>>816
簡単にまとめると薩摩や長州などの外様や水戸のような水戸のような親藩はどんなに力があっても天下の政治に
かかわる権利が無いのでなんとかして幕府に仲間に入れてもらおうとしたけど、幕府が絶対拒否なので「こうなったら
倒幕して俺らの政治をするぞっ!」って事です。幕府が一人でガキ大将になってるからみんなで広場から追い出した。
その時たまたま慶喜が将軍だったというだけの事です。でも勤皇の水戸学を仕込まれた慶喜が将軍だったから
鳥羽伏見の戦い以降の状況を幕臣たちには戦うと言いつつ大きな戦いを避けて江戸無血開城につなげる事ができた。

島津斉彬は外様も含む雄藩が幕府と協力して政治を執り行うという目標だった。
そのために慶喜を将軍にして言う事を聞かせようとした。慶喜の父である水戸藩の徳川斉昭と手を組んでいた。
こちらを一橋派と呼ぶ。対抗馬として紀州藩主徳川慶福を推すものを南紀派と呼ぶ。
斉彬にしろ他の大名にしろ政治の駒として慶喜を将軍にしたいのであって慶喜個人に何かを期待してるわけではない。
それは南紀派もまた同じことです。

一橋派の老中阿部正弘が死に南紀派の井伊直弼が大老になると次期将軍は南紀派の推す徳川慶福に決まり
14代徳川家茂と名を改めた。直弼は反対派を弾圧する安政の大獄を始める。これに反発して島津斉彬は
5000の兵を率いて上洛しようとしたけど急な病で死んだ。後継者は甥の忠義だが父である久光が国父として
実権を握った。