邪馬台国畿内説 Part301
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1510935096/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。 ◆7−2
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古ー 河内庄内W〜X ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、
メスリ、行灯山、祇園山
◆11 本文のサマリー
===========================================
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
よって、倭人伝の里程にも「南」という方位にも、致命的な誤りが含まれていることに疑問の余地がない。(※)
具体的には、三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて「南至邪馬壹國」の「南」にも錯誤を認めない限り、倭地は会稽はおろか許都ほどの南としか認識出来ないことから、倭の中心地が「會稽東冶之東」と記述されることは有り得ない。
或いは、東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※ 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里
楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里
南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪起点として、会稽より稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BV型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BW型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絕二千里。
(精絕國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與罽賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蟬県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ41,60に加筆 >>57も論破されているのにまた揚げてる
キチガイだなw >>59
いつ、どなたにでしょうか?
荒らしは歓迎しません。
前スレ終了後に投稿ください。 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
−弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。 邪馬台と書いてヤマトと読む。
倭と書いてヤマトと読む。
つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
魏志にある女王国もまた同義である。
卑弥呼の称号は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王(親魏倭王)である。
倭国は稲作伝来の地である玄界灘沿岸に成立し、対馬海峡の交易により発展した海洋国家であり、海人の国を意味する「天津国」とも呼ばれた。
生活の基盤が次第に漁撈から稲作と交易にシフトすると博多がその中心として発展したが、卑弥呼の時代には王都は博多からやや離れた伊都国に置かれた。
倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。
漢の時代に金印を授かり冊封され、女王卑弥呼の時に魏から冊封された。
倭国においては筑紫の他に、豊国、肥国などの有力な国があり、魏志によると東の海を渡ったところにも倭種つまり出雲や近江、越など日本海沿岸に国が続いていた。
畿内は京都も大阪も奈良も、沼地であった。 >>1 乙(くなこく説明のテンプレ長すぎ(よーこぴぺするな^^ こんどこそしばらくじゆーになった(いちにちへったが(なみだ
いまから明日の晩まで24じかん+αたいせーであらしたるからかくごせー(自信はない 300の>>789
>島の反対側って、一辺なのか二辺なのか分からんのに なんで倍にする?<
原則は、人類の常識に拠って、
出来るだけ最近接地点に近い港に上陸し、
出来るだけ(山島の中の)平坦地に近い海岸沿いに進み、
また次の国への再近接地点に近い港から出航する事になるから。 >>790
>なんで同じ行程を再度説明しなおすんだ <
魏使らは、
また後続の遣使や商人や兵士らが移動してくる時のために、
里数だけではなく、所要日数も記録しておく必要があったから。 >>73
それ、700里でも1400里でも読む人が自由に選び放題ってことでは? 300の>>792
>>やはり、わざわざ記録され、国内見聞移動もした事が記録された国の大きさを、
行程距離にプラスしないこの男や大和説者らの、頭の中はおかしいな。<
>なんで末盧国は記録もしないで足しもしないの?<
到着港と出発地点の距離が、
(おそらく五十里以下で四捨五入しても百里にならない位)短かったから。 300の>>794
>そのまま続けて読むと何が変なんだ?<
萬二千余里が不彌國で殆ど終わってしまっているから変だし、
投馬國へは「途中の移動を示す動詞がない」から変だし、
里数で書いて来たものを突然日数で書いた事も変。 >>80
要するに九州説に都合が悪いから
不彌国から次は続けて読むなという事だな 300の>>796
>そんな奇妙な説明、これまで誰か、したことあるのか?<
魏使らは記録する必要があったし、
陳寿は、魏使らの記録をまとめただけだろ?。 300の>>796
>そんな奇妙な説明、これまで誰か、したことあるのか?<
魏使らは記録する必要があったし、
陳寿は、魏使らの記録をまとめただけだろ?。 300の>>799
>目的地までの距離と 目的地までの時間と
両方わかる「行程の説明」って今まで誰か書いてた?<
おそらく、魏使らが書いた。 300の>>803
>北西端に着いて東南端から出発するのか、北西端に着いて南西端から出発するのか
わからないじゃないか <
原則は、人類の常識に拠って、
出来るだけ最近接地点に近い港に上陸し、
出来るだけ(山島の中の)平坦地に近い海岸沿いに進み、
また次の国への再近接地点に近い港から出航する事になるから。 >>85
そんな変な解釈を押し付けられてしまった被害者は、ほかには居ないんだね?
それは、よかった 大体不彌国から投馬国に移動を示す動詞がないと何なんだよ
投馬国にどっから水行して辿り着いたらいいんだよ 300の>>807
>分かる必要あるの? 面積としたら壱岐と対馬の比率が全く合わないんですけど。<
一大國は、壱岐とその周辺の島々も含む範囲。
對海國は、「海に對する国」だから、
おそらく浅茅湾の両側地域で、南対馬に大きくかかった地域であり、
南北対馬の全体ではない。 >>90
だからさー
「移動を示す動詞」とか、誰が決めたわけ?
アホ言い放題じゃないか >>91
自分の説に合うよう、好きなようにカスタマイズ出来るわけね
それってインチキだよ 300の>>808
>FAQ 60にある ・・・<
これは、連続行程記事ではなく、個々の国の「四至」表現での所在地説明ではないか。 >>92
ザラコクが言ってたからどんな言い訳出てくるのか聞いてみたいよ本人から 300の>>809
>分からなきゃ300里を足すのか600里を足すのか 分からない<
人類の常識に拠って、原則は、
出来るだけ最近接地点に近い港に上陸し、
出来るだけ(山島の中の)平坦地に近い海岸沿いに進み、
また次の国への再近接地点に近い港から出航する事になる、
と判るから、よい。 Part300 >>975
>呉の(姫氏の呉王夫差の)関連で
倭人伝に書かれている夏后少康之子の文身は荊蛮の地の越族の風習で
姫氏の夫差は文身とは関係が無い
会稽の東に大国の島などないことは孫権の探索失敗でわかっている >>97
その常識なるもんが怪しいって
なんで気がかんのだろ 300の>>818
>女王之所都が邪馬壹国の説明だろw<
それは構わないが、「水行十日陸行一月」は、
その直前の「女王之所都」への日数説明になっており、
「自郡至女王國萬二千餘里」の日数にもなっている。 300の>>822
>そんな結果だけ口先で言われても信用できない どうやって出したか聞いている<
Yahooでの議論は膨大であって、とても全部は一回では説明し切れない。
一個一個の里記載を提示してみな。 伊都國は郡使往來常所駐だから魏使が来たのは確実
奴國と不彌國は伊都國から百里で近いから行った可能性はある
その他は実際行ってないで伝聞だから里数ではなく日数で書くしかないともとれる 300の>>824
>「幾つもの記載例」って、なに? <
Yahooでの議論は三国志全体で膨大であって、とても全部は一回では説明し切れない。
韓伝や倭人伝でなら、方四千里や七千里や渡海の各千里や五百里だ。 テンプレいろいろわらいどころ満載やがとくに
霊的威力者てなに? 300の>825
>その女王之所都が邪馬壹国にあるんだろ なにを言ってるんだ <
邪馬壹國の中に女王之所都があって、別の概念であり、
邪馬壹國の入り口に至る事と、女王之所都に到着する事とは別だ。
「水行十日陸行一月」は、
(邪馬壹國の説明ではなく)その直前の女王之所都だけの説明だ。
全く、なにを言ってるんだか。 300の>>827
>あなたが昔Yahooでなにを喋ってきたか知らないが
私たちはそんなこと、なにも知らないから <
だから、知りたければ、
三国志の「里」記載の一つ一つを論点に出せばよい、と言っている。 300の>>828
>>>>(尚方作)魏朝などの「皇帝の工房」を騙った事がバレれば・・・処罰されて首が危ないもの<
>>>あなたの空想だろ?<
>>お前も、造幣局の貨幣の偽貨幣や、印刷局の紙幣の偽紙幣を造って、使ってみろ。
バレれば、まあ、失職失業だな。<
>やっぱり、あなたの空想だった(笑<
何だ?。「尚方作」鏡を偽造しても、首切りされない、っていうのか?。
どこの国の話なんだい?。
名前は忘れたが、まるで、安部政府の先の女防衛大臣の話みたいだな。 プラズマせんせーのじゃまになるかのー(くーきよむか(うそ 300の>>829
>移動動詞って何?誰が定義したの <
誰も「定義」などしていない。
陳寿の行程記載方法での史料実態の説明文言。 平原の高麗剣の置き方からすると首を切られた可能性はある >>110
>誰も「定義」などしていない。
じゃ、古田がテキトーに考えたの? 300の>>830
>じゃあ「尚方作」と書いてある三角縁は魏明帝の下賜鏡でいいんだな?<
そりゃダメだ。
中国や楽浪でも「尚方作」鏡が出土していて、
漢朝や魏朝や蜀朝や呉朝の「尚方作」であった可能性があるが、
三角縁神獣鏡自体が列島以外では楽浪でしか僅かな可能性がなく、
楽浪の三角縁神獣鏡での「尚方作」鏡があった、としても、
明帝の下賜鏡であった可能性は殆どない。 >水行二十日、>陸行一月
後の世の倭人に読んで貰うために書いた伝記でもなし
密林のアマゾンみたいな「未開の地」である事が読み手に伝わればソレで良かったんだろう。
たかが倭人伝(東夷伝)の記録にそんなにスペースは裂けない。
魏人にとって邪馬台国への道程についての細かい描写なんかドーでも良い事なんだろうし、、、 300の>>841
>魏志から「1里約76〜77m」が出ると言っていたのが 嘘と判明しました <
韓の方四千里と七千里と各千里と五百里だけでも、出発点と到着点を論理的に説明して、
1里が平均大体何m位になるか?の計算をしてみろ。 300の>>342
アンチ九州説の、「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つきダマシの大和説者は、
無学で帰納的確率的推論が判らず、
何でも曲解断定してヘイトスピーチ街宣をする・・・・ケダモノサギシだから、
話が通じず、困る。 霊的威力者てなんや?の問い掛けはスルーかいな(佳子すれで議論ずみ? >>118
>理由は?
柳田の論文に、詳しく書かれている 300の>>849
順次式に行き着いた最終の場所が女王之所都で、
邪馬壹國の中に都があるって、
ごく普通の説明を、
大和説者は、どうしてこんなに混乱できるのか?。
そりゃ、「南→東」などの嘘吐きダマシの・・・・アホのサギシだから。 300の>>850
嘘吐きダマシの・・・・アホのサギの曲解の果てが、大和説。 畿内説派は先ず畿内ありきという考えを捨てて魏志倭人伝をしっかり読み込むということを勧める
因みに現代中国語を勉強すると魏志も原文のまま読めるようになるよ ぎぼあいこさんひきあいにだそーおもたけどなくなってたか(菊をささぐ
つーか日本人の9割がたあーいう人にはうさんくささを感じるんじゃね?
よってテンプレのれーてきいりょくしゃがきょーりつされたアイデアは却下されました(意義ある人は挙手せよ 300の>>855
>変な分岐をする類例がないので <
確か?、古田さんは、「穆王が西王母に行く行程」で側副傍線行程の記載があった事を紹介しておられた。 300の>>876
>魏使は卑弥呼の墓の施工から完成まで見届けていたわけではない。
伝聞であろうから奴婢の話まで付け加えられた。
そこまできっちり魏志の記述を信用してはいけない。<
これも同じ。
伝聞で「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」と書いて、
従者仲間から嘘がバレれば、
記録役人の首が飛ぶ。 異議なしと認めます
よってひみこさんは公平な抽選装置すなわち占いの達人にけってー^^ ひみこはんはつくしやなー(なんとなく(あまてらすやらすさやら 誰の話なのかわからないけど、
トトロが正解だよ。
確か、このような話だったでしょ、
漢文などを取り入れ、勉強して、覚えたという話
その後、役人になったのかな、官職を貰ったり?
縄文人、先住民の話なのかな >>131
だっくはくーきよめ(わえがあらしちょるやろ 300の>>895
>大和説者なんていないから ザラコクには永遠に分からないと・・<
七万戸では大和盆地に入らないから、
大和説者は、「大和説→畿内説」と嘘吐きダマシの呼称改竄をこっそりしたので、
畿内説者は、自分らが・・・・アホのサギシに見られている事が永遠に判らないと・・・。 【平原遺跡】
福岡県糸島市にある平原遺跡は大量の中国朱が外に流れ出したことで発見された。
1号墓は東西径13m、南北径9.5mの方形周溝墓。
割竹形木棺は長さ3m。棺底に厚さ4cmの青粘土。その上に朱を敷く。槨なし。
出土物は瑪瑙管玉12個、ガラス管玉30個以上、ガラス小玉約500個、ガラス連玉約886個。
ガラス勾玉とガラス丸玉約500個、方格規矩四神鏡32枚、内行花文鏡2枚、超大型内行花文八葉鏡5枚、虺龍紋鏡(きりゅうもんきょう)1枚(舶載鏡は前漢鏡1後漢鏡1だけ=籠神社の伝世鏡と同じ組み合わせ)。
耳璫(じとう)片3個。
長さ5尺(80.6cm)の素環頭大刀1本(卑弥呼が魏からもらった5尺刀か)。
隣接する2号墓と周溝を共有し、周溝の一部からは10名の土壙墓が見つかり、全体では約100名の殉葬があったと推定されている。
周囲に18本の柱穴があり、うち2本は日向峠に向かう鳥居と推定されている。
超大型内行花文鏡が後漢との交流が途絶えた後に独自進化したものであることから、平原遺跡が作られたのは倭国大乱後と考えられ、卑弥呼の治世である。
超大型内行花文鏡は直径が漢代の二尺(直径46.5cm)であり、円周はちょうど八咫(あた)であることから、王権の象徴である八咫の鏡(やたのかがみ)と考えられる。
伊都が文字通り倭国の都であったであったことがわかる。
女性用の耳璫があったので、被葬者は女王である。
つまり、平原遺跡は卑弥呼の墓であると考えられる。
・柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」
(糸島地域p178)
「二世紀前半ともいわれている平原遺跡は、その年代に科学的な根拠は全くない。
瑪瑙や琥珀の玉類は別にしても、四二面のうち最も多い方格規矩鏡の中に、方格内の銘や小乳もなく、八像も簡略化され、玄武が釣針状の蛇だけになったものがある。
このように簡略化された方格規矩鏡は三世紀代に下がるものと思われ、鏡からでも三世紀前半まで下げて考えなければならない。
周溝から鉢形の土器が出土しているが公表されていない。」
・柳田康雄「弥生時代王権論」2013
(p317)
「拙稿のように32面の方格規矩四神鏡を含めて38面の製造技術が164年(『延喜七年』銘獣首鏡)以後、235年(「青龍三年」)銘方格規矩四神鏡)以前に見られる鋳造・研磨技術である」 三貴神(子)の系統の話なのかな、
何の話なんだろう ひみこはんはなー公平中立にさいころ振りまくって王様たちの利害を調整したんや
うけいのたつじんやろ 300の>>898
>墓の施工から完成まで見届けてたわけがない。 そんな暇な使者はいない。<
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」だから、
墓造りもある程度見たし、埋葬も見た。 300の>>900
>言語なのだから、どちらかを先に書かざるを得ないからね。
順次式に読む根拠はないよ。<
そりゃダメだ。
日本語も含めて、全ての言語は、
必要な文言を順次式に並べて行って、
意思疎通や情報交換が出来る文を構成するものだ。 中国では耳璫はもともと非漢民族の雲南やミャンマーの風習で
釈迦像も大きな耳璫をつけているから平原は女性とは一概には言えないな
インドとミャンマーの間に住んでるナガ族は首狩族だな つぶやきせんせーはおつきさんのおはなししたいんかのー
しゅつげんたいみんぐやでんぱがもーひとりのせんせーとみょーにかぶる 300の>>933
>会稽は北緯30°以南で、九州はもっと北<
会稽東治は北緯30度の南北位で、それの「ほぼ東」は、九州でほぼぴったし。 300の>.942
>九州が北緯30度以南だってのはナンセンスだが
「会稽東治之東」が 沖縄や台湾の近くだというのは通説<
「会稽東治≠会稽東冶」だから、通説が✖。 初期の前方後円墳は元は唯の円形周溝墓だったんじゃないかな。考古学者はちゃんと仕事をして調べて欲しい。
卑弥呼の墓。
卑弥呼の出身母体が後々まで勢力を保てていたかだな。
早々に掘り返されて、王統を示すものを奪われた可能性もあるし。
年代の一致する破壊された円形周溝墓も候補になるかもしれない。 >>141
璫には様式が様々あり、平原のものは魏の頃に流行した女性専用のもの。
卑弥呼は海外の流行に機敏な女性だった。 >>148
さいころは確率ぶらっっくぼっくすのしょーちょーや(草はやすな >>149
ひみこはんはひらばるでええよ(
だっくのかちや(
じゃがもんだいはイヨはんの都たるジャマイカなんやろ(
わえはどーでもええとおもっとるが(くなこくのぼーちょー史
のほーがじゅーよーじゃね? こーこgくてきにくなこくの歴史をけんきゅーしてた >>1 もレスせーや(なんなら別きゃらつくれ よねざわはさむそーということでやめたらしー(おんせんけんさくはじめた かげとらて春日山とおもてた
つーかよねざわて何県なん? くなこくが東征して大和政権になったということですね(了解しました ひでよしあほやなー(かすがやまのままやったらひでより殺されへんかったやん(てきとー >>156
なんかいかはっぴょーしましたがとーせーのけっかジャマイカとクナが建国したとおもうのです 300の>>947
>「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの、直接的な提示や引用ってなんのこと?
ゴテゴテ修飾ばかり書いてるけど、具体的にはなんのことなの?<
「史料事実や史料実態の直接的は提示や引用」の事。
しかし、「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・ケダモノ詐欺師の、
「口先騙しの質問責め」論法は、人間ではない・・・・だから、
相手にしない方がよく、もうかなりの投稿を放置しておいたよ。 ちらりと福井県の温泉すすめたが即却下(はいはいすきにしなはれ 300の>>950
アンチ九州説の大和説者らの、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの投稿には、
具体的な中身がなく、相手の話に知らん振りしての「言葉尻切り取り質問攻め」の‥‥アホ詐欺投稿ばっかりだから、
放置すべきだね。
スッカスカ >>156
都萬国(渡来系(いわゆる天津神)/宮崎)と豊国(出雲王家の分流/宇佐)が連合王国を形成して
共に畿内(蘆原中津国/那賀の国)を攻略せんとして出師した矢先、豊国(宇佐)女王の豊玉媛命(=魏史のリアル卑弥呼(倭国女王を潜称して魏国を騙した))が安芸の宮島で死去。(宮島に葬られる。後に宇佐神宮に媛大神として祀られた) つきがーでたでたーつきがーでたーーあよいよい
めだたぬ神様(よるも航海したんやろなー 300の>>976
>陳寿は「聞其舊語、自謂太伯之後」をカットしたんだから
その考えは間違いだな <
陳寿は、魏使らの記録に「聞其舊語、自謂太伯之後」の記載がある事を知っていて、
「会稽」の話を書いたんだから、
その会稽は、南方の越の東冶の事ではないな。 300の>>979
>会稽は呉じゃないからダメ<
陳寿は、呉に近い会稽の事だとして、「会稽東治之東」と書いた。 >>162
天皇家と大和朝廷が宇佐神宮を大事とする理由(祖先の故地。
遡ると出雲王家の分家、宗像家の本拠地。宗像の市杵島媛命(宗像家(出雲族)の2世代目)はまさしく天皇家の母系の大御祖。イサナミ大神(+出雲の形代)/天照大神荒魂(瀬織津媛大神)/慈母神) 300の>>986
>じゃあ当時どおり会稽郡の東冶の話でいいんだな?
なんの問題もない <
いや、現代大和説者の「邪馬壹國→邪馬台国」の書き換え改竄を反面教師として、
「東治→東冶」の改竄を批判したんだよ。 300の>>989
>>「邪馬壹國→邪馬台国」という書き変えというインチキをやっている。<
>隋書準拠ですが何か?<
後代史書の隋書も、「前代史書の魏志の書き換え内容紹介」、という嘘つき騙しもやっている。 300の>>990
>壱岐や対馬より人口の多い末盧国が? 壱岐や対馬より小さいの? <
いや、末盧國の到着港から出発地点までの距離の里数が、
算定する必要がない位短かった、と言っているの。 中国でも會稽東冶に訂正してるから
畿内説とかいう問題じゃない ありゃしょーぎかてんなー(はぶkんのろくがでもみるかー らいしゅーはまいこすぺしゃるや(んhk
みておくれやすー(すがしがお >>171
こーせーのはやりはがくもんにあらず(わからんのならもーえーわ よこふとりかー(
すりりんぐやなー(
はやおくりでもーしゅーばんや >>168
さいごはやhりくがみみのみかさか(vsひこいます おい >>1 ! 畿内説が完全否定されたわけちゃうんやから元気失うな(箸墓は無理やが(もののべのはあきらめれ ひしゃこーかんのやりとりもっとしんぷるでええんちゃうかなー(しろーとの意見 もーれすやめるわ(おじーちゃんらのしゃこーのばあらしすぎました(はんせー
(うそ >>100
>それは構わないが、「水行十日陸行一月」は、
>その直前の「女王之所都」への日数説明になっており、
>「自郡至女王國萬二千餘里」の日数にもなっている。
#南至投馬國,水行二十日,官曰彌彌,副曰彌彌那利,可五萬餘戶。
#南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戶。
この一連の文章で
突然「水行十日陸行一月」だけが郡からだなんて
まともな人は読みません ザラコクとやらに乗っ取られそうだ
なんとかならんか >>182
それ、正解
行程をあーだこーだ言っても、邪馬台国は見つからないってこと 学者の見解で畿内説派がなぜ多いのだろうか?
●白石太一郎氏
国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。
大阪府立近つ飛鳥博物館館長
『古墳の語る古代史』(岩波現代文庫,2000年11月)
「箸墓古墳に代表される定型化した大型前方後円墳の出現年代は、おそらく卑弥呼の没年より十年あまり遅れるが、
この成立が、邪馬台国連合の変質、すなわちヤマト政権成立という大きな画期と対応するものと理解される。」
● 都出比呂志氏 大阪大学名誉教授
『古代国家はいつ成立したか』(岩波新書,2011年8月)
「大和は三世紀前半から政治の中心地であることは確かで・・・・
卑弥呼の館は、大和の地で見つかった大型建物の跡、纒向遺跡であることはいうまでもありません。」
●大塚初重氏 明治大学名誉教授、元考古学会会長
『邪馬台国をとらえなおす』(講談社現代新書,2012年4月)
「よほどの色眼鏡をかけなければ、邪馬台国は北部九州にあったとはいえない」
「王権存立の客観的な歴史的条件を考えれば、畿内地方こそや邪馬台国存在の想定地域である」
● 岸本直文 大阪市立大学教授
『倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス』
国立歴史民俗博物館研究報告 第185 集 2014 年2 月
「魏志倭人伝に見られる3 世紀前半の倭国と,前方後円墳や三角縁神獣鏡の波及から考えられてきた倭王権とが直結し,
連続的・発展的に考えることができるようになる。もはやヤマト国が畿内であることは自明である」 仮に三世紀後半には倭の中心が既に畿内へと移行していたとしても旧勢力である九州倭が「倭王」と自称し
中国に朝貢していただけの事だし、、、
学者ってアタマが固いよなw ヒメ踏鞴 (200年頃) 神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 (250年頃) 懿徳 孝昭
トヨ津 (270年頃) 孝安
孝霊 孝元 開化
(318年没) 崇神
ヒミコやトヨが住んだのは葛城です。
もうあきらめてください、往生際が悪いですね。
反論や質問は「★★ 邪馬台国は【葛城】である【2】 ★★」まで来てね。 >>147
>卑弥呼の墓。
>卑弥呼の出身母体が後々まで勢力を保てていたかだな。
卑弥呼の出身母体は崇神に神宝を奪われ、山陰では四隅突出墳が廃止、出雲国造を置かれ、
大和では大物主が倒され、大神神社が建てられた。
以降は弱々しく存続。
>早々に掘り返されて、王統を示すものを奪われた可能性もあるし。
>年代の一致する破壊された円形周溝墓も候補になるかもしれない。
其国の男王から台与まで続く王統の墓は前方後円墳ではない。
彼らの墓は一族の集団墓は高天原(御所市高天)にある日本最古の神社で御神域として今も守られている。
https://goo.gl/7VNnTi >>77
>それ、700里でも1400里でも読む人が自由に選び放題ってことでは?<
別に700里〜1400里の間でも構わないが、
1辺読みではかなり限定され、反対側に届かない場合もあるから、
2辺読みの方が、実態に近く、適切。 変な日本語になったので訂正。
×彼らの墓は一族の集団墓は
〇彼らの墓、つまり一族の集団墓は >>78
>(里数と日数の並記)他所でそんなこと、したか?<
当然、必要がなければ並記しないし、
一つの行程途中で里数箇所と日数箇所の併記例もあり、
要は、魏使らや陳寿の「並記が必要である」という認識程の程度の問題。 >>81
>狗奴国畿内説だったのか、成程 <
スレ主らの狗奴国畿内説は、「南≠東」に拠って×ね。
「南≠東」という大和説にとっては全く都合の悪い記載を棚上げしておいて、
他の事から大和の可能性があるから、「南→東」だ、なんて、
そんなものは「結論先にありき」の循環論法的なインチキ論法であり、
スレ主や大和説者は、思想宗教的な・・・・アホの詐欺師である、
という事になるだけ。
大和から親魏倭王印の金石物の発掘でもない限り、全くの×。 >>82
要するに大和説にとっては都合が悪いから、
不彌國で萬二千余里が殆ど終わっている事を無視して、
不彌国から次は続けて読むという事だな。 >>83
>上陸しても道はないよ <
こりゃ對海國の話だろうが、
對海國でも「土地山險、多深林、道路如禽鹿徑」であったが、
結局は、魏使らは歩いて事になっていた。 >>88
>そんな変な解釈を押し付けられてしまった被害者は、ほかには居ないんだね?
それは、よかった <
「南→東」などの嘘つき騙しや、
對海國と一大國の国内移動見聞記録の無視や、
「途中移動動詞無し→移動した」などの嘘つき騙しなどの、
そんな変な解釈を押し付けられて騙された被害者は、他にも沢山いるのかね?。
それはそれは、可哀そうに。 >>92
>だからさー 「移動を示す動詞」とか、誰が決めたわけ? アホ言い放題じゃないか <
陳寿が、倭人伝の行程記載でも、
「途中の移動を示す文言」の有無の書き分けをしていたの。
しかし、この・・・・ケダモノ詐欺師の大和説の男は、アホ言い放題じゃないか ?。 >>199
要するに古田が恣意的に訳して、そう言い張ってるだけなの?
いくら聞いても理由の回答がないから
そういうことなんだね >>93
「南→東」などの史料事実を否定曲解の嘘つき騙しの、
人種差別的殺戮戦争狂の皇国史観国粋主義の大和説者は、
自分の説に合うよう、好きなようにカスタマイズ出来るわけね?。
それって、・・・・ケダモノのインチキ詐欺だよ 。 >>204
馬鹿はお前
変な造語を創る奴が本物のバカ >>181
古田くんのは投げ馬国への配慮が雑やったなー(遠い目 おじーちゃんらはタフやのー(素直に驚き(わかものはねむいんじゃ 福岡から水行で南やったらぶんすいれーこえて筑後川くだるしかないもんなー
女王国以南になってまう(宮崎でもそうやけど
ダックの素敵なアイデアあったな(半島南岸に投げ馬あり(オッヅ8倍くらいかのー 素戔嗚尊さんはどこで馬を投げてたか(それが問題じゃ >>98
>>(陳寿の会稽認識は)呉の(姫氏の呉王夫差の)関連で <
>倭人伝に書かれている夏后少康之子の文身は荊蛮の地の越族の風習で
姫氏の夫差は文身とは関係が無い<
魏略に「聞其舊語、自謂太伯之後」と、
「昔夏后少康之子、封於會稽、 斷髮文身、以避蛟龍之吾」とが書かれた、
という事は、
魏使らは、卑弥呼らの出目が呉の太白だ、と聞いていたのであり、
それを見ている陳寿の書いた「会稽」は、当然、
(後の建安郡の)越地域の話ではなく、
呉に近い(以前からの)会稽山付近の会稽郡の事だ、という事になる。
>会稽の東に大国の島などないことは孫権の探索失敗でわかっている<
孫権の探索失敗など、九州が見つけられなかっただけであり、関係なし。 キチガイの巣窟か
ったく、伊都国が九州なのに、邪馬台国が畿内なんて絶対にないわ
女王国の東は海なのに、それが伊勢湾とか
よくもここまでアホ丸出しの主張ができるもんだwww ぎりゃくはなー卑弥呼はんの時代のお話やから邪馬壹のこと無視してるなー
20ねんごにはイヨさんの都があって呉の帆船もあって半島南部から西日本の日本海がわどこへでも直行できたんやろなー(おっづ2倍 >>99
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説者は、
何故?、「人類の常識」なるもんが判らないし、気がつかんのだろう?。 投げ馬5まんこは複数の国々の連合かもなー(旧女王国(海峡国全体
対馬になげうまのふーしゅーないのか(ぼそ
対馬からフヤコクまでの人口足したらなんぼ?(だれぞぐぐってけーさんしてくれ 陸行1月もなぞやのー(以下おっづ
半島を斜めにつっきったのか(3
九州をうろついたのか(4
四国の構造線上をたどったのか(5
ほんしゅー(6 >>112
>>(移動の動詞)誰も「定義」などしていない。<
>じゃ、古田がテキトーに考えたの?<
陳寿が、行程を「出発+途中移動+到着」で 書き分けた。 そうや!魏略と三国志の倭に関する同一資料には多分伊都はまんこでっせ
チンジュ君はそのぶぶんを執筆当時の生情報で訂正したんや(
じゃが他の部分は丸写ししたんじゃね(すこしまじ
卑弥呼はん時代に伊都が都やった証拠になるな(ダックはこれでがまんせー きょーも><でかこわれて叱られるんやろなー
南≠東ぷらずまこーせんさいきょーや >>213
旧女王国の東やからほんしゅーと四国でええのちゃう?
問題なし 文語とはいえ一応文法あるやろ(つかそれがどうしたの?なんの論点なん(三行で あーなるへそ
古田君の文献解析力に噛みついてるのやな(やめとけ古田君の得意分野やん
(解析後の推理力は少々足りないひとやが(ぼそ はいはい
われは犬神でもあり>>1でもありおかがみでもある(もーすきにせー 字書を読め
「東す」「南す」も移動の動詞
常識だろ >>228
古田に文献解析力?
ナイナイ
突飛なこと思いつくだけの人 >>231
しんらんのとかしらんのか(とっぴうんぬんはさんせー(よきにつけあしきにつけ >>181
奴国までで12000里が終了してるんだから
水行二十日は帯方郡からの再スタートとなる
距離での説明は終了してるんだから続けて読む理由がない
12000里が終了してることに気付かないから馬鹿な読み方をしてた。 なんでもぜんひてーしたら損やで
わえもテンプレの良いところは学習しとる(根底がひどいが >>235
まーそやろな
次の行からはイヨちゃんの都をめざすんやな
いよいよ大人やな ついき
奴国で12000にとどいとるんかのー(少々? ちゃうか
次の行からも可能性ふたつあるの
順次か
両方起点が郡か(ダックは順次派やったな? どっちにしろ郡から南に船で20日まず投げ馬もんだいやなー
野生号より高性能な船だのー(どこまでいける? >>114
>平原の尚方作は偽物だね <
また、都合の悪には「偽物」呼ばわりか。
まるで・・・・だな。
同じ大和説者同士でもめてないで、柳田氏にどうするのか?偽物でよいのか?を聞いて来いよ。 帯方郡からの再スタートするような異常な書き方はおかしいので
奴国までで12000里が終了してるという解釈は間違いである 方可四百里も方可三百里も移動の動詞とか無いよw
w
w 相当にいい船やったら危険なリアス式沿岸もクリアできるし歩くよりもらくなんやろなー
以下投げ馬のおっづ
対馬(3
九州北岸(3
九州北東岸(関門海峡越え4
半島南岸(8
山陰(10
山陽(15
四国(限りなく透明に近いブルー >>242
>帯方郡からの再スタートするような異常な書き方はおかしいので
丁寧な説明をしているだけで別に異常な書き方ではない。 >>242
おじーちゃん
おやつのじかんどすえー( >>244
ええとこきづきましたなー
島の中は散歩ていどやったとわえも思う 冒頭で「萬二千里」としておきながら何の前釈も無しゼロから始めんのかよ。
それこそ「頭がオカシイ」だろ? >>119
>平原の、だって同じでしょ ニセ尚法<
根拠は?。何故言わないの?。 まーだいたい福岡県まではざっくりいって12000里
次の行からがイヨさん時代の行程やろ(船が高性能になることをお忘れなきよう >>249
冒頭やったか(つっこむところちゃうか(まーえーけど 「自郡至女王國 萬二千餘里」と郡から女王国まで12000里と書いてるんだから
行程文に12000の地点が無いとすると不自然だな
方可四百里と方可三百里も行程文の距離に入れるべきですね。 >>256
一ヶ月間歩くと山口からでも関東近くまで付いてしまいますね
古田氏も一ヶ月間に苦しんで朝鮮半島内をジクザグに歩いたとかしてますが
何処を歩いたにせよ一ヶ月間歩くとか現実的ではないですよね
だいたい3世紀の日本や朝鮮半島では道が整備されてない
陸路を一ヶ月間歩く意味が分かりませんね
陸行一月は陸行一日の誤記でしょうね
船で目的地近くまで行って最後の一日だけ歩いた
これが当時の旅のスタイルで現実的でしょう。 >>255
ですね、距離と時間を続けて読むなんて異常な読み方ですね。 >>171
>中国でも會稽東冶に訂正してるから 畿内説とかいう問題じゃない <
日本であれ中国であれ何時であれ、国家が歴史に関与したら、
思想宗教的に「結論先にありき」になるので、
幾らでも史料の改竄が起こるので、
そんなものには何の信頼性もない。 >>180
>そんな嘘には誰も騙されない <
陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」は、
始めから(どんぴしゃ断定ではなく)大体の推定。 >>212
曹魏を正当とする三国志倭人伝には句呉の太伯の話などは一切紹介されていない
周よりも古い夏以前から江南に住んでいた越族の風習と倭の風習が同じだということを書いている
百越は夏華族の進攻によって長江以南各地に散住した
倭に有無する所は黎族、苗族、壮族などが住む儋耳、朱崖と同じであると
道里から計算すると倭は、楚漢戦争の時に漢の劉邦を支援した越族の国の一つ閩越の王都だった
會稽東冶の東に在るべしと書かれている >>181
>#南至投馬國,水行二十日,官曰彌彌,副曰彌彌那利,可五萬餘戶。
#南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戶。
この一連の文章で 突然「水行十日陸行一月」だけが郡からだなんて まともな人は読みません <
「水行十日陸行一月」が「南至邪馬壹國」の移動日数説明であれば、
普通のまともな人は、皆、
「南至邪馬壹國、水行十日陸行一月。女王之所都。官有伊支馬・・・」
の語順にする筈だよ。 >>189
>倭の中心が移行
4世紀?8世紀?
何れにしても卑弥呼より後の話を持ち出してもね。
畿内説は後世の畿内の繁栄を過去に投影して幻を見ているんだよ。 >>262
「南至投馬國 水行二十日」は「從郡至倭 循海岸水行 歷韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」に掛かる時間で
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月(日)」は「始度一海千餘里 至對馬國・・・東南至奴國百里」に掛かる時間ですね。 >>265
どこから何処まで一月かけて陸行するの? >>253
不自然かのーべつにええんちゃうかー
まービールかってきてやったからのめ(へーじつひるまのはうまいでー >>254
おじーちゃんにも注いだるよ(つまみはじぶんでよーいせー >>267
一ヶ月間歩くと山口からでも関東近くまで付いてしまいますね
古田氏も一ヶ月間に苦しんで朝鮮半島内をジクザグに歩いたとかしてますが
何処を歩いたにせよ一ヶ月間歩くとか現実的ではないですよね
だいたい3世紀の日本や朝鮮半島では道が整備されてない
陸路を一ヶ月間歩く意味が分かりませんね
陸行一月は陸行一日の誤記でしょうね
船で目的地近くまで行って最後の一日だけ歩いた
これが当時の旅のスタイルで現実的でしょう。
末廬国から伊都国や奴国へ陸行一日
つまり呼子付近から糸島市や福岡市へ陸行一日。 >>257
お!
ダックはおっづ10のおーあなねらいやな(それやったら出雲も順次でええな >>259
せんせーは飲んだらどない化けるんやろ(きょーみぶかい >>261
史記ひっぱてきたんやからそれないやろ(まーいっぱいどーぞ >>265
ふるたくんのは投げ馬は福岡からやったぞ(そこが雑やった >>273
ありゃこぴぺにしたんか
2度貼りされるとめーまわるな 史記からというより直接的には、
漢書地理志 卷二十八下 粤地条
「其君禹後 帝少康之庶子云 封於會稽 文身斷髮 以避蛟龍之害」
「澹耳、珠崖郡。民皆服布如単被、穿中央為貫頭。男子耕農、種禾稲・紵麻、女子桑蚕・
織績。亡馬与虎、民有五畜、山多麈鹿。兵則矛・盾・刀・木弓・弩。竹矢或骨為鏃。」 >>273
誤記説を採用したら
行程で邪馬台国を見つけるのは、不可 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 漢文合戦か^^
らくろーかいちゅーにわじんあり
さいじをもってなんたらかんたら(うろおぼえ >>280
まーどっちにしろ文脈からびんえつうんぬんはないなー
ふつーにほーじられたかいけーのことやろー
かいけーとーち
あるいは九州が南北に長いと誤認したか
かいけーとーや(なんてよむん? >>182
>そもそもがまともに読めない文だから<
そもそも、「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つきダマシの、
人種差別的殺戮戦争鼓舞扇動の、皇国史観国粋主義の・・・・ケダモノサギシの大和説人種は、
まともに読まない人種だから。 >>185
>それ、正解 行程をあーだこーだ言っても、邪馬台国は見つからないってこと <
それ、不正解。
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つきダマシの、
人種差別的殺し合い殺人戦争を鼓舞扇動する皇国史観国粋主義の、
魏志倭人伝の行程記載や邪馬壹國という文言が、
そもそも、大和説にとっては「都合が悪い」、というだけの事。
まともに読まない人種だから。 らくろーて漢書のころ日本海がわ占拠してたんかのー
それやったら越や出雲込みやな(倭国 で魏略のころに女王がいて邪馬壹はまだなくて倭国の南にクナがあった(だんだんみえてきたな(日本のはじまり >>186
>学者の見解で畿内説派がなぜ多いのだろうか?
●白石太一郎氏 ・・・● 都出比呂志氏・・・●大塚初重氏・・・● 岸本直文・・・<
そうか。
このメンバーが、「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つきダマシの、
政府文部省の人種差別戦争狂の皇国史観キョクウにべったりの、
大和説のサギの・・・・主導者であったのか。
気を付けましょうね、彼らはクルっていますから。 >>187
>仮に三世紀後半には倭の中心が既に畿内へと移行していたとしても旧勢力である九州倭が「倭王」と自称し
中国に朝貢していただけの事だし、、、 学者ってアタマが固いよなw<
この男も、
大和は、白村江の後まで、
九州倭国の筑紫城の倭奴国から別れた別種の附庸国の旧小国であった、
という史料事実をを隠蔽曲解する、・・・・サギシ仲間であった訳で。 >>290
せんせーさすがにそれアウトじゃね?
さいごの行はひっこめなはれ(はなほじ ぷらずませんせーは全方位こーげきちゅーやな^^
わえは先にこーさんしとく >>273
>一ヶ月間歩くと山口からでも関東近くまで付いてしまいますね
ムリダロ、道がないよ >>188
>ヒミコやトヨが住んだのは葛城です。 もうあきらめてください、往生際が悪いですね<
このssnという男も、
「南→東」の嘘吐きダマシの大和説者であり、
以前に、「竹島戦争を鼓舞扇動」したキョクウの人種差別的殺戮戦争・・・・です。
怖い・・・・ですから、気を付けましょうね。
うっかり付いて行ったら、戦争に行かされて殺されてしまいます。 >>189
>倭の中心が移行<
違うね。
唐は、大和が日本国と名乗った事も知っており、
その上で、白村江で戦った相手を「倭国」とか「倭衆」とか「倭賊」と記録しているんだから、
白村江の後までは、倭の中心は筑紫倭国であり、
701年になって、大和日本国が倭国を併合吸収継承した。 旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。
新唐書
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。 >>190
これも、卑弥呼を大和にしているssnの話だから、
「南≠東」に拠って✖ね。 >>291
だってソーだろ?旧唐書にも「日本国は倭国の別種なり」と書いてあるじゃん。
>倭奴国から別れた、、、
そんな細かいトコまで特定するつもりは無いけどさ〜 >>194
>恣意的だなぁ <
里数記載と日数記載との、「並記」例もあれば、「併記」例もある、
という事が、史料事実であり、史料実態だ。 >>201
>要するに古田が恣意的に訳して、そう言い張ってるだけなの?<
いや、古田解釈は、
陳寿の行程記載には、
出発記載と到着記載の間に、途中の説明があるものと、ないものとがある、
という史料事実や史料実態が、帰納的推論の根拠だ。
>いくら聞いても理由の回答がないから そういうことなんだね<
この男が「聞いた」のか?なんて全く知らんが、
余りにも自明な史料事実の説明への、繰り返しの要求などは放置している事や、
余りにその・・・・性が明確な投稿も、放置無視している。 ひらがな爺
暴れてもいいが漢字も使え 幼稚園児か
読みづらいから 誰もよまない >>205
>馬鹿はお前 変な造語を創る奴が本物のバカ<
馬鹿はお前。
「南→東」などのような、史料事実を否定曲解する奴が本物の・・・・アホ 。 >>207
>古田くんのは投げ馬国への配慮が雑やったなー(遠い目<
この男も、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシのサギシであったようで、
史料事実や史料実態への配慮が雑であったなー。 >>202
>だから、「移動の動詞」って何?<
途中の移動実態の説明になる文言。 >>232
大和説学者に文献解析力? 。
ナイナイ 。
「南→東」などの嘘吐きダマシの、
突飛なこと思いつくだけの・・・・アホ人種。 >>243
>(平原の21個の尚方作鏡)偽物でよい <
何のどの部分が何故偽物なのか?、を言わない男は、偽物だ、と言ってよい。 >>244
>方可四百里も方可三百里も移動の動詞とか無いよw w w<
方可四百余里は、
「所居絶島、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田」
の見聞記録がある事が移動があった事を示す。
方可何百里は、
「方可三百里、多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食」
の見聞移動があった事が、移動があった事を示す。 >>249
>冒頭で「萬二千里」としておきながら何の前釈も無しゼロから始めんのかよ。
それこそ「頭がオカシイ」だろ? <
何だ?、この意味不明な言い方は。
それこそ「頭がオカシイ」だろ? 。 >>254
>二倍するインチキ <
「山島」においては、原則は「海岸沿い」。 >>261
>曹魏を正当とする三国志倭人伝には句呉の太伯の話などは一切紹介されていない <
陳寿が「会稽」と書けば、そりゃ、当然「会稽山付近」の事を言っている。
>周よりも古い夏以前から江南に住んでいた越族の風習と倭の風習が同じだということを書いている
百越は夏華族の進攻によって長江以南各地に散住した
倭に有無する所は黎族、苗族、壮族などが住む儋耳、朱崖と同じであると
道里から計算すると倭は、楚漢戦争の時に漢の劉邦を支援した越族の国の一つ閩越の王都だった
會稽東冶の東に在るべしと書かれている <
陳寿は越とか東冶の事など、意図せずに「会稽」とのみ書いている。
会稽とのみ書けば、そりゃ会稽山付近の事。 会稽ではなくて會稽東冶、呉書に書かれている
中国でも訂正されている >>263
>大体だーでは誤魔化せない<
陳寿が、
「當」という推定文言を示して、
「當在會稽東治之東」という(一地点ではなく)広い地域の東だ、と大体で書いた、
という史料事実は、誤魔化せない。 >>314
陳寿は漢書地理志の粤地条から
「會稽と」
「澹耳、珠崖」を
引用したんだよ
会稽東治(いまの福州)の話を書くためさ >>316
「當」はジャストの意味。
倭国の中心地が
ちょうど会稽東治の東にあるんだよ。 >>316
会稽東冶は県が5つ位も入る広い地域だよ。
台湾のあたりだけどね。 >>309
日本の古代考古学やってる学者って落ちこぼれ揃いなんじゃないの?
優秀な人たちはエジプト文明、メソポタミア文明、、、を専攻してて。
見当違いの所に当たりを付け今も一生懸命発掘してんだろうなー
勘も働かなければ古文書を読み漁って分析する能力も無い、、、
俺が生きてる間に「ついに邪馬台国、発見!」な〜んて心踊るニュースを見る事も無いんだろうな。 >>321
九州説が考古学的に否定されたからって
腹いせに考古学者をクサすなよ
人品骨柄が卑しい奴だな テレビにエジプトの発掘してる考古学者が出るから
優秀だと思ってるんだろう >>322
ヤブ医者に「あんたヤブ!だろ?」って言って何が悪いんだよ。
「学者先生様がなさる事に間違いはない」ってか? >>323
ソイツらを更に凌ぐ存在と言う意味だけど。 九州爺さんのプロフィール
デレビばっかり見ている
本は読まない
学歴コンプレックス有り >>321
岡上、もうすぐ死ぬのか?
そうか・・・ >>302
じゃ、不弥国に行くのに
途中の説明なんか無いから
移動は無いのだな? 古田本は詠む価値なし
銭を捨てるようなもん
銭を捨てたものより 平原遺跡が卑弥呼の墓なら、これから先いつまで待っても、卑弥呼の墓発見!なんていうニュースにはお目にかかれないことになる。
もう発掘済みなのだから。 >>335
祇園山より平原遺跡の方が古いと思うよ。 >>335
>祇園山古墳で確定してるからあれだけど
山の中腹の小さな方墳が
どうかしましたか? >>336
どんな意味?
また、新珍説きかしてくれるの? 吉野ヶ里周辺の遺跡を調べてたら
めまいがしてきた。
これって旧神崎郡全域が遺跡だろ。
吉野ヶ里関連で一斉調査したんだろうけど
多すぎて把握するのも面倒だ。 >>341
しかも吉野ヶ里は九州北部では特に大きいわけではない。
九州北部の平地のかなりの部分が全て遺跡のようなもの。
筑紫は畿内をはるかに凌駕する発展を遂げていた。
考古学をまともにやっていれば、貧弱な遺跡しかない奈良盆地はあり得ないことがわかる。 論破されまくって言うことなくなってきたザラコク
そろそろ終わりが近づいて来ているようだな >>343
なら、なぜ考古学者が畿内説ばっかりなの?
w 岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張したり、
ありもしない大規模調査をでっち上げたり、学界の多数派である邪馬台国畿内説を破綻したと主張したりする、
ゴッドハンドも真っ青の捏造常習犯である
自分は正しく、これまでの研究者がみんな間違っていた、などと平気で主張する、典型的「六拾弐病」患者
コテ+トリと、別コテ、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくるがバレバレ
糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチともよばれる
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読んだり、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読したり、
平原遺跡出土鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張したり、
お笑いエピソードには事欠かない
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である >>349
考古学は考古学で日本古代史である邪馬台国論争とは無関係
考古学者が畿内説とかデマ
考古学者が歴史学に口を挟む立場にない。 >>353
九州爺さんは変な固定観念に取り憑かれてるな >>354
考古学での成果を基に歴史学者が判断する
考古学者は邪馬台国が何処だとかは言わないものだ
出土品が何時頃のものとか判断したり、出土品の系統の分類が仕事。 ただ単に日本全国考えても畿内説派の方が多いということだと思うよ
テレビなんかでも九州説のほうが異説扱いされてることが多い気がする
俺も魏志倭人伝を読むまで漠然と畿内なんだろうなと思ってた 考古学者に関して言えば魏と同年代の遺跡が出ると無条件に邪馬台国と関連付けようとする傾向があるような気もする
考古学者が言ってなくてもメディアがそう騒ぐだけかもしれないが ま、畿内説派のひとはひとまず畿内ありきという考えは捨てて
魏志倭人伝をしっかり読み込め ぷらずまこーせんやんでるよーやな(一発被弾したが傷は浅いゼよ
なんのはなししてたやろ(おじーちゃんらはちえいずみんのか? わえはたびにでるぜよ(おじーちゃんらもたまには目先かえれ(りょーまはけんのたつじんやったんや(ちばしゅうさくのなんやったか(北斗の拳みたいの >>357
>出土品が何時頃のものとか判断したり、出土品の系統の分類が仕事
出土品をそーやって時代さえ合ってれば畿内で発掘しても「はい、邪馬台国」と分類しちゃうワケか。
へぇ〜凄い学問もあったもんだな。
九州or畿内で同じ倭の文明、風俗だし大きな違いは無いしね。
そりゃー「邪馬台国は畿内!」ってなるワナw >>273
>古田氏も一ヶ月間に苦しんで朝鮮半島内をジクザグに歩いたとかしてますが <
古田さんは、別に苦しんでおられません。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/nagara.html
にあるように、
「乍A作B」の構文は、AとBとが、(一回きりの変化ではなく)、
「繰り返し反復する」事を示す構文ですから、
「乍南乍東」は、南と東が繰り返し反復しジグザグに反復した事を示すのだ、
という事を、古田さんは始めから知っておられました。 >>274
>お! ダックはおっづ10のおーあなねらいやな(それやったら出雲も順次でええな <
「南≠東」だから、×。 考古学は学問じゃないから
土方に毛が生えたようなもんだよ >>369
日本全国平均して一律に予算だして発掘したあとならそれいえるかもなー(
遠い目 >>369
考古学者が畿内説とか九州説みたいに偏見持ってたら正しい判断が出来ない
考古学者の多くが畿内説とか本当なら大問題だな。 だいたい畿内には前方後円墳が沢山あるし
昔から邪馬台によく似た大和と呼ばれてきた国がある
邪馬台国は畿内だろ >>371
半島南東方向につっきたオッヅみてくれー(せんせーのかんがえにちかいじゃろ^^ >>373
なら考古学者から毛ひっこ抜けば土方になるのか?お? にほんのどこかにひみこはんがねむってるんやなー
たびにでるべし
啊在日本的某個地方有一個人在等我 おじーちゃんらもーねなさい
これ以上の議論は不毛や(まちがいないわ >>278
>ふるたくんのは投げ馬は福岡からやったぞ(そこが雑やった <
別に雑ではない。
(伊都国から)「東南至奴國百里」には途中移動の動詞が書かれていないから、
側副傍線行程になって、主行程路から外れ、
伊都国の次は「東行至不彌國百里」になり、伊都国が前原〜糸島水道であるから、
不彌國は短里で藤崎西新町付近から博多港付近になり、
そこから南方の水行二十日の投馬國に行くには、博多港から一旦玄界灘に出て、
それから、東回りでも西回りでも九州をぐるりと回って、南九州に行くことになる。 >>285
>あるいは九州が南北に長いと誤認したか<
誤認していない。
投馬國は、博多湾岸の不彌國の南方にあって、
九州の東回りでも西周りでも水行二十日で行けるんだから、
南九州であり、
会稽東治之東にほぼぴったり。 投馬国を韓国に持っていかなきゃならん北九州説
この時点で邪馬台国北九州説は破綻したも同然 >>381
伊都国が前原〜糸島水道であるなら、奴国の入口などとしている三雲や日向峠麓は真南になるから
トンデモ比定の辻褄が合ってない >>289
>で魏略のころに女王がいて邪馬壹はまだなくて倭国の南にクナがあった
(だんだんみえてきたな(日本のはじまり <
インチキしてはいけない。
「南至邪馬壹國、女王之所都」だよ。 >>383
投馬国は宮崎県西都市妻の都万神社。
5万戸を養うには朝鮮半島南岸ではなく宮崎平野が最適。 >>292
>せんせーさすがにそれアウトじゃね? さいごの行はひっこめなはれ(はなほじ <
ダメだよ。
四人とも、大学教授クラス以上の身分で、
「邪馬台国大和説」を断定してしまっているから、
そりゃ、四人とも「南→東」の嘘つき騙しであり、
国民への影響力を考えたら、犯罪者的である事が確定だよ。 >>386
糸島水道じゃなくて前原からなら日向峠麓は東南に近くなるが
東の不彌国までの同じ百里で前原から長垂山を越えられない >>315
>会稽ではなくて會稽東冶、呉書に書かれている 中国でも訂正されている<
いずれの時代であってもどこの国であっても、思想宗教に狂った国家は、
自己の国家の都合でなら、いくらでも史料事実の勝手な訂正をするものであり、
そんな国家が、過去の史料の記載事実を「訂正」したって、何の信頼性も価値もない。 >>387
そぉーなれば
不彌国からは移動の動詞がないから輪国内の移動はそこまでで
日数部分は帯方からの書きなおしというザラコクの主張は崩れるわけだ
つまり1万2千里は九州北部を指すものではない そもそも移動の動詞のないのは不彌国だけじゃなく
およそ全ての国に渡って移動の動詞なんか出て来ないんだよ 頭悪い奴がわけわからんこと言っても誰も説得できない見本 >>317
>陳寿は漢書地理志の粤地条から 「會稽と」 「澹耳、珠崖」を 引用したんだよ
会稽東治(いまの福州)の話を書くためさ <
いや、魏略にも「会稽」が書かれているんだから、
「会稽」という地名は魏使らの記録にあった事になり、
陳寿もその地名を使って、「計其道里、當在會稽東治之東」と書いた事になる。
また、「澹耳、珠崖」と、会稽山の付近の「会稽」とは、全く関係がないから、
全く別の話だ、 >>390
>いずれの時代であってもどこの国であっても、思想宗教に狂った国家は、
自己の国家の都合でなら、いくらでも史料事実の勝手な訂正をするものであり、
三国志は范頵の上書で晋朝が書写したもので
倭の位置は司馬氏が一番関わる >>394
>「会稽」という地名は魏使らの記録にあった事になり
根拠なし >>318
>「當」はジャストの意味。 倭国の中心地が ちょうど会稽東治の東にあるんだよ。<
「當」は、推定的判断を示す文字。
「絶対ジャスト」とかの断定をしたいんなら、「也」を使う。 >>357
やっとまともな学識のある人が現れたか。
歴史を云々するならこれくらいわきまえてもらわないとな >>319
>会稽東冶は県が5つ位も入る広い地域だよ。 台湾のあたりだけどね。<
関係なし。
「計其道里、當在會稽東治之東」は、陳寿の分郡後の地の文であるから、
その会稽は、会稽山付近の会稽の事。 >>322
大和説が、
文献的には「南≠東」などで、
考古学的には「金印」や「平原の21個の尚方作鏡」などで否定されたからって、
腹いせに九州説者をクサすなよ 。
人品骨柄が卑しい奴だな。 >>325
>移動の動詞は無いんだよな?<
「動詞の有無」ではなく、「移動を示す内容」である事も言ってある。
「見聞して行った」事が書かれていれば、それは「移動があった」事を示す。 >>330
>じゃ、不弥国に行くのに 途中の説明なんか無いから 移動は無いのだな?<
「東行至不彌國」は、出発は「東す」、途中は「行く、という移動の動詞」、
到着は「至不彌國」。
ほら「行」が、移動の動詞。 そもザラコクが主張するように邪馬台国が不彌国のすぐ』南にあるのなら
そしてザラコクの主張するように水行20日は帯方から再スタートならば
せっかく邪馬台国のすぐ目の前の不彌国まで記述が到達しているのに
そこからなぜまたスタート地点の帯方まで戻って記述が開始されるのか
本当に邪馬台国が不彌国のすぐ南なら
そのまま不彌国の南何里で邪馬台国に到達と書かれるべき
つまり邪馬台国は不彌国のすぐ』南にはなく、
邪馬台国に到達するにはまずそこから水行20日して
投馬国に向かわなくてはいけないのである 行程記事で全部同じ語順にすると音が美しくないからだよ >>331
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者の本は、詠む価値なし 。
銭を捨てるようなもん 。
銭を捨てたものより。 >>338
祇園山と平原で、考古学的にも死んだ大和説者は、もう必死ね 。 それに移動の動詞がどうこうというザラコクの主張が正しいなら
移動の動詞のない国は全て帯方軍からの再スタートとしなければならなくなり
不合理である 逃げたかザラコク
そんで人が居なくなった頃に嘘つきだましだの馬頭レスしてくるんだろうな >>339
>>祇園山古墳で確定してるからあれだけど <
>山の中腹の小さな方墳が どうかしましたか? <
やまの中腹にある「四隅円弧の高塚墳」が、
日本で唯一、いや世界で唯一、
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」にぴったり。 >>437
論破されまくって言うことなくなってきた大和説者。
そろそろ終わりが近づいて来ているようだな 。 >>349
>なら、なぜ考古学者が畿内説ばっかりなの? <
安部政府や文部省や右翼マスコミらの皇国史観大和説に応援された教授クラスが、
新入局者に踏み絵を踏ませて大和説者ばかり選択したり、
言う事を聞かない奴は徹底的に干してしまうから。 >>416
静岡か?静岡が投馬国だっての?
そんな事地元の人間誰も言ってないぞバカじゃないの >>353
>考古学は考古学で日本古代史である邪馬台国論争とは無関係
考古学者が畿内説とかデマ
考古学者が歴史学に口を挟む立場にない。<
大学では、考古学者が大和説に反対したり、九州説を唱えたら、
徹底的に干される。 >>421
だから静岡が何で投馬国なんだよ
頭おかしいの >>357
>考古学での成果を基に歴史学者が判断する
考古学者は邪馬台国が何処だとかは言わないものだ
出土品が何時頃のものとか判断したり、出土品の系統の分類が仕事。<
だから、大和説歴史学者の意見を否定する判断をした考古学者は、
徹底的に干される。 そも九州説がなぜいつも論破されるか教えてやろうか
邪馬台国を九州にせんがために魏志倭人伝ほか資料を
無茶苦茶にねじ曲げて解釈しすぎなんだよ
そうなると当然ひどく辻褄の合わない場所とか出てくるだろ >>358
>ただ単に日本全国考えても畿内説派の方が多いということだと思うよ
テレビなんかでも九州説のほうが異説扱いされてることが多い気がする
俺も魏志倭人伝を読むまで漠然と畿内なんだろうなと思ってた <
いや、国民の過半数は九州説であり、
安部政府や文部省や。右翼マスコミやNHKやPC会社や、大学教授クラスなどに、
洗脳されて、騙されて大和説になったのは3割位。 >>390
狂ってるのはお前だろ
何の信頼性も価値もない。 投馬国がどこか煽りレス以外の九州説の回答がないな
まあ人居なくなった頃見計らって罵詈雑言加えてくるんだろうけどね
なら今日はそれなりに遅くまで監視しておくかな >>426
人気アンケートの九州説のほとんどは、そんな恨妄想はしていない >>428
やったー!!!
夜勤の相手が見つかったーーー!!! そも畿内説がなぜいつも論破されるか教えてやろうか
邪馬台国を畿内にせんがために魏志倭人伝ほか資料を
無茶苦茶にねじ曲げて解釈しすぎなんだよ
そうなると当然ひどく辻褄の合わない場所とか出てくるだろ >>432
そっから南に水行10陸行1月するなら邪馬台国はどこ? 特に知識がない頃は漠然と九州説寄りだったけど
興味持って調べたら何で論争が続いているのか分からないほど
畿内優位としか思えず驚いた記憶があるな オレも興味もって調べ始めて20分であ、邪馬台国って畿内じゃんで終わった しかし、ここ読んでると九州説の人って
畿内説の本をまったく読んでないのが判る
なんだか知らない物を、想像だけで批判すると
どんなに格好わるいか
気がつく気配もない
哀れである 読んてみたけどなんかあんの?
逃げずにズバッと書いてみな
読んだらなにかあるなら
それをここで書けば決着するだろw >>439
とりあえずテンプレに載ってる本でも読めば? >>439
テンプレに書いてあって、決着してるな。 幾内に何か連合国があったとして、それがどうして邪馬台国だと20秒で分かったんだろう? >>370
追記。
若しも、通説者や大和説者らの言うように、
半島西南端で一回だけ「南→東」の方向変更があったんなら、
それは(乍南乍東ではなく)「南乍東」だけになってしまう筈なんです。
しかし、実際には「乍南乍東」と書かれているんですから、
「南と東が繰り返し反復された」という事になり、
韓国はジグザグに陸行移動した、という事なる。 >>375
>考古学者が畿内説とか九州説みたいに偏見持ってたら正しい判断が出来ない
考古学者の多くが畿内説とか本当なら大問題だな。<
歴史というもの自体が、文献考古も含めた総合学問であるから、
考古学が(文献を捨てて)考古だけになったら、そりゃ、一種のめくらであり、
意図的にそうすれば、そりゃ(ここのスレ主も含めて)詐欺師だよ。 >>376
>だいたい畿内には前方後円墳が沢山あるし<
前方後円墳の起源は、中国の「天円地方」思想やモンゴル〜高句麗が発祥だから、
近畿に前方後円墳が多ければ、そりゃ、
大陸や半島からの前方後円墳部族の直接的渡来があったか?、
晋から天円地方思想を学んで那珂八幡などを造った筑紫からの伝搬で、
近畿がそれを喜んでいっぱい作って威張り散らしたか?、
というだけだ。
>昔から邪馬台によく似た大和と呼ばれてきた国がある 邪馬台国は畿内だろ<
ダメだ。
「邪馬台国」も「邪馬壹國→邪馬台国」の嘘つき騙しの詐欺であるし、
「南≠東」でもあるから、×だ。 >>383
「南→東」などの嘘つき騙しをしてまでして、
投馬国を吉備や出雲に持っていかなきゃならん大和説。
この時点で邪馬壹國大和説は破綻したも同然 。 帯方郡から邪馬台国までの道程が萬二千里で佐賀県唐津までが一万里。
そこから東へ七百里進んで未だ福岡県辺り。
そこから残り千三百里は南に進路をとる、、、
ここまでの移動した距離感及び今後の歩むべき進路(南)から何で「邪馬台国は畿内」となるんだろうか?
そう唱える学者先生が居ても構わないけどドーして「畿内説が主力派」となってるのか?全く分からん。 >>438
少なくとも、ここのテンプレを眺める限りでは、畿内説とは電波であるようだ。 >>384
>伊都国が前原〜糸島水道であるなら、奴国の入口などとしている三雲や日向峠麓は真南になるから
トンデモ比定の辻褄が合ってない <
また、脳のおかしい変な大和説者?が出て来たな?。
前原や志登付近から日向峠方向は、ほぼ「東南」だよ。 >>455
東南方向にするために伊都国のほうを動かすというインチキ >>389
>糸島水道じゃなくて前原からなら日向峠麓は東南に近くなるが
東の不彌国までの同じ百里で前原から長垂山を越えられない<
伊都国もピンポイントではない。
当然面積を持っており、
国内移動里数が書かれていないから、
当然(最低記載里数の百里以下の)五十里位(3.5〜4km)の大きさを持っており、
周船寺付近まで居住外縁部が広がっていた、と思われ、
そこを出発点として「東百里」行けば、姪浜東端の「小戸」付近に十分に行けて、
藤崎西新町の不彌國の外縁部の「西の入り口」付近になる。 >>453-454
またまた結論だけ言い張るブラフ詐欺が出た >>391
日数部>そぉーなれば 不彌国からは移動の動詞がないから輪国内の移動はそこまでで 分は帯方からの書きなおしというザラコクの主張は崩れるわけだ
つまり1万2千里は九州北部を指すものではない<
崩れない。
不彌國もピンポイントではないし、
不彌国から南邪馬壹國は、移動の動詞がないから、
不彌國の南の外縁部と、邪馬壹國の外縁部の入り口が殆ど接している、
という事になるだけだ。
古田さんの比定も、邪馬壹國の入り口は、福岡平野内の福岡大学付近だ。 >>452
圧倒的多数の人類が
岡上よりずっと賢いから
じゃないの? >>459
対馬も壱岐も島内に移動の動詞がないから、1,400里とか足してはダメなんでしょ?
投馬国も邪馬台国も移動の動詞があるから、ずっと遠くにある >>392
>そもそも移動の動詞のないのは不彌国だけじゃなく<
不彌國へは「行」という動詞がきちんと書かれている。
>およそ全ての国に渡って移動の動詞なんか出て来ないんだよ <
古田さんは、「移動の動詞」の動詞そのものではなくても、
「途中移動があった事を示す何らかの文言の有る」という事を根拠にされ、
奴国と投馬國へは、そのような「途中移動を示す文言」が全くないから、
(主線行程ではなく)傍線側副行程だとされ、
それ以外は、全て「途中移動があった事を示す何らかの文言」があった、
という事であった。 >>393
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの、頭悪い大和説の奴が、
わけわからんこと言っても、
誰も説得できない見本。 >>462
>古田さんは、「移動の動詞」の動詞そのものではなくても、
>「途中移動があった事を示す何らかの文言の有る」という事を根拠にされ、
詐欺じゃないか >>463
ヘイトスピーチしても何の反論にもならない見本。 >>462
>奴国と投馬國へは、そのような「途中移動を示す文言」が全くないから、
「東す」も「南す」も
正真正銘「移動の動詞」だよ。 >>395
>いずれの時代であってもどこの国であっても、思想宗教に狂った国家は、
自己の国家の都合でなら、いくらでも史料事実の勝手な訂正をするものであり、<
>三国志は范頵の上書で晋朝が書写したもので <
書写は「訂正」ではない。
>倭の位置は司馬氏が一番関わる<
司馬氏が、自由人的であった陳寿の三国志の記載に、直接「訂正」を要求出来る事ではないし、
「訂正」要求する筈もない。
陳寿が、誰かが自家の事をよく書いてくれ、と言ったが、断った、という逸話は有名。 >>396
>>「会稽」という地名は魏使らの記録にあった事になり<
>根拠なし<
陳寿の「会稽」記載を、魏略が見て写す筈がない。
当然、陳寿も魏略も、同じ記録を見たのであり、
それは、魏使らの記録。 >>405
>そもザラコクが主張するように邪馬台国が不彌国のすぐ』南にあるのなら
そしてザラコクの主張するように水行20日は帯方から再スタートならば<
この男も、変な人種だなあ。
私(zarakoku)は、「水行20日は帯方から再スタート」なんて言っていないよ。
>せっかく邪馬台国のすぐ目の前の不彌国まで記述が到達しているのに
そこからなぜまたスタート地点の帯方まで戻って記述が開始されるのか <
「開始」したのではない。
「從郡至倭〜女王之所都」の所要日数を「並記」説明しただけだ。
>本当に邪馬台国が不彌国のすぐ南なら
そのまま不彌国の南何里で邪馬台国に到達と書かれるべき <
書かれていないから、
不彌國の南の外縁部と、邪馬壹國の入り口とが、
百里には全くならないような里で殆ど接している、という事になる。
>つまり邪馬台国は不彌国のすぐ』南にはなく、
邪馬台国に到達するにはまずそこから水行20日して
投馬国に向かわなくてはいけないのである <
投馬國へは、「途中移動の説明」がないから、主行程ではなく、側副傍線行程の記載。 >>409
>それに移動の動詞がどうこうというザラコクの主張が正しいなら
移動の動詞のない国は全て帯方軍からの再スタートとしなければならなくなり
不合理である <
「途中移動の説明」のない国は、
全てその直前國からの側副傍線行程である事になるので、
合理的である。 >>471
「途中移動の説明」とやらなら
不弥国にもないから
古田説はダメだよね >>414
>いくら連呼しても祇園山は集団墓地だよ <
いくら連呼しても、祇園山は、ほぼ同時期(3世紀半ば)の、
集団殉葬の陪葬墓地だよ >>472
>全てその直前國からの側副傍線行程である事になるので、
なら邪馬台国も直前國からの側副傍線行程なのか? >>415
>オラッ九州北部説は投馬国をどこに比定するんだよ <
南九州。
おそらく薩摩の上野原遺跡。 >>419
投馬国から逃げ回る大和説みじめ、みじめ。 >>423
邪馬壹國大和説、「南≠東」の嘘ダマシもバレ、投馬国でも崩壊。
みじめみじめ 。 >>425
そも大和説がなぜいつも論破されるか、教えてやろうか。
邪馬壹國を大和にせんがために、魏志倭人伝ほか資料を、
無茶苦茶にねじ曲げて解釈しすぎなんだよ。
そうなると当然ひどく辻褄の合わない場所とか出てくるだろ?。 >>479-480
ちゃんとテンプレに載ってて、崩壊とか全然してないが? >>427
狂ってるのはお前ら、
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの、
顔の醜い・・・・大和説者だろ?。
何の信頼性も価値もない。 >>457
不彌国は伊都国の東端から東に百里で
奴国は伊都国の西端から東南に百里か?
で国内移動里数が書かれていないのなら
どの国もどこにでも比定できる >>428
投馬国がどこか、への煽りレス以外は、大和説の説明投稿は、全くないな。
余程、大和説に自信が無くなって来ているんだろうなあ。
まあ人居なくなった頃見計らって、また罵詈雑言加えてくるんだろうけどね 。
なら今日もそれなりに遅くまで監視しておくかな?。 >>457
>周船寺付近まで居住外縁部が広がっていた、と思われ
楽浪土器が出土してる周船寺の東の今宿五郎江遺跡は何国になるんだ?
>当然(最低記載里数の百里以下の)五十里位(3.5〜4km)の大きさを持っており
伊都國と同じ千餘家の不彌國の小戸から博多駅まで直線でも10km弱あるぞ? >>486
そんなウソが平気でつけるのが九州説じいさんだな
テンプレに載ってる >>486
大和説なんて誰もいないから、説明投稿も無くて当たり前だ
ここは畿内説のスレ
大和説とやらと戦いたければ、そういうスレを探してどこかに行くといい
スレ違いだから 畿内説は絶滅危惧種w
唯一のよりどころは纏向遺跡に箸墓か
あんなのは、九州の邪馬台国と同時代に畿内に別の国があったというに過ぎない
例えれば、江戸城の石垣や堀を発見して、豊臣大阪城はここにあったと叫んでいるようなものww >>433
>>宮崎県西都市妻の都万神社 <
>そっから南に水行10陸行1月するなら邪馬台国はどこ?<
「そっから」ではないの。
「水行10陸行1月」は、「從郡至倭〜女王之所都」の所要日数の、「並記」。 >>434
>特に知識がない頃は漠然と九州説寄りだったけど
興味持って調べたら何で論争が続いているのか分からないほど
畿内優位としか思えず驚いた記憶があるな <
大和説者は、「南≠東」などの嘘吐きダマシのような、
大和にとっては都合の悪い史料や情報をこっそり隠して、
都合よく捏造した説明だけを選んで講釈説法をするから、
オーム信者らと同じように、
頭の弱い人種は、簡単に騙されるんだろうなあ、
そして、彼らの特徴は、九州説者と議論すると直ぐに負けてしまって、
大和説の説明が全く出来なくなってしまうこと。 オウム真理教は偽姫氏と同じ火の国熊本県出身の麻原彰晃が作った殺人宗教団体だよ >>436
>オレも興味もって調べ始めて20分であ、邪馬台国って畿内じゃんで終わった
>オレなんか20秒で畿内だぞ <
そりゃよっぽど、オレオレサギに弱い、信じ易いアホだった、という事だ。
勿論、そんな読書量では、九州説者との議論など全く出来ず、
大和説の説明も全く出来ず、
アホを晒してしまう事になるだけ。
今は賢者タイム 陳寿は編者だ。
それなりの膨大な文書から切り貼りして編纂しただけ。
東夷伝ごときにスペースは取れない。
元となったガチの邪馬台国への紀行記が有ったんだろうけどな。 >>438
しかし、ここ読んでると、大和説の人って、 九州説の本をまったく読んでないのが判る。
なんだか、知らない物を想像だけで批判すると、
どんなに格好わるいか、気がつく気配もない 。
3割、という事は、安部自民の得票率とほぼ同じ。
という事は、人種差別戦争的皇国史観のキョクウや自民やマスコミやキョクウにダマされた人と同じレベル。
哀れである。 >>444
>テンプレに書いてあって、決着してるな。<
テンプレも、結局は、「南≠東」の議論から逃げてしまったから、決着は付いている。 人種差別戦争的皇国史観といえば、肥人佐賀県民の牟田口廉也がげ挙げられるだろう >>500
九州説は、「南≠東」って呪文を唱えると畿内説が退散するとか思ってんのだろか 史料批判を知らなければ「南≠東」
史料批判を知らなければ泥棒から偽書を買って笑いものになる
持病の火病が悪化した元高校教員がいる 纒向から天蚕で作った絹製品が出ているが
アッサム地方もヤママユガ科の野蚕の一種から作る絹織物がある
NHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」
https://www.youtube.com/watch?v=DTsRiFeTOIo いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 福岡は漢代の硯が4点出ているな
一部の人が漢字を使っていたのなら
「奴」という字も支配者が使っていたのかもしれないな
古の罪人を移住させた植民地だったのだろうか >>509
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 になみに
「キナイセツ」
とは、九州説のお爺さんが考えた
「畿内説とは、こういうモノに違いない」
という妄想のこと >>510
九州爺さんの捏造品に根拠があるわけないな
もっともだ >>499
九州説の本ってイロイロあり過ぎるからナー >>451
>帯方郡から邪馬台国までの道程が萬二千里で佐賀県唐津までが一万里。
そこから東へ七百里進んで未だ福岡県辺り。 そこから残り千三百里は南に進路をとる、、、
ここまでの移動した距離感及び今後の歩むべき進路(南)から何で「邪馬台国は畿内」となるんだろうか?
そう唱える学者先生が居ても構わないけどドーして「畿内説が主力派」となってるのか?全く分からん。<
国民の過半数は、大和説を否定して九州説であり、
大和説の学生学者先生らは、たった3割派。
そして、この3割とは、安部自民の得票率と同じ。
という事なんでしょうね。何の事はない。
国民の3割が、同じ皇国史観の頑固なタカ派の国粋主義者であった、という事であり、
スレ主も含めて大和説者は、
「南≠東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの指摘にも拘わらず、
必死でタカ派の皇国史観国粋主義思想を広げようと宣伝している、という事。 畿内説の者に「投馬国はどこだ?」と問えば
答えがサラリと返ってくるだけだが
九州論者に聞いたら致命傷を受けるだろうな >>456
>東南方向にするために伊都国のほうを動かすというインチキ <
伊都国とて、千戸もあるんだからピンポイントではなく、
居住外縁部の到着入り口と、出発出口があるもの。
その入り口出口間の距離は、国内移動が書かれていない位だから、
おそらく、最小記載距離の百里以下の距離。 >>461
>対馬も壱岐も島内に移動の動詞がないから、1,400里とか足してはダメなんでしょ?<
国内移動の見聞記録があるし、国の大きさが特記されているから、
行程の総里数に加えなければならない。
>投馬国も邪馬台国も移動の動詞があるから、ずっと遠くにある<
「至」は「到着を示す文字」に使われており、「至」しか書かれていないから、
「途中移動の記載」はなく、
魏使らは、途中移動を殆どしていない、という事になる。 >>464
>>古田さんは、「移動の動詞」の動詞そのものではなくても、
「途中移動があった事を示す何らかの文言の有る」という事を根拠にされ、<
>詐欺じゃないか<
古田さんは、きちんと「記載の例証」根拠を挙げておられた。 >>466
>>奴国と投馬國へは、そのような「途中移動を示す文言」が全くないから、<
>「東す」も「南す」も 正真正銘「移動の動詞」だよ。<
先頭に書かれた方向は、(途中の移動方向ではなく)、
「出発時点での移動」そのものの記載になる。 >>479
逃げ回ってるのは九州説だろ
投馬国はどこよ >>469
>自由人的? 陳寿は役人だぞ <
だから「的」を付けて置いたのであり、
陳寿は「国家の命令で三国志を書いた」のではないから、皇帝に提出する義務がなく、
だから、皇帝が役人に、書写して来る事を命じなければならなかった。 >>523
反日の古田は糸島、今津湾周辺の遺跡も地理も知らないから比定がおかしい >>528
興味があれば、九州説本読んだら
畿内説の宗教に洗脳されすぎ
あんた、畿内説も語れないバカかもな 残念 >>529
「的」とか「大体」とか
ゴマカシばっかり >>533
また逃げ回ってるよ、チキン九州爺w
w
w >>532
下らん奴は無視しろよ
ここは馬鹿がくるスレじゃねーし >>533
ごたくはいらんから九州説は投馬国をどこに比決定して
そこからどういうルートで邪馬台国に至ると考えてるの? >>533
また悪口並べてゴマカシてる
九州説って弱すぎる >>491
並記ってどういう事だよ
そうなると投馬国からの水行10陸行1月の出発点はどこになるの? >>470
>漢書地理志なんだけどな <
陳寿は、分郡後の晋代に魏志の「地の文」を書いており、
そこで書かれた「会稽」とは、以前から会稽山付近にある「会稽郡」である事になる。
だから、(魏略も引用した)魏使らの
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」
に書かれた「会稽」の記載も、以前から会稽山付近にある「会稽郡」である事になり、
「所有無與tan耳朱崖同」も習俗の類似を指摘しているだけであり、
始めから「会稽=tan耳朱崖」だ、と言っている訳ではない。 最近レスは進むが4,5人で喧嘩すんなよ
見苦しい、読むにたえねーよ >>496
そんな程度の知識の人間に手も足も出ない九州説 やっぱり人の居ない頃を見計らって罵詈雑言だったなザラコクは >>545
会稽は北緯30度の会稽だよ
九州よりずっと南だ
会稽東治は更に南の台湾あたり >>545
少康の庶子無余がどこに封建されたかは、具体的な史料がない。
その子孫だと言われる勾践の本拠地が、会稽山麓だというだけ >>473
>「途中移動の説明」とやらなら 不弥国にもないから 古田説はダメだよね<
「東行至不彌國」は、「東するなり、行くなり、不彌國に至るなり」だから、
「東」が出発の説明であり、「行」が途中移動の説明である事になる。
それに対して例えば「東南至奴國」は、「東南するなり、奴国に至るなり」であり、
途中移動の「行」が書かれておらず、だから魏使らは「行っておらず」、
だから、(主線行程ではなく)側副傍線行程の記載である事になる。 >>553
「東南するなり」って移動の動詞が書かれてるよな。
詐欺はダメ >>475
>>全てその直前國からの側副傍線行程である事になるので、<
>なら邪馬台国も直前國からの側副傍線行程なのか? <
いや、不彌國からの「出発」の「南す」だけであり、
「途中移動」も書かれておらず、直ぐに「至邪馬壹國」だけであるから、
不彌國の南に、(殆ど途中移動無しに)直ぐに邪馬壹國に至った事になる。 >>556
移動の動詞がえるんだから、いいでしょ? 訂正
>>556
移動の動詞があるんだから、いいでしょ? >>560
基本が分ってないようだね
裏付けのとれる方位はok
とれない方位はnegative
あたりまえだ >>556
>不彌國の南に、(殆ど途中移動無しに)直ぐに邪馬壹國に至った事になる。
南した日数が40日くらい書いてあるんですけど >>478
>それは現地調査で否定された <
いや、これも、現地調査学者が、
「発掘事実の説明」の次の、「墳裾の62個の年代などの解釈」において、
大和説先にありきという「結論先にありき」で、
墳頂の主体と墳裾の一体性とほぼ同時性を、恣意的に50年位ずらしたインチキ説明、
をしたもの。詳しくは、
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
参照。 >>564
現地調査を否定して、現場ぜんぜん見てない人の意見を
盲信すると? >>564
>墳頂の主体と墳裾の一体性とほぼ同時性を、恣意的に50年位ずらしたインチキ説明、
だという証拠は? >>482
>ちゃんとテンプレに載ってて、崩壊とか全然してないが?<
そりゃ、スレ主は、
始めから都合の悪い「南」や「尚方作鏡」の議論を隠して逃げて、
都合がよくなりそうな話ばかりを曲解する、というインチキ・・・・ケダモノサギシであり、
そんな・・・・の話など、全く論拠にも説明にもならない。 >>564
調査した学者が
>大和説先にありきという「結論先にありき」で、
だって証拠ださないと
悪質な誹謗中傷になるんだけど?
??? >>483
>>そも大和説がなぜいつも論破されるか、教えてやろうか。
邪馬壹國を大和にせんがために、魏志倭人伝ほか資料を、 無茶苦茶にねじ曲げて解釈しすぎなんだよ。
そうなると当然ひどく辻褄の合わない場所とか出てくるだろ?。<
>どこ?<
「南→東」や「平原の21個の尚方作鏡の無視」など。 >>525
愚かなアンタが
ダイホンエー発に騙されてる
だだよ >>485
>不彌国は伊都国の東端から東に百里で
奴国は伊都国の西端から東南に百里か? <
違うよ。奴国は、伊都国の「東南端」から東南百里で入り口だ。
>で国内移動里数が書かれていないのなら <
国内移動里数が書かれていない場合は、
最小里記載単位である「百里」以下であった場合と、
萬戸以上の大国で、国内移動里数の測定が困難で出来なかったか?場合と、
投馬國のように、倭人からの伝聞であった場合などだ。
>どの国もどこにでも比定できる<
出来ない。「居住外縁部」や「方向」や「百里以下」という制限がある。 >>487
>>周船寺付近まで居住外縁部が広がっていた、と思われ <
>楽浪土器が出土してる周船寺の東の今宿五郎江遺跡は何国になるんだ? <
不明だ。
また、当時は、各国の居住外縁部同士が必ずしも接していていた訳ではなく、
また、末盧國と伊都国の間の500里のような場合にも、全く無人であった訳でもなく、
別の微小な部族国が存在していた可能性もある。
>当然(最低記載里数の百里以下の)五十里位(3.5〜4km)の大きさを持っており<
>伊都國と同じ千餘家の不彌國の小戸から博多駅まで直線でも10km弱あるぞ?<
おそらく博多駅までは達していない。
古田さんの比定でも、城南区の福岡大学の北方の海岸沿いだ。 テンプレで回答がでてる反論はやめて欲しいな
スレ主に失礼だろ、
まずテンプレ理解してからカキコすべし >>574
伊都国の「東南端」が前原か?
「百里以下」などの制限はお前が都合がいいように決めた仮説で
不彌国の東西距離は百里以下になってないし、
糸島が伊都国という通説の考古根拠になってる地点も外してしまってるし
今宿五郎江遺跡も飛んでるから1里=76.5mで比定することが間違ってる
連呼で言い張ってるだけ ザラコクがあんまりトンチンカンな事言うから
どんどん人が居なくなる九州説 >>489
>大和説なんて誰もいないから、説明投稿も無くて当たり前だ <
ウソを付くな。
誰か?が紹介した4人の有名な権力学者は、「大和」や「邪馬台国」と書いていた筈だ。
という事は、「畿内説」を唱えた方が、異端者だ。
>ここは畿内説のスレ
大和説とやらと戦いたければ、そういうスレを探してどこかに行くといい
スレ違いだから <
嫌だ。
掲示板は、原則として「投稿の自由」である筈だ。 >>494
>なぜ突然また起点に戻るの? <
陳寿にとっては、
里数以外に、日数も記載しておく事が必要である、
と考えられたから。 >>581
なら、どうしてあんな変な場所に書くの?
普通なら万二千里と併記するのに >>528
投馬国は宮崎県西都市妻の都万神社を中心とする宮崎平野だ。
5万戸を養える。
何度も書き込んでいるのに、都合が歩悪いから無視するな。 >>502
>九州説は、「南≠東」って呪文を唱えると畿内説が退散するとか思ってんのだろか <
そりゃ、
思想宗教にクルって、
「南→東」などの史料事実の否定曲解するような嘘吐きダマシをするような人種は、
醜い顔の・・・・であるから、
彼らが死ぬまで永久に説得出来る筈がない、
と思っているよ。
だから、私たち九州説者の投稿説明対象は、世間の人々であり、
世間の人々がこれ以上、・・・・大和説の嘘吐きダマシに騙されないように、
注意を喚起するために投稿しているの。 里数の記載部分がそもそも邪馬台国まで到達してないのに
どうして途中から日数でしかも帯方から書き直す必要があったのか >>584
それなら、そこから南に水行10日陸行1月した先にある邪馬台国は
現在で言うとどの辺りになるかお答え頂こう
都合が悪いからって逃げるなよ >>588
魏志倭人伝にはそう書かれてないようだが >>588
そうなると投馬国は?
宮崎県妻市じゃなかったの? >>585
>私たち九州説者
お前ら泥棒と商売してた反日集団と世間の人々を一緒にするな >>503
史料批判を知らず、「南→東」の嘘吐きダマシをする。
史料批判も出来ずに、桐原サギシを使い、和田キヨエを篭絡して笑いものになる。
持病の「タカ派の人種差別殺戮戦争の皇国史観国粋主義の妄想」が悪化した大和説者がいる。 >>593
お前がしきりに言ってる人種差別殺戮戦争の皇国史観国粋主義の肥人佐賀県民牟田口廉也が
畿内説だったかどうかは知らんぞ
佐賀県民に確認してみろ
人間性は古田と近いと思う
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9F%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%BB%89%E4%B9%9F 投馬国を宮崎県妻に比定すれば邪馬台国が迷子
かといって邪馬台国を九州北部にすれば今度は投馬国が迷子
九州説は完全に詰んでますな >>505
>纒向から天蚕で作った絹製品が出ているが
アッサム地方もヤママユガ科の野蚕の一種から作る絹織物がある
NHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」・・・<
そりゃ、倭人は「所有無與tan耳朱崖同」であるから、
そこから九州を通って纏向に伝えられた可能性もあるし、
西王母からモンゴルを経て来た流民が纏向に直接的に流入して来て、
アッサムと同じような絹織物を齎された可能性もある。 投馬国が筑後周辺で
八女周辺の旧郡名である
上妻郡、下妻郡でしょうか?
トウマ国じゃなくてツマ国と読むのかな? >>522
九州説の者に「投馬国はどこだ?」と問えば、
可能性のある答えがサラリと返ってくるだけだが、
大和説論者に聞いたら、始めから「南≠東」で致命傷を受ける事になるだけだろうなあ。 >>528
>逃げ回ってるのは九州説だろ 投馬国はどこよ<
南九州。 今のところ野蚕は九州では出ていないようだけどな
倭人の風習である卜骨も漢代は出ていない
畿内の庄内式土器を作るようになってから2ヶ所だけ出ている
NHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」
https://www.youtube.com/watch?v=DTsRiFeTOIo >>530
タカ派の人種差別的戦争狂の皇国史観国粋キョクウの、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説者は、
倭人伝も、人類の常識も、糸島今津湾周辺の遺跡も地理も、
古田説も知らない・・・・アホだから、
始めから、比定がおかしい 。 >>531
>さらりと吉備<
「南≠東」などによって、サラリと✖。 >>598
投馬国は不彌国から水行20日した先だから
不彌国のすぐ近くで陸続きの筑後周辺にはない
>>599
畿内説では瀬戸内海の途中にある鞆(とも)の浦に比定している
古来からの瀬戸内海交通の要衝地
>>600
ならそこから先水行10日陸行1月した先にある
邪馬台国はどこになる?これ聞くとみんな逃げるんだよな >>532
>だから移動の動詞だろ<
「出発」の移動記載は、「途中」の移動記載にはならない。 そもそも九州南部は熊襲の地って魏志倭人伝に書いてあるだろ
投馬国を宮崎県とすればその時点で邪馬台国は
九州最南端にもって行くしかなくなり魏志倭人伝と矛盾する >>603
糸島今津湾周辺の遺跡を調査した研究者は畿内説
反日人種古田は泥棒と商売してたから人類の常識とは違う
人種差別的戦争狂の皇国史観国粋キョクウの肥人佐賀県民牟田口廉也は
>>601の動画をみたらわかる >>534
>「的」とか「大体」とか ゴマカシばっかり <
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、帰納的確率的推論をするしかなく、
絶対断定など、有り得ない。
という事は、
「「的」とか「大体」とか ゴマカシばっかり」というこの男は、
絶対断定を要求する・・・・アホのサギシである訳で。 >>535
また逃げ回ってるよ、「南→東」などの嘘吐きダマシのチキン爺w
w
w 。 >>536
「南→東」などの嘘吐きダマシの・・・・大和説者である事が、
世間の人々にもはっきり判るような下らん奴の投稿は、無視しような。
ここは、・・・・アホがくるスレじゃねーし 。 >>538
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの、・・・・アホの大和説者は、
大和説の主張も出来ずに、逃げてばっかり。 反日古田集団は鸚鵡返しだから
嘘吐きダマシもたぶん火病古田が誰か世間の人に言われたんだろう 九州北部にも南部にもない邪馬台国
残る候補地は畿内しかないじゃねーか
すなわち不彌国から南に水行と書いてある部分は本当は東に水行 嘘ついてるのは明らかにザラコク
最も誰も騙せてないようだけど >>539
>ごたくはいらんから九州説は投馬国をどこに比決定して<
南九州。
>そこからどういうルートで邪馬台国に至ると考えてるの?<
「そこから」ではなく、
元の不彌國の、すぐ南に邪馬壹國がある、
って言ってるの。 >>540
また悪口並べてゴマカシてる。
「南→東」などの史料事実を否定曲解の嘘吐きダマシの大和説って、弱すぎる 。 >>616
邪馬台国は投馬国より南に水行10日陸行1月した先にあると
魏志倭人伝に書いてあるぞ
投馬国が南九州なら邪馬台国は沖縄辺りになるんじゃないの? >>541
>並記ってどういう事だよ <
「從郡至倭から女王之所都」の行程の、里数説明と日数説明とを、並べて記載している。
>そうなると投馬国からの水行10陸行1月の出発点はどこになるの?<
不彌國。 >>604
>サラリと×<
地酒ふいた(めーがらなんやろ?しゅーげん?そーげん
吉備やと南→東をダブリューやもんな(奈良に持ってきたいんなら余計にダック案のがええんちゃうかー(半島南岸 >>544
>攻めてるのは畿内説なんだが <
大和説の説明が全く出来ずに、
説明し尽くされた九州説の説明に知らん振りして「説明がなかった」事にして、
同じ事での質問を繰り返している・・・・アホが、
大和説者なんだが。 つーかおじーちゃんらもーねさい(ねてへんやろ?ずっと 説明し尽くされた九州説 ×
連呼し続けている反日説 ○ >>620
もうダメだな
邪馬台国は不彌國の百里もかからない南にあると言っておきながら
南に水行10日陸行1月の出発点が不彌国だと言う
自分の言ってる事に自分で矛盾してら >>546
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの、
・・・・アホの大和説者の堕罪。 >>548
そんな程度の知識の普通の人間にも、
「南→東」などの嘘吐きダマシの指摘で、手も足も出ないのが、
・・・・アホの大和説のキョクウのサギシ。 >>549
やっぱり、人の居ない頃を見計らっての罵詈雑言だったな、
「南→東」などの嘘吐きダマシのキョクウの・・・・アホサギシは。 どうやらザラコクは壁に向かって独り言つぶやくモードに移行したらしい >550
陳寿が書いた会稽は、会稽山付近の会稽であり。
「会稽東治」は北緯30度の付近であり、
その「當在・・・之東」は、ほぼ九州だ。
>会稽東治は更に南の台湾あたり<
この男は、まだ、
世間の人々への嘘吐きダマシのダマシ宣伝をやっている・・・・。 >>551
いや、「南→東」などの嘘吐きダマシの・・・・アホの大和説者は、
四六時中罵詈雑言。 >>552
>少康の庶子無余がどこに封建されたかは、具体的な史料がない。
その子孫だと言われる勾践の本拠地が、会稽山麓だというだけ <
陳寿が地の文として書いた「会稽」と、「少康之子封於會稽」の「会稽」は、
当然晋代に、会稽山があった付近の地域だ、というつもりだ。 >>589
そこから?
なんで?
帯方郡からだろ? >>634
会稽山のはるかに遠い東に倭地があっても司馬氏にとって何の功績にもならん
反日人種は自己中心にしか考えない人種だからな >>554
>「東南するなり」って移動の動詞が書かれてるよな。 詐欺はダメ <
有無を問題にしているのは、「途中での移動を示す説明文言」の有無であり、
出発時の方向を示す文言は、「途中」ではない。
・・・・詐欺はダメ、だよ。 日程は全て帯方郡が起点。
つまり、末盧国から水行10日で投馬国(宮崎県) >>625
>南に水行10日陸行1月の出発点が不彌国だと言う
キナイセツが勝手に捏造して騒いでいるだけだよ。 >>635
投馬国の次に南に水行10日陸行1月で邪馬台国に至ると
魏志倭人伝に書いてあるからだよ >>638
自分の書いた文章もう1回読み直してみ?
そんな短い中でとんでもない矛盾を含む文なんてそうそうないぞ? 伊作もそうだったが、ソント人種は興奮すると支離滅裂になるからな >>589
魏志倭人伝を読んで距離表記と日数表記があるのはわかるだろ?
違う算出法で書いているのはわかるだろ? >>555
>水行も移動の動詞だよな <
問題になるのは、行程記載である場合の、
出発記載と到着記記載の間にある「途中での移動を示す文言」であり、
だから、「東南す+陸行五百里す+到伊都國す」の「陸行五百里す」は、
実際の途中移動であるが、
「水行二十日」などの「水行」は、
二十日という日数での「全体の移動の様態を示す文言」であって、
出発と到着の行程の途中の移動の形になっていないから、「途中移動」ではない。 >>639
おじーちゃんらまだねてないんか
かみあわんのはたぶん >>1 くんかそのファンが古田本読んでへんからやなー
古田君の投げ馬へと邪馬壹への起点ちゃう理由は読んでもよーわからんかった(つーかここどこやろ? >>644
それが?
>>645
不彌国から投馬国に船で水行20日する
水行は移動の動詞として何の問題もないけれど >>641
畿内説がまたマッチポンプしているのか。 >>644
里程
帯方郡から邪馬台国まで一万二千里
日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1日
帯方郡から投馬国まで水行20日
陸行1日は末盧国から伊都国まで。
末盧国から投馬国までは水行10日。 倭国の都は筑紫の伊都だよ。
魏志には帯方郡から12000里で女王国とされ、10000里で九州北岸に到着している(対馬海峡の幅が3000里とされている)。
福岡県を出ることはまずない。
狭い糸島水道と日向峠以外には進入路がない一方、クシフル山からは糸島平野も博多湾も一望できた。
伊都の東側にクシフル山があり、その日向峠に山城を築き、高千穂宮と呼ばれた。
邇邇芸が、ここは日の出も夕日も照って、朝鮮半島にもまっすぐ道が続く良いところだと評した。
防衛にも外交にも非常に有利だった。
奈良時代には怡土城、戦国時代には高祖城と呼ばれた。
伊都国の東にそびえる王宮は太陽信仰や神仙思想といった初期の神道の舞台でもあり、魏志には日本独自の神道が鬼道の呼称で記された。
魏志には、伊都には代々王がいて、女王が治めていると書かれている。
伊都より北には一大卒を置き検察し、南は狗奴国(熊本)、東には海を渡ってやはり倭人の住む倭地(本州)があるとされている。
伊都は王権の象徴である金印や八咫の鏡が継承されてきた倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は死後に伊都の平原遺跡に埋葬され、八咫の鏡を含む三種の神器が副葬され、鳥居が建てられた。 >>648
九州説がまた意味のわからない言いがかりをつけるのか 邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている
1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)
斯馬国〜-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算 宮崎は、博多湾沿岸とを結びつける考古学的根拠がないから無理 おらわかったぞ!
酔ったらわかることもある!
邪馬壹はなーどーでもどこでもえーんや!
おらごくーさんぞーほーしはなつめまさこでえーよ^^
13すれかけもち(てきとーれすのりゆー >>655
>>653
>宮崎は、博多湾沿岸とを結びつける考古学的根拠がないから無理 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 倭国は対馬海峡であり、肥後狗奴国や、日向投馬国は女王国の中に含まれない。
だから人口も含めない。 >>659
そんな言い訳が通じると思っているのか?
魏志倭人伝には投馬国から水行10日陸行1月で邪馬台国に至ると
はっきり書いてある テエメーら
エエ加減にセーヨ
2.3人で独占するなバカテレ
俺が着込んだの無視かヨ >>557
>奴國までの百里を測量したなら百里行ったんだろw <
いや、百里位なら、肉眼でも見えるから、
歩測でなくても、簡易三角測量や目測でも計測出来る。 >>667
目測で計測出来るなら東行百里も目測でいいだろ
どうせいいかげんな距離だから >>558
>移動の動詞がえるんだから、いいでしょ? <
出発説明と到着説明の間にある「途中移動の説明」でなくては、
移動した説明にはならず、
ダメ。 テンプレに従い畿内説を深堀するスレだろ
すれ主 交通整理してくれ
畿内説を語るスレで 畿内説俺が書き込んで
畿内説の論者に意見聞こうとしても レス速過ぎるのか知らんが無視される
時間差でザラコク?意見を言うけど 時遅し >>559
>不弥国だって「東行する」だけでしゃ? <
「東す」が出発で、「行く」が途中で、「至不彌國」が到着。 >>669=馬鹿
イイカゲンの根拠示せ
馬鹿なら馬鹿なりの返答があるだろ >>672
「南す」が出発で、「水行」が途中で、「至邪馬台国」が到着
なんだ水行は移動の動詞でいいんじゃないか >>562
>基本が分ってないようだね 裏付けのとれる方位はok とれない方位はnegative
あたりまえだ <
基本が分ってないようだね。
魏使らは、当然周髀算経や礼記の方向の決め方を知っているから、
魏使らが関わった方向記載はほぼ100%間違えていない。
あたりまえだ 。 水行と途中移動の動詞が書かれてるから
邪馬台国へ向かうには不彌国から水行するんだね >>666
ヒント>放射説
岩波文庫にちょっと載ってるよ
これだと距離表記と日数表記の使い分けも出来てる >>679
放射説は実際と当てはまらないから採用できないなぁ >>563
>>不彌國の南に、(殆ど途中移動無しに)直ぐに邪馬壹國に至った事になる。<
>南した日数が40日くらい書いてあるんですけど <
この男もまた、同じ事を知らん振りして質問をする・・・・詐欺師らしい。
「水行十日陸行一月」は、「女王之所都」の直後に書かれているから、
「從郡至倭→女王之所都」の所要日数説明。 >>565
>不彌國の南辺りに何か目ぼしい遺跡ってあったっけ?<
広大な弥生銀座がある。 >>607
九州南部から舟で南へ行くと、黒潮に乗って、何の目印もない大海原を流され、10日で潮岬に流れ着く。
ヤマトまで陸行一カ月。道なき道なら1日5kmも進めないだろう。 >>566
>現地調査を否定して、現場ぜんぜん見てない人の意見を 盲信すると?<
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説考古学者らの、
発掘事実説明は、ある程度信頼するが、
その発掘事実への歴史的な解釈説明は、始めから全く信頼出来ない。 >>680
実際ってなんだよw
目的地ありきな実際か? >>691
伊都国だか奴国だから放射状に読むんだろ
それで南に水行って出てくるじゃん
だけど南に水行できるような川がないし >>682
比恵那珂遺跡の北は博多遺跡
地行の南に弥生朝鮮銀座とかは無い >>692
水行は海岸に沿って海上を移動すること。 >>692
南至投馬國水行二十日
水行二十日で南の投馬國へ至るんだから
べつに南にずっと水行二十日ってわけじゃないぜ
迂回したっていいんだぜ
だから二十日もかかるんだよ >>696
南に水行すると魏志倭人伝にあるんだけど
九州北部から海岸に沿って海上移動するなら東か西じゃないか >>670
「東行至不彌國百里」のどこが
「途中移動の説明」だ
インチキはダメ。 >>697
少なくとも出発する方向は南なんだろ?
伊都国か奴国から南に水行はできる場所がないと思うぞ 語順説の仮説を言張るだけじゃだめなんだよ
研究者によって考古学的に証明されないと
ソント人種古田集団は日本の学者からは相手にされてない >>569
>調査した学者が
>>大和説先にありきという「結論先にありき」で、<
だって証拠ださないと 悪質な誹謗中傷になるんだけど? ??? <
祇園山調査学者は、
墳裾の62個の複数埋葬を含む主体群が、
墳頂の箱式石棺に向きを集中する配置である事や、
数十年も後の追葬では、
草ぼうぼうになってしまって前の墓壹が判らなくなってしまって、
墓の重複や前墓の破壊が避けられないのに、
殆ど重複や破壊が起こっていないから、
ほぼ同時に一斉に埋葬された事になる事を無視して、
50年位の間の集団墓である、というインチキ報告を書いたから。 >>700
それなら、帯方郡あたりの記述にあるように
乍東乍南と書かれるはず >>703
反日ソント集団がインチキ報告と言ってるだけだろ >>703
現場を見もしないトンデモ九州説は
自分の妄想を学者の見た現実より優先する >>573
>あってるし<
この掲示板でもスレ主も、
「南→東」や「平原の21個の尚方作鏡の無視」などの指摘に、
何の反論も出来ずに逃げただけだし。 >>701
出発の方向が南なんじゃなくて目的地が南だよ
出発というか移動の方向を表すときはすぐ後ろに動詞がつく
東行至不彌國百里みたいに >>703
>墳頂の箱式石棺に向きを集中する配置である事や、
あほか!
斜面だから等高線に沿って棺を並べるに決まってるだろう
あまりにも酷いコジツケ 放射読み説にしたって邪馬台国に行くには
結局伊都から南に水行10日陸行1月する事になるから
邪馬台国は九州の南部にしなきゃならないけど
そこは狗奴国だからなぁ >>709
出発の方向だけ書いて目的地がどっちにあるかは知らん顔
なんて馬鹿な文章誰が書く >>709
それならば、帯方郡あたりの記述に出てくる
乍南乍東という表現はおかしいという事になる
最初から至南とだけ書けばいい事だからな >>708
目の前の現実まで捏造したら
あんたの信頼ゼロだって! 倭人伝に書いてある工程だけ読んで邪馬台国がどこにあるか判る、なんてのが幻想なんだよ。 >>713
「乍南乍東」は実際に魏使が経験したビビッドな表現
「南至邪馬台国」は伝聞そのもの >>703
>草ぼうぼうになってしまって前の墓壹が判らなくなってしまって、
>墓の重複や前墓の破壊が避けられないのに、
石で出来てるんですけど >>717
伝聞だから正確な情報でなくても構わないと言うなら
邪馬台国は実際は南じゃなくてもいいという事になる
例えば東とか >>722
帯方郡から放射読みするの?
邪馬台国は朝鮮半島? >>712
東行至不彌國百里に関して言えば目的地も東だよ
百里東に行ったら不彌國に至る
水行二十日で南の投馬國へ至る
なんかおかしい?
>>713
韓国はいろいろ寄港してったようだからな、倭人伝の前を読んでごらん
乍南乍東という表現、やっとここまで来た感が伝わってくるw >>727
なんで「南」と聞いたのが「東」と聞いたのと同じになるの? >>726
いろいろ寄港してったような記述がどこにも見当たらないのですが >>729
本当は東にあるのに南と言われたかも知れないだろ >>730
七千里も行くのに途中で寄港しないわけがない >>733
それだと>>721に反論する意味なくね? >>733
それじゃ邪馬台国はなかったかもしれないわけだね >>734
しかしいろいろ寄港してもしなくても
結局は乍南乍東と書かれるのでは >>735
双方とも伝聞であるという点については同等である
あー、1みたいな文章 >>737
かもしれないね
可能性としては考えておかないといけない >>740
ならば苦労して航海したという事を
どこから読み取ればいいのでしょうか >>739
いや伝聞で聞いたと証言があるのは「南」
「東」でも同じというのは倭人がウソをついてんだろ、というトンデモ解釈、ナンデモアリ論法 >>745
本当にそうですか?
例えば末羅国あたりには道中草が深くて
前の人の背中が見えないという記述が出てきます
これは道なき道を進む魏使の苦労がありありと伝わってきます
乍南乍東だけで果たして魏使が苦労したと本当に言えるのでしょうか?
ていうかどうでもいいわ >>747
魏志倭人伝と考古学的物証のセットで
九州北部は真っ先に除外されるんだよ! 北部九州は漢代から貴重な舶載鏡が流入して
糸島の三雲、深江には楽浪土器が多量に持ち込まれているのに
魏使を案内するのが道なき道であること自体がおかしいわけ >>753
普段魏使が通らないところを記録のため国々の様子を見るためにわざわざ通った可能性はあるけどね >>753
いまの末盧国は寂れてますって情報では? 伊都國は郡使往來常所駐だから伊都國までは確実に来てると思う >>762
邪馬台国にだって勅使が行ったろう
卑弥呼を叙任するんだもの >>759
郡役人でも楽浪の商人でも
郡と親しい韓人の船乗りでも
誰でも >>764
邪馬台国の場所を水行20日とか書いてるから
実際は行ってないな >>766
その誰かさんの話がどうして正史に載っちゃうの? 倭人「魏使さま、末盧に着きましたぞ」
魏使「おお、これまでとは違ってかなり大きな島じゃな」
倭人「次の目的地は、向こうに見える伊都でございます」
魏使「地続きならば、ここからは陸路じゃな」
倭人「いえ、このまま船でございます」
魏使「なんじゃと!なぜ陸路を使わぬ?(もう慣れぬ船旅は勘弁じゃ)」
倭人「それが、草木が生い茂っている中を掻き分けて進むような道しかないのでございます(船の方が早くて楽なんだよ)」
魏使「さようか…それならば致し方ないのう…(ようやく船旅から解放されると思ったのに…)」 魏使「下っ端役人よ、お前ちょっと行って見てこい」
下っ端「ひぇぇ」
数時間後
下っ端「末盧は結構大きな街ですが、伊都に行く陸路は山越えです。すっごく遠回りです」
魏使「じゃ、船で参ろう」(湾の横断かぁ・・・さっきの船旅の半分くらいかのぅ) >>751
魏使の報告書に決まっているだろ。
バカなの? >>758
わざと他の重要地域を避けていたという考え方はあるね。 待て、これはスレ主の罠だ。
何でとか、理由は、とか聞いてレス数を水増ししているんだ。 >>781
思わず「九州説に理由はありません」って弱音を吐くキウス 楽浪土器は三雲(例外的に内陸)と深江で多量と御床松原、元岡、今宿、比恵那珂遺跡(古墳初)
の津があるところだから船だよ
唐津からは出ないだろ 弥生時代の王を「オウ」
弥生時代の国を「クニ」
と書いて区別する学者もいる
弥生王墓は「オーボ」だな >>771
魏は里を使う
倭人は里を知らず日数で距離を測るとある >>775
南船北馬
赤壁の連鐶の計
華北人は船に慣れていない
そして対馬海峡は結構荒れる 倭人伝では明らかに魏の人が行ってないところに里数が書いてあるし
中国人が行ったところに里数が書いてない史料もある 女王国東渡海千余里、復有国、皆倭種。
又有侏儒国在其南、人長三四尺、去女王四千余里。
これ、あきらかに中国人は行ってないよね だいたい考古学で発掘できる場所、
これは謂れのない所だし。
そこから出て来た例えば纏向遺跡の大型建物が卑弥呼の宮なんてありえない。
卑弥呼ほどの人物の宮なら何なりかメモライスされ今でも神社か寺になってるはず。
つまり考古学とはそれ以外のカス地域しか発掘できないのだ。 元々、九州を基盤とし壱岐、対馬、朝鮮半島まで勢力が及ぶ連合国と
それとは別に畿内を中心に徐々に勢力範囲を拡げて行った王国が在ったと言う事だろう。
前者が邪馬台国等を抱える中国公認の倭王が束ねる諸国連合王権で
後者が後にヤマト王権へと発展した新興国。
畿内の王国は中国には朝貢せず次々と近隣諸国をその支配下に置いて行った、、、
大国に媚びない、他国とは連るまないのが畿内王権の特徴で邪馬台国のソレとはイメージが違うんだよね。 >>799
残念ながら
九州を基盤とし壱岐、対馬、朝鮮半島まで勢力が及ぶ連合国
なんてあった痕跡はない >>576
>テンプレで回答がでてる反論はやめて欲しいな スレ主に失礼だろ、
まずテンプレ理解してからカキコすべし<
テンプレに対して反論がでてる場合には、スレ主はきちんと回答して欲しいな。
反論投稿者に対してに失礼だろ。
反論を拒否するんなら、スレを削除して、ホームページでも作るべし。
でなければ、まず反論を理解してからテンプレヲカキコすべし 。 >>577
>伊都国の「東南端」が前原か?<
おそらく違うね。
>「百里以下」などの制限はお前が都合がいいように決めた仮説で
不彌国の東西距離は百里以下になってないし、<
関係がない。魏使らは、不彌國から南に向かったのであり、
東端までは行っていないし、計測もしていない。
>糸島が伊都国という通説の考古根拠になってる地点も外してしまってるし<
何だか、天誅もそんな事を言ってたが、
発掘結果を言わなかったから、おそらく失敗発掘であったんだろう。
>今宿五郎江遺跡も飛んでるから1里=76.5mで比定することが間違ってる
連呼で言い張ってるだけ <
伊都国の国内移動距離が書かれていない限り、今宿の所属も不明だ。 >>806
それが不明だと邪馬台国も不明にならないの? >>578
>ザラコクがあんまりトンチンカンな事言うから どんどん人が居なくなる九州説 <
ザラコクに負けて、少しはまともだった大和説者はどんどん居なくなって、
残っているのは、人種差別的殺人戦争狂の国粋皇国史観を、
あからさまに鼓舞扇動する・・・・ケダモノばかりになった大和説。 フルタ説じゃ国の中の移動距離もあるんだから、不弥国に着く前に12000里終わってるね >>809
ザラコクに負ける人類なんて存在するの? >>580
>自由なら、ウソついてもいいの? <
投稿の自由はあっても、思想信条などの自由を犯す事や人種差別的殺戮戦争をすることなどは、憲法から禁止されている。 >>580
>それも古田の恣意だろう <
違うね。
私は、
古田さんの「史料批判をした史料事実からの帰納的確率的推論」という論理思考法を使って、
古田さんが言われなかった事まで進んで、新しい知見をしゃべっているだけだ。 >>583
>なら、どうしてあんな変な場所に書くの? 普通なら万二千里と併記するのに <
行程の目的地の「女王之所都」に着いた、という事を書いたから、
そこで所要日数を書くのが一番判り易いから。 >>587
>里数の記載部分がそもそも邪馬台国まで到達してないのに <
邪馬壹國の入り口まで示された。
>どうして途中から日数でしかも帯方から書き直す必要があったのか<
目的地の「女王之所都」に着いた事を書いたから。 >>589
>それなら、そこから南に水行10日陸行1月した先にある邪馬台国は
現在で言うとどの辺りになるかお答え頂こう<
「そこから南に水行10日陸行1月した先にある邪馬台国」なんて、存在しない。
不彌國の南に殆ど接して邪馬壹國があり、その中に女王之所都がある。
>都合が悪いからって逃げるなよ<
こりゃ、やくざ暴力団の恐喝に持ち込む文言と、全く同じだな。
・・・・ケダモノ大和説者という人種は、話したって話が通じる訳がないし、
怖いだけから、放置。 >>592
>>私たち九州説者 <
>お前ら泥棒と商売してた反日集団と世間の人々を一緒にするな <
ほら、また出て来た。
人種差別的殺戮戦争狂の、国粋皇国史観の大和説のキョクウの・・・・ケダモノが・・・。 >>594
>お前がしきりに言ってる人種差別殺戮戦争の皇国史観国粋主義の肥人佐賀県民牟田口廉也が
畿内説だったかどうかは知らんぞ 佐賀県民に確認してみろ 人間性は古田と近いと思う ・・・<
これもまた、
人種差別的殺人戦争狂の、国粋皇国史観の大和説の、キョクウの・・・・ケダモノそのものの投稿だね。
大和説者って、こんな怖い・・・・ばっかり。 過去スレ読め テンプレ読め
話がループしすぎだ
何度も何度も同じカキコミするな馬鹿ども >>596
>投馬国を宮崎県妻に比定すれば邪馬台国が迷子 <
投馬國は不彌國からの傍線行程だから、邪馬壹國は不彌國のすぐ南にあって、迷子にならない。
>かといって邪馬台国を九州北部にすれば今度は投馬国が迷子 <
投馬國は、不彌國からの側副傍線行程國説明であるから、迷子にならない。
>九州説は完全に詰んでますな<
大和説者って人種は、皆、完全にクルっていますな。 >>601
>今のところ野蚕は九州では出ていないようだけどな 倭人の風習である卜骨も漢代は出ていない
畿内の庄内式土器を作るようになってから2ヶ所だけ出ている
NHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」<
そもそも、この男も、NHKも、
「南→東」などの嘘つき騙しの、国粋皇国史観文部省や学会にべったりの、
思想宗教的偏向の・・・・人種なんだから、
そんな・・・・の投稿自体にも、何の信頼性もないんですよね。 >>816
>目的地の「女王之所都」に着いた事を書いたから。
なら、なんでそう書かない >>605
>畿内説では瀬戸内海の途中にある鞆(とも)の浦に比定している
古来からの瀬戸内海交通の要衝地 <
これも「南≠東」に拠って、×。
>ならそこから先水行10日陸行1月した先にある
邪馬台国はどこになる?これ聞くとみんな逃げるんだよな <
何だこりゃ?。これは例の・・・・やくざ暴力団の投稿ではないか。
返事を書いて、損をした。 >>607
>そもそも九州南部は熊襲の地って魏志倭人伝に書いてあるだろ
投馬国を宮崎県とすればその時点で邪馬台国は
九州最南端にもって行くしかなくなり魏志倭人伝と矛盾する <
この男も、「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている」事や、
「途中移動文言」の有無などの論点を完全に無視して、
勝手な妄想をしゃべっている・・・・ケダモノの大和説者。 >>608
>糸島今津湾周辺の遺跡を調査した研究者は畿内説
反日人種古田は泥棒と商売してたから人類の常識とは違う
人種差別的戦争狂の皇国史観国粋キョクウの肥人佐賀県民牟田口廉也は
>>601の動画をみたらわかる <
また、人種差別的殺人戦争狂の国粋皇国史観の、
弱肉強食の・・・・ケダモノのキョクウの大和説者が現れた。
怖い怖い。
最近、こんな・・・・人間の大量殺人事件ばっかりだね。
怖い怖い。 >>613
>反日古田集団は鸚鵡返しだから
嘘吐きダマシもたぶん火病古田が誰か世間の人に言われたんだろう <
これも、
人種差別的殺人戦争狂の国粋皇国史観の、
弱肉強食の・・・・ケダモノのキョクウの大和説者のようだね。
こりゃもうすぐ、大量殺人事件を起こす可能性が高い事が見え見えだね。
我々ではどうしようもないから。
早く警察が動いてくれないかなあ?。 >>614
>九州北部にも南部にもない邪馬台国
残る候補地は畿内しかないじゃねーか
すなわち不彌国から南に水行と書いてある部分は本当は東に水行 <
「南≠東」である事は、ストーンサークル以来の人類の常識だから、×。
「南≠東」である事は、人類 >>823
これが目的地の「女王之所都」に着いたって意味だろ
「伊都國・・・世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」 >>618
>邪馬台国は投馬国より南に水行10日陸行1月した先にあると
魏志倭人伝に書いてあるぞ
投馬国が南九州なら邪馬台国は沖縄辺りになるんじゃないの?<
倭人伝には、「自郡至女王國萬二千餘里」と書いてあって、
それは不彌國でほぼ終了しているから、
これも、全く×ね。 >>624
反論説明し尽くされた大和説は、× 。
説明し尽くされた九州説は、〇。
「反日」連呼をし続けているキョクウは、・・・・であるから ×。 >>625
>もうダメだな
邪馬台国は不彌國の百里もかからない南にあると言っておきながら
南に水行10日陸行1月の出発点が不彌国だと言う
自分の言ってる事に自分で矛盾してら <
この男も、もう×だな。
「女王之所都」の出発は、当然「從郡至倭」。 >>787
その理屈だと
王墓は、、、オーバカじゃねw 俺様の説はこうだ、って演説するのは
畿内説への反論じゃないから 「ボクちゃんの発明した新しい倭人伝の読み方」を採用しないと成り立たないのが、九州説というものだな >>834
ひとつの文で出発点が
帯方郡だったり
不弥国だったり
ムチャクチャですな >>640
>投馬国の次に南に水行10日陸行1月で邪馬台国に至ると
魏志倭人伝に書いてあるからだよ<
陳寿は、魏志倭人伝で、「萬二千余里は、不彌國でほぼ終わりだ」と書いており、
投馬國は、「途中移動説明」が書かれていないから、不彌國からの傍線行程であり
邪馬壹國は、不彌國の直ぐ南にあり、
「水行十日陸行一月」は「郡〜女王之所都」の所要日数説明。 >>843
>陳寿は、魏志倭人伝で、「萬二千余里は、不彌國でほぼ終わりだ」と書いており、
古田説だと不弥国まで届かないだろ?
国の中の移動があるんだから >>795
>纒向日代宮
時代が100年は違うだろ。
むしろ何で崇神が桜井に宮を構えたのかを考えろって。
当時は通い婚であり母親の実家が子供を育てる。
という事は崇神の母親のイカガノシコメが纏向近辺に住んでたという事。
つまり纏向遺跡は物部遺跡である。
だから瀬戸内要素が濃厚なのである。
という事で纏向に卑弥呼はいない。
ヒミコがいたのは高天原(御所市高天)である。 7世紀の朝廷は神功皇后を120年ずらし、
神功皇后紀にわざわざ魏志の記述を挿入、
そんな事までして3世紀前半の本当の卑弥呼を隠している。
これは本当の卑弥呼が大和朝廷に直結する人物であるからだ。
この時点で九州説なんてありえない。 >>843
投馬国は帯方郡から水行20日の場所だから朝鮮半島南岸。 >>847
大型建物は3世紀前半だろ。
景行の宮とは時代が違う。 >>647
>不彌国から投馬国に船で水行20日する
水行は移動の動詞として何の問題もないけれど <
「南至投馬國」の、出発の「南す」と到着の「至投馬國」との間に、
「途中移動の説明文言や動詞がない」事が問題。
それで側副傍線行程になってしまう。
また、「水行」は、
到着の「至投馬國」の後に書かれていて、
陳寿は、「出発説明+途中移動説明+到着記載+付加説明」の順に書いているから、
「南至投馬國」全体の「所要日数」の付加説明。 >>850
倭国に向かうにはまず船で狗邪韓国に向かうと魏志倭人伝に書いてあるんだが >>843
>陳寿は、魏志倭人伝で、「萬二千余里は、不彌國でほぼ終わりだ」と書いており
とうとう大嘘をついた
九州説終了 >>858
なら投馬国の他の構成国は?
まさか狗邪韓国1国って事はないだろう >>611
>そんな言い訳が通じると思っているのか?
魏志倭人伝には投馬国から水行10日陸行1月で邪馬台国に至ると
はっきり書いてある<
そんな嘘吐きダマシが通じると思っているのか?。
魏志倭人伝には、
投馬国は不彌國からの側副傍線行程國で、
水行10日陸行1月は、女王之所都の説明だから、
郡からの女王之所都に至る所要日数だと、はっきり書き分けられてある。 >>855
邪馬台国に行くのも側副傍線行程かよ
アホくさ >>861
名前が書かれてるのは狗邪韓国の1国だけだが他にも在ったろうな。 >>669
>目測で計測出来るなら東行百里も目測でいいだろ
どうせいいかげんな距離だから <
「東行百里」は、「行」しているから、歩測や記里車や簡易三角測量なども使える。 そもそも狗邪韓国(弁辰狗邪国)は
三国志東夷伝韓条に弁辰十二国の中の一つの国として表記されている >>862
伊都国説からすると古田の側副傍線行程には同意しかねるな。 >>867
そもそも狗邪韓国と弁辰狗邪国が同一の国であるとする根拠は何も無い
名前が似てるだけ。 >>869
そんな事いったら邪馬台国論争はで何も証明されていない >>870
残念ながら狗邪韓国と弁辰狗邪国は同一の国として
ほぼ決着がついている
二つが違う国だとすると狗邪韓国はどこにも属さない
全く孤立した国になってしまうから >>815
理解できるのは0.0001%もいないでしょう
すごくわかりずらいです >>872,>>874
勝手に決着が着いたとか根拠がないな
狗邪韓国は投馬国に属していたんだよ。 残念ながら
畿内を基盤とし九州、対馬、朝鮮半島まで勢力が及ぶ連合国
なんてあった痕跡はない >>674
>>「南す」が出発で、「水行」が途中で、「至邪馬台国」が到着 <
>なんだ水行は移動の動詞でいいんじゃないか<
「途中移動の説明」は、「出発説明と到着説明の間」に書かれるものであり、
到着説明の後に書かれている水行は、「途中移動の説明」にならない。 魏志倭人伝と考古学的物証のセットで
畿内は真っ先に除外されるんだよ! >>787
>弥生時代の王を「オウ」
>弥生時代の国を「クニ」
>と書いて区別する学者もいる
>弥生王墓は「オーボ」だな
カタカナ用語を持ち出すときは、何かをごまかすときだよ。
マユツバなんだ。
九州北部の弥生王墓が倭国の王墓であり、筑紫が倭国の中枢であることを認めたくない人間の悪あがきだよ。 >>874
決着なんかついてないよ
>二つが違う国だとすると狗邪韓国はどこにも属さない
>全く孤立した国になってしまうから
倭人伝には半島南部が倭の領域(=狗邪韓国)と書いてあるので倭国だよ >>876
実際そうなんだから仕方ないだろ
現実は受け入れよう
狗邪韓国は投馬国に属していたとするなら
投馬国は何国で構成されていて
どの様な歴史を辿って建国されたのか資料がないとただの妄想
馬韓や弁韓や他の国ではそれが確かめられるんだよ >>799
>元々、九州を基盤とし壱岐、対馬、朝鮮半島まで勢力が及ぶ連合国と
>それとは別に畿内を中心に徐々に勢力範囲を拡げて行った王国が在ったと言う事だろう。
>
>前者が邪馬台国等を抱える中国公認の倭王が束ねる諸国連合王権で
>後者が後にヤマト王権へと発展した新興国。
イメージはともかく、総論で賛成する。 >>678
>水行と途中移動の動詞が書かれてるから
邪馬台国へ向かうには不彌国から水行するんだね <
「水行」は、「到着説明の後」に書かれていて、
出発説明と到着説明の「間」の「途中移動の説明」記載になっていないから、
途中移動記載にはならない。
「 朝鮮半島南岸が倭地だったと魏書の韓伝にも書かれてるな。 里程
帯方郡から邪馬台国まで一万二千里
日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1日
帯方郡から投馬国まで水行20日 >>828
>>九州北部にも南部にもない邪馬台国
>残る候補地は畿内しかないじゃねーか
山陰はどうした?
瀬戸内はどうした?
関東や東海はどうした? 「ボクちゃんの発明した新しい倭人伝の読み方」を採用しないと成り立たないのが、畿内説(テンプレ)というものだな >>842
>九州論者にとって投馬国はどこなんだ?
宮崎県西都市妻の都万神社を中心とする宮崎平野だってば。
いい加減ループから出てくれよ。 >>846
>つまり纏向遺跡は物部遺跡である。
>だから瀬戸内要素が濃厚なのである。
鴨厨も途中まではいいことを書くんだよ。
>ヒミコがいたのは高天原(御所市高天)である。
それでなんでこう飛躍するかな。
まとまりが悪い奴だ。 >>685
キョクウ殺人戦争狂の国粋皇国史観大和説のスレ主の、
有り得るかも知れない犯罪行為の、幻影に怯える大和説者ら。 >>888
これだと投馬国が唐突に出てくることになる
帯方郡から投馬国まで水行20日
投馬国から邪馬壹国まで水行10日、陸行1日
投馬国(到其北岸狗邪韓國)
邪馬壹国(到伊都國)
到が投馬国と狗邪韓國、邪馬壹国と伊都國を結びつける目印だな。 >>886
東へ行けば百里で不彌国に到達する
(東行至不彌國百里)
南へ行くと投馬国があり、水行20日である
(南至投馬國、水行二十曰)
どう読んでも水行の起点が帯方からとは読めないな >>851
>>>847
>大型建物は3世紀前半だろ。
>景行の宮とは時代が違う。
な訳ない。
3世紀後半以降の倉庫だよ。
ただ、景行(4世紀初頭?)とは実年代がかなり近いかも。
ひょっとして本当に纒向日代宮跡だったりして。
だとしたら、卑弥呼云々で世間を惑わす学者は大いに反省しろよ。 >>872
>>>871
>とっくに畿内で決着がついている
証明されてない。 >>686
>九州南部から舟で南へ行くと、黒潮に乗って、何の目印もない大海原を流され、10日で潮岬に流れ着く。
ヤマトまで陸行一カ月。道なき道なら1日5kmも進めないだろう。<
まあ、黒潮に乗って漂流したら、99%?助からんね。
世のためだから、さっさと実験してみてくれないか?。 >>896
難しい理屈はいらない
奴国までで12000里が終わったので距離での説明は終了
改めて時間が何処くらい掛かるか日数で再度説明しているだけ。 >>899
学会では証明されていてこれ以上論じる事がないぐらいだ >>901
奴国までだとまだ1万600里くらいだぞ >>687
>銀座じゃダメだな <
纏向の10倍位以上?のハイテク工業地域であり、
大道も何本もあり、安徳台もある。 >>902
証明されてないから論争が続いてるんだよ。 >>903
渡海千里「余」だから、端数を寄せ集めてちょうど一万二千里になるのだろう。 >>887
狗邪韓国は投馬国に属していたとは書かれてないな >>908
ならば、邪馬台国の位置は1万3000里に近いという可能性もあるわけだ
すなわち奴国からさらに2400里離れた場所にある可能性も出てくる >>903
「自郡至女王國 萬二千餘里」と書かれてるんだから計算したら12000里になる地点が倭人伝には書かれてないとおかしい
島国の對馬國が方可四百餘里、一大國が方可三百里と書かれてるから
この島の側方を航海したとして行程に加えると奴国までで12000里で
「自郡至女王國 萬二千餘里」の12000里が出てくる。 >>698
>南に水行すると魏志倭人伝にあるんだけど
九州北部から海岸に沿って海上移動するなら東か西じゃないか <
投馬國が、不彌國の(四至表現で)南の方にあって、
水行で廻って行けば「水行二十日」かかる、
と書いてある。 >>911
残念
1万2千「余」里だ
奴国が1万2千里ピッタリならそこは除外だな >>911
大体方可四百餘里、方可三百里は島の大きさ
行程に加えるなら島をきっちり半周したとしなければおかしいし
ありえないね 一生懸命1万2千里のつじつま合わせをしても
余の字を見落としたばっかりに九州説撃沈 九州説の揚げ足を取ろうとしたら余一文字で撃退されたのは畿内説。 >>914
何を言いたいか意味が分からないな
>>915
餘は±の意味だよ。 >>918
餘は読んで字のごとく余りだろ
算数で習わなかったのか? 餘里のものを足し合わせても餘里だから
奴国までが萬二千餘里でしょ。 >>699
>「東行至不彌國百里」のどこが 「途中移動の説明」だ インチキはダメ。<
「東(へ出発)するなり、行くなり、至不彌國なり」だから、
「行」が、途中の移動の説明だ。
インチキはダメだよ。 いずれにしても、奴国で1万2千里丁度とするなら
そこまでの国は邪馬台国とする事ができないわけだ
九州北部説に残された場所はあとは僻地しかなくなってしまったな >>921
奴国まで1万700里で対馬と壱岐の島の大きさをうんちゃらかんちゃらすれば
奴国まで1万2千里ピッタリだ!と力強く言い切ったのは九州説
実際には1万2千余里だから邪馬台国はそっからさらに先にある事になる >>924
奴国で1万2千里丁度なんだから奴国が女王国の中心国邑ですね
自女王国以北とは奴国以北のこと
所謂邪馬台国は奴国を中心とした北部九州ってことになりますね。 >>701
>少なくとも出発する方向は南なんだろ?<
いや、途中の移動があった事の説明文言がないから、魏使らは南へ行っておらず、
「南」は「四至説明」の存在方向説明になるだけだ。
>伊都国か奴国から南に水行はできる場所がないと思うぞ <
不彌國から、一旦玄界灘に出て大回りして南に行けば二十日位の位置だ、
という説明だ。 さーて今度は九州説がどうやって1
万2千余里のつじつま合わせをするか見物だな
畿内説は間違いを含んでる魏志倭人伝の距離とか関係ねーから
高見の見物をさせてもらおう >>925
>実際には1万2千余里だから邪馬台国はそっからさらに先にある事になる
1万2千余里で所謂邪馬台国の中心国邑の奴国に着いているんですよ
だから日数の行程は帯方郡から掛かる時間なんですよ。 >>926
丁度じゃダメなんだなぁ
1万2千「余」里だからピッタリの場所は邪馬台国じゃないよ >>930
>>931
言い張ることしかできないのか? >>932
言い張るも何も魏志倭人伝にそう書いてあんだろ
ちっと読んで来いよ 「自郡至女王國 萬二千餘里」と書かれてるのに
計算して12000里が出てこないなんて異常だ
陳寿は狂人じゃないんだから計算の合うように書いてるよ。 >>702
>語順説の仮説を言張るだけじゃだめなんだよ<
語順は、仮説ではなく、史料事実であり、史料実態そのものだよ。
>研究者によって考古学的に証明されないと <
鹿児島に(元の東鯷人の国と思われる)上野原遺跡がある。
>ソント人種古田集団は日本の学者からは相手にされてない <
ソント人種の日本の大和説考古学者集団は、
日本の国粋皇国史観学者からしか相手にされてない 。 >>704
トンデモ大和説の曲系読みには、
陳寿や人類の常識の「出発+途中+到着」の順次式に、
する意思がない。 >>936
帯方郡〜奴国までの里数を足すと1万600里
邪馬台国(女王国)までは1万2千余里
そう書いてあるけれど? >>934
だとしてもそれは九州北部を指してないって事だ >>705
>それなら、帯方郡あたりの記述にあるように
乍東乍南と書かれるはず <
魏使らは(投馬國へ)水行していないし、
「北→東→南」の一回切りの方向変更では、
「乍東乍南」の「繰り返し反復」になっていない。 >>938
それだと陳寿は女王国までの1万2千余里をどうやって知ったの? 世間から相手にされてない珍説をいくら言い張っても、それは畿内説への反論には全くなってない >>939
12000里が終われば行程の説明も終了
日数は帯方郡からの時間ってことになり
北部九州で終わり。 >>941
先に12000里という情報があったのさ >>942
世間から相手にされてないかどうかはこれからだね。 1万2千里を奴国でピッタリにするために一生懸命インチキしたが
余の字を見落としていたばっかりに全部おじゃんの九州北部説 >>944
先に12000里という情報があったら
その詳細も書くだろ。 >>706
>反日ソント集団がインチキ報告と言ってるだけだろ<
人種差別的殺人戦争狂の国粋皇国史観キョクウの大和説の・・・・が、
仲間の祇園山の報告を、信用せよ、と脅迫しているだけだろ。 >>946
餘の字の意味をちゃんと調べた方がいいよ。 >>949
へぇー餘ってどういう意味なの?
ぼくわかんないから教えて >>707
祇園山の発掘の事実報告を、見も理解しようともしないトンデモ大和説信者は、
国粋皇国史観大和説の・・・・考古学者の、発掘事実への解釈や説明を、
発掘実態より優先する。 >>925
>奴国まで1万2千里ピッタリだ!と力強く言い切ったのは九州説
古田(ザラコク)だけだよ。
九州説の中では化石みたいなもの。
この板では主力ではない。 >>939
少なくとも、畿内は指していないようだ。 >>957
機内説は距離は性格じゃないって立場だからどうでもいい >>952
1.食べ残し。餕餘。
2.あまり、のこり、以外のもの。
3.凡その数を表す字。 - 数1万あまり。10日あまり。
4.ありあまる。あます。あまりあらしむ。
倭人伝の場合は数字だから3.の凡その数を表す >>943
終了したところで、なんで女王の都に着いたと書かない?
その説はイカサマだからさ 余の字を見落としていたばっかりに全部おじゃんの畿内説 >>960
「伊都國・・・丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
これが女王の都に着いたってことだよ。 >>959
なら1万2千里ピッタリの場所はますます邪馬台国じゃないな >>710
>>墳頂の箱式石棺に向きを集中する配置である事や、<
>あほか! 斜面だから等高線に沿って棺を並べるに決まってるだろう
あまりにも酷いコジツケ <
アホか!。
何代もの集合墓なら、
そもそも「四隅円弧の角錐台的冢」の造成工事なんてする必要がないんだし、
それぞれの墓を好きな所へ自由に埋葬すればよいんだし、
掘ってみて重なったら、前の墓は壊してしまうだけだが、それもそうなっていない。 >>712
>出発の方向だけ書いて目的地がどっちにあるかは知らん顔
なんて馬鹿な文章誰が書く <
投馬國の「南」は、「四至表現での位置説明」であって、出発方向になっていない。
水行の場合の出発方向は、「北の玄界灘方向」になる。 地名からも距離からも見放される九州北部説
九州北部は邪馬台国とするに最も不適切な場所 >>713
>それならば、帯方郡あたりの記述に出てくる 乍南乍東という表現はおかしいという事になる
最初から至南とだけ書けばいい事だからな<
乍南乍東は、「南と東」の繰り返しの反復を示す表現だから、歴韓国の陸行の様態の説明であるから、
投馬國の行程とは何の関係もなく、
何らおかしくない。 >>715
>倭人伝に書いてある工程だけ読んで邪馬台国がどこにあるか判る、なんてのが幻想なんだよ<
陳寿の懇切丁寧な行程記載を読んで、邪馬壹國がどこにあるかも判らないのなら、
そりゃ、知能が✖なのであり、古代史は止めた方がいいよ。 >>970
帯方郡から狗邪韓国までは
何回も南に行ったり東に行ったりする箇所が無い
乍南乍東は南に行ってから東に行くと読むべき >>718
>やっぱ考古学的物証とセットじゃないとな <
考古学的物証でも、九州説で決まり、ですからね。 邪馬台国は九州北部と主張して見ろよ
考古学物証と魏志倭人伝に否定材料が山ほどそろってるから >>973
3世紀の前方後円墳もないし
機内より三角縁神獣鏡が圧倒的に少ないのに? >>975
女王国の入り口の国邑ってどこだよ
そんで女王国はどこだよ >>719
>>(祇園山)草ぼうぼうになってしまって前の墓壹が判らなくなってしまって、
墓の重複や前墓の破壊が避けられないのに、<
>石で出来てるんですけど <
それでも、重複は一カ所あるかないか?の程度であり、
綺麗に並んでいる事が、一斉埋葬の証拠。 >>977
奴国は女王国の入り口の国邑じゃなくて
女王国の中心の国邑だよな。 >>721
>伝聞だから正確な情報でなくても構わないと言うなら<
言わない。伝聞でも大体は合っている事の方が多い。
>邪馬台国は実際は南じゃなくてもいいという事になる 例えば東とか <
邪馬壹國は、魏使らの実体験計測記録。 >>976
前方後円墳や三角縁神獣鏡は無関係ですから。 >>943
1万2千里は不彌国までだぞ
不彌国が邪馬台国?そこから先なんじゃないの? >>980
12000里ですから
既に目的地に着いてますね。 >>983
不彌国は12100里
女王国の一部です。 >>726
>東行至不彌國百里に関して言えば目的地も東だよ
百里東に行ったら不彌國に至る
水行二十日で南の投馬國へ至る
なんかおかしい?<
「行」は、途中の移動があった事を示すから、
「行ったら」という仮定にした事がおかしい。 >>726
>韓国はいろいろ寄港してったようだからな、倭人伝の前を読んでごらん
乍南乍東という表現、やっとここまで来た感が伝わってくるw<
乍南乍東は、南と東の繰り返しの反復である事を示すから、
韓国西岸だけでは全く合わず、
韓国陸行でピッタリ。 >>726
>韓国はいろいろ寄港してったようだからな、倭人伝の前を読んでごらん
乍南乍東という表現、やっとここまで来た感が伝わってくるw<
乍南乍東は、南と東の繰り返しの反復である事を示すから、
韓国西岸だけでは全く合わず、
韓国陸行でピッタリ。 >>993
韓国は帯方郡から狗邪勧告まで海を渡ると魏志倭人伝に書いてるよ >>734
>七千里も行くのに途中で寄港しないわけがない <
歴韓國乍南乍東は、韓國を陸行している。 >>991
前方後円墳や三角縁神獣鏡を邪馬台国と結びつける根拠が無い。 >>996
畿内説は九州説と違ってしっかりと結び付けている >>749
>魏志倭人伝と考古学的物証のセットで
九州北部は真っ先に除外されるんだよ! <
魏志倭人伝と考古学的物証のセットで
大和は真っ先に除外されるんだよ!。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 2日 17時間 32分 25秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。