邪馬台国畿内説 Part310
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1513608370/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12−1
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
◆FAQ 12−2
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絕二千里。
(精絕國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與罽賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蟬県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。 ◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「猗氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道猗氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ3に加筆 >>61
>A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
根拠なし チラ見しただけで吐き気を催しそうになるほど、嘘で塗り固められた文章が何十レスもテンプレとして貼られている。
頭おかしいだろ。 事代主
┣━━━━━━━┓
クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 ヌナソコナカツ媛━━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
天理市和邇町には阿田賀田須を祀る和邇赤坂比古神社と天足彦国押人命 を祀る和邇下神社がある。
ヒミコと直結する東大寺山古墳出土の中平銘鉄刀がどちらの流れでも構わない、説明できる。
完璧!wwww >>63-66は荒らしね
wwwwwwwwwwww このスレでよいのか?が不明だが、一旦ここに投稿。
>>962
>>2世紀に華中→伽耶→吉備や出雲の伝搬を起こすような、<
>そんなことは書いてない 読み直せ<
時期を特定した記載は、「2世紀」だけだ。 >>963
>>2世紀に華中→伽耶→吉備や出雲の伝搬を起こすような、
事件や理由が全くないではないか。<
>文化の伝播には事件も理由も要らないよ 交通路があればよい<
ダメだ。
部族の墓形態は、非常に保守的であり、
だから新しい墓形態への変化は、部族支配者の交代やや何らかの教育や、
流民の流入などの大事件が必要であり、
単なる伝搬では採用されず、
強いきっかけがなくては、新しい墓祭祀法の採用はない。 >>965
大和説者の長里単独説では、
始めから「萬二千余里」で赤道付近にまで行ってしまうから、
長里説の破綻は、始めから明らかだったね。 >>966
>なんで バイト雇うのがいい加減なの?<
明帝らにバレたら、詔書も親魏倭王印も大量の下賜品も、
率善中郎將も率善校尉も假銀印青綬も、
取り消されてしまう事になるから。 >>967
>>それなら、(ホケノは)扶余や楽浪の「槨」よりも進化型であり、<
>異質なものが、なぜ進化型?<
複雑巨大化高級化は、前よりも進化であり、時代が後であり、
墳丘や技能や武器や車などの文明も、皆同じ。 >>969
>>大体合っていたんだから、 ほぼぴったりだ。<
>ムチャクチャだな 大体しか合ってないものが なんで、ほぼぴったりなんだ<
大和説のような、赤道付近にまで行ってしまうような長里説に比べれば、
道のり距離と直線距離の2割以下位の差異は、大体ほぼぴったりだ、と言える。 >>970
>道のり距離計算と、直線距離計算の、両方で それぞれで大体合っていたって
どんなふうに合ってたの? 数字はいくつ?<
何だ?、まだ判っていなかったのか?。
行程移動の道のり里数の合計での「邪馬壹國女王之所都」までの里数の萬二千余里と、
「自郡至女王國萬二千餘里」と書かれた「女王國」への直線距離的里数とは、
違う、という事だ。 >>973
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシばかりの大和説は、
「邪馬壹國女王之所都」までの「道のり距離記載」と、
「(投馬國などもふくむ)女王國」への「直線距離的記載」との」区別も判らず、
誤魔化してばかりだな。 >>975
>>外国の正式使節が実際に実地に直接見聞して記録した史料事実は、<
>外国の正式使節が実際に実地に直接見聞して記録した史料事実
だって断定する根拠は?<
「断定」なんてしないよ。
また、根拠は、倭人伝の記載が魏使らの記録が元になっている、という事だよ。 >>977
このように、トンデモ大和説者は、
これまでの議論で説明して来た根拠理由に対して、
「南→東」の場合と同じように、
全てなかった、という事にして否定し、
ひとこともその理由を書かない。
おそらく大和説者は、ほぼ全員、思想宗教にクルった・・・・・ケダモノサギシ。 >>981
>どうして
魏使の持衰の記載は、魏使らが、実際に、
>「使一人が倭船に乗って持衰として存在している」状態を見なければ記録出来ないような記載だ、<
「不梳頭、不去虫幾蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人」
という倭人伝の記載実態が根拠だ。 >>983
これも、大和説者が同じ事を、しゃべっている。
どうやら、大和説者は、途中でイっちゃったな?。 >>984
>どうして執筆時の説明文なの? 理由は?<
陳寿の注釈的な記載だから。
しかし、これも同じ事を質問しているから、
大和説人種が、「途中でイっちゃった 」証拠。 >>990の訂正。
三国志を書いたのは、魏ではなく、陳寿だ。
陳寿は、原則として、魏呉蜀を公平に書いて評価した。 >>63
根拠がFAQに載ってるのに
現実から目を背ける九州信者の
醜悪さ >>78
>また、根拠は、倭人伝の記載が魏使らの記録が元になっている、という事だよ。
倭人伝の記載が魏使らの記録が元になっている、という根拠は? >>82
>陳寿の注釈的な記載だから。
なんで陳寿の注釈的な記載だと断定するの?
理由は? >>76
>行程移動の道のり里数の合計での「邪馬壹國女王之所都」までの里数の萬二千余里と、
>「自郡至女王國萬二千餘里」と書かれた「女王國」への直線距離的里数とは、
>違う、という事だ。
これは古田の説なのか? >>80
>「不梳頭、不去虫幾蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人」
>という倭人伝の記載実態が根拠だ。
それがなんで
魏使がそれを見て記録した
という根拠になるの? >>998
>「道のり里数」的な記載が直線距離の2割位多くなっている
って根拠は? ????<
「乍南乍東」の話でも書いたように、
直角二等辺三角形での斜辺の直線移動距離は、
二等辺の移動距離の2/1.414=1.414(倍)になっており、
それは、最も極端な場合であるので、極端な場合が半分であったとすると、
1.207倍になり、その区間だけでは約2割増し位になるが、
実際の郡〜邪馬台国女王之所都の道のりが東南から外れるのは、
半分以下のような記載であるから、
道のり距離は直線距離の2割増し以下。 >>79
>これまでの議論で説明して来た根拠理由に対して、
なにを説明した? >>90
>それは、最も極端な場合であるので、極端な場合が半分であったとすると、
………
>道のり距離は直線距離の2割増し以下。
なんで根拠のない過程が、途中から断定に変わるの? >>999
>「槨」部族の流民移動 なんて有ったという根拠は?<
魏志倭人伝の卑弥呼や壹與の頃の倭国には「有棺無槨」であって、
その後になる倭國の別種分家の大和のホケノに突然「有棺有槨」墓が現れる、
という事は、
大和に、倭国とは別の「有槨」部族の流入があった、
としか考えられないから。 >>1000
1000までの大和説者のイチャモンは、全部反論されたから、
大和説憤死。 >>93
お前が無知だから考えられないというだけの話 >>84
FAQが、「南→東」の嘘吐きダマシの指摘から逃げた事が判っているのに、
現実から目を背ける大和説信者の、
醜悪さ。 >>76
「自郡至女王國萬二千餘里」が直線距離的里数なら
途中の行程の道のり里数の合計がたまたま萬二千餘里になっても
無意味な数字ということになる >>85
>公平じゃないだろ<
陳寿は、原則は「公平」。 >>86
>>また、根拠は、倭人伝の記載が魏使らの記録が元になっている、という事だよ。<
>倭人伝の記載が魏使らの記録が元になっている、という根拠は?<
陳寿は、倭地までは来ていなかったから。 >>101
祖国の蜀に肩入れ、魏に媚びへつらってた陳寿が何だって?w >>104
陳寿が倭地までは来ていないと
なんで
倭人伝の記載は魏使らの記録が元になっている、ということになるの?
理由は? >>69
>時期を特定した記載は、「2世紀」だけだ。
なら、特定されている箇所以外は
2世紀かどうか判らんだろ? >>87
>>陳寿の注釈的な記載だから。<
>なんで陳寿の注釈的な記載だと断定するの? 理由は?<
「計其道里、當在・・・」のように、
「計其道里」と書かれた道里を計る作業をした事が書かれ、
「當在・・・」のように、「まさに在るべし」という判断を書いているから。 >>71
>部族の墓形態は、非常に保守的であり、
>だから新しい墓形態への変化は、部族支配者の交代やや何らかの教育や、
>流民の流入などの大事件が必要であり、
>単なる伝搬では採用されず、
>強いきっかけがなくては、新しい墓祭祀法の採用はない。
じゃあ、新しい墓制が生まれた畿内に起こったことは
部族支配者の交代とか
流民の流入とか
そんな単純なことではないんだな
それこそ畿内説が主張していることだ >>88
>>行程移動の道のり里数の合計での「邪馬壹國女王之所都」までの里数の萬二千余里と、
「自郡至女王國萬二千餘里」と書かれた「女王國」への直線距離的里数とは、
違う、という事だ。<
>これは古田の説なのか?<
知らない。
道のり距離と直線距離に関しては、古田さんは、陳寿と同じく、
道のり距離と直線距離を区別せずに、
どちらも大体同じ距離だとして距離の記載だ。 >>109
>「計其道里、當在・・・」のように、
>「計其道里」と書かれた道里を計る作業をした事が書かれ、
>「當在・・・」のように、「まさに在るべし」という判断を書いているから。
それが、なんで
陳寿の注釈的な記載だと断定する理由になるの? >>72
数字は誤情報だという説が
どうして
「萬二千余里」で赤道付近にまで行ってしまう
ということになるの? >>73
バイト雇ったことが明帝らにバレたら
どうして
詔書も親魏倭王印も大量の下賜品も、
率善中郎將も率善校尉も假銀印青綬も、
取り消されてしまう事になるの? >>74
で?
どうして異質なホケノ山が
扶余や楽浪の「槨」よりも進化型
だということになるの? >>76
>「自郡至女王國萬二千餘里」と書かれた「女王國」への直線距離的里数とは、
なんで「萬二千餘里」が
「女王國」への直線距離的里数なんだ?
理由は? >>78
>「断定」なんてしないよ。
>また、根拠は、倭人伝の記載が魏使らの記録が元になっている、という事だよ。
それ、断定してるよね >>112
>道のり距離と直線距離に関しては、古田さんは、陳寿と同じく、
>道のり距離と直線距離を区別せずに、
>どちらも大体同じ距離だとして距離の記載だ。
おい、その断定、何か理由があるのか? あほうすれ
あおってのばす
なかみなし
めりクリスマス
なんじらまなべ(あーめん >>112
>知らない。
だろうな、古田もさすがにそこまで知能は低くないだろう
ザラコクは不彌國までで12000里を消費しているから邪馬壱國が接していると主張していたが
道のり里数の合計と「自郡至女王國萬二千餘里」が違うのなら、根拠はない >>123
もともと国の中の移動を加算していない古田説は
道のり里数の合計と「自郡至女王國萬二千餘里」が違って
支離滅裂なんだけどね >>89
>>「不梳頭、不去虫幾蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人」
という倭人伝の記載実態が根拠だ。<
>それがなんで 魏使がそれを見て記録した という根拠になるの?<
「如」という魏使らの判断が書かれている事も含めて、
「不梳頭、不去虫幾蝨、衣服垢汚」は、実際に見聞した記録。 倭人の話を聞いて、「それじゃまるで喪人みたいだな」と魏使は思ったのであった。 >>125
「如」がなんで魏使らの判断なの?
理由は? >>91
>これまでの議論で説明して来た根拠理由に対して<
>なにを説明した?<
原則として、反論すべきと思われる投稿に対しては、全て反論し来てあるから、
その説明。 >>128
>原則として、反論すべきと思われる投稿に対しては、全て反論し来てあるから、
してあるって証拠は? >>92
>>それは、最も極端な場合であるので、極端な場合が半分であったとすると、
……… 道のり距離は直線距離の2割増し以下。<
>なんで根拠のない過程が、途中から断定に変わるの?<
根拠のない事は言っていないし、、
根拠からの帰納的確率的推論であるから、「断定」もしない。 >>131
>根拠のない事は言っていないし、、
言ってないって証拠は? >>131
根拠からの帰納的確率的推論である
って証拠は? >>95
>お前が無知だから考えられないというだけの話<
古代史の内容に関する事ではなく、
私への個人的な誹謗やヘイトスピーチ投稿に対しては、無視させて頂いております。
悪しからず。 >>96
>日本には弥生中期から槨があるんですけど <
これも、説明済みの話の繰り返し。
3世紀半ば前後の魏使らの記録に拠れば、
倭地では「有棺無槨」であった、
という情報の方が価値がある。 >>134
絶滅した古代生物ザラコク・ウソコクへの言及は
古代史の範疇である >>97
>乍南乍東の陸路なんてないよ <
3世紀の魏使らには、郡→狗邪韓國で、乍南乍東の水路なんてないよ。 >>136
3世紀半ば前後の畿内は「有棺無槨」ですが、なにか? >>98
>いつ、誰が反論したの? 証拠は?<
最近の2chや5chで、zaraが。 >>100
>「自郡至女王國萬二千餘里」が直線距離的里数なら
途中の行程の道のり里数の合計がたまたま萬二千餘里になっても
無意味な数字ということになる<
「自郡至女王國萬二千餘里」は、「女王國」への里数。
「途中の行程移動の道のり里数の合計」は、「邪馬壹國女王之所都」への里数。
対象が少し違うから、有意味な数字になる。 >>102
>どうしてわかるの?<
「南≠東」だから判るの。 >>103
>だという理由は?<
陳寿は、客観的な史料事実の紹介と、
それに対する陳寿の評価を、
きちんと書き分けて判るようにしてくれているから。 >>147
>陳寿は、客観的な史料事実の紹介と、
>それに対する陳寿の評価を、
>きちんと書き分けて判るようにしてくれている
という理由は? >>142
>対象が少し違うから
筑紫と南九州最南端じゃ違いすぎる >>138
乍南乍東の陸路なんてないことは認めたね 屋久島の南の緯度を少し北まで許してもらって南九州最南端にして
南九州最南端なら南九州全体でもいいだろということにして
許容範囲を少しずつ北にずらしていってるんだろう あのさー、纏向があの時期の列島で最も大きい集落だったとして
それが邪馬台国である根拠はどこにもないよな >>105
>祖国の蜀に肩入れ、魏に媚びへつらってた陳寿が何だって?w<
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者に肩入れし、
安部政府や右翼マスコミやヘイトスピーチキョクウに媚びへつらってた大和説者が、
何だって?w。 >>106
>陳寿が倭地までは来ていないと なんで
倭人伝の記載は魏使らの記録が元になっている、ということになるの? 理由は?<
陳寿が倭地までは来ていないから、倭人伝の記載は魏使らの記録が元になっている、
ということが、なんでわからないの?。
理由は?。 >>107
いつ、いかなる時も、安部政府や右翼マスコミや、
排他的人種差別殺戮戦争の国粋皇国史観キョクウに肩入れし、媚びへつらって、
「南→東」などの嘘つき騙しを理由もなく街宣する・・・・なのが、
大和説者。 >>108
>>(キミの投稿で)時期を特定した記載は、「2世紀」だけだ。<
>なら、特定されている箇所以外は 2世紀かどうか判らんだろ?<
だから、キミの投稿は、
全て「2世紀」であった、
という事を世間の人々に印象付けようとしている事になり、
嘘つき騙しの詐欺であった、という事になるだろ?。 >>157
>陳寿が倭地までは来ていないから、倭人伝の記載は魏使らの記録が元になっている、
なんで魏使らのって決めつけるんだ?
白痴? >>110
>>部族の墓形態は、非常に保守的であり、
単なる伝搬程度では新しい全く違う墓形態は採用されず、
だから新しい墓形態への変化は、部族支配者の交代や何らかの教育や、
流民の流入などの大事件が必要であり、
強いきっかけがなくては、新しい墓祭祀法の採用はない。<
>じゃあ、新しい墓制が生まれた畿内に起こったことは 部族支配者の交代とか
流民の流入とか そんな単純なことではないんだな
それこそ畿内説が主張していることだ <
筑紫倭国から別れた別種の旧小国の大和が、ホケノで、突然、
筑紫倭国の卑弥呼や壹與の墓形態とは全く違った「有槨」墓を造った、という事は、
おそらく、筑紫以外の地域からの「有槨部族」の流入と、
支配層への参入があったんだろう、という事になるのだ。 >>111
>(陳寿の魏呉蜀への原則公平)事実、公平ではないわけだがね<
陳寿は、三国時代の全ての事件を網羅記載する事など出来ないのであるから、
当然知り得た範囲内の情報から、必要な人物や事件を選択して「志」を記載しなければならず、
だから、自分がいた魏や蜀の話が多くなって、当然だ。 >>162
そういう意味じゃ無くてね
通説常識のレベルの話だよ >>113
>>「計其道里、當在・・・」のように、
「計其道里」と書かれた道里を計る作業をした事が書かれ、
「當在・・・」のように、「まさに在るべし」という判断を書いているから。<
>それが、なんで 陳寿の注釈的な記載だと断定する理由になるの? <
陳寿の判断を書いているから。
それで、
「當在・・・」のように「まさに在るべし」という事が陳寿の注釈的記載である、
という事が、
キミは何故判らないの?。
・・・・アホだからなの?。
詐欺師だからなの?。 >>112
>数字は誤情報だという説が どうして
「萬二千余里」で赤道付近にまで行ってしまう
ということになるの? <
数字が、近似値としてほぼ正しい情報であった、という事が判ったから。
それで、キミらの大和説の(6倍位も違う)長里説は、
どうして「正しい」という事になるの?。 前スレ>>914の「楽浪地域の木槨は〜伝播した」は無学なザラコクが読んでもわからんだろうから
アンカはつけていない
畿内説者は基礎的な論文を読んでるので
楽浪から半島南部、日本列島に伝播した時期だけ簡略に書いている
下等な人種向けのレスではない >>165
>数字が、近似値としてほぼ正しい情報であった、という事が判ったから。
どうやって判ったの? >>164
>陳寿の判断を書いているから。
なんの理由があって、陳寿の判断だと決めつけるんだ? >>161
>筑紫倭国の卑弥呼や壹與の墓形態とは全く違った「有槨」墓を造った、という事は、
筑紫倭国の卑弥呼や壹與の墓って、どこにある何のことだ?
卑弥呼や壹與の墓だという証拠は? >>114
おかしいね。
この返事は、投稿した筈なのに、
探しても見つからないね。 >>115
>(楽浪商人らを)バイト雇ったことが明帝らにバレたら
どうして
詔書も親魏倭王印も大量の下賜品も、
率善中郎將も率善校尉も假銀印青綬も、
取り消されてしまう事になるの?<
どうしてでしょうね。
魏帝を騙してしていた事がバレたら、そりゃただでは済まないでしょうね。
勿論、「南→東」や「女王國が赤道付近になった」などのインチキをしても、
安倍政府文部省や右翼マスコミや学会教育界やキョクウらは、
ただで済ましてくれるんでしょうがねえ。 >>116
>で? どうして異質なホケノ山が
扶余や楽浪の「槨」よりも進化型 だということになるの?<
キミが、
ホケノが外槨の中に内槨があるような、二重構造?みたいな事をしゃべったから。 >>172
>魏帝を騙してしていた事がバレたら、そりゃただでは済まないでしょうね。
騙すって、一体なにが騙したことになるの? >>117
>>「自郡至女王國萬二千餘里」と書かれた「女王國」への直線距離的里数とは、<
>なんで「萬二千餘里」が 「女王國」への直線距離的里数なんだ? 理由は?<
陳寿は、
「道のり距離」と「直線距離」とを区別せず、
大体同じ位だ、として距離記載をしており、
郡→邪馬壹國女王之所都の部分行程の折れ線的な場合にも、
各部分行程で、「道のり距離」と「直線距離」の区別をせずに距離記載をしている。 >>118
>>「断定」なんてしないよ。
>>また、根拠は、倭人伝の記載が魏使らの記録が元になっている、という事だよ。<
>それ、断定してるよね <
それも、史料事実からの帰納的な大体の確率的推論になっているんだよね。 >>119
>>道のり距離と直線距離に関しては、古田さんは、陳寿と同じく、
道のり距離と直線距離を区別せずに、 どちらも大体同じ距離だとして距離の記載だ。<
>おい、その断定、何か理由があるのか?<
例えば、魏志倭人伝の里数記載の実態が理由だよね。 >>121
「南→東」などのように、史料事実や史料実態への否定曲解の嘘吐きダマシの、
理由のない断定詐欺が、大和説の本質なんだね。 >>177
>>>>「断定」なんてしないよ。
>>>また、根拠は、倭人伝の記載が魏使らの記録が元になっている、という事だよ。
>>それ、断定してるよね
>それも、史料事実からの帰納的な大体の確率的推論になっているんだよね。
いや・・ただ単に、なんの理由説明もない断定だろ
>>178
>>>道のり距離と直線距離に関しては、古田さんは、陳寿と同じく、
道のり距離と直線距離を区別せずに、 どちらも大体同じ距離だとして距離の記載だ。
>>おい、その断定、何か理由があるのか?
>例えば、魏志倭人伝の里数記載の実態が理由だよね。
それのどこが理由なんだ・・・
九州説はいつも
実体のない口先だけの言葉だけだなあ >>177
>>外国の正式使節が実際に実地に直接見聞して記録した史料事実は
これの確率って何? 「史料事実」「帰納」「確率」「推論」
これ、単なるお経でしょ
意味を理解して喋ってない >>123
>>知らない。<
>だろうな、古田もさすがにそこまで知能は低くないだろう<
陳寿も、道のり距離と直線距離の区別をせずに、大体直線距離的記載をして、
郡→邪馬壹國の行程の各部分行程でも、同じようにしておいて、全体は折れ線的部分行程になるようにしてして、
「短里」で統一的な記載しているから、
古田さんも、そのように解釈された。
>ザラコクは不彌國までで12000里を消費しているから邪馬壱國が接していると主張していたが
道のり里数の合計と「自郡至女王國萬二千餘里」が違うのなら、根拠はない<
不彌國や女王之所都までは、折れ線的な部分行程の里数記載で、
合計直線距離は記載されていないのであり、
「自郡至女王國萬二千餘里」は、「女王之所都」までではなく、
「投馬國も含む女王國」までの里数記載になっており、
おそらく、直線距離的里数になっているんだよ。 >>185
「自郡至女王國萬二千餘里」が直線距離的里数でおまけして南九州最南端なら
折れ線的な部分行程の里数記載の合計が博多遺跡のすぐ南までで12000里ちょうどでも
少なくてもオーバーしていても「自郡至女王國萬二千餘里」とは何も関係ない途中までの道のり距離合計であって
さらに水行二十日、水行十日陸行一月進んだところが
直線距離的里数の「自郡至女王國萬二千餘里」地点になる >>186の追加
つまり「自郡至女王國萬二千餘里」を直線距離的里数とするなら
行程記事から北部九州に比定する根拠はない >>186
じゃあ不弥国から先が距離ゼロだってヨタ話はおしまいだな
部分里程の合計がなんたらとか全部無意味で、古田説はお陀仏だ 里程
帯方郡から邪馬台国まで一万二千里
日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1日
帯方郡から投馬国まで水行20日 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 またとっくに論破され尽くしたゴミコピペかw
w
w
w >>190
>帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1日
どこからどこまで海路で、どっから陸路にするつもり? 九州説の人たちって、歴史のことを考えてる筈なのに、時間軸の観念が無いって、致命的だよね 投馬国が南九州だと言ってる人
狗奴国は何処のつもりなんだろう 狗奴国って漢書にある東?人じゃないかな
「會稽海外有東?人,分為二十餘國,以時來獻見云。」 >>124
もともと大和説は、
「南→東」の嘘吐きダマシの詐欺なんだし、
大和説の長里説ではどう計算しても赤道付近に行ってしまって✖なんだし、
郡→邪馬壹國のちょ折れ線的行程移動里数の合計は書かれていないが、
郡→(投馬國を含む)女王國の直線距離的な「自郡至女王國萬二千餘里」や、
「計其道里、當在會稽東治之東」が書かれている、
などという事も、理解出来ていないアホ学者らで、
支離滅裂なんだけどね。 >>126
魏使らは持衰を見て、「それじゃまるで喪人みたいだな」と思ったのであった。 >>127
>「如」がなんで魏使らの判断なの? 理由は?<
倭の使節や倭人が、自分らから「如喪人」なんて、しゃべる筈がないから。
それが判らないらしいこの投稿子も、「如喪人」なのかな?。 >>132
>>根拠のない事は言っていないし、<
>言ってないって証拠は?<
この掲示板における私の殆どの投稿。 >>199
>倭の使節や倭人が、自分らから「如喪人」なんて、しゃべる筈がないから。
なんで「筈がない」の?
理由は? >>133
>根拠からの帰納的確率的推論である って証拠は?<
この掲示板における、私の投稿の殆ど。 >>135
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者らは、全くの・・・・ケダモノサギシばかりだから、
何を言っているのかよく判らない投稿や、
同じ事の何度も繰り返しの投稿や、
薄気味の悪いヘイトスピーチのような投稿は、
全て無視だな。 >>139
>3世紀半ば前後の畿内は「有棺無槨」ですが、なにか?<
そりゃ、大和は、筑紫城の倭奴国から別れた別種同族の旧小国だから、
筑紫の墓制を持っていた事になるだけの事。
だから、ホケノは明らかに大和に別部族の渡来があった、という事になる。 博多や糸島には、伊都国王がその後どうなったか?資料とか伝承は残ってないのか?
誰か知っている人いないかな。 >>141
>ありますが? 詳細はテンプレ<
テンプレは、既に、
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの詐欺師である、
という事がバレてしまっているから、
何の価値も信頼性もなく、
読まない。 日本には「お籠り」という風習がある
神社やお堂にこもり,心身を清らかに保つための隔離生活をおくる宗教的行為。
神事に奉仕する人々は穢れを遠ざけ,俗界との関係を絶ち,家族とも別居して
慎みの生活をおくるべきものとされていた。
また雨乞いや台風を避ける祈願 (風祭) など大事な願い事のあるとき,
神仏に参詣して祈願をこめるが,祈願の効果を高めるためには,
累積的にしばしば参詣することがあり,さらに効果をあげるためには泊り込んで数日間,祈願を続ける。 >>145
>南≠東」だ と断定する理由は?<
間違える可能性が全くのように「無い」から。 >>148
>>陳寿は、客観的な史料事実の紹介と、 それに対する陳寿の評価を、
きちんと書き分けて判るようにしてくれている<
>という理由は?<
三国志における陳寿の記載状態。 >>211
そんなもの、なんであなたが知ってるいの?
??? >>210
>間違える可能性が全くのように「無い」から。
無いという理由は?
>>149
>>対象が少し違うから<
>筑紫と南九州最南端じゃ違いすぎる<
筑紫は、郡から邪馬壹國女王之所都への折れ線的道のり行程の終点。
南九州は、郡から「(投馬國を含む)女王國」までのほぼ直線距離の萬二千餘里の位置であり、
「計其道里、當在會稽東治之東」の対象。 >>150
>乍南乍東の陸路なんてないことは認めたね<
変な曲解男。
認める訳がないじゃんか。 >>151
>つか、南九州最南端に国は無いだろ<
おそらく、投馬國の支配地だし、
「計其道里、當在會稽東治之東」にも、大体対応する地。 >>214
(投馬國を含む)でちょろまかしているが、
直線距離の萬二千餘里なら、おまけしても南九州で(本来は沖縄)
筑紫は南九州ではないから途中でしかない
サギ商法でよくあるトーク >>152
>屋久島の南の緯度を少し北まで許してもらって南九州最南端にして
南九州最南端なら南九州全体でもいいだろということにして
許容範囲を少しずつ北にずらしていってるんだろう<
「自郡至女王國萬二千餘里」は、魏略にも書かれているから、魏使らの記録。
それに対して、
「計其道里、當在會稽東治之東」は、魏使らの記録ではなく、陳寿の大体の位置推定。 >>153
大和説者という人種は、全員詐欺師であり、犯罪者だなあ。 >>154
>あのさー、纏向があの時期の列島で最も大きい集落だったとして
それが邪馬台国である根拠はどこにもないよな<だよ
弥生銀座の方が、数倍以上(10倍位?)大きい筈だよだよ。 >>160
>>陳寿が倭地までは来ていないから、倭人伝の記載は魏使らの記録が元になっている、<
>なんで魏使らのって決めつけるんだ? 白痴?<
陳寿は、魏使らの記録を見なければ、倭人伝を書けないから。 >>220
>「自郡至女王國萬二千餘里」は、魏略にも書かれているから、魏使らの記録
投馬國に行ってないのならわからんだろ まぁ、帯方軍での記録を主に、漢と呉と公孫氏の記録で補完したものだな 481Nanashi_et_al.2017/10/16(月) 07:13:10.51>>483
やっぱり関西人の家系は優秀だな
江崎玲於奈と塩爺も東大阪だっけ
最強じゃん
483Nanashi_et_al.2017/10/16(月) 15:27:22.36>>484
>>481
江戸時代だと東大阪の地域は河内国?摂津国?
どっちの国なのか気になる
484Nanashi_et_al.2017/10/16(月) 17:54:50.98>>485
>>483
東大阪は中河内と呼ばれる地域だから完全に河内国
485Nanashi_et_al.2017/10/18(水) 00:50:36.10>>489
>>484
日本囲碁史上最強と言われる井山裕太棋士も
東大阪市の人だったとわ知らなかった凄すぎorz あまり悪く言いたくないんだけど、
騙りというのを知っている?寄生とも言う
他人の家の話の事なのに、
さも自分の家の事のように語ったり、
そのように思わせ?ようとしたり >>224
だから投馬国は日程だけ。
投馬国は宮崎県の都万。
郡使は九州北部から出ていない。
邪馬台国は福岡県。 王がいる。
助けた人々もいる。
協力した人々もいる。
敵対した人々もいる。
立場は様々。 >>230
郡吏は九州へもやって来てない
聞き取り調査しただけ アラをもって兄とし日本府をもって本とするものなりし テンプレ乙
テンプレには壮大なロマンが詰まっていてSFチック >>166
>畿内説者は基礎的な論文を読んでるので
楽浪から半島南部、日本列島に伝播した時期だけ簡略に書いている
下等な人種向けのレスではない <
大和説者は、ほぼ全員が、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙し人種であるので、
幾ら「基礎的な論文を読んでいる」と自慢しても、全く価値も信頼性もなく、
更に、その「基礎的論文」の筆者も、当然大和説者であるから、「南→東」の嘘つき学者である事になり、
やはり、価値も信頼性もない。 >>206
神武が東に旅立った。
あとは、怡土の県主として末裔が登場する。 >>167
>>(倭人伝などの里数記載の)数字が、
近似値としてほぼ正しい情報であった、という事が判ったから。<
>どうやって判ったの?<
地図。 >>168
>>(「計其道里、當在會稽東治之東」)陳寿の判断を書いているから。<
>なんの理由があって、陳寿の判断だと決めつけるんだ?<
「計其道里、當在・・・」と書いているから。 >>169
>>(ホケノが)筑紫倭国の卑弥呼や壹與の墓形態とは全く違った「有槨」墓を造った、
という事は、<
>筑紫倭国の卑弥呼や壹與の墓って、どこにある何のことだ?
卑弥呼や壹與の墓だという証拠は?<
卑弥呼の墓は、「大作冢徑百餘歩jun葬者奴婢百餘人」の記載との一致で、祇園山。
壹與の墓は、「玉の女王」との一致と21個の「尚方作」鏡の存在で、平原。 >>175
>>(「楽浪商人に名前などを造ってもらった」説)魏帝を騙してしていた事がバレたら、
そりゃただでは済まないでしょうね。<
>騙すって、一体なにが騙したことになるの? <
名前の偽作だから。 >>181
>>>>(自郡至女王國萬二千餘里は直線距離的)
道のり距離と直線距離に関しては、古田さんは、陳寿と同じく、
道のり距離と直線距離を区別せずに、 どちらも大体同じ距離だとして距離の記載だ。<
>>>おい、その断定、何か理由があるのか?<
>>例えば、魏志倭人伝の里数記載の実態が理由だよね。<
>それのどこが理由なんだ・・・<
陳寿は、行程記載では折れ線的道のり距離説明をしていたのに、
「自郡至女王國萬二千餘里」では、折れ線的距離記載がないから、
「直線距離的だ」と言いう事になるんだよ。
・・・・アホ詐欺師のキミには、全く判らんだろうが。 >>182
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、いつも、
根拠や実体のない口先だけのヘイトスピーチ宣伝の言葉だけだなあの。 >>183
>>外国の正式使節が実際に実地に直接見聞して記録した史料事実は<
>これの確率って何?<
99%以上だなあ。 >>247
かくて
合計が1万2千里になったから
女王国は北部九州にある
と言い張ってきた九州説は
死んだ
邪馬台国はヤマト国だが、
伊都国が潰されず残されていた意味が重要だな。
伊都国王とクナ国王は同族。 >>249
>99%以上だなあ。
計算式を示してくれるかな >>186
>「自郡至女王國萬二千餘里」が直線距離的里数でおまけして南九州最南端なら<
いや「九州最南端」だけではないねえ。
女王國は、共立諸国全体だから、狗奴國以外の29国になるんだよ。
>折れ線的な部分行程の里数記載の合計が博多遺跡のすぐ南までで12000里ちょうどでも
少なくてもオーバーしていても「自郡至女王國萬二千餘里」とは
何も関係ない途中までの道のり距離合計であって<
いや、関係がない事はない。不彌國や邪馬壹國も女王國に含まれているよ。
>さらに水行二十日、水行十日陸行一月進んだところが
直線距離的里数の「自郡至女王國萬二千餘里」地点になる<
ならんよ。
「南水行二十日」の投馬國への説明は側副傍線行程だし、
「水行十日陸行一月」は、その前の「女王之所都」の説明だから、
郡からの所要日数説明だよ。 >>243
>卑弥呼の墓は、「大作冢徑百餘歩jun葬者奴婢百餘人」の記載との一致で、祇園山。
>壹與の墓は、「玉の女王」との一致と21個の「尚方作」鏡の存在で、平原。
平原遺跡も径百歩、殉葬百人。
伊都国の男王から権威を継承している平原遺跡が卑弥呼の墓。
玉の女王と言うなら、玉垂宮に近い祇園山の方が壹與だろう。
壹與を祭る宮が肥前一宮河上神社であり、卑弥呼の後に倭国がさらに南方に拡大し、倭国の王都も伊都からさらに南下したことを反映している。 >>254
>平原遺跡も径百歩、殉葬百人。
なんて事実のカケラも無いが
w
w
w >>253
行ってないところが郡からの直線距離で萬二千餘里だとわかるわけがないだろ
邪馬壱国がその途中にあるなら、博多〜沖縄のどこでもよくなるから
行程記事では比定できない 九州説って、ちょっと突っ込まれると回答できなくなるような未熟な説のまま200年も馬齢を重ねたんだね
そして成立しないまま死滅していくんだ
哀れだね ヤマト国だよ
この一言で九州説なんか終わってるんだよ >>188
>つまり「自郡至女王國萬二千餘里」を直線距離的里数とするなら
行程記事から北部九州に比定する根拠はない <
何とちくるってんだい?。
行程記事からは、短里で「邪馬壹國女王之所都」は筑紫。
「自郡至女王國萬二千餘里」からは、短里で「(南水行二十日の)投馬國を含む女王國」は九州。
陳寿は、それらをで短里で「計其道里、當在會稽東治之東」と推定した。
大和は、どこからも出て来ないから✖。 >>189
>じゃあ不弥国から先が距離ゼロだってヨタ話はおしまいだな
部分里程の合計がなんたらとか全部無意味で、古田説はお陀仏だ<
まだ変なのがいる。
行程記事からは、短里で「邪馬壹國女王之所都」は筑紫。
「自郡至女王國萬二千餘里」からは、短里で「(南水行二十日の)投馬國を含む女王國」は九州。
陳寿は、それらをで短里で「計其道里、當在會稽東治之東」と推定した。
大和は、どこからも出て来ないからお陀仏。 >>194
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の人たちって、
歴史のことを考えてる筈なのに、
史料事実や、人類の常識や、地理的観念や、時間軸の観念が無いって、
致命的な・・・・アホだよね。 >>195
>投馬国が南九州だと言ってる人 狗奴国は何処のつもりなんだろう<
火の国。 行ってない、聞いた話で會稽東冶之東だろうと推測してることになるから
博多〜ルソン島のどこかでもいいことになるな
フィリピンなら甕棺墓も首狩族もいる >>196
>狗奴国って漢書にある東?人じゃないかな <
「會稽海外有東?人,分為二十餘國,以時來獻見云。」<
東鯷人は、海賦?に拠れば、後漢最末期に後漢に朝貢して「序に着いた」後、
記録から消えてしまった。
だから、狗奴國説は✖。
そして、狗奴國で、丁度「今使譯所通三十國」にぴったりになるから、
狗奴國≠投馬國。 >>201
>>倭の使節や倭人が、
自分らから「如喪人」だ
なんて、しゃべる筈がないから。<
>なんで「筈がない」の? 理由は?<
人類の常識。
この大和説男も、人類の常識が判らない・・・・ケダモノアホであった。 お前が人類の常識が判らないからYAHOO出禁になったんだろ >>203
>具体的提示がないので 証拠にならない <
始め、Yahooでzarakoku名での投稿が拒否されて、
2chに引っ越した時、ssnに「zarakoku名かたり投稿」をずっとされ続け、
2chも、zarakokku名投稿を拒否して来たので、それからは、
現在の5chでもずっと、無名での投稿をして来ている。
どれがzarakokuの投稿なのか?判らないとか、文句を言うんなら、
ssnや2chや5chに文句を言え。
無名投稿に Yahooでzarakoku名での投稿が拒否されるような常識がない人種なんだよ 安羅をもって兄とし日本府をもって本とするものなりし >>275
どれがザラコクの投稿か
なら内容の非常識さですぐわかるから問題なし
ザラコクの投稿には具体的提示がないので
なにも証拠にならない >>266
>行程記事からは、短里で「邪馬壹國女王之所都」は筑紫。
>「自郡至女王國萬二千餘里」からは、短里で「(南水行二十日の)投馬國を含む女王國」は九州。
>陳寿は、それらをで短里で「計其道里、當在會稽東治之東」と推定した。
短里では「計其道里、當在會稽東治之東」にならないので
短里というのが間違だと
証明されたよね
九州説なんて流石にもう擁護しきれないからな。邪馬台国とは畿内で確定。
伊勢遺跡で選出されたのが卑弥呼で、
都あったのは奈良盆地の鍵唐古から葛城に
かけてという事だよ。
つまり河内から奈良盆地が邪馬台国。 このスレッドは重複偽スレッドです。。。。
だから、本物のスレッドのアドレスを貼り付けます、、、、
邪馬台国畿内説 Part437
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1513316149/1-16
投稿は高いレベルのものも低いレベルのものも歓迎します。。。
荒らしも、枯れ木も山の賑わいではないのかな、、、 畿内スレを撹乱、荒らすしかない時点でもはや
九州説なんて存在する価値すらないからな。
邪馬台国で一番可能性が無いのが北部九州説。
よって何たらの会なんてどっかの工作機関だろ。 岡上、いくら畿内説に負けて悔しいからってニセスレ作るのやめろよ 議論どころか会話もできないのが
九州説爺さんの現状だからなあ このスレッドは重複偽スレッドです。。。。
だから、本物のスレッドのアドレスを貼り付けます、、、、
邪馬台国畿内説 Part437
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1513316149/1-16
投稿は高いレベルのものも低いレベルのものも歓迎します。。。
荒らしも、枯れ木も山の賑わいではないのかな、、、 >>206
>博多や糸島には、伊都国王がその後どうなったか?資料とか伝承は残ってないのか?
誰か知っている人いないかな。<
以前に何度か書いた記憶がある。
壹與は、名前と平原と玉の女王で、伊都国系。
銚子塚など2〜3の古墳は、場所的に伊都国王。
風土記と書紀に伊都國王が書かれている。
磐井と葛子とタリシホコや利歌彌多弗利は伊都国系。
また、竹斯國は、元伊都国であった可能性があるし、
倭國王珍の倭隋や平西将軍も、伊都国王であった可能性もある。 >>213
>(南と東)間違える可能性が全くのように「無い」から<
>無いという理由は?<
字形も意味も方向も全く違っているし、
誰も校勘考証していないし、
魏の役人たちは、
周髀算経や礼記の東西南北を計測する簡単な方法を知っているから。 >>290
じゃあ、どうして実際に間違って実際に間違っているの?
伊都国は末盧の北東でしょ? >>216
>半島内のどの道を通ったんだ<
「歴韓國乍南乍東」的になれるような道。
おそらく、牙山湾の北側から小白山脈の低い峠を越えて洛東江沿いに進む道。 >>218
>直線距離の萬二千餘里なら、おまけしても南九州で(本来は沖縄)<
沖縄では、(赤道にまで行ってしまう)長里にも合わないし、
短里でも全く合わないが、
九州なら、合うし、
会稽東治之東にもあう。 このスレッドは重複偽スレッドです。。。。
だから、本物のスレッドのアドレスを貼り付けます、、、、
邪馬台国畿内説 Part437
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1513316149/1-16
投稿は高いレベルのものも低いレベルのものも歓迎します。。。
荒らしも、枯れ木も山の賑わいではないのかな、、、 >>218
>直線距離の萬二千餘里なら、おまけしても南九州で(本来は沖縄)<
沖縄では、(赤道にまで行ってしまう)長里にも合わないし、
短里でも全く合わないが、
九州なら、合うし、
会稽東治之東にもあう。 >>224
>>「自郡至女王國萬二千餘里」は、魏略にも書かれているから、魏使らの記録<
>投馬國に行ってないのならわからんだろ<
南水行二十日からの推定。
また如淳注の「萬里」は直線距離的であり、
陳寿は、7千余里と3海峡の各千余里で、大体、萬「余」里だから、
「二千」と「余」で、「水行二十日」を想定した、という可能性もある。 >>225
>まぁ、帯方軍での記録を主に、漢と呉と公孫氏の記録で補完したものだな<
また、おかしいのが一人現れた。
魏使らの来倭と記録を抹殺したいためなんだろうが、
伊都国位までしか記録されていない筈の郡使が侏儒國まで行っている事などを、
どう説明するんでしょうかねえ?。 >>294
>九州なら、合うし、
>会稽東治之東にもあう。
会うって証拠は?
言い張るだけ? >>299
>伊都国位までしか記録されていない筈の郡使が侏儒國まで行っている事などを、
>どう説明するんでしょうかねえ?。。
伊都国位までしか記録されていない筈とか
郡使が侏儒國まで行っているとか
なんの根拠もないことは
当然ながら説明など付かない >>296
>九州なら、合うし、
沖縄と博多のすぐ南じゃ沙里院よりも離れている >>296
そもそも女王の都が北部九州であるという
根拠が何もない
w
w
w >>297
それなら最初から陳寿は萬二千餘里という数字ありきという解釈 >>304
つまりデタラメだってことだね
旅程の記事をこねくり回しても邪馬台国がどこかは解らないってことだ >>233
>郡吏は九州へもやって来てない 聞き取り調査しただけ<
「郡使往來常所駐」
「王遣使詣京都帶方郡、諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」。 >>297
>南水行二十日からの推定。
郡から?
郡から二十日も南水行って、どこまで行く気だw
九州説は穴だらけだな
w
w
w このスレッドは重複偽スレッドです。。。。
だから、本物のスレッドのアドレスを貼り付けます、、、、
邪馬台国畿内説 Part437
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1513316149/1-16
投稿は高いレベルのものも低いレベルのものも歓迎します。。。
荒らしも、枯れ木も山の賑わいではないのかな、、、 会稽東冶の東方向にあるのは海ばかり。
日本列島はもっと北。
倭人伝に載ってる行程で、方位と距離が間違っていなければ、筆者が倭国が会稽より南だと誤解することは無い。
となれば、もう九州は無いですね。 新しい発見があったわけでなし、静かなほうが普通だろう
いつもは(ト)が騒ぎすぎだ >>312
九州説なんて閑散どころか
もうスレも無いんじゃない? もともと邪馬台国関係のスレがあったが
九州説が優勢で人も多いため、
九州説だけ追い出そうと
畿内説派が九州説スレを立てて
九州説は九州説スレでやれ
と追い払った。
九州説は、九州説スレはもちろん、
それ以外のスレでも自由に書き込んだ。
その経緯を知らないのか
畿内説派の誰かが嫉妬して
畿内説スレを立ち上げた。
相変わらず九州説は自由に書き込んでいる。 しばらくは九州説スレで各自素振りしてたじゃないかw >>317を見ればわかる
いつでも決して証拠を出さない九州説の体質が
w >>250
かくて
「邪馬壹國女王之所都」の折れ線的道のり距離の合計の1万2千里と、
「女王國」全体への」直線距離的「萬二千余里」」との違いが判らず、
「計其道里、當在會稽東治之東」も、
陳寿が「女王國」の位置を「短里」で推定した文である事も判らず、
女王国は、「南→東」の捏造と長里説で大和にある、
と言い張ってきた嘘吐きダマシの大和説は、
死んだ。 >>251
邪馬台国なんてないし、
ヤマト国は「南→東」などの嘘吐きダマシがバレたし、
伊都国王は阿毎氏で、クナ国王は姫氏だから、違う部族だし。 >>321
部分里程の合計が総里程である、という古田説の間違いを認めちゃったんだよね
ということは、不弥国までで総里程が使い果たされている、という主張は放棄したわけ
つまり、女王の都が北部九州にある、という理由がなくなったわけだ
九州説・・・お陀仏だよ >>251
>>>>外国の正式使節が実際に実地に直接見聞して記録した史料事実は<
>>>これの確率って何?<
>>99%以上だなあ。<
>計算式を示してくれるかな<
これまでに「三国志の考証校勘学者や後代史家」が何百人いたのか?は知らんが、
その誰もが、倭人伝の「梯儁等や張政などの来倭」があった事を否定しなかったんだから、
間違った確率は「何百分の1」になって、確率は99.9%以上はになるなあ。 >>321
陳寿が「女王國」の位置を「短里」で推定してたら
会稽東治の東とか書くわけないよなー >>256
>百歩も百人も虚数<
この男も、「南→東」などの史料事実の否定曲解で、
箸墓を卑弥呼の墓にしたい大和説の嘘吐きダマシの詐欺師の仲間なんだろうなあ。
百歩も百人も、張政らが実際に卑弥呼の埋葬を見聞計測して推測した数値。 >>257
>「側副傍線行程だ」って根拠は?<
陳寿は、行程移動の説明を、人類の常識に従って、
「出発説明+途中移動説明+到着説明」の順次式の説明をしているのに、
奴國へと投馬國への説明には、
到着説明の後に距離や所要日数は書かれているが、
「出発説明」と「到着説明」との間に、
途中移動説明の文言がなかったから、魏使らは奴國と投馬國へは移動していない事になり、
だから、側副傍線行程説明であった、という事になる。 >>331
そんなもんが人類の常識だという理由は? >>330
張政らが実際に卑弥呼の埋葬を見聞計測して推測した数値
だっていう理由は?
言い張るだけ? >>258
>行ってないところが郡からの直線距離で萬二千餘里だとわかるわけがないだろ<
いや、魏使らは、
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」
とも記録しており、
狗邪韓國までの七千余里に、「倭地を巡り行く5千余里「」を足せば、萬二千余里だ、
という推定が出来ていた、という事になる。
>邪馬壱国がその途中にあるなら、博多〜沖縄のどこでもよくなるから<
ならない。
魏使らは、女王國の倭地を「五千余里だ」、と認識し記載しているから、
狗邪韓國〜投馬國の間。
三海峡がそれぞれ千余里であって、如淳注で九州北岸まで「萬里」とされていたから、
概算で、九州北岸からは、残り二千余里。
>行程記事では比定できない<
大和は、全く関係もなく、比定出来ない。 >>327
つまり、計算なんてしてないんだね?
適当な思い付きの数字を言っただけなんだね? >>334
>大和は、全く関係もなく、比定出来ない。
そう言い張る理由は? >>334
>三海峡がそれぞれ千余里であって、如淳注で九州北岸まで「萬里」とされていたから、
>概算で、九州北岸からは、残り二千余里。
ちょうど畿内に着くねー >>259
大和説って、
ちょっと突っ込まれると直ぐに、
回答できなって、嘘吐きダマシやヘイトスピーチも走るような、
未熟な説のまま200年も馬齢を重ねたんだね。
そして成立しないまま死滅していくんだ。
哀れだね。 >>334
>>行ってないところが郡からの直線距離で萬二千餘里だとわかるわけがないだろ
>いや、魏使らは、
>「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」
>とも記録しており、
>狗邪韓國までの七千余里に、「倭地を巡り行く5千余里「」を足せば、萬二千余里だ、
>という推定が出来ていた、という事になる。
なら、郡からの「直線距離」だというお前の話は
ウソだということになるな
w >>339
そんな事実があるって証拠は?
また嘘八百? >>262
>ヤマト国だよ<
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国だったんだよ。
>この一言で九州説なんか終わってるんだよ<
これと「南≠東」の二言で、大和説なんか終わってるんだよ。 >>334
>三海峡がそれぞれ千余里であって、如淳注で九州北岸まで「萬里」とされていたから、
>概算で、九州北岸からは、残り二千余里。
女王国が北部九州でないことが 確定しました。 >>342
>大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国だったんだよ。
だという根拠は? >>342
>これと「南≠東」の二言で、大和説なんか終わってるんだよ。
「南≠東」だという根拠は? >>334
>「倭地を巡り行く5千余里「」を足せば、萬二千余里だ、
>という推定が出来ていた、という事になる。
それは直線距離ではない
如淳曰「如墨委面、在帶方東南萬里」
北部九州とは限らない >>343
九州北部から2000古田ン里も先に行ったら
南九州だなあ
熊本県南か宮崎か
古田説死んでるね >>267
>連呼だけの配達夫人種<
ヘイトスピーチ連呼をするしか出来なくなってしまった、
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説人種。 >>271
>行ってない、聞いた話で會稽東冶之東だろうと推測してることになるから
博多〜ルソン島のどこかでもいいことになるな
フィリピンなら甕棺墓も首狩族もいる<
ウソを付くな、大和説詐欺師。
陳寿は「計其道里、當在會稽東治之東」と書いており、
沖縄やルソン島には、ならない。 >>272
訂正。
「序に就いた」が正しい、と思う。 >>274
お前ら大和説者や、大和説学者や、Yahooや5chや、右翼マスコミや、
キョクウや安部自民文部省らは、
人類の常識を知らない・・・・アホだから、大和説なんだろ?。 >>349
陳寿が「計其道里、當在會稽東治之東」と書いた「道里」を
お前は魏使が行ってない国だと言張っているのだから
その解釈なら「會稽東冶」よりもっと南の可能性も出てくる >>274
>Yahooでzarakoku名での投稿が拒否されるような常識がない人種なんだよ<
Yahooは、
九州説のmutouha氏とzarakokuの二人で、大和説学者らが壊滅的になり、
天誅を始め、殆どの大和説者が投稿すら出来なくなってしまったから、
危機感を抱いて、textreamなるものに変更して、
それまでの議論内容を一切見られないように隠蔽してしまい、
zarakoku名投稿も拒絶してしまったんだよ。
いま、5chも、どうやらYahooと同じ道を歩もうとしているらしい。 日本では連呼人種だとわかったらさわらないようにするんだよ >>280
>どれがザラコクの投稿か なら内容の非常識さですぐわかるから問題なし<
私の投稿は、Yahoo時代と全く変わらず、
「>」や「<」や、句読点などをはっきり書くようにしてあるから、
探せば直ぐに判る。
>ザラコクの投稿には具体的提示がないので なにも証拠にならない<
大和説者の投稿は、
「南→東」の捏造や、
「大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」の隠蔽などの、
嘘吐きダマシをしているから、直ぐに判るし、
証拠にもならない。 >>281
>>行程記事からは、短里で「邪馬壹國女王之所都」は筑紫。
「自郡至女王國萬二千餘里」からは、
短里で「(南水行二十日の)投馬國を含む女王國」は九州。
陳寿は、それらをで短里で「計其道里、當在會稽東治之東」と推定した。<
>短里では「計其道里、當在會稽東治之東」にならないので
短里というのが間違だと 証明されたよね <
「計其道里、當在會稽東治之東」は、ほぼ九州の女王國を指しているから、
短里であり、
長里では、赤道付近に行ってしまうから、
長里というのが間違いだ、と証明されたよね。 >>282
>九州説なんて流石にもう擁護しきれないからな。邪馬台国とは畿内で確定。
伊勢遺跡で選出されたのが卑弥呼で、 都あったのは奈良盆地の鍵唐古から葛城に
かけてという事だよ。 つまり河内から奈良盆地が邪馬台国。<
伊勢遺跡男も、とうとう、
「南→東」などの史料事実の否定曲解をする嘘吐きダマシの大和説者であった事が、
ついにバレてしまったね。 >>355
さぞや口汚くデタラメを罵倒しまくったんだろうなあ >>357
あんたの投稿は識別できる
どこにも証拠が書いてないことも
わかる >>358
>「計其道里、當在會稽東治之東」は、ほぼ九州の女王國を指しているから、
証拠は? >>284
>畿内スレを撹乱、荒らすしかない時点で
もはや 九州説なんて存在する価値すらないからな。<
大和説は、史料事実の否定曲解のウソダマシと、
九州説者へのヘイトスピーチ的街宣をするしかなくなったようだから、
もはや存在する価値すらないからな。
>邪馬台国で一番可能性が無いのが北部九州説。<
邪馬壹國で、一番可能性がないのが大和説。
>よって何たらの会なんてどっかの工作機関だろ。<
ありゃ?、この大和説者も、どうやら、
排他的人種差別の国粋皇国史観の、キョクウのヘイトスピーチ街宣の工作機関の、
殺人殺戮戦争狂であったのか。 會稽東冶の東は宮古〜沖縄
会稽郡の東部(257年以降臨海郡)の東は奄美 >>286
「南→東」などの嘘吐きダマシや、ヘイトスピーチ街宣のばかりで、
議論どころか会話もできない戦争狂なのが、
大和説の・・・・ケダモノサギシらの現状だからなあ。 >>291
>じゃあ、どうして実際に間違って実際に間違っているの?
伊都国は末盧の北東でしょ? <
陳寿の行程記載法の「出発+途中+到着」の順次式の原則に拠れば、
出発説明は東南方向、途中説明は陸行五百里、到着は到伊都國、という事になり、
出発の「東南」方向は、間違っていない。 >>292
>>(南≠東)字形も意味も方向も全く違っているし、 誰も校勘考証していないし、
魏の役人たちは、 周髀算経や礼記の東西南北を計測する簡単な方法を知っているから。<
>そんな計測をしたって根拠がない<
魏の役人たちは、
周髀算経や礼記などを読んでいなくては、魏の役人には採用されないし、
魏使らにも選ばれないし、
魏の役人たちが関与した方向記載には、90度の間違いが全く見つからないから。 >>366
>陳寿の行程記載法の「出発+途中+到着」の順次式の原則に拠れば
そんな原則はない >>298
>>「歴韓國乍南乍東」的になれるような道。
おそらく、牙山湾の北側から小白山脈の低い峠を越えて洛東江沿いに進む道。<
>実際、そんな道はないぞ<
「鳩〜?峠」とかの低い峠を通る道はmutouha氏が紹介され、
他の方の情報でも確認され、三韓も通れる道であった。
mutouha氏は、更に、
牙山湾の北側の「唐津」という町が、中国への渡海の出発港である事も示され、
歴韓國先南乍東の出発地である事も示された。 >>359
当たり前だろ、今時九州説なんて
やってるのはまともな奴皆無だし。
方角間違い説なんて高齢の論で解決済み。 丹山の存在と神獣鏡が三世紀以降奈良盆地に
集中する時点で当時の中国人の目的地が
畿内なのは誰でも判る話。
方角なんか間違える訳ないというのは
バカの思い込みだろう。
現実に中国人は
東へ向かっているんだからな。 >>300
>>九州なら、合うし、 会稽東治之東にもあう。<
>会うって証拠は? 言い張るだけ?<
会稽東治之東には、沖縄や(長里での)赤道付近では、全くに合わないから。 >>301
>>伊都国位までしか記録されていない筈の郡使が侏儒國まで行っている事などを、
どう説明するんでしょうかねえ?。<
>伊都国位までしか記録されていない筈とか 郡使が侏儒國まで行っているとか
なんの根拠もないことは 当然ながら説明など付かない <
伊都國は、
「郡使往來常所駐」や、
「常治伊都國、於國中有如刺史。
王遣使詣京都帶方郡、諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯」
が証拠。
侏儒國は、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
が証拠。 >>302
>沖縄と博多のすぐ南じゃ沙里院よりも離れている<
また、「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者らに特有の、
意味も意図も不明な、分裂幻覚妄想の・・・・アホ投稿。 >>303
>そもそも女王の都が北部九州であるという 根拠が何もない w w w <
そもそも、「南≠東」に拠って、
女王の都が大和であるという根拠は、全く何もない。 >>304
>それなら最初から陳寿は萬二千餘里という数字ありきという解釈<
いや、「自郡至女王國萬二千餘里」は、魏略にも書かれているから、
(陳寿の計算ではなく)魏使らの記録であり、魏志らの考え。 >>305
>つまりデタラメだってことだね
旅程の記事をこねくり回しても邪馬台国がどこかは解らないってことだ <
つまり大和説者は、始めから「南→東」などの嘘吐きダマシの、
デタラメだってことだね。
旅程の記事をいくらこねくり回して、いくら曲解しても、
邪馬壹國が大和には全くならず、
筑紫にしかならない、ってことだ。 論理的な思考ができない相手を論破することはできない
なぜなら、自分の論理が破綻していることにも、論拠が崩されていることにも、気が付くことができないから >>307
>>南水行二十日からの推定。<
>郡から?><
いや、不彌國から。
>郡から二十日も南水行って、どこまで行く気だw 九州説は穴だらけだな<
「郡から」だなんて、
大和説者は、穴だらけの分裂幻覚妄想の、脳の病人だらけだな。 >>311
>もう畿内説に反論も出来ないんだろう<
もう、「南→東」などの嘘吐きダマシがバレた大和説者は、
九州説には反論出来ないんだろう。 >>313
>会稽東冶の東方向にあるのは海ばかり。 日本列島はもっと北。<
「会稽東冶」ではない。
「会稽東治之東」だから、海の向うにほぼ九州がある。
大和は、もっと北で九州よりもはるかに遠い事からも、✖。
>倭人伝に載ってる行程で、方位と距離が間違っていなければ、
筆者が倭国が会稽より南だと誤解することは無い。<
筆者は、始めから「会稽東治之東」だ、と言っているのであるから、
「会稽の南だ」なんて誤解もしていない。
誤解しているにのは、嘘吐きダマシの・・・・ケダモノの詐欺師の大和説者。
となれば、もう九州は無いですね。 >>316
>九州説なんて閑散どころか もうスレも無いんじゃない?<
古田史学スレでは、イチャモンを付けに来た大和説者は、全滅してしまって、
閑散で平和そのもの。
そして、大和説のスレは、閑古鳥どころか、落城寸前。 >>317
成程。
そういう事が、2chであったんでしたか。 >>319
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者は、
全員、思想宗教に拠っての歴史の捏造が大好きな、・・・・ケダモノサギシだな。 >>385
じゃあ、ここで
古田説が完全に論破されているのは
なぜ? >>320
見ればわかる。
「南→東」などの嘘吐きダマシをし、
決してその証拠を出さないで、
ヘイトスピーチ街宣投稿で、世間の人々を騙そうとする大和説者の体質が・・・。 >>322
>全体への直線距離的になってないじゃん<
「自郡至女王國萬二千餘里」は、「女王國」への里数記載であり、
それには、途中の折れ線的道のり里数説明が書かれていないから、
「女王國への直線距離的説明になっている」と言える。 >>393
では
「邪馬壹國女王之所都」の折れ線的道のり距離の合計の1万2千里
というのは、倭人伝のどこに書いてあるんだ?
??? >>375
>侏儒國は、
>「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
>が証拠。
それがなんの証拠なんだ? >>325
>部分里程の合計が総里程である、という古田説の間違いを認めちゃったんだよね<
いや、古田さんの、
邪馬壹國女王之所都への、折れ線的道のり距離の合計計算自体は、正しいから、
筑紫説でそのままでよい。
そして、それとは別個に、私は、「自郡至女王國萬二千餘里」が、
(邪馬壹國女王之所都ではなく)、「女王國」全体、として書かれている、
という事を見つけ出した、というだけだ。
>ということは、不弥国までで総里程が使い果たされている、という主張は放棄したわけ <
いや、古田解釈は、間違っていないから、放棄していない。
>つまり、女王の都が北部九州にある、という理由がなくなったわけだ<
勿論、「南→東」などに拠って、大和説は始めから✖だ。
大和説・・・お陀仏だよ。 >>726
「南≠東」だけではなく、
「自郡至女王國萬二千餘里」に拠っても、
大和説は完全におさらばだったわけだよな。 >>328
魏使らだけではなく、陳寿も、
投馬國も含まれている「女王國」の位置を「短里」で推定したから、
会稽東治の東とか書く十分な理由がある事になるよなあ。 >>397
>邪馬壹國女王之所都への、折れ線的道のり距離の合計計算自体は、正しいから、
合計って、倭人伝のどこに書いてあるの? >>399
会稽東治の東とか書く十分な理由
って、何? >>329
>確率の算出方法を示せと言ってるんだが<
不可知部分への大体の近似的推論に対して、
「絶対断定」計算を要求する・・・・ケダモノサギシの要求など、受け付けないよ。
これまでの考証校勘的行為をした学者や史家の数が不可知だから、
絶対確率算出なんて、始めから不可能なのであり、
キミらの・・・・性がよく表れているんだよ。 >>332
>そんなもんが人類の常識だという理由は?<
これまでに読んだ行程や旅程や行軍などの説明記載では、
全部、時系列的に空間的にも、古い方の始めから順番に書かれていて、
新しい方の到着地点から古い出発地方向に書いた事は、全く見た事がない。 >>333
>張政らが実際に卑弥呼の埋葬を見聞計測して推測した数値<
だっていう理由は? 言い張るだけ? <
「張政らが実際に卑弥呼の埋葬を見聞計測して推測した数値」という説明に対して、
何がどうして悪いのか?を言わずに、
「だっていう理由は? 言い張るだけ?」と、
単なるヘイトスピーチ的街宣を言い張るだけ?。
・・・・だけ?。 >>403
ウソをついてもダメだ
お前が「人類の常識」とかいい張ってるのは
そんな話じゃなかったろう?
「出発説明+途中移動説明+到着説明」の順次式の説明をしている
とか
「出発説明」と「到着説明」との間に途中移動説明の文言がなかったから移動していない事になる
とかいう珍説だろう
関係ない話をして誤魔化しても無駄だ >>404
>「張政らが実際に卑弥呼の埋葬を見聞計測して推測した数値」という説明に対して、
>何がどうして悪いのか?を言わずに、
>「だっていう理由は? 言い張るだけ?」と、
理由がないってのは
「何がどうして悪いのか」だよ >>374
どんだけ無知なんだ?
桜井のすぐ横にあるけど? 九州説?
古田に安本とか胡散臭いのしかいないじゃんw >>335
>つまり、計算なんてしてないんだね? 適当な思い付きの数字を言っただけなんだね?<
私は、順番に返事を書いているから、
その投稿を読むのが遅れて返事も遅くなるんだが、
その投稿に対する返事は、さっき書いたばかりであり、
キミは、直ぐに返事がないと、
そのように、「匂わせヘイトスピーチ街宣」をして世間の人々を騙そう、
とする・・・・詐欺師なんだね?。 >>336
>>大和は、全く関係もなく、比定出来ない。<
>そう言い張る理由は? <
「南≠東」など。 >>410
で?
計算なんかしてないんだろ?
ザラコクはウソばかりついてるな >>337
>「側副傍線行程」なんて行程はない 古田の造語 <
途中移動の説明が無くされていたら、その行程の移動は、なかった事になる。
これも人類の常識。
だから、それが判らないこの投稿子も、
人類の常識知らずの・・・・サギ師。 >>338
>>三海峡がそれぞれ千余里であって、如淳注で九州北岸まで「萬里」とされていたから、
概算で、九州北岸からは、残り二千余里。<
>ちょうど畿内に着くねー<
「南≠東」だから、着かない。
この男も、・・・・騙しの大和説者。 >>340
>>いや、魏使らは、
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」 とも記録しており、
狗邪韓國までの七千余里に、「倭地を巡り行く5千余里「」を足せば、萬二千余里だ、
という推定が出来ていた、という事になる。<
>なら、郡からの「直線距離」だというお前の話は ウソだということになるな<
ならない。
南と東南の間にしか行っていないから、ほぼ直線方向的であり、
ほぼ直線距離的になる。 >>341
>そんな事実があるって証拠は? また嘘八百?<
そんな事実がなかったって証拠は?。
また、口先騙しの嘘八百?。 >>343
>>三海峡がそれぞれ千余里であって、如淳注で九州北岸まで「萬里」とされていたから、
概算で、九州北岸からは、残り二千余里。<
>女王国が北部九州でないことが 確定しました。<
アホは、何をまたとち狂ってんだい?。
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」は、
邪馬壹國女王之所都の話ではなく、「倭地」の話」なんだよ。 >>344
>>大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国だったんだよ。<
>だという根拠は?<
新唐書や、旧唐書や唐会要。 畿内説の学者さんは武田邦彦教授の謂う恐ろしい人達だな
善人で正義が無い金が儲かればいいだけ。
https://www.youtube.com/watch?v=O1OZ5KgvuUQ >>345
>>これと「南≠東」の二言で、大和説なんか終わってるんだよ。<
>「南≠東」だという根拠は? <
「南=東」だという根拠は?。 >>346
>>(魏使らは)「倭地を巡り行く5千余里」を足せば、萬二千余里だ、
という推定が出来ていた、という事になる。<
>それは直線距離ではない <
当然近似であるし、「直線距離ではない」とも書かれていない。
>如淳曰「如墨委面、在帶方東南萬里」 北部九州とは限らない <
魏志も「倭人在帶方東南大海之中」だから、同じ情報源である可能性が高く、
魏志と同じく、筑紫海岸を意図している。 >>421
ほら、九州説は
根拠もなく言い張ってるだけだった >>419
>新唐書や、旧唐書や唐会要。
違う史料を混ぜこぜにしたら根拠にならんだろ >>422
>当然近似であるし、
萬二千余里が、行っていない水行二十日の投馬國の
郡からの推測直線距離と
「倭地を巡り行く5千余里」と近似で1里が同じ単位なら
投馬國は博多のすぐ南の近所ということになって
南九州最南端には比定できない
お前の供述は辻褄が合っていない 会稽東冶の東にならないと指摘される
↓
必死に会稽東冶を北へ持って行こうとする
↓
いくらインチキしても北緯30度が限界と悟る
↓
12000里地点をごまかして南へ持って行こうとする
↓
北部九州に女王が居られなくなる
九州説ご逝去
>>421
短里だという一言で九州説なんか終わってるんだよ。 >>347
>九州北部から2000古田ン里も先に行ったら 南九州だなあ<
折れ線道のり行程記載では、古田説で、邪馬台国女王之所都は筑紫であり、
投馬國は、水行二十日で南九州であり、
直線距離的萬二千余里の「二千里」は、女王國の範囲であり、ほぼ九州島だ。
>熊本県南か宮崎か<
熊本は、火の国であり、狗奴國だ。
宮崎は投馬國の一部だな。
大和説は、完全に問題外であり、死んでるね。 >>352
大和説者や、大和説学者や、Yahooや5chや、右翼マスコミや、
キョクウや安部自民文部省らは、
人類の常識を知らない・・・・アホの、
排他的人種差別殺人戦争狂の、国粋皇国史観狂の、
「南→東」などの詐欺師なんだろ?。 >>354
>陳寿が「計其道里、當在會稽東治之東」と書いた「道里」を
お前は魏使が行ってない国だと言張っているのだから<
魏使らは、南九州の投馬國までは行かなかったが、
足摺付近の侏儒國までは行っている。
>その解釈なら「會稽東冶」よりもっと南の可能性も出てくる<
「会稽東冶」なんて魏志倭人伝にはないから、
そんな可能性は、始めから全くないよ。 >>431
魏使が行ってもいない水行二十日を南九州最南端に比定する根拠がない
投馬國を上野原縄文の森に比定する考古学的根拠が何も無い >>434
魏使が博多からさらに進んで足摺岬付近まで行っているのなら
邪馬壱国が不彌國の南に接していて、博多のすぐ南に比定する根拠がまったくない >>431
>折れ線道のり行程記載では、古田説で、邪馬台国女王之所都は筑紫であり、
どうして?
折れ線道のり行程記載で「邪馬台国女王之所都」が筑紫になる理由は?
その理由がなくなっちゃったでしょ?
w >>431
成程。常識のある者なら理解できる筈の良い説明だ。有り難う。納得した。 >>356
>日本では連呼人種だとわかったらさわらないようにするんだよ<
何と言っても怖いのは、
排他的人種差別の殺戮戦争をやりたい国粋皇国史観の、
安倍自民や、ヘイトスピーチキョクウや、右翼マスコミや、嘘吐きダマシの大和説者らの、
国民への「憎しみ敵対を煽る」連呼宣伝に拠って、
国民が騙される事だろうねえ。
この巧妙な連呼宣伝に拠って、国民は、
戦争をOKしてしまい、核戦争への参加を強制されてしまい、
国民も子や孫や親しい友人たちも、核皆殺しにされてしまいそうな事ですね。
誰がこんな事にしたんでしょうかねえ?。
そりゃ、責任の一端に、嘘吐きダマシの大和説者もいたんでしょうね。 >>360
>さぞや口汚くデタラメを罵倒しまくったんだろうなあ<
そりゃ、「南→東」などの嘘吐きダマシで、国民を騙そうとする人種は、黙過し難いからなあ。
それは、罵倒する価値があるし、罵倒しなければならないねえ。
しかし、それ以外は、言い返しや鸚鵡返し位だろうなあ。
世間の人々にも衆知されただろう、と思った時は放置しているし。 >>162
>>「計其道里、當在會稽東治之東」は、ほぼ九州の女王國を指しているから、<
>証拠は?<
地図で。 >>364
>會稽東冶の東は宮古〜沖縄<
ウソを付くな。
魏志倭人伝では、「会稽東冶」ではない。
しかも、「長里」説では、赤道付近になってしまって✖。
>会稽郡の東部(257年以降臨海郡)の東は奄美<
奄美に女王國が納まる筈がない。
「計其道里、當在會稽東治之東」は、陳寿の「大体の推定」であり、九州。 >>368
>>陳寿の行程記載法の「出発+途中+到着」の順次式の原則に拠れば <
>そんな原則はない <
その原則は、人類の常識。 >>441
>>証拠は?
>地図で。
ばかですか?
そんなの、証人は?と聞かれて
「俺だ」と答えたようなもんでしょ >>370
当たり前だろ、今時大和説なんて。
やってるのは、まともな奴、皆無だし。
方角間違い説なんて、99.9%以上の確率で否定されて解決済み。 >>371
>「乍南乍東」な道はないだろ<
山間部のくねくね道は、「乍〜乍・・・」になるしかないだろ?。 >>442
>ウソを付くな。
>魏志倭人伝では、「会稽東冶」ではない。
会稽東冶のことなんだよ
だって実際に「東治」と呼ばれたことのある場所は、東冶しか存在しないんだから >>445
罵倒する以外何も出来ないお爺さんw
証拠は全く出さない
理由は言えない
計算もしてないテキトーな思いつきの数字を連呼する
こんな人しか、もう九州説には残ってないんですね
世間から見捨てられた珍説なんですね
w >>446
>山間部のくねくね道は、「乍〜乍・・・」になるしかないだろ?。
そんな山間部は街道全体のごく一部だよ >>446
>山間部のくねくね道は、「乍〜乍・・・」になるしかないだろ?。
西には1回も行かないんだな、ウソつくな >>372
>丹山の存在と<
丹山も丹木も、日本中のどこにでもあって、根拠にならないし。
>神獣鏡が三世紀以降奈良盆地に集中する時点で<
三角縁神獣鏡が、洛陽から殆ど出土せずに、日本で500個以上出土した点で、
明帝の下賜鏡ではない事が確定的だし、
大和の三角縁神獣鏡は、4世紀以降だし。
>当時の中国人の目的地が 畿内なのは誰でも判る話。<
魏使らの目的地が、大和ではない、という事は、
まともな頭の持主なら、誰でも判る話。
>方角なんか間違える訳ないというのは バカの思い込みだろう。<
方角なんか間違える訳がある、なんていうのは、
思想宗教に狂った・・・・ バカの思い込みだろう
現実に中国人は、 南へ向かった、と書いているんだからな。 >>380
「南→東」などの史料事実を否定曲解をする嘘吐きダマシのような、
論理的な思考ができない脳の病人のような・・・・サギシをの相手を、
論破することはできない。
なぜなら、自分の論理が破綻していることにも、論拠が崩されていることにも、
気が付くことができないから。 >>384
「南≠東」ですから、もう大和説は無いですね。 >>389
じゃあ、ここで、
大和説が完全に論破されているのは、
なぜ?。 >>292
>それ、何か証拠あるの?<
「南≠東」。 >>394
>では
「邪馬壹國女王之所都」の折れ線的道のり距離の合計の1万2千里
というのは、倭人伝のどこに書いてあるんだ? ??? <
直接的には、書かれていないよ。
行程記載を、きちんと解釈された古田説で合計すると判るが、
「自郡至女王國萬二千餘里」には、直接的な折れ線道のりの記載がないから、
ほぼ直線的萬二千余里だった、と判る。 頭のおかしい爺さんが一人で南だ南だと喚いでいるだけ
だから自分は関係無いんだ、なんて
思ってる九州論者がいたら
それは大間違いだ
九州論者は多かれ少なかれ
南だ南だと喚くしか能がない
思考停止した耄碌老人なんかだかね
胸に手を当てて
考えてご覧
ほらね >>395
>>見ればわかる。
「南→東」などの嘘吐きダマシをし、
決してその証拠を出さないで、
ヘイトスピーチ街宣投稿で、世間の人々を騙そうとする大和説者の体質が・・・。<
>証拠はないのね?<
掲示板での大和説者らの投稿が証拠。 >>457
>「自郡至女王國萬二千餘里」には、直接的な折れ線道のりの記載がないから、
>ほぼ直線的萬二千余里だった、と判る。
じゃあ
「邪馬壹國女王之所都」の折れ線的道のり距離の
合計は、なぜ同じ1万2千里になるの?
??? >>460
>掲示板での大和説者らの投稿が証拠。
この掲示板に大和説者らの投稿は
一つもありません
畿内説板だから
ほら、証拠はなかった >>396
>>侏儒國は、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
が証拠。<
>それがなんの証拠なんだ?<
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説の誰かが、
魏使らは列島へは来ていない、とか言い出した事への反論の、
証拠。 >>400
>>邪馬壹國女王之所都への、折れ線的道のり距離の合計計算自体は、正しいから、<
>合計って、倭人伝のどこに書いてあるの?<
書いてないよ。
だから古田さんが計算された。 会稽郡治は会稽郡のほぼ北の端にある
だから、もし「会稽東治」なんてものが実在するなら
それは会稽郡治よりも北ではあり得ない
会稽郡じゃなくなるから
会稽郡治の真東でもあり得ない
その場合なら「会稽山陰之東」と書くから
つまり「会稽東治」は北緯30度より南になる
その東に九州島は無い
だから倭人伝の行程記事には間違いがある
それを信じて、いくら女王の都を探しても
決して見つからない >>464
>書いてないよ。
>だから古田さんが計算された。
どうやって計算したの?
また、ウソでしょ? 爺さんボケてるのか?
畿内に多い神獣鏡は三角だけではないだろw
まさか画文帯まで国産扱いするバカなのね、 まあ、いくら虚勢を張っても
九州説は学説としては
もう死んでるからな >>401
>会稽東治の東とか書く十分な理由
って、何?<
書いておいた、だろ?。
魏使らだけではなく、陳寿も、
投馬國も含まれている「女王國」の位置を、
(長里ではなく)「短里」で推定したから。
長里なら、赤道付近にまで行ってしまう。 >>475
ほお、三世紀以前から畿内で神仙思想の鏡を作ってたか。確実に中国人の痕跡だなw >>481
そうだと言っているんだよ
何度、言えばわかるんだ >>480
>魏使らだけではなく、陳寿も、
>投馬國も含まれている「女王國」の位置を、
>(長里ではなく)「短里」で推定したから。
そんな理由は書いてないな
あると言うなら、どこに書いてあるか言え >>479
中国国内の類例から。
各地の王侯に内行花文鏡を送っているが、三角縁を送った例はない。 >>484
なるほど
日本の古墳の中での副葬位置も同じような序列ですな >>405
>ウソをついてもダメだ お前が「人類の常識」とかいい張ってるのは
そんな話じゃなかったろう?
「出発説明+途中移動説明+到着説明」の順次式の説明をしている
とか
「出発説明」と「到着説明」との間に途中移動説明の文言がなかったから移動していない事になる
とかいう珍説だろう
関係ない話をして誤魔化しても無駄だ<
ウソを付いて誤魔化してもだめだ、詐欺師。
お前の質問は、
「そんなもんが人類の常識だという理由は?」だけしかない、
曖昧なものだったんだぞ。
それだけでは、何に対する説明なのか?もはっきりせず、
だから、「人類の常識」になる回答をして上げたのだ。
そして、
「出発説明+途中移動説明+到着説明」の順次式も、当然人類の常識だし、
「出発説明」と「到着説明」との間に途中移動説明の文言がなかったら、
移動していない事になる、というのも、側副傍線行程を説明する時の、人類の常識だ。 >>484
どうして人間が、そんな無意味なことを言えるのか
ただただ驚く >>486
「人間がどこまで無意味なことを言えるか」コンテスト
があるなら、こっちが上だな >>406
>>「張政らが実際に卑弥呼の埋葬を見聞計測して推測した数値」という説明に対して、
何がどうして悪いのか?を言わずに、「だっていう理由は? 言い張るだけ?」と、<
>理由がないってのは 「何がどうして悪いのか」だよ<
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」
と書かれていた事が理由であり、
それが書かれた事には、何ら問題はなく、
「だっていう理由は? 言い張るだけ?」とか言われる筋合いがない。 >>486
要するに
己れの恣意的な決めつけを
これが「人類の常識だ」と
理由もなく
言い張っているだけだな
ただの自分の個人的ワガママを
「常識じゃ、常識じゃ、これが人類の常識じゃ」
と駄々コネするボケ老人そのもの
スレ主=奥山さんは黙っててください!
あなたはテンプレで畿内説を引用するだけで構いません。
テンプレもツギハギだらけは如何ともしがたいです。
とにかく、奥山さんが書き込むのは
この程度ですが畿内説がバカにされます。
⇩(奥山さん、これは無いです・・何年も前からですが)
連呼だけですか?
いつ、誰がしたの?
理由は?
その根拠は? >>482
つまり中国人は三世紀には畿内を目指して
やって来たんだな。 >>489
>「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」
>と書かれていた事が理由であり、
それが、なんで
「張政らが実際に卑弥呼の埋葬を見聞計測して推測した」という理由なの? >>480
「自郡至女王國 萬二千餘里」を魏志が行っていない投馬國の推定直線距離だと
主張しているのだから、「投馬國も含まれている「女王國」の位置」ではなくて投馬國の位置 >>494
なんで
女王国には投馬国も含まれていると
断定するんだ? >>491
理由聞いたらなんでイカンの?
根拠聞くのが、なぜ無いの? 九州説は「会稽東冶の東」問題で
完全に敗退したね
滅亡乙
>>408
大和説?。
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの学者とか?、
「排他的人種差別」のヘイトスピーチで「殺人戦争」を鼓舞扇動をするキョクウとか?の、
胡散臭いのしかいないじゃん。 >>412
>>「南≠東」など。<
>それしかないのかよ<
「など」と書いているのが見えないのか?。
「など」という事は、他にもある、という事を示しているんだよ。
他の事も書き始めたら、行数と時間が一杯かかってかなわんし、
・・・・詐欺師の大和説者相手では、無駄で無意味だから、
「南→東」など、と書いて、半分放置しているんだよ。 奥山はいじめるな
世間に相手にされず、落ち延びたのがココ
犯罪者にならぬように勝手にさせてやれよ >>413
>で? 計算なんかしてないんだろ? ザラコクはウソばかりついてるな<
これまで、考証校勘した学者や、後代史書が何百人いたのか?は知らんが、
として、
その何百人かが否定訂正していないんだから、
否定の確率は、「何百分の1」の確率はしかない、
という事が、計算だ。 テンプレの支離滅裂、詭弁とまでいかないテンプレ
が畿内説を誤解させる
同やんの限界だなWwwww >>424
>>新唐書や、旧唐書や唐会要。<
>違う史料を混ぜこぜにしたら根拠にならんだろ<
客観性と信頼性の高い史書の記載は、いずれも、根拠になる。 >>507
>>新唐書や、旧唐書や唐会要。
全部お前は半分×書って言ってるではないかw >>425
>>当然近似であるし、<
>萬二千余里が、
行っていない水行二十日の投馬國の 郡からの推測直線距離と
「倭地を巡り行く5千余里」と
近似で1里が同じ単位なら
投馬國は博多のすぐ南の近所ということになって
南九州最南端には比定できない <
ならんよ。
7万戸の邪馬壹國の南の外縁部と、
5万戸の投馬國の北側の外縁部との距離が、
二千余里であって、そこに狗奴國があった、という事になるだけだ。
熊本県の海岸部の南北長は、140〜150km位?だから、
ほぼ短里で2千余里であり、ほぼピッタリだ。
お前の供述は、常に辻褄が合っていない。 >>426
どうやら、大和説者には、
「里数で突っ込み反論をする」係と、
それで横から「方角で九州説へのヘイトスピーチ街宣ではやし立てる」係の、
二人いるようだな?。
大和説には、必死で議論するのはもはや、
方角バカと里数バカの二人位しかしかいないようだなw。 以前書いたはず
よくいわれている街宣?というのは
ニセモノ、騙り、成り済ましだよ
どこの雑魚なんだ? >>427
大和説は、里数の算数もできないアホと、方向が判らないアホの白痴さんの、
専用珍説だね。 神代?皇室?
日本の神話自体パクリだと書いてあるでしょ >>428
会稽東治の東になると指摘される
↓
必死に会稽東冶へ持って行こうとする
↓
いくらインチキしても会稽東冶の東には大きな島はないし、
東を北にも出来ないし、長里でも、短里でも全く合わない
↓
行程の「邪馬壹國女王之所都」と「(投馬國を含む)女王國」とを、
ごっちゃにして騙そうとするが、それも反論され、
大和説の微かな希望であった二千里も九州に納まる
↓
「南≠東」もあって、大和に女王が居られなくなる
大和説ご逝去 >>429
「南」と「短里だ」という二言で、
大和説なんか終わってるんだよ。 >>509
>7万戸の邪馬壹國の南の外縁部と、
>5万戸の投馬國の北側の外縁部との距離が、
>二千余里であって、そこに狗奴國があった、という事になるだけだ。
魏志が投馬國に行っていないなら投馬國の北側の外縁部までの里数などわかるわけがない
「自女王國以北 其戸數道里可得略載」であるから、投馬國までの里数がわかるなら
投馬國以南にも遠絶で不可得詳な其餘旁國が拡がっていることにもなる >>432
>根拠は?<
史料事実であり、史料実態であるから。 >>435
>魏使が行ってもいない水行二十日を南九州最南端に比定する根拠がない<
古田さんの計算では、水行は1日平均450里(短里)であり、
二十日で9000里であるから、約688.5kmであり、
不彌國から北の玄界灘に出て、
(敵対する狗奴國のある側と反対の)九州東岸の海岸沖回りすると、
大体、からの薩摩の鹿児島湾に入ってしまう。
>投馬國を上野原縄文の森に比定する考古学的根拠が何も無い<
古田さんは、薩摩である事からの推定。
私は、縄文以来の東鯷人の中心地説であり、
卑弥呼の頃に倭人の支配下になって、投馬國という名前に変わった、という説。 >>436
>魏使が博多からさらに進んで足摺岬付近まで行っているのなら
邪馬壱国が不彌國の南に接していて、博多のすぐ南に比定する根拠がまったくない<
関係がない。
魏使らは、当然、卑弥呼らや倭國との対応に忙しいから、
侏儒國まで行ったのは、おそらく「記録計測」係の部下。 >>518
水行二十日は魏志が一緒に行っていない倭人の水上移動速度という主張だから
里数に換算しても想像でしかない >>518
投馬國を地名だけで比定するなら、北部九州の出土遺物の豊富さは根拠にならない >>437
>>折れ線道のり行程記載では、古田説で、邪馬台国女王之所都は筑紫であり、<
>どうして? 折れ線道のり行程記載で「邪馬台国女王之所都」が筑紫になる理由は?
その理由がなくなっちゃったでしょ?<
行程記載の距離や方向からや、
伊都国が糸島水道付近という証拠があり、不彌國はその東百里にあって、
邪馬壹國への途中移動の動詞が書かれていない事から、
邪馬壹國が不彌國の南に殆どくっついて居る事などで、
邪馬國は、筑紫にある事になる。 >>519
忙しいだの記録係だのお前の作り話など根拠にならない
博多のすぐ南で女王の都に到着している根拠が何もない >>438
>成程。常識のある者なら理解できる筈の良い説明だ。有り難う。納得した。<
何時も、同意や励ましをして頂いて、
有難うございます。 記録係なんていないよ、
それは後世の捏造だと書いてない?
記録係というのは、
この人物の事を言っているのかもしれないけど
『聖化 日霊 日神 津』
何やらの数え、計算していたとか 同じような名前の人物でも実際は別人、系統も違うとか?
筆が何やら、船の数を・・・とか 聖化 日神・・・調べてみると
・天帝より授かり・・・と書いてない?
『河伯』のところにも書いてある >>444
>>>>「計其道里、當在會稽東治之東」は、ほぼ九州の女王國を指しているから、<
>>>証拠は?<
>地図で。<
>ばかですか? そんなの、証人は?と聞かれて 「俺だ」と答えたようなもんでしょ<
アホですか?。
地図以外に何が証拠になるんですか?。
まさか、船に乗れ、とか、泳いでみろ、とでも言うんで、しょうか?ねえ。 あのキュウリの葉などの写っている写真
『松傾』
と同じ家?なんだけど、上の名前「す▢の」 というか、家の写真だよ
松傾のような写真もあったでしょ、
松の木?モミの木?の立てられていた写真 >>447
>>ウソを付くな。 魏志倭人伝では、「会稽東冶」ではない。<
>会稽東冶のことなんだよ
だって実際に「東治」と呼ばれたことのある場所は、東冶しか存在しないんだから<
ダメだよ。
東冶が会稽郡であったのは、分郡(永安3年=260年)の前であり、
その時に東冶も東治であったのであり、
そして分郡後は「建安郡の東冶」になったんであり、
しかし、陳寿が地の文で「計其道里、當在會稽東治之東」と書いたのは分郡後であり、
分郡後は、會稽東治は会稽郡の東治であるから、
建安郡の東治(=東冶)ではない、
という事になる。 >>448
議論に負けて、ヘイトスピーチ街宣罵倒する以外、何も出来ない大和説者w。 >>448
証拠は全く出せないで、口先での誤魔化し誹謗をする、
「南≠東」などの理由は言えない、
間違った計算をしてテキトーな思いつきの数字を連呼する、
こんな人しか、もう大和説には残ってないんですね。
国民の投票でも、国民から見捨てられた珍説なんですね。
w >>449
>>山間部のくねくね道は、「乍〜乍・・・」になるしかないだろ?。<
>そんな山間部は街道全体のごく一部だよ<
どっち道、結局は東南へ向かうんだから、「乍南乍東」になるしかないだろ?。 >>450
>>山間部のくねくね道は、「乍〜乍・・・」になるしかないだろ?。<
>西には1回も行かないんだな、ウソつくな<
細かい方向変更があったとしても、結局は東南に行くんだから、
大体「乍南乍東」になっていたんだろう。 >>459
頭のおかしい嘘吐きダマシの大和説者らが、
何人かで「南→東だ」と喚いでいるだけ。
しかし自分は関係無いんだ、なんて思ってる大和論者がいたら それは大間違いだ 。
大和論者は多かれ少なかれ、
「南→東だ」と喚くしか能がない、
思考停止した嘘吐きダマシの・・・・サギシなんかだからね。
胸に手を当てて 考えてご覧。 ほらね。 >>523
>>>519
>忙しいだの記録係だのお前の作り話など根拠にならない
>博多のすぐ南で女王の都に到着している根拠が何もない
魏志倭人伝を読んだことないのか? 山王(山王院 山王宮)の話なのかな
新たに官職を授かりと書いてあるし、
京都のほうから貰ったとか
無税で・・・とか >>461
>>「自郡至女王國萬二千餘里」には、直接的な折れ線道のりの記載がないから、
ほぼ直線的萬二千余里だった、と判る。<
>じゃあ 「邪馬壹國女王之所都」の折れ線的道のり距離の
合計は、なぜ同じ1万2千里になるの? ???<
古田さんのくねくね折れ線行程の邪馬壹國女王之所都への近似計算合計と、
魏使らの女王國への直線距離的な萬二千余里とが、
たまたまほぼ一致した。 むかーし住んでいたというところも、
合致しているしな
伊達郡というところがあって・・・そこの山の上のほう、
当時、住んでいた家には、本や書なんかが沢山並んでいた >>541
>古田さんのくねくね折れ線行程の邪馬壹國女王之所都への近似計算合計と、
古田が、計算いつしたの?
どんな計算?
計算式を書いてごらん
捏造しちゃ、ダメだよ、 >>533
>東冶が会稽郡であったのは、分郡(永安3年=260年)の前であり、
卑弥呼の朝貢はもっと前だよ
それに
盗賊扱いの呉が、勝手にやった分郡など
魏には関係ないんだよ
魏志に載っているのは魏の歴史だ 『社家 絶家』?
この家の話なのかな
『王 須 津』
葱の華も写っていたり >>512
日本語すらまともに読めないお前が言うなよw もはやスレ荒らししかできない九州説お爺さんが憐れで仕方ない >>535
>こんな人しか、もう大和説には残ってないんですね。
>国民の投票でも、国民から見捨てられた珍説なんですね。
ありもしない国民の投票を
デッチ上げる
九州説 日本人?って聞かれて
ああ、そうだよ日本人だよ文句あっか?
と即答できない恐怖 神代というのがあり、
〜国を造ったという話があるけど、
もともとは日本人ではない?みたいな事になるような >>554
こわっ
誤魔化してるよ
日本人?の答えは? >ありもしない国民の投票を
>デッチ上げる
日本国民の投票を
必死で否定する
日本人? 当時、日本という国はなかった、
日本と倭は別種と言っている人がいたり、
倭猿(不明)というがいたとか >>528
>アホですか?。
>地図以外に何が証拠になるんですか?。
>まさか、船に乗れ、とか、泳いでみろ、とでも言うんで、しょうか?ねえ。
こいつ、馬鹿だろ
提出できない物が
証拠になるわけ
ないじゃないか >>548への反応
>>549 5分後
日本人?
今田返事なし >>562
うん、人間
で、日本人
>>562
で、畿内説のお前は日本人? 他のスレを見ていたときの話
一時期『JAP18』というのが流行っていたとか >>564
なんで日本をディスってんの?w
日本を貶めるのが当たり前なん?w
日本人? >>565
僕ちゃん日本だーい好き日本人
>>565
畿内説の君は
日本人?
返事なーしwwwww 日本人?
って聞かれて
そっちの証拠は?だってさwww
そりゃ狗邪韓國で徹底抗戦して
北部九州邪馬台国なんて発狂ものだろうなw >>569
日本国籍だもんw
で、必死に自分を誤魔化してるあんたは?w ぼくドラえもん
じゃなかった、日本人w
余裕あるから狗邪韓國なんてどうでもいいよんw
記紀で日本国は規定されてるじゃん!
なんで狗邪韓國なんかに必死になるのん?w 怖えぇええ
一言
俺も日本人だがそれがなんだよ?
って言えばいいのに
ここまで引っ張る?
そろそろ言うかな
プライドを捨ててw >>573
ぼく日本生まれの日本国籍♪
パスポートは菊の御紋だよ♪
矛らしいな♪
で、
脅威の
日本人?質問から逃げ回ってる
畿内説スレ逃げ遅れたたった一人のチミは
日本人? >>576
日本人だよんw
で、
議論からも
日本人?からも
逃げ回ってる
畿内説のお前さんは?w 日本は素晴らしい!
日本っていい国だよな
世界一!
で、畿内説のお前さんは
日本人?w もう今さらだけど
嘘でもいいから
日本人だって言えないのか? >ありもしない国民の投票を
>デッチ上げる
日本人? >>582
個人情報で戸籍謄本でも見せろって?w
できないことを要求して誤魔化す
お前さんのいつもの手口だねえw
で、あんたは日本人?
答えなくても答えちゃってるけどw
で、畿内説なんだよね?w >>584
おまえ、証拠の出せないこと言い張って
なにがしたいの?
w 日本人?
って聞かれて
ああそうだよ
って答えられないのが
年末の日本史板で頑張ってます!!! >>590
いいよいいよw
がんばれ?
で、畿内説のお前は日本人? >>589
お前は日本人だって証拠の出せない男じゃないか
(嗤 >>594
俺は日本人だよw
畿内説のお前は日本人と宣言することすらできない男じゃないか
(嗤 畿内説が誤魔化そうと必死w
日本人って宣言できずに
ここまで必死に粘るのが逆に怖いwww >>597
え?
俺は日本人だから
日本史板でのんびりしてるけど・・・
畿内説のあんたは日本人じゃないの? >>603
え?
日本史板でわざわざ日本人だって証拠を呈示する必要があるの???
こりゃ驚いた!w >>601
日本人と言えない畿内説がこうおっしゃっています >>607
うん、僕も個人情報がかかわるから証拠は出せないね
けど
僕は日本人だよ
日本だーい好き!
くらいは言える
で、畿内説のあんたはここまで何やってんのwww >>608
だよな
畿内説のあんたが怪しすぎwww >>610
畿内説のあんたは日本人じゃないんだねえw >>609
証拠の出せないことを
なんで主張できるんだ? >>613
畿内説のあんたは日本人じゃないんだねえw 他国の歴史に介入するとして
学術的な客観性を備えているなら喜んで歓迎しよう
で、ここ数十スレの敗残兵のような体たらく 証拠の出せないことを平気で言い張る
という敗残九州説の体質が
よく出ていた
w 漢時有り朝貢、これは何処へやって来たんだろうね?
帯方軍?んなわけ無いよなw
会稽へだろうな
会稽ってどこ?
長江の岸だよな
当時の長江ってどこを流れてた?
誰も答えようとしないw 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。 >>442
>魏志倭人伝では、「会稽東冶」ではない。
後代史書では会稽東冶か会稽、現在中国では会稽東冶に訂正されている
会稽郡東部は257年に臨海郡に分割された、現在の寧波市〜台州市〜温州市
>奄美に女王國が納まる筈がない。
納まらないなら行程方位が間違っているか、地理観が現在の地図とは違う
会稽郡は北緯30度以南で、その東は屋久島の南の口之島以南
九州島最南端で会稽郡北端の111km北の北緯31度、
那珂八幡は会稽郡北端の約390km北の北緯33.5度
九州島は会稽郡の大体東北 纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代(4世紀初頭〜前半))より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
つまり、
アホの>>1
アホの>>1
wwwwwwwwww >>637
いるよ。
弥生時代から九州瀬戸内に配置され畿内を守ってたモノノフ集団が物部だよんw
https://goo.gl/XSLf6B 古田の振り回す分郡談義は、三国志の地の文が陳寿執筆時現在の地名で書かれているーーという、なぁんも根拠のない主張なんだよね
つまり、ナンセンス とあるスレを読んでいたところ
「木工寮」について調べてみて
と言っている人がいたので、ググってみた
結果
高位の王族がいて、奴婢?というのがいた・・・
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。と書いてある モンスターハンターというゲーム?
王族装備というものがあったり 日本に王族なんていたの?
と言っている人もいたような
ドラゴンボールにも出てきたり、
下級戦士、王子・・・国王とか
『ザ・モモタロウ』にも出てくる >>634
こういう芸のなさが、九州説の末期を感じさせる。 漫画の話なのかな、本当は日本の話なのかな?
「チャルロス」
に殺されそうになった言っている人がいたり、
何々宮というキャラまでいたり
チャルロス?
どうみても日本人でしょ
確か数年前の△の陰謀というスレだったかな、
そのような事を言ってる人がいたよ おまえはデスラーか!!頭、おかしくなるわ!!
と言っている人もいた
もれ(仮)に、レスしていたような気がするんだけど、
「>>」このようになっていたし あの謎の大地震で頭が、おかしくなったのかな、
おかしくなりかけた?
『西之島 噴火』
なんかもあったし、それが原因なのかな、誰だったんだろう >>637
対馬海峡の倭国高天原から船で畿内に攻め込んだアマテラスの孫の饒速日が物部の祖だから、物部という名称をその頃から用いていたかどうかはともかく、畿内政権としての饒速日王朝の墓ということなら理解はできる。 これも数年前の△の陰謀スレ
この書き込みも同じような感じがする
「もう私ではない、真似なんてしているから、こんな事になってしまった」
「何度も言いました、だっつーの!」
「そういう事なんだっつーの!」
「生きてたのか!そういう事なんだっつーの!もう、どうにもならないんだっつーの!」 >>465
>会稽郡治は会稽郡のほぼ北の端にある
だから、もし「会稽東治」なんてものが実在するなら
それは会稽郡治よりも北ではあり得ない 会稽郡じゃなくなるから<
陳寿は、当然「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」のつもりであり、
だから会稽東治も、夏后少康之子封於會稽の地の東治のつもり。
>会稽郡治の真東でもあり得ない その場合なら「会稽山陰之東」と書くから<
夏后少康之子封於會稽がピンポイントだ、という事はあり得ない。
広域である。
>つまり「会稽東治」は北緯30度より南になる その東に九州島は無い<
夏后少康之子封於會稽の東治が広域であり、更にその東方だろう、
という推定であるから、九州は十分に含む。
>だから倭人伝の行程記事には間違いがある
それを信じて、いくら女王の都を探しても 決して見つからない<
大和説者は、このように都合の悪い倭人伝の記載を、否定抹殺する事で造られたサギ的な説である。 大震災前後にやっていた、ドラマ?の話なのかな
『詐欺師と一緒にされるのも嫌なので』
このような人物が出てきて、銃を発砲しようとしていたり、
主演していたのは日本人ではなかったような、kpop? 「一緒にされるのも嫌なので」
雰囲気が、もれ(仮)の兄に似ているんだけど >>467
大和説
次から次へ
嘘をつき
まあ、人間じゃないね。 >>652
会稽の東を北にだけ拡大させるのはおかしいから、
南は会稽郡の南端から3.5度南にも拡大させると
台湾がすっぽり入るくらいの異常な広範囲になる
九州は会稽郡の東北、広陵郡の東 >>273
いつ、いかなるときも、
「南→東」などのように、理由を言わずに、史料事実を否定曲解する詐欺師なのが、
大和説。 >>474
>爺さんボケてるのか? 畿内に多い神獣鏡は三角だけではないだろw
まさか画文帯まで国産扱いするバカなのね、<
まだボケているのか?。
きちんと三角縁神獣鏡と書いておいた筈だよ。
それに、画文帯も、大和が九州よりも多い訳ではない。 >>476
まあ、いくら虚勢を張っても、
大和説は学説としては、
もう死んでるからな。 >>481
>ほお、三世紀以前から畿内で神仙思想の鏡を作ってたか。確実に中国人の痕跡だなw <
ホケノの画文帯は、楽浪系であるし、
ホケノ自体が布留だから、4世紀だよ。 >>483
>>魏使らだけではなく、陳寿も、 投馬國も含まれている「女王國」の位置を、
(長里ではなく)「短里」で推定したから。<
>そんな理由は書いてないな あると言うなら、どこに書いてあるか言え<
「自郡至女王國萬二千餘里」と、
「計其道里、當在會稽東治之東」と、
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」の「可」。 >>660
>それに、画文帯も、大和が九州よりも多い訳ではない。
多いだろ >>659
>「南→東」などのように、理由を言わずに
これもデタラメだな >>652
>夏后少康之子封於會稽の東治が広域であり、更にその東方だろう、
>という推定であるから、九州は十分に含む。
ウソだ駄目
どんなに広域だろうと北限が北緯30度近辺なので
その東は九州島をまったく含まない 沖縄県も九州だから九州説は沖縄でいいじゃん
面積は福岡県の約半分だから弥生銀座より広いし >>492
>つまり中国人は三世紀には畿内を目指して やって来たんだな。<
「南≠東」だし、
「大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から分かれた別種の旧小国」であるから、
✖ね。 >>493
>>「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」
と書かれていた事が理由であり、<
>それが、なんで
「張政らが実際に卑弥呼の埋葬を見聞計測して推測した」という理由なの?<
見て確認しなければ書けない事だから。 >>650
物部の先祖がいたことは確かだろうが、王朝はないな。
記紀を読めば分かるが、物部って古い時代は丹波一族よりの存在感が薄いんだよ。
薄いというか、一貫して「臣下」の立場。
天理が物部の故地のように書くやつがいるけど、石上神宮はあくまでも「政権の武器庫」
であり、物部はその管理者にしかすぎない。
他の古代豪族が「先祖を祀る」とか「始祖を祀る」のとは明らかに違う。 >>674
見て確認しなければ書けない事だと
どうして
「張政らが実際に卑弥呼の埋葬を見聞計測して推測した」
ことになるの?
論理性皆無
見て確認しなければ書けない事だ >>673
>「南≠東」だし、
根拠なに
>「大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から分かれた別種の旧小国」であるから、
そんな史料事実なし 東ローマ帝国の国教はキリスト教だからローマ人はエルサレムからやって来てローマを征服した
とか言い出しかねない連中
それが九州説 >>636
> 纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代(4世紀初頭〜前半))より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。 <
秀逸なコピペや^^
確かに初期前方後円の被葬者として推定できるのは物部一択や
鴨先生は箸墓が崇神さんのかーちゃんの墓と思てはるか?(わえはその可能性高いと思う
吉備津のねーちゃんとごっちゃにされたのが不思議じゃ(そがくんの歴史改ざん? 若干鴨先生に小賢しく意見させてもらうと物部が瀬戸内海洋集団になったのは崇神さんより後の時代じゃなかろうか?
ニギハヤヒ君は丹後もしくは若狭から南下して畿内に入ってきた気がします! 箸墓の前に橿原瀬田遺跡に類似の物が確認されたからダメだね。
葛城は物部の土地か?それには異論がある。 そもそも物部は雑多な古代氏族の集合体なんだからな。
箸墓はモモソヒメの墓というのは伝承と共に残っているのだから
疑うまでもない。大きさ故に紀にも記述されていたんだろうし。
瀬戸内海での女神であるモモソヒメが、郷土近くに
瀬戸内海の様式で造られたのは納得出来る話だろう。 漢書によれば会稽の東にいたのは東テイ人なんだよな。
陳寿はこれを倭国と勘違いしてたんだろう。
「會稽海外有東テイ人,分為二十餘國,以歳時來獻見云。」 >>686
距離的にそれに見合う、という判断があったから、同一視されたわけだ
短里説は無理だね 古代社会じゃ「俺たちのヒイ祖父さんは、実は生き別れの兄弟だった」とかいう類のフィクションを作って同盟を結ぶんだよ
氏族なんてものも、実はそういう「神話で結ばれた人工的部族」なんだよ
後世になって作られた
物部なんて、特に新しい部類だろ >>494
>「自郡至女王國 萬二千餘里」を魏志が行っていない投馬國の推定直線距離だと
主張しているのだから、「投馬國も含まれている「女王國」の位置」ではなくて投馬國の位置 <
卑弥呼共立国に投馬國が含まれているのだから、
投馬國は、女王國に含まれる。 >>496
>なんで 女王国には投馬国も含まれていると 断定するんだ?<
30國の中で、
「・・・次有奴國、此女王境界所盡、
其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王」であって、
「素不和」であったのは、狗奴國のみ。 >>498
>理由聞いたらなんでイカンの? 根拠聞くのが、なぜ無いの?<
別に構わんよ。
しかし、殆どが不可知部分である自然や歴史においては、
理由や根拠を質問し続ければ、いずれは不可知領域に入ってしまい、
無限に理由や根拠を答える事が不可能になり、
最終的に可能な答えは、知り得た観察実験計測事実や史料事実や考古事実や、
それらからの帰納的推論のレベル位にしかならない事になる。
そして、大和説者らの・・・・なのは、不可知領域にまで質問をし続けて、
知りえた知り得た事実を越えての返答を要求して、
その返事がないと、議論に勝った、と叫んで、
相手を「議論に負けた」ヘイトスピーチ街宣し、
そして、自分らの論への質問には、こっそり隠して返答しない事。 >>500
大和説者らは、史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシから出発しているから、
理由や証拠を質問され続けると、史料事実に関する続け議論になって、
いずれは答えられない、という事になる。 >>501
大和説は「会稽東冶の東」問題で、嘘吐きダマシがばれて、
完全に敗退したね。
滅亡乙。 >>504
>奥山はいじめるな
世間に相手にされず、落ち延びたのがココ
犯罪者にならぬように勝手にさせてやれよ <
世間の人々が、「南→東」などの嘘吐きダマシに騙されるのは黙過し難いから、
嫌だ。
しかし、PCで、
例の東大京大の天誅の「漢籍の書棚」の画面が、今日から出なくなっているね。
どうしたんだろうかねえ?。
死んでしまったか?、絶望して自分で削除したのか?。 >>693
「会稽東冶の東」問題で
どんな嘘吐きダマシがばれたの?
事実を言ってみて >>508
>>新唐書や、旧唐書や唐会要。<
>全部お前は半分×書って言ってるではないかw<
新唐書や、旧唐書や唐会要は、殆どが信頼性が高いから、
「半分×」なんて言わないよ。
✖かも知れないのは、数%以内位だ。 >>691
>そして、自分らの論への質問には、こっそり隠して返答しない事。
どんな質問に返答してない?
事実を言ってみて >>694
どうせまた、ザラコクのPCが変なだけだろ >>689
卑弥呼共立国に投馬國が含まれていると
投馬國は女王國に含まれる
って理由は? >>697
>新唐書や、旧唐書や唐会要は、殆どが信頼性が高いから、
>「半分×」なんて言わないよ。
それをザラコクが恣意的に切り貼りしたから
信頼性は「全部×」だな。 >>675
饒速日のフルネームを見ると、天照国照とあり、アマテラスの権威を引き継いで倭国の王となったことを示す称号が与えられている。
弟の邇邇芸には兄弟相続したのだろう。
物部は臣下ではなく、本来は王の血筋だよ。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。
ご時世かな
トンデモ系の人が
九州説を見捨てて
畿内説に入って来ると
イヤだよね
>>516
>>7万戸の邪馬壹國の南の外縁部と、 5万戸の投馬國の北側の外縁部との距離が、
二千余里であって、そこに狗奴國があった、という事になるだけだ。<
>魏志が投馬國に行っていないなら投馬國の北側の外縁部までの里数などわかるわけがない <
この男も、根本的な事が判っていない。
「自郡至女王國萬二千餘里」は、魏略にも載っているから、魏使らの記録であり、
「女王國」だから、共立国全体への距離の概数だ。
「計其道里、當在會稽東治之東」は、魏略に乗っておらず、
筆者の意見である事を示す「計其道里、當在・・・」という文言があるから、
陳寿の記載だ。
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」は、
魏使らの記録としては一見突飛な記載に見えるが、「可」という推定文言があるから、
おそらく「如淳の萬里」を知っている陳寿の、倭地の「巡り行く」直線的距離の推定計算だ。
つまり、五千余里を書いたのは魏使らではなく、陳寿だ。
だから、矛盾など全くない。
>「自女王國以北 其戸數道里可得略載」であるから、投馬國までの里数がわかるなら
投馬國以南にも遠絶で不可得詳な其餘旁國が拡がっていることにもなる <
これは、陳寿の記載ではなく、魏使らの記録であり、
投馬國は始めから側副傍線行程の「水行二十日」であるから、
始めから関係がない。 >>520
>水行二十日は魏志が一緒に行っていない倭人の水上移動速度という主張だから
里数に換算しても想像でしかない <
古田さんの水行の一日距離の450里は、普通の小型船での計算であり、
循海岸水行も、大型洋上航海船では不可能であるし、
3渡海は、倭船であるから、
倭船での「水行二十日」には、十分にに適切。 >>521
>投馬國を地名だけで比定するなら、北部九州の出土遺物の豊富さは根拠にならない<
「投馬國を地名だけで比定」など、していないよ。 >>522 また訂正。
邪馬壹國は、筑紫にある事になる。 >>688
都合の悪いことは全てフィクション扱い。
史書を全て否定しないと成り立たないのが畿内説。 >>523
>忙しいだの記録係だのお前の作り話など根拠にならない <
魏使の目的は、卑弥呼に会って詔書や金印や大量の下賜品を渡す事であり、
侏儒國へ行く事ではない。
>博多のすぐ南で女王の都に到着している根拠が何もない<
「南至邪馬壹國」は、「南」が出発で、「至邪馬壹國」が到着であるから、
その二つの間に、「途中の移動があった事を示す文言」がないから、
殆ど移動する事無しに、邪馬壹國に着いた事になる。 >>709
記紀みたいな後代史料は
ほぼ信じてないですけど、何か?
>>541
>>古田さんのくねくね折れ線行程の邪馬壹國女王之所都への近似計算合計と、<
>古田が、計算いつしたの? どんな計算? 計算式を書いてごらん 捏造しちゃ、ダメだよ<
古田第1書。
部分的には、
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku4/yamaich4.html
にも書かれている。 >>711
>「南至邪馬壹國」は、「南」が出発で、「至邪馬壹國」が到着であるから、
>その二つの間に、「途中の移動があった事を示す文言」がないから、
>殆ど移動する事無しに、邪馬壹國に着いた事になる
素人無学爺さんが理由もなく言い張る説を
信用する馬鹿って、いるの?
>>713
>部分的には、
つまり、古田は書いてないんだね? >>544
>>東冶が会稽郡であったのは、分郡(永安3年=260年)の前であり、<
>卑弥呼の朝貢はもっと前だよ それに 盗賊扱いの呉が、勝手にやった分郡など
魏には関係ないんだよ 魏志に載っているのは魏の歴史だ<
「計其道里、當在會稽東治之東」は、
「計其道里、當在・・・」とあるように、
陳寿の、三国志執筆時の「地の文」だよ。 >>547
もはやスレ荒らししかできない、
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説アホガキらがら、
憐れで仕方ない 。 >>550
>日本人?<
この男も、どうやら、「排他的人種差別」の国粋皇国史観の、
キョクウのヘイトスピーチ街宣の・・・・大和説者のようだねえ。 >>689
筑紫は郡からの推定直線距離萬二千餘里ではない
投馬國のほうが邪馬壱国よりも手前にあるなら投馬國を含む女王國までの距離と言える >>705
魏略逸文の中でも唐代に対句練習用の幼学書として書かれたとされている翰苑の
誤字だらけの写本などはほとんど史料価値がない
投馬國の北側の外縁部まで行かなければ二千余里などの里数がわかるはずがない
倭人からの聞き取りで二千余里が推定できるのであれば
行程記載里数すべてについても魏使が測量したという主張の根拠はなくなる
行かなかった投馬國までの里数も戸数も推定できて、
手前にある旁國が遠絶で不可得詳は矛盾する >>706
古田が適当に計算しても無意味
魏使が投馬國に行かなかったのであれば、水行二十日からの里数換算は想像でしかない >>707
>>518に
>古田さんは、薩摩である事からの推定。
としか書いてない >>711
旁國が遠絶で不可得詳であるから侏儒國には行っていない
>「途中の移動があった事を示す文言」がないから、
お前が辻褄あわせ目的でその文言を半島内移動にしてしまっているだけ >>725
なんで女王國が投馬國を含むと言えるんだ?
??? 投馬国には、王がいないのだ。
一大卒支配下か女王国メンバーか。
卑奴母離もいない。
女王国メンバーだな。 なんでそれが理由になるつもりになれるのか不思議
思い込みの強いやつだな 実態はともかく、魏側では投馬國の代表は女王国の官だと認識しているんだろ
伊都國王は女王國に従属している
狗奴國男王は従属していない 王は卑弥呼しかいない。
狗奴国の王は例外。
だから卑弥呼の方に権威を与えるため金印を与えて倭王に冊封した。
さらに伊都に別に王がいるなんてデタラメはない。 >>725
投馬国は宮崎県の都万。
だから筑紫の方が手前にある。
帯方郡から一万二千里は筑紫の王都までの距離。 結局
なんで女王國が投馬國を含むと言えるのか
理由の説明は
ないわけね >>737
トンデモ説は、いつも言い張るだけ
理由は言わない 魏にとって倭王は卑弥呼だけ。
それが理由だよ。
伊都国には卑弥呼の他には官しかいないだろ。 >>742
投馬国を統べているのも卑弥呼ということだよ。 >>743
なぜ、伊都国には卑弥呼の他に官しかいないと?
理由は? >>551
>ありもしない国民の投票を デッチ上げる 九州説<
昔から、マスコミらが、幾ら投票を実施しても、
全て九州説が過半数であり、
大和説が3割にしかならなかった、
という「事実を否定曲解」して、
世間の人々を口先で騙そうとする詐欺をする大和説者。 >>553
日本人は、ネアンデルタールや南洋や大陸からの流民の混合地域であり、
人類皆兄弟である事が判っているのに、
わざわざ「日本人?」って聞いて、
日本国籍の有無を絶対視させて、
「排他的人種差別」のヘイトスピーチ宣伝をして国民を騙して、
殺し合い戦争をさせよう、とする国粋皇国史観大和説者の恐怖。
と即答できない恐怖 >>749
また、デマか
その質問してたのは東遷説のやつだろ >>749
>>512 535 のザラコクの鸚鵡返しへの
>>546 549 551の畿内説者のレスに対して
>>550 552で「日本人?」と聞いて
>>553で
>日本人?って聞かれて
>ああ、そうだよ日本人だよ文句あっか?
>と即答できない恐怖
>>557で
>日本国民の投票を
>必死で否定する
>日本人?
と言ってるのは九州説 >>748
マスコミがアンケートやってるのは視聴率、関心の調査が目的で
学問には関係ない >>745
伊都国の説明では官しか名前が出てこない。
王がいるとは書いてあるのに、その名は記載されない。
書き手である陳寿の中では、倭国の都が伊都国であることは自明であったため、王の名が卑弥呼であることは説明済みだったんだよ。 >>753
たった千戸の小国だから
無視されただけだろ
w >>753
邪馬壹國は女王之所都で官は伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮
伊都國は丗有王で官は爾支 副日泄謨觚柄渠觚
別の国 >>751
ザラコクは、わかってて嘘ついてんじゃないの? >>754
そういうくだらないことしか書き込めないから畿内説は世間から見放された。 >>758
反論できずに「くだらない」とかしか言えないから
九州説は滅んだ >>556
>こわっ 誤魔化してるよ 日本人?の答えは?<
怖い怖い。
戦前の戦中の侵略殺戮戦争や原爆空襲のの反省を忘れ、
憲法の諸国民との協調共存命令に違反し、
日本人以外を排他的に選別をして、
国民を国家民族主義戦争に強制にして、
自分らは栄耀栄華にむさぼろうとするするキョクウの・・・・がいる。 >>758
王様の名前が記録されてない理由として
国として重要性が低いとか
王として実権がないとかは
納得いくものだろう このようにザラコクはYahooのやり取りも全部勘違いしてるんだろう 伊都國は郡使が逗留するところでありながら
官名はあって王名がないといことは王が倭人ではないんだろ >>753
「女王」という言葉も「卑弥呼」の名前も
伊都国の説明より前には
出て来ない >>557
日本国民の投票では、九州説が過半数で大和説は3割。
しかし、小選挙区制の魔術で、戦争憲法に改悪自民政府は3分の2。
必死でごまかして、世間の人々を騙す。
本当にまともな日本人?。 >>762
もっとドウデモイイ国の官の名前も載っているのだから、王の名を載せない理由はない。 >>765
あ、じゃあタメを演出してもったいぶったのか。
その後で、女王であることを明かして、その名は卑弥呼である、と。 >>560
>>(倭人伝の里数距離)アホですか?。 地図以外に何が証拠になるんですか?。
まさか、船に乗れ、とか、泳いでみろ、とでも言うんで、しょうか?ねえ。<
>こいつ、馬鹿だろ 提出できない物が 証拠になるわけ ないじゃないか<
こいつ、・・・・アホだろ!。
自分も、地図で対応する距離を測って縮尺倍すれば済むではないか。
・・・・アホとの議論は、全く無意味だねえ。 >>566
なんで日本人であるかないか?を拘ってんの?w。
日本でなければな、排他的ヘイトスピーチをして貶める事が当たり前なん?w。
まともな日本人?。人類皆兄弟である事を知らない・・・・アホ邪ないの?。 >>567
僕ちゃん、諸国民との平和共存を志向するまともな日本人だーい好きで、
殺し合い戦争大嫌いな、日本人。 >>769
要するに
「俺は証拠を出さない」
って言ってるんだな
そんな説が世間から相手にされるわけないだろ >>569
そりゃ東アジアから太平洋で徹底的侵略殺人戦争をして、
また、「日本人絶対優秀」での国粋侵略殺戮戦争や、核戦争願望なんて、
発狂ものだろうなw。 自分で計算すれば、魏志倭人伝の一里が80メートルくらいなのは簡単にわかるだろ。
九州上陸から二千里で邪馬台国なら、福岡県を出ない。 >>579
いろんな流民からの「沢山な優秀な遺伝子の能力」を持った日本人は素晴らしい!。
いろんな自然は気候や資源があって、
工夫を凝らして文明を作れた日本っていい国だよ。
しかし、流民たちの工夫や努力で造ったこの日本文明を、
また、暴力団や思想宗教国家やオームや安倍らや大和説者らのように、
排他的殺し合い殺戮戦争で、灰にしてしまいたい ・・・・人種がおる。 >>626
「南→東」の嘘吐きダマシがバレた大和説の敗残兵は、
タチが悪いなー。 >>627
いつまでも「証拠は?」と言い続ける・・・・的な体質が、
また、「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者に、よく出ていた。w 耳成山は火山だと言われているが、火山を整形した山とも言われている。
考古学的にどうなんだろう。
邪馬台国でミミ族が政権をとり、応神で渡来系が巻き返したと考えているが。
堺の大山古墳の近くにも、耳に纏わる地名がある。
邪馬台国以降重労働を課してきたミミ族が逆襲にあい、重労働を課される身になったのかもしれない。 >>633
もはや、「南→東」などの嘘吐きダマシがバレた大和説は、
「戦前の帝国戦争」の敗残の老人兵のみ。 邪馬台国は奈良の渡来人をやっつけた謂わば縄文系&裏切りの倭人、阿波の政権だよ。ヤマト国。 応神は九州生まれの九州育ち。
宗廟は宇佐だよ。
九州倭国の王。 1世紀頃、奈良にいた豊かになった縄文系が、丹後半島の先住民と手を組みヤマタノオロチ(本来のスサノオ)を倒す。
次に島根のオオナムチと手を組み、神庭の王族(出雲)を追い出す。
オオナムチ系もミミ。
奈良の縄文系はその後イザナギの怒りを買い、尾張方面に追放されるのだ。1世紀前半。
倭国大乱で巻き返す。
追放された尾張の縄文系は、阿波の仲介で西瀬戸内海の吉備と手を組み、九州南部に拠点を作るのだ。
投馬国。ミミ族の国。
初期ヤマト政権、邪馬台国は縄文系の国。神殺しをした国だよ。
アマテラスを殺し背乗り。
出雲族のサルタヒコも殺す。 九州北部は天孫降臨の地(記紀はミミ族が書いたもの、内容はかなり歪められている)、倭国大乱前の畿内の神々(渡来人)と関係の深い地。
お互いに倭国大乱で敗れた側。
応神東征で手を組んで巻き返したんだよ。 記紀は天武の時に書かれたもの。
都合の悪い事実は隠されている。
応神以降が本当のニニギの系統だよ。 >>645
>>魏志倭人伝では、「会稽東冶」ではない。<
>後代史書では会稽東冶か会稽、現在中国では会稽東冶に訂正されている <
高慢な書き変えをする范曄や、
その范曄の書き換えを踏襲した後代史家や大和説者や現代中国の学者の「東冶」など、
半分×であり、証拠にならない。
>会稽郡東部は257年に臨海郡に分割された、現在の寧波市〜台州市〜温州市<
倭人伝の魏使らが書いた「会稽」は、「夏后少康之子封於會稽」と書かれた会稽の事。
>奄美に女王國が納まる筈がない。<
>納まらないなら行程方位が間違っているか、地理観が現在の地図とは違う<
いや范曄の書き変えを妄信した後代史家や大和説者の脳がおかしい。
>会稽郡は北緯30度以南で、その東は屋久島の南の口之島以南
九州島最南端で会稽郡北端の111km北の北緯31度、
那珂八幡は会稽郡北端の約390km北の北緯33.5度<
いや、夏后少康之子封於會稽からも、その「東治」も更に「之東」も、全部「大体」であり、
陳寿は、大体の推論であって、ピンポイントの一致など、であって、意図していない。
>九州島は会稽郡の大体東北<
上海〜九州は800km位。
九州島は南北350km位。
だから、九州北端でも、東北東よりも南寄り。 イザナギの傍流、今で言う宮家がニニギ。
イザナギの本流クナ国にいた王は倭国大乱で殺された。
クナ国を引き継いだのが、島根から逃れた根の国の王族、出雲の王サルタヒコ、卑弥弓呼。
サルタヒコも邪馬台国に殺された。堺の地だ。
その後はミミの時代だ。
応神で巻き返す。
天智までニニギの血。
天武〜、奈良時代はミミの時代。
桓武で政権を取り返すのだ。 >>792
なに誤魔化してんの
上海は会稽よりずっと北 >>792
アンカ間違えるな
高慢なのは、范曄の書き変えを妄信した後代史家や大和説者の脳がおかしいと言ってるお前だろ
倭人伝に書いてあるのは「會稽之東」ではない「會稽東治之東」
會稽の東側は分郡後なら臨海郡になっている
大体の推論をピンポイントで會稽(紹興市)に比定することがおかしいし
北だけに拡大するのはおかしいから
會稽郡として、南側にも拡大しなければならないから台湾もすっぽり入る
九州は會稽郡の東の地域(沖縄諸島、奄美群島)の北、大体東北 ミミ族は恐ろしいわい。
神を殺し、その罪を他人に擦りつけて、殺した神に背乗りする。同族で殺し合い、他人に罪を擦りつける。
酒で相手を騙し暗殺。
纒向みたいな民を酷使する施設を建設。 ミミ族がいなければ、環濠などいらんのだ。
ミミ族を天岩戸の向こう側に追いやって以降、
1世紀中頃〜2世紀中頃まで平和な倭国の時代があった。
神々と民が穏やかに暮らし、各地や大陸との交流も盛んだった。
倭国大乱でそれをぶち壊し、500年に渡る争いの時代を作ったのが、尾張のミミ族&倭人の裏切り者阿波&阿波に騙されていた吉備。
阿波&国底立神、国常立神、争いの元凶。 隼人も騙されていたんだよ。
阿波&尾張のミミ族に。
気の毒過ぎるわい。 >>639
>古田の振り回す分郡談義は、
三国志の地の文が陳寿執筆時現在の地名で書かれているーーという、
なぁんも根拠のない主張なんだよね つまり、ナンセンス <
魏使らは、きちんと途中の行程を記録して置く事が仕事であり、
女王國が、中国のどの辺の東方にあるのか?という事など、何の関係も責任もなく、
それは、陳寿ら、史家や学者らの仕事であり、
「計其道里、當在會稽東治之東」の「計其道里、當在・・・」が、
陳寿の地の文での説明である事を示しており、
その「会稽」は、当然、
その直前に書かれた「夏后少康之子封於會稽」の会稽である事になる。 >>644
「南→東」などの嘘つき騙しや、
こういう「根拠を言わない口先だけの芸のなさだけの」が、
大和説の末期を感じさせる。 倭国大乱で九州も畿内もやられた。
邪馬台国はヤマト国だが、どうでもいいこと。
九州北部と畿内は親戚。仲良くするべし。
ミミ族の分断工作に騙されるな。 >>658
>会稽の東を北にだけ拡大させるのはおかしいから、<
おかしくない。
「夏后少康之子封於會稽」の会稽の事だから、大体会稽山のある杭州の近所。
>南は会稽郡の南端から3.5度南にも拡大させると
台湾がすっぽり入るくらいの異常な広範囲になる <
この男は、またインチキ騙しをしている。
台湾は会稽山のほぼ真南。
>九州は会稽郡の東北、広陵郡の東<
これもインチキ騙し。
九州は杭州や上海付近からなら、東北東。 >>663
>畿内説は全盛なんだが <
国民の投票では、大和説は3割位だが、
九州説は過半数であり、大和説の倍近いのだから、
九州説の全盛なんだが。 中大兄皇子の歌
「香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」
原文「高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉」
畝傍ををしは、ミミありかな? >>792
会稽山などとは書いていない
夏の少康の庶子が入れた文身は蛟龍の害を避ける越族の風習で
越の君主の起源伝説
全部「大体」といいながら東治は忘れて会稽だけピンポイントに比定し
ごまかしでさらに北にだけ拡大するサギ解釈の連呼
筑紫など南九州最南端の280km北 >>668
>>夏后少康之子封於會稽の東治が広域であり、更にその東方だろう、
という推定であるから、九州は十分に含む。<
>ウソだ駄目 <
誤魔化してもダメだ。
>どんなに広域だろうと北限が北緯30度近辺なので その東は九州島をまったく含まない <
九州は、杭州の東北東〜東であり、妥当。
陳寿の推定なんだから、ピンポイントの東だ、という断定が有り得ない。
そして、奄美や沖縄では、30国で14万戸以上は入らないでから、始めから×。 海に潜るなどの記載から魏使は夏に来た可能性が高く
夏至の太陽は北よりなので太陽を見た方角記載は全て南寄りになります。
確定部分である壱岐対馬渡海の方角が全て南寄りにずれていることからも明らかです。
総行程が全て南寄りにずれているから、陳寿の認識としては
本来は南東にあるはずの北部九州が、コンパスを回すようにそのまま南にずれて
種子島の緯度くらいになったわけですね。 >>677
>見て確認しなければ書けない事だと どうして
「張政らが実際に卑弥呼の埋葬を見聞計測して推測した」
ことになるの? 論理性皆無<
人類の常識。
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」」が、
推測であって大きく違っていたり嘘であったんなら、
若しも部下らの密告があれば、
魏使らや計測係の役人は、首が飛ぶ。 >>808
>奄美や沖縄では、30国で14万戸以上は入らないでから、始めから×。
入らないなら行程方位か地理観が間違っている
杭州は呉郡だろ >>678
>>「大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から分かれた別種の旧小国」であるから、<
>そんな史料事実なし<
新唐書や、旧唐書や唐会要。 >>810
>種子島の緯度くらいになったわけですね。
ならない >>679
「東ローマ帝国の国教はキリスト教だからローマ人はエルサレムからやって来てローマを征服した」
とかの、分裂幻覚妄想のような嘘つき騙しを、言い出しかねない連中。
それが大和説者。 >>811
お前が常識だと考えることは日本人にとって非常識 >>686>
>漢書によれば会稽の東にいたのは東テイ人なんだよな。 陳寿はこれを倭国と勘違いしてたんだろう。
「會稽海外有東テイ人,分為二十餘國,以歳時來獻見云。」<
ダメだよ。
陳寿は、当然漢書のその記載を知っているし、
後漢最末期に、東鯷人が朝貢して「序に就いた」という記録を知っているし、
しかし、魏志の卑弥呼の記載には、東鯷人の事は書かれておらずに、
知っていて尚且つ、不彌國からの
「南至投馬國水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸」
として、南九州に5万戸の投馬國が出現したし、
だから、卑弥呼の頃に南九州で「東鯷國の大半部分→投馬國」になって、
卑弥呼の支配下になっていたらしいし、
更に陳寿は、「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」として。
筑紫の南二千里に倭地が存在する事も記載している。 >>813
新唐書や、旧唐書や唐会要に
「大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から分かれた別種の旧小国」
なんて史料事実は無いよ >>687
>距離的にそれに見合う、という判断があったから、同一視されたわけだ <
陳寿には、会稽海外の東鯷人國と、不彌國から南へ水行二十日という投馬國とが、
距離的にそれに見合う、という判断があったから、同一視?されたわけだ 。
?赤道付近にまで行ってしまう長里説は、始めから全く無理だね 。
短里説は無理だね >>811
遠方で確認のしようがないものはどうってことはない。
大体半島から東方へ進む国ならなら邪馬台国が扶桑国になってしまうからね。
中国人からすればその方が大問題ですよ。
よって意図的に南方へ想定したというのが私の見解です、方角間違い説は。 >>696
>「会稽東冶の東」問題で どんな嘘吐きダマシがばれたの? 事実を言ってみて<
その陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」の会稽が、
文脈からは「夏后少康之子封於會稽」の会稽を指している、という事と、
その「會稽東治之東」の大体の位置推定を、
ピンポイント的断定であるかのような曲解捏造をした事と、
実態は、奄美や沖縄では、14万戸の女王國が入らない、という事と、
いずれにしても、短里であって、
赤道付近にまで行ってしまう長里ではなかった事など。 >>698
>>そして、自分らの論への質問には、こっそり隠して返答しない事。<
>どんな質問に返答してない? 事実を言ってみて<
「南≠東」や、
長里では赤道付近にまで行ってしまって✖である事や、
「大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であった事など。 >>699
>どうせまた、ザラコクのPCが変なだけだろ<
私の自宅のPCも仕事場のPCも、どちらも今おかしい事は事実だが、
自宅のPCでは、今日になって、天誅の「漢籍の書棚」の画像が戻っていた。
ひょっとしたら、天誅はまだ生きていて、いろいろ変更していたのかも知れない。 >>700
>卑弥呼共立国に投馬國が含まれていると 投馬國は女王國に含まれる って理由は? <
倭地の30国の中で、卑弥呼と「素不和」とされたのは、狗奴國のみ。 >>701
>>新唐書や、旧唐書や唐会要は、殆どが信頼性が高いから、
「半分×」なんて言わないよ。<
>それをザラコクが恣意的に切り貼りしたから 信頼性は「全部×」だな<
全文を転写したら、世間の人々が読むのが大変だし、
5chも、行数が多いとか言って、拒絶して来るだろうから、
要約せざるを得ないから。 >>825
ザラコクは史料事実を無視して
恣意的に切り貼りしてるから
信頼性は「全部×」 >>822
>>>そして、自分らの論への質問には、こっそり隠して返答しない事。
>>どんな質問に返答してない? 事実を言ってみて
>「南≠東」や、
>長里では赤道付近にまで行ってしまって✖である事や、
>「大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であった事など。
「自分らの論への質問には、こっそり隠して返答しない」
がウソだったと
確定しました >>822
>大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であった事など。
これが一元史観の万世一系皇国史観 >>704
イヤだよね。
「南→東」などの嘘吐きダマシのトンデモ大和説系の人が、
纏向説を見捨てて、
大和説内で内輪もめして、九州説まで曲解しようとしているのを見るのは、
イヤだよね 。 >>830
この文章よんでザラコクの頭がおかしくないと思う人がいるんだろうか? >>813
>新唐書や、旧唐書や唐会要
半分×書を根拠にするなよ >>712
>記紀みたいな後代史料はほぼ信じてないですけど、何か?<
後代史書の後漢書の「東冶」を信じ、
唐代に書かれた史書の「邪馬臺国」や「臺與」を信じたら、
同じ穴のムジナ。 >>714
「南→東」などの史料事実を否定曲解を理由もなく言い張る大和説を、
信用する馬鹿って、いるの?。 >>725
>筑紫は郡からの推定直線距離萬二千餘里ではない
投馬國のほうが邪馬壱国よりも手前にあるなら投馬國を含む女王國までの距離と言える<
投馬國は、筑紫の不彌國から南にあり、水行二十日の距離にある。 >>838
南を東に読み換える根拠もない
そもそも畿内なんて邪馬台国に関係ないだろ 「南≠東」を連呼してるが筑紫説の南は行かない投馬國だけで
邪馬台国への南は移動しないのだと
その根拠に必死で12000里を消化させてたが、
よく聞いてみると自郡至女王國の萬二千餘里は280kmも南の投馬國で筑紫じゃないという
それじゃ無理やり島の大きさなんぞ足す必要がないだろうと
しかも魏使が測量しないと里数がわからないと言張ってたのが
今度は倭人に聞いただけで投馬國までの里数はわかると言い出す
次から次に言張ってた根拠が自滅していく >>823
社用PCを使って就業時間中に5chへ大量投稿してるから、
普通の企業や公務員なら処分対象だな >>726
>魏略逸文の中でも唐代に対句練習用の幼学書として書かれたとされている翰苑の
誤字だらけの写本などはほとんど史料価値がない<
関係がない。
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」は、
一応、陳寿の地の文だ。
>投馬國の北側の外縁部まで行かなければ二千余里などの里数がわかるはずがない<
魏使らや陳寿の「国間距離」記載の原則は、
「居住外縁部間の距離であり、短里である」、
という事からの推論だ。
お倭人からの聞き取りで二千余里が推定できるのであれば
行程記載里数すべてについても魏使が測量したという主張の根拠はなくなる<
おそらく、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
の足摺付近まで行った事で、
そこから投馬國の方向を聞き、距離を推定出来た、という、という記録からの、
陳寿の推定だ。
>行かなかった投馬國までの里数も戸数も推定できて、<
里数は、陳寿の推定であり、日数や戸数は、倭人からの伝聞だ。
>手前にある旁國が遠絶で不可得詳は矛盾する<
何にも矛盾していない。 >>727
>古田が適当に計算しても無意味
魏使が投馬國に行かなかったのであれば、水行二十日からの里数換算は想像でしかない <
邪馬壹國女王之所都までの行程の「水行十日」の区間が判るから、
その区間の里数記載の概数に拠って、水行の1日距離が計算出来た。 >>728
>>古田さんは、薩摩である事からの推定。<
>としか書いてない<
古田さんは、実際に、投馬國の中心地として「薩摩」を比定されただけだよ。 >>843
足摺付近まで行って、投馬國にもどこにも寄航しないわけがない >>840
東にあっちゃいけない根拠ならあるだろ。 >>845
考古無知の古田が薩摩の上野原縄文の森の何を根拠にしたんだ? >>729
>旁國が遠絶で不可得詳であるから侏儒國には行っていない<
侏儒國は、「其餘旁國遠絶、不可得詳」の21國の中には、
名前が入っていないんだよ。
>>(南す+至邪馬壹國す)「途中の移動があった事を示す文言」がないから、<
>お前が辻褄あわせ目的でその文言を半島内移動にしてしまっているだけ<
「水行十日陸行一月」という数量表記は、
その前の「女王之所都」の説明になるんだから、
行程出発の「從郡至倭」から「女王之所都」までの日数説明だ、という事になる。 >>843
お前は安全最短の原則を連呼してたんだから
足摺に行くのに大分あたりまで陸行しなきゃならんだろ >>731
>なんで女王國が投馬國を含むと言えるんだ? ??? <
何だ?、また同じ事を言い出した男がいた。
30國の中で、共立参加しなかった、と思われるのは、
「素不和」の狗奴國だけだ。 >>850
>侏儒國は、「其餘旁國遠絶、不可得詳」の21國の中には、
>名前が入っていないんだよ。
なんで侏儒國の手前に旁國が無いんだ? >>741
「南→東」などの嘘吐きダマシのトンデモ大和説は、
いつもヘイトスピーチを言い張るだけ。
理由は言わないし、言えない。 >>850
>「水行十日陸行一月」という数量表記は、
>その前の「女王之所都」の説明になるんだから、
「女王之所都」が邪馬壹國の説明
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」は
「南至 投馬國 水行二十日」と同じ >>746
「理由は?」を連発するだけで、自分の論を論理的に語れないのは、
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説のトンデモの特徴だね。 >>752
マスコミが行った世論調査の結果は、
視聴率とか関心の高さととかは、関係がなく、
大和説学会への支持ではなく、大和説学会への否定である。 >>856
論理的に語れないのはお前だろ
仮説にまったく整合性がとれてない >>857
学会云々レベルじゃなく
アンケートは人気投票だよ 今の多くの九州説論者がやっていることは、如何に大衆支持を得るか?
だからね。そんなのは学術でもなんでもない。
一見有利に見える部分を誇張してるだけに過ぎないのもダメです。
逆に畿内説はもっと主張をしていくべきでしょうね。 >>756
邪馬壹國の官の「伊支馬」も、倭國の大夫の「伊支馬」は、いずれも「伊」が付いているから、
天孫族系の「阿毎氏」である事を示す「伊」なんだろうなあ。
また、「彌馬升」の「升」は、倭國王帥升や難升米にも付いているから、
その縁故身分名である可能性があるな。
また、「卑狗」や「卑奴母離」や「狗古智卑狗」や「卑彌弓呼」の「卑」も、
卑弥呼と同じ「卑」氏の縁故名である可能性があり、
この「卑」や「狗」や「蘇」や「奴」などの文字は、三韓の国名にもかなり共通しており、
いずれも、縁故名である可能性もあるな。 >>759
「南≠東」などの嘘吐きダマシへの批判に、反論できずに、
「くだらない」とか「理由は?」とか「証拠は?」とかしか言えないから、
大和説は滅んだ。 >>>773
要するに、
「俺は、南→東のなどの嘘吐きダマシの証拠を出さない」 って言ってるんだな?。
そんな大和説が世間から相手にされるわけないだろ。 >>785
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説者は、
返事が出来ない都合の悪い話になると、いつも、
「証拠は?」「理由は?」と言い続けて、
結局は逃げきれず、いつも自滅する。
今日も遁辞でスレ埋める。 >>787
>初期ヤマト政権、邪馬台国は縄文系の国。神殺しをした国だよ。<
「南≠東」だから、✖ね。 >>794
なに誤魔化してんの。
陳寿の地の文の「計其道里、當在會稽東治之東」は、
ピンポイント断定ではなく、「大体」の比定説明だよ。
だから、「会稽」も「東治」も「之東」も全て、ピンポイントではなく大体であり、
上海も「会稽東治」の大体であり、
上海の東北東〜東の間の九州は、「之東」で十分なんだよ。 >>796
>高慢なのは、范曄の書き変えを妄信した後代史家や大和説者の脳がおかしいと言ってるお前だろ<
脳がおかしいのは、范曄の書き変えを妄信した後代史家や大和説者らのお前らだよ。
>倭人伝に書いてあるのは「會稽之東」ではない「會稽東治之東」
會稽の東側は分郡後なら臨海郡になっている<
「夏后少康之子封於會稽」の会稽が杭州付近なら、その東治は、上海方面と寧波方面になる。
>大体の推論をピンポイントで會稽(紹興市)に比定することがおかしいし<
「夏后少康之子封於會稽」の会稽は、会稽山付近だろうから、
紹興や杭州や付近だろう、とするしかない。
>北だけに拡大するのはおかしいから<
南の奄美や沖縄では、14万戸の女王國が全く入らない。
>會稽郡として、南側にも拡大しなければならないから台湾もすっぽり入る<
「計其道里、當在會稽東治之東」は、分郡後の陳寿の地の文だから、
「南側に拡大」出来ないし、台湾は、會稽東治のほぼ真南で✖。
>九州は會稽郡の東の地域(沖縄諸島、奄美群島)の北、大体東北 <
九州は、會稽東治の「東北東〜東」であり、
沖縄や奄美のような小さい島は、会稽東治之東にもならないし、14万戸も入らない。 >>866
九州説老人が
また思考停止してる
w
>上海も「会稽東治」の大体であり、
なんども皆から指摘されてるだろ
上海は当時は呉郡だよ
関係ない土地の話をしても誰も誤魔化せないよ
w >>802
>邪馬台国はヤマト国だが、どうでもいいこと。<
どうでもよくない。「東≠南】だから、✖。 >>803
「南→東」などの嘘吐きダマシの恣意的解釈と連呼だけの大和説は、非学問。 ひゃはースゴいこと気づきました^^
鴨先生のスレでは表示されんかった嘆かわしくもエロティックな広告の素敵な女子がこの阿呆嘘だましすれで登場します(わえのはっちゅーした広告ぜったい表示されんぞなもし >>839
>投馬國は、筑紫の不彌國から南にあり、水行二十日の距離にある。
帯方郡から12000里の距離にあるのは女王国だよ
つまり邪馬台国の女王卑弥呼は北部九州にはいないね
古田説死亡 >>868
屁理屈こねても無駄無駄
會稽東治は會稽東冶
古田はどろぼうが書いた偽書売ってた程度の評価
無知爺と口汚い反日が集まって喜んでるだけの会 >>868
>「夏后少康之子封於會稽」の会稽は、会稽山付近だろうから、
>紹興や杭州や付近だろう、とするしかない。
それを北に拡張する古田説は詐欺説だよね
w >>807
>会稽山などとは書いていない<
「夏后少康之子封於會稽」の会稽の場所の「3世紀時点での痕跡」になるものは、
会稽山しか残っていない。
>夏の少康の庶子が入れた文身は蛟龍の害を避ける越族の風習で越の君主の起源伝説<
別に、越の起源伝説が会稽の伝承を取り入れる事なら、いくらでも有り得る。
>全部「大体」といいながら東治は忘れて会稽だけピンポイントに比定し<
していない。
東治としては、杭州湾の出口付近の南北の、上海付近と寧波付近を想定している。
>ごまかしでさらに北にだけ拡大するサギ解釈の連呼
筑紫など南九州最南端の280km北<
何だ?、前は「九州」と言っていたのに、今度は、
「筑紫など〜南九州最南端」にすり替えか?。
「九州」と言ったんなら、筑紫とせずに、なぜ関門海峡にしないんだい?。 >>870
>どうでもよくない。「東≠南】だから、✖。
「東≠南】だなど根拠がないから、✖。 >>876
>何だ?、前は「九州」と言っていたのに、今度は、
>「筑紫など〜南九州最南端」にすり替えか?。
イミフ
「九州」って、北は筑紫から南は南九州最南端だろ
違うとでも? >>876
>東治としては、杭州湾の出口付近の南北の、上海付近と寧波付近を想定している。
呉郡を会稽東治に入れたら詐欺だな >>810
>海に潜るなどの記載から魏使は夏に来た可能性が高く <
冬が困難であった、としても、早春から晩秋の間は海に潜る事は有り得る。
>夏至の太陽は北よりなので太陽を見た方角記載は全て南寄りになります。
確定部分である壱岐対馬渡海の方角が全て南寄りにずれていることからも明らかです。<
魏使らは、周髀算経の「日の入り日の出方向で東西を決める」方法や、
礼記の「日時計のような方法で決める」事を知っているから、
何時の季節であっても、東西南北は全く間違えない。
>総行程が全て南寄りにずれているから、陳寿の認識としては
本来は南東にあるはずの北部九州が、コンパスを回すようにそのまま南にずれて
種子島の緯度くらいになったわけですね。<
総行程が「全て南寄りにずれ」ない。 白熱しとるのー
あーちなみに木かくなんたらと庄内後期結ぶのににししんなんたら使うのは線が細すぎ(やりなおし(年代幅がそれやったらせーぜー40年や^^ >>812
>>奄美や沖縄では、30国で14万戸以上は入らないでから、始めから×。<
>入らないなら行程方位か地理観が間違っている<
周髀算経や礼記の太陽で東西南北を決める方法を知っている魏使らや中国役人や学者らは、
方位は殆ど間違えない。
>杭州は呉郡だろ<
陳寿は、「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」のつもり。 >>880
>総行程が「全て南寄りにずれ」ない。
女王国があるはずの、帯方郡から12000余里の地点が
大隅半島南端なんだろ
総行程は「全て南寄りにずれ」てるな >>816
お前ら大和説者が常識だと考えることは、
日本人にとっても人類にとっても、非常識。 >>883
>>杭州は呉郡だろ
>陳寿は、「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」のつもり。
だから上海も杭州も会稽じゃないよね?
サギはいかんよ >>882
おいしーもんたべてあたまよくなーれ(まいこふー >>885
ここは畿内説のスレだよ
大和説者なんて誰もいないよ まーするーするしかないんやろけど
箸墓はどんだけくりあげても275ぷらまい20や(まーがんばりなはれ あrやら
ここは物部のお話もあかんのか(かもせんせーが罵るのも無理無しやん(ごめん いしなんたらとかほけのとかあるやん(おーきさにこだわってんのか? >>873
帯方郡から九州北岸まで一万里、うち対馬海峡で三千里。
ここから邪馬台国まで二千里しかないから、邪馬台国は九州北部、それもおそらくは福岡県、筑紫。
もしくはせいぜい久留米。 >>890
だとしても、魏の使いが畿内まで来ていないなら邪馬台国とは関係ないな。 >>818
>>新唐書や、旧唐書や唐会要に
「大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から分かれた別種の旧小国」<
>なんて史料事実は無いよ<
あるよ。 鴨の話の方がまだ畿内説としてはまともに思えて来た。
まあ、トンデモであることには変わりないが。 >>827
大和説者は、「南→東」などにように、
史料事実を否定曲解して、更に恣意的に切り貼りしてるから、
信頼性は全くなく、「全部×」。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 >世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。
漢委奴国王印は倭奴国に下賜されたが、考古学的には伊都国の歴代王墓の時代なので、伊都国と倭奴国は同じ国であり、表記が違うだけである。
伊都国が、王権の所在地であり、外交の舞台でもあった倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は、伊都国にいたと書いてあることになる。 【伊都国】
伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。
伊都国の平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ないが、魏志に卑弥呼の王宮の下女は1000人とることと一致する。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都が分離されていたと考えられる。
伊都国には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む中国風山城(奈良時代は怡土城、戦国時代は高祖城と呼称される)があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。
アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓であると考えられる。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、
平原遺跡からはニニギが授かった三種の神器である八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 >>828
「南≠東」や、
長里では赤道付近にまで行ってしまって✖である事や、
「大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であった事などで、
大和説者は、
「自分らの論への質問には、こっそり隠して返答しない」事で、
全部ウソだった、
と 確定しました。 >>894
大宰府ぎりゃくと三国志共通の女王は卑弥呼さんでイヨちゃんの都たるジャマイかどうかは未確定(なんべんいえばえーんや(ダックも >>1 も時せいにちゅうーして倭人条嫁 >>833
新唐書や、旧唐書や唐会要は、
殆ど唐代などの至近の史料事実を根拠にした直後史書であるから、
の客観性と信頼性が高く、殆ど〇書だよ。 >>907
三世紀から見て600年くらい後の史料だろ
ダメだね、賞味期限切れだ >>898
>長里説は、全く無理だね。
理由もなく結論だけ言い張っても無意味 >>907
>新唐書や、旧唐書や唐会要は、
>殆ど唐代などの至近の史料事実を根拠にした直後史書であるから、
>の客観性と信頼性が高く、殆ど〇書だよ。
唐代の話じゃ無くて弥生時代の話をしてるんだから、何の根拠にもできないよ >>838
>南をそのまま信じてる学者のほうがいない <
日本の古代史学者は、文献考古共に、
皇国史観大和説という「結論先にありき」の似非学者であるから、
当然、史料事実である「南」をそのまま信じない・・・・アホばかり。 >>896
>>>新唐書や、旧唐書や唐会要に
>>>「大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から分かれた別種の旧小国」
>>なんて史料事実は無いよ
>あるよ。
詐欺師イター
たとえばね
ほけのひらばる
金印が
でてもきまらぬ
じゃまいかのいち
あくまでそこは
いよちゃんヒロイン >>905
>長里では赤道付近にまで行ってしまって✖である事や、
行くという証拠は? >>905
>大和説者は、
>「自分らの論への質問には、こっそり隠して返答しない」事で、
>全部ウソだった、
>と 確定しました。
大和説なんて誰もいないから返事はなくて当たり前
それをウソだと断定したので
詐欺だな >>905みたいな嘘が平気でつける九州説って
他でも嘘つきまくってるんだろうな
w
w
w >>841
大和説者は、
「南→東」などの史料事実を否定曲解の嘘つき騙しをし、
投馬國はは不彌國の南に「水行二十日」の距離であって、魏使らは投馬國へは行っていという史料実態を否定し、
「邪馬台国 」などという存在もしない嘘つき騙しの国名で世間の人々を騙し、
それで必死で12000里を消化させてたが、
よく聞いてみると、自郡至女王國の萬二千餘里は「女王國」の話であるのに、
筑紫の邪馬壹國女王之所都の場所だけだ、と曲解捏造し、
九州の南北距離も、関門から九州最南端距離で測らずに、福岡南端から図って誤魔化し、
南の投馬國は女王國ではない、などという、などという。
しかも、魏使らの中の、侏儒國まで行った計測役人が距離計測して、
対岸の投馬國の里数がかなり推定出来ていて、陳寿もある程度の距離推定が出来ていたのに、
今度は倭人に聞いただけで投馬國までの里数はわからない、と言い出す。
次から次に言張ってた根拠が自滅していく。 >>920
「長里説は、全く無理だね。 」には
理由もなく結論だけ書いてあるという事実 >>847
>足摺付近まで行って、投馬國にもどこにも寄航しないわけがない <
足摺は豊後水道南端部位であり、投馬國の中心地には全く届かない。 >>847
>海域が違うから想像でしかない海域が違うから想像でしかない<
大体で十分。 >>851
>お前は安全最短の原則を連呼してたんだから
足摺に行くのに大分あたりまで陸行しなきゃならんだろ <
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
だから、一旦東へ向かって山口か松山付近の倭種の地を経て、
そこから、南の足摺方面に向かったのだ。 >>853
>>侏儒國は、「其餘旁國遠絶、不可得詳」の21國の中には、
名前が入っていないんだよ。<
>なんで侏儒國の手前に旁國が無いんだ?<
「其餘旁國遠絶、不可得詳・・・(21国)・・・」と、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とは、
別の存在として、完全に書き分けられてしまっている。 >>932
わざわざ女王国内の旁國を避けて水行するなよ >>855
>>「水行十日陸行一月」という数量表記は、
その前の文言の「女王之所都」の説明になるんだから、の<
>「女王之所都」が邪馬壹國の説明
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」は
「南至 投馬國 水行二十日」と同じ <
同じなら、
「南至 邪馬壹國 水行十日陸行一月 女王之所都」と、
「南至 投馬國 水行二十日」
となるべき。
だから、違うという事は、
水行十日陸行一月は、女王之所都だけの説明。 考古無知の古田でも須玖岡本を絡めたほうが本が売れるだろうと考えたんだろうな >>933
天津国の海洋民族である倭人にとっては、陸沿いの水行が最も安全な経路。 こじつけの妄想しかない九州説の馬鹿話
なんて誰も興味ないのにな。
邪馬台国なんて畿内しかないだろ。 畿内説の根拠なんていくらでも書かれている。
ただ九州バカは漢字が読めない、日本語が
理解出来ないだけだから。 今年も畿内説の完全勝利であった
来年も畿内説の完全勝利となろう 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1514650470/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>860
今の多くの大和説学者がやっていることは、如何に大衆支持を得るか?、
だからね。
そんなのは学術でもなんでもない。
一見有利に見える部分を誇張してるだけに過ぎないのもダメです。
逆に、九州説は、もっと主張をしていくべきでしょうね。 >>869
大和説の「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・詐欺師が 、
また思考停止して、ヘイトスピーチに走っている。
w >>869
>>上海も「会稽東治」の大体であり、<
>なんども皆から指摘されてるだろ 上海は当時は呉郡だよ
関係ない土地の話をしても誰も誤魔化せないよ w <
何度も指摘しただろ?。
陳寿が「会稽」とは、どの付近の事のつもりで書いたのか?、
という事が問題なのであり、
その地の文の直前に「夏后少康之子封於會稽」の話を書いているから、
「夏后少康之子封於會稽」の会稽の事を言っている事になるんだよ。
だから、その事を確認しなければ、何の論理も構成出来ず、
だから、「夏后少康之子封於會稽」の場所の痕跡は、会稽山という山付近しかなく、
だから、杭州や紹興付近だろう、と言っているんだよ。 >>873
>>投馬國は、筑紫の不彌國から南にあり、水行二十日の距離にある。<
>帯方郡から12000里の距離にあるのは女王国だよ
つまり邪馬台国の女王卑弥呼は北部九州にはいないね 古田説死亡 <
この男も、まだ、
行程の折れ線的道のり距離記載の合計の、「不彌國の直ぐ南」の邪馬壹國女王之所都と、
女王國全体を記述した後の直線距離的な「自郡至女王國萬二千餘里」の記載とは、
違う、という事が理解出来ていない・・・・アホ大和説者のようだな。
大和説、また死亡。 >>950
陳寿が杭州を會稽と言ってるなら分郡どころか129年以前の郡名を使ってることになる
また「夏后少康之子封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害」は会稽山のことを言っているのではない >>951
違うから古田説死亡と言っているのだろう 九州説の説得力のなさは尋常じゃないな。
朝鮮人の何でも起源説と全く同じで。 >>954
実際のところ、今の有象無象九州説はネタ切れのため韓流トンデモ本の俗流史観から平気でパクリをしている 会稽は漠然と越人の地を言ってるんだろう。
呉は別だ。 >>956
今の九州説は朝鮮人が絡んでるからかな?
半島中心史観に合致させるのが目的なんだろう。 畿内説の説得力のなさは尋常じゃないな。
朝鮮人の何でも起源説と全く同じで。 >>959
九州説のオウム返しは芸がない
説の中味と一緒だ 倭人の風俗を語るのに、会稽とタン耳朱崖の2つを比較対象に挙げたんだから、その中間の東冶が本命だろうな >>960
図星だからあいつ等はオウム返ししか出来ないんだよ。 主語を入れ替えても成り立つと言うことは、批判ではなくただの言いがかりだと言うこと。 >>958
そんな政治的なもんじゃないよ
パクるネタには日本であまり知られてないもので
著者筋にバレにくい外国の本を漁っただけだ >>964
成り立たないから、ザラコク脳が鳥類以下とバレたわけたわけ
たわけ >>874
屁理屈こねても無駄無駄。
會稽東冶は會稽東治。
大和説学者は、「南→東」などの嘘つき騙しの、
どろぼうが書いた偽書売ってた程度の評価。
無知なアホガキと口汚いキョクヘイトスピーチキョクウが、
集まって喜んでるだけの学会。 >>967
ザラコクも
とうとう認める
會稽東冶=會稽東治
>>875
>>「夏后少康之子封於會稽」の会稽は、会稽山付近だろうから、
紹興や杭州や付近だろう、とするしかない。<
>それを北に拡張する古田説は詐欺説だよね w <
それを南に拡張して、14万戸など全く合わない奄美や沖縄と言ったり、
(之東ではなく)真南なる台湾だと言ったり、
挙句の果てに、長里だとして赤道付近にする大和説は、
詐欺説だよね。w >>878
>>何だ?、前は「九州」と言っていたのに、今度は、
「筑紫など〜南九州最南端」にすり替えか?。<
>イミフ 「九州」って、北は筑紫から南は南九州最南端だろ 違うとでも?<
九州の南北長の話であったのに、
それがが280kmだなんて変な事を書くからそれがだよ。 >>879
>>東治としては、杭州湾の出口付近の南北の、上海付近と寧波付近を想定している。<
>呉郡を会稽東治に入れたら詐欺だな<
「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」は、明らかに海岸地域を示しているのに、
3世紀の呉の支配地拡大の呉郡の新地域を、「会稽東治」に含めなかったとしたら、
そりゃインチキ詐欺だな。 >>970
>九州の南北長の話であったのに、
>それがが280kmだなんて変な事を書くからそれがだよ。
どこが変?
唐津駅から佐多岬突端まで280kmだけど? >>971
>3世紀の呉の支配地拡大の呉郡の新地域を、「会稽東治」に含めなかったとしたら、
>そりゃインチキ詐欺だな。
なんで呉郡を「会稽東治」に含めるんだ?
関係ないのに >>884
>>総行程が「全て南寄りにずれ」ない。<
>女王国があるはずの、帯方郡から12000余里の地点が 大隅半島南端なんだろ
総行程は「全て南寄りにずれ」てるな<
嘘を付くな。
女王國とは、原則は(狗奴國以外の)29國の共立諸国であるが、
官名のない狗邪韓國と末盧國は魏帝の直接的臣下を拝命した可能性があるから、
処遇が不明であり、
また、魏への納税兵役義務の発生する「戸」ではなく、
「家」で書かれた一大國と不彌國も帰属も未確定であり、
だから、4国が減って、残りの25国が、明確な卑弥呼共立従属の「女王國」となり、
女王國は、始めから筑紫海岸部の國〜投馬國の広域。 >>974
>女王國とは、原則は(狗奴國以外の)29國の共立諸国であるが、
そんなこと、誰が決めたの? あらゆる解釈で、通説と違うことを新発明しないと
九州説はニッチもサッチも行かないみたいだね >>971
これ、何を言ってるのか
意味がわからないのだけど >>886
>>>杭州は呉郡だろ<
>>陳寿は、「夏后少康之子封於會稽」の「会稽」のつもり<
>だから上海も杭州も会稽じゃないよね? サギはいかんよ <
サギはいかんよ。
陳寿が書いた「会稽」は、夏后少康之子封於會稽の会稽であり、
その場所の手がかりは、会稽山しかなく、だから、杭州や紹興付近だろう、という事になり、
その東の治所であれば、上海や寧波付近になる。 >>890
>3世紀半ばだな 卑弥呼の墓で問題なし<
箸墓は、布留だし、那珂八幡の後だし、「有槨」になったホケノの後だから、
4世紀。 >>979
会稽郡じゃない上海を
会稽東治だと言い張ったら
サギだろ >>899
>邪馬台国まで一万二千里じゃないから<
倭人伝の「折れ線的道のり距離」記載の合計は、
不彌國や邪馬壹國女王之所とで萬二千余里。 >>984
>倭人伝の「折れ線的道のり距離」記載の合計は、
>不彌國や邪馬壹國女王之所とで萬二千余里。
どう計算したら、そうなったの?
またインチキ? 東冶が分郡後は會稽郡じゃないと言いながら
北に拡大するために今度は呉郡まで「会稽東治」だと言い出した
杭州南部の呉郡富春は孫堅の出身地
上海は唐代に干拓する以前は大半が潟の呉郡の寒村 朝鮮通信使って「世界の記憶」とかいうのに登録されたんだな 畿内説の存在感が薄い年でした。
すでに説としての中身がありません。 >>908
>>新唐書や、旧唐書や唐会要は、
殆ど唐代などの至近の史料事実を根拠にした直後史書であるから、
の客観性と信頼性が高く、殆ど〇書だよ。<
>三世紀から見て600年くらい後の史料だろ ダメだね、賞味期限切れだ<
中国では、史記以来の正史などの記録が残っており、
倭人や倭国との客観性の高い交渉経過も残っており、
賞味期限が切れない。 朝鮮通信使は新羅の記憶だよな、畿内厨は新羅より百済なのかな? >>909
>>長里説は、全く無理だね。<
>理由もなく結論だけ言い張っても無意味 <
何だ?。
長里では、赤道付近になってしまって✖だ、
と言っておいた事を隠すんかい?、・・・・サギシ。 畿内説はクラゲみたいなものだろ、段々と干からびてきている >>914
>中傷しても学説は否定できません。<
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの学説は、
学説の資格がありません。 >>916
大和説学者は、「南→東」などの史料事実の否定曲解をする嘘吐きダマシですから、
どろぼうと同レベルだからw。 >>993
>長里では、赤道付近になってしまって✖だ、
>と言っておいた事を隠すんかい?、・・・・サギシ。
なるという理由を聞いたと思うんだがね
回答を見た覚えがない
詐欺に遭ったかな >>918
嘘が平気でつける大和説学者って、
他でも嘘つきまくってるんだろうな 、
w
w
w 。 >>995
>「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの学説は、
>学説の資格がありません。
いろいろ考証して史料事実を否定したり肯定したりするのは、学説そのものなんだが
このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 6日 12時間 16分 56秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。