瀬戸内は潮流が複雑で意外に強いですから、手漕ぎでは、対岸や有人島への渡海以外は難しかったでしょう。
周防から河内までのルートというものがあったとしても、弥生時代までは陸路を併用したでしょうね。
池上曽根や、淡路、阿波への鉄のルートは、むしろ、山陰から、岡山、兵庫南部へ抜ける陸路を選んだのではないでしょうか。その最初は、凹線文土器が山陰に波及する頃ですかね。
鉄に先んじて、玄界灘沿岸から東瀬戸内沿岸に移動してきた、人や物、技術も殆ど、日本海ルートから、中国山地の峠を越えてきたのだろうな。