邪馬台国畿内説 Part500
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邪馬台国畿内説のスレです。
※前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1511633822/l50
1、内乱の激しい中国や、2世紀末の倭国大乱の影響を避けるため、都を、大陸からより離れた奈良盆地の纒向にした。
大和は、瀬戸内海に近く、交通の要衝である。人口も多く、日本の中心に位置しており、都にふさわしい。
2、倭国の大乱は全国的な内乱である。その結果、3世紀には、中部日本と西日本とを統一する大和朝廷が成立した。女王国の出現は、このような広い領域を支配する国家の誕生であった。
3、卑弥呼が魏からもらった鏡は三角縁神獣鏡である。その証拠に、卑弥呼の時代である「景初三年」の銘が入っているものが出土している。
三角縁神獣鏡は、畿内から数多く出土するが、九州や関東からも出土するので、古墳時代の前、すなわち鏡が輸入された卑弥呼の時代には、大和の勢力が九州や関東に及んでいた、と見るべきである。
4、朝鮮から邪馬台国にいたる行程記述は、、伊都国以降も一直線に繋がったもの(順次式)と見るべきである。
不弥国から東は、船で行った。航路としては、瀬戸内海ルートだけでなく、日本海ルートを通った可能性もある。 この場合、投馬国として、出雲や但馬を比定する。
5、「女王国の東に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。」との記述は、
伊勢湾や琵琶湖を渡ったむこうにも、倭人がいたことを述べている。
他説も歓迎です カキコミは自由に語ってください
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なお個人攻撃や、不快感の与えるようなカキコミは止めて下さい
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できれば前スレを埋めてから書き込んでください。 邪馬台国は、畿内説、九州説どちらが有力なんですか。
畿内説、九州説、出雲説?関東説、北陸説?、東北説などもあるようです。
関東説、北陸説、東北説は、あまり唱えている人は少ないようです。
オラが町から、という気持ちもあるのでしょうか。
畿内説と九州説のどちらかに絞られるのでしょうか。
三角縁神獣鏡などの銅鏡が沢山出土したりしている地域が可能性が高いのでしょうか。
確か、宮崎の西都周辺も銅鏡が沢山出土しているようですが。
畿内には、三角縁神獣鏡は沢山出土しています。
封泥という、中国からの贈り物を封じた泥の封印が出てくれば、そこが邪馬台国であるといえる大きな材料になるのですか。 >>4
前スレがPart333なのに、どうしてここは500なんですか? >>9
おまえキウスだろ?
ということは荒らしてる本人じゃないか。
言うに事欠いて畿内説側のせいにするナスリツケか。 >5
魏の使者が、船で、今のソウル近くの帯方郡から→沿岸を南へ少し東へ→対馬→壱岐→松浦半島→伊都(糸島半島)まで、細かくかつ正確に行程を記述しているのに、さぁそこから先の行程が途端にわけが分からなくなる、ということはどういうことなのか。
つまり、それは、伊都まで記述して示せば、もうそこから先は何も言わなくても卑弥呼女王の邪馬台国の都の場所は明らかだったから、ではないのでしょうか。伊都まで来れば、もう邪馬台国の中心部のすぐそばだったから、もうそこから先の行程は言う必要もなかった、のでは。
とするならば、邪馬台国の卑弥呼女王の都(王宮)の場所は、伊都から少し先の福岡市の南隣の「春日市」の須玖岡本遺跡のあたりではないでしょうか。「春日」とは天照大御神の別名と言われます。 >>14
でたらめ やり直し
水行 陸行 どうすんだよ >>15
水行や陸行は
各説 説明がつかないでしょ
方位、日数、1万2千里
不弥国まで1万里でしょ
つまり、それは、伊都まで記述して示せば、もうそこから先は何も言わなくても卑弥呼女王の邪馬台国の都の場所は明らかだったから
だから >>19
ニセでもなんでも構わないよ
まともに議論出来れば
ところで君は何説支持? >>17
大平洋ルートで畿内なら説明つく
不弥国から南で投馬国(宮崎)
投馬国から南に向かい黒潮で南紀
南紀から陸行で畿内邪馬台国
水行(特に黒潮)は距離にするには測定不能故1万2千里に入れない >>21
議論の場を選ぶほど私は偉くないので
あなたが嫌ならあなたがこなくていいのでは >>23
ニセスレを盛り立てたい人か
そうかそうか 三角縁神獣鏡について
畿内説が最近トーンダウンしているのは何故 本スレを荒らす奴
ニセスレを擁護する奴
連携とれてるなー >>25
嘘を垂れ流すな トーンダウンしてない
立派な根拠として確立してるからね
内行花文八葉鏡よりずっと説得力がある三角縁神獣鏡 >>29
正義の押し付け?
貫きたいなら裁判でもしたらいかがか
正義感が強いんでしょ
5ちゃんで叫んでも正義は貫けないよ
そんなちっぽけな正義何て捨てた方が良いよ 三角縁神獣鏡なんか
日本に掃いて捨てるほどある 国産 >>34
ワリーナ
九州じゃ掃いても捨てるほど出てないな >>33
あんたが不正の仲間と判ればいいんじゃない? 邪馬台国= 畿内 で、弥生時代から繁栄していたのを日向(現在の宮崎)出身の大勢力の首領、神武天皇(あるいはそのモデルとなった不特定多数の人物)が東征を行い、邪馬台国を乗っ取り。
って認識なんだけどどう? >>37
正気じゃないね 九州が玄関口なら▲少ない
>>38
東征は記紀頼み
出雲経由で畿内は可能ですよ 福岡は三角縁以外にもたくさん出るからね。
銅器全般だと奈良の6倍ほど。 邪馬台国は葛城である。
葛城に住んでいたヒミコが判明したからである。
10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。
これで邪馬台国論争は終了する。
崇神陵=行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015久住編年でもこれが最有力。
そして卑弥呼擁立の時代=庄内0式(2世紀末)まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを普通に遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人ヒミコを探そうとしない。
ヒミコは記紀に登場しないという固定観念があるからであろう。
わしは探した。 ほらヒミコもトヨもいた。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
また神武から孝安まで不自然な事に正后はいても「妃」がいない。
彼らは複数の妃を持つ大王ではなかったからである。
つまり魏志に書かれた女王国とは神武〜孝安時代の事であり、 それは葛城王朝であった。 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余 九州は✖
1、九州には、径百余歩(150メートル)とされる卑弥呼の墓に匹敵する規模の墓がない
2、皇帝からの贈り物は、内行花文鏡・方格規矩鏡・位至三公鏡やらなんやらを、とりまぜてバラバラに贈ることはない。三角縁神獣鏡のように統一して贈り物とした。
3、「混一彊歴代国都乃図」の地図は日本を南北に描いており、九州が上で本州が下(南)になっている。当時の中国人は九州から「南する」と大和と考えていた 。 九州は✖ 長文になったので分断
4、使者が日本に上陸後、不弥国から投馬国までが「水行二十日」、投馬国から邪馬台国までが「水行十日、陸行一月」とある。
これだけの日数がかかる場所は、九州域内に求めるのは無理。
南の方向へ進めば、遠く南方海上にまで行ってしまうので 方向を修正して、大和に向かうと考えるのが妥当である。 5、当時の北部九州の人口はそれほど多いものではない。
九州説では、北部九州の全人口の半分を、邪馬台国の人口が占めることになってしまう。
九州地方には3世紀当時7万戸を擁するような場所はない。
山門郡にしても宇佐にしても狭小な所で、とても邪馬台国があったところとは認めがたい。 6、記紀の神話は、6世紀ごろに、天皇家の由緒を権威づけるために創作されたもので、
歴史的事実を含んでいない(津田左右吉)。
記紀を頼りに歴史を描こうとするのは無意味である。 7、九州には考古学上の遺跡が少ない。特に三種の神器の一つである鏡は近畿地方から多く出土し、
九州からの出土は少ない。卑弥呼は、魏から銅鏡100枚をもらったとあるが、その多くは大和を中心に広く分布したものと見るべきである。
それ故に、同範鏡(同じ鋳型から作られた兄弟鏡)が近畿の各地から出るのであって、
邪馬台国が九州なら、九州からもっと鏡が出土するはずである。(小林行雄) 8、反政治・反政府・反東京・反独占資本の気風が、現在の九州説の背景を為している。
現在の政治への批判が、古代の政治の中心が終始畿内にあったとする歴史観の批判という屈折した形をとって現れているのが九州説である。
九州説の論者には案外保守的な人が多い。簡単に九州説を神武天皇の東征に結びつけ、天皇中心の記紀史観から一歩も抜け出ていない学説が目に付く。(直木孝次郎)
参考 http://yamatai.cside.com/tousennsetu/ky-hanron.htm >>47
だらだらすんな
暇が無いから
先ず
>1、九州には、径百余歩(150メートル)とされる卑弥呼の墓に匹敵する規模の墓がない <
卑弥呼の墓が直径150メートルの根拠は無いし、箸墓は円墳では無い 畿内説はどこで間違ったか?
この内省なきままでは何も前に進まない >>47の2
>2、皇帝からの贈り物は、内行花文鏡・方格規矩鏡・位至三公鏡やらなんやらを、
とりまぜてバラバラに贈ることはない。三角縁神獣鏡のように統一して贈り物とした。<
三角縁神獣鏡の出土地もバラバラ、枚数が多すぎ、中國の学者も「これは中国の物でないと」言ってる >>58
むつかしい質問だな
現状
急ぎ過ぎた感はある
慎重さを欠けた面は認める >>47
>3、「混一彊歴代国都乃図」
これ時代錯誤だよ 邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。
女王国、大和朝廷を作ったのは、出雲など山陰の勢力、尾張三河など東海の勢力、阿波、宮崎や遠賀川の石神など、縄文系勢力と縄文系勢力に半分乗っ取られた古い海神。
畿内や九州北部の渡来人系勢力はこれらの勢力に征伐されました。 九州暴れてるようだが
伊都国は邪馬台国では無いのだよ
F先生は距離を全く無視だよな
ブーメランの行程論は✖ >>63
OK
伊都国が倭人伝に記された理由もわからん九州説
伊都国≠邪馬台国 >>41
じゃあ何で天孫降臨の地が宮崎なの?巨大勢力のあった出雲や畿内と比べれば言ってしまえばど辺境である宮崎に天孫が降臨したって記されてるのはそういう事実があったからとしか思えない。 海幸山幸は隼人族とヤマト族(ここでは神武天皇、あるいはそのモデルになった不特定多数の人物の所属する部族としての使用)の服属の話という説がある上、隼人が天皇家の近習を務めたり隼人舞が奉納されてた記録があるあたり天皇家は日向に縁のある一族なのは確定的だろ。 >>65
天孫族は不明
東征としたら九州邪馬台国で無く、その亜流か次期政権の九州勢力
宮崎なら邪馬台国の亜流勢力が東征です
日向は地は重要拠点に間違いないでしょう
四国・本州へ渡る拠点となります
私見ですが、出雲と九州と渡来人の連合体がヤマト王権を築いたと思います
寝支度しますので、またいずれ >>66
海幸山幸
神話の世界だが神話も突如創作していないから根拠があるんだろうな
その根拠を明確にしなければ考古学では無い 記紀は危機
現体制下では記紀の清濁を論じられないな
現憲法の天皇はそれなりにわかるが
深入りする歴史を論ずることはできないな 応神が生まれて喜ぶのはスクナヒコナ。
戦後の籠神社の宮司の話によると、籠神社には隠してある主祭神があるとか。同じく出雲大神宮の祭神の中央は空位とのこと。
火明命でもなく大国主でもない主祭神。
クナトの大神だろうと言われている。
クナトの大神、スクナヒコナのことかな。 九州は倭国の玄関
奥の院は畿内邪馬台国で決まり
奥の院は武装は必用ないので鉄器なんて必要ない
纏向 平和な地が王都
全国の物流の地、祭事を行った地は纏向以外の候補地なし >>65
天孫降臨は筑紫の日向、すなわち伊都国や奴国のあたり。
紀元前からずっとここに三種の神器を持つ王墓が作られていた。
その一つが平原遺跡。
ここが卑弥呼のいた倭国の王都。 海幸山幸は倭国の邇邇芸王家の伝承。
山幸の本名は彦火火出見であり、筑紫の日向の高祖宮(高千穂宮)の祭神。
日向三代が卑弥呼の前の男王達であり、伊都国王家。 >>69
南洋には秘録「釣針喪失談」という海幸山幸と同じ構成のストーリーの神話が分布している。
そして隼人族は南洋系であり、この話は隼人族に伝わっていたの考えるのは必定。神話の方に話を戻すと山幸に服属した兄、海幸は阿多隼人の君の先祖と史料に記されている。つまり天皇家と阿多隼人は親戚。
天皇家の近習を務め、官位に隼人の名が残っているあたり南洋系の隼人と天皇家はかなり近い関係にあった。 天孫降臨の道中にサルタヒコに出会うんだろ。
猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、淡の境。
畿内から博多湾に降臨したんだろうな。
高天原は何処かだな。
何処か分からないが、なにわかもしれないぞ。 九州には、筑紫、肥国、豊国、熊襲の4つの国しかなかったとされています。
今の宮崎県が日向の国と命名されたのは、景行天皇の時です。
それ以前の、伊奘諾が禊をしたり、邇邇芸が豊葦原中国の王となった筑紫の日向とは、博多湾沿岸のことです。
考古学的にはここに三種の神器を持つ弥生王墓が集中するのです。
稲作文明伝来の地、大陸や半島との交渉に最適で、帯方楽浪から一万二千里、金印により倭王が冊封された倭国の中心地です。
女王卑弥呼の時、魏からの使いはここを目指してやってきました。 天武系は磐余系神武系だろうが、最終的に自滅したからね。
天武と天智天皇は全く別の血筋だろうし。
大津皇子が天武の子かどうかも怪しい。
大津皇子可哀想だな。
辞世の句
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
ももづたふ、敦賀や鈴。
イワレと鴨を恨んでいるのかな。
雲隠りなむ、太陽が雲に隠れるのかな。
太陽は烏。
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕離家向
金烏の家は西にあるのかな。和泉路に賓主はなし。
我こそが応神天皇の子孫だと言いたかったんだろう。
息長氏(敦賀、鈴)、神功皇后、応神天皇。 猿田彦は博多湾沿岸の陸海を治めていた将軍。
猿田彦の導きで天孫邇邇芸は志賀島に上陸し、天橋立(海ノ中道)を渡り、福岡平野を横切って高祖山において即位しました。
邇邇芸の国読みの詔は、ここは東西がひらけて朝日がよくあたり(東は福岡平野)夕日も照り(西は糸島平野)、韓国にまっすぐ道が通っている(博多湾は対馬海峡に面している)、良い国であると。
邇邇芸の持っていたとされる神宝が、高祖山の麓の平原遺跡から出土した八咫の鏡。
糸島平野の三雲南小路遺跡は倭王と王妃の墓だが、そこを祭る細石神社の祭神が木花佐久夜毘売であることから、この遺跡が天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売の墓であると推測される。
邇邇芸から始まる日向三代が倭奴国の名前で後漢から倭王に冊封され、漢委奴国王印を授かった。
この金印は江戸時代まで、細石神社が保管していたと言われる。 聖武天皇の難波行幸に従駕した笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の詠んだ一首
押(お)し照(て)る 難波の国は 葦垣(あしかき)の
古(ふ)りにし郷(さと)と 人皆の
思(おも)ひ息(やす)みて つれも無く ありし間(あひだ)に積麻(うみを)なす
長柄(ながら)の宮に 真木柱(まきばしら) 太高(ふとたか)敷きて 食国(をすくに)を 治めたまへば 沖つ鳥
味経(あぢふ)の原に もののふの 八十伴(やそとも)の緒(を)は 廬(いほり)して 都(みやこ)なしたり 旅にはあれども
壬申の乱で天武に敗れたなにわは、奈良時代は寂れていたんだね。
この歌からは、芦原中津國、食国であるのが伺える。
もう一つのなにわの枕詞。
葦が散る
かつては大坂城の地にあった生國魂神社の謂れ。
神武東征の折に、生島神と足島神を鎮魂したとある。なにわは倭国大乱でも敗れたんだな。 卑弥呼の即位前夜の倭国大乱において、天孫族は伊都国(筑紫の日向)を出て、東征した。
それ以後の卑弥呼政権については、天孫族の歴史書である記紀には記述がない。
欠史八代に記録が乏しいのは、倭王ではなかったから。
崇神天皇を畿内に迎えたのち、天孫族が筑紫の倭王に返り咲くのは景行天皇の時。
ただし魏志倭人伝に天孫族の痕跡は残されており、それが伊都国の官である禰宜である。
おそらく邇邇芸の末裔であり、神武らについて行かなかった天孫族の一部である。 八十島祭は興味深い。
八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。 南海に広く分布する「釣針喪失談」が天皇家の先祖の逸話として残り、天皇家の親戚を自称した隼人は南洋系 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 隼人と天孫族には密接な繋がりが認められ、 隼人と天孫族は近隣に友好的、敵対的な関係で存在した。 南海に広く分布する「釣針喪失談」が天皇家の先祖の逸話として残り、天皇家の親戚を自称した隼人は南洋系である=隼人と天孫族には密接な繋がりが認められ、 隼人と天孫族は近隣に友好的、敵対的な関係で存在した。 >>87
そして隼人の勢力範囲である鹿児島近隣で天孫降臨の逸話の残る日向・宮崎が天孫降臨、天孫族の住地であったのは疑いようがない。 邇邇芸や山幸(彦火火出見)らが王都としていた筑紫の日向は、魏志倭人伝の伊都国のこと。
高祖宮は、筑紫伊都の防衛の要である高祖山日向峠に設けられた山城である高祖城のこと。
山城であるがゆえ、記紀においては高千穂宮と呼ばれた。 杵築大社の天井図。八雲が一つ欠け七つしかないだろ。
あれは、紀元前後出雲地方の内乱の結果、神庭にいた渡来人系の出雲の王族が追放されたから。
出雲地方で元々信仰されていたのは、姫神の幸神、東から来て文物をもたらしたクナトの神。そしてその子のサルタヒコ。
サルタヒコ一族は、縄文人のオオナムチに破れるんだな。
そして、畿内など各地に逃げ延びる。
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸。
https://goo.gl/HVTW1n 同じ紀元前後の時代。
渡来人系の丹後半島の王族ヤマタノオロチ族。
丹後半島に侵攻したカグツチ(ホアカリ系、記紀でいうスサノオ)に王が殺されて、一族が畿内に逃げ延びる。
その後一部伊吹山辺りに移った可能性がある。
伊吹山、ヤマタノオロチの神霊が住むと言われているな。
ヤマタノオロチ族と風宮の神との関係が気になるな。
級長津彦命
級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない。
丹後半島に遅れて、畿内淡路島や池上曽根、彦根で鉄工房が始まるからな。
伊吹山、和歌では一途な想いの代名詞。
畿内に逃げ延びたヤマタノオロチ族は、助けてくれた大阪湾の渡来人に恩義を感じていたのかもな。
伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている。 畿内に逃れてきた出雲の王族サルタヒコ一族、丹後半島のヤマタノオロチ族、環大阪湾にいたイザナギ(クナト)一派が、1世紀半ば近畿一円に国を作る。
クナ。クニの語源。対外的には倭国。
二世紀半ば〜倭国大乱で、縄文人に滅ぼされた国。
出雲族の姫、幸神と、イザナギ(クナト)一派の彦、クナトの神の子がサルタヒコ。
出雲族とイザナギ一派の同盟の証。
サルタヒコは暦の神。一年に一回伊勢遺跡で暦を作り首長達に伝えていたんだな。
サルタヒコは、月夜見にして大国主、卑弥弓呼。
イザナギ(クナト)一派の王が、スクナヒコナ。 サルタヒコ。
出雲族の姫神幸神と、倭人の彦神クナトの神の子。
倭人と出雲族の同盟の証。
月夜見にして大国主、卑弥弓呼。日見彦。暦の一子相伝者。
倭国大乱で殺されて、日本列島から暦が無くなる。
猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、淡の境。
その近傍にイシズ川。
猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北が浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。
伊勢と同じものが揃っているんだな。
凄い偶然。
更にサルタヒコはヒラブカイに挟まれて亡くなるとある。
泉北丘陵、イシズ川を遡った地に平井と深井という弥生時代から立地が変わっていない集落がある。
平井と深井の間が弥生時代の鈴の宮遺跡。
サルタヒコは最後はこの辺りに逃れていて、殺されたんだろう。 宮崎県にあったのは天孫族の分家があった投馬国。
その中心は西都市妻の都萬神社。
官のミミ、ミミナリは、九州の権力者によく見られる称号である。
神武の息子らも耳とつくが、これは神武が九州の出身であるからである。 大中臣氏の歌
たづのすむ沢べの蘆の下根とけ汀もえいづる春は来にけり(後拾遺9)
【通釈】鶴の棲む沢辺の蘆の地下の根に張っていた氷が解け、汀(みぎわ)がいっせいに芽吹く春はやって来たのだ。
平安時代、汀(上町台地〜泉北丘陵)に春がやってきた。桓武天皇で天智系に戻ったからかな。 九州北部のね、イザナギ系の勢力住吉三神など。
2世紀後半の倭国大乱で遠賀川上流の石器を作っていた縄文系勢力(カグツチの血、石筒之男)やと、西瀬戸内海の海賊などに征伐されたんだな。
伊都国もイザナギ系なんだけど、
伊都国は漢に冊封され、又各国使者の目もあったために滅亡だけは免れた。
平原辺りに追いやられ、実権は奪われながらも存続。
代わりに博多には一大卒が置かれたんだな。九州北部統治の為の兵の駐屯地。 邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。
女王国、大和朝廷を作ったのは、出雲など山陰の勢力、尾張三河など東海の勢力、阿波、宮崎や遠賀川の石神など、縄文系勢力と縄文系勢力に半分乗っ取られた古い海神。
畿内や九州北部の渡来人系勢力はこれらの勢力に征伐されました。
更に四道将軍で関東東北の先住民を征伐したのもこれらの勢力です。 魏志倭人伝 邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川に見られる。
生駒は火の神。
生馬も藁が巻きつけられ、荒ぶって燃えると自らが燃えるようになされている。火の神か。
焼畑と何か関係あるのかな。
焼畑の遺跡の分布も気になるところ。
古い海神。BC1000年頃水稲栽培をもたらした勢力か?陶塤と関係あるのかな。 陶塤は、宗像以東、周防出雲丹後半島など日本海側中心に分布。
水稲栽培が伝わった時期、緯度を考えると殷からの難民がもたらしたのか。
殷に纏わるもの、亀ト、河伯信仰、生贄など。
カミイクスビ、イノヒメ
クマノクスビ
クスビは奇し火かな。
クマは篭った、奥まったという意味か。
イノクマ、生馬、生駒、伊熊、猪熊と何か関係あるのか。イン+クマ? 大和朝廷に虐げられていた畿内や九州の渡来人系勢力と関東東北の縄文系勢力が手を結び、初期の大和朝廷の中心勢力は、神功皇后応神住吉明神鹿島明神に倒されるんだぞ。
邪馬台国、大和朝廷側じゃない方がいいぞ。 天武天皇の時に隼人の乱があるんだな。
九州南部も山に住み石器を作っていた縄文系勢力と海辺に住んでいた海洋民族の隼人がいた。
2世紀半ば南海トラフ地震で大ダメージを受けた隼人の勢力を縄文系勢力が支配下に置いたんだな。
天武天皇の時に隼人の乱があったのは当然と言える。
天武系を滅亡させた桓武天皇と隼人は味方同士だろうが。 >>89
>邇邇芸や山幸(彦火火出見)らが王都としていた筑紫の日向は、魏志倭人伝の伊都国のこと。
>高祖宮は、筑紫伊都の防衛の要である高祖山日向峠に設けられた山城である高祖城のこと。
>山城であるがゆえ、記紀においては高千穂宮と呼ばれた。
博多湾沿岸すなわち筑紫に日向が長らく倭国の王都であったという大原則を確認すれば、すべての謎が解ける。 >>103 つまりその高千穂宮から神武は東征したと? その通り。
出発地の筑紫の日向の高千穂宮は、倭国の王都である伊都国の高祖宮のこと。
一貫して筑紫が倭国の中心地。
宮崎県にあったのは投馬国。 『和名抄』によると怡土郡に八郷あり、託杜郷、長野郷等の名が見える。
その中の託杜は怡土郡の郡司”宅蘇吉土”の名に通ずるものであり、
現在もなお高祖山・高祖神社としてその名残りをとどめているものである。 福岡市教育委員会
宅蘇(卓素)は朝鮮系の鍛冶、《古事記》応神天皇の条〈韓鍛卓素〉
吉士は古代の姓の一、朝鮮半島より渡来した官吏に与えられた 邪馬台国はヤマト国。
狗奴国は邪馬台国の南。ヤマトの南の和泉と河内。
狗奴国の官は河内彦。 >>110
地図を見ろ。
和泉も河内もヤマト盆地の南に広がっているぞ なんか○のおかしい人隔離スレとして機能してね?ここは?
嘘つきだらけで嘘つき放題
嘘を咎める人もいないし 三笠宮崇仁殿下の言葉だったかな。
真実を語る者が、排斥されてきた歴史を私は見てきた。
邪馬台国はヤマト国。
狗奴国は和泉と河内(魏志倭人伝当時なにわは陥落している) 天孫族には南九州の隼人族と強い結び付きがあったのに何故遠く離れた北九州に天孫降臨の地があったと思い込めるのか。
九州の地理を知る人間なら考えずともわかること。 暇があったらここ読んでください
九州説よりですが
http://wajinden.com/邪馬台国はどこか%EF%BC%9F/ >>117
九州に転勤で4年半いました
管轄は九州全土の営業でした
九州は
北部九州と中部九州と南九州と景色が一変します
一言で九州は語れないです
九州説の邪馬台国の候補地が数多くあるのも理解できます 倭人
熊襲
隼人
琉球
いずれも古代から歴史がある地だと思います
奄美は隼人の範疇であると思います >>119
中央構造線ですね。
九州と四国と紀伊半島の南半分は、もともと別の陸地が北上してきて
ドッキングしたもの。 >>120
九州説はわかる
が
遺物が無いな九州南部は無い
特にだな シナ海
また上海と鹿児島は緯度はそんに変わらない >>119 そうですね。二十一世紀の今ですら各地で言葉も大きく異なります。 狗奴国
http://image02.seesaawiki.jp/s/o/syk-ysn-memo/6aa6f9f749c9464a.jpg
http://image02.seesaawiki.jp/s/o/syk-ysn-memo/546b98a10f30857d.jpg
<魏志倭人伝で南としていた方向が、正確に東と認識されるようになった。
しかし、壱岐や筑紫は南で合っていたのに、すべてが東に改められている。
秦王国は、朝鮮人などの渡来人のムラと言われた宇佐の国東王国ではないか、つまり古の狗奴国ではないだろうか。
東表国というのがあって、日本の六国史では豊国、豊日国、豊日別といわれた。
ヒッタイト人とエブス人の国ともされる。
イスラエル王国によって奴隷化されたヒッタイト人、エブス人が、製鉄技術者や人夫としてタルシシ船に乗り込み、
海のシルクロードを通じて北九州にやってきたのであろうとも伝えられる。> >>120
倭人・・・中国側から見た南方の異民族の総称
熊襲・・・神話時代の九州先住民。「くま」の地に住んでいたとされる。日本武尊に征伐された逸話は有名。
隼人・・・神話時代〜平安時代まで記録が残る。神話の体系から見て南方系、オーストラロイドであった可能性もある。天皇家とかなり近い関係にあったと推察される。五島列島にも「ハヤ」という隼人と推測される人々が暮らしていた。
琉球・・・ 異なる文化圏。 魏国は南九州経由で邪馬台国と交易したのが正しいと思う
わざわざ、幾度となく朝鮮経由で行く必用性は無い
ただし、初期は朝鮮経由は倭人伝の記述に従うべき >>125
投馬国の比定地は熊本だと思うがいかがか
邪馬台国は宮崎近辺だと思うがいかがか >>128
「とうま」と熊襲が住んだという「くま」の発音が近いことは何か繋がりがあるような気がする。宮崎は隼人と繋がりの深かった神武天皇の部族の住む地だったであろう。 >>129
少し考えてみます
ありがとうございました 西暦240年も隋の時代も都は変わらない
隋書?国伝
倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。
山の多い島に居住している。
魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。
夷人は里数を知らない。
ただ日を以って計算している。
その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。
地勢は東が高く西が低い。
邪靡堆を都にする。
すなわち、魏志の言うところの邪馬臺である。 >>132
つまり熊襲の国「くま」も「つま」って発音してたかもしれないな。 僕たちが愛してやまなかった邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、どうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 >>137
とおまかな? 中国人が耳で聞いたのを当て字にしたんだから発音自体は正しいと信じると、
とおま、とうま、つま、とぅま って感じか 筑紫の日向の高千穂は高祖山だし。
九州には高千穂という地名だらけだし。 >>146
あんた、妄想を詳しく聞きたいのか? 暇なのか? >>147
お前が>>102ならその意見を聞きたい。
そうじゃないなら背中の皮剥ぎ取られて死ね >>147
>>146は自演なんだから、構っちゃダメだよ
どうせニセスレなんだから、頭のおかしいもの同士で、埋めていってもらえばいいよ 南海トラフ地震は津波の堆積物でいつ頃あったか分かっている。紀元前後、次は二世紀半ば。
色々伝承があるが例えば、
潮嶽神社
ヒコホホデミノミコト(山幸)に追われたホデリノミコト(海幸)がこの地にたどり着き、居を構えたと伝えらています。
神話、海幸彦、山幸彦では山幸彦の影に隠れ、山幸彦ほど有名ではありませんが、海幸彦は隼人(南九州に居住する氏族)の祖といわれております。
隼人の祖は海幸彦。
海幸彦と山幸彦は対立していた。
海幸彦は内陸へ追いやられたとある。 宮崎 石 について色々調べたら、内陸で石器を作っていた縄文系勢力がぼんやり浮かび上がってくるんじゃないかな 邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 山幸彦は伊都国高祖宮、またの名を筑紫日向の高千穂宮の主であるぞ。 いくらウソついても
良いんだよ
ここは、そのための
ニセスレなんだから こないだ、東大寺のお水取りのついでに巻向に行ってきました。
巻向に行ってつくづく感じるのは、ここの田圃の水はけの悪いこと、
この水はけの悪さは・・・当時の稲作において、ここが稲作の適地だった。
と言うことをつくづく思った次第。 流れていかないから水はけが悪いんだろ。
奈良盆地は稲作に向かない。
大規模なもの排水設備が必要だが、鉄器がないから土木作業ができない。 >>159
木器を舐めんな
鉄器だと一人でできる作業でも
木器百人だとどうかな? それだけの人間を食べさせるだけの収穫が見込めないんだよ。
金属器がないと、一人当たりの収量が確保できず、生活を維持できない。 纒向では王権どころか、集団人々が生きていくことが困難なんだよ。 主要交易路が海運だった弥生時代、筑紫や出雲、近江、越は日本海の、摂津、吉備、阿波は瀬戸内海の交易圏だった。
纒向は関西の中でも置いてけぼりの後進地域だった。
畿内説もせめて大阪あたりを想定して論陣を張ればよかったのに。 夢ばかり見ているね
ニセスレはそれでいいんだよ
ニセなんだから ってか、九州説は反論してるつもりかもしれないけど
論拠を一つも挙げてないんだから、反論じゃないだろう
単なる言い返しっていうか、夢 >>162
>鉄器だと一人でできる作業でも
>木器百人だとどうかな?
一人分の食い扶持を稼ぐのに100人の労働力が必要だったらどうなるか、考えろよ。
比率を少し変えて、鉄器だと10人分の食い扶持を一人で稼げも、木器だとそれに100人かかるとなら、やはり破綻する。
100人が木器でなんとかなるなら、鉄器の国ではその仕事を一人でこなし、残りの99人は兵力となる。
纒向が栄える道理はない。 鉄器はそれほど普及してないから
残りの99人分の鉄製武器はない
鉄資源も輸入、製鉄も始まってないんだから
鉄器で木器を作って100人を200人、300人と労働力動員力とそれを支える
食料生産力を増大させることを考えないとだめだろ 鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg つまり邪馬台国は熊本城が建てられた所にあったわけですね。 調査できないところに比定するのが、くまもつ説の基本 纏向の土器が
東海と吉備というのは、共立という文言からだと
持ち寄ったと想像されるかも知れんが
先住が東海系の部族で
吉備系の人員が纏向から東海銅鐸人を追い出した
ということにはならんのだろうか?
土器や銅鐸の編年とかよう知らんけど。 あんたもニセスレの
しかも乱立重複スレに
書き込んでどうする なんで邪馬台国吉備説とか東海説を持ち出す人がいなくて、はじめから奈良盆地だと思い込むのだろう。 >>9
>まともに議論できないから一挙に500にしただけ
>落ち着いたら ここは不要
とっくに落ち着いてるんだから、ここは不要だろ?
さっさとこのスレの削除申告しなよ 都合が悪いスレはみな妨害する。
畿内説はまことにわかりやすい。 スレ立てたやつが落ち着いたら不要って言ってるんだからさっさと削除しなよ
まあ、どうせ嘘つきの台詞だから、>>9だってかっこつけただけだろうけどさ 邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。
女王国、大和朝廷を作ったのは、出雲など山陰の勢力、尾張三河など東海の勢力、阿波、宮崎や遠賀川の石神など、縄文系勢力と縄文系勢力に半分乗っ取られた古い海神。
畿内や九州北部の渡来人系勢力はこれらの勢力に征伐されました。 >>195
>殉葬などそれ以前になかった風習
日本の墳墓で殉葬例が確認できたものはないよ
九州説の人が平原1号墓を持ち上げるのは、周溝に土坑墓があってそれを殉葬墓だと
思い込んでるからだけれど、1号墓本体と土坑墓の間には大きな時間的隔たりがある
そんな殉葬はない
畿内古墳でも殉葬例は見当たらない 畿内だからでしょ。
畿内は倭国に含まれない。
倭地。 >>198
> 畿内だからでしょ。
>畿内は倭国に含まれない。
>倭地。
九州だろうが、阿波だろうが、殉葬が確認されている墳墓はないぞ
弥生時代は、方形周溝墓が家族墓で順に追葬されていたことと
もっと古いところで、甕棺墓列みたいな集合墓地的な葬り方を見て
殉葬と勘違いしたんじゃないかと、個人的には思っている
吉野ヶ里の甕棺墓列とか、その列の端にある特定集団墓の墳丘墓に対する
殉葬墓に見ようによっては見える >>199
>畿内は倭国に含まれない。
倭国を九州限定にすると、其山有丹だけで詰んでしまうのが九州説
関門海峡は狭すぎるから、本州は渡海千里にもならないよ
まあ、そういう妄想の上に成り立っているのが九州説だってことだ 邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 巡回ご苦労様です
今だに邪馬台国畿内説を信じてる人っているの? 2018/03/15(木) 14:30:06.69
邪馬台国纏向説 2018/03/15(木) 14:31:17.21
邪馬台国畿内説 Part500 2018/03/15(木) 14:31:35.01
ゆるりと邪馬台国畿内説Please 303 2018/03/15(木) 14:32:07.20
邪馬台国纏向説破綻の理由を初心者に。。。 2018/03/15(木) 14:33:03.42
自分で作ったニセスレに、固定文を貼り付けて回ってるんだな
まあ、分かりやすいよなぁ、九州説の人のやることは
「邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。」
ほかにもあるのかなww 邪馬台国纏向説 2018/03/15(木) 20:46:38.49 邪馬台国畿内説 Part500 2018/03/15(木) 20:48:09.60 今だに邪馬台国畿内説を信じてる人っているの? 2018/03/15(木) 20:50:17.62 >>204
邪馬台国纏向説破綻の理由を初心者に。。。 に誘導したいんだろうけど、ニセスレだし、人もいないなww 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 >>215=>>212だろ?
「スレ番号なんてみてないし」と言いながら
「畿内説のスレのテンプレには」ってニセスレだって自覚してんじゃんww
削除申告、早よ! もはやスレが多すぎて、とこが何かなんて意識しない。
そもそもテンプレは読まないし。
ここはなんかついているな、くらいの気持ち。
ああ、ちなみにスレを立てたのは俺じゃないから、絡むなよ。 >>218
文末に句点を付けたり付けなかったりで工夫してご苦労様だな
でも同一人物ww
九州説はもう人材払底して、ろくなやつが残っちゃいないw 削除申請、早よ!
>>9
>まともに議論できないから一挙に500にしただけ
>落ち着いたら ここは不要 >>223
心配するな
223もろくなやつじゃないのは確定事項だからww 狂人のキナイコシは、いつも誰かと僕たちを勘違いしてるな。。。 このただ一つの邪馬台国畿内説スレッドにも、謎の優れた考古学者達が現れて、邪馬台国纏向説を、蠅を叩き潰すようにして、叩き潰してしまったようだね。。。
せっかくだから、初心者にも説明すれば、良いのではないのかな。。。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1521001812/ >>230
>このただ一つの邪馬台国畿内説スレッド
じゃあ、230がスレ立てしたニセスレ、さっさと削除申請しなよ
ゆるりと邪馬台国畿内説Please 304とか
ここもそうだし まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの延べ何百時間にも及ぶ大規模調査が実施された2013年以来、箸墓古墳を卑弥呼の墓とは、誰も言い張らなくなってきたね。。。 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 このスレッドにも、謎の優れた考古学者達が現れて、邪馬台国纏向説を、蠅を叩き潰すようにして、叩き潰してしてしまったようだね。。。 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 荒らすも何もこのスレは機能していないんだから、使い切って消した方が早いだろ?
何でそんなに埋められるのを嫌がるんだい? もったいないお化けが出る。
偽とかそういうのとは関係なく、人が集まって議論していれば機能している。 持論発信の場として使用させて頂いていた邪馬台国纏向説スレが終了してしまいました。
この場をお借りして、引き続き、纏向遺跡が邪馬台国ではなかった理由を書き綴りますが、畿内説全般を否定するわけではありません。邪馬台国の条件である、鉄、文字、卑弥呼の好物を考えるに、可能性は低いがな。 墳形や生活土器の技術伝播が政治性を証明しきれないことが、纏向説否定の理由ではないのですね。
むしろ、それに政治性を認めたとすれば、他の墳形の初源地であったり、庄内式土器の機能的(熱効率を求めた薄さ)製作技術の初源地だったりが、他地域説との比較に優位に働かないわけです。
山陰や吉備の墳形や土器の拡散だったり、北陸への広範囲からの墳形や土器技術の伝播だったりもあるしな。 纏向説の唯一の拠り所は墳丘の規模ですが、これは、あっけなく年代的な制約から崩壊してしまいます。
理由は、他スレに何度も書いてきました柵付き高床式建物群遺跡との年代のギャップですね。庄内初期から布留傾向までは60年以上あります。掘立の耐用はせいぜい40年ほどですから、箸中山とは数十年の隔絶がありますよ。
纏向が邪馬台国だった訳がありません。 >>261
>人が集まって議論していれば機能している。
人が集まっていないし、機能していないんだよ
日本史板の人に
「もう邪馬台国板でも作れよ」って言われているのは知ってるだろう?
九州説の頭の悪いやつの思惑に乗る必要なんてないんだよ まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 あれ、本当に古墳か?
玄室とかあるの?
まだ写真しか見てないけど。 >>266
>日本史板の人に
>「もう邪馬台国板でも作れよ」って言われているのは知ってるだろう?
賑わっていて、結構じゃないか。 九州説の人には、ぜひこれで卑弥呼の墓は決まりだという論陣を張ってほしい
まだ編年も何も情報はないけれど、九州説ならできる! 平原遺跡だってば。
耳璫の編年や鏡の編年、女王墓であることなどから、明らか。 耳璫の編年を、まともに解釈すると、金層ガラスが使われているから古墳時代後期でもおかしくない
方格規矩鏡は、玄武が釣鐘型の蛇?だけになっていたり図像が簡略化されていて、
大陸王朝から下賜される舶載鏡とは考えられない
となると、仿製鏡ということになるが、出土した方格規矩鏡は、卑弥呼の頃から
100年も前の形式に従っている(簡素化されているが)
倭国内で仿製鏡を作るのに、100年も前の鏡式で作る理由がない
とすると、平原1号墓の編年は卑弥呼のころよりも遡らせるのが適当 平原1号墓の編年で、もうひとつ考えなければならないのが、周溝の土坑墓である
原田大六氏はこの土壙墓を殉死者の墓と考えておられたそうだが、現在では土壙墓は周溝が埋没した後に造られたものと考えられている
周溝の土壙墓からは鉄鏃・鉄鉇(ヤリガンナ)・鉄刀子・ノミ状鉄器が出土している
この土坑墓遺物の編年は、弥生時代終末(200年〜250年前後)で問題ないので、先の2号墓周溝からの庄内併行期の土器片と時代が一致する
となると、本体である1号墓と土坑墓では「周溝が埋没」するほどの時間差があるので、1号墓の編年は弥生時代終末よりもかなり古くしなければならない 九州説のやつは、どうして平原1号墓と書かずに、平原遺跡って書きたがるんだ?
2号墓から6号墓の存在が、邪魔だから、意識の外に出したいのかな? それより赤村の450メートルだよ!
今日のホットな話題は! >>279
今日のYahooトピックスに卑弥呼の墓発見か? 邪馬台国畿内説Part355が消えてしまったので、続きをこちらに転写保存
>>747
>>『聖徳太子伝暦』<
>はいはい、典拠を示せたのは進歩だけど、それ信用の置ける歴史書でないから
10世紀成立で、それまでの太子信仰を集大成したものだね
ブリタニカ国際大百科事典 より
「その記事は必ずしも『信をおきがたい』が,後世の太子信仰に及ぼした影響はきわめて大きい。」<
そうか。
ブリタニカ国際大百科事典というものも、
日本の古代史に関しては、
「南→東」などの嘘つき騙しの通説大和説派のの学者が担当している、
インチキ百科事典なんだな。 >>281
>邪馬台国畿内説Part355が消えてしまったので、
消えてねーよ!
九州説のお仲間が、発狂しただけww それより、ザラコクは、遠賀川上流の墳長450メートルの前方後円墳(仮)については
何か見解はないの? 335の>>749
>>その例でも、「服」は自動詞的な意味での使用だよ。<
>自動詞「的」な意味とかないから 目的語があれば他動詞、なければ自動詞だぞ <
漢字では、自動詞的な意味の語であっても、
「〜せしめる」という他動詞的な意味にして、
目的語を付ける使用は幾らでも可能であり、
しかし、元の自動詞的な意味が消える事もないもの。 そんなことより、西日本新聞さんの報じてた赤村の450メートルについて早よ! >35の>>750
>オオハツセ「ワカタケル」の音訳の「獲加多支鹵大王」を
金錯銘あるいは銀錯銘した鉄剣が、埼玉と熊本から出ているんだから、
熊本まで「獲加多支鹵大王」の勢力圏だろう<
稲荷山の鉄剣は、「鹵」ではない文字であるし、
そもそも、主葬の粘土槨の中心線から全く離れた所の礫床の陪葬墓が所持していたんだから、
「大王」や「大和王」では有り得ないもの。
江田船山は、欠損文字ばかりで「獲加多支鹵大王」なんて全く読めない代物だし、
そもそも(金象嵌ではなく)銀象嵌だから、「大王」にもならないもの。 335の>>752
>しかも、昆明であっても、東南東よりも南の南東なんだぜ <
嘘を付くな。地図をよく見ろ。
昆明は大理の「東〜東南東」だ。 335の>>753
>>紀元前には「天皇」なんてなかったし、<
>天皇号はなかったけれど、天皇につながる家系というか血統は
3世紀には成立してただろ<
大和の天皇呼の呼称は、天智が最初だ。
>それを後付で天皇と呼んでいるだけだよ<
無かったものを、はるか後代の称号で書けば、そりゃ、インチキ騙しの宣伝だ。 >>288
>稲荷山の鉄剣は、「鹵」ではない文字であるし、
その文字はなんですか? >>288
>「大王」や「大和王」では有り得ないもの。
獲加多支鹵「大王」って書いてあるんですが?ww >>288
>銀象嵌だから、「大王」にもならないもの
それの「持ち主が大王」じゃないんだから、銀象嵌なら分相応だろ?
相変わらずまともな反論ができずに、的外れなことばかり書く >>290
>嘘を付くな。地図をよく見ろ。
>昆明は大理の「東〜東南東」だ。
その根拠は?
こっちは地図で測った角度の数値を出してるんだから、
反論するなら数値で出しなww >>292
>無かったものを、はるか後代の称号で書けば、そりゃ、インチキ騙しの宣伝だ。
はるか後代どころか、存在すらしない「九州王朝」っていってるやつが何を言うんだかww >>288
江田船山古墳でも「獲□□□鹵大王」と、大王の文字は読めるねww 335の>>766
>>全ての原子核にも崩壊半減期が必ず存在する、<
>その各「核種に固有の崩壊半減期は、「原子核外の電子軌道上の状況には、
一切影響されない」っていってるんだよ<
「場の相互作用」の存在が確定しているから、
プラズマ化=原子核外の電子の分離」は、
原子核内の電磁場バランスも重力場バランスも壊されてしまい、
核子間の場の相互作用の壊されるから、
放射性崩壊をしてバランスを取ろうとして、放射性壊変を促進してしまう、
と言ってんだよ。 >>300
プラズマ化とイオン化は混同したらあかんで >>301
>プラズマ化とイオン化は混同したらあかんで
ただ、プラズマ化したところで、原子核の崩壊確率は変わらないんだがな
まあ、崩壊するような放射性核種をプラズマ化するようなことはないが プラズマ化とイオン化か
どっちが邪馬台国やねん? あほんだら達 >>300
>「場の相互作用」の存在が確定しているから、
「電磁場」と「核力の場」は、同じ「場」という文字を使っていても、別の場なんだよ
だから互いに相互作用はしない
だから、
>原子核内の電磁場バランスも重力場バランスも壊されてしまい、
これが本当にアタマ悪い
原子核内の重力場ってww
それまったくの無関係
>核子間の場の相互作用の壊されるから、
壊れません
>放射性崩壊をしてバランスを取ろうとして、放射性壊変を促進してしまう、
そう主張するなら、電子がいなくなると、どっち向きにバランスが崩れるんだ?
「何」について「プラスにずれる」のか「マイナスにずれる」のか
「どういう崩壊」が起こると、バランスが「どっち方向に修正」されるのか、論じてみ? 「電磁場」と「核力の場」か
邪馬台国と何の関係やねん? よそへ行け Part331の771に返事してなかったからついでに書いとくよ
>光の電磁場は太陽重力場との相互作用に拠って曲げられる、
>という事も知らないんだろうね。
いや、光の電磁場wwは重力場と相互作用しないよww
重力場で空間が曲がって、その「曲率を持った空間での直線」に沿って光は直進するだけ
電磁気力は、太陽の大きさみたいなマクロの距離ではまったく効かないよ
>実際には、強い力と電磁気力の差はそれ以上
何がどう「それ以上」なんだい?
電磁気力と、強い力と、重力では、それぞれの力を媒介する粒子が異なるから
相互作用しないんだよ
まあ、何を言ってもザラコクは理解しないんだろうけどね >>305
ここはニセスレだから、ザラコクをからかって埋めていけばいいんだよww
まあ、九州説の頭の程度を浮き彫りにする企画だから まあ、それはある
ザラコクにしても、キウスにしても、もうどうにもならないことくらいは分かるだろうに
何を原動力にして、こんな活動をしているんだろう?
いや、分かってないのかな? >>303
>プラズマ化とイオン化か
>どっちが邪馬台国やねん? あほんだら達
ザラコクは幻の九州王朝で、
畿内の奈良盆地の一角が、邪馬台国だよ 結局、福岡県の遠賀川上流の赤村の墳長450メートルの前方後円墳は
ガセネタってことだね
単に、木の切り方(切る範囲)が前方後円墳の輪郭っぽくなっただけだな >>274
>とすると、平原1号墓の編年は卑弥呼のころよりも遡らせるのが適当
それまでの考察を一切無視して結論だけ連呼する畿内厨。 >>276
数字が混じると打ちにくいから。
以上。 >>311
棺や玄室があるかどうか。
仮にあっても、4から5世紀のものだろう。
卑弥呼は関係ない。 >>312
>それまでの考察を一切無視して結論だけ連呼する畿内厨。
考察どおりの結論だろ?
>>275とセットで読んでくれ
平原1号墓は、卑弥呼よりも古いよ >>313
>数字が混じると打ちにくいから。
じゃあ、「平原一号墓」って打てばいいじゃん?
言い訳にもならないよ
そんなに、1号墓と同じ大きさで、副葬品が何もない2号墓とか
累代的に作られてて、もっと古いのにやたら小さい5号墓とかは
王家の墓地にするには都合が悪いのかな? 畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
犯罪者キナイコシの、スレッドを荒らすやり方が、ますます悪質になってきているよ、、、 >>314
>棺や玄室があるかどうか。
ないよ
ニュー速の方に、昭和の頃の写真が貼られてて、玄室があるべき場所まで
削れてたけど何もない様子だ
>>311にも書いたように、ただ木を切ってトリミングした形が、前方後円墳の
外形を思わせるだけで、埴輪も段築もないみたいだしただの丘だよ
仮にあっても、4から5世紀のものだろう。 耳璫の型式
この耳飾りとされている「背紺色透明なガラス連玉」の2000年の報告での分析結果
「平原遺跡出土ガラスの保存科学研究」(肥塚隆保 奈良文化財研究所 年報 2000)
ttps://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/2668/1/AN00181387_2000_%E2%85%A0_32_33.pdf これによると、
「本試料を顕微鏡観察したところ、重層ガラスであることが明らかになった。」
「孔に平行する断面を観察したところ二層構造を有し、孔に近い内側は大小多量の気泡を含むガラス層、
その外側には気泡をほとんど含まないガラス層で形成していた。」 「このような構造を成すガラスは、古墳時代の遺跡から発見されている、
いわゆる「金層」ガラスである。金層ガラスの多くは金層を含むものは少なく、
内側孔に近い部分には、気泡が多量に含まれるガラスを使用して、
その外層には褐色透明なガラスが用いられており、構造や材質に多くの共通点があり、
加工法も同様であると考えられた。」 これを素直に読むと、このガラス連玉は古墳時代に位置づけるのが、
相応ということになる またその成分は
「本試料の材質は、基礎ガラス材としてはソーダ石灰ガラス(Na20-CaO-SiO2 system)で、
これにコバルトイオンによって着色したものと考えられた。 しかし、 MnO含有量の多い青紺色ソーダ石灰ガラスが、
弥生時代の遺跡から出土したのは初めてで、
その多くは古墳時代の後期に見つかっているもの」 というのが専門家の分析結果
この耳飾りだけに頼って編年するのであれば、編年は埋葬主体の出土物で
最も新しいものに合わせるという原則に従って、平原1号墓はかなり新しく
古墳時代後期でもおかしくないことになる 古墳時代後期というのは、例えば藤ノ木古墳から金層ガラスが出ている
現在のところ、平原1号墓の編年は出土鏡が国産であてにならないため、
周溝から出た土器の編年に頼っている 1号墓の周溝からは弥生後期前半と終末期の土器片が出土、
2号墓南側から庄内併行期と思われる土器の破片が出土しており、
1号墓と2号墓が周溝を共有しているため、同時代の築造と考えられている
で、現在は、この庄内平行期の土器の破片が平原1号墓の編年の理由に
なっているのだが、これと金層ガラスの関係をどう考えるかによって、
編年が変わることになる これに、土坑墓の出土遺物及び、1号墓主体部と土坑墓の時間差まで入れて考えると
やはり、平原1号墓は卑弥呼の時代まで新しくするのは難しい
もっと古いと考えるのが相応 自滅って何?
俺は平原1号墓は卑弥呼の墓なんかじゃないって、立場だよ >>330
>現在のところ、平原1号墓の編年は出土鏡が国産であてにならないため、
>周溝から出た土器の編年に頼っている
それこそただのコンタミ まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 >>336
>それこそただのコンタミ
だから土坑墓遺物を基準にするのが妥当だろう
そうなると、1号墓の周溝からの弥生後期前半の土器の頃と考えるのが一番整合性が取れる
方格規矩鏡の仿世鏡の編年とも合うし 最も特徴的な内行花文鏡の編年を無視しているよ。
古いものは伝世してから副葬されたとも考えられるので、方格規矩鏡だけで年代を前倒ししようとしても無駄。 内向花文鏡の編年って言っても、仿世鏡なんだからいつでも作れるだろうとしか言えないぞ >>341
>方格規矩鏡だけで年代を前倒ししようとしても
ちゃんとスレの流れ読んだか?
一番の問題は土坑墓遺物の年代との整合性だよ
その昔、これらの土坑墓を殉葬墓だと勘違いしてはしゃいでた九州説がいるが、
周溝が埋まるほどの時間差があるからな >>342
後漢から鏡をもらっている間は作らなかっただろうね。 江戸時代の将軍母の平均寿命が50歳。
江戸時代と弥生時代の女性の平均寿命の差が10歳強と言われるので、
弥生時代の王母の平均寿命が40歳。
よって、
卑弥呼女王は40歳頃には自分の墓域を決めることになる。
だから
墓域の周溝や方形墓の土台などは40歳の頃には先に完成していた。
卑弥呼は、思いのほか長生きして、80歳くらいまで生きたから、
卑弥呼死去時には周溝は40年分埋まっており、
それを再度掃除してから殉葬墓を作ることになる。
>周溝が埋まるほどの時間差があるからな
逆に卑弥呼の墓であることを証明する強力な証拠である。 卑弥呼は「長寿」だから、
他の弥生王女の平均寿命の40歳頃に先に作った「周溝」は、
殉葬墓である土壙墓を作る時には「必ず埋まっている」。
卑弥呼の墓である条件ですね。 >>766
>>全ての原子核にも崩壊半減期が必ず存在する、<
>その各「核種に固有の崩壊半減期は、「原子核外の電子軌道上の状況には、
一切影響されない」っていってるんだよ<
原子という「原子核と外殻電子との安定状態」の、
不安定化になる、外殻電子の喪失というプラズマ化をすれば、
原子全体が、場の相互作用に拠る「再安定状態を構築」しようとするんだから、
原子核内からの新たな外殻電子成分を送り出すしかなく、
それが、ベータ線の放出になる。 考古学的には、墳形以外にヤマト王権最初期の大王墓とされる西殿塚も、纏向の古墳もヤマト王権との関連を見出すことはできません。吉備の祭祀を思わせるしな。
割竹形木棺、水銀朱、神器を考えるに、大和王権の祭祀を思わせる最初の古墳は、桜井茶臼山です。宗像との関わりもあるしな。
その点、平原1号は興味深いですね。時期的には西暦220年前後30年、天皇家に系譜が繋がる人物が、ここに埋葬されたのでしょうね。 >>349
>その点、平原1号は興味深いですね。時期的には西暦220年前後30年、天皇家に系譜が繋がる人物が、ここに埋葬されたのでしょうね。
卑弥呼でいいだろ。
八咫の鏡まであるのだから、天皇家と関係がないと言うこともあるまい。 >>350
>卑弥呼でいいだろ
>>349でも「西暦220年前後30年」
まだ卑弥呼生きてるんじゃない?
+30年でぎりぎり届くけどさ
14×12メートルの小さな方形周溝墓を、
「大作冢徑百餘歩」と書かれた「親魏倭王」の墓と考えるのは
普通の感覚では無理だろうな
よほどの理由があるならともかく
魏皇帝からもらった鏡一枚副葬していない墓なんだぞ? >>351
漢ならともかく、鏡を国産化できた魏の時代にあっては、魏からもらう鏡はそれほどの価値がなかったんだよ。
八咫の鏡の方が大きいし。 >>349
>割竹形木棺、水銀朱、神器を考えるに、大和王権の祭祀を思わせる最初の古墳は、桜井茶臼山です。宗像との関わりもあるしな。
というか、桜井茶臼山の特徴は、平原の特徴そのままで、鏡が一回り小さい。
九州北部の文化を何者かが畿内に持ち込んだ証拠とさえ言える。
畿内は九州北部の文化に塗りつぶされていく姿しか見えない。 それで、本当に日本というのが、
世界の中心だとでも思っているのかな
そろそろ頭の病院に行けと言われるだろう >>353
>九州北部の文化を何者かが畿内に持ち込んだ証拠とさえ言える。
九州北部の文化 も 畿内の文化も 倭国(阿波)の文化でしょ。 @阿波 >>352
>漢ならともかく、鏡を国産化できた魏の時代にあっては、魏からもらう鏡はそれほどの価値がなかったんだよ。
三角縁神獣鏡が「それなりに」しか出ない地域は大変だね
言い訳が
といいつつ、畿内以外で三角縁神獣鏡が一番多く出てるのが福岡県なんだよね
国産の鏡でさえ大事にしてるやん
魏の鏡のありがたみがないなんてことは、「九州説の言い訳」以外の理由では、ない
>八咫の鏡の方が大きいし。
はいはい >>349
吉備と関わりがあろうが、丹後とだろうが尾張だろうが、そんなことは初期ヤマト王権
を否定する根拠にはならんよ。それどころか逆だ。
何故なら、魏志倭人伝は「王を共立した」「都を邪馬台国においた」と書いてるんだ。
吉備や尾張の影響が出てくることこそが、ヤマトが邪馬台国である根拠になる。
「王を共立し都を置いた」という史書の記述と考古学から導かれる物が一致するからな。 >>358
>何故なら、魏志倭人伝は「王を共立した」「都を邪馬台国においた」と書いてるんだ。
邪馬台国と関係ないじゃん。 >>358
あなたのいう
初期ヤマト王権って何かしら?
奈良盆地に固有の何? >>358は適当に単語をそれらしく並べただけで、意味は特にない。 >>353
畿内説は九州北部から伝わった文化が頼みの綱w >>358
それ、倭国が西日本という広域な範囲だったら、という空虚な前提がなければ成り立たない。
仮にそうだとしても、卑弥呼時代の3世紀前半に北部九州との交流が深くなくては話にならない。
倭人伝では北部九州は間違いなく倭国の地域だからね。
おまけに当時の交易の中心地だし。 >>365
>おまけに当時の交易の中心地だし。
卑弥呼時代の交流は、倭国(阿波)には及ばない。 >>367
大和より弥生時代の鉄鍛冶炉遺構多いよ。 北部九州は? @阿波 >>370
たくさんあるよ。
福岡より熊本の方が多いと言う話もあるけど。
奴国の周りはもう人口が多すぎて、必要な木材が確保できなかったのだろうね。 >>371
>たくさんあるよ。
たくさん?
北部九州の「弥生時代鉄鍛冶炉遺構」は何か所あるのかね? @阿波 卑弥呼共立の事情は、先代の倭王の死または権威失墜に伴う混乱収拾を想定できますね。
先代の倭王を、秀吉か秀頼に当てはめると想像しやすいですよ。
弥生後期に反家康派と反三成派が現れたのですね。
あるいは三成派と反三成派、あるいは反家康派と家康派でもいい。でも、三成派と家康派ではありません。
少なくても、どちらか一方は一枚岩ではなかった。だから共立する必要があったわけですよ。
卑弥呼が三成役だったのか家康役だったのかはわかりません。ただ、弥生時代の関ヶ原は持久戦になった。 ヤマトとは古くは大倭(オオヤマト)であり国号です。畿内に次々と残る大王墓を営んだ能力を確認できる専制君主国家であり、それ故に、王権と認識され、ヤマト王権と呼称されると理解しています。
一方、女王国の国号は倭(ワ)です。そして、その体制は共立で生まれたのです。専制君主国家ではないですね。死後の混乱の記載から世襲制とも言い切れないしな。王権の語感に相応しくありません。むしろ、西周時代の共和を連想しますね。
範囲を邪馬台国に限定したとしても、卑弥呼の塚が本当に径百歩であって、しかも寿陵だったことを証明できない限り、彼女自身が王権を保持した証拠にはなりませんね。
寿陵でなければ、塚が巨大であればあるほど、共立に参加した一勢力による対外的地位(親魏倭王)の簒奪継承の舞台に利用された可能性の方が高いですからね。 また、現在確認できる鉄、文字、好物等の考古資料からは、卑弥呼と(奈良盆地を指す)大和を結び付ける可能性は絶無です。
魏志倭人伝には、遣使を含めた国内外での交易の管理と作塚以外に、卑弥呼がいかなる王権を発動したかの他の記載もないですね。読みようによっては、一大率と大倭を配したのも、死後のことになるしな。 >>375
>また、現在確認できる鉄、文字、好物等の考古資料からは、卑弥呼と(奈良盆地を指す)大和を結び付ける可能性は絶無です。
卑弥呼と筑紫を結び付ける可能性も絶無ですね。 @阿波 ただ、考古学的に知りうる範囲でいえば、王権のアイデンティで重要なのは、レガリア選択の模倣あるいはそのものの継承ですから、ヤマト王権の継承元を遡れば平原近辺ということになりますか。
そこに卑弥呼が埋葬されたのであれば、卑弥呼とヤマト王権は繋がっているとも言えます。あくまで仮定が前提だがな。それに、考古学的には、伊都国や奴国と目される領域を卑弥呼の都として比定するためには、邪馬台国に都した女王を壱与と看做す必要がありますね。
いずれにしろ、庄内式期の纏向遺跡はヤマト王権のレガリアの系譜から外れます。畿内だと、副葬品を確認できた中では、やはり桜井茶臼山が最古ですね。
纏向が邪馬台国だった訳がありません。 >>376
九州や阿波のことは、スレ違いですから深入りしませんが、卑弥呼との関連性は、どちらも、考古学的に纏向より可能性がありますね。 はいはい
いくらウソ書いてもいいんだよ
ニセスレだからね >>371
>たくさんあるよ。
たくさん?
北部九州の「弥生時代鉄鍛冶炉遺構」は何か所あるのかね? @阿波 >>381
なにに反論しろと?
九州説のいかなる主張も、この一言で完全論破できるだろう
「証拠を出せ」
w 畿内説の強弁を見ると果たして
王権というものの理解ができているのか
不安になる。 >>387
いや、倭国(阿波)説は畿内説も九州説も見限っているので悪しからず。 @阿波 >>387
ほら、証拠を出せと言えば、九州は簡単に論破できるでしょ? 鉄がない
文字がない
ハマグリがいない
、、、要するに倭人伝の記述に合致した証拠が少ない。
まだ阿波の方が合致してる。 ハマグリか!
いやまあ、それは大事だな。
ハマグリが取れない纒向は論外だな。 かと言って、北部九州では橘は無理だろう。
結局、どう転んでも阿波に行き着いてしまう。 @阿波 死刑スタッフ以外ニグループ100件以上虐待殺ッテマス100森友ノロウイルス焼肉スイッチ押死山手ローン戦争シテルンデシタッケ薬害モヤシテ老害麻薬王盗難ケタチガイ違反重々振戦耶炉ウドモ
https://potato.5ch.net/test/read.cgi/welfare/1450587285 サルタヒコの遺言。
倭国大乱を引き起こした張本人、卑弥呼を共立した勢力の正体を教えてくれる。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
底、独、常、立、阿波サク
国底立神。
国常立神、鬼門に封じられた神、天香久山に祀られている神。
阿波咋。 >>393
熊本や宮崎なら柑橘類も名産品だが、福岡はどうなんだろう。
佐賀なら取れる? 橘の自生北限は静岡になってる。
楠の自生北限は福岡。 >>397
福岡 可能性なくはないが、ちょっと無理筋だな >>398
そもそも、九州説は「其山有丹」で、すでに落選済みですからね。 @阿波 邪馬台国は福岡、佐賀、長崎。
狗奴国は熊本。
投馬国は宮崎。
これでいいじゃないか。 >>400
邪馬台国は阿波の北方(きたがた)
狗奴国は阿波の南方(みなみがた)
邪馬台国も狗奴国も倭国(阿波)。
投馬国は南伊予・西土佐。 @阿波 なぜ奈良盆地に3Cの巨大古墳が???? → 邪馬台国があったから。
なぜ沼津周辺に3Cの巨大古墳が???? → 狗奴国があったから。
以上、邪馬台国論争終了。 >>402
奈良盆地も沼津周辺も勿論、忌部一族による拓殖地。 忌部の痕跡が今もしっかり残ってるでしょ。 @阿波 邪馬台国の条件と倭人の居住地の条件を混同している人がいますね。邪馬台国の条件は、鉄、文字、卑弥呼の好物ですよ。
3世紀中葉に、(プレ?)ヤマト王権は一体どこにあったのでしょうかね。
邪馬台国畿内説の立場でなければ、邪馬台国はヤマト王権に併呑されてゆく一地方勢力でもいいわけですし、遷都前のプレヤマト王権でもいいわけです。
個人的には、記紀に記録を残していないので、前者ではないかとの思いは強いのですが、断定はできませんね。記録を改ざんしなければいけなかった事情があったかもしれんしな。
何度か繰り返しましたが、墳形の地域分布は在地の築造技術集団の設計に制約を受ける可能性がありますから、政治体制と重ね合わせるのは早計ですね。
生活土器の分布変遷も狭義搬入土器移動も、職人小集団のサンプル品持ち込み後の移住で説明がついてしまいますね。
逆に、王墓の副葬品の組み合わせは注目に値しますよ。ヤマト王権では3種の神器ですね。平原が初源です。
近畿地方では宝玉、鉄剣、鏡の組み合わせを最初に受け継いだのは雪野山ですね。桜井茶臼山との年代比較は微妙ですが、主幹航路である日本海に近いのは雪野山です。
3世紀中葉にプレヤマトが存在したのは福岡か近江という可能性が高いですね。
纏向遺跡はその系譜から完全に外れています。 どんなにウソついてもいいんだよ
ここは、そのためのニセスレなんだから 2ch、5chになったの?
スレというか
日本のメディアwなども、
ほとんどウソなんだが?
そろそろ頭の病院に行けと書いているはず 岡上のトンデモ東遷説は、無知ゆえの妄想とご都合主義チェリピの合わせ技 本当の話
このように言われたり、
書かれたりするのが嫌なら
自殺をしたほうが良いんじゃないのか、
ここの住人に言っているわけではない すでに気づいていると思うんだけど、
あのようなツールは利用していない
つぶやきに対して返信がきたり、
そういうサイト、ブログなども利用していないし
ここに書き込みをしているだけ 遠い親戚?などは、いるのかもしれないけど、
家の家族(近い親族、親戚)は、メディアなどにも出てこない
キュウリの葉、葱の華・・・あの写真の家 ここは精神病棟スレなんだからsage進行でやれよ
いい加減ウザイ >>404
レガリアといういう観点からの
プレヤマト王権ということ、よね?
畿内説の人きいてるー?
畿内ありきからの説明じゃなくて
王権という観点からの説明ですよ、傾聴しなさいよー。 >>404
>3世紀中葉にプレヤマトが存在したのは福岡か近江という可能性が高いですね。
八咫の鏡があり、記紀にも神代の王都とされている筑紫と、筑紫に降った出雲の影響下の一地方に過ぎない近江では、並列に並べるのはいかがかと。
筑紫から近畿一円への侵攻の拠点としては近江は重要な戦略ポイントでしょう。 >>415
>八咫の鏡があり、
変哲もない鏡だけが頼りとはw なんとも情けない九州説。 @阿波 現在、SAGE辛くそのままの投稿、ご容赦あれ。
纏向が邪馬台国でもヤマト王権の誕生の地でもないという理由は、すでに何点も提示しましたが、有効な御反論を頂くことがなく、議論を深められないのは残念です。
もっとも、反論のしようがないだろうがな。
また、事実関係で誤っている点がございましたら、是非ご指摘のうえ訂正して頂けたらと存じます。ひょっとして、レガリアが三種の神器と一致する副葬品出土の近畿内の出現期古墳がありましたか?
邪馬台国はヤマトに併呑されてゆく一地方勢力であると考え、位置比定は難解というかあまり興味も抱けず、正直言って日本史の大きな流れでは躍起になる問題ではないと考えます。
しかしながら、卑弥呼が平原に埋葬されたという主張もあり、そうであればレガリアの一致する遷都前のプレヤマト王権だという可能性が出てきますね。
まあ、いずれにしても出現期纏向は素通りされてしまうわけですがね。後続大王墓の西殿塚すら吉備の影響を払拭できていませんからね。
出雲なら、大成古墳ですが、瑪瑙は玉ではないですね。 ここは精神病棟スレなんだからsage進行でやれよ
いい加減ウザイ まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 ニセスレは何を書こうがウソでいいんだから
反論なんてないよ 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 せっかく正統的な史学論としての説明があったのに。
残念。 >>417
>纏向が邪馬台国でもヤマト王権の誕生の地でもないという理由は、すでに何点も提示しましたが、有効な御反論を頂くことがなく、議論を深められないのは残念です。
いやもう、まったくご高説の通りです。
>邪馬台国はヤマトに併呑されてゆく一地方勢力であると考え、位置比定は難解というかあまり興味も抱けず、正直言って日本史の大きな流れでは躍起になる問題ではないと考えます。
邪馬台国というか、卑弥呼が女王であった倭国とは、どこにあるいかなる国であったのかは、その後裔たる日本国の成立を考える上で重要でしょう。
中国から見た倭国が九州の国家であったのなら、倭の五王や白村江の戦いの主役についても解釈が変わるはず。 以前から書いている、
お前達が決めることではないんだよ 夢想は自由だろ
ここはニセスレなんだからデタラメ書いていい筈 もしかして、九州説の頭おかしいのが白村江までは九州倭国って言うのは、
斉明天皇の筑紫朝倉宮のことか?
確かに倭国の大王が筑紫にいて半島に軍を送っているな
でも、行宮をおうちょうとはいわないだろうw この掲示板、他掲示板やサイト、出版物の話をしているわけではない、
頭が悪いんじゃないのか?
お前たちの決めることではない
「お前たちに決定権なんて無いんだよ」
大統領のような事を言っている人がいたでしょ 都合の良いことばかり言ったり、
そういう事はするな
という話
お前たちの都合、勝手なこと
言ってる意味わかる? >>427
違うよ。
記紀は基本的に畿内ローカルの歴史であり、九州には別の王朝があったんだよ。
畿内大和は分家に当たる。 九州王朝の話と畿内王権の話を
記紀編纂の際に組み込んだんだろうよ。
景行天皇が久留米を取ってから
大隅まで大遠征して、6年ほど大隅平定してる。
神功皇后も朝鮮侵攻して
子供生まれて畿内に帰る話だけど
何年帰ってないんだよ。 >>434
九州王朝とか畿内王権とか 妄想激しすぎ @阿波 仲哀なんて、宮が穴門豊浦宮と筑紫香椎宮しかないぞ。
生涯を九州で過ごしている。
多分、祖父の景行以来、ずっと九州北部にいる。
斉明は九州王朝とともに白村江の戦いに参加するために筑紫朝倉宮に来ていたのだろう。
白村江の戦いの指揮をとっていたのは筑紫の君幸山だ。
だから、敗戦後に日本書紀で指揮が無能と書かれてしまう。 角鹿の笥飯宮は無視ですか?
九州説は妄想と言いがかりでできている まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 景行天皇から神功皇后までの事績は
九州を地盤とする豪族の話でしょうね。
最後に神功皇后が息子と畿内に帰って
辻褄を合わせていますが。 >>441
「住吉大明神こと住吉神社」
板野郡藍住町住吉神蔵に鎮座。
祭神は神功皇后、表筒男命、中筒男命、底筒男命。
鎮座地は神功皇后ゆかりの地で当社は全国住吉神社の元社にあたる。
神功皇后の本名は息長足姫 (おきながたらしひめ) 命。 息長ということは生粋の海人族である。
大陸進出にあたり航海の守護神として、底筒男命、中筒男命、表筒男命を御舟に祀っていた。
百済征伐の帰りに当地(板野郡藍住町住吉)に寄り、御舟に祀っていた住吉三神を降ろしたのであろう。
そのほか、夫にあたる仲哀天皇は西に位置する板野郡矢武の応神山仲哀寺で祀られ、大臣 武内宿禰は同町 矢武八幡神社を中心に武威神社、高良神社で祀られている。
また御子である応神天皇の葬場跡は南に位置する応神町宮島。
審神者(さにわ)で顕れた淡郡の嚴(いつの)事代主は吉野川を上流に上った阿波郡市場町伊月の式内社「事代主神社」で祀られている。
ちなみに海人族でも支配地域が違うと氏族も違う。 皇后も幼少の頃より古の各海人部族の神話を聞かされていたのであろう。
そもそも住吉三神は泡(阿波)より産まれた神。 この三神は神代より祀られた阿波の海人の神々なのである。
底筒男命は県南部海岸を支配した長国の神(大国主命、事代主命)
中筒男命は北に続く小松島市、徳島市の海岸を支配した阿曇の神(和多都美豊玉比賣命)
表筒男命はさらに北に続く鳴門の海岸一帯を支配し淡路、奈良大倭に進出した大倭の神(速吸宇豆彦)
神功皇后は阿波全ての海人族神を味方につけて異国との闘いに挑んだ訳である。 @阿波 >>441
なんにも理由を言わず、ただ幻想を語るのが九州説 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 >>442
>底筒男命は県南部海岸を支配した長国の神(大国主命、事代主命)
>中筒男命は北に続く小松島市、徳島市の海岸を支配した阿曇の神(和多都美豊玉比賣命)
>表筒男命はさらに北に続く鳴門の海岸一帯を支配し淡路、奈良大倭に進出した大倭の神(速吸宇豆彦)
底筒男命は県南部海岸を支配した長国の神(大国主命、事代主命)
→【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
中筒男命は北に続く小松島市、徳島市の海岸を支配した阿曇の神(和多都美豊玉比賣命)
→【和多都美豊玉比賣命を祀る、「和多都美豊玉比売神社」】
表筒男命はさらに北に続く鳴門の海岸一帯を支配し淡路、奈良大倭に進出した大倭の神(速吸宇豆彦)
→【速吸宇豆彦神を祀る、全国唯一の式内社 「宇志比古神社」】 @阿波 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 盗銭説爺さんは常に論破され続けるので永遠に心が落ち着かず、能力的にいって一生まともに議論は出来ない まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 >>446
大分宇佐神宮の勧請元は、阿波國神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮)。
『国府町井戸 八幡神社』
「是社ノ奥深ク厳シク鎮守シ給フ当八幡宮(古称 井上八幡宮)ハ奉勧請白鳳二年 宇佐八幡宮ヨリ御分遷 誉田別命 仲哀天皇 三女命ヲ奉斎爾来惟神ノ誠を捧ゲ今ニ至 迄幾度改修....」 以下略
御祭神 誉田別命、仲哀天皇、三女命(いわゆる宗像三神)
※大分の宇佐神宮の開基は725年。
※大分の宇佐神宮より遡ること、白鳳二年(674年)にこの『国府町井戸 八幡神社』 は「宇佐八幡宮ヨリ御分遷」とある。
※よって、大分の宇佐神宮も『国府町井戸 八幡神社』 より51年遅れて、 神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮)から勧請されたのである。 @阿波 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 武内宿禰の鎮守社に比定される「矢武八幡神社」は、徳島県板野郡矢武字鏡松に鎮座する。
当神社で注目すべきは、「往古、嵯峨御所から額(扁額か)が寄付された」とする伝承である。
「額は今存せざるも、ご寄付状は存在せり」(名勝案内)とみえ、その文書には「阿波国板野郡矢武村者上古武内大臣為縁由地云々」とあって、武内宿禰の由縁の地が寄付の理由であったと理解される。
また、名勝案内の「船の本」条(矢武村に西接する大山村西分)には「此地武内宿禰の旧領なればその遺址存せるならむ」とあり、船の本の聖地に斎田その他を設け、慶事や祭典の折には、村民挙げて奉祭したとされている。
つまり、現在の上板町大山から板野町矢武一帯は、武内宿禰の領地、または所縁の地であったとする伝承が存在している。 @阿波 蘇我、葛城氏のおこりはそれぞれ、蘇我石川宿禰と葛城長江曽都比古となるが、ともに武内宿禰の子。
武内宿禰は、第八代孝元天皇と伊迦賀色許売命との間に生まれた彦太忍信命(ひこふとおしのま)の子とある。
また伊迦賀色許売命は、次帝の開化天皇の妃ともなり、崇神天皇を生み、、その崇神天皇は孝元天皇と波邇夜須比売(はにやすひめ)との間に生まれた建波邇夜須比古(たてはにやすひこ 武埴安彦)との皇位争いに勝利し、閨閥を拡げていったのである。 @阿波 蘇我氏の本拠地:徳島県石井町の曽我氏神社古墳群
先日のNHKでは、方墳は飛鳥時代蘇我稲目の都塚古墳から突然始まると放送されていたが
蘇我氏の本拠地とされる徳島県石井町の曽我氏神社古墳群にはそれに先立ち、古墳時代前期に既に10m×12mの方墳(2号墳)が確認されている。
このことから、方墳墓は蘇我氏一族専用の墓型であった可能性が高い。
また、同じ石井町には奈良の大和朝廷に先行すると思われる白鳳寺院跡および白鳳瓦窯跡が確認されている。
他にも吉野川中流域の美馬町・川島町にも白鳳寺院跡が存在する。
これらも阿波国内で頭角を現した有力豪族、蘇我氏に由来するものであろう。 @阿波 阿波国鳴門には「葛城神社」がある。
「葛城神社」は鳴門市北灘町粟田に鎮座し,一言主神(ヒトコトヌシノカミ)をご祭神とする。
縁起文中にある「藤葛にて馬がつまづき神は落馬され…」とあるが、注文すべきは「藤葛」というキーワード。
列びは前後逆になるが「葛藤」という言葉がある。
「葛藤」とは「藤原氏」と「葛城氏」の因縁から生まれた言葉。
「葛城神社」には境内に古墳があったり、古代の遺物が発掘されている。
そして背後の天円山一帯は特に重要な地域で、古代史に詳しい人は「萩原墳墓群」をご存知であろう。
因みに、「藤原氏」(中臣氏)の本貫地は鳴門市の西隣、板野郡板野町である。
神武天皇と戦った長髄彦の本貫地は徳島県板野郡板野町川端で、周辺には、「東中富」「西中富」「富の谷」「富の谷口」「富の谷川」など中臣の地名が多く残る遺跡の密集地である。
長髄彦と神武軍との戦いの場は、この東隣の鳴門市萩原地域。長髄彦は、この地で神武軍との戦いに敗れたのである。 @阿波 >>424
「邪馬台国纏向説」スレでも触れたのですが、弥生終末期に中国側と使訳を通じていて、曹魏に倭国と認識されていた地域はやはり、当時の甑の分布域や鉄器の分布域です。主幹交易路は玄界灘と越を結ぶ海路です。
その広い範囲の集落同士が連邦という形で鉄入手や先進文化取得の交易路の確保のためのルールを共有し、その中の一地域である卑弥呼を擁した邪馬台(集落群)が盟主として交易ルールを執行したのでしょう。
いずれにしろ、庄内期の纏向はこの範疇から大きく外れています。邪馬台国であったわけがありません。 徳島で魏志倭人伝・記紀名所巡りツアーをしましょう。 @阿波 【徳島県美馬市美馬町にある「玉振神社」】
主祭神は、玉振姫命・大己貴命で、美馬市美馬町宗重部落のほぼ中央にある。
すぐ東には四国最大級の巨石墳(円墳)の「段の塚穴古墳」があり、西には白鳳時代の寺院跡「郡里廃寺跡」がある。
この社はもと正部神社の祭神、清姫霊神の侍女、玉振姫霊神を祀っていたといわれている。
延宝五年(1677)に大己貴命を宗重部落の氏神として合祀し、鎮座したものだそうだ。
この美馬町は、吉野川中流域にあり「倭地」なのである。
美万岐に入り込んで美万岐に居を定め、師木水垣宮を宮殿にしたと伝えられている。
この「所知初国之御真木天皇(はつくにしらすみまきのすめらみこと)」はもちろん「崇神天皇」のこと。
この師木水垣宮の御宇に疫病がはやり、多くの人民が死ぬという大変な出来事が起こっている。
これは、大国主命に近い埴夜須比賣命(武埴安彦)の一族を討亡した祟りと考えて恐れられたとも考えられ、後世の贈名でも祟神(たたりがみ)の天皇となっている。
また、大国主命の長男「阿遅志貴高日子根神」(加茂の丹田古墳が神陵)の真系であり、美万郡美農郷に居をかまえ、
大田村や種穂山一帯を支配する大人大田々根子(うしおおたたねこ)をわざわざ呼び出し、大田々根子を神主として大御倭の大神(大国主命)を拝祀させ、伊加々志男命をして「倭大国魂、倭大国敷両神宮」を建立させた。
崇神天皇の謚号のとおり、崇神紀には天照大御神や倭大国魂神社の祭祀、天神地神、神地・神戸を定め、供物の定義等のほか「玉振」として大田田根子や市磯長尾市が求められるなど、神祇制度の起源説話ととれる記事が集中している。
「玉振神社」は「玉振り」として求められた淳名城入姫命が祀られていたものと思われる。
徳島で魏志倭人伝・記紀名所巡りツアーをしましょう。 @阿波 ニセスレだからね
何を書いてもいいのさ
ニセスレだからね まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 >>465
そういうことは、一度でも追い詰めてから言えww まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 私を岡上さんという方と勘違いされているようですね。
荒らし行為は何も生みだしませんよ。
卑弥呼の時代、纏向は宇陀の水銀朱を求める2大勢力の狭間に弄ばれた弱小の地域でした。こんな場所に卑弥呼が居たわけがありません。纏向と邪馬台国は無縁ですよ。
庄内前の高地性遺跡は不思議な分布です。岡山に極端に少ないですね。周辺勢力が、高地に見張り台や避難場所を作らなければならなかった要因が岡山だったのでしょうね。
その後の甑分布でも岡山は空白です。ただ、鉄器や中国朱が無いわけではありません。上位層は日本海交易路からの恩恵は受けつつも、下位層の自由な文化交流は許さなかったのですかね。強権的な首長の存在が想像できます。 そして庄内期になると高地性遺跡は減り、吉備の祭祀が東方に拡大します。
周辺を海賊行為で屈服させながら、纏向や大津の辺りまで入植していったわけです。
でも、近江には遠慮があったのですかね。それ以上の東進はありません。
むしろ、布留傾向(布留0といえばいいのですかね?)の土器が出始める頃、近江経由で鉄や人口の流入がありました。恐らくは卑弥呼の死によって、日本海航路での近江の地位が上がったのでしょう。
布留式期に、畿内から吉備の祭祀が消滅していきます。近江が主導権を握ったわけですね。勿論、元は玄界灘の勢力です。近江に追われたのか出先なのかはわかりませんが。吉備勢力とは、戦争があったわけではなく、婚姻で結びついたのだと思います。
それから、沼津を変えたのも近江です。まあこれはスレ違いですから、流して下さい。
とにかく、近江経由の鉄器で水銀朱が増産可能になったのですね。大古墳はそれが生み出した財力の象徴です。
布留0までは吉備系の首長であり、それ以降は近江を経由した玄界灘系の首長です。 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 >>474
吉備が東進できなかったという近江の勢力とは?
庄内布留の年代に相当する近江には
韓地遠征に大功あった和邇氏は大津の武振熊さん
守山の三上祝
伊吹の息長
唐古・鍵遺跡の衰退と纏向の興隆が
年代的には接続してるんでしたっけ?
唐子鍵には銅鐸があるが
纏向には銅鐸がない? まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 記紀と考古遺物の摺り合わせは難しいですね。弥生後期の琵琶湖南東岸の遺物群を正確に記紀の誰それのものと当てはめるには、材料が少なすぎます。
個人的には、貴レスにある和珥氏が近江系の祖先を持つという情報に関心を持ちました。
和珥氏は、水銀朱採取に関わり鍛治技術を有したと言われてますからね。近江から奈良南東への進出の裏付けの一つになります。 中国では銅鐸は長江あたりの水稲栽培とリンクした文物だったと聞きます。
そして、水稲栽培が列島に拡散するとき九州や山陰から一緒に東進してきた最初の金属文化でしょう。
ただ、九州や山陰、水稲栽培に成功した吉備などの他の地域でも、次々に新興の祭祀文化が生まれてくるわけです。それは、銅製武器具であり、特殊器台であり、鉄剣や銅鏡なわけです。銅鐸文化は東に押しやられざる得ないわけです。
唐子鍵の青銅器は吉備勢力侵入以前の奈良在地民の文化だったのでしょうかね。吉備に従属し、近江に従属し、古墳造営に駆り出されたのでしょうね。 >>482
最近の古代氏族の系譜研究によると
和邇氏は、博多は志賀島の安曇氏が本宗で母系が出雲族。
奈良盆地での和邇氏の拠点は
山の辺と言われた?今の天理市のあたり
そうですか、近江からの進出したという痕跡があるんですね。
湖西の志賀郡、湖南の栗太郡、野洲郡がいずれも和邇氏族の濃い地域です。 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 壬申の乱で負けた難波は奈良時代は寂れていた。
弥生時代、古代の難波はどういう場所だったのか?
下の長唄は、なにわの地が芦原中津國や食国と認識されていたのが分かる。
大国主とスクナヒコナが国作りを完成させたのが、芦原中国。
ツクヨミが治めたのは、夜の食国。
聖武天皇の難波行幸に従駕した笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の詠んだ一首
押(お)し照(て)る 難波の国は 葦垣(あしかき)の
古(ふ)りにし郷(さと)と 人皆の
思(おも)ひ息(やす)みて つれも無く ありし間(あひだ)に積麻(うみを)なす
長柄(ながら)の宮に 真木柱(まきばしら) 太高(ふとたか)敷きて 食国(をすくに)を 治めたまへば 沖つ鳥
味経(あぢふ)の原に もののふの 八十伴(やそとも)の緒(を)は 廬(いほり)して 都(みやこ)なしたり 旅にはあれども 【応神天皇(倭王讃)の難波大隈宮】 と 【聖武天皇の難波宮】は別の地。 @阿波 【応神天皇(倭王讃)の難波大隈宮】
「あわじ嶋 いや二並び 小豆島 いや二並び 寄ろしき嶋嶋・・・」
この歌は、応神天皇の難波大隈宮がどこに営まれたか、その地理的条件を浮かびあがらせる。
通説の難波大隈宮から見えるのは、淡路島だけで、小豆島は105km離れ、淡路島北端の岩屋と神戸市須磨浦の鉢伏山山塊に遮られ、全く望むことは出来ない。
また、丘陵や山地が存在しないため、天皇が高臺から兄媛の船を見送ったという説話も生まれようがない。
さらに、天皇が徴発した三原の海人は、淡路島南端の三原郡の海人といえるが、大阪湾とは正反対の最遠地である。
これらの説話は、古代「難波」の地であった讃岐の出来事を伝えたもので、応神天皇の難波大隈宮は、
さぬき市津田町、雨滝山東斜面の御座殿・神野あたりに推定される。 @阿波 東讃地方には、応神天皇(倭王讃)の信仰の痕跡が色濃く残っている。郡名の寒川(さんがわ)も「讃川」であった可能性がある。
また「誉・譽(ほむ)」の音読みである「ヨ」を冠した地名が目立つ。「誉・譽」は本来「ほむ」と呼ばれていたであろう。
下記の右の( )内が元の呼称であったと推定する。
譽田寺(ほむたじ) 与田山(譽田山ほむたやま) 本宮山(譽宮山ほむつやま) 与治山(譽治山ほむじやま) 与田川(譽田川ほむたがわ) 与田神社(譽田神社ほむたじんじゃ)、応神殿跡など。
ここからは、二並びに淡路島と小豆島がはっきり一望できるのである。 @阿波 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 仁徳天皇の大后、石之日売命は、葛城之曾都毘古の娘である。
葛城之曾都毘古の父は、第8代天皇・孝元天皇(こうげんてんのう)の御子、武内宿禰(たけうちのすくね)。
母は、山下影日賣(やましたのかげひめ) で、その兄が珍彦(うづひこ)である。
珍彦(うづひこ)とは、神武天皇を水先案内し、後に倭国造の祖となった倭宿禰命であり、その父が「天村雲命」である。
吉備の黒日売は「海部直の娘」であるが、その海部直の祖先にも当たる。
その「天村雲命」が日本で唯一の式内社「天村雲神伊自波夜比賣神社」にて、阿波で祀られている。 @阿波
「式内社 天村雲神伊自波夜比賣神社」 http://www.genbu.net/data/awa2/murakumo2_title.htm 神武天皇が珍彦(うづひこ)とめぐり合った「速吸門」は、「鳴門海峡」のこと。
海人族をも支配し、各地の海を知り尽くしていた天皇家の物語で、鳴門以外の海を速吸門(はやすいなと)などと表現するわけがない。
潮流の速さ【速】と、巨大な渦潮【吸】と、【門】で表現される地形、「なと」「なると」の響き。
当然、珍彦(うづひこ)の「うづ」は、渦潮(うづしお)の「うづ」であろう。
また、山下影日賣の「山下」は、これも地名から取っており、『和名抄』に記される阿波國板野郡「山下(也萬乃之多)」郷のことで、現在の鳴門地方である。
現在の地名(住所表示)では確認できないが、その山の南北に「葛城神社」が鎮座する。
その山とは「葛城の山」を示唆している。
従って、「葛城」も、鳴門地方の地名と思われる。 @阿波 『古事記』には、葛城長江 曾都毘古(かづらきの、「ながえ」の、そつひこ)と記され、「葛城」地方のなかに「長江」があることが確認できる。
現在の鳴門市に、古代からの地名、「大津」が残っており、その大津町に「長江」が在る。
もちろん、『古事記』に登場する“本来”の「大津」とは、この地のことである。
葛城がそれなりに広範囲な地名であることもわかるが、『古事記』文中には度々「葛城の〇〇」、という感じで登場する。
孝元天皇の妃の一人が、伊香色謎命(いかがしこめのみこと) 延喜式式内社 伊加賀志神社 である。
妃にはまた、埴安姫命がいるが、阿波國那賀郡の式内社 「建嶋女祖命神社」の御祭神となっている。
伊加賀志神社、建嶋女祖命神社ともに、全国唯一の阿波国式内社である。 @阿波
「建嶋女祖命神社」 http://www.genbu.net/data/awa2/takesima_title.htm まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 石之日売の「いわ」も地名から取ったと考えられるが、讃岐の難波郷から南に進み阿波へ入ると「いわ野」の地名がある。
そこから東に進み、鳴門地方にも「いわ浜」「いわ崎」があり、「いわ国」と推定されるエリアと、上記の神々、人々の関連地が全く一致する。
石之日売は、「みつ」の崎で、御綱柏を海に投げ棄てたのち、怒りのままに難波宮を通り過ぎて、故郷の国「葛城(鳴門)」を目指す。
「宮には入り坐さずして、其の御船を引き避きて、堀江に泝(さかのぼ)り、河のまにまに、山代に上り幸でましき。
山代より迴り、那良山の口に到り坐して、歌ひ曰りたまはく・・・」
阿波國には「山代」郷も存在したが、この場合の山代は地形の形容詞だと思われる。
阿波には「河内」「日浦」「宇佐」など地形から生まれた地名が複数存在する例がある。
「やましろ」は、山背とも書き、山の背、後ろ側、すなわちこの場合は、阿波本国から見て、阿讃山脈の裏側という意味である。
讃岐の難波郷から、古代の難波奈良街道に沿って大坂峠を越え、日開谷川を吉野川へと下る。
この途中に上に書いた「いわ野」がある。 そして吉野川に突き当たった一帯が「奈良」である。 @阿波 次の「小楯」だが、本居宣長の『國號考』には、
又、石比賣(イハヒメノ)命の御哥に、袁陀弖夜麻夜麻登(ヲダテヤマヤマト)云々、とよみたまふ、
此比賣命の御哥なるは、かの倭郷をのたまへるなれども、
袁陀弖夜麻(ヲダテヤマ)といふは、一國の倭によれる枕詞にて、
楯(タテ)を立並(タテナラ)べたる如くに、山のめぐれるをのたまへるなり
とあり、次の「袁陀弖(小楯?)」とは、単独した地名ではなく「倭」の枕詞、形容詞と考察する。
それにしても、本居宣長の見ている古事記原文には、「おだてやま やまと」と書かれていたことが分かる。
現在一般に出回っている原文は、書籍もネットも全て、「おだて やまと」となっていて、いかに写本というものがデタラメか、参考になるというものである。
この本居説が正しければ、倭の国は「山脈」とは切り離せない地形だということになる。
日本唯一の式内社、「倭大國玉神大國敷神社」が鎮座する美馬の地は、阿波の奈良よりも西に位地するが、
これは第10代崇神天皇(みまき いりひこ)がはじめて「美馬岐」の西に入り、その地に祀ったからで、もともとのヤマトは、
初代神武天皇・神倭伊波礼琵古命(かむ やまと いわ れひこ)が制した「ヤマト」「イワ」地方、またはもっと広範囲の呼称であろう。
『日本書紀』によれば、崇神天皇以前は、宮の内に「倭大國玉神」を祀っていたのであり、皇居の移動にともないヤマトの中心地も移動したと言える。
高木隆弘氏は、上記の歌の中の「ヤマト」を、神武天皇が即位した橿原(現・土成町 樫原)に比定している。
石之日売の「イワ」、父・葛城之曾都毘古の「カヅラキ」、母・山下影日賣の「ヤマシタ」、伯父・珍彦と鳴門の「渦潮」、などなど、石之日売の人脈や動向が阿波東部と一致している。
石之日売は讃岐の「難波」を南下し、阿讃山脈を越え、阿波の「奈良」を東に折れ、「倭」国発祥の地「樫原」を過ぎ、実家のある鳴門の「葛城」へ向かったのである。
その後、天皇は石之日売の御機嫌を伺い、めでたく元の鞘に収まった。 @阿波 一方、天皇に「黒鞘の刀」と歌われた「黒日売」とは、どうなったのであろうか。
仁徳天皇は、淡路島を出て、黒日売のいる吉備へ向かう。
神武天皇記には、吉備の「高島宮」の記載があるが、阿波のこの地方、阿南市の橘湾にも「高島」があり、鳴門市の北東部にも「高島」の地名がある。
「其の嶋より伝ひて、吉備国に幸行(い)でましき。 尓(しか)して黒日売、其の国の山方の地に大坐(おおま)しまさしめて、大御飯(おおみけ)を献(たてまつ)る。
ここに、大御羮(おおみあつもの)を煮むと為て、其地(そこ)の菘菜(あおな)を採む時に、天皇、其の嬢子(をとめ)の菘を採む処に到り坐し、歌ひ曰りたまはく、
山方に 蒔ける青菜も 吉備人と 共にし摘めば 楽しくもあるか 天皇の上り幸でます時に、黒日売の献れる御歌に曰ひけらく、
倭辺(やまとへ)に 西風(にし)吹き上げて 雲離れ 退(そ)き居(を)りとも 我忘れめや」
このときの黒日売の歌の解釈は 倭の辺りに西風が吹き上げると 雲も東のほうへ離れ 遠のいていく そのように陛下から離れていようとも 私は陛下のことを忘れることはありませんだという。
通説に当てはめれば、吉備で詠んだ歌で、倭へ天皇が帰るため、西風をヤマトの方へ(岡山)→(奈良)に吹く風、と考えるわけであるが
日売が、仮にも天皇を「風に飛ばされた千切れ雲」に例えるであろうか? この雲は日売自身のことを表しているのであろう。
難波(さぬき市)から船に乗って、東へ向かい、大浦(鳴門市)で船を降ろされ、そこから歩いて帰ってきた。
「倭」は阿波・讃岐の天皇の居ます国、一方、奈良は「大倭」で別の国、という認識がなければ分からないことである。
黒日売は、「石之日売という風」に「飛ばされた雲」が自分だ、と歌を詠んだのである。 @阿波 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 >>506
>畿内説が不利だから荒らしているだけだろ。
畿内説が不利だなんて、どこの平行世界から来たんだい? まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 とっくに落ち着いてるよな
つまりこのスレは不要ってことだ >>482
纏向興隆以前の近江勢力は、
正体不明なのだが系譜研究によるとこの地域には
奈良平安朝に至るまで
和邇氏、三輪氏、多氏の血族が繁衍していた経緯があります。
中心に天目一神を奉斎する三上祝、鍛治部族があり
多氏の敷棚彦とともに東国に移遷して鹿島に落ち着いたり
大彦後衛とともに北陸へ
タケヌナカワと一緒に東海に移遷したことがわかっております。これら三族は密接に行動したらしく、各地で同じ傾向が見られます。 >>515
>畿内説が不利になると荒らされるスレ
そもそも、畿内説スレに背乗りしたニセスレなんだが?
九州説には、頭おかしいやつをいさめようとする自浄作用はないのか?
どんなに頭のおかしいやつでも、畿内説に反対するやつなら擁護するのか? >>517
九州説ほとんど全員が頭おかしいやつだ
という結論が出るのだが >>519
>九州説ほとんど全員が頭おかしいやつだ
ちょっと修正していいかな?
九州説は一人残らず全員が頭おかしいやつだ! まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 大和だけでは遺跡の数も質も不足するので畿内に拡大する詐欺。 産経新聞が好みそうな「日本スゲー」論だけど、「卑弥呼が倭の国家連合の女王で
纏向邪馬台がその首都」とか吹きすぎだろ > 纒向学研究センター
古代史の“七五三論争” 日本国はいつ誕生したか、天皇制につながる卑弥呼の統治
http://www.sankei.com/west/news/180324/wst1803240002-n1.html
> 「飛鳥時代が国家の始まりともいわれるが、決してそうではない。日本国が
> いきなりできたのではなく、卑弥呼の時代には原型ができていた」と指摘するのが、
> 纒向学研究センターの寺沢薫所長だ。
> 寺沢さんは邪馬台国の有力候補とされる纒向遺跡(同県桜井市)を調査し、
> 弥生時代から古墳時代への変遷など、国家形成について研究している。
:
> 魏志倭人伝は、卑弥呼のいた場所についてこう記している。
> 「卑弥呼は邪馬台国の女王とよく言われるが、そうではない。邪馬台国を含む
> 倭国全体の女王。居住していたのが邪馬台国」と寺沢さん。
> そのうえで、「纒向遺跡は邪馬台国の中心であり、卑弥呼は発掘された
> 大型建物で政を行い、倭国の首都だった」と指摘する。
:
> 寺沢さんは、卑弥呼が各地の王の上にたって統治していたとし、
> 「こうした統治体制は、5世紀の倭の五王の時代と変わらない。
> これが、のちの天皇制へとつながっていった」と説く。
> そして飛鳥時代、中国から長年「倭国」と呼ばれていたのを、自ら「日本」と
> 名乗るようになった。
> 太陽が昇る「日出する国」「日の本の国」として、中国をはじめとした
> 東アジアの国家の一員であることを宣言したのだった。 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 >>9
>まともに議論できないから一挙に500にしただけ
そんなことしているスレも、言い訳も、
このスレ以外では見たことも聞いたこともないんだが?
頭悪いんじゃないのか? >>516
古代氏族を伝える文献の扱いは慎重でなくてはいけませんが、文献史学的に突き詰めていくと大和以東の列島規模で興った勢力の誕生には、近江の豪族の、とりわけ鍛造技術の強い影響があることがわかりますね。
近江では2世紀に伊勢遺跡が一旦解体されたわけですが、考古学による合理的な推論では、吉備からの圧迫にもかかわらず、吉備の祭祀を殆ど受け入れてはいません。
逆に、その刺激によって、近江の首長達は盟主を中心に軍事化したのです。鉄鏃の生産が始まっていますね。
そして、日本海交易路を管理していた卑弥呼が戦乱に苦しむ晩年は、鉄の輸入量が激増し、十年から二十年ほどで加賀や沼津、桜井へ影響力を拡大するんですね。稲部の鉄器工房は役目を終えるわけです。 V様式までの大和盆地南東部の祭祀は伊勢遺跡と同じく銅鐸です。
そして、庄内期の大和盆地は吉備の影響下に入ります。纏向に柵付き建物群を作らされたわけですね。
でも、布留0以降になると、上位層は近江の影響下でもあるわけです。無鉄器だった奈良に、突拍子もなく副葬されたホケノの鉄器と刳り抜き棺が証拠です。
経緯に戦争はなく、婚姻によって取り込まれたと思いますよ。殺傷人骨は皆無ですからね。
纏向は東西の文化を融合しているように見えるのは、それだけのことです。こんな場所が邪馬台国だった可能性はありませんよ。絶無です。 >>538
>逆に、その刺激によって、近江の首長達は盟主を中心に軍事化したのです。鉄鏃の生産が始まっていますね。
>そして、日本海交易路を管理していた卑弥呼が戦乱に苦しむ晩年は、鉄の輸入量が激増し、十年から二十年ほどで加賀や沼津、桜井へ影響力を拡大するんですね。稲部の鉄器工房は役目を終えるわけです。
筑紫の卑弥呼が日本海を通じて近江にも影響を与えて鉄文化圏としていたが、卑弥呼の死後は各地に鉄が拡散して内乱となったわけだ。 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 貴重な見解をお話しいただいて
感謝しております。
そもそも、近江勢力は何を求めて
伊勢遺跡に集まってたんでしょうね?
畿内に鉄の痕跡はないのに
製鉄遺跡はある、と言うことは
武具としての製鉄ではなく生活の道具を生産?
してたことになるんでしょうかねぇ。 近江は筑紫、出雲の傘下であり、近江独自の勢力というものはなかったと思うよ。
そして、それは日本海側の文化圏であり、畿内というか奈良とは関係ない。 >そもそも、近江勢力は何を求めて
>伊勢遺跡に集まってたんでしょうね?
伊勢遺跡が単独である訳じゃないからね
琵琶湖南東岸の野洲川扇状地〜三角州は、多くの弥生遺跡がある
その中の中心集会所的な位置付けなのだと思う
まあ、その集会で何をやるかと言えば、祭祀なのだろうけれど 問題はその祭祀を司る指導者がいた形跡がないことだ。
出雲の影響が強いから、大国主の支配下の地方議会みたいなものだったのかもしれない。
少なくとも、独立した勢力であった証拠がない。 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 >>547
>出雲の影響が強いから、大国主の支配下の地方議会みたいなものだったのかもしれない。
「根拠」は? 九州説はいつもこんなんばっかりだけど
近江の建築技法のどういう点に、出雲の影響が強いと言えるのかを書かないと意味がない
まあ、ニセスレだから好きにしてくれていいけどさ まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 >>540
ヤマトタケルの東征が
各地の鉄鉱脈を結んでいると言う指摘もあるから
朝鮮半島から得られた鉄鋌が得られなくなって
列島で模索せざるを得なかった? まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 >>540
>筑紫の卑弥呼が日本海を通じて近江にも影響を与えて鉄文化圏としていたが、卑弥呼の死後は各地に鉄が拡散して内乱となったわけだ。
個人的には、現在の資料で卑弥呼の宮がどこにあったか断じるつもりはありませんが、概ねその通りですね。
卑弥呼死後、新規に鉄化された地域が邪馬台国だったわけがありません。その他の条件(庄内式期の文字や卑弥呼の好物)にも、一切当てはまらない纏向は論外です。
琵琶湖岸も文字や卑弥呼の好物はありません。邪馬台国であった可能性は無いでしょうね。
ただ、2世紀の農耕民にとって琵琶湖湖畔は豊かな土地だったのでしょうね。そして、それによる余剰品は交易品になります。
考古学的に、近江は文化圏を同じくする福井嶺南を経由して、朝鮮半島とも直接交易していた可能性があります。日本海玄界灘交易路を利用する旧百余国の一つ、もしくは数か国として、後漢に認識されていたかもしれません。
伊勢遺跡の建物の配置は、個人的には北陸の縄文時代を連想します。環状木柱列を御存知でしょうか?
また、柱穴からわかる五角形?の建築様式も日本海側に多いようですよ。
付近の遺跡から翳のようなものが見つかっています。周辺集落を宗教的に連合させた王がいたわけです。レガリアはおそらく銅鐸でしょう。すなわち江南由来の稲作祭祀です。
そして、卑弥呼の時代に王が入れ替わり、宮を鉄器工房付近に移したのかもしれません。吉備に対抗するために、あるいは倭国乱に備えるために、軍人の発言力が高まったと予想するのが合理的です。 >>544
>そもそも、近江勢力は何を求めて
伊勢遺跡に集まってたんでしょうね?
琵琶湖には何本もの河川が流れこんでいますが、当然ながら流れ出す河川はたった一本です。その理屈を理解できなかった弥生人が神聖を感じ祭祀場としたか、単に要衝として利用価値が高かったのか、そんなところではないでしょうか。
鉄については、布留1式あたりまでの畿内では首長クラスの所有下にあったわけですが、武器の他、木材の伐採、加工や水銀朱の採掘には使用したでしょうね。古墳造営や農耕、治水に使ったかどうかはわかりません。
それから、庄内期以前にも河内になら鉄はありますよ。出雲から吉備へ、吉備から河内までは痕跡があります。でも、庄内期以前、大和盆地には殆ど出ないし、特に南東部には皆無だがな。
纏向が邪馬台国だった可能性は全くありません。 筑紫、出雲よりもむしろ越国の範囲なのかもしれないな。
そして越国は江南の稲作民と。
ふむ_φ(・_・ まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 ◎ここまでわかった日本書紀◎
2世紀末
倭国大乱と卑弥呼の即位
吉備・畿内同盟(百済、任那系)
考古学的証拠:墓、土器、特殊器台
文献的証拠:吉備に拠点を持つ孝霊天皇の娘モモソ姫が畿内の王大物主と政略結婚→大物主が死にモモソ姫が女王に
vs
山陰・北陸同盟(高句麗、新羅系)
考古学証拠:四隅突出墓の分布
文献的証拠:(3世紀後半だが)崇神代の記述 イツツヒコ「我の他に王はなし」
3世紀後半
台与の治世
吉備・畿内同盟
魏が滅び権威のバックを失い同盟が乱れ、崇神は大王位を失う
崇神、娘を宇佐の大王アマテラスの元に嫁入りさせる(トヨスキイリ姫=豊国の城に入った姫)
もう一人の娘を越の王大国魂に嫁入りさせようとするが失敗(ヌナキイリ姫=ヌナ川(越国のヒスイを産出する川)の城に入った姫)
(当然目的は山陰・北陸同盟の分断のため)
宇佐の大王アマテラスが死に嫁のトヨスキイリ姫が女王に まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 まともに議論できない人だから一挙に500にした変なスレ立てただけ
ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 正直言うと、柵付き高床式建物跡が出たときはこれで邪馬台国の所在地は決まったのかなと思いましたよ。
でもね、そのうち調査を重ねるうちに、妙なことがたくさんわかってくる。
柵付き高床式建物の層と比べて、纏向古墳群が随分新しいんですね。例えば、卑弥呼の墓候補の箸中山なんかを引き合いに出すと、60年から100年ほど違っている。
建物跡を上書きするように掘削された孔にしたって箸中山より10〜20年新しい。
なによりも、掘立の普通の耐用年数は30年ほどですよ。長く見積もっても40年。すると、柵付き高床式建物跡と箸中山(箸墓の方が通りがいいですか?)は20年は離れている。
宮が近隣に遷った気配もないですしね。線路裏の建物にしたって、時間間隔が空きすぎてるでしょう。
纏向遺跡ははっきり言って庄内後期中に断絶する重層遺跡ですよ。断絶期間に一旦解体されていますね。
邪馬台国だった可能性は絶無です。 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 断絶期間があるってことは
人がいなくなったってことですよね、
何が起きたんだろう
一時的な砦だった!? まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 優れた考古学者達の表明を、畿内説を論破されてしまったキナイコシが、必死に流しているな。。。 庄内後期中に断絶する重層遺跡とは、どういうことかな。。。 >>588
大物主の倉庫ということではないのかな。。。 柵付き高床式建物とは、大物主の倉庫のことだろうか、、、
では、あの大規模調査された墓は、やはり天皇の妹の墓なのだろうね。。。 建物跡を上書きするように掘削された孔とはなんだろうか。。。 日本全域を制圧したばかりで各地の首長にそれぞれの古墳建造を許可するかな。。。 こう考えるのはどうだろう?
全国制圧したばかりだから
全国に定期的に皇帝の墓を作らせた
つまり
全ての墓は皇帝墓
あれもこれも皇帝墓ユンケル
大きさだけじゃわからない
大きいのは、生口が多いから大きいだけで
本体はどこにいたのかわからない
全部皇帝墓 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 纏向は祭祀の痕跡はあるんだろうか?
三輪山の祭祀は一旦断絶したが
のちの子孫が戻ってきて祭祀を継続したという話がある。 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 >>595
>日本全域を制圧したばかりで各地の首長にそれぞれの古墳建造を許可するかな。。。
制圧なんてしてないんだよ
だから許可する立場でもない
卑弥呼の王権の正統性は「共立」にあって、広範囲の首長の同意で王とされた訳だ
そしてその共立組織(首長連合)が、ある意味みんなで古墳を作るって決めたんだよ
何でも勝ち負けや上下関係でしか考えられない儒教道徳価値観の人には理解しがたいかもね まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 畿内説には根拠がないから、他説の悪口を言うばかり。
これでは世間から支持されないのも当然だ。 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 畿内説は荒らせば自分たちの説の信頼が高くなるとでもおもっているのだろうか? まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 奥村さん、本スレであなたのことが批判されていましたよ。 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 このスレが批判されてるよ
日本史板荒らし目的の迷惑スレだってね まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 年度の入れ替わりでバタバタしたため、しばらくご無沙汰していました。スレ荒らしに屈服したのではないよ。纏向が邪馬台国でない理由は、何度も書いたが、やはり、有効な反論はないようですね。荒らし行為は、意味がありませんよ。
断絶期間に人口の移動があったというのではなく、上位層の交代劇に伴う文化的混乱期があったということです。
東京で言えば、西洋化と政権交代が同時に進行した明治維新のようなものでしょうかね。
3世紀に政体、文化共に一貫性の無い纏向が邪馬台国だった可能性は皆無ということです。 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 >>697
>纏向が邪馬台国でない理由は、何度も書いたが、
こんな人のいない、畿内説背乗りインチキスレでいきってても無意味
本スレでやりな
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1523300594/ >>697
>やはり、有効な反論はないようですね。
こんな人のいない、畿内説背乗りインチキスレで勝利宣言してむなしくないか?
本スレでやりな
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1523300594/ まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 明治維新が例えとして適当かどうかはともかく、趣旨には賛同するよ。
纒向は邪馬台国と関係ない。 >>703
>纒向は邪馬台国と関係ない。
纏向は倭国(阿波)有力豪族の墓造営前線基地。 @阿波 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
大和朝廷の主体は尾張と出雲。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒巻の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 連投しているokuyamaが荒らしをやめた時だろうなあ。 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 纏向遺跡の編年については、寺澤さんの庄内0、1、2、3、布留0、1で区分するのが主流のようですね。
布留2以降、衰退しているのは、衆目の一致するところです。布留0はさらに2分されていますが、古墳が集中的に4基ほど造営された重要な時期との御認識なのでしょうね。土器の観察が精緻で、良い区分けです。
纏向が断絶するきっかけとなった事件は、庄名2、または庄内3で発生したのですが、その時期は、はっきりしませんね。絶対編年の見積もりは慎重にしなければいけません。それぞれの年代は未確定です。
AMS測定を根拠にできないことは、抽出データー群の未集束が示しています。較正曲線が間違っているのか、測定方法に不備があるのかはわかりませんが、10年単位で絶対編年できるような代物ではありません。
しかし、一部の九州説の方には承服してもらえないでしょうが、個人的には、漢鏡副葬と韓軟質土器との鋏打ちで庄内期を概ね3世紀内に収まる50年〜80年ほどと考えます。
そして、纏向が断絶し、鉄化されるきっかけとなった事件は、公孫氏の滅亡、あるいは卑弥呼の死と考えます。
柵付き高床建築群は纏向断絶前の遺跡であり、卑弥呼生存中の遺跡ですが、鉄も文字痕跡も彼女の好物も一切出ない邪馬台国とは無関係の遺跡です。邪馬台国は別の場所だったということだな。 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 まともに答えられないキナイコシが考える
卑弥呼の墓って
どこ???w まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 成り立たないものを無理に成り立つと言い張ってるからしょうがない。 精神に異常をきたした人からすればまともな人が異常に見える、という実例 邪馬台国スレの衰退は畿内説の強引な論理展開が原因
異常な自己愛のせいで誰も信じなくなった まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 >>756
>邪馬台国スレの衰退は
全然衰退してないよ?
邪馬台国畿内説スレは、3,4日で、スレ一つ消費して今part341まできてる
背乗りスレを乱立させる頭の悪いのが多いから、日本史板の中で本当に迷惑がられているよ
こんなスレまで立てられてる
「もう邪馬台国板でも作れよ [無断転載禁止]©2ch.net」
しかもこのスレさえ、荒らし倒すというたちの悪さ まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 纏向の柵付き建築群は庄内式期中に起きた文化断絶前の遺跡です。元は近在で銅鐸を祭っていた人たちに吉備勢力が影響を与えて作られたものです。
時代的には卑弥呼生存中のものですが、鉄や文字痕跡、そして彼女の好物も一切出ませんね。柵付き建築群が邪馬台国とは無関係なことは、これだけでも完全に明らかです。
そして、次に入ってくる文化は日本海交易路の文化なのですが、最初はヤマト王権のレガリアである玄海灘文化というよりは、ホケノの鉄鏃でわかるように軍人文化なのですね。
そして近江に先行例のある割竹型棺であり、その形から連想できるのは海人文化です。土器文化を等しくする若狭に外港を持った勢力です。
一方吉備文化は近江以東には波及しません。かといって、大和盆地では、4世紀ごろまで吉備祭祀は残りますね。吉備、近江の折り合いがついていることがわかります。
玄界灘祭祀の影響を強く引き継いだ畿内ヤマト王権の主は茶臼山被葬者からです。
纏向は、邪馬台国とは完全に無縁ですが、ヤマト王権に対しても、直系の祖先ではないかもしれませんね。あくまでも、ヤマト王権の祭祀は玄界灘のものです。 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 Q: 畿内に邪馬台国はありましたか?
A: あったのは九州王の墓でした。 >>777
纏向は大物主の遺蹟だね。。。
大物主は天皇の祖先ではなく、妹の夫だったね。
そして、時代は違うが別の天皇の舅だった。
纏向遺蹟は、邪馬台国でも天皇の遺蹟でもないということで良いなw まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 >>777
纏向は大物主の遺蹟だね。。。
大物主は天皇の祖先ではなく、妹の夫だったね。
そして、時代は違うが別の天皇の舅だった。
纏向遺蹟は、邪馬台国でも天皇の遺蹟でもないということで良いなw まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 どういうことなんだろう、
本当は日本の話だぞ
と言ってる人がいたりするんだけど
あー、寒い
『もう歳だ』降り止まぬ雪という曲とか まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 ここは邪馬台国スレですからヤマト王権の話は、スレ違いですね。少し話を戻します。
曹叡が卑弥呼に送り届けたのは絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹ですが、これは曹叡が卑弥呼の好物と認識したからですね。柵付き建築跡が廃絶された庄内期以前の纏向には、これら卑弥呼の好物は一切出土しません。
また、この時期の纏向は無鉄器時代です。朝鮮半島に鉄を獲りに来ていたという東夷伝に記述されている倭人の首都足り得ませし、西暦240年に上表文を書き上げるほどの文字文化の痕跡も皆無です。
纏向が邪馬台国だった可能性は絶無なのですが、西日本でこれほど邪馬台国に程遠い庄内並行期の遺跡は珍しい。
では、なぜその後急激に纏向は発展したのでしょうかね。個人的にはやはり近くの水銀鉱脈が理由だと思いますね。
卑弥呼の死後、鉄器の輸入路が安定した近江勢力によって、採掘のための拠点になったと考えます。 >>801
畿内説スレで言うと一発で論破されるから誰も来ないニセスレで呟いてるフライドチキン >>780
折角の誘導ですが、こちらを先に埋めます。
あちこちにレスすると、何を書いたか自分でわからなくなりそうなので悪しからず。
>>782 >>797
少し検索にかけてみましたが、大物主伝承が何を意味するのかは、何とも言えません。
出雲神話と関係するなら、考古学的に最古級の銅鐸祭祀と関連しているのかもしれません。纏向遺跡ではなく、その前時代の唐子鍵との関連の方がありそうですね。
>>802
有効な反論があるなら、すればいいだけの話です。どこかに誘導したいなら、その畿内説スレ?とやらの質を上げて下さい。 鴨主の父親の説はいろいろある。
父親と盃を交わすと誓約したら、盃が空の彼方に飛んで言ったとも。
つまりは大物主云々は適当に言っているだけで、鴨主の父親は不明。
そもそも、トイレで用を足していたら、流れてきた赤い矢が刺さって子供ができたとか、見知らぬ男が夜な夜なやって来て、みたいな話だろ。
大物主の子どもとしておけば体面がいいとでも思ったんだよ。
実際には大和に大物主なんていなかった。 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 まさか江南豚と呟きが言い合いをするとは。
予想外の展開。 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。 鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。
ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。
その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また火に関するものもある。
牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。
見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。
つまり大和朝廷内の争いで石器作りをしていた勢力が、古い海神を倒し姫達を乗っ取り新たに牛鬼となったということか。 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 邪馬台と書いてヤマトと読む。
倭と書いてヤマトと読む。
つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
魏志にある女王国もまた同義である。
卑弥呼の称号は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王(親魏倭王)である。
倭国は稲作伝来の地である玄界灘沿岸に成立し、対馬海峡の交易により発展した海洋国家であり、海人の国を意味する「天津国」とも呼ばれた。
生活の基盤が次第に漁撈から稲作と交易にシフトすると博多がその中心として発展したが、卑弥呼の時代には王都は博多からやや離れた伊都国に置かれた。
倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。
漢の時代に金印を授かり冊封され、女王卑弥呼の時に魏から冊封された。
倭国においては筑紫の他に、豊国、肥国などの有力な国があり、魏志によると東の海を渡ったところにも倭種つまり出雲や近江、越など日本海沿岸に国が続いていた。
畿内は京都も大阪も奈良も、沼地であった。 楽浪を経由した魏の民(出雲族)が天皇家で、今の天皇家は鮮卑族偽天皇家の可能性がある。 楽浪を経由した魏の民朕の民(出雲族)が天皇家で、今の天皇家は鮮卑族偽天皇家の可能性がある 「東漢氏」=倭国(阿波)の東の地(奈良盆地)に住まわせた渡来人 @阿波 質問スレで勝利宣言するようなみっともないマネは止めてください。
他スレにめいわくかけるな
さらしあげ まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 なんでログ流ししてんだよ
よほどマズイことでも書かれたのか まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 >>852
>なんでログ流ししてんだよ
>よほどマズイことでも書かれたのか
最初から呼んでみ
ただの迷惑目的のニセスレだよ
スレ立てしたヤツすら放置している過疎スレを倉庫送りにするために
気がついたときに、>>9をコピペしてるだけだよ まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 sage進行で、埋め切っちゃえばいいんだよ
日本史板のスレタイ一覧に、邪馬台国畿内説って文字列を出して迷惑をかけるのが目的なんだから まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 >「咫」は、「中婦人手長八寸、謂之咫。周尺也」だろ?。
>「八寸」は、説文解字の後漢の頃の寸法になるんだよ。
それが周の尺と咫は同じ長さではないんだ
漢尺の八寸=周の尺=咫という関係にはない 漢尺の八寸=周の尺=咫で正解だろう。
この定義でも平原遺跡の超大型内行花文鏡は円周が八咫の鏡だ。 >>865、>>866
根拠はこれ
説文解字
咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也
清代 段玉裁《說文解字注》
周尺也。
通典引白虎通曰。夏法日。日數十也。日無不照。尺所度無不極。故以十寸爲尺。
殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
按奄字未詳。疑是手之誤字。
上文曰十寸爲尺。此及夫字下云周制八寸爲尺。
別周制之異乎古也。王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
鄭意八寸爲尺。周末始有之。與許說異。然許亦曰諸侯力政。
分爲七國。田𤲮異畮。車涂異軌。律令異法。則其說亦未嘗不合也。
左傳。天威不違顏咫尺。咫尺並言。不云二尺也。
國語、列子皆言其長尺有咫。亦不言其長二尺也。是可證周未嘗八寸爲尺矣。
いまだにそんなことを言ってるのは周回遅れだ
まさか、漢文も読めないのに文句を言ってるのか? >>867で、古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。とある
周朝が力を持っていた時代と、春秋戦国時代では尺の定義が代わっている訳だ
周代の一歩は、135センチほどとされているので、そこから換算する
周代でも古い時代は、周尺の八尺を歩としてたが、
今は周尺の六尺四分を歩としている
と書かれている
これで、歩=135センチから換算すると
八尺=歩=135センチなら 一尺=16.9センチ
六尺四分=135センチなら 一尺=21.1センチ
どちらにしても、漢尺の23センチとは異なるし、
漢尺の八寸=18.4センチとも異なる
九州説のいう「咫」の長さとは異なっていたってことだ
この数値から計算すると、咫=16.9センチ
八咫=135センチで、平原1号墓の146センチとは合わない
146センチは、「8.63咫」だね まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 >剣が11振りもあり、女王ではない。
>平原遺跡は魏晋代の女性向けの耳璫があり、被葬者は女性と考えられている。
大風呂南墳丘墓も銅製の釧や、青いガラスの釧その他の装身具が多くて、
女性を被葬者に想定する人も少なくない
それにここで問題にしているのは、女性かどうかではなく、王墓としての妥当性だ
大風呂南墳丘墓の被葬者が男性首長だったところで、地域首長墓より劣る倭王墓は
あり得ないという指摘に対しては、何の反論にもならない まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 >>868
倭人が用いていた定義が説文解字に縛られるわけではない。
里だって独自の解釈で使っていたわけだから、咫だって独自の解釈を持っていて不思議はない。
そして、倭人の定義の方がすっきりとしていて、実際の倭国内の考古学的証拠と一致する。 >>873
この人
日本側の文献にしか存在しない八咫を
中国文献から根拠を探すっていう
無意味なことして無意味なこと
言い張ってる馬鹿だから。
人の話全然理解できる頭脳してないから相手するだけ無駄。 >>868
この人
日本側の文献にしか存在しない八咫を
中国文献から根拠を探すっていう
無意味なことして無意味なこと
言い張ってる馬鹿だから。
人の話全然理解できる頭脳してないから相手するだけ無駄。 >>878
>日本側の文献にしか存在しない八咫を
>中国文献から根拠を探すっていう
なら、その日本側の文献での「咫」の用例から論じてくれればいいのに
日本側の文献で咫が見えるのは
八咫鏡
八咫烏
其鼻長七咫、背長七尺餘、當言七尋。且口尻明耀、眼如八咫鏡而赩然似赤酸醤也。
だけだよ
八咫烏や猿田彦の鼻の長さは、円周とはまるで関係ないし、
猿田彦の鼻の長さは、身長や當言と合わせて、七咫七尺七言とセットで言うための修辞
具体的な長さではなく、大きいことを言うための表現として
「八咫」「七咫」という表現が使われていることが分かる
日本の文献からは、「具体的な数値は想定できない」よ?
八咫鏡を、「大陸で用例がない」のに、「大陸で咫が使われなくなった時代」の
「尺から換算した」「実際にはない『大陸基準』の長さ」で円周長を計ると
「八咫」になるってバカな主張だと思わないかい?
どうにかごまかそうとしているけど、文献検索能力も低くて、
文献解釈もいい加減ではまともな論証も反論もできないだろ?
自分の書いていることの意味合いくらいは把握しような まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 >>879
用例なんてなくていいよ
尺八寸って解説が大陸に残ってるんだから。
いい加減、無意味な話してる自覚持とうな。 鏡の現物がある以上、それと矛盾する説明をいくら述べても意味ないよ。 >>893
>鏡の現物がある以上、それと矛盾する説明をいくら述べても意味ないよ。
あいかわらず、話をそらすことに全力だなw
鏡の存在を否定しているのではなく、その「解釈」=「八咫の鏡だという主張」が
否定されてるんだよ
その主張と矛盾する説明がいくらでもあるってことは、その主張が間違っているってことだよ
>>893の言っていることは、検証せずに黙って認めろってだけだからな
自説を根拠を元に論証することができないってのは、説として成立してないってことだ まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 >>922
ニセスレ背乗りスレの次スレって何を言ってるんだか
恥を知れ! まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 日本語の読み書きが満足にできないこと、日本史や日本の地理に関する基礎知識がないことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。 日本語の読み書きが満足にできないこと、日本史や日本の地理に関する基礎知識がないことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。 日本語の読み書きが満足にできないこと、日本史や日本の地理に関する基礎知識がないことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。 まともに議論できないから一挙に500にしただけ
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落ち着いたら ここは不要 >>931に
テンプレを貼ればいいと教えてもらったので、さっそく 1、内乱の激しい中国や、2世紀末の倭国大乱の影響を避けるため、都を、大陸からより離れた奈良盆地の纒向にした。 大和は、瀬戸内海に近く、交通の要衝である。人口も多く、日本の中心に位置しており、都にふさわしい。 2、倭国の大乱は全国的な内乱である。その結果、3世紀には、中部日本と西日本とを統一する大和朝廷が成立した。女王国の出現は、このような広い領域を支配する国家の誕生であった。 3、卑弥呼が魏からもらった鏡は三角縁神獣鏡である。その証拠に、卑弥呼の時代である「景初三年」の銘が入っているものが出土している。 三角縁神獣鏡は、畿内から数多く出土するが、九州や関東からも出土するので、古墳時代の前、すなわち鏡が輸入された卑弥呼の時代には、大和の勢力が九州や関東に及んでいた、と見るべきである。 4、朝鮮から邪馬台国にいたる行程記述は、、伊都国以降も一直線に繋がったもの(順次式)と見るべきである。 不弥国から東は、船で行った。航路としては、瀬戸内海ルートだけでなく、日本海ルートを通った可能性もある。 この場合、投馬国として、出雲や但馬を比定する。 5、「女王国の東に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。」との記述は、
伊勢湾や琵琶湖を渡ったむこうにも、倭人がいたことを述べている。 畿内説はこんなガバガバ穴だらけのことは主張してないけどな まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 スレ立てしたヤツ自身が>>9でこう言ってるんだから、さっさと削除申請すればいいのに まともに議論できないから一挙に500にしただけ
落ち着いたら ここは不要 5、「女王国の東に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。」との記述は、
伊勢湾や琵琶湖を渡ったむこうにも、倭人がいたことを述べている。 こういうニセスレ立てるにやめて欲しいわ
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