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邪馬台国畿内説 Part324
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0001◆UiepmfCeDJqf 2018/02/11(日) 05:36:24.60
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518118887/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0744日本@名無史さん2018/02/14(水) 14:42:25.92
>>742
これを循環論法とするなら君は東夷伝は明々白々短里で書いてあると認めていることになる。
一方で、君は東夷伝が短里で記されていることを否定しているようにも見える。

仮に東夷伝に短里が定義され、もしくは明々白々短里と記され、「東夷伝のみ」を用いて
短里だと結論付ければ循環論法と言えるかもしれない。
しかし、東夷伝に書いてある里程を整理し、陳寿の知り得なかった「現実の地理」に照らし合わせて
測量精度を考慮しつつ観察した結果が「80〜100m程度の単位で記されている可能性が極めて高い」
という推論であり、この推論を以って通説は「東夷伝(倭人伝)は短里で書かれている」と
表現しているのであって、これは循環論法とは言わない。

「里=約100m」
https://youtu.be/CgVcx-xUVYo?t=1m3s
0745日本@名無史さん2018/02/14(水) 14:51:58.94
循環論法じゃなくて妄想だったか
0746日本@名無史さん2018/02/14(水) 14:58:54.93
>>353
>当時は中華思考に天動説、
しかも球体とも認識してないので 基本的に遠方の方角認識は今とは違うのにな。<

方向認識の原点は、日の出日の入りで東西を決める事であり、
それは中華思想にも関係なく、現在までの全人類の共通認識。
勿論倭人も知っていた事。

>方角間違い説でもはや何の問題もない、<

方角間違い説の大和説者は、もはや人類でもなく、
ケダモノ以下の・・・・のような存在。

>ヤマタイとはヤマトの事。<

邪馬壹も邪馬臺も、筑紫にあったのであり、
「ヤマト」説は×。
0747日本@名無史さん2018/02/14(水) 15:05:01.58
>>746
理由もなく言い張るだけが九州説か
左前になるわけだよ


w
0748日本@名無史さん2018/02/14(水) 15:07:31.75
>>354
古田さん時代以前の古い古代史学と違って、
古田さん以後では、考古学的な環境も全く変わっているのにな。
正直大和説だけでなく、筑紫説以外の九州説全般でも、
今では矛盾した話にしかならないから。
大和説者らの頭の中は、45年前頃で止まってるんだろ。
0749日本@名無史さん2018/02/14(水) 15:12:41.90
>>748
古田の存在は考古学に影響なし

歴史学にも、無いけど
0750日本@名無史さん2018/02/14(水) 15:15:01.97
>>356
でも「南≠東」って、
大和説者は、このお前の投稿も含めて、
論理的な反論が全く出来ずに、口先で「否定された」と言って逃げているだけで、
誰も反論が出来ていない状態でしょ。
0751日本@名無史さん2018/02/14(水) 15:23:39.48
>>358
東夷伝の里に関しての、
周髀算経や淮南子の一寸千里や、漢書の如惇注や介山や、三国志内の大半の記載や、
海賦や、江表伝の?赤壁などに書かれているから存在すると言うのは、
(東夷ではなく)中国内の情報を根拠にしての帰納的確率的推理論ですから、
根拠と結論の場所も内容も違うのであるから、
循環論法には全くなりません。
0752日本@名無史さん2018/02/14(水) 15:40:15.29
>>750
? >>731で理的な反論されてるでしょ?

九州説老人は思い込みばかりで
ひとの話を聞かないんだね
 
0754日本@名無史さん2018/02/14(水) 15:41:16.59
>>751
短里教徒が帰納した形跡ありませーん
0755日本@名無史さん2018/02/14(水) 15:42:23.74
>>753
無能老人は耳の痛い話を無視

www
0756日本@名無史さん2018/02/14(水) 15:46:10.81
古代史“捏造のドン”井上光貞に全面降伏した“保守”なき日本 ──「津田左右吉+江上波夫+水野祐」+スターリン32年テーゼ=“古代史捏造のドン”井上光貞
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2018/02/11/151152

筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

 “狂人”水野祐のスーパー迷妄書『古代王朝史論序説』は、1952年の私家版として自費出版された(100部、謄写版)。
これを贈呈された井上光貞は「感激した」との礼状を返信している。
水野祐のスーパー狂気の嘘歴史は、次の三つからなる。
第一は、神武天皇から推古天皇までの33代のうち、実在したのは16代に過ぎない。初代・神武天皇から第9代・開化天皇までの9代は津田左右吉に従い不在。
第11代・垂仁/第12代・景行天皇も不在。安康/清寧/顕宗/仁賢/武烈/宣化天皇の6代も不在。よって、
「33代−9代−2代−6代=16代」が実在した天皇だという。読者は嗤わずに、水野のさらに続く狂説に耳を傾けよ。
狂人の話を熟考・精査せずして、狂人を殲滅できない。  

水野の第二。「仲哀天皇は、九州島に遠征の途次、戦死。これによって大和朝廷は瓦解。代わりに九州に「九州国家」が誕生。
これこそが、『魏志倭人伝』に言う(卑弥呼「邪馬台国」が苦戦を強いられた)「狗奴国」である。
そして、「狗奴国」とは、北方系騎馬狩猟民族の血を引く(高句麗の北に跋扈した)扶余と同族。
そして、この「狗奴国」すなわち「九州国」の首長こそが“外国人・仁徳天皇”で、首都を九州から摂津国の難波に遷都した。仁徳陵は、その名残である。  

第三。上記の歴史は、天皇の諡号を分析するだけで充分に明らかである。
つまり、前代未聞の荒唐無稽な上記歴史を裏付け証明する文献史料や遺跡なんか何一つ要らない。天皇の諡号を解読すれば、
暗号を解読する如くに、上記の妄想歴史は“あら不思議や”白日の下に史実となる。
「“外国の侵略者”仁徳天皇の難波侵攻に摂津/河内/和泉/大和の古代の日本人は何一つ抵抗せず、
諸手を上げて歓迎した」ことは、言わずもながの自明の歴史だ!・・・・・。
これほどまでに精神病院に収監されるべき重患者・水野の狂説は、要するに、
「血統の連続が無い、統治機構の連続もない、戦争や侵略による二度の断絶&新支配からなる三王朝交替」説と言える。  
0757日本@名無史さん2018/02/14(水) 16:27:13.57
>>742
結論だけってw、読めばわかるじゃん。
都合が悪いから認めたくないだけでしょ。
地図と照らし合わせて自分で読むといいよ。
0758日本@名無史さん2018/02/14(水) 16:37:37.14
>>364
こんなふうに妄想を言い張るだけで、
根拠をまったく言わないのが、
大和説という新興宗教だな、
0759日本@名無史さん2018/02/14(水) 16:41:32.20
>>366
こんなふうに、
何も証拠がないことばかり言い張り、
「南→東」などの嘘つき騙しをし、
口先ヘイトスピーチで、九州説を誹謗罵倒るのが、

国粋皇国史観のキョクウの・・・・大和説者。
0760日本@名無史さん2018/02/14(水) 16:44:41.70
>>370
大和説者は、長里説者というよりは、
国粋皇国史観戦争狂の・・・・ケダモノのノータリンだな。
0761日本@名無史さん2018/02/14(水) 16:54:25.14
>>372
「南→東」などの嘘つき騙しをし、
桐原詐欺師や尿入り一升瓶の和田キヨエらとつるんだり、
キョクウの人種差別的ヘイトスピーチをしたりするなど、
大和説者、という人種は全く信用できん。
0762日本@名無史さん2018/02/14(水) 17:21:37.00
>>757
ほら、また立証せずに逃げ回る

だから九州説はゴミなんだよな
0763日本@名無史さん2018/02/14(水) 17:23:26.01
>>758-761
追い詰められると、こんなウソをつく
だから九州説はクズと言われるんだよ
0764日本@名無史さん2018/02/14(水) 17:27:11.16
>>762
自分の目で確認したら?
おつむ空っぽ?
0765日本@名無史さん2018/02/14(水) 17:28:39.66
>>376
魏の役人や魏使らや陳寿が関わった場合には、方角間違い例なんて全くないし、
倭人が関わった場合にも方向間違い例はない、ようなのにな。

「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者らは、余程のバカなんだろう、
というより間違いなくバカ。
0766日本@名無史さん2018/02/14(水) 17:32:26.04
>>377
>世間の誤解を解かないといけない。
邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。
邪馬台は単なる地名です。
ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました・・・<

てなことを書いた瞬間に、この男も、
「南→東」などのように、史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの・・・・アホであった、
という事になる。
0767日本@名無史さん2018/02/14(水) 17:36:45.65
>>379
>正解だよ、東北のほうに本拠地があった。 いまもそうでしょ。<

不正解だよ。
大和政権は、白村江までは、
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であった、
と自称している事になるから。
0768日本@名無史さん2018/02/14(水) 17:42:36.38
>>744
何か誤魔化そうと色々言ってるけど
この本は短里で書かれた可能性が高い
だから短里は存在する
なぜならこの本は短里で書かれた可能性が高いからというのは循環論法
潔く認めたほうがかっこいいぞ
0769日本@名無史さん2018/02/14(水) 17:42:57.77
>>399
魏志に書かれた数字は、
「比率か大体一致」していて、大体同じ里単位で書かれている事になり、
おかしくないだけでしょ?。
何が不満なの?。
0770日本@名無史さん2018/02/14(水) 17:50:04.96
>>769
一律に間違ってるかも知れないから
そうでないというなら短里は1里75m、短歩は5m…と
体系がはっきり書いてある何かがないと証明できない
0771日本@名無史さん2018/02/14(水) 17:53:40.01
>>768
そうではない。
現代の地図と比較してそれくらいの尺度が用いられていたということ。
0772日本@名無史さん2018/02/14(水) 17:54:40.41
>>770
一律に間違っているというよりも、そういう単位が使われている地域であったと。
0773日本@名無史さん2018/02/14(水) 17:56:09.09
>>770
古代の単位を解き明かすために、そんな解き方をする方が稀。
実際に測られたものがあるなら、それと数値を比較すればいい。
地形は現代でもおよそ変わらないのだから。
0774日本@名無史さん2018/02/14(水) 17:59:52.06
>>771
>>772
それなら1里75m、1歩25cm…と体系の書かれた何かを出せば証明になる
魏で使われてた1里400mの長里つーか普通の里にはそれがあるし
それと大幅に食い違ってるから計測ミスじゃないのって言われるの
0775日本@名無史さん2018/02/14(水) 18:04:04.41
>>773
なんで、そういう単位があるならその体系が書かれてる書がないと
中国の歴代の里の長さはどれくらいかは
それぞれの時代の度量衡を記した律暦志と尺ってモノサシから
割り出されている
短里にはそれがないから存在しないのと同じ
0776日本@名無史さん2018/02/14(水) 18:14:40.45
短里とは現代の感覚でいえば100mの所が計測機の故障で
全部50mと書かれてある地図があったとする
それを見て普通の半分の短メートルがあったと主張してるようなもん
0777日本@名無史さん2018/02/14(水) 18:21:37.87
>>775
>短里にはそれがないから存在しないのと同じ

実際に使われていたのだからしょうがない。
また、短里を測る物差しがあったとしても、考古学者は短すぎてそれだとは気づかないかもね。
0778日本@名無史さん2018/02/14(水) 18:22:39.92
>>776
東夷伝全体でそうなら、東夷のあちこちにその違う尺が共通で用いられていたんだろうと考えるよ。
0779日本@名無史さん2018/02/14(水) 18:24:51.99
>>777
証明できない物はないのと一緒
短里で書かれてるはずの距離を
そう書かれてるからあるとするのは循環論法
0781日本@名無史さん2018/02/14(水) 18:29:57.85
>>401
>奈良時代以前の中国古文献において
日本国内の行程を 魏の里で表記したものは存在しない。<

嘘を付くな。
魏志以外にも、漢書の如惇注や、魏略や、後漢書や、梁書や、隋書が、
「魏里=短里」で記載されている。

>倭人伝での表記も、実距離の5倍程度と乖離しており、魏の里で表記したとは言えない。<

魏使らや陳寿が記録したのは、「魏里=短里」だ。
0783日本@名無史さん2018/02/14(水) 18:35:45.46
>>779
事実を無視してそう思うならかってにすれば?
0784日本@名無史さん2018/02/14(水) 18:36:21.31
>>768
> この本は短里で書かれた可能性が高い

「80〜100m程度の単位で記されている可能性が極めて高い」という推論が成り立つのは理解できるだろうか?
君はできないとしても、少なくとも松木さん含めて多くの人間は理解している。
この推論を得て九州・畿内説問わず通説では「東夷伝は短里で書かれている」としている。
それだけの話。

循環論法というような数学や論理学の話ではないよ。
推論が納得できないと言うならそれ以上はどうしようもない。


「里=約100m」
https://youtu.be/CgVcx-xUVYo?t=1m3s
0785日本@名無史さん2018/02/14(水) 18:38:37.27
>>407
>「尚方作」鏡なんかで、何で3世紀半ばの卑弥呼以後の墓である事が判るんだ
お前の妄想で世界は動かない<

個人が一枚の「尚方作」鏡を所有したり、
一般鏡師が一枚位の、偽の「尚方作」鏡を造る事はあっても、
21枚ものまとまった「尚方作」鏡を、列島の墓に副葬されるような事は、
明帝の100枚の銅鏡が元になった、という鏡でなくては、存在し得ない。
0786日本@名無史さん2018/02/14(水) 18:41:15.42
>>783
ああ律暦志に1里=300歩=1800尺
見つかってる尺の基準のモノサシ正始弩尺が24cmの事実こそ
無視できないからそうさせて貰う
0787日本@名無史さん2018/02/14(水) 18:42:56.69
>>408
大和説の思考原理は、
「南→東」などの嘘つき騙しのような、思想宗教に狂った人種に特有な事だから、
一般人には解らないものが多いんだよ。
だから、国民の7割に拒絶されているの。笑)
0788日本@名無史さん2018/02/14(水) 18:45:10.99
>>784
いくら1律80〜100mで書かれていようとも
そう書かれてるからそれが存在するというのは循環論法
こればかりは誰にもどうしようもない
0789日本@名無史さん2018/02/14(水) 18:48:37.03
>>409
21枚もの「尚方作」鏡だから、
(個人ではなく)魏の工房で造られたものが元になっており、
明帝の下賜鏡でしか起こり得ず、
魏朝が採用しなかった三角縁神獣鏡は、明帝の下賜鏡に採用される、
という事は起こり得ず、
アルツ老人大和説学者の思考はわからんわ。
0790日本@名無史さん2018/02/14(水) 18:56:56.66
>>788
循環論法の意味分かってる?
0791日本@名無史さん2018/02/14(水) 18:59:45.85
>>410
>パプアニューギニアは800以上の少数部族、言語に分かれている
パプアニューギニアにはおサルさんから感染したHTLV-1キャリアも九州西部南部と同じで多く<

何だいこりゃ?。
まるで、東テイ人が、パプアニューギニアの一部の渡来説のような話だな。

>パプアニューギニアを中心としたカーゴ・カルトは、
近代まで文明の利器を知らなかった現地人は西洋人が持ち込んできた工業製品に対して、
これは当地の先住民のために神が作ったものであり、
白人は神と特別な繋がりを持って不当にそれらを占有したのだ、と考えた
先住民を九州、神を中国、白人をヤマト王権に置き換えると 九州説の思考と一致する<

カーゴ・カルトは、出雲系銅鐸部族や東テイ人や毛人蝦夷が先住民で、
倭人を白人と置き換えると、ほぼ一致する事になる。
0793日本@名無史さん2018/02/14(水) 19:07:28.01
>>422
>(三角縁神獣鏡)大半が邪馬台国である畿内で作っていただけの事だ。<

大和で、粗悪な副葬用の三角縁神獣鏡を造ったには、4世紀であり、
卑弥呼の頃ではない。
0794日本@名無史さん2018/02/14(水) 19:12:11.74
>>430
>西晋の裴秀(224-271年)が禹貢地域図を作っている
地図を作るに遵奉すべき原則として、縮尺の決定,方格の設定,直角三角形による距離測定,
高低の測定,直角・鋭角の計測 ,曲線・直線の計測の6つを挙げている <

成程。
しかし、その地図では、日本列島は載っていなかったんでしょうね。
0795日本@名無史さん2018/02/14(水) 19:15:38.68
>>431
>(年已長大)それ、合わなくても書けるだろう <

伝聞であれば、聞いた年齢を書けば済む事。
伝聞ではなく、実際に会ったから、「年已長大」という表現になった。
0797日本@名無史さん2018/02/14(水) 19:22:31.39
>>786
時代の地域により尺度は変わる。
0798日本@名無史さん2018/02/14(水) 19:22:57.53
>>439
>だから不正確なんだろ? <

二組の魏使らが確認し、
陳寿も、彼らの「言葉で説明された地図」から、
「計其道里、當在會稽東治之東」という推定で九州を特定出来ていたから、
大体正確な「地図説明」。
0799日本@名無史さん2018/02/14(水) 19:23:40.85
>>792
Bであると推測されるからAと推測される
またAであると推測されるからBと推測される

倭人伝の東夷伝を読み実際の長さと照らし合わせて見ると1里が75〜100mで書かれている
当時の東夷伝では1里が75〜100mが使われていたと考えられる
全然循環論法になってないな。

短里は魏志倭人伝だけでなく三国史記でも一部使われてるよ。
0800日本@名無史さん2018/02/14(水) 19:36:26.55
>>797
始皇帝はそれを統一するよう定めた
度量衡の統一な
その後歴代の皇帝の仕事の一つとなった

>>799
魏志倭人伝、三国史記で短里が使われていた証拠
→魏志倭人伝、三国史記が短里で書かれてるから
循環論法
0801日本@名無史さん2018/02/14(水) 19:41:25.53
>>440
>長沙馬王堆第3号墳の時代に既に10里(1里=300歩、1歩=6尺)を1寸に縮小した18万分之1図が発見されてるから <

前漢代なら、始皇帝の「1歩=6尺」を使っていてもおかしくないな。

>西晋の裴秀(224-271年)のころまでには測量技術は進歩していたが
四夷まで測量はしていなかったということだな<

前漢からはるか後代の魏代の参考にはならんよ。
長沙馬王堆は前漢とは陸続きであるから、
歩測や記里車?での計測は可能であったんだろうが、
それは、「在帶方東南大海之中」の倭地には、当然通用しない訳で、
だから、魏使らは、一寸千里や簡易三角測量も知っていたから、測定出来た、
という事の証拠になるだろうな。
0803日本@名無史さん2018/02/14(水) 19:44:26.38
>>800
>>799
>魏志倭人伝、三国史記で短里が使われていた証拠
>→魏志倭人伝、三国史記が短里で書かれてるから
>循環論法

文意が通ってませんよw
0804日本@名無史さん2018/02/14(水) 19:44:31.34
>>791

アフリカでサルからヒトへ感染したHTLV-1は
エイズウイルス(HIV)に似たウイルスで
南アメリカ、カリブ海沿岸地域、アフリカ、メラネシア、
日本の九州、沖縄、北海道などに感染者が存在し
中国や日本の本州はほとんどいない
呉地の東鯷人も関係ない

http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/muramoto1041/20150519/20150519205916.jpg
https://archive.li/c7GDc/c48c73053468110aa2eaeb5c0254ba0be585e9b8
0805日本@名無史さん2018/02/14(水) 19:45:03.42
>>441
>地図が大陸でも辺境に行くほど不正確になってる という研究結果もある<

そんなことは、現代でも幾らでも起こり得る事。
要は、測定の必要や測定者の能力の問題。
0806日本@名無史さん2018/02/14(水) 19:46:10.86
>>801
簡易なものでも三角測量するなら距離が50m〜100mもバラバラにならん
0807日本@名無史さん2018/02/14(水) 19:47:58.31
>>803
だから循環論法は成り立たないんだよ?
そういう話だよね?
0808日本@名無史さん2018/02/14(水) 19:49:09.89
>>445
>会稽東冶之東だからね 南が東の間違いなのは明らかだしな <

会稽東治之東だからね 。
陳寿も、1里の距離も「南と東とを間違い」もしていない事は、
明らかだしな。
0809日本@名無史さん2018/02/14(水) 19:49:14.92
>>800
>その後歴代の皇帝の仕事の一つとなった

東夷だから、皇帝の威光が十分に行き届いていないんだよ。
0810日本@名無史さん2018/02/14(水) 19:51:34.97
>>806
三角測量なんてしないで、魏の使いが輿に揺られながら目測したり、所要時間から推定したんだろう。
0811日本@名無史さん2018/02/14(水) 19:53:11.06
短里があった証拠が短里で書かれたという書しかないなら
どこまで行っても循環から逃げられないのだ
1短里=300短歩=1800短尺で
魏志倭人伝は特別にこれを使って記す…とでも
書かれた文章でも見つからん限りな
0812日本@名無史さん2018/02/14(水) 19:55:01.21
>>811
陳寿は短里で書かれた報告書を手にしていたが、それが短里であることには気がつかなかったんだろう。
ただ、疑問を感じたので日程を併記したのかもね。
なんだか変だなぁと。
そうしたら後世でつなげてしまった。
0813日本@名無史さん2018/02/14(水) 19:55:29.23
>>811
君には古代史は無理だよ。
0814日本@名無史さん2018/02/14(水) 19:56:07.57
>>768
> この本は短里で書かれた可能性が高い
> だから短里は存在する
> なぜならこの本は短里で書かれた可能性が高いからというのは循環論法

「この本は短里で書かれた可能性が高い、だから短里は存在する」
「(だから)短里は存在する、 なぜならこの本は短里で書かれた可能性が高いから」

循環ではない。倒置法を使って同じことを2度繰り返しているだけ


「80〜100m程度の単位で記されている可能性が極めて高い」という推論が成り立つのは理解できる?
多くの人は推論に納得して、それを前提に邪馬台国を議論しているだけ。
文献と「現実の地理」をつき合わせて出した推論だからそもそも循環もしていない
なぜか循環論法に拘っているようだけど、そういう話でないことは理解できないかな
0815日本@名無史さん2018/02/14(水) 19:56:19.55
作り話専門の九州説
0816日本@名無史さん2018/02/14(水) 19:57:02.96
>>809
記録残したのは魏の人間だから魏の単位使ってるだろうけどな
0817日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:01:59.04
耳成山、凄い重要な気がする。
火山の山頂を埋めた古墳じゃないかと言われているが。隣の池との関係も気になる。
情報が全然ないんだよな。詳しい人いないかな。
0818日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:02:19.05
>>816
書いている方(陳寿)はそう思っていたが、報告書を書いた帯方郡の役人はそうでは無かったんだろう。
もしくは役人を案内した中国語ができる倭人は。
0819日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:03:09.17
>>814
>「80〜100m程度の単位で記されている可能性が極めて高い」という推論が成り立つのは理解できる?
>多くの人は推論に納得して、それを前提に邪馬台国を議論しているだけ。
>文献と「現実の地理」をつき合わせて出した推論だからそもそも循環もしていない

賛成!
0820日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:03:24.52
>>812
その証拠は?
魏志倭人伝が短里だからだと循環論法

>>813
古代史だからって論証に反していいって事にはならんだろう

>>814
なんで、魏志倭人伝に短里が使われていた証拠は
魏志倭人伝がそう書かれているからというのは
循環論法だから指摘してるだけなんだ
違うと言うなら1短里=300短里とか書かれてる文献を
普通の里はそれがあって証明されてるんだし
0821日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:04:48.54
>>818
そうだという証拠は?
短里はあったはずだから陳寿の見た報告書は短里のはずだった?
0822日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:09:23.30
短里があったと証明したいなら
1短里=300短歩で基準尺は3cmのこういう物が見つかってて…と
それでしか証明する方法はない
何々という書の距離を計算したら1里が短里になったから
短里は存在したじゃ証明にはならんからな
0823日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:11:34.37
>>820

> なんで、魏志倭人伝に短里が使われていた証拠は
> 魏志倭人伝がそう書かれているからというのは

そんなことは言っていないよ。
「現実の地理」とつき合わせた推論だから循環もしていない
0824日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:12:00.61
>>471
「計其道里、當在會稽東治之東」と、行程に記された「里」の実態距離が、
どうしょもなく「ほぼ一致」することが証明されてるんだからな。

「南≠東」がである事も、確定的なんだよ。
0825日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:17:49.04
>>823
魏志倭人伝に短里が使われていた証拠は
現代の地理に突き合わせて
魏志倭人伝の1里は75mの短里になったから短里で書かれている
全然違わないじゃないか

短里があると証明したいなら
短里で距離が書かれているという以外のもので証明しないと
いつまで経っても堂々めぐり
0826日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:20:50.13
>>482
>【レポート】箸墓古墳に行ってみた1/2 (稜樂會 小山田 宗治) ・・・
>邪馬台国、御所市説 <

御所説であれば、「南≠東」に拠って×であり、小山田もアホ。
0827日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:23:26.89
大体今現在わざわざ長里、短里とか言って区別しなきゃ
ごっちゃになってわけがわからなくなる所から見ても
当時普通の里と短里が一緒に存在したわけがない事が見て取れる
0828日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:23:53.23
日本の奈良時代で1里533m
戦国時代で1里約4km

さて、当時の一歩や一尺はどのくらいの長さだったでしょうか?
0829日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:25:44.72
>>825

「80〜100m程度の単位で記されている可能性が極めて高い」という推論が成り立つのは理解できる?
0832日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:28:11.92
東夷の日本では記録が残る奈良時代以降は
1里=300歩=1800尺は成立していないのですね。
0833日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:29:42.53
>>832
魏志倭人伝が書かれた魏では
1里=300歩=1800尺
1尺が24cm
1里400mだった事ははっきりしてるけどな
0835日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:30:53.27
>>830
1魏里=435mを否定はしませんが
1東夷里=70〜90mも否定はできないのですね。
0836日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:33:28.85
>>827
>当時普通の里と短里が一緒に存在したわけがない事が見て取れる

地域によって違う。
今だって、米ドルとオーストラリアドルは違うだろ。
0837日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:33:53.61
>>493
>九州説に日本語が不自然な奴が多いよな。
やっぱり朝鮮人は畿内説だと困るみたいだね。<

大和説者には、やっぱり、「朝鮮人差別の・・・・戦争キョクウ」が多いようだね。
こいつらは、いずれ、
竹島などでの殺人事件を引き起こして、国民を興奮させ、
天皇の名を使って戦争に強制して、朝鮮人全滅戦争に参戦させ、
自分等は、命令する側になって、栄耀栄華を貪ろう、とする、
キョクウの・・・・ケダモノ人種。

戦前のキョクウや軍閥と同じ。
それじゃ、当然双方全滅の核戦争にもなってしまう。
0838日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:34:07.94
>>830
東夷だから、魏里である必要はないね。
0839日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:34:10.49
>>834
1魏里=400mとそれ以外の物証が見つかってないから
1里=80mは計測ミスったんだろって可能性を原理的に排除できない
0840日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:34:39.50
>>833
東夷は魏ではないからねえ。
0841日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:35:08.51
>>835
違う違う
1魏里=435mは証明できるけど
1東夷里=70〜90mは証明できない
0842日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:35:24.83
>>839
そろそろ自分が駄々をこねているだけだと気がつこうよ。
0843日本@名無史さん2018/02/14(水) 20:35:54.24
>>841
魏志倭人伝などから推定できるね。
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