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邪馬台国は九州にあった78
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0952日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 09:42:38.62
>>950
>2000基もの古墳(古代墓)が残っていたそうだ。

2000人も倭王が居たと言うつもりはないんだろ?
王の墓というのは庶民の集団墓地とは隔絶した存在であって、
集団墓中に王の墓があると考えるのはナンセンス
0954日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 09:46:03.34
>>950
>伊都国の代々の王の墓

三雲遺跡群にあるよ 
三雲南小路遺跡とか井原鑓溝遺跡とか

古墳時代に入っても、築山古墳、端山古墳と、三雲遺跡群の地に前方後円墳として
伊都国王墓(首長墓)が築かれている
0955日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 09:47:06.89
>>951
佐賀川上は伊都国(比定)だから、地元の一豪族で正解。
九州30国共立の「倭王」ではないよ。
0956日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 09:49:51.76
>>953
>大きな墓が好きなのは吉備族だな

そんなことはない
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
奈良盆地でも纒向石塚古墳で全長96メートル、 東田大塚古墳で墳丘長120メートルある

北部九州でも、三雲遺跡群に作られる端山古墳は全長78.5メートルあるし
古墳時代がお気に召さなければ、三雲南小路遺跡の墳丘サイズが周りの周溝で30メートル四方くらい
奴国の須玖岡本遺跡D地点墳丘墓も同程度のサイズ
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓でも南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態、という大きさがある

小さくても倭王の墓というのは通らないよ
0957日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 09:51:14.42
>>955
>佐賀川上は伊都国(比定)だから

佐賀川上が伊都国であると考える理由がない
以上
0958日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 10:02:21.11
>>956
>小さくても倭王の墓というのは通らないよ

平原は戦時中だから小粒なのはしょうがない
0959日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 10:10:35.00
>>957
佐賀川上が伊都国であると考える理由がない人もいるだろう。
がしかし、オレは
末羅国、伊都国、奴国、不彌国の4カ国相互間の方角・里数など、
様々な事実データを示して、その理由は大ありだと主張しているわけだ、
0960日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 10:23:04.29
伝承の通り、
馬韓流れの肥国邪馬台国が東に去った後は、
九州倭国の主導権は、旧の倭奴国に戻ったと考えるべきだろう。
そうすると、倭の五王時代にかけての王墓は、やはり筑紫の那方面に築かれたのではないか。
0961日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 10:24:46.21
三雲を踏襲したら、倭王の墓は方形周溝墓であるべき。
佐賀で方形周溝墓が見つかれば可能性はある。
ただし現状では平原遺跡の方が有力。
0962日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 10:34:17.26
三雲・平原は、筑紫大那国の王家の谷の一部だったと考えれば、万事納得できるな。
0963日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 10:36:57.86
そして魏の使いはその伊都国を目指してやって来た。
0964日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 12:18:04.04
>>961
>平原遺跡

その平原遺跡の5号墓にも1号墓にも、墳丘の軸船に合わせた大柱が立てられているのは
どう考えるの?
これは吉野ヶ里北墳丘墓と共通な葬送文化だけれど、三雲の王墓にはないものだよ
0966日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 12:30:19.06
だから、以前から卑弥呼は肥国王家の一員で、三雲の天孫族の没落によってかわりに共立されたと言っている。
0967日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 12:39:42.80
筑紫の日向の高千穂宮(三雲)を脱出した天孫族が大和に行き、神武が即位した。
だから、神武は卑弥呼と近い世代なのも当然。
九州の卑弥呼と前後して、ヤマト王権も萌芽期を迎えるだろ。

卑弥呼の前の男王70〜80年は、細石神社のニニギと木花咲耶姫、高祖神社の彦火火出見らの筑紫の日向三代。
邪馬台国と並行して存在していた宮崎都万の投馬国は彦火火出見の兄の海幸の国で、隼人の祖だよ。

肥国から肥後熊本の卑弥弓呼が出て、卑弥呼とお家騒動。
筑前筑後肥前を抑えた卑弥呼の前線基地が基肄城、大野城。
熊襲側の城が菊池城。
卑弥呼の王城は伊都城(高千穂宮、高祖宮)。
0968日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 12:47:15.14
>>967
時代・時間軸・時系列の感覚がハチャメチャ
0969日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 12:54:05.12
記紀の時間軸は引き伸ばされているんだよ。
天皇一代あたり十数年とすると、神武は卑弥呼と同じか少し前くらい。
これは畿内説でも鴨厨氏らが唱えているよね。
邪馬台国と並行してヤマト王権が発足するし、その少し前から纒向にニギハヤヒら物部氏がいて、三輪山には出雲から流れてきた事代主(の末裔)がいた。
神代というのが、中国の後漢と並行する時代で、漢委奴国王印をもらったのがニニギ?
0970日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 12:58:17.86
纒向、箸墓は物部氏のもの
神武は卑弥呼と同世代
伊都国の王は日向三代
筑紫の日向は筑前
卑弥呼は肥前の出身、壹與も肥前
イザナギの矛による国生みは能古島から、禊は筑紫の日向の小戸

すべて辻褄があう。
0971日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 13:18:18.64
>>966
>だから、以前から卑弥呼は肥国王家の一員で、三雲の天孫族の没落によってかわりに共立されたと言っている。

その「だから」はどことつながるんだ?
吉野ヶ里の北墳丘墓に葬られた吉野ヶ里の首長も、肥後王家の一員だと主張するのかい?
0972日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 13:21:31.39
>>970
あらかた福岡県内で済まそうとしてるな
福岡県人会活動報告乙
0973日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 13:21:47.73
>>969
>天皇一代あたり十数年とすると、神武は卑弥呼と同じか少し前くらい。

系譜研究の第一人者、というか現在一人しかいない宝賀寿男氏は、
神武は崇神(邪馬台国時代)の5世代前としているよ

5世代で100年くらい前にはなるだろう
末子相続なら150年くらいかな
0974日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 13:24:22.35
応神天皇元年を390年と考え、そこからの平均在位を計算できる。

​平均在位と言っても短すぎるのも長すぎるのも、
正確な数値が出ないと思われるので、
30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見た。

・25代平均  応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年  11,28年
・28代平均  応神天皇390年〜42代文武天皇没707年  11,32年
・30代平均  応神天皇390年〜44代元正天皇没724年  11,13年
・33代平均  応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年  11,33年
・35代平均  応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年  11,17年

11年弱が平均在位。
さらに古くなると若干在位が短くなると考え、

「11年」で計算してみる。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、15代遡ってみる。

11年×15代=165年。
応神天皇390年ー165年=225年。

神武元年は3世紀前半。
卑弥呼の時代である。
0976日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 13:42:01.83
>>974
これは無駄な計算だと何度言えば
・25代平均  応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年  11,28年
・28代平均  応神天皇390年〜42代文武天皇没707年  11,32年
・30代平均  応神天皇390年〜44代元正天皇没724年  11,13年
・33代平均  応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年  11,33年
・35代平均  応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年  11,17年

最初の25代平均の時点で、分母が大きくなるから、それに数代足しても
数値はほぼ変わらない
独立ではない数字をいくら並べても、たまたまそうなった、以上のことは言えない
統計を知らないなら、統計の体を借りてウソを振りまくなと言うに
0977日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 14:04:58.27
何が言いたいの?
神武が卑弥呼と同世代だという結論に変わりはないでしょ?
0978日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 14:08:30.59
>>972
ちゃんと佐賀、熊本、宮崎も入れてますよ。
卑弥呼と壹與は佐賀の人間だけれども、倭の王都は福岡だったということ。
弥生時代の特徴である稲作が上陸したのが玄界灘沿岸、吉武高木に倭国最初の王権が成立し、邪馬台国時代でも最大の国邑は奴国。
0979日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 14:10:46.19
>>971
>吉野ヶ里の北墳丘墓に葬られた吉野ヶ里の首長も、肥後王家の一員だと主張するのかい?

有明海沿岸の肥国の中ではかなり大きい集落ですからね。
当然想定するべきです。
壹與の時代は川上の方が中心だったとは思いますけど。
0980日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 15:20:58.63
>>978
終始一貫して、倭の王都は福岡だったということなら、
倭国の大乱もなく、邪馬台国の台頭もなくて、九州の古代史はもっと単純だっただろうねえ
0981日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 15:26:38.46
いやいや、福岡の周りは戦乱の跡だらけですよ。
王統が天孫族から女系の肥国国津神に代わったなら、かなりの混乱があったでしょう。
しかも肥国の中でも肥後狗奴国が反旗を翻して、混乱は卑弥呼の治世に及び、完全なる収束は壹與の即位を待たなくてはいけませんでした。
0982日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 16:22:10.62
>>981
ひと口に肥後狗奴国といっても、肥後は広大だから見当がつかぬ。
やはり、緑川湿地帯以南の肥後南部(御船・甲佐・宇土・宇城・八代など)に限定されてたんじゃないだろうか。
0983日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 16:24:36.31
菊池彦の名前が残っているから、少なくともそこまでは狗奴国
0984日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 16:50:51.89
菊池の名前は、11世紀に下向土着した士族菊池氏の名からきたもの。
菊池市には、その前からククチ城というのがあったが、
ククチ(木口)とは新羅から渡来した築城木工作集団の名前で、本拠地は尼崎市久々知。
倭人伝の狗古智卑狗も、おそらく新羅系の渡来人で、九州中南部のどこかにいたのだろうが、
それと菊池市のククチ城は時代が数百年ちがうな。
0985日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 16:51:37.53
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0986日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 18:22:37.90
>>976

ならば、
・30代平均  応神天皇390年〜44代元正天皇没724年  11,13年
で、何か不都合あるのか。
自分が数値出さないで何を偉そうに言ってるんだ。
0987日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 19:23:19.41
そうだね。
卑弥呼と神武が近い年代だという点に異論はない。
0988日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 20:12:37.98
邪馬台国は「馬」で、馬韓の流れ・・・、
狗奴国は「ククチ」で、新羅の流れ・・・、
ゆえに何かと折り合いが悪く、陳寿からは「素より不和」と評されたのであろうな
0990日本@名無史さん垢版2018/09/29(土) 22:07:55.15
反論になっていない
0991日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 00:02:38.60
皇極が譲位しなかったら?
天武が簒奪しなかったら?
孝謙が譲位しなかったら?
陽成が退位させられなかったら?

皇位の在り方が全く変わってしまっているのに
十把一絡げにしてる時点で暴論なんだがな
0993日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 07:12:14.12
十把一絡げにしてデータ処理したときに見えてくるものを探す・・・、
それが統計学なのだが。
0994日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 08:25:36.33
肥後熊本・菊池市のいわれ(ククチ、久々知)
>平安時代初期の続日本紀には、文武天皇(698)の條に、太宰府をして大野・基肄・鞠智の三城(皆、朝鮮式山城)を繕いせしむの記述がある。
>また奈良時代の天平勝宝元年(749)に、奈良東大寺が大宅可是麻呂から進上された奴婢帖には「右京四條四坊戸主鞠智足人」の名が見える。
>平安時代中期の承平年間(931–938)に編纂された辞書『和名類聚抄』ではここの地名を「久々知」と註している。
>これらのことから、上代から古代にかけ、この地は「くくち」と呼ばれ「久々知、鞠智」と表記していたことがわかる。
>なお康保四年(967)の延喜式には「菊池」の名があることから、この頃までには「久々知、鞠智」に「菊池」の佳字を当てていたと考えられる。
0995日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 09:17:30.99
肥後熊本・菊池一族
起源
>菊池氏は、寛仁3年(1019)の刀伊の入寇に戦功のあった大宰権帥藤原隆家の孫の藤原則隆が肥後国に下向し、
>土着して藤原姓(藤原北家)を自称したものとされ、各種系図もこれに沿った内容となっている。

>しかし昭和34年(1959)志方正和は、公家が残した日記や源氏物語を研究した結果、
>藤原隆家の下で大宰少弐であった則隆の父・藤原政則が「肥後国住人」と記されていることをもって、
>藤原政則と則隆の代の1070年頃に菊池市周辺に土着したとする説を発表、この説が現在まで有力とされている
0997日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 16:08:39.38
>>986
>自分が数値出さないで何を偉そうに言ってるんだ。

じゃあ出そうか?
天皇の在位期間の記録として、確実なのは継体天皇以降
継体天皇が26代だから、30代分、55代文徳天皇までの在位期間の平均と分散、標準誤差を示すと
平均 11.4年
分散 74.9年
標準誤差 1.58 となる
ここでは30代分の平均を取っているので、自由度29のt分布の値から
標準誤差の2.045倍が、98%信頼区間の幅となるので、
30代分の在位期間の95%信頼区間は、11.4±1.58×2.045で
(8.17〜14.63)年となる

継体天皇が、第26代天皇なので、神武天皇まで25代分を継体天皇即位年の507年から遡ると
141年から303年の間となる
幅が160年以上もあったら、意味ないだろ?
0998日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 16:09:35.91
× 標準誤差の2.045倍が、98%信頼区間の幅となるので、
○ 標準誤差の2.045倍が、95%信頼区間の幅となるので、
0999日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 16:11:41.19
継体天皇以降の期間は、兄弟相続の多い期間なので、
実際にはもっと遡ることになるぞ

まあそれも、記紀の系譜が正しかったとしたら、の話だから、
その意味でもあまり意味がない
1000日本@名無史さん垢版2018/09/30(日) 16:12:24.80
次スレ立てるの?
まあ、九州説のスレが一つあってもいいとは思うけれど
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