邪馬台国纏向説
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そして、女王国の入り口は伊都国と奴国の間にあるのだったね。。。 そうだね、女王国の入り口は、帯方郡から水行二十日で到着したマツラ国から、熊本城までの陸行一月の途上だったね。。。 だから、一里が何メートルかに関係なく、邪馬台国は九州にあることがはっきりしているのだったね。。。 弥生時代までの文字文化の痕跡はそう多くありません。
特に漢字は、大陸との交流でしか使いようがありませんからね。
周という文字が読める土器が出るくらいでも、話題になるくらいです。
福岡以外で、硯は出雲でも出土したようですが、熊本はどうだったでしょうか。
それとあと一言だけ。
帯方郡から水行二十日の地点は投馬國ではありませんか。
陸行一月の開始は水行十日の後ですよ。 女王国の入り口というか境界は、楽浪帯方から七千里ですよ。
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 >>110
後漢書では博多湾付近に在った倭奴国が倭国の極南界
魏志倭人伝では狗奴国との境が倭国の南の端で
倭国の入り口というか境界は朝鮮半島南岸ですね。 >>111
そうですね。
狗邪韓国が女王の境界ですね。 古墳の年代について調べていると、どうしても邪馬台国論争の問題が絡んでしまいますね。卑弥呼の塚が弥生墳丘墓なのか古墳なのか、です。
古墳の年代にとって、纏向は重要な地域です。畿内や、列島規模でみても、古墳時代の原点であります。 しかし、西暦240年前後、纏向は無文字であり、無鉄です。
少なくとも、考古学的証拠は皆無です。
この文明発生前の地域が、鉄の産地を跨いで中国大陸と文字による交流が可能だったとするのは、不合理ですね。 3世紀全般や4世紀に視野に広げれば、卑弥呼の死後ということですが、舶来鏡や鉄器等の大陸の文物は入ってきているのだから、介在するものがいたようですが、直接的な相互交流の証拠には不十分です。 後漢書では倭の西北界が拘邪韓國ですね。
朝鮮半島には南西部に前方後円墳がありますね。畿内の影響があった最古の証拠でしょうね。
ただ、どんなに引き上げても、5世紀中葉のようです。
邪馬台国の時代に畿内の影響があった考古学的証拠になりません。 魏志倭人伝では、倭国は対馬以南です。倭人の地の領分で、官が置かれ統治されていた領分が倭国との認識のようですね。官が置かれていなかった朝鮮半島や、女王国の東に海を千里渡った領分は倭種の地です。 卑弥呼の前の男王のときや、倭国大乱後の卑弥呼の共立の当時、倭国は統一体だったのでしょう。
共立後、しばらくして狗奴国の卑弥弓呼素が反乱したのですね。 そして、魏国はそれ以降、再び台与を共立するまで、倭国を女王の属国と女王国と男王国=狗奴国の3グループに分けて認識していますね。女王国は一万二千里から、卑弥呼の宮が邪馬台国と考えるのが合理的です。(このあたりはスレの住人さんに同じような意見の方がいますね。) >>115
魏に何回も朝貢したり使節を受け入れてるのに
無文字なんてことは有り得ないよな。 【卑弥呼の王宮の候補】
・高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市にある。
糸島平野と福岡平野の間にあるクシフル山があり、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮は記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城はクシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂宮の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられる。
高祖宮の目の前の平原遺跡からは、ニニギ王家の家宝である神宝八咫の鏡が出土している。
伊都高祖宮こそ倭国の王都であり、平原遺跡は倭国女王卑弥呼が被葬者の最有力候補である。
・橿日宮
現在の香椎神宮。
卑弥呼の後継者となる筑紫の女王の一人として、景行天皇の時代に筑紫の梟帥の称号と八咫の鏡を持つ神夏磯姫(神橿日姫)がいて、その名からはおそらく橿日宮に住んでいたと思われる。
景行天皇の孫の仲哀天皇も橿日宮を拠点としており、代々の筑紫の王宮として用いられていたと考えられる。
魏志では不弥国に比定されることが多く、ここまでは距離が明記されているので郡使が往復したことは確実である。何のために往復したのかと言えば、卑弥呼に会いに行った可能性がある。
・高良宮
筑後一宮。高良大社や高良玉垂宮などからなる複合施設だが、後世の仏教との習合や神仏分離などの影響による。
近隣には卑弥呼もしくはそれに近い人物の墓と言われる祇園山古墳がある。
卑弥呼が筑後出身ならば、高良宮が元宮だったかもしれない。
郡使が滞在した伊都国までやや遠いのと、魏志倭人伝に該当する記事もないのが不利。
すると祇園山は壹與の墓か?
いずれの宮も聖地である山の西の麓にあり、王は太陽を背にして君臨したと考えられる。
これは倭国が太陽信仰をもとにした祭政一致体制であったためである。
その象徴となるのが王位の証である八咫の鏡などの内行花文鏡である。
平原遺跡に見られる鳥居や御柱などは、3世紀において神道が成立していたことを示す。
卑弥呼が用いたと記録された鬼道も、三種の神器や榊を用いた神道の儀式であったはずである。 【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。 >>114
邪馬台国や狗奴国を比定するには、弥生後期集落遺跡の分布群で検討するべき。
もう、古墳や銅鏡や里程などでは不可。 @阿波 共産革命の“役に立つ白痴”津田左右吉の大害毒
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2018/02/02/153406
筑波大学名誉教授 中 川 八 洋
「神武天皇から開化天皇までの記紀は嘘八百の歴史創作である」との津田史学を錦の御旗にする
井上光貞/直木孝次郎らの共産党系学者のプロパガンダ言説は、
「邪馬台国・九州説」と手に手に取り合って、荒唐無稽な歴史偽造を画策している。
いうまでもなく、大和朝廷は、紀元後250年の三世紀半ばまで、畿内の大和盆地には存在していなかったという、
これこそトンデモ“嘘八百の歴史創作”をするためである。
「邪馬台国・九州説」の根拠に真っ当なものは一つもない。例えば、人口わずか六千人規模の吉野ケ里遺跡(佐賀県)をもって、人口35万人以上の「邪馬台国」だと騒ぐのは、
「六千人」と「35万人以上」の区別がつかない幼児と変わらない。
『魏志倭人伝』には「邪馬台国は7万余戸」とある。鬼頭宏は、「一戸は10名で換算せよ」とするから(注3)、この場合は邪馬台国の人口は「70万人以上」となる。
多くの研究論文では「一戸5人」で計算しているので、これに従えば「7万戸以上×5人=35万人以上」となる。
人口「35万人以上」を擁する「くに 国」は、九州のどこにも煙すらない。
要するに、「邪馬台国・九州説」とは、次の荒唐無稽な馬鹿げた妄想に耽る歴史偽造屋の戯言なのだ。
『魏志倭人伝』を一読したとき、多少の教養があれば、それが特記する「卑弥呼」が、
第七代孝霊天皇の皇女「やまとととびももそひめのみこと」にそっくりだとすぐさま感じてこそ常識ある日本人。
「ももそひめのみこと」は、大和朝廷における神宮の斎宮であった。
鉄を産出する吉備の国を制圧した第七代孝霊天皇が(180年頃に)造営した“ミニ都”纏向遺跡は、
天理市の柳本駅(鉄道・桜井線)の南あたりが北端ではないか。そして、この線より南側で田原本町に入った所に、孝霊天皇の御所と政庁が建立されていたと推定される。
仮にそうだとすれば、纏向の“ミニ都”は、三世紀初頭の日本では破格の大きさとなろう。 私のように、纏向遺跡を『古事記』や『日本書紀』の中に“発見”して、吉備の国を制圧してトテツモナイ富を得た孝霊天皇が“ミニ都”を造営したのかな、
その皇女「ももそひめのみこと」は神宮斎宮と摂政とを兼ねていたのだろうか、
魏の遣使は大阪湾までの大海用の船から大和川の河口で降り河川用舟艇に乗り換え、
両岸から大勢の日本人農夫が引くロープで牽引され大和川を遡行して、
「ももそひめのみこと」が祈祷する祭祀の都へと向かったのだろうか、などと想像する時、
纏向遺跡は生き生きと生命を得て千八百年間の時を超越し現在に飛び跳ねる。 >>130
纏向遺跡は倭国(阿波)の豪族古墳造営の前線基地ですよ。
纏向での役目が終わったので、佐紀盾列古墳群などへ解体移設されている。 @阿波 >>114
邪馬台国や狗奴国を比定するには、弥生後期集落遺跡の分布群で検討するべき。
もう、古墳や銅鏡や里程などでは不可。 @阿波 畿内説を論破されてしまったキナイコシの、スレッドへの、妨害が激しくなってきたね。。。。 畿内説を論破されてしまったキナイコシが、追い詰められて、発狂したのではないのかな、、 ただ一つの、この邪馬台国纏向説スレッドが、予想以上に盛況だね、、、 話題のレベルが高くて、畿内説を論破されてしまったキナイコシが、ついてこれないようだね。。。 イザナギが降臨した淤能碁呂島は能古島、イザナギが禊をしたのは小戸、そこに建てられたのが住吉。
福岡こそイザナギの都。
倭国の建国の地。
そしてその倭国の女王となったのが卑弥呼。
考古学的にも、3世紀以前の倭国の王墓は博多湾沿岸にしかない。
そして博多湾沿岸は稲作伝来の地、弥生文化発祥の地。
全ては博多湾沿岸から始まった。 三角縁神獣鏡の同型鏡を分析すると鏡径に大小があり、小さくなるほど文様が不鮮明になる。
これは母鏡から鋳型を作りできた子鏡をまた同じように鋳型にとって順次コピーしていったとみられる。
踏み返しされた三角縁神獣鏡の母鏡とみられるもっとも大きな径となるものが出土した古墳をみると、北九州と吉備に片寄っていることがわかる。
これは三角縁神獣鏡の流通の起点が畿内ではないことを示しており、たとえ下賜と仮定しても
北九州から畿内にもたらされた蓋然性が高く畿内説にとって非常に不利な結果となっている。
母鏡の出土例
>藤崎方形周溝墓
>天神森古墳
>原口古墳
>名島古墳
>香椎ヶ丘古墳
>
>以上福岡
>
>湯迫車塚古墳 岡山
>赤塚古墳 大分
>造山1号噴 島根
>椿井大塚山古墳 奈良 このスレ立てた奴が独りで暴れてるな
あきらかに偏執狂だろ 畿内説を論破されてしまったキナイコシが、このスレッドの話題のレベルが高すぎて、ついてこれないで、悔しさのあまり、おかしな言いがかりをつけているな。。。 畿内説を論破されてしまったキナイコシが、三角縁神獣鏡の同型鏡を分析することは、無理なのだろうね、、、 いくら岡上がにくくても、これは別人だろう。
岡上は畿内説なのに無理押しをしないから、畿内説の主流派の根拠をことごとく否定してしまう。
まあ、畿内説は身内から見ても嘘つきの集まりということで。 >>123
上表文は倭王印で封泥または押印されなければいけませんから、卑弥呼の膝元から送られていますね。邪馬台国に文字文化があったことは間違いありませんよ。 >>128
邪馬台国や狗奴国を比定することには、あまり興味がありませんね。
邪馬台国を弥生集落遺跡と考えた場合にも、最低でも文字文化は欠かせません。今のところは玄界灘沿岸以外だと、島根県か三重県ということになりますか。
山陽、畿内、四国は厳しいのではと思います。 東夷伝に朝鮮半島で倭人が鉄を入手したとありますが、鉄は貴重だから、再利用されて残っていないことも考えられますから、代わりに鉄文化とリンクしているものを見つければいいのです。
畿内の古墳との関連でならば、まず、割竹形木棺の伝播を考えるべきでしょうね。
ところが、畿内の古墳で、引き上げても250年とされるホケノの前の年代に割竹形木棺がないのです。(私には見つけられませんでした。) それと、畿内は古墳時代の原点であることは、間違いありませんが、鉄器使用開始の指標となるホケノのこの割竹形木棺の墓制は、滋賀県野洲市が発祥なのです。少し遅れて平原1号、それから半世紀遅れで纏向へと伝播しています。 。。。
117 名前:岡上 ◆JN/67qb8kM Mail: 投稿日:2017/09/10(日) 20:27:43.84
なんか罵倒ばっかりですね。
世間では景初四年実在説のほうが有力ともおもいませんけど。。。
785 名前:日本@名無史さん Mail: 投稿日:2017/09/12(火) 09:57:28.01
>>683
仕方ないよ、、、、
あの2013年の調査以前から、国家に否定されているのだものね。。。
あれは、天皇の妹の墓なのだからね。。。
234 1 名前:岡上 ◆JN/67qb8kM Mail: 投稿日:2017/06/09(金) 23:37:22.40
今日は何か盛り下がってますねぇ。。。
まぁまともに考えてみたら、倭国大乱後の女王墓である平原が重要じゃないわけないですよね。 >>152
割竹型木棺の製作に鉄器が必要ということでしょうか。
滋賀県は「畿内」というよりも、日本海航路による筑紫勢力の圏内であるように思います。 >>150
>邪馬台国や狗奴国を比定することには、あまり興味がありませんね。
じゃあ、ここに来る意味はなにですか? @阿波 >>150
>邪馬台国を弥生集落遺跡と考えた場合にも、最低でも文字文化は欠かせません。
倭人に文字文化が有ったとは確認されていません。
そんな、確認されていないものより、鉄鍛冶炉遺構や辰砂採掘遺跡ですね。 @阿波 >>114
邪馬台国や狗奴国を比定するには、弥生後期集落遺跡の分布群で検討するべき。
もう、古墳や銅鏡や里程などでは不可。 @阿波 まあ、魏志倭人伝にない前方後円墳を根拠にされても困るよな。
邪馬台国とは別にそのような集団がいたというだけだし。 >>159
その「俺様ルール」に対応できないのかな? @阿波 >>114
邪馬台国や狗奴国を比定するには、弥生後期集落遺跡の分布群で検討するべき。
もう、古墳や銅鏡や里程などでは不可。 @阿波 >>166-167
九州の中の蛙 大海を知らず。 @阿波 割竹型木棺の製作に鉄器が必要かどうかは、断定しきれませんね。
丸木でのカヌーは石器でもつくっていますしね。
ただ、死期を予測して作ったり、在庫を常に確保していたとするのは、弥生の感覚にとっても、縁起が悪いのではないでしょうか。
死の直後に数日で作らなかったのだとしたら、鉄器は必要でしょうね。
あと、鉄入手のルートのこともありますが、丸木でのカヌー作りと作業が酷似しているから、おっしゃる通り、日本海航路に早くから進出していた勢力が関わっているでしょうね。
2世紀までに若狭や敦賀から琵琶湖岸に達していた勢力があったと思います。 割竹型木棺の製作に鉄器が必要かどうかは、断定しきれませんね。
丸木でのカヌーは石器でもつくっていますしね。
ただ、死期を予測して作ったり、在庫を常に確保していたとするのは、弥生の感覚にとっても、縁起が悪いのではないでしょうか。
死の直後に数日で作ったのだとしたら、鉄器は必要でしょうね。
あと、鉄入手のルートのこともありますが、丸木でのカヌー作りと作業が酷似しているから、おっしゃる通り、日本海航路に早くから進出していた勢力が関わっているでしょうね。
2世紀までに若狭や敦賀から琵琶湖岸に達していた勢力があったと思います。 よく、勘違いされることですが、寿陵でもないかぎり、葬儀に該当する、セレモニーは棺の方が墳丘墓より、重要です。
現代でも同じことでしょう。
墳丘墓や古墳は、王権の継承者ための、継承セレモニーのアイテムです。 だから、葬礼での種族の分類は、棺によって考えるべきですね。 >>155
タイトルの纏向の語に反応しましたね。
古墳好きですからね。 畿内説を論破されてしまったキナイコシの、スレッドへの、妨害が激しくなってきたね。。。。 畿内説を論破されてしまったキナイコシの、スレッドへの、妨害が激しくなってきたね。。。。
2013年が、致命的だった、、、、 纏向遺跡自体は、西暦200年頃、誕生していますね。
纏向石塚が、210年頃の築造ですから、ある程度の人口集落があった証拠になります。
でも、鉄器が皆無の年代です。勿論、それ以降も文字については、3世紀全体を通しても、その痕跡はありませんから、邪馬台国とは無関係です。
そして、卑弥呼が魏と接触し始めた230年代もまだ無鉄器です。
250年頃以降、ホケノ築造ですから、纏向の鉄器時代は、卑弥呼死後ですね。
卑弥呼死後、鉄入手ルートにつながった、もしくは、近江方面の鉄入手勢力に征服されたということになります。 桜井茶臼山古墳は興味深いですよ。三角縁神獣鏡が出土していて、宗像との関わりもあるようです。纏向とは少し離れていて、纏向遺跡には、無い要素があります。誰の古墳でしょうかね。 九州北部から運ばれた内行花文鏡が大事にされていた古墳だよね。
被葬者の出身地はどこだったのかな? >>186-187
北部九州説はじめ、だれにも分からない 実は、考古学的に墳形以外に纏向の古墳とヤマト王権の関連を見出すことはできません。ヤマト王権最初期の大王墓とされる西殿塚古墳も、そうですね。
対照的に、桜井茶臼山古墳の副葬品は、大和王権の祭祀を思わせるものが多い。北部九州の影響を強く受けています。
時期的には西暦300年頃過ぎ、天皇家に系譜が繋がる人物が初めて畿内に権力を獲得して、ここに埋葬されたのでしょうね。 何百枚もの三角縁神獣鏡が、庄内式と全く共伴関係にないことは、不思議ですね。ほとんどは、布留式期に模倣して制作された国産鏡とするのが合理的でしょう。画文帯を模倣したものか、中国製の三角縁神獣鏡を模倣したものかは、わかりませんがね。
邪馬台国論争にとっては、ややこしいことをしてくれたものです。 難升米が曹叡に拝謁したタイミングを考えれば、下賜鏡は景初三年の作でしょう。
下賜鏡が三角縁神獣鏡かどうかは、わかりませんが、もしそうならば、紀年銘くらいはあったかもしれません。
景初三年鏡が出土したのは、出雲なのですが、残りの99枚はどうなったのでしょうね。
邪馬台国が九州ならば、銅鏡などは珍しくもなんともありませんから、鋳つぶして、リサイクルした可能性もあります。
そうではなかったとも、最終的には、倭国を併呑した大和朝廷によって、奈良の大仏にでもなったのですかね。 桜井茶臼山古墳の副葬された三角縁神獣鏡の破片が、紀年銘が正始元年とあるものと、一致したようですね。
恐らく、舶来鏡でしょう。西暦240年代頃はどこにあったのかが、問題になりますが、共に副葬されていたものから類推すると、やはり、九州北部ということになりそうです。 邪馬台国の条件として、まずは、西暦240年に文字文化と鉄文化があったことです。
そして、それ以前から、曹叡が卑弥呼の好物と認識したものがあったことが必須です。絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹ですね。
残念ながら纏向は全く該当しません。 畿内説は、あの2013年の大規模調査で破綻した。。。 レベルの高い謎の考古学者が、難解な論理で、追い詰めてしまったのではないのかな、、、 畿内説を論破されたキナイコシが、偽の邪馬台国畿内説スレッドで、方格規矩鏡と超大型内行花文鏡のことでも、鮮やかに論破されてしまったねw >>195
レベルの高い謎の考古学者達の投稿を、僕たちが編集して、次回のスレッドのテンプレートにすればよいのではないのかな。。 26日本@名無史さん2018/02/08(木) 08:24:07.85
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
魏略逸文
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif 31日本@名無史さん2018/02/08(木) 15:52:01.39
>>1
邪馬台国あまり興味がないが、関連スレ目立つので一言
魏志倭人伝だと邪馬台国は鉄器国家です
纏向周辺に鉄があった3世紀末には卑弥呼は死んでいる
纏向と卑弥呼は無関係だよ
3231を補足します2018/02/08(木) 15:55:25.72
卑弥呼の死が日本列島の鉄器分布を改革して、やっと近畿地方にも行き渡るようになったのでしょうね 81日本@名無史さん2018/02/13(火) 14:04:51.65
纏向が卑弥呼と無関係なのは、3世紀前半の鉄製品がないというだけでも、致命的な証拠になります。
そして、もう1点指摘することができるのですが、同様に3世紀前半の硯がないということも大きいでしょうね。
魏志倭人伝では、卑弥呼は皇帝に上表文を送っていますからね。
硯は、鉄のように錆びたりしませんからね。
82日本@名無史さん2018/02/13(火) 14:32:17.00
箸墓古墳は主体部を発掘してないので
結論は出せないが、
周壕などの異物は4世紀以降のみである。 85日本@名無史さん2018/02/13(火) 15:00:27.33
【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。
その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。 86日本@名無史さん2018/02/13(火) 15:15:50.93
纏向というより、畿内全体でみた場合でも、文字文化は博多湾岸を経由しなければいけませんが、3世紀後半になっても、土器の動きは、畿内から九州への一方通行です。
文字を伝えるのは物ではなく人ですが、畿内への人的資源の移動が証拠立てられないというのが、実情ですね。
西暦230年代、畿内に文字を理解できた文化があったことを証明出来ないことは、畿内説にとって、大きな痛手です。 9392です。2018/02/14(水) 11:43:56.94
不正確な書き方が、気になりますので、修文します。
弥生時代末期に、卑弥呼を共立した倭国が朝鮮半島に進出していた最大の理由は、鉄でしょうね。
魏志倭人伝は東夷伝の一部ですが、東夷伝に倭人が弁韓に鉄を採りに来ているという記述があります。また、実際に、弥生時代を通して玄界灘近辺には鉄が溢れています。
曹魏と(ひょっとしたら公孫とも)の交流も、弁韓での、鉄の採掘を認めて貰うためであるとするのが、合理的です。
渡海や他民族との軋轢という危険を冒して、鉄を獲得していたわけですから、女王の都の建設や警備に鉄器が使われていないとする理由はありませんね。合理的な理由があるならお示し願いたいです。
ところが、西暦230年代、卑弥呼が曹魏と交流を始めた頃、纏向には鉄が全くありません。仮に、ホケノが230年代(そんなことをいう学者さんは現在は皆無ですがね。)だとしても、それは鉄器が有力者の副葬品になるほどの希少品だったことの証拠になるだけです。
そして、大陸とやりとりするための文書作成の道具、硯もありませんしね。
纏向は、邪馬台国ではありませんよ。 108日本@名無史さん2018/02/14(水) 16:03:38.08
弥生時代までの文字文化の痕跡はそう多くありません。
特に漢字は、大陸との交流でしか使いようがありませんからね。
周という文字が読める土器が出るくらいでも、話題になるくらいです。
福岡以外で、硯は出雲でも出土したようですが、熊本はどうだったでしょうか。
それとあと一言だけ。
帯方郡から水行二十日の地点は投馬國ではありませんか。
陸行一月の開始は水行十日の後ですよ。 110日本@名無史さん2018/02/14(水) 23:20:52.05
女王国の入り口というか境界は、楽浪帯方から七千里ですよ。
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
111日本@名無史さん2018/02/15(木) 09:31:02.11
>>110
後漢書では博多湾付近に在った倭奴国が倭国の極南界
魏志倭人伝では狗奴国との境が倭国の南の端で
倭国の入り口というか境界は朝鮮半島南岸ですね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています