なぜ日本の建築は発展することができなかったのか?
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天皇ですら江戸時代まで木小屋に毛の生えた程度の建物に住んでいた ダメ押しにもうひとつ。
建設関係の資格にも、建築士、施管などいろいろあるけど、名義貸しで儲かる資格なんて一つもないんだわw
あくまで、仕事してて、現場にあって、初めて生きる資格なわけで。
君たち、建設系の給料、特に管理系の給料が比較的高額なのはご存知だと思うが、
高いには高いなりのリスクがあるわけだよ。
自殺者まで出てしまうのだから… 鎌倉時代に筋交いの技術が入ってきて、近世に廃れて、明治に再導入
宗教建築以外はぼろぼろ 大仏様で使われる「貫」も本来は住宅建築が発祥なのに
日本では宗教建築にしか使われてない >>459
城郭建築、町屋造り、合掌造りなど、他にも注目すべき建築は色々あるけれど。
>>460
城郭とかにも使われてるでしょ。 合掌(さす)がわかているならトラス構造に気がついて洋小屋のように発展しなかったのが悲しい
寺社で合掌造をやっていれば面白かっただろう。 朝鮮パクりだよ。
中国から直接入った建築など何もない。
高床式倉庫から寺院建築まで全部朝鮮から。 朝鮮ネタはあやしいのとか誇大広告が多くてどうもな
加藤清正が朝鮮で学んだ云々という城郭建築って、石組みのことなのかね
中世城郭は自然石をそのまま積んだのが多いから それは俗説だな
朝鮮半島に熊本城みたいな算木積みや勾配をもった城はほとんどないもの
一応、咸鏡道には日本と同じ形式の石垣があるけど、あれは後金に備えて日本式に改築したものだし
宣祖実録133巻、先祖34年1月7日丙午3
○備邊司啓曰: "知倭城形止之人, 入送築城事, 前日允下矣。 今方解氷, 所當卽爲入送事,
本道監司狀啓以爲: ‘本道境接靺鞨, 朝夕待變, 故城無頹壞不修之處, 但慶源、防垣等城, 比他極闊, 其他各堡, 如梁永、造山、阿山等城, 可改者
朝鮮半島の石をレンガ状に細かく整形して並べていく「石塁」は手間がかかり過ぎるので
日本では7世紀を最後に途絶えている 清正が持ち帰った朝鮮半島の建築技術って滴水瓦のことでしょ パクリという言葉は間違ってるが、日本の建築技術は中・朝から伝わって、日本の気候に合わせて進化した物だろう。
屋根の勾配が鋭くなったのも多雨の日本の気候に合わせて。 パクリだけど、そのままパクってたら問題があったので改良せざるを得なかった。
結局、パクリの改良でしか発展できない。 >>468
日本の水洗便所はチョン国の水洗便所と違って紙を流せるけどな >>468
で、中国から伝わった建築技術って何?
. 何度も出てるだろ?
飛鳥時代の全ての仏教建築。
法隆寺も東大寺もそうだ
日本式に改良したが中国から伝わってのもの >>72-73
>>75
このレスを読め日本の木造建築とは日中混血なのだ 日本の木造建造が日本独自だと思ってるなら究極の無知だな
日本風に改良したのも事実で元は中国技術なのも事実だ 日本のウヨジナル技術
ネズミ返し・千木・鰹木・桔木・なまこ壁 四面庇とか檜皮葺、寝殿造り、書院造り、あと城郭建築も
普通中国では高層建築にはより耐久性の強い円柱を使うけど、天守は角柱を使う
構造的なもろさは瓦の軽量化と階層ごとに逓減させてカバー あと築城技術も日本では11世紀の大鳥井山遺跡には縦深防御の発想が見られるのだが
中国では古代からずっと四方形の単郭形式で進歩が止まってる
精々内部にもうひとつ郭を作るぐらいで砦状のエリアを周囲に並べるという発想がない 歴史を論じるときに、軽々しくパクりとか書いちゃいかんよね >>475
それ全部朝鮮からだろうが。
このウソツキチーノ。 伝えたのは百済だが、その技術は中国の南朝からのものだろ
中国のマルクス経済学や唯物史観は来日した留学生が伝えたものだが
じゃあこれらは日本発祥の学問かというと否だ >>481
遼東から朝鮮に入った建築技術だこのウソコキチーノ。
朝鮮の一番最初の中国系土器である楽浪瓦質土器には中原の三足や耳付きの
器種も器形も、原始磁器もない。
つまり遼東系の土器だという事が分かる
この楽浪瓦質土器で瓦を作っているから、朝鮮の建築技術は遼東系だという事も分かる訳だ。 https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/11/17/11_17_81/_pdf
>南朝梁を起源とする造瓦技術によって生産された「大通寺式」軒丸瓦は,その後,百済において中
>心的な瓦当文様,製 作技術として展開する。そして,その影響は日本など周辺諸国にも波及するこ
>とになる。 日本で最初の本格的な仏教寺院である飛鳥寺の造営に際して,日本の要請を受けて百済
>から派遣された瓦工集団,すなわち,『 日本書紀』に記される瓦博士の一派も「大通寺式」(金徳里系)
>軒丸瓦を生産していた瓦工と考えられる。
>南朝梁から百済に新たな造瓦技術が伝えられ,その技術が百済の瓦博士によって日本に伝えられ
>るまで約半世紀。「大通寺式」軒丸瓦の成立と展開の過程を通じ,中国南朝系造瓦技術の伝播の様相
>の一端を垣間見ることができると考えられる。 鎌倉時代に取り入れられた大仏様ももとは中国南方の建築技術だよね
https://kotobank.jp/word/大仏様-91944
>天竺様は鎌倉初期に東大寺再建のため重源が中国浙江省付近の様式を学んで採用した様式で,現代では大仏様と呼ばれる。 6C以降なら、それが正しいんじゃないか。
だが、紀元前の朝鮮の中国系建築技術は楽浪の遼東系の建築技術から始まっている。 >>471
あのさあ、今 羽生君が陰陽師踊ってるの見ながらレスするけどさ、
日本の文化も朝鮮の文化も、中国から輸入された文化の上に成り立ってるんだわ。
中国の文化の良いとこ取りして、自分らの国の風土に合わせて成り立った日本文化なんだわ。 >>486
で、中国から直接伝わった建築技術って何?
. 半島を経由せずに大陸から直接となると、判明しているのは唐の建築様式になるのかな
いわゆる和様建築のことで、法隆寺の西院伽藍が建立のころには輸入されていたとされている
法隆寺は若草伽藍を踏襲したのかどうかはわからないけど、半島経由の古いタイプの建築様式で再建されたことになる
その後は鎌倉時代に大仏様、禅宗様が大陸から輸入 >>487
そんな事もわからないの?
駄目なやつだなあ…
君、いったい今まで何を勉強してきたわけ? 反射だけで動いてる虫みたいな知能レベルの射精エベンキに勉強なんて高尚な行為無理に決まってるだろwwwwwwwwwwwwww 中国に仏教が入ってきたときに、中国の宮殿建築が寺院に転用されて寺院建築が誕生
そのため、中国や半島では住宅にも斗組が使われてるけど
日本だけはなぜか寺院と神社限定なんだよね
半島には住宅としても入ってきたけど、日本には宗教建築限定で入ってきたのかな
そういう理由で構造上はほとんどいじれずにあまり発展がなかったのかもしれないと、私は勝手に思う >>488
和様建築は鎌倉時代以降だろ。
法隆寺の時代にはまだないだろ。 何度も出てるが法隆寺も東大寺も渡来人が作り上げたのだ。
日本古来の技術など存在しない 法隆寺の金堂からして既に四面庇といって身舎の周りに庇をめぐらす
高床式住居時代の建築を引きずっていて大分土着化してる
中国は二重梁や三重梁といって梁を何重にも設ける形で建物を広げていく >>491
韓国の伝統住居の韓屋でも斗栱は使われない
これは日本にしてもそうなんだけど韓国の伝統建築では斗栱は単なる装飾と化していて
屋根の荷重をそれほど支える構造にはなっていなかったりする あと野屋根を伸ばして仏堂と礼堂が一緒になった形式も日本でしかみられない
すくなくとも8世紀創建当時からある東大寺の法華堂の時点でそうなってる >>493
法隆寺は百済から技術者を招いて作ったのは間違いないだろうけど、
作ったあとは倭人に技術を託して帰ってしまってるんじゃないか?
東大寺は倭人が作っただけだろ。 ブルジュハリファも日本人が作って、作ったらすぐに帰ってきてるしな。 >>492
薬師寺も唐招提寺も創建東大寺も和様建築なので
それ以前に入ってきたものと思われていたはず
これは唐の建築様式で官寺に採用されたため全国に広まり
遣唐使の廃止により新しい様式が入ってこなくなったために国風化され
平安時代に軒の出を深くするために野小屋が発明される
法隆寺や山田寺とは系統が違うと考えられている >>500
寺院建築の本はどれも大体こんな感じでまとめてあるよ
最新の解釈は違っているかもしれないけど 建材が違うんだから建築様式が違うのも当然だし
朝鮮半島とでは木の種類も違うから建築も違ってくる 日本風に改良したのも事実なら
元が大陸技術であるのも事実
二つの事実が同時並行で存在するが大陸人が伝えてくれなきゃ今日の最高木造建築も存在しなかったよ >>501
じゃあ脳内妄想だな。
和洋建築は鎌倉時代以降に中国からパクっただけ。 >>505
じゃあ唐招提寺金堂は何様建築になるのでしょうか?
建築様式は明らかに法隆寺建築とは違いますが、どこから持ってきたのでしょうか?
和様建築という名称は禅宗大仏との区別で鎌倉期以降に呼ばれ出したようだけど 転び
寺社の水屋の四方転びぐらいで、「転び」も廃れた。
韓国は残っているのに。 法隆寺の伝法堂は奈良時代の住宅遺構だね
橘夫人の住宅を講堂に改造してあるけど、調査でどんな住宅だったのか判明している 日本に石垣を積み上げただけで造った絶対燃えない天守閣が無かったのは
いったいなんでなの?
(´・ω・`) 城郭建築自体は建築としての評価はあんまり高くないしね
天守閣は織豊期にいきなり出来たものだし、すぐに戦のない時代に入ったから 天守が初めてできたのは1520年の伊丹城が最初だし
楼閣状の建築なら太田道灌時代の江戸城からある
そもそも戦がない時代の城だから評価が低いという発想自体が戦争オタ的過ぎるのでは
朝鮮出兵では倭城が猛威を振るって明朝鮮軍は一つも落すことが出来なかったけど、これだけで明朝鮮の城郭より日本の城郭のほうが優れているとはならないでしょう てか、天守閣を造るより
地下に要塞を造ったほうが
良かったような気がしないでもない >>516
地下を掘ってなんか作るってのはいつの時代も金と時間がかかるだろってのw
おまえ、戦国期の日本で地下になんか作ったって、それを支える構造を構築するのに、
どれだけの時間がかかるかって話だよw
安全ではないだろうし。
>>513
基本、日本には組積み造の建物を作ると言う発想自体が無かったからでしょ。 >>515
評価されてないというのは、そういう意味合いじゃなくて、技術とか美術的見地からだな
軍事施設なので、急拵えで作ったものだし、建築としてはあまり合理的でないところも多い >>516
それ第二次世界大戦以降は塹壕の発想だから、核攻撃対策で司令部などはシェルターなどの地下要塞で核攻撃が無い時代は武力と財力を知らしめる効果がある。
ロボットアニメの見過ぎで地下の秘密基地は程度が知れる。 建築書が伝来しなかった。
建築書を作らなかった。日本の最古は匠明?
相伝で途絶えたりした。
宮大工と一般住宅の大工との確執があった?
神聖と世俗の分離があった? 足利、織田、豊臣と美的センスがある家系が続いたのに、徳川というセンスが欠ける政権が長かったのは痛かったな
小堀遠州とか注文主が徳川家じゃなかったらもっといい作品生み出してたんだろうな >>520
瓦が高価だったのがすべてだろうね
重い瓦屋根を支える強固な構造を必要としなかったので
一般住宅では発展させる必要がなかった
桟瓦が発明され普及しても、桟瓦は本瓦葺より軽いので
やはり発展しなかった >>526
だから、石造り=文明とかって発想、浅はかすぎだろw >>521
日光とかがセンス無かったとでも?
人に自分の好みを押しつけるのもいい加減にしなさい。 ダンジョンの継ぎ足しみたいな身体がそろわない建築がいいんじゃないか? なぜバカチョンの建築は発展することができなかったのか? なぜのりこえネットの猿共の知能は発達しなかったのか うだつってあんなに小さいのに延焼防止があったのか? とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
37J >>539
中国ではもっと高度な竪穴式住居跡が出土してるけど
さすがに関連性はないと思う
どこでも同じような住居を最初に思いつくんだなと 古墳時代に古墳を大量に作ったお蔭で建築技術がアップしたはずだけど、
その技術を示す遺構が見られないのはなぜ?
古墳時代式住居とか、古墳時代式倉庫とか 古墳期に新羅から秦氏が帰化して土壁の住居が伝わり、
竪穴式住居からようやく抜け出し始めた日本とは異なり、
中国は8000年前にはすでに竪穴式住居から高床式住居に移行している。
そして6000年前にはすでに木骨泥墻という土壁の住居になり、
4000年前には戸建の時代を迎え、3500年前には宮殿建築という建築様式が花開き、
2800年前には瓦が開発され、早くも瓦屋根の戸建の時代を迎えるのである。
住居一つ取ってみても、渡来人が中国系なんてあり得ない話なのである。 >>541
土木建築技術がどこかで断絶してるのかもな 4C後半に新羅から秦氏が最初に中国系の建築技術を持ってきている。
しかし、そこには瓦がないから、中国系と言うには非常に稚拙な技術であっただろう。
だが、これで我々はようやく竪穴式住居から抜け出せた事には違いない。
そして6C末に聖徳太子が百済から技術者を招聘して、ようやく瓦屋根の寺院建築が
伝わり、我々は瓦屋根の戸建への第一歩を踏み出したのである。
中国に後れる事、1400年後の事である。 >>544
礎石も版築もないしね
中国の竪穴式住居は内部柱は礎石の上に立ち
壁の部分は土が突き固められていたとか >>545
竪穴式住居の段階から高床式住居に移行できる基礎が開発されていたという訳だね。
秦氏や百済の技術者が来なければ、我々が竪穴式住居から抜け出すのは
白村江の戦いまで待つ事になっただろう。
殷や呉越の難民??
徐福集団??
寝言は寝て言え。 シナの建物と比べても日本の建築は完成域にあったし、
必ず起きる地震への諦観もあったのではないか? >>1は生きてたら、もうちょっと詳しく聞きたいな
天皇は室町時代あたりまでは日本人狩りしてブイブイ言わせていたが
それ以降は武家に取って代わられ朝廷なんて無かったという
京都御所なんて明治に作られたんじゃないのか
戦国時代には武家からも見放され極貧状態になっており
葬式もされずに腐乱死体で放置された天皇もいる
色紙に短文を書いて金持ちに売り歩いて生計を立てていたという
江戸時代は、神社の宮司のような感じで
多くの人々は天皇がいることさえ知らなかったと ちょっとだけ調べた限りでは
戦国時代の天皇というのは極貧であり
戦乱で焼け出されたが、支援してくれる有力者がおらず小屋に住んでいたが
京都御所の敷地内ではあったぽい
江戸時代の天皇の住居は徳川に建て替えてもらったもので
その建て替える前の小屋がどんなものか知りたいな >>517
茅葺屋根は優秀よ。
火災・風雪害に強く、通気性と断熱性を兼ね備えている。
手入れが面倒なのと菅・萱・葦の最終が困難になってコスト的に瓦屋根と逆転してしまったことで、廃れただけ。
まあ、童話の「三匹の子豚」みたいな感覚で、二十世紀前半までの、西欧文明至上主義での先入観に囚われてると、
茅葺屋根なんて野蛮で粗末としか見ないんだろうけれど。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 竪穴式住居こそ日本古来の伝統。皇居も竪穴式にすべし 茅葺屋根が優秀すぎたから
悪しき邪教の仏教のインチキによりわれわれはだまされている。
ハイルチョン顔 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています