筑後勢力に対して、伊都を守るのにはちょうど良いな。
伊都vs筑後なら説明はつく。
(どちらにせよ7世紀の城であって馬鹿らしい議論ではあるが)
狗奴国が熊本勢力のみであるなら、
筑後を守り切れない。
よって、
福岡県vs熊本県であれば、そもそも根拠にならない。 >>83
当然、当時の前線は基肄城大野城と菊池城の中間あたりにあったのだろう。 7世紀の基肄城と大野城が、
北からの侵略に対して築かれたことは周知の事実。
南の狗奴国と2世紀3世紀に戦うのにも使われていた「考古学的根拠がない」し
戦略的にも方角が180度違うという問題点を指摘したら、
・基肄城と大野城が2世紀3世紀に使われていた証拠も呈示せずに
・基肄城と大野城が2世紀3世紀に使われていたことを前提として
>時代によって役割が変わった可能性もあるけれど、
>白村江で負けてほぼ勝敗は決したので、もはや九州北部に城を作って守る意味はなくなるんだよ。
>狗奴国と戦っていた時は、伊都国を守るためにちょうどいい位置だった。
このようなマッチポンプで適当な文章を書く。
つまり肥国王家を主張する輩はその程度ってことだな。 >>82
すぐに倭国は降伏して、太宰府まで乗り込まれている。
白村江で負けてもなお戦おう意味などなくなっていた。 >>84
だから基肄城大野城が3世紀にあった考古学的根拠を示せって。
示せなかったら全て空論だ。 ここは空論をたのしむところだからw そこんとこよろしく >>89
基肄城大野城が3世紀にあったというのは空論ってことだな。
邪馬台国論争から脱落〜。 おいおい
北部九州説は空論のくせに威張ってたのかw 「其山有丹」で、すでに邪馬台国論争から脱落しているでしょ。 @阿波 >>87
>太宰府まで乗り込まれている。
これ何に書いてあるの?
たった2000人で倭国を占領とか無理でしょ
郭務悰は終戦の話合いに来ただけ
唐と新羅は白村江の後に不和となり唐、新羅戦争が起きてる
今度は唐は倭を味方にしようとして薩夜麻を解放したんだよ。 「大野城」「基肄城」「鞠智城」は、698年に繕治したとある。
これは、文武大和王権が九州王朝の拠点城を占領したことを示している。 唐が一人勝ちしただけでしょ。
百済と倭を倒したら、新羅なんて大した敵にはなりません。
太宰府を二千人で占領されたら、行政機能を明け渡したのと同義でしょ。 唐が占領したと言ってみたり(唐書に占領将軍の記載なし
大和王権が占領したと言ってみたり
どっちやねんw >>96
太宰府をたった二千人で占領した?
終戦の話し合いに来ただけでしょう。
大野城、基肄城は太宰府とセットで造っれ
太宰府や大野城、基肄城は定居(611年)倭京(618年)頃の建設。 大和王権が大宰府を占領してたけど白村江の戦いで負けて近江にトンズラ
したんだよ 旧唐書劉仁軌伝
「仁軌領新羅及百濟、耽羅、倭」
劉仁軌が新羅及百濟、耽羅、倭を支配した、とあるね 倭国政府も馬鹿じゃないから、白村江での決戦前に九州に防衛設備を作ってたんでしょ。
白村江では負けたけど、
まだやるなら九州でまだまだ戦えるよという構えを見せて、
停戦合意にこぎつけた。
唐にとっては高句麗という敵もいて、
事実倭国との停戦後すぐに高句麗と戦争を始める。
で、朝鮮半島はすぐに新羅が漁夫の利で奪ってしまう。
唐が日本列島にちょっかいを出す余力はありませんでした。 マッチポンプ
根拠なし
拡大解釈
肥国王家=唐占領=空論 >>98
>終戦の話し合いに来ただけでしょう。
降伏したということでしょ?
筑紫の君は抑留中だし。
二千人は船何隻分ですか?
すでに乗り込まれているのに、それから城を作っても意味がない。
つまり大野城や基肄城は、白村江より前からあったということ。
白村江の敗戦を受けて作られたというのはウソ。 >太宰府や大野城、基肄城は定居(611年)倭京(618年)頃の建設。
とっくに城ができてるだろが >>72
>663年の白村江の戦で滅亡した百済人が亡命してきて作った
>7世紀の山城を
>4百年もちょろまかすとはいい度胸だねw
太宰府まで二千人も乗り込んで来ているのだから、今更城なんて意味がない。 >つまり大野城や基肄城は、白村江より前からあったということ。
>白村江の敗戦を受けて作られたというのはウソ。
7世紀前半にできたのであって、
2世紀3世紀ではないぞよw >>100
新羅も領に入ってるぞw
>>101
そうですよね。 >>106
>太宰府や大野城、基肄城は定居(611年)倭京(618年)頃の建設。
7世紀前半にできたのであって、
2世紀3世紀ではないぞよw >>105
太平洋戦争でも、ポツダム宣言を受諾して降伏したのに、終戦と言い換えているけれど、実際には降伏でしょ。 >>108
でしょ。
東アジア史を見れば、明らかですよね。
唐は西でも戦争事案を抱えていたし。 マッチポンプ
根拠なし
拡大解釈
肥国王家=唐占領=空論 >>110
朝鮮半島で百済が滅亡して、なんで日本が降伏すんの?w
>太宰府や大野城、基肄城は定居(611年)倭京(618年)頃の建設。
元寇の時みたく戦おうよ 倭国政府も馬鹿じゃないから、白村江での決戦前に九州に防衛設備を作ってたんでしょ。
白村江では負けたけど、
まだやるなら九州でまだまだ戦えるよという構えを見せて、
停戦合意にこぎつけた。
唐にとっては高句麗という敵もいて、
事実倭国との停戦後すぐに高句麗と戦争を始める。
で、朝鮮半島はすぐに新羅が漁夫の利で奪ってしまう。
唐が日本列島にちょっかいを出す余力はありませんでした。
大事なことなので2回言いました。 元寇の時は元の船が壊滅した。
白村江の時は倭の船が壊滅した。
すでに戦争遂行能力は失われていた。 大野城を通過して太宰府まで唐人が乗り込んで来ているし、基肄城は太宰府より南だ。
もう戦いは終わったんだよ。 白村江の時は倭軍の船団は大打撃は受けましたが壊滅してません
倭の軍隊の主力は健在です
総指揮官の薩夜麻が唐軍に捕まり捕虜となったので敗北したのです
朝鮮半島に住んでいた倭人や百済の遺民は倭の軍隊の主力と共に九州へ引き上げています。 大宰府の北側は大野城と水城で守り
南側は基肄城で守っている。
筑後は高良山に神籠石山城があり
糸島には雷山神籠石山城がある。
これらは北部九州各地の拠点だろうね。 第二次世界大戦で敗北した時も、海外からたくさんの兵や避難民が引き上げて来たが、彼らに戦争遂行能力があったか? 大野城や基肄城が白村江の後に建てられたという説は、矛盾だらけであり得ないということだよ。 7世紀前半にできたのであって、
2世紀3世紀ではないぞよw 唐、新羅、出雲、筑紫倭國VS百済、畿内ヤマト(基本である、いいな >>117
百済の移民はお仲間の近畿近江に移住したんだ >>125
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。 「大和」と付いている。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。 阿波なのに「倭」である。
筑紫倭國は? >>125
>唐、新羅、出雲、筑紫倭國VS百済、畿内ヤマト(基本である、いいな
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。 「大和」と付いている。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。 阿波なのに「倭」である。
筑紫倭國は「延喜式神名帳」になんと? >>132
>筑紫倭國は山門
「山門坐大国魂神社」? そんなんでもあればまだ、いいんだろうが・・・ @阿波 >>128
>邪馬台国と狗奴国は矢部川を挟んで対立していた
私と同じ見解である。
で、その根拠は?
私の根拠のひとつは、崖に作られた横穴墓。
岩穴横穴墓文化の北限が矢部川左岸側であること。 >>24
あーそっかー。
対馬だの壱岐だのに住民が居るというのに
平戸島だの九十九島だのに住民が居ないわけもないなあ。 下人の九州に以下のような聖なる文章はもったいないのだが、まぁ読めやクズ
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2世紀前半の男王から3世紀後半の台与まで続いた王権の墓はどこであろう。
これほどの王権の墓ならば今も祀られ信仰されているはず。
神武から始まる現王朝の前は大物主や事代主の出雲系鴨王朝である。
鴨系の神社が神武が宮を置いた葛城に複数ある。
神武以前の王権が存在した証拠だ。
それらの神社はことごとく式内社の中でも霊験あらたかな明神大社である。
鴨系の神社には特徴がある。
ご神体が山である。
その中でも高鴨神社の御神域は特徴的だ。
こんもりした山を中心に径百余歩の広さだ。
高鴨神社の社殿は孝昭天皇の頃、3世紀第3四半期。トヨのころである。
つまり高鴨神社の御神域はトヨ以前に存在したということであろう。
すなわちヒミコの墓もここにある。
場所は高天原(御所市高天)である。 祇園山よりは平原遺跡の方が年代が卑弥呼に近いだろ。 >>141
>天智は九州倭国天皇、天武は大和地方の王
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。 「大和」と付いている。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。 阿波なのに「倭」である。
九州倭國は「延喜式神名帳」になんと? >>99
白村江の戦いの当時、大宰府は九州倭国の首都であり
当時の大和王権はまだ地方豪族
白村江の戦いで負けたのは九州倭国であり
大和王権が日本の政権を取るのは薩夜麻帰国後に起きた九州倭国内での内紛の後。 >>143
>白村江の戦いの当時、大宰府は九州倭国の首都であり当時の大和王権はまだ地方豪族
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。 「大和」と付いている。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。 阿波なのに「倭」である。
九州倭國は「延喜式神名帳」になんと? 阿波が倭国で、奈良が大和国。 九州は倭国でも大和国でもないらしい >>150
教えて進ぜよう
奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
徳島県国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀末頃に阿波から奈良へ遷都(持統朝)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 天津国だかなんだか知らんが、筑紫は筑紫忌部でしょ、 今あるのは。 3世紀の九州の話? 特にないんじゃないの。 大陸と倭国(阿波)への通路だったことぐらいかな?
大陸往来の宿場町として栄えた地域はあっただろう。
大陸からの往路は筑前(宗像)・豊前 大陸への復路は豊前・筑前・肥前(松浦) 3世紀の九州の話は北部九州に邪馬壹国が在り都は伊都国
その南に狗奴国が在り、九州対岸の朝鮮半島南岸に投馬国が在った
中国地方に倭種がいて四国に侏儒国、東に裸国や黒齒国も在った
狗邪韓国から不彌国には一大率を置いて交易路を監視してた。 >>159
日本最古の戸籍木簡ね。
木簡そのものは福岡市の
西新町遺跡のほうが古い。 「戸籍を書いた最古の木簡」かよ。 「日本最古の木簡」は噓っぱちかw 福岡市早良区の方は手習いの文字練習のもの。
大宰府の戸籍木簡は実用に使用されたものなので
そういう意味では重要。
帰化人や限られた宮中の知識人だけではなく
下級役人が恒常的に文字を使っていたことに意味がある。 4〜5世紀の鉄刀に刻まれた文字は
隷書体で書かれた文字だが
書の体裁がなっておらず
彫り職人が形を真似しただけで
文字がかけなかったと推測される。
6世紀には手習いの木簡が出土し
仏教伝来とともに文字が普及していくことを
伺わせる。
7世紀には実用の戸籍木簡が出土する。 ついでに、8世紀には万葉仮名などの
日本独自の魔改造が始まる。 文字というのは遠方への通信手段であって
広域支配には文字は欠かせない。
ただし、送る側と受け取る側に
文字が読める人間が必要だ。
読める人間を各地に配置できるほど
支配を密にすることができる。
そう言う意味では、広域集権国家は
早くてせいぜい5世紀以降。
おそらくは6世紀くらいからではないかと思われる。 >>167
ですね、3世紀だと県レベルか広くて九州とか四国ぐらいでしょうね
西日本を統一した広域集権国家は7世紀以降でしょうね。 だから、古事記の記事はすべて倭国(阿波)国内の出来事なのです。 >>158
投馬国は帯方郡から邪馬壹国に水行で向かう途中にあるから朝鮮半島南岸地域
古田さんの言うように薩摩ではない、薩摩は帯方郡から邪馬壹国に向かう行程上にない。 九州説は死んでるのに何故ここまでしつこいんだ
水行でアウト
火山の記述無しでアウト
かささぎ牛馬でアウト
スリーアウトチェンジ >>175
何言ってんだw
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)で確定だよ。 畿内説こそ、あれほど騒いでいた纒向が空振りで残念だったな。
あとでテンプレも修正しておけよ。
恥さらしだからな。 畿内説も牛馬でアウトだよ
東に海無いからアウト
アウトがいっぱいありすぎてチェンジ 試合終了
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)の優勝 何しろ弥生時代の王墓は博多湾沿岸にしかないからね。 文献的にも考古学的にも邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)で間違いなし。 初めから佐賀の田んぼに決まっている(平原広沢である 西日本に新しい文化で国が出来てたから、東日本から国譲りを迫って成功した 安本美典氏は5〜8世紀の間に即位した天皇の一代平均在位年数が10.88年、
古くなると若干在位が短くなるという統計から5世紀以前の天皇平均在位を10年とし、
神武天皇を3世紀後半、卑弥呼を九州にいた天照大神としました。
さてそうでしょうか。
考古学的にも文献史的にも応神天皇元年390年が有力となってきた昨今、
もう一度平均在位を計算し直してみました。
平均在位と言っても短すぎるのも長すぎるのも正確な数値が出ないと思われますので、
30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見ました。
・25代平均 応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年 11,28年
・28代平均 応神天皇390年〜42代文武天皇没707年 11,32年
・30代平均 応神天皇390年〜44代元正天皇没724年 11,13年
・33代平均 応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年 11,33年
・35代平均 応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年 11,17年
いかがでしょう、11年弱が平均在位です。
さらに古くなると在位が短くなると言う事ですから【11年】が妥当でしょう。
では平均在位11年で神武天皇まで計算してみます。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、15代遡ります。
11年×15代=165年。
応神天皇390年ー165年=225年。
神武元年は3世紀前半となりました。
卑弥呼の時代に重なります。
卑弥呼とは誰か。
歴史上、もっともヒミコという発音に近い初代皇后ヒメ踏鞴五十鈴媛でしょう。 >>187
>考古学的にも文献史的にも応神天皇元年390年が有力となってきた昨今、
噓八百w >>186
>zarakoku氏は在日なんですか?
zarakoku氏は純粋の日本人。
チャイナスクール経歴のある親中派 >>180
>文献的にも考古学的にも邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)で間違いなし。
文献的にも考古学的にも邪馬壹國は北部九州に在った(邪馬壹國の王都は八女)で間違いなし。
伊都国は、帥升王統倭國の元倭都。 後漢書が書かれた5世紀には周辺を統合してるから昔の事を書いてるのに新しい情報が混じったんだろ 近畿と筑肥の文化力の差を見たら
九州に国家の中心があったなんて
考えられないだろ
現代でも筑肥エリアのGDPなんて
近畿の五分の一もないぞ
古代の奈良平安時代の地域格差なんて
もっと凄かったんじゃないのか 近畿には高野山や比叡山、禅の五山や本願寺、
ありとあらゆる文化センターが揃っている
筑肥に何があるのよ
あの国家の中心があったなら文化センターの
一つもあったはずだろ
筑肥には鎌倉五山的な何かすら残ってない >>201
弥生時代の遺跡数から見ると
福岡:奈良で20:1程度ですね >>201
田舎の人の夢を壊すのはかわいそうや
卑弥呼まんじゅう売らなあかんから必死なんやで
京都や奈良の人は別に卑弥呼まんじゅうなんてどうでもええねんけど、田舎のお人は生活があるからな 邪馬台国北九州説の最大の弱点は人口
魏志倭人伝に記された人口が全部北九州エリアに収まる訳がないからね
弥生時代の北九州の時代が100万を超えてしまうことになる
そんな農業生産力は古代、いや現代でもありえない >>186
>zarakoku氏は在日なんですか?
キムチよりぶぶ漬けがよう似合う人やと思います。 >>208
>>209
ここの解説を全く読んでないねw
アホwww >>211
九州は丹も豊富w知らぬは阿波ばかりwww >>201
奈良時代ぐらいまでは肥後は一国で五幾に匹敵する大国だったんだよな
九州は開発が進んでた。 >>203
福岡には明太子と豚骨ラーメンがある
全部韓国起源だけどね 邪馬台国は韓半島の文化的営業の元に倭人が国家的形態をとったものだろう
百済扶余系、つまり後の天智系につながっていく文化だろう 邪馬台国って仏教伝来の四百年前の話だろ。
神社で考えるべきじゃないのかな。
世界区だと宗像、道教事件の宇佐もあれば、宮地嶽に、
住吉三神と志賀島綿津見三神。 志賀島は古代の一大文化センターと言って良いかも
宇佐八幡は仏教伝来以後、神仏習合の産物としての八幡大菩薩だから、もう少し後じゃないかな
志賀島の安曇族は謎が多い
彼らが自らの信仰について古代からの伝承を文書に残してくれていたらと悔やまれる
安曇は日本列島各地に移民していったようだが、民族移動を文化を持つ人たちという事で韓半島起源であろう 大和国は平城京の時代は30万人くらいまで
膨れ上がるけど
それ以外は13万人〜15万人程度
肥後は50万人〜70万人程度
肥後よりは小さいけど、肥前も筑前も大国だから
北部九州で100万人程度は余裕だよ。 何とでも言えるよな。
海外から移動してきたから、
在地のが各地に移住せざるをえなかったのかもしれないし。 >>21
神社そのものがどうかって話じゃないでしょ。
仏教は確実になかった。
けど、各部族を顕す意味での神道的神はいた。
つまり、倭人伝の鬼道=原始神道ね。
ひょっとして、鬼道=道教の人ですかな? 5〜6世紀までは大阪は入江が在ったし、奈良は湿地
九州に比べて開発が遅れてたのは間違いない。 平原遺跡や高祖宮の配置にも太陽信仰としての神道は存在しているえ >>222
日本神話には韓半島の神々が多く存在している
例えば牛頭天王。元は韓半島のソシモリつまり江原道の神様。
白山ククリヒメなどは白頭山高句麗姫の訛りであろうと、故金田一氏が指摘している。 >>203
九州には○○廃寺跡とかある
昔大きな寺があったが今は無い
8世紀以降に廃れたようだな。 >>227
物的人的交流があったんだから、そういう神も存在してもいいけど、
どちらが起源か証明はできるの?
日本のが伝播した可能性もあるよね。 北部九州は、弥生銀座と言われるほど
遺跡数が多いので、
むしろ過密すぎて戦が絶えず、
各地に出ていった一族も多かったのではないかと考える。
その一つが神武東征神話だろう。 >>228
細石神社も今は小さな神社だが
昔は大きな神社だったそうだな。 北部九州は韓半島からの文化がいち早く伝来する土地だったので先進性が高く豊かだった
それは遺跡の数やそこから出土する文物から推定される >>226
卑弥呼は共立されたわけなので、神道時代はもっと古いのでしょうね。
古代国家において、祭祀と政治は表裏一体(現代もそうなのですが)。
伊都の官=爾支、も禰宜神主を想起させますし。 北部九州の先進性はむしろ燕からの直輸入の可能性が高いと思うが。 >>235
>卑弥呼は共立されたわけなので、神道時代はもっと古いのでしょうね。
共立したのは、倭国(阿波)の首長たち。 @阿波 3世紀の話をすると北部九州からは多くの鉄製品が出土するが畿内では僅か
とても畿内が九州を支配なんてできるレベルにはない
大陸から鉄の原料を仕入れてたんだから北部九州で鉄製品が豊富なのは当然で
畿内が台頭するのは鉄の国内生産が始まった後。 ネギは韓国語のネクつまり魂の義
倭人語の影響で若干の転訛が認められる >>238
鉄器も、北部九州より阿波が上。 @阿波 古墳にしても古いタイプは
北部九州式というか
剣や玉類が副葬されている墳墓は
割りと各地にあるんだよ。
まずは北部九州の一族が各地に住み着いて
旧古墳文化を広めて、
4世紀以降に前方後円墳文化が
広まっていったように見えるんだな。 >>241
>まずは北部九州の一族が各地に住み着いて
なんという部族? 忌部一族みたいな? @阿波 >>241
ですね。
鉄器がなければ細かい製品が一切作れない。
紀元前から鉄器を使っていた北部九州と、海を隔てた東方地域とでは、
生活水準にとてつもない差があったのでしょう。
甕棺墓が北部九州から出ていかなかったのも、
平安貴族と地方との差以上に、
3世紀までの北部九州と、それ以外の地域では、
同時代の中国など東アジアの先進地域と同レベルの生活水準と、
未開の石器時代原始人生活との、
厳然たる差があったのでしょうね。 倭人は朝鮮半島で鉄を得ていたとあるから、当然朝鮮半島との関係は深かっただろうけど ヤマタノオロチは製鉄との関わりが深い
元は鉄を産した辰韓の土着神話だろう >>243
四国の阿波に、鉄鍛冶材料や中国鏡、中国朱などがふんだんに届いてますが・・・ @阿波 神道というか鳥居に関しては、済州島に似通ったものが残っているらしいね >>247
神道? 鳥居? 神道、鳥居と言えばやっぱり忌部の郷でしょう。
忌部の郷 忌部山黒岩 忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)
http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg 人口云々に関してはいい加減うざいしテンプレ作ったら?
<魏志東夷伝・韓伝・高句麗伝>
馬韓=現代韓国の西半分で、十余万戸
弁辰+辰韓=現代韓国の東半分弱で、四、五万戸
高句麗=寒冷な山間地の方可二千里に、三万戸
温暖で紀元前から鉄器濃厚の北部九州邪馬台国に七万戸は妥当な数字です。 北九州にあった邪馬台国が百済扶余の強力な文化的影響下にあったことは間違いがない >温暖で紀元前から鉄器濃厚の北部九州邪馬台国に七万戸は妥当な数字です。
北部九州が温暖? 温暖で鉄器とくれば、そりゃ南四国の阿波でしょ。 @阿波 まあ、鉄を取りに行った弁辰って
百済の領域だったからな 百済の領土だよ
そろそろ、
頭の病院に行ったほうが良いんじゃないのか?
『埼玉名字辞典』
というのでもわかる、国王(当事者?)のような人物は最後に来たんだよ、
それと半島に住んでいたというだけで、半島の人ではない すーがー。すがわら。?
このような系統の名前、出雲(系)と書いてあったり 『サルタヒコ』というスレ、
白髭?が何やらという話などもしているでしょ
『白髭』
その名字辞典で調べてみて
「クダラ」と書いてあるから 時代順からいえば、百済が話の影響下で成立したんだろう。 白髭・・・・・・
などの国の国王(当事者)というのが、だっ津ーの?
『遅れてやって来た倭種』も百済だと書いてあったり 温暖で紀元前から鉄器濃厚の北部九州筑紫平野の
邪馬台国投馬国奴国三ヶ国に十四万戸は妥当な数字です。
奴国は、中部西部佐賀平野
投馬国は、東部佐賀平野から沿岸部筑後平野
邪馬台国は、北野平野から内陸部筑後平野 >温暖で紀元前から鉄器濃厚の北部九州邪馬台国に七万戸は妥当な数字です。
北部九州が温暖? 温暖で鉄器とくれば、そりゃ南四国の阿波でしょ。 ついでに 丹山もね。 @阿波 >>266
>北部九州が温暖?
筑紫平野は温暖です。
@福岡平野には雪が積もるが筑紫平野では雪が降らない。
A野生山茶花の北限は背振山系南麓
B竪穴住居の穴の深さは、
玄界灘沿岸では深く(1m以上)、
筑紫平野では浅い(20p以下)。 そういう表現なら
福岡市東区の立花山が
楠自然林の北限になってますね。
これより以北は人工的に植林されたものです。 >>268
で、筑後肥前における3世紀の集落遺跡は?
農耕の痕跡は?? >>269
楠以外にも名前を忘れましたがある種の竹があります。 >>271
環濠集落だよね?
最大時で何人規模?
面状に広がってる博多奴国と比較になるのん?
現代でもそうだから劣等感の裏返しだろうけど 石高を自慢するお国自慢の論者がいるけど、なんの根拠にもならんぞ。
単に首都に食料を供給する農村だっただけかもしれん。
やはり王墓があったかどうかが決定的に重要ということだ。 >>270
吉野ケ里や平塚川沿遺跡以外にも、
肥前では、土生遺跡があります。
筑後では、室岡遺跡群があります。
遺構保存がありませんので発掘調査報告書でも見てください。 >>265
北部九州には邪馬壹国の七万戸入れば十分
投馬国は朝鮮半島南岸
奴国は邪馬壹国の中の国邑
福岡平野も筑後平野、佐賀平野も邪馬壹国の版図内 >>274
弥生時代の流通網と
律令制下の流通網を示してみろ。 >>273
吉野ヶ里で5000人と試算した人がいます。 >>273
平塚川沿遺跡では未発掘を含めた多重環濠集落全体の規模がわかりません。 平安時代や奈良時代の王権による首都への食糧流通と同じことが弥生時代の北九州で出来ていたと思うとる池沼がおるな
弥生時代の北九州に都市が存在できるほどのロジスティックがあったわけ無いやろ
100万なんて無理やで >>269
日本の梅は韓半島から植林されたものだと証明されていますね 最大国邑が奴国の2万戸、佐賀、長崎を含めて7万戸35万人くらいなら、いけるだろ。 吉野ヶ里は環濠集落内で500人〜1000人
ここが支配する旧神崎郡で1万〜2万人程度。
王都人口は5%程度が目安。 別のスレに書いていて思い出したのだが、弁天様はどこでも島に祭られるだろ?
田舎の小さな神社でも、池に島を作って祭る。
上野公園の弁天様もそう。
安芸の宮島も湘南江ノ島もそう。
弁天様は宗像三女神の市杵島姫に習合されているからだけど、つまりは沖ノ島の形を模しているんだよね。
ある意味では、沖ノ島の祭祀は広く全国に継承されていることになる。
九州北部の原始神道は、今日でも受け継がれているんだね。 原始神道といえば、阿波の忌部でしょ。
「掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等 諸々の禍事・罪・穢 有らむをば 祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと 恐み恐みも白す」
※「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」
倭国(阿波)の「竺紫(とくし)」で、倭国(阿波)の「阿波岐原」
高らかに、倭国(阿波)を讃えていますね。 @阿波 >>280
北部九州に邪馬壹國の七万戸・・・35万人くらい
南部九州に狗奴国の?万戸(仮に五万戸)・・・25万人くらい
九州合計60万人
100万人なんて数字は出てこないよ。 >>278
周辺の農村部にも住んでたでしょうから
数万人クラスの国邑ですね。 江戸時代の村の単位だと500人〜2000人程度。
田畑から遠く離れての通勤?には
限界があるからね。
その程度の集落が点在してるんじゃないかな? うちの周辺の佐賀だと
王墓のある惣座遺跡と小城遺跡群や
吉野ヶ里で、だいたい10km離れてる。
一日で無理なく移動できる距離だ。
この程度が当時の小国単位じゃないかな。
いわゆる国邑ってやつだ。
それ以上距離が離れると、どこかで
宿を取らなければならないので
小屋が立ち、村になる。 博多港を抱えて後背地の広大な水田を領していた奴国ですら2万戸だからな
佐賀平野でも人口が2万戸を超えていたことはあるまい 弥生時代の推定人口だが、小山修三の論文によると
九州全体で10万5000人
そして日本全体で59万人 奈良時代の推定人口だと、大和33万、筑前9万、筑後7万 弥生時代の推定人口は
文書などが残っていないので
遺跡数に係数をかけて計算されたあらっぽい物。
当時記録された一万件の遺跡数から
各地方の人口が計算されている。
今は弥生遺跡数は4万件を超え
発見されたものの名前がついていない遺跡は
その10倍を超えるとされる。
だから弥生時代の人口は
60万人の最低4倍
名前がついていない遺跡を考慮すると
それ以上になる。
実際には奈良時代の500万人前後と
それほど変わらない人口になると
推定される。 そもそも奴国だけで2万戸と記録されているのだから、10万人規模だろ。
九州全域で10万人なわけない。 >>295
まぁそんなもんだろうね
明治の廃藩置県直前の福岡藩(筑前全員を版図としていた)で人口30万だから
奈良時代なら10万人もいなかったはず
奴国2万戸すら怪しい >>298
畿内説は魏志倭人伝をとことん否定しないと気が済まないのか。 ネットで見てみたけど、人口推移面白いね
阿波=徳島は廃藩置県の時の人口が71万人で今74万人
徳島県は明治時代から何も発展してないんだな >>301
そんなこと言っても明治の壬申戸籍はかなり正確だからな >>302
発展してないどころか激しく衰退してるよ。 明治時代は人口10位ぐらいあったから。
蜂須賀が消滅したからね。 話変わるけど壬申戸籍はもう見れないんだっけ?
部落差別問題で破棄されるとかされないとか
新平民などと身分まで書いてしまったのはヤバかったな >>305
壬申戸籍は法務省法務局で厳重に保管されている
歴史的資料価値の故にね
今は完全に封印されていて何人たりとも閲覧不可能 奴國、投馬國、邪馬壹國の人口
「其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦」
倭では成人男子は戦乱で戦死が続いたので男日照りであった。
1戸の構成
男(戸主)1名、女(婦)平均2名、老女1名、計成人4名 (幼少は含まない)
奴國2万戸 8万人
投馬國5万戸 20万人
邪馬壹國7万戸 28万人
3ヶ国合計 56万人
女王國以北略載5ヶ国合計 1万戸 平均2千戸/国 4万人
其餘旁國21ヶ国 平均2千戸/国×21国=4万2千戸 16万8千人
倭の男女成人人口 56万+4万人+16万8千人≒77万人 北部九州説のいう邪馬台国の、
確定部分が壱岐対馬+糸島市+福岡市
其餘旁國が、長崎県+佐賀県+福岡県+大分県北部でしょ。
紀元前から農耕+鉄器が普及していたんだし、
弥生時代ならちょうど7万戸くらいじゃないかにゃ? 邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている
1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)
斯馬国〜-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算 人口に関しては、弥生時代に稲作が確立して
あとは開墾で土地面積が増えるくらいしか変わらない。
昭和になってから、肥料を多く入れる農業になって
反当たりの収量は三倍くらいになっているが
それまでは弥生時代から二倍にもなっていない。 明治初期の徳島は福岡プラス佐賀の規模だったのか
蜂須賀の殿様の政治が良かったんだな
福岡の黒田家がひどかっただけかもしれないけど 収量がそんなに変わらないのだから
反当たりの養える人口も
ほとんど変化はない。
増減は開墾による割合が高い。 >>298
九州の壱岐の場合
倭人伝で3,000家
一家を5人として15,000人
725年の壱岐の推定人口
鬼頭宏 12,100人
奈良時代の壱岐の良民推定人口
澤田吾一 弘仁式 9,400人
澤田吾一 延喜式 10,600人
1600年の壱岐の推定人口
鬼頭宏 9,300人
2017年の壱岐の推定人口
26,268人
九州の田舎の人口はから余り増えてない。 九州の対馬の場合
倭人伝で1,000戸
一家を5人として5,000人
725年の対馬の推定人口
鬼頭宏 9,900人
奈良時代の対馬の良民推定人口
澤田吾一 弘仁式 7,000人
澤田吾一 延喜式 7,000人
1600年の対馬の推定人口
鬼頭宏 5,900人
2017年のしま対馬の推定人口
30,345人 弥生時代からの古い農地は律令制を経て後の国衙領となり、平安以降の開拓地は荘園となる
鎌倉時代初期の時点で荘園>国衙領
古代の農村人口は鎌倉時代の半分もなかったと推測される >>316
壱岐や対馬の例だと3世紀と1600年頃の人口は殆ど変わらないようだけど。 壹岐や対馬に荘園があったと思ってるバカがおるな
倭人伝でも農業でなく漁業で喰ってる連中と書いてあるやろw ザラコク氏は国衙領や荘園などと言った日本史の基礎知識がないらしいな
高校レベルの教科書にも書いてあるだろ 人口に対して田が足りないから南北に交易して米を入手してると書いてあるやろw 京都で人口相当の田んぼを耕してましたか?
ちがうでしょ
東方倭種の日本海沿岸などからの年貢で養ってたんだよ。
首都奴国二万戸を 壹岐や対馬は土地があらへん
開拓出来へんやろ
そもそも両者とも元冦や刀伊の入寇で何度も住民が全滅しとる地域
人口なんぞそう増えはせん >>319
基礎教養が無いんやろね
大学出とるかすら危ういレベル おさらいな
奈良時代以前までの田畑→班田収授法により国有化され口分田として農民に分配される
ところが私有財産制に対して否定的な方法では農民のヤル気が無くなって生産性が著しく低下
そこで聖武天皇が墾田永年私財法を発布。新しい開拓地は自分のものとして相続する事を許す。
新開拓地が続々と産まれて荘園となる。
荘園開拓者は自己の土地を守るために武装豪族化し、やがて武士階級へと発展する。
朝廷の役人(受領)は公田(国衙領)から徴税していたが税が足りないので、事あるごとに荘園からの土地を没収しようとしたり、圧力をかけて嫌われた。
やがて国衙領よりも荘園の方が多くなり力関係が逆転
武士が団結して朝廷に変わって新しい統治機構(鎌倉幕府)の設立となる 北部九州は3世紀当時既には開発が進んで人口も多かったってことですね。 >>327
地図を見ると壱岐には川らしきものが何本もあるけど? いっぱいあるものを整理するだけの説と
なんもない説の勝負だからな
最初から勝負にならんっしょw 北部九州説のいう邪馬台国の、
中枢部分が壱岐対馬+糸島市+福岡市
其餘旁國が、長崎県+佐賀県+福岡県+大分県北部でしょ。
紀元前から農耕+鉄器が普及していたんだし、
弥生時代ならちょうど7万戸くらいじゃないかにゃ? ザラコクやキウスはリアルチョンモメンだからな
古田が支持した東日流外三郡誌みたいな反日亡国論の学説が大好きなんだよ >>336
でもその時代に鉄器がなかった貧乏な遺跡もあるんですよ。
奈良盆地にある纒向っていう田舎なんですけどね。 畿内地方が台頭してくるのは7世紀くらいからだ
そして8世紀には天武のヤマト朝廷が成立する
天武の先祖の神武が奈良地方に入植した東征は6世紀頃だろう
それ以前だと鉄器を九州等の西の国から輸入しなければならず武器が不足するから、後から来た入植者に負けてしまう
神武から欠史8代の天皇が天武の先祖だな。 >>325
聖武天皇は偉大だな
墾田永年私財法のおかげで田畑が倍増したわけだ
さぞや人口も増えたことだろう
大仏さまのご利益かな 今も昔も私有財産制を否定的すると社会が停滞するのは変わらんのだねぇ >>339
○畿内地方が台頭してくるのは7世紀くらいからだ
×そして8世紀には天武のヤマト朝廷が成立する
そして8世紀には文武のヤマト朝廷が成立する
×天武の先祖の神武が奈良地方に入植した東征は6世紀頃だろう
神武は天武や文武の先祖ではない。文武までに血統断絶が少なくとも5回はある。
×神武が奈良地方に入植した東征は6世紀頃だろう
神武が奈良地方に侵略入植したの2世紀末である
×それ以前だと鉄器を九州等の西の国から輸入しなければならず武器が不足するから、後から来た入植者に負けてしまう
奈良盆地では鉄武器が少ない時代が続いていた
×神武から欠史8代の天皇が天武の先祖だな。
天武の先祖は筑紫人 >>342
>神武は天武や文武の先祖ではない。文武までに血統断絶が少なくとも5回はある。
5回とはまた多いな。
3回くらいかと思っていた。
ぜひ教えてくれ。 天武と天智はそれぞれ百済系と新羅系の渡来人のボス
兄弟ではない 崇神、応神、継体、天武は王朝交代説があるよな
もう一人は誰だ? 田布施の部落民の大室寅之祐、つまり明治天ころを忘れてるな >>342
>神武が奈良地方に侵略入植したの2世紀末である
2世紀末だと奈良地方では文字が未だ使われてないので
口伝では600年も前のことは残らない
神武東征は記録に残ってるっているので文字が使われ初めて以後の時代です
6世紀頃です。
>奈良盆地では鉄武器が少ない時代が続いていた
鉄武器が少ない時代は神武東征以前の時代です。 文字がなかった頃からの口伝だから、表記が揺らぐのだろう。
まして、古事記では口伝から書き起こしたと書いてある。 古事記の前に書物はあったのにどうして口伝なんだろ?
稗田阿礼はいろんな人から口伝を受けたのかな?
なら覚える前に何で書き起こさなかったのかな? >>349
古事記では口伝から書き起こしたなんて嘘だよ
記紀の編纂前にも一書に曰くとあるから多くの歴史書があったんだよ
記紀の完成後に全て焚書されたんだ。 稗田阿礼は憶力の良さを見込まれて『帝紀』『旧辞』等の誦習を命ぜられたと記されているが
『帝紀』『旧辞』等の本があるのに誦習とか意味が分からんよな。 >>343-345
畿内王朝の交代
@神武
A崇神
B応神
C顕宗(扶桑播磨系)
D継体
E欽明(出自不明)
F天武(畿内九州王朝系)
G文武 崇神、応神、応神、顕宗、継体、欽明は九州での話で畿内王朝にあらず。 畿内九州王朝系なんて言ったら、半数以上がそうだろ。
そして残りは純粋に九州王朝だ。 >>355
崇神、応神、顕宗、継体、欽明は九州の歴史書にあったものを記紀に取り入れたもの
畿内の歴史は長くない。 ●卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」
本居宣長は邪馬台国を畿内大和、卑弥呼を神功皇后に比定した上で、神功皇后を偽称するもう一人の卑弥呼がいたとした。
ニセの卑弥呼は九州南部にいた熊襲の女酋長であって、勝手に本物の卑弥呼(=神功皇后)の使いと偽って魏と通交したとした。
本居や鶴峰は卑弥呼・壱与のみならず倭の五王も熊襲による僭称としており、
これらの考えは古田武彦らの九州王朝説へと引き継がれている。 (wiki)
「本居や鶴峰は卑弥呼・壱与のみならず倭の五王も熊襲による僭称としており」というのは、
言い換えれば、
「大和朝廷および古代天皇は絶対朝貢などしてません」という事だ。
「日本の天皇が中国に朝貢した事などあってはならない(本居宣長)」がベースだ。
つまり、この「偽僣説」は世論誘導。
本居宣長1730年生れ
鶴峯戊申1788年生れ
那珂通世1851年生れ
この3人に接点はあったのか。あったのならまるで日本版フリーメーソンだ。
どちらにしてもこの熊襲が朝廷を僭称したとする奇説「偽僣説」、
那珂通世を最後に消える。
本居や鶴峯の時代まで重く重く辛い史実であった古代天皇の朝貢、
これが那珂通世の生存中に突然、羽を生えたように軽くなった。
日本が日清戦争に勝ったからである。
中国に対して精神性で圧倒的優位に立った。
今の日本人なんて中国に対して優越感しかない。
中国人よりパンダの方が大事だ。
中国人1億人とパンダ1頭が同価値であろう。いや13億だという強硬論もあろうが。
それにしても世論誘導であったこの奇説をマジで捉えた古田www
古田www 古田は東日流外三郡誌(笑)の信奉者
大和朝廷中心史観をひっくり返し(←ここまではまだわかる)
日本の赤化を目論んだ(←これはもう工作員だろ?)
ザラコクにぴったりの東日流外三郡誌www >>361
>崇神は九州王朝系の初代
これはないな。
何をもって初代というんだ。
イザナギとかが初代だぞ。 >>1
5ちゃん(2ちゃん)の書き込みのほとんど99%は5ちゃん管理人によるものです
管理人は400人くらいいて、文系の才能のない売れないライターがバイトで5ちゃんに書き込んでいます
だから詳しい書き込みができるんです
5ちゃんは管理人がIDを変えながら書き込んでる掲示板です
5ちゃんは管理人はハッキング、ストーカーをしてきます
5ちゃんは管理人はユーザーのパソコンをハッキングして個人情報を覗き見しています
5ちゃん掲示板を見てるだけでもどこを見てるかリアルタイムで分かるようになっています
(管理人が監視してるスレを見ただけでハッキングされる恐れがあります) >>366
記紀神話は古代史を奈良時代の人間の認識で表現しただけ。
イザナギは古代の筑紫倭国の王の名だよ。 国生みがイザナギの事績とされている。
アマテラスはその次の代で、領土をさらに広げた。 じゃあもっと古いタカミムスビとかが在地の首長だったのかな? 博多湾に侵攻したのが伊弉諾だろ。
高御産巣日らは対馬海峡の首長だろう。 記紀の神代は、筑紫における歴史の記録として読めば、なんの神秘性もなく、建国の歴史そのもの。 なんで記紀が関係あるよ?
中国皇帝による中国史において三国志の倭人伝が
九州北部にあった連合国を倭の国の一つ、邪馬台国として定義しているんだが?
ちゃんと、その東にあったであろう、九州から渡海した倭種の国の存在も記してある。
平定前の九州北部しか知らない中国人に後付けの記紀神話は関係ないだろ。
歴史には記紀の伝奇じゃなくて、時系列ってもんが必要なんだよ。 記紀神話も神代の巻はほとんど九州の話だろ。
つまり同じ国の話が別の視点から描いてあるんだよ。 >>377
現実は誰でもわかる様な単純明快だったりするよな
加えて平原の鏡と伊勢神宮の伝承で、ほぼ決着だろう
パズルのピースが埋まってく状況を鑑みれば答えには近いだろうね 通説の読みがトンデモだったってことだな
正しく読めは何の矛盾も無いし単純明快
伊都国に卑弥呼は住んでいた。 単純明快に読めば12000里の奴国に住んでいたはずだよ 漢代に委奴国王のいた場所だから国際的には倭国の標示点といえばそこなんだろうね。 卑弥呼に金印を渡すのに確認の魏使が来たのと同じく
委奴国王に金印を渡すのにも確認の漢使が来たんだろう。 >>382
奴国が女王国の中心国邑だけど
卑弥呼は伊都国に住んでたと書いてある 弥生時代の硯
島根県松江市田和山遺跡:硯片2つ
福岡県糸島市三雲遺跡:硯片2つ
福岡県筑前町中原遺跡:硯片
福岡県筑前町薬師ノ上遺跡:完全な形の硯、墨付着 >>387
伊都に代々王がいる、って書いてあるよ。
倭人伝に出てくる倭人の王は、卑弥呼とヒミココだけで、
ヒミココは南の狗奴国にいるから、
伊都には卑弥呼がいる。 12000里の所に奴国が在るから女王国の中心国邑は奴国
奴国は20000戸もあり女王国中最大の国邑
伊都国は
「丗有王 皆統屬女王國」魏の世に女王卑弥呼が居た、倭の国々は皆女王國に統屬していた
「常治伊都國」常に伊都国で女王卑弥呼が治めている 奴国と伊都国、あわせて女王の都、邪馬台国または筑紫の日向。 硯完全体が出ても特に驚いていない自分に驚いている。
これまでの出土品や、
九州説論者の尽力による倭人伝解読によって
北部九州で確定してるからね。
強力な傍証が増えたのは喜ばしい。 発掘が進めば嫌でも伊都国が都で決まるでしょうね
文献的にも一致してますから。 3世紀には未だヤマト朝廷なんて影も形も無かったってことだ
北部九州に倭国がありその他の地域は未開の地。 記紀に書いてあるそのまんまじゃん。
そりゃいろいろあるけど相当信用できるよ。 非科学的な言い訳の変遷
松江硯片
→楽浪土器が無い辺境でペンダントにでもしてたんだろう(笑
糸島三雲硯片
→楽浪土器が有るから楽浪商人が使っていたんだ、倭人は無関係!(キリッ
筑前町中原硯片
→す、墨が、墨がついてない!使ってない!
筑前町薬師ノ上 完全硯、墨付着
→も、文字を、文字を書いたとは限らない!絵を書いていたんだ!
国産銅鏡に文字記載
倭人伝で、卑弥呼は奉書外交、一大率は文書検閲、倭国は徴税 伊都国に卑弥呼が住んでいれば陳寿は女王国まで11900里と
正確に書くはずだと思う ワシントンまで11900里だとして
ニューヨークのが12000里
うーん
どっちかっつーと
ニューヨークまでのが大事かなw 東日流外三郡誌(笑)
古田先生騙されてやんのwww 越えたというのは失礼だろ。
参考にさせていただいて、最新の考古学的成果を加えて昇華した伊都説です。 もちろん参考にさせていただいておりますし
古田氏の説がなければ考えつきませんでした
でも越えないと先には進まないでしょ。 そうですね。
筑紫の日向が福岡県のことで、倭国というのも福岡県のことであると明言したのは古田氏ですね。
でも、まだ平原遺跡が十分に評価されていなかった時代なので、伊都が倭国の都であることが確定していなかったのですよ。 弥生時代の硯
島根県松江市田和山遺跡:硯片2つ
福岡県糸島市三雲遺跡:硯片2つ
福岡県筑前町中原遺跡:硯片
福岡県筑前町薬師ノ上遺跡:完全な形の硯、墨付着 >>407
「世有王皆統屬女王國」に付いて古田氏に久留米大学講座で直に説明したんですけど
邪馬壹國は自分が全て解決したと言って話をちゃんと聞いてくれなかった。 >>409
あなた、偉いなあ。
古田氏もザラコク氏も、あの師あってのこの弟子ですね。
知識はアップデートしないと。
何を隠そう、私も筑後から伊都に転向したクチでして。 世有王で思い出したけど、>>4のBは、
王昶が息子に訓示を垂れている文章。
王昶は魏の初代皇帝になった曹丕に若い頃から仕えていて、
曹丕が皇帝になって取り立てられて出世した人。
だから、王昶以前の先祖たちは、魏の前、
漢の時代に冠をかぶるような立派な役職についていたことになる。
だから、世有王については、Bではやっぱり漢の時代を含めて、代々のという意味になるよ。 >>411
>今汝先人、世有冠冕、
>現在、貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についている
今と頭に書いてあるから現在の話
今現在生きてるいる貴方たちの先祖はの意味ですから
漢の時代を含めても魏代まで生きてる先祖だけですね。 >>413
ということは、王昶の父や叔父が、魏代にも生きていて要職についていた、
という認識なわけですね? >>415
王昶自身も含め父や叔父の誰かも、魏代まで生きていていたんでしょ。 >>416
なるほど。
王昶自身は確定ですけど、王昶の父や叔父は漢代には既に出世していたようですが、
魏代にまだ生きていて現役で活躍していたかどうかがわかりませんが。
認識としては矛盾がないわけですね。
ちなみに、倭人伝での世有が代々の、であっても、
同じ倭人伝での、過去の男王達に掛かるだけですので、伊都説には変わりありませんけどね。 >>418
基本的には世有は魏の世ですね
代々とした場合でも魏の世内での代々ですね。 >>419
魏の世になって突然王様が湧いてきたのはなぜ? >>420
突然湧いてないでしょ。
倭国乱の前に男王の時代が7,80年あったと書いてあります。
それを満たす弥生遺跡地帯は伊都のみ。 >>421
そうですね。
1世紀には倭国は成立していますからね。 >>420
魏の世には伊都国に王が居た
との意味で魏の世になって突然王様が湧いてきたんじゃない
漢代に伊都国に王が居たか居いなかったかは関係ない。 >>423
じゃあ王様が突然湧くわけないから、漢代から代々伊都国には王がいた、という認識でいいんだね
すると「魏の世に」と曲解する理由がないぞ >>424
伊都国王、という単語は倭人伝に存在しない。 >>425
私もそう思います。
漢の頃から代々、伊都に倭国王がいた。
で意味が通じます。
スレ主さんは魏代にこだわってらっしゃいますが、
それはそれでも意味が通じます。
どちらにしても伊都説です。 どっちの意味でもいいよ。
伊都に倭国王がいたことに変わりはないよ。 魏使が倭に来た時に伊都国に王が居たんだよ
世有王の世は魏の世
魏書での世ですから基本的に魏の世でしょ
何で魏書に漢の世のことまで書かないといけないの
漢の頃から代々、伊都に倭国王がいたかもしれないけど
それは関係ないでしょ。 伊都は壹都とコモンだ
伊都國王の爾支の発生は倭國乱の結果だ
倭國乱は長大補正によると210年代だ
210年代は建前上ではいちおう後漢の終末期だ
倭國乱は記紀に取り込まれて
天孫降臨のイベントとして騙られている >>429
実際に漢の時代のことも魏志倭人伝に書いてあるよ。 卑弥呼が漢代末から王位に付いたとあるから
漢の頃から伊都国に王が居たことは分かりますが
魏書での世ですから世有王の世は魏の世ですね そもそも >>4 はすべて論破済みなので
「魏の世」に限定して読む必要はないよ >>432
どちらにしても伊都に卑弥呼がいたことになるのですが、
魏の世にこだわるのは他にも理由があるでしょうか? >>430
何だ、その補正は。
後漢書で、桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった、とあるじゃないか。
それに、天孫降臨は1世紀の伊都国建国だ。 >>438
神武らが高千穂宮を出たのが倭国大乱の時だろう。
倭国大乱の前の男王70〜80年と言うのが、日向三代だよ。 >>439
了解です。
こちらとしてもどっちでも伊都説なのでこだわりません。 北九州説の基本は女王国まで12000里という事なのに
それと矛盾する解釈は北九州説の説得力自体を低下させている >>440
神武と崇神についてはどう思われますか? >>443
結果として、神武と卑弥呼は同時代の人物ですよ。
卑弥呼は九州の女王、神武は奈良で饒速日の元に居候。 >>443
崇神は詳しくないのでご容赦を。
卑弥呼よりは後の時代の人物かと。 名は体を顕す
8世紀に[天皇の位]と[崇神の名]を追贈された [御眞木入日子印惠命]
[彌馬支]を治めた[卑狗]で [はんこ恵まれた]ことが誇りの大首長 [印惠]は当て字化して読まない限りにおいては
ふつうに[はんこ恵まれた]しかないだろ 当て字だろ。
だからミマキの方が納得できる。
同じ名前の中でダブルスタンダードはよろしくないな。 記紀は年代を誤魔化したり、誇張したり、歪曲したり、隠蔽したりするけれど、嘘はあまり書いていないような気がする。
神武に当たる人物もいたのだろう。
ただ、畿内には鴨王とか饒速日とか、他に有力者がたくさんいたんだよね。 >>455
ほんとそれ。
極力ほんとのことを書いてますよね。
つまり、倭国王家が続いた。
白村江で負けたショックでいろいろ書き直しただけ。 たぶんあちこちの豪族の史書をがっちゃんこしたんじゃないかな
百済のも含めて 鴨王というのは、北部九州で言うなら何族になるのでしょうか? 高木の一族で小郡におられんようになって長柄に引き篭もった朝鮮王準の末裔だな
九州における副葬鏡が多鈕細文鏡から漢式鏡に切り替わる時代相に移住したものだろう
これはたぶん1世紀のイベントだろう
これの末裔が紀氏を名乗るとすると 箕・姫→紀 考古学的にも対応していますね。
伊都遷都とリンクして。 よくわからんが
大国主の時代(紀元前には西日本を制圧してたってこと? >>461
内行花文鏡をシンボルとする天津神の降臨と伊都国遷都ですね。
高木の神の位置付けについてよければ詳しくお願いします。 >>434
>>4に付いての批判は全て論破済ですよ >>463
大国主末裔が奈良県葛城と長野県諏訪にいたのなら、そういうことなのでしょうね。 >>440
>>443
神武東征は卑弥呼の時代から300年くらい後の話で
九州からの最後の畿内への入植
神武東征が東征する前にも畿内への入植は度々あった
倭国大乱の時も畿内への入植はあったかもしれないが
後から来た入植者に滅ぼされた。
崇神は九州の王であり、記紀の編纂時に取り込まれた。 >>457
一番の基になっているのは九州倭国の歴史だ
九州倭国の歴史の前に神武と欠史八代を付け足し
後に天武以降を付け足したもの。 >>467
6世紀?
それはないでしょう。
もう仏教が伝来して聖徳太子とかがいたとされる時代になってしまうので。 >>461
ザラコク氏は卑弥呼が姫氏という主張なので、九州にも大国主系、つまり国津神がいて、西日本は全て国津神がもともと支配していたということになります。
1世紀に天津神が九州(ニニギ)や畿内(ニギハヤヒ)に侵入し、倭国大乱で国津神系の卑弥呼が復古して、天津神の持ち込んだ内行花文鏡文化や中国との外交関係を継承したという図式になりますね。 >>469
神武東征は古く見せかけているが実際はそれほど古い話じゃないだろう。 日本史の目線で見るなら
邪馬台国は渡来人の国だな。
山東半島から半島経由の外洋船だし。
半島は住みにくかったから
九州渡って成功した移民。
平定前の九州は半島同様の外国だよ。
九州に縄文人と融合の痕跡有るか? >>471
総論としては同意するけれども、卑弥呼より300年後は新しすぎです。 >>472
国津神も弥生人ですよ。
渡来した時期が天津神より早かっただけ。
紀元前からすでに弥生時代なので。
稲作を広めたのはスサノオとその息子との伝承があります。
大国主の祖先にあたります。 >>472
平定とかさらりと言ってしまうのは、畿内中心の皇国史観かな?
九州北部が卑弥呼や帥升らがいた倭国の中心というのがこのスレの趣旨ですよ。
そして九州北部が天孫族らがいた天皇家の故地でもあるのですよ。 >>472
7世紀末までは九州に倭国が在ったが
白村江の戦で敗れて国力が衰退して東方の新興国ヤマト朝廷に国を奪われた
>>473
じゃあ200〜300年後
何れにしても卑弥呼の時代よりずっと後
鉄が日本国内で生産可能になってから。 >>476
>7世紀末までは九州に倭国が在ったが
在った痕跡は? @阿波 >>476
日本での鉄器の生産はかなり早いはず。
4世紀には朝鮮半島の鉄を倭人が採掘してごっそり運び込んでいました。
威信財としての鉄剣は卑弥呼よりも前からもたらされていたし。 >>1
30こくにおうありみなじょうおうにとーぞくす(てきとー >>2
治のしゅごは諸国かもなー(治水工事にかりだされたんやろ(てきとー 九州倭国は百済系日本国に併合された
新羅系韓族の国が九州倭国 筑紫倭國、新羅、源氏、ニホンVS畿内ヤマト、百済、平氏、ニッポン 源氏の平家も、天皇家から分岐したのはもっと後だよ。 義光は第5世代だろ
兄弟に八幡太郎と賀茂次郎がいるし 閑話休題
足仲彦と后の息長帯比売命が筑紫に入るとき、伊覩県主(いとのあがたぬし)の祖である五十迹手(イトテ)や崗県主(おかのあがたぬし)熊鰐(クマワニ)がそれぞれに勾玉・白銅鏡・大刀を船の艫舳に掛けて足仲彦を出迎えている。
神夏磯媛の時とは違い、鏡については八咫の鏡とは記載されていない。
神夏磯媛から大足彦に移譲され、すでに足仲彦が継承していた可能性があるが、そもそも五十迹手と息長氏出身の女王である息長帯比売命はいずれも天之日矛の末裔とされているため、一族で博多湾岸を支配していたと考えられる。
伊覩県はすなわちニニギが降臨した高祖山の麓にある古い王都である伊都国であり、伊覩県主は天孫族の末裔でもある。
熊鰐が用いた榊は熊本山(北九州市八幡東区枝光の高炉台公園)で抜いたものであるとの伝承が地元に残されており、景行天皇の時代に神夏磯姫が榊を抜いた磯津山の隣の山である。
崗県は、かつてイワレヒコ(神武天皇)や大足彦(景行天皇)が滞在した筑紫岡田宮の所在地(北九州市八幡西区山寺町の一宮神社
または北九州市八幡西区岡田町の岡田神社)とほぼ同じ場所であるとされ、熊鰐は鰐の姿を持つ海神豊玉姫らの系譜になる遠賀川流域を支配していたもう一つ王家の末裔である。
熊鰐の名は地上の獣の王である熊と海洋の獣の王である鰐に由来していて、地上と海洋をあわせて支配する王の意味であり、筑紫王家の尊称である熊も継承しているのである。
この二つの名前はたまたまここに記述されたのではなく、倭国の北部沿岸部全域の主な氏族の支持を取り付けたという意味なのである。 肥前一宮與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われてたが肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤが開いていた酒宴に女装して潜入してトロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
現存する遺構は仏教伝来後の奈良時代のものであるが、文献資料はほとんど残されていない。
この近くには対馬から太宰府まで狼煙をつないだ日の隈山(ひのくまやま)などがあり、要所であった。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。
狗奴国として分裂していた王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。 >>476
>7世紀末までは九州に倭国が在ったが
在った痕跡は? @阿波 太宰府 は7世紀後半に設置ですね。
太宰府より早い7世紀中頃には倭国(阿波)では役人が木簡に習字をしています。
奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
徳島県国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀末頃に阿波から奈良へ遷都(持統朝)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 犬神せえせーと三好君はどにでもいてるな
てんじんsまのほそみちは太宰府やったかのー
おんりょー? >>489
いぬがみせんせーはそんなんhyくもしょーちやろなー(たぶん 水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとか
伊都に代々王がいるが卑弥呼のことだとか、牽強付会ばっかりだ
このスレで正しいのは平原が卑弥呼の墓だと言う事だけだ >>500
代々王がいた倭国の都ということだろ。
卑弥呼もその一人ということだ。 >>492
八咫の鏡を頂点とする倭国王家内での交流を物語っているわけですな。
>>493
船で追走しているのと、肥前堀江、蠣久などとの距離関係から、
筑紫の穴倉陣は久留米もしくはその近辺のことだろう。
倭国乱は伊都倭王の「外戚」主導権争いで、
争ったのは、大綿津見一族と大山津見一族。
邪馬台国が伊都北部九州沿岸+壱岐対馬長崎と、日本海沿岸と半島南部を従える。
狗奴国が筑後+熊本大分で、瀬戸内を従えた。
現代の日本人の感覚だと、日本は統一されて久しい島国なので、
例えば太平洋戦争のように、日本とアメリカなど、
領土の決まった国同士が戦う錯覚に陥りやすいが、
倭国乱は九州倭国が二つに分裂して戦ったわけなので、両国の領土は取りあいになり、戦況と共に国境は移動する。
卑弥呼が魏と外交していた頃は狗奴国の官は熊本のみ。
卑弥呼の長期安定政権によって邪馬台国が国力をつけて優勢だったのだろう。
倭人伝の傍国には八女なども含まれる。瀬戸内やその東も邪馬台国が制圧。
ここで卑弥呼が死去して潮目が変わる。
次の男王の時に邪馬台国が乱れて狗奴国が領土(筑後や大分)を取り返した。
女王壹與の時には、もう一度筑後や大分を攻め直さねばならなかった。 >>502
>争ったのは、大綿津見一族と大山津見一族。
この二つは同じ氏族だという意見もあるようですが。
>倭国乱は九州倭国が二つに分裂して戦ったわけなので、両国の領土は取りあいになり、戦況と共に国境は移動する。
その通り。
>次の男王の時に邪馬台国が乱れて狗奴国が領土(筑後や大分)を取り返した。
というか、その男王って狗奴国王かその後継者かもしれませんよ。 倭国内の有力豪族同士なのだから婚姻の繰り返しで同じように見えることもあるし、
逆に元は同じ系統、それこそ王家などから分かれた氏族の可能性もあろう。
大山津見は瀬戸内を中心に高地性集落を建設した集団で、
同じ技能で神籠石も建設したわけだ。
卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼とが戦争になっているから
張政が派遣されてきて難升米に黄幢を授けて檄告喩した。
その同じ張政が壹與にも檄告喩している。
狗奴国と戦う難升米に檄告喩した同じ外交官が
極めて短期間に狗奴国側の王族にまたもや檄告喩するなどという状況はありえない。
卑弥呼の死によって張政は帰国のタイミングを逸して
壹與が送ることになる。
難升米には帯方郡太守から2回も黄幢が授けられているが、
壹與には現地の張政からの檄告喩のみ。
張政が倭国滞在中に自己判断で動いたからであろう。 卑弥呼の朝貢を紀年した紀年銘鏡が後世に作られていることから、
邪馬台国卑弥呼の系統は最終的に勝者となっている。
神夏磯媛と大足彦
五十迹手+熊鰐と足仲彦+息長帯比売命
北部九州「沿岸」の領域に八咫の鏡を含む鏡祭祀の集団がいて
筑後や大分の豪族と戦っているのだから、
彼らは邪馬台国系統の集団。
大足彦や息長帯比売命が含まれるのだから、その後も勝者ということになる。
要するに、倭人伝の時も、景行から応神の期間も、
一貫して北部九州「沿岸」の銅鏡祭祀集団が
筑後以南と戦い続けて最終的には勝利を収めており、
間の男王や壹與だけが狗奴国側で、
狗奴国側に倭国王の座を明け渡すというシナリオは成立しがたい。 おそらく久留米説の人にとっては、
もともとは久留米=邪馬台国で、狗奴国=熊本の蛮族、という図式だったので、
久留米=狗奴国というのが屈辱に思えるのかもしれないが、
倭国=邪馬台国+狗奴国であって、
狗奴国も倭国王族の系統であり、出自の不確かな邪馬台国卑弥呼とは同等以上の存在なのだから、
単に倭国乱で負けただけの話で、狗奴国だからといって文化水準的に恥じる必要はないし、
邪馬台国にこだわる必要もないのだが。 >>497
『日本書紀』の記述が正しいとして、常識的に考えれば、
多くの資材を投入して防衛のための付属施設である大野城・水城等が建設されたとされる664年には、
既に本体である都城は存在し、資材を投入するに足りる発展を遂げていたことになる。
現在の太宰府の年代測定は、年輪年代測定や放射性炭素年代測定等によるものではなく科学的根拠が無い。
水城の建設は、理科学的測定によれば下部は西暦240年、中部は西暦430年、上部は西暦660年で、
水城の排水口の木部も西暦430年であったので『日本書紀』の記述等よりも古くなり、太宰府本体も古くなる可能性がある。
鴻臚館の便所からはトイレットペーパー代わりに使われた西暦430年の木片も見つかっている。
学習院大学年代測定室の放射性炭素年代測定によれば、太宰府遺跡の竹内焼土層は1600年ほど前の物である。
つまり太宰府は西暦400年くらいには建設が始まり660年頃には完成していた
九州年号で定居元年は611年、倭京元年は618年でありこの頃に太宰府は造られた。 >>505
>卑弥呼の朝貢を紀年した紀年銘鏡が後世に作られていることから、
>邪馬台国卑弥呼の系統は最終的に勝者となっている。
なるほど。
>>505
>間の男王や壹與だけが狗奴国側で、
狗奴国側というより、もともと倭国の主導権あらそいなら、卑弥呼の死後にすぐに一つの国としてその中で政権の座を巡って争ったのではないかな。 >>509
すぐに一つの国になるのなら、最初から戦争なんてしない。
倭国乱では、卑弥弓呼を取り逃がして熊本に逃げ込まれた。
いったん熊本に逃げ込まれると、たとえ遠路熊本に攻め込んでも、
さらに鹿児島がある。
卑弥弓呼を取り逃がしたために狗奴国王家が続き、
卑弥呼死後の男王時代に筑後を取り戻された。
この狗奴国王がクマソタケルだろう。
同じ轍を踏まないように、
大足彦と小碓命は親子で挟撃をしかけたわけだ。
先に大足彦が大分から時計回りに熊本を抑える。
熊本への退路を断っておいて、
別動隊の小碓命が北からクマソタケルを攻める。
だからクマソタケルは熊本へ逃げることができずに、西の佐賀川上へ逃亡して、
最終的に討たれた。
倭国乱はこれで決着。
2世代後の息長帯比売命の時の戦いは、
北部九州各地に再配置された邪馬台国系首領の間での派閥争いだろう。
だから神夏磯媛の末裔などと同士討ちのような形になっている。 おそらく小碓命は博多と久留米の間で待機しておくよう命じられていただろう。
大足彦が自らの大軍で熊本から北へ向かってクマソタケルを攻めて
狗奴国滅亡の大手柄を挙げるつもりだったはず。
若くて猛々しい小碓命が暴走して、
義経や信長のように少人数でクマソタケルの首級を挙げてしまい、
その後の扱いがあのようになったのだろうな。 九州北部を舞台とした筑紫邪馬台国の内紛は、1世紀の出雲の国譲り、2世紀の倭国大乱、3世紀の狗奴国との対立、4世紀の景行天皇や神功皇后の熊襲征伐、5世紀の継体の乱など続いていたことになります。 【朝鮮半島有事】数万人の避難民を想定 収容施設設置は九州が有力 避難民装う北朝鮮工作員、水際で阻止 政府★6 ・
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1511093649/ >>477
旧唐書に、倭国は古の伊都国だとある。
九州で複数の王墓が見つかっている。 妄想の人は病院いって薬貰った方がいい
家族から何も言われないんですか? >>517
この妄想さんは典型的な連想性精神障害
次から次へと色々な連想が湧いてきてそれを天啓のような信者だと思い込んでしまうんだ
真実ならそれで株でもやって儲ければいいのに所詮妄想だから滅茶苦茶
そこでただの妄想だったと気がつけば良いんだけど、そこに気が付かないのが精神障害の障害たる所以なんだろうね 都合の悪い史書を引用する人間を精神障害者扱いするのが
畿内説論者に残された最後の手段W 畿内説等矛盾だらけで何も説明できない
一方、邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)では全て矛盾無く説明できる
矛盾無く説明できるが正しく何も説明できない説は誤りである。 3世紀には北部九州では文字が使用され鉄器も豊富に使用されていた
出雲地方でも硯が出土してるから文字の使用があったかもしれないが
それ以外の地域ではまだだろう
畿内とかは問題外
倭人伝の記述と合ってるのは北部九州だけ
考古学的にも文献的にも邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)で決定だな。 考古学的資料が増えれば増えるほど、伊都国しか考えられなくなってきますね。 倭人伝の訳も畿内説に引きずられてたんで変な訳でしたね。 >>523
>畿内とかは問題外
>倭人伝の記述と合ってるのは北部九州だけ
阿波は? 倭人伝には「伊都國・・・世有王皆統屬女王國」と「常治伊都國」と書かれてるから
ちゃんと読める人には初めから伊都国が卑弥呼の都だと分かってたんだろうな。 意味が通じるように理路整然と書いてある文をこねくり回して
何のこと書いてあるか分からないよう訳したのが畿内説の訳だな。 >>530
倭人伝には何も書かれてないな
侏儒國が四国のことかもしれないが
しかし四国の人「人長三四尺」なの
漢代の尺が23-24cmだから69-96cm??? >>532
是非とも一度論破されてみたいものですな。 >>523
太宰府 は7世紀後半に設置ですね。
太宰府より早い7世紀中頃には倭国(阿波)では役人が木簡に習字をしています。
奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
徳島県国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀末頃に阿波から奈良へ遷都(持統朝)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 水城は太宰府防衛の為に造られた
水城の建設は、理科学的測定によれば下部は西暦240年、中部は西暦430年、上部は西暦660年で、
水城の排水口の木部も西暦430年であった
水城だけでなく鴻臚館の便所からはトイレットペーパー代わりに使われた西暦430年の木片も見つかっている
学習院大学年代測定室の放射性炭素年代測定によれば、太宰府遺跡の竹内焼土層は1600年ほど前の物である
つまり太宰府は西暦400年くらいには建設が始まり660年頃には完成していた
九州年号で定居元年は611年、倭京元年は618年でありこの頃に太宰府は造られた >>535
>つまり太宰府は西暦400年くらいには建設が始まり660年頃には完成していた
つまり太宰府は660年頃にやっと完成して、それからようやくスタートたんだね。 @阿波 >>535
>つまり太宰府は西暦400年くらいには建設が始まり660年頃には完成していた
つまり太宰府は660年頃にやっと完成して、それからようやくスタートたんだね。
太宰府より早い7世紀中頃には倭国(阿波)では役人が木簡に習字をしています。
それは、7世紀末頃に阿波から奈良へ遷都(持統朝)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 太宰府としては定居元年の611年から倭京元年の618年ころでしょうね
その前の西暦430年ぐらいからは首都機能のある都市は存在していた
660年には日本書紀にも書かれている。 >>538
>その前の西暦430年ぐらいからは首都機能のある都市は存在していた
という根拠は? @阿波 ここのスレ主も論破されても全く認めず同じ主張を繰り返す
畿内、阿波とおなじ種類の人間だよ >>540
何処かおかしい所あったら指摘してくださいよ
有用な意見なら取り入れます。 >>538
>その前の西暦430年ぐらいからは首都機能のある都市は存在していた
という根拠は? @阿波 大宰府に竹内焼土層なんてない
つまみ食いばかりで原典まで遡らないアホが言い出したガセネタ 妄想とか捏造とか罵ることしかできずに
反論とか論破とかよくまあ恥ずかしげもなくw >>545
データを公開してるから、元の元まで行ってみたらw つーか年代測定って、どんな遺構の、どんな地層から出土した、どんな遺物を測定したのか、ってことがわからないと評価しようがないのになw それをすっ飛ばして、数値だけみてホルホルする連中は、間違いなく学問の素養なしw >>547
大宰府に竹内焼土層なんてないってこと? >>551
ないよ
あるって主張するなら、大宰府のどの地点で、何年の調査で確認されて、
何を測定したものか、を明示してからにして欲しいね >>550
必死で大宰府にタゲ逸らししてますね
狗奴国まで解明されてショックのようです >>553
竹内焼土層なんたらがもしあったらどーなるんだ? >>555
ないものはないから
自らの主張に使うデータをろくに確認していない、一部の九州説支持者が嘲笑されるw 鉄器も中国からの学術出土も
ないものはないから
自らの主張に使うデータをろくに確認していない、一部のトンデモ説支持者が嘲笑されるw >>557
普通はそういった疑問を確かめてから使おうとするもんだ
ところが、一部の九州説支持者は、それをしようとしなかった 後世の大宰府はともかく
筑前町の2か所から硯が見つかっているのだから
筑後平野を監督する府庁が筑前町の辺りにあったことは確実なわけだ。
王墓のある伊都が中央政府で
筑前町の辺りにもう一つの地方政権中枢があったわけで、
狗奴国が分裂して自立国家として機能するのなら、
平塚川添遺跡が候補の一つになるのは
考古学的に理由がある話である。 ヒメ踏鞴 (200年頃) 神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 (250年頃) 懿徳 孝昭
トヨ津 (270年頃) 孝安
孝霊 孝元 開化
(318年没) 崇神
ヒミコやトヨが住んだのは葛城です。
もうあきらめてください、往生際が悪いですね。 >>564
>後世の大宰府はともかく
にげたらあかん 関西の中心である大阪府だからこそ
都構想を持ち上げても一定の支持が得られるわけだ。 >>566
3世紀以前だと100対ゼロばかりで勝負にすらならないから
大宰府に話題をすりかえようとしているのはそちらでしょw
鉄器や硯。舶載の威信材。
にげたらあかん 甕棺墓のあった地域が貴族の居住域。
伊都に政府や都庁。
筑前町に府庁。
硯で分かる。
畿内からの年貢=庄内式が分布する地域が国家の全域。
鉄器も同じ範囲に分布。
北部九州倭国が伊都を中心に版図を広げていく過程ですなあ。 >>567
畿内説は摂津を持ち上げるがいい。
奈良盆地は後進地域であり、あり得ない。 ていうかさあ、伊都国が九州北なのに邪馬台国が畿内なんて絶対に有り得るわけないでしょ
そんなこともわからんバカがいることが信じられないww 伊都国に卑弥呼が居たことを前提に倭人伝を読むと何の矛盾も無いけど
それ以外の解釈だと何のこと書いてあるか分からない矛盾だらけの文章になる。 >>574
>伊都国に卑弥呼が居たことを前提に倭人伝を読むと何の矛盾も無いけど
そもそも、その前提が間違っているから。 @阿波 >>570
つまり太宰府は660年頃にやっと完成して、それからようやくスタートたんだね。
太宰府より早い7世紀中頃には倭国(阿波)では役人が木簡に習字をしています。
それは、7世紀末頃に阿波から奈良へ遷都(持統朝)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 狗邪韓国と伊都国にだけ到るの字が使われ他は至るが使われている
到るは到着するのように人が目的地に着く場合のみに使用される字であり
至るは方向や人以外のものが至る場合、更に人が意識しないで着いた場合に使われる
従って魏使の主要な目的地は狗邪韓国と伊都国であり、その他の場所は通過地点に過ぎなかった
狗邪韓国は投馬国の主要な国邑であり、伊都国は邪馬壹國の都である >>577
>従って魏使の主要な目的地は狗邪韓国と伊都国であり、その他の場所は通過地点に過ぎなかった
その通過地点に過ぎなかった 倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
魏使が九州で留まっていようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。
延々と無意味な論争は時間の無駄。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 奴国までで12000里、女王国の中心国邑に付いてますから四国へは行けない。 俺が思うに問題は北九州と畿内に大規模集落
中国がどちらを邪馬台国と呼んだかではなく
その二つがどう大和政権につながるかじゃないか >>580
どちらも直接的には大和政権につながらないでしょう
大和政権は8世紀からで
大和政権の先祖神武が畿内に入植したのはその5〜6世紀くらいでしょうね。 >>580
そもそも畿内に九州北部に匹敵する住居や生産手段の集中、大規模集落がない。 >>581
>大和政権の先祖神武が畿内に入植したのはその5〜6世紀くらいでしょうね。
神武天皇は5〜6世紀くらいの人ですか? @阿波 >>583
8世紀に伝承が残ってるくらいだから
そんなに古い話じゃない。 製鉄技術を持ってないと後から来た者に滅ぼされる
文字が無いと広域の統治も出来ないし記録も残せない
神武がいたとすれば5〜6世紀くらいでしょうね。 ヤマイチ国だと上代の日本語の発音ではないね
九州は朝鮮民族の所有地だったという事になるな >>587
そんな世迷いごとを言っているのは古田の信者だけ。
邪馬台国は筑後山門だよ。 卑弥呼は戦争中
次の男王は内戦で犠牲者千人
台与にも檄
大きな墓=労働力動員を作ってる余裕ないよね。
卑弥呼の墓は小規模の塚がふさわしい。
副葬品は魏から貰ったものが中心になるだろう。
台与が長生きしてて安定した広域国家を形成していたら巨大な墓を作れたかもね 倭人伝の数値はすべて5倍されたフシがある。
距離を1/5すれば行程が全く矛盾がなくなるのも一例だが
卑弥呼の墳墓の百歩144mを1/5すれば
30m弱になって、弥生後期の王墓としては
普通の大きさになるのだ。 倭人伝のだけじゃなくて東夷伝のが全てね
あと、後世の中国史書もことごとく同じ数値であることもお忘れなく >>593
>卑弥呼の墓は小規模の塚がふさわしい。
>副葬品は魏から貰ったものが中心になるだろう。
中国産の装飾品で埋め尽くされた女王墓、平原遺跡ですね。 魏から拝領した五尺刀が副葬された女王墓が平原遺跡。 倭国王の証である神宝八咫の鏡を副葬された女王墓、それが平原遺跡。 魏の使いが滞在したという邪馬台国の都である伊都に君臨した女王の墓が平原遺跡。
平原遺跡が卑弥呼の墓でないなら、誰の墓だというのか。 副葬品が豪華な王墓はちょこちょこあるからね。
ないところは候補から外していいと思うけど
王墓の中でどれ?、という話になると
もう少し別のアイデアが要りそうだなあ。 弥生時代の硯
島根県松江市田和山遺跡:硯片2つ
福岡県糸島市三雲遺跡:硯片2つ
福岡県筑前町中原遺跡:硯片
福岡県筑前町薬師ノ上遺跡:完全な形の硯、墨付着
2世紀に共立された卑弥呼がいたのはどこよ? >>602
畿内は脱落するけれど、平原遺跡がある糸島市は候補に残っているね。 >>602
より取り見取り、どれでもおすきなものどーぞ >>601
推定年代が倭国大乱の後であることを条件にすると、平原遺跡以外の弥生墓は脱落するよ。
祇園山は王墓である確証はあったかな? 恐るべし!
卑弥呼様を怒らせた逆鱗フラグ一覧!
松江硯片
→楽浪土器が無い辺境でペンダントにでもしてたんだろう(笑
糸島三雲硯片
→楽浪土器が有るから楽浪商人が使っていたんだ、倭人は無関係!(キリッ
筑前町中原硯片
→す、墨が、墨がついてない!使ってない!
筑前町薬師ノ上 完全硯、墨付着
→も、文字を、文字を書いたとは限らない!絵を書いていたんだ!
国産銅鏡に文字記載
倭人伝で、卑弥呼は奉書外交、一大率は文書検閲、倭国は徴税 >>610
自スレでは「根拠なし」
他スレでは「捏造か」
なーんの議論もできないお前さんはどこのスレ主かな? 弥生時代の硯
島根県松江市田和山遺跡:硯片2つ
福岡県糸島市三雲遺跡:硯片2つ
福岡県筑前町中原遺跡:硯片
福岡県筑前町薬師ノ上遺跡:完全な形の硯、墨付着
2世紀に共立された卑弥呼がいたのはどこよ? >>612
他スレのスレ主が出張してきて開き直るなよ。 鉄器の量が重要視されてなのは90年代くらいまでだよw 鉄器を無視する根拠がわからないね。
都合が悪い考古学的証拠から目を背けているだけだろ。 >>617
そうだね。
ゼロだからどうしようもないねw 古墳から出ているといっても、外にゼロだからな。
リサイクルシステムとか言っても、鉄鏃まで全回収は不可能だし非効率的すぎっしょw 鉄器を持った征服者が来て
反抗を封じるために木器で古墳作らせたんでしょ。 卑弥呼は戦争中
次の男王は内戦で犠牲者千人
台与にも檄
大きな墓=労働力動員を作ってる余裕ないよね。
卑弥呼の墓は小規模の塚がふさわしい。
副葬品は魏から貰ったものが中心になるだろう。
台与が長生きしてて安定した広域国家を形成していたら巨大な墓を作れたかもね >>628
鉄器ゼロでどうして3世紀の西日本の盟主になれるの?? 鉄がそんなに気になるなら村上恭通の著書でも読んで勉強したら? 質問が良くないな
紀元前から鉄器が普及していた地域を
3世紀に鉄器ゼロの地域が支配下におさめていたはずがないでしょ?
だろ 弥生時代の硯
島根県松江市田和山遺跡:硯片2つ
福岡県糸島市三雲遺跡:硯片2つ
福岡県筑前町中原遺跡:硯片
福岡県筑前町薬師ノ上遺跡:完全な形の硯、墨付着
2世紀に共立された卑弥呼がいたのはどこよ? 鉄器ゼロを邪馬台国にしようとするも
議論すらできずに敗走w 基礎知識もないのに自分は偉いと思ってる奴相手に議論はできないよ
聞く耳持ってないからな >>635
だよな
住居跡見つけてから都市国家論を騙れってんだよな 基礎知識ならあるぞ!
中国から学術出土ゼロの銅鏡だろ! 卑弥呼は戦争中
次の男王は内戦で犠牲者千人
台与にも檄
大きな墓=労働力動員を作ってる余裕ないよね。
卑弥呼の墓は小規模の塚がふさわしい。
副葬品は魏から貰ったものが中心になるだろう。
台与が長生きしてて安定した広域国家を形成していたら巨大な墓を作れたかもね 弥生時代の硯
島根県松江市田和山遺跡:硯片2つ
福岡県糸島市三雲遺跡:硯片2つ
福岡県筑前町中原遺跡:硯片
福岡県筑前町薬師ノ上遺跡:完全な形の硯、墨付着
2世紀に共立された卑弥呼がいたのはどこよ? 伊都は韓人国家だったのだろう
何故なら倭人と違って文盲では無かったからだ >>502-
なるほど
北部九州邪馬台国から
素直に東へ海を渡って日本海沿岸の邪馬台国側倭種(三国志
東に海を渡って瀬戸内だと狗奴国側の倭種(後漢書 >>643
吉野ヶ里でだいたい同時期には千人〜数千人の人口だったらしいけど、
同じくらいの住居跡が見つかってるの? イトは千戸と書かれているし
まあ、それくらいはあるだろう >>640
女王墓と確定しているのは平原遺跡だけ。
祇園山も性別は不明。伝承は女性だったかも。
九州には被葬者が女性だったと伝えられる墳墓は多い。
女性首長は九州北部の習慣。 >>643
律令制の時代から明治までずっと怡土郡だっけ?
志摩郡と合併して糸島市。
おそらく弥生時代からずっと伊都(怡土)。 >>620
古墳が出現すると何かあるの?
>>622
巨大古墳とか強い外部勢力に支配された証だよな >>632
筑紫と出雲がいかに文明化されていたかよく分かるな >>650
広さだけじゃなくて、三雲で千人規模の住居跡は見つかってる? >>654
住居跡はあちこちにありそうだが
有名所で三雲、平原周辺、潤地頭給遺跡、後他にもマイナーな所で浦志遺跡や上鑵子遺跡群かな
あちこちにあってね
中心は三雲あたりっぽいが 邪馬台国の首都である伊都に環濠がないということは、
攻められる心配が無いほど終始優勢で、そのまま勝利したということだな。
だいたい負けていれば平原など王墓は荒らされていたろうし。 >>652
象だって足利将軍に献上されたけど考古学的痕跡は残っていない。
馬韓や辰韓に馬がいたと東夷伝に明記されてるから
頻繁に交流していた伊都にある程度の馬がいたとしても不思議ではないね >>656
その通りだな。
何よりも、伊都の八咫の鏡の神事が今日まで伊勢や天皇家に伝えられているという点を忘れてはいけない。
他の地域の神事はほぼ消滅しているのに。 >>658
卑弥呼の時はね。
三雲南小路以前の王のもとにいたという可能性はあるよね。
現代のパンダみたいに。 馬がいないってのは、馬を移動手段として使ってはいないということだよね
倭国内のどこかに原生種はいたかもしれないし、それこそ動物園みたいに数匹は輸入されていたかもしれないけど 中央に鏡
祭祀武器は矛や剣
神事の起源は仏教伝来前なんだからまんま弥生時代の北部九州じゃん
鬼道だな >>659
九州は天皇家・宮内庁と今も昔も縁が無く、古代から続く天皇家祭祀(践祚大嘗祭等)において蚊帳の外。
推して知るべし。 @阿波 >>663
神道の祝詞の大祓えでは筑紫の日向の小戸における神事を歌い上げている。
博多湾沿岸は神道が成立した故地だよ。 縁が無いつーのがよくわからん。
そもそもその家が九州倭国の系統だったらど真ん中なわけだし。 祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す 祝詞の中心となる語句は、筑紫の日向の小戸、すなわち伊都国に隣接する博多湾沿岸が舞台となっている。
記紀の国生みは博多湾の淤能碁呂島(能古島)から始まる。
天孫降臨の地は伊都国と奴国の間にある筑紫の日向のクシフル山。
八咫の鏡が副葬されていた平原遺跡はクシフル山の麓、伊都国から奴国に抜ける日向峠の入り口。
魏の使いが滞在した倭国の中心地は伊都国。
漢委奴国王印を保管していたのは伊都国の細石神社。
稲作の上陸地、漢字文化の上陸地。
すべて博多湾沿岸に集まっている。 九州説の解釈であまりにも理路整然と倭人伝が解釈されたから
他の説はなんでも反対しかできなくて見るに耐えんな。
合致する考古学データも次々と見つかって
もはや対抗できるだけの解釈を呈示するなんて不可能だし。 ここの説を知ったら畿内説や四国説は聞くに堪えんな。 >>670
ごめんね圧倒的リードでゴールしちゃって 平原遺跡につては認めているのなら、いいんじゃない?
女王国は伊都国で納得したんでしょ。 >>667
>すべて博多湾沿岸に集まっている。
博多湾沿岸に集まっていないもの
>すなわち伊都国に隣接する博多湾沿岸
伊都国に隣接しない博多湾沿岸
伊都国は惣座遺跡(肥前国庁跡)付近
>伊都国から奴国に抜ける日向峠の入り口。
日向峠の出入口には伊都国も奴国も無い。
伊都国と奴国の中間にあるのは佐賀石井樋公園
>魏の使いが滞在した倭国の中心地は伊都国。
楽浪郡の使いが滞在した倭国の中心地であったところが伊都国。
>すべて博多湾沿岸に集まっている。
伊都国と奴国は佐賀平野にある。
>漢委奴国王印を保管していたのは伊都国の細石神社。
漢委奴国王印を保管していたのは三雲の細石神社。
>稲作の上陸地、漢字文化の上陸地。
稲作(陸稲)の上陸は縄文時代、上陸地は不明。
現在知られている最古の水稲作の上陸地は佐賀菜畑遺跡
邪馬台国は筑紫平野東部内陸部(筑後平野内陸部と筑後川中流の北野地域)
卑弥呼の城柵は久留米高良山付近 >>664
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等 諸々の禍事・罪・穢 有らむをば 祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと 恐み恐みも白す
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」
倭国(阿波)の「竺紫(とくし)」で、倭国(阿波)の「阿波岐原」
高らかに、倭国(阿波)を讃えていますね。 @阿波 >>665
>縁が無いつーのがよくわからん。
>そもそもその家が九州倭国の系統だったらど真ん中なわけだし。
そもそもその家が九州倭国の系統じゃなかったんだね。
九州は天皇家・宮内庁と今も昔も縁が無く、古代から続く天皇家祭祀(践祚大嘗祭等)において蚊帳の外。
推して知るべし。 @阿波 >>675
単発で書きこむんじゃなくて、佐賀久留米説スレ立ててテンプレ作成してみたら?
菜畑遺跡では既に鉄器が用いられていたと言われているね。
唐津は佐賀県だけど地形的には福岡圏に属しているという人が多い。 壱岐と対馬は長崎県で合っている?
けっこう九州北部の県境は難しいな。
長崎県なんて形がよくわからん。 壱岐対馬は長崎県ですね。
>けっこう九州北部の県境は難しいな。
遺跡遺物の県別一覧を見る時は要注意。 >>680
自説テンプレをまとめられない=全体像だと矛盾だらけでまとまらない
ですからね。
切り貼りの自説披露でなにかあるように匂わせるのが精一杯。 自説を披露するだけならブログか何かにどうぞ。
テンプレは議論のための共通認識や資料を最低限抑えてあればいい。 筑紫の日向って九州の宮崎って意味だろ?
古事記の時代には既に筑紫の島は九州と意味になっている 対馬など国名が残った一部のもの以外は、倭人伝の地名は基本的に記紀には登場しない。
要するに記紀は弥生時代の九州の地名を知らない。(もしくは知らないふりをしている。)
そして倭人伝によると弥生時代の終わりには未だツクシもヒムカも存在していない。
つまり記紀は弥生神話時代も7世紀当時の地名で書いていると考えられる。
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原
ヒムカの下に3つの地名があることから、ヒムカとはかなり大きな地名であることがわかる。
そもそもヒナタでは話にならない。全国にある日当たりの良い峠くらいの意味。 記紀の地名由来譚の内容そのものはかなりいい加減なものだが
史料批判的に考えれば由来譚を挿入せねばならなかった理由は考えるべきものがある。
1つの可能性として、本当の由来は皇統に都合が悪い為、先回りして適当な由来譚を
でっち上げ本来の由来を後代に推測させないようにしたのではないか等。
以下更に妄想的になるが、東九州の2つの国名が古代の2人の女王の名に由来することを
隠そうとしたのかもしれない。それだけでは十分ではないと考えたのか、ヒムカの読みも
結局ヒュウガに変えてしまった。
また大和朝廷が地名を隠そうとしたとするなら、逆に地名が残っているところは残って
いるなりの理由があるということになる。対馬、壱岐、松浦である。
そこまでは行程が単調ゆえ隠しようがないし、むしろ残した方が都合がよかったのかも
しれない。というのは伊都国が倭人伝の記述通りマツラの南東の有明海方面にあるとした場合、
怡土や伊都都比古は、記紀等の読み手に邪馬台国の所在を畿内に読み誤まらせる意図があった
のではないかと考えることができるからである。
つまりこう考えることはできないだろうか。倭人伝の伊都は古い呉音的にはイツだが、
大和朝廷は新しい漢音的にイトと読んでその地名を本来の有明海に面した佐賀付近から
糸島付近に再配置した。
いわゆる行程記事は、邪馬台国を最終目的地に設定し一般的にはそこへの旅程だと言われ
ている。そうやって行程記事を見たときマツラから糸島への陸行で感じる不自然さは、意図的な
怡土の再配置にあるのかもしれない。いとだけに 「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」
倭国(阿波)の「竺紫(とくし)」で、倭国(阿波)の「阿波岐原」
高らかに、倭国(阿波)を讃えていますね。 @阿波
徳川や徳島という名称由来は、 佛祖統紀の彦子神武が、竺紫(とくし)城にて即位という部分や
竺紫(とくし)の日向(徳島県)を由来とする可能性が高い。 @阿波 >>682
>惣座遺跡は大国主系
惣座遺跡の壕は、吉野ヶ里遺跡の壕と同形式。
吉野ヶ里遺跡は大国主系ではない。
吉野ヶ里遺跡の祭祀形式は漢風。 >>678
>唐津は佐賀県だけど地形的には福岡圏に属しているという人が多い。
唐津は地形的に流通路的には佐賀平野圏に属している。
だから唐津は佐賀県なのです。 大国主命をヤマトの大王に倒された
前王権の首長とする説って
もう古くなあぃ?
大物主命は天照大神と共に大和で
崇神朝まで最高神として祀られていたし
大国主命はヤマトに征服されたのではなく
ヤマトの大王の日本国土支配権を神格化した
存在なんじゃないのぉ?
記紀の大国主神話はそういう神を作り上げた
古代の人達の縁起話で大国主命という存在を
説明するための例え話つまりメタファでしょ 都合の悪い話をなかったことにする畿内説の妄言は聞き飽きた。
しかも、出雲を征服して政権の座に着いたのが筑紫の日向の王朝であると記紀に明記されているのに、それを大和にすり替えるなど、二重三重に嘘を重ねる始末。
史料もまともに読まずに否定とは呆れたものの言いようだな。 でも、大国主は津波を引き起こす祟り神なんだよねえ
それに大物主との習合もいつの時代かわからないし 大国主命が出雲の怨霊って無理があるよねぇ
ヤマトの大王の国土支配権の神格化と
考えた方がスッキリすると思うわぁ
古代だから日本語の抽象表現がまだ未発達で
神話というメタファだらけになっているけども
これが中世なら帝の中つ国統治の血脈は大国主命を
もって源とし血筋の尊さは天照大神の血脈をもって
源とす、みたく書かれてたんじゃないかなぁ 記紀を読んでないだろ。
大国主は天照の血筋じゃないぞ。
出雲の大国主を倒して、筑紫に天照の血筋の王朝が成立し、そこからさらに大和の政権が派生したんだ。 大国主と大物主の関係については、邪馬台国葛城スレで展開されていたから、読むといい。
簡単に言うと、大物主は大国主の子孫らしい。 血脈は血筋という意味じゃなくてぇ
例えていうと神霊的資格という意味なのぉ
古代の慣習で伝授によって相承されていくから
血筋に例えて血脈というの 伝授も何も、大国主を殺して奪ったから、祟りを恐れたんだよ。
大国主が神殿に隠れたと言うけれど、王族が隠れると言うのは、亡くなることを指すからね。
そして、出雲を含む日本海側の要所として筑紫の日向の伊都国が都に選ばれ、天照の孫の邇邇芸が王として派遣されたんだよ。
要するにこれは神話などではなく、征服譚なんだ。 ついでに言うと、高天原は対馬、豊葦原中国は福岡平野のことだから。
邇邇芸の墓は伊都国の三国南小路遺跡(付随する細石神社の祭神が妃の木花咲耶姫だが、発掘により王と王妃の墓であることが判明)、日向三代の王である彦火火出見の宮である高千穂宮は伊都国の高祖宮(祭神が彦火火出見)。
クジフル山は高祖山の最高峰の名前。
畿内が古事記に登場するのは神武が大和に引っ越した古事記の中巻以降になる。 イチの国があってイヨ(ヨ)の国もあるならフタとミもあるのでは。 ここのテンプレもいきなり「水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤り」だから
残りを読む気もなくなる信憑性の無さだ。北部九州なら変える必要もない 九州説の人はムーとか好きそうだよね
ユダヤがどうのとかね >>706
九州北部でも水行10日陸行1日でいいよ。
末盧国から伊都国まで陸行だから。
畿内説だと、瀬戸内海を手漕ぎぶねで10日で通過するんだろ?
無理無理。
どっちにしても、畿内説は日程も合わないんだよ。 >>706
「水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤り」とするだけで全てが矛盾無く説明できるからな。
信憑性が無いかかどうかは読んで判断してね。 水行10日陸行1日はむしろ九州北部伊都説に都合がいいのだが。 畿内説は論外として北部九州説から見ても
テンプレ読んで矛盾が無いと思ってるのはスレ主だけだよ >>712
その矛盾とは何ですか?
教えてください。 >>713
自分で読んで気が付かないの?
ああ、畿内説のテンプレ書いた書いた本人は無理かw
いいから自分のスレに帰ってよ。 >>715
畿内説スレの1にまったく歯が立たなくて逆恨みの糸クズだな >>1
邪馬壹國は九州筑紫平野東部に在った(女王王都は久留米) >>1
邪馬壹國は九州筑紫平野東部内陸部に在った
(女王王都は久留米) >>727
倭國の久留米王都は、219年から617年迄続いた。
618年(倭京元年)に、久留米から大宰府に遷都。 邪馬壹國の時代は久留米方面は傍国と呼ばれた地域です
300年代以降には久留米方面にも都が置かれた可能性はあるが明確な証拠はない。 611年(定居元年)が太宰府に遷都した年で
618年(倭京元年)は太宰府の整備が完了した年でしょうね。 >>730
611年(定居元年)は、兄天王倭王(天皇)が太宰府へ祭祀場所として定居した年で、
618年(倭京元年)は、弟日王倭王(法皇)多利思北孤が太宰府へ行政機関を遷京した年です。
「倭王以天爲兄、以日爲弟、天未明時出聽政、跏趺座、日出便停理務、云委我弟」隋書
兄天王倭王(天皇)
倭王以天爲兄 天未明時出聽政、跏趺座、日出便停理務・・・祭祀担当
弟日王倭王(法皇)
(倭王)以日爲弟 (兄天王)日出便停理務・・・昼間の実務政治担当 >>732
>そんなことまで分かるはずないだろ。
「天未明時出聽政、跏趺座、日出便停理務」
上記は、出雲大社や天皇家等の新嘗祭大嘗祭に見られる古式の祭祀「まつりごと」と同じである。
「(倭王)以日爲弟 (兄天王)日出便停理務」
行政軍事外交等の実務政治は、弟日王倭王(法皇)多利思北孤の政務「まつりごと」である。
「高祖曰 此太無義理」と「俀國は王が二人もいるおかしな国だ」としている。 魏志倭人伝において
卑弥呼は「倭王以天爲兄・兄天王」であり、
「男弟佐治國」と難升米は「倭王以日爲弟・弟日王」である。
難升米は外交担当者。
帥升も外交をしているから「倭王以日爲弟・弟日王」である。 >>739
阿呆と来たか
何所が阿呆なの?
賢者なら説明できるよネ。 安本さんがなぜ用明天皇から20人の平均在位しか採っていないのかが謎です。
平均を採るのに20代は少ない。
私は30代で採ってみた。
30代平均 31代用明天皇元年585年〜60代元正天皇没930年
930−585=345年
345÷30は11.5年
用明から30代の平均在位は11.5年。
では用明天皇から神武まで遡ります。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、31代遡ります。
11.5×31=356.5
用明元年587年−356年=231年
用明から30代として計算した神武元年は231年、つまり卑弥呼の時代です。
卑弥呼とはヒメ踏鞴五十鈴媛しかいなくなりました。
したがって邪馬台国の王都は葛城です。
というわけで纏向説も九州説も仲良く氏んでください、さようなら。 >>741
基の資料が信用出来ないのに平均取っても意味が無い。 後漢書、魏志倭人伝、宋書倭国伝、梁書倭伝、隋書倭国伝、旧唐書倭国伝などなど、中国の文献に倭国の記載が幾つもあります。
@これらは倭国の情報だと考えられますが、宋書以降、倭国はヤマト王権のことであるという読み替えがなされていると思います。その合理的な根拠はあるのですか?
・倭王武は、宋の時代から梁の時代まで朝貢していて、ヤマト王権の雄略天皇とは明らかに時代が合わない。しかし教科書的には宋書のみ記載して、雄略かな?とシレっと書いてます。
・隋書倭国伝でも、地理記載から(阿蘇山、東西5か月で海に至る)九州であることは明白です。(教科書は、隋書には触れていない。)
・旧唐書については、山川の教科書では、日本伝には触れるが倭国伝には触れていない。
A九州倭国の存在を明確に示すことは、難しいかも知れませんが、中国文献の倭国がヤマト王権であるとする方がもっと難しい(根拠がない)と思いませんか? 畿内説を支持してるような奴らはネトウヨだから天皇制廃止してやりたい
スッキリするわ 皇国史観は差別主義や植民地主義の根源
畿内説は消し去らねばなりません
マイノリティ差別は日本の伝統的封建文化の産物
市民の平等のためにもエスノセントリズムの日本
第一主義(笑)と戦っていきましょう 多元王朝説は歴史認識の重要なターニングポイントだね。 あそこの古墳群は大物主の墓なわけだ。
それを南東からの北部九州倭国が滅ぼした。 伊都説をつきつめると久留米説が破綻するから九州説者がおとなしくなったなw 久留米は高良大社の南側の麓に
大集落遺跡があり古い神社や
奈良時代の筑後国府もこのあたり。
広川、八女あたりまで行くと
また別の小国かな 久留米は壹與の都かもね。
卑弥呼が共立されたのはあくまでも伊都国王統の後継としてだから、伊都国が都だよ。 >>758
伊都説で決まると他の説は全部間違いってことですから。 >>761
壹與までは伊都国が都でしょうね
その後はよく分からない。 久留米もそんなに落ち込むない
東の大物主の倉庫よりはマシだろ 壹與=神夏磯媛だから香椎宮
(九州から見て)東方に影響力を拡大する時期だし 久留米にも都が在った時期があるかもしれん
継体の時代とか。 吉野ヶ里のような旧神崎郡の小国の
首都だってあれだけでかいんだ。
筑前、筑後、肥前、肥後と
あちこちに大集落地帯はあるよ。
伊都国はもちろん、日向峠を越えた
室見川流域だって大集落地帯だ。 なにあちこちに首都作ってんの?
首都だったら従える地域はどこ?
筑前、筑後、肥前、肥後と
あちこちに首都があったとしてどういう国家形成してたのよ?
みんな仲良く同じような銅矛銅剣作って同じような巴型銅器作って
別々に国家運営してたの?
筑前、筑後、肥前、肥後にそれぞれ王様がいたなら
さぞかし各地にバリエーション豊富な王墓が見つかっていることでしょうねえ 弥生後期の王墓の可能性がある
剣や玉などの副葬品があるのが
福岡で41基、佐賀で11基など
そう珍しいもんじゃないよ。
ただ、これだけでは小国王墓か
複数の国を統べる大国か判別するのが
難しいけどね 実際各地にそれなりの副葬品を持った
王墓可能性がある墳墓はかなりある。
福岡は別格だけど、中国、四国
どの県でも数基はあるんだよ。 あははw
そういう問題じゃないんだよねw
各地に墓がある
それなりの自称大規模集落は有るし
神社もあるし
後世になれば国府などもあるかもしれない
だが
伊都の王墓に匹敵する王墓
というものはあるかね?
筑前、筑後、肥前、肥後と
あちこちに王がいて国家経営していたのなら、
支配領域の規模からして
伊都の王墓と同等あるいはちょっと劣るくらいでなければ
同時代に対等の王がいたとはいえないわけだ どれか一基見つかったからと言って
それでいっぱいいっぱいにならずに
同様の遺跡や墳墓はいくつもあると
考えておいたほうがいい。
畿内でさえ少ないとは言え
ゼロじゃないんだから。 各地に規模1の墓がいっぱいあるなら
そりゃあ誰が見ても各地に規模1の王がいたと言えるだろう。
だが
伊都に規模100の王がいるのに
各地の規模1の被葬者を取り上げて各地に王がいたと主張されても
じゃあ
筑前だけ100栄えてて、
筑後、肥前、肥後は1だったの?
いやそれなりに地域としては栄えていたジャン
という話になる 念のためにいうと
平原遺跡の方型周溝墓は
大きい方じゃないよ。 結局のところ
引きこもりのオラが町史観にすぎないわけだ。
自分の地域だけに限局して、
この弥生集落が首都
この弥生墓が王墓
この神社の神様が卑弥呼やらなんやら
じゃあオラが王様は「伊都のマジ王墓」をどうやって通過して
倭国代表として魏と外交交渉したの?
という単純な問題に直面してしまうから
それには触れずに断片的に遺跡名などをゲリラ的に挙げるだけ 伊都はわかるけど
伊都以外で王墓候補の副葬品ってどんなのがあるの? 伊都は倭人伝にあるように千戸の
小国で良くないですかね?
文句なく大国の博多奴国が隣に
控えてるわけだし。 伊都が七万戸を従える千戸の首都だろ。
じゃなければ、
千戸の首都がとてつもない副葬品を擁してて
それ以外とのバランスはなんだんだ 平原遺跡は鏡と玉が比類なしの
大量副葬されていますが
大きさは14m四方程度と小さめ。
吉野ヶ里は30m四方程度。 平原遺跡がすごい遺跡なのは間違いないけど、
それを持って広域国家の首都といい切るのは
どうかなあ? >>782
吉野ヶ里には1000人前後の人口がいた。
30m四方だと「小さすぎ」
俺一人でも半年あれば50m四方は作れるわw
つまり、土盛りの大きさは
王墓の条件ではないね。 >>783
私は熊本説ですが
福岡周辺なら太宰府周辺を支持しますね。 >>784
ふむふむ
平原のことじゃなくて
三雲南小路のことを言いたかったのだがまあいいや
で、各地に三雲南小路と同規模の王墓があるのかな? >>785
土盛りの大きさは王墓の条件ではない
というのは同意します。 >>789
じゃあ副葬品=財産で評価だなあ
平原=100として
伊都以外の王墓ってどれ?
具体的に挙げなければ
あんたは完全敗北 >俺一人でも半年あれば50m四方は作れるわw
ワロスw そりゃ前方後方墳を一人ってのは無理だが
2、3メートルの高さで50m四方の土盛りなら
食料さえくれたら一人でなんとかなるだろ 狗奴国なんて熊本にしとけばいいのに
久留米なんて言い出すから内部抗争になるんだよ
これは九州説で荒れるぞ いや単に北部九州が伊都王を中心に統一されていたら困る畿内説が
吉野ヶ里とかを持ち出してゴネてるだけだから
同一文化で伊都王が突出してるんだから
同一国家だろ 貴族あれば賎民あり
天皇制にすがる畿内説は権威主義の好きなダメなヤツ 吉野ヶ里は九州北部にたくさんある衛星都市の一つでいいだろう。
九州北部では突出して大きいわけではないようだ。
纒向程度しかない畿内説からするとあれでも「首都級」になってしまうというだけで。
倭国王の条件として重要なのは、中国からの冊封の証だろうね。
そうすると三雲南小路や平原遺跡など、ほぼ伊都国に限られる。 >>780
倭人伝に伊都国が卑弥呼の住んでいた場所と書かれてる。 古田説はウエツフミやホツマツタヱと矛盾がないからなぁ
やはり古田説支持だね ホツマツタエは明らかに近世の文章。
古事記や平安時代の文書と比較しても、簡単に読める。 >>796
都市ですらない遺跡と一緒にされたら吉野ヶ里が怒るだろw
あれは中国朱や鉄器の流通圏から外れた大物主の物流倉庫
吉野ヶ里はれっきとした北部九州倭国の主要集落の一つ 卑弥呼の100年以上前の107年に
倭国王帥升が160人もの生口を楽浪郡まで輸送している。
生口の監視官や護衛、
外交官達、
そして漕ぎ手もあわせると
数百人の人員を楽浪郡まで輸送しているわけだな。
ということは、
107年には既に、北部九州倭国の水軍は、
800kmほどの海上遠征を行う能力を有していたことが明らかなわけだ。 >>902
北部九州に倭国水軍があったのであれば、伊勢・東海・関東に痕跡を残す筈。
伊勢・東海・関東に痕跡を残すのは、倭国(阿波)忌部一族だけ。 @阿波 卑弥呼の墓は平原だが、倭人を単純明快に読めば
伊都国が女王国では無いし卑弥呼もいなかったという事だ >伊勢・東海・関東に痕跡
その範囲には前方後方墳の王達がいて、攻め込まれた形跡もない。
よって痕跡が残らない方が正しい。 1世紀から2世紀にかけて瀬戸内海沿岸に高地性集落が立ち並ぶ。
・鉄原料は「全て」朝鮮半島からの輸入
・壱岐対馬ルートは伊都三雲南小路の王が支配
・淡路島に大規模鉄工遺跡が100年ほど存在
・完成品の鉄器の大部分が、北部九州を中心として使用されている。
三雲南小路の伊都王が朝鮮半島から鉄原料を一括入手して、
瀬戸内海を経て淡路島鉄工所へ運び込み、
瀬戸内海沿岸の高地性集落からの木材を燃料として、
鉄器を大量生産して、
完成品の鉄器を北部九州の本国に大量輸送して消費社会を築いていた。 魏志倭人伝には、倭人には大人と下戸の身分差があると記されている。
倭人が罪を犯すと家族と財産を没収されて下の身分に落とされる。
また、卑弥呼に仕えるのは婢千人。
卑弥呼死去に伴い殉葬されたのも奴婢。
では生口とは?
160人もの生口がどこからきたのか? 瀬戸内海を挟んで、
祭祀型銅戈が、九州と大阪湾の「両端」に出土する。
中国などの青銅産地に近い九州に比べて、
大阪湾の銅戈はやや小ぶりとなっている。
1世紀後半に銅戈が大阪湾に上陸開始して、
107年に生口160人。 >>805
>その範囲には前方後方墳の王達がいて、攻め込まれた形跡もない。
当然、前方後方墳も忌部一族がもたらしたもの。
「攻め込まれた形跡もない」のも当然で、拓殖のために各地へ入植したのだから。 @阿波 前方後円墳は饒速日とその末裔である物部の墓。
饒速日は対馬海峡の高天原から関西一円の王として派遣された。 >>802
>107年には既に、北部九州倭国の水軍は、
>800kmほどの海上遠征を行う能力を有していたことが明らかなわけだ。
なるほど。
筑紫から出雲を攻めるのなど朝飯前だな。 『日本書紀』武烈天皇の四年(502年)
是歳、百濟末多王無道、暴虐百姓。
是歳(ことし),百済の末多王,無道して,百姓に暴虐す。
國人遂除、而立嶋王。是爲武寧王。
国人,遂に除いて,嶋王を立つ。是(これ)を武寧王とす。
東城王(末多王)が暴虐によって廃位され,「武寧王」が即位する。
「武寧王」も佐賀県生れの日本人。
韓国にある武寧王陵の木棺を調べると,
日本にしか自生しない高野槇という最高級の木棺材で,
大和政権の豪族や王族だけにしか使用されなかった。
武寧王は,単なる朝鮮王ではなく,大和政権の豪族・王族=日本人として葬られた。
したがって朝鮮半島南部は日本領。 出雲なんて紀元前3世紀には北部九州倭人の属領でしょ
丹後半島に大規模鉄工遺跡が100年規模で運営されてたんだから
その間の日本海沿岸はぜーんぶ北部九州国家の支配下。
じゃないと国家の根幹を支える鉄器生産を丹後半島なんぞに委ねられないからね。
その出雲で銅鐸やら作られていたんだから、
銅鐸も結局は倭人の一部部族が作っていた祭祀だし、
荒神谷遺跡やらなんやらの大量出土は
その時期になんらかの北部九州倭人の部族間争いがあったんだなあということになる。
推測じゃなくって、考古学データからの鉄板。 >>802
北部九州に倭国水軍があったのであれば、伊勢・東海・関東に痕跡を残す筈。
伊勢・東海・関東に痕跡を残すのは、倭国(阿波)忌部一族だけ。 @阿波 >>813
>その出雲で銅鐸やら作られていたんだから、
出雲の「銅鐸」も「勾玉」も全部、倭国(阿波)から進出した出雲忌部がもたらしたもの。 @阿波 守備側の銅鐸と攻撃側の銅矛銅戈が同じ倭人によるものというのは興味深いな
方形周溝墓が早期から全国展開して前方後方墳に繋がっているのも意味がある >>816
>守備側の銅鐸と攻撃側の銅矛銅戈が同じ倭人によるものというのは興味深いな
その中心に位置するのが倭国(阿波)でしょ。
>方形周溝墓が早期から全国展開して前方後方墳に繋がっているのも意味がある
全国展開していったのが、倭国(阿波)を出立した忌部一族ですね。 @阿波 >>816
>守備側の銅鐸と攻撃側の銅矛銅戈が同じ倭人によるものというのは興味深いな
その中心に位置するのが倭国(阿波)でしょ。
>方形周溝墓が早期から全国展開して前方後方墳に繋がっているのも意味がある
全国展開していったのが、倭国(阿波)を出立した忌部一族ですね。 @阿波 >その中心に位置するのが倭国(阿波)でしょ。
その考古学的根拠は?
>全国展開していったのが、倭国(阿波)を出立した忌部一族ですね。 @阿波
その考古学的根拠は?
単発の出土品を挙げるんじゃなくて
ちゃんと系統的な考察ができる根拠を挙げてくれるかな?
なんにもないよね?
単に荒らしてるだけだよね?
「「迷惑」」って言葉は@阿波 にはないのかな? 20世紀に見つかった大物主の倉庫
その起源をめぐっての勝負は
土器については東海
墓制と朱については阿波
が優勢
だがそこで勝ったとしても
邪馬台国には遥かたどり着かない
邪馬台国とは、魏と外交していた
鉄器国家であり、中国朱国家
伊都王を中心として3世紀の他地域を圧倒する出土品の数々 >>820
土器についても阿波(東阿波型土器)
墓制と朱についても阿波
鉄器も阿波
中国朱も阿波
九州にあるものは大概、阿波にも有る。 @阿波 >>822
>土器についても阿波(東阿波型土器)
東阿波型土器が他地域にどう影響を与えているのか?
>墓制と朱についても阿波
どこにどう影響を与えているのか?
>鉄器も阿波
3世紀阿波の鉄器についての詳細は?
>中国朱も阿波
3世紀阿波の中国朱についての詳細は?
>九州にあるものは大概、阿波にも有る。 @阿波
九州にあるものが大概あるだけだと属国の証明になる
九州にあるものが九州以上にあって
その供給源についての詳細の証明は? 伊都国が卑弥呼の都で決着が着いたのに何時までもグダグダ言ってんだ?
邪馬台国論争なんて終わったんだよ! (ヒソヒソ)(馬鹿、声が大きいぞ)
(終わったら面白くないだろ)
(勝利は決まってるけど)
(それでも状況を理解できないバカが馬鹿カキコするのを)
(モグラたたきするのが楽しいんじゃないか)
(次々に見つかる心地よい新発見)
(次々ひねり出してくる意味不明の捏造屁理屈)
(あと数年)
(いやあと数十年)
(楽しもうぜ)
(絶対的高所からのモグラたたきをさ) >>825
残念(ひみこさんのみやこは邪馬壹にあらず
ひみこさんみやこにしてもいとはいと
いよちゃんのみやこぞまさにやまいかな
さんごくしよんだらわかるじっくりと(さんくけんじょー >>832
はいはい
否定するなら否定の根拠を示してねw
ひらがな連打で自分がすごいことを隠してるつもりー?W かつてあるおーみなひみこさんにとーぞくし伊都を治水す(かりだされてたんかもなー 根拠も何も三世紀末の伊都の衰退ぶりどーせつめいするんや
都うつっとるやろ(どこかは知らんぞ 伊都は日向三代から平原卑弥呼が頂点で
内行花文鏡が畿内やらを切り取り放題し始めたら
東に重点が移って
壹與=神夏磯媛は香椎宮だろ
わかっとんのかワレ せいぜい伊都は2世紀半ばまでや(いよさんは265ごろの人やろ? だれかわってはいってきた^^
わえはいよさんの都未知派じゃけん勘違いせんでな >>833
だいたいいいたいことは漢字まじりでレスしてきました^^ 九州説の主張:北部九州倭国の首都が伊都
伊都は卑弥呼の時点で日向三代から250年
壹與=神夏磯媛は香椎宮だろ
わかっとんのかワレ 伊都は卑弥呼まで
福岡県にはその後もとんでもない財宝古墳がいっぱいあるという
戦わなくちゃ現実と! 伊都国が卑弥呼の都で決着が着いたのに何時までもグダグダ言ってんだ?
邪馬台国論争なんて終わったんだよ!
否定するなら否定の根拠を示してね 邪馬台国論の鉄板、邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。 地層を見れば判るけど、糸島は砂礫の土地
普通洪水起こりまくる場所に王様は住まないだろ >昔、部落差別の勉強会に行かされて、そこで講師が力説してた歴史が出雲被征服論だったな
>鉄の武器を持った神武に征服されて下層階級に貶められたのが部落の人達という内容
>
>ザラコクという奴も恐らくこれ
>畿内説を嫌うのは反差別運動のイデオロギーと結びついているからだよ
部落差別問題が絡んでいるから畿内説への反発が強いみたいだな 首都=伊都
女王墓=平原1号
代々の前男王墓=三雲南小路・井原鑓溝
五尺刀=有り
銅鏡百枚=有り(後漢は精密、董卓が洛陽破壊後の魏は型崩れの方格規矩鏡)
丹五十斤=有り(中国朱) 20世紀に見つかった大物主の倉庫
その起源をめぐっての勝負は
土器については東海
墓制と朱については阿波
が優勢
だがそこで勝ったとしても
邪馬台国には遥かたどり着かない
邪馬台国とは、魏と外交していた
鉄器国家であり、中国朱国家
伊都王を中心として3世紀の他地域を圧倒する出土品の数々 卑弥呼の100年以上前の107年に
倭国王帥升が160人もの生口を楽浪郡まで輸送している。
生口の監視官や護衛、
外交官達、
そして漕ぎ手もあわせると
数百人の人員を楽浪郡まで輸送しているわけだな。
ということは、
107年には既に、北部九州倭国の水軍は、
800kmほどの海上遠征を行う能力を有していたことが明らかなわけだ。 1世紀から2世紀にかけて瀬戸内海沿岸に高地性集落が立ち並ぶ。
・鉄原料は「全て」朝鮮半島からの輸入
・壱岐対馬ルートは伊都三雲南小路の王が支配
・淡路島に大規模鉄工遺跡が100年ほど存在
・完成品の鉄器の大部分が、北部九州を中心として使用されている。
三雲南小路の伊都王が朝鮮半島から鉄原料を一括入手して、
瀬戸内海を経て淡路島鉄工所へ運び込み、
瀬戸内海沿岸の高地性集落からの木材を燃料として、
鉄器を大量生産して、
完成品の鉄器を北部九州の本国に大量輸送して消費社会を築いていた。 魏志倭人伝には、倭人には大人と下戸の身分差があると記されている。
倭人が罪を犯すと家族と財産を没収されて下の身分に落とされる。
また、卑弥呼に仕えるのは婢千人。
卑弥呼死去に伴い殉葬されたのも奴婢。
では生口とは?
160人もの生口がどこからきたのか? 瀬戸内海を挟んで、
祭祀型銅戈が、九州と大阪湾の「両端」に出土する。
中国などの青銅産地に近い九州に比べて、
大阪湾の銅戈はやや小ぶりとなっている。
1世紀後半に銅戈が大阪湾に上陸開始して、
107年に生口160人。 当たり前の事実を羅列して嬉しいか?
顔真っ赤キナイセツが根拠レスバカ騒ぎwww
↓ ↓ ↓ >>847
>>846は適当に出まかせ言っただけ。 >>835
>根拠も何も三世紀末の伊都の衰退ぶりどーせつめいするんや
>都うつっとるやろ(どこかは知らんぞ
卑弥呼が死んだから衰退したんだろ。 平城京から平安京に遷都して
平城京が消滅したからといって
天皇家が衰退したのかん? 結局は北部九州に金銀財宝が出土し続ける
伊都が王都でないと言ったり
伊都王都が衰退したると言ったり
フハハハハ
他説がゴミのようだw 4世紀も5世紀も6世紀も九州北部は反映し続けているからな。 部落の起源は鉄の武器を持った神武が出雲系先住民を征服しことに発すると信じてる電波さんが差別反対のために九州説を主張してるスレがここなんですね >>860
>4世紀も5世紀も6世紀も九州北部は反映し続けているからな。
「白村江の敗戦当時」、九州北部に邪馬台国の都があった痕跡は? @阿波 >>862
九州説では神武は落ち武者で、都は伊都のまま。 >>861
平原遺跡は卑弥呼の墓。
卑弥呼の時の王都は伊都だが、その後は大王の代ごとに筑紫の各地に宮が作られる。
香椎宮、岡田宮、高良宮、香春宮、豊浦宮、老松宮、橘広庭宮など。 ということは
山王(宮)というのが大王なんじゃないの? >>859
フハハハハ
伊都王都説がゴミのようだw >卑弥呼の100年以上前の107年に
>倭国王帥升が160人もの生口を楽浪郡まで輸送している。
>107年には既に、北部九州倭国の水軍は、
>800kmほどの海上遠征を行う能力を有していたことが明らかなわけだ。
あの吉野ヶ里遺跡で人口1000人と言われているから、
男性が500人で、戦えるのが多くて300人かな。
瀬戸内や大阪湾だとまだ鉄器が普及していない集落。
男をかき集めても数十人程度。
そこに300人の鉄剣鉄刀装備、巴型銅器のついた盾を持った軍団がやってきたら
ひとたまりもなかろうて。 >そこに300人の鉄剣鉄刀装備、巴型銅器のついた盾を持った軍団がやってきたら
鉄鏃の弓も射ってくるし
現代でも脅威だな >>874
大勢って具体的にはどの遺跡の何人くらいの人々?
タコ殴りって素手?それとも武装してるの? 吉野ヶ里は環濠の中だけじゃなくて周囲の衛星住居も含めると数千人の国だったと言われているね。
男が全員出払うわけにはいかないから、戦で出征できるのは多くて100人くらいだろう。
倭国が旧百余国の集合体だとすると、
吉野ヶ里は大きい部類だとして、1国10人出したとして、
倭国全体だと10×100=1000人の軍団
1国30人なら30×100=3000人の軍団
鉄製武器と巴型銅器付盾を装備した1000人クラスの水軍が
船で自在に攻めてくる。 1世紀から2世紀にかけて瀬戸内海沿岸に高地性集落が立ち並ぶ。
・鉄原料は「全て」朝鮮半島からの輸入
・壱岐対馬ルートは伊都三雲南小路の王が支配
・淡路島に大規模鉄工遺跡が100年ほど存在
・完成品の鉄器の大部分が、北部九州を中心として使用されている。
三雲南小路の伊都王が朝鮮半島から鉄原料を一括入手して、
瀬戸内海を経て淡路島鉄工所へ運び込み、
瀬戸内海沿岸の高地性集落からの木材を燃料として、
鉄器を大量生産して、
完成品の鉄器を北部九州の本国に大量輸送して消費社会を築いていた。 >>876
石器しかない、船がない奈良盆地の辺境民にどうしろとw >>876
吉野ヶ里は、ほぼ弥生時代だけの遺跡でしょ? 阿波の矢野遺跡には到底及ばないですね。 @阿波 >>877
>完成品の鉄器を北部九州の本国に大量輸送して消費社会を築いていた。
北部九州本国の痕跡無し @阿波 >>879
吉野ヶ里は9世紀までの遺物がありますよ。
木簡も出てます。 瀬戸内海沿岸だと次々に攻略して支配下におさめる事ができる。
淡路島も孤立した島なので占領して鉄工所を建設運営できる。
しかし大阪湾だと、沿岸集落に攻め込んで略奪はできても、
定住しようとすると、
周囲の畿内集落からそれなりの数の畿内の人々が攻めてくるから
>大勢に取り囲まれてタコ殴りされ、惨死
となる。
そこで、
>石器しかない、船がない奈良盆地の辺境民にどうしろとw
内陸の奈良盆地の辺境首長と同盟したわけですね。
記紀にも書かれています。
畿内は統一国家では無い、集落の集合体だったので、
集落同士の対立を利用した。
白人がアメリカインディアンを攻略したのと同じ戦略です。 >>881
それは吉野ヶ里に限ったことではない。 @阿波 >>882
なんか、必死さが伝わってきますね。 @阿波 矢野遺跡は淡路島の目の前なのに鉄器を貰えなかったのか・・・
倭国水軍が定期的に攻めてきてモノもヒトも略奪されたんだろうなあ。
できることは、銅鐸を鳴らして一斉に山に逃げ込むだけ・・・ >>885
>矢野遺跡は淡路島の目の前なのに鉄器を貰えなかったのか・・・
君、初心者? 鉄精製遺構のことかな?
鉄器を作った跡はあるが鉄器が無い・・・
砂鉄をかき集めて鉄器を作ろうとしたということは
逆に言えば
朝鮮半島からの鉄素材を分けてもらえなかったということ
出土しているのが鉄鏃だけなので、
矢野遺跡とは北部九州倭人が一旦支配したものの、
何らかの理由で伊都王と戦争状態に入って、
鉄素材の入手を断たれ、
砂鉄から製鉄しようとして失敗
領内の鉄器をかき集めて鉄鏃に転用しつくした
つまり、倭国大乱にて南の狗奴国側につき、
伊都邪馬台国と敵対した集落ということになる >>887
なんか、必死さが伝わってきますね。 @阿波 >>883
九州の多くの遺跡が弥生時代から続いていますね
博多の地下とかも弥生時代から現在まで連続した遺跡が在るんだよな。 >>890
>九州の多くの遺跡が弥生時代から続いていますね
阿波みたいに縄文時代からじゃないんですか? @阿波 >>848
出雲被征服説を邪馬台国を通じて力説しているのが九州説だったのだね
部落解放運動のイデオロギーの一つになっているから、変なのが湧いてくるわけか
そういえばザラコクのジジイも皇国史観を異常に敵視していたり、特殊な思想性を感じさせるレスをしてるな >>894
出雲の国譲りは説というより、古事記神代の巻のハイライトじゃん。
太安万侶にでも文句言ってくれ。 >>840
あーそーか(勘違いしてたんわえやったの(これダックのレスか
つまりダックは卑弥呼さんまでは伊都でイヨちゃんからは福岡市に都が移ったがどちらも広域邪馬壹圏の範囲内ゆーことか? >>890
紀元前からずうっと大都会のまま連続しているわけですね。
当然魏志倭人伝の里程と日程の目標点でもあります。 あいかわらずダックは頭がまわるのー(平原衰退問題いいのがれたか^^
でもって神功こーごー不倫の場に古墳最初期の集落遺跡があるかどーかは別として景行くんは大和から攻めてきたん?きゅーしゅーから攻めてきたん? >>849
部落理論だと、部落の民は古来からの出雲族であり、
天皇はニギハヤヒが治めていたヤマトの地に征服者と
して君臨した存在ということになる
zarakoku氏の説を注意して読んでごらん
あれは紛れも無い部落理論だよ 平原は墓なんだから衰退しようもないでしょ
伊都という地域が衰退ならわかるけど
岡上氏と以前議論したけど
魏使は伊都までしか来ていないんだから(奴国工房群や大都会の描写なし)
台与は伊都で張政と会見したことになり、
政情不安の台与に檄を飛ばしてるのだから台与は遠出は出来ず
伊都もしくはその近くにいたことになる >>903
そーなんか?1ごーぼが副葬品凄かったはずやけど?それいこーもまけてなかったん? >>904
にてるけどアヒルと鴨だしちゃうんちゃうか?(まあどーでもええか^^ つーかどこに誤爆してたかやっとわかった
エッチ板ちごててなぜかほっとせし(いっくけんじょー >>906
鴨を家畜化したのがアヒルだから元々同じ。 畿内説のパターン
・どうせ魏志倭人伝なんて解読出来ないから言いたい放題だぁ! と思って妄想しまくる
↓
・それが解読されちゃう
↓
・畿内説メッチャ困っちゃう
↓
・ジイさん疑似科学に走る ←イマココ 千数百年の時空を超えて
卑弥呼様がわざわざ示してくださっただろ
博多駅前の陥没地点
あれこそが邪馬台国の基準点
>一万二千余里
鬼道=原始神道の神通力で死者はおろか負傷者ゼロで示してくださったんだ
記紀にも倭人伝にも示された我々全ての基準点
いい加減に目を覚ませ >>912
へへーおそれいりたてまつりますー
はかったこはらーめんまずいのなんとかせー どのスレやったか忘れたがタケウチスクネが倭国王いうてたのレスのソースなんやろ(教えてください >>913 をてーせー
はっかたこ ×
博多っ子 ◎ >>914
武内宿禰は東国から朝鮮半島まで領土拡大戦争をした、ヤマトタケルのモデル。
そかをはじめとする27氏族の祖である。
筑後国一宮高良大社(こうらたいしゃ)の祭神である高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)は武内宿禰と同一人物であるとの説があり、同じく祭神である住吉大神(すみよしおおかみ)も息長帯比売と関わる部分では武内宿禰を示していると言われている。
高良大社のもう一柱の祭神である八幡大神(はちまんおおかみ)は息子の誉田別(応神天皇)である。
筑前国一宮住吉神社および豊前国一宮宇佐神宮も誉田別と息長帯姫をあわせて祭っている。
肥前国一宮としては與止日女を祭る河上神社と誉田別らを祭神とする千栗八幡宮が並び立ち、一宮の位をめぐって争いがあった。
まさに九州北部は武内宿禰とその一族の国となったかのようである。
景行天皇は九州北部を征圧して倭国王となったが、その末裔である仲哀天皇とその皇子は武内宿禰と息長帯比売により殺されて王統が滅んでいる。 ちなみに倒された仲哀天皇は、宮を山口県の穴門豊浦宮と福岡県の香椎宮に置いていた。
香椎宮入りするときには、筑紫岡田宮と伊都高祖宮の王の承認を取り付けていて、九州北部を代表する倭国王となっていた。 >>916
九州王朝と神功さんの不倫が前提かー(なんともいえんなー(ありそーななさそーな >>917
ん?916よみ間違えたんか?ダックは景行くんが関門渡ってきたと考えとるん?(わえは迷ってる 関門海峡は渡って来たが、どこから来たかは不明。
もともとは筑紫の都にはいない分家(別け)であった。
本名は大帯日子忍代別。
筑紫倭国を征服後は豊前に居ついた。
彼の王家もまた武内宿禰により征服されてしまう。
九州北部における度重なる王統をめぐる争いは、まさに記紀や魏志倭人伝にある倭国の姿だ。 じーちゃんが東征して事後処理終わって本国へ凱旋帰国。
たまたま狗奴国が久留米を奪還していたので帰還ついでに討伐。
山口から京都郡へ入るから経路としては関門海峡を渡っていない。 ああ、そういう意味ね。
確かに関門海峡は通ってないか。
本州側からやって来たという意味で書いたが、正しくないか。 様々な古文献2000箇所。
記紀にすら数箇所、大和朝廷が
制定していない年号が見つかっている。
大和朝廷以前に年号や郡評制の
制定できる政権があったってことだね。 地域名で以前の政権で評、
大和朝廷で郡が制定されたが
太宰府近傍で見つかった戸籍は
7世紀終末期で評の記載だった。
8世紀の701年に大和朝廷が発足し
郡になる直前の時代である。 >>925
九州年号(倭国年号)は鶴峰戊申が、邪馬台国=熊襲説(倭の五王も熊襲の王とする)を述べた著書『襲国偽僣考』のなかで、それらを熊襲の年号として考証したものである。
古田武彦の『失われた九州王朝』で再評価された。
史料はこのほかに『二中歴』『海東諸国記』などがある。
日本各地の寺社の縁起や地方の地誌・歴史書等には私年号(逸年号。朝廷が定めた元号以外の年号)が多数散見される。
九州年号(倭国年号)が制定された理由としては、南朝との交流が502年の梁への朝貢で最後となり、冊封体制から外れた為に自前の年号が必要になったからと考えられる。
また倭のライバル高句麗では391年に好太王(永楽太王)が永楽の年号を用いており、倭や高句麗に従属させられていた新羅でさえ536年には建元という年号を建元している。
554年には、百済より暦博士が来日しており、隋・唐代には天子を自称していた倭の大王が通説のように701年まで年号を定めなかったことは考えられない。 >>928
そういう意味じゃなくて
591年を「法興」元年とする文書が見つかってて、それを九州年号だと言ってるけど
明らかに飛鳥の飛鳥寺(法興寺)の建立にまつわる年号だからな
九州ぜんぜん関係ない
奈良の中で、大宝以前に使われていた年号というだけ 大和王権の年号としては大宝からだけれど、それ以前にずっと大和王権以外の政権がたくさんの年号を使っていたことが多数の文献からわかる。
それを制定したのは倭国政権であり、大和王権とは区別されなくてはいけない。 多くの寺院が筑紫倭国の滅亡後に奈良に移築されたという説があり、仏像なども同様である。
白凰文化の名前の由来である白凰も、大和王権の年号には存在しない。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 倭の五王系の王朝が断絶して、継体天皇が立ったときに年号も立てたんだろう
それが7世紀に入り、
その継体系の王朝が蘇我氏に乗っ取られて断絶し、
蘇我氏から王位を取り戻すために「大化の改新」が起きたり、
または朝鮮半島の戦乱に巻き込まれて白村江で大敗して九州が唐に占領されたり、
7世紀のもろもろの大混乱の中で、ついに壬申の乱が起き、
畿内が天智系と天武系に分かれて争い、
両者が協力を約束し、
やっと701年に「日本国」としてまとまって行くことになったと
で、そのとき改めて、年号がリセットされて、
「大宝」を初めての日本全土の統一的な年号としましょうというように決めた
そういうことでしょ
「九州年号」というけど、九州関係ない
「継体天皇系年号」と言うべきだね >>931
蘇我氏が建立した飛鳥寺(法興寺)の完成を記念した年号だからだろ
九州年号ではなく蘇我氏年号とでも言い換えるべきだな >>932
移築は無理がある
掘り返して解体して運んでまた組み立てるよりは
イチから新しく建てたほうが早いだろう 九州北部の倭国と、畿内の日本国は区別しないと。
国号も違うわけだし。 >>934
蘇我氏が乗っ取ったとはなんのことだっけ?
くわしく。 ちなみに継体天皇は、即位以前から百済から贈り物もらってるからな
青田買いだよ
「こいつが次期天皇になりそうだから、今のうちからツバつけておこう」という
継体の即位ってのは日本書紀にいうような「後継者がいなくて急遽探してなってもらった」というようなものではない
継体は即位前から百済とつながってて、当然即位のためのバックアップも百済がしただろうし
そのとき大陸文化(=年号)の概念も知り、取り入れたんだろう 旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。
新唐書
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。 >>937
ちがうよ
畿内の倭国と、畿内の日本国
どちらも本拠地は畿内
だから壬申の乱で畿内同士で争ったんじゃん
蘇我氏との権力争いも畿内同士 >>939
継体天皇はもともと北陸の王だったわけで、そこは大和王権の支配地域ではなかったけれど、親族だったので後継に抜擢されたんだろ。
筑紫は北陸を含めた日本海沿岸に勢力を持っていたから、即位前から筑紫倭国は継体天皇の目の上のたんこぶだったんだよ。 >>941
ちがうよ
倭国は「阿波」 日本国は8世紀に阿波から遷都した「奈良大和」 @阿波 筑紫の倭国と、筑紫の日本国
どちらも本拠地は九州
だから壬申の乱で九州内で争ったんじゃん 九州の倭国と、畿内の日本国
だから壬申の乱で争ったんじゃん 継体天皇の即位前の大和王権は、九州も北陸も支配権が及んでいなかった。 >>946
>継体天皇の即位前の大和王権は、九州も北陸も支配権が及んでいなかった。
そもそも、大和王権は8世紀文武天皇から。 @阿波 >>936
倭国(阿波)には、すでに幾つもの飛鳥寺院が建っていた。 @阿波 >>947
壬申の乱が政権交代によるゴタゴタなので天武天皇からでもいいが、全国支配の体制が整ったのが701年。 >>940
同じ旧唐書には、ムハンマドは獅子に案内されて洞穴の中の武器を見つけて展開取ったと書いてあって、コーランと全く違ってますが、そんな書物を絶対視していいんですかねぇ?
天子ガブリエルが獅子になってるし洞穴で武器ってどのように伝聞されるとそこまで話が歪むのか訳わからん
ヤマトの話も神典のように絶対するのは馬鹿げている 旧唐書を読んでみなさいよ
本当にムハンマドは獅子に導かれた事になってるから
その書物に日本は倭国を併合したと書いてあるんだよね
あまり信用ならないね
正しいかどうか確認せず、伝聞をそのまま書いたという感じだなぁ 継体天皇の即位以降、阿蘇ピンク石が畿内に献上されるようになるわけだろ?
継体が九州の大部分を支配し、北部九州にプレッシャーをかけたから
筑紫王磐井は乱を起こしたわけじゃん
それに磐井は負けて、御家断絶こそ免れたものの、領土と権力を失ったと
その時点で「九州王朝」としては終わってるんだよね
だって、白村江の時点で、筑紫王の姓は「磐井」じゃなくなっちゃってるんだから
で、阿蘇ピンク石の献上は推古天皇(墓に使用)まで続き、つまり蘇我氏の衰退とともに献上されなくなる
継体〜推古(蘇我氏)までが一連の王統で、
その後の聖徳太子が天皇になれなかったように、
そこで王統が終わる >>953
阿蘇ピンク石だけでよくそこまで空想できるもんだ >>950
コーランがなんらかの理由で書き換えてあるかもしれないだろ。
天使はよく知らんが、ライオンを追って洞窟の方が史実に近くないか? >>953
>それに磐井は負けて、御家断絶こそ免れたものの、領土と権力を失ったと
継体天皇も勝てたとはいえ、九州で手に入れたのは屯倉一つだけ。
畿内王権が九州で初めて手に入れた屯倉とある。
その他の広大な領土は引き続き磐井の息子が筑紫の君に即位して継承している。 >>953
長門石が久留米にあるから継体天皇も久留米辺りにすんでいたんだろうな
九州王朝内の内乱だな。
畿内の豪族も九州出身だったので墓石に阿蘇ピンク石を使ってたんだろう。 九州の豪族が畿内に東遷して畿内に都を作ったんだろ?
日本書紀の通りじゃん >>938
「天皇記」「国記」は大化の改新の際に蘇我蝦夷の邸宅が焼かれたときに焼失した、と日本書紀に書かれてる
「天皇記」「国記」は蘇我の邸宅に保管されてたわけだ
王家の歴史書が蘇我氏の手元にあった その前に蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺した
在位中の天皇を家臣が殺したのは歴史上このときだけ 蘇我一族の国記や天皇記も、奈良時代の古事記と大して変わらん書物やったやろ
その証拠に先代旧事本紀(物部伝承)や古語拾遺(斎部伝承)も大まかな筋書きは記紀とおんなじやんか
蘇我一族の国記が東日流外三郡誌みたいな訳あらへんもんな 蘇我氏の天皇記にアソベ族やツボケ族が登場するのかと思うと胸熱だな(笑) 蘇我氏は九州王朝の重臣だろ
九州王朝から畿内日本国に派遣されて天皇を使って間接統治してたんだよ
戦後のマッカーサーみたいなもん
畿内日本国は九州王朝の属国だったから蘇我馬子は好き勝手振る舞えたんだけど
好き勝手やりすぎて反感を買って滅ぼされた ちなみに崇峻天皇暗殺の実行犯は東漢直磐井
旧筑紫王である磐井の家系の人間
九州王朝重臣の蘇我馬子が旧筑紫王の分家である東漢直磐井に命令して日本国天皇を殺害したわけだ
構図が見えるだろ? 九州勢力である蘇我氏をバックにつけた推古天皇の墓に阿蘇ピンク石が使われた理由もわかるだろ
「大化の改新」というのは二度の事件を合わせて言ってるんだよ
第一の事件は645年に蘇我入鹿、蝦夷を滅ぼしたこと
第二の事件が真の「大化」で、旧年号の「大化」元年である695年に九州王朝を滅ぼしたこと 7世紀は九州王朝vs畿内天智派vs畿内天武派の三つ巴の権力争いだと思えばいいよ
「日本国」を名乗ってたのは天智系だね
で、その天智系が701年に天下を統一して、改めて「大宝」建元したというわけ >>975
悪い
実行犯は駒
その駒の父親が磐井
旧筑紫王家の分家 天智が韓人である事に間違いない
ネトウヨが崇めてる天ころは在日なんだよね
この矛盾を突くと何故か激怒する低脳ネトウヨ >>973
つまり645年の第一の革命で畿内の九州勢力を叩いて追い出し
695年の第二の革命で九州本国を叩いて滅ぼした、と
これをもって対九州の革命が成就したが、まだ畿内の内部で天智派と天武派で統一できていなかった
701年に畿内も統一され、大宝建元となったと >>979
白村江は畿内勢力も含めて倭国として参戦している。 名前が磐井なだけで磐井家と関係があるかどうかは分からないだろ
そもそも東漢氏は渡来氏族とされてるからな >>980
前線から遠く離れた朝倉の宮で何してたんだろうな? 渡来人の支配
歴史を通じて、戦後まで半島に土着勢力による政権が存在したことは一度もない。
箕子朝鮮:中国人
衛氏朝鮮:中国人
新羅:秦人(中国人) 日本人
百済、高句麗:扶余(中国少数民族) 日本人
高麗:中国人
李氏朝鮮:女真族(中国少数民族)
朝鮮総督府:日本人
終戦後:アメリカ人 695年に起きたことを645年に書き換えたんだろ。 同じ平原遺跡から
世界最大まで「進化した」大型内行花文鏡と、
後漢鏡よりも「退化した」方格規矩鏡が
同時出土。
どっちも国産にすると、技術が上がったのか下がったのか意味不明だろw
大型内行花文鏡は北部九州伊都で発達して、
それが日本国内で東方にも拡散した。←畿内説ガチギレやばー
方格規矩鏡は董卓が焼き払った洛陽に魏が都を戻して
生産再開されて間もない頃のまさに魏鏡。 青龍三年の方格規矩鏡がでてるからな。
方格規矩鏡は1世紀の鏡と言われるが
紀年が正しければ卑弥呼の時代まで、
糸島で多く出土した方格規矩鏡が
作られていたと判断できるし
紀年が間違いなら、他の紀年鏡も
間違いの可能性が高まるわけだ。 新天皇となる皇太子さまが初めて執り行う新嘗祭(にいなめさい)「大嘗祭(だいじょうさい)」について、
宮内庁が平成31年11月中の具体的な日取りを14〜15日と23〜24日の2案に絞り、検討を進めていることが8日、分かった。
近世までの慣例と例年の新嘗祭の時期を考慮し、両案に集約された。今後、政治日程などとの兼ね合いを含め、政府とともに調整する。(産経新聞)
また、忌部はん 慌ただしくなるね。 @阿波 >>989
>方格規矩鏡は1世紀の鏡と言われるが
中国では漢〜魏晋までポピュラーでしょ つまり平原遺跡が卑弥呼の時代の女王墓なんだよ。
いや、卑弥呼の墓なんだよ。 斎部の役割は中世になると仏僧に奪われて
消滅しました
天皇の即位灌頂は江戸時代の終わりまで
密教で行われています >>996
後漢滅亡後に作られた鏡が証拠だよ。
平原遺跡が卑弥呼の墓。 >>984
蘇我が695年まで生きてたとは考えられないよ
やっぱり蘇我は645年に死んで、そのあと695年に政治的な何らかの革命が起きた このスレッドは1000を超えました。
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