>>389
>>(出発+途中+到着の順番記載)だから、 「東南」は出発時の方向記録であり、目的地の方向ではない。<

>地図一つ見ずに、勝手な脳内妄想を書いているだけなのが丸分かり 末盧國から東南に向けて出発して短里で五百里で伊都国にいたる経路はないぞ<

唐津港付近や唐津市街から、東南方向出発路は、存在するし、
「陸行五百里」は途中の道なり移動を示しており、経路はある。

>大陸史書の地理旅程記事を確認してもらえば分かるが、 起点と終点を結ぶ直線方向が書いてあるのが基本<

三国志では「出発説明+途中説明+到着説明+付加説明」の書き方が原則。

>大雑把な地図(実際に描いたか想定だけかは確認のしようもないが)を用意して、その上での2点間の方角を記述しているようだ <

倭地までの地図なんて、存在していなかった。

>例えば旧唐書の舊唐書列傳第一百四十七南蠻西南蠻では
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
東に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る  2400里進むときに、出発方向だけ書いてそのあと方向転換してたら、どこに何があるかを示すための情報としては価値0だろ? <

それは、投馬國の説明と同じく途中の移動説明がないから、「四至」方向での位置説明文であり、論拠にならない。

>そして、成都から安南までは東至安南と書いてあるが実際には東南 大陸史書の地理・旅程の記述で、方角が間違っているところは結構ある<

「四至」説明は当然大体の近似であり、東南であれば「東」と近似することはいくらでもあり得る。