邪馬台国畿内説 Part327
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518935533/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】機種依存漢字を避け、言葉で説明 >>337
>いえ、何度も書いた事ですが、松野氏姫氏系図には、宋書の系図と同じ系図や、それ以外の倭国王の名前も書かれています。<
>ああ、ぜひ引用して転載して欲しいですね。<
申し訳ございません。
私には、転載するPCの能力がありません。
前のPCには、誰かが画像にしてくれたものをお気に入りに入れておいて、それを転載していたのですが、
前のPCが突然動かなくなって、お気に入りの転載保存も出来なくなったまま、廃棄せざるを得なくなって、無くなってしまいました。 >>343
>>仮に三角縁が畿内で作られたとしても、それは九州北部からの派生であり、<
>三角縁神獣鏡は大陸では一枚も出ないから
大陸と関係がなかった畿内のオリジナルの仿製鏡に過ぎない
っていうのが基本的な九州説の立ち位置なんだが?<
いや、海東に渡来して来た呉系楽浪鏡師らの一部が、
まず筑紫で豪族たちに三角縁神獣鏡の売り込みをし、
その後、列島各地の豪族たちからの依頼注文で製作した、という意見だ。 >>346
この繰り返しの貼り付け投稿には、
2〜3回反論返事を書いておいてあるものだし、
少し返事が遅れて時間が足りないから、
これも放置ね。 >>351
>そして、九州説頼りの「鉄鏃は百倍」とかいうのも、実は九州でも
甕棺墓の時代が過ぎるとほぼ出ていない 全部、古いんだよ、九州説は
そして、最大級の製鉄遺跡は、畿内周りにあって、九州ではないww<
この男は、また変な事を言ってるね。
弁辰:「國出鐵、韓、wai、倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡」
だから。 >>352
>・・・伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている<
大和は、701年の前まで「朝廷」ではなかったから、
この投稿子も、嘘つき騙しの詐欺師であり、×。 >>368
>景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。
が正しいことが必要となるが、景初二年八月に帯方郡の公孫氏が亡んでいる
景初二年の六月は公孫氏討伐戦の真っ最中で、とても倭からの遣使が通れる状況ではない <
これも×。
「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都」
だから、
帯方郡は、公孫氏ではなく、
既に「(明帝の詔書にまで書かれた)太守劉夏」に変わっていた。 >>368
>日本書紀も神功紀三十九年条で
卅九年、是年也太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、
求詣天子朝獻。太守ケ夏、遣吏將送詣京都也。」としている<
これは、明らかに書紀が改竄の犯人。
明帝は景初二年12月に詔書を出して大晦日〜元日に亡くなったんだから、
「明帝景初三年六月」という事が起こり得ない。
そして、書紀が「景初三年六月」情報の方を知っていたんなら、「明帝」という名前を出せる筈がなく、
「明帝」という名前を出したからには、「景初三年」の方が改竄された事になる。 三輪 能
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな。
縄文人による大和朝廷の名残が、三輪の神であり伊勢の神。 敦賀〜伊吹山〜甲賀〜伊賀
賀は牙。旗印を掲げた拠点。関。
関の向こう側にいた尾張の縄文人と出雲の縄文人が作った政権が大和朝廷。 神鳳寺縁起帳は興味深い。
伊勢の天照大神は男神の蛇神であり、夜な夜な斎宮に通うという伝説が書かれている。
「通う度に鱗を一枚落としていき、この鱗が大櫃に一杯溜まると世が滅ぶ」と噂されていたらしい。 >>368
>また中華書局本北史 卷九十四 列伝第八十二 校勘記でも<
中華書局本自体が、始めから(魏志写本版本を根拠にするのではなく)、
後代史書記載に拠っての勝手な校勘や書き換えをやっている半分×本であり、
全く価値がなく、×本。
>(本文)・・・魏景初三年,公孫文懿誅後,卑彌呼始遣使朝貢.[七九] ・・・
(校勘記)[七九]魏景初三年公孫文懿誅後卑彌呼始遣使朝貢 百衲、北、汲、殿
四本「三」作「五」,南本及梁書作「三」.<
中華書局本の本文も「 魏景初五年」と書かれているトンデモ本。
>按三國志卷三0倭傳云:「景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡帶方郡,求詣天子朝獻.」
又據三國志卷三明帝紀,公孫淵被殺,在景初二年八月.若倭使是淵破後始來,
則三國志倭傳之「二年」當是「三年」之誤.今從南本及梁書.
と、「景初三年」が正しいとしている<
「戦中遣使」であっても、何ら問題もないし事実であるだけである。
南本及梁書の方が「後代の自己解釈に拠る内容の書き換えが多い半分偽書」であり、
それを根拠に書き換えた中華書房本も、×書。 >>369
>そして、この詔勅を出した人物が誰かが大問題。
明帝は景初三年正月に死去。つまり、(景初二年)十二月というと明帝は死の床にあったわけで
詔勅が出せる状況にあったかどうか? この点、景初二年説にやや不利。
景初三年説なら、この詔勅を出したのは次の斉王芳という事になる。<
通典と書紀がはっきり「明帝」という名前を出しているから、卑弥呼の遣使を受けたのは「明帝」であったという事になる。
若しも幼い「斉王芳」が難升米らに面会して詔書を出したのであれば、
「斉王芳」と書けば済む事であり、書紀と通典がわざわざ「明帝」と書く必要が全くない。
という事は、おそらく起居注などに拠って、難升米らに面会したのは「明帝であった」という明確な証拠があったんだろう、
という事になる。 >>378
>甕棺が廃れるのは卑弥呼の共立より100年単位で古いんだぞww<
そりゃ無理だ。
祇園山の殉葬の62個の主体には中にも、甕棺は3つ位あった筈。 >>75
もともと甕棺墓の墓域だったところに、
祇園山を作った、と言う話が出てたけど、
地層的には時代は同じなの?ちがうの? >>381
>>新唐書にも「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」<
>新唐書って隋書から何年後だと思ってるんだ? 隋書の成立が 656年
新唐書の成立が 1060年 400年以上も後だぞ?
古墳時代のことを時代が違うと言って逃げまくるやつが
400年後の書物を引き合いに出すなんて、恥知らずもいいとこww<
>王年代紀にも載っていない情報だから、隋代の記録が唐代にも残っていて、
それを新唐書が書き足したんだろうな。 >>386
>>隋書には隋使が阿蘇山を実見記録した記載になっているから。<
>原文は「有阿蘇山 其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭」
これをどう読んだら「隋使が実見」とか出てくるんだ?
漢文読めないくせに、どうしてそういう見た瞬間に嘘だとばれる嘘を吐くかね?<
「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以爲異、因行祷祭。
有如意寶珠、其色青、大如奚隹卵、夜則有光、云魚眼精也」
のように、
「有〜」情報と「云〜」情報を書き分けているから、
「有〜」は隋使らの見聞記録で、「云〜」が俀國人からの伝聞情報として、
区別されている事になるから。 なんかおかしいと思ったら偽スレ他に立ててるのか
九州異常者は毎度どうしようもねぇな >>391
>新唐書にも「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」と書かれたよ
って書いてあるねぇ<
>自分で書いてるじゃないかww<
始めから「多利思北孤≠目多利思比孤」だよ。 >>395
>平原1号墓の方格規矩鏡32面はすべて仿世鏡!
大型内向花文鏡も仿世鏡!<
根拠は?。 >>404
>伊都国と奴国の国境はどこにあるんだ?<
伊都国から「東南百里」付近の所。 >>417
>>北史とか梁書とか後世の史書では信頼性がない。<
>ちょ おまww
>>362で400年も後の新唐書を引き合いに出してたやつの言う台詞かww
自分が同じ日に主張したことと整合性が取れないってどんだけ?ww <
梁書や北史などは「後代筆者の解釈や考えに拠る内容説明の書き換え」の多い半分×書。
新唐書は、原則として書き換えをしていないから、半分×書ではない。 >>80
>なんかおかしいと思ったら偽スレ他に立ててるのか
>九州異常者は毎度どうしようもねぇな
向こうの方がコメも動いてるし、どうしたものかね? >>420
>九州王朝の征東将軍、歴史上には影も形も見えないねえ? <
「東征毛人五十五國」。 >>65
>2〜3回反論返事を書いておいてあるものだし、
>少し返事が遅れて時間が足りないから、
ザラコクの「南≠東」よりましだろww
まともに答えられていないのが、九州説側なんだが?
「魏志倭人伝で、九州に上陸してすぐ
末廬國から伊都国を、本当は「北東」なのに、「東南」陸行って間違ってるね
魏志倭人伝では狗奴国は「南」なのに、後漢書では「東」度海千餘里至拘奴國になってるね
どちらかは間違いだね
隋書では、対馬から壱岐が「東」に間違ってるね
旧唐書でも
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,
東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
とあって、内容を確認すると
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る
となっているけれど
実際には成都から安南は「東南」
大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ
どうしてだろうね?
探せばまだまだいくらでもあると思うよ
大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね 」 >>88の続き
>>65
これの出だしの
「末廬國から伊都国を、本当は「北東」なのに、「東南」陸行って間違ってるね 」
に対して、
「唐津港付近や唐津市街から、東南方向出発路は、存在するし、
「陸行五百里」は途中の道なり移動を示しており、経路はある。 」
で答えたつもりになって「逃げてる」
「その出発方向を含む経路を示せ」って何度も言われてるのに
「ある」としか言ってないだろ
ごまかすな
「通過点を現在の地名等で、5点程度示してみろ」よ
あり得ない経路を出してくるんだろうなと楽しみにしてる
さあ、レッツ恥さらしプリーズ!! >>89
この問題は、古田本人の説明も相当メチャクチャだね >>86
>「東征毛人五十五國」。
はい、また背乗り!
それ、大和朝廷の雄略天皇の上表文!
「自昔祖禰躬甲冑擐跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國」
しかも、この東征の主語は「祖禰」で雄略天皇の祖先
「祖禰(そでい)躬ら甲冑を擐き」っていうんだから
四道将軍やヤマトタケルとかだな
九州王朝の出る幕なし、っていうか、九州王朝なんてないから >>421
>前にも書いたけど、「尚方作」の銘文鏡は、前漢鏡からあるから、
銘文を真似て作った仿世鏡は、いつの時代か分からんって言ってるだろうが?
前漢鏡が倭国に入ったあとならいつでもOKなんだよ <
1枚だけならまだしも、21枚もあっちゃ、明帝の鏡を「元」にした事にしかならんし、
「尚方作」とは書かれていない方格規矩鏡の幾つもあっちゃ、
明帝の下賜鏡が元になった、としかならないではないか。
>そして方格規矩鏡が大陸で作られたのは1世紀頃まで<
これ×ね。洛陽晋墓から方格規矩鏡が出土している。
>卑弥呼の頃に作る仿世鏡が200年も古い鏡種を選ぶ理由がない <
洛陽晋墓の方格規矩鏡と比べてみてから、書けば?。 >>93
比べたよ
洛陽晋墓の方格規矩鏡の普通のよくある方格規矩鏡
平原1号のは異常な方格規矩鏡 >>84
>新唐書は、原則として書き換えをしていないから、半分×書ではない。
新唐書は、大和朝廷の歴史をそのまま認める「大和一元史観」だね!
彦瀲子神武立 更以天皇爲號徙治大和州
次曰綏靖 次安寧 次懿コ 次孝昭 次天安 次孝靈 次孝元 次開化 次崇神
これが正しいんだろ!
九州説によると、神武天皇が卑弥呼の頃らしいし、そのときから大和州で国を治めてるよ
めでたしめでたし
彦瀲子神武立 更以天皇爲號徙治大和州
次曰綏靖 次安寧 次懿コ 次孝昭 次天安 次孝靈 次孝元 次開化 次崇神 >>423
>祇園山古墳は、ここまでで九州説が主張する邪馬台国の位置から外れていて<
邪馬壹國の筑紫内であるし、卑弥呼の出身の「火の国山門」に近いから、外れていない。
>地山成形の古墳だから時代も合わない <
62個の殉葬墓や高冢のために必要であった。 >>77では
>>>新唐書にも「次用明、亦曰目多利思比孤、
>王年代紀にも載っていない情報だから、隋代の記録が唐代にも残っていて、
>それを新唐書が書き足したんだろうな。
と書いているのに
>>88では
>始めから「多利思北孤≠目多利思比孤」だよ。
とか言う
これもともとは「隋書の多利思北孤を「タリシヒコ」と読むのはおかしい」とかいう
九州説の妄言がもとなんだがね
「多利思「北」孤だから、畿内天皇のタリシ「ヒ」コじゃない、だから九州王朝」って
言ってたのに
それで自分で引用した新唐書に「多利思比孤」って書いてあるじゃないかと言われて
>>77で「隋代の記録が唐代にも残っていて新唐書が書き足した」と書いているのに
>>88では「多利思北孤≠目多利思比孤」と否定
言い分がくるっくる回ること回ることww
本当に、恥知らずはすげぇや >>424
>女王国、大和朝廷は勝者の縄文人による政権。<
縄文人は毛人と呼ばれて「東征毛人五十五國」をされた方。 >>62
>私には、転載するPCの能力がありません。
とりあえず、ネット上で画像は見れるよ
https://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/96a8cbd6169180a157075d145f086b7f/1/615
「いや、後世に偽造されたものなら、
自家が、「天皇家に敵対した熊襲」や、
「大和天皇家一元列島支配宗教で書かれた記紀の思想を否定するような倭の五王」の名前を書く筈が無い。
そんな事を書いた事がばれたら、一族全部罰せられる可能性も高い。
つまり、真書であった可能性が非常に高い。
つまり、ごまかしは、やっぱりウソつき騙しのサギシ。」
でもさ、この偽書、国っていう字使ってるよ?
國じゃなくてww
新字体を使っているってことは、昭和のしかも終戦後だよな
天皇の神格化も終わって、というかむしろ非難されるようになった
戦後民主主義の時代なんだから
「一族全部罰せられる」可能性は皆無だし、
それが「真書である可能性を高める理由」はこれっぱかしもないよな
ザラコクは何処でもザラコクなんだなぁww >>66
これにきちんと答えようね!
「そして、九州説頼りの「鉄鏃は百倍」とかいうのも、実は九州でも
甕棺墓の時代が過ぎるとほぼ出ていない 全部、古いんだよ、九州説は 」
これを否定したかったら「根拠」として
「甕棺墓が廃れたあとの九州での鉄鏃の出土例」をあげてくれ
できるものならなww >>427
>焼溝漢墓編年<
方格規矩鏡は、洛陽晋墓からも出ているから、
それを含まない編年は、不完全。 >>101
洛陽晋墓は中古鏡ばっかりで編年に使えない
常識 >>433
>>魏晋時代に作られた漢式鏡でしょ
様式は漢式鏡と同じだけど、魏晋時代に作られた鏡は作りが雑
そして平原の方格規矩鏡は簡略化がみられ魏晋鏡と類似のものと判断される。<
>現物を鑑定してる柳田がそう判断してるね <
成程。 >>78
>祇園山の周辺の甕棺は同時代らしい
できたら「根拠」を貼ってくれ
甕棺墓の「甕棺」はその口のところの形式とかで
「甕棺編年」がきっちり作られてるから
祇園山付近だけ、飛びぬけて遅い4世紀になってから甕棺墓に葬られたってのは無理だろ
他の例としては、筑紫野市の原口古墳が、古い墓域、甕棺墓域の上に作られていた
最初の発掘のときに、深く掘りすぎて墳丘の下の甕棺墓をを掘り出してしまって
古墳から甕棺が出たって、一瞬話題になったんだよ
祇園山古墳の周りに甕棺墓があるから、これが卑弥呼の殉葬100人にあたるとか
いうネット上の情報が結構あって、九州説が入れ込んでいるのが分かる
甕棺墓の時代と古墳時代がどれだけ離れてると思ってるんだ?ww
祇園山古墳の周りの甕棺墓も、原口古墳の下敷きにされた甕棺墓の
同類だろう
祇園山古墳の主の権力が小さくて、墳丘が原口古墳と比べても小さいから
盛り土で埋もれない甕棺墓が多かっただけだ >>79
>有如意寶珠、其色青、大如奚隹卵、夜則有光、云魚眼精也」 のように、
>「有〜」情報と「云〜」情報を書き分けているから、
>「有〜」は隋使らの見聞記録で、「云〜」が俀國人からの伝聞情報として、
>区別されている事になるから。
そのご説だと、
「如意寶珠、其色青、大如奚隹卵、夜則有光」まで隋使が見聞してるのに
「魚眼精」は俀國人からの伝聞情報なんだww
漢文読めないのに無理をするなよ
>「有〜」情報と「云〜」情報を書き分けて
こんな意味、ないからww
「有如意寶珠、其色青、大如奚隹卵、夜則有光、云魚眼精也」
「如意寶珠あり、その色は青、大きさは鶏卵の如し、夜には則ち光あり
(この寶珠を)魚眼精というなり」
全体が伝聞情報だよ >>451
>例えば旧唐書の舊唐書列傳第一百四十七南蠻西南蠻では
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
東に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る<
それ、「奴国」や「投馬國」の説明と同じく、
(実際の行程ではなく)、対象の地の「四至」表現説明。 >>452
>>大彦って、東征将軍そのものだろ。<
>ああ、そうだな
「大和の巻向に都を置いた」「御真木入日子印恵命」が派遣した将軍だな
その「御真木入日子印恵命」の伯父の皇族将軍で、九州とはなんの関係もない将軍<
ダメだな。
大和は、倭國から別れた別種の旧小国であり、
「東征毛人五十五國」したのは筑紫倭国であるから、
大和の崇神が大彦を派遣したように書いた書紀は、ウソを書いた。 >>453
>>後漢書は「勝手で高慢な内容説明的な書き換え」をする半分×書であり、
真偽判断が出来ないので、根拠にならない。<
>じゃあ、其山有丹が後漢書で其山有丹土になってるからベンガラが正しいとか
後漢書で大倭王は邪馬台国にいる。 楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
と今後一切言うなよwwかを<
嫌だ。
半分×書という事は、「〇」の部分もある訳で、
史料批判に拠って「勝手で高慢な内容説明的な書き換え」ではない、
という事になった記載は、根拠にする。 >>454
>「經都斯麻國」迥在大海中とはっきり書いてあるんだから、
「対馬に立ち寄らず」とは読めない <
常識的には、迥在大海中の説明対象は、その前の「都斯麻國」だよ。 >>112
>常識的には、迥在大海中の説明対象は、その前の「都斯麻國」だよ
おいおい、漢文が読めないなんてもんじゃないぞ
「『經』都斯麻國」=「対馬を『経て(経由して)』」って書いてあるんだから
対馬のところまで来てるだろうが
迥在大海中が対馬の説明なのは問題ないだろ
対馬が「はるか(迥)大海中にあり」なのはそのままで読めるだろ >>109
>大和の崇神が大彦を派遣したように書いた書紀は、ウソを書いた。
>>110
>嫌だ。
もう、どうにかしてくれww
幼稚園児か?ww >>107
>対象の地の「四至」表現説明。
何が言いたいんだ?
自分で引用しているところにも
「東北至成都二千四百里」って8方位で書いてあるじゃないか?
そして、「東」至安南如至成都の方角が実際には「東南」で
「大陸史書で『方角が間違っている』、あからさまにはっきりした例」なんだが?
「方角を間違うはずがない」っていう言い分は、軽く破綻してるなww >>468
>三角縁神獣鏡は、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡である可能性は高い<
洛陽から0〜1枚しか出土せず、列島から500枚以上も出土しているんだから、
「魏と西晋から獲得した銅鏡である可能性」は、全くない。 >>469
>何年位置論争しているんだ? 邪馬台国<
「邪馬台国」なんて史料事実に存在しないから、×。
>大和説前提で、掘り下げていったらいいんじゃないかな。
名無しの歴史を語って、面白いか?<
「南≠東」に拠って、「大和説前提」も×。 >>116
>「魏と西晋から獲得した銅鏡である可能性」は、全くない。
ブブー 大間違いです
魏と西晋から獲得した銅鏡があり、それをもとに大量にコピーを作ったので、
オリジナルの「魏と西晋から獲得した銅鏡」がなかなか見つからないんだよ
オリジナルは大王墓とかに入ってるんだろう
天皇陵に指定されてるところは発掘できないからね >>117
正体がわかったよ
アンチ畿内説でもないだろ
テメーはアンチ邪馬台国論だろ
邪馬台国は存在しないが本音だろ
ばーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーか ザラコクを支援する
筋が通っている
畿内説のようにブレない >>112
>常識的には、迥在大海中の説明対象は、その前の「都斯麻國」だよ。
「対馬に立ち寄らず」とは読めない S字甕の分布も知らんアホーーーーーーーーーーー
九州のアホーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー >>100
と言うか九州説って「全部それ」だよな
「弥生時代を通じて大量!」とか
バカ丸出しだよな
絹も肝心の弥生時代終末期にはほとんどなくなってる
鏡も古墳出土鏡除いたら小型?製鏡しかない
で、初期古墳からは三角縁ばかり
漢鏡が出てくる古墳は4世紀〜5世紀ばかり
平原の鏡まで漢鏡に入れてる始末だし
あいつら「こんなに沢山出てます」みたいなアホな棒グラフしか見たことないんだろうな >>120
完全に同意!
>>99に貼ってある「松野氏姫氏系図 」のコメントzarakokuなんだよねww >>112
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 <
断定するには根拠より立証だと思います。
纒向はまだまだ断定できないのが現状です。 投馬国は、山口県玉祖(玉の親・防府市)、広島県鞆(とも)の津(福山市)、
島根県出雲、兵庫県但馬・敦賀な 自慢げに出してくるものがことごとく弥生の中期か、後期初頭
卑弥呼の300〜200年は前の物ばかり
それ以外と来たら今度は5世紀の古墳とかな
まさに嘘つきダマシの詐欺師とそんなもんに引っかかってるアホの集団 >>112
話を戻すけれど、隋書に「經都斯麻國迥在大海中 又東至一支國」と書いてあって
対馬ー壱岐間が、現実は南なのに「東と間違っている」ってことだぞ
ザラコクの大好きな「方位を間違うはずがない」から「南≠東」が破綻してるってことだ
これに対して、対馬には寄ってないとかバカなことを言ってたのに対する反論が
前スレ454の
「「經都斯麻國」迥在大海中とはっきり書いてあるんだから、
「対馬に立ち寄らず」とは読めない 」だ
>>112が見当違いのバカ丸出しなのは>>113、>>123で書かれている
大陸の史書は普通に方角を間違う ← 実例の「根拠」付で論証済み、だから
「南≠東」はザラコクのザレゴトww >>130
>今度は5世紀の古墳とかな
古墳時代の始まりは3世紀半ばのちょうど卑弥呼の死の時代にぴったり 鉄鏃が見つかったぞ!すげーだろ!
とか言い出したから見てみたらまた弥生中期
こいつらマジで頭悪いんだなと
つかあのバカたちの理屈だと鉄があるから凄い強いらしいが
なんでその最盛期に九州と四国の一部から全く出ることもできないだろうな
明確に別文化圏を形成する勢力に阻まれてる雑魚
程度の低い嘘広めてアホなこと喚いてる低能の集団だな
邪馬台国の会とか言うパーの集団 発掘バイアスってのを考えてないからな、九州説は
甕棺墓というのは、タイムカプセルとして優秀だったんだよ
九州の鉄族も絹も、甕棺墓から出てる
で、甕棺墓が廃れると出なくなる
畿内では古墳で、副葬品の埋納の仕方が変わって、副葬品が土に
触れないようになると同時に、鉄が大量に出るようになる
「実際にあったかどうか」と「発掘される形で残るかどうか」を
区別する知力がないから、寝ぼけたことを言い続けることになる 「世界基準の簡単な日本史だよ!」
1492年のアメリカ大陸の発見の結果、
スペインがアメリカ大陸の多くを植民地化し、
多大な富を奪いヨーロッパで強国となりました。
スペインだけが強くなるのは困るので
他のヨーロッパ諸国も植民地の拡大に乗り出しました。
当時ヨーロッパはオスマントルコには勝てなかったので、
中東は避け、アフリカ大陸を南下しながら、
アフリカ、インドに植民地を作っていきました。
スペインも負けずと1521年フィリピンを植民地化します。
列強の植民地化の動きは、この時点でジャップのすぐ近くまで来ていたのです。
戦国時代にイエズス会が沢山ジャップに乗り込んできた理由は明白でしょう。
そしてとうとう幕末には、その手がジャップまで伸び、
ジャップも植民地化されました。
ジャップではこれを「明治維新」と呼んでいます wwwWWW 馬鹿だね〜 w
しかし宗主国は、ジャップには「明治維新で独立を保った」と
嘘を教え、馬鹿なジャップ民はこれを信じ、
今だに植民地化されたことに気づいていません w
植民地化され急激にジャップも近代化しましたが、
いままでアジアの3流国家に過ぎなかったジャップが
急に他のアジアの国よりも近代化した現実を
ジャップはどう理解したらいいのか分かりませんでした。?(^o^)?
倭猿にも多少は思考力があったようです w
そこでジャップの飼い主様はジャップに教えてあげました。
「ジャップはすごいからだよ!自分たちのすごさにジャップも気づいていないんだよ!」
土人ジャップはもちろん、このお世辞を喜んで信じました www
それ以降ジャップのオナニーは止まることを知りません。馬鹿ですね。 さて植民地化されたにもかかわらず。
猿ジャップは、人間以下のケダモノの分際で、
覇権国家になろうと、世界にケンカをうり、コテンパンに負けました。
しかしアジア各地で狂気に満ちた悪行の限りを尽くし、
にもかかわらず、謝罪どころか事実の認定さえしないので、
今だに周辺国からは悪魔のように憎悪されています。
さらにアメリカに噛み付いたために、
米軍に国土特に首都圏を占拠され、
独立国家としての資格を最終的にほぼ全て失ってしまいました。
ここでジャップの歴史はおしまいw
その後、売国奴の王・岸信介(ハーフかクオーター)が、
微かに残っていたジャップの主権を完全にアメリカに売り渡しました(安保改定)。
今はその孫らしい下痢晋三が、なんと長期政権を担っており、
最終的にジャップをどこまで地獄に落としてくれるのか、楽しみですね! wwwWWWW 2000年の皇統譜っていうのは、よその国にないからね >>133
中広形銅矛が淡路島に到達してるよ。
そして北部九州経由で淡路島に鉄原料を運んで
淡路島で鉄器生産して
同時代の鉄器はほぼ北部九州で消費。
王墓も北部九州。 発掘バイアスってのを考えてないからな、畿内説は
3世紀平原を頂点として
1、2世紀の男王もいるのだから、
倭人伝に記された倭国邪馬台国そのまんま。
そこから東征して(東遷じゃないよん)
国力を一時的に東方開発に費やして
4世紀からは東方からの貢物で大発展して
金銀財宝うっはうは 六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
簡単に言えば、「俺様偉い病」である。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者のみが発症する、心の病。
畿内説側の書き込み全てが>>1◆UiepmfCeDJqによる物であると信じ込む、一種の脅迫観念である。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない九州説論者が、
畿内説に多くの賛同者などいるわけがないのだ、と自分自身を騙そうとすることで発症する。
>>1◆UiepmfCeDJqが自演により多数派を装っているのだ、と言う発想は、
実は、自身が自演を頻繁に行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。 ザラコク
邪馬台国関連スレに出没する非常識異常行動者のひとり
呼称は、Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」から
古田武彦と彼が提唱した九州王朝説を盲目的に信仰しており、その信心の深さは、
世間的には偽書として決着している『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張するほど
自らを「素人おじん」と称することもあり、一見、自身を客観視できているかのようであるが、
その書き込み内容は、自分の信奉する説以外はすべて間違いだと決めつけてかかる、六拾弐病患者特有のもの
素人が専門家をこき下ろすという行為に疑問を感じなくなっているほど思考が硬直化している
「全レスバカ」と呼ばれることがあるほど片っ端からレスを付けまくるが、
ほとんどが他人の会話への横レスかつ超遅レスであり、周囲と会話が成立することはまずない
レスを付けることが目的化している節があり、その内容は、
他人の発言を長々と全文引用したあげく、賛成!とか間違いだ!とか数文字書き足すという程度のもの、
自分の都合のいいように語句を入れ替えただけのオウム返しのものなど、無意味なものばかりである
投稿数だけは圧倒的で、コピペ連投並みにスレを荒らす結果となっているが、本人に自覚はない
社用のPCで勤務時間中に5ちゃん投稿に血道を上げる問題経営者である
自分に不都合な情報を自分に都合が良いように勝手に脳内変換していることが多いが、
ソースを提示されても、自身の記憶や理解の方が正しいと主張する、傲慢な思考の持ち主
常駐していたYahoo掲示板を倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近5ちゃんに居付いてしまった
「生きる独善」との形容がぴったりな75歳 キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるように。
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも。
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。
「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しの多用、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」頻発、名前欄への書き込み多用などの特徴ですぐに判別できる。
「本日のMVP」として自身を認定するなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、
実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ。
「畿内説への助け船」は全く助け船になっていないばかりか、意味不明な泥船であることが多い。
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ。
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り。
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs ◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E ◆P5DBe7oqOQ ◆prq8Tl5byw ◆CSZ6G0yP9Q ◆QkRJTXcpFI ◆Az7kmcQbsA
キウスの書き込みを褒めたり、礼を言ったり、「ワロタ」と応じたりする書き込みは、すべて自演である。
「キウス扱いされた」などと、自演がバレたときに他人を装う書き込みをすることもある。
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求することもあるが、自分はすぐに名無しに戻る卑怯者。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。 岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張し、ありもしない大規模調査をでっち上げ、
学界の多数派である邪馬台国畿内説を破綻したと主張する、ゴッドハンドも真っ青の捏造常習犯である
自分は正しく、これまでの研究者がみんな間違っていた、などと平気で主張する、典型的「六拾弐病」患者
コテ+トリと、コテの九州王、伊都国女王、卑弥呼、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくる
糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチともよばれる
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読み、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読し、
平原遺跡出土鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張し、
魏志倭人伝中の「下戸」を「酒が飲めない人」と訳すなど、
お笑いエピソードには事欠かない
偽スレや妄想スレを立て続ける異常性に気がついていないのは本人だけ
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である >>141
いや全くその通り。
都が糸島平野から筑紫平野に移動しただけで、伊都国は衰退したとか叫ぶ畿内説はちゃんちゃらおかしいわ。
沖ノ島の祭祀を見ればわ明るように、九州北部の繁栄は卑弥呼の後も数百年続くのだから。 >>138
>2000年の皇統譜っていうのは、よその国にないからね
畿内説の本音が出たよ。 >>148
>九州北部の繁栄は卑弥呼の後も数百年続く
畿内中心の前方後円墳体制に組み込まれて、目立った古墳も岩戸山古墳まで作れず、
同じ九州でも西都原古墳群を作った九州南東部にも劣る、北部九州の繁栄って何? >>144-146
ありがとう
国民投票とか言ってるのが岡上なんだね
ここは新参者だから解説してもらって助かるよ >>151
国民投票はザラコクだろ。
ザラコクを含めてアンチ畿内説を全員まとめて岡上と呼んでしまう単細胞がいるだけだよ。
本当の岡上は畿内説。 伊都国が邪馬台国っていってるのはザラコクでいいの? >>149
畿内説を右翼皇国主義者だとデッ上げたい中傷常習犯の
一人芝居だな >>156
ありがとう
まあ、正直、九州説はみんな同じようなものだと思ってるけどさ 国民投票とか、笑える
九州説が少数派になったからアセッ照るんだろうが
そもそも学問は多数決じゃないんだよ >>158
頭の程度は似たようなものだがなあ。
説は千差万別一人一説だわい。 >>159
九州説は声だけ大きくて内容がないから、アンケートとか投票とかは大好きだね
そんな投票とかする暇人に九州説老人が多いというだけだろう
こういうのを専門用語で逆選択というらしい 鏡は古墳、畿内土器、三角縁と共伴、もしくは三角縁だけ
絹もこの時期に消滅に近い勢いで激減し、しかも質が悪い
丹に至っては存在も知られてない
宮殿もない
経100歩の墓どころか大型墳墓の文化がそもそもない
骨占も壱岐の一部だけで畿内が歴史規模ともに圧倒
入れ墨も吉備を中心とした文化
揚句、北部九州はびっしりと畿内土器に塗りつぶされて墓も宝物も畿内式になってる
九州何にもねーどころかこれ以上ないくらい畿内の支配下じゃねぇか
アホか
何が九州説だか笑わせんな >>162
九州弥生の絹
弥生中期まで 11遺跡
弥生後期から 3遺跡
って統計みてて
「九州スゲー、邪馬台国間違いなし」て言ってる人の
頭の構造が見てみたい
もちろん解剖して 解剖してもスッカラカンなだけだろう
時間と労力のムダだわ >>154
違う。
ザラコクはもう少し南の方が邪馬台国。 >>148
3世紀にもなって鉄器ゼロも陳寿びっくりだが
4世紀にもなって銅鏡で勝負ってのもびっくりだよな
どう見ても形骸化した葬式道具だろ
現代で言えば簡易仏壇の横に置いてある作りものの造花みたいなやつ 奈良県の弥生遺跡数は
糸島市の弥生遺跡数の二倍もあるのだ。 >>579
>祇園山古墳は地山成型により、墳丘を作っているので、初期古墳ではない <
倭地では画期的な「高冢」と「殉葬奴婢100人墓」を造ろうとしているのだから、
地山成型あって当たり前。
>また、古墳の階層秩序では、方墳が王墓に採用されることはまずない<
当然、始皇帝墓を知った事になるし、楽浪太守墓も知っている可能性がある、
>一般的な編年でも、古墳時代前期(4世紀初頭頃)であって初期ではない<
高塚だから那珂八幡の前だし、筑紫の庄内や三角縁や甕棺があるのだから、
「4世紀初頭」とした学者の脳がおかしい。 >>579の続き
>こんなのを、大倭王の王墓の候補にしないといけないの?<
「大倭王」ではない。「親魏倭王」。
>平原1号墓は、舶載鏡や墓の様式(方形周溝墓で割竹型木棺)を見ると新しくできない<
形態や棺は、所属部族の伝統が残り易いものであり、
故人の身分などは副葬品に残り易いもの。
>一方で、ガラス製耳璫の金層ガラスは弥生時代の出土例が他には何処にもないので、
むしろ新しくした方が座りがよい<
前方後円墳の古墳時代直前の女王墓としては、適切。
>現在の標準的な考え方では、周溝を共有する2号墓の周溝(1号墓と共有して
いない部分)から出た土器片により、西新町土器の直前頃(2世紀末)という編年に
なっている<
ガラス製耳璫の金層ガラスや大量の豪華な鏡などの副葬があるのだから
一般的な土器など、故人の副葬品には全く必要がなく、
まして、「不在土器」などが、年代根拠には全くならない。 >>581
>平然と「見つかってないだけ」とか言った口で、
纏向には鉄がないないと騒ぐダブスタ老人だから<
鉄は、土器よりも、部族の威信や個人の価値を示す物になり得る。 >どう見ても形骸化した葬式道具だろ
>現代で言えば簡易仏壇の横に置いてある作りものの造花みたいなやつ
三種の神器の鏡は銅鏡と推定されているんだが?
本質的には日本ディスなんだよな、九州説は >>588
>>九州において筑紫倭国が継続していれば <
>>>533によれば「九州北部の王朝は激しく入れ替わるんだよ。 」だそうだから、
筑紫倭国は継続してないねww 仮定の話をしても、意味ないでしょww <
壹與の後は、倭国の「姫氏阿毎氏の合同王朝」の支配体制はかなり安定し、
壹與の後は、しばらく伊都と弥生銀座時代が続き、
317年に姫氏の久留米付近に遷宮して、姫氏の倭王旨や倭の五王を輩出し、
しかし、阿毎氏系と思われる磐井がまた権力を握り、
それを大和の阿毎氏系のヲホドが倒す異変があったが、
また阿毎氏が権力を握って、大和の阿毎氏との合同王朝の形でタリシホコ時代になって、
大和が「日本国」を称して独立しようとし、唐の武徳中になって独立が認められて、
白村江では、倭国が戦って負けて、倭国は大和日本国に併合吸収継承された。 >>597
>定型化した前方後円墳発祥の地が、纏向遺跡ではないとするなら、
現在の定説を真っ向から否定できるだけの「根拠」をしめしてね!!<
久住編年。 >>>602
>その前に「方墳が王墓である可能性はほぼない」に対する反論はないのか?
全国的に見て、何処にでもあるクラスのしょぼい方墳を大倭王の墓にしようと
する時点で恥ずかしくないのか?<
難升米らは、当然、始皇帝の「冢」墓を知った、と思われるし、楽浪太守の墓も見た可能性がある。 >>617
>>そこで卑弥呼の出自が重要になるわけだよ。
そもそも卑弥呼は筑後川流域の出身ではないかと。<
>卑弥呼の出自に関しては、文献情報は一切ないね?
魏志倭人伝にも書いてないし、国内の文献にはそもそも明示的に
卑弥呼が書かれている文献はない <
いや、
魏志でさえ、「大夫」を使う国であり、会稽付近との関係を匂わせており、
魏略やその後の中国史書群なども「聞其舊語、自謂太伯之後」と書いており、
通鑑前編ははっきり「呉王夫差の遺民」であった事も記し、
新撰姓氏録にも松野氏が呉王夫差の出である事を記し、
日本書紀私記も「倭国は東海姫氏國であった」事を記し、
松野氏姫氏系図には、呉王夫差の後裔であって、
金印の倭奴国王や、帥升や、卑弥呼や壹與や、熊襲王らや、
玉垂命や倭の五王らの記載もある。 新撰の中国系は百済高句麗が滅んだときに亡命帰化した中国系百済人高句麗人の
先祖を持っているというだけで、直接中国から定着した訳じゃないよ。
日本には縄文弥生を通して、中国系が渡来定着した痕跡遺構など一つもない。 >>175
そんな久住編年はないぞ
デマを飛ばすな 定期化した前方後円墳が九州発祥だとか言ってる考古学者は、いない >>619
>紀元前から少なくとも4世紀までは
九州北部においては方形周溝墓または方墳が定型化されていたということだよ。<
>されてない
方形周溝墓は、単に複数埋葬の家族墓の墓域を溝で区画しただけのものが起源だぞ
王墓は、ただ一人のために労力を注ぎ込んで作られる厚葬墓として抽出される
方形周溝墓段階の王墓っていう時点で眉唾モノ<
弥生期においては、100余りの部族国家があったんだから、
各部族は、それぞれの埋葬や棺の形態を持っており、
王には副葬品で差を付ける、という事が多かったんだろう、という事。
それがその頃の「厚葬墓」。
>広瀬和雄の前方後円墳国家とか読んで勉強してくれ<
この広瀬という男も、この投稿男と同じように、
「王墓」とは「前方後円墳」でなければならない、
という「結論先にありき」の 、
「南→東」などの嘘つき騙しの脳の異常な大和説人種であったんだろう。 >>629
どうして、普通の読みと違う読みをしなきゃいけないのか、
大和説でまともに説明できているのを見たことがない。
「邪馬台国」なんて存在しないし、
「邪馬台国=大和」というのは、
北部九州には、伊都国と奴国という大国(相対的にだが)だけがあったとして、
「南→東」などの嘘つき騙しによって編み出された屁理屈に過ぎない。 >>175
久住の論文なんか読んだことない人が、空想で適当なこと書いてるね >>183
九州説Hこんなふうに
頭の中で思いついた結論を呟くだけで
決して理由を言わない
なんで? >>183
いや、それ・・・
普通の人の読み方だから・・・ >>636
>畿内の土器と墓制に埋め尽くされて自我を失う九州なんかに邪馬台国とか頭どうかしてるな <
筑紫の模倣の土器と墓制に埋め尽くされて、自我を失う大和なんかに「邪馬壹國女王之所都」とか、
頭どうかしてるな。 >>187
九州説にはもう、デマ流しという道しか残されていないのだろうか >>185
九州説って
とにかく「結論ありき」だからね >>637
>原口古墳は、古い墓域、甕棺墓域の上に作られていた
祇園山古墳の周りに甕棺墓があるから、これが卑弥呼の殉葬100人にあたるとか
いうネット上の情報が結構あって、九州説が入れ込んでいるのが分かる<
アホだね。
祇園山の墳裾の甕棺は、62個の殉葬墓の中の3個位だ。
祇園山の墳頂の主体は箱式石棺だよ。
>甕棺墓の時代と古墳時代がどれだけ離れてると思ってるんだ?ww<
報告書を書いた通説学者が、その祇園山を(50年位遅らせて)4世紀初頭としたんだよ。
文句があるんなら、報告者にねじ込んでくれ。
>祇園山古墳の周りの甕棺墓も、原口古墳の下敷きにされた甕棺墓の
同類だろう 祇園山古墳の主の権力が小さくて、墳丘が原口古墳と比べても小さいから
盛り土で埋もれない甕棺墓が多かっただけだ <
祇園山の主体は墳頂の箱式石棺であり、甕棺は墳裾の62個の殉葬墓の中の3個だけだ。 >>190
>報告書を書いた通説学者が、その祇園山を(50年位遅らせて)4世紀初頭としたんだよ。
>文句があるんなら、報告者にねじ込んでくれ。
おいおい
報告者に文句があるのって、アンタじゃねーか >>645
バカは、毎度古墳を過大評価すれば誤魔化せる、と思ってるのが笑えるな。
明確な「強い支配を周辺住民に示そう」という意図で構築したのが巨大前方後円墳など。
筑紫倭国の別種の旧小国の大和などでは、それまでの部族墓の方式を消されて、
倭國の東征の結果、新たに支配下になった人々を威圧するために、建設された。
大和説者は、その現実を受け止められないから、
トンチンカンなこと喚いて誤魔化すんだろう。 >>646
別に、「南→東」などの嘘つき騙しをして、
大和に全部押し込めるような無茶をしなければ、何も問題ないだろ?。
つまり、この時点で大和説は破綻してるんだよ。
大和説を信仰している人がそれを認められないだけで<
>それから、三雲遺跡群が伊都国じゃなくて奴国だとか言ってる人と
最低限意見統一してもらえるかな? 九州説同士で討論していいからさ <
いや、三雲は奴国の入り口付近であり、伊都国との境界付近だから、
別に大した問題ではない。
それに引き換え大和説は、「南→東」などのような明確な嘘つき騙しをしており、
そのような嘘つき騙しを、
学会教育界やマスコミや政府までもが・・・・のように宣伝して、
国民を騙そうとしている事が、黙過し難い。 >>193
じゃあ九州にも巨大古墳があるのは
なぜ? >>194
弥生時代のいわゆる王墓があった三雲は
伊都国のの中心も中心ですが? >>173
>三種の神器の鏡は銅鏡と推定されているんだが?
>本質的には日本ディスなんだよな、九州説は
はあ?
三種の神器をディスったのは畿内説だろ? >>650
>九州説が見つかる見つかる喚くものが全部古墳出土品なのが笑いどころだな <
いや、水田跡もあるし建物跡もあるし、
弥生銀座では、「何本もの大道」もあるし、
ハイテク工業のいろんな遺跡もある。 >>182
>方形周溝墓は家族墓だよ
>普通そんな格差はない
副葬品や規模に明らかな格差がある。
テキトーなことを書くな。 >>196
墓域は行政地区の中心とは少し違うのではないかな?
伊都国の中心は前原あたりだと思うけど。 >>655
大和説の人は常に、魏志倭人伝のこの節を曲解無視したがる。
「大作冢徑百餘歩」
「狗奴国と戦争中だろうが、大いに塚を作ったんだよ 徑百餘歩のでかいやつを」
と言いながら、
「冢」でも「徑百餘歩」でも全くない箸墓を、卑弥呼の墓だと言って、
世間の人々を騙したがる。 >>200
考古学的tに言って、伊都国の中心部は雷山川と瑞梅寺川の三角地帯だ
前原公民館や細石神社、怡土小が目印 >>673
>庄内土器の時代に入る前に、大和盆地から河内平野とその周辺まで、畿内第X様式土器で統一される
この時、それぞれの地場の土器が使われなくなる
この「畿内第X様式土器の範囲」が、邪馬台国七万余戸の領域だと思う<
「邪馬台国七万余戸」と言った瞬間に、「南≠東」などに拠って×。 >>681
>稲作の伝播と邪馬台国の時の畿内の影響の拡大は全く違う物 ・・・
この動きは土器だけでなく古墳なども同じく連動しており、
全国的な秩序の構築が畿内によって広められたことが明確となる
この変化の違いを理解することで「九州は畿内の属領的存在であった」ことが分かる<
列島の稲作の始源が九州北岸であった事は、動かしようがなく、
また、大和は、筑紫倭国から別れた別種の旧小国であった事も変えようもなく、
西日本各地に出雲の影響があった事も否定しようがなく、
大和付近は、筑紫倭國の東征や模倣であった、という事の否定しようがない。 >>206
アホ
宅配便が玄関に届くのはあたりまえ 九州説のバカに質問
・大量の畿内が関係しない場所から出てる鏡はどこにあるんだよ?
・消滅寸前の貧相な絹の出土状況に加えて、どこに卑弥呼が献上したような高品質の絹があるんだよ?
・丹が見つかる山とやらはどこにあるんだよ?
・宮殿はどこだよ?
・葺石も、三角縁も、畿内土器もない、径100歩の円墳とやらはどこにあるんだよ?
・畿内の歴史と出土量を上回る「独自文化」と言い張れるだけの骨占どこにあるんだよ?
・吉備や東国以上の物だと言い張れるだけの入れ墨の痕跡がどこにあるんだよ?
・九州全体が畿内の生活・宗教様式に塗りつぶされてどこに主体があるんだよ?
※そもそも邪馬台国あるんだよ!?
おら、サッサと答えろよ能無しが 倭人を代表していたのが九州北部の邪馬台国なので、独自性にこだわる意味はないな。 >>209
バカが
何逃げようとしてんだよ
お前らがいつも「圧倒的だ!」とか喚ていることを聞いてやってんだよ
早く答えろよ屑が
・大量の畿内が関係しない場所から出てる鏡はどこにあるんだよ?
・消滅寸前の貧相な絹の出土状況に加えて、どこに卑弥呼が献上したような高品質の絹があるんだよ?
・丹が見つかる山とやらはどこにあるんだよ?
・宮殿はどこだよ?
・葺石も、三角縁も、畿内土器もない、径100歩の円墳とやらはどこにあるんだよ?
・畿内の歴史と出土量を上回る「独自文化」と言い張れるだけの骨占どこにあるんだよ?
・吉備や東国以上の物だと言い張れるだけの入れ墨の痕跡がどこにあるんだよ?
・九州全体が畿内の生活・宗教様式に塗りつぶされてどこに主体があるんだよ?
※そもそも邪馬台国どこにあるんだよ!? >>209
九州説名物「結論先にありき」の典型だな 独自文化どころか「全部畿内式に塗りつぶされて」代表だ?
脳みそ腐ってんじゃねぇのか?
質の悪い消滅寸前の絹一つ持ち出して「これこそが邪馬台国の証拠だ!」とか叫んでるクズが
ありとあらゆるものが畿内一色になってる状況都合よく無視してんじゃねぇよ
考古学的・史書的に九州が畿内の属領だなんてのはとっくにわかってんだよボケ 投票だかアンケートだか知らないが
県別にとったら
畿内説が断然トップなんじゃないの? テメーらの箸にも棒にも掛から無いような物は数千倍に膨らませて「日本の代表だ!」とか言い出して、
あらゆるすべてが畿内の物に塗りつぶされてる状況は「何の意味もない!」とか言い張る
これが九州説だな
異常者のカルト宗教だとよくわかる >>163
しかもその出土遺跡の3って肝心の弥生終末期は一つだけだぜ
それ以外の場所では邪馬台国の時代に見つからなくなってる
消滅に等しいな
むしろ「以前はあった」と言う状況が余計にその衰退を強調してるだけ
纏向の絹の小袋の事バカにしてたが自分達はそれ以下じゃねぇか
笑わせてくれる 北部九州は弥生時代後期に一旦遺構が減少するのは
以前から言われており、疫病説なども出されたが
資料の増加によって春日丘陵、比恵那珂など減少してない地域の存在から
疫病説というのは疑問視され、近隣への移動・新設と捉えられるようになってきている
早良平野に関しては中期に存在した遺跡が激減するのは事実で
今宿に近い宮ノ前、野方遺跡と、福岡市の中心側に近い飯倉、樋井川、神松寺の各遺跡の
早良平野の東西の両端に存続し中央は空洞化する
終末期に遺構が再出現する西新、藤崎は山陰系各種土器が他の遺跡より多く土器相に混在し
在地土器は山陰系と酷似している 九州は世襲権力者のシンボルたる祭祀や墓制までも畿内の方式に変えられている
この動きはただの文化移動ではなく明確な政治的背景がある事を示している
この前の時代に各地域に強い個性が生まれ排他性があった事が、この拡大の背後にある中心勢力の強力な影響力を表している
そしてこの流れは時代を追うごとに連動性を強くし、中央と地方と言う関係をより鮮明にしていく >>211
本来なら畿内説の弱点であることを九州説に投げかけているな。
九州の影響を受けてない鏡が畿内にあるのか?
畿内に高品質な絹とやらがあるのか?
畿内に丹を掘っていた遺跡はあるのか(もちろん邪馬台国の時代のもの)?
卑弥呼の宮殿はどこにある?
纒向に入墨の風習はあったか?吉備や東海は畿内ではないからな。 >>214
福岡と宮崎がツートップだったかな。
畿内の回答者は畿内と答えているようだが、少数。
島根県だけ、出雲と答えていた。もちろん激レア。 >>218
つまり王都が福岡県の中で移動しているだけ。
一地域だけ取り出すと衰退したように見える。
奈良から京都に遷都した時に奈良は荒廃しただろうけど、それを日本の衰退とは言わないだろ?
だけどそんなようなことを畿内説は主張しているんだよ。 >>219
>九州は世襲権力者のシンボルたる祭祀や墓制までも畿内の方式に変えられている
畿内は、の間違いだろ。
紀元前から九州北部で使われていた三種の神器が皇位の象徴となるんだから。 >>716
>奴国の拠点たる比恵遺跡など<
「方向」と「距離」が違い過ぎるから、×。
>主たる北部九州の遺跡が軒並み畿内の影響に塗りつぶされている中で、<
筑紫倭国も東征で、大和などが倭国の影響や模倣で塗りつぶされたのだから、×。 一旦減少じゃねぇよアホが
集落とかは減ってねーんだよ
鏡だの絹だがの激減してんだよ
そして畿内の土器や墓制に塗りつぶされてその後独自文化なんてなくなっていくんだよ
アホが
しかも「疫病が流行ったかも知れない」とか何妄想並べてんだよバカが
そんなもんで逃げられると思ってんじゃねぇよサル
で、?
・大量の畿内が関係しない場所から出てる鏡はどこにあるんだよ?
・消滅寸前の貧相な絹の出土状況に加えて、どこに卑弥呼が献上したような高品質の絹があるんだよ?
・丹が見つかる山とやらはどこにあるんだよ?
・宮殿はどこだよ?
・葺石も、三角縁も、畿内土器もない、径100歩の円墳とやらはどこにあるんだよ?
・畿内の歴史と出土量を上回る「独自文化」と言い張れるだけの骨占どこにあるんだよ?
・吉備や東国以上の物だと言い張れるだけの入れ墨の痕跡がどこにあるんだよ?
・九州全体が畿内の生活・宗教様式に塗りつぶされてどこに主体があるんだよ?
※そもそも邪馬台国どこにあるんだよ!? >>226
>集落とかは減ってねーんだよ
>鏡だの絹だがの激減してんだよ
どこにそんなデータがある?
捏造?
妄想? 結局何一つない
妄想を叫ぶしかない九州説
意識調査wとやらをしつこく張り続けてる馬鹿もいるし
これを持ち出して恥ずかしくない時点で頭悪いな >>220
>本来なら畿内説の弱点であることを九州説に投げかけているな。
弱点?
九州の影響を受けてない鏡が畿内にあるのか? ←当然ある 常識
畿内に高品質な絹とやらがあるのか? ←当然ある 常識
畿内に丹を掘っていた遺跡はあるのか(もちろん邪馬台国の時代のもの)? ←当然ある 常識
卑弥呼の宮殿はどこにある? ←纏向
纒向に入墨の風習はあったか?吉備や東海は畿内ではないからな。 ←当然ある
なにが言いたい? >>229
絹 減ってるよね?
邪馬台国の会のHPにも書いてあるし >>225
アンケートですら
熊本説や鹿児島説も加えて
束になって畿内説に対抗しようとしてる
烏合の衆で貧乏性の九州説が哀れでならない>>225 >>222
糸島の東側の中心地は比恵那珂〜春日丘陵しかないからそこが2万戸の奴国の中心
那珂遺跡では大和型庄内甕を母胎としてTB期に筑前型庄内甕が成立し、
奴国の政治中枢となったと考えられている
後期後半の潤地頭給遺跡や古墳時代に発展する西新町は山陰系の移住が想定されている >>233
このスレの名物異常者の全レス基地外
前のスレとかの安価付けて答えた気になってるアホ
どうせしょうもない妄想喚いてるだけだから消しとけばいいよ
目障りなだけだから いいからよ
早く答えろよ
お前らが常日頃「圧倒的に九州から出てる!」とか喚いてる物を聞いてやってんだよ
・大量の畿内が関係しない場所から出てる漢鏡はどこにあるんだよ?
・消滅寸前の貧相な絹の出土状況に加えて、どこに卑弥呼が献上したような高品質の絹があるんだよ?
・丹が見つかる山とやらはどこにあるんだよ?
・宮殿はどこだよ?
・葺石も、三角縁も、畿内土器もない、径100歩の円墳とやらはどこにあるんだよ?
・畿内の歴史と出土量を上回る「独自文化」と言い張れるだけの骨占どこにあるんだよ?
・吉備や東国以上の物だと言い張れるだけの入れ墨の痕跡がどこにあるんだよ?
・九州全体が畿内の生活・宗教様式に塗りつぶされてどこに主体があるんだよ?
※そもそも邪馬台国どこにあるんだよ!? ぜった間違いないとかほざいてるんだからすぐに答えればいいじゃん
ぐうの音も出ないほどの証拠が山のようにあるんだろ?
すぐに教えてくれよ
なぁ
毎日粘着して九州だ九州だ言い張ってんだからよ
さぞや凄い証拠が盛りだくさんなんだろうからよ 九州説って毎度毎度その場その場逃げしかしねぇな
てめぇらが「前方後円墳は『経』じゃねぇ!」とか喚いてんだろうが
サル
お前らの主張に合わせて聞いてやってんだよ
は?じゃあ方墳でもいいぞ?
どこにあんだよ
まさか祇園山か?
庄内式と、葺石と、三角縁が出てる墓か?
なぁおい
どこにあんだよ >>238
>※そもそも邪馬台国どこにあるんだよ!?
畿内説に聞いてみたいな >>743
纏向を2〜3世紀と設定した場合、どこにも何の影響もないまま消滅した田舎。
纏向を3世紀末と設定した場合、筑紫倭国の地方の市で東征の影響に取り囲まれて、
どこにも何の影響も与えてないで田舎。
時代をごまかそうが、出土品を過剰に喚こうがどの道同じ。
アホの大和説者は、まだ小手先の誤魔化しが通じる、と思ってる程度の脳みそ。 >>749
青龍3年銘の方格規矩鏡が、その龍の字の異体字が4、5世紀にならないと使われない、
という推論があるから、
全く別の金石文そのものの平原1号墓の32面の方格規矩鏡を、4世紀とみなす、
とかガバガバ理論を駆使してるやつがいたが、
金石文の方が、他の鏡に関する推論よりも根拠になるんだ、って言ってあげないと。 >>751
>三角縁神獣鏡の出る那珂八幡古墳を、
3世紀半ばのが中山古墳より古いって言ってる九州説がいるんだぜ<
久住編年が、
3世紀の第4四半世紀頃の那珂八幡よりも箸中山の方が新しい、
と言ってんだぜ。 久住編年では那珂八幡古墳をTB期新相の築造と推定しているので
250年より少し前くらい そしてやはり何も出ないで見当違いの事を喚くだけの九州説 キナイガー
じゃねぇよ
お前らご自慢の「絶対確実の証拠」サッサと出せよ
すぐ出せるだろ?
畿内がどうのとか言う前に間違いない証拠を九州で提示してみろよアホが
・大量の畿内が関係しない場所から出てる漢鏡はどこにあるんだよ?
・消滅寸前の貧相な絹の出土状況に加えて、どこに卑弥呼が献上したような高品質の絹があるんだよ?
・丹が見つかる山とやらはどこにあるんだよ?
・宮殿はどこだよ?
・葺石も、三角縁も、畿内土器もない、径100歩の円墳とやらはどこにあるんだよ?
・畿内の歴史と出土量を上回る「独自文化」と言い張れるだけの骨占どこにあるんだよ?
・吉備や東国以上の物だと言い張れるだけの入れ墨の痕跡がどこにあるんだよ?
・九州全体が畿内の生活・宗教様式に塗りつぶされてどこに主体があるんだよ?
※そもそも邪馬台国どこにあるんだよ!?
なにもねーんだろうが >>755
>布留式甕になる前から、畿内第X様式、庄内式、布留傾向甕、布留式甕の順で
きっちり九州から出てるよ
畿内の胎土で作られた本当の意味の搬入土器、正確に畿内の製作技法で九州の胎土で
作られた土器、畿内の様式に倣っているがある意味適当な畿内系模倣土器、のそれぞれが
確認できるそうだ <
ほら、佐々木は、
筑紫→大和の搬入が0であり、大和→筑紫の搬入も僅かであり、
近畿→筑紫は、播磨や河内が中心であった事や、
柳田に拠って庄内は三雲が始原であり、
米田に拠って布留は南加賀か筑紫が始原になる、
という事も隠したインチキをやっている。
>畿内からの搬入土器(広義)は、特に奴国、伊都国の領域で多く見つかり、奴国の比恵・
那珂遺跡群では畿内様式土器の九州での生産拠点になっていた様子が伺えるし、<
那珂八幡は奴國ではない。
>伊都国の三雲サキゾノ1−1区1号住居床面出土資料では三雲遺跡内でも突出して早期から畿内系
土器(庄内大和型甕)が出土しており、このあたりに「一大率」の居館があったのかもしれない<
ここで佐々木は、柳田の「三雲が最も古い」を追認しており、
大和は三雲と同じ阿毎氏であったから、大和は三雲からの伝搬があった、
という事になる事を隠している事になる。 那珂八幡だ?
バカじゃねぇの?
あんなの4世紀の古墳だろうが >>755
>>「尚方作」<
>相変わらずおバカさんねぇ 大陸の鏡は前漢鏡から銘の大半が「尚方作」
「尚方作」はそれが書いてあるからといって仿世鏡の編年には
参考にはならないと何度教えればいいんだろう<
相変わらずおバカさんねぇ。
その大陸の鏡は前漢鏡から銘の大半が「尚方作」だ、と言い訳をするんなら、
その出土例に、個人の墓で21個もの纏まった「尚方作」鏡が存在した、
という例があったのか?、を言わなくっちゃならない、という事になんるんだよ。
それが言えなくっちゃ、平原の「尚方作」鏡は、明帝の下賜鏡が元になっている、
という事になるしかない。 今度はウリナラ九州起源説かよ
九州の畿内式土器は畿内の様式に時間差で遅れて現れる
庄内式が九州起源とかあり得ない
現地での土器生産も別にすべての人間が畿内の人間に入れ替わるわけでもあるまいし
現地で畿内式の土器を作る人間がいて当たり前
むしろ現地人の生活様式が、外来の文化に塗り替えられてる証拠でしかない
その上、上記したように「畿内で新しいタイプの土器が現れると九州でもそれを後追いして現地生産土器が出てくる」わけだ
完全に「中央の様式に従う地方」という図式になってんだよサル >>760
>棟持ち柱の柱跡もあるんだから、建物じゃなくて鳥居は通らないだろ?
喪屋もきちんと長方形に作ってもらえない大倭王って、いると思うのか?<
「大倭王」なんていないよ。
いたのは「共立」のしかも「女王」。
>九州説の王って聞けば聞くほど「小者」だよな<
30国の妥協の「共立」じゃ、そりゃ薄葬令にも背けないし、
もと居た部族の墓制や棺は変えらえないし、副葬で頑張るしかないなあ。
>系譜は戦後のペン書き系図だし<
あれ?、こりゃ松野氏姫氏系図の事のようだな。
「ペン書き」かどうかは、国立国会図書館や静嘉堂に行って調べてから書かれたら?。 >>763
>箸墓の根拠はこの程度じゃなぁーーー。
1この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致すること<
円墳のような「球体」では「冢」にならない事や、
「径」は長径を表すから280m位になってしまうし、
「百余歩」は、魏志が「短里や短歩」の記載であるから25m余り位になってしまう。
>2後円部にある段構造が前方部で消失することから、当初は円墳であり前方部が後世に付け加えられた可能性があること<
円墳部の直後に造られた事が判っているから、魏使らが気付かない筈がない。
>3大規模な古墳の中では、全国でももっとも早い時期に築造されたものであること<
那珂八幡などの(後からの)模倣である。 >>181
>王には副葬品で差を付ける、という事が多かったんだろう、という事。
>それがその頃の「厚葬墓」。
まあ、副葬品「だけ」は厚葬墓かもね、平原1号墓
ただ、2号墓との格差がまるでないところを見ると、
王墓とするのは無理だろっていう当たり前のことに
何をそんなに一生懸命反発してるんだかww
まあ、九州にはこんなしょぼいのしかないからなぁ >>764
>畿内の影響に取り囲まれて表に出ることもできない哀れな裸の王様
それが伊都国 平原が三世紀に移ったところで惨めさがさらに際立つだけ
アホの九州説は自分から裸踊りしてるんだから笑える<
あれ?、また変な事を言い出した。
佐々木は、三雲がふる庄内では最も古く、大和土器も大量に存在し続けていた、
という書き換えをしていたようであったぞ?。 久住編年では那珂遺跡の筑前型庄内甕の成立は大和庄内2、3と併行
三雲はUA期まで福岡産庄内甕、布留甕の搬入
三雲サキゾノ1−1区1号住居床面下層は筑前型庄内甕U式 >>771
>縄文人と古い海神が大和朝廷を作った。<
大和には「朝廷」なんてなかったし、
「南≠東」だから×だし。 >>194
>いや、三雲は奴国の入り口付近であり、伊都国との境界付近だから、
糸島平野最大の、最も栄えてる場所が「境界」ってことがある訳ないだろ
国ってのは人の集まりなんだから、一番栄えているところが国の中心
そこから、山とかの自然境界もないところで、その向こう側と
別の国になることはない
>別に大した問題ではない。
そうだよな、論理的な考え方とか帰結とかは、ザラコクにとっては
「たいした問題じゃない」よな
はじめから劣化九州王朝説ありきで、根拠も論理も論証も全部無視なんだからww >>196
>列島の稲作の始源が九州北岸であった事は、動かしようがなく、
稲作の開始は、卑弥呼の時代から軽く千年くらい前
九州説のいうことは、全部、時間・編年無視の暴論なんだよなぁww >>791
>事実上、これだけで決まりだよ これより条件に合うものはないからね
大規模な、を100メートル級まで下ろした場合でも、纒向古墳群のどれかになる
14×12メートルが大倭王の墓ってっことはないわ
200年も前の単なる奴国王より小さな墓ってあり得ないだろww<
纏向には、「冢」もない、「径百余歩」もない、「殉葬奴婢百余人」もない。 >>244
>青龍3年銘の方格規矩鏡が、その龍の字の異体字が4、5世紀にならないと使われない、
という推論があるから、
>全く別の金石文そのものの平原1号墓の32面の方格規矩鏡を、4世紀とみなす、
>とかガバガバ理論を駆使してるやつがいたが、
>金石文の方が、他の鏡に関する推論よりも根拠になるんだ、って言ってあげないと。
相変わらずチェリーっピッカー的切り取りで無理筋の主張しかしてないな
もとは
「青龍3年銘の方格規矩鏡があるから、方格規矩鏡は卑弥呼のごろの鏡
だから、方格規矩鏡32面が出る平原1号墓は卑弥呼の墓」
って言ってる九州説がいたから、青龍3年銘を根拠にするなら
4,5世紀まで下るぞって言い返されたのを、局解してる
本当に日本語が読み取れないやつだよな なに?今度は古墳もウリナラ起源とか言い出したの?
九州の庄内式はその名の通り庄内式の影響の上で出来た土器
九州の庄内式は個性もバラバラで「その名の通り庄内式の影響を在地が受けてる」のが分かってる
畿内の動きに各地で連動してるのが分かっていてここに主体などない
その庄内式に取って代わられつつある中で現れたのが那珂八幡古墳
畿内の纏向型に続くもので規模、祭祀ともに畿内の影響下にあるのが分かる
むしろ古いと言うのなら九州は邪馬台国の直前にはもう確実に畿内の文化に覆いつくされていることを示すだけ >>810
>>九州に燕の南の倭人や呉王夫差の後裔らが渡来して来て、
稲作や金属器などが伝えられたんだが、<
>呉王夫差なの? 呉王太白はどうしたの?<
呉王夫差も、太白も、姫氏なんだし、
通鑑前編には、両方が書かれているの。 >>200
>墓域は行政地区の中心とは少し違うのではないかな?
>伊都国の中心は前原あたりだと思うけど。
墓域まで含めた三雲遺跡群が伊都国の中心でいいよ
>>203も書いてくれてるけど、雷山川と瑞梅寺川の間の微高地が
伊都国の中心
弥生時代の首長墓は中心集落から離れたところに行くことはない
その意味でも、伊都国の中心から1キロ以上はなれた丘陵上で、
伊都国中心から見て尾根の向こう側の平原墳墓群を伊都国の王墓とするのは
抵抗がある >>824
>ザラコク死刑 <
怖い怖い。
キョクウの大和説のテロ組織が怖い。
大和説者は、安部政府や右翼マスコミや学会教育界と同じく、
国粋皇国史観天誅思想にクルった・・・・キョクウだから。
播磨の片隅で、どこかのおじいさんが銃殺された、という報道があったら、
そりゃザラコクの暗殺かも知れませんから。
PC会社が、個人情報をテロ組織に漏らした、という事になる。 >>205
>>この「畿内第X様式土器の範囲」が、邪馬台国七万余戸の領域だと思う<
>「邪馬台国七万余戸」と言った瞬間に、「南≠東」などに拠って×。
「根拠」のある反論が何一つできないから、逃げたのが丸わかり
「邪馬台国七万余戸」には、畿内とも纏向とも一文字も入ってないよなww
で、纏向遺跡には家がないから七万戸じゃない、とかいう言いがかりは、
「畿内第X様式土器の範囲」を「根拠」と「意味」のある反論で否定
できない限りは無効だよ 大型墳墓は、直に見る者への権力の誇示であると同時に宗教観のある段階までにおける
人類共通の普遍的な願望だが、実現には一つ大きな障壁がある。
労働力確保の問題である。
大きな余剰生産力があったとは思えない弥生の列島各地が、
突然いかにして大量の古墳を築造しうる動員力を安定的に獲得するに至ったか。
革命的社会変化が起きたことは予想されるものの、首長相互の緩やかな同盟のみでこれを
説明するのは難しい。
人民目線で考えれば、人民を、列島各地の首長は如何にして奴隷のように酷使し得る力を
得るに至ったのか。
ヒントは畿内系土器の武力を伴わない平穏的拡散にある。
むしろ、それは奴隷制そのものではなかったのか。
弥生中期から続いた瀬戸内・畿内を舞台にした激しい争い、それと対照的な弥生終末期の
瀬戸内・畿内系土器の静かな拡散。また瀬戸内・畿内の巨大墳墓。
これから得られる結論は、瀬戸内・畿内を主な供給元とする奴隷制の確立である。
九州倭国は墳墓築造より、はるかに実利的な次の目標があった。
九州に送られた人々は、多くは在地の生産活動に従事した。
九州では、その分多くの人民を兵士に徴発することが可能となった。
これが半島南部進出への端緒となる。 >>828
>邪馬台国、大和朝廷<
邪馬台国はないし、大和朝廷もないし、
「南≠東」だから、×。 >>246
>久住編年では那珂八幡古墳をTB期新相の築造と推定しているので
>250年より少し前くらい
とすると、箸中山古墳より前の纏向石塚古墳の頃に、早々と畿内の
傘下として生きていくことになったんだな
九州の盟主の奴国の中心、比恵・那珂遺跡群の首長は
まあ、那珂八幡古墳は後円部がきちんとした正円形に整形できてないから、
その意味でいわゆる「纏向型前方後円墳」なのかもね >>251
>その出土例に、個人の墓で21個もの纏まった「尚方作」鏡が存在した、
>という例があったのか?、を言わなくっちゃならない、という事になんるんだよ。
いや、仿世鏡なんだから、同じ鏡をいくらでも作れるだろ?
論理の分からない人は、とことんトンチンカンだから、話が通じなくて困るww >>834
>魏志倭人伝の旅程記事に混乱があるのは確かだ <
混乱などない。大和説者らの史料事実の否定曲解があるのは確かだ。
>1.淮南子の世界の東の果てまで萬二千里という概念 <
魏使らは淮南子の概念を遵守していなかった。
>2.漢委奴國王、倭国王帥升等の朝献の時の北部九州までの「里」程 <
間違い。如淳注に拠れば「萬里」。
>3.卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程 <
「女王之所都」という行程説明の目的地の、所要日数説明文になっているから。
>2.の時の里程には別の目的地(倭面土国)行きが紛れている可能性が 高いし、<
後代史書の内容説明的な書き変えは、原則として半分×記載。
>魏志倭人伝の旅程と実際の邪馬台国までの経路は一致しない可能性が高い<
複数の魏使たちが記録した内容であり、陳寿も確認出来ているから、
3者だ一致していた、という事になる。 弥生前期に整然と区画された2千枚の水田開発をしている時点で
かなりの動員力がある >>254
>30国の妥協の「共立」じゃ、そりゃ薄葬令にも背けないし、
魏志倭人伝に「大作冢徑百餘歩」って、現に書かれているんだよ
どこにも薄葬令に従ったしょぼい墓を作ったとは書いてないww
こういうところが捏造気質だよな
>もと居た部族の墓制や棺は変えらえないし、副葬で頑張るしかないなあ。
これは単なる妄想
こうやって妄想しないと九州説は成り立たないww つか本当に九州説はアホだな
小手先の誤魔化しで何とか出来るような話じゃねぇとまだ分からないんだな
古墳出現前に九州は、畿内の影響を受けて在地土器が一斉に畿内式になってしまってる
この前の時代の排他性を考えると、この変化はただの文化移動ではなく政治的な背景があると考えられる
そしてこの動きに対して『伊都国周辺だけ』小さな畿内の影響の空白点が出来ている
全九州的な動きの中でこの不自然な空白は、ただの文化移動なら起こりえない
畿内の影響の拡大がかなりハッキリとした意図の上にある事が分かる証拠といえる
『その上で』、畿内で成立した古墳が早々に持ち込まれて、『今まで全く行ってなかった』大型墳墓祭祀に取って代わられている
どこに主体があるのかなんてアホでもわかる >>254
>「ペン書き」かどうかは、国立国会図書館や静嘉堂に行って調べてから書かれたら?。
「ペン書き」ってだけで、「松野氏姫氏系図」だって思い当たるんだww
その前に、
1.戦後の新字体の「国」で書かれていること
2.メモ書きにAD(紀元後)とか、アルファベットの書き込みがあること
については、何か言うことはないのかい?ww 邪馬台国がどこかなんていう程度の低いバカ話はとうの昔に終わってる
畿内に成立した勢力がどうやって全国に拡大し大和朝廷に成長していくのかを考える段階 >>255
>円墳のような「球体」では「冢」にならない事や、
「球体」ってww
地面とは1点で接地ですか?ww
塚は土を持ったもの=高塚のことだよ
形は円形でも方形でも、前方後円形でも塚
>「径」は長径を表すから280m位になってしまうし、
それならそれで、纏向石塚古墳とか、纏向古墳群に100メートル級が3つ4つある
箸中山古墳が260〜280年で遅すぎるというなら、むしろその前の古墳群の一つの方が
編年上は座りがよい
>「百余歩」は、魏志が「短里や短歩」の記載であるから25m余り位になってしまう。
短歩なんてないよ
短歩があるなら、短寸があることになるけど、短寸は何ミリだww
まあ、短里の時点で「ない」んだけどな >>255
>円墳部の直後に造られた事が判っているから、魏使らが気付かない筈がない。
河内大塚山古墳とか、後円部を作ったところで前方部を作る前に放棄された古墳も
あるから、案外後円部だけで径百歩というのもないではないと思う
魏志が266年の晋への遣使まで18年ずっと倭国にいたっていうのは、ガセネタらしいぞ
これについては未確認
>那珂八幡などの(後からの)模倣である。
那珂八幡古墳は、纏向石塚古墳などの跡からの模倣である
纏向石塚古墳は庄内0式期だから、どうやっても那珂八幡古墳より前だし
那珂八幡古墳(75メートル)より大きい96メートルあるよ
纏向遺跡の大きさ、充実度を甘く見すぎww と言うか能無し九州説はバカ丸出しの畿内への因縁とかどうでもいいんだよ
「九州の山のようにあると喚いてる証拠」を早く出せよ
あ?
いつになったら完璧に間違いない九州の邪馬台国の証拠出すんだよ
それ出したら決着だろ?
お前ら毎日絶対だとか言ってんだからよ
まぁ「ない」から仕方ないがな >>249
>柳田に拠って庄内は三雲が始原であり、
柳田はそんなこと言ってません。
捏造しないように。 >>249
>柳田に拠って庄内は三雲が始原であり、
庄内の前の畿内第V様式の甕の時点で、伊都国中枢から出てるんだがなww
庄内期に入る前から、北部九州の大国wは畿内の傘下
だから、一大率がいるんだよ
魏志倭人伝も、こういうところは正確だよな >>255
>円墳のような「球体」では「冢」にならない事や、
ならないって理由は? 奈良時代の里が533m
戦国時代以降で4km程度
倭人伝で80m程度。
少なくとも記録に残る範囲では
日本国内の里を魏の里で表したことはないのです。 >>834
基本的に、大和説というのは、
勉強不足と、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの妄想と、
自己洗脳の思い込みの分裂幻覚だけで できてるんだな。
読めば。 円墳を球体とか笑った
球体で墓作ったらさぞや壮観だろうなぁ 帯方郡から水行十日、陸行一月なのだとか言ってる人・・・
たった十日で北朝鮮から九州まで着くの? >>290
基本的に、九州説の反論というのは、
悪口だけでできてるんだな。
読めば。 >奈良時代の里が533m
>戦国時代以降で4km程度
これは普通の当たり前
>倭人伝で80m程度。
これが根拠なし
>少なくとも記録に残る範囲では
>日本国内の里を魏の里で表したことはないのです。
だって、魏志倭人伝は、晋で編纂された魏の時代のものだよ?
日本国内の事情は、魏(晋)にはある意味関係ないだろ?
そして、>奈良時代の里が533m
これは、大宝律令で「里 = 5町 = 300歩」と決められたものだけれど、
大陸の里程を導入したもの >>845
>距離は感覚だから <
いや、魏代には、一寸千里も、簡易三角測量も、記里車も、歩測も、日数換算もあった。
>方位は太陽、星間違いようが無い<
賛成です。 >>290
>「南→東」
それよりもこれに早く答えてね!
「末慮國から伊都国へ向かう、出発方向が東南の経路を途中通過点を
5ヶ所くらい現代の地名で示して論証してくれればいいよ 」 >>295
>>方位は太陽、星間違いようが無い<
いや、間違うんだって
魏志倭人伝も九州上陸後、初手から間違ってるだろ?
末慮國から伊都國は、東南と書いてあるが実際は北東 >>296
>反論説明済み。
再反論に答えてないぞ、逃げるな
これに答えて
「末慮國から伊都国へ向かう、出発方向が東南の経路を途中通過点を
5ヶ所くらい現代の地名で示して論証してくれればいいよ 」 >>301
こうやって、前スレにレスすることで、再反論から逃げてるんだよ
九州説には妄想以外の中身がないからね
能無しの逃げ道ww >>850
>>大和説者は、3世紀末にならんと出なかった鉄とか
>古墳になって、土に触らない形で鉄が埋納されるようになって、
それでたくさん「出る」ようになっただけだよ <
筑紫でも大和でも、鉄鏃や鉄矛は、原則は、戦いで散乱するもの。
>鉄自体はその前からたくさんある<
大和には殆ど見つからなかった。
>逆に九州でも、甕棺墓からはたくさん出てるけれど、甕棺墓の時代が終わると
急に出なくなってるだろ? 鉄は錆びるし、錆びると土に混じっていっちゃうから見つからなくなるんだよ<
魏使らが記録したのは、一般兵士が所有使用している鉄鏃。
>鉄の豊富さは、石器の衰退⇒鉄器での代替、で見積もることができるが、
稲刈り用の石包丁が出なくなるのは、九州より畿内の方が早い<
鉄鏃は、石包丁で代替え出来ないし、
同じものに関する大和の編年は筑紫よりも50年位以上遅れているから、
その説明も信頼性がない。
>発掘バイアスを理解するには、理科系の知識が必要だが、九州説は
そっちの知識が本当に皆無で困る<
大和説者は、始めから「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき人種だから、
信頼性が皆無であり、困る。 九州説の証拠とかどれだよ?
↓
九州説「那珂八幡!祇園山!
↓
は?それ畿内の文化どっぷりじゃねぇか
↓
九州説「九州が起源なんだ!日本を支配してたんだ!
↓
は?土器の拡散も、古墳の拡散も畿内の後追いの上にテメーらの文化完全に侵略されてる証拠じゃねぇか
↓
九州説「久住編年がぁ!
↓
だからその編年でそうなってんだよアホ
じゃあお前らの理屈でいうと古墳を広めてる起源が日本の支配者なんだよな?じゃあ畿内で決まりじゃねぇか
↓
九州説「古墳や土器なんて意味がない!奴隷労働で九州が作らせた!
↓
お前自分で古墳の起源が日本の支配者みたいに言った舌でそれとか
流石は九州バカはぶっちぎりの知能の低さだな >>855
邪馬壹國大和説の致命傷は、
出雲と畿内、吉備という地域は、「南≠東」に拠って始めから魏志倭人伝に合わないんや、
という話。 だから早く証拠出せよ九州説さんよ
言っとくがお前らの出る出る言う物はほとんど全部古墳からだからな?
当然古墳の出土品なんてノーカンらしいから数えないよなぁ?
そもそも畿内の文化そのものの古墳出土品なんて数えてるわけないよな?
鉄鏃も何もかも
大九州帝国の独自勢力の物凄い財宝が出てくるんだろうなぁ
楽しみだなぁ >>304
>同じものに関する大和の編年は筑紫よりも50年位以上遅れているから、
という証拠は? >>304
>殆ど見つからなかった。
そう、それが正解
実際には畿内に、九州以上に鉄は豊富にあったんだよ
石庖丁なんていう年に一度の収穫期にしか使わない、鉄にする
優先度の低いものさえ鉄製品になって消えてる
石庖丁が消えるのは、九州の方が大和よりも遅れる >>859
この男も、
「邪馬台国」とかの史料事実に存在しない文言を使って時点で、
勉強不足であり、詐欺師。 >>294
>>奈良時代の里が533m
>>戦国時代以降で4km程度
>これは普通の当たり前
>>倭人伝で80m程度。
>これが根拠なし
魏志倭人伝を呼んでね。 >>304
>同じものに関する大和の編年は筑紫よりも50年位以上遅れているから、
それが古い情報なんだって
まあ、新しい情報を仕入れたら死ぬから、知らぬ存ぜぬで逃げ続けるんだろうけどww >>307
いくら「南≠東」と連呼しても
畿内説は痛くも痒くもない
根拠が無いんだもの >>307
>「南≠東」
早くこれに答えてね?
「末慮國から伊都国へ向かう、出発方向が東南の経路を途中通過点を
5ヶ所くらい現代の地名で示して論証してくれればいいよ 」
出発方向が東南だから、「末慮國から伊都国が東南陸行500里で正しい」って
主張してるんだからなww >>312
>魏志倭人伝を呼んでね。
「おーい、魏志倭人伝さーん!」
大声で呼んだが、返事は返ってこなかった 弥生時代の終わりころから、日本列島各地に有力な首長の墓として、様々な形の墳丘をもった墳墓がつくられるようになった。
そうした各地の墳墓がもついくつかの要素を総合して、3世紀なかごろ、奈良盆地に大きな墳丘をもつ前方後円墳が出現した。
その規模や副葬品から判断すると、弥生時代の首長とは比べものにならないほど強力な力を持つ支配者が存在したことがわかる。
箸墓古墳をはじめとする初期の前方後円墳が、奈良盆地に集中することは、これらの被葬者と初期ヤマト政権の関係が深いことを示唆している。 畿内説
鉄器がなくて
液晶画面にグーパン自滅 乙www >>861
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」として、
女王國と倭種が書き分けられている、
という事が理解できない・・・・アホである、という点が、
邪馬壹國大和説者の致命傷。 石包丁が無くなったということは全員生口として連行されてしまったの? じゃあバカの為に今度は方向を認めてやろうか
南に進んでやるよ
で?どこに邪馬台国があるんだ?
九州の南部は北とも中部とも全然違う文化圏だ
弥生時代通じて一度もまとまった事もない
北部九州を支配下に入れてた九州独自勢力様はどこにいるの?
しかも「そこにも古墳と三角縁と畿内土器あるから」w
おやおやぁ?どこに行っても畿内の勢力の影響だらけだなぁ
南に行けば独自の北部九州を支配下に入れてた大邪馬台国があるんじゃねぇのかなぁ? 畿内から親魏倭王の金印か墓標でも出てこない限り、畿内説は成り立たないよ。
まあ、弥生時代なので、墓標の代わりに三種の神器を王墓に副葬したんだけどね。 >>324
>南に進んでやるよ
>で?どこに邪馬台国があるんだ?
伊都国がゴールだよ。
南は、帯方郡から見ての話し。 >>326
何が出ても、畿内は倭種に過ぎないから。 >>325
なんで、そんなもんが出ないと成り立たないんだ?
理由は? >>311
>「邪馬台国」とかの史料事実に存在しない文言
三国志の一番古い「写本」は12世紀までしか遡れず、
その「写本」では「邪馬壹國」「壹與」となっているが、
12世紀よりも古く成立した後漢書東夷伝 432年頃、梁書諸夷伝 636年、
隋書東夷伝 656年、北史倭国伝 659年、翰苑 660年頃、
通典 801年、太平御覧 983年が全て、「邪馬臺國」「臺與」等の
表記になっている
魏志倭人伝の写本の方が間違っているとする方が、想定すべき誤記の回数が
少なくなり合理的
こんな初っ端のところから、古田説は躓きまくりww >>863
>(古田武彦氏の死亡記事では)
(1)標準的な古代史研究者からは「学問」としては認めれていないこと
に全く触れていない。
知人が 「古田を古代史研究者と称するのはUFOビリーバーを天文学者というが如し」
と述べていたが、まさにその通りである。<
朝日しか見ていないが、朝日にはそんな事は載っていなかったから、
この話は、またおそらく、
読売産経などの極右の・・・・マスコミなどの誹謗記事であったんだろうなあ。 結局ぼくちゃんの脳内行程しか出てこないと
九州のサルはどうしようもねぇな >>332
邪馬台国の首都だから
倭国の旧首都でもある >>327
>伊都国がゴールだよ。
>南は、帯方郡から見ての話し。
そのゴールの伊都国へ行くのに、
「末慮國から東南五百里の経路を示してくれ」って何度も言ってるだろ?
逃げてないで、早く答えなよww >>336
魏使は夏至近くの季節に倭船でやってきたので
夏至の太陽の方角を見て方角記載したから全てが南寄りにずれているだけ。
>末慮國から東南五百里の経路
唐津→糸島市三雲遺跡 >>331
>朝日しか見ていないが、朝日にはそんな事は載っていなかったから、
本当に、日本語読めないんだな
「(1)標準的な古代史研究者からは「学問」としては認めれていないこと
に全く触れていない。 」
朝日その他に「載っていない」のが、古田氏の評価として不健全だっていう話だ
古田史学は、「天文学者を自称するUFO信者」と同じレベルのトンデモ >>338
魏志倭人伝にそう書かれているから。
楽浪土器が伊都三雲遺跡に集積しており、外交官が駐する場所=大使館があったから。 じゃあ今度は平原を卑弥呼の時代真っただ中にしてやるよ
何?
平原が邪馬台国とか言うの?
周り全部畿内の文化侵略受けて小さい領域で生ごろしにされてるザマで?
外に出ることもできずに取り囲まれて?
墓に中国鏡も入れられずに自分でこさえた国産鏡を入れて?
魏からもらった鏡も、色んな財宝も、径100歩の墓も、入れ墨も、金印も、骨占も何もなく?
倭人伝では伊都国とわざわざ書いてるけど邪馬台国なんだ
へぇ
そしてもうとっくにたどり着いてるのになぜか水行10日、陸行一月移動して?
これが邪馬台国なんだ?
何ひとつ合致してないが?
なぁおい?どういう事なんだよサル >>339
>魏使は夏至近くの季節に倭船でやってきたので
>夏至の太陽の方角を見て方角記載したから全てが南寄りにずれているだけ。
なんで日没は見ないんだ
w >>340
三雲南小路から三代+平原卑弥呼+次代男王+台与時代前半までは伊都
台与は香椎へ遷都 >>344
東から昇ったお日様が西へ沈む。
日没を見ても同じことだが。 >>342
いったい
魏志倭人伝のどこに
伊都国が山遅刻の首都だとか
書かれているんだ? 何を認めてやっても全然成り立たねーじゃん
なに?九州説とか何を喚いてるの?
なぁおい?
なにが邪馬台国なんですか? >>339
>魏使は夏至近くの季節に倭船でやってきたので
>夏至の太陽の方角を見て方角記載したから全てが南寄りにずれているだけ。
やっぱり、何も理解してないだろ?
夏至でも南中時の太陽の方向は南でずれない
夏至の頃の「日の出の方角=東」が「北より」にずれるんだよ
本当に、中学生レベルの理科が分かっていないww
>>末慮國から東南五百里の経路
>唐津→糸島市三雲遺跡
また逃げてる
それだと「現実には北東になるから、魏志倭人伝の方角が間違っている例」に
他ならないよな?
それに対して、九州説は「出発方向が東南だから間違いじゃない」って
強弁してるんだぞ
「末慮國から伊都国へ向かう、『出発方向が東南の経路』を
途中通過点を5ヶ所くらい現代の地名で示して論証してくれ 」
というのが、答えるべき命題
逃げるなよ
逃げるなら、九州説および「南≠東」は放棄ってことで >>346
意味わかって言ってる?
夏至の太陽を見たから方位を間違ったって珍説が否定されてるんだが >>350
馬鹿の上塗り
日の出の方角が北よりにずれるのだから、
太陽を見た場合の方角記載は、南よりにずれる。
相変わらずアホだな。 変換間違えちったので再投稿
>>342
いったい
魏志倭人伝のどこに
伊都国が邪馬台国の首都だとか
書かれているんだ? >>342
>外交官が駐する場所=大使館
それ、「外国」だよなww
日本国内に、日本の大使館はありません
一大率が置かれるところは、邪馬台国の外
郡使往來常所駐のことを言いたいのなら、それは単に入国管理であって
成田空港とかにあるやつ
成田空港の入国カウンターは「日本国」でも「日本の首都」でもなく
単に「日本の行政の『窓口』」 おら、どうなってんだよ
南に進んでやってもどこにあるんだよ?
南に北部九州を支配下に入れてる勢力なんて弥生時代全期通してねぇよ
完全別文化圏だ
しかも南部にも纏向型の頃から古墳が出来ていて畿内土器も三角縁もあるんだよ
どうなってんだよ
南の畿内勢力の影響だらけじゃねぇか
平原のどこが邪馬台国なんだよ?
径100歩の墓も、金印も、魏鏡も、骨占も、入れ墨もねーぞ
伊都国と特記されてて、そっから更に水行10日、陸行一月移動すんのかよ?
周り全部畿内の影響に取り囲まれて何一つ外に出せない個人墓がなんだってんだ?こんな狭い場所が7万戸なのか?
奴国や投馬国やその他遠方のクニグニも支配してんのかよ?
アホが >>352
そんなことで方位を間違えるやつが記事を書いてたなら
倭人伝の行程が間違いだらけなのも当然だな 夏至の日の出は30度も北よりにずれる。
それを見て、東と考えるのだから、
本来の真東は、30度南にあるわけだ。
日没を見ても同じこと。
畿内説、大恥www 畿内説
小学生レベルの天体運動を間違えて
液晶画面にグーパン自滅 乙www >>343
>周り全部畿内の文化侵略受けて小さい領域で生ごろしにされてるザマで?
例え話で恐縮だが、今の天皇は皇居の中で国事を行なっているけど、周りは最先端文明に囲まれている。
どうなの? >>356
どう読んだら
伊都国が邪馬台国の首都だなんて
妄想が湧いてくるのか
説明してくれよ
(笑 >>345
墓が平原で王宮が香椎ということもありうる。
不弥国へなぜ行った? 畿内説は七万戸入れるのに畿内の広範囲から「遠距離通勤」するんだろw
北部九州邪馬台国は壱岐対馬に大量の卜占遺物があるんだよ。 >>354
>日本国内に、日本の大使館はありません
( ・∇・) >>354
楽浪からの外交官の大使館だろ。
畿内説はアホすぎて議論が成り立たないな。 >>357
>日没を見ても同じこと。
やっぱり分かってないだろ?
日没を見たら、西の基準が北よりにずれるから、それを基準にしたら、
方位全体が時計回りにずれる
本当の東は北よりにずれて、北東(寄り)になるし
本当の南は見かけの南よりも東方向となって、南東(寄り)になる >>366
王宮は少し古い世代の文化を継承するんだよ。 ・大量の畿内が関係しない場所から出てる漢鏡はどこにあるんだよ?
・消滅寸前の貧相な絹の出土状況に加えて、どこに卑弥呼が献上したような高品質の絹があるんだよ?
・丹が見つかる山とやらはどこにあるんだよ?
・宮殿はどこだよ?
・葺石も、三角縁も、畿内土器もない、径100歩の円墳とやらはどこにあるんだよ?
・畿内の歴史と出土量を上回る「独自文化」と言い張れるだけの骨占どこにあるんだよ?
・吉備や東国以上の物だと言い張れるだけの入れ墨の痕跡がどこにあるんだよ?
・九州全体が畿内の生活・宗教様式に塗りつぶされてどこに主体があるんだよ?
※そもそも邪馬台国どこにあるんだよ!?
おら、いいからこれ出せよ早く
当然あるんだろ?
早く出して九州の大邪馬台国の証明してくれよ
なぁ
お前らがいつもあるって喚いてる「証拠」だからな?コレは
当たり前に出てくるんだろ >>361
伊「都」
「王」がいる(他の王は狗奴国王だけ) >>354
>郡使往來常所駐のことを言いたいのなら、それは単に入国管理であって
>成田空港とかにあるやつ
成田に駐在しないよ。
普通はその国の首都に大使が駐在する。
倭国の場合は、それが伊都。 このスレ高速で1,000まで行く
過去 5時間で500越えしたことある
奥村がくだらん競争をするから >>367
その文字があると何なんだ?
「伊都国は邪馬台国の首都です」
と読めるのか?
めでたいな >>864
>鉄鏃が出なくなっても九州が栄えていてもいいけれど、
鉄鏃が出ない時から畿内は栄えてるんだよ <
出雲系銅鐸祭祀や毛人蝦夷であって、筑紫倭国の東征が近畿や大和が栄えてもいいが、
大和は、筑紫倭國から別れた別種の旧小国になった、という事は、否定出来ないよ。
>石包丁が出なくなるのは、石よりも鉄の鎌の方が使いやすいからで
石包丁程度の必需品としての優先度の高くないものまで潤沢に鉄を使える
ようになったってこと<
倭國の東征があるまでは、出雲などからの鉄の補給は少しはあったとしても、
大和の鉄鏃の出土は、倭國の東征のおかげであった、という事も否定できないよ。
>九州でも畿内に遅れて、石包丁が出なくなる(絶滅する)が、その時から
九州はずっと廃れてるってことでいいよ
その点(九州で石包丁が消えたら廃れてる)は>>858の意見に従おう <
筑紫は出雲とのコンタクトが十分にあったし、半島の鉄を手に入れていたから、
おそらく、九州は近畿に遅れてはいないよ。 まぁ九州には何もないと言う盛大なアピールをしてるのがよくわかったわ
出てくるものが妄想だけとか笑えるわw
まぁ知ってたけど >>374
「鉄器ゼロ」と
いくら叫べど
根拠ゼロw >>358
>夏至の日の出は30度も北よりにずれる。
>それを見て、東と考えるのだから、
>本来の真東は、30度南にあるわけだ。
ああ、ごめん
あんまり九州説がバカなんで、そこまで考えてると思いもしなかったよ
それはそれとして
30度回しても、末慮国から伊都国は北東(夏至基準の真東よりも北)
それなのに「東南陸行五百里、到伊都國」って書いてあるからには
魏志倭人伝の方角は間違ってるってことでいいな!
それでも「出発方向が東南の経路がある」と主張するなら
「末慮國から伊都国へ向かう、『出発方向が東南の経路』を
途中通過点を5ヶ所くらい現代の地名で示して論証してくれ 」
に答えなよ >>376
ニセスレ立てて必死で上げてた男ハケ〜ン >>373
その「王」って、邪馬台国に都してる女王に従属してるんだよ >>866
>音韻の類似程度では、確定的な論拠にはならない。<
>遺跡の分布が北部九州で一番密で、九州説のやつも弥生銀座って言ってるだろ?
それが、魏志倭人伝の北部九州で最大の人口、二万戸と記された奴国と対応させるのが
一番整合性が取れる<
魏志倭人伝の記載では、
弥生銀座付近が邪馬壹國女王之所都であることが一番整合性が取れる。
>古代のことは、どんなことでも「確定」的なことは言えないけれど、
大陸の史書、日本の文献、考古学的遺物、現代まで残る地名、とこれだけ揃えば、
「奴国=「那」の津、「儺」県、「那」珂川を含む福岡平野」という
現在定説となっている比定地は、古代史における比定の中でも鉄板中の鉄板だぞ<
「南→東」などの嘘つき騙しの現在の学者の「定説」の比定地など、
何の価値もない。 >>384
>弥生銀座付近が邪馬壹國女王之所都であることが一番整合性が取れる。
という理由は? >>378
>否定出来ないよ。
あー、古代のことは完璧に論証するのは無理だから、「否定はできない」ね
でも、それは悪魔の証明に逃げてるってことだからww
ずいぶん、防衛線を下げたものだねww
>別種の旧小国
関門海峡は幅600メートルだから、渡海千里に当てるのは無理
だから、九州と本州は一体の倭国で、魏志倭人伝の「渡海千餘里復有國皆倭種」は
九州、本州以外に求めないといけない
それに、九州説は別種って書きたがるけど、魏志倭人伝に「別種」は出てこない
そして「旧小国」っていうのは、旧唐書の世迷言 >>384
>「南→東」
早くこれに答えてね?
「末慮國から伊都国へ向かう、『出発方向が東南の経路』を
途中通過点を5ヶ所くらい現代の地名で示して論証してくれればいいよ 」
出発方向が東南だから、「末慮國から伊都国が東南陸行500里で正しい」って
主張してるんだからなww 伊都国から奴国へ東南に百里というのも妙な話だがな。
伊都が三雲遺跡だとして、奴国まではどう見ても五百里はある。 >>375
>成田に駐在しないよ。
>普通はその国の首都に大使が駐在する。
だから、魏志が来て滞在するところはヤマト国だろ?
「郡使往來常所駐」は単に、“必ずここに立ち寄る”ぐらいの意味だろう
郡使の往来のときに通過点にせず、必ず(常に)一大率に挨拶するんだよ >>394
>伊都国から奴国へ東南に百里というのも妙な話だがな。
>伊都が三雲遺跡だとして、奴国まではどう見ても五百里はある。
方角は、九州上陸後ほぼ全面的に90度程度回っている
東南は実際は東北だし、南は東ととると丁度いい
そして、東渡海千餘里復有國皆倭種も、同じ向き(反時計回り)に90度回すと
北になり、倭国から北に百里の島というと、隠岐の島あたりでこれも丁度合う
距離については、もうアバウトだからどうしようもない >>390
藁
>358日本@名無史さん2018/02/23(金) 18:36:53.82
>夏至の日の出は30度も北よりにずれる。
>
>それを見て、東と考えるのだから、
>本来の真東は、30度南にあるわけだ。
>
>日没を見ても同じこと。
>
>畿内説、大恥www
>
>359日本@名無史さん2018/02/23(金) 18:38:00.76
>畿内説
>
>小学生レベルの天体運動を間違えて
>
>液晶画面にグーパン自滅 乙www
こんなこと書いちゃって
自分の方が間違ってて
赤恥かいて死にたくならないの? 九州説の喚く通りにしてやっても九州に邪馬台国なんて見出しようがないと
南に進もうが、平原を卑弥呼の時代にして首都にしてやろうが
ほら、次はどうしてやろうか?
なに?
伊都国が王都だって?
それ平原と同じだろ
で?次は何だ?何をお前らの言う通り設定してやればいいんだ?
どこにも九州に邪馬台国なんて出てこねーぞ 鉄器が普及してないからなあ
倭人の邪馬台国じゃないっしょ >>391
九州説の科学音痴ぶりは
かなり深刻なものがある >>396の訂正
×倭国から北に百里の島というと、
○倭国から北に千里の島というと、 伊都国が邪馬台国の王都
平原が卑弥呼の女王墓
で? まあいいじゃん
倭人伝が完全解読されて
考古学でも出土が相次いで
伊都説で決着がついたんだから >>405
倭国が邪馬台国と狗奴国に分裂して相争った=倭国乱 >>399
3世紀の遺跡生活空間から驚異の鉄器ゼロ >>395
なんで下っ端の一大率に挨拶する必要があるの
わざわざ北九州で上陸して陸行なんかしないで、直接船で首都に行かないのはなぜ? じゃあ次は平原を卑弥呼の時代にして王都にして鏡も全部魏の鏡と言うことにしてやろうか?
径100歩の墓は?
親魏倭王印は?
宮殿は?
丹は?
入れ墨は?
骨占は?
周りの国から完全に孤立してる(九州だけじゃなくてこの時期の日本全国から)のに首都?
南に行くんじゃねぇの?ここもう到着してるぞ?
水行10日、陸行一月の行程どうすんだ?
7万戸の人口とかどこにあるんだ?
なぁ?
全然該当しないんだけど
喚き散らしてる南がどうのにも全然絡まないんだけど
なぁ?全部お前の都合のいいようにしてやってんだけど何も該当せんぞ?
なぁおいどうなってんだ? >>404
>考古学でも出土が相次いで
伊都國中枢のど真ん中、三雲遺跡群で、
畿内第V様式から順に、庄内式、布留式と順番に途切れなく出土が相次いで
最終的に畿内様式土器で統一されるのが分かって、邪馬台国の時代より前から
畿内文化の傘下に収められていたことがはっきり示されたってことですね!
分かります! >>413
最初から傘下じゃないさ
じわじわ来てるもの >>412
え?
3世紀の遺跡生活空間から驚異の鉄器ゼロ
なのに首都なんて考えてる説があるの?
なんて遺跡? >>409
論破されると悪口しか言えなくなるのが
九州説の哀れな脳 え?
3世紀の遺跡生活空間から驚異の鉄器ゼロ
なのに首都なんて考えてる説があるの?
なんて遺跡? >>408
律令時代だって大宰府に寄ってますが、何か? >>408
>なんで下っ端の一大率に挨拶する必要があるの
その下っ端の一大率に治められて、畏れている伊都国さん、
小物感がパないっす
特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。
>わざわざ北九州で上陸して陸行なんかしないで、直接船で首都に行かないのはなぜ?
水行20日+10日、陸行1月もかかる遠路だからだよ
伊都国で一大率による入国管理もあるし
まあ、九州内での陸行は、古い記録を引き写しただけで、卑弥呼の遣使の答礼使は
実際には伊都國、奴国には船で立ち寄ったとしてもいいと思うよ じゃあ次は何を九州説の言う通りにしてやろうか?
なぁほら言ってみ?
それで邪馬台国とやらが九州に出てくるかどうか見てやるからよ >>421
だめだよ
倭人伝の記事を無視しちゃ何でもありだ >>415
>最初から傘下じゃないさ
>じわじわ来てるもの
最初から、じゃあないだろうけど、畿内第V様式の頃には
一大率的なものが既に伊都国にいてもおかしくないと思うけどな
一大率がいるからこその搬入土器とも考えられるし >>419
生活空間に鉄器が散乱してる遺跡の方が変だろう >>425
考古学を無視して
倭人伝の記事を無視して
つまりは虚構だね よし分かった
・平原が邪馬台国の時代
・平原の鏡は全部魏の鏡
・平原が首都
・鏡も鉄も絹も山のように九州から出てくる
これでやってやろうか?
径100歩の墓は?
親魏倭王印は?
宮殿は?
丹は?
入れ墨は?
骨占は?
周りの国から完全に孤立してる(九州だけじゃなくてこの時期の日本全国から)のに首都?
南に行くんじゃねぇの?ここもう到着してるぞ?
水行10日、陸行一月の行程どうすんだ?
7万戸の人口とかどこにあるんだ?
何も変わらんな >>426
どこが無視?
九州説の言うことは、いつも具体性がない >>423
>だめだよ
>倭人伝の記事を無視しちゃ何でもありだ
まあ、そうなんだけど、末慮国から伊都国への「陸行」は道理に合わないんだよね
末慮国からの東南陸行五百里は、吉野ヶ里方面に抜けるルートとしては妥当性があるし
吉野ヶ里が栄えていた頃の旅程が、倭国の末慮国に上陸してからの通常ルートと
記録されていて、それが三国志を書く時に紛れ込んだと考える方が、理解はしやすい つーか、伊都国に卑弥呼とか言ってる人
伊都国と邪馬台国と倭国の位置関係って
頭の中でどーなってるの? おかしいなぁ
どれくらい言う通りにしてやったら九州に邪馬台国出てくんだ?
なぁ?
次は何をしてほしい?
どうやったら九州に邪馬台国出てくんだよ? >>427
>最初は民間ベースだろう
民間ベースだと、あまり長距離を土器を運び続けるインセンティブがないんだよな
瀬戸内ルートなら吉備で、日本海ルートなら出雲で、土器はいつでも入手できるんだし、
実際、北部九州への搬入土器は畿内の優位が確立するまでは、吉備甕や出雲様式の土器が
多く出ている >>435
土器を運んでくるんじゃなくて
人がやって来て
飯食うのに土器こねて作ってるんだろ >>433
>伊都国と邪馬台国と倭国の位置関係って
>頭の中でどーなってるの?
私は九州説じゃないけど、ここまで九州説の言い分に付き合ってきた限りでは
北部九州が倭国
倭国の中に邪馬台国と狗奴国がある
伊都国が卑弥呼のいる都
だから、伊都國が邪馬台国
だと思う
大笑いww >>436
>飯食うのに土器こねて作ってるんだろ
それは、九州の土器でも飯は炊けるからなぁ
定着民がいないと、畿内様式の土器を作り始めたりはしないだろう
または、政治的な強制力がある場合でもそうなるけれど
畿内からの搬入土器では、畿内の胎土で煤が一切ついてなくて、
商品として持って来られたと考えられるのもあるんだって
この辺が、民間の商業ベースと言えば言えるかな? 北部九州に倭国
倭国の中に邪馬台国と狗奴国があって倭国王の座を争っている
伊都国が倭国旧首都であり卑弥呼のいる邪馬台国首都
なんの疑問も無く解決された >>437
警察で尋問受けてる犯人の保身のウソ供述が、どんどん奇怪に支離滅裂になってくパティーン >>440
鉄器ゼロだかた
せめて土器だけでも献上したんじゃね? 北部九州に倭国があって
倭国が邪馬台国と狗奴国に分かれて倭国王の座を争って(南北朝動乱と同じ
伊都国が倭国旧首都であり卑弥呼のいる邪馬台国首都(北朝が京都を保有と同じ
何の問題も無く解決された ちなみに鉄器ゼロの遥か東の倉庫群は遠すぎて(海外遺物もゼロでしょ
倭人伝の東方倭種に含まれるかどうか微妙 >>438
>マジで、そんな支離滅裂なこと考えてんのかな
>>442が答え合わせしてくれたよww
>>437でほぼ九州説の主張でいいらしいww >>447
論破されると悪口しか言えなくなるのが
畿内説の哀れな脳 >>444
>鉄器ゼロだかた
>せめて土器だけでも献上したんじゃね?
九州王朝は、土器もらってうれしいほど貧乏だったのか?
まあ、平原1号墓程度が王墓候補って言うくらいしょぼいのは事実だがww >>446
>北部九州に倭国があって
>倭国が邪馬台国と狗奴国に分かれて
邪馬台国まで水行10日陸行1月で
投馬国までが水行20日で
これ、どんな位置関係? >>431さん
畿内で大量に出土する、鉄器用の砥石って、何に使ったんでしょうね? 位置論争なんかどうでもいいのにな。
邪馬台国女王国、大和朝廷がどのように成立したか、中心勢力は何処か、倭国大乱前の倭国のあり様など解明すべきことは沢山あるのにな。 >北部九州に倭国
>倭国の中に邪馬台国と狗奴国があって倭国王の座を争っている
>伊都国が倭国旧首都であり卑弥呼のいる邪馬台国首都
あそう
じゃあそれでやってやろうか?
径100歩の墓は?
大量の魏鏡は?
親魏倭王印は?
宮殿は?
丹は?
入れ墨は?
骨占は?
南に行くんじゃねぇの?ここもう到着してるぞ?
水行10日、陸行一月の行程どうすんだ?
7万戸の人口とかどこにあるんだ?
つかそこに14万戸あるんだ?
何にも変わらんが?
いや、むしろ酷くなってるが
なぁ基地外?
お前の言う通りにしてやってんだけど全く該当しないが >>454
わずかに鉄器が入ってこようとしていた段階で
九州に倭国乱が起きて、末端のド田舎には鉄材料が入って来なくなった >>452
>邪馬台国まで水行10日陸行1月で
>投馬国までが水行20日で
>これ、どんな位置関係?
私は九州説じゃないけど、ここまで九州説の言い分に付き合ってきた限りでは
邪馬台国まで水行10日陸行1月も
投馬国まで水行20日も
どちらも帯方郡からの日程
伊都國の旅程を日数で言い直したもの
邪馬台国までは、狗邪韓國までの七千餘里に七日
あとの渡海千里に1日ずつで計十日
最後の陸行1月は陸行1日の間違いかも
投馬国は北部九州で上陸せず、そのまま南へ船で行って
宮崎の西都原付近の妻が投馬国
だと思う
大笑いww >>458
>九州に倭国乱が起きて、
倭国乱の影響と見られる高地性集落がなくなってからも大量に砥石が出るんですが? >>459
不利になって、九州説を勝手にでっち上げてディスる醜い姿 >>458
それで、なんで砥石だけあんの?
??? >>395
>「郡使往來常所駐」は単に、“必ずここに立ち寄る”ぐらいの意味だろう
根拠なし >>460
高地性集落が倭国乱の影響である根拠は?
ついでに
高地性集落ですら鉄器が出土する。
なのに鉄器ゼロなら邪馬台国じゃない。 >>462
北部九州邪馬台国に嫌われたため鉄原料が入らなくなり、
領内の鉄器は使い果たして無くなった >北部九州に倭国
>倭国の中に邪馬台国と狗奴国があって倭国王の座を争っている
>伊都国が倭国旧首都であり卑弥呼のいる邪馬台国首都
じゃあこれにもっとお望みの物を入れてやるよ
・魏の鏡がザクザク
・絹も大量
・鉄も当然山のよう
これでやってやろうか?
径100歩の墓は?
大量の魏鏡は?
親魏倭王印は?
宮殿は?
丹は?
入れ墨は?
骨占は?
南に行くんじゃねぇの?ここもう到着してるぞ?
水行10日、陸行一月の行程どうすんだ?
7万戸の人口とかどこにあるんだ?
つかそこに14万戸あるんだ?
どうすりゃ九州に邪馬台国出てくるのかもう分からんなこれ >>461
>不利になって、九州説を勝手にでっち上げてディスる醜い姿
いや、かなり忠実にここにいる九州説の言い分をまとめただけだぞ?
九州説の主張って、主張するだけで九州説をディスることになるんだww
すげぇな!ww 結局、畿内に3世紀の都市遺跡なんてないんでしょ。
纒向の建物が4棟だけなんて、都市ではないし、卑弥呼の王宮にもならないよね。 >>466
>領内の鉄器は使い果たして無くなった
「根拠」は?
鉄器が大量にあったから、砥石も大量にあるんだよ
それだけのことがどうして分からないんだろうねww >>467
全てとっくに何度も何度も書かれているが、
あたかも判明していないかのように装う醜い敗残者の姿 >>461
あれって、答えに窮した九州説が沈黙したから>>459が親切に推定してあげただけなんだよなー
違うなら違うと、ちゃんと訂正してみ
できないなら>>459で指摘されたブザマ説のままでアタリ 【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg おかしいなぁ
こんなに一生懸命九州に邪馬台国が出来るように協力してるのに
ドンドン遠ざかるだけなんだけど
なぁ、どうしたらいいと思う?九州説の異常者さんよ?
どうしたら九州にそんなもんが出てくんだ? >>470
3世紀遺跡の生活空間から驚異の鉄器ゼロ
脅威の 鉄 器 ゼ ロ >>474
議論に敗北し
返事を無視して自分の主張を連呼するだけの敗残者の醜い姿 >>471
どこに書かれているの?
具体的に示してね ヤマタノオロチは、元々は丹後半島だろうな。
王が殺されて、一族が畿内に逃げ延びた。
その後一部伊吹山辺りに移った可能性がある。
伊吹山、ヤマタノオロチの神霊が住むと言われているな。
ヤマタノオロチ族と風宮の神との関係が気になるな。
級長津彦命
級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない。
丹後半島に遅れて、畿内淡路島や池上曽根、彦根で鉄工房が始まるからな。
伊吹山、和歌では一途な想いの代名詞。
畿内に逃げ延びたヤマタノオロチ族は、助けてくれた勢力に恩義を感じていたのかもな。
伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている。 >>469
>纒向の建物が4棟だけなんて、都市ではないし
4棟だけだって証拠は?
??? >世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。
漢委奴国王印は倭奴国に下賜されたが、考古学的には伊都国の歴代王墓の時代なので、伊都国と倭奴国は同じ国であり、表記が違うだけである。
伊都国が、王権の所在地であり、外交の舞台でもあった倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は、伊都国にいたと書いてあることになる。 邪馬台と書いてヤマトと読む。
倭と書いてヤマトと読む。
つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
魏志にある女王国もまた同義である。
卑弥呼の称号は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王(親魏倭王)である。
倭国は稲作伝来の地である玄界灘沿岸に成立し、対馬海峡の交易により発展した海洋国家であり、海人の国を意味する「天津国」とも呼ばれた。
生活の基盤が次第に漁撈から稲作と交易にシフトすると博多がその中心として発展したが、卑弥呼の時代には王都は博多からやや離れた伊都国に置かれた。
倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。
漢の時代に金印を授かり冊封され、女王卑弥呼の時に魏から冊封された。
倭国においては筑紫の他に、豊国、肥国などの有力な国があり、魏志によると東の海を渡ったところにも倭種つまり出雲や近江、越など日本海沿岸に国が続いていた。
畿内は京都も大阪も奈良も、沼地であった。 >>480
>魏の時代には伊都国に(女)王がいて、
原文改ざんはダメ >>477
過去スレ嫁
簡潔には
邪馬台国は鉄器や硯の集中する北部九州国家
卑弥呼の墓は魏志倭人伝そのまんまの副葬品のある平原1号+2号+多数の殉葬土壙墓(共有する周溝の長径百余歩 お、コピペ荒らし始めたな
呟き基地外もそろそろ動員かな?
いつもの邪馬台国の会シフトだなw >>483
親魏倭王 親魏倭(女)王
魏の時代には伊都国に(女)王がいて >>480
>魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
松本清張以来、『A統属B』を「AがBを従えている」、ここでは伊都国王が女王国を支配していると
解釈する方がいるが、三国志においてそのような用例は無いということが解っている。
ここは通例どうり、伊都国王は女王国に従っているという解釈以外はない。 >>484
>邪馬台国は鉄器や硯の集中する北部九州国家
>卑弥呼の墓は魏志倭人伝そのまんまの副葬品のある平原1号+2号+多数の殉葬土壙墓(共有する周溝の長径百余歩
>北部九州に倭国
>倭国の中に邪馬台国と狗奴国があって倭国王の座を争っている
>伊都国が倭国旧首都であり卑弥呼のいる邪馬台国首都
じゃあこれにもっとお望みの物を入れてやるよ
・魏の鏡がザクザク
・絹も大量
・鉄も当然山のよう
へぇ
じゃあこれでやってるよ?
宮殿は?
丹は?
入れ墨は?
骨占は?
まさにこの地域も含めて九州全域から関東までが畿内の影響にまみれて北部九州じゃ収まらないけど他は無視なんだ?
南に行くんじゃねぇの?ここもう到着してるぞ?
水行10日、陸行一月の行程どうすんだ?
7万戸の人口とかどこにあるんだ?
つかそこに14万戸あるんだ?
やっぱり出てこないな ・世有王。
ここで切れて
・皆統属女王国
>世有王
(首都である)伊都国には代々王がいる
あるいは、(漢代からの首都である)伊都国には魏代の今も王がいる
>皆統属女王国
(首都である伊都国の皆は)(邪馬台国と狗奴国が倭国王の座を争っている今)
女王国=邪馬台国に従っている。
(だから魏と仲のいい邪馬台国が倭国の正統だよ)
ということ。 >>480
>漢委奴国王印は倭奴国に下賜されたが、考古学的には伊都国の歴代王墓の時代なので、
>伊都国と倭奴国は同じ国であり、表記が違うだけである。
北部九州の王墓(級)とされている遺跡は
奴國 吉武高木遺跡 前期末から中期初頭(前三世紀末〜前二世紀初め)
須玖岡本遺跡 中期後葉〜末(一世紀初めごろ)
伊都國 三雲南小路遺跡 中期後半〜中期末(前一世紀後半?)
井原鑓溝遺跡 後期中ごろ(一世紀終わりごろ)
平原遺跡 後期後半〜終末期(二世紀末〜三世紀初頭)
末廬國 宇木汲田遺跡 中期前半(前二世紀前半)
漢委奴國王の金印をもらった光武帝への朝貢(西暦57年)は
奴国の須久岡本遺跡D地点甕棺墓の方が時代が合うようだよ?
できるだけ、こういう「根拠」をつけて論じてくれるかな? >>493
骨占も何度も書かれているな。
畿内説が無人の纒向を取り繕うために畿内全域の人口を入れるのなら(それでも7万戸に足りないが
九州説が倭人伝に書かれている壱岐対馬=骨占の最大本場を含めるのは必然 >>496
複数出てるよ
高祖山を中心に東西に絹生産地があったらしい。 >>498
都は銅鏡祭祀でしょ?
魏志倭人伝に都でやってると書かれているの? >>497
何度も論破されてるな。
その言い訳・・ >>496
だってキュウシュウセツ君のバカネタを成立させるためには無い物もあると言い張らないとどうにもならないんだもの
国産だらけの鏡も魏の鏡だと言い張らないといけないし、ちっさい方形周溝墓も径100歩の墓と言い張らないと
でも全然足りない要素だらけで困ってんだよ
九州全域から関東まで畿内の影響にどっぷりつかってて文化的に飲み込まれてるけど北部九州だけで話が完結してるらしいし
いやぁ基地外の脳内は凄いね
これが邪馬台国の会の力かー感動するね >>494
魏略の記載では
「東南五百里 到伊都國 戸万余 置官曰爾支 副曰洩渓 柄渠 其國王皆属女王也」
「その国王、皆女王に属するなり」だから
>>494の言うような(首都である伊都国の皆は)という解釈は入る余地がない 杵築大社の天井図。八雲が一つ欠け七つしかないだろ。
あれは、紀元前後出雲地方の内乱の結果、神庭にいた渡来人系の出雲の王族が追放されたから。
出雲地方で元々信仰されていたのは、姫神の幸神、東から来て文物をもたらしたクナトの神。そしてその子のサルタヒコ。
サルタヒコ一族は、縄文人のオオナムチに破れるんだな。
そして、畿内など各地に逃げ延びる。
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が畿内各地で出ている。
同じ紀元前後の時代。
渡来人系の丹後半島の王族ヤマタノオロチ族。
丹後半島に侵攻したカグツチ(ホアカリ系、記紀でいうスサノオ)に王が殺されて、一族が畿内に逃げ延びる。
その後一部伊吹山辺りに移った可能性がある。
伊吹山、ヤマタノオロチの神霊が住むと言われているな。 >>499
>複数出てるよ
>高祖山を中心に東西に絹生産地があったらしい。
具体的な遺跡名は? >>502
>これが邪馬台国の会の力かー感動するね
でも、ここで一番香ばしいのは、
古田史学の会の劣化コピーの九州王朝説のやつだよww >北部九州に倭国
>倭国の中に邪馬台国と狗奴国があって倭国王の座を争っている
>伊都国が倭国旧首都であり卑弥呼のいる邪馬台国首都
あそう
じゃあこれにもっとお望みの物を入れてやるよ
・魏の鏡がザクザク
・絹も大量
・鉄も当然山のよう
・径100歩の墓は平原1号+2号+殉葬土壙墓を囲む共通周溝の長径
・親魏倭王印は日本のどこにもないが、漢委奴国王金印はある
・宮殿は高祖山にそびえていた
・丹山あり
・入れ墨は縄文からの九州文化
・骨占は壱岐対馬に大量分布
・日程は別記載で、水行20日で投馬国、水行10日、陸行1日で邪馬台国
7万戸の人口とかどこにあるんだ?
つかそこに14万戸あるんだ?
何にも変わらんが?
いや、むしろ酷くなってるが
なぁ基地外?
お前の言う通りにしてやってんだけど全く該当しないが
おい基地外? >>495
>漢委奴國王の金印をもらった光武帝への朝貢(西暦57年)は
>奴国の須久岡本遺跡D地点甕棺墓の方が時代が合うようだよ?
年代は幅がある。
須玖岡本遺跡の被葬者は、副葬品から将軍クラスと考えられている。
三雲南小路遺跡はほぼ同時代で、三種の神器が揃った王墓と考えられている。 毎日「九州は大量の鏡と絹が畿内の何百倍も出てくる!」とか喚いてるのにね
聞いてみると何にも出てこない
ふしぎだな >>505
今手元にないけどググったら出て来るよ。
鉄器ゼロとは違って考古学的事実だから。 >>497
>畿内全域の人口を入れるのなら
邪馬台国7万戸の範囲は、「畿内第V様式土器の範囲」だよ
奈良盆地、西河内から、大阪湾岸地域くらい
畿内全域じゃないよ 原点に戻ろうか
・大量の畿内が関係しない場所から出てる漢鏡はどこにあるんだよ?
・消滅寸前の貧相な絹の出土状況に加えて、どこに卑弥呼が献上したような高品質の絹があるんだよ?
・丹が見つかる山とやらはどこにあるんだよ?
・宮殿はどこだよ?
・葺石も、三角縁も、畿内土器もない、径100歩の円墳とやらはどこにあるんだよ?
・畿内の歴史と出土量を上回る「独自文化」と言い張れるだけの骨占どこにあるんだよ?
・吉備や東国以上の物だと言い張れるだけの入れ墨の痕跡がどこにあるんだよ?
・九州全体が畿内の生活・宗教様式に塗りつぶされてどこに主体があるんだよ?
※そもそも邪馬台国どこにあるんだよ!?
まぁアホの九州説の妄想に付き合っててもしょうがない
現実のどこにあるのかサッサと言え >>511
河内入れていいのか?
むしろ纏向は東海と密接だろが >>510
じゃ、アンタがググっても出て来るよな
「今手元にないけど」ってイイワケ、成り立たないよな
何で遺跡名を言わないの?
これだから九州説は・・・ >>505
悲しいだろうけど、考古学的事実は直視しような。
畿内説は無理筋だから、いい加減諦めろよ。 >>515
だから伊都から弥生絹が出土したのは事実だから
探せば出て来るだろ。
それだけのことだ。
鉄器ゼロだといくら探そうがどうにもならんが。 >>508
>三雲南小路遺跡はほぼ同時代
いや、紀元前でほぼ100年違うんだが?
幅があるって言っても、無理すぎだろ?
この時期の九州優位は畿内説も認めてるんだから、無理に伊都國に
持って来ようとしなくていいんだよ
須玖岡本遺跡D地点甕棺墓の出土遺物は
銅剣 2
銅矛 4
銅戈 1
銅鏡(前漢鏡) 32面以上(方格四星草葉文鏡 1、重圏四星葉文鏡 2、蟠螭(ばんち)鏡 1、星雲文鏡 5面以上、重圏文銘帯鏡 5面以上、内行花文銘帯鏡 13面以上、不明 5面)
ガラス璧(瑠璃壁) 2個片以上
ガラス勾玉
ガラス管玉
で、一応、剣、鏡、玉が揃ってるよ
どうして将軍級とか格下げしなくちゃいけないんだ? >>511
畿内X式を邪馬台国にする根拠がない。
魏志倭人伝の時代からズレてるだろ。
2世紀末、ヤマト征伐。
それまではヤマトはクナ国の一部だろうな。
河内は河内彦。
ヤマト山外はナガスネヒコ。 伊都から絹が出ているのは事実
住居無しの倉庫遺跡から鉄器ゼロなのもこれまた事実
ググれ! >>513
>河内入れていいのか?
>むしろ纏向は東海と密接だろが
畿内第V様式の時代に、土器形式が統一、共有されている
庄内式土器は、西河内と纏向で協力して形式を作り上げていった様子が見られる
ただし、それぞれに工房があるから、区別しようと思えば区別できる
大和川で直接つながれた、一体の集団だよ >>524
北部九州倭国からはるか彼方の
鉄器ゼロの辺境でもいろいろあったんだなあ 河内は三世紀半ば卑弥呼が亡くなった後、邪馬台国側と和睦したんだろう。
孝元天皇は(台与の時代か)、河内青玉繋(河内彦)の娘である埴安媛と血縁を結び、武埴安彦命が生まれる。血縁を結ぶことで、狗奴国と和睦したと考えられる。
纒向でも三世紀半ば以降急激に河内の土器が増えるからね。 >>522
同じ文化圏だって根拠があるではないか。 >>523
このように、決して証拠を出さないのが
九 州 説
>>529
伊都から絹が出ているのは事実
住居無しの倉庫遺跡から鉄器ゼロなのもこれまた事実 鉄器ゼロの文化圏か
髭も剃れないムダ毛処理もできない「毛人」がいたのだなあ >>531
証拠提出を拒否して言い張るだけ
それが九州説か
ゴミだな >>535
伊都から絹が出ているのは事実
住居無しの倉庫遺跡から鉄器ゼロなのもこれまた事実 ヤマトが先に卑弥呼を共立した勢力に征伐されただけ。ヤマトは卑弥呼が都を置いたところであり、対クナ国の前線。
ヤマトと河内側が対立していたのは、2世紀末から3世紀半ばだろう。
張政が帰国したということは、役割を終えたということだよ。
クナ国との争いが終焉したんだろうな。
恐らく河内が寝返り、卑弥弓呼の勢力は征伐されたんだろう。 九州のアホからかって遊んでたけどもう良いや
畿内の話に戻るか >>522
>畿内V式を邪馬台国にする根拠がない。
>魏志倭人伝の時代からズレてるだろ。
これで、かなり有力な大勢力ができたから、そこに他の勢力が乗る形で
卑弥呼の共立がなされるんだよ >>538
なんで生活空間から鉄器が出んとイカンのや >>540
>畿内の話に戻るか
滋賀県守山市の伊勢遺跡が廃れるのと
纏向遺跡の建設が始まるのは、時期的にどっちが先なんだろう? >>522
どうしてズレてると言うんだ?
理由は? このように、九州説は「鉄がー」しか言えません
しかし、甕棺墓の時代が終わってから、どこで鉄鏃が出たか、
いくら聞いても答えられません 官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。 阿波の美馬か。
奴佳鞮は中臣。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官と大和朝廷の官はそっくり。
邪馬台国は出雲尾張の縄文系勢力を中心とした政権なんじゃないかな。
纒向の初期の外来系土器は出雲など山陰と尾張が多いしね。 >>548
うん、鉄器ゼロだから、邪馬台国じゃないねw 纒向ご自慢の土器群に、楽浪あるいはせめて朝鮮からの外来土器はあるのか? 猪→鹿→鳥
大和朝廷の勢力の移り変わりか。
卑弥呼共立当初は猪+鹿、その後ずっとは鹿かな。
猪、BC1000年頃渡来し水稲をもたらした古い海神。日本海側から勢力を拡大。陶ケンを使っていた勢力だろう。
水稲は同緯度じゃないと根付きにくい。
日本列島と同緯度の殷の末裔かな。
鹿は縄文人。
鳥は弥生時代前期末〜中期、環大阪湾に渡来した勢力かな。 >>545
纏向の登場と入れ替わる形で衰退してる感じだな
元々、弥生中期までは近江と東海はヤマトと連合に近い形を形成してる様子が見える
弥生時代後期にその連合からヤマトが抜けて独自勢力を形成してる
そのヤマトが抜けた後の近江、東海の連合の盟主になってるのが伊勢遺跡の勢力だと思う
ヤマトの成長に伴い結局その傘下に加わる形で解消していく流れではないかと思う 今、九州説が「鉄がー」連呼でごまかしてること
邪馬台国はどこ?
>>437の
北部九州が倭国
倭国の中に邪馬台国と狗奴国がある
伊都国が卑弥呼のいる都
だから、伊都國が邪馬台国
のあと逃げまくりww 伊勢遺跡の全盛期に東海の痕跡なんかあったかな。なかったんじゃないかな。 今、九州説が「鉄がー」連呼でごまかしてること
邪馬台国まで水行10日陸行1月で
投馬国までが水行20日で
これ、どんな位置関係?
>>459の
邪馬台国まで水行10日陸行1月も
投馬国まで水行20日も
どちらも帯方郡からの日程
伊都國の旅程を日数で言い直したもの
邪馬台国までは、狗邪韓國までの七千餘里に七日
あとの渡海千里に1日ずつで計十日
最後の陸行1月は陸行1日の間違いかも
投馬国は北部九州で上陸せず、そのまま南へ船で行って
宮崎の西都原付近の妻が投馬国
のあと逃げまくり
以後、支離滅裂な荒らしコピペと、「鉄がー」連呼に逃げるww あと、ザラコクは早くこれに答えてね?
「末慮國から伊都国へ向かう、『出発方向が東南の経路』を
途中通過点を5ヶ所くらい現代の地名で示して論証してくれればいいよ 」
出発方向が東南だから、「末慮國から伊都国が東南陸行500里で正しい」って
主張してるんだからなww >>558
>纏向の登場と入れ替わる形で衰退してる感じだな
>ヤマトの成長に伴い結局その傘下に加わる形で解消していく流れではないかと思う
その、ヤマトの傘下に加わる形、というのが卑弥呼の共立とタイミングが合えば、
ものすごく日本の国家形成がすっきりするんだけど、そこまでの精度が
編年から出せないからなぁ 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000<水行20日投馬国>
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 <水行30日陸行1日> 古代のことは、文献も、考古学遺物も古くなればなるほど乏しくなるから、
完璧に物事を解明することは難しいし、得られる情報自体も不正確になる
その中で、より整合性の高い全体像を構築しようとする試みが、歴史学な訳だ
もとより不完全な情報しか得られないから、その妥当性には限界があるし、
既知情報の中にも当然に互いに矛盾するものもある
でも、より多くの情報を集めることで、整合性のあるコンセンサスが作られていき、
多数説や定説として多くの人(専門家・研究者)に認められるようになる
だが、多数説や定説にも不完全な部分はあるし、矛盾する情報が残るのも
当然
で、不利になったと思うと、その多数説の一部に残った「矛盾する情報」を
連呼することで憂さ晴らしに走る連中が出るww
まあ、「矛盾する情報」といっても、とりあえずは妥当な説明ができるんだけれど
(だから定説化している)、完全な証明はできないから「納得できない」という
感情だけで、連呼厨に逃げるやつが出るんだよな
畿内に鉄が出ないといっても、周辺に大規模製鉄遺跡があって、鉄があるのが前提の
生活様式の変化(石庖丁の消失、大量の砥石の出現)が確認できているんだから、
論理的な考えのできる人は「鉄がなかった」ではなく「鉄が残っていない」と
判断できるんだが、論理の分からない人は「鉄がゼロ」を連呼して悦に入る訳だ 記紀や各地の謂れはヤマト征伐から大和朝廷が始まるからね。
実際は。中心勢力は神武、九州の勢力ではなく、尾張や出雲など山陰の勢力だけどね。
考古学的にも矛盾しないしね。 >>565
>馬(方四百余里)
これ、「根拠」がないんだよね
昔っからこれを言う人はいるけど
そして、「南至投馬國水行二十日」
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」は全無視がデフォ 末慮國から南東500里に首都の伊都国がなければならない。
間抜けの考古学的には、これが、出発点だぞ。
で、東南100里で奴国
東百里で不彌国。
内陸でしょ? なんでそっから水行するよ?
読者が帯方郡から水行で20日の投馬国は
後の任那って知ってるから国名をそのまま、書いたんだよ。 >>568
で、外来勢力が畿内に定着・成長して、3世紀に邪馬台国として、大陸の史書に
登場するんだから、畿内説で問題ないだろ? >>572
鉄器が普及していればよかったのだが。
残念! 結局、九州説のからの反論って
俺様の説と違う
しか無いんだよなー >>571
女王国までの萬二千里が、実際の旅程とは関係のない、
中華世界の世界観から来る数字だから、それを使っても意味がないんだよ
萬二千里は、淮南子以来の大陸世界での概念的な「地の果てまでの距離」を
記しただけだから、それを典拠にするのもむなしいだけだぞ
淮南子: 時則訓
「東方之極」,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,
青土樹木之野,太r、句芒之所司者,「萬二千里」。
倭国は中華世界の「東方之極」という「設定」
だから「萬二千里」なんだよ >>563
近江周辺の勢力は王と言うよりも多くの集落のリーダー的な存在に見える
で、大和はいち早く王権を形成してより強い指導力を得てるように伺える
その辺が大和が主導権を得た理由じゃないかと思う
この大和に対抗して東海で独自勢力が形成されたけどこれも双方の政治的和解で吸収合併されていく感じ
やはりこの辺りの地域合併の動きも大和を主体に動いてるように見えるな 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000<水行20日投馬国>
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 <水行30日陸行1日> >>571
>水行で20日の投馬国は
>後の任那って知ってるから国名をそのまま、書いたんだよ。
いや、九州へ向かうときに後の任那通ってますやん?
そこまでで水行20日使ってたら、北部九州まですら着かないだろうが?
邪馬台国まで水行10日陸行1月が全行程って言ってたじゃないか?
どうして、いちいち自己矛盾を書き込むかなぁ? 飛騨の口碑は、ここのテンプレより真実を含んでいるんじゃないかな。
飛騨美濃尾張の縄文系勢力が出雲を作り、大和朝廷を作ったと。
日本書紀にある飛騨の顔が二つ胴が一つの怪物退治で一つの時代が終わるんじゃないかな。 >>580
投馬国から邪馬台国までが水行10日陸行1日
相手の言うことを捻じ曲げてどうすんだ? >>577
>近江周辺の勢力は王と言うよりも多くの集落のリーダー的な存在に見える
確かにそうだね
伊勢遺跡は建物群が立派だけど、王墓級の卓越墓は検出されないし
東海は朝日遺跡が盟主でいいのかな?
他にめぼしい遺跡あったっけ? 神功皇后応神仁徳が次の転機。
考古学的にも4世紀後半畿内の大きな勢力交代が示唆される。 朝日遺跡は北部九州倭国軍の祭祀銅戈や防御用巴型銅器が出土しているから
北部九州倭国の最前線基地 >>582
>投馬国から邪馬台国までが水行10日陸行1日
え? そんな設定? びっくりした!
投馬国までの水行20日の起点はどこなの?
九州の不彌国まで来て、そこから戻るの?
帯方郡から水行20日で投馬国っていう設定じゃなかったの? >>586
涙ぐましい演技だなw
さんざん九州説が言ってるだろうが
里程は不彌国まででいったん終了
日程は再度帯方郡からで、
帯方郡から投馬国まで水行20日
投馬国から邪馬台国まで水行10日陸行1日 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000<水行20日投馬国>
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 <水行30日陸行1日> >>582
>投馬国から邪馬台国までが水行10日陸行1日
任那が投馬国って言ってるんだから、そこから北部九州までどうやっても
水行10日かからないだろ?
渡海千里は、1日で漕ぎ渡れる距離だぞ?
それが3回で、3日で九州まで来る >>589
朝鮮通信使はもっと日数かけてるぞい
水行10日だったら妥当などころだ
なんでお前が
>水行10日かからないだろ?
なんて断定するかと言うと
弥生時代の卜占最大本場であり、
船着き場遺跡すら出土している
壱岐に立ち寄らせたくないという
浅はかな考えからだw 鉄器ゼロの倉庫は脱落として
他に候補地はあるのか? 後は鳥トーテムの集団が何かだな。
春秋の呉からの難民か、もう少し時代が下って秦からの渡来か。
池上曽根遺跡の年代が気になるな。
秦には、鳥トーテムの女系部族がいたらしいが、関係あるのかないのか。
まさか徐福とは関係ないと思うが。 >>587
>里程は不彌国まででいったん終了
>日程は再度帯方郡からで、
>帯方郡から投馬国まで水行20日
>投馬国から邪馬台国まで水行10日陸行1日
いやいや、これは新しいわ!
九州説にもいろいろいるけど、これは新種だ!
>さんざん九州説が言ってるだろうが
これを言った九州説は他にいないよ?
他の九州説の人に聞いてごらん?
これに同意してくれますか?ってww
何にしても、任那の位置から北部九州まで水行10日は無理だわ 3世紀に鉄器ゼロのある意味で驚異の倉庫は脱落として
他に候補地はあるのか? 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000<水行20日投馬国>
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 <水行30日陸行1日> >任那が投馬国って言ってるんだから、そこから北部九州までどうやっても
>水行10日かからないだろ?
>何にしても、任那の位置から北部九州まで水行10日は無理だわ
さあ、畿内説が煮詰まってきましたw >>583
前方後方墳の存在が興味深いね
あれは大和に対抗したのか、それとも大和との合意で作ったのか
最古と考えられる前方後方墳が滋賀にあるし
個人的には大和の意向で作らせた物じゃないかと思う
半独立的な同盟王に認めた墓なんじゃないかなと
出雲や物部に関わる場所にあったりしてその想像を補強する
東海だと朝日遺跡かね
高尾山古墳とかもかなり存在感がある >>598
島巡り仮説は無理なんだって
そして、>>587の人と意見統一してくれるかなぁ 魏志倭人伝において、ます到着するのは末盧国である。500里をはるばる歩き、伊都国(博多湾一帯)に至る。
伊都国から奴国(飯塚市を中心とした遠賀川流域一帯)へ。さらに東に進み、周防灘に面する不弥国(行橋市)に至る。飯塚市から行橋市に古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時、玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路だった。
そこから船で南へ沿岸を航行し、20日かけ大隅半島を抑えている投馬国へ着く。
大隅半島を南へ漕ぎ出し黒潮に乗る。黒潮は時速7Kmであり、何もせずとも1日に150Km進む。黒潮は自然と潮岬に接岸する。(現代において観測され証明されている)つまり10日で潮岬に流れ着く。
熊野に上陸し、陸行1ヶ月でヤマトに至る。 >>598
だから朝日遺跡はもろに北部九州倭人だってばw
考古学的には、
河内や奈良をすっとばして朝日遺跡ができたのだから、
琵琶湖経路なのか東からぐるっと回って来たのかを考証するべき話
こりゃ正常な探求はあと100年は遅れるねw >>598
>前方後方墳の存在が興味深いね
まあ、ばっちり分布が分かれているわけではないけれど、
氏族の奉斎神が、天孫・天神系は前方後円墳
地祇系が前方後方墳を盟主墳としているようには見えるよね
そう見ると、前方後円墳と前方後方分を区別するところまでが、
古墳祭祀体系の秩序のうちってことだから、共立メンバー全体の合意のようにも
見えるんだけどね >>602
なんか根拠あって言ってるわけ?
だから九州説は・・・ 共に大和朝廷を作った猪と鹿は、その後仲違いするんだな。
鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。
ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。
次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。
その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また火に関するものもある。
◎牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。
見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石(縄文系勢力)にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。
海神を乗っ取った縄文系勢力は、神功皇后に討たれた。
久留米では、牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼は磯女を娶ったミミなのかもしれない。 >>605
あのなあ
菱環鈕式銅鐸が何処から来たん?
巴型銅器が何処から来たん?
朝鮮半島式に類似した住居は?
なんで太平洋側に玉造工房?
鉄器もわずかだけど出てる
どうみても北部九州倭人が来てるだろが >>595
言い張ってるけど.鉄器ゼロって証拠ないから 中大兄皇子の歌
「香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」
原文「高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉」
古代からミミとミミなしの争いが続いている。
現代風に言えば、タケ派vsヤマ派。 >>607
これが根拠のつもりなのが九州説
おめでたいな >>611
朝日遺跡は間違いなく北部九州倭人の最前線遺跡 >>603
双方に深刻な対立みたいなものは見えないしね
むしろ共存を普通に受け入れてる形
纏向に東海の土器が多い辺りも関係が深い事を意味してる
構成員には前方後円墳
同盟国には前方後方墳と言う風に感じられる
殆どは間もなく前方後円墳になるけど、出雲や物部みたいな存在はかなり後までその形を維持してる辺りが面白い
この相手によって連合の位置を変えてる辺り中々巧みだと思う
ちゃんと立ち位置を用意してる
この辺の墓制の決定までが「共立」の流れではないかと
そう考えるとやはり3世紀初頭がその動きの起点かなと 大津皇子可哀想だな。
辞世の句
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
ももづたふ、敦賀や鈴。
イワレと鴨を恨んでいるのかな。
雲隠りなむ、太陽が雲に隠れるのかな。
太陽は烏。
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕離家向
金烏の家は西にあるのかな。和泉路に賓主はなし。
我こそが応神天皇の子孫だと言いたかったんだろう。
息長氏(敦賀、鈴)、神功皇后、応神天皇。
大津皇子は磐余や鴨と対立する血統で、そのせいで虐げられたのが伺える。 鉄器の普及しない毛人の地域にもいろいろあったんだなあ 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000<水行20日投馬国>
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 <水行30日陸行1日> 鉄器が無い時代って、どうやってひげ剃ってたの?
鉄器があれば、髭も剃れるし髪型も整えられる。
鉄器が無いと見た目がやっぱりぼうぼうになって
まさに毛人だよね! 蘇我氏が鳥の格好をして祭祀を行い、それを見ていた物部氏が笑う。
蘇我氏「鈴がなれば、もっと上手くできるんだけどね」
みたいなエピソードがあったな。
鳥、井戸の神々の真似事をしていたんだろう。
鈴鳴、ヤマタノオロチ族(本来のスサノオ)と井戸の神々が祭祀を行っていた記憶があったんだろうな。
鈴の宮遺跡と関係あるのかないのか。
鳥、井戸の遺跡はあちこちあるが、代表的なのは池上曽根遺跡だな。
井戸の神々は坐摩神社に纏められている。
他にもいるかもしれないが。 物部氏や蘇我氏は、鳥トーテム、井戸に関係ないんだな。 クナ国は邪馬台国の南。河内〜和泉。
卑弥弓呼は、記紀でいうサルタヒコだな。
サルタヒコ。
出雲族の姫神幸神と、倭人の彦神クナトの神の子。
倭人と出雲族の同盟の証。
月夜見にして大国主、卑弥弓呼。日見彦。暦の一子相伝者。
倭国大乱で殺されて、日本列島から暦が無くなる。
猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、淡の境。
その近傍にイシズ川。
猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北が浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。
伊勢と同じものが揃っているんだな。 凄い偶然。 伊勢湾は鎮魂の場所。大阪湾のコピー。荒魂は本来の場所と違う処に祀るのが原則。
更にサルタヒコはヒラブカイに挟まれて亡くなるとある。
泉北丘陵、イシズ川を遡った地に平井と深井という弥生時代から立地が変わっていない集落がある。
平井と深井の間が弥生時代の鈴の宮遺跡。
サルタヒコは最後はこの辺りに逃れていて、殺されたんだろう。 サルタヒコの遺言。倭国大乱の犯人を教えてくれる。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
底、独、常、立
国底立神、国常立神、天香山の山頂に祀られている神。
鬼門に封じ込まれた神。
天岩戸の向こう側に追いやられた神だろう。
&阿波咋。 >>621
めちゃくちゃに脳内変換されてる
日本書紀を読み直せ 縄文人系の勢力が畿内の国を倒し、大和朝廷を作った。
各地の謂れ、記紀の記述、魏志倭人伝、皆繋がってくるわい。 >>867
>>(伊都国の東南百里の奴國=那の津であれば)方向も、短里でも長里でも、合わない。<
>だから、魏志倭人伝の里程が「いい加減」で「現実に合わない」んだよ<
だから、大和説者や通説定説学者らの比定地が「いい加減」で、
「史料事実の現実や実態」と合わないんだよ。 竹取物語とか鶯姫の話とか面白い。
女系部族の戦い方が窺い知れる。 狗奴国
狗奴国は東海地方、東北地方、関東地方に比定される
特に、東海地方は人口が多く、前方後方墳や、S字甕が分布が示すように、
東海系文化をになう基盤があり、邪馬台国の対抗勢力でありうる
九州説は狗奴国をボンヤリ九州以東で済ませる >>868
>>女王国まで一万二千里<
>淮南子の地の果てまでの距離の概念そのままですね(ニッコリ)<
魏志は、女王國から更に4千里の侏儒國や、
更に地の果ての東南船行1年の裸國やの黒歯國を記載しているから、
淮南子の「地の果てまでの距離の概念」と合っていない。 >>628
ここは学問板
妄想はチラシの裏にでも書いとけば? >>620
鉄器が何なわけ?
九州説って論理的な思考を語れない人がなる病気の一種なのか? >>869
>>水行10日、陸行1月<
>これ、後漢への朝貢時の記録で、淮南子の地の果てまでの距離の概念に合わせて
萬二千里って書いてたのを途中まで引用してたら、里数が足りなくなったから
日数にしてごまかしたまであるんじゃないかな ・・・<
不彌國で萬二千里になってしまっているから、
「淮南子の地の果てまでの距離の概念」説の方が×。
後は、この男の分裂幻覚の嘘吐き騙しの妄想。 クナ国は邪馬台国の南だよ。
東海〜東北なら北東だな。
邪馬台国九州説とやっていることは同じ。 >>870
>>淡路島だの近江だの <
>見る銅鐸(巨大銅鐸)の出る、畿内中心の文化圏の内側ですね(ニッコリ)<
淡路島からは、見る銅鐸が出ない筈だから、またこの男の分裂幻覚の妄想であり、×。 大和朝廷は縄文人系の政権ですよ。
先住民の歴史を奪うのは良くない。
敗者の渡来人勢力の歴史を奪うのもダメだよ。
日本の歴史上渡来人が政権を取った時代は短い。
応神仁徳以降も直ぐに物部氏蘇我氏天武など縄文系に戻る。
徳川以降もずっと縄文系の時代だろう。 >>872
>>いや、「東南百里」も「大体の記載」であるから、絶対ではない。
大体、伊都国と奴國の境界付近。<
>そんなところに国境線はないww <
伊都国の東南百里付近が、奴國の入り口であり、外縁部。 >>376俺の予想2018/02/23(金) 18:44:42.55>>382
このスレ高速で1,000まで行く
過去 5時間で500越えしたことある
奥村がくだらん競争をするから
4時間で300超えたね >>648
ニセスレ立ててるのが全一病のやつなんだな そろそろ
邪馬台国畿内説 Part328 の 準備しよーーよ >>873
>万二千里のかなたの女王国から朝貢に来たというのは、大月氏国に対抗するためにも必要な前提
金印を与えるための方便だったんだよ
陳寿はそれをいじるわけにいかなかったので、いろいろごまかした。<
魏使らも「方便」を書く必要もないし、
陳寿も誤魔化す必要もない。 >>647
入り口だ、外縁部だという根拠は何だ?
トンデモ説か? ところで邪馬台国と後の大和朝廷は同じものだと思ってる?
俺は直結だと思ってる >>653
大和t朝廷とか、いつからあるか知らんわ
ただ最初は大和に政権があった >>651
>魏使らも「方便」を書く必要もないし、
>陳寿も誤魔化す必要もない。
魏使は方便は使う必要ない、当たり前
倭国が万二千里にあるのは帰任与える時に確定しちゃったから、
これと違うことを史書に書いたら司馬氏に粛正されるよ >>872
>>糸島付近には60個以上の古墳があるから、おそらく、
>その中には、伊都国の王墓もあった。<
>そのうち、「海岸や糸島水道付近」にあるのはどれだい? ないだろww<
「付近」なら、
有名所なら、銚子塚だか、他にも志登や端山や「久里〜」とかもあったな。 >>875
史料である魏志倭人伝を、推論の出発点の中心にすべきなの。
また、推論ならいいんだが、大和説のは、
都合の悪い史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの妄想だろ?。
それと、漢文で書いてあるものを、
漢文の常識や文法から逸脱した読み方をしてはいけないやよ。
そして、「南→東」などのような「資料の限界」を無視して読むのもような×。
結局、このスレで展開されている「大和説の読み方」は、
誤読どころか、嘘つき騙しの・・・・詐欺師読みなんだよ。」 >>665
根拠なき断定の専門家ザラコクは、かく語るのだった >>876
>>>そして九州説の主張する早良付近でも東南にはならないし、<
>>当然、「東南百里」にあるのは、奴國の入り口。
その後ろ二万戸の奴國が広がっていると読むべき。<
>その入り口は、日向峠なんだろ?<
いや、伊都国の「東南百里」だから、三雲や平原付近。 >>877
>大月氏国に対抗するためにも必要な前提
この視点がない人が多いよね
倭国の朝貢は、司馬氏の王朝「晋」代に書かれた三国志の中で、
公孫氏を滅ぼした司馬懿の功績として、特筆されなければならなかったんだよ
だから、東の地の果ての萬二千里という表記が使われる<
記録した魏使らや、魏志を書いた陳寿が、
そんな事を意識したり関わったりする筈も必要もない。 >>667
なんで伊都国の「東南百里」が三雲や平原付近なんだ。
突然ご託宣たれられてもなー 前近代人が近代以降の合理主義者と同じ思考をすると勝手に決めつけるなよ >>653
>ところで邪馬台国と後の大和朝廷は同じものだと思ってる?
>
>俺は直結だと思ってる
根拠なし >>654
>>>653
>大和t朝廷とか、いつからあるか知らんわ
>ただ最初は大和に政権があった
根拠なし >>665
>「南→東」
ザラコクは早くこれに答えてね?
「末慮國から伊都国へ向かう、『出発方向が東南の経路』を
途中通過点を5ヶ所くらい現代の地名で示して論証してくれればいいよ 」
出発方向が東南だから、「末慮國から伊都国が東南陸行500里で正しい」って
主張してるんだからなww >>674
あるだろう
弥生時代の終わりころから、日本列島各地に有力な首長の墓として、様々な形の墳丘をもった墳墓がつくられるようになった。
そうした各地の墳墓がもついくつかの要素を総合して、3世紀なかごろ、奈良盆地に大きな墳丘をもつ前方後円墳が出現した。
その規模や副葬品から判断すると、弥生時代の首長とは比べものにならないほど強力な力を持つ支配者が存在したことがわかる。
箸墓古墳をはじめとする初期の前方後円墳が、奈良盆地に集中することは、これらの被葬者と初期ヤマト政権の関係が深いことを示唆している。 >>877
>九州説に質問 そもそも邪馬台国はどこにあるの? <
「邪馬台国」なんてないから、この男も嘘つき騙しなの。
>三角縁や< 志登や祇園山や藤崎や那珂八幡など。
>葺石や< 祇園山。
>庄内式の無い九州独自の経100歩の墓は?< 径百歩の祇園山には庄内がある。
>丹山は?< 松浦川の上流の山。
>質の高い絹は?< 弥生銀座。確か須玖岡本。
>古墳出土や弥生時代全体とかではない破鏡の欠片でもない邪馬台国の時代出土の100枚の中国鏡は?<
卑弥呼は、内行花文鏡や方格規矩鏡は、かなりを共立豪族たちに、
一部を東征などの将軍に、また一部を鏡片のペンダントにして直属の部下に、
残ったものは、遺品として残し、部下らは、それを次の共立女王である壹與に渡した。
>入れ墨は?< 末盧國海岸の民。
>宮殿は?< おそらく安徳台。
>骨占は?< 一大國。
>広域のクニグニを傘下に収めた証拠は?< 一大率の存在や、地方の市を監督する「大倭」職の存在。
>7万戸の大集落は?< 弥生銀座から筑紫平野部。 >>888
大和説とかほざいてる奴の話を聞いてると、
結局大和の根拠とやらはなーんにもないんだよな。
で、結局九州説にアホなケチつけてるだけのバカばかり。
現実何もないド田舎で、筑紫倭国の支配下どっぷりの属国の、
「南→東」などの嘘吐き騙しをして、
どこに邪馬壹國女王之所都なんて幻を、見てんだかな。 >>889
>ばかですか?
律令制がなくったって、いま畿内と呼ばれてる土地が無くなったりはしないんだがね<
ばかですか?。
大和が「天皇」を称したのは天智が最初で、
大和が「朝廷」になったのは、701年の「大宝元年」であるから、
6世紀以前の古代にはの、「畿内」なんてなかったんだよ。
「畿内」と呼ばれてる土地が無くなったりはしないんだがね >>891
ただのイチャモン付けだなw。
流石は、
「南→東」などの嘘吐き騙しの分裂幻覚妄想の・・・・詐欺師の大和説のガキ人種。
精神的な病気の低能の集まりだわ。 >>892
>それを言うなら九州説だって、律令制以前には無かっ、た名前だろ<
筑紫倭国には、常陸風土記に残された「倭武天皇」(倭王武の事)や、
百済本紀に書かれた「天皇」の記録がある。 九州説は便宜的にそう呼んでいるけども、本質的には九州にあった倭国という歴史的に文献に頻出する国の実在性による説だよ。 >>897
>>>673でも書いてるけど「畿内第X様式土器の範囲」が、
狭義の畿内の範囲だよ ・・・<
そりゃ、米田の論考で、河内と大和は同じ筑紫倭国の支配地ではあるが、
相互の土器の交流が少ないから「別権力地だ」という事になっていた筈だから、
×だよ。 「九州王朝」なんてないから、この男は嘘つき騙しなの。 >>898
>表 彰 状
ザラコク様
あなたは、畿内説の愚かさを解き
畿内説の矛盾を数多く指摘し
畿内説の根拠レスを論理的に証明しました
また、人として行ってはいけない、畿内説の嘘を厳しく非難しました
よって、ここにその功績を讃え表彰します
今後とも畿内説のカルト手段にまっとうな道を説くことを期待します
平成30年2月21日
ザラコク氏を支援する会<
表彰して頂き、誠に有難うございます。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 つかお前らいい加減基地外の相手してスレ潰すなよ
畿内の話しようぜ >>663
>有名所なら、銚子塚だか、他にも志登や端山や「久里〜」とかもあったな。
一貴山銚子塚古墳は立派な古墳だが、海に近くても一貴山という山の上で、海岸付近が伊都国っていう言い分に合わないな
志登は、志登支石墓群で古墳じゃない
こんなのまで入れて古墳が60個とか言ってたのか? 恥ずかしいやつだな!
端山は三雲遺跡群の中
ここは奴国なんじゃなかったっけ?
久里双水古墳は末慮国
結局、「伊都国は海岸沿いで古墳も60くらいあるから
その中に伊都国王墓もある」っていうのは、まったく論証できてないな
というよりほぼ嘘だったってのがバレバレ >>911
>また妄想タイムの始まりかい?(ヤレヤレ)
>>その地域では、卑弥呼の頃には倭奴國の名前が消失していて、<
いや、漢委奴國王と同じで、倭奴國は倭の奴国だろ? 消失してないじゃんww<
いや、中国では金印を与えるような、皇帝直属の国の王に対しては、
「漢の委の奴國」王、というような三段国名表記ではなく、
「漢の委奴國」王、という二段的は表記をするのが原則なの。 >>680、>>682
ザラコクは早くこれに答えてね?
「末慮國から伊都国へ向かう、『出発方向が東南の経路』を
途中通過点を5ヶ所くらい現代の地名で示して論証してくれればいいよ 」
出発方向が東南だから、「末慮國から伊都国が東南陸行500里で正しい」って
主張してるんだからなww 嘘つきだから九州説になるのか
九州説だから嘘つきになるのか >>689
>倭奴国は倭国の極南界である。
それ後漢書の編者による魏志倭人伝の誤読
「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。
次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、
次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、
次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、
次有支惟國、次有烏奴國、次有『奴國』、此女王境界所盡。」
ここに出てくる『奴国』を倭奴国と同一視して、さらに邪馬台国から南に見ていって
女王国の境界尽きるところだから、「倭の極南界」って書いてるんだよ
ある意味一番の僻地ww >>915
〜とか見ると、単なるオウム返しではなく、
大和説者からの「九州説者の投稿の誹謗内容」が、その誹謗内容と同じ事が大和説に当てはまっている、
という高尚な嫌味になってるんだよな。
大和説者の投稿が、九州説がどうこうの前に、人間としておかしいから、
読んでいても、 苦笑というか乾いた嗤いや、
アホらしくて、鸚鵡返ししか出てこない。 >>683
>常陸風土記に残された「倭武天皇」(倭王武の事)
それ、普通は倭武でヤマトタケルって読むんだよ
なぜ九州王朝の話が関東の常陸風土記に書かれるんだよ!
ヤマト王権とは別に九州王朝があるって設定が破綻してるぞ
それに律令制まで大和「朝廷」も「天皇」もないと言いながら
日本書紀よりもあとに編纂された風土記に「天皇」って載ってるって
自分の主張と真っ向から矛盾するバカ垂れ流しって理解できるか? 九州王朝説ってもの自体が元々無理やりのパッチワークでできてるからなあ >>919
>仁徳天皇の宮都は難波高津宮、応神天皇も大隅宮があるね
通称、河内王朝って言われる時期だ
河内を持ち上げても、結局現在まで続く皇室の祖の地域にしかならないよ<
いや、神功も応神も仁徳も、
筑紫倭国の将軍的な地位にいて、東征の一環として、
一時的に大和の支配者になっていた時期があったから、
大和内の系図的伝承の古事記に、彼らの、名前や事績の伝承が残され、
それを書紀が更に盗用造作した、
という可能性が高い、のだよ。 >>614
>この辺の墓制の決定までが「共立」の流れではないかと
広瀬和雄先生は「前方後円墳国家」っていう言い方をしているけど、
卑弥呼の共立でできた「共立連合・倭国」は、前方後円(方)墳祭祀を共通に行う、という
祭祀の統一がメインで、政治権力としては各地の首長がそれぞれの地域を掌握していた
という理解でよいと思う
その意味で卑弥呼は祭祀王だし、大陸にない祭祀=前方後円墳祭祀が、鬼道とされても
おかしくないだろう
その目的での、卑弥呼の都の建設が纒向遺跡であるなら、全体が祭祀空間という見方で
いいんじゃないかな >>701
>九州王朝説ってもの自体が元々無理やりのパッチワークでできてるからなあ
その無理やりも、倭の五王も九州王朝って言い出すと破綻するんだけれど
このザラコクは遣隋使も九州王朝ってところまで行く、真性のトンデモだからww 畿内の勢力変遷は結構面白いな
纏向周辺は卑弥呼の時代までは何もない
奇麗に空白
その周りを取り囲むように有力な集落が存在してる
纏向が選ばれたのは誰も手を付けてない空白地だったからだろうな
多くの諸勢力が連合するための場所として中立地帯の方が揉め事の少ないだろうし 畿内に成立した勢力の共通点は出雲や九州に大陸への道を妨害されてる土地だな
それこそ鉄器や大陸産物の入手ルートを確保するために手を組む必要があったのではないかね
その為に周辺の利害の一致する地域が大和と言う中心を設定してまとまったと
大和が最強だとかそういうんじゃなくて位置的な物が優先されたのかもな >>704
纏向はよく指摘されるように人が居住することを主目的にしてないからな
近くにある纏向古墳群を背景に共通の祭祀を行う場所だろう
各地の土器が集まるのもそういう場所だからこその現象と言えるだろうな
伊勢遺跡とかで培われた方法を取り入れている辺りやはり「共立」と言う背景が見える
ただ本当に急激な全国拡大を伴っているからその辺はかなり不思議
成立とほとんど同時に日本全国レベルになってる
宗教的な連帯と言うだけならまとまりももっと緩やかだろうし
畿内の中心性が凄く強く出てる
拡大も急激
その辺が謎だな 物凄く強力な中心が周辺国をまとめ上げて拡大、と言うなら分かるんだけどね
大和はそこまで突出してるとは思えないし
宗教を通じて・・・と言うだけならもっとてゆるーい感じになるだろうし
弥生時代終末期に現れてその直後には瞬く間に全国だからな
強力な軍事行動を行ってるようにも見えないし
その拡大の原動力が分からない 畿内に現れた勢力の強烈な中心性と瞬く間に日本全国に広まる影響力拡大の勢い
ただの宗教連合と言うだけでは説明がつかないな
軍事力や魅力的な産物が特にあると言うわけでもないし 流通ルートが一元化と言わないまでも寡占状態になっちゃったので、皆がバスに乗り遅れるなとばかりに付和雷同したんじゃないのかな
日本人らしい感性かも知れん 4世紀後半くらいから軍事政権っぽく変質しているわけだよなあ >>700
>それ、普通は倭武でヤマトタケルって読むんだよ
倭王である武ともとれるけど、ここら辺はかなり恣意的な解釈がまかり通っているね。 >>708
>畿内に成立した勢力の共通点は出雲や九州に大陸への道を妨害されてる土地だな
>それこそ鉄器や大陸産物の入手ルートを確保するために手を組む必要があったのではないかね
中国と交渉できない倭種だよね。
冊封された倭国(卑弥呼の国)ではない。 >>711
>その拡大の原動力が分からない
九州による征服だよ。 唐津で最古の方形周溝墓が作られてから
わりと早く東北まで広まったように
前方後円墳も4〜5世紀には日本中に広まり
県別では千葉県で前方後円墳が最も多く作られている。
また、九州では5世紀でも
大型の前方後円墳と円墳が、近所同士で
同時代に作られているので、
形式はわりと自由だったこともわかる。 >>721
自由って・・・
国民全員が制服を着るような統制があったわけじゃなし
何を求めてるの? >>921
>>憲法のおかげで70年以上も平和であった<
>「根拠」は?<
憲法のおかげで、戦争を実行する組織を持たなかったから。
>憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義」が、現実には存在しないんだよ<
現実には、
「自分一人だけ」や「自分の属する組織や国家だけ」が、
生存競争や殺し合い戦争に勝ち残って、その他の全ての人類や地球を支配したい、
としか考える事が出来ないような「高慢な唯我独尊」の、
暴力団や宗教教祖や人種差別者や国家組織至上主義の・・・・もいるが、
人類や生物の大部分は、
自分一人では生きて行けずに、両性の存在協力が必要な遺伝子になっており、
「平和を愛する諸国民の公正と信義」を捨てて、「殺し合い」では、
人類も生物も全滅する、という事を知っている。
人は皆、一人では生きていけないものだから。
諸行無常。
万物流転、栄枯盛衰、盛者必滅。
人類皆兄弟。 >>725の
>「自分一人だけ」や「自分の属する組織や国家だけ」が、
>生存競争や殺し合い戦争に勝ち残って、その他の全ての人類や地球を支配したい、
>としか考える事が出来ないような「高慢な唯我独尊」
が筑紫東征説 >>928
>実際、日本の史書の信頼性も高くなる遣隋使の時代まで九州王朝の遣使だとするのは、
無理がある<
筑紫倭国の別種の旧小国の大和が、
「日本国」として国際的な認知を受けようとしたのは、
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」が初めてであり、
認められたのは唐の「武徳」中であるから、
隋使が来たのは大和日本国ではなく、筑紫の俀國。
>そして、分があった東遷説も、編年の科学的根拠が蓄積され精緻化するのに伴い、
卑弥呼の時代が既に古墳時代だと認められることで、既に崩壊している<
「南→東」などの嘘吐き騙しをする人間や学者は、始めから「学問失格」であり、
また、「古墳時代」は、常識的には普通は前方後円墳時代を意味し、
3世紀の第四半世紀頃の那珂八幡などが始原であり、卑弥呼の時代ではない。
大和説は勉強不足の「頭のおかしい人」がしがみついているだけのオワコンww。 >>728の
>筑紫倭国の別種の旧小国の大和が
古田の筑紫一元史観 >>937
>大陸の史書で、方位の間違いは「普通にある」んだよ<
人類は、太陽の位置や方向で東西南北をや決めてきていたから、方位の間違いは殆どない。
>そして、九州に上陸した時点で間違ってるんだから<
海峡からも南北を間違えていないから、「東南」出発、も間違えていない。
>そのあとも間違ってておかしくないし 陳寿の側に間違う動機もある <
魏使らも案内の倭人も間違っていないし、
陳寿も「計其道里、當在會稽東治之東」という確認をしていて、ほぼ合っていたから、
間違っていなかったし、間違える動機もない。 >>942
>>平原の方格規矩鏡の存在 <
>それ全部仿製鏡ww<
一個だけならまだしも、21個もの「尚方作」鏡は、仿製では造れるものではないし、
21枚となれば、明帝の100枚の下賜鏡しか考えようがないから、
明帝の100枚の下賜鏡が元になったもの。
>倭国内で作れるんだから、いくらあってもお宝じゃないだろ? <
21枚も「尚方作」鏡を造ったから、魏帝の下賜鏡が元になったものだ、
という証拠になる。 >>959
>>邪馬台国河内説を唱えないのはなんで <
>当時の遺跡の状況から見て、畿内纏向の方が優位なのが明らかだからだよ<
米田は、(纏向よりも)河内の方が都だ、と言っていた筈だよ。
>顕著な遺跡が見られないところは、
卑弥呼の「王都」である邪馬台国の候補にすらならない <
纏向は、「南≠東」などに拠って、始めから×。
>ここのところで、九州説は候補にもならないんだよ<
ここのところで、大和説は候補にもならないんだよ。 卑弥呼共立は倭国大乱の勝者だけによる共立。
敗者も共立に参加した根拠は何もない。
敗者にも敗者の歴史がある。それすら許されないのは、危険な思想だな。正にプロパガンダ。 >>966
>湯川さんの中間子論が、<
>どうして自分の低能さをこんなにひけらかしたがるんだろう
原子核内の陽子と中性子を結びつける「強い力」は、
核と電子の間の「電磁気力」より桁違いに大きいから、
いくら電子を引き剥がしてプラズマにしたところで、
原子核の崩壊確率は変わらない
核物理の基礎の基礎も分からないくせに何を言ってるんだか<
核力場の「強い力」が絶対的であったんなら、そもそも、
ベータ崩壊そのモノが起きない。
つまり、強い力は、ベータ崩壊を絶対に妨げる程の力ではなく、
外周電子をプラズマ化で引きはがせば、
核力結合のアンバランスが出来た分だけ、核のベータ崩壊が増えて、
AMSの計測値が増えて、より古い年代が計測されてしまう事になる。
>核と電子の間の「電磁気力」より桁違いに大きい<
湯川さんと一度だけ会食をした事があるが、
核力結合は絶対的なものではなく、
あくまで近似的相対的なものであった、という話だった筈だよ。 >>973
>>倭の五王が大和の王である「根拠」を示せないし、<
>さっさと「九州王朝の王である」ことを「根拠」をもって論証しなよ
例の「松野氏姫氏系図」でも持ち出すのかなww <
大和は日本国と認められたのは、唐の「武徳」中。
それまでは大和は、筑紫倭国から別れた別種の旧小国であり、
宋に遣使を派遣するような国ではなかった。
>>日本書紀の遣使や中国使が、隋書などの記載とは全く違う<
>日本書紀の冠位や、裴世清という固有名詞まで一致してるじゃないか<
一致していない。
何をもって「まったく一致」って言うんだかww。
こういう都合の悪いことから逃げまくるチェリーピッカーが大和説。 >>711
だから今は大和王権と前方後円墳派生の関係性が疑問視されはじめている
つまり、"思い込み"だった可能性があるんだよね
宗教的な物の流行があったのかもな >>711
>強力な軍事行動を行ってるようにも見えないし
>その拡大の原動力が分からない
簡単なことですよ。
倭国(阿波)から進出した、忌部一族の拓殖活動。 これが拡大の原因。 即決です。 @阿波 忌部氏の祖は太玉命だから出雲が本流だろう
阿波は庭石しかないし >>738
>忌部氏の祖は太玉命だから出雲が本流だろう
なんで天太玉命が島根になるの?
今の島根があるのは、倭国(阿波)から進出した出雲忌部のお陰。
努々、勘違いしないように。 @阿波 >>70
>関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな <
大和が「朝廷」になったのは、701年であるから、×。
また、大和内の伝承では、大和を征伐して建国したのは、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の東征。 玉の貢納したのは出雲忌部
阿波はボロ布作ってた部民
麻は鳥浜貝塚遺跡から縄文草創期の二種類の麻縄を最古に、東日本各地の縄文遺跡で果実が出ている
越後国の麻織物は731年(天平3年)に朝廷に献上された「越布」が正倉院に収められている >>71
>関の向こう側にいた尾張の縄文人と出雲の縄文人が作った政権が大和朝廷。<
これも同じ。
大和が「朝廷」になったのは、701年であるから、×。
また、大和内の伝承では、大和を征伐して建国したのは、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の東征。 >>742
>越後国の麻織物は731年(天平3年)に朝廷に献上された「越布」が正倉院に収められている
阿波忌部(海人族)は越後(北陸忌部)まで進出しているからね。
天皇陛下即位式である大嘗祭に、麁服を調進する大役を太古から担う御衣御殿人(みぞみあらかんど)の家柄である三木家は、
木屋平村の三木山山頂に居を構える。
貢(みつぎ)、あるいは三ッ木とも呼ばれる地名は、深く調進に関わる為でもあろう。 南北朝時代にあっては、山岳武士の頭目として南朝に関わった。
さて、この三木山こそは、太古の高天原であると同時に、天皇家の故郷でもある。このお山から御霊を大嘗宮へ運ぶ為には何か媒体が必要である。
つまり、依り代に付いて初めて示現されるのが神霊であるなら、「麻」こそ媒体であると云える。
古来より伊勢神宮の神札は神宮大麻と呼ばれ、御師が領布した御祓大麻を指すからだ。
後世、大麻(おおぬさ)は紙に変わってしまい、現代人は麻の持つ意味を忘れようとしている。 @阿波 畿内の土器はV式から九州に広まっている
纏向誕生前には既に畿内から九州に影響が拡大してるのが見える
そう考えると
畿内に強力な勢力が誕生してからその影響が広まった
んじゃなくて
畿内の勢力が全国に広まってから、纏向に大きな連合勢力が誕生した
とみる方が自然だな >>76
>もともと甕棺墓の墓域だったところに、 祇園山を作った、と言う話が出てたけど、<
私がそのようなことをいう筈がないな。
甕棺の最盛期よりも少し離れている事や、
祇園山の墳頂は箱式石棺である事や、
墳裾の62の殉葬墓のうちの3個だけが甕棺なんだから。
>地層的には時代は同じなの?ちがうの?<
「もともと甕棺墓の墓域」という地層はなかった、と思うよ。 >>742
>玉の貢納したのは出雲忌部
その勾玉の発祥も倭国(阿波)。 当然、出雲の勾玉も阿波の工人(出雲忌部)が作ったもの。
稲持遺跡(徳島県三好郡東みよし町稲持)は、弥生時代後期の玉作遺跡として代表的である。
斉一性の強い小型勾玉の一群が阿波地域を中心に 讃岐地域・吉備地域と西縁・伊予地域・豊前、筑前、肥前地域 に点在しており、石材・色調・形状から特定の場所で作られたと考えられる。
蛇紋岩の製作遺跡 : 東みよし町稲持遺跡。徳島市矢野遺跡、上板町七条経塚遺跡
原石産出地 : 徳島県吉野川加茂谷川水系蛇紋岩 @阿波 >>748
>畿内の土器はV式から九州に広まっている
これも勘違い。 V式の土器、即ち小型丸底土器は東阿波型土器。
倭国(阿波)から畿内や九州に広まった。 @阿波 >>708
>畿内に成立した勢力の共通点は出雲や九州に大陸への道を妨害されてる土地だな
これ、正統なアカデミアの人でもいう人がいるけど、そもそも「妨害」をするような
対立があったんだろうか?
ずっと、人も物も交流が続いてると思うんだけどな
黒曜石も翡翠も、どこかが流通を邪魔していたなんてことはないんだし、古来からの
広域での交流の伝統を過小評価しているように思う
逆に、私の方が高地性集落の頃の動乱を過小評価しているのかもしれないけれど >>753
庄内式土器出現はV式小型丸底土器(東阿波型土器)の後。
庄内式は倭国(阿波)から進出した忌部一族が現地で東阿波型土器を制作したもの。 @阿波 >>78
>祇園山の周辺の甕棺は同時代らしい <
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
の宝賀氏の紹介では、
100m離れた祇園山2号墳にも、2kmほど離れた七曲山古墳群にも、
「壺棺」の記載はあるが、「甕棺」の記載はなかった、ですね。 阿波はともかく、古事記の国生み神話は、最初に淡路島が生まれるところからも、
もともとは淡路島から東部瀬戸内地域の神話を取り入れているようだから、
畿内王権の誕生の淵源にそれなりに影響力を持つ重要な役割はあったんだと思う
五斗長垣内遺跡や舟木遺跡の製鉄も重要だったと思うし
>>754とも関係するんだけれど、淡路島や近江の稲部遺跡で大規模製鉄遺跡が
出るところを見ても、どこかが妨害して鉄の入手が滞るなんてことは
なかったように思うんだけどな >>754
青銅器や墓制を見ると分かると思う
九州式の青銅器、出雲式の墓制を持つ地域に鉄は偏在してる
そしてそれが途切れる場所で急激に出土が減る
吉備なんかは出雲と関係の深い時期に増えて、切れた辺りで急に減る様子が見える
で、その両地域の方式が衰退したころに他地域で出土が増える そいつ、素人の古代史マニアだろ
孫引きしてると馬鹿みるぞ 越後布は倭人伝にも書かれている苧麻の上布の高級品
ボロ布は阿波でもどこでも作れる
ヒスイや碧玉には古来より霊力があるとされ
阿波の蛇紋岩は庭石や苦土肥料の原料 吉備は最初は出雲に与していたけど途中から離脱
そして大和に接近したと
その結果、吉備大和連合が形成
そこを中心に畿内周辺の非出雲系勢力が集合して邪馬台国を生み出したんだと思う >>754
>これ、正統なアカデミアの人でもいう人がいるけど、そもそも「妨害」をするような
>対立があったんだろうか?
ありません。
縄文時代から「阿波の石棒や石斧」が西日本一帯に拡散しています。
また、弥生時代には鉄材料や砂鉄、漢鏡、漢朱が大陸から倭国(阿波)に届いています。 @阿波 >>759
畿内説に気を遣ってあげて優しいなお前さん >>88
>「魏志倭人伝で、九州に上陸してすぐ
末廬國から伊都国を、本当は「北東」なのに、「東南」陸行って間違ってるね <
「東南」は出発方向説明。
>魏志倭人伝では狗奴国は「南」なのに、後漢書では「東」度海千餘里至拘奴國になってるね
どちらかは間違いだね <
後漢書は、後代の考えに拠る書き換えが多過ぎて、半分×書であり、信頼性がない。
>隋書では、対馬から壱岐が「東」に間違ってるね<
対馬沖を通ったから、「東」で正しい。
>旧唐書でも
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,
東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
とあって、内容を確認すると
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る
となっているけれど
実際には成都から安南は「東南」<
「通水陸行」というようにされているから、出発は東に向かう事が書かれている。 四国で鉄が多いのもやはり九州北部と関係の深い西北部だからね
かなり明確な差が見える >>766
瀬戸内海どん詰まりの淡路島で製鉄していて
その鉄を大量消費しているのが北部九州ですからね。
大阪湾を越えた地域にはほとんど分布していない。 鉄のこの露骨な出土の差を見るとやはり「無かった」とみるのが自然だと思う
むしろこの出土の差がそのまま勢力の分布と後の時代の勢力再編成に繋がるんじゃないかと思う >>767
>瀬戸内海どん詰まりの淡路島で製鉄していて
その淡路島、倭国(阿波)の領分なんですけどw @阿波 淡路島は稲作に向かない気候だから
風を利用して鍛冶くらいしかやることがない 畿内勢力は基本的に対出雲でまとまってるように見える
神話を見ても出雲は親戚だけど敵と言う複雑な相手
むしろ九州島南部との関係を主張してる辺りも考古学的見地に合致する >>759
>九州式の青銅器、出雲式の墓制を持つ地域に鉄は偏在してる
それについても、墓制というか副葬品の埋納の仕方が効いてるようにも思うんだ
発掘バイアスが効いてる部分が大きいんじゃないかな
つまり九州式、出雲式の墓制の地域が鉄を持っているんじゃなくて、その墓制の
葬り方だと鉄が出やすい、なんてことも考えるべきだと思う
そもそも生活遺跡からの鉄の出土は少ない
鉄剣は威信材だろうけれど、鍬の刃先や穂刈鎌なんかは生活用品だから、
首長墓に副葬するようなものではないし、現代でも畑で落とした鉄の剪定ばさみは
そのまま土に帰っている >>772
畿内勢力って、なにを指しているの? 倭国(阿波)から進出した忌部一族でしょ? @阿波 >>765
>「通水陸行」というようにされているから、出発は東に向かう事が書かれている。
地図を見ろって何度も言ってるだろうが
成都から安南へは、最初から最後まで人が通れる谷筋は東南方向だぞ
>「東南」は出発方向説明。
ザラコクは早くこれに答えてね?
「末慮國から伊都国へ向かう、『出発方向が東南の経路』を
途中通過点を5ヶ所くらい現代の地名で示して論証してくれればいいよ 」
出発方向が東南だから、「末慮國から伊都国が東南陸行500里で正しい」って
主張してるんだからなww >>775
>阿波にそんなに人いないだろ
※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地
【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡
【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡
※南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)
【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡
【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡
こういう「邪馬台国勢力」と「狗奴国勢力」を「弥生集落遺跡」で提示できるのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>773
涙を拭け。
>そもそも生活遺跡からの鉄の出土は少ない
そりゃお前の領域からはゼロだからなあ。 >>760
>素人の古代史マニア
それが正解なんだけど、素人だからと全否定はしなくていいと思う
宝賀氏は古系譜の研究では、一番色々考えてはいると思うな
この分野はプロもアマもほとんど研究者がいないから、系譜資料に
関しては参考にしている >>773
その考え方は確かにあると思う
畿内でも古墳が作られると鉄器が保存されてるからね
ただ、やはり出雲、北部九州に関わる地域では生活圏からも農具などの鉄器が結構な数が出ている
言う通り保管されてないと腐ると言うのであればそれでも残る程の量が流通してるともいえる
ゼロに等しい畿内周辺に比べると違いがあると言わざるを得ないんじゃないかと思う 阿波の遺跡をいっぱい並べてるけど、
一つの遺跡に竪穴式住居が一軒とか数軒とかだからな。
土器が出ただけの遺跡も〇〇遺跡って別枠なってるし。
内容を吟味せず盛ってるだけ。 生活遺跡から数十とかが普通だろ。
それが鉄器時代に入った、という判断の基準にもなる。
同じ日本国内で鉄器が多数出土→鉄器を使っていた
鉄器がほとんど出土しない→鉄器が無い、あるいは非常に乏しかった
当たり前の考古学的判断をネチネチと発掘バイアスとか誤魔化して見苦しい。 >>781
>阿波の遺跡をいっぱい並べてるけど、
こういう「邪馬台国勢力」と「狗奴国勢力」を「弥生集落遺跡」で提示できるのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 阿波にも邪馬台国系の勢力(鉄器、中国朱)と狗奴国系の勢力(砂鉄で失敗、阿波朱)はいただろうな。 >>762
>そこを中心に畿内周辺の非出雲系勢力が集合して邪馬台国を生み出したんだと思う
ただ、前方後円墳の定式化の過程で、墳丘への葺き石が加わるのは、出雲系の
四隅突出墓の要素だと思うんだけどな
どの時期からか、というところは問題だけれど、出雲も共立卑弥呼の地域首長連合には
参加していると思う >>785
>阿波にも邪馬台国系の勢力(鉄器、中国朱)と狗奴国系の勢力(砂鉄で失敗、阿波朱)はいただろうな。
邪馬台国系の勢力=阿波の北方
狗奴国系の勢力=阿波の南方 @阿波 出雲と東出雲が分裂してる可能性があるから
「出雲勢力」って統一が取れてたって根拠はないけどな 出雲系の四隅突出墓は日本海沿岸の最重要な要衝である
軍港若狭湾を丹後半島の方形周溝墓に押さえられているからな。
つまりは伊都方形周溝墓王の支配下に入った日本海沿岸の豪族達が
均一な地方官身分となった証が四隅突出墓
北部九州で甕棺墓が消えたのと同じで、それぞれ独立自治していた豪族が、
伊都王の倭国支配下に官として組み込まれていく過程。 >>786
>ただ、前方後円墳の定式化の過程で、墳丘への葺き石が加わるのは、出雲系の
四隅突出墓の要素だと思うんだけどな
葺石墓も阿波・讃岐の工法。 吉備の四隅突出墓も吉備忌部。 @阿波 >>786
出雲は言い方はあれだけどパクられた側だと思う
同じ墳墓と宗教を用いての広域連合と言う方法を発明したのが出雲だからね
大和と吉備はそれを参考にして別物を作り出している
で、古墳連合としての出雲はものすごく存在感が薄い
宗教連合の盟主の座を奪い取ったうえで徹底的にハブって潰してる様子が見える
だからネタ元としては大きな意味があるけど、仲間外れという形 >古墳連合としての出雲はものすごく存在感が薄い
そりゃそうだ
はるか北の富山まで分布する四隅突出墓は、
伊都倭国王+丹後若狭倭一大率官の海軍に睨まれて
完全に服従していただろうからな。 出雲は弥生時代まではかなり凄い存在感だけど、古墳時代に入ると急に空気になる
畿内の邪馬台国が相当執拗な出雲への冷遇をしてる 生活空間から鉄器ゼロだから邪馬台国じゃないよ。
三国志東夷伝に書いてあるでしょ。
倭人も半島に行って鉄を採掘しているって。 阿波がどちらの勢力だろうが人少ないからさして影響はない >>788
その通り
出雲と一口に言ってもかなりバラバラ
中心と言い切れるものもないしね
まだまだ未熟な連合でしかない
そこに邪馬台国が付け入るスキがあったんだろうね
実際、弥生時代後期後半になると畿内、吉備の土器が出雲に侵食し始める 北部九州倭国では、甕棺墓が廃止されて伊都平原女王に権力集中する。
日本海沿岸では、丹後若狭は方形周溝墓が押さえて、
その東西に四隅突出墓が配置される。
紀元前から硯が出土し、鉄器も分布する日本海沿岸に
中央集権が確立していく過程での権力闘争が倭国乱。 国譲りの前後で出雲に次々と工作員を送り込むけど、この辺が邪馬台国による分断工作の過程を神話化してるんじゃないかなと想像してる >>780
ただ、そもそも弥生化という時点で鉄を伴うのが当然だし、
静岡の登呂遺跡でも鉄は出ていないが、鉄の刃先を付ける袋鍬の木製部分は出ているし、
鉄が出ていないことをもって、鉄がなかったと考える人はいない
鉄は出なくても登呂遺跡は湿地の粘土に埋まる形で木製品が残っている
逆に他の遺跡では木製品は余り出ないが、木製品を使っていなかったと考える人はいない
奈良盆地はかつて湖だったっていう人もいるくらい、葦原の中つ国の湿原が広がる環境で
木製品がむしろ残りやすく(纒向大溝の矢板など)、土壌環境的にも鉄は残りにくい
弥生時代で「この地域には鉄がなかったはずだ」っていう時点で、
考え方に偏りがあると思うよ
まあ、九州説はそこしか頼るところがないからしょうがないんだろうけど >>796
>実際、弥生時代後期後半になると畿内、吉備の土器が出雲に侵食し始める
つまり出雲は北部九州倭国の譜代藩くらいの格上の扱いだったわけだ。
畿内、吉備の年貢を回してもらえるのだからな。
邪馬台国側についたか狗奴国側についたかで、
その後の扱いが譜代か外様かで変わるのは当然。
出雲など日本海沿岸はいち早く邪馬台国の支配下に入って
四隅突出墓を受け入れたから格上となった。 >>800
論点ずらしだな。
鉄器が数十数百出土>>>鉄器が少ししか出ない
>>>>>>>>>(鉄器大量消費の有無の壁)>>>>>>>
鉄器使用の痕跡がある>鉄器痕跡皆無 >>803
倭国は九州だけ
日本海沿岸に東方倭種がいて、
紀元前から密接に関わって鉄器硯など文化共有 >>800
言う通りだと思う
出土物の評価は慎重に取り扱うべきだとは思う
ただやはりそういう前提をもってしても「畿内では見つからない生活用の鉄器が多数見つかる」と言うのは、
上で書いたように「普及度に大きな差があるから」と判断できると思う
見つからない=ゼロと言うのは言い過ぎとしても、これをもって「鉄器の普及に大きな差がある」と言うことは公平だと思う
その上でその鉄器が多い地域は、出雲、北部九州に関わる地域であると判断していいと思う >>791
>出雲は言い方はあれだけどパクられた側だと思う
うーん、重要性のない勢力の要素だったら、パクる必要はないからなぁ
大和の初期の最重要の神が、三輪山の大物主神で出雲系の神、というか、
出雲の主神である大国主神の同体神であるあたり、神話伝承であっても
出雲を軽視していいとは思えないんだけどな >>796
>実際、弥生時代後期後半になると畿内、吉備の土器が出雲に侵食し始める
それ、倭国(阿波)から進出した忌部一族の仕業。 @阿波 湿原だったのなら木製品のほうが腐って残りにくいだろ。
鉄が残りにくいと言うならせめて科学的に実証しろよ。
ネット時代なんだから、人類が続く限り後世に残る名誉な論文が書けるぞw 関門海峡に国境を引けば異人肥人の占める人口比率が上がるからな >>811
>湿原だったのなら木製品のほうが腐って残りにくいだろ。
常時、水に浸かっていたら木は腐らないんだよ。
それだけ、奈良盆地は湿潤な土地ということ。 @阿波 >勝手な価値観だな
>結局また九州説の言うことは具体的根拠ナシかい
発掘バイアスで鉄器が出ないとか
湿原だったから鉄器が溶けてなくなるとか
勝手な価値観や具体的根拠ナシの妄想はやめて、
科学的に実証して発表しろよ。
鉄器があからさまに多い地域と
ほとんど出土しない地域がはっきりとしているのだから、
邪馬台国は当然鉄器の多い地域にあった。 畿内説は奈良湖が無かったといいたいのか
奈良湖があったから鉄器が溶けたといいたいのか
どっちなんだ?w >>808
いやいや
重要だからパクったんだよ
で、重要だからこそ主要構成員にせず徹底的にハブって潰したと
先行して同じことしてた集団をそのまま取り込んだら乗っ取られるかもしれないからね
似たことをしたからこそ排除するしかない
でもその名目だけは引き継いだ形にして権威だけ奪ってる
それが大国主=大物主の同一視
倒した方の神話をそのまま自分達に取り込むのは大和朝廷の十八番
出雲の良いところだけを全部吸収して奪い取った形
出雲神話の比率が高いのは重視してたからだよ
むしろそれくらい慎重にやらないといけない相手だったと 出雲を主に荘園としていた北部九州倭人の有力者が失脚して
大和に逃げ込んで大型倉庫を作ったところまではよかったけど、
北部九州倭国の動乱時に狗奴国側についちゃったわけだ
だから倭国乱時は鉄器欠乏症になるし
倭国乱が終わった後の序列では、伊都邪馬台国側についた出雲地方へ
年貢を送る側になっちゃった。 >勝手な価値観だな
>結局また九州説の言うことは具体的根拠ナシかい
>九州説は作り話が大好きだな
発掘バイアスで鉄器が出ないとか
湿原だったから鉄器が溶けてなくなるとか
勝手な価値観や具体的根拠ナシの作り話はやめて、
科学的に実証して発表しろよ。
鉄器があからさまに多い地域と
ほとんど出土しない地域がはっきりとしているのだから、
邪馬台国は当然鉄器の多い地域にあった。 >>799
>国譲りの前後で出雲に次々と工作員を送り込むけど、この辺が邪馬台国による分断工作の過程を神話化してるんじゃないかなと想像してる
日本神話は、天神・天孫=畿内系と、地祇=出雲系とのペアで話が作られているんだよね
造化三神では、高御産巣日神が畿内系、神産巣日神が出雲系
三貴子では、天照大神が畿内系、素戔嗚尊が出雲系
皇統の祖は、男系が神武天皇で高天原系、母系が媛蹈鞴五十鈴媛命で大物主の娘で出雲系
この神話で、神から人を繋ぐところが、出雲系が大国主なのに対し、高天原系が瓊瓊杵尊で
対応が悪い
私は神武の実在を認める立場で、邪馬台国は神武よりも後代(崇神の頃)だから、
天穂日命や天若日子の物語は、邪馬台国とは関係しないんじゃないかな
まあ、神話伝承で、時代や編年を考えてもしょうがないことではあるけれど >>821
負け組が
意地で連呼に
なりました
w >>湿原だったのなら木製品のほうが腐って残りにくいだろ。
水に満たされた状態で嫌気状態が保たれると、有機物はよく残るんだよ
泥炭層がどういう環境で作られるか調べてごらん
池上曽根遺跡で、年輪が計れる状態で年輪年代法に使えたのが、井戸枠に使われた
木材だというのも同じ理由だよ
科学的知識をきちんと身につけよう
イオン化したらβ崩壊の確率が変わるとか言い出したら、人間として終わりだからね! >>567
>論理的な考えのできる人は「鉄がなかった」ではなく「鉄が残っていない」と
>判断できるんだが、論理の分からない人は「鉄がゼロ」を連呼して悦に入る訳だ
鉄があった地域と纒向が関連がなかった可能性後あるだろ。 >>822
神話はなんらかの事実を反映した物語だと思ってる
でもその時系列は必ずしも順番通りではないと思うし、内容も色々な部分が混ざってると思う
一つの神話でも多くの時代の多くの要素をゴチャゴチャに含んでると考えてるから明確な判断はちょっと難しいね
天神と地祇の関係も邪馬台国とそれ以外の強力な豪族との融合の歴史だと思う
婚姻とかで慎重な扱いをしてるのもそういう背景があるからだと思う >>822
>日本神話は、天神・天孫=畿内系と、地祇=出雲系とのペアで話が作られているんだよね
天津神は伊都国成立期に博多湾に上陸した部族、国津神はそれ以前に各地に上陸した部族だよ。
畿内なんて何の関係もない。
出雲は伊都国成立期より前だから国津神だけどね。
記紀の神代の巻は、高天原、出雲、筑紫が舞台で、これらの間の政権交代の歴史の情報を含んでいる。
筑紫とは、ここでは筑紫日向すなわち伊都国のこと。 >>817
>畿内説は奈良湖が無かったといいたいのか
>奈良湖があったから鉄器が溶けたといいたいのか
>どっちなんだ?w
奈良湖は、「縄文時代」にあったんだよ
弥生時代には既にない
こういうことはちょっとググればすぐに確認できるだろうに、九州説の科学オンチは
謎の不勉強を曝し続けてる
そして奈良湖がなくなる過程で広がったのが、葦原の中つ国のと呼ばれた、灌漑に
利用しやすい中小河川が多くある低湿地
この低湿地状態は弥生時代にも継続中
そしてそういう低湿地が奈良の集落の基本環境だから、木材は比較的残りやすいし、
鉄は残りにくい 【筑紫の日向】
そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。
福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。 >>779
いや>>760は「孫引きがイカン」という話がメイン
だと思うんだけどね 負けた九州説が腹いせのコピペ荒らし
いつものパターン >>800
>奈良盆地はかつて湖だったっていう人もいるくらい、葦原の中つ国の湿原が広がる環境で
豊葦原中つ国の王となるために邇邇芸が筑紫の日向に降臨するのだから、豊葦原中つ国は九州だよ。 >>827
>でもその時系列は必ずしも順番通りではないと思うし、内容も色々な部分が混ざってると思う
>天神と地祇の関係も邪馬台国とそれ以外の強力な豪族との融合の歴史だと思う
>婚姻とかで慎重な扱いをしてるのもそういう背景があるからだと思う
ここは同意 そして古墳という高塚を作って、後円部の墳頂の高く地下水面から離れたところに
埋葬主体を作り、粘土槨などで周囲の土環境から隔離された埋納様式に変わると
同時に、鉄が大量に出るようになる
古墳前代に畿内が鉄欠乏だったとする方が、妥当性が低くなると思うんだがな
まあ、実際に出ていない以上は、推論にしかならないが、石庖丁が早期に消えるとか
砥石は大量に出ているとかを考えても、鉄不足で困っていたようには見えない だいたい1世紀の半ばくらいに大和と河内が連合して畿内に大きな統合勢力を作る動きを見せ始めてるな
1世紀の終わりくらいには全畿内くらいの「国」と呼べるような勢力に成長してる
邪馬台国の淵源はここだろう 奈良盆地の開拓が遅れていたことは間違いない。
弥生時代の輸送路は海路だから、海のない地域は発展から取り残される。
淡路島や摂津が発展しても、奈良盆地がその恩恵にあずかれるわけではない。 >>831
ああ、はい、そういうことなら全面的に同意です >>838
理由も言わずに「間違いない」が
九州説品質 >>835
>またでた九州説の神話珍解釈
どこがどうおかしい? ちょっと面白いのが丹波と播磨だな
この地域は出雲とも畿内とも吉備とも違う動きをしてる
神話を見てもここはアメノヒボコに関わる外来神話が多い
あまり語られないけど第三の勢力的な物がいるのが分かるな
海部氏系図の話もあるし面白い 鯖の骨が出たら邪馬台国なのか?
じゃあ縄文時代でも各地が邪馬台国になるなw >>837
>1世紀の終わりくらいには全畿内くらいの「国」と呼べるような勢力に成長してる
この「全畿内くらい」というのは、どのあたりまでを想定しているのか教えてくれるかな
山城や大和の南の吉野の方は入るかなぁ? >>844
天之日矛よりも、開化天皇の皇子のヒコイマスの系統の方が気になる
日子坐王は皇位に就いていないのに系譜記事があるし、垂仁皇妃の物語に
竹野媛が出てきて、その竹野川流域に日本海側三大古墳の一つ神明山古墳がある
名前も「日子」が「坐す」だし「かなり重要な王族」または「皇統に接続された
有力豪族」だと思っている
強く主張する気はないけれど、邪馬台国までの水行10日陸行1月は日本海側航路で、
この丹波の竹野付近も経由してるんじゃないかと考えているよ >>846
南北の地域についてはまだ少し間があるね
北は丹波丹波とかその辺の影響が継続してるし
南の和歌山とかに近いところは古い形式を維持してる
まとまるのは2世紀半ばに入ってくらいになるかね 「鯖を読む」っていうのは、日本海の鯖が近江経由で畿内に運ばれるときに、
遠くから荷運びの荷物を見て、どれくらい届くかを見積もったことがもとに
なった言葉だって知ってるかい? >>848
丹波道主命の関係もあるし初期の大和朝廷にかなり存在感を見せてるね
垂仁天皇時代にあのあたりの地域に関わる話が多い気がする
田道間守もそうだね
この扱いを見ると大和朝廷も無視できない独立的な大豪族の存在を考えさせる
まぁ竹野姫はブスいから返されたとかあれだけどw 2世紀にはいると畿内に成立した勢力が吉備と共同して急激に日本全国的な展開を始める
2世紀の半ばから終わりくらいになると特に北部九州にその活動範囲が色濃く表れる
その動きがより活発になり庄内式、布留式の時代になると九州の土器を塗り替えるくらいのものになる
そんな中で3世紀初頭に石塚古墳、纏向遺跡が出現する
これが邪馬台国と呼ばれる勢力だろうな
邪馬台国の淵源はやはり1世紀の畿内の統合にあるとみられる で、労働力確保の目途はたった?
墳墓築造という大きな負担を背負わされる同盟の意味とは >>852
>これが邪馬台国と呼ばれる勢力だろうな
ただの倭種 >>853
>墳墓築造という大きな負担を背負わされる同盟の意味とは
何が言いたいのかよく分からんが、畿内第V様式の範囲で十分な人口はあると思うぞ >>837
狗奴国の淵源だと思うけどね。
倭国大乱が始まり、狗奴国の中でも征伐されたり、寝返ったりがあったと思うけどね。
女王国の主体は畿内以外だと思うよ。 鬼頭宏(2000)「人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)」
「弥生時代から奈良・平安初期にかけて畿内、畿内周辺、山陽、山陰、四国の5地域が揃って
シェアを拡大し、そのうち畿内周辺は全国1になっている。この5地域は平安前期には、やはり
揃って地位を低下させている。ある時期、これら地域がひとつのまとまりとして他地域を凌駕
する人口扶養力を養えたことが日本の古代国家の成立の背景となったと捉えることができる。」 >>856
邪馬台国の南に狗奴国が想定できないだろ。
倭種だよ。 >>858
後世の話がごちゃ混ぜ。
畿内説はいつもそう。
魏志倭人伝の頃の本州はただの倭種。 >>854、>>857、>>859、>>860
>ただの倭種
魏略だと冒頭で
倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種
要するに渡海千里で、対馬、壱岐、末慮と渡っていっても倭種の国ってだけだよ
魏志倭人伝ではこの文が変なところに入ってるから変な解釈する人が出てる
こんなことくらいしかケチが付けられないくらい、畿内説は盤石だってことだな >>859
邪馬台国は大和盆地中心。
狗奴国はその南。
河内〜和泉しかないと思うけどね。 >>855
全国的なものだからね
そろそろ奴隷制にまともに向き合ってもいいんではないかな
たいていの民族は必ず通る歴史として、別に恥ずべきものではない。 >>862
河内〜和泉は「西」だから✖
魏志倭人伝の頃の本州はただの倭種。 >>861
>要するに渡海千里で、対馬、壱岐、末慮と渡っていっても倭種の国ってだけだよ
>魏志倭人伝ではこの文が変なところに入ってるから変な解釈する人が出てる
言いたいことはわかるが、その倭種の中で、博多湾沿岸勢力のみを邪馬台国と称したんだよ。
だから邪馬台国も倭種というのは間違いではないが、本州の「ただの倭種」とは扱いが違う。
博多湾沿岸の倭王はきちんと冊封している。 >>863
部民ってのはあるけど、奴隷っぽいのは記紀にも見えないんだよなぁ
特に奴隷に対して罪悪感のない時代にわざわざ隠すとも思えないし
防人に行かされた人の歌が万葉集にもあって、大変、つらいって書いてあるけど
これも動員であって奴隷ではなさそうだし
奴隷制、あるかなぁ? >>866
>博多湾沿岸勢力のみを邪馬台国
博多湾岸から水行20+10日、陸行1月かけて行く場所に邪馬台国があるのに
何を言ってるんだかww
漢文読めますか? という以前に、人間の書いた文章、読めますか?
まともな人間とコミュニケーションとれてますか? 畿内勢力が九州に進出したのが畿内の躍進の原動力に見えるな
倭国大乱で九州勢力が崩壊して弱体化したところに乗り込んで行ってこれを取り込んだ
その結果、瀬戸内海から九州に開くルートを手に入れて周辺国に対してアドバンテージを持つようになった
危険な日本海ルートよりもより安全で多くの土地を通過できるからな
出雲は一番いいルートを取られたことで諸国に対する優位性を失いその後塵を拝することになると >>869
>女王のカリスマよりは合理的
女王のカリスマ云々を持ち出さなくても、各地のローカル首長、豪族は、それぞれの勢力圏で
武力を含む十分な強制力を持ってたと思うんだが、それでは足りないと思うの? >>872
日本海ルートから瀬戸内海ルートになっても、筑紫の優位性は変わらない。 畿内の王墓登場のタイミングを見ても畿内勢力が強力な王国として成立したのは九州を勢力下に入れたのがきっかけだな
九州と出雲に塞がれていた大陸への道を直通で開いたんだからな
周辺国も次々と邪馬台国の傘下に加わるだろうな
この辺りが邪馬台国の急激な拡大の理由だろう >>872
>危険な日本海ルートよりもより安全で
そんなに危険かなぁ?
縄文時代から丸木舟で十分な広域流通ができていたんだから、困るほど危険ってことは
なかったと思うんだけど
言われるのは、縄文海進後の海退が進み、海面が下がるにつれて、天然の良港だった
潟湖の出入りがしにくくなったってことだけど
丹波の竹野の隣にも離湖という潟湖があるよ >>872
畿内勢力とか言ってるけど、一体それは誰? 実態はないの? @阿波 >>874
輸入が止まった時点で、筑紫の優位性は消えてる >>875
>畿内の王墓登場のタイミングを見ても畿内勢力が強力な王国として成立したのは九州を勢力下に入れたのがきっかけだな
このタイミングが卑弥呼の共立だと思うんだけど、
畿内の進出なのか、平和的な談合なのかはちょっと判断が付かない
まあ、主体は畿内側にあるのは確かなんだが、圧力をかけて制圧したようにも見えない >>876
当然いけなくはないけど後の渤海使とかも含めて事故率高い
それに上でも書いたけど日本海ルートだと恩恵受けるのは出雲だけだからね
他の九州東南部、瀬戸内海地域にとっては北部九州への直通ルートが開いてくれる方がメリットが多い
邪馬台国への参加者が増える理由になるだろう >>875
畿内勢力とか言ってるけど、一体それは誰? 実態はないの?
今日まで、各地に伝承・痕跡を数多く残した阿波の「忌部一族」のように、
畿内や九州から全国へ進出した「忌部一族」に代わるような部族は認められない。 @阿波 >>879
九州の方の倭国大乱の事情で戦うまでもなかったと見てる
そういう痕跡もないしね
九州はちょうど2世紀半ばくらいから400年続いてた勢力が急激に崩壊して消滅してる
出雲も東西の足並みのそろわなさとかもあってその頃には衰えが見える
畿内はそのタイミングで統合して吉備とともに勢いがあったこともあってすんなり乗り込めたと 宮崎とかが積極的に畿内の影響受け入れてるのも北部九州に蓋されてる状況を打破できるからだろうな
色んな勢力が邪馬台国にこぞって参加してる事の辻褄があう >>880
>他の九州東南部、瀬戸内海地域にとっては北部九州への直通ルートが開いてくれる方がメリットが多い
九州東南部や瀬戸内地域は自分で北部九州まで行けるだろうに
東西交通(九州−畿内)については、畿内は既存の交流に乗せてもらう側だと思うんだけど? 露骨な言い方をすれば、博多湾岸の「優位」は倭人みんなにとって害だったのさ >>885
言う通り吉備が最初のルートを提供する立場として主体にいた様子が見える時期がある
楯築とかの時期だろう
ただ、広域連合を形成してその盟主に畿内が共立されたことで畿内を主体とした集団に再編成されてる
吉備はその重要な参加国の一つと言う位置になる >>887
それ、吉備忌部。 吉備忌部しってるでしょ?
みんなの夢想しているの、それ全部 忌部の所業なのよ。 @阿波 >>883
同盟して無駄に大きな古墳を造らされるのなら同盟にメリットはないかな
古墳はおそらく首長が好き勝手に造っている。
つまり文化の共有がまず先にあり、同盟があったとすれば後に政治同盟ができた。
これを後の時代の人が前方後円墳体制と呼んでいるだけ。 >>889
好き勝手と言うには企画統一がなされてるだろ
それそれの首長が自分の威信をアピールしてる
その中に、大手のあそこと同盟しました:力関係は四分六です:的表示が含まれてる 吉備は古墳の規格にもかなりガッツリ絡んでるな
埴輪も墓の形も吉備の発展的な物
初期古墳でも巨大なものが存在してるし、畿内の外で300m〜400mクラスの巨大墓を作れる吉備の力がうかがえる
初期の大和朝廷を吉備王朝とか呼ぶ人がいるのも分かる
この辺も邪馬台国創建の際の主要メンバーとして関わっていたと言う吉備の姿が見えるな >>892
>この辺も邪馬台国創建の際の主要メンバーとして関わっていたと言う吉備の姿が見えるな
そりゃそうでしょうね。 忌部一族なんだから。 @阿波 >>89
>>唐津港付近や唐津市街から、東南方向出発路は、存在するし、
「陸行五百里」は途中の道なり移動を示しており、経路はある。 <
>で答えたつもりになって「逃げてる」
「その出発方向を含む経路を示せ」って何度も言われてるのに 「ある」としか言ってないだろ
ごまかすな 「通過点を現在の地名等で、5点程度示してみろ」よ<
途中の経路は、倭人の案内に拠る「道なり」道だ、と以前に答えてある。
「陸行五百里」としか書かれていないが、
おそらく、松浦川を越えて海岸沿いに道なりに浜崎まで行って、
その後は、天誅らは山越え道説であり、
私は、海岸沿い道だろう、と説明していた。 >>91
>この問題は、古田本人の説明も相当メチャクチャだね<
古田さんは、「陸行五百里」としか書かれていないから、
道標案内に拠る「道なり」道説だ。 >>889
古墳はむしろかなりハッキリとした規格の上にある
寺澤氏が指摘するような形、大きさ、副葬品などに明確なルールが存在してる
「中央」を基準として「地方」が追随する形を古墳時代を通じて維持している
個人裁量なら大きさも形も全国バラバラになるのが普通
それが発生からドンドン規格が強固になり、古墳終焉の最終末の前まで維持されてることは相当明確な意思がある事を示している
偶然や流行の産物とはとても言えない
逆に「好き勝手」だった時代から「いきなり規格が全国的に統合されている」のが重要な点 >>894
>松浦川を越えて
末慮國の位置をどこに設定しているんだ?
一番栄えている部分は、宇木汲田遺跡のあたり
松浦川より東側、そもそも松浦川は渡らない
海岸線が南西に向くところを恣意的にスタート位置に選んでるだけだろう >>891
政治から文化を解釈しようとするからそうなるんだろうけど
共立メンバーが互いに技術を持ち寄って前方後円墳を完成させました並みに非現実的な話だね。
見る者つまり地域への権力の誇示はあるだろうが
単に首長の動員力と古墳の大きさが比例しているだけの話ではないかな
畿内は、よそに回せるほどの潤沢な労働力だけはあった。それだけの話。 こういった「中央の古墳の大きさを超えない」と言うようなルールの上にあって、規格外の巨大墓を作れる吉備の存在はやはりかなり特異だと分かるな >>92
>>「東征毛人五十五國」。<
>はい、また背乗り! それ、大和朝廷の雄略天皇の上表文!
「自昔祖禰躬甲冑擐跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國」<
いや、それは宋書の5世紀の倭國伝の記録であり、
大和は、筑紫倭国から別れた別種の旧小国であり、
中国に朝貢したのはようやく隋の開皇末であり、
筑紫倭國を併合吸収継承して朝廷になったのは、ようやく701年であるから、
5世紀の宋書の倭国とは、筑紫の倭国の事だ。
>しかも、この東征の主語は「祖禰」で雄略天皇の祖先<
雄略も前項に拠って×であり、天皇でもなかった。
>「祖禰(そでい)躬ら甲冑を擐き」っていうんだから 四道将軍やヤマトタケルとかだな<
四道将軍やヤマトタケルも、実在であったんなら、倭國の東征将軍位にしかならない。
大和國など出る幕なし、っていうか、大和朝廷なんてないから。 最初期の頃はまだ古墳の規格に在地のアレンジを加えているものも存在している
これが時代が進み、畿内の影響の拡大が進むにつれて斉一化されていく
そしてその後の時代となると中央の規格にそのまま連動するようになる
この辺りも「規格を在地の勢力に採用させる」政治力が働ていることが読み取れる
ただの文化移動であるならば、中央がどう変わろうが在地独自の進化系統を見せるのが通常
最終的に全然違う物になっていくだろう
古墳については常に中央の形に連動していることから規格統合の意志が存在してることが分かる >>899
>畿内は、よそに回せるほどの潤沢な労働力だけはあった。それだけの話。
畿内にはそんな力はないですよ。 畿内は阿波人による拓殖地に過ぎないから。
力があったのは、倭国(阿波)。 @阿波 >>896
>「好き勝手」だった時代から「いきなり規格が全国的に統合されている」のが重要
共立で、祭祀の統一がなされ、規格が全国的に統合された上で
中央からの支持で広域動員して古墳を作ったんじゃなくて、
身の丈にある大きさで、各地の首長が自らのイニシアチブで(=好き勝手に)作った
ってところじゃないかな?
ただ、吉備の造山、作山古墳の頃は応神天皇に兄媛、仁徳天皇に黒姫、
雄略天皇に吉備稚姫を后妃として入れていて、そのため中央から大古墳を
作るよう動員があったかも知れない
西都原の男狭穂塚・女狭穂塚古墳も、諸県牛諸井の娘、髪長媛が
仁徳天皇の后妃となっていることとの対応が見られるし、尾張の断夫山古墳も
継体天皇妃に尾張目子媛があるためと考えられるし、畿内の外の巨大古墳は
中央の大和王朝の支援なり指示なりがあったかもしれないとは思う >>94
>比べたよ
洛陽晋墓の方格規矩鏡の普通のよくある方格規矩鏡 <
なら、中国の方格規矩鏡は1世紀だ、
と言っていた柳田説は、間違っておりました、と謝罪しな。
>平原1号のは異常な方格規矩鏡<
平原の方格規矩鏡には「尚方作」鏡と、そうでない鏡があったんだから、
その両方と洛陽晋墓の方格規矩鏡とを比較しないといけないんだよ。
柳田に教えて上げな。 >>904
その、中央とは倭国(阿波)ですね。 @阿波 >>899
そもそも「本当ならこんなもの作る必要などない」と言うのが重要
別にこれで畑が増えるわけでも、鉄が作れるわけでもない
城になるわけでもない、町にもならない
本当にただの無意味なオブジェ
こんなもの本当なら大変な苦労をして作る必要などない
自由ならみんな作らないだろう
そんなものを「全国一斉の規格で中央に合わせて作ってる」と言うことそのものが、明確な意図の上にある証拠と言える >>900
>いや、それは宋書の5世紀の倭國伝の記録であり、
この部分、倭王武の上表文そのままの記録の部分なんだけど?
>5世紀の宋書の倭国とは、筑紫の倭国の事だ。
倭王武の倭国が北部九州なら、東征毛人五十五國「西服衆夷六十六國」の
西服66國が入る場所がないんだよ
この上表文一つで、倭王武が列島中央付近の大和朝廷であることがはっきりする
九州王朝説はどうやっても成り立たない
よって、九州王朝説に依拠する邪馬台国九州説は成立の余地がない
はい、おしまい >>904
好き勝手」だったら
規格の全国的統合が
あるわけないんですが? >>905
ザラコクの愚かな勘違いを、他人が代わって謝罪してくれたりしない >>907
反乱抑止もあって人的資源を巨大古墳に浪費させられていたのが畿内。
新たな戦争に投資していたのが九州。 >>95
>新唐書は、原則として書き換えをしていないから、半分×書ではない。<
>新唐書は、大和朝廷の歴史をそのまま認める「大和一元史観」だね!<
いや、ダメだ。
新唐書は、(旧唐書や唐会要とは違って)「倭國」伝を立てておらず、
だから卑弥呼や倭の五王などの記載もなく、
(旧唐書や唐会要とは違って)日本国の大和王権を中心とした歴史を説明しているだけだ。
>彦瀲子神武立 更以天皇爲號徙治大和州
次曰綏靖 次安寧 次懿コ 次孝昭 次天安 次孝靈 次孝元 次開化 次崇神
これが正しいんだろ!<
倭國の別種の旧小国であった大和が主張した大和王権側の歴史と、
中国側が記録した大和日本国との、国交の記録が中心だ。 >>904
そういう意味の裁量なら勿論そうだと思う
中央が古墳造営にわざわざ出かけて作っていたとは逆に考えにくい
地方豪族が中央に申請して規格の許可を得て独自で築造してると思う
特別な古墳であれば言う通り何かしかの援助もしていたかもしれないね >>97
>>始めから「多利思北孤≠目多利思比孤」だよ。<
>とか言う これもともとは「隋書の多利思北孤を「タリシヒコ」と読むのはおかしい」とかいう
九州説の妄言がもとなんだがね <
多利思北孤は「タリシヒコ」とは読めない。
>「多利思「北」孤だから、畿内天皇のタリシ「ヒ」コじゃない、だから九州王朝」って
言ってたのに <
当たり前だ。「多利思北孤≠目多利思比孤」だ。
>それで自分で引用した新唐書に「多利思比孤」って書いてあるじゃないかと言われて
>>77で「隋代の記録が唐代にも残っていて新唐書が書き足した」と書いているのに
>>88では「多利思北孤≠目多利思比孤」と否定
言い分がくるっくる回ること回ることww<
目多利思比孤は、大和側の、おそらく王年代紀か小野妹子が伝えた、用明の名前だ。 >>99
>とりあえず、ネット上で画像は見れるよ
https://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/96a8cbd6169180a157075d145f086b7f/1/615
「いや、後世に偽造されたものなら、
自家が、「天皇家に敵対した熊襲」や、
「大和天皇家一元列島支配宗教で書かれた記紀の思想を否定するような倭の五王」の名前を書く筈が無い。
そんな事を書いた事がばれたら、一族全部罰せられる可能性も高い。
つまり、真書であった可能性が非常に高い。 つまり、ごまかしは、やっぱりウソつき騙しのサギシ。」
でもさ、この偽書、国っていう字使ってるよ? 國じゃなくてww
新字体を使っているってことは、昭和のしかも終戦後だよな<
これは、内倉氏の著書に紹介された松野氏姫氏系図であり、
私が説明している室伏氏が紹介された系図ではないよ。
いずれにしても、鈴木真年東大教授の紹介された系図を見たいのなら、
国立国会図書館か静嘉堂に行って、原本を探して見れば?。
Yahooでは、mkpoという大和説のおじいさんが探して、見て、紹介していたよ。 >>916
古来日本人の名前で漢字一文字名前が使われていたことは実際問題ないんだから
それが書かれた系図なるものがあったら、転拠もとからの丸写しってだけだろ?
要するに、それこそ宋書の倭の五王の系譜に合わせて後世に作ったことが
丸分かりのどこまでもできの悪いニセ系図だよ
こんなものを持ち出して、「九州王朝には讃がいた」とかいうのが
恥ずかしくないのはすごいな >>909
>好き勝手」だったら
>規格の全国的統合が
>あるわけないんですが?
中央から作れと言われて=強制されて作ったわけではなく、
それぞれのイニシアティブでそれぞれの首長の意思で作ったっていう意味だよ >>894
>おそらく、松浦川を越えて海岸沿いに道なりに浜崎まで行って、
>その後は、天誅らは山越え道説であり、
>私は、海岸沿い道だろう、と説明していた。
あのさ、これ、出発方向が南東だから、東南陸行五百里到伊都國だっていうのの
説明のつもりなんだろ?
もし>>894の言うとおり、唐津湾の西の方から海岸沿いにやや南寄りに
出発したとして、すぐに海岸沿いに北に向かっていて、出発地から南東に
向かっていないのはすぐに分かるだろ?
魏使が旅程を書くのに、東南に進んでいないのが丸分かりなのに
出発方向を書いてそれで事たれりとすると思うのか? >>918
作ることにメリットがあったと言うことだろうな
・文字のない時代に見てわかる地位のシンボルを示すことができる
・古墳を誇示することで中央との繋がりをアピールできる
・中央政権に対してはその所属を表明する証
・地方豪族同士でも序列を作りやすくトラブルを避けられる
逆に作らなければ敵対の意志とも取られかねない 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1519463286/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>920
根本は、死んださきの首長から権力を継承しましたぁという
現首長のための巨大オブジェでしょ
そこに首長どうしの条約というか、契約というか
そういうものが書き加えられてる
ということ >>100
>「そして、九州説頼りの「鉄鏃は百倍」とかいうのも、実は九州でも
甕棺墓の時代が過ぎるとほぼ出ていない 全部、古いんだよ、九州説は 」
これを否定したかったら「根拠」として
「甕棺墓が廃れたあとの九州での鉄鏃の出土例」をあげてくれ できるものならなww <
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
に拠れば、祇園山からは、
「鉄製品としては、鉄製農具工具である厚鎌・錐・〇・手鎌・手斧鍬、
武器として刀子・鉄鏃・剣・刀身状の不明鉄器があげられる」とされ、
三養基郡上峰町の船石遺跡の二号墳からは、
「蛇行状鉄矛・鉄鏃・不明鉄器・刀子がある」と記載されている。 >>102
>洛陽晋墓は中古鏡ばっかりで編年に使えない 常識 <
副葬に使う鏡は、個人の生前の「故人の貴重な愛用品」であった、という事が常識。
という事が常識。
という事は、普通は、個人の生存中に手に入れた鏡。 >>861
何を言ってんのw
倭から海をさらに千里渡ると倭種の国があるんだろ
倭人伝と同じ >>864
根拠は?
古墳時代以降も、大阪側と奈良側は仲良くない >>923
>祇園山からは、
祇園山古墳、だろ?
古墳時代になれば、大和でも鉄は出まくり
大して大きくなくて天皇陵にも指定されていないホケノ山古墳一つで
鉄鏃60本出てるぞ
訊かれているのは、甕棺墓の時代が終わったあとで邪馬台国の時代までの
九州での鉄鏃の出土があるか?ということだ >>864
大阪側と奈良側は、記紀を見る限り古墳時代以降も仲良くない。
平群の勢力と対立したり、壬申の乱でも別れたり。 >>928
古墳時代以降も、大阪側と奈良側は仲良くない?
根拠は? テンプレもそうだが、大阪側を邪馬台国女王国大和朝廷に巻き込むなと言いたい。
むしろ大和朝廷に最初に征伐されたと言っても過言ではない。 >>925
>倭から海をさらに千里渡ると倭種の国があるんだろ
相変わらず漢文読めないんだなww
倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種
出だしからして、倭国とは書いてないだろ?
途中で渡海千里してもみんな倭種で、全体で倭国だよ
これが魏略の書き方
魏略は逸文しか残っていないから正確なことは言えないけれど
魏志倭人伝との対照を考えれば、
倭の北岸狗邪韓國から、渡海千里で皆倭種と書いてあったと考えればいい
これが、魏志倭人伝だと、邪馬台国への旅程・地理を書いたところから
切り離された場所に書いてあるから、誤解するやつが出てるってだけ >>930
つまり、仲良くないことは
同じ国じゃない根拠にならない
という証拠を
ありがとう >>104
>>祇園山の周辺の甕棺は同時代らしい<
>できたら「根拠」を貼ってくれ<
編年表で見ただけ。
>甕棺墓の「甕棺」はその口のところの形式とかで「甕棺編年」がきっちり作られてるから 祇園山付近だけ、飛びぬけて遅い4世紀になってから甕棺墓に葬られたってのは無理だろ<
編年表の筆者は4世紀説だが、私は卑弥呼の墓説だから、」3世紀半ば説だ。
>他の例としては、筑紫野市の原口古墳が、古い墓域、甕棺墓域の上に作られていた
最初の発掘のときに、深く掘りすぎて墳丘の下の甕棺墓をを掘り出してしまって
古墳から甕棺が出たって、一瞬話題になったんだよ
祇園山古墳の周りに甕棺墓があるから、これが卑弥呼の殉葬100人にあたるとか
いうネット上の情報が結構あって、九州説が入れ込んでいるのが分かる
甕棺墓の時代と古墳時代がどれだけ離れてると思ってるんだ?ww<
祇園山は、前方後円墳ではないから、古墳時代ではない。
>祇園山古墳の周りの甕棺墓も、原口古墳の下敷きにされた甕棺墓の同類だろう
祇園山古墳の主の権力が小さくて、墳丘が原口古墳と比べても小さいから 盛り土で埋もれない甕棺墓が多かっただけだ<
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
の「 次に、裾部外周から出た第1号甕棺(K1)に使用された甕形土器がどのような編年かという問題」の部分を読んでみな。 >>928
>古墳時代以降も、大阪側と奈良側は仲良くない
伊都國は海岸線付近だけで、三雲遺跡群は奴国って言ってるやつがいるんだぜ
そんな近接距離で別の国って事があるらしいww
直線距離で4キロくらいww やりすぎ防犯パトロール、特定人物を尾行監視 2009年3月19日19時7分配信 ツカサネット新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090319-00000026-tsuka-soci
この記事で問題になった通称やりすぎ防パトは、創価学会と警察署が引き起こしていたようです
掻い摘んで説明すると
・創価学会は、町内会や老人会、PTA、商店会等の住民組織に関し、学会員が役員になるよう積極的に働きかける運動を
90年代末から開始し、結果、多くの住民組織で役員が学会員という状況が生まれた
・防犯パトロールの担い手は地域の住民と住民組織で、防犯活動に関する会議や協議会には、住民組織の代表に役員が出席する為
防犯活動や防パトに、創価学会が間接的に影響力を行使可能となった
・防パトは住民が行う為、住民が不審者や要注意人物にでっち上げられるトラブルが起きていたが
創価学会はその緩さに目をつけ、住民組織を握っている状況を利用し、嫌がらせ対象者を不審者や要注意人物にでっち上げ
防パトに尾行や監視、付き纏いをさせるようになった
・防パトは地元警察署との緊密な連携により行われる為、創価学会は警察署幹部を懐柔して取り込んでしまい
不審者にでっち上げた住民への嫌がらせに署幹部を経由して警察署を加担させるようになった
・主に当該警察署勤務と考えられる創価学会員警察官を動かし、恐らく非番の日に、職権自体ないにもかかわらず
私服警官を偽装させて管轄内を歩いて回らせ、防犯協力をお願いしますと住民に協力を求めて回り
防犯とは名ばかりの、単なる嫌がらせを住民らに行わせた(防犯協力と称し依頼して回っていた警察官らの正体は恐らく所轄勤務の学会員警察官)
※これに加えて防犯要員が同様のお願いをして回る
・こうして防犯パトロールを悪用し、住民を欺いて嫌がらせをさせつつ、創価学会自体も会員らを動員し、組織的な嫌がらせを連動して行った
つまり警察署に勤務する学会員警察官、警察署幹部、創価学会が通称やりすぎ防犯パトロールの黒幕
詳細は下記スレをご覧下さい(現在スレが荒されてますので、テンプレと87の連絡先さえ確認して頂ければokです)
やりすぎ防犯パトロールは創価学会と警察署の仕業だった
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/bouhan/1516500769/1-87 >>106
>>有如意寶珠、其色青、大如奚隹卵、夜則有光、云魚眼精也」 のように、
「有〜」情報と「云〜」情報を書き分けているから、
「有〜」は隋使らの見聞記録で、「云〜」が俀國人からの伝聞情報として、 区別されている事になるから。<
>そのご説だと、 「如意寶珠、其色青、大如奚隹卵、夜則有光」まで隋使が見聞してるのに
「魚眼精」は俀國人からの伝聞情報なんだww
漢文読めないのに無理をするなよ >「有〜」情報と「云〜」情報を書き分けて こんな意味、ないからww
「有如意寶珠、其色青、大如奚隹卵、夜則有光、云魚眼精也」
「如意寶珠あり、その色は青、大きさは鶏卵の如し、夜には則ち光あり
(この寶珠を)魚眼精というなり」 全体が伝聞情報だよ <
「有」だけでも、隋使らの「存在の実見」を示している。 >>106の追記
「有」だけでも「事実の存在確認」を示している。 >>113
>常識的には、迥在大海中の説明対象は、その前の「都斯麻國」だよ<
>おいおい、漢文が読めないなんてもんじゃないぞ
「『經』都斯麻國」=「対馬を『経て(経由して)』」って書いてあるんだから
対馬のところまで来てるだろうが<
経た場所が「迥在大海中」だ。
>迥在大海中が対馬の説明なのは問題ないだろ<
「至った」時は、
「行至竹島」や「又東至一支國」や「又至竹斯國」や「又東至秦王國」などのように、
「至〜」としており、「經〜」とははっきり書き分けている。
>対馬が「はるか(迥)大海中にあり」なのはそのままで読めるだろ<
(至らずに)經して、「はるか(迥)大海中にあり」と読める。 >>941、>>942
だから漢文読めないのに無理するなって
魏志倭人伝の「漢時有朝見者」が実見情報なのか?ww
「“在”と“有”は、漢文訓読の参考書等によれば、“在”は既に存在が分かっているもの、
“有”は存在が不確定のものに対して使うらしい。
英語の定冠詞“the”と不定冠詞“a”の違いと考えればいいだろうか。」
存在が不確定な実見情報ってすごいなww >>115
>対象の地の「四至」表現での位置説明。<
>何が言いたいんだ? 自分で引用しているところにも
「東北至成都二千四百里」って8方位で書いてあるじゃないか?<
実際の移動を記録しようとした文ではなく、
方向と距離での位置説明をしている文。
「奴國」や「投馬國」の位置説明と同じ。
>そして、「東」至安南如至成都の方角が実際には「東南」で
「大陸史書で『方角が間違っている』、あからさまにはっきりした例」なんだが?<
「通水陸行」として、川沿いを陸行する事を指定しているから、
東方へ川沿いに陸行する距離である、と断っている。
>「方角を間違うはずがない」っていう言い分は、軽く破綻してるなww<
人類は、太古の昔から、東西南北の大体の方向は、間違えない。 >>943
もうため息しか出ないな
「迥在大海中にある」対馬を経て だよ
「迥在大海中」は対馬にかかる形容詞句 >>945
>方向と距離での位置説明をしている文。
その位置説明の方向(方角)が「実際に間違っている」んだが?
>「奴國」や「投馬國」の位置説明と同じ。
同じく「奴國」や「投馬國」への方角が間違ってるんだよ >>118
>>「魏と西晋から獲得した銅鏡である可能性」は、全くない。
>ブブー 大間違いです 魏と西晋から獲得した銅鏡があり、<
「魏と西晋から獲得した銅鏡があり」という証拠が全くないから、×。
>それをもとに大量にコピーを作ったので、
オリジナルの「魏と西晋から獲得した銅鏡」がなかなか見つからないんだよ
オリジナルは大王墓とかに入ってるんだろう 天皇陵に指定されてるところは発掘できないからね<
全く証拠のない事を前提にした話だから、そりゃ、分裂幻覚の妄想。 >>945
>東方へ川沿いに陸行する距離である
だからそれが実際には東南なんだって!
実際に間違ってるの!
だから
>人類は、太古の昔から、東西南北の大体の方向は、間違えない
と言い張ったところで、大陸の史書が方位を間違っている実例があからさまにあるんだから
「東≠南」を言えば言うだけ恥さらし ごめんもうザラコクは無視するわ
あんまりにも馬鹿らしいから >>123
>>常識的には、迥在大海中の説明対象は、その直前の「都斯麻國」だよ。<
>「対馬に立ち寄らず」とは読めない <
隋書は、「至った」場合と、「經=至らずに通り過ぎた」場合を、
きちんと書き分けている。 >>124]
「S字甕の分布」から、
何を言いたいのか?が全く分からないような、投稿をする大和説者のアホ。 「經=至らずに通り過ぎた」って
新しい漢字の意味を創作ですか >>952
あなたの書いてることは、相手を罵りたいという気持ち以外
何を言いたいのか?が全く分からないような、投稿ですけど >>126
>絹も肝心の弥生時代終末期にはほとんどなくなってる<
筑紫では絹は金刺繍に発展している。
>鏡も古墳出土鏡除いたら小型?製鏡しかない<
鏡は、所有者が亡くなったら、故人の墓に副葬して上げる事が多いもの。
>で、初期古墳からは三角縁ばかり <
筑紫の話なら、内行花文鏡や方格規矩鏡などやその鏡片も、
平原などの墓から出土していた。
>漢鏡が出てくる古墳は4世紀〜5世紀ばかり <
いや、筑紫では、紀元前から魏晋頃まで。
大和の三角縁は、4世紀以後。
>平原の鏡まで漢鏡に入れてる始末だし<
平原は、魏晋鏡だし。 東南に古くからの道があるんだから
そっちに行くのが普通でしょうね。 >>129
>投馬国は、山口県玉祖(玉の親・防府市)、広島県鞆(とも)の津(福山市)、
島根県出雲、兵庫県但馬・敦賀な <
「南≠東」に拠って×。 >>130
>自慢げに出してくるものがことごとく弥生の中期か、後期初頭
卑弥呼の300〜200年は前の物ばかり それ以外と来たら今度は5世紀の古墳とかな
まさに嘘つきダマシの詐欺師とそんなもんに引っかかってるアホの集団 <
なんて、大和説人種は、ウソばっかりの・・・・詐欺師の集団。 >>132
>古墳時代の始まりは3世紀半ばのちょうど卑弥呼の死の時代にぴったり<
ちょっと違うでしょうね。
「古墳時代」という文言は、「前方後円墳時代」という意図で使われており、
日本では、275年頃過ぎの那珂八幡などが前方後円墳の始まりですから、
3世紀半ばにはならないでしょうね。 >>133
鉄鏃が見つかったぞ!すげーだろ! とか言い出したから見てみたら
また3世紀末以後のホケノ。 こいつらマジで頭悪いんだなと。
つかあのバカたちの理屈だと鉄があるから凄い強いらしいが
なんでその3世紀中ごろに大和から全く出ることもできないだろうな。
明確に別文化圏を形成する勢力に阻まれてる雑魚
程度の低い嘘広めてアホなこと喚いてる低能の集団だな
大和説者とか言うパーの集団。 ホケノ山は方格規矩鏡や内向花文鏡あって
九州のものに近い副葬品ですよね。 >>134
>甕棺墓というのは、タイムカプセルとして優秀だったんだよ
九州の鉄族も絹も、甕棺墓から出てる で、甕棺墓が廃れると出なくなる
畿内では古墳で、副葬品の埋納の仕方が変わって、副葬品が土に
触れないようになると同時に、鉄が大量に出るようになる <
変な大和説男。その話では、
大和には甕棺がないから、土に触れて錆びて、大量に出なくなる、
という事になる筈ではないか。 九州はカメ棺以外の鍛冶遺跡や
集落遺跡からも鉄器は多く出てますけどねえ 那珂八幡古墳は纒向石塚古墳ほかの纒向古墳群の後追い
オリジナリティのないこと、ここの九州説に同じ
まあ、後追いっていう時点で、大和の影響下ってことだがな >>962
>大和には甕棺がないから、土に触れて錆びて、大量に出なくなる、
>という事になる筈ではないか。
そういってるんだよ?
そのまんま
畿内にも普通に潤沢に鉄はあったんだよ >>150
>畿内中心の前方後円墳体制に組み込まれて、<
前方後円墳の始まりは那珂八幡など。
>目立った古墳も岩戸山古墳まで作れず、<
宮地嶽古墳があるよ。
>同じ九州でも西都原古墳群を作った九州南東部にも劣る、<
西都原は、(大和などと同じく)伊都国系の阿毎氏の勢力圏。
>北部九州の繁栄って何?<
白村江まで列島の盟主であった繁栄。 >>158
ありがとう
まあ、正直、九州説はみんな同じようなものだと思ってるけどさ 古いタイプの前方後円墳は
九州と同じく副葬品が比較的豊富な傾向がある。
一度古いタイプの前方後円墳勢力が
ほぼ全体に広まり
そのあとに新しいタイプの前方後円墳勢力が
広まっていったってことだろうね。 >>966
>前方後円墳の始まりは那珂八幡など。
また平気でそんな嘘をつく >>967
毎日たくさんの鉄の道具を使ってるんだから
取りこぼすこともあるさ。 >>958は失敗投稿だったのでやり直し。
ありがとう。
まあ、正直、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
みんな同じような・・・・だと思ってるけどさ。 >>159
国民投票誹謗とかか。笑える。
大和説が少数派になったからアセッてるんだろうが、
そもそも学問は学会教育界やマスコミの多数決じゃないんだよ。 それよりも
はやく刑務所に行くか、自殺しろ、
それしかないんだから 同じ方形周溝墓の平原と祇園山を、畿内説は2世紀と4世紀だと言い張る。
どっちも3世紀で、早い方の平原が卑弥呼、祇園山が壹與でいいじゃないか。
畿内説はどれだけ平原が怖いんだよ。 「方形周溝墓」と「段築葺き石のある方墳」の区別が付かないんだ >>934
おまえアホだろ
どこから千里渡るんだ?
出だしに「倭」と書いてんだろ、カス >>161
大和説は声だけ大きくて内容がないから、アンケートとか投票とかは大嫌いだね。
そんな投稿とかする暇人に、
国粋皇国史観殺人戦争狂の右翼暴力団の大和説ガキが多い、
というだけだろう。
こういうのを専門用語で逆選択?というらしい ?。 >>978
>どこから千里渡るんだ?
>出だしに「倭」と書いてんだろ
余裕がないと言葉が汚くなるねぇ
魏志倭人伝と出だしは事実上同じだろ?
魏志倭人伝
倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑
魏略
倭在帯方東南大海中 依山島爲國
そして魏志倭人伝で、出だしのあとに来るのは
始度一海、千餘里至對馬國。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。
又渡一海、千餘里至末盧國。
と、渡海千里でみんな倭種の地に着いてるだろ? >>944
もうちょっと漢文をお勉強した方がよさそうだw
「有」・・・不特定ものを示す(何が存在するか)
「在」・・・特定のものを示す(どこに存在するか)
特定の丹の場所を示してもしょうがないので「有」が正解
http://yomiyomi.xyz/yo3u-and-za4i/ >>980
分かってないねえw
だから倭人伝と魏略は同じ事を言ってる >アンケートとか投票とかは
アンケートとかネット投票とかを、国民投票とかいう人がいるらしいよ?
中身のない人が匿名で気軽にできるネット投票だけが誇りの人たちがいるらしいよ?
専門家の論文も読まずに、思い込みが一番正しいと思ってる人もいるらしいし
九州説っていうらしい
絶滅危惧種だけど、保護の必要はないなww >>982
>だから倭人伝と魏略は同じ事を言ってる
つまり魏志倭人伝の倭種も、対馬、壱岐などの渡海千里の倭種の島だね! >>162
鏡は粗悪な副葬用ばかり。
古墳は那珂八幡などの模倣。
土器は河内や播磨に蹴飛ばされ、細々と筑紫に上納。
絹もこの時期に筑紫の物まねばかり。
丹に至っては大和内に存在も知られてない。
宮殿もない。
経100歩の冢どころか殉葬奴婢百余人もないもない。
縄文来の骨占も壱岐や出雲や毛人蝦夷に圧倒され、
入れ墨も出雲を中心とした文化。
揚句、やまとはびっしりとやまと筑紫倭国の東征に押しつぶされて、
墓も宝物も筑紫式になってる。
大和は、何にもねーどころかこれ以上ないくらいは、筑紫の支配下じゃねぇか。
アホか。
何が畿内説だか、笑わせんな。 >>984
だめだよ
渡海千里のスタートは北部九州上陸後だから >特定の丹の場所を示してもしょうがないので「有」が正解
つまり場所ははっきり知らないが倭国内にはあるんだね
九州のみの倭国はあり得ないってことだ!
はっきりしたね!
もともと問題にしてたのは、隋書の阿蘇山なんだが
有阿蘇山其石無故火起接天者
これを隋使の実見情報って言ってたやつがいるんだぜ!
どこにあるか分からない実見情報ww >>163
>九州弥生の絹 弥生中期まで 11遺跡 弥生後期から 3遺跡
って統計みてて 「九州スゲー、邪馬台国間違いなし」て言ってる人の
頭の構造が見てみたい <
おや?、この大和説男も、久留米や宮地嶽の金刺繍を知らないみたいだね?。
もちろん解剖して >>166
「南」や「別種の旧小国」などの具体的な話はしないんだな?。
さすが、「嘘つき騙しの大和説」らしいや。 >>986
>渡海千里のスタートは北部九州上陸後だから
そんなことは魏略には書いてない
というか拘邪韓國にも行く前の冒頭に
度海千里復有國 皆倭種
の一節が置いてある >>169
>奈良県の弥生遺跡数は
糸島市の弥生遺跡数の二倍もあるのだ。<
情報源は?。 >>173
>三種の神器の鏡は銅鏡と推定されているんだが?
本質的には日本ディスなんだよな、九州説は <
また意味不明なんだが、大和説者は。 >>178
>新撰の中国系は百済高句麗が滅んだときに亡命帰化した中国系百済人高句麗人の
先祖を持っているというだけで、直接中国から定着した訳じゃないよ。
日本には縄文弥生を通して、中国系が渡来定着した痕跡遺構など一つもない。<
倭人は燕の南にいた、と書かれている。 >>180
>定期化した前方後円墳が九州発祥だとか言ってる考古学者は、いない <
久住編年。 >>188
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説にはもう、
デマ流しという道しか残されていないのだろうか。 >>189
大和説って
とにかく「結論ありき」だからね >>195
>じゃあ九州にも巨大古墳があるのは
なぜ? <
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