>>888
>その畿内を含めてより広域から人を集めている九州

その広域から人を集めてるのにしょぼい墓しか作れないのはどうして?
人が集まるところは
1. 王都などの国の中心
2. 港町などの交通の要衝

北部九州は典型的な2の場所だよ
博多遺跡や西新町遺跡が奴国の港湾遺跡
博多遺跡が比恵・那珂遺跡(奴国)の港で、
西新町遺跡が吉武遺跡群(奴国の一部、旧早良国)の港

西新町遺跡では九州様式の土器(西新式)と畿内様式の土器(庄内式)が両方出るから、
それが両者の土器編年の擦り合わせの基準になっている
そして、比恵・那珂遺跡では畿内様式の土器を作っている

これで、どちらが上位者か分かりそうなものだがな

それから、那珂川流域の弥生銀座を奴国じゃないとか言うおかしな人がいるけど
那珂川の「那」の字は奴国の「な」だから

それともう一つ、弥生時代に博多遺跡や比恵・那珂遺跡という港湾が
発達しているのだから魏使が末廬國に上陸するのはおかしいんだよね
奴国に来るなら博多遺跡まで船で来ればいい

魏志倭人伝の旅程記録(に限らないが)は、卑弥呼の遣使の頃だけの
記録ではないと考える方が妥当
だから魏志倭人伝を金科玉条のように崇めるのはあまり意味がないと思う

おそらく末廬國に上陸して東南陸行五百里は伊都国への経路ではない