>>943
>白村江で負けて滅んだ。
白村江の戦いで捕虜にされた薩夜麻が九州倭国の天子だったと主張するのですか?

>旧唐書までの全ての大陸側の史書が証拠。
隋書の時点で、「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」と書かれていて
遣隋使とその答礼使の裴世清も隋書にあり、日本書紀の舒明紀とも対応が取れているのですが、それは?
成立年は 隋書が656年、旧唐書が945年で、300年近い差があるんですが?

>考古学的にも、古墳時代を通じて彩色古墳や沖ノ島の祭祀など独自の文化を維持していた。
彩色古墳は九州独自の文化ですが、古墳そのものが全国で定型化され築造されているものです
その意味で、他地域から独立した勢力というのは無理があります
そして、全国で定型化された古墳秩序の中では、どの時代でも最大の古墳は畿内に造営されており、九州では岩戸山古墳、男狭穂塚古墳、女狭穂塚古墳くらいしか、大古墳はありません
まあ、国造レベルはそれなりに自立性がありますが、独自王朝と呼べるほどの独立性はないでしょう

沖ノ島の祭祀は、その供献された遺物に古墳の副葬品との共通性が見られ、三角縁神獣鏡などの銅鏡も見つかっています
三角縁神獣鏡は、代表的な大和朝廷の勢力圏を示す遺物であり、沖ノ島祭祀も大和朝廷の影響下にあったことは確実視されています

>そもそも倭の五王が、大和と、関係することが証明されていない。
古代史に「完璧な証明」は無理ですよ タイムマシンでもない限りは
証明できていないこと=ないことにはなりません
そして、傍証としては「倭王武=雄略天皇」が鉄板の定説になるくらいてんこ盛りですし、記紀の記述から五王の遣使を読み取れると考察している人もたくさんいます

>反証としては、畿内説側の主張と系図が一致しない。
これも以前に書きましたが、履中天皇が朝貢をしていないと考えれば、特に問題はありません
後半の済=允恭天皇、興=安康天皇or木梨軽皇子、武=雄略天皇の部分は完全に一致していますし、何も問題はありません

邪馬台国九州説で九州王朝説をとると、結局、倭国王薩夜麻までいかないと整合性が取れないし、そうなると遣隋使などがどうやっても説明できなくなります
つまり、九州王朝説は無理だし、九州王朝説に依拠した邪馬台国九州説も無理なんですよ