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司馬遼太郎 Part11
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0003日本@名無史さん
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2017/12/19(火) 15:48:22.65
【凡例】
★小説・紀行では物語の場所もしくは旅の場所を示す(余談のときは、項目を示す)。評論文では、項目を示す。
▽作品に出てくる語句・文章
▼作品には出てこないが、背景を理解するために必要だと思われる語句
【注意】
このスレッドでは、司馬作品を忠実かつリアルに画像化しているため、エログロ画像が含まれています。
18才未満の方あるいはご覧になりたくない方は、〈エログロ〉をNGワードに登録なさることを推奨いたします。
また、エログロ画像をレスされる方は、必ず〈エログロ〉の文字を添付してくださるよう、お願い申し上げます。
【注意】
多くのユーザーの方々が、現在進行中の司馬作品一作に集中して、注釈を加えたり、議論をなさっておられます。
他の司馬作品に関して議論ないしおしゃべりをなさりたい方は以下のスレッドへお引越しをお願い申し上げます。

■■司馬遼太郎症候群について語るvol.3
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1365866256/
司馬遼太郎の家康過少評価は異常
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1331922006/
0004日本@名無史さん
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2017/12/19(火) 15:49:14.81
>>1
冬休みの間に「翔ぶが如く」を読破しようと思っていました。
ちょうど良かったです。
0005日本@名無史さん
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2017/12/19(火) 15:52:35.55
【1】〔数年後に削除予定〕http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1362974282/
【2】〔数年後に改訂予定〕http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1471228785/
【3】「街道をゆく」豊後・日田街道/大和丹生川(西吉野)街道/種子島みち/潟のみち/播州揖保川・室津みち/高野山みち
 http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1474718092/
【4】「街道をゆく」信州佐久平みち/「国盗り物語1」http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1477812018/
【5】「国盗り物語2」http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1480533004/
【6】「国盗り物語3」http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1483152411/
【7】「国盗り物語4」http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1488372192/
【8】「ひとびとの跫音」http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1494164526/
【9】「木曜島の夜会」「歴史と視点―私の雑記帖―」「評論随筆集−第50巻−1」
 http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1507878222/
【10】「評論随筆集−第50巻−2」「一夜官女」「権平五千石」
 http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1511343401/
0006日本@名無史さん
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2017/12/19(火) 15:58:52.32
前スレはエロ画像が少なすぎたように思います( ?・ω・ )ショボーン
0008日本@名無史さん
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2017/12/19(火) 16:31:58.37
で、役者画像は、どっちを使うのだ?
「西郷どん」か「翔ぶが如く」か?
0011日本@名無史さん
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2017/12/19(火) 17:11:04.29
「翔ぶが如く」は司馬さんが「わからない」を連発する小説。
従来の早わかり・生悟りの姿勢に忸怩たる思いがあったのか、この小説では何でも「わからない」のベールに包んでしまっている。
読み終わった後、けっこう疲れるよ。
0012翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2017/12/20(水) 12:58:19.93
【はじめに】
現に彼らが徳川家を倒して明治維新を成立させたとき、仲間の長州人の場合のような過剰な対徳川家憎悪も持たない代わりに、倒れてゆく徳川家に対し無用の感傷ももたず、どちらかといえば土俵で打ち倒した好敵手に対する闘士としての奇妙な愛情を持ったという、不思議としか言いようのない気配を歴史の上に投影した。
しかも彼らは自分の作った明治国家をも気に入らず、明治十年までいっさい中央の指令を拒んで独立薩摩圏としてありつづけた。
「君たちは得体が知れない」
この吉野郷の桐野どんの掘立小屋のようだったという生家の跡を訪ねたとき、正直なところそう思った。

  昭和四十六年暮
0013日本@名無史さん
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2017/12/20(水) 13:02:04.63
〔初出〕
昭和47年1月〜昭和51年9月『毎日新聞』朝刊に連載された。
現行版は文春文庫(全10巻)および『司馬遼太郎全集 35・36・37・38』(文藝春秋)。
0014日本@名無史さん
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2017/12/20(水) 13:05:59.66
「奇妙」「不思議」「得体が知れない」等の言葉が頻出する小説である。
物事の本質を剛腕で掴みだそうとするかつての司馬の文体ではない。
しかも、関係代名詞直訳ふうの長い文章が多く、初読のとき、理解しにくい小説だなと感じた。
0016日本@名無史さん
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2017/12/20(水) 13:15:43.56
▽鹿児島市内の知人
「いっど、吉野に、行たっおじゃはんか」という意味不明な言語で、司馬さんに吉野行きを勧めた人。
当時司馬さんは二十代の青年だった。
0021日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/20(水) 13:43:28.99
大崎ノ鼻に立ってみると、なるほど風が強い。
山風や潮風よりも、じつは眺望であった。この大崎ノ鼻に立つと、濃い群青の錦江湾に浮かぶ桜島の山容とその色彩が、どの名陶をも見すぼらしくさせてしまうほどの凄味をもって迫ってくる。
0024日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/20(水) 16:44:31.42
▽霧島山
霧島山という固有の山はなく、個々の山岳はそれぞれ個別の名称で呼ばれる。最高峰の韓国岳(標高1,700m)と、霊峰高千穂峰(標高1,574m)の間や周辺に山々が連なって山塊を成している。
有史以降も噴火を繰り返す活火山である。
http://cms.city.miyakonojo.miyazaki.jp/tempimg/130215100544201302150957030i.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/24/Kirishima_from_Maruoka_2.jpg/799px-Kirishima_from_Maruoka_2.jpg
0025日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/20(水) 16:52:18.64
▽隼人
古代日本において、薩摩・大隅・日向に居住した人々。風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した。
熊襲と呼ばれた人々と同じといわれるが、「熊襲」という言葉は『日本書紀』の日本武尊物語などの伝説的記録に現れるのに対し、「隼人」は平安時代初頭までの歴史記録に多数現れる。熊襲が反抗的に描かれるのに対し、隼人は天皇や王子の近習であったと早くから記されている。
0026日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/20(水) 17:01:04.52
服属後もしばしば朝廷に対し反乱を起こし、720年(養老4年)に勃発した大規模な反乱が、征隼人将軍大伴旅人によって翌年に征討された後は完全に服従した。800年(延暦18年)には班田収授法が初めて実施された。
0028日本@名無史さん
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2017/12/21(木) 20:16:13.13
前スレの権平五千石の叙述に関して質問があります。
「幕末になって十何代目かの権平が、どういうわけか大和田原本で一万一石に加増され」と司馬遼太郎さんは書かれています。
このスレの他の方のレスによると、少し違っているように思えます。
どちらが本当なのですか?
0029日本@名無史さん
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2017/12/21(木) 20:28:38.41
このスレに書かれてあることで司馬先生の叙述と矛盾があれば、原則として司馬先生が間違っていると考えてください。
さて、ご質問の件ですが、まず司馬先生の叙述の「幕末になって」が間違っています。
平野家は江戸時代を通じて交代寄合の格式で、大名ではなく、参勤交代をおこなう旗本でした。
明治元年(1868年)に平野家を田原本藩として立藩させたのは、江戸幕府ではなく明治政府です。
これを「維新立藩」といいます。明治4年の廃藩置県までは藩が存在したことを思い出してください。
0030日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/21(木) 20:33:17.61
司馬さんは「十何代目」かの権平と間違えていますが、第10代平野家当主の平野長裕のことです。
長裕は、明治元年(1868年)7月14日、新政府の計らいで実高に高直しされ、1万石で大名に列し、ここに田原本藩を立藩した。
明治2年(1869年)7月20日には藩知事となる。翌年6月24日、東京で死去した。享年28。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c7/Hirano_Nagahiro.jpg/200px-Hirano_Nagahiro.jpg
0031日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/21(木) 20:41:08.77
なお、司馬先生の書かれ方ですと、平野長裕が田原本を知行地として加増されたように読めます。
しかし、田原本を加増されたのは、権平五千石の主人公である平野長泰ですので、お間違えなく。
賤ヶ岳の戦いの功績により河内国で3,000石の知行、文禄4年(1595)8月に2,000石の加増となり、大和国十市郡田原本近隣七ヶ村において5千石の知行を与えられたのは、初代の長泰です。
明治政府が平野長裕を大名にしたのは、加増ではなくて、表高を実高(内高)に合わせただけです。
0032日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/21(木) 20:44:09.91
俺がこれだけ調べるのに25分しかかかっていない。
文献で調べるか、ネットで調べるかの差なんだろうな。
そうだとすると、司馬を越える小説家が出てきてもよさそうなものだが、実際にはバカばかりなんだよな。
0033日本@名無史さん
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2017/12/22(金) 06:56:11.25
他人を攻撃するときの舌鋒の鋭さは、まるで沼間守一のようだなw
0034日本@名無史さん
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2017/12/22(金) 06:59:50.47
>>30
丹波守長祥〈ながあき〉は、「その当時」の人なので、平野家第三代当主・平野長政ではないですね。
架空の人物なんだけど、平野長政の官位と諱と法名の三つを合体させてオリキャラ名にした。
0036翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2017/12/22(金) 07:19:47.17
第1章 パリで

「パリ近くで列車の窓から大便をほうり投げた者がいる。それが保線夫に命中した。保線夫が怒り、それを警察署へもってゆくと、警察署にアジアの事情に明るき者がおり、これは日本文字なり、投げた者はおそらく日本人なるべし、と証明した」
パリに着いた翌日に買った新聞を沼間守一がもってきて、そのくだりを指でたたいた。国辱と思わないかね、君、と沼間はいった。
「薩摩人はどうも行儀がよくない」
と、旧幕臣でそれも代々の旗本の子である沼間は、川路をばかにしきったような顔でいった。
0038日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 07:26:46.73
この大長編をうんこネタで始めるところなんかは、司馬の卓抜した手腕だな。
明治政府は、欧米と日本の文明の濃度の差を、自己の課題というよりコンプレックスとして持ち続けた政権だ。
冒頭のうんこネタは、その点を見事に表現した挿話として高く評価できる。
0039日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 07:28:37.81
              人
             (__)
             (__)
       ウンコー  (・∀・,,)
            O┬O )
_| ̄|○  キコキコ ◎┴し'-◎ ≡




   人                      <ウンコー !     
  (__)              (,,・∀・)
 (__)                ( O┬O
_| ̄|○i|!         ≡ ◎-ヽJ┴◎  キコキコ
0040日本@名無史さん
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2017/12/22(金) 10:00:11.12
★マルセーユ

▽川路利良〈としなが〉
天保5年(1834年)- 明治12年(1879年)
当初「としなが」と名乗っていたが、後に「としよし」と改名したようである。通称は正之進。
維新後の明治4年(1871年)、西郷の招きで東京府大属となり、同年に権典事、典事に累進。
明治5年、邏卒総長に就任し、9月、司法省の西欧視察団(8人)の一員として欧州各国の警察を視察する。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/syashin/kawaji.jpg
0041日本@名無史さん
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2017/12/22(金) 10:06:24.08
▽マルセーユ
前600年にギリシアのフォカイア人が築いた植民都市「マッシリア」にはじまるフランス最古の都市。また、フランス最大の港湾都市でもある。
人口は約82万人でパリに次ぎフランス第二位、都市圏人口ではパリとリヨンに次ぎ第三位の規模を誇る。漢字による表記は馬耳塞。
温暖で湿潤な冬と全体的に乾燥する夏を持つ地中海性気候である。最も寒いのは1月と2月で、平均気温は8℃から9℃である。
https://travel.rakuten.co.jp/kaigai/europe/img/france.gif
http://worldtenki.net/wp-content/uploads/2015/05/Marseille_01.jpg
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/international/sister/img/marseilles1.JPG
0042日本@名無史さん
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2017/12/22(金) 10:13:01.26
▽沼間守一
天保14年(1843年)、江戸牛込にて幕臣・高梨仙太夫の第二子として生まれる。弘化6年(1849年)、沼間平六郎の養子となる。
慶応元年(1865年)、幕府陸軍伝習所に入所。
慶応4年(1868年)1月、歩兵奉行並に昇進。3月、士官約20名を連れ兄・須藤時一郎とともに江戸を脱走。会津で遊撃隊(銃隊)を編成する。
4月、日光方面にて大鳥圭介とともに板垣退助らの新政府軍と戦う。7月、会津に戻り遊撃隊を伝習し、下旬に庄内藩へ移動、農兵を訓練する。
9月に庄内藩が降伏したため12月に江戸へ護送される。
http://1.bp.blogspot.com/-cxecRMwFI6I/UHhuwrwIe6I/AAAAAAAAFls/0-DvzSsbrws/s1600/%E6%B2%BC%E9%96%9327.jpg
0043日本@名無史さん
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2017/12/22(金) 10:21:06.62
▽河野敏鎌
天保15年(1844年)- 明治28年(1895年)。幼名は万寿弥。
土佐藩郷士の河野通好の長男として高知に生まれる。土佐勤王党に加入して武市半平太や坂本龍馬らと交友関係を持つ。
文久3年(1863年)に藩主・山内容堂が佐幕派に鞍替えしたことから藩論が転換し、河野は投獄され6年間の獄中生活を送る。
慶応4年(1868)に罪を免じられて出獄。同藩の後藤象二郎の手引きで大坂に上り、江藤新平の知遇を得る。
http://www.mext.go.jp/joho-hiroba/virtual/daijin/pages/m/img/main_006.jpg
0044日本@名無史さん
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2017/12/22(金) 10:21:56.10
川路は河野より10歳年長なんだな。沼間ですら河野より1歳年長。
0046日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 10:32:07.93
▽窈窕たる淑女
美しくしとやかであるさま。
『窈』は、穴+幼 から作られた形声文字です。意味は「おくぶかい」「うつくしい」です。
『窕』は、穴+兆 から作られた形声文字です。意味は『窈』と同じ「おくぶかい」「うつくしい」です。
「窈窕淑女」は『詩経』周南・関雎(カンショ)にでている四字熟語。
https://i.ytimg.com/vi/uidFup9OGNY/maxresdefault.jpg
0047日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 10:36:22.96
▽田舎教師らしい中年男とその妻女
後ろの座席で川路がうんこをしていることに気づかなかった二人である。
0049日本@名無史さん
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2017/12/22(金) 10:46:14.34
>>14
時系列が複雑。あっちに飛び、こっちに飛ぶ。
これから横浜からマルセーユへの船旅だ。
0050日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 10:47:01.11
うんこネタを冒頭にもってきたかったので、船旅は後回しにしたのさ。
0051日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 14:35:53.76
▽薩摩与力
薩摩の与力は、薩摩藩家臣団の最下級の家格に属する。
城下士に含まれない低い身分であった。川路の家格は与力である。
桐野は郷士で城下士ではないが、郷士の家格は城下士最下級の御小姓与と同格とされた。
0052日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 14:37:40.17
島津重豪の藩政改革によって、郷士は徐々に城下士より下に見られるようになったよね。
0054日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 14:40:00.53
要するに、薩摩与力は、城下士からも郷士からも差別される家格だ。
0055日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 14:44:19.59
>>40
うちの兄ちゃんが、テレビ・ドラマに川路利良が出てきたときに、ドラマの中で「としよし」と呼ばれていたのを、「利良と書いて〈としなが〉と読むんだ」と知ったかぶりして言っていました。
兄ちゃんは間違ってますね?
0056日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 14:45:06.41
間違っているけど、悪口を言っていると、兄ちゃんからお年玉を貰えないよ。
0057日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 14:50:39.39
▽示現流
川路は示現流剣法の達人であった。
薩摩藩内では江戸後期に島津斉興より御流儀と称され、分家の佐土原藩を除き、藩外の者に伝授することを厳しく禁じられていた御留流である。
『一の太刀を疑わず』または『二の太刀要らず』と云われ、髪の毛一本でも早く打ち下ろせと教えられる。初太刀から勝負の全てを掛けて斬りつける『先手必勝』の鋭い斬撃が特徴である。
https://www.youtube.com/watch?v=6cSmL0tdq88
0058日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 14:53:04.52
しかしまあ、一般のイメージとは違って、初太刀からの連続技も伝えられているし、初太刀を外された場合に対応する技法も伝授されているんだよね。
0059日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 15:03:49.45
▽蛤御門の変
川路利良は、元治元年(1864年)、蛤御門の変(禁門の変)で長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛を狙撃して斃すという戦功を挙げ、西郷隆盛から高く評価された。
正確には、川路に狙撃された後、来島又兵衛は、甥の喜多村武七に介錯を命じ、自ら槍で喉を突いた後、首を刎ねられて死亡した。享年48。
※来島又兵衛:『奇兵隊』(1989年 / NTV年末時代劇スペシャル)の竜雷太
http://koimousagi.com/wp-content/uploads/2015/12/ryuuraita_koregaseisyunda.jpg.pagespeed.ce.uU_BSSg8Eo.jpg
0061日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 15:19:57.04
▽ルーブル宮
歴代フランス王の王宮として使用されていた宮殿。パリのセーヌ川右岸に位置する。
1682年にフランス王ルイ14世がヴェルサイユ宮殿に遷宮するまで、事実上の歴代フランス王宮としての役割を果たしている。
その後ルーヴル宮殿内にルーヴル美術館が創設され、また、様々な官公庁部署が収容されていった。
※見えている部分は全てナポレオン3世時代のもの
https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000895872/06/img6833ce60zik6zj.jpeg
0062日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 16:12:31.29
▽勝海舟
沼間守一が勝海舟を暗殺しようとしたのかどうかは、筆者は知らない。
>>42を今少し詳しく講釈する。
会津藩家老西郷頼母は、沼間守一に藩士へはフランス式練兵を、少年に英語の教授を依頼した。そして「会津の三郎」こと山川健次郎、柴四朗、赤羽四郎の他が選抜され、沼間から英語を学ぶように指示された。
しかし、西軍の攻撃で宇都宮城が落ちると、沼間は幕兵と山川大蔵ら会津藩兵とともに日光口に出陣していった。
0063日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 16:26:06.61
▽庄内藩
出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)を本拠地として、現在の庄内地方を知行した藩である。
藩主の酒井氏は、戦国武将で徳川四天王の一人である酒井忠次の嫡流。
慶応3年(1867年)12月25日、江戸市中取締役を拝命していた庄内藩は、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちした。
戊辰戦争では、会津藩とともに奥羽越列藩同盟の中心勢力の一つとなった。
https://uub.jp/47/yamagata/yamagata_map1.png
0064日本@名無史さん
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2017/12/22(金) 16:33:59.87
久保田藩(秋田藩)に続いて、新庄藩・本荘藩・矢島藩・亀田藩が新政府軍に恭順した。この状況に対して、白河へ兵を向けようとしていた庄内藩は一部の部隊を北方へ派遣し、明治元年7月14日に新庄藩主戸沢氏の居城・新庄城を攻め落とした。
さらに、庄内藩・仙台藩の軍勢は連戦連勝に近い状態で、久保田(秋田)領・矢島領・本荘領を制圧していった。総督府に自領を放棄された亀田藩は、庄内藩と和議を結んで再度列藩同盟軍に参加した。
http://seuru.pupu.jp/touhokusingunzu.jpg
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/005/226/26/1/bosin2.gif
0065日本@名無史さん
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2017/12/22(金) 16:36:08.73
また、盛岡藩は列藩同盟と新政府側のどちらの陣営に属すかで長く議論が定まらなかったが、家老の楢山佐渡が帰国すると列藩同盟に与することを決定した。8月9日に盛岡藩は久保田藩(秋田藩)に攻め込み、大館城を攻略した。
しかし、佐賀藩を中心とする援軍の到着により久保田軍(秋田藩)は勢いを盛り返し、9月7日には盛岡軍を藩境まで押し戻した。
庄内藩も、9月12日に上山藩が降伏したことで南方の不安が増したため、17日に退却し以後は自領防衛に徹した。
9月22日、会津藩が降伏して東北戦争の勝敗がほぼ決すると、同日盛岡藩が降伏し、24日に庄内藩・亀田藩も降伏した。
0066日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 16:53:03.83
▽千住から赤羽
沼間は味方であった庄内藩兵に捕えられ、江戸まで護送された。
千住から舟に乗り赤羽の手前まで着たとき、明治二年元旦の初日が昇るのを見た。
「ああ たった六十余州か けさの春」
https://d1lfxha3ugu3d4.cloudfront.net/images/opencollection/objects/size2/30.1478.103_PS1.jpg
※多摩川・六郷の渡し〔参考〕
http://touyoko-ensen.com/mini%E2%80%90info/cook/ht-image/pic-071watasi/rokugou-watasi-1.JPG
0067日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 16:56:51.92
▽「おのれの好悪の情を他人に喋々するは男子の事に非ず」
沼間の薩摩嫌いの言に対して、川路が述べた言葉。
今日まで筆者は、この言葉は自分が考えたものだと勘違いして、方々でこれを述べていた。
「翔ぶが如く」に書かれてあったんですな。すんません。
0069日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 17:20:24.67
▽ノートルダム大聖堂
ゴシック建築を代表する建物であり、フランスはパリのシテ島にあるローマ・カトリック教会の大聖堂。
1789年に始まったフランス革命により他の教会同様にノートルダム大聖堂も襲撃を受け、大聖堂を飾っていた歴代の王の彫像が破壊されて埋められた。この彫像群は1977年に工事の際偶然発見され、現在では近くにあるクリュニー中世美術館に展示されている。
https://d18gmz9e98r8v5.cloudfront.net/ptr/20150723034511_1860756000_10093_8.jpg
https://weblio.hs.llnwd.net/e7/img/dict/skiis/img/5FRAPARC0013.jpg
http://20sqp4er1g81zsnf23x1og78.wpengine.netdna-cdn.com/wp-content/uploads/2017/04/annie-spratt-87466-750x490.jpg
0070日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 17:29:09.79
▽司法制度調査団の序列
河野敏鎌……司法少丞
沼間守一……司法省七等出仕 / 警保助
川路利良……邏卒総長
鶴田皓………明法助
岸良兼養……権中判事
0071日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 17:31:52.26
▽後発組
井上毅………司法中録
名村泰蔵……司法省七等出仕
益田克徳……司法省八等出仕
0075日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 17:46:16.20
▽名村泰蔵
天保11年11月1日(1840年)- 明治40年(1907年)
長崎出身。北村元次郎と名乗っていたが、名村元義の養子となり泰蔵と改めた。名村家は代々阿蘭陀通詞を継承した家柄であったため、オランダ語を学び、さらに英語・ドイツ語・フランス語も学んだ。
1867年(慶応2年)、パリ万国博覧会に派遣された徳川昭武に随行した。
https://rekijin.com/wp-content/uploads/2014/12/31857fa56d268921d7aea40d20372f57-150x150.jpg
0076日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 17:50:53.14
▽益田克徳〈かつのり〉
1852年(嘉永5年) - 1903年(明治36年)
佐渡生まれ。佐渡奉行所の役人・益田鷹之助の次男で、益田孝の弟。
司法省に出仕した後、民間に下り、沼間守一〔>>42〕の嚶鳴社に入って自由民権運動に参加する。
1879年(明治12年)東京海上保険会社勤務となり支配人となる。東京米穀取引所、王子製紙、明治生命、石川島造船所の取締役を歴任する。
http://www.tohoshuppan.co.jp/imgs/masudae1.jpg
0077日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 18:28:07.11
▽ジブスケ
デュ・ブスケのこと。1837年 - 1882年。
ベルギー生まれのフランスの軍人。後に明治政府のお雇い外国人。
歩兵中尉だった1866年、徳川家茂の要請でナポレオン3世が派遣したシャルル・シャノワーヌ大尉を隊長とする第一次遣日フランス軍事顧問団に選ばれた。
幕府崩壊により軍事顧問団は解雇されたが、デュ・ブスケは帰国せず、フランス公使館の通訳として日本に残った。
旧幕陸軍時代の沼間守一の俊才ぶりに驚いた。
0078日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 18:31:21.85
▽メスロー
第一次遣日フランス軍事顧問団の一員で、デュ・ブスケと似たような経歴をもつ。
カタカナ表記が統一されていないのか、資料が少ない。
0080日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 18:39:15.46
むしろ、この女優をオードリー・ヘボンと呼ぶべきではないか?
http://www.geocities.jp/yurikoariki/audrey14sss.gif
http://images2.fanpop.com/image/photos/14500000/Audrey-audrey-hepburn-14539307-325-404.gif
http://top.tsite.jp/static/top/sys/contents_image/036/596/683/36596683_106837.jpg
http://img.ellegirl.jp/var/assets/storage/images/article/audrey-hepburn-birthday-170504-hns/2064525-2-jpn-JP/88-!_rect360.jpg
0081日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 18:42:49.63
▽横浜のフランス人の洋服屋
フランス語ができない沼間守一のために、英語で会話した。
河野敏鎌らは、この情景を見て、沼間を仏蘭西学者であると勘違いした。
なお、沼間は英語を横浜在住のヘボン博士〔>>79〕から学んだ。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 18:46:46.80
後発組の司法制度調査団の中には、長崎通詞の名村泰蔵〔>>75〕がいるのだから、何も心配する必要はないんだけどね。
司馬さんは、後発組は東京で通訳のフランス人を傭って出かけると述べられているが、名村泰蔵の通訳の技能をすっかり忘れている。
0083日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 18:59:35.30
>>80
そのとおりである。
われわれ日本人がパソコンのキーボードを打つことができるのは、ヘボン博士のおかげである。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 19:07:51.72
▽小栗忠順〈ただまさ〉
文政10年(1827年)- 慶応4年(1868年)。文久3年(1863年)、上野介に遷任され、以後小栗上野介と称される。
安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。
徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村(群馬県高崎市倉渕町権田)に隠遁。同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、翌日、斬首された。
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/takatoki_hojo/20170527/20170527124205.jpg
0085日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 19:11:35.64
明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直され、大隈重信や東郷平八郎から、幕府側から近代化政策を行った人として評価されている。
司馬遼太郎は、『明治という国家』 のなかで、小栗を「明治の父」と記した。
本章では、沼間守一が尊敬する人物として、小栗上野介と河野敏鎌の名が挙げられている。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 19:16:00.47
▽秋霜
秋の冷たい霜。きびしいこと、鋭く光る物、白髪などのたとえ。
※秋霜烈日
秋の冷たい霜や夏の激しい日差しのような気候の厳しさのことで、刑罰・権威などが極めてきびしく、また厳かであることのたとえ。
日本における検察官記章(バッジ)のデザインに対する呼称。
http://matsushige.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2010/11/21/002.jpg
0087日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 19:20:29.83
沼間守一は弱気になっている鶴田皓〈あきら〉に対して、「私は三河武士の末裔」から始まる長広舌をふるっている。
ちなみに、鶴田は佐賀藩士〔>>72〕。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 19:26:01.43
長広舌をふるうと聞いて、さわやかな弁舌を思う人はほとんどいないであろう。古くは弁舌が巧みであることを表す場合もあったが、最近では単に長々としゃべることの代名詞のようになってしまっている。
この言葉、もともとは仏にそなわる勝れた相(すがた)としての三十二相の一つである広長舌相(こうちょうぜっそう)に由来している。
仏の舌は広くて長く、しかも軟らかいために、その顔を覆うことができるという。
大きいから立派だという話ではない。実際に顔全体を覆っている舌などを見たら、びっくりするだけである。これは仏の説く言葉が広く響きわたることを広く長い舌の相(すがた)によって表しているのである。
0089日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/22(金) 19:28:57.35
蘇東坡の詩でも「渓声便是広長舌」になっていますよね。
もともとは「広長舌」であったものが、阿呆が聞き間違えるか、言い間違えるかして「長広舌」に変化した。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 17:57:26.48
★羅尼

▽栗本鋤雲
文政5年(1822年)- 明治30年(1897年)
幕府の典医を務めていた喜多村槐園の三男として生まれる。1858年(安政5年)2月24日、蝦夷地在住を命じられ箱館に赴任する。
以後、幕末に外国奉行、勘定奉行、箱館奉行を歴任し、明治以後はジャーナリストとして活躍した。
0091日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 18:00:54.06
徳川昭武の一行が、1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会に訪問したときには、その補佐を命じられたため鋤雲もフランスに渡った。
日本学者のレオン・ド・ロニーとも交流している。これが本章に登場する羅尼ことロニーである。
そして仏蘭西で、外国奉行川勝広道から大政奉還と江戸幕府の滅亡の報を受けた。
※横須賀製鉄所建設に尽くした小栗上野介の協力者である栗本瀬兵衛
http://s2s.jp/furusato/image/yoko_006.JPG
0092日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 18:06:52.40
▽安宿の痩せた主婦
今朝セーヌ川が凍った。フランス中が寒いのであるから、暖房はつけないと宿泊客に宣言した。
ドケチであるが、若い頃はパリジェンヌであった。
https://www.glitty.jp/images/2017/03/20170316_paris.jpg
http://primemarket.info/wp-content/uploads/2016/04/6af93e664dcaa4a227781dff976c9789.jpg
https://img.hadalove.jp/wp-content/uploads/2016/03/a90086851d793769b081e976dbc3629c-e1457074494898.jpg
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/h/hibikoujou/20171027/20171027172830.png
0093日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 18:10:01.11
▽レオン・ド・ロニー
1837年 - 1914年。フランスの民俗学、言語学、日本学者。
ノール県ロース(Loos) に生まれる。父および祖父ともに有名な学者であった。
当初植物学者を志したが、やがてコレージュ・ド・フランスで中国語の研究に没頭する。さらに、独力で日本語の研究を開始した。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 18:12:11.63
1862年に文久遣欧使節がフランスを訪問した際にはその通訳を務めただけでなく、一行がフランスを出国した後も同行した。この間、福澤諭吉や福地桜痴と親交を重ねた。
しかし、1864年に横浜鎖港談判使節団が訪仏した際には、政府から日本人との接触を禁じられた。
1867年のパリ万国博覧会では科学委員となった。1867年から翌年にかけて、幕府の特使として栗本鋤雲〔>>90-91〕がパリに滞在していたが、この間にロニーと深い接触があった。
http://expositions.bnf.fr/france-japon/images/gallica/enseign_2.jpg
0095日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 18:17:28.79
ロニーはてっきりオリキャラだと思っていたのに、実在した学者でしたかヾ( ゚∀゚)ノ゙
0096日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 18:19:50.10
いつもなら司馬さんが「後年のことになるが、このロニーが云々」てな感じで解説をするのに、ロニーに関しては特に余談のかたちで解説していないので、オリキャラだと思ってしまいますよね。
0098日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 18:36:57.70
暗い若者(にせ)であったが、稚児好きの薩摩モンなら食指が動くかもしれないと、川路はロニーの顔について感想を述べている。
しかし、ロニーは明治5年の時点で35歳であるから、稚児好きの薩摩モンでも食指は動かないと思う。
0100日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 18:44:43.68
どうでもいいが、テンポが遅いよ。
まだ10頁しか進んでいないのに、もう100だよΣ(゚д゚lll)ガーン
0101日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 19:01:12.13
▽第一回:文久遣欧使節
江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約(1858年)で交わされた新潟・兵庫の両港および江戸・大坂の両都の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉のため、文久元年(1862年)にヨーロッパに派遣した最初の使節団である。
正使は竹内下野守保徳、副使は松平石見守康直(康英)、目付は京極能登守高朗であった。この他、柴田剛中(組頭)、福地源一郎、福沢諭吉、松木弘安(寺島宗則)、箕作秋坪らが一行に加わり総勢36名となり、さらに後日通訳の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名となった。
http://home.e01.itscom.net/ikasas/technology/pic_cul/shisetsu_bunkyu.jpg
0103日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 19:09:36.70
▽第二回:横浜鎖港談判使節団
池田筑後守長発を正使、河津伊豆守祐邦を副使、河田相模守熙を目付とし、文久3年から元治元年にかけて(1864年)幕府がフランスに派遣した外交団である。使節団の目的は、開港場だった横浜を再度閉鎖する交渉を行うことであった。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 19:09:48.91
孝明天皇は文久3年5月10日(1863年)をもっての攘夷勅命を発しており、これに従って幕府は5月9日に各国公使に対して開港場の閉鎖を通達するが、諸外国は当然これを拒否し、幕府も9日後にはこれを撤回していた。
更に下関事件や薩英戦争ならびにフランス士官カミュ殺害事件等が起きて諸外国との軋轢も高まっていた。このような状況で、幕府は攘夷派を懐柔するため使節団を派遣するが、もとより達成不可能な任務であった。
https://bushoojapan.com/wp-content/uploads/2017/02/acf6ef8345eb8446eecbbf15a6f65112.jpg
0105日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 19:12:23.60
ロニーは、1864年に横浜鎖港談判使節団が訪仏した際には、政府から日本人との接触を禁じられたのであるが〔>>94〕、司馬さんは、ロニーは池田筑後守らの宿泊しているホテルを訪ねていると述べられている。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 19:19:09.84
▽第三回:徳川昭武使節団
徳川昭武は、慶応3年1月(1867年2月)に将軍慶喜の名代として使節団を率いて約50日をかけて渡仏した。使節団の中には、外国奉行の栗本鋤雲、会計係として渋沢栄一、随行医として高松凌雲、通訳に山内堤雲がいた。ナポレオン3世に謁見し、パリ万国博覧会を訪問する。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0e/Akitake_Tokugawa.jpg/250px-Akitake_Tokugawa.jpg
0107日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 19:20:34.41
このときもロニーはホテルを訪ね、栗本鋤雲と深い接触があった〔>>94〕。
0109日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 19:45:34.84
▽パリの下水溝
ロニーは川路にパリの下水溝を見学するように勧めたが、川路はそれにも興味を示さなかった。
「花の都」パリ。しかし100年ほど前までは、街中がトイレと化した「悪臭の都」パリであった。下の写真はかつての下水用溝が残るパリの通り。通りの真ん中にある溝に家庭から出たあらゆる汚物が流さていて、パリ全体が悪臭を放っていた。
http://www.geocities.jp/kcc_newair/history01.jpg
0113日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 20:07:27.07
▽日本のガス灯
1857年(安政4年)には、鹿児島の仙巌園において、既存の石灯籠にガスの管を繋ぎ照明としてガスを燃焼させた。この装置の製作を命じたのは島津斉彬である。
日本で最初に西洋式ガス灯が灯されたのは、1871年(明治4年)大阪市の造幣局周辺においてである。
翌年の1872年(明治5年)9月1日に、実業家高島嘉右衛門とフランス人技師プレグランの尽力により、横浜市に最初のガス灯が造られた。常設のガス灯としては、これが日本初といってよい。
http://2.bp.blogspot.com/-r9j76_M-hVc/VCxlTzprgaI/AAAAAAAAk8M/dLOl5GvSEjc/s400/CIMG9415.jpg
0114日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 20:15:42.02
東京では浜崎町にガス発生所が設けられて、1874年(明治7)12月18日に金杉橋から京橋までの銀座通り沿いに85基のガス街灯が灯った。
はじめ公営であった東京のガス事業は、後に初代の社長となる渋沢栄一の手腕により発展し、1885年(明治18)年には民間会社となった。
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/massneko/20151005/20151005093708.jpg
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/massneko/20151005/20151005093741.jpg
0115日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/23(土) 20:25:16.48
▽フランスの警察
古くはフランスの警察活動は王権や封建領主とその軍隊によって行われてきたが、フランス革命以降はコミューンが警察権を有するようになり、自治体警察が主となった。その後、統領政府体制下の1800年、首都パリではパリ警視庁が設置され、警察の国家化が図られた。
ジョゼフ・フーシェ(1759 - 1820)は、ナポレオン体制では警察大臣を務め、タレーランと共に体制の主要人物となった。
近代警察の原型となった警察機構の組織者で、特に秘密警察を駆使して政権中枢を渡り歩いた謀略家として有名である。
権力者に取り入りながら常に一定の距離を保って激動の時代を生き抜いた人物。「カメレオン(冷血動物)」の異名を持つ。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Joseph_Fouch%C3%A9.png/225px-Joseph_Fouch%C3%A9.png
0116翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2017/12/24(日) 09:52:53.19
第2章 東京

「英雄ほど、悍馬にのせられる。英雄とは時勢の悍馬の騎乗者のことをいう。西郷という人がそうであった。時勢の悍馬に騎り、二百七十年の徳川幕府をあっという間にうち倒してしまった。幕府は時勢という悍馬に蹴散らされたのであって、西郷その人に負けたのではない。
が、世間はそうは思わず、倒幕の大功を西郷に帰せしめた。このため維新後、西郷はとほうもなく巨大な像になり、ただ一個の人格をもって明治政府に対抗できるという、史上類のない存在になった」
風が烈しくなった。沼間はしきりに髪を掻きあげた。
0117日本@名無史さん
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2017/12/24(日) 10:23:29.79
★地中海

▽広小路口
彰義隊と新政府軍の間で行われた上野戦争における激戦地。ふつう「黒門口の戦い」と呼ばれる。
川路はこの戦いで睾丸のつけ根あたりに被弾し、今も弾痕が残る。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8d/UenoSenso.jpg/1200px-UenoSenso.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/15/Ueno_Battlefield.JPG/220px-Ueno_Battlefield.JPG
0119日本@名無史さん
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2017/12/24(日) 10:30:55.74
「沼間さァの弾は好色女ごわしてナ。寒びっとねえ痛み申さ」
「自分は彰義隊のような空元気の集団になどおったことはない。土佐の板垣と闘っておったわ」
0120日本@名無史さん
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2017/12/24(日) 10:38:07.14
▽大奈翁
「奈」は奈破崙 (ナポレオン) の略。河野の尊敬する人物。
1769年にコルシカ島の貧乏貴族の家に生まれ、フランス本土で兵学校に入りフランス革命政府の軍人となる。
ジャコバン派のロベスピエールを支持したためテルミドールの反動で一時危うかったが、王党派の武装蜂起鎮圧に功を上げて軍司令官に昇進した。
http://www.theordealofconsciousness.com/wp-content/uploads/2016/11/Napleon-Crossing-the-Alps.jpg
0121日本@名無史さん
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2017/12/24(日) 10:40:42.29
1796年からのイタリア遠征でオーストリア軍を連破し、カンポ=フェルミオの和約で南ネーデルラントとロンバルディアを獲得して名声を高めた。1798年にはイギリスのインド支配を妨害するためエジプト遠征を実行した。
そのころ総裁政府は弱体化しており、1799年にナポレオンは政府に無断でパリに帰還し、ブリュメール18日のクーデターで権力を握った。
第一統領となったナポレオンは、12月15日「革命暦第8年憲法」を制定して、フランス革命の終結を宣言した。
0122日本@名無史さん
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2017/12/24(日) 10:43:51.78
ナポレオンは、さらに革命理念の全ヨーロッパへの拡張を称えて、ナポレオン戦争といわれる征服戦争を展開し、国内ではブルジョワ・小ブルジョワ・農民の幅広い支持を背景に、1804年にナポレオン1世として即位し皇帝となった(第一帝政)。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/de/Jacques-Louis_David_019.jpg/640px-Jacques-Louis_David_019.jpg
0123日本@名無史さん
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2017/12/24(日) 10:45:41.04
しかし、ヨーロッパ支配の野望は1812年のロシア遠征に失敗したことから急転し、各国に解放戦争が起こってナポレオンは1814年に退位した。
まもなく配所のエルバ島を脱出し、パリに帰還し皇帝に復したが、1815年6月、ワーテルローの戦いに敗れて「百日天下」に終わり、セントヘレナ島に流され、1821年に死去した。
時代はウィーン体制という反動期に向かっていく。
0125日本@名無史さん
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2017/12/24(日) 11:08:07.82
▽ルイ・ナポレオン
ナポレオン1世の退位とともに亡命生活に入り、七月王政期にフランスに戻り、1848年の二月革命後の第二共和政下における大統領選挙に出馬して当選し、1851年のクーデタで実権を握り、同年末に皇帝に即位しナポレオン3世となる。
その後、第二帝政期のフランスを統治して、産業資本家や農民の幅広い支持でボナパルティズムといわれる独裁を行う。
その間、クリミア戦争など積極的な対外政策を展開して国民的支持を受けたが、普仏戦争に敗れて1871年に退位した。
http://bunka.nii.ac.jp/heritage/12257/_162649/12257_162649120314102244341_300.jpg
0126日本@名無史さん
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2017/12/24(日) 11:16:52.30
▼フランス革命
1787年 三部会召集
1789年 フランス革命。バスティーユ陥落 →絶対王政から立憲君主政へ
1792年 王政廃止。共和制へ
1793年 ルイ16世、マリーアントワネット王妃処刑、ジャコバン派の恐怖政治
0127日本@名無史さん
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2017/12/24(日) 11:24:38.62
1794年 テルミドールの反動、ジャコバン派指導者のロペスピエール処刑 →テルミドール派の総裁政府
1799年 軍人ナポレオンが、政府の第一統領に就任。
1804年 ナポレオンが皇帝に就任 →第一帝政
1814年 対フランス連合軍に敗れたナポレオンをエルバ島に追放。ウイーン会議。
1815年 ナポレオンの百日天下。
1815年 ワーテルローの戦いで、英国・プロシア軍に敗れ、ナポレオン再度追放。
0128日本@名無史さん
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2017/12/24(日) 11:29:41.24
▼ウィーン体制
フランス革命とナポレオン戦争後のヨーロッパを革命前の絶対王政に戻した体制。時期は1815年から1848年の二月革命・三月革命まで。
その指導的立場にあったのがオーストリアのメッテルニヒ。
その理念とされたがフランスのタレーランの提唱した正統主義。
http://media-2.web.britannica.com/eb-media/54/10754-004-B57DC16C.jpg
0129日本@名無史さん
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2017/12/24(日) 11:32:40.88
《焼肉屋における一コマ》
「少なくなっているね。注ごうか?」
「タレイラン。塩でいい」
0130日本@名無史さん
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2017/12/24(日) 11:39:05.21
▼フランス復古王政
1814年のナポレオン没落後、1830年の七月王政成立までの時代。
ブルボン朝の国王ルイ16世が廃位・処刑された後、第一共和政(1792年 - 1804年)、第一帝政(1804年 - 1814年、1815年)が続いた。
しかし、第六次対仏大同盟がナポレオンを破って第一帝政が終わり、ルイ16世の後継者による王政が復活した。
復古王政期のブルボン朝は、アンシャン・レジームのような絶対王政ではなく立憲王政であった。
※シャルル10世(1824年 - 1830年)
https://www.thefamouspeople.com/profiles/images/charles-x-of-france-1.jpg
0131日本@名無史さん
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2017/12/24(日) 11:54:42.80
▼七月革命(1830)
1830年、フランス復古王政のシャルル10世の言論弾圧などに対して、ブルジョワ共和派を支持するパリ市民が蜂起して絶対主義体制を倒し、七月王政を出現させた変革。
ヨーロッパの各地の反動勢力にも大きな打撃となり、ウィーン体制を大きく動揺させた。
※ドラクロワ『民衆を率いる自由の女神』
http://pds.exblog.jp/pds/1/201103/06/40/e0206240_0101721.jpg
0132日本@名無史さん
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2017/12/24(日) 11:57:06.49
高校生の頃、自由の女神のおっぱいポロリを見て、興奮してしまいました(:.;゚;Д;゚;.:)ハァハァ
0133日本@名無史さん
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2017/12/24(日) 12:33:14.29
▼二月革命(1848)
七月王政のもとで普通選挙の要求を掲げた選挙法改正運動が強まる中、ギゾー内閣はそれを拒否し続けていた。政府によって集会が禁止されたため、普通選挙を要求する人びとは改革宴会という形で運動を続けたが、政府は宴会禁止令をだして、それも取り締まろうとした。
1848年2月、激昂したパリの市民・労働者が蜂起して、ルイ=フィリップを退位に追い込み、七月王政を倒し、共和政を宣言、臨時政府が成立した →第二共和政
0134日本@名無史さん
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2017/12/24(日) 12:35:40.76
フランスに共和政を復活させた二月革命は、ただちにベルリンとウィーンに飛び火して三月革命を勃発させ、ヨーロッパ全土に及ぶ1848年革命の口火となった。その結果、ナポレオン没落後の保守反動体制であるウィーン体制は崩壊した。
0135日本@名無史さん
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2017/12/24(日) 12:38:24.15
1848年12月の大統領選挙では、ルイ=ナポレオン(1808〜1873)が当選した。
大統領選挙は第二共和政憲法に基づいたものであり、当選したルイ=ナポレオンは、フランスで最初の男子普通選挙によって撰ばれた大統領となった。
0136日本@名無史さん
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2017/12/24(日) 12:46:09.97
▼第二帝政
第二共和政の大統領ルイ=ナポレオンは、1851年のクーデターを決行して議会から共和派を追放し、パリで起こったクーデタ反対の市民蜂起を鎮圧した。
1852年11月、元老院(上院)の帝政復活提案を受け、同月20日に国民投票を実施した結果、783万対25万の圧倒的支持で承認される。12月2日のクーデタ記念日に、ルイ=ナポレオンはナポレオン3世として帝位につく〔>>125〕。こうして第二帝政が始まった。
0137日本@名無史さん
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2017/12/24(日) 12:57:10.84
▼クリミア戦争
オスマン帝国の弱体化に乗じ、黒海から地中海・中近東方面への南下政策を強めるロシアに対し、イギリスとフランスが警戒した。
まず、フランスのナポレオン3世がオスマン帝国に対し、イェルサレムの聖地管理権を要求し認めさせた。それに対して、ロシアのニコライ1世は、オスマン帝国領内のギリシア正教徒の保護を口実に同盟を申し込む。
0138日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 13:00:56.34
オスマン帝国がロシアの申し出を拒否したので、1853年7月、ロシアはオスマン帝国に宣戦する。ロシアは、オスマン帝国の支配圏のルーマニアに侵攻し戦闘が始まった。
1854年3月、イギリスのパーマーストン内閣はナポレオン3世にはかり、オスマン帝国を支援するため参戦した。またサルデーニャ王国がフランスの好意を得ようとして英仏側に参戦した。こうして戦争は、ロシア対オスマン帝国・イギリス・フランス・サルデーニャ王国の図式となった。
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/004/262/42/N000/000/003/140705935872245027226_a0226578_1122363.jpg
0139日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 13:03:36.12
フランス軍3万、イギリス軍2万1千、オスマン帝国軍6千がクリミア半島に上陸、セヴァストーポリ要塞5万の守備隊との攻防戦が焦点となった。英仏軍の補給も困難で戦闘は長期化したが、当初中立を宣言していたオーストリアが、軍をロシア国境に集めて圧力を加えてロシアの孤立が決定的となり、ようやく55年8月、セヴァストーポリが陥落してロシアの敗北で終わった。
http://blog-imgs-58.fc2.com/k/h/1/kh16549/2014110522534502a.jpg
0140日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 13:04:53.43
また世界史になっとるな。司馬氏の叙述と無関係ではないが、余談が長すぎる。
0141日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 13:09:44.07
クリミア戦争に26歳の砲兵少尉として参加したトルストイは、『セヴァストーポリ』という文学作品を著している。
この戦争にイギリスの看護婦ナイティンゲールが派遣され、イスタンブールの対岸のスクタリの病院で傷病兵の看護にあたった。
http://www.livingwithfaith.org/uploads/2/3/9/6/23963899/8463168.jpg
http://www.tamabi.ac.jp/idd/shiro/muqarnas/eurasia/crimea/1.jpg
http://www.tamabi.ac.jp/idd/shiro/muqarnas/eurasia/crimea/5.jpg
0142日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 13:19:32.73
▼アロー戦争(1856〜69)
清の太平天国の乱の最中、宣教師殺害を口実にイギリスとともに出兵し北京を攻撃。北京条約で布教の自由などを清に認めさせる。
▼インドシナ出兵(1858〜62)
ラオス、カンボジア、ベトナムに出兵し、フランス領インドシナ植民地の基礎を築く。
0143日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 13:25:01.03
▽第三共和政(1870年から1940年)
普仏戦争の敗北によってナポレオン3世はイギリスに亡命し、第二帝政は終わりを告げた。さらにドイツ軍にパリを包囲される中、臨時政府がドイツへの降伏を決定すると、パリ市民が降伏に反対して立ち上がり、パリ=コミューンという独自政権を樹立する(1871年3月)。
しかし、ドイツ軍の力で市民・労働者の決起を押さえつけたブルジョワ政権のもと第三共和政が成立することとなる。
0144日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 13:26:53.97
川路らの一行がパリを訪れたのは、パリ=コミューンの1年後、つまり第三共和制の成立直後の1872年であった。
ここまで余談である。
0145日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 13:28:16.29
すまん。打ち忘れていた。>>142の次に、普仏戦争を入れてくれ。

▼普仏戦争(1870年) 
ナポレオン戦争の復讐戦をもくろむプロイセンのビスマルクの挑発に乗り開戦する。スダンの戦いで皇帝自身が捕虜となったため退位に追い込まれた。結局、対外冒険主義の外交がナポレオン3世の命取りとなった。
0146日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 14:14:55.54
▽奕々たる
非常に美しいさま。
沼間守一には理解できない西郷隆盛の人格的光芒を「奕々たる」を形容している。
▽光芒
細長く伸びる一筋の光
0147日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 14:54:00.88
★東シナ海

▽靉気〈あいき〉
雲が去りかねてただようさま。
司馬遼太郎の小説「梟の城」の序盤に、「靉気の粒に光が宿り、紅雲が降りてあたかも庵を包むようにみえた」という文章もあります。
0148日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 17:32:16.62
▽安南人のボーイ
フランス統治時代のベトナム北部から中部を指す歴史的地域名称で、唐代の安南都護府に由来する。
これはフランス側の呼称であって、阮朝ベトナムの行政区分における中圻(チュンキ)に相当している。
※ボーイの画像はなかったが、売春婦の画像ならあった。
http://www.nsleloi.co.jp/CPA_343UneHorizontaleAnnamite.jpg
0149日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 17:39:22.84
東京は征韓論でもって灰神楽の立つような騒ぎだ。
新政府に不満をもつ連中は、ことごとく騎乗の西郷を仰いで第二の維新を願望するだろう。
薩人は今後、日本中を舞台に骨肉相争う騒ぎを演ずるにちがいない。
君は薩人として業火に煮られるだろう。
0150日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 17:45:02.59
▽業火〈ごうか〉
仏教で、悪業 (あくごう) が身を滅ぼすのを火にたとえていう語。
また、罪人を焼き苦しめる地獄の火。
0154翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
垢版 |
2017/12/24(日) 20:09:42.01
第3章 鍛冶橋

【一】江藤司法卿
大久保は大久保で、明治四年の暮から同六年五月まで欧米を視察して帰り、内務省の必要を感じ、みずから内務省を設立することによってそれを梃子にして新国家をつくろうとしていた。
江藤も司法省を梃子にして新国家創造のしごとをしており、しかも不幸なことに両者は犬猿の仲で、たがいに連絡はない。さらにいえば、この大久保・江藤のほかの大官たちは国家の骨格をつくりあげるような青写真をもっておらず、その能力もなかった。
要するに、両雄が屹立している。たがいに異なる青写真をにぎって、たがいに異なる日本をつくりあげようとしている。当然、どちらかがどちらかを殺す以外に解決の道はないであろう。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 20:12:28.05
自分は工場や建築現場において青写真を手にした技師が仕事をしている情景を見たことがある。
若い人たちは青写真やガリ版刷りを見たことがあるのだろうか?
0156日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 20:25:46.86
★内桜田鍛冶橋

▽旧津山藩上屋敷跡
津山松平藩は、美作国十万石を拝領して間もない元禄11年(1698)9月、江戸の大火で藩邸を焼失してしまい、その代わりとして江戸城鍛冶橋門の内側(現在の東京駅付近)に7千坪の敷地と金一万両を与えられ、以後ここを上屋敷として使用した。
津山藩鍛冶橋藩邸は、警視庁舎としての利用を経て、現在は東京駅の敷地の一部となっている。
https://www.city.tsuyama.lg.jp/images/content/8035/edohanteiato.jpg
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-54-1c/jityounohate/folder/1551496/18/63104718/img_0?1403712869
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-54-1c/jityounohate/folder/1551496/18/63104718/img_1?1403712869
0157日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 20:32:25.71
▽国家学
19世紀ドイツを中心に発達した学問分野で、国家の本質 (存在理由) ・起源・作用・構造などを研究対象とする。
英米系の政治学に対応する学問であるが、政治学が政治現象を動態的にとらえ国家論を包容する形で発展していったのに対し、国家学は国家の社会に対する統制機能が強大であった当時のドイツの社会状況を反映して、政治現象をもっぱら国家の統治行為と解する点に特徴がある。
※ゲオルグ・イェリネック(Georg Jellinek)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1b/Georg_Jellinek.jpg/170px-Georg_Jellinek.jpg
0158日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 20:39:52.43
▽不浄役人
町奉行所の同心や与力は、罪人を捕縛・処罰するような仕事が穢れる任務として蔑視されたところから不浄役人と呼ばれた。そのため世襲とはせず、代替わりの際には新規召抱えとした。
しかしながら治安維持という任務上、その職務に精通している事が必須であるため、事実上世襲が行われていた。
https://imgc.nxtv.jp/img/info/titspot/00021/SID0021233_fhds.png?output-quality=40&;output-format=jpg
0159日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 21:00:27.48
▽プロシア野戦憲兵
1810年、プロイセン王国において、ナポレオン・ボナパルトがフランスで編成したジャンダルムリ (Gendarmerie) を模した地方警察部隊の編成が始まった。 プロイセン王国の国家憲兵は陸軍での兵役を終えた歩兵科および騎兵科の軍人によって編成されていた。
彼らの身分は軍人であり装備および給与は陸軍省から提供されていたが、平時は内務省の指揮下で警察活動に従事していた。
0160日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 21:05:02.78
先走って述べてしまったが〔>>144〕、ナポレオン三世の第二帝政の崩壊と第三共和制の成立は、普仏戦争(1870年)と密接に関わっている。
普仏戦争が明治3年、パリ=コミューンと第三共和制の成立が明治4年、川路らの訪仏が明治5年である。
0161日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 21:13:12.39
▽坂元純熙〈すみひろ〉
警察部内において川路より上席の警保助であり、川路が海外視察中の警察を掌握していた薩摩出身の坂元純熙は、西郷の対韓政策を支持していた。
そして坂元は、参議辞任後の西郷復職運動を行った。ところが、川路はあろうことか「ポリスは政治運動をすべきではない」と言って、それに反対し妨害したという。
本章で坂元は川路に対し、帰国の挨拶は郷党の先輩から先にしろと忠告している。
0162日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 21:14:54.08
司馬さんは、坂本は川路と同役の邏卒総長としているね。
面倒だから調べないけど……。
0163日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 21:17:09.72
残り4人の邏卒総長は、水野元靖、安藤則命、桑原譲、田辺良顕。
0164日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 21:20:02.00
『警視庁史』によれば、>>163の4人に、川路・坂元を加えた6人で間違いないよ。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 21:26:38.04
▽安藤則命〈のりみち〉
1828年(文政11年)- 1909年(明治42年)
薩摩国鹿児島城下で薩摩藩士・安藤十郎の息子として生まれる。英学を修めて子弟に教授した。川路と同役の邏卒総長。
1879年、藤田組贋札事件を担当したが、積極的な捜査を行おうとして当局の忌避に触れ、同年12月27日、免本官・位記返上を命ぜられた。
1882年、司法大書記官として復帰する。1890年、貴族院勅選議員に任じられ、1909年11月、貴族院議員在任中に病のため死去した。
0166日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 21:31:18.55
▽桑原譲……旧土佐藩の郷士
▽田辺良顕……旧福井藩出身
▽水野晴郎……「いやー、映画って本当にいいもんですね〜」。水野元靖についてはこれといった情報がない。
0167日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 21:39:11.88
▽合議制
江戸時代の官僚制は縦型組織であったが、役職上位のものから命令や指示を一方的に伝えるような上意下達ではなく、組織末端の役人の意向を順次汲み上げていくような特性を持っていた。
藩の意思決定方式も合議制が基本であるが、その合議の範囲は、重臣だけでなく、それより下位の役人にまで拡大されていた。
複雑化・専門化した行政問題については、行政の実務に携わる役人の判断や見解に依存しなければならなかったので、実務役人の見解が決定に大きな影響を与えていたのである。
0168日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 21:53:04.38
▽徴士
慶応4年 (1868) 1月17日の三職分科の制によって生れた明治政府初期の議事官。
各藩および民間から有才の者が選ばれ、下の議事所の議事官として太政官に出仕した。翌2月の改制により参与・各局判事に任命されたが、旧藩出身ということから太政官との間に間隙が生じ、翌明治2年 (1869) 6月27日に廃止された。1年半しか続かなかった制度である。
0169日本@名無史さん
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2017/12/24(日) 22:36:08.55
▽散髪脱刀令
明治4年8月9日に太政官によって出された法令。一般には、断髪令という名称で呼ばれる。
「散髪制服略服脱刀随意ニ任セ礼服ノ節ハ帯刀セシム」
0170日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/24(日) 22:40:21.69
▽廃刀令
明治9年3月28日に発せられた。大礼服着用の場合並びに軍人や警察官吏などが制服を着用する場合以外に、刀を身に付けることを禁じる内容の太政官布告。
明治8年12月、山縣有朋の建議が採用された。「従来刀を帯びていたのは倒敵護身を目的としたが、今や国民皆兵の令が敷かれ、巡査の制が設けられ、個人が刀を佩びる必要は認められないので、速やかに廃刀の令を出して武士の虚号と殺伐の余風を除かれたい」というものであった。
0172日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/25(月) 08:36:56.66
★司法省

▽江藤新平
天保5年(1834年)- 明治7年
肥前国佐賀郡八戸村(現佐賀市八戸)に佐賀藩士の江藤胤光と妻・浅子の間に長男として生まれる。諱は胤雄。
文久2年(1862年)に脱藩し京都で活動し、長州藩士の桂小五郎や公家の姉小路公知らと接触する。2ヶ月ほどで帰郷し、永蟄居の罪に服する。
戊辰戦争で江藤は東征大総督府軍監に任命され、土佐藩士の小笠原唯八とともに江戸へ偵察に向かう。
上野戦争では軍監として戦い彰義隊を寛永寺周辺に追い詰め、さらに佐賀藩のアームストロング砲を遠方射撃するなどにより彰義隊は瓦解する。
0173日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/25(月) 08:41:26.33
明治3年(1870年)1月、佐賀に帰郷して着座(準家老)に就任して藩政改革を行うが、後に中央に呼び戻され、同年11月に太政官中弁となる。
司法省が設置されると明治5年(1872年)には司法卿、参議と数々の役職を歴任する。その間に学制の基礎固め・四民平等・警察制度整備など近代化政策を推進する。
特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。政府内における急進的な民権論者であった。
https://www.saga-hizen150.com/Images/izin05_1.png
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b2/Head_of_Eto_Shinpei.jpg/220px-Head_of_Eto_Shinpei.jpg
0174日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/25(月) 09:05:32.04
▽刑部省
明治2年7月8日、太政官に設置された省庁の一つで、裁判や刑罰の執行、欧米の法令の翻訳などを管轄していた。
明治4年7月9日に弾正台と合併して司法省と改称された。
名称は古代日本における律令制下の八省の一つ。平安時代に検非違使が設置されて以降、ほとんどの職掌を検非違使に奪われ有名無実化していた。
0175日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/25(月) 09:09:26.88
▽弾正台
明治2年5月22日、太政官制に基づき設置された明治新政府の省庁である。弾正台はそれまでの刑法官監察司に代わる監察機関として設置され、東京の本台のほかに留守官として京都に支台がおかれた。
この省庁の設置に際しては、維新後、開国政策を進める新政府にとって持て余し気味の存在となっていた過激尊攘派の不平分子らの懐柔を目的に彼らを多く採用したいきさつがある。
したがって、新政府の改革政策に反対する方針を採ることもしばしばであったため、他の官庁との対立が深まった。しかし、監察機関であるがゆえに政府内での彼らの権限は小さかった。
0176日本@名無史さん
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2017/12/25(月) 09:12:24.98
弾正台の名称は、律令制下の八省の一つである。
古代の弾正台は、律令体制における監察・警察機構であった。弾正台の主な職務は中央行政の監察、京内の風俗の取り締まりであり、左大臣以下の非違を摘発し奏聞できた。
しかし、裁判権・警察権は刑部省・各官司が握っていたため、非違を発見した場合でも直接逮捕・裁判する権限はなかった。
0177日本@名無史さん
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2017/12/25(月) 16:14:11.78
▽内務省
明治6年11月に設置され、昭和22年12月に廃止された日本の中央官庁。
地方行財政・警察・土木・衛生・国家神道などの国内行政を担った。初代内務卿の大久保利通の思想を反映して、設立当初から国民生活全般への強度の監視を課題としており、行政事務の枠にとどまらなかった。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4f/Home_Ministry.jpg/250px-Home_Ministry.jpg
0178日本@名無史さん
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2017/12/26(火) 10:05:27.52
▽司法省法典編纂局
明治政府は、不平等条約の改正(治外法権の撤廃・関税自主権の回復)を目指したが、近代的な法制を欠くことが諸外国から問題視されたため、法典編纂が急務となった。
政府は、ヨーロッパ各国において法制の模範とされてきたフランス法を参考にすることとした。明治政府において法典編纂を主導したのは、江藤新平であった。まず箕作麟祥にフランスの法律を翻訳させ、独力で民法典の編纂を試みた。
0179日本@名無史さん
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2017/12/26(火) 10:13:48.20
▽箕作麟祥
1846年(弘化3年)- 1897年(明治30年)。和仏法律学校(現・法政大学)初代校長。
箕作省吾・しん夫妻の長男として江戸の津山藩邸に生まれた。祖父は蘭学者の箕作阮甫で、父・省吾は阮甫の婿養子、母・しんは阮甫の四女だが、父・省吾が若くして亡くなったので祖父・阮甫に育てられた。阮甫の死後、箕作家の家督を相続した。
なお、蘭学者の箕作秋坪〔>>101〕は、阮甫の二女・つねと結婚した婿養子。麟祥にとっては義理の伯父。
https://kotobank.jp/image/dictionary/daijisen/media/102880.jpg
0181日本@名無史さん
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2017/12/26(火) 10:23:41.58
《箕作麟祥が考案した翻訳語》
民権・動産・不動産・未必条件・治罪法・憲法など。
箕作麟祥は、フランス法理論の基礎をなす自由および人権思想を理解し、『国政転変ノ論』の訳稿で人民の抵抗権・革命権を認めるなど、法学官僚としては異色の存在であった。また、明六社に参加して啓蒙活動を行った。
司馬さんは、民権の訳語は江藤と箕作麟祥の共同作業のように書かれている。
0182日本@名無史さん
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2017/12/26(火) 10:25:16.87
江藤は民権家というよりも、自由民権思想の鎧を着たマキャベリストなんだよね。
司馬さんの叙述を読んでも、そんな感じ。
0183日本@名無史さん
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2017/12/26(火) 10:28:28.79
▽有司専制
明治政府の政治が、政府内の特定藩閥政治家数名で行われていると批判した言葉。
明治六年政変後の大久保利通の主導権が確立された時期から、大日本帝国憲法成立までの時期を指す。
0184日本@名無史さん
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2017/12/26(火) 10:37:55.96
▽ビスマルク(1815年 - 1898年)
プロイセン東部の地主貴族(ユンカー)の出身。代議士・外交官を経て、1862年にプロイセン国王ヴィルヘルム1世からプロイセン首相に任命され、ドイツ統一戦争に乗り出した。
1867年の普墺戦争の勝利で北ドイツ連邦を樹立し、ついで1871年の普仏戦争の勝利で南ドイツ諸国も取り込んだドイツ帝国を樹立した。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1b/Otto_Von_Bismarck.jpg
0185日本@名無史さん
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2017/12/26(火) 10:41:42.97
明治6年(1873年)3月15日、ドイツを訪問中だった岩倉使節団がビスマルクから夕食会に招かれた。
その席上ビスマルクは「貴国と我が国は同じ境遇にある。私はこれまで三度戦争を起こしたが、好戦者なわけではない。それはドイツ統一のためだったのであり、貴国の戊辰戦争と同じ性質のものだ。英仏露による植民地獲得戦争とは同列にしないでいただきたい。私は欧州内外を問わずこれ以上の領土拡大に興味を持っていない」と述べた。
0186日本@名無史さん
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2017/12/26(火) 10:44:01.56
「現在世界各国は親睦礼儀をもって交流しているが、それは表面上のことである。内面では弱肉強食が実情である。私が幼い頃プロイセンがいかに貧弱だったかは貴方達も知っているだろう。当時味わった小国の悲哀と怒りを忘れることができない。大国は利があれば万国公法を守るだろうが、不利とみれば万国公法に代わって武力を用いるだろう」とも述べた。
0187日本@名無史さん
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2017/12/26(火) 10:45:57.10
「英仏は世界各地の植民地を貪り、諸国はそれに苦しんでいると聞く。欧州の親睦はいまだ信頼の置けぬものである。貴方達もその危惧を感じているだろう。私が非難を顧みずに国権を全うしようとする本心もここにある。いま日本と親交を結ぼうという国は多いだろうが、国権自主を重んじる我がゲルマンこそが最も親交を結ぶのにふさわしい国である」
0188日本@名無史さん
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2017/12/26(火) 10:47:22.11
ビスマルクは、「我々は数十年かけてようやく列強と対等外交ができる地位を得た。貴方がたも万国公法を気にするより、富国強兵を行い、独立を全うすることを考えるべきだ。さもなければ植民地化の波に飲み込まれるだろう」と語った。
0189日本@名無史さん
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2017/12/26(火) 10:49:45.58
小国プロイセンを軍事力で大国ドイツに押し上げたビスマルクの率直な言葉は、使節団に深い印象を残したようである。
欧州各国は不平等条約の改正に応じる条件として、日本に万国公法に沿った法整備を行うよう外圧をかけていたが、ビスマルクだけがそれを否定する発言を使節団の前で公然と行ったからである。
とりわけ大久保利通はビスマルクに強い感銘を受け、「新興国家ヲ経営スルニハ、ビスマルク侯ノ如クアルベシ。我、大イニウナズク」と書いている。
0190日本@名無史さん
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2017/12/26(火) 10:56:01.49
「これからはこれぜよ」と言って『万国公法』という本を見せた坂本龍馬は、ビスマルクの話を物陰で聞いていた。
0192日本@名無史さん
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2017/12/26(火) 11:01:27.84
恐喝漢坂本は、いろは丸事件で、紀州藩に対する賠償金算出の基準に万国公法を使っただけだろう。
0193翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2017/12/26(火) 11:11:48.19
第3章 鍛冶橋

【二】大久保利通
ところが大久保はこの川路の案件に対し、「タチンコンメ」という超最大級の裁決をあたえた。
「東京警視庁」というのが、川路がこの献策のときに考えた首都警察の呼称であった。
大久保が、川路の案件を即決してこの設立をいそがせたのはたしかにタチンコンメであり、明治七年一月十五日には発足してしまっているのである。川路がそのただ一人の総指揮官になった。あたらしい呼称による彼の官職は「大警視」である。
0194日本@名無史さん
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2017/12/26(火) 11:22:51.37
鹿児島弁の「タチンコンメ」について解説が必要であろうと思う。
「タ」「チンコ」「ンメ」の三つの部分に分かれる。
「チンコ」はそのまま。「ンメ」は“うめえ”、つまり、おいしいという意味。「タ」は“立った”、つまり勃起したという意味。
幕末の品川の遊郭で娼妓にフェラチオを所望した薩摩藩士に対して、娼妓は「タチンコンメ」(勃起したチンコはおいしい)と答えていた。
転じて、最大級の承認・承諾を意味する言葉として、薩摩では「タチンコンメ」が使われるようになった。
0196日本@名無史さん
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2017/12/26(火) 11:47:45.88
★下谷竜泉寺町

▽戸田様の御下屋敷
東京都台東区竜泉一丁目〜竜泉三丁目。
樋口一葉は龍泉寺町には21から22歳にかけて住んだ。この一葉の家から吉原と反対方向に10軒ほど行ったところが四つ角で、その向うに広い屋敷地が二つある。
初代警視総監の川路利良と大垣の殿様である戸田家の屋敷があった。戸田家九代の氏正がこの屋敷で明治に入って没しているが、維新までは川路邸の分まで含めて大垣藩の下屋敷であった。
http://magazine.moonbark.net/wp-content/uploads/2016/03/6.jpg
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/6b/fdc8023393e4c34e784aceaa9486845f.jpg
0197日本@名無史さん
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2017/12/26(火) 11:56:01.32
▽戸田家
大垣藩主。大垣藩は寛永12年(1635年)以降は戸田氏が10万石で入り、幕末・明治維新期まで存続した。
三河戸田氏は、三河国渥美郡二連木城(愛知県豊橋市)や田原城(愛知県田原市)によった国人領主。
戸田氏の嫡流〔松本藩主〕は、徳川家康の異父妹と婚姻して松平姓を授けられた松平康長以降、松平丹波守の称号を継承し、葵の紋所を許されるなど江戸幕府より厚遇され江戸十八松平のひとつに数えられた。
0198日本@名無史さん
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2017/12/26(火) 12:04:55.06
▽溜池
赤坂見附から虎ノ門に至る「外堀通り」は、かつては「溜池」とよばれた外堀兼用の上水源であった。長さ1.4km、幅45m〜190mという大きさで、細長い池であるため「ひょうたん池」とも呼ばれていた。
この周辺に戸田家の上屋敷があった。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/a/af/Edo_hori.png
0199日本@名無史さん
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2017/12/26(火) 12:08:24.83
この戸田家上屋敷は、かの鼠小僧次郎吉が忍び込んだことで有名である。彼はもっぱら大名屋敷の女性たちの居所である奥向や長局(ながつぼね)を専門に荒らした。これは警備が手薄で入り込みやすかったからで、世上言われている義侠の話はかなり怪しい。
https://contents.oricon.co.jp/upimg/news/20150410/2051396_201504100563868001428649514c.jpg
0200日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/26(火) 16:13:15.98
▽芝将監橋
港区芝大門二丁目にある古川に架かる橋。付近に金森将監の屋敷があったので、この呼び名となった。
根尾庄右衛門清長は、金森長近に従い数多くの戦功を重ねて長近の最も信頼する筆頭家老となり、長近から「金森姓」を賜った。
以後、清長の家は代々金森将監を名乗った。
本章では、芝将監橋付近に戸田家〔>>197〕の中屋敷があったと紹介されている。物語の本筋とは、ほとんど関係ありません。
https://www.city.minato.tokyo.jp/dourokyouryou/kankyo-machi/doro/kyouryou/images/11-syougennbashi1.jpg
0202日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/26(火) 17:30:09.95
ナメクジを指でつまんだ後の指の匂いは、マスターベーションをした後の指の匂いと似ている。
0204日本@名無史さん
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2017/12/26(火) 17:40:15.70
>>201
美容のためなら、鴬の糞を顔に塗り、蝸牛を顔の上で這わせる。
女はたいへんじゃのうw
0205日本@名無史さん
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2017/12/28(木) 22:07:33.41
★大久保邸

▽荒屋敷
明治8年に建てた洋館に入居する以前の大久保の屋敷の所在地は書かれていない。
司馬さんによると、荒屋敷だったそうだ。
0206日本@名無史さん
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2017/12/28(木) 22:10:53.24
▽伊東祐之〈すけゆき〉
伊東祐之と山本権兵衛による大久保利通についての印象が書かれてある。
伊東によると「余は今までに大久保さんほど厳格でこわい人に出会ったことがない」のだそうだ。
0207日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/28(木) 22:15:09.52
>>206
間違えた。
伊東祐之は慶応4年に亡くなった薩摩藩士である。
大久保利通についての印象を述べたのは、日露戦争当時の海軍軍令部長だった伊東祐亨〈すけゆき〉の方だ。
0208日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/28(木) 22:18:22.96
▽伊東祐亨〈すけゆき〉
天保14年(1843年) - 大正3年。
薩摩藩士・伊東祐典の四男として鹿児島城下清水馬場町に生まれる。飫肥藩主伊東氏に連なる名門の出身である。
勝海舟の神戸海軍操練所で、塾頭の坂本龍馬、陸奥宗光らとともに航海術を学ぶ。薩英戦争にも従軍。薩摩藩邸焼き討ち事件で江戸から脱出し、戊辰戦争では旧幕府海軍との戦いで活躍した。
http://blog-imgs-98.fc2.com/t/e/m/temyg3/2016122617332537c.jpg
0210日本@名無史さん
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2017/12/28(木) 22:29:35.31
▽山本権兵衛
1852年 (嘉永5年) - 1933年 (昭和8年)。日露戦争当時の海軍大臣。
鹿児島城下加治屋町に薩摩藩士で右筆及び槍術師範を務めていた山本五百助盛aの六男に生まれる。諱は盛武。薩英戦争及び戊辰戦争に従軍した。
戊辰戦争後の明治2年に西郷隆盛の紹介で勝海舟の薫陶を受け、開成所、海軍操練所そして海軍兵学寮と、海軍軍人への道を歩むことになった。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/30/Gonbee_Yamamoto_in_1877.JPG/180px-Gonbee_Yamamoto_in_1877.JPG
0211日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/28(木) 22:33:19.74
山本権兵衛による大久保利通の印象も、伊東祐亨と同じく「大久保さんは、いかにも怖い顔をしておられた。自然、人気は西郷さんのほうにあつまった。わが輩も大久保さんより西郷好きであった」と述べている。
0212日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/28(木) 22:44:02.74
▽伊藤博文
天保12年(1841年)- 明治42年。
伊藤による大久保評は、「あの人の威厳は一種天稟であった。めずらしいほどの広量な人物で、公平無私であり、人というものがそれが何者であっても重んずる風があった」である。
伊藤や大隈のような才腕家たちは、西郷・木戸よりも大久保を押し立てることによって新国家を作り上げようとした。
http://www.yoshida-shoin.com/ito711.jpg
http://www.ndl.go.jp/portrait/1024_1536/S-1142/0003_l.jpg
0213日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/28(木) 22:53:24.91
▽木戸孝正
1857年(安政4年)- 1917年(大正6年)
長州藩士来原良蔵とハル(木戸孝允妹)夫妻の長男として生まれる。木戸孝允の養嗣子であった孝正の実弟・木戸正二郎の死去に伴い、木戸家を継承し明治17年に侯爵を襲爵する。明治23年2月、貴族院侯爵議員に任じられ、死去するまで在任した。
妻は、木戸好子(木戸孝允長女)。いとこ婚である。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201509/15/92/a0287992_951554.jpg
0214日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/28(木) 22:56:45.51
木戸孝正は伊藤博文から「憚らずに申せば、君の先代の木戸公は心のひろいほうではなく、むしろ狭いほうで、人を容れることができなかった。そこへゆくと、大久保利通という人はまことに度量が広かった」と言われた。
0215日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/28(木) 23:00:12.98
川路が大久保邸を訪ねたところで時間が停止している。
もうひとり、同時代人による大久保の印象を語るために、奈良原繁が登場する。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/29(金) 16:58:39.71
▽奈良原繁
天保5年(1834年)- 大正7年(1918年)
薩摩藩出身。通称喜八郎。兄・喜左衛門は、熱心な薬丸自顕流の門弟であるが、繁は鎗の使い手として知られた。
文久2年(1862年)の島津久光の卒兵上京に従い、寺田屋事件では鎮撫使の一人として活躍した。
その年の生麦事件では、リチャードソンに斬りつけたのは兄の喜左衛門ではなく、弟の繁であると子孫から異議が申したてられている。
0217日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/29(金) 16:58:52.93
翌年の八月十八日の政変では、高崎正風らと暗躍し、京から長州藩追放に成功している。
薩英戦争には、兄の喜左衛門は加わっているが、弟の繁は加わっていない。
西郷隆盛らの討幕路線に反対していたため、明治2年(1869年)2月に戊辰戦争より帰国した下級藩士たちより、藩政から退けられる。
明治4年(1871年)12月、沖縄特使として鹿児島県へ出仕。明治7年(1874年)2月、島津忠義家の家令となる。
0218日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/29(金) 16:59:02.93
明治12年(1879年)に内務権大書記官、明治14年(1881年)に農商務権大書記官、明治16年(1883年)に静岡県令。
明治17年(1884年)には日本鉄道社長に就任した。
明治23年(1890年)9月に貴族院勅選議員に任じられ同25年(1892年)5月まで在任した。
明治25年(1892年)に沖縄県知事に就任する。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/cd/4d07e45c9640d9da0ad83bcaaed9a079.jpg
0219日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/29(金) 17:06:55.15
▽有馬新七
文政8年(1825年)- 文久2年4月23日(1862年)
薩摩藩伊集院郷の郷士・坂木四郎兵衛の子として薩摩国日置郡伊集院郷古城村で生まれるが、父が城下士の有馬家の養子となったため、新七もそのまま城下士となり、鹿児島城下の加治屋町に移住した。
過激な尊皇攘夷活動を続け、文久2年、同志達とともに寺田屋に集っていたところ、島津久光の「説得に応じずば上意討ちもやむなし」との命により鎮撫に訪れた大山格之助らによって粛清された(寺田屋事件)。
この際、小刀が折れて討手の道島五郎兵衛の懐に入り壁に押し付けた状態で、橋口吉之丞に「オイゴト刺セ」と言って最期を遂げた。享年38。
0221日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/29(金) 17:14:33.76
有馬新七は、文政10年生まれの西郷吉之助よりも2歳年長である。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/29(金) 17:25:15.46
▽芋掘り
酔って管をまく乱酔癖のことを薩摩語では「芋掘り」と言うらしい。
※管を巻く
「管」とは機織りで糸を紡ぐときに用いる軸のことで、これを「糸繰車」に差して糸を巻くと「ぶうんぶうん」と単調な音で鳴る。
管巻きの音や糸を巻く動作が、酒に酔った人が同じことを繰り返し、くどくど言う姿に似ていることから、「管を巻く」と形容されるようになった。 漢字で「まく」を「撒く」と表記するのは誤りである。
http://www.i-rekihaku.jp/gakublo/wp-content/uploads/2009/05/20090112_531609.jpg
https://stat.ameba.jp/user_images/20130606/21/antonov/06/23/j/t02200214_0471045812566538120.jpg
0223日本@名無史さん
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2017/12/29(金) 20:07:27.18
奈良原繁は明治11年に官に仕えた。
ある宴席で奈良原が「芋掘り」納めをしようと思った。
その場で同席していた大久保の一瞥をくらった。
「悪ルゴアシタ」
0226日本@名無史さん
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2017/12/29(金) 20:12:57.52
「大久保と議論を上下すれば、まるで岩石にぶつかっているような心地で、じつに議論のしにくい男だった」
0227日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/29(金) 20:18:03.73
川路が半時間ばかり客間で待った。読者はそれ以上に待った。待ちくたびれて、飽きてきた。
大久保評を書くのはよいが、二人か三人にできなかったのだろうか。
やがて大久保が出てきて、丁寧にお辞儀をした。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/93/Toshimichi_Okubo.jpg/200px-Toshimichi_Okubo.jpg
http://gallery.wox.cc/app/ohkubo-tm_/article/o/32.jpg
0228日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/29(金) 20:26:07.85
▽ローレンツ・フォン・シュタイン(1815年 - 1890年)
ドイツの法学者・思想家。
伊藤博文にドイツ式の立憲体制を薦めて、大日本帝国憲法制定のきっかけを与えた人物としても知られている。1882年に憲法事情研究のためにヨーロッパを訪れていた伊藤博文は、ウィーンのシュタインを訪問して2ヶ月間にわたってシュタイン宅で国家学の講義を受けた。
http://kosi.la.coocan.jp/wien/up23/stein3.jpg
0229日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/29(金) 20:29:19.99
司馬さんは、大久保利通もシュタインの別荘を訪ねて講義を聴いたと書かれておられるが、この部分は創作である。
シュタインに師事して強い影響を受けたのは、伊藤博文である。
0230日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/29(金) 20:34:57.10
シュタインの国家学は、ヘーゲルの国家論の影響下に、共同社会を社会と国家の二つの構成要素に区分した。
そして、利益の原理に貫かれた社会〔レッセフェール型の自由放任社会〕では、有産者と無産者との間の階級対立が不可避であるのに対し、自由な人格たる国家〔ウェルフェア型の福祉国家〕は、この社会次元の対立過程を社会政策によって緩和すると考えた。
こうした立場は一に当時のプロイセンの王政を擁護するものであったが、同時にドイツ行政学確立のための理論的支柱をなした。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/29(金) 20:45:16.50
▽ドイツの地方自治
日本の地方制度の改正は、ドイツ人顧問モッセの助言の下、明治20年代に山県有朋内務大臣を中心に進められた。
その目的は、対外的には欧米先進資本主義国家の信頼を得るだけの中央集権的地方制度をつくりあげる必要があったことであり、対内的には自由民権運動の自治権拡充の要求に先手を打つ必要があったことである。
その結果、日本の市町村制(1988年)は、1890年の郡制・府県制とともに、政府の強い統制の下におかれたが、地方自治が制度的には確立されたという意義はある。
0232日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/29(金) 20:48:26.07
   人
  (_)
  (__)
  (´・∀・) ウンコー!   
 (    )
 | | |
 (∩_)_)
  | |_∧|
  | |゚Д゚)  富国強兵のためにのみ人間は存在する
  |   |
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 ./| ∩ |
  U U
0234日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/29(金) 20:54:19.28
▽中江兆民
弘化4年(1847年)- 明治34年(1901年)
高知城下の山田町(高知市はりまや町三丁目)に生まれる。
中江兆民(篤介)は、明治4年に政府留学生として渡仏している。中江兆民が留学できたのは、大久保利通に海外で学問する熱意を訴えたからだった。土佐藩の足軽であった中江は、大久保との面識はないものの、政府の要路にあたる大久保ならば自分の留学の志を聞き入れてくれるだろう、と大久保邸を訪問した。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/29(金) 20:55:46.41
明治7年にフランスから帰国した中江は、帰朝復命の挨拶と留学中の見聞について陳述するため、大久保のもとを即座に訪問している。
だが、報告しているうちに中江は不機嫌になる。熱心に語っているにもかかわらず、大久保は目を閉じ、話を聴いているのか聴いていないのか、起きているのか眠っているのかすらわからない態度だった。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/29(金) 20:57:50.24
それを聞いた大久保は目を閉じたまま微笑した。
「予は決して眠っているのではない。君が熱心なる意見を聴取するにあたり、目を開き、端座して相対するよりは、君に腹蔵なく満腔の所見を十分に陳述させようと思うがために、ことさらに目を閉じ、逐一傾聴しているのである」
自身の眼光の威力を知っていた大久保は、中江が萎縮することないように気遣い目を閉じていたのであった。
※中江篤介 https://kotobank.jp/image/dictionary/daijisen/media/102823.jpg
0237日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/29(金) 20:59:51.24
「それは御評定になりますまい」
「それはトクと考えておきます」
「それは御評定にかけましょう」
0238日本@名無史さん
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2017/12/29(金) 21:04:27.15
▽タチンコンメ
日本語でいうと「太刀の来ぬ前」。転じて「今すぐやる」。
イッコンメという同義語もある。日本語では「一騎来ぬ前」という。
0240翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2017/12/29(金) 21:32:37.27
第3章 鍛冶橋

【三】西郷隆盛
桐野は、征韓論がいかに正義論であるかを語り、さらには天下の不平武士たちが、汚濁にまみれたいまの東京政府をいかに激しく呪っているかを説き、政府に対してもはや蜂起寸前の情勢にある、といった。
それを征韓によって一挙に解決しようというのが桐野の意見であり、桐野は説きおわると、
「いけんや?」
と、にわかに薩摩言葉にもどった。
0241日本@名無史さん
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2017/12/29(金) 21:42:52.34
★日本橋小網町

▽日本橋小網町
東京都中央区日本橋小網町。現在も同じ町名である。
日本橋地域の南部に位置し、日本橋川の北岸にあたる。
江戸時代に将軍の御前で網を引いた漁師が御肴御用を命ぜられ、白魚献上の特権を得た故事により、この漁師たちの一丁目の町角に漁網を一張干しておく風習から生じた町名と推定される。
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/tokaidorekisi/20131201/20131201042327.gif
http://arukitabiouen.up.n.seesaa.net/arukitabiouen/image/Image4-661f9.jpg?d=a0
0242日本@名無史さん
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2017/12/29(金) 21:53:40.94
▽酒井雅楽頭の中屋敷
「下馬将軍」と呼ばれた大老・酒井忠清の家系。
徳川四天王である酒井忠次の嫡流は出羽庄内藩を知行された〔>>63〕。いわゆる左衛門尉酒井家。
雅楽頭酒井家は、忠清当時が上野国前橋藩、その後、播磨国姫路藩15万石を知行された。
0243日本@名無史さん
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2017/12/29(金) 22:03:00.68
《雅楽頭酒井家系譜》
正親……山岡荘八『徳川家康』の松平広忠時代の家老として大活躍する雅楽頭
重忠……天正4年(1576年)、父・正親が死去するとその跡を継いで三河西尾城主となった。
忠世……慶長10年(1605年)に将軍職を譲られた秀忠付きの筆頭年寄
忠行……寛永9年(1632年)、徳川秀忠の死後に本丸奏者に任じられ将軍家光に仕えた。
忠清……第4代将軍徳川家綱の治世期に大老となる。
0244日本@名無史さん
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2017/12/29(金) 22:12:41.24
▽思案橋
江戸時代初期においては、近くに元吉原という遊廓もあり、劇場のある堺町・葺屋町をひかえての橋です。橋の途中で、どちらへ行くかを思案したため、思案橋という橋名がつきました。
小網神社の前あたりに思案橋があったが、現在は道路になっているので名残はない。
なお、「思案橋ブルース」(昭和43年)は長崎の思案橋についての歌であって、江戸の思案橋とは関係がない。
http://www.hirooka10.net/wp-content/uploads/2017/03/736291.jpg
0245日本@名無史さん
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2017/12/29(金) 22:21:52.17
▽汐留橋
川崎市にも同名の橋がある。
江戸の汐留橋は、外濠川と合流後の汐留川を東に向かいます。土橋、難波橋の次が新橋で、その下流にあるのが汐留橋。
後藤象二郎〔>>225〕が長崎の高島炭鉱(軍艦島)を明治政府から55万円で払い下げを受けて、明治7年11月に完成した商社「蓬莱社」の建物が近くにある。この蓬莱社の拠出金で同年5月に汐留橋の石橋が完成して「蓬莱橋」と改名された。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201206/19/42/a0277742_16943.jpg
0247日本@名無史さん
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2017/12/29(金) 22:43:56.32
▽吉井友実
文政11年(1828年)- 明治24年(1891年)。別名は幸輔。
薩摩藩士・吉井友昌の長男として鹿児島城下加治屋町に生まれる。藩主・島津斉彬の藩政改革の下、安政3年(1856年)に大坂薩摩藩邸留守居役などを務めて諸藩の志士との交流を重ね、若手改革派の1人として活躍する。
明治4年に大久保の推挙で宮内大丞、宮内少輔に就任、宮中の改革に尽力し明治天皇の輔導に努める一方、明治6年の政変で大久保に協力して西郷と袂を分かった。
※NHK「龍馬伝」吉井幸輔役は及川いぞう
http://blog-owner.yakushihair.com/wp-content/uploads/2010/07/201007280937000-225x300.jpg
0252日本@名無史さん
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2017/12/29(金) 23:34:11.71
▽西郷慎吾
天保14年(1843年) - 明治35年(1902年)。西郷吉兵衛の三男。
諱は隆道であるが、戸籍の役人に「ジュウドウ」と言ってしまったために、以後「従道」が諱になってしまった。
名前の読みとして「つぐみち」が広く流布しているが、西郷家によると「じゅうどう」が正訓である。
http://db.nichibun.ac.jp/region/d/GAI/info/GO016/item/005/image/thumb/0/thmb.001.jpeg
※NHK「西郷どん」錦戸亮 
https://scontent.cdninstagram.com/t51.2885-15/s320x320/e35/20184041_123666861670871_6476969755071741952_n.jpg
0253日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/29(金) 23:39:47.96
▽萩原乙彦〈おとひこ〉
文政9年(1826)- 明治19年。戯作者、俳人。
関為山の門に入って学び、当時書家として有名な萩原秋厳の養子となった。
明治13年2月、静岡新聞再興のため社長として招かれたが長つづきせずに転落の一途をたどり、明治17年の夏ごろ、谷村の門弟・水口弥八をたより、俗に六軒長屋と呼ばれた官員長屋に住み、生花や茶道の先生をしていた。
0254日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/29(金) 23:43:29.74
萩原乙彦は、日本橋川を「これ即ち五大洲へ、遠く行くべき水原」と表現している。
ー 東京開化繁昌誌(明治7年)ー
0255日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/29(金) 23:47:11.77
▽魚河岸
日本橋と江戸橋の間、日本橋川の北岸に沿って、本船町から本小田原町一帯(日本橋本町1丁目〜日本橋室町1丁目)にあった魚市場。
17世紀の初めに開設され、昭和10年に築地市場への移転が完了するまで、300年以上にわたって、江戸と東京の人びとの食生活を支えつづけた。
http://nihombashi-tokyo.com/jp/wp-content/uploads/2014/11/4b3e4823820402e129c7d09019c82336.jpg
http://nihombashi-tokyo.com/jp/wp-content/uploads/2014/11/4d6b0c58a5b4747f4ffdddb848eb2a90.png
0258日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 00:02:04.33
▽海運橋
兜町の東京証券取引所から50mほど南を東西に走る一方通行の小さな通りが、旧・楓川を渡る橋である。
江戸時代の初期には『高橋』と呼ばれる橋がここに架かっていたというが、明治政府による兜町一帯の商業化計画に伴って、水運の中心となることや「開運」にも結びつく縁起の良い名称ということで『海運橋』と命名された。
昭和37年に廃橋された。
http://www.geocities.co.jp/tokyo_ashy/b-kaiun08.jpg
0259日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 00:08:27.21
▽第一国立銀行
海運橋は、現在首都高速都心線の真下にあたるところに流れていた楓川と日本橋川が合流する入口に架かっていた橋です。
明治6年に創業したわが国最初の国立銀行「第一国立銀行」の建物です。設計施工は清水組(現清水建設)の二代目清水喜助です。
http://www.tokyochuo.net/meeting/town/edo/images/edo08_04_02.jpg
https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/past_parmanent/rikou/Field_8/Img_803_2.jpg
0261日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 00:20:21.58
▽鎧橋
東京都中央区の日本橋川に架かる橋である。左岸(北東側)は日本橋小網町、右岸上流側は日本橋兜町、同下流側は日本橋茅場町となり、東京証券取引所も近い。上空は首都高速の高架橋に覆われている。
初代の橋が架けられたのは1872年(明治5年)で、三井・小野・島田の3人の豪商が費用を出し合って建設された。
http://bunka.nii.ac.jp/heritage/12238/_161570/12238_161570111207151745475_900.jpg
http://www.kanda-gawa.com/guide/bridge/img_n/004.jpg
0262日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 00:25:10.46
川路は鎧橋をわたって西郷の屋敷へゆくと、西郷は不在であった。
「こげんたんと余談ンば挟ンじょって不在とな?先生は何処おじゃしたか?」
物語の本筋が2%、残り98%が余談であった。川路は疲れきっていた。
0263日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 00:35:24.48
>>258
江戸時代には、海賊奉行・向井将監に由来する「海賊橋」があったんじゃないのか?
0265日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 00:46:28.62
★西郷屋敷

▽熊吉
西郷家の下僕。西郷が生まれたときからその成長を見守り、貧乏な西郷一家を支え続けた。幕末の動乱の中、江戸へ京へと西郷に従い、西南戦争では西郷の息子・菊次郎を戦地から救出した。義理人情に厚い男で、生涯、西郷に尽くす。
「西郷どん」にも登場するらしい。熊吉役は塚地武雅。
https://pbs.twimg.com/media/DMfEuBCXUAAerzS.jpg
0267日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 00:52:57.35
▽与助 薩摩伊集院出身
▽市助 薩摩谷山出身
▽矢太郎 同上
0269日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 00:57:33.44
>>244
明治9年に旧会津藩士永岡久茂らが思案橋事件を起こすね。
あとでまた登場する。
0270日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 01:48:23.82
あんなに予告していたのに、北斗の人は読んでいないのかあ。
僕は読み始めていたのに……。
0272日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 17:09:24.70
▽桐野利秋
天保9年(1838年)- 明治10年(1877年)
明治2年(1869年)、鹿児島常備隊がつくられたとき、第一大隊の隊長となった。
明治4年(1871年)、廃藩置県に備えて西郷隆盛が兵を率いて上京したとき、大隊を率いて随い、御親兵に編入された。同年7月20日、兵部省出仕となり、28日、陸軍少将に任じられ、同時に従五位に叙せられた。
明治5年(1872年)3月、鎮西鎮台(熊本鎮台)の司令長官に任命され、熊本に赴任した。
明治6年(1873年)4月、陸軍裁判所所長を兼任し、6月25日、正五位に叙せられた。
※日本テレビ『田原坂』(1987年):勝野洋
0273日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 17:11:56.57
桐野は「維新後、いきなり陸軍少将になった」のではなく、明治4年、廃藩置県に備えて西郷隆盛が兵を率いて上京したときである。
0274日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 17:16:53.56
★廃藩置県

▽戊辰戦争
明治元年5月15日、上野戦争が始まり、西郷隆盛は正面の黒門口攻撃を指揮し、これを破った。
5月末、江戸を出帆。京都で戦況を報告し、6月9日に藩主・島津忠義に随って京都を発し、14日に鹿児島に帰着した。この頃から健康を害し、日当山温泉で湯治した。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 17:20:39.13
北陸道軍の戦況が思わしくないため、西郷の出馬が要請され、明治元年7月23日、薩摩藩北陸出征軍の総差引(司令官)を命ぜられ、8月2日に鹿児島を出帆し、10日に越後柏崎に到着した。14日、新潟五十嵐戦で負傷した二弟の吉二郎の訃報を聞いた。
新政府軍に対して連戦連勝を誇った庄内藩も、仙台藩、会津藩が降伏すると9月27日に降伏し、ここに「東北戦争」は新政府の勝利で幕を閉じた。
このとき、西郷は黒田清隆に指示して、庄内藩に寛大な処分をさせた〔>>63-65〕。この後、庄内を発し、江戸・京都・大坂を経由して、11月初めに鹿児島に帰り、日当山温泉で湯治した。
0276日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 17:23:35.10
明治2年(1869年)2月25日、藩主・島津忠義が自ら日当山温泉まで来て要請したので、26日、西郷は鹿児島へ帰り、参政・一代寄合となった。
以来、藩政の改革や兵制の整備(常備隊の設置)を精力的に行い、戊辰参戦の功があった下級武士の不満解消につとめた。
5月1日、箱館戦争の応援に総差引として藩兵を率いて鹿児島を出帆した。途中、東京で出張許可を受け、5月25日、箱館に着いたが、18日に箱館・五稜郭が開城し戦争はすでに終わっていた(戊辰戦争の終了)。
帰路、東京に寄った際、6月2日の王政復古の功により、賞典禄永世2,000石を下賜された。このときに残留の命を受けたが、断って鹿児島へ帰った。
0277日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 17:26:20.21
明治2年7月、鹿児島郡武村(現在の鹿児島市武二丁目の西郷公園)に屋敷地を購入した。9月26日、正三位に叙せられた。
明治3年(1870年)2月13日、西郷は村田新八・大山巌・池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事・毛利元徳に謁見したのちに鹿児島へ帰った。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 17:28:46.56
明治3年7月27日、鹿児島藩士で集議院徴士の横山安武(森有礼の実兄)が、時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。
これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために、9月、池上を東京へ派遣した。
12月、危機感を抱いた政府から勅使・岩倉具視、副使・大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革のために上京することを承諾した。
0279日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 17:33:58.27
▽薩摩常備隊
一個大隊=八個小隊
城下士の常備大隊……四個大隊
郷士の常備大隊……十三個大隊
予備大隊……三十二個大隊
0280日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 17:37:30.75
▽城下士常備大隊
一番大隊長……桐野利秋
二番大隊長……篠原国幹
三番大隊長……川村純義
四番大隊長……野津鎮雄
0281日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 17:45:03.02
▽川村純義
天保7年(1836年)- 明治37年(1904年)
西郷の従妹・椎原春子の夫。川村は西郷に実弟のように可愛がられたという。戊辰戦争では薩摩藩4番隊長として、特に会津戦争で奮戦した。
戊辰戦争から薩摩に凱旋すると、門閥排斥の先頭に立った。純義は藩主・島津忠義の面前で藩主の弟の島津久治を詰問し、その結果、久治はピストルで自殺している。
明治維新後は、明治政府の海軍整備に尽力、明治7年(1874年)には海軍ナンバー2である海軍大輔、海軍中将に任ぜられる。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201509/06/92/a0287992_1041349.jpg
0282日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 17:56:37.28
椎原春子の父が椎原国幹。『田原坂』では下川辰平。その父、つまり西郷の母方の祖父が椎原与右衛門国紀で田中春男。
ついでに、『田原坂』の川村与十郎純義役は松山英太郎。椎原春子は登場していなかった。
椎原国幹は、西郷の母・政(まさ)の弟で、西郷隆盛の叔父に当たるが、西郷とは年齢が近かったため実際には兄のような存在であった。
西郷の母は、NHK「西郷どん」では、満佐子とされている〔>>251〕。
0283日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 18:03:18.67
▽野津鎮雄
天保6年(1835年)- 明治13年(1880年)
慶応4年(1868年)、戊辰戦争では五番隊長となり鳥羽・伏見の戦い、奥羽・箱館に転戦した。
明治2年(1869年)1月、藩兵四番大隊長を任ぜられる。続いて明治4年(1871年)3月、上京し御親兵大隊長となり、7月より陸軍に奉職。
佐賀の乱では大久保利通指揮の下、大阪鎮台隷下の歩兵2個大隊砲兵大隊を率い、佐賀城奪回に貢献した。
西南戦争では第一旅団司令長官をつとめた。戦後陸軍中将となる。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/3d/30612b3a77702e225739f045d1d5d666.png
※『田原坂』では玉生司朗 http://livedoor.blogimg.jp/donzun-actors/imgs/d/a/da21d3ab.jpg
0284日本@名無史さん
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2017/12/30(土) 18:09:15.55
▽山下房親
天保12年(1841年)、鹿児島県西田町に生れた。
初代警視総監の川路利良とともに近代警察組織を立ち上げ、鍛冶橋監獄で典獄(刑務所長)を務めた人物。
ジャズ・ピアニスト山下洋輔の母方の曽祖父である。詳しく知りたい方は、山下洋輔『ドファララ門』をお読みになってください。
http://www.motionblue.co.jp/photo/live/uploads/20131124_03.jpg
0285日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 18:13:39.93
(山下房親)「川路どんが入っておりませんな」
「ああ、正どんのこっな」
『翔ぶが如く』に自分の曽祖父が登場していて驚いたという話は、山下洋輔が司馬全集の月報に書いていたような気がする。
0286日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 18:18:17.93
山下洋輔は、1942年(昭和17年)、東京・渋谷の金王町に生まれた。
渋谷金王町の関係でも『翔ぶが如く』に絡んでいるな。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 18:30:26.02
>>265
熊吉は、永田という姓までわかっている。
西郷が明治政府に呼ばれた時には日本橋の西郷邸に住み、身の回りの世話から金銭管理まで任されていた。西郷が征韓論で下野し、東京から鹿児島に戻る際には日本橋の土地や家を売るのに尽力した。
西南戦争の際に延岡・和田越えの戦闘にて右足に銃弾を受け膝下を切断する負傷をおった西郷菊次郎を背負い、西郷従道のもとへ投降したことで知られる。
明治19年(1886年)には西郷従道に呼ばれて再上京し、以後、西郷従道に仕え目黒の西郷邸に住み、庭師などをして現在の西郷山公園の原形を作ったといわれる。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 18:51:16.56
▽御親兵
明治元年2月20日、鳥羽・伏見の戦い後の軍事的緊張に対応するために設置された。実態は長州藩の一部部隊を中心として在京諸藩の浪人を集めただけに過ぎなかった。
翌年には戊辰戦争の終了を理由に、十津川郷士ら400名による組織に縮小された。
東京奠都後には長州藩部隊が東京城(現在の皇居)の警護にあたった。
0289日本@名無史さん
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2017/12/30(土) 18:52:51.30
明治3年(1870年)12月、山縣有朋は当時鹿児島藩の政務にあたっていた西郷隆盛に対して、天皇と中央政府を守るために薩摩藩・長州藩・土佐藩の献兵からなる親兵を組織することを提案した。
これは当時中央政府に属していなかった西郷を、薩摩藩の親兵入京を口実に政府内に入れることで、政府の強化を図る側面もあった。
ただ、この構想には複雑な政治的背景があった。木戸孝允はこの御親兵の力を背景に廃藩置県やそれを支える官僚・租税制度の整備などの中央集権化政策を一気に実施しようとした。
だが、大久保利通は木戸や大隈重信が進める急進的な政策には批判的で、自己の出身基盤である薩摩藩の親兵入京と西郷の入閣は、この流れを変える足がかりになると考えた。
0290日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 20:10:02.95
2月13日、入京した西郷を中心として正式に「御親兵」として発足した。
薩摩藩−歩兵4大隊・砲隊4隊
土佐藩−歩兵2大隊・騎兵2小隊・砲兵2隊
長州藩−歩兵3大隊
0291日本@名無史さん
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2017/12/30(土) 20:10:43.00
御親兵は廃藩置県とともに名実ともに近代日本最初の国軍として機能することになった。
その後、徴兵令の施行とともにその役目を新軍隊に譲って、本来の業務である皇居警護に専念することになり、明治5年には近衛と改称され、明治24年には陸軍の近衛師団となった。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 20:14:21.90
▽川路利良
「正どん、ポリスの大将にならんな?」
明治4年、西郷の招きで東京府大属となり、同年に権典事、典事に累進。翌明治5年、邏卒総長に就任し、司法省の西欧視察団(8人)の一員として欧州各国の警察を視察する。
帰国後、警察制度の改革を建議し、ジョゼフ・フーシェに範をとったフランスの警察制度を参考に日本の警察制度を確立した。
明治7年、東京警視庁創設に伴い満40歳で初代大警視(現:警視総監)に就任。執務終了後ほぼ毎日、自ら東京中の警察署、派出所を巡視して回り、一日の睡眠は4時間に満たなかったという。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 20:20:01.04
▽高山彦九郎
延享4年(1747年)- 寛政5年(1793年)。江戸時代後期の尊皇思想家。
上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)の郷士高山良左衛門正教の二男として生まれ、諱を正之という。
「薩摩びと いかにやいかに 刈萱の 関もとざさぬ 御世とは知らずや」
0295日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 20:23:33.08
★征韓論

日が暮れてから、西郷が帰ってきた。
もうこれ以上読者を待たせることはできなかった。余談が長すぎた。
0298日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 20:34:56.65
▽書生
日本では主として明治・大正期に他人の家に住み込みで雑用等を任される学生を意味した。
1872年に学制が布かれると、地方から都会に上り高等学校や大学等へ通う学生が現れるようになった。
しかし、当時は単身者が居住するのに適した住居は少なく、炊事や洗濯などの家事にも不慣れな若者が大半であったため、その多くは親戚縁者の世話になったり、家賃や食費を支払って他人の家に下宿したりするのが通常であった。
そのため「書生」という言葉は、「他人の家に下宿して家事や雑務を手伝いつつ、勉強や下積みを行う若者」のことを指すようになった。
0299日本@名無史さん
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2017/12/30(土) 20:35:41.32
また、生活費に困窮する者に対しては、地方出身の篤志家が住居の一角に学生を住まわせ、家賃の代わりに簡単な家の手伝い(掃除や商売上の雑務、清書等)をさせるようなことも行われた。
篤志家側も、地元出身のインテリ書生を抱えることはステータスの一種であったこと、また、書生が中央官僚などになった際には、人脈から多様なメリットが生じるといった打算的な考えを持つ者も少なくなかったとされる。
0300日本@名無史さん
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2017/12/30(土) 20:37:01.88
昭和50年代に東京の大学に進学する際、明治生まれの祖母が「書生になれ」と言ったのには驚いた。
0302日本@名無史さん
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2017/12/30(土) 20:45:14.08
▽金子堅太郎
嘉永6年(1853年) - 1942年(昭和17年)
伊東巳代治、井上毅〔>>74〕らとともに大日本帝国憲法の起草に参画する。また、皇室典範などの諸法典を整備した。日本法律学校(現・日本大学)初代校長。禿げている。
福岡藩の出身で、同郷の先輩である平賀義賢という司法省の官員を頼って上京し、平賀の草履取りをやらされた。
http://shuyu.fku.ed.jp/html/syoukai/rekishi/jinbutu/kaneko.jpg
0303日本@名無史さん
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2017/12/30(土) 20:49:50.97
金子堅太郎は、明治4年(1871年)、岩倉使節団に同行した藩主・黒田長知の随行員となり、團琢磨とともにアメリカに留学した。
明治37年2月、日露戦争が勃発すると、ハーバード留学時代にセオドア・ルーズベルト大統領と面識があった金子は、伊藤博文枢密院議長の説得を受けて渡米し、ルーズベルト大統領に接触し、戦争遂行を有利に進めるべく日本の広報外交を展開した。
※映画『二百三高地』で、伊藤博文(森繁久彌)から「日露戦争打開のため、アメリカに協力してもらえ」と厳命された金子堅太郎(天知茂)。
https://pbs.twimg.com/media/COh811rVEAEFUiW.jpg
0304日本@名無史さん
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2017/12/30(土) 20:53:11.19
金子堅太郎は、明治33年、第四次伊藤内閣の司法大臣となる。
金子は伊藤博文に重用されており、第二次・第三次伊藤内閣では農商務大臣であった。
0307日本@名無史さん
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2017/12/30(土) 23:32:47.42
▽李氏朝鮮の鎖国
1875年9月20日の江華島事件が鎖国を解くきっかけになったといいますので、当時の李氏朝鮮は鎖国状態にあったようです。
当時の朝鮮は清国の冊封体制下にあり、独自で開国することはできませんでした。
李氏朝鮮は1392年から1910年まで続いた政権ですが、鎖国がいつ始まったかは分かりません。
ただし鎖国と言っても、中国、日本、琉球以外との鎖国状態です。琉球王国とは交易がありました。なお、日本の江戸幕府とは、朝鮮通信使の行き来があり、対馬藩との釜山貿易もありました。
0308日本@名無史さん
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2017/12/30(土) 23:38:58.65
▽勝海舟の東アジア三国同盟
島津斉彬の「日本膨張論」は書生論であったのに対して、勝海舟の東アジア三国同盟は大いに実現しうるものであった。
現に明治維新に成功した日本は、同様に解禁策を取っていた朝鮮に対して国交を結ぶ使節を派遣している。もっとも、これは3度送って3度とも散々に侮辱されて追い返されたが。
この東アジア三国同盟と言う構想の根幹にあるものはただ一つで、清、朝鮮、日本が連合して洋夷に対抗するというものである。
0309日本@名無史さん
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2017/12/30(土) 23:43:48.17
洋夷とはここでは具体的にはロシアのことを指す。文久元年(1861年)に、ロシア船が対馬を占領するという事件が起きた。
勝海舟の神戸海軍伝習所の設立は中国、朝鮮、日本の三国を防衛するための海軍設立の魁である、と本人は述べていたという。つまりロシアの南下政策に対して警鐘を鳴らしていたのだ。
0310日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 23:56:11.92
▽征韓論
日本が朝鮮に使節を送った理由は、「欧米列強の魔の手はもうすぐ朝鮮にも伸びるはずだから、鎖国は止めて開国し近代化に勤めてはいかがですか。日本は隣国として協力しますよ。そして、日本、朝鮮、中国で三国同盟を結び、協力して欧米列強の脅威を排除しましょう」という内容です。
この日本、朝鮮、中国による三国同盟の案は、幕末に勝海舟や島津斉彬などが唱えていたものです。
0311日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 23:57:56.21
このまま朝鮮が鎖国を続け、旧態依然とした国家体制のままであれば、欧米列強に侵略されるのは時間の問題であり、そうなれば朝鮮だけの悲劇では済まなくなり、日本にも災いが及ぶのは明白でした。
日本の防衛は、その地政学上、朝鮮半島を列強国に取られると、胸元に刃を付き付けられたのと同じ状態になるのです。それは日露戦争勃発の原因と同様でした。
0312日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/30(土) 23:59:25.77
実際に欧米列強による朝鮮侵略は具体化しつつあり、1791年にはフランスの宣教師が密入国してキリスト教を布教したり、1866年にフランス艦隊が江華島を襲撃して略奪をはたらいたり、1867年にはドイツ人を首謀者とした集団がかつての王族の王陵を暴いたり、明治4年(1871年)には江華島の砲台がアメリカ艦隊と交戦をしたりしています。
0313日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/31(日) 00:01:15.36
焦った日本政府は、日本のためにも朝鮮のためにも、朝鮮に一大刺激を与え、朝鮮で日本でいう明治維新のような革命が起こることを期待したのです。もちろん日本は侵略の意思などまったくありませんでした。
昔の日本は、現在の感覚では不思議に思われるかもしれませんが、朝鮮や中国を外国視しておらず同胞のように考えていたのです。
0314日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/31(日) 00:03:19.73
征韓論とは実際には遣韓論であり、朝鮮を侵略する意図のものではなく、また朝鮮と本格的に戦争をする意図のものでもなかったということです。
西郷らが国内の不平士族たちの不満のはけ口として朝鮮侵攻を企てたという説がありますが、それは後世の左翼的な考えに基づくもので史実ではありません。左翼思想に染まった現代では、それが全てであるかのように主張する人がいるのは困りものですね。
0315日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/31(日) 00:07:55.70
▽「征韓論こそ亡国論である」
大久保ら非征韓派も、遣韓そのものには反対はしていません。ただ遣韓の使者になる西郷が韓国で殺される可能性があったので、その場合は戦争にならざるをえず、戦争になれば必ず欧米列強の軍事的・政治的な干渉を招くことを懸念していました。
日本の軍事力ではそれに対抗できず、悪ければ日韓両国が、良くても韓国がその分け取りにされて植民地にされてしまうことは確実だったので、それを憂慮して反対したのです。
なぜなら、それが欧米列強が世界中に植民地を得てきた手段の一つなのだから、というものでした。
0316日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/31(日) 00:13:42.29
まかりまちがえば桐野はオイを斬るかもしれない。これは川路のこの席での覚悟である。
次章「情念」では、時間が2年遡って、洋行前の川路と桐野との間で、この席と同じように、川路が桐野に斬られるかもしれないという状況が語られる。
次章を読んだ後で、本章をふりかえると、デジャヴを見ているようで、アホらしくなる。
0317日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/31(日) 10:52:49.80
▽勢力均衡〈Balance of power〉
19世紀以降、欧州の国際秩序を維持するために各国間の軍事力に一定の等質性(パリティ)を与えることにより、突出した脅威が生み出されることを抑制し、地域不安や紛争の誘因を低下させることを目的として考案されたバランス型の秩序モデル。
0318日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 10:53:15.12
特に勢力均衡を国家戦略として用いたのが「大英帝国」と呼ばれた時期のイギリスであり、イギリスの基本的国益である独立と貿易の安定化のために、交易国たる小国の独立維持に積極的関心を強めた。
イギリスは小国の独立を脅かす国はすべて敵国であるという姿勢で臨み、そのため、勢力均衡のためには自国の軍事力を高く維持するという独特な勢力均衡政策がとられたのである。
0319日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 10:59:55.62
▼帝国主義
一つの国家が、自国の民族主義、文化、宗教、経済体系などを拡大するため、あるいは新たな領土や天然資源などを獲得するために、軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略し、さらにそれを推し進めようとする思想や政策。
0320日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 11:01:33.11
▼植民地主義
国家主権を国境外の領域や人々に対して拡大する政策活動と、それを正当化して推し進める思考。
政策活動に際しては、資源、労働力、そして市場を経済的に支配することが原動力となる。
植民地主義を正当化するのは、植民者が被植民者より優れており、また、植民地支配はその近代化に必須の経済基盤・政治基盤を発展させることに繋がるので、被植民者にとって利益になるのだという考え方である。
0321日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 11:30:02.97
▽朝鮮と清国の関係
1627年、後金は反後金・親明的な政策をとっていた朝鮮に侵入・制圧し(丁卯の役)、後金を兄、朝鮮を弟とすることなどを定めた和議を結んだ。1636年、後金の太宗ホンタイジ(皇太極)は皇帝に即位し、国号を清と改め、朝鮮に対して臣従するよう要求した。
戦いに敗れた朝鮮の仁祖は、大清皇帝功徳碑を築くなどの屈辱的な条件で降伏し、冊封体制・羈縻支配下に入った。
0322日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 11:37:46.60
▽英国東洋艦隊
文久元年(1861年)にロシア軍艦ポサドニック号が対馬の芋崎を占領した際〔>>309〕、勝海舟がイギリス公使に圧力をかけて上海から東洋艦隊を呼び、外交交渉によってロシア軍艦を退去させたとある。
なお、第二次大戦中のイギリス東洋艦隊の根拠地は、シンガポールにあった。
※阿片戦争 https://media1.britannica.com/eb-media/86/105286-004-FD1CDF8B.jpg
0323日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 12:06:03.65
▽閑所
もともとは「人気のない静かな所」。そこから転じて便所を意味するようになった。
※便所を意味するその他の語彙
お手洗い / 化粧室 / はばかり / 雪隠(せっちん)/ 厠(かわや)/ 手水(ちょうず)/ ご不浄
トイレットルーム / レストルーム / バスルーム / WC=ウォーター・クローゼット(water closet)の略。
0324日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 12:14:20.55
           人
          (__)
       (____)      
       ( ・∀・)      ウンコー!!
 ピョン   (つ┳つ     ピョン  
  ピョン  (__)||__)   ピョン 
       ⊂§⊃       
         §           
 ⌒ヽ〃⌒ヽ〃   
0325日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 12:26:32.72
西郷の書生の小牧新次郎〔>>268〕が、提灯をもって川路を裏庭にある厠へ案内した。
※江戸の大名屋敷の厠の画像はなかった。下は会津藩主の松平容保が使った厠
http://bqspot.com/photo2014/2014-03-05-05.jpg
大名のうんこは、その健康状態を調べるために、使用後に箱車のうんこを検診した後に、砂とともに処分された。
松平容保は、この箱の中にうんこを落とした。
http://bqspot.com/photo2014/2014-03-05-06.jpg
0326日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 12:45:15.12
▽習志野
習志野は、下総台地の一画を占め船橋市、八千代市、習志野市に跨っている。現在の習志野台一帯は、かつて小金原もしくは大和田原といわれ、江戸時代には幕府の牧場の一部であり、明治初期から昭和20年(1945)までは陸軍の演習場だった。
明治6年(1873)4月29日、明治天皇は、西郷隆盛、篠原国幹ほか多数を従えて当地に行幸され、30日には、近衛兵による天覧演習が行われた。
明治天皇は5月1日に皇居に還御されたが、5月13日、勅諭をもって、この原に「習志野ノ原」の名を賜った。これよりのち、この周辺の地名に「習志野」の名が用いられるようになった。
https://uub.jp/47/chiba/chiba_map1.png
http://www.geocities.jp/takechan_mori/gazou/gungou/nishishou.jpg
http://www.city.funabashi.lg.jp/kurashi/gakushu/0005/p008873_d/img/001.jpg
0327日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 12:51:32.91
「習志野原」の命名について、大演習での陸軍少将・篠原国幹の目覚しい指揮に感銘した天皇の「篠原に習え」という言葉が元になった(習篠原→習志野原)という説があるが、確実な史料の裏付けがなく、歴史的な事実ということはできない。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/34/1a07f8e3adb5d524ebbed3bd4de62c62.jpg
※『田原坂』(1987年 / 日本テレビ):大門正明
https://stat.ameba.jp/user_images/20101127/22/no-sgn/60/4d/j/t02200165_0640048010885042232.jpg
0328日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 13:00:57.36
▽奄美大島に潜居
安政5年(1858年)11月16日夜半、竜ヶ水沖で月照とともに入水した。月照は死亡し、西郷は運良く蘇生した。
藩当局は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させることにした。よく言われるような遠島ではない。
安政6年(1859年)1月12日に潜居地の奄美大島龍郷村阿丹崎に着いた。
0330日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 13:13:52.55
文久元年(1861年)10月、久光は公武周旋に乗り出す決意をして西郷に召還状を出した。西郷は文久2年(1862年)2月12日に鹿児島へ着いた。
2月15日、久光に召されたが、久光が無官で斉彬ほどの人望がないことを理由に上京すべきでないと主張し、また、「御前ニハ恐レナガラ地ゴロ」なので周旋は無理だと言ったので久光の不興を買った。
※島津久光 (斉彬異母弟/1817-1887)…青木崇高
http://webbizinfo.xsrv.jp/segodon/wp-content/uploads/2017/10/munetaka-aoki.jpg
0331日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 13:22:16.69
▽徳之島へ遠島
西郷は過激派志士たちの京都焼き討ち・挙兵の企てを止めようと試みたが、久光に誤解されて、寺田屋事件の後、徳之島への遠島処分を受けた。
文久2年(1862年)7月2日に西郷は徳之島湾仁屋に到着した。偶然にも、この渡海中の7月2日に愛加那が菊草を生んだ。
8月26日、徳之島来島を知らされた愛加那が大島から子供2人を連れて西郷のもとを訪れた。久しぶりの親子対面を喜んでから数日後、さらに追い打ちをかけるように沖永良部島へ遠島する命令が届いた。
http://www.geocities.jp/cnkrs800/photo/amami/amamishoto.jpg
0332日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 13:26:51.37
久光にとっては、公武周旋に動く人材の不足が最大の問題であった。この苦境を打開するために大久保一蔵や小松帯刀らの勧めもあって、西郷を赦免召還することにした。
元治元年(1864年)2月21日、吉井友実・西郷信吾らを乗せた蒸気船胡蝶丸が沖永良部島和泊に迎えに来た。途中で大島龍郷に寄って妻子と別れ、喜界島遠島中の村田新八を伴って帰還の途についた。
http://stat.ameba.jp/user_images/20090906/10/gong-net/c3/c5/j/o0640064010247905456.jpg
0333日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 13:33:57.03
《西郷隆盛の政治的空白期》
〔1〕奄美大島潜居期:安政6年(1859年)1月〜文久2年(1862年)2月……約3年のブランク
〔2〕徳之島・沖永良部島遠島期:文久2年(1862年)4月<捕縛>〜元治元年(1864年)2月……約3年のブランク
0334日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 13:42:02.00
▽徳之島の老婆
二度も流刑に処された西郷に対し、「ナマリモン(怠け者)」と悪罵を浴びせる。
文久2年(1862年)7月のことである〔>>331〕。
※『田原坂』(1987年 / 日本テレビ)…西郷を叱った徳之島の老婆:原泉
http://www.mima.jp/image/tayori/248.jpg
0335日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 13:51:59.11
女優の原泉の夫は、プロレタリア作家の中野重治である。
中野重治は、前スレの「昭和五年からの手紙 −長沖一とその世代環境−」に名前が出てくる。
雑誌「辻馬車」が左傾化した頃の執筆者として、武田麟太郎・中野重治などが名を連ねてゆく。
※中野重治と原泉
http://chinchiko.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4B8ADE9878EE9878DE6B2BBE383BBE58E9FE6B3891930-fae6c.jpg
http://gendai.ismcdn.jp/mwimgs/0/6/640m/img_06f6b1a21e695e1236dd8391312b8439150680.jpg
※佐多稲子と原泉……原泉と佐多稲子という女性二人に看病されて、中野は逝った。
http://chinchiko.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E4BD90E5A49AE7A8B2E5AD90E381A8E58E9FE6B389-1f81c.jpg
0337日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 13:58:00.88
おじいちゃん、年配の役者についてはやらた詳しいけど、若手の役者については沈黙を守るよね。
0338日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 14:16:29.44
▽村田新八
天保7年(1836年) - 明治10年
鹿児島城下加治屋町山之口馬場(高見馬場方限)で高橋八郎の第三子として生まれ、幼にして村田十蔵経典の養子となった。
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/021/480/95/N000/000/000/131675466173013314506_murata_shinpachi.jpg
長男の岩熊は西南戦争に従軍して田原坂で戦死した。
※村田新八 (薩摩藩士/1836-1877)…堀井新太
https://contents.gunosy.com/12/27/a823a0ca503f6eaa2069b1e25d16a059_content.jpg
0339日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 14:25:36.37
▽島津斉彬
吉田松陰や橋本左内および島津斉彬たちの大陸進攻論は、欧米列強の東アジア侵攻に対していかに対処するかという観点から述べられている。
日本一国では太刀打ちしかねる大きな力のヨーロッパという認識から、ヨーロッパの東アジア侵攻に危機感を持っていたようである。
それに対して、日本は「主権国家として対峙せねばならなくなる」という予感から考えられた広域防衛構想とでもいうものである〔>>308〕。
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/nariakira.jpg
※島津斉彬 (第28代島津家当主/1809-1858)…渡辺謙
http://geitopi.com/wp-content/uploads/2017033004-1.jpg
0340日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 14:29:52.30
征韓論は、日本の明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによって主張された武力をもって朝鮮を開国しようとする論である。
但し、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は、板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くという、むしろ「遣韓論」と呼ばれるべきものであり、事実、遣韓中止が決まる直前までは、西郷の使節派遣でまとまっていた。
0341日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 14:43:45.30
▽寅
維新の頃、西郷が京で連れていたのは寅という犬。
当時の祇園新地の名妓君竜は、「木戸はんや山県はんや伊藤はんやお歴々のお方が折り折りおいでやして、若い芸子はんをよんで夜更けまでお賑やかでしたよ。しかし、西郷はんだけは、犬を引っ張って昼間いつもお出でやして、犬さんとご一緒に鰻食を召しあがればすぐにお帰りになりやした。西郷はんのようなお方が、ほんまに粋の中の粋を知ったお方と申すのやろ(後略)」と話している。
※鰻を食べ過ぎて鰻犬になってしまった寅
http://yaplog.jp/cv/181181/img/1056/unagi01_p.jpg
0342日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 14:50:25.70
▽君竜
「翔ぶが如く」に出てくる名妓「君竜」は祇園の置屋・島村屋の芸妓。ここには祇園一の美貌を誇ったとされる君尾もいた。けど、西郷さんはその君尾には興味なし。
西郷さんが熱を上げていたのは、京都の奈良屋というお茶屋の仲居「お虎」。これが西郷さんばりのデブ女だったらしい。
※君竜姐さんではありませんが……。
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/originals/2c/91/da/2c91da59c44fd6697a16c141db5685f5.jpg
0344日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 15:30:06.07
▽仁礼景範
天保2年(1831年)- 明治33年。薩摩藩士の子弟として生まれる。
慶応3年(1867年)に藩命によりアメリカに留学(薩摩藩第二次米国留学生)。
明治5年(1872年)、海軍に出仕して海軍少佐。明治18年(1885年)、海軍中将。
明治25年(1892年)、第2次伊藤内閣〔>>304〕の海軍大臣に就任し、海軍備の充実に力を注いだ。犬を飼っていた。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Kagenori_Nire.jpg/200px-Kagenori_Nire.jpg
0345日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 15:50:56.21
▽ツン
西郷の飼犬。薩摩の藤川牧野に住む前田善兵衛からもらった薩摩犬。メス。
ところが、ツンは、狩りの途中、猟犬の勘を働かして逃走を図り、はるばる藤川を慕って二度も逃げ帰ったといわれます。
この『ツン』の銅像が、平成2年(1980年)のNHK大河ドラマ『翔ぶが如く』の放映を機に、藤川天神に建立されました。
http://livedoor.blogimg.jp/vino2007/imgs/c/8/c8768510.jpg
0346日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 15:53:50.79
明治7年か同8年頃、藤川天神を参詣した西郷さんは、境内で近所の犬と出会います。
ツンと呼ばれるその犬は、ピンと立った耳と左尾が特徴の薩摩犬で、兎狩りが得意なメス犬でした。一目見て気に入った西郷さんは、前田善兵衛という飼主に犬を譲って欲しいと頼みます。 
しかし、善兵衛は渋りこの申し出を断りました。あきらめきれない西郷さんは、土地の有力者であった三原隼人に交渉を頼みます。善兵衛はその情熱に折れ、ツンは西郷さんの飼い犬となりました。
http://www.kagoshima-kankou.com/db_img/cl_img/10454/3F8B1750CA6CF8AA7BC1C0C50F90C81E.jpg
0348日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 15:57:17.24
>>343
『上野の西郷さん』の銅像が連れている犬もこの愛犬のツンですが、銅像が制作された当時ツンはすでに死んでいたため、海軍中将・仁礼景範のオス犬をモデルにして、オス犬として作成されたそうです。したがって、オチンチンがついています。
0349日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 16:05:41.33
▽藤川牧野
旧薩摩郡東郷藤川村。現在は薩摩川内市東郷町藤川。
藤川は古くは太宰府天満宮(安楽寺)領であったとされ、地内に寺領を管掌する治所があったであろうと記されている。九州の役(島津征伐)により、大口から川内に至る通路上にあった東郷は豊臣秀吉の軍によって荒らされ、これにより藤川天神の社殿や神宝、文書が焼失している。
https://uub.jp/47/kagoshima/kagoshima_map1.png
※藤川天神 https://satsumasendai.gr.jp/wp-content/uploads/2016/11/fujikawa01-1024x768.jpg
0350日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 16:12:03.55
▽この座敷にいる二頭の犬
寅〔>>341〕でもツン〔>>345〕でもなく、千葉あたりの猟師から譲り受けた雉猟に慣れた犬。
ツンを前田善兵衛から譲り受けたのは、明治6年の政変で下野して鹿児島に帰った後なんで、ツンなわけがないんだがな。
0351日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 16:17:53.76
▼攘夷家
本章には述べられていないが、西郷の犬には「攘夷家」と命名された黒に白い斑点がある牡犬がいた。
この犬は、川辺郡の中条良正から譲り受けた。洋服を着た人を見かけると吠えるので「攘夷家」。
攘夷家については、他の司馬作品で紹介されていたと記憶している。
0353日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 16:28:57.94
※毎年10月30日は『たまごかけごはんの日』です。
『たまごかけごはん』をキーワードに、日本の古き良き食文化や、ふるさと、家族愛などを考えるきっかけになればとの思いから、島根県雲南市の『日本たまごかけごはん楽会』が制定した超マイナーな記念日。
第1回日本たまごかけごはんシンポジウムが開催されたのは、2005年10月30日。そこで、10月30日を記念日にしたというユーモアもウィットも何も感じられない記念日。
0354日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 17:09:06.25
★日本橋小網町

桐野は、
「そこまで送ってあげ申そ」
といって、土間へ降りた。戸口のところで新次郎が待っていた。新次郎が提灯で川路の足もとを照らして先導しようとすると、桐野は、
「よか。オイひとりでよか」
といって、提灯をとりあげた。
桐野のこういう場合、きわめて危険であった。幕末、桐野はこの手でよく人を殺った。
0355日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 17:19:14.37
▽後藤象二郎
慶応3年(1867年)6月22日、薩土盟約が締結された。そのころの話である。
後藤象二郎が小松帯刀の宿所にやってきた。ここには西郷、大久保、吉井も同席している。後藤はその場で武力討幕の挙兵を延期すること、さらには大政奉還の建白書を藩主山内氏の名で提出することなどを述べた。
後藤を暗殺しようとする中村半次郎に対し、後藤は西郷から手渡された島津家の定紋入りの提灯を突きつけて、難を免れた。
0357日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 17:32:52.21
「むつかし事ごわすな」
と、まず呼吸をはずした。
「オイはポリスじゃってやナ、せからしことは言わらんど」
と川路がいうと、桐野は立ちどまった。川路がそのまま進み、桐野が残った。やがて背後で桐野の哄笑が爆発した。
0358翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2017/12/31(日) 18:24:48.97
第4章 情念

【一】征韓論
日本における外交問題は、他の国におけるそれとは余程ちがった概念と性質をもっているといえるかもしれない。外交が技術であるよりも国民的情念の表現、もしくはその情念によるヒステリー発作というに近い性質をもっているのではないかとさえ思える。
そういう民族的情念の維新後最初の戦慄が、征韓論であった。その戦慄が過ぎ去ってしまえば何事もなかったに均しいにせよ、その最中は明治政府をほとんど崩壊寸前に追いこんだ。
0359日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 18:32:59.22
★攘夷

▽外交
ヨーロッパ大陸諸国……印欧語族……方言ごとに国家……均一性……自国と他国の比較が容易……外交は技術
孤絶した環境にある日本……自国と他国の比較が困難……外交は利害計算の技術とはならない……呪術性・魔術性をもった外交
0360日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 18:39:48.12
▽夷ヲ攘フ
たかが国家の利害計算の範囲内にすぎない外交問題が、国内の革命のエネルギーに変質する。
「夷ヲ攘フ」思想と「王ヲ尊ブ」思想とが矛盾なしに一致する。
外交がただの外交におわることなく、悪霊のような魔術性をもち、国内問題にむかって強烈な呪術力を発揮してしまう。
0361日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 18:52:00.62
★太平洋戦争

▽帝国主義
西欧では、帝国主義とは自国の実力と国際間の錯綜した諸種の利害関係を計算しぬいて行われる外交技術にすぎない。
しかし、軍部は「朝鮮と満州は日本の生命線」という呪術的な言葉を連呼した。
天皇への絶対的忠誠心と日本および日本人の絶対的優越性を全国民にひろめ、全国民を兵士階級にすることによって国内統一を遂げる。
外交問題が国内問題にむかって魔術化していった。その結果、四十余ヵ国というほぼ全地球の人類を敵として壊滅した。
0362日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 18:59:18.71
★戦後外交

▽サンフランシスコ講和条約
1951年(昭和26年)9月8日に全権委員によって署名された。同日、日米安保条約も署名された。
翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効する。
ただし、交戦国であった中国とソ連およびインド・ビルマが加わっていないので、片面講和といわれた。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/images/gaiyou/img16.gif
0363日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 19:02:53.47
※条約の内容
1.戦争状態の終結、日本の主権の回復:日本は個別的および集団的自衛権をもち集団的安全保障条約に参加できる。
2.領土の規定:日本は朝鮮の独立を承認、台湾・澎湖諸島および南樺太・千島列島を放棄する。琉球諸島と小笠原諸島はアメリカの統治下に置かれた。
3.賠償:外国為替上の負担を日本にかけないとされ、事実上無賠償となった。
0364日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 19:04:18.34
※条約の意義
日本が主権を回復するとともに、冷戦の中で西側陣営に組み込まれるサンフランシスコ体制が成立した。
中国、ソ連との国交回復はなされず、北方領土問題を含めてこれ以後の大きな問題の発端となった。
また同時に締結された日米安全保障条約によってアメリカとの同盟関係が成立し、米軍の駐留が恒常化された。
0365日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 19:07:22.70
※問題点
1.日本の最初の交戦国である中国が、中華民国・中華人民共和国いずれの代表も会議に招聘されず、日中間の講和は後回しとなった。
アメリカは中華民国=台湾のみを代表と認めたが、ソ連とイギリスは中華人民共和国を承認していたので、どちらを招聘するかで意見が対立し、トルーマンは結局そのいずれをも招聘しなかった。
0366日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 19:07:34.19
2.ソ連は会議には参加したが、中国代表が参加していないこと、日本独立後もアメリカ軍が駐留することに反対して、条約には署名しなかった。そのため、日ソ国交回復もできなかった。
3.インド・ビルマという日本と交戦したアジアの諸国が、中国の不参加を理由に会議に参加せず、条約にも署名しなかった。
0367日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 19:11:27.76
※中国・インド・ビルマ・ソ連などとの国交回復
1.中華民国(台湾)=国民党政権とは、1952年4月に日華平和条約を、インドとの間では1952年6月に日印平和条約を、ビルマとの間では1954年11月に日本ビルマ平和条約をそれぞれ締結し、いずれも賠償請求権は放棄された。
2.ソ連とは、1956年に日ソ共同宣言が出されて国交を回復したが、平和条約は締結されていない。
0368日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 19:14:11.85
3.大韓民国とは1965年に日韓基本条約を締結し国交関係を樹立したが、日本は韓国を「朝鮮半島における唯一の合法的な政府」と認定し、北朝鮮を無視する姿勢をとっているため、北朝鮮とは国交関係は成立していない。つまりこの部分では戦争は終わっていない。
4.中華人民共和国=中国共産党政権とは依然として国交を持たなかったが、70年代に入り政府が方針を転換、1972年に日中国交を回復し、日華平和条約は破棄された。なお、1978年には日中平和友好条約が締結された。
0369日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 19:19:18.34
全面講和を主張し片面講話に反対する声も強かったが、吉田茂内閣はサンフランシスコ講和会議条約に調印した。
国内は日本の独立回復を祝う声で覆われたが、独立回復とひきかえに日本が選んだ日米安保体制によって戦後日本のあり方が規定されることになり、懸念されたさまざまな問題がここから始まったともいえる。
https://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/storage.withnews.jp/2015/08/31/a/92/a922479c-sl.jpeg
http://ironna.jp/file/70972216a8e4e14bc3aeb3ec33b34f95.jpg
http://media.nj.com/hudson_voices_impact/photo/stackzillajpg-5b676e1dcff58b1a.jpg
0370日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 19:28:50.99
>>323
黒岩重吾のどの小説だったか忘れたが、「川屋」といって細い溝川に橋を渡し、その中央あたりに小屋を造って、糞尿を直に溝川に垂れ流す構造の便所が出てきた。
この「川屋」が厠(かわや)の語源なのかもしれないと勝手に想像していたのだが、どうやら正しいらしい。
0371日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 19:29:57.39
むかしの小さな舟の後尾には底のない樽がついていて、海に糞尿を垂れ流していたよ。
0372日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/31(日) 19:33:02.46
もっとすごいのが日本国有鉄道の車両の便所。鉄道沿線に直接に垂れ流し。
線路脇にウンコと尻を拭いたチリ紙が散乱していた。
0373日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/31(日) 19:34:33.94
    人
   (_)
   (__)
   ( ・∀・)つ   うんこー♪
 (( (⊃  (⌒) ))
    (__ノ
     人
    (_)
    (__)    うんこー♪
    (・∀・ )__ 
 (( ⊂⊂   _)
     (__ノ ̄ 彡
0374日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 20:13:29.15
★征韓論

▽桐野利秋
桐野利秋は壮士的気分における征韓派の巨魁とされていた。
といって桐野が朝鮮の政情や人文一般についてどれほど多くのことを知っていたかということになると、ほとんど知らないといってよかった。
むしろ知らないということが、桐野だけでなく、日本歴史のなかで間歇的に噴出する外征エネルギーのエネルギー源になっていた。
0375日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 20:19:56.50
▽壬辰倭乱
秀吉は朝鮮を厳密な定義での外国であると思っていたかどうか疑問であった。
九州の北方にある準九州的な地帯という程度の認識だったために、九州征伐で島津氏を威服せしめたと同様、朝鮮もまた日本国の統一者である彼の威光のもとに威服すべきものだと無邪気に思っていた。
0376日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 20:26:15.94
▽日韓交渉
明治維新の直後、日本は対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された。
明治3年2月、明治政府は佐田白茅および森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の状況に憤慨し、帰国後に征韓を建白した。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/31(日) 20:26:27.61
明治3年9月には、外務権少丞吉岡弘毅を釜山に遣り、明治5年1月には、対馬旧藩主を外務大丞に任じ、9月には、外務大丞花房義質を派した。
朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年からは排日の風がますます強まり、4月〜5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。ここに、日本国内において征韓論が沸騰した。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/31(日) 20:29:35.03
政権を握った大院君は「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん」という布告を出した。
当時外交官として釜山に居た佐田白茅および森山茂は、この乱暴な布告をみてすぐさま日本に帰国し、事の次第を政府に報告した。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/31(日) 20:32:42.11
明治6年(1873年)6月、森山茂帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。
参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成した。
中国から帰国した副島種臣は、西郷の主張に賛成はしたが、西郷ではなく自らが赴くことを主張した。二人の議論の末、三条実美の説得もあり、副島が折れることとなった。板垣退助も西郷のために尽力し、三条実美の承諾を得て西郷を使節として朝鮮に派遣することを上奏した。
0380日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 20:35:32.64
>>379の最後の二行は、先走っていますよ。
たったその二行のために、司馬さんはこの後の5章ほどを割いて、詳細かつ濃密に叙述してゆきます。
0381日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 20:43:33.63
▽長州と薩州
長州人は戦争にくたびれており、革命政府と新秩序の出現を妥当なものとして安堵していた風があった。
しかし、薩摩の場合は違っている。
薩摩は、戦国武者のエネルギーをひたすらに貯えていた集団であった。それが、西郷と大久保両人の英雄的活動によって革命主力となり、その鮮やかな手腕によって戦いに倦まぬまま革命を樹立させたのである。精気だけが残った。
0382翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2017/12/31(日) 20:58:20.06
第4章 情念

【二】中村楼騒動
薩摩人は天下をとった。かれらは軍人と文官とそして警察官にわかれた。中村楼騒動はごく簡単にいえば薄給の薩摩系軍人が高給の薩摩系文官を殴るための大会であり、しかもその喧嘩大会を薩摩系警察官が、中村楼だけに土俵を限定すべく遠巻きに保護するという役割を演じたという滑稽きわまりないものなのである。
(話にならん)
と、川路は不愉快であった。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/31(日) 21:43:59.30
★文官と軍人

▽明治4年2月
物語は、再び時間をさかのぼる。御親兵という近衛軍が薩長土三藩から選抜されて編成され、東京に駐屯した当座のことである。
文官である有馬純雄の月俸……150円……下町の長屋住まいの大工の二年分の収入以上。
薩人で軍隊に残った陸軍大尉の月俸……70円程度……それでも下町の長屋住まいの大工の11ヵ月分の月俸である。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/31(日) 21:46:47.78
       _, ,_
 w  (・ω・ )  ふざけるな!
 (~)、 /   i  )
  \ ` |_/ /|
   `ー_( __ノ |
    (  `(  、ノ
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        _, ,_
 w  ( ・ω・ )  公務員のばかやろー
 (~)、 /   i  )
  \ ` |_/ /|
   `ー_( __ノ |
    (  `(  、ノ
wwwww_ノ`i__ノ
0385日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/31(日) 21:53:41.49
▽有馬純雄
天保8年(1837年)- 大正13年。藤太〈つだ〉どん。
薩摩藩砲術師範有馬藤太(同名)の長男に生まれる。伊地知正治に引き立てられた。
慶応4年 (1868年) 1月に戊辰戦争が勃発すると、4月に東山道総督府の斥候を命じられ、香川敬三率いる一隊に従軍して宇都宮へ向かった。
途中、流山に旧幕府軍が駐屯しているという報告を聞き、不意をついて甲陽鎮撫隊の陣屋を包囲して、近藤勇を越谷まで連行することになった。14日、一時江戸に帰還したが、板橋に拘留されている近藤の処刑には強く反対したと伝えられる。
※写真中央の人物
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/o/oldbook/20160523/20160523234752.jpg
0386日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/31(日) 21:56:37.83
この挿話があるので、キネマの黄金時代には、新選組の映画に有馬藤太の名で頻繁に登場していた。
司馬遼太郎の短編集『余話として』(文春文庫)に「有馬藤太のこと」が収載されている。
0387日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/31(日) 21:59:23.49
有馬純雄は、明治政府に出仕して弾正台や司法省官吏を務めた。明治六年の政変で西郷隆盛が下野したときに辞職し、銀座煉瓦街で代言人の看板を立てる。
明治10年の西南戦争に際しては、大阪で有志を募り挙兵して、その功で西郷軍に加わろうとしたが、警察に仲間が摘発されて失敗し、有馬も1年ほど拘束された。
0389有馬藤太
垢版 |
2017/12/31(日) 22:04:57.70
┌○┐ お断りします
│お│ハハ
│断│゚ω゚)
│り│//
└○┘(⌒)
  し⌒
0390日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 22:40:56.76
▽大山綱良
文政8年(1825年)、樺山善助の次男として鹿児島に生まれる。嘉永2年(1849年)に大山四郎助の婿養子となる。通称は格之助。
西郷隆盛、大久保利通らとともに精忠組に所属。島津久光の上洛に随行し、文久2年(1862年)の寺田屋事件では、奈良原繁(喜八郎)らとともに過激派藩士の粛清に加わり、中心的役割を果たした。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e0/Oyama_Tsunayoshi.jpg/200px-Oyama_Tsunayoshi.jpg
※この場面は、NHK大河ドラマ『翔ぶが如く』(1990年)の蟹江敬三が最高か。
https://stat.ameba.jp/user_images/20140405/00/masamurata0331/10/93/j/t02020259_0202025912898333362.jpg
0391日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/31(日) 22:45:48.57
戊辰戦争では、奥羽鎮撫総督府の下参謀になった。もう一人の下参謀は仙台藩に処刑された長州藩士の世良修蔵。
大山率いる新政府軍は庄内戦線において、庄内藩の反撃にあい連戦連敗を喫する。
新政府では、廃藩置県後に鹿児島県の大参事・権令(県令)となる。
※県令の大山綱良は、日テレ『田原坂』(1987年)の丹波哲郎だな。画像は白虎隊の神保内蔵助。
http://i.rubese.net/twisoq/wiki_img/7e316f78af732c68f5528435d8d2ccf3.jpg
0393日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 22:55:19.42
中村楼事件は、県令に就任して上京してきた大山綱良の歓迎の宴を契機として起こった。
0394日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 23:11:12.01
▽中村楼
政財界の人々が足繁く通った高級料亭である両国の中村楼は、後年、東京美術倶楽部が建物を買い取り、美術品の売買の場所となった。
東京市本所区元町1番地。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~hitosugi/toubi1[1].jpg
0395日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 23:11:56.26
近く県の大参事大山?良が上京してくるというので、大山の歓迎会を兼ねて、薩摩出身者の親睦会を開くことにし、場所も両国の中村楼と決めた。
当日は、中村楼には近衛局の鹿?島隊の将兵は早くから来ていた。桐野少将は熊本鎮台司令官なので、残念ながら来られない〔>>272〕。
それでも、この日、熊本から桐野を強引に呼び出した司馬さんの剛腕は、さすがというほかない。
0396日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 23:14:57.98
中村楼の一階の広間には、西郷大将、大参事大山綱良、伊地知正治をはじめ、少将の種田正明、篠原国幹以下が来ている。
村田新八宮内大丞は岩倉一行と外遊中である。座に着くと勝手に飲み始めて、有馬藤太が来たときは皆かなり酔っていた。
0399日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 23:48:06.58
★中村楼騒動

▽有馬は遅参した
有馬は馬丁に言い含めて、二階から馬の上に飛び降り、逃げる準備をしていた。
0400日本@名無史さん
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2017/12/31(日) 23:51:50.58
▽箸戦〈なんこ〉
南交とも書く。
対戦する二人が向き合って座り、お互いに三本ずつ『なんこ棒』(堅い木で作られた一辺が1cmの正方形断面で、長さが10cmの棒)を後ろ手に隠して持ち、その中の何本かを右手の拳で握り、隠しながら『なんこ盤』に突き出し、両者合わせて何本持っているかを当てる遊びです。
通常は負けた方が飲むことになっているので、負けが込むと酔いが回って、いよいよ勘が冴えなくなります。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/fd/f31c80a2008157d9c6f612c3a27633cf.jpg
0401日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 00:02:22.41
▽野津道貫
天保12年(1841年)- 明治41年。兄に陸軍中将・野津鎮雄がいる〔>>283〕。
若い頃、兄・野津鎮雄とともに薩摩藩士・奈良原繁(後の沖縄県知事)の家で書生をしていた〔>>216 / >>223〕。
明治4年3月、藩兵3番大隊付教頭として上京し御親兵となる。同年7月、陸軍少佐に任じられ2番大隊付となる。
https://stat.ameba.jp/user_images/20141018/03/tank-2012/ca/61/p/t01900266_0190026613101292149.png
0405日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 00:13:02.72
他にも、重野安繹や中井弘といった文官が亀清に逃げてきている。
0406日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 00:19:34.16
▽重野安繹
1827年(文政10年)- 1910年(明治43年)。日本で最初に実証主義を提唱した日本歴史学研究の泰斗。
鹿児島郡鹿児島近在坂元村生まれ。通称は厚之丞。
1857年(安政3年)に同僚の金の使い込みにより奄美大島に遠島処分にされ、その先で西郷隆盛と出会った。
明治4年に上京し、明治8年以降太政官正院修史局・修史館にて修史事業に関わった。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fd/Shigeno_Yasutsugu.jpg/200px-Shigeno_Yasutsugu.jpg
0407日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 00:23:30.32
▽中井弘
天保9年(1839年)- 明治27年
鹿児島城下に藩士・横山休左衛門詠介の長子として生まれる。
脱藩して京都に行き浪人となるが、後藤象二郎や坂本龍馬らにその剛毅な性格を愛され、彼らが工面した資金で、1866年(慶応2年)に土佐の結城幸安とともに、イギリスへ密航留学する。
0409日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 00:27:39.62
逃げた連中は頭脳明晰な男ばかりだな。
低学歴の怨嗟が渦巻く中村楼といったところか。
0410日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 00:34:00.89
▽淵辺群平
天保11年(1840年)- 明治10年。鹿児島高麗町で生まれる。
戊辰戦争では、参謀・黒田清隆のもとで監軍として軍議に参画し、北陸に出征した。長岡城攻略の際は、刀が鋸の様になるまで自ら敵を斬ったという。
明治2年、鹿児島常備隊がつくられたとき、大隊の教導となった。
明治4年、西郷隆盛が廃藩置県に備えて兵を率いて東上したとき、これに従って上京し、御親兵に編入されて陸軍少佐に任じられた。しかし、まもなく北条県の参事として転出した。
http://s3.amazonaws.com/cogolo_faces/%E6%B7%B5%E8%BE%BA%E7%BE%A4%E5%B9%B3/imgs/konn3563.up.seesaa.net/image/01-07.jpg
0411日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 00:35:36.58
本章では、中村楼における乱戦のなかで、相五左衛門という兵隊の親指を噛み切って杯洗へ吐き捨てた。
0412日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 01:09:06.74
>>378
つい5年ほど前には、薩摩は薩英戦争をやり、長州は下関戦争をやっていたわけで、そいつらが「朝鮮も開国すれば?」と言ってくれば、「なによ、その掌返し」と思うのも無理はないという気がするがな。
0413日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 13:26:11.03
>>395
淵辺群平が北条県の参事として転出した時期を勘案すると〔>>410〕、中村楼騒動は明治4年の前半だと思う。
桐野利秋の熊本赴任は明治5年3月なので、明治4年前半のこの時期は東京にいる。
「桐野少将は熊本鎮台司令官なので、残念ながら来られない」という叙述の方が誤りだな。司馬が正しい。
0414日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 13:31:21.30
それは置いておくとしても、桐野利秋が熊本鎮台司令官であった事実は、西南戦争の戦略を考える上では非常に重要だと思う。
西郷軍が熊本城陥落に執拗なまでに拘泥したのは、桐野が熊本城を知悉していたからとしか考えられない。
「熊本城はオイに任しておけばよか。熊本鎮台の便所の蛆虫の数まで知っとんどん」と言ったと思う。
0415日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 13:37:18.88
「知っとんどん」とは言わないと思うぞ。
「知っとりもんで」じゃないか。
0416日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 13:48:00.51
中村楼騒動の元ネタは、おそらく有馬藤太の書いた『維新史の片鱗』という著書だと思う。
読んだことはないけどね。
0417日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 13:55:02.03
▽西郷隆盛
西郷は目下の者を生涯いちども叱ったことがないと、司馬さんは書かれている。
西郷はこの騒ぎの中でも、騒動を静めようとはしなかったようだ。酒をくらって酔いつぶれていた。
0418日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 13:55:24.27
従弟の大山巌が、西郷のことを「西郷どんの人望好き」と批判めいた言葉で評している。
目下の者から好かれたいがために、目下に対し厳しいことは一切言わなかったのだろうね。
0419日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 13:59:13.83
▽川路利秋
酔いつぶれた西郷を中村楼から逃がすために、川路は人力車を用意しておいた。
ここでも、野津道貫が登場する。有馬を亀清楼に逃がしたのが野津だ〔>>402〕。
ネタがかぶる。川路の人力車の挿話は、創作かもしれないね。
0420日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 14:04:43.94
▽人力車
記録では、日本の和泉要助、高山幸助、鈴木徳次郎の三名が、発明者として明治政府から認定されている。
三名は、東京で見た馬車から着想を得て明治2年に人力車を完成させ、翌明治3年に日本橋で開業したとされる。
※明治初年の人力車……まだ折りたたみ機能をもった便利幌がない。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c9/Montanus-page-161-Rich-carriage-of-a-Taikosama-lady-in-waiting.png/593px-Montanus-page-161-Rich-carriage-of-a-Taikosama-lady-in-waiting.png
0421日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 14:09:42.77
川路は郷士で構成されたポリスが中村楼に姿を現わせば、騒動が大きくなると予測して、城下士である野津に後始末を依頼した。
西郷を人力車で逃がした野津の仲間は、西南戦争において官軍に残ったエリートたちである。
0423日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 14:17:00.47
▽種田政明
天保8年(1837年)- 明治9年
鹿児島城下の高麗町で生まれる。1862年(文久2年)、島津久光の上洛に従い中川宮朝彦親王付の護衛となった。これを契機に諸藩の志士と交流を持つようになり、その交渉役を果たしている。戊辰戦争にも参加した。
0424日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 14:20:31.24
薩摩藩常備隊2番隊長を経て、明治4年に御親兵大隊長として上京。明治5年の陸軍省創設後は、陸軍少丞、会計監督、会計監督長代理などを歴任し、明治6年11月に陸軍少将となった。
東京鎮台司令長官を経て、明治9年9月、熊本鎮台司令長官に就任。同年10月の神風連の乱で、妾である小勝と就寝中、蜂起した敬神党に居宅を襲撃され、これに応戦するも首を刎ねられ殺害された。享年40。
http://u.jimdo.com/www13/o/se785f6f8e4e096c9/img/i0ea23aff4fe1cd30/1329990724/std/image.jpg
0425小勝
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2018/01/01(月) 14:21:07.77
ダンナワイケナイ ワタシハテキズ
0428日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 14:40:56.43
話は変わるが、昨夜BS日テレで見た『五稜郭』で笑えるシーンがあったわ。
妻を惨殺したほどの酒乱漢黒田了介が、大酔した長州海軍の連中を説教しておった。
0429日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 14:52:20.56
★桐野利秋

▽明保野亭〔作中では曙亭〕
東山三年坂にある料亭。
あるとき奥で酒を飲んでいた中村半次郎が軒下へ出てきてぜんざいを二十六杯のんだ。
※現在も営業されております。豆腐料理・湯葉料理が中心で、ぜんざいがメニューにあるかどうかはわかりませんでした。
http://murakumo1868.web.fc2.com/img-02modern/0019.jpg
0430日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 15:03:13.31
▽赤松小三郎
天保2年(1831年)、信濃国上田城下に上田藩士・芦田勘兵衛の次男として生まれる。のち、同藩士・赤松弘の養子となり名を小三郎と改める。
安政2年(1855年)、勝海舟に入門し、勝の従者として長崎海軍伝習所に赴き、オランダ人より語学、航海、測量、騎兵学等を学ぶ。
慶応2年(1866年)、薩摩藩から兵学教授として招聘され、京都二本松の薩摩藩邸において野津鎮雄(塾頭)〔>>283〕・野津道貫〔>>401〕・中村半次郎・村田新八・篠原国幹・黒木為驕E東郷平八郎・樺山資紀・上村彦之丞ら約800人に英国式兵学を教え、藩士たちの練兵も行った。
薩摩藩の兵制を蘭式から英式へと改変するのに指導的役割を果たした。
http://www.taiseihokan150.jp/wp-content/uploads/2016/03/akamatsukosaburou.jpg
0431日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/01(月) 15:09:26.85
赤松小三郎は、慶応3年(1867年)8月に薩摩藩が武力討幕計画を固める中、内戦の危機を回避しようと「幕薩一和」を求めて、薩摩の西郷隆盛や小松帯刀、幕府の永井尚志らとギリギリまで交渉していた。
出身地の上田藩よりの召還命令を拒否し続けた。しかし、慶応3年(1867年)9月に呼び戻されることになった。その帰国の直前、京都・東洞院通りで薩摩藩士で門下生であった中村半次郎と田代五郎左衛門に暗殺された。
0432日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/01(月) 15:22:21.92
▽田代五郎左衛門
作中では田代五郎。
四条から東洞院通りを伏見の方向に下って赤松を追っていくと、仏光寺通りにて、同藩の野津七次(道貫)ら他二名と会った。
二人は「赤松とそこの角で会った」と言ったので、自分達は匂天(おいて)町を通って五条まで下って先回りし、赤松が歩いている道を後へと戻って引き返した。
0433日本@名無史さん
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2018/01/01(月) 15:22:44.02
すると、魚棚を上がった所で赤松と出会った。僕は赤松の前に立ちふさがり、刀を抜いたところ、赤松は短筒(鉄砲)に手をかけようとしたが、左の肩から右の腹にかけて斬りつけたので、すぐに赤松は倒れかかった。
そこを田代君が背後から横に斬り払ったので、赤松は一歩ほど歩こうとしたがそのまま倒れた。僕は直に留めを刺し、田代君も留めを刺して、討ち果たしたのである。『京在日記 / 桐野利秋』
0434日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/01(月) 21:44:13.01
▽薩摩郷士
旧族居付大名であるため家臣団の構成は中世的であり、城下集住・俸禄制をとる大多数の藩とは異なり、戦国時代における国人・在地武士、そして島津氏の九州統一戦で傘下に入った武士等が郷士として家臣団に組み込まれた。参勤交代・軍役等、果たす役目は一般の藩士と同じである。
島津重豪の藩政改革以降、「城下士」と「郷士」の間には厳格な身分差意識が誕生したといわれる。但し、その後も城下士との間に養子縁組や移籍による身分の移動や通婚関係はあり、これを利用して城下士になる者も多い。また、城下士が分家後に鹿児島から他郷へ移住し、郷士となる例も多かった。
0435日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/01(月) 21:47:21.52
郷士内部でも身分の上下があり、上中級郷士は麓と呼ばれる侍町に住み、事実上地方行政を取り仕切った(麓郷士)。また、上級郷士ともなると多くの農地山林を抱え、身分は低くとも城下士以上に豊かな者すら存在した。
しかし、無高の郷士も多かった(無高郷士)。薩摩藩では郷士まで含めての武士の総数は人口の4分の1を占めていたため、これら全てに武士としての扶持を与える事は不可能であった。無高郷士は、藩に許可されていた大工や内職で生計を立て、中には武士身分のままで上級郷士の小作人になる者もいた。
0436日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/01(月) 21:49:56.80
明治維新後は俸禄を失い没落した城下士に対し、郷士は農地を買い集め地主として成功した者が多く、西南戦争に対しても冷ややかな態度をとる郷士が多かったといわれる。その後、城下士出身者の多くは郷里・鹿児島を離れ藩閥の力で官僚や軍人として立身を目指し、一方の郷士出身者は警察で派閥を形成した。
また、中央に出られない者は地元で公務員・教員・警察官や消防吏員の道に進むものが多かった。1945年の敗戦によりGHQのてこ入れがあるまで、鹿児島県政のこの政治構造は変わらなかった。
0437日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/01(月) 21:52:56.29
〈薩摩で高貴とされる人間の価値〉
「いさぎよさ」「勇敢」「弱者に対する憐れみ」
武士の学問などはほどほどでよい。
0438日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/01(月) 22:01:35.87
▽桐野利秋の揮毫
桐野の直筆と思われるきたない文字の書
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bd-ad/natsukiart/folder/1236649/82/38539382/img_0
有馬藤太らが代筆したと思われる美しい文字の書
桐野は署名だけは自分でしている。きたない文字なので揮毫が偽物だとすぐに分かる。
http://auctions.afimg.jp/item_data/image/20150723/yahoo/d/d170337329.3.jpg
0439日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/01(月) 23:07:21.82
▽桐野利秋の剣術
半次郎は15歳から城下にある示現流・伊集院鴨居の道場まで剣を習いに通ったともいい (西南記伝)、西田町にある江夏仲左衛門 (後の寺田屋事件では鎮撫の一員に選ばれた手練れ) の道場で野太刀自顕流の修練をしたともいう。
しかし、10歳頃、広敷座の下僚であった父が徳之島に流罪に処せられ、家禄5石を召し上げられた。しかも、18歳のときに兄が病没したため、小作や開墾畑で家計を支えるという生活であったので、剣術はほとんど独習といっていい。
0440日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/01(月) 23:09:54.33
▽川に放り込まれた半次郎
二才(にせ=若者)時代に石見半兵衛に決闘を申し込まれ、それを論難して以来、石見が属する上之園方限(ほうぎり)の郷中の士と親交を結んだ。因みに、この郷中には、寺田屋事件の鎮撫使となった奈良原繁や抵抗して死んだ弟子丸龍助など精忠組の士が多くいた。半次郎がもっとも親しくしていたのは、弟子丸龍助だったという。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/01(月) 23:13:22.40
▽天狗党の乱
元治元年(1864年)、天狗党の乱に際して偵察に赴いたことも、12月7日付小松帯刀の大久保利通宛書簡に見える。これは、半次郎が小松帯刀に嘆願して実現したことだったという。
『会津藩庁記録』には「薩州中村半十郎と申す者、かの濃州金原辺に天狗党の居り候頃、武田と藤田小四郎に面会致し談判候よし」とあり、天狗党の首領である武田耕雲斎と藤田小四郎に面会したとされる。
0442日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/01(月) 23:21:19.46
▽田中幸介
司馬さんは、田中幸助としているが、幸介の誤りである。そして、田中幸介とは中井弘〔>>407〕の別名である。
中井弘は、桐野利秋にとって政治学の教師といってよい存在であった。
http://livedoor.blogimg.jp/logos_yoshii/imgs/c/a/ca37975e.jpg
https://stat.ameba.jp/user_images/20130922/08/mumumyouzin/13/42/j/t02200256_0275032012691778394.jpg
桐野はインテリと交際できるだけの知性を備えていた。単なる低学歴ではない。
0443日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/01(月) 23:27:55.72
中井弘は脱藩者であるため別名が実に多い。専門の研究者でないと中井弘の別名をすべて把握するのは無理であろう。
司馬さんが田中幸介が中井弘の別名であることに気づかれているの否か、よくわからない。
田中幸介ではなく田中幸助としたあたり、中井弘であることは知っているんだけどね、というニュアンスが匂ってはいるが……。
0445日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 14:34:58.21
>>422
薩摩人にとって喧嘩さわぎというのは、たとえば西洋人が酒を飲んでダンスを愉しむようなもので、他藩人がみるほど深刻なものではない。
0446日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 14:47:53.11
▽鋩子
蛤御門の変以来、一振しかない川路の刀は、鋩子は折れ、刃こぼれもいくつかあったという文脈で出てくる。
鋩子(ぼうし)とは、日本刀の切先の焼刃のこと。ここに焼きを入れるには刀工のすぐれた技量が必要である。
驚いたのは、「日本刀 ぼうし」で検索すると、鋩子に優先して帽子がヒットしてしまうことである。
俺は時代小説もいくつも読んできたが、かつて「刀の帽子」という書き方を見たことがない。「刀の帽子」はやめようぜ。
http://daitouryu.com/dotnet_img/120403kissaki.jpg
0447日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 14:55:27.80
>>316
中村楼騒動のときも、川路と桐野は二人きりになったけど、このときは桐野は川路を風呂に誘っただけだよ。
川路は桐野に斬られるかもしれないと身構えてはいたけどね。
時系列が逆さまのデジャヴを見ているようで、気持ちはよくないね。
0448日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 15:05:29.76
▽シャボン
「シャボン(sabao)」とは、ポルトガル語で「石鹸」を意味する単語である。日本には17世紀初頭に伝わった。
子供の遊びである「シャボン玉遊び」が文献に初登場するのは、1677年(延宝5年)。四代将軍家綱の時代である。
桐野はシャボンを所持していたが、幕末の開港とリンクさせて考える必要はない。江戸時代のセレブにとってはシャボンは珍しい物ではなかった。
https://imgs.marry-xoxo.com/uploads/image/file/76195/compressed_e9d50a03-4b27-4224-af9b-7185ec9ec547.jpg
0451翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/01/02(火) 16:23:47.14
第5章 征韓論

◆渋谷金王町
征韓論について。
この議論が正式に太政官の廟議にかけられたのは、明治六年六月十二日である。
当時、西郷は健康がすぐれなかった。すこし歩くと息切れがし、心臓に圧迫感があった。
0452日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 16:33:45.09
▽渋谷金王町
昭和41年に廃止された町名である。現在の東京都渋谷区渋谷二丁目および三丁目界隈が、渋谷金王町にあたる。
町名は、同地にある金王八幡に由来する。筆者の小学生のころは、初詣はいつも金王八幡宮でしていた。
西郷従道の屋敷は、渋谷金王町にあった。
http://livedoor.blogimg.jp/dhanow/imgs/1/2/125852ed-s.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/dhanow/imgs/3/9/394a6364-s.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/dhanow/imgs/5/d/5da2532a-s.png
0453日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 16:40:28.15
▽ホフマン〈Theodor Eduard Hoffmann〉
ドイツの軍医。ブレスラウおよびベルリンの軍医学校に学び、明治4年8月、L.ミュラーとともに東校の教師として来日。内科学を担当した。
明治7年、宮内省お雇いとなって明治8年秋に帰国した。著作に『日本の脚気論』がある。
西郷の主治医である。
0454日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 16:46:59.78
◆第一回廟議
西郷は、病いを押して出席した。
この日、六人の参議が出席した。
薩摩出身の西郷隆盛を筆頭に、土佐出身の板垣退助、おなじく後藤象二郎、肥前佐賀出身の大隈重信、おなじく大木喬任、江藤新平である。議長格として公卿出身の太政大臣三条実美が出た。
0455日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 16:54:05.08
廟議が行われたのは、明治6年の森山茂の帰国後のことである〔>>379〕。
この年の4月〜5月には、釜山において官憲の先導による日本使節のボイコットも行なわれた。
以下では、外務官僚森山茂の略歴を追うことによって、征韓論について考えてみる。
0456日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 17:10:03.30
▼森山茂
天保13年(1842年)9月、大和国式下郡八尾村常盤町(現奈良県磯城郡田原本町八尾)に萱野恒次の長男として生まれ、後に森山家を継いだ。
明治維新後に兵庫裁判所に出仕。明治2年7月の外務省創立により外務少録に任じられた。同年12月に日韓事情の調査のため、従来の日韓外交を所管していた対馬藩とともに釜山に出張した〔>>376〕。
0457日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 17:10:31.81
明治3年4月に外務権大録となり、同年10月に外務権少丞の吉岡弘毅に随行して朝鮮国に派遣され修交を求めたが〔>>377〕、朝鮮側の倭学訓導・安東ラに対馬藩吏以外との会見を拒否されたため、明治4年(1871年)11月に一旦帰国した。
この帰国後、大院君の暴言を、日本政府に報告している〔>>378〕。
0458日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 17:10:56.21
翌明治5年1月、廃藩置県により外務大丞となった旧対馬藩主・宗重正名義で、外交権限が対馬藩から外務省に移管された旨の文書を携えて、同年9月、再び朝鮮国と交渉した。
この遣韓使節が宗重正に代わる外務大丞花房義質で、森山茂はその随員であろう。しかし、交渉は不調に終わった〔>>377〕。
そして、明治6年の森山茂の帰国となる〔>>455〕。
0459日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 17:19:58.37
◆留守内閣
この征韓論という一国の運命を決定しようとしている内閣は、厳密には留守内閣であるにすぎない。
おもな閣僚は、外遊している。
その外遊派は、公卿出身の岩倉具視を首領とし、薩の大久保利通、長の木戸孝允が二本の柱になっている。
さらに彼らの後輩ながら彼ら以上に機敏な文明摂取能力をもっている長の伊藤博文が、この外遊団の事実上の事務局長として活躍するのである。
0460日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 17:29:30.35
▽大久保利通
大久保は岩倉使節団と別れて、一足先に帰国していた。
3月19日 岩倉使節団に、三条実美より、大久保利通および木戸孝允の帰国を願う手紙が届く。
3月28日 大久保利通 帰国に向う。
5月26日 大久保利通 帰国 →現在、帰国後17日
8月16日 大久保利通 休暇願を出し旅行に行く。 箱根、富士登山、近江、大和、紀伊、有馬など。
9月21日 大久保利通 有馬より東京に入る。
0461日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 21:14:43.59
▽政治は感情
「留守中は決して大事を決めてくれるな」
「ばかにするな」
0462日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 21:22:03.78
▽大隈重信
天保9年(1838年) - 大正11年
佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保の長男として生まれる。幼名は八太郎。大隈家は、知行300石を食み、石火矢頭人(砲術長)を務める上士の家柄であった。
明治元年(1868年)、小松帯刀の推挙により、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。
http://www.wasedaweekly.jp/upload/872/%E8%8B%A5%E3%81%8D%E6%97%A5%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%9A%88%E9%87%8D%E4%BF%A1.jpg
0463日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 21:27:51.77
キリスト教禁令に関するイギリス公使パークスとの交渉などで手腕を発揮するとともに、明治2年からは会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定などの金融行政にも携わった。次いで、大蔵大輔となり、鉄道・電信の建設、工部省の開設などに尽くした。
明治3年に参議に補され、1872年には、伊藤博文らと協議し、官営の模範製糸場、富岡製糸場の設立を決めた。
明治6年5月、大蔵省事務総裁、10月から参議兼大蔵卿になった。
0464日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 21:30:52.35
「翔ぶが如く」の大隈は、最初から反征韓派=大久保派のスパイとして登場しているが、この部分は創作である。
大隈重信は、はじめは西郷の使節派遣に賛同している。大隈もまた肥前閥なのである。
また、維新早々の時期は、大久保とは距離を置いていた。大隈の下には伊藤博文や井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允とも結んで大久保利通ら薩摩閥を牽制していた。当時、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった大隈の私邸をさして「築地梁山泊」と称した。
0465日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 21:39:44.05
そんな大隈も、明治十四年の政変で下野するころには、大久保を高く評価するようになっていた。
「事のここに至ったのは全く薩長軋轢の関係から来たもので、邦家の前途深憂に堪えない。余は政府と縁を絶ち、野に下って学校を開き、国家有為の人材を養成せんと考えている。大久保さんが今日なお生きて居られたならば、斯かることはなかったであろう」と、両眼に涙を浮かべてはハンカチーフを取り出し、語っては目を拭き、拭いては泣き、思い出多き歎息をした。
0466日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 21:45:55.86
▽佐賀藩出身者
個々にあの血なまぐさい幕末の革命運動を経験しなかったために、その意味での坊ちゃんくささがあった。
大隈は自分の才略に陶酔するところがあり、かつ才略があるかないかで他人の値打ちを見切ってしまうところがあった。
大隈は西郷のことを阿呆だと思っていた。この場合の阿呆とは、知能的な低能のことである。
0467日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 21:51:00.05
▽薩長出身者
薩長の士は、個々に革命の血風のなかをくぐってきて、才略や機鋒の鋭さだけでは仲間も動かせず、世の中も動かないということを知るにいたっている。むしろなまなかな才人や策士は、革命運動の過程で幕吏の目標にされて殺されるか、仲間の疑惑をうけて殺された。
以下には、それらの才人および策士が羅列されている。
0468日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 22:08:33.77
▽清河八郎
文政13年(1830年)- 文久3年(1863年)。
出羽国田川郡清川村(現:山形県東田川郡庄内町)の庄内藩郷士齋藤豪寿の子。
上洛する将軍警護を名目に浪士組編成を幕府に認めさせ、上洛後に浪士組を尊皇攘夷の急先鋒へと転回させた。幕府に危険視され、文久3年(1863年)4月、江戸麻布で暗殺された。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e1/Kiyokawahatiro.jpg/250px-Kiyokawahatiro.jpg
0469日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 22:16:55.58
▽本間精一郎
天保5年(1834年)- 文久2年(1862年)
越後国三島郡寺泊(現新潟県長岡市)出身の勤皇の志士。
本間は故郷越後から江戸に出て清河八郎らと親交を結び、清河より一足早く京に上って、薩摩や土佐に倒幕を説いた。しかし、利発で勝気な気性の彼は論争に強く自己の実績を過大に喧伝していたため、彼の存在を疎ましく思う同志が殺害した。実行者は田中新兵衛および岡田以蔵といわれる。
※女性ふたりの間にある首が本間精一郎の首
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/syashin3/honmakubi.jpg
0470日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 22:25:20.90
▽長井雅楽
文政2年(1819年)- 文久3年(1863年)
幕末の長州藩家老。名は時庸。長州藩の名門に生れ、早くから知弁をもって聞えた。文久元年(1861年)に公武一和に基づいた「航海遠略策」を藩主に建白し、これが藩論とされた。
長井は、安政の大獄で吉田松陰が捕縛され、江戸に護送されても強硬な対抗策を取らなかった。このため、後に松陰の弟子である久坂玄瑞や前原一誠らに暗殺を計画される。
0471日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 22:29:01.07
文久2年(1862年)、幕府で公武合体を進めていた安藤信正や久世広周らが坂下門外の変で失脚すると、藩内で攘夷派が勢力を盛り返し、長井の排斥運動が激しくなった。
同年3月、再度入京したが、長井の説は朝廷を誹謗するものとして聞き入れられず、毛利敬親により帰国謹慎を命じられた。同年6月に免職され、帰国。翌文久3年(1863年)、雅楽は長州藩の責任を全て取る形で切腹を命じられた。享年45。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/a1/de704c3f311f1ebb733f657deb541ec5.jpg
0473日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 22:39:48.85
▽赤禰武人
天保9年(1838年)- 慶応2年(1866年)
周防国玖珂郡柱島(現山口県岩国市柱島)の島医師・松崎三宅の次男に生まれた。
元治元年 (1864)、高杉晋作の下関挙兵に反対して藩庁政府との和平論を唱えたが容れられず、長州藩を脱した。上京しようとして幕吏に捕らえられたが、長州藩討幕派の説得のために釈放され帰郷する。
しかし藩からは幕府内応の嫌疑を受けて逮捕され、鰐石河原 (山口市) で斬首された。享年29。
https://stat.ameba.jp/user_images/20160407/00/st0323st0323/10/4c/j/o0800090113613508377.jpg
0474日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 22:41:31.62
もうひとり坂本龍馬の名を挙げるべきであるが、「竜馬がゆく」の売上げに悪影響を及ぼしてはならないので、割愛している。
0475日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 23:05:49.60
西郷は、政治は才略よりも人格であるという考え方をとった。そのことが、大隈には愚物にみえた。
たしかに西郷には、大隈の指摘する愚物の面もあった。
「西郷はやたらに新政府に人を推薦してきた。そのほとんどがロクでもない連中だった」
0476日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 23:14:34.76
▽紀州藩出身の詐欺漢になりかねまじい型の男
>>475のロクでもない連中の例として匿名で語られている。津田出〈いずる〉である。
天保3年(1832年)- 明治38年。和歌山藩士・官僚。通称は又太郎。号は芝山。
維新後、和歌山藩大参事となり、徴兵制・郡県制をとり入れるなど藩政改革に尽力した。廃藩置県ののち大蔵少輔、陸軍大輔、元老院議官、貴族院議員などを歴任した。ほら吹きのハッタリ屋であり、国政という舞台ではまったくの無能者で厄介者の烙印を押され、早々に左遷させられた。
http://osaka-siseki.cocolog-nifty.com/blog/images/2010/08/31/s_tudaizuru.jpg
0477日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 23:16:47.13
ひょっとして維新後の西郷は、オレオレ詐欺の被害者と共通する性格?
0478日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 23:32:41.19
>>464
次の節で、大隈がはじめ大久保に嫌われていたことが述べられている。
そして、大隈の方から大久保に接近したと書かれているな。
0479日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 23:36:36.55
大久保は、大隈が権力者である自分に取り入ろうとしている所がよいと述べている。
大久保は、福地源一郎に対して、同じようなことを述べている。
0480日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 23:37:46.62
大久保は『おのれの志を世に実現しようとすれば、権力者にとり入らねばならぬ。志さえ高ければ、それを恥とすべきではない。自分は往昔、藩父の久光公に取り入り、自在に志をのべた。君も、もし世に展べるほどの志があるなら、まずおれに取り入れ』と福地源一郎に語っています。
大久保は島津久光に取り入るために、久光の好きだった囲碁まで覚えてお近づきになっています。
0481日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 23:44:06.38
▽福地源一郎
天保12年(1841年)- 明治39年
長崎新石灰(しっくい)町で儒医・福地苟庵の子に生まれた。安政4年(1857年)に海軍伝習生の矢田堀景蔵に従って江戸に出た。万延元年(1860年)、御家人に取り立てられる。
文久元年(1861年)には柴田日向守の通訳として文久遣欧使節に参加し、ロシア帝国との国境線確定交渉に関与している。
慶応元年(1865年)には再び幕府の使節としてヨーロッパに赴き、フランス語を学び、西洋世界を視察した。そしてロンドンやパリで刊行されている新聞を見て深い関心を寄せ、また西洋の演劇や文学にも興味を持ち始める。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/syashin/fukuti.jpg
0482日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 23:56:43.75
▽大隈財政
大隈の大蔵卿在任時期は明治6年10月25日から明治13年2月28日である。
しかし、実際には明治2年7月8日の大蔵省創立とともに大蔵大輔に就任して以来、事実上の大蔵省の最高責任者であり、明治14年10月11日の御前会議による参議免官(明治十四年の政変)まで大蔵省及び日本財政の責任者であった。
0483日本@名無史さん
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2018/01/03(水) 00:00:54.48
もともと外国官(後の外務省)にいた大隈が財政を扱うようになったのは、旧江戸幕府・明治新政府・諸藩による大量の悪金(贋金)発行の事実が発覚し、諸外国より抗議が殺到したことにより、明治政府の貨幣改革に外交交渉が付随することになったからある(高輪談判)。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/03(水) 00:02:15.39
大隈は、当初は参議木戸孝允の支援を受け、木戸と同じ長州藩出身の伊藤博文・井上馨や旧幕臣の渋沢栄一らを登用して、新貨条例制定、予算制度導入、造幣局・印刷局の建設、廃藩置県・地租改正の実施などに尽力する〔>>464〕。
0485日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/03(水) 00:05:01.49
こうした急進的な木戸・大隈路線に大久保利通は警戒を強め、得能良介・松方正義ら薩摩藩出身者を大蔵省に入れて大隈を牽制しようとしたが、後には木戸・大隈路線に譲歩した。
明治3年に大隈は参議を兼ね、明治6年には、大久保が兼ねていた大蔵卿を譲られることになったのである〔>>463 / >>465〕。
0486日本@名無史さん
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2018/01/03(水) 00:10:53.51
>>464
明治6年5月26日に帰国した大久保は〔>>460〕、即刻、大隈を大蔵省事務総裁にした〔>>463〕。
であるから、6月12日の征韓論に関する第一回廟議で、大隈が大久保のスパイであったというのは間違いではないと思う。
しかし、岩倉使節団が不在中の留守内閣について、不在期間中ずっと大久保のスパイをしていたというのは誤りだと思う。
0487日本@名無史さん
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2018/01/03(水) 14:35:28.05
>>486
そうだろうね。昨日の『田原坂』では、大隈が廟議で大久保に牙を剥いて議論をふっかけていたが、あれは違う。
江藤以上に大隈が大久保に敵対している感じだった。
帰国後すぐに大久保が大隈に大蔵省を任せるという褒美が大きかった。この時点で、大久保は大隈を取り込んだ。
0488日本@名無史さん
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2018/01/03(水) 14:40:02.54
>>464
したがって、大隈は反征韓派なんだが、第一回廟議では、板垣と西郷に圧倒されて遣韓大使の件に賛同してしまったということだな。
厳密にいうと典型的な征韓論は板垣で、西郷のは征韓論と反征韓論の折衷案だから、大隈も西郷案に反対する根拠を失った。
0489日本@名無史さん
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2018/01/03(水) 14:45:13.57
征韓論派……板垣、江藤
折衷案……西郷 ←後藤象二郎が雷同 ←大隈はしぶしぶ賛同
どっちでもいい……大木喬任
0491日本@名無史さん
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2018/01/03(水) 15:08:02.94
▽後藤象二郎
明治4年に工部大輔になっているが、役立たずなので在任1年未満。
現在は参議のみ。
正四位なので、明治4年12月に正三位になった板垣より身分は下。
0492日本@名無史さん
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2018/01/03(水) 15:22:53.79
▽大木喬任
1832年(天保3年)- 1899年(明治32年)
肥前国佐賀藩の藩士大木知喬(45石)の長男として生まれる。明治元年に新政府が樹立されると、大隈・副島・江藤らとともに出仕し、徴士、参与、軍務官判事、東京府知事などを務めた。江戸を東京とすることに尽力した(東京奠都)。明治4年に民部卿、文部卿として学制を制定。明治5年に教部卿を兼任。
0493日本@名無史さん
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2018/01/03(水) 15:23:04.19
板垣・後藤に比べると官僚実務に明るかった。明治6年の政変で、副島は辞任しているが、大木は辞任していないので注意。ここ試験に出ます。
教育行政に携わるだけあって女好き。芸妓との間に岡崎えんという娘をもうけている。えんは銀座の小料理屋の女将となった。
※踏みつぶされた蛙のような顔をした大木喬任
http://pds.exblog.jp/pds/1/201509/15/92/a0287992_954780.jpg
0494日本@名無史さん
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2018/01/03(水) 15:41:49.31
◆大久保邸
大隈は、第一回廟議があった夜、ひそかに大久保をその屋敷に訪ね、面会した。
大久保は先月に単身帰国したものの形式上はまだ外遊中ということになっている。参議としての職を執らず、かれが担当している大蔵省も大隈に任せたきりで、実質は静養ということでいっさい人にも会わない。
政治は勢力である。大久保はそのことをよく知っていた。西郷や江藤や板垣らが一大勢力をなして征韓論を唱えているが、これを潰すためには勢力が必要であった。一人では何もできないと思い、岩倉以下の外遊組の要人が帰ってくるのを待っていたのである。
0497日本@名無史さん
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2018/01/03(水) 22:54:36.37
大久保が西郷に「刺しちがえて死のう」と言ったのは、文久2年(1862年)の島津久光上洛のとき。
西郷は過激派志士たちの京都焼き討ちおよび挙兵の企てを止めようと試みたが、久光に誤解されて、寺田屋事件の後、徳之島への遠島処分を受けた〔>>331〕。
その際、奄美大島から西郷が帰って2ヵ月も経ないうちに再び遠島になったことに責任を感じた大久保は、西郷に「刺しちがえて死のう」と迫った。
0498日本@名無史さん
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2018/01/03(水) 23:04:55.72
西郷は参議・陸軍大将・近衛都督という日本一の顕職をもちながら、自分が歴史から落魄した男だというふしぎな自己規定をしていた。
事実そうであった。西郷は倒幕の英雄ではあったが、国家を建設するというこの俗で汚れた手を必要とする仕事にはまるで適かなかった。
0499日本@名無史さん
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2018/01/03(水) 23:07:56.54
西郷が維新後しきりに百姓をやるといっていたのは本音であった。大久保はそのことをたれよりもよく知っていた。
「西郷さあは、岡林信康ごたる」
0500日本@名無史さん
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2018/01/03(水) 23:34:07.57
▽東郷平八郎
弘化4年(1848年)- 昭和9年
鹿児島城下の加冶屋町二本松馬場(下加治屋町方限)に生まれる。西郷・大久保と同じ方限である。
鉄道技師になるために留学を希望したが、大久保に留保されていた。
これを西郷は、即座に留学させた。しかし、鉄道を学ぶためではなく、海軍を学ぶための留学であった。
https://hobbytimes.jp/images/20170126e01.jpg
0501日本@名無史さん
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2018/01/03(水) 23:40:44.98
▽江藤新平〔>>172
江藤の薩摩切り崩しの方法は、まず西郷をおだてることであった。それによって大久保と喧嘩をさせ、大久保を斃し、しかる後に西郷を斃してから、長州を押し崩して第二維新を成就する。
0502日本@名無史さん
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2018/01/03(水) 23:47:50.77
江藤は、長州人の怜悧さを嫌った。反対に、薩人の公正さ、すなわち旧幕臣であっても人材とみれば抜擢した公正さを褒めていた。
しかし、それは同時に薩人は利用しやすいという意味になり、長州閥を斃すために薩閥は利用できると考えていた。
0503日本@名無史さん
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2018/01/03(水) 23:49:24.26
ところが、江藤が考えているほど薩人は甘くはなかった。
明治7年の佐賀ノ乱のとき西郷は江藤に手を貸さず、江藤を冷然と見捨てた。
0504日本@名無史さん
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2018/01/04(木) 00:05:26.79
◆島津久光
征韓論についての第一回廟議で、大隈は西郷に一喝され、小僧のように扱われたことを、生涯うらみに思った。
「実はあのとき西郷は窮しきっていたのだ」
と、大隈の西郷論は痛烈であった。西郷がなぜ征韓論のような暴論を唱えたかについてである。
「あのころの西郷の立場はどうも悲惨だったな。かれはその主君である島津久光から大悪人と罵られていて、まったく立つ瀬をうしなっていた」
と、大隈はいう。
0505日本@名無史さん
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2018/01/04(木) 00:21:57.22
西郷にジゴロと罵られた久光は、殿様なのに何故おんなのヒモになっていたのですか?
0508日本@名無史さん
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2018/01/04(木) 11:45:40.49
▽島津斉彬〔>>339
安政4年(1857年)の阿部正弘の死後、斉彬は、安政5年(1858年)に大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。第13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子がなかったため、次期将軍に斉昭の子の慶喜を推し、篤姫を近衛家の養女とした上で家定正室として嫁がせるなどしている。
0509日本@名無史さん
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2018/01/04(木) 11:46:05.86
一方、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を推した。井伊は大老の地位を利用して強権を発動し、反対派を弾圧する安政の大獄を開始する。その結果、慶福が第14代将軍・徳川家茂となり、斉彬らは将軍継嗣問題で敗れた。
0511日本@名無史さん
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2018/01/04(木) 12:00:48.92
島津斉彬 (第28代島津家当主/1809-1858) … 渡辺謙
https://pbs.twimg.com/media/DSgQtMaXUAA31zn.jpg
喜久 (斉彬側室) … 戸田菜穂
https://contents.oricon.co.jp/upimg/news/20150421/2051857_201504210222763001429603887c.jpg
篤姫 (徳川家定継室/1836-1883) … 北川景子
https://pablo.click/tv/wp-content/uploads/sites/2/2017/04/6eb0a4cc663a3209cb5052d4a0792c37.jpg
幾島 (篤姫女中頭/1808-1870) … 南野陽子
https://storage.mantan-web.jp/images/2017/10/18/20171018dog00m200030000c/001_size6.jpg
0512日本@名無史さん
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2018/01/04(木) 12:07:22.13
阿部正弘 (老中/1819-1857) … 藤木直人
https://pbs.twimg.com/media/DSay2kkV4AARygx.jpg
徳川斉昭 (前水戸藩主・慶喜父/1800-1860) … 伊武雅刀
http://pds.exblog.jp/pds/1/201010/02/67/f0165567_6131557.jpg
徳川家定 (第13代将軍/1824-1858) … 又吉直樹
https://storage.mantan-web.jp/images/2017/10/03/20171003dog00m200003000c/001_size6.jpg
井伊直弼 (大老・彦根藩主/1815-1860) … 佐野史郎
http://archives.bs-asahi.co.jp/drama_ooedo2/images/cast_003.jpg
0513日本@名無史さん
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2018/01/04(木) 12:14:24.34
▽お由羅騒動
別名は高崎崩れ。
祖父・島津重豪の影響が強い斉彬を嫌っていた父・斉興や、家老・調所広郷などの重臣達が、久光を後継者にと望んでいた。
久光擁立派は、重豪同様の「蘭癖大名」と見られていた斉彬が、この頃ようやく黒字化した薩摩藩の財政を再び悪化させるのではと恐れていた。
0514日本@名無史さん
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2018/01/04(木) 12:16:05.91
それに対し、斉彬の家督相続を希望していた勢力もある。斉興へ反発を感じる若手下級武士や、斉彬を高く評価する阿部正弘である。
琉球を実効支配し外洋にも面していた薩摩藩は、この当時多発していた外国船の漂着・襲来事件に巻き込まれることが多々あった。このため、海外事情に明るい斉彬の藩主襲封が望まれたのである。
0515日本@名無史さん
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2018/01/04(木) 12:20:37.84
島津斉興は、嫡子である斉彬に対して家督を譲らなかった。これは斉彬が将軍・徳川家斉の弟で御三卿の一橋家当主・一橋斉敦の娘・英姫を正室としていたため廃嫡が不可能とわかり、どうしても斉彬に跡を継がせたくないため、藩主に居続けたものと思われる。
※島津斉興 (第27代島津家当主/1791-1859) … 鹿賀丈史 https://i.imgur.com/jjfU1Pi.jpg
0516日本@名無史さん
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2018/01/04(木) 12:23:30.69
その結果、斉彬は薩摩藩世子という立場のまま40歳となった。この頃には嫡子が元服すれば早々に藩主位を譲って隠居するのが習慣であり、この事態は異常であった。国元の若手藩士を中心として、斉興と調所に対する不満が高まっていた。
※調所広郷 (薩摩藩家老/1776-1849) … 竜雷太 http://news-topics24.com/wp-content/uploads/2017/11/01-zusho_hirosato.jpg
0517日本@名無史さん
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2018/01/04(木) 12:26:29.95
斉彬と若手藩士は「斉興隠居・調所失脚」で結束し、嘉永元年(1848年)、ついに琉球における密貿易を老中・阿部正弘に密告するという、一歩間違えば改易になりかねない手段に打って出た。
調所は阿部から直接事情聴取を受けた直後の嘉永元年12月19日(1849年)、薩摩藩江戸芝藩邸で急死する。これは密貿易関与により斉興が隠居に追い込まれないよう、一人で罪をかぶり服毒自殺したものとされる。
0518日本@名無史さん
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2018/01/04(木) 12:32:55.56
お由羅の方は久光擁立派の調所に同情していたらしく、調所の遺児を密かに側用人として召抱えるなどして支援していた。
一方、斉彬は多数の子女を設けていたものの、その多くが幼少の間に死亡しており、生き残っていたのは女子3人だけであった。斉彬派の家臣はこれを「お由羅の方が斉彬とその子女を呪ったものである」と考え、お由羅の方及び久光を擁立する家臣を排除しようと計った。
※由羅 (斉興側室・久光生母/1795-1866) … 小柳ルミ子 https://taigaiine.com/wp-content/uploads/2017/12/3351775.jpg
0519日本@名無史さん
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2018/01/04(木) 12:38:34.47
嘉永2年(1849年)に斉彬の四男・篤之助が2歳で夭逝すると、斉彬・久光両派の対立は正に一触即発の状態となり、血気盛んな若手の多い斉彬派による久光派重臣襲撃の噂が絶えなかった。
その機先を制するかのように、同年12月3日(1850年)、斉彬派の重鎮である近藤隆左衛門、山田清安、高崎五郎右衛門が、久光とお由羅の暗殺を謀議したとの咎で捕縛され、間もなく切腹を言い渡された。
0520日本@名無史さん
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2018/01/04(木) 12:41:57.84
同じ罪状で赤山靭負ら3名が切腹を命ぜられ、引き続き斉彬派約50名に蟄居・遠島などの処分が下された。その際に、これを恥じて自殺したものも多い。また、騒動の前に病没していた二階堂主計は士籍を剥奪されるなど、斉彬派へ徹底した弾圧がおこなわれた。
この禍は江戸屋敷にまで及び、嘉永3年4月26日(1850年)、島津壱岐は更迭され隠居謹慎を命ぜられ、下命の2日後に切腹した。ここに至って残るは斉彬本人のみとなり、襲封は絶望的であるかに見えた。
0522日本@名無史さん
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2018/01/04(木) 12:49:57.83
※桂久武 (赤山靱負の弟/1830-1877) … 井戸田潤
斉彬の死の直後の文久元年(1861年)には奄美大島守衛方・銅鉱山方に左遷される。このころに流刑中であった西郷隆盛と親交を結ぶ。
西南戦争従軍後は、薩軍の輜重の責任者をつとめた。明治10年9月24日、城山において流れ弾に当たり戦死した。
https://pbs.twimg.com/media/DLPrkMCVAAAyIW-.jpg
0523日本@名無史さん
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2018/01/04(木) 12:52:28.58
西郷吉之助は、父・吉兵衛から、吉兵衛が御用人をしており介錯を務めた赤山靭負の切腹の様子を聞き、血衣を見せられ、斉彬の襲封を強く願う様になる〔>>248〕。
また、大久保利通にとってはさらに影響が大きく、琉球館掛を勤めていた父・利世は罷免の上、鬼界島に遠島になり、自らも記録所書役助を免職され謹慎となるなど非常に困窮した。これを西郷が援けたという。
0524日本@名無史さん
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2018/01/04(木) 13:16:52.55
斉興の処分を逃れて脱藩に成功した一部の斉彬派藩士は、福岡藩に逃げ込んだ。藩主・黒田長溥は斉彬の年下の大叔父であり、実弟の八戸藩主・南部信順と計って老中・阿部正弘に事態の収拾を訴えた。
阿部正弘は、将軍・徳川家慶に斉興へ隠居を命ずるよう要請する。家慶は斉興に茶器を下し、暗に隠居を促したのである。将軍の命令とあっては斉興も拒絶できず、嘉永4年2月2日(1851年)、遂に斉興は42年間勤めた藩主の座を明け渡し、家督を斉彬に譲った。
0525日本@名無史さん
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2018/01/04(木) 13:20:04.67
騒動の首謀者とされるお由羅の方には、その後特に大きな処分はなく、慶応2年(1866年)に鹿児島で死去した。
なお、海音寺潮五郎によると、この問題は斉彬の襲封後も尾を引き、斉彬の急死は「斉彬の蘭癖が藩を潰すという懸念が現実になる」と見た斉興による毒殺であり、久光が毒殺に関与していると西郷が考えたことが、久光と西郷の確執の原因であるという〔>>330〕。
※島津久光 (斉彬異母弟/1817-1887)…青木崇高
http://webbizinfo.xsrv.jp/segodon/wp-content/uploads/2017/10/munetaka-aoki.jpg
0526日本@名無史さん
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2018/01/04(木) 13:24:52.74
「翔ぶが如く」のこの箇所では、お由羅騒動が詳しく書かれているわけではないが、もうすぐ「西郷どん」の放送開始なので、少し詳しく調べてみた。配役から考えて、お由羅騒動は「西郷どん」で詳しくやると思う。
0527日本@名無史さん
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2018/01/04(木) 13:34:28.29
▽廃藩置県
明治4年7月4日、兵部少輔山縣有朋の下に居合わせた同藩出身の鳥尾小弥太と野村靖が、会話のうちに薩摩藩出身の実力者たちが廃藩置県に慎重な姿勢を見せていた状況に対する危機感に駆られ、山縣に対して廃藩置県の即時断行を提議した。
翌日に2人は、大蔵省を切り回す井上馨を味方に引き入れ、7月6日に、井上は木戸を、山縣は西郷隆盛を説得した。
0528日本@名無史さん
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2018/01/04(木) 13:38:23.65
廃藩置県案は薩長両藩の間で密かに進められ、7月9日、西郷隆盛、大久保利通、西郷従道、大山厳、木戸孝允、井上馨、山縣有朋の7名が、木戸邸で案を作成した。予想される抵抗に対しては、薩長土三藩出身の兵からなる強大な御親兵をもって鎮圧することが計画された〔>>289-290〕。
明治4年7月14日(1871年)14時、明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。
0529日本@名無史さん
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2018/01/04(木) 13:42:30.52
藩は県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京への移住が命じられた。旧藩主家の収入には旧藩の収入の一割が当てられ、旧藩士への家禄支給の義務および藩の債務から解放された。
当初は藩をそのまま県に置き換えたため、現在の都道府県よりも細かく分かれており、3府302県あった。そこで明治4年10〜11月には3府72県に統合された。http://co-smart.net/wp-content/uploads/8dbba44fcf0386807785c7eb09edda93.png
0530日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/04(木) 14:08:33.61
明治3年12月18日、当時鹿児島にいた久光と西郷を中央政界に呼び戻すべく、勅使岩倉具視と大久保利通が鹿児島を訪れた。この段階の明治政府の懸案として、「廃藩置県」という一大改革も含まれていた。
久光は病気であったため上京することが出来なかったが、代わりに西郷を政府へ派遣することを決めた。西郷と大久保が鹿児島を旅立つ前日、久光は二人に対して、「わしは廃藩には不同意じゃ。そのところをよく含んで、これから相勤めるように……」と語ったことが伝わっている。
0531日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/04(木) 14:08:48.15
▽明治天皇の西国巡幸
久光にとっては突然の廃藩の命令はまったく寝耳に水のことであった。保守的な久光は、藩を潰そうなどという料簡などさらさらなかった。
明治5年6月22日から7月2日にかけて、明治天皇が西国巡幸の一環として鹿児島に滞在した。島津久光は、6月28日に政府の改革方針に反する守旧的内容を含んだ14カ条の意見書を奉呈する。
0532日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/04(木) 14:11:59.58
その際、西郷が久光のもとに一言の挨拶にも来なかったという理由から、久光は太政大臣の三条実美宛に西郷を非難する文章を送りつけた。これに驚いた西郷は、急遽鹿児島に戻った。鹿児島で待っていた久光は、西郷に対して、十四カ条からなる罪状を突き付けた。
0533日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/04(木) 15:26:37.07
久光は直前に釘を刺しておいたのに、約束を破られれば、そりゃ怒る。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/04(木) 15:27:32.11
その後、大久保は岩倉使節団に混じって海外へ逃げる。そりゃ狡い。
0536日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/04(木) 15:30:44.85
明治5年に西郷が天皇に供奉して鹿児島へ行ったときも、大久保は外遊中だ。ズルい。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/04(木) 15:38:06.30
西郷は一方では自分の作った明治政府を愛さざるを得ない立場にあり、一方では没落士族への際限ない同情に身をもだえさせなければならない。
空前絶後の大矛盾であった。
0539日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/04(木) 15:47:40.52
◆西郷隆盛
要するに大隈のみるところでは、西郷は個人的窮境のなかにあり、折から征韓論という対外論が発生したとき、
「自分はこれで死のう」
と、死所をそこに見出したのだという。
「西郷は英雄でも豪傑でもない」
と、大隈は、西郷とともに数年太政官ですごしてそれがわかった、という。
しかし、大隈の感覚ではとうてい捉えられないところが西郷にあった。
0540日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/04(木) 17:29:55.00
▽庄内藩
幕臣の沼間守一〔>>42〕が、秋田庄内戦争において庄内藩とともに戦っているので、そのときに説明している〔>>63-65〕。
ここでは、西郷隆盛による戦後処理に限定して説明する。
0541日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/04(木) 17:33:29.27
▽新徴組
文久3年(1863年)1月に結成された江戸幕府による警備組織である。
清河が暗殺されると清河の同志達も次々と捕縛されたため、浪士組は組織目的を失う。幕府は浪士組を新徴組として再組織した。屯所は江戸の本所(東京都墨田区)に設置し、取締責任者は高橋泥舟と山岡鉄太郎が就いた。
0542日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/04(木) 17:36:55.71
文久3年(1863年)10月、幕府より江戸市中警護・海防警備の命令を受け規律を取り戻すと、元治元年(1864年)には庄内藩酒井家の御預かりとなる。
慶応4年(1868年)、放火・掠奪・暴行などを繰り返して旧幕府側を挑発する薩摩藩に対し、江戸薩摩藩邸の焼討事件を引き起こし戊辰戦争の発端を作った。この焼き討ちにより、品川などで火災が一日中続く。
0543日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/04(木) 17:40:25.07
▼相楽総三
天保10年(1839年)、下総国相馬郡(現茨城県取手市)の郷士で大富豪の小島兵馬の四男として江戸・赤坂に生まれる。本名は小島四郎左衛門将満。西郷隆盛、大久保利通らと交流を持ち、慶応3年(1867年)、西郷の命を受けて、江戸近辺の倒幕運動に加わった。
0544日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/04(木) 17:41:29.29
運動とはいえ総三らがやったことは、掠奪・暴行などの蛮行の繰り返しであった。
これは大政奉還によって徳川家を武力討伐するための大義名分を失った薩長が、江戸の幕臣達を挑発し、戦端を開く口実とするためであった。西郷の策は成功し、屯所を襲撃された庄内藩が、薩摩藩邸を焼き討ちする(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。これが、鳥羽・伏見の戦いのきっかけとなった。
0545日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/04(木) 17:42:46.54
慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争が勃発すると、赤報隊を組織して東山道軍先鋒として活躍する。新政府軍に年貢半減令の建白書を提出して認められたため、同令を掲げて京都から江戸を目指して進軍する。
しかし、新政府軍の方針変更によって赤報隊が偽官軍とされ、相楽は下諏訪宿で捕縛される。同年3月、下諏訪で処刑。享年30。
0546日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/04(木) 17:51:47.54
▽明治元年9月27日
西郷隆盛は、庄内藩の降伏とともに鶴岡城に入る〔>>275〕。
奥羽鎮撫参謀は、大山格之助〔綱良 / >>390-393〕と黒田了介〔清隆 / >>275〕。
0547日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/04(木) 17:57:43.47
▽酒井忠篤〈ただずみ〉
嘉永6年(1853年)2月13日、第9代藩主・酒井忠発(ただあき)の五男として生まれる。文久2年(1862年)、義兄で第10代藩主の酒井忠寛が死去したため、その養子として跡を継ぐ。
庄内藩は弟の忠宝〈ただみち〉が藩主となり、12万石に削減された上で存続を許された。明治2年、忠篤は罪を許され、明治3年に薩摩に移った。
https://stat.ameba.jp/user_images/20131212/21/hbm31tiger/94/e1/j/t02200357_0227036812778683433.jpg
0548日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/04(木) 18:08:06.18
左衛門尉酒井家の当主の名前は、たいへん読みにくく、かつ覚えにくい。復習しておく。
第10代:酒井忠器〈ただかた〉……第11代忠発〈ただあき〉の父。
第11代:酒井忠発〈ただあき〉
第12代:酒井忠寛〈ただとも〉……第11代忠発〈ただあき〉の弟。
第13代:酒井忠篤〈ただずみ〉……第11代忠発〈ただあき〉の五男。
第14代:酒井忠宝〈ただみち〉……第11代忠発〈ただあき〉の六男。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/04(木) 18:14:36.10
▽高島鞆之助
天保15年(1844年)- 大正5年。陸軍軍人。
明治維新後、侍従番長・教導団長をつとめ、西南戦争に別働第1旅団司令長官として出征した。
その後、熊本鎮台・大阪鎮台各司令長官を歴任。1891年5月、松方正義内閣の陸相となった。
その後、第2次伊藤博文内閣の拓相、第2次松方内閣の拓相兼陸相となり薩閥の巨頭として活躍。93年予備役に入り枢密顧問官となった。
http://www.kagoshima-yokanavi.jp/kanko/spot/images/spot_79_1.jpg
0550日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/04(木) 18:21:53.67
西南戦争のときには庄内藩士団が「戊辰の恩にむくいるため」といって鹿児島にかけつけた。
『田原坂』では、伴兼之(西川弘志)と榊原政治(砂川真吾)が登場していた。
彼らは、西南戦争時に私学校で学んでいた庄内藩からの留学生で、薩軍と行動を共にした。
http://www.officiallyjd.com/wp-content/uploads/2012/08/20120829_niseitarento_14.jpg
0551日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/04(木) 18:29:10.38
西郷には、戊辰戦争で庄内藩を斃し、かつ庄内藩を救った体験がある。
「朝鮮に対してもその流儀で刺激し、開国させて世界性をもたせ、ともに列強の侵略を防ぐ」という計略が、西郷の征韓論であった。
それは、日本の幸福であるとともに、朝鮮の幸福であり、かつ朝鮮の国都で殺される西郷の幸福でもあった。
0552日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/04(木) 18:42:38.03
人間の行動を100%論理で解明することはできないのだが、他人である読者に理解してもらおうと思えば、論理を駆使するほかない。
西郷の心情に関する司馬さんの叙述は、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと複雑だけど、まずまず真相を捉えているような気はします。
0553日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/04(木) 19:03:06.72
西郷人気というのは、典型的な判官贔屓である。
リアル世界で権力者になれず非業の死を遂げた義経・幸村・隆盛を、せめてヴァーチャル世界では英雄にしておいてやろうという日本人の優しさだと思う。判官贔屓という日本人のメンタリティが失われれば、日本人のアイデンティティが失われるような気がする。
0554日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/05(金) 00:28:25.57
▽鬼籌
籌を訓読みすると、はかりごと。
しかし、まあ神算鬼籌の四字熟語以外で使われることはない。
それすらめったに使われなくて検索したら、使用例として『翔ぶが如く』のこの部分がヒットして、わろうてもた。
0555日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/05(金) 00:43:29.06
遣韓大使の件が俎上に上ってから、西郷は健康を気遣うようになった。
ここでホフマン先生が再登場する〔>>453〕。
そんなに有名な先生ではないみたいだね。
0556日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/05(金) 00:46:03.52
ホフマン先生は、西郷さんに下剤ダイエットを施しました。
下剤ダイエットで痩せたという効果を得たという口コミなどが多く見られますが、危険ですので絶対にやめましょう。下剤はあくまでも便秘を解消するための医薬品なのでダイエット目的で使うものではありません。真似しないでください。
0557日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/05(金) 00:50:55.67
大久保利通が明治6年5月26日に帰国してから〔>>460〕、西郷はしばしば大久保宅を訪ね、征韓論の話はしていたらしい。
両者の溝は深くなるばかりであったが。
大久保は留学中の大山巌に手紙を出して、西郷のことをぼやいていたらしい。以下、大山巌の話が挟まれる。
0558日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/05(金) 01:12:34.90
▽大山巌
天保13年(1842年)- 大正5年
鹿児島城下加治屋町柿本寺通(下加治屋町方限)に薩摩藩士・大山綱昌(彦八)の次男として生まれた。
明治2年に渡欧して普仏戦争などを視察。明治3年から6年の間はジュネーヴに留学した。
※大河ドラマ「西郷どん」の大山弥助役は、まだ決まっていない。
弥助は吉之助より14歳の年下。従弟とはいっても、叔父さんくらいに年齢が離れている。
https://kotobank.jp/image/dictionary/nipponica/media/81306024000560.jpg
0559日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/05(金) 01:16:02.12
映画『二百三高地』で、児玉源太郎が親しみをこめて大山元帥を「ガマ坊」の渾名で呼んでいた。
たしかに顔がガマに似ている。
0560日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/05(金) 01:19:05.38
弥助は西郷慎吾よりは、一歳年長だよ。
『田原坂』の寺田屋の変のところでは、慎吾が弥助をリードしている感じだったけど、あれは逆だと思う。
あの年代の一歳の違いは大きいよ。
0561日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/05(金) 01:37:10.40
▽鉄砲
司馬さんは、戦国時代の合戦で火縄銃が最初に使われた合戦は、毛利元就の厳島合戦(1555年)か、島津貴久の岩剣城の戦い(1554年)としているが、岩剣城の戦いでよい。1543年(天文12年)に種子島に鉄砲が伝来してから11年後のことである。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/05(金) 01:42:05.12
▽岩剣城の戦い
天文19年(1550)12月に鹿児島の御内城に入って名実ともに島津氏当主の地位を継承した島津貴久は、すでに平定した薩摩半島に続いて大隅国平定へと目を向けていた。
薩摩・大隅の国境から別府川下流の帖佐や加治木周辺は貴久の父・島津忠良の時代から幾度となく係争が繰り返されており、当時の加治木城は島津氏に属す肝付兼演が守備していた。しかし天文23年(1554)9月、別府川上流を本貫地とする国人領主・蒲生範清がこの加治木城に向けて侵攻し城を包囲した。貴久はこの加治木城救援の前段として、加治木への往来を扼す岩剣城の制圧を目論んだのである。
0563日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/05(金) 01:44:47.88
戦国ドラマの主人公は平和主義者に設定されることが多いが、同時に西洋から伝来した最新兵器にいち早く着目する先見の明のある人物とも設定される。この矛盾にいつ気づいてくれるのだろうか?
0564日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/05(金) 01:50:59.99
▽大山解綱
おりました。大山巌元帥の御先祖に大山解綱なる人物がおりました。司馬さんのおっしゃるとおりです。
「綱次の子織部解綱も亦驍勇無雙の士で、天文二十三年九月晦日、隅州岩劍城の戰に、第十五代太守島津貴久公の旗下に在つて奮戰激鬪し、星原の戰場に於て名譽の戰死を遂げた」
0565日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/05(金) 01:53:12.68
司馬さんは、こうもおっしゃっておられる。
「わが国における銃創による最初の死者ともいえるかもしれない」
0566日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/05(金) 01:55:09.81
司馬さんお得意の余計な一言ですね。わかります( ̄ー ̄)ニヤリ
0567日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/05(金) 02:12:01.23
▽大山綱昌
通称は彦八。大山家に養子入りする前は西郷小兵衛と称していた。養父綱毅は一代小番まで進んだが、綱昌は出世の道を捨てて、生涯を砲術研究にゆだねた。ただし研究していた砲術の流派と砲術師範になったかどうかは不明である。
実兄が吉之助の父吉兵衛である〔>>248〕。
家督は大山彦八成美が継ぐ。幕末小説によく出てくる彦八は、息子の彦八。いうまでもないが弥助の兄。
0568日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/05(金) 02:22:21.90
脱線するが、息子の大山彦八成美と結婚したのが、吉之助の妹の西郷安。いとこ婚である。
天保10年(1839)生まれ。西郷家の三女で、7人きょうだいの5番目(従道のすぐ上)。下加治屋町の大山家は、西郷家の実家から四軒を隔てたすぐ近所であった。
※西郷安 (妹/1839-?) … 佐藤心美(子役)
http://hollywoodlatte.com/img/profile/satococomi/img01.jpg
https://stat.ameba.jp/user_images/20160324/16/rianny/8f/4c/j/o0640096013600789353.jpg
0570日本@名無史さん
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2018/01/05(金) 02:30:24.33
脱線ついでに、安の姉の琴さんも。
その前に西郷七人兄弟を年齢順に並べてみる。
長男隆盛 →長女琴 →次男吉二郎 →次女鷹 →三女安 →三男従道 →四男小兵衛
0571日本@名無史さん
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2018/01/05(金) 02:36:25.19
ちょっと待って。早いよ。>>568には続きがある。

夫の薩摩藩士・大山成美は、薩長同盟締結から2日後の慶応2年1月23日に坂本龍馬が寺田屋で伏見奉行の捕吏に襲われたとき、伏見の薩摩藩邸から川船を出して龍馬を救出した大山彦八のことである。
大山安は、万延元年(1860)頃、辰之助を産む。明治10年(1877)5月7日、西南の役に出征した息子の大山辰之助が、鹿児島の甲突川で戦死(16歳)。
0577日本@名無史さん
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2018/01/05(金) 02:54:24.91
▼西郷琴
天保3年(1832年)- 大正2年。西郷吉兵衛の長女。吉之助の5歳下の妹。
薩摩藩士市来正之丞の妻となる。母の実家の椎原家と並んで、市来家は西郷家にとって親密な縁戚であり、両家への西郷隆盛の書簡が多く残っている。
0581日本@名無史さん
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2018/01/05(金) 03:07:11.16
市来宗介が西郷菊次郎とともにアメリカへ留学したのは、明治5年の2月。
0582日本@名無史さん
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2018/01/05(金) 03:15:11.41
「西郷どん」は次女の鷹も登場させるみたいだね。鷹は、文久2年には死んでしまう。
※西郷鷹 (妹/1837-1862) … 石井心咲 →渡来るひか →原舞歌
http://www.smile-monkey.com/wp-content/uploads/2015/09/ishii_misaki01.jpg
http://www.smile-monkey.com/wp-content/uploads/2015/09/torai_ruhika01.jpg
https://pbs.twimg.com/media/DRsMtvIUEAAdHed.jpg
子役は三人バトンタッチなのか?
0583日本@名無史さん
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2018/01/05(金) 03:17:14.00
鷹は、薩摩藩士三原伝左衛門に嫁いでいる。
長女は産んだようだが、男子は産めなかったようだ。
0584日本@名無史さん
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2018/01/05(金) 03:18:55.45
どこから脱線したか、わからなくなったなw
大山巌の父綱昌の名前が出たところからだな。>>567
0585日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 13:48:29.42
▽ゼームス・ファブルブラント〈James Favre-Brandt〉
1841−1923 スイスの貿易商。
司馬さんはファーブルが名でブラントが姓であると勘違いされているが、ファブルブラントが姓。
文久3年 (1863) 遣日使節団長アンベールらとともに来日。横浜に定住してスイス時計の輸入・販売をおこない、時計製作技術研修生をスイスに派遣した。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~scemo3440/images/james.jpg
0586日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 13:54:29.85
ファブルブラント商会は元治元年(1864)に横浜54番で設立されたが、慶応2年(1866)、有名な豚屋火事で類焼し、其の後175番に移転して関東大震災(大正12年)で被災廃業するまで同地で営業していた。
http://blog.hama1.jp/usr/scemo3440/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88%E5%95%86%E4%BC%9A%E6%A8%AA%E6%B5%9C.jpg
※ファブルブラント商会の年賀状〔明治42年〕http://www.kodokei.com/d1_img/d1_00212s.jpg
0587日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 14:01:05.90
ファブルブラントは、司馬遼太郎「峠」の主要登場人物である。幕末の薩摩藩及び敵対する河井継之助の長岡藩に大量の武器を売っている。
「死の商人」として財を成したが、イメージ・ダウンを避けるため、時計商を表看板にしていた世渡り上手である。
本章では、大山弥助が武器買付に横浜を訪れた話が出ている。大山とファブルブラントの親交は深かった。
0588日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 14:14:25.42
▽黒ラシャ・金モール入りの軍服
「ラシャ」はポルトガル語の raxa。12世紀ころセルビアの首都ラサで産した毛織物であるため、この名称で呼ばれ、南蛮貿易により日本へ渡来した。漢字表記は「羅紗」。
「金モール」は、軍服の片肩から前部にかけて吊るされる飾り紐のことで、正式名称は「飾緒(しょくしょ)」。材質に金銀糸が使用されることからモールとも呼ばれている。
http://www.hanayome.biz/henshin/images/men/men1a.gif
0591日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 14:34:52.99
最近、過去の記憶がカオスになりつつある。
『ギルガメッシュないと』のイジリー岡田と、『TV海賊チャンネル』の「ティッシュタイム」と、『グッドモーニング』のオナッターズという三つの記憶がカオスになっている。
『ギルガメッシュないと』で「ティッシュタイム」と南麻衣子が言うと、エロビデオが流れて、あと少しというところでイジリー岡田のアップが映されていたような記憶になっている。余談である。
0592日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 14:41:40.84
▽弥助砲
先日、九段下に行ったところ、交差点そばの歩道に妙な物が立っているのをみつけました。どうやら大砲の砲身のようです。さて、この大砲の正体は何者かと調べてみると「弥助砲」であるとの説明が一般にされているようです。
弥助砲とは、明治初期に日本で生産された2種の大砲の通称で、薩摩藩の砲兵隊にいた大山弥助(後の元帥大山巌)が開発しました。
https://blog-imgs-34-origin.fc2.com/y/a/m/yamanekobunko/kudan1.png
0593日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 14:44:41.34
弥助砲には、幕末の主力火砲であるフランス製四斤山砲を長砲身化したものと、十二斤臼砲の二種がありますが、そのうちの四斤山砲型であると伝えられているようです。
四斤山砲型は、薩摩藩の集成館及び大阪造兵廠(明治3年以降)で相当数が生産されています。なお、「斤」といっても英式重量ポンドではなく、フランス式なのでkg表記であり、砲弾重量が4kgであることを示します。
http://img01.militaryblog.jp/usr/sat/020GTG.JPG
0594日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 14:55:08.19
▽観戦武官
この制度の起源は明らかではないが、19世紀半ばごろに確立されたものと思われる。観戦武官制度は、第一次大戦後、自動車・航空機などの発達によって戦域が拡大し、1人の士官が戦闘を見ることが不可能になったため自然に消滅した。
日本では、1870年に普仏戦争を大山巌が観戦している。また、1898年の米西戦争では秋山真之海軍大尉・柴五郎陸軍少佐(義和団の乱では北京籠城戦を戦い抜く)が観戦武官として派遣された。
0595日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 15:06:40.78
▼普仏戦争
フランス第二帝政期の1870年7月19日に起こり、1871年5月10日まで続いたフランスとプロイセン王国の間で行われた戦争である。
普仏戦争の原因は、ドイツ統一にまつわる幾つかの事件にその根源があった。プロイセンとオーストリアがドイツの主導権をかけて戦った普墺戦争(1866年)はプロイセンの勝利に終わった。戦争の結果、プロイセンは多くの領土を併合して北ドイツやライン川流域に勢力を伸ばし、またドイツ諸邦を連合する北ドイツ連邦を主導した。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f7/Map-NDB.svg/250px-Map-NDB.svg.png
0596日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 15:08:25.87
当時のフランス皇帝ナポレオン3世は、フランスにとっての戦略的な要地の安全を確保するため、ベルギーやライン川左岸における領地補償を要求したが、プロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクは、にべもなくこれを拒否した。
次にプロイセンはドイツ南部に目を向け、ドイツ南部の諸王国(バイエルン王国、ヴュルテンベルク王国、バーデン大公国、ヘッセン大公国)をプロイセンが主導する統一ドイツ国家の中に取り込むことを画策した。
0597日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 15:10:58.42
戦争の直接的な要因は、1868年に空位となっていたスペインの王位にプロイセン王の親戚ホーエンツォレルン家レオポルトが推挙されたことにある。プロイセンとスペインがホーエンツォレルン家の領国となれば、フランスは東西から挟まれる形になるため、フランスはこれに強く反発した。
フランスの外交的圧力により、ホーエンツォレルン家からの推挙は取り下げられた。
0598日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 15:13:44.82
フランスとの開戦準備を進めていたプロイセン宰相ビスマルクは、この事件をめぐるプロイセン王ヴィルヘルム1世からのフランスとの交渉報告電報を、“フランス大使の非礼な要求に立腹したプロイセン国王がフランス大使を強く追い返した”ように編集して、7月14日に各国報道機関へ向けて発表した。
ヴィルヘルム1世が温泉保養地バート・エムスに滞在中であったことから、これをエムス電報事件という。
0599日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 15:14:55.40
エムス電報事件に刺激されたフランス世論に促され、ナポレオン3世は翌7月15日に動員令を発令した。翌日にはプロイセンも動員令を発した。動員令から4日後の1870年7月19日、エムス電報事件から1週間もたたない速さで、フランスはプロイセンに宣戦布告した。
0600日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 15:34:20.36
この戦争を予測していたプロイセンは、普墺戦争の後にフランスへ向けて鉄道線路を6本引き、情報将校を戦場の舞台になるであろうフランス東北部に派遣し、観光客にまぎれこませて偵察させ、地図を作成するなど万全な準備を整えていた。
参謀総長大モルトケ率いるプロイセン軍は、フランス軍正面と右翼を攻撃した。フランス軍の敗北が続いた。フランス軍は北に圧迫され、戦局はフランスに不利に推移した。
0601日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 15:38:36.57
ナポレオン3世は自ら戦地に赴きセダンの戦いに臨んだが、プロイセン軍は南方から迂回し、セダンから首都パリへの退路を断つ包囲行動に出ていた。
フランス軍はセダンで完全に包囲され、開戦からわずか1ヵ月半後の9月2日、ナポレオン3世は10万の将兵とともに投降し捕虜となった。この一連の出来事にフランス市民は激怒し、2日後の9月4日、ナポレオン3世の廃位が宣言されるとともに、国防のための新政府の設立が決議された。
※セダン http://www.vivonet.co.jp/rekisi/a12_germany/map3.jpg
0602日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 15:44:30.08
プロイセン軍は、各地の要塞や残存部隊を包囲し、各個撃破しつつパリへ進撃した。9月19日、遂にパリが包囲された。
プロイセン軍は、背後にあるメッツ要塞のバゼーヌ元帥指揮の軍団を警戒して、一気に攻め込むことはしなかった。
10月27日、メッツ要塞で大した戦闘もないままバゼーヌ元帥が18万人の将兵とともに降伏し、フランス軍の組織的な反攻は不可能になった。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b7/Franco-prussian_war_faubourg_Metz.jpg/220px-Franco-prussian_war_faubourg_Metz.jpg
0603日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 15:54:58.65
1871年1月5日、パリに砲撃開始。
同年1月18日、パリ砲撃が続く中、プロイセン王はヴェルサイユ宮殿で、新しく樹立されたドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム1世として即位した。
http://bundestor.com/sozai/great/wilhelm1.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c3/Reichsgr%C3%BCndung1871-AW.jpg
https://kotobank.jp/image/dictionary/nipponica/media/81306024014607.jpg
0604日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 16:00:38.88
大山巌にふれているのは、同じ薩摩人でも、東京にいる者とフランスにいる者とがまったく別な体験をし、国家についての危機感に関しても別種なものを抱くにいたっていることを理解したいためである。
けっして世界史の復習をするためではない。
0605日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 16:04:45.48
▽モンパリヤン堡
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0606日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 16:14:43.08
▽明治5年1月9日
司馬さんは、この日、大山弥助がパリに入ったと叙述されている。これは普仏戦争観戦のための外遊のときではない。
大山は普仏戦争終了後、一度日本へ帰国している。明治4年12月3日に、再び渡欧している。
まえの段落からの流れだと、ドイツ軍によるパリ陥落後の話のように読めるが、お間違えのないように。
0607日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 16:20:12.10
明治2年、普佛戰爭に際し、29歳の壯齡で選まれて渡歐した公は始終、普軍に從ひ、その本營にあつて戰況の進行と共に巴里に進み、巴里攻圍の實戰を目撃して、大いに自家の戰術に裨益するところがあつた。
翌3年1月巴里陷落と共に入城し、一旦歸朝し、竪4年12月3日31歳にして再び渡歐、明治5年は巴里に住んで書生生活を營み、フランス語の勉強などをしてゐたのであるか、元來の目的は砲術の研究にあるので5年の秋頃から瑞西のゼネバヘ行つた。
0608日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 16:22:36.12
そして明治7年10月3日、34歳になつて歸朝したのであつた。歸朝した時、大山公は恐らく日本第一のハイカラであり、新知識であつたらしい。少くとも實地に見學修得した歐洲諸強國の戰術軍制は、公の頭腦を異常に發逹させ、公をして其後も永く、日本陸軍部内に於ける進歩派たらしめるに十分であつた。
0609日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 17:53:56.80
▽Grand Hotel de Paris
大山は明治5年1月9日にパリに入り、幕末以来日本の高官の定宿のようになっているグランドホテルに投宿した。
画像で見ると五階建てである。川路・河野・沼間が投宿した宿も五階建てであった。
ルーヴル美術館から200mというのも、司馬さんの叙述と合致する。特定しましたよ〔>>60〕。
http://images.xaccom.com/SBL/IMG/ACC.MAIN/DEPS/HOTEL_DE_PARIS_RESIZE.JPG
http://img1.superbreak.net/content/images/Hotel/grand_hotel_de_paris_gare_du_nord_hotel_image_1_bro_8826.jpg
http://www.unnamedproject.com/CMS/wp-content/uploads/hotel-de-paris-monte-carlo-lobby.jpg
0610日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 18:02:40.92
このホテルから大山弥助は、仏蘭西がなぜ普仏戦争に敗れたかの理由を、山縣有朋宛に書き送っている。
「ヨーロッパのいかなる小国の士官学校にも、プロシアは留学生を最低七、八人は送っています。ヨーロッパ諸国でそういうことをしないのは仏蘭西だけです」〔>>600
0612日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 18:11:22.61
▽スイス
ローマ時代にはケルト人の一派が居住していたが、カエサルのガリア進出の際にこの地もローマの属州とされた。ゲルマン民族の移動によって、ブルグンド族などの支配を受けた後、フランク王国の領土となった。
ケルト人は、中央アジアからヨーロッパに来たインド・ヨーロッパ語族で、ケルト語派を話す人達です。特に、ガリアと呼ばれる地域に住んでいたケルト人をガリア人と呼んでいます。
※ケルト人の美女
http://m.msmstatic.com/8392000000/celtic%3Fwoman.jpg
0613日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:13:06.11
ついで神聖ローマ皇帝がイタリア政策を遂行するための重要な交通路としたために、皇帝の直轄地とされた。特にサン・ゴタール峠はドイツとイタリアを結ぶルートとして重視された。スイスの出身であるハプスブルク家が皇帝位に付くと、本拠をウィーンに移してからもスイスを直轄地として支配し、圧政を加えた。
0614日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/06(土) 18:20:46.42
ハプスブルク家の支配に対して、1291年、ウーリ・シュヴィーツ・ウンターリンデンの三州が協力して「自由と自治」を守るための「永久同盟」を結成した。この誓約はスイス国家の出発点とされ、この三州は「原初三州」といわれている。
1316年には神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世によって承認され、次第に周辺の州も同盟に加わり、1353年には8州による「盟約者団会議」が成立した。
http://www.geocities.jp/aoisora_shiroikumo_96/yuhi/img/s-map.gif
0615日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 18:25:38.97
スイスに対する支配権を回復しようとするハプスブルクの騎士軍を1386年のゼンパハの戦いでスイス民兵が破り、その後の戦闘でもスイス側が勝利し、1389年には実質的独立が達成された。
なおもハプスブルク家の名目的な支配が続いたが、1499年のシュヴァーベン戦争で最終的にハプルブルク帝国からの分離が確定した。
http://www2m.biglobe.ne.jp/ZenTech/world/map/switzerland/image/Map_of_Switzerland_and_neighboring_countries.gif
https://skyticket.jp/guide/wp-content/uploads/iStock-459401895-680x454.jpg
https://d18gmz9e98r8v5.cloudfront.net/ptr/20160917084336_957537014_10115_8.jpg
https://d2ygv0wrq5q6bx.cloudfront.net/uploads/image/files/108104/0b08f705d056de0c5b586181339f701edcda7920.jpg
0617日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 18:31:12.02
スイスの独立運動というと、ウィリアム・テルの話が有名である。ウーリ州のアルトルフという村で圧政をしく神聖ローマ帝国ハプスブルク家の代官に反抗したテルが、自分の子供の頭にのせたリンゴをみごと射ぬき、代官をこらしめる話である。
ただしこの話はまったくの作り話で、しかも15世紀にアイスランドから伝えられたものだった。それがシラーの戯曲やロッシーニのオペラで有名になったにすぎない。
http://www.bar-taian.com/wp-content/uploads/2014/11/14_william_tell1.jpg
http://blog-imgs-93.fc2.com/n/o/r/nornie/20160605161012836.jpg
0618日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 18:33:53.80
16世紀の宗教革命の時期には、チューリヒにツヴィングリが現れ、またジュネーヴではフランス人のカルヴァンが福音主義を説いてその市政を握るなど運動の中心地となった。その後カルヴァン派はフランスでユグノーといわれて増加し、1598年のナントの勅令で信仰を認められた。
※ユグノー戦争 https://stat.ameba.jp/user_images/20140617/09/midnight-boyaki/e2/6c/j/o0722042712975671664.jpg
0619日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 18:40:10.85
ドイツの宗教戦争である三十年戦争でハプスブルク家劣勢のまま講和となったため、スイスの独立が国際的に承認されることとなり、1648年のウェストファリア条約によってスイスの独立が確定した。
その後、フランスでルイ14世がナント勅令の廃止を行ったため(1685年)、ユグノーの多くがスイスに移住した。ユグノーは商工業者層に多く、その中の時計職人がスイスの時計産業を興したという。ファブルブラント商会参照〔>>585〕。
0620日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 18:44:21.03
スイスは、ウェストファリア条約で独立が国際的に承認されたが、各州の対立から統一が進まず、フランス革命時にナポレオンの征服を受けた。
ナポレオン没落後の国際会議であるウィーン会議では、スイスの安定はヨーロッパ各国の安全にとって重要な意味があると認識されたので、1815年のウィーン議定書で、カントンといわれる自治体22州からなる連邦国家の独立があらためて確認され、同時に永世中立国となることが承認された。
0621日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 21:47:58.72
▽下加治屋町
旧薩摩国鹿児島郡鹿児島城下加治屋町。下加治屋町出身の著名人を下の掲げる。
西郷隆盛、大山巌〔>>558〕、西郷従道、井上良馨、黒木為驕A東郷平八郎〔>>500〕、村田新八〔>>338
樺山資紀、大久保利通、吉井友実〔>>247〕、池上四郎、有馬新七、山本権兵衛〔>>210〕、篠原国幹
http://www.kyushu-sanpo.jp/kanko/kagoshima/meijiishin-1/ishinnomichi-0978a.jpg
0622日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 21:49:33.52
西郷の末弟である西郷小兵衛は、東郷平八郎の素読の師匠。
0623日本@名無史さん
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2018/01/06(土) 21:59:34.90
◆三条実美
幕末、宮廷をゆるがしたいわゆる過激公卿はみな下級公卿であったが、三条実美のみは家柄がよく、自然その棟梁株に立てられた。幕末の過激公卿はほぼ長州系であった。長州人が出入りして彼らに長州風の尊王攘夷思想を教えたが、逆に長州に都合のいいような宮廷工作の道具にもなった。
文久三年の政変で京から長州色が一掃されたとき、三条はいわゆる「七卿落ち」で京を去ったが、維新の成立とともに太政大臣として日本国の首相となった。
0624日本@名無史さん
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2018/01/07(日) 11:02:18.22
>>603
「翔ぶが如く」のなかに出てきたかどうかは忘れたましが、司馬作品によく出てくる西郷の台詞に「新しい国は、戦争の焦土の中から生まれる」というのがあるじゃないですか。普仏戦争によって生まれたドイツ帝国がモデルですよね。
0625日本@名無史さん
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2018/01/07(日) 11:08:25.50
▽手弱女〈たおやめ〉
やさしい女。しとやかな女。対義語は、益荒男〈ますらお〉。意味は、雄々しく強い男。立派な男。ますらおのこ。
なお、成人男性の7割は「手弱女」を「てごめ」と読むという調査結果があります。
0626日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/07(日) 11:12:58.99
>>625は表の意味で、「益荒男」「手弱女」には裏の意味もある。武人・もののふ vs 浮かれ女・あそびめ・たわれめ、である。
司馬さんは、三条実美の性格を表現して「手弱女ぶりの芯の強さ」とおっしゃっている。「手弱女」を遊女の意味で用いています。
0627日本@名無史さん
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2018/01/07(日) 11:21:30.63
三条実美は、小骨の間の微量の肉まですくいあげて、魚が骨格標本のようになるまで、魚を上手に食べる。
0628日本@名無史さん
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2018/01/07(日) 11:27:46.00
▽岩倉具視
文政8年(1825年)- 明治16年
公卿・堀河康親の次男として京都に生誕する。朝廷儒学者・伏原宣明は、岩倉を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦したという。
岩倉家は羽林家の家格を有するものの、村上源氏久我家から江戸時代に分家した新家であるため、当主が叙任される位階・官職は高くなかった。また代々伝わる家業も特になかったので、家計は大多数の堂上家同様に裕福ではなかった。
http://kosenkaitori.info/img/kosen/old500a.jpg
0629日本@名無史さん
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2018/01/07(日) 11:37:07.15
文久2年(1862年)7月、徳川慶喜が将軍後見職、松平春嶽が政事総裁職として復帰した。こうした情勢の中、尊王攘夷運動は各地で高まりを見せるようになった。
岩倉は一貫して朝廷権威の高揚に努めていたのだが、結果的には和宮降嫁に賛成し、さらに京都所司代の酒井忠義と親しくしていたことなどから、尊王攘夷派の志士たちから佐幕派とみなされるようになっていった。そして尊攘派は岩倉を排斥しようと朝廷に圧力をかけるようになる。
0630日本@名無史さん
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2018/01/07(日) 11:40:15.03
正親町三条実愛は、岩倉にまず孝明天皇の近習をやめるよう勧告し、岩倉はこれに従って7月24日に近習職を辞した。
しかし岩倉排斥の動きはもはや止まらず、8月16日には三条実美・姉小路公知など13名の公卿が連名で、岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子を、幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として弾劾する文書を、関白・近衛忠煕に提出するにいたる。
いよいよ孝明天皇にまで親幕派と疑われ、8月20日に蟄居処分、さらに辞官と出家を申し出るよう命じられてしまう。岩倉は、朝廷を去った。
0631日本@名無史さん
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2018/01/07(日) 12:57:28.89
▽三条家
藤原氏北家閑院流の嫡流にあたる日本の公家。公家としての家格は清華家。その下は大臣家。
※藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立つ五摂家……近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家
※大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる七清華家……久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川
0632日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 19:58:30.00
▽孝明天皇毒殺説
真偽のほどは筆者には分からない。噂話を載せておく。出典は、アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫:1960初版)。
「噂によれば、天皇陛下は天然痘にかかって死んだという事だが、数年後、その間の消息によく通じているある日本人が私に確言したところによれば、天皇陛下は毒殺されたのだという。
この天皇陛下は、外国人に対していかなる譲歩を行う事にも、断固として反対してきた。そこで、来るべき幕府の崩壊によって、朝廷が否応無しに西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなる事を予見した人々によって、片付けられたというのである。
反動的な天皇がいたのでは、恐らく戦争を引き起こすような面倒な事態以外のなにものも、期待する事は出来なかったであろう。」
0634日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 20:13:21.91
▽松風
松風は、小麦粉を主体とする「和風カステラ」といい表わしてもよい京菓子。ただし、カステラのように卵や油は入っていない。
粉っぽさがなく、グルテン(小麦などの胚乳から生成されるタンパク質の一種)の弾力を生かした歯ごたえがあり、噛んでいるうちになめらかになっていく。
http://www.shichikuan.com/item/img/img_misomatsu.jpg
0635日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 20:24:54.48
▽山縣有朋
天保9年(1838年)- 大正11年
明治2年に渡欧し、各国の軍事制度を視察する。翌明治3年、アメリカ経由で帰国。その後は大村益次郎の実質的な後継者として、西郷隆盛の協力を得ることで軍制改革を断行し、徴兵制を取り入れた。
明治4年 (1871年)、兵制統一の必要性から廃藩置県を提議し、有力者間の根回しを行った〔>>289〕。
http://blog-imgs-46.fc2.com/n/e/z/nezu621/20120129110307350.jpg
0636日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 20:26:35.94
明治5年、陸軍出入りの政商・山城屋和助に陸軍の公金を無担保融資して焦げ付かせる。いわゆる山城屋事件である。山城屋の証拠隠滅工作により山縣に司法の追及は及ばなかったが、責任を取る形で明治6年4月に陸軍大輔を辞任。しかし山縣に代わりうる人材がなく、同年6月に陸軍卿として復職した。物語のこの時期、山縣は陸軍卿に復職したばかりであった。
0638日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 20:43:19.85
▽鎮台
明治4年から明治21年まで置かれた日本陸軍の編成単位である。
明治新政府の重要な課題として、近代の中央集権制度にもとづく兵力軍備の統制と編成があった。最初の画期は明治4年2月に正式に編成された御親兵であり〔>>289〕、薩摩藩・長州藩・土佐藩からなる御親兵の編成費用は、宮内省の定額金を割いて兵部省に下付され成立した〔>>290〕。
0639日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 20:54:09.69
明治4年7月14日の廃藩置県により全国が明治政府の直轄となったが、8月20日、東北鎮台(仙台)、東京鎮台、大阪鎮台、鎮西鎮台(熊本)の4鎮台が設置された。このときの鎮台は、御親兵から転じた者と、士族からの志願者で編成された。残る各藩常備兵は武装解除されることになる。
明治6年に名古屋鎮台と広島鎮台が増設された。同年の徴兵令施行とともに、徴兵された兵士が鎮台に入隊するようになった。北海道には徴兵令が施行されず、かわりに屯田兵が置かれた。
0642日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 21:12:47.80
山県ほど政治好きな男が、征韓論について沈黙の立場をとったのは、彼がかつて汚職事件に連座したときに西郷に救われたという恩義があったからでもある。
0644日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 21:34:06.35
◆朝鮮事情
西郷派から三条に対する入説もひんぱんである。
はたして朝鮮に兵を入れることは可能であるか、という純軍事的課題についても、近衛軍のほうはよく調査していた。朝鮮事情を探るために軍事探偵を朝鮮および満州さらには清国にも派遣していたのである。
0645日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 21:40:48.36
池上四郎(外務省十等出仕)+武市熊吉大尉
……上海 →営口 →南満州
北村長兵衛中佐+別府晋介少佐
……朝鮮
0646日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 21:46:00.18
▽池上四郎
天保13年(1842年)- 明治10年
鹿児島城下の樋之口通町(現鹿児島市加治屋町16番街区)で薩摩藩侍医・池上貞斎の第一子として生まれる。家業を継ぐべく家庭で教育を受けたが医術を好まず、西郷吉之助・伊地知正治の教導を受け、勤王の志を抱いた。
戊辰戦争では、参謀・伊地知正治の下で軍議に参画し、白河城攻防戦、棚倉・二本松攻城戦、会津若松攻城戦では直接戦闘に参加した。
0647日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 21:50:46.37
明治4年、西郷が廃藩置県に備えて御親兵を率いて上京したときは、一隊を率いて市ヶ谷旧尾張藩邸に駐屯した。このとき陸軍少佐に任官したが、病気を理由に7月に辞職した。
明治5年、征韓論に関連して西郷隆盛が朝鮮・満洲の軍事偵察をさせたとき、外務省十等出仕に任じられ、8月16日、武市正幹・彭城中平とともに満洲に派遣された。武市・彭城は満洲偵察後は帰国したが、池上は清国内部の偵察を続け、西郷下野を知った明治6年12月に帰国した。
0648日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 21:55:35.82
>>645
武市熊吉は維新後に陸軍大尉になっているが、明治5年の満州偵察のときは、池上四郎と同じく外務省十等出仕だな。
0649日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 22:04:37.30
▽武市熊吉
天保11年 (1840)、土佐国土佐郡潮江村 (高知市) 生まれ。諱は正幹、熊吉は通称。
戊辰戦争では、甲州勝沼や北関東の戦闘で、大胆な斥候として軍功を挙げた。
0650日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 22:09:59.68
明治5年には、外務省十等出仕の職にて、参議西郷隆盛および板垣退助の密命を帯びて、薩摩出身の池上四郎と共に満州に出張する。
軍事的偵察を遂げて、明治6年4月に帰国復命した。
しかし、同年の征韓論政変で西郷・板垣らが下野したのは、岩倉具視右大臣が西郷・板垣らの政策を遮った陰謀であると憤慨した武市は、明治7年1月14日、赤坂食違坂で岩倉を襲撃したが失敗し、斬刑に処せられた。
0651日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 22:13:16.95
▽北村長兵衛
弘化2年(1845年)、土佐藩士北村五平(馬廻格で200石)の子息として高知城下潮江に生まれる。
戊辰戦争では、板垣退助の配下の迅衝隊士として甲州勝沼の戦いや奥羽各地の戦争に参戦し、8月の会津戦争では大いに戦功をあげた。凱旋後は中老格となって200石を加増される。
0652日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 22:15:03.33
明治4年、御親兵設置にあたっては陸軍少佐、さらに翌明治5年には陸軍中佐に任官した。政界で征韓論争が起こるや、板垣退助や西郷隆盛の命により別府晋介とともに朝鮮を視察したが、明治6年10月、征韓論の破裂をきっかけに近衛を脱隊する。
0653日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 22:16:19.01
明治6年11月には、有志とともに海軍義社を結成したが、まもなく谷干城の仲介によって陸軍に復職する。
明治10年の西南戦争勃発に伴い、郷里高知も立志社や古勤王派の挙兵計画によって民情不穏となったため、同年7月、政府の命を受けて佐々木高行とともに高知鎮撫に当たった。
明治11年3月2日、高知で死去。享年34。
0655日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 22:25:18.34
▽別府晋介
弘化4年(1847年)、鹿児島郡吉野村実方で別府十郎の第二子として生まれる。母方の従兄の桐野利秋とは実の兄弟以上に仲が良かった。
戊辰戦争では、城下四番小隊(隊長・川村純義)の分隊長として、白河城攻防戦、棚倉・二本松戦で戦い、会津若松進撃の際は川村指揮のもと十六橋の戦いで勇戦した。
https://kagoshimayokamon.com/wp-content/uploads/2017/01/ghfdjj-e1485531500815.jpg
0656日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 22:28:18.11
明治2年、鹿児島常備隊がつくられたとき〔>>276〕、大隊中の小隊長となった〔>>280〕。明治4年、西郷隆盛が廃藩置県に備えて兵を率いて上京したとき、小隊を率いて従い、御親兵に編入され、次いで近衛陸軍大尉に任ぜられた。
0657日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 22:31:14.50
明治5年、征韓論に関連して西郷が満洲・朝鮮偵察を命じた際には、北村長兵衛・河村洋与とともに外務大丞・花房義質〔>>458〕の随員という形で釜山に赴き、韓服を着て韓帽を戴き、変装して2ヶ月近く朝鮮内地を偵察した。
帰朝の後、桐野利秋邸を訪れるや、門外より「鶏林八道を蹂躙するは、我二三箇中隊にして足れり」と叫んだと云われる。この後、少佐に昇進した。
0658日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 22:40:47.65
▽朝鮮とキリスト教
司馬さんは、「朝鮮にキリスト教が入ったのは、日本の寛政3年(1791年)、十一代将軍家斉のときである」とされているが、1791年は朝鮮でキリスト教に対する弾圧が始まった年であって、キリスト教が朝鮮に伝わった時期は、17世紀半ばまでさかのぼる。
0659日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 22:48:40.44
ただし、17世紀半ばに伝わったキリスト教は、宗教としてではなく学問として受容されていたようである。
朝鮮で初めて受洗者が現れたのは、初めての弾圧である辛亥教難(1791年)を遡ること数年にすぎない。
1784年2月、朝鮮使節の一員として清に渡っていた李承薫は、北京の北堂でフランス人イエズス会士ジョセフ・ド・グラモンより洗礼を受けた。韓国では彼が最初の朝鮮人受洗者と見なされている。
0660日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 22:56:17.61
▽アレキサンドル・ワン
朝鮮政府の弾圧に憤慨した洗礼名アレキサンドル・ワンという信徒は、1801年にフランス国王に信書を送り、軍隊と軍艦を派遣して韓国を占領してもらいたいと嘆願している。と、司馬さんは述べられている。
しかし、1801年といえばフランスは第一共和政の時代であり(1792年9月21日〜1804年5月18日)、フランスに国王は存在しない。
0661日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 23:02:13.19
1801年の時点では、ナポレオンは総裁政府をブリュメール18日のクーデターで倒し〔>>121〕、統領政府を樹立して自ら第一統領に就任してはいるが(1799年)、まだ皇帝にはなっていない。ナポレオンが皇帝になるのは、1804年〔>>122〕。
ましてナポレオンがフランス国王になったことは一度もない。
0662日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 23:10:12.82
▽己亥迫害
憲宗時代には大規模なカトリック弾圧があり、これを己亥迫害と呼ぶ。
当時朝鮮におけるカトリックは、1831年にカトリック朝鮮大教区が承認されるほど大きく成長していた。
しかし、1839年の己亥迫害で、モーバン(Maubant)神父らカトリック宣教師と劉進吉・丁夏祥らの一般信者たちが、セナムトで一挙に処刑された。
0663日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 23:26:31.86
▽ルイ・フィリップ
1830年の七月革命でブルボン朝の復古王政〔>>130〕が倒れると、ブルジョワジーに擁立されて国王となった(オルレアン朝の七月王政)。
ルイ=フィリップ1世は、国内の安定と繁栄をはかるために経済の奨励を行ってフランスに産業革命をもたらした。
対外政策においては、後のフランス帝国主義政策に先鞭をつけた。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/36/Franz_Xaver_Winterhalter_King_Louis_Philippe.jpg
0664日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 23:29:27.45
極東では、アヘン戦争(1842年)で敗れた清に対して、1844年に黄埔条約を自国に有利な形で締結し、海禁政策を採るインドシナの阮朝大南国に対しては1847年にダナン港を砲撃して圧力をかけた。
本章では、アヘン戦争に便乗し軍艦二隻を朝鮮に派遣して強圧を加えようとしたそうである。
0665日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 23:35:00.23
▽丙寅洋擾
1866年10月、フランス人宣教師の処刑(丙寅教獄)を契機として、李氏朝鮮とフランス帝国(ナポレオン三世の第二帝政)との間で発生した戦い。
李氏朝鮮が近代的な軍隊と最初に遭遇した戦いとなった。しかし戦いは文殊山城の戦いと鼎足山城の戦いに勝利した朝鮮軍側の優位に進み、フランス軍は大きく装備に劣る軍隊によって、数倍の損害を与えられ最終的にフランス軍は敗走した。
0666日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/08(月) 23:37:25.87
同時期に発生したゼネラル=シャーマン号焼き討ち事件によるアメリカ合衆国の介入を阻止した辛未洋擾と合わせて、興宣大院君による孤立主義・排外主義に正当性を与える戦いとなった。
https://kotobank.jp/image/dictionary/daijisen/media/102819.jpg
こうした孤立路線は、10年後に結ばれる日朝修好条規締結まで継続した。
0667日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 23:41:01.95
この時期の朝鮮は、日本でいうと攘夷の嵐が吹き荒れた文久年間と似ているな。
こんな時期に、「おたくも開国すれば?」という話を日本が持ち込めば、「帰れ!」と言われるに決まっている。
朝鮮側の歴史から征韓論を照射してみると、理解が容易になる。
0668日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 23:43:24.87
それと「征韓論」というネーミングが良くない。ネーミングだけで誤解されてしまう。
0669日本@名無史さん
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2018/01/08(月) 23:54:40.12
在野世論はともかくとして、太政官の廟議で征韓論が議論されたことは一度もない。
遣韓論というネーミングに変えるべきである。
0670日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 00:06:25.65
>>667
下関戦争と薩英戦争を文久年間に体験した日本は、西欧列強との関係に関しては、攘夷の先輩であるわけだ。
列強の侵略が朝鮮に及ぶ時期は、日本より少し遅れていた。
同じ体験をした先輩のいうことは、素直に聞かなければいけないよ。
0671日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 17:02:00.15
▽江華島
韓国のソウル特別市の北西の京畿湾に位置する島。漢江の河口に位置する比較的平坦な島で、水田や朝鮮人参畑が広がっている。
南北休戦ライン近くにあり、島の北側は海を隔てて北朝鮮統治地域と至近距離で向き合っている。現に過去には北朝鮮の工作員が度々潜入してきていた。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/7a/d662dae3e6aabb946e6c429ba47a8354.jpg
https://cdn.amanaimages.com/cen3tzG4fTr7Gtw1PoeRer/25206005459.jpg
0673日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 17:19:13.99
▽辛未洋擾〈しんみようじょう〉
ジェネラル・シャーマン号事件〔>>666〕を発端として、1871年(明治4年)に起きた朝鮮国軍によるアメリカ艦隊の測量船への奇襲に端を発した交戦である。
1866年、李氏朝鮮との通商を求めてきたアメリカの商船シャーマン号を、朝鮮が焼き討ちし、乗組員全員を虐殺する。
1871年、清に駐在していたアメリカ公使のフレドリック・ローは、シャーマン号事件への謝罪と通商を求めて、アジア艦隊に朝鮮出兵を命じた。
0674日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 17:21:42.59
1871年6月10日、米軍は江華島の草芝鎮と徳津鎮を襲撃した。激しい砲撃戦を経て、アジア艦隊は海兵隊を上陸させることに成功し、草芝鎮と徳津鎮を制圧し、さらに6月11日には広城鎮を制圧した。この戦闘で朝鮮軍は240名以上の戦死者をだすこととなった。一方、米軍の戦死者は3名にすぎなかった。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ru/0/0f/Ganghwa_6.jpg
0675日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 17:46:09.54
▽オーベルト強奪団
オーベルトはユダヤ系ドイツ人。強奪団のメンバーはヨーロッパ人8人とマニラや上海で傭ったアジア人120人。
彼らは1867年4月に忠清南道の海浜に上陸し、王陵をあばいて金銀財宝を盗もうとした。
この発掘中、そのあたりの韓国人は遠巻きにして騒ぐのみで、強奪団の行動を阻止しなかった。
0676日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 17:53:18.47
両班と呼ばれた貴族は、大地主であり宮廷の高官だったが、伝統的に身体を使うことを嫌い、むしろそれを恥としてきた。
四書五経を読み、儒教の祭りをし、宮廷での行事に毎日を過ごして、少しも働こうとしない。社会の基盤が有史以来殆ど変わっていない。鎖国状態のままで、古代の貴族社会がそのまま継続していたに近い。
0677日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 17:55:10.17
両班は農村の経済発展になんの興味もない。収穫の6割が小作料として入る。地主には豊作も凶作もない。飢えるのは農民。特権階級の両班にとって、こんなに都合のいいことはなかった。
驚くべきことに19世紀末の朝鮮は、人口の半分以上を両班が占めるという異常な事態になっていた。勤労を蔑む者が半分を占め、残りの半分がその収奪を受けるような社会であった。
0678日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 17:56:16.56
日本の奈良朝時代の貴族と農民のことを知りたければ、日韓併合前の朝鮮の様子を調べれば足りる。
0679日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 18:08:18.35
ペリー来航以来、尊王攘夷運動から出発した明治維新の目的は、国民を成立せしめて産業革命の潮流に乗った欧米の侵略に耐えうる国家を作ることであった。日本はこれによって硬質の地帯になった。
他のアジアの諸地域で硬軟の種別分けをあえてしてみると、タイ国がやや硬質であった。このためタイ国はマライから侵入してくる英国の勢力と安南(ベトナム)から圧迫してくるフランスの勢力に対し、この時期きわどいながらも独立を保ちえている。
0680日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 18:12:49.54
▽タイ王国
タイの民族国家成立以前、中国華南に住んでいたタイ民族は、インドシナ半島を南下して現在のタイの位置に定住するようになった。当時、タイには、モン族、クメール人が先住していた。
小タイ族による最初の国家とされるスコータイ王朝(1238年 - 1350年)は、インタラーティット王がモン族やクメール王朝(カンボジア)の支配を退け成立した。
0681日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 18:17:54.44
その後、アユタヤ王朝(1350年 - 1767年)、トンブリー王朝(1767年 - 1782年)を経て、現在の王朝であるチャクリー王朝(1782年 - )へと変遷した。
ラーマ4世(モンクット)は、自由貿易の推進、仏教の改革などを行った。映画『王様と私』にも登場する。1855年、イギリスと通商条約を結んでからは、コメの輸出が急増し、全国土に稲作地帯ができあがった。英仏両勢力圏の緩衝地帯として独立を維持し、植民地化を免れた。
https://iwiz-movies.c.yimg.jp/c/movies/pict/c/p/ac/9c/3346view001.jpg
http://contest.japias.jp/tqj13/130191/12862445081941.png
0682日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 18:23:02.14
朝鮮は軟質なのか、それとも硬質であるのかということは、列強にとって謎であった。このため各国とも武力外交でもって小当りにあたってみた。
ところが李王朝の攘夷精神とその断行能力は日本のかつての幕府よりもはるかに旺盛で、その意味ではひどく硬質な外観をもっていたのだる。
0683日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 18:36:08.11
◆副島種臣
この当時、佐賀出身の副島種臣が外務卿に任じ、遣清全権大使として北京に使いしていた。
副島は容貌古朴で、機略を愛さずひたすらに政治における誠実を信じ、人柄が高雅なうえに、支那学の学殖と詩文の才においては古来副島に匹敵する者は菅原道真ぐらいのものだろうといわれていた。
しかし西郷と同様、官僚的実務には明るくなく、しかも西郷と同様そういう世界に手を汚そうとはせず、ただ世界の趨勢をみて一国の経綸だけを考えているという種類の政治家に属していた。
0684日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 18:50:58.80
▽副島種臣
文政11年(1828年)- 明治38年
佐賀藩士・枝吉南濠の二男に生まれる。父は藩校である弘道館の教授を努める国学者で、兄は同じく国学者の枝吉神陽。父と兄の影響により、早くから尊皇攘夷思想に目覚める。弘道館で学び、この間に江藤新平や大木喬任と交わる。
https://kotobank.jp/image/dictionary/daijisen/media/102736.jpg
0685日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 18:52:00.70
安政6年(1859年)、父の南濠が死去し、同年3月には同藩士の副島利忠の養子となる。
慶応3年(1867年)、大隈重信と脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。
明治維新後は、慶応4年(1868年)に新政府の参与・制度取調局判事となり、福岡孝弟と『政体書』起草に携わる。明治2年に参議、同4年に外務卿となり、マリア・ルス号事件において活躍する。マリア・ルス号事件では、助けを求めた中国人奴隷を解放したことで、正義人道の人と国際的に支持された。
0686日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 18:52:11.56
明治6年2月には、前々年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件の処理交渉の特命全権公使として清の首都北京へ派遣され交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりを評価をされている。
同年10月、征韓論争に敗れて下野し、明治7年には板垣退助らと共に愛国公党に参加、同年には民撰議院設立建白書を提出したものの、自由民権運動には参加しなかった。西南戦争中は、中国大陸中南部を旅行している。
0687日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 19:59:45.94
>>681
タイの話をするから、てっきりインラック・シナワトラの画像が出てくるんだと思ったら、ユル・ブリンナーかw
0688日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 20:04:44.84
▽宗主国
儒教的封建国家の関係における上位の国。下位の国は藩属という。
中国で1882年に作られた韓国の歴史や地理などをまとめた書物「東藩紀要」に、わが国固有の領土で韓国が不法占拠する竹島の記載がないことが、島根県竹島問題研究会の調査で分かった。
同研究会は「当時の李氏朝鮮の宗主国だった清が、竹島を李氏朝鮮の領土と認識していなかったことが分かる」と話している。
0689日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 20:08:40.23
▽駐清英国公使
副島が、朝鮮がなおも頑愚をつのらせる場合、日本としては兵力を用いることもありうると英国公使に告げたところ、英国公使は拒否的な色をみせなかった。
0690日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 20:15:03.77
▽駐清米国公使
辛未洋擾〈しんみようじょう〉において〔>>673〕、米国が朝鮮に公使と軍艦を送ったことについて、副島が駐清米国公使に質問した。
「あのとき宗主国である清国は抗議しなかったか?」
「清国からはいっさい抗議が出なかった」
0691日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 20:16:12.47
このときの米国公使が、フレドリック・ロー本人なのかどうかは、調べてみたがわからなかった。
0692日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 20:22:13.86
朝鮮は清国の属国であるが、自主の国である。政教や禁令は朝鮮自身が行い、清国は干渉したことがない。
0693日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 20:22:27.29
西郷の征韓論は、この副島の外交成果が基礎のひとつになっている。西郷も副島と同様、もし日本が朝鮮を侵略すれば清国および欧米が黙っていないだろうという健康な想像については、わざと想像の窓をみずから塞いでいる気配があった。
0694日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 20:25:14.64
◆明治六年七月
明治六年七月の暑気はものすごかった。
「暑いために廟議をしばらく休みます」という三条のいかにも公卿らしい言いわけがもっともに聞こえるほどの暑気であった。
0696日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 20:36:39.21
▽副島の帰国
明治6年3月13日、副島外務卿は特命全権大使を命じられて清国に渡った〔>>686〕。副島の渡清は、同治帝の親政祝賀と日清修好条規の批准書互換のためと称されたが、最大の目的は清政府と宮古島島民遭難事件について交渉することだった。
清政府は日本と琉球の間に宗属関係があることを認めず、逆に清朝と琉球問の宗属関係に基づいて問題は解決済みだとして、日本の主張を一蹴した。副島一行は清国側から、台湾蕃地が政教のおよばない「化外の地」という非公式の「言質」を得ただけで、7月に帰国した。
0697日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 20:44:26.11
▽江戸期の武士
禅はこの世を仮宅であると見、生命含めすべての現象はまぼろしにすぎず、かといってニヒリズムは野弧禅であり、宇宙の真如に参加することによってのみ真の人間になれるとした。
朱子学が江戸期の武士に教えたことは、人生の大事は志であるということ以外になかった。志とは、経世の志のことである。世のためにのみ自分の生命を用い、たとえ肉体がくだかれたも悔いがないというものである。
禅から得た「仮宅思想」と儒教から得た「志の思想」が、両要素とも極めて単純化されて江戸期の武士という像をつくりあげた。
0698日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 20:51:43.46
▽明治6年8月3日
西郷は板垣を伴って、征韓論について膝詰め談判をするため、三条の屋敷を訪ねる予定であった。
しかし、ホフマン医師からもらっていた下剤を多量に服用したため、数十度の下痢を繰り返して起きあがれなくなった。
その代わりに、西郷は三条に廟議の評決を催促する嘆願書を送っている。
0699日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 20:56:01.18
▽外遊組の帰国
5月26日:大久保利通帰国 ※ただし、司馬さんは5月20日としている。
7月23日:木戸孝允帰国 →静養中
0700日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 21:06:14.92
▽大久保利通の旅行
8月16日〜9月21日
9月13日:岩倉具視帰国
0701日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 21:29:07.17
◆木戸孝允
厳密には長州人の集団というのは薩摩人集団と違い、頭目を戴くということを習慣としてもっていない。幕末、長州藩を牛耳った革命集団は書生のあつまりであった。
彼らの師匠は死せる吉田松陰で、死者だけに頭目としての統制力はもっていない。長州の革命秩序は、せいぜい兄貴株の存在を許す程度であった。この兄貴株が、すでに亡い高杉晋作と、明治後まで生きて元勲になった当時の桂小五郎、いまの木戸孝允である。
0702日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 21:32:28.17
ここで述べられている西郷と木戸の性格の比較は、たいへん面白い。
0703日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 21:37:17.52
▽木戸孝允
天保4年(1833年)- 明治10年
明治新政府にあっては、右大臣の岩倉具視からもその政治的識見の高さを買われ、ただ一人総裁局顧問専任となり、庶政全般の実質的な最終決定責任者となる。
慶応4年(1868年)3月14日に布告された五箇条の御誓文において、木戸は福岡孝弟の当初案から、第一条の「列侯会議を興し」を「廣ク會議ヲ興シ(広く会議を起こし)」に改め、第四条「舊來ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ(旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし)」を新たに挿入させた。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki3/sinsei/s153.jpg
0704日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 21:42:28.35
▽7月27日
赤坂御所に参内して明治帝に帰国の旨を奏上した。
そのあと太政官に出て三条実美に外遊の報告書を提出する。
それから大久保の屋敷を訪うた。大久保は不在であった。
0707日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 22:20:43.38
木戸が大久保に気をつかって愛想よくふるまうことがあっても、大久保は冷然として木で鼻をくくったような態度を示したりした。
(権柄ずくな、いやなやつだ)
0708日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 22:23:51.41
木戸はこの帰国後ほどなく土佐の山内容堂から深川の「平清」に招待された。
「木戸参議公、貴公は陰気じゃのう」
0710日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 22:37:25.79
▽平清
深川土橋にあった平清(ひらせい)は、文化年間 (1808〜1818) に営業を始め、明治32年 (1899) に廃業した店で、料理の評判も高かったようです。
屋号の平清は、主人の平野屋清兵衛の名によるものですが、平清を平清盛に見立てて、「平清の奢りのすえも うしほなり」という江戸川柳があります。これは平家の一門が壇の浦でほろんだことと、平清の会席料理の最後に、鯛の潮汁(うしおじる)が出されることをかけた句です。
0711日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 22:40:04.31
※平清のあった場所
現在の富岡八幡宮の東側の点線で描かれた所に川があって、現在埋め立てられて公園になっていますが、その上部に八幡橋が横断して人の流れをさばいています。八幡側から渡って富岡二丁目が土橋といわれた所で、三十三間堂が有りました。八幡橋の東側に料理茶屋平清がありました。
http://ginjo.fc2web.com/230narita_kozou/fukagawa_mapgen.jpg
0713日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 22:47:02.72
▽立憲主義
木戸は明治6年7月23日に帰朝し、太政官に対して『憲法制定の建言書』を上奏している。これを読むと、一国運営の鍵は憲法がどういうものかによると書いてある。そして、政治は君主独裁から始まるとするが、漸次民主へ移行すべきとの考えが出ている。
また、憲法に関してその頃発表した記事には、「君主は其の制をみだりにせず」とも述べており、立憲君主制の考え方が読み取れる。
0714日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 23:03:33.97
▽パリの下水道
ロニーが川路に勧めたのは、パリの下水溝の見学であったが〔>>109〕、木戸は下水道の本管を見学している。
1370年にパリ市長のHugues Aubriot (1320-1382) が、モンマルトルに最初の下水処理の工事を始めました。
その後ルイ14世がパリに大規模な下水道を建設、その後にナポレオン1世が30kmに及ぶ下水道網を完成させます。
しかし一番の立役者は、なんといってもパリの街全体を大改革したオスマン男爵。現在の下水道網まで飛躍的に発達させ、水を貯蓄し豊富に利用できるシステムを確立しました。
http://images.china.cn/attachement/jpg/site1004/20120724/000cf1bdd0221178766e07.jpg
http://www.noisette-paris.net/aiko-paris/img/old-blog/blog_import_52283d104c714.jpg
0715日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 23:07:17.45
中世までパリはセーヌ河から水を汲んで生活していました。使用した水は畑や路地に捨て、それがまたセーヌ河に戻り……、というサイクルであったため、当時のセーヌ河の水はたいへん汚く不衛生で、病気も蔓延していました。
※いまでもパリは汚い。
http://yuuma7.com/wp-content/uploads/2016/04/pa1-1000x669.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/laba_q/imgs/f/0/f0b61d6f.jpg
0717日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 23:12:52.74
大久保と木戸は、パリで酒場に立ち寄った。
※マネ「フォリー・ベルジェールの酒場」
並べられた酒瓶が、彼女も同様に商品だったことを暗示しているとの解説もあります。実際、このバーは売春婦がたむろしていた場所でもあり、ここで働く女性が身体を売ることもあったそうです。
この絵はマネがサロンに出した最後の作品です。近代化するパリの現実を切り取ったマネの集大成という感じます。
http://blog-imgs-53.fc2.com/h/a/k/hakugodo/2013031621070206c.jpg
0718日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 23:20:59.70
▽ベルリン禽獣園〈Zoologischer Garten Berlin〉
ドイツの首都ベルリンにある世界最大級の動物園である。開園は1844年8月1日。ドイツ初の動物園であった。
「時山直八にみせてやりたかったな」と、同行の品川弥二郎にいった。
http://livedoor.blogimg.jp/pinoko13/imgs/4/0/40d74ee2.jpg
https://i.pinimg.com/736x/1a/26/34/1a2634b1fc2b353352dec495b2515659--ariel-janeiro.jpg
0719日本@名無史さん
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2018/01/09(火) 23:24:48.37
▽時山直八
天保9年(1838年)- 慶応4年(1868年)5月13日
萩城外の奥玉江にて士雇・時山茂作の子として生まれた。嘉永3年(1850年)頃、吉田松陰の松下村塾にて学んだ。
慶応4年(1868年)、北越戦争における越後長岡藩との朝日山攻防戦において、陣頭に立って指揮し立見尚文率いる桑名藩兵と戦ったが、顔面を狙撃されて即死した。享年31。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b9/Tokiyama_Naohachi.jpg/200px-Tokiyama_Naohachi.jpg
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/ec/1bd53040c6bbfa51b8bdae61db19053b.jpg
0721日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 23:35:55.10
▽カイゼルに拝謁
ドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム1世は、即位してまだ2年の頃である〔>>603〕。
0723日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/09(火) 23:48:40.94
狂言回しが、川路から大隈に代わり、現在は木戸になっている。
これで第5章「征韓論」は終り、木戸が狂言回しのままで、第6章に突入する。
0724翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
垢版 |
2018/01/09(火) 23:57:48.68
第6章 小さな国

――大国はつねに武力解決しようとする。
――小国はあわれなものだ。
――国際公法は小国を守ってはくれない。
と、ビスマルクは岩倉、大久保、木戸らに説く。
木戸孝允はこのとき幕末におけるかれの盟友のひとりだった土佐の坂本竜馬を思い出したであろう。木戸は当時坂本にさんざん聴かされたことだが、坂本は万国公法(国際公法)の信者であった。
0725日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 00:24:08.25
★ベルリン

▽坂本龍馬
天保6年〈1836年〉- 慶応3年11月15日〈1867年〉
日本はその国家を防衛するための武力がひどく弱い、と坂本は冷静に考えようとした。そのために彼は国家の方途を見出すのに苦しんだが、国際公法を発見するにおよんで、「文明とはこれだ」と大いに喜び、国際公法が小国を守ってくれるのだと信じた。
彼は海援隊でこの国際公法を翻訳出版しようとさえしたが、京都で幕府の見廻組に斃され、国際公法の信者であるままに永眠した。
0726日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 00:32:22.82
ビスマルクはエムス電報事件でマスコミ操作もやった奸譎な政治家であるが、自国の自主独立を守るために強国に立ち向かったという人格の気品がある。
気品もなく自分の権利だけを主張しはじめると、みにくいモンスター・ペアレンツになる。
0727日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 00:40:11.79
大久保も伊藤も日本をもっとひ弱にみていて、列強に伍するというような大それた期待よりも、せいぜい支那のように列強から蚕食される状態にならない国家を設計できれば十分であった。
大久保も伊藤も太平洋戦争を起こすような強国としての日本を想定したことがなく、伊藤にいたっては日露戦争でさえその開戦に反対し、日本の滅亡という悪い卦をのみ想像しつづけた。
0728日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 00:46:12.37
▽モルトケ〈Helmuth Karl Bernhard Graf von Moltke〉
1800年 - 1891年
プロイセン及びドイツ帝国の軍人・軍事学者。 1858年から1888年にかけてプロイセン参謀総長を務め、対デンマーク戦争・普墺戦争・普仏戦争を勝利に導き、ドイツ統一に貢献した〔>>600〕。近代ドイツ陸軍の父と呼ばれる。最終階級は元帥。
甥にあたる第一次世界大戦時の参謀総長ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ(小モルトケ)と区別して、大モルトケと呼ばれる 。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8d/Helmuth_Karl_Bernhard_von_Moltke.jpg/200px-Helmuth_Karl_Bernhard_von_Moltke.jpg
0729日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 00:52:23.18
▽東洋のビスマルク
大久保は、ドイツ国内におけるビスマルクへの信任と同等の信任を勝ち取って、日本国改造のすべての権柄を握りたいと勃然と志した。現にその権柄を握るための方向が、帰国後の大久保の動きでもあった。
0730日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 00:54:18.09
これに対して木戸孝允はビスマルクにさほどの感動はもたなかった。かれ自身、ビスマルク流の奇術的な外交政略がやれる柄ではなかったからであろう。
0731日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 18:26:45.75
木戸が大久保にくらべて政治家としての実力を欠くのは、彼はつねに物事を悲観的に見がちであるという点であった。
木戸は、新興プロシア国がいかにすばらしいかといったような陽気な話はいっさい容堂の幽霊にはしなかった。
「ポーランドは悲惨でした」
0732日本@名無史さん
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2018/01/10(水) 18:32:35.28
▽単独帰国
三条実美からの帰国要請の手紙を受けて〔>>460〕、大久保はベルリンから直接帰国の途についた。
木戸は「自分だけはロシアをまわる」と異を立てた。その理由は、
・大久保の顔をみるのも不愉快で、口もきいていない。
・岩倉に対しても愉快でなかった。
・伊藤博文に対してもその軽薄さがたまらなく嫌になっていた。
0733日本@名無史さん
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2018/01/10(水) 18:36:16.19
木戸は毛布にくるまってひどく孤独な表情をしていた。

          |     |/(-_-)\|
          |     |   ∩∩   |
          |      ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        (-_-) …
        (∩∩)────────────────
      /
    /
  /
0735日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 19:05:40.29
★ポーランド

▽ポーランド
スラヴ民族が、現代のポーランド領域に居住して1500年になる。部族を組織し、大きなグループは後にポーランド族として知られた。
15世紀半から19世紀初頭まで、「ポーランド人」は民族的出自や宗教的信条は基盤とせずに、貴族のシュラフタ階級のみを指していた。
http://www.asahi-net.or.jp/~yq3t-hruc/img/AA_map_Europe.gif
https://4.bp.blogspot.com/-QDbSCpIB3Kw/Wiy-Z5J_cAI/AAAAAAAAeUM/5qfbe1iaExETmj3jvYsFzUz4WuQM06R9QCLcBGAs/s1600/IMG_7791.JPG
0736日本@名無史さん
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2018/01/10(水) 19:08:52.95
世界各国の国旗を画用紙に描いてくるという小学校の宿題があった。
もっとも嫌われたのはサウジアラビア国旗で、一番人気がポーランド国旗だった。
日の丸よりも簡単だった。
http://www.sarago.co.jp/nfgrp/fsa.gif
0737日本@名無史さん
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2018/01/10(水) 19:12:56.11
▽ポーランド分割
18世紀末、東欧の朝鮮と呼ばれるポーランドが、隣接するロシア・プロイセン・オーストリアの三強国によって分割され国家を消滅させたこと。
0738日本@名無史さん
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2018/01/10(水) 19:14:47.08
自分の国を消滅させるなんて、誰にでも体験できることじゃないよね。
貴重な体験をしたんだね。
0739日本@名無史さん
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2018/01/10(水) 19:20:09.77
ポーランドでは、ヤゲウォ朝が断絶した1572年から選挙王制となっていた。
1700年に始まった北方戦争は、ロシアとスウェーデンが主たる敵対国であったが、ポーランドもロシアと結んで戦った。開戦当初にロシアが敗北すると、カール12世のスウェーデン軍がポーランドに侵入した。親ロシアのポーランド国王は追放され、親スウェーデンの国王スタニスワフ1世が即位した。
0740日本@名無史さん
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2018/01/10(水) 19:29:21.73
親スウェーデンの傀儡王権がロシアによって倒されると、ポーランドはロシア帝国の影響力の下に置かれるようになった。
さらにポーランド継承戦争が起こるに至って、ポーランドは近隣列強の干渉を受けるようになった。
0741日本@名無史さん
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2018/01/10(水) 19:29:41.26
*第一次分割
1772年、まずロシアのエカチェリーナ2世とプロイセンのフリードリヒ2世との間で条約が締結され、オーストリアのヨーゼフ2世がそれに加わった。
プロイセンは1466年にドイツ騎士団がポーランドに譲った土地である「王領プロイセン」を領有し(グダニスクは除く)、ロシアはリヴォニアとベラルーシの一部を、オーストリアはガリツィア地方の一部をそれぞれ獲得した。これによってポーランドは領土の30%と、人口の35%を失った。
http://livedoor.blogimg.jp/lingvistika/imgs/9/3/93c1e61b.jpg
0742日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 19:33:24.13
*第二次分割
ポーランド・ロシア戦争の停戦直後、プロイセンはロシアと共に第2回ポーランド分割を行った(1793年)。オーストリアはマリー・アントワネットが帝室出身であった関係からフランス革命に巻き込まれてしまい、第2回分割には参加できなかった。
0743日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 19:39:06.35
*第三次分割
ポーランドは、第二次分割によって事実上国家機能を失った。国家消滅の危機に対して、翌1794年、コシューシコらが蜂起したが、期待したフランスの救援がなく、コシューシコ自身も負傷して捕らえられ、反乱は鎮圧された。
反乱を鎮圧したエカチェリーナ2世は、ポーランド国王に退位を強く迫り、1795年、ロシア・プロイセン・オーストリアによるポーランドの最終的分割を行った。これによってポーランド国家は完全に滅亡し、政治地図から姿を消すこととなった。
http://www.vivonet.co.jp/rekisi/a14_poland/devide.jpg
ポーランドが独立を回復するのは、第一次世界大戦後の1918年のことである(第三次分割から123年後)。
0744日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 20:01:17.76
ポーランド分割は、物語の時点である明治6年(1873)を遡ること78年前のことなので、昔話といえば昔話だな。
0746日本@名無史さん
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2018/01/10(水) 20:19:10.03
▽一見将軍風の老ポーランド人の乞食
画像が、あるわけがない。検索中に中国の老乞食の画像が出てきた。
中共の統治が、いったい中華民族になにをもたらしたのだろうか。助けを求める人々の声が、もう永遠に聞こえないだろうか。
http://www.epochtimes.jp/jp/2005/09/img/m90341.jpg
0747日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 20:24:29.24
(日本も西郷によってポーランドになりはてるか)
木戸はこの痛点を通してしか西郷の反乱を見ず、かといって大久保が主宰する明治政府の独裁ぶりや大官の横暴などに不満で、つねに参議の顕職をすてて野に下ろうとする衝動をおさえかねていた。
0748日本@名無史さん
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2018/01/10(水) 20:28:02.87
「ポーランドが滅んだ原因は、国家に政規(憲法)がなく、人民に権利がなかったからです」
と、木戸は容堂の幽霊に言った。
0749日本@名無史さん
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2018/01/10(水) 20:33:47.97
▽要路の一局
大久保が外遊後に設立しようとしていた内務省のこと。「要路の一局」は木戸の外遊後の報告書に書かれた表現。
木戸の大久保嫌いは、報告書にまで表れていた。
「賢明独りその身の利達を要し、民意を問わずして東管功名を望し、要路の一局に拠りて威艦を備持し、万緒国務の多き毎事これを文明の各国に擬似せんと欲し……(略)……」
0750日本@名無史さん
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2018/01/10(水) 20:40:41.62
木戸は多分に意見だけの人であった。
木戸が耳学問によって形成した時務論は、奇矯偏頗なところがなかった。
「桂にカタビキ無し」と仲間から言われた。
0751日本@名無史さん
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2018/01/10(水) 20:43:03.48
▽時務論
幕末期の政治論のことであろう。言葉の由来は、「時務策」からだと思う。
「時務策」とは、律令制の進士になるための試験で、政治の要務に関する方策を答えさせたものである。
0752日本@名無史さん
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2018/01/10(水) 20:54:30.26
▽木戸松子
天保14年(1843年)- 明治19年
京都三本木の芸妓幾松として知られる。明治元年(1868年)8月、木戸孝允の正妻となる。
明治2年6月からは東京で暮らしている。
木戸の没後は、松子は薙髪し「翠香院」と号し、京都木屋町へ転居した。二人の想い出深い京都にて木戸の墓を護った。
https://bakumatsu.org/img/00325_l.jpg
0753日本@名無史さん
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2018/01/11(木) 20:39:37.62
▽役者買い
役者を独占的に個人契約すること。 江戸時代、人気の歌舞伎役者を贔屓筋の客が、座を設けて呼び寄せる習慣があった。
特に売春目的であるわけではないが、まあそういうこともあったのかもしれない。
明治5年、歌舞伎役者の役者買いを重ね主人を毒殺した「毒婦夜嵐おきぬ」事件が起きている。
0754日本@名無史さん
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2018/01/11(木) 20:47:27.72
▽木戸の西郷観
「西郷は奸物で、許すべからざる人物である」「西郷ほど肚の黒い男はいない」「薩摩の人間とは、とても約束はできない」
文久3年の禁門の政変と元治元年の蛤御門の変を、いまだに根に持っている。執念深い木戸さんである。
ただし、西郷は禁門の政変の時期は沖永良部島に遠島されており〔>>331〕、事件とは無関係である。
0755日本@名無史さん
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2018/01/11(木) 20:49:24.00
蛤御門の変において、来島又兵衛が川路利良に狙撃された話は、ここに書いてあった〔>>59〕。
0756日本@名無史さん
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2018/01/11(木) 20:53:51.37
坂本竜馬が道理を説いてついに木戸を説得したのは、坂本の雄弁によるというよりも、長州が幕府から攻められてほとんど衰滅の危機にあったからである。これは筆者が述べているのではなく、司馬さんが「翔ぶが如く」に書かれている。
0758日本@名無史さん
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2018/01/11(木) 21:27:46.23
★渋谷金王町

▽金王八幡〔>>452
社伝によれば1092年(寛治6年)現在の渋谷の地に渋谷城を築き、渋谷氏の祖となった河崎基家(渋谷重家)によって創建されたとされる。
江戸時代には徳川将軍家の信仰を得た。特に三代将軍徳川家光の乳母春日局は神門・社殿を造営したとされる。
当初は渋谷八幡と称していた。社名にある「金王」は、渋谷重家の嫡男常光が金剛夜叉明王の化身で金王丸と称したことによるとされる。
http://blog-imgs-68.fc2.com/t/a/d/tadahikostar/20140916-1.jpg
http://urashibuya.com/cgi-bin/wpsys/wp-content/uploads/2014/09/matsuri005.jpg
http://www.geocities.jp/ynycr674/shaden.jpg
0759日本@名無史さん
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2018/01/11(木) 21:37:32.74
▽明治時代の渋谷
渋谷の通りを野に出ると、駒場に通ずる大きな路が楢林について曲がっていて、向うに野川のうねうねと田圃の中を流れているのが見え、その此方の下流には、水車がかかって頻りに動いているのが見えた。
地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を持った低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。私達は水車の傍の土橋を渡って、茶畑や大根畑に沿って歩いた。
「此処らに国木田っていう家はありませんかね」こう二三度私達は訊いた。
―― 田山花袋『東京の三十年』の中の「丘の上の家」の一節 ――
明治30年頃、渋谷の丘に住む国木田独歩を花袋たちが訪ねて行く場面。
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-0b-0d/aya92210/folder/1582362/05/46426605/img_4?1241782412
http://www.kasetatsuya.com/norivernolife/image/nrnl/photo/08_01/0801_018goryouchi.jpg
0760日本@名無史さん
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2018/01/11(木) 21:47:23.84
渋谷は古くから水車業(水車を使って精?・製粉・鉛筆用黒鉛の粉砕等をする業種)が盛んな地域で、明治時代の最盛期には50もの水車が稼動していたというが、大正時代までに姿を消した。文部省唱歌の「春の小川」は渋谷の小川を歌った楽曲。
http://imaginenetgallery.com/upload/save_image/12041946_4b18e87385660.jpg
※現在の渋谷川。無惨な春の小川の現在の姿。
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/d/dambiyori/20160908/20160908002730.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=-OvB5RqHaeg
0762日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 22:05:12.71
▽駒場野
駒場野は、京王井の頭線渋谷駅の二つ隣りが駒場東大駅なので、まあ近い。
江戸時代には、将軍家の鷹狩場が設けられたことがあり、狩りの際に利用する馬を止める場所(駒場)があったことが名前の由来とされている。
http://chinchiko.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E5B086E8BB8DE5AEB6E9A792E5A0B4E9B7B9E78BA9E59BB31786.jpg
http://78.media.tumblr.com/6e7a24ee52c7c9e6afdd2934468a1774/tumblr_n2hbuqiKef1tuauyvo2_1280.jpg
0763日本@名無史さん
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2018/01/11(木) 22:16:34.19
維新後、ほとんどの長州人が禁門の政変と蛤御門の変の怨恨を忘れたのに木戸だけは持続し、この帰朝後、西郷の寓居(西郷従道の屋敷)を訪ねるにあたっても、そのことを思い続けていた。
0766日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 22:30:23.06
「一蔵は戦(ゆっさ)をこわがる」
この言葉が閣内に伝わり、西郷は好戦家であるという悪評が、この時期すでにあった。
0767Coffee break
垢版 |
2018/01/11(木) 23:13:09.10
クリストファー・クロスは、5歳〜9歳の幼少期に、軍医だった父親の仕事の関係で東京代々木に住んでいたことがある。
0768日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 23:19:33.28
「まず韓国に一大刺激を与えなければならない」
西郷が遣韓大使として韓都にゆくことにより、韓国の在野世論が大いに沸騰し、西郷の意見に反撃するにせよ賛成するにせよ、国論が形成される。日本でも尊王攘夷の国論を無視できずついに幕府が倒れたように、国論の形成によって結局政権が変質し、国民というものが初めて成立する、と西郷は考えている。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 23:50:56.42
▽薩摩汁
鶏肉や豚肉などを使う肉入りの味噌汁。
江戸時代の日本では基本的に肉食の習慣がなかったが、例外的に鹿児島地方だけは肉食をしており、豚、鳥、兎などを味噌で煮た汁料理があった。闘鶏に負けた軍鶏をぶつ切りして野菜と煮たのが始まりともいう。
https://cdn.amanaimages.com/cen3tzG4fTr7Gtw1PoeRer/22654000912.jpg
0771日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 23:53:42.45
明治時代になると政府は肉食を奨励し、肉の味噌汁は「薩摩汁」の名称で軍隊の公式メニューとなり、全国の兵士が食するようになって、明治の末には一般家庭にも普及した。
肉と具の野菜を油で炒め、出汁と味噌を加える。具は大根や牛蒡、里芋、および葱やコンニャクが入れられることが多い。サツマイモは、必須の具材ではないが、おバカはサツマイモが入っているから「薩摩汁」なのだと勘違いしている。
※おバカが喜ぶサツマイモ入りの薩摩汁
https://cdn.amanaimages.com/preview640/10157000634.jpg
0772日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 00:01:24.52
▽癸丑以来〈きちゅう〉
ペリーが浦賀に来た嘉永六年(1853年)が、癸丑(みずのとうし)の年である。
晩年の木戸考允は「癸丑以来」が口ぐせだった。ペリー来航から攘夷論が起こり尊王の志士が簇出〈そうしゅつ〉するのだが、「癸丑以来」の連中が一番古いことになる。
(自分と西郷がもっとも古い)
0773日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 00:03:17.32
物語のこの時期(明治6年)、木戸孝允は満40歳、西郷隆盛は満46歳である。
0774日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 00:10:11.75
▽品川弥二郎
天保14年(1843年)- 明治33年
長州藩の足軽・品川弥市右衛門の長男として生まれた。元治元年(1864年)の蛤御門の変では八幡隊長として参戦し、のちに太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織した。
本章では、木戸の執拗さと西郷の器量の大きさの証人として登場している。
http://blog-imgs-34.fc2.com/s/b/l/sblog410/200911141942597a7.jpg
0775日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 00:16:12.07
なお、品川弥二郎は岩倉遣欧使節の随員ではない。岩倉遣欧使節よりも1年早い明治3年に普仏戦争を視察するため、大山巌らとともに一足先に渡欧している〔>>594〕。
ベルリン禽獣園で木戸孝允と同行しているのは、パリから合流したのかもしれない〔>>718〕。
0776日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 00:17:57.23
なお、品川弥二郎の死因は、インフルエンザに肺炎を併発したためである。享年58。
0778日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 00:33:02.57
最後の画像は、五月みどりじゃなくて、ブラーの『Leisure』だしwww
0779日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:07:26.18
★駒場野

▽行人坂〈ぎょうにん〉
目黒区下目黒と品川区上大崎にまたがる坂。急な勾配や、江戸時代の明和の大火の火元になった大円寺、結婚式場で知られる目黒雅叙園があることで知られる。江戸時代には江戸と目黒を結ぶ交通の要衝であり、富士見の名所として知られた坂である。
http://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/saka/tobu/gyonin.images/t_07_gonnosuke.gif
http://navi.ag-aoyama.com/01j23604gyoninzaka640std.jpg
0780日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:14:25.09
▽椋鳥〈ムクドリ〉
全長24cm ほどで、およそスズメとハトの中間ぐらいの大きさ。翼と胸と頸は茶褐色で、頸から頭部にかけてと腰に白い部分が混じり、足および嘴は黄色い。鳴き声は「ギャーギャー」「ギュルギュル」「ミチミチ」など。
http://www.city.mitaka.tokyo.jp/c_service/019/images/img_19473_1_1.jpg
http://static.flickr.com/34/68292790_fc49ccd5de_o.jpg
https://irorio.jp/wp-content/images/uploads/2012/11/170.jpg
0781日本@名無史さん
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2018/01/12(金) 22:21:12.81
▽黒田清隆
天保11年(1840年) - 明治33年(1900年)
鹿児島城下(現鹿児島市新屋敷町)で薩摩藩士・黒田仲佐衛門清行の長男として生まれた。黒田家は家禄わずか4石の下級武士だった。
文久2年(1862年) 6月の生麦事件には、随行の一人として居合わせたが、自らは武器を振るわず、抜刀しようとした人を止めたという。
文久3年(1863年)、薩英戦争に参加した後、江戸で砲術を学び、皆伝を受けた。
https://78.media.tumblr.com/48f70036653b5ccd4bc5b0bbe0a3d3a0/tumblr_inline_oeusj4WFdJ1sbmcvj_540.jpg
0782日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 22:26:18.46
慶応2年(1866年)の薩長同盟に際しては、盟約の前に薩摩側の使者として長州で同盟を説き、大坂で西郷吉之助と桂小五郎の対面を実現させた後、再び長州に使者として赴いた。
慶応4年(1868年)3月、北陸道鎮撫総督の参謀に、山縣有朋とともに任命された。北越戦争および秋田庄内戦争を勝利に導く。
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/maekeeeeen/20160207/20160207040216.jpg
0783日本@名無史さん
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2018/01/12(金) 22:31:55.48
箱館戦争が始まると、黒田は明治2年2月に清水谷公考中将の参謀を命じられ、3月に東京を出港した。途中、宮古湾停泊中に宮古湾海戦に際会した。5月11日の箱館総攻撃では、自ら少数の兵を率いて背後の箱館山を占領し、敵を五稜郭に追い込んだ。榎本武揚に降伏を勧め、17日に降した。
戦後は榎本の助命を強く要求して厳罰を求める者と長い間対立し、榎本のために丸坊主に剃髪したこともある。榎本問題は明治5年1月6日にようやく決着した。榎本らは謹慎、その他は釈放。
http://twtukuru.com/wp-content/uploads/2015/04/E88BA5E3818DE9BB92E794B0E6B885E99A86.jpg
0784日本@名無史さん
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2018/01/12(金) 22:35:38.53
明治3年(1870年)5月に、樺太専任の開拓次官となった。
明治4年(1871年)1月から5月まで、アメリカ合衆国とヨーロッパ諸国を旅行した。旅行中、米国の農務長官ホーレス・ケプロンが黒田に会って顧問に赴くことを承諾し、お雇い外国人招請の道を開いた。帰国後、10月15日に開拓使長官・東久世通禧が辞任した後は、次官のまま開拓使の頂点に立った。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4b/Kuroda_Kiyotaka_Teihatu.jpg
0785日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 10:47:18.94
▽駒場農学校
明治6年に設立された内務省は、農業・牧畜について西洋式技術の導入をはかり、駒場農学校と三田育種場を開設した。
駒場農学校は明治7年に内務省勧業寮内藤新宿出張所(現在の新宿御苑)に農事修学場として設置される。農事修学場は明治11年に駒場の地に移って駒場農学校となる。東京大学農学部の前身。
http://www.a.u-tokyo.ac.jp/history/images/nougakkou-seimon.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/3/38/Komaba_agriculture_school.jpg/250px-Komaba_agriculture_school.jpg
0786日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 10:51:19.36
厳密にいうと駒場農学校は駒場野には未だ移転していない。しかし司馬さんがイメージしているのは駒場農学校であろう。
ひょっとすると駒場農学校の敷地に宛てられるべき新政府の農場はあったのかもしれないね、というようなイマジネイションが刺激されるので、こういうフィクションは許されてよい。
0787日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 10:54:27.73
この場面の黒田了介は好きです。
新時代を拓いてゆく男は、征韓論だの民権論だのと声高に叫んでいる人間ではない。
牛の乳を搾ったり、南瓜を作ったりしている男なんだろうと思う。
0788日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 10:58:56.33
>>786
フィクションじゃないよ。木戸孝允の日記に駒場野で黒田に出遭ったと書いてある。
0790日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 11:11:06.45
▽榎本武揚
1836年(天保7年)- 1908年(明治41年)
伊能忠敬の弟子であった幕臣・榎本武規(箱田良助)の次男として生まれる。通称は釜次郎。
箱館戦争後、政府内では榎本らの処置に関して対立があり、木戸孝允ら長州閥が厳罰を求めた一方、榎本の才能を評価していた黒田清隆らが助命を嘆願した。
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/004/953/68/N000/000/017/147858475029639474180_IMG_0447.PNG
0791日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 11:15:09.40
明治5年1月6日、特赦により出獄、親類宅で謹慎する〔>>783〕。3月6日に放免となり、同月8日、黒田が次官を務めていた開拓使に四等出仕として任官、北海道鉱山検査巡回を命じられた。
ロシア帝国との樺太の国境画定交渉と、マリア・ルス号事件に対処するため、駐露特命全権公使に決まった澤宣嘉が明治6年10月に病死した。榎本が代役として明治7年1月10日の閣議で領土交渉使節に決定し、18日、駐露特命全権公使に任命された。
https://dic.academic.ru/pictures/wiki/files/84/Takeaki_Enomoto.gif
0792日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 11:18:27.50
▽大鳥圭介
天保4年(1833年)- 明治44年(1911年)
播磨国赤穂郡赤松村(兵庫県赤穂郡上郡町岩木丙石戸)の医師・小林直輔の子として生まれる。幼名、慶太郎。
安政4年(1857年)、縄武館(江川塾)に兵学教授として招かれるかたわら、中浜万次郎に英語を学んだ。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2e/Ohtori_keisuke.png/220px-Ohtori_keisuke.png
0793日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 11:21:00.80
明治5年(1872年)1月8日に特赦により出獄後、新政府に出仕して、左院少議官、開拓使五等出仕を経て、大蔵小丞の職を兼任し、欧米各国を開拓機械の視察と公債発行の交渉の為に歴訪した。
その後は外交官に転じて、明治26年(1893年)7月には朝鮮公使を兼任し、翌年6月には朝鮮へ赴任。大院君に対して朝鮮の近代化を建言し、朝鮮の独立運動派から発砲を受けるなど日清戦争開戦直前の困難な外交交渉に当たった。
https://kotobank.jp/image/dictionary/daijisen/media/106312.jpg
0794日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 11:25:43.96
>>786
明治11年に駒場農学校となるが、開拓使の農事試験場のような施設は、それ以前から駒場にあった。
0795日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 11:34:48.82
黒田は黒田なりに、「日本はなんと小さな国か」ということを、その外遊によって知った。黒田にすれば、もし、である、日本が征韓論外交を推進して国際的波紋を投じた場合、ロシアと支那と英仏が当然これに干渉する。
日本の陸兵は韓国にいる、列強の艦隊はただちに上海を抜錨し、東京湾に入り、威力外交を行う。日本政府は列強の砲艦外交で首の根を押さえられ、西郷の大理想どころか、自主外交の権能をすら失ってしまう。
「日本は亡びます」
0796日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 11:47:46.24
▼樺太
氷河期には大陸と陸続きだった。古代以前は樺太南部に進出した続縄文人や、オホーツク文化人(粛慎)などが存在し、鎌倉時代以降は南部にアイヌ民族や和人が進出、東岸中部にウィルタ民族(オロッコ)、北部にニヴフ民族(スメレンクル)などの北方少数民族もいた。
18世紀末からロシア人と日本人が移住するようになったが、当初は両者が共存していた。
樺太は1855年の日露和親条約で日露双方の雑居地とされたが、その後も紛争が絶えず幕府にとっても頭痛の種となっていた。明治新政府はその問題を引き継ぎ交渉を開始、初めは副島種臣があたったが、征韓論で敗れて下野してからは北海道開拓使次官黒田清隆がリードした。
0797日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 11:51:39.29
黒田はロシアとの紛争を避け北海道の開拓に全力を挙げるべきであると主張し、樺太の放棄をロシアに提案し、千島列島を得ることで合意が成立した。明治7年、明治政府代表榎本武揚〔>>791〕とロシアの間で、ロシアが樺太全島、日本が千島列島すべてを領有することを定める樺太・千島交換条約が締結された。
樺太及び千島に住んでいる両国人は国籍を維持したまま残留することが認められ、その場合は営業・所有の権利、信教の自由が保障された。
http://jahistory.com/wp-content/uploads/2016/03/karafuto-300x237.jpg
0798日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 11:57:41.87
日露戦争で日本軍が樺太全島を占領したが、戦後のポーツマス条約では南半分だけを割譲された。
http://blog-imgs-82.fc2.com/h/i/s/history365days/HoppouPo-tumasu1905.jpg
第一次世界大戦のさなかにロシア革命が起きると、日本軍はアメリカなどと共同でシベリア出兵を行った。1920年にニコライエフスク事件で日本人居留民が殺害されたことを理由に、日本軍はその対岸の北樺太を占領した。
0799日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 12:03:26.47
長期にわたるシベリア出兵は国際的にも国内的にも批判が強かった。それでも1925年までは駐留を続けたが、ようやく日本がソ連を承認し日ソ基本条約が締結されたことにより北樺太から撤退した。
第二次世界大戦では、ソ連はヤルタ協定において、対日参戦の代償として南樺太の収容をイギリス・アメリカに認めさせ、参戦と共に侵攻して全島を占領、1946年に併合した。日本はサンフランシスコ平和条約で、海外領土の一部として南樺太の放棄を認めた。
http://www.jichiro.gr.jp/jichiken_kako/report/rep_hyogo34/11/1101_jre/img07.gif
0800日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 12:08:49.32
戦後日本の領土は、ポツダム宣言(およびその前提となるカイロ宣言)と、このサンフランシスコ講和条約で確定されたはずであった。
しかし、サンフランシスコ講和条約にソ連が加わっていなかったことと、千島の定義が不明確であったところから国後、択促、歯舞、色丹の北方領土問題が残った。四島は、現在もロシアの不法占領状態が続いている。日本は固有の領土と主張しているが、ほとんど交渉は進展していない。
http://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/5fec540cce1027408b61326b311e0797569bf00c.69.2.9.2.jpeg
http://www8.cao.go.jp/hoppo/menu/images/250429syunoukaidan2.jpg
0801日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 12:16:42.18
▽明治初年の樺太問題
明治2年、ロシア兵200人は遠渕に上陸し、勝手に「ムラビヨフスク」と名付けて占領してしまいます。さらに兵50名が、日本側の一大拠点である大泊に上陸し、驚くべき無法ぶりでアイヌ墓地を破壊しながら兵営を築いてしまいました。
この緊急事態を報せるべく岡本監輔は東京に向かい政府に通報しましたが、明治政府の三条実美の回答は「樺太は日露雑居地であり、ロシアが暴慢な行動をとったとしても、勝手な行動をせず礼節を重んじること」と言いました。
0802日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 12:33:43.82
明治4年外務卿になった副島種臣は樺太領有の解決をアメリカに依頼し、「樺太の国境を北緯五十度線として問題を解決したい」と申し出ました。
これを知ったイギリス公使パークスは、日本政府を相手に「樺太は古船一艘の価値もない。速やかにロシアに譲れ!」と言いました。これに対して西郷隆盛は「日本古来の版図を割譲することはできない」と言い返しました。
0803日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 12:34:06.25
パークスは手にしたワイングラスを握りつぶして粉々にすると、「ロシアと樺太を争うならば、日本はこのグラスの様になるぞ!」と言い放ちました。
しかしこのときパークスは指の筋を切ってギターが弾けなくなり、この後に予定されていた『眩惑のブロードウェイ』ツアーをすべてキャンセルすることになる。
https://midlandsmetalheads.com/wp-content/uploads/2017/05/dce3f76394775d3204ad3fedf06f414e.jpg
0804日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 12:42:10.61
ロシアは、樺太を流刑地にしていました。つまり南樺太に暮らす日本人は、ロシア人の犯罪者とロシア軍人に囲まれていたのです。そのため、樺太の日本人は、悲惨な事件に遭遇し続けました。
ロシア人は日本人の漁場を荒らし、強盗殺人を働き、そして日本人女性を強姦するなどの事件が多発しました。明治6年2月には、ロシア人多数が大泊(コルサコフ)の日本人の漁場と建物を焼き払うという事件も起きます。
本章の黒田了介が木戸に話した事件は、これである。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/43/Sakaecho_in_Ootomari.JPG/250px-Sakaecho_in_Ootomari.JPG
0806日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 13:08:51.95
★銀座

▽銀座
江戸時代以前、現在の丸の内から日比谷にかけては日比谷入江と呼ばれた海になっており、その東には隅田川の運んできた砂によって江戸前島という砂州が形成されていた。その先端が現在の銀座にあたる。銀座の都市基盤の整備は1612年の第二回目の天下普請まで待つことになる。
町割りは金座御金改役で家康の側近でもあった後藤庄三郎を中心に行われた。
0807日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 13:10:23.78
町人地として整備が行われた銀座には、1612年に駿府にあった銀座役所が移転し、銀貨の鋳造が行われた。
江戸時代の銀座は御用達町人地として発展したものの、「職人の町」としての側面が強かった。江戸研究家の三田村鳶魚も、京橋や日本橋よりも街の賑わいは劣っていたと自著『銀座』内で語っている。
0808日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 13:16:35.80
銀座に転機が訪れたのは、明治維新後の火災だった。明治5年の銀座大火は銀座一円が焼失するという大規模なものであった。そこで、東京府知事・由利公正の主導により、大規模な区画整理と銀座煉瓦街の建設が行われた。
この政策は、火事の多かった東京を不燃都市化すること、また同年秋に開業予定だった横浜?東京間を結ぶ鉄道の終点・新橋駅と、当時の東日本経済の中心地であった日本橋の間に位置する銀座を、文明開化の象徴的な街にしたいとの思惑があったとされる。ロンドンのリージェント・ストリートに倣って、街路樹やガス燈、アーケードなどが造られた。
煉瓦街はまず明治6年に銀座通り沿いに完成し、明治10年に全街区の建設が完了した。
0809日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 13:20:46.56
http://www.library.city.nishitokyo.lg.jp/images/upload/%E6%96%B0%E6%A9%8B%E3%82%88%E3%82%8A%E9%8A%80%E5%BA%A7%E9%80%9A%E3%82%8A%E3%82%92%E6%9C%9B%E3%82%80.jpg
http://gallery.wox.cc/app/ohkubo-tm_/article/o/30.jpg
※明治35年頃の銀座通り:煉瓦街は和風建築に改造されてしまっている。
http://www.ginza.jp/wp-content/themes/ginzaofficial/img/history13.jpg
※銀座の少年
https://c1.staticflickr.com/3/2359/2365240256_35f8e8b58d_m.jpg
0810日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 13:24:50.42
>>809
1枚目の画像は、明治の銀座といっても、物語の時期よりはかなり後だな。
2枚目の画像が、明治6年に銀座を歩いた木戸さんの見た風景に近いかもしれない。
0812日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 13:37:17.14
木戸さんの聞いた噂によると、
「英風に掻分ける櫛、仏流に撫付るブラシ」というではないか。
>>811は、どこを掻分けているのだ?
0813日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 13:39:22.76
むしろ撫付けているから、フランス流じゃないですかね。゚(゚^Д^゚)゚。
0814日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 14:54:50.58
▽広沢真臣
天保4年(1834年) - 明治4年
長州藩士・柏村安利の四男として誕生する。弘化元年(1844年)、同藩士・波多野直忠の婿養子となって波多野金吾と称した。
慶応元年(1865年)、高杉晋作がクーデターによって藩の実権を掌握すると、中間派であった波多野金吾が政務役として藩政に参加することとなった。同年、藩命によって広沢兵助と改名した。
https://bakumatsu.org/img/00117_l.jpg
0815日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 14:58:21.91
慶応2年(1866)8月の第二次征長では、幕府側の勝海舟と安芸厳島にて交渉し、慶応3年(1867年)10月には大久保利通らとともに討幕の密勅の降下にも尽力するなど倒幕活動を推進した。
維新政府の発足後は、参与や海陸軍務掛、東征大総督府参謀を務め、その後、内国事務掛や京都府御用掛、参議を歴任。明治2年、復古功臣として木戸や大久保と同じ永世禄1,800石を賜り、民部大輔や参議の要職を務めた。
0816日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 15:02:34.64
明治4年1月9日、東京府麹町富士見町私邸での宴会後、刺客の襲撃によって暗殺された。享年39。死後、正三位を贈位される。
なお、大村益次郎が、明治2年9月、京都で攘夷派浪士に襲われ療養中に死亡したことについては、前述した〔>>637〕。
広沢真臣は、大村益次郎の暗殺後、わずか1年4か月の後に暗殺されたことになる。
0817日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 15:49:06.13
▽由利公正
文政12年11月11日(1829年)- 明治42年  ←丸一年早く生まれていたら、すごいことになっていた。
福井藩士・三岡義知(100石)の嫡男として越前国足羽郡福井城下に生まれる。
福井を訪れた横井小楠の殖産興業策に触発され、横井から財政学を学ぶ。橋本左内らと国事に奔走し、藩主・松平慶永から財政手腕を評されて抜擢され、藩札発行と専売制を結合した殖産興業政策で窮乏した藩財政を再建する。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/5-s007.jpg
0818日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 15:53:38.10
慶永が幕府政事総裁職に就任すると、慶永の側用人になる。しかし、長州征伐をめぐる藩論の対立に巻き込まれ、福井にて蟄居・謹慎処分となった。
謹慎中に坂本龍馬の来訪を受けて交流を深める。坂本とは新政府が取るべき経済政策について談義し、このことが新政府への参画を求められたことへ結びついたのだと後に語っている。
※晩年はまるでサンタクロース
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/43/Kimimasa_Yuri_3.jpg/200px-Kimimasa_Yuri_3.jpg
0819日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 15:56:43.37
三岡八郎さんは、法駕籠のお婦以さんとは、いつ親しくなられたのですか?
0820日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 16:16:08.83
明治維新後、土佐藩の福岡孝弟らとともに五箇条の御誓文の起草に参画した。公正が作成した「議事之体大意」が原文となっている。
  ↑
ここ試験に出ますよ。
0821日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 16:18:06.06
新政府では徴士参与〔>>168〕として、金融財政政策を担当する。会計事務掛・御用金穀取締として、会計基立金募集や太政官札発行、商法司設置など積極的な政策を推進したものの、太政官札の流通難など政策に対する批判が高まった結果、明治2年に辞職するに至った。
0822日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 16:23:49.94
明治4年に東京府知事に就任した。明治5年2月に銀座大火が発生し、現在の丸の内・銀座・築地一帯が全焼した。当時の東京は木造家屋が多かったため、由利は東京を防火防災都市とすべく銀座に煉瓦造りの建築物を数多く建てたり、現在の銀座大通りの幅員を「ニューヨークやロンドンの目抜き通り並に45.5mに拡張すべし」と主張するといった都市改造計画を立案・実行した。
明治5年5月、岩倉使節団に随行することになり、欧米へ渡航し、各国の自治制度・議会制度などを研究した。
明治7年、板垣退助や江藤新平らとともに、政府に対して民撰議院設立建白書を提出する。
0823日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 16:51:33.10
>>820
由利公正 →福岡孝弟〔>>820〕 →木戸孝允〔>>703〕の三人の名前を、この順番で覚えておかないと、正解できないよ。
0824日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 17:13:44.31
▽杉浦
銀座四丁目四番地にあった理髪店。
木戸さんは、ここで毛はさみをした。傭いのフランス人が、フランス式の毛はさみをした。
0825日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 17:21:06.87
▽堀基〈もとい〉
1844年(天保15年)- 1912年(明治45年)
薩摩藩士としては明治元年の鳥羽・伏見の戦いに参加し旧幕府軍と戦う。直後に箱館裁判所監察として渡道した。翌明治2年、開拓使に移り開拓中判官、開拓大書記官、屯田事務局長などを歴任した。
薩摩閥として羽振りを利かせる一方、同郷の先輩黒田清隆と共に樺太に駐在し対ロシア交渉などにあたった。
北海道炭礦鉄道初代社長。貴族院議員。
http://blog-imgs-44.fc2.com/t/a/b/tabigeinintomato/39445124552.jpeg
0826日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 17:35:23.38
▽樺太駐箚開拓監
慶応3年(1867)に樺太島仮規則をロシアと調印する。樺太全島は日露雑居地とされた。
以降、ロシアは囚人を送込み、軍隊を増派して、北緯48度以南や日本の本拠地である樺太南端・亜庭湾岸までの軍事的制圧に着手した〔>>804〕。
樺太駐箚開拓監は、明治6年当時の堀基の開拓使における役職らしい。役所は大泊にあった。
0827日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 17:42:36.79
樺太問題のほうが先決だからという提案をして、征韓論をうやむやにしてしまおうというのが黒田案であった。
0828日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 17:43:12.36
>>808
街路樹には、松、楓、桜などが選ばれた。
木戸さんは、西洋館に松やモミジは映りがわるいなと思った。
0829日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 17:46:53.00
由利の煉瓦造の西洋館は、計画倒れに終わった。庶民は、そんな住居に住みたくはなかった。西洋館は売れなかった。
売れた西洋館にしても、明治35年頃までには、煉瓦街は和風建築に改造されてしまっている〔>>809〕。
0830日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 17:48:52.24
三岡八郎(由利公正)も、紀州藩家老の津田出〔>>476〕と大差のない人物だったような気がするな。
0831日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 17:50:44.75
それなのに、試験にはよく出たよな。由利公正と福岡孝弟の名前は、日本史の答案用紙に何回書いたことか。
おそらく坂本竜馬の名よりも、多く書いていると思う。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/13(土) 17:56:15.35
▽平民乗馬の始
従来、社会の階級制度やかましく、農工商者の口取り者なき馬に騎して行くこと禁制なりしが、維新後、明治四年四月十九日始めてこの制を撤去し、庶民の騎馬を許したり。
されども堅気の商人等には、敢て騎行するものも多からざりしと見えて、この時の〔年表〕に「町人には騎る人見えず」と記せり。
――石井研堂著『明治事物起源』
0833日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 11:39:11.66
これで第6章「小さな国」は終り。狂言廻しは木戸さんから再び川路に戻り、第7章「渋谷金王町」に突入する。
第7章では川路利良によって西郷隆盛の人となりがDeepに観察されます。
0834日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 11:40:13.22
木戸さんが狂言廻しをやっていると、陰気になってしまうからな。景気がよくない。
0835日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 11:43:40.36
>>819
「法駕籠のご寮人さん」は全集未収載だけど、「大坂侍」収載の巻でいっしょにやるよ。
0836日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 17:06:27.29
>>816
長州閥の参議が一人もいなくなるという珍現象は、この二人の死が大きいな。
それと木戸さんの鬱病。
0837翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
垢版 |
2018/01/14(日) 19:45:38.58
第7章 渋谷金王町

〔一〕西郷隆盛
「かの人はまことに妙である。一日かの人に接すれば一日の愛生ず。三日かの人に接すれば三日の愛生ず。しかれども予は接するの日を重ね、もはや去るべくもあらず。いまは善悪を越えて、この上はかの人と生死を共にするほかない」
増田宗太郎というこの若者は、西郷の弁舌に打たれたわけでもなく、西郷の文章を多く読んだわけでもなかった。かれは西郷にじかに接しただけのことであり、それでもって骨髄まで染まるほどに西郷の全体を感じてしまったのである。
0838日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 20:16:16.98
★渋谷金王町

▽新帰朝
司馬さんも書いておられるが、「新帰朝」は広辞苑に載っていない。死語だ。
筆者の頭の中では死語ではない。永井荷風に「新帰朝者日記」という短篇もある。
辞書から除くべき言葉ではない。意味は司馬さんの解説どおり。
0840日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 20:27:54.43
▽鼠賊
小さな盗みをする泥棒。こそどろ。
川路の義兄・川畑種長は、川路を「一鼠賊」と表現した。悪意はない。単に言葉を知らないだけ。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 20:44:50.72
江戸時代は、男も女も屋外で平気で放尿していた。男が板塀などに向かって立小便をするのはもちろんのこと、女もちょっとした物陰にしゃがんで放尿するのは珍しいことではなかった。そんな時代、文化年間(1804〜18)のころの話が『多話戯草』に出ている。
http://files.hangame.co.jp/blog/2016/72/c676e5bb/02/24/42852954/c676e5bb_1456310170134.jpg
0844日本@名無史さん
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2018/01/14(日) 21:13:50.32
西郷は初夏から初秋にかけての暑いあいだ、薩摩絣の単衣を一枚きりですごすのである。
(問題は衣類のことではない。このひとは、浮世の栄爵というものが遂に身につかぬ人ではないか)
0846日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 21:20:35.25
▽単衣〈ひとえ〉
裏地のない和服のこと。6月から9月までの間にしか着られないという慣習がる。衣替え。
なお、麻製の単〈ひとえ〉を特に帷子 (かたびら) と称する。平安時代においては男子の汗取りの帷子、室町時代や江戸時代には男女の小袖形式の麻の帷子がある。
⇔袷(あわせ):裏地がある。
0847日本@名無史さん
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2018/01/14(日) 21:31:02.53
▽象皮病
バンクロフト糸状虫などのヒトを宿主とするリンパ管・リンパ節寄生性のフィラリア類が寄生することによる後遺症の一つ。
身体の末梢部の皮膚や皮下組織の結合組織が著しく増殖して硬化し、ゾウの皮膚状の様相を呈するため、この名で呼ばれる。陰嚢、上腕、陰茎、外陰部、乳房などで発症しやすい。
西郷隆盛は、象皮病に感染したため、晩年は陰嚢が人の頭大に腫れ上がっていたという。
http://i.imgur.com/qO1aQJ3.png
http://www.discoverynetworks.nl/wp-content/uploads/2014/06/Body-Bizarre-S2-2-616x350.jpg
0848日本@名無史さん
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2018/01/14(日) 21:33:24.69
城山で自害した西郷は首なし死体だったんだけど、キン玉がでかいから、すぐに特定されたんだよね。
0849日本@名無史さん
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2018/01/14(日) 21:34:19.09
江戸時代に象皮病が日本に蔓延していたことは、葛飾北斎の画に象皮病の患者が描かれていることや、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に象皮病の症状のことを詠んだ歌があることからもうかがえる。
0850日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 21:50:24.95
▽文旦〈ブンタン〉
標準和名はザボン。柑橘類の一種である。
日本伝来の地は鹿児島県の阿久根市とされ、生産量も多いことなどから1971年に市の木に制定されている。
http://www.m-ys.co.jp/tosabuntanshop/img/bunkatu.jpg
近時は高知県がブンタンの生産に力を入れている。
0853日本@名無史さん
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2018/01/14(日) 22:04:34.27
私は「ヤヒグレ」と言っていました。発音は「やいぐれ」。
0854日本@名無史さん
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2018/01/14(日) 22:07:23.34
▼やっせんぼ
役立たず。「役せぬ」の転じた語。
「こんカバンな、こもしてやっせんじゃった」=このカバンは小さくて役に立たなかった。
0855日本@名無史さん
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2018/01/14(日) 22:13:40.55
>>521
「靱負」は、律令制度の衛府の官人で、宮中を靭(ゆぎ:矢を入れる道具の一種)を背負って見回りをする者で、元々は「ゆげい」と読んでいた。
転じて「ゆきえ」。靭を背負う人。
0856日本@名無史さん
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2018/01/14(日) 22:31:18.89
▽ぞんざい
1.いいかげんに物事をするさま。投げやり。粗略。「仕事をぞんざいにする」
2.言動が乱暴で礼を失しているさま。不作法。「ぞんざいな口のきき方」
ぞんざいの語源には、「そざつ(麁雑・粗雑)」の転化とする説と、「存在のまま」を略した「存在」の意味とする説があるが、未詳である。
0857日本@名無史さん
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2018/01/14(日) 22:38:32.41
西郷が、日本国の極官の座につきながら、美邸も造らず、馬車ももたず、弟の屋敷に居候し、ふだん着は一枚きりで、いつもすその短い薩摩絣に兵児帯を二重巻きにして駒場野あたりを走りまわっているようでは、その日常の存在そのものが新政府に対する痛烈な批判であるといえる。
0858日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/14(日) 22:42:36.91
▽着たきり雀
どうして語尾に雀が付くのか、かねてより不思議に思っていたが、「舌切り雀」の洒落であった。
あまりにライトな笑えない洒落なので、今日まで気づかなかった。
0859日本@名無史さん
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2018/01/14(日) 22:56:35.05
▽徴兵令
明治6年1月10日(新暦)に施行された徴兵令で、士族および農民の明治新政府に対する不満が一挙にヴォルテージを上げた。
士族にしてみれば、明治5年の国民皆兵をうたう徴兵告諭でプライドを傷つけられ、翌明治6年には征韓中止で活躍の場を奪われた。
農民にしてみれば、江戸時代260年のあいだ兵士にとられることがなかったのに、維新によって若い労働力を鎮台に奪われることになった。
0860日本@名無史さん
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2018/01/14(日) 22:59:38.77
戊辰戦争における官軍は、薩摩・長州・土佐など諸藩の軍の集合で、政府が独自に徴兵して組織した軍はなかった。明治政府直属の御親兵も、長州藩の一部部隊を元に、諸藩の在京の浪人を集めて組織されたものだった。
大村益次郎や山縣有朋は、早くから「国民皆兵」の必要性を唱えていた。これは、近世的な個人的武技に頼る戦闘では、近代戦において勝利を得るのが困難であることを理解していたからである。
0861日本@名無史さん
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2018/01/14(日) 23:03:13.73
しかし、国民皆兵のためには身分・家格を廃して四民平等を導入せねばならず、それは武士階級の解体を意味した。そのため、政府内にも島津久光を筆頭に前原一誠・桐野利秋ら保守的な反対論者が多数おり、また西郷隆盛も中下層士族の立場を考慮した志願兵制度を構想していて徴兵制には消極的であった。そのうち、大村益次郎が暗殺されたこともあって構想は一旦は挫折した。
0862日本@名無史さん
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2018/01/14(日) 23:06:26.13
明治3年11月13日に山縣有朋の主導で徴兵規則が制定され、各府藩県より士族・卒族・庶人にかかわらず1万石につき5人を徴兵することを定めた。続いて翌明治4年2月13日には、西郷の構想の一部をも取り込む形で三藩(薩摩・長州・土佐)の軍が御親兵として編成され、この兵力を背景に同年7月の廃藩置県が断行された〔>>289〕。
0863日本@名無史さん
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2018/01/14(日) 23:11:34.65
中央集権体制の近代国家にとって国民軍の創出が不可欠であると認識され、西郷隆盛も最終的には山縣の考え方を支持して、山城屋事件で山縣が辞職に追い込まれた後も、西郷は桐野利秋らの反対論を退けた。
明治5年11月28日に徴兵告諭が出され、翌明治6年1月10日(新暦)に徴兵令が施行された。以後、1月10日は毎年徴兵による新兵の入営日となった。陸軍は初年度、各県から計3272人の徴員を要請したが、各県では100名〜400名程度を徴兵したにとどまる。
0864日本@名無史さん
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2018/01/15(月) 09:48:00.32
▽斗南藩〈となみ〉
明治2年11月3日に、松平容保の嫡男・容大に家名存続が許されて成立した藩である。七戸藩を挟む形で現青森県の東部にあった。会津藩を没収された会津松平家は、改めて元盛岡藩(南部藩)領に設置された旧三戸県5万2,339石の内、北郡・三戸郡・二戸郡内に3万石を与えられて立藩した。
但し旧会津藩士4,700名余が謹慎を解かれたのは、翌年の明治3年1月5日のことである。
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=490x10000:format=jpg/path/s693a965aef69b319/image/i2a3eeadfa1e5912d/version/1397211338/image.jpg
0865日本@名無史さん
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2018/01/15(月) 10:03:04.65
▽アーネスト・サトウ〔>>632
アーネスト・サトウは、日本での体験を「一外交官の見た明治維新」と題した書に記した。そのなかで西郷のことを「黒ダイヤのように光る大きな目玉をしていた」と表現した。おそらく当時の日本に滞在していた外国人のなかで最も西郷と親しい関係にあった人物といえるだろう。
http://furuido.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_9d1/furuido/TS2A0018E382B5E38388E382A6E585A8E8BAAB-c5aac.JPG
0866日本@名無史さん
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2018/01/15(月) 10:03:16.95
西郷と初めて会ったのは、慶応2年6月にイギリス公使パークスが鹿児島に来た際のことである。この年の12月には、生麦事件の賠償の支払を砂糖で代償できないかの交渉のため兵庫港で会談している。さらに慶応3年7月には、薩摩藩と長州藩に対して軍事援助も申し出て来たが、西郷は断っている。
サトウは明治2年に一時帰国しているが、西郷の明治政府からの下野や西南戦争の時期には、再び日本に滞在していた。
0867日本@名無史さん
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2018/01/15(月) 10:11:04.72
▽豊前中津
中津藩は、黒田家(のち筑前福岡藩)→細川家(小倉藩→熊本藩)→小笠原家→奥平家と続いた。
享保2年(1717年)、奥平昌成が丹後宮津藩より10万石で入封した。以後、明治4年の廃藩置県まで九代・155年間支配するところとなった。廃藩置県の後、中津県・小倉県・福岡県を経て大分県に編入された。
https://uub.jp/47/oita/oita_map1.png
0868日本@名無史さん
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2018/01/15(月) 10:12:55.06
奥平時代の同藩の出身者として、藩医であり『解体新書』を著した前野良沢、下級藩士出身の福澤諭吉がいる。
また、福沢とは親戚にあたる増田宋太郎をして、郷土の英雄と位置付けている。西南戦争の時には旧中津藩士によって中津隊が結成され、西郷軍に参加した。
0869日本@名無史さん
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2018/01/15(月) 10:44:44.99
▽増田宗太郎〔>>837
嘉永2年(1849年)- 明治10年
中津藩下士・増田久行の嫡男。母は九州国学の三大家の一人である渡辺重名 (しげな) の娘。父は福沢百助の妻のいとこ。
国学・水戸学を学び、尊王攘夷思想をもっていた。福澤諭吉の再従弟に当たり、住まいも近所で親しい交際があったが、明治3年、福澤が帰郷した際、寝込みを襲おうと暗殺を企てた。同学の同士に、獅子文六の父親の岩田茂穂がいた。福沢邸に乗り込むものの、議論する内に福沢の価値観に魅せられ、その後、慶應義塾へ入学した。なんのこっちゃ?
0870日本@名無史さん
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2018/01/15(月) 10:50:46.77
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Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)
0871日本@名無史さん
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2018/01/15(月) 10:51:36.47
維新後は攘夷思想を改め、自由民権運動に参加する。西南戦争に薩軍側として従軍し、中津隊を率いた。和田峠の戦いで敗れた後、西郷が解軍の令を出し故郷へ帰る隊もある中、最後まで西郷に付き従った。
司馬遼太郎も著書で引用した「1日先生に接すれば1日の愛があり、3日接すれば3日の愛がある」とは増田の言葉である。最後は城山の戦いで戦死したとも、捕えられて斬首されたともいう。
0872日本@名無史さん
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2018/01/15(月) 10:53:26.66
太平洋戦争中は、西洋思想を日本に広めた福沢が貶められ、それを暗殺しようとした増田の評価が高まり、生家跡地には神社まで建立されたという。戦後、評価は元に戻り、現在、増田の生家跡地は小さな公園になっている。
http://fukuzawakyukyo.com/img/jinmyaku/003.jpg
https://www.jalan.net/jalan/img/5/spot/0025/KL/44203aj2200025971_1.jpg
http://eritokyo.jp/independent/nakatsu1/image2011.jpg
0873日本@名無史さん
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2018/01/15(月) 10:59:10.01
▽司馬光
1019年 - 1086年。中国北宋代の儒学者、歴史家、政治家。
諡は文正。温国公の爵位を贈られた。このため「司馬温公」「司馬文正公」と呼ばれる。祖先は西晋の高祖宣帝・司馬懿の弟司馬孚だといわれている。『資治通鑑』の編者として著名。新法・旧法の争いの旧法派の領袖として王安石と論争した。
http://blog-imgs-43.fc2.com/4/1/5/415100/fd202a3770ae4be992d25cff9da102ee.jpg
0874日本@名無史さん
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2018/01/15(月) 11:05:36.14
▽神宗〈1048年 - 1085年〉
北宋の第六代皇帝。在位:1067年 - 1085年。
1066年に皇太子となり、翌年に英宗の崩御により即位した。即位後は地方で政務実績のあった王安石を登用し、国家再建に乗りだした。
王安石による改革は「政・官・財・軍事」の仕組みを再編して朝廷を効率化し、結果として賦税負担を軽減することでの国の発展を目標とするものであり、神宗もその王安石の理念に同意し全権を与えた。
http://funny-c.com/wp-content/uploads/2017/06/c223b58a9691cd8406af4cd8bcfbea4a.jpg
0875日本@名無史さん
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2018/01/15(月) 11:06:32.30
唐突だが、西郷が司馬温公を尊敬していたということで、こんなことになっている。
0876日本@名無史さん
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2018/01/15(月) 11:12:09.44
▽王安石
1021年 - 1086年。北宋の政治家・詩人。
宋では、官吏への俸給の増加、遼および西夏との和平のための贈物による出費、傭兵を維持するための費用などがかさみ、慢性的な財政難に悩まされていた。神宗に登用された王安石は大胆な富国強兵策をたて、その財政難と兵力の弱体化と解決し、宋の再建を目指した。
0877日本@名無史さん
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2018/01/15(月) 11:16:37.11
▽新法
王安石の新法の特徴は、大商人・大地主達の利益を制限して中小の農民・商人たちの保護をすると同時に、その制度の中で政府も利益を上げるというところにある →均輸法・市易法
また、宋の軍事力は傭兵に依存したため、その出費が多かった。王安石は傭兵をやめ、民兵による軍事力の編成を試みた。徴兵制による国民皆兵である →保甲法
http://img.chinatimes.com/newsphoto/2016-02-08/656/20160208000979.jpg
0878翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/01/15(月) 11:31:45.61
第7章 渋谷金王町

〔二〕島津斉彬
「機先を制しなければなりませぬ、支那に兵を送るのです。ただし目的は侵略にあらず、列強の蚕食からの領土保全にあります」
以下、斉彬はのちに佐賀の鍋島閑叟あたりまでその信徒にさせた有名なアジア政策を述べた。
近畿・東海・東山・中国の諸藩は支那本部にむかって入るべし、九州・四国の諸藩は安南交趾(ベトナム地方)方面にむかって進出し、北陸奥羽の諸藩は満州に入り、漢民族に代わって支那大陸を守るのです、と言った。
0879日本@名無史さん
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2018/01/15(月) 11:34:45.71
話が、脇道にそれている。
が、斉彬について触れておくということは、西郷が何者であるかを知るために、案外近道であるかもしれない。
0880日本@名無史さん
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2018/01/15(月) 14:38:53.88
戊辰戦争、日清戦争辺りの日本の軍事的レベル(兵器、戦略・戦術等々)ってどれほどのものだったのでしょうか?特に欧米などと比較した場合。
0881日本@名無史さん
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2018/01/15(月) 15:00:49.95
明治6年の段階では比較にならないほど弱い。この年初めて百姓に軍服を着せて鎮台に配った。
日清戦争の段階でも戦後の三国干渉に屈した程度だから弱い。
0883日本@名無史さん
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2018/01/15(月) 19:35:35.39
西郷隆盛は、弘化元年(1844年)、郡奉行・迫田利済配下となり、郡方書役助をつとめ、御小姓与に編入された。
西郷が直に農村を見てわかった農民の辛苦を書いた上書を、島津斉彬が読む。上書を読んだ斉彬は、西郷の見識の高さや農民を思う優しさに感銘を受ける。安政元年(1854年)、斉彬の江戸参勤に際し、中御小姓・定御供・江戸詰に任ぜられ、江戸に赴いた。
これが、斉彬と西郷の出会いである。
0884日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 17:30:10.47
斉彬と吉之助の二人三脚は、長くても5年間にすぎないんだな。
0885日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 17:36:45.63
▽松平春嶽
江戸城内の田安屋敷で文政11年(1828年)に生まれる。幼名は錦之丞。錦之丞は伊予松山藩主・松平勝善の養子となることが内定しており、天保8年(1837年)には正式決定した。
ところが天保9年(1838年)に越前福井藩主・松平斉善が若年で突然死去した。跡継ぎがいないことから、斉善の兄の第12代将軍・徳川家慶の計らいにより、急遽松平錦之丞が養子とされた。
https://kotobank.jp/image/dictionary/nipponica/media/81306024000702.jpg
0886日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 17:39:21.72
春嶽は、島津斉彬が「家来多数あれと雖も間に合ふ者なし。西郷一人は薩国の大宝なり」と生前言っていたことの証人として登場している。
0887日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 17:44:43.60
▽水神坂の出会い
江戸出府のために鹿児島城下を発った斉彬の一行は、藩境の水神坂の坂上で休息することになります。斉彬は建白書を読んで西郷を中小姓として一行に加えたものの、まだ面識がありません。
そこで斉彬が、「今日、予が供廻りに西郷吉之助はおるか」と側近に質すと、側近は、「かの大兵肥満の人物」といって西郷を指さしました。
0888日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/16(火) 18:04:51.15
▽島津重豪〈しげひで〉
1745年(延享2年)- 1833年(天保4年)。薩摩藩の第8代藩主。
分家の加治木島津家当主島津久門(のちの重年)の長男として生まれた。宝暦5年(1755年)6月、本家を継いでいた父・重年が死去したため、11歳で本家の家督を継いだ。重豪は蘭学に大変な興味を示し、自ら長崎のオランダ商館に出向いたり、オランダ船に搭乗したりしている。
0889日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 18:05:40.65
天明7年(1787年)、家督を長男の島津斉宣に譲って隠居したが、なおも実権は握り続けた。
文化6年(1809年)、近思録崩れ事件が起こった。これは子の斉宣が緊縮財政政策を行なおうとしたものだが、華美な生活を好む重豪は斉宣の政策に反対して斉宣を隠居させた事件である。重豪は斉宣を隠居させ、孫の島津斉興を擁立し、自らはその後見人となってなおも政権を握った。
https://samurai-hi.com/wp-content/uploads/2017/12/s03_2.jpg
0890日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 18:06:12.55
しかし、晩年になると重豪は藩の財政改革にようやく取り組み、下級武士の調所広郷を重用した。調所の財政再建は島津斉興の親政時に成果を見ている。
老いてますます盛んな重豪は、曾孫の島津斉彬の才能を高く評価し、斉彬と共にシーボルトと会見し、当時の西洋の情況を聞いたりしている。なお重豪は斉彬の利発さを愛し、幼少から暫くの間一緒に暮らし、入浴も一緒にしたほど斉彬を可愛がった。
ちなみに重豪は、ローマ字を書き、オランダ語を話すこともできたといわれている。
0891日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 21:17:17.28
重豪 →斉宣 →斉興 →斉彬
司馬さんは、斉宣にはまったく触れておられないので、斉彬を重豪の孫と勘違いする読者もいるかもしれないな。曾孫。
0892日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 21:22:25.40
触れられないんだよ。斉彬は曾祖父の重豪に似ていると言いたいのに、重豪は斉興と同じようなことをしている。
斉興時代の高崎崩れと同じような近思録崩れという事件も起きている。
島津斉宣の存在は、ひた隠しに隠したいわけさ。
0893日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 21:37:26.40
▽『南山俗語考』
鹿児島藩主島津重豪(1745―1833)が編集させた中国語辞典。天部・地部・人部・器材部など19部に分類した8,277語を載せ、片仮名でその発音や訳語を記している。
重豪はオランダ語と中国語の知識に富み、とりわけ中国語は会話ができるほど堪能であった。そんな重豪の中国趣味と、中国船が藩領に時折漂着するという事情が重なって本書が企画された。
明和4年(1767)編集に着手。文化9年(1812)刊。中国人を祖先に持つ医者の曾槃が中国語の和訳を担当し、漢学者で中国語に通じていた石塚確斎が「華音」(中国音)の正誤を校訂した。書名の「南山」は重豪の号で、「俗語」は日常用いる言葉のこと。
0894日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 21:48:18.39
▽Philipp Franz von Siebold〈1796年 - 1866年〉
ドイツの医師・博物学者。
文政6年 (1823) 長崎オランダ商館の医師として来日、翌年長崎郊外鳴滝に診療所を兼ねた学塾を開き、伊東玄朴・高野長英・黒川良安ら数十名の門人に西洋医学および一般科学を教授した。文政9年 (1826) 商館長の江戸参府に随行した。
島津重豪が斉彬を伴い大森宿まで出迎えたのは、このときである。
http://www.geocities.jp/ouminokanjinchou/sieboluto1.jpg
0897日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 22:03:27.50
▽奥平昌高
豊前中津藩〔>>867〕第5代藩主。天明元年(1781年)に薩摩藩主・島津重豪の次男として薩摩藩江戸藩邸で生まれる。天明6年(1786年)、急逝した中津藩主奥平昌男の末期養子として6歳で家督を継ぐ。これには昌男の父・昌鹿と昌高の父・重豪が蘭学仲間で非常に仲が良かったという背景があった。
0898日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 22:06:03.36
父の重豪と同様「蘭癖大名」の一人として知られている。特にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトとの交流は熱心なもので、文政9年(1826年)に実父の重豪とともに初めて対面して以降、5回も会談している。
昌高は養祖父の昌鹿から、藩医であった前野良沢〔>>868〕らが『解体新書』の翻訳で辞書がないため苦労した話を聞いており、文化7年(1810年)に『蘭語訳撰』(通称「中津辞書」)、文政5年(1822年)には『バスタールド辞書』を出版し、江戸後期の西洋文化・科学導入に多大な役割を果たした。安政2年(1855年)、江戸で74歳にて没した。
https://stat.ameba.jp/user_images/20130610/18/atsushi-gion/7b/68/p/o0800053212571110861.png
0899日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 22:11:28.79
▽つぎの代の斉興
「次の次の代」の誤り。次の代は、重豪の子の斉宣である〔>>889〕。
0900日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 22:38:50.26
▽造士館
八代藩主・島津重豪は安永2年(1773年)、儒教の聖堂である「宣成殿」、講堂・学寮・文庫などを建設した。これが「造士館」の始まりである。
初代館長には重豪気に入りの学者であった山本正誼が任命された。モデルになったのは江戸幕府の昌平黌である。
隣接する敷地には弓道場・剣道や柔術などの道場が設けられ、こちらは初め「稽古所」、翌年「演武館」と命名された。
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/supernil/20100309/20100309081317.jpg
0901日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 22:42:42.07
安永3年(1774年)、重豪は漢方を学習する「医学院」を増設する。
安永8年(1779年)には鹿児島城の東南に「明時館」を建設し、天文学を研究させた。
文化4年には近思録党〔>>889〕を「偽実学党」として非難した山本正誼が教授を免職される事態となり、造士館は大混乱に陥った。その後、緊縮財政の影響もあり、造士館での教育は停滞した。
0902日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 22:54:30.54
嘉永4年(1851年)、11代藩主となった島津斉彬は停滞していた造士館の改革に乗り出した。従来の儒教と武芸教育にくわえて西洋の実学を学習の中心においたのである。
明治34年に旧制第七高等学校造士館となるが、昭和25年に新制鹿児島大学に包括され廃校となる。
※慶応3年(1867年)に市内磯地区に建てられた旧鹿児島紡績所技師館。明治17年に鶴丸城址に移築されて造士館本館として長く使用された。
https://img.guide.travel.co.jp/article/36/20150708173539/BD213CE624EA41C899856C2EB9541171_L.jpg
0903日本@名無史さん
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2018/01/16(火) 23:38:12.80
▽家督
斉彬は嘉永4年(1851年)に家督を嗣ぎ、安政5年(1858年)に急死しているから、藩主であった期間はわずか7年でしかない。
0904日本@名無史さん
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2018/01/17(水) 12:04:56.33
▼島津斉宣
安永2年(1774年)、第8代藩主・島津重豪の長男として江戸で生まれる。天明7年(1787年)1月、父・重豪の隠居により、家督を継いで第9代藩主となった。しかし実権は父・重豪に掌握されていた〔>>889〕。
文化2年(1805年)12月には『亀鶴問答』を著し藩政改革の方針を示したが、父・重豪との主導権争いが激化し、さらに薩摩藩の財政改革問題などから内紛(近思録崩れ)が起こる。これにより文化6年(1809年)6月、斉宣は重豪より近思録崩れの責任を問われ、長男の斉興に家督を譲らされて強制隠居させられた。天保12年(1841年)10月、江戸の薩摩藩下屋敷にて死去。享年69。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2f/Narinbu_shimadzu.jpg/250px-Narinbu_shimadzu.jpg
0905日本@名無史さん
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2018/01/17(水) 12:06:44.83
江戸に重豪、斉宣の2人の隠居を抱える薩摩藩の出費は莫大なもので、斉宣は経費が少なくて済む薩摩での隠居を度々幕府に願い出たが却下される。そのため隠居後は一度も薩摩に帰国出来なかった。
父・重豪が孫・斉興に出した手紙で「問題があった時、江戸にいる時には奥平昌高〔>>897〕に相談し、国元にいる時には島津忠厚に相談するように」(奥平昌高と島津忠厚は斉宣の弟であり、斉興の叔父にあたる)とあり、藩政からは徹底的に排除された模様である。
0906日本@名無史さん
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2018/01/17(水) 12:13:00.31
▽島津斉興
寛政3年(1791年)、第9代藩主・島津斉宣の長男として江戸で生まれた。文化6年(1809年)、近思録崩れの責任を取る形で父・斉宣が祖父・重豪によって強制隠居させられたため、家督を継いで第10代藩主となった。しかし藩政の実権は重豪に握られていた。
天保4年(1833年)、重豪が89歳で大往生を遂げるとようやく藩政の実権を握り、重豪の代からの藩政改革の重鎮・調所広郷を重用して、財政改革を主とした藩政改革に取り組んだ。
0907日本@名無史さん
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2018/01/17(水) 12:15:04.10
藩政改革では、借金の250年分割支払いや、清との密貿易、砂糖の専売などが大いに効果を現わし、薩摩藩の財政は一気に回復したが、嘉永元年(1848年)幕府から密貿易の件で咎められ、責任者の調所は12月に急死した。斉興に責任を及ばさないために1人で罪を被り、服毒自殺したとされる。
※調所広郷:竜 雷太 http://news-topics24.com/wp-content/uploads/2017/11/01-zusho_hirosato.jpg
0908日本@名無史さん
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2018/01/17(水) 12:19:24.69
この頃になると、斉興の後継ぎをめぐって藩内では争いが起きていた。斉興の成人した男児には、正室・弥姫(鳥取藩主・池田治道の娘)との間に嫡子・斉彬が、側室・お由羅の方との間には五男・久光がいた。次男・斉敏は岡山池田氏を継いでいた。
本来ならば嫡男の斉彬が継ぐはずであるが、斉興はお由羅とその間に生まれた久光を溺愛し、彼を後継者にしようと考えていた。しかし藩内では聡明な斉彬を後継者に薦める者も少なくなく、嘉永2年(1849年)12月にはお家騒動が勃発した(お由羅騒動)。〔>>513-525
0909日本@名無史さん
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2018/01/17(水) 12:24:00.66
安政5年(1858年)7月16日、斉彬が先立って50歳で急死すると、斉彬の遺言により藩主は久光の長男・忠徳(忠義)が継いだが、忠徳が若年であることを理由に、再び隠居の島津斉興が藩政を掌握した。
西郷隆盛を始めとする斉彬派の家臣を大粛清し、集成館事業を一時廃止したため、一気に時代に逆行した復古的な政策に転換した藩政は混乱した。しかし、翌安政6年(1859年)9月12日に死去。享年69。
https://img.atwikiimg.com/www55.atwiki.jp/eirei/attach/495/2230/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E8%88%88.jpg
※島津斉興:鹿賀丈史
https://samurai-hi.com/wp-content/uploads/2017/12/8914012ef218fffa52d40e04048bb178-e1514560946325.png
0910日本@名無史さん
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2018/01/17(水) 12:29:51.37
ここから蘭癖大名・島津斉彬一代の治績の数々を紹介する。
0911日本@名無史さん
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2018/01/17(水) 12:34:49.02
斉彬の活動期はみじかい。かれは数えて四十三になるまで部屋住みの世子としてすごした。
かれは曾祖父の重豪(しげひで)に愛された。重豪は斉彬が二十五歳のとき八十九歳で亡くなったが、もし重豪と斉彬という二人の非常人が薩摩に国主として存在しなければ、薩摩という風土が維新前後から明治期いっぱいにいたるまで日本のモダニズムの先頭をゆくというぐあいにはならなかったであろう。
0913日本@名無史さん
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2018/01/17(水) 12:50:14.75
▽火薬の製造
鹿児島の滝之上に水車を動力とした大規模な火薬製造所が設立された〔参考:>>760〕。火薬製造のためには硝石・硫黄・木炭を混ぜる必要があった。硫黄は硫黄島や霧島で、木炭は領内各地で豊富に産した。しかし、硝石は藩内で不足しがちであった。
そこで嘉永4年 (1851) 藩主に就任した島津斉彬は、蘭学者石河確太郎に人工硝石の製造法を調べさせ、谷山や城下の各地で硝石を作成する作硝場を設けた。
0914日本@名無史さん
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2018/01/17(水) 12:53:16.33
また、オランダの技術書によって西洋式の火薬の製造を開始したが、その質はむしろ舶来火薬よりも良質だった。文久3年 (1863) には、敷根 (現霧島市) に本格的な洋式火薬製造所が築かれた。
薩摩藩は、敷根火薬製造所を設置する以前から、既に城下の滝之上に火薬製造所を作っており〔>>913〕、また、谷山にも煙硝倉を設けて、火薬製造を行っていました。しかしながら、薩英戦争をきっかけとして、大量に火薬を製造できる施設を建造する必要があると感じ、火薬の増産を試みるため、新たに敷根に火薬製造所を設けることとした。
0916日本@名無史さん
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2018/01/17(水) 13:01:07.69
▽薩摩切子
薩摩藩が幕末から明治初頭にかけて生産したガラス細工・カットグラス(切子)である。薩摩ガラス・薩摩ビードロとも呼ばれた。
薩摩のガラス製造は、弘化3年 (1846)、薩摩藩主島津斉興が中村製薬館を創設した際、江戸から硝子師を招聘し薬瓶をつくらせたことにはじまる。島津斉彬はこれをさらに向上させ、薩摩切子を生み出させた。特に藩内外の洋学者が協力して生み出した紅ガラスは「薩摩の紅ガラス」として珍重された。
https://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/dr518/auc0311/users/0/6/3/9/kaikaroman4649-imgbatch_1510407789/900x650-2017111100008.jpg
0917日本@名無史さん
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2018/01/17(水) 13:05:28.89
▽反射炉
島津斉彬が日本を守る大砲を鋳造するためにつくらせたこの反射炉、もともとはヨーロッパで開発されたものです。しかし当時は鎖国中ですから西洋人に造ってもらうことも教えてもらうこともできません。オランダの書物のみを手がかりに、日本人だけで造るしかありませんでした。
基礎部分は石垣を造る技術、燃焼室などの耐火レンガは薩摩焼の技術を応用したものです。
0919日本@名無史さん
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2018/01/17(水) 13:15:22.47
▽挙兵上洛
安政4年(1857年)老中・阿部正弘が急死すると事態が大きく変わっていきました。急遽、大老に就任した彦根藩主・井伊直弼の裁断で紀州派が勝利。大老・井伊はその地位を利用して強権を発動し、反対派である一橋派の大弾圧を開始します。安政の大獄です(1858年)。
敗れた斉彬は、抗議のため藩兵5000人を率いて上洛することを計画していました。斉彬は上洛を前に7月8日、炎天下、鹿児島城下で大軍事訓練を敢行。その閲兵中、にわかに体調を崩し発病。高熱や下痢が続き、重篤な状態が続いた後、7月16日、あっけなく亡くなったのです。
0920日本@名無史さん
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2018/01/17(水) 13:20:51.49
久光も西郷も、斉彬を真似しただけ。大名という身分の者に、優秀な頭脳が宿ると、やることのスケールが大きい。
凡人は真似するのみ。
0921日本@名無史さん
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2018/01/17(水) 13:44:25.41
なにもかもを斉彬ひとりでやれるはずがない。
斉彬の下で火薬製造に携わった蘭学者石河確太郎のようなブレーンがいたから、成し遂げられたことだと思うよ。
0922日本@名無史さん
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2018/01/17(水) 13:46:21.24
その意味では民間の蘭学熱の高まりも重要ですよね。
司馬さんも、薩摩を舞台にしているわけではありませんが、『胡蝶の夢』でそのあたりの事情を書いておられる。
0923日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 13:50:02.96
19世紀の日本を侮ってはならないよな。すべてが明治維新によってスタートしたんじゃない。江戸末期にすでに近代は始まっていた。
明治維新の重要性は、近代化への最後のネックになっていた士族による武力の独占を廃止して、国民皆兵を実現したことに尽きる。
この観点からは、明治6年の徴兵令こそ重要で、廃藩置県ですら徴兵制のための準備にすぎない。
0924日本@名無史さん
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2018/01/17(水) 13:56:21.33
理系の観点から近代史の再構成をしてもらいたいよな。
文系は人権だの立憲主義だのアホなことしか言わん。
0927日本@名無史さん
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2018/01/17(水) 14:17:30.18
▽松平春嶽
橋本左内が春嶽を補佐していたときは春嶽は一世の目を見張らせるようなところがあったが、左内が井伊直弼の弾圧政治で刑殺されてしまうと、春嶽は昼行燈のようになった。
0928日本@名無史さん
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2018/01/17(水) 14:22:56.12
▽橋本左内
天保5年(1834年)- 安政6年(1859年)。越前国福井藩士。
江戸幕府第14代将軍を巡る将軍継嗣問題では、春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えた。また幕藩体制は維持した上で西欧の先進技術の導入を構想し、帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を弁じた先覚者でもあった。
安政6年(1859年)に安政の大獄が始まり春嶽が隠居謹慎を命じられると、頼三樹三郎と共に伝馬町牢屋敷で斬首となった。享年26。
http://meigen.keiziban-jp.com/wp-content/uploads/2016/03/sanai.jpg
0929日本@名無史さん
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2018/01/17(水) 14:30:30.50
▽藤田東湖
文化3年(1806年)- 安政2年(1855年)
戸田忠太夫と水戸藩の双璧をなし、徳川斉昭の腹心として水戸の両田と称された。安政2年(1855年)10月2日に発生した安政の大地震に遭い死去。享年50。
地震発生時に東湖は一度は脱出するが、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追い、落下してきた梁(鴨居)から母親を守るために自らの肩で受け止め、何とか母親を脱出させるが、自身は母親の無事を確認した後に力尽き下敷きとなって圧死したといわれる。
https://plaza.rakuten.co.jp/img/user/59/88/495988/45.jpg
0930日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/17(水) 14:40:37.86
▽黒船来航
嘉永6年(1853年)に米海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が日本に来航した事件があっても、斉彬は黒船に驚くよりも、黒船を造ろうとした。鍋島閑叟および伊達宗城と競い合うようにして製造に着手したが、ペリー来航後3年で、三藩とも製造に成功した。
このあたりの事情は、司馬氏の短篇集『酔って候』の中の「伊達の黒船」で詳述する。
0931日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 17:51:29.69
▽ミニエー銃
嘉永6年(1853年)にペリーが徳川将軍家に持参した土産。
雷管式の前装式ライフル歩兵銃である。ライフル銃としては最初期のもので、1849年にフランス陸軍のクロード=エティエンヌ・ミニエー大尉によって開発された。
滑腔砲であるマスケット銃にライフリングを刻みこんだもので、従来使用されていたゲベール銃の銃身に改修を施す方法で製造された。
弾丸が充分な回転を持ち弾丸周囲からのガス漏れが防止されたため、飛距離と命中精度が飛躍的に向上した。また装弾が容易となり連射能力も向上した。
http://db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp/script/shuzo_img/646b.jpg
0932日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 17:55:38.59
▼マスケット銃
銃身にライフリングが施されていない先込め式の滑腔式歩兵銃である。このため、散弾も発射可能であった。
命中精度は非常に悪かったため長距離狙撃には向かず、軍隊では陣形を組み敵へ向けて短距離で斉射する運用しかできなかった。
火打石または銃用雷管を用いる滑腔銃身のマスケット銃=ゲベール銃
http://www.japanese-sword.jp/items/1310-7013omo.jpg
0933日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 18:05:42.99
▽島津斉彬とミニエー銃
漫画単行本「せごどん」の第二巻。
斉彬が狩猟に使っている銃がフランス式のミニエー銃だというが、時代はまだ弘化三年(1846)だから、ミニエー弾はまだ開発されていないはず。ミニエー銃は1849年にフランス陸軍のクロード=エティエンヌ・ミニエー大尉によって開発された〔>>931〕。
司馬さんも、ペリーが献上したミニエー銃を斉彬が幕閣から借りて、これを分解してその構造を知り、ミニエー銃を3,000挺製造したと書かれているが???。
0934日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 18:10:17.53
小銃ではなく大砲に関する薩摩藩のエピソードに、次のようなものがあります。
島津斉彬の先見性と沿岸防備推進策により、首府鹿児島を防備するための大砲の準備と設置は順調に進んでいたが、残念ながら、その主力は一時代前の射程の短い滑空砲であった。
その結果、生麦事件報復時の「薩英戦争」によって、滑空砲が如何に時代遅れかを薩摩藩全体が身を持って体験させられたのである。
0935日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 18:12:06.31
幕府も何もしなかった訳ではなく、1855年に老中阿部正弘は、江戸・湯島の大筒鋳立所に小銃の製作を指示しています。これは在来技術を用いてゲベール銃やヤーゲル銃 (狙撃用前装ライフル銃) が作れるものと考えていたようです。
江川英敏 (江川英龍の息子) がこれにあたりますが、後にヤーゲル銃の生産は取りやめられ、1857年に予定の4000丁のゲベール銃を完成させています。1861年にはもう4000丁を作り上げた様です。
0936日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 18:18:18.83
1860年、幕府ではライフル銃(ミニエー銃)の生産が計画されます。しかしライフル銃身の製造に失敗しこの計画は頓挫します。
1861年に小栗忠順らの上申で欧米から工作機械を導入しライフル銃を作ることが計画され、1865年末に関口工廠に蒸気施条機械が搬入されます。
ちなみに、幕府と薩摩では1864年頃には、青銅前装ライフル砲「四斤山砲」〔>>593〕の生産に成功しています。小銃に関しては、筆者にもよくわかりません。
0937日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 18:19:16.91
日本での本格的なライフル銃の生産は、1880年の十三年式村田銃まで待たなければならないようです。しかし、村田銃のライフル銃身はベルギー製らしいです。
0938日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 18:23:23.29
       / \  /\ キリッ
.     / (ー)  (ー)\    <ペリーも彼が愚弄した日本国にライフル銃を大量製造しうる侯国が
    /   ⌒(__人__)⌒ \     存在していることを想像すらできなかったであろう
    |      |r┬-|    |
     \     `ー’´   /
    ノ            \
  /´               ヽ
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 ヽ    -一””””~~``’ー?、   -一”””’ー-、.
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))

          ____
        /_ノ  ヽ、_\
 ミ ミ ミ  o゚((●)) ((●))゚o      ミ ミ ミ   <だっておwww
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\   /⌒)⌒)⌒)   
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ヽ    /     `ー’´      ヽ /    /
 |    |   l||l 从人 l||l      l||l 从人 l||l  バンバン
 ヽ    -一””””~~``’ー?、   -一”””’ー-、
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))
0940日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 18:28:45.94
薩摩でミニエー銃を大量生産していたら、長崎のグラバー商会は商売にならんわ。
0941日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 18:35:34.28
斉彬は、かれが死去する安政5年(1858年)に計画していた大挙上洛においては、このライフル銃三千挺をひっさげて京都に拠り、その威力によって日本国の改造に乗り出すつもりだったのである。だっておwww(AA略
0942日本@名無史さん
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2018/01/18(木) 18:46:03.44
▽水野忠邦
寛政6年(1794年)、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。文化14年(1817年)9月、実封25万石の唐津から実封15万石の浜松藩への転封を自ら願い出て実現させた。これは、唐津藩が長崎警備の任務を負うことから幕閣としての昇格に障害が生じるからである。
天保10年(1839年)に老中首座となった。その後は天保の改革でおなじみ。
http://livedoor.blogimg.jp/hirohiko24-bokepuri/imgs/e/b/eb97533a.jpg
0943日本@名無史さん
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2018/01/18(木) 18:49:51.56
当時異国船が日本近海に相次いで出没して日本の海防を脅かす一方、年貢米収入が激減しているにもかかわらず、徳川家斉の大御所政治は放漫な財政に打つ手を見出せないでいた。
天保8年(1837年)4月に家慶が第12代将軍に就任し、ついで天保12年(1841年)閏1月に大御所・家斉の薨去を経て、家斉旧側近を罷免し、天保の改革に着手した。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 18:51:50.84
天保の改革では「享保・寛政の政治に復帰するように努力せよ」との覚書を申し渡し「法令雨下」と呼ばれるほど多くの法令を定めた。
農村から多数の農民が逃散して江戸に流入している状況に鑑み、農村復興のため人返し令を発し、弛緩した大御所時代の風を矯正すべく奢侈禁止・風俗粛正を命じ、また、物価騰貴は株仲間に原因ありとして株仲間の解散を命じる低物価政策を実施した。
0945日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 18:53:37.04
その一方で低質な貨幣を濫造して幕府財政の欠損を補う政策をとったため、物価引下げとは相反する結果をもたらした。腹心の遠山景元は庶民を苦しめる政策に反対し、これを緩和したことにより庶民の人気を得、後に『遠山の金さん』として語り継がれた。
また、天保14年(1843年)9月に上知令を断行しようとして大名・旗本の反対に遭うなどした上、腹心の鳥居耀蔵が上知令反対派の老中・土井利位に寝返って機密文書を渡すなどしたため、閏9月13日に老中を罷免されて失脚した。
0946日本@名無史さん
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2018/01/18(木) 18:58:22.63
弘化元年(1844年)5月、江戸城本丸が火災により焼失した。老中首座・土井利位〈としつら〉はその再建費用としての諸大名からの献金を充分には集められなかったことから将軍家慶の不興を買い、6月21日に家慶は水野忠邦を老中首座に再任した。
しかし昔日の面影はなく、重要な任務を与えられるわけでもなかったため、御用部屋でもぼんやりとしている日々が多かったとされる。
一方で忠邦は、天保改革時代に自分を裏切った土井や鳥居らに報復をしている。土井利位は自ら老中を辞任。鳥居耀蔵は全ての役職を罷免された。
0947日本@名無史さん
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2018/01/18(木) 19:00:53.44
老中・阿部正弘は水野忠邦の再任に強硬に反対し、忠邦は弘化2年(1845年)9月、強制隠居・謹慎が命じられた上、まもなく出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられた。嘉永4年(1851年)2月10日、死去。享年58。
0948日本@名無史さん
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2018/01/18(木) 19:25:30.40
水野忠邦は、同僚の阿部正弘に対し、
「あなたは薩摩守と仲がよさそうだが、かれは油断がならぬ」
と言っていたという。
0949日本@名無史さん
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2018/01/18(木) 19:31:20.14
▽阿部正弘
文政2年(1819年) - 安政4年(1857年)。備後福山藩第7代藩主。江戸幕府の老中首座。
天保8年(1837年)、正弘は福山へのお国入りを行った。正弘が国元へ帰ったのはこの一度だけである。
天保14年(1843年)、25歳で老中となり、弘化2年(1845年)9月には、老中首座であった水野忠邦を天保の改革の際の不正を理由にその地位から追い、代わって老中首座となった〔>>947〕。
https://pbs.twimg.com/profile_images/817366032037781504/2w2UXDg1.jpg
0950日本@名無史さん
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2018/01/18(木) 19:34:28.84
人材育成のため、嘉永6年(1853年)には自らが治める備後福山藩の藩校「弘道館」(当時は新学館)を「誠之館」に改め、身分にかかわらず教育を行った。ただ、藩政を顧みることはほとんどなく、藩財政は火の車であった。嘉永5年(1852年)から加増された1万石は、ほとんどを誠之館に注ぎ込んだといわれる。
0951日本@名無史さん
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2018/01/18(木) 19:36:07.72
幕政においては、弘化2年(1845年)から海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせた。
弘化3年(1846年)、アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが相模国浦賀へ来航して通商を求めたが、正弘は鎖国を理由に拒絶した。
7年後の嘉永6年(1853年)にはペリー率いる東インド艦隊がアメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航した。同年7月には長崎にロシアのプチャーチン率いる艦隊も来航して通商を求めた。
0952日本@名無史さん
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2018/01/18(木) 19:38:06.80
この国難を乗り切るため、正弘は朝廷を始め、外様大名を含む諸大名や市井からも意見を募った。また、松平慶永や島津斉彬らの意見により、徳川斉昭を海防掛参与に任命したことなどが諸大名の幕政への介入の原因となり、結果的に幕府の権威を弱める一方で、雄藩の発言力の強化及び朝廷の権威の強化につながった。
0953日本@名無史さん
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2018/01/18(木) 19:38:21.83
なお、正弘自身は異国船打払令の復活をたびたび諮問しているが、いずれも海防掛の反対により断念している。ただし、これは正弘の真意ではなく斉昭ら攘夷派の不満を逸らす目的であったとの見方もある。
0954日本@名無史さん
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2018/01/18(木) 19:39:36.73
嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、ペリーの再来により同年3月3日(3月31日)、日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げる。しかし、条約締結に反対した徳川斉昭は、締結後に海防掛参与を辞任することになる。
0955日本@名無史さん
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2018/01/18(木) 19:43:59.74
安政2年(1855年)、攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派の松平乗全〈のりやす〉、松平忠固を老中より罷免したことが、開国派であった井伊直弼らの怒りを買い、孤立を恐れた正弘は10月9日、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図ることを余儀なくされた。
安政4年(1857年)、老中在任のまま江戸で急死した。享年39。
0956日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 19:48:14.39
阿部正弘 (老中 / 1819-1857) … 藤木直人
https://pbs.twimg.com/media/DLPpxRQVwAAJyQR.jpg
徳川斉昭 (前水戸藩主・慶喜父 / 1800-1860) … 伊武雅刀
https://pbs.twimg.com/media/DLPs_mFVoAEQ9JR.jpg
徳川家定 (第13代将軍 / 1824-1858) … 又吉直樹
http://webbizinfo.xsrv.jp/segodon/wp-content/uploads/2017/10/naoki-matayoshi.jpg
井伊直弼 (大老・彦根藩主 / 1815-1860) … 佐野史郎
https://pbs.twimg.com/media/DLPs-1wU8AAXkZU.jpg
0957日本@名無史さん
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2018/01/18(木) 19:59:52.67
▽集成館事業
島津斉彬が集成館事業を開始するに至るまでの時代背景として、その当時、中国でのアヘン戦争(1840〜1842年)などで英仏等の西欧諸国がアジア各地で植民地化を進めていたことが挙げられる。
アヘン戦争については、魏源が著した『海国図志』(1843年初版)などの書籍が日本に輸入されていたため、日本でもその実情はかなり正確に知られていた。東洋一の大国であった清国が敗戦して植民地化されていったことに、日本人は衝撃を受けるとともに、次に狙われるのは日本かもしれないという危機感を強く感じていた。
0958日本@名無史さん
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2018/01/18(木) 20:02:57.02
アヘン戦争前後から当時薩摩藩の支配下にあった琉球へ異国船が度々来航するようになっており、それらは逐一琉球から薩摩藩へ報告されていた。
1851年に薩摩藩主に就任した島津斉彬は、それまで長年温めていた集成館事業に着手し、現在の鹿児島市磯地区を中心として近代洋式工場群の建設に取り掛かった。
特に製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、大砲製造から洋式帆船の建造、武器弾薬から食品製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開した。
https://media-cdn.tripadvisor.com/media/photo-s/0c/1d/7b/b8/caption.jpg
0959日本@名無史さん
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2018/01/18(木) 20:09:44.76
▽お由羅の方〔>>518
寛政7年(1795年)- 慶応2年(1866年)。薩摩藩主・島津斉興の側室。
出身については江戸の大工・工藤左衛門の娘といわれているが、江戸・三田の八百屋の娘、その他に舟宿の娘など多数の説がある。
薩摩藩邸で奉公していた際に斉興に見初められ、斉興の側室となる。藩邸には正室・弥姫(周子)がいたため、由羅は薩摩に置かれたが、参勤交代の度に江戸と薩摩に由羅を連れて行くほど斉興の寵愛は深かったともいわれている。
0960日本@名無史さん
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2018/01/18(木) 20:19:36.24
▽斉彬の妻子
子は六男五女の11人であった。
正室:恒姫(一橋家徳川斉敦の娘)→長男・菊三郎
側室:酒井忠?の娘 →長女・澄姫/次女・邦姫
側室:田宮安知の娘 →三男・盛之進/五男・虎寿丸
側室:伊集院須磨 →三女・?姫(島津忠義正室)/四女・典姫(島津珍彦夫人)/五女・寧姫(島津忠義の後妻)/四男・篤之助/六男・哲丸
側室:旗本横瀬克己の娘 →次男・寛之助
0961日本@名無史さん
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2018/01/18(木) 20:21:29.49
多数の子女のうち成人したのは須磨との間の娘三人人のみで、全員が弟久光の息子の妻となった。さらに、養嗣子の忠義に嫁いだ娘2人はいずれも難産で死去し、無事出産を迎えて命を長らえたのは典姫ただ一人であった。
※斉彬の娘たちの写真。左から典姫・?姫・寧姫。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/18/Shimazu_Nariakira_Family.jpg/200px-Shimazu_Nariakira_Family.jpg
0963日本@名無史さん
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2018/01/18(木) 20:34:52.98
▽島津忠義
天保11年(1840年) - 明治30年
島津氏分家の重富家当主・島津久光の長男として生まれる。伯父・斉彬の養嗣子となり、安政5年(1858年)の斉彬没後、その遺言により跡を継ぐこととなった。遺言では斉彬の子・哲丸が幼少のために仮養子という形だったが、ほどなくして哲丸は死去した。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201303/28/92/a0287992_214724100.jpg
0964日本@名無史さん
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2018/01/18(木) 20:46:30.46
▽岡崎藩邸
斉彬は安政5年の大挙上洛に備えて、京の岡崎に藩邸の敷地を買い求めていた。
薩摩藩邸は文久4年までに京都市街地とその周辺に都合三か所あったことになる。取得の順序でいえば、享保2年までに市街地内部の錦小路、それから176年後に市街地北部の御所の近傍で二本松藩邸を建設し、その直後に鴨川の東側に位置する岡崎でも藩邸を確保していた。
0965日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 21:08:55.01
▽月照
文化10年(1813年)- 安政5年(1858年)
大坂の町医者の長男として、讃岐の国吉原(現在の善通寺市)に生まれた。
徳川家定の将軍継嗣問題では一橋派に与したため、大老の井伊直弼から危険人物と見なされた。西郷隆盛と親交があり、西郷が尊敬する島津斉彬が急死したとき、殉死しようとする西郷に対し止めるように諭している。
https://i0.wp.com/pleasure-bit.com/wp-content/uploads/2017/12/Gesho.jpg
0967日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 21:14:56.14
安政5年(1858年)8月から始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷と共に京都を脱出して薩摩藩に逃れたが、藩では厄介者である月照の保護を拒否し、日向国送りを命じる。この頃、藩政の実権は、島津斉興にあった〔>>909〕。
これは、薩摩国と日向国の国境で月照を斬り捨てるというものであった。このため、月照も死を覚悟し、西郷と共に錦江湾に入水した。月照はこれで亡くなったが、西郷は奇跡的に一命を取り留めている。享年46。
0968日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 21:18:39.24
▽福山矢三太
西郷の国許にいた同志らしい。詳細不明。
斉彬の死の直後に認められた西郷からの手紙を受け取ったとされる。
0969日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 21:36:08.14
▽精忠組
近思録崩れ〔>>904〕の秩父季保が愛読した『近思録』を輪読する会が発展したものである。彼ら自身が「精忠組」を名乗った事実はなく後世の命名である。西郷隆盛を盟主的存在とし、大久保正助(利通)・堀仲左衛門・岩下方平らが主導した。
水戸藩と共同して大老井伊直弼を暗殺し京都への出兵を行おうとする「突出」を計画したが、藩主島津忠義および島津久光から軽挙妄動を抑制されて頓挫した。結局井伊暗殺には有村次左衛門のみが参加(桜田門外の変)し、それを国元へ伝えた兄の有村雄助は切腹処分となる。
0970日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 21:40:51.39
久光はその後、大久保利通・税所篤・堀仲左衛門(伊地知貞馨)・吉井友実らを側近として抜擢した。
文久2年(1862年)、久光は、精忠組の主張する「突出」に代わり、幕府改革を企図した出兵を実行に移す。しかし精忠組の中でも有馬新七ら過激派は、真木和泉・清河八郎ら諸国の尊王攘夷派志士らと連携し、孝明天皇奪還計画などに加わり、久光の説諭にも従わなかった。
有馬らが集結する旅籠寺田屋に向けた久光からの上使として奈良原繁・大山綱良らが最後の説得を行うが、交渉は決裂。精忠組の同士討ちとなる寺田屋騒動が発生した。ここにおいて精忠組の結束は事実上崩壊した。
0971日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 21:42:29.79
>>968
精忠組のメンバー表を調べてみたが、福山矢三太という人物は存在しない。
架空の人物もしくは実在した人物の変名だろうな。
0972日本@名無史さん
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2018/01/18(木) 21:48:51.45
迷路に足を踏み入れた読者の皆様へ。現在、渋谷金王町の西郷従道邸に西郷吉之助を訪ねた川路の件が続いております。
西郷の人となりを説明するために、その師というべき島津斉彬の人物を解き明かしています。
その過程で、話が脇道にそれております〔>>879〕。
0973日本@名無史さん
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2018/01/18(木) 21:57:13.44
▽安政江戸地震
安政2年10月2日(1855年11月11日)午後10時ごろ、関東地方南部で発生したM7クラスの地震である〔>>929〕。
特に強い揺れを示したのは隅田川東側(江東区)であった。隅田川と江戸川に挟まれた沖積地が揺れを増幅したものと考えられる。震度6以上の揺れと推定されるのは江戸付近に限られる一方で、震度4以上の領域は東北地方南部から東海地方まで及ぶ。
http://5orb.net/ukiyoe2/Catfish1/images_up/033.jpg
0974日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 22:05:16.78
▽三田藩邸
現在の三田は、江戸時代に多くの大名屋敷がありました。三田ではNECの本社が一際目立ちます。このNECの本社は薩摩藩上屋敷の跡に建っています。幕末には、薩摩藩邸は三田の上屋敷、日比谷の装束屋敷、高輪の中屋敷、田町の蔵屋敷、渋谷の下屋敷、そして現在は八芳園になっている白金の屋敷がありました。
https://pds.exblog.jp/pds/1/201302/25/04/c0187004_10322952.jpg
0975日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 22:12:42.06
天璋院篤姫が13代将軍家定に輿入れする際にも、まず最初に三田の上屋敷に入りました。しかし、その後、安政2(1855)年10月2日に安政の大地震が起きて上屋敷が被害をこうむったため、渋谷の下屋敷に移りました。篤姫は1年余り、渋谷下屋敷で過ごした後、安政3年11月11日に江戸城に輿入れしました。
※篤姫 (徳川家定継室 / 1836-1883) … 北川景子
https://pbs.twimg.com/media/DTtgi-2WAAoxiDf.jpg
※幾島 (篤姫女中頭 / 1808-1870) … 南野陽子
https://daily.c.yimg.jp/gossip/2017/10/19/Images/10655894.jpg
0976日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 22:23:41.61
慶応3年12月25日に起きた庄内藩新徴組による江戸薩摩藩邸の焼討事件の江戸藩邸とは、三田藩邸のことである〔>>63〕。
これは新徴組が屯所としていた赤羽根橋の美濃屋に30人あまりの賊徒が鉄砲を撃ち込んで逃走し薩摩藩邸に逃げ込んだ事件への報復であった。
幕府を挑発するための放火・略奪・暴行を指揮していたのが、薩摩藩士の伊牟田尚平や益満休之助である。益満休之助は、司馬『花咲ける上方武士道』の重要登場人物である。
0977日本@名無史さん
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2018/01/18(木) 22:31:32.83
▽薩摩藩渋谷別邸
江戸の郊外に位置した渋谷周辺にあった大名屋敷は、ほとんどが下屋敷だった。
國學院・青山学院・実践等学舎が集中する閑静な場所に別邸跡となる「常磐松の碑」がある。嘉永5年(1852)に薩摩藩屋敷になり、その後1万8千坪の広大な敷地となった。
斉彬は、安政大地震の後、この渋谷別邸でしばらく暮らした。
http://bkmts.on.coocan.jp/tensyouin501.jpg
http://bon-emma.my.coocan.jp/sekihi/imgs/tokiwamatsu1.jpg
0978日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 22:35:57.12
▽安政2年(1855年)12月16日
斉彬は、渋谷別邸に、松平春嶽を招待した。
斉彬のアジア政策は、春嶽によって記録に残されている。
0979日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 22:42:46.40
▽太平天国の乱
清朝の中国で1851年(嘉永4年)に起こった大規模な反乱。洪秀全を天王としキリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国が起こした。
賊は清朝が強制した弁髪を拒否して長髪にしていたため、長髪賊の乱ともいわれる。
https://1.bp.blogspot.com/-xgMCiVRnVyY/Wf_S012x6bI/AAAAAAAAEBk/jtmMyjZl81sGzZbWXr1jbgJDjHoYlzsswCLcBGAs/s1600/%25E5%25A4%25AA%25E5%25B9%25B3%25E5%25A4%25A9%25E5%259B%25BD.gif
0980日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 22:51:12.20
▽白村江の戦い〈はくすきのえ〉
天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた倭国・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦い。
581年に建国された隋は、煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征を行ったものの、いずれも失敗した。唐は二代太宗・三代高宗の時に高句麗へ3度に渡って侵攻を重ね、ついに高句麗を征服する(668年)。
0981日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 22:56:49.40
百済は、642年から新羅侵攻を繰り返していたが、659年4月、唐は秘密裏に百済への出撃準備を整え、また、倭国が送った遣唐使を洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した。
660年、百済が唐軍・新羅軍に敗れ、滅亡する。その後、鬼室福信らによって百済復興運動が展開され、救援を求められた倭国が663年に参戦し、白村江の戦いで敗戦する。
0982日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 23:02:16.86
戦後、唐は百済・高句麗の故地に羈縻州を置き、新羅にも羈縻州を設置する方針を示した。新羅は旧高句麗の遺臣らを使って、669年に唐に対して蜂起させた。
何度かの戦いの後、新羅は再び唐の冊封を受け、唐は現在の清川江以南の領土を新羅に管理させるという形式をとって両者の和睦が成立した。唐軍は675年に撤収し、新羅によって半島統一がなされた。
http://navicon.jp/feature/images/kmap2.jpg
0983日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 23:05:57.53
▽文禄・慶長の役
文禄元年(1592年)に始まって、翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役
慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開され、翌慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死による日本軍の撤退で終結した慶長の役
0984日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 23:26:02.04
斉彬の時代、清朝は衰弱し、すでに内乱が慢性化し、しかも清朝に交代すべき新勢力は現れず、清朝は国家としてあの広大な大陸を統治する力を失いつつある。
「いずれ、支那大陸は英仏が支配するであろう」
という観測が基礎になっている。支那大陸を英仏が支配すれば日本もろとも彼らの属邦になってしまうかもしれないという恐怖が、観測に裏打ちされている。
0985日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 23:28:42.47
この恐怖は、日本の地理的性格からくる宿命のようなものであった。支那大陸でおこる変動や変化が、ときに朝鮮半島というクッションをおきつつもその波動の影響から免れないのである。
0986日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 23:33:02.17
▽琉球館
福建省福州と鹿児島に置かれた琉球王国の出先機関。福州琉球館は、琉球専用の滞在施設として中国側の手で設置されたもので、正式名称を柔遠駅といった。設置の年代は不明だが、15世紀後半にはすでに存在し、1879年(明治12)の琉球処分により王国が廃されるまで活用された。
http://ryubun21.net/media/2/20120207-hukusyu4.jpg
0987日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 23:38:17.98
鹿児島琉球館は、島津侵入事件後に薩摩と琉球の連絡調整機関として設置された。
島津侵入事件とは、1609年(慶長14)春、薩摩藩主島津家久が兵3000を送って琉球王国を侵略し征服した事件。薩摩は琉球の検地を行い、与論島以北の奄美地方を琉球王国から分割して自藩の直轄領に繰り込むと同時に、他を琉球国王領と認めながらも、これに対する管理権を確保する方針をとった。
また、鎖国体制の強化に伴い、琉球王国を介する対中国貿易の重要性に着目し、その管理権も手中にした。こうして、東アジアに独立自営の国家として存在してきた琉球王国は、薩摩藩を介して幕藩体制の一環に編成されることになった。
0988日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 23:40:07.69
斉彬は、日本は英国がそのようにして国家を保っているように積極策をとる以外にない、と思うようになったのである。
0989日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 23:44:40.62
▽台湾占領策
18世紀頃までの台湾は、中国本土の支配を受けた他、オランダやスペインの植民地であったりもしました。以前より、中国大陸から漢人が入植していましたが、清の時代になると中国本土からの移住が一段と進みました。もともと台湾に居住していた先住民族はいずれも少数民族であるため、人口の大半は漢人が占めるようになりました。
0990日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 23:49:36.10
台湾に渡った漢人の出身地は福建省が多く、福建地方の言葉が台湾語と呼ばれ、現在まで広く使われています。また、戦乱から逃れるため中原から南へと移動して定住を繰り返していった客家人も台湾に移住してきましたが、客家語を話します。
移住先では原住民から見て“よそ者”であるため客家(ハッカ)と呼ばれますが、そのルーツを辿ると周から春秋戦国時代の中原や中国東北部の王族の末裔であることが多いといわれています。
0991日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 23:52:53.19
清の時代には台湾にもその支配が及びましたが、大陸政権は中華思想の政権であり、中央との距離が遠いほど文明度が低くなるという思想により、台湾は小さな僻地の島という認識に基づいて、十分な統治を行いませんでした。
そのため、近世以前の台湾は、清国の領土であるか否かがあいまいな混沌とした状態が長く続きました。
https://www.petitmonte.com/images/uploads/nihon_saidaihanto1.png
0992日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 23:56:06.54
斉彬のこの思想をもって彼が侵略主義者であったということにはならないであろう。19世紀の帝国主義時代の国際環境のなかで日本を自立せしめるにはこれ以外にない、と斉彬は思っていた。
というより日本の地理的環境が彼をしてそう思わしめていたのである。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/18(木) 23:57:49.68
まだ、第7章「渋谷金王町」の途中でありますが、キリがよいので続きは次スレでやります。
0996日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 00:05:25.20
台湾の歴史については『街道をゆく』の「台湾紀行」で詳しくやります。
0997coffee break
垢版 |
2018/01/19(金) 00:09:19.83
ドラムレスのウィズ・ストリングス物など死ぬまで聴くことはないだろうと若い頃は思っていたが、歳をとるとこういう音楽が心臓に優しい。
0998日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 00:11:49.11
>>983
文禄・慶長の役も一度きっちりまとめたいのだけど、人名に旧字体があったりして、やりにくくはある。
0999日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 00:12:47.36
気のせいかもしれんが、旧字体で表示できる範囲が、最近拡大されたんじゃないか?
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