邪馬台国畿内説 Part338
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1522057077/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし 反論なし
議論する必要もないからこのスレ落としていいよ
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。
女王国、大和朝廷を作った主体は、出雲など山陰の勢力、尾張三河など東海の勢力です。縄文系勢力と縄文系勢力に半分乗っ取られた古い海神です。
他には阿波や宮崎、遠賀川流域の石神も加担しました。
畿内や九州北部の渡来人系勢力はこれらの勢力に征伐されました。
また四道将軍で関東東北を征伐したのも彼らです。 >>945
>>箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、
布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。<
加美久宝寺では(布留ではなく)庄内と伽耶の陶質土器が共存しており、
伽耶が、扶余における太康6年(285年)の戦乱の流民の渡来になるから、
布留の始まりは、285年よりも数十年位後になり、
だから、布留のある箸墓は、4世紀以後になってしまう。 >>947
また「南→東」などの嘘つき騙しし大和説が論破されたのか?。 >>948
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説がまた負けたのか?。 >>949
大和説は負け犬だから、近くで「南≠東」と吠えて上げれば即負ける。
そしてすぐ逃げ、遠くでキャンキャン吠える。 >>950
九州 大和
萬二千餘里 〇 × 九州は可能、大和は不可能
水行三十日陸行一月 〇 × 郡〜女王之所都の日数
兵用矛〜鐡鏃或骨鏃 〇 × 九州しかない
倭地温暖 〇 × 大和は盆地で寒い
有棺無槨 〇 × ホケノは有槨
出真珠青玉 〇 × 大和は盆地
其山有丹 〇 △ 赤い顔料
女王國以北特置一大率 〇 × 卑弥呼自ら軍を指揮しない
倭國亂相攻伐歴年 〇 × 30国と倭種が書き分けられている
其南有狗奴國 〇 × 「南≠東」
東渡海〜復有國皆倭種 ○ × 盆地の大和では東に海がない
周旋可五千餘里 ○ × 狗邪韓國〜北部九州でピッタリ
五尺刀 〇 × 平原
鉛丹 〇 × 南≠東だから大和は×
銅鏡百枚 〇 × 平原の21枚の「尚方作」方格規矩鏡
倭錦 〇 × 大和のは3世紀末
白珠 青大句珠 ○ × 大和は盆地 >>956
>それじゃ、実態を知らない人の投票だということになって、
アンケートの意味がなくなるね。<
いや、国民は、九州説か?大和説か?か?、という事が問題である、という実態を知っている。 >>957
>卑弥呼ら女王の倭國が大和などと言ってる奴はおらんだろw
畿内説の倭国は北部九州沿岸から畿内までの広域倭国<
畿内なんて存在しない。
大和は、筑紫倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国。 >>960
>6割? もし福岡2割、熊本2割、宮崎2割だったら
35%とった畿内説に負けてるわけだ <
福岡5割以上。
熊本と宮崎と鹿児島と大分で1割以下。
大和は3割。
>やっぱり畿内説盤石だな <
河内や摂津や山城は、大和にはならないし、
「畿内」という概念が存在していなかったから、×。 >>965
「南≠東」に反論出来ず、オウム返しでウソをつくしか出来ないのが、
大和説者の全てのようだ 。 >>970
「史料事実の否定曲解」などの嘘つき騙しや、
荒らしばっかりしてたら、揺らぐよ、大和説が。 >>971
大和説は・・・ 、「南→東」などの嘘つき騙しで、グラグラとゆらいでるし。 >>273
「南→東」などの嘘つき騙しがバレて、大和説が揺らいでるから、
九州説を荒らしたり、
オウム返しや、「口先匂わせ」宣伝を、してんでしょ?。 >>979
>なんで根拠をひとことも言わないの? <
もうずいぶん何度も説明してあるし、
知らん振りする・・・・は、相手にしても仕方がないから、放置しているの。 魏志倭人伝の記載を信じれば、邪馬台国連合の戸数は15万余り(邪馬台国7万、投馬国5万、奴国2万など)。
これに対して中国本土の蜀の滅亡時の戸数が28万。
この時代の戸数の統計はあてにならないが、魏王朝としては、(少なくとも書類の上では)邪馬台国連合を蜀の半分程度の勢力と考えていたとみていいだろうか。
親魏大月氏王のクシャーナ朝が戸10万、口40万、兵10万と記載されているので、同じ割合であるとすれば人口は50万。
これだけの人口を抱えるには、やはり九州では収まりきらないような気がする。
(※馬韓が55国10万戸、弁・辰韓が合計で24国4〜5万戸とのこと。漢書で楽浪郡が6万戸、玄菟郡が4万5千戸であったことを考えれば、少なくとも韓半島内の魏志倭人伝の記載は面積比的に妥当に見える。) >>987
理由を言って上げても、知らん振りして、なかった事にして、
また「理由は?」「理由がないの九州説」と言い出すのがの、
・・・・大和説者。 >>988
「南→東」などの嘘つき騙しで、
他人と会話できないのが、
分裂幻覚妄想の・・・・大和説者だよ。 >>990
「南≠東」の指摘に対して反論が出来ず、
悪口しか言えないのが、
人品骨柄の卑しさや・・・・性を物語る大和説者。 邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている
1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)
斯馬国〜-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算 畿内説おつかれさん
やられっぱなしで
よく続けるな
そこだけ認めてやる 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 弥生時代の最後を飾る壮麗な女王墓である平原遺跡が見つかった時点で、邪馬台国論争は決着がついているんだよ。 >>63
>箸墓は260〜280年くらいでしょう。<
箸墓は、4世紀だから×。 >>64
「南≠東」に全く反論が出来ない、という事は、
大和説の全面降伏宣言だな。 >>65
>邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。<
「邪馬台国」なんて存在せず、
「邪馬壹國→邪馬台国」と史料事実の否定曲解をした嘘つき騙しのインチキです。
>ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。<
「南≠東」に拠って、始めから×です。 >>66
また「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が、ボロ負けしてたな。
かわいそうに。 >>67
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
証拠を出せないから、必ず負ける。 >>72
大和説者というのは、もう、生きていない。 >>88
気になるのは「遠くて戸数が分からない」という記載の国があること。
逆を言えば、記載がある国は何らかの根拠があったのかな、と。
邪馬台国に至るまでの三韓地方の戸数は、漢代の帯方郡の戸数などと面積比的に妥当に見えるから、それなりに調べて記録してるように感じるんだよな。
倭国に入ってからいきなり極端に水増しにしたりカウントの方法が変わったりするとも思えないし。
なんか、倭人伝の記載の距離の日数とか方角とかは訓詁学的よく議論されるけど、人口分布の議論はあまり見たことがないように思えるな。
弥生時代の日本列島の人口がどれくらいか知らないけど、倭人伝の記載通りの戸数だったら、それなりの割合を占めることになりそう。 逆だ逆
論証もなし、根拠もなしで「南≠東」に逃げて、まったく意味のあることが
一つたりとも書けないのがザラコクであり九州説
論証なしの「南≠東」には、何の意味もないっていうのを無視して逃げることしかしない >>83
>れに対して中国本土の蜀の滅亡時の戸数が28万。<
滅亡時では、当然逃散家族も多くなるので、本来もっと多かった可能性がある。
>これだけの人口を抱えるには、やはり九州では収まりきらないような気がする。<
韓にはまだ統一王権が出来ておらず、
九州倭人は100国から30国になったんだから、やや大きい国が増えた事になり、
また、気候は当然九州の方が温暖で生活し易いので、
九州で十分に収まるような気がする。 >>84
>>福岡5割以上。<
>こんなアンケート結果はない <
Yahooや2chや5chでの実態。 Yahooや2chや5chは一部の者が連投するので
アンケート結果とは違う >>100
プラスアルファで邪馬台国に匹敵する勢力の狗奴国(記載はないけど、5万戸程度はあったのではないだろうか)が入るとすると、倭人は書類上の数字ではかつての楽浪郡の3倍の戸数なんだよね。
倭人伝に書かれている勢力は、機内とは言わずとも、少なくとも吉備辺りまで包括していないと、当時の人口密度に記述が信用できなくなる。
狗奴国だけでも東側にあったのかな。 温暖で生活し易いのは沖縄か南九州だろ
福岡は九州では一番気温は低い >>99
>逆だ逆
論証もなし、根拠もなしで「南≠東」に逃げて、まったく意味のあることが
一つたりとも書けないのがザラコクであり九州説
論証なしの「南≠東」には、何の意味もないっていうのを無視して逃げることしかしない <
何だ?、
私は、周髀算経や礼記の「立てた棒の影端で東西南北を簡単に計測する」方法の記載がある事を、
もう20回位?は書いて上げた、と思うぞ。
何回説明したら、判るんかい?、・・・・アホさん。 >>101
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文は?
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! >>102
>Yahooや2chや5chは一部の者が連投するので アンケート結果とは違う<
連投するような・・・・は、当然、
人種差別的な国粋皇国史観のキョクウの・・・・が多い大和説者の方が多くなる、
と思うよ。
九州説者には、思想宗教的な狂気はないからな。 >>105
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! >>107
毎日太陽が昇る前から連投してるのはお前だろ >>107
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネは?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! 大陸の史書の方位の記述は間違うときは間違うから、
間違っているかどうかは一つずつ論証しないといけない >>103
>プラスアルファで邪馬台国に匹敵する勢力の狗奴国
(記載はないけど、5万戸程度はあったのではないだろうか)が入るとすると、<
根拠が全くないから×。
>倭人は書類上の数字ではかつての楽浪郡の3倍の戸数なんだよね。<
問題は、気候。
高句麗も「方可二千里」で「戸三萬」しかない。
楽浪やや韓の気候よりも、九州の方が、おそらくずっと住みやすい。
>倭人伝に書かれている勢力は、機内とは言わずとも、少なくとも吉備辺りまで包括していないと、
当時の人口密度に記述が信用できなくなる。<
「戸」は、兵役や租税の徴収単位の数え方であり、「1戸=1〜数人」であるから、
九州に十分入る事が出来、問題はない。
>狗奴国だけでも東側にあったのかな。<
「南≠東」だから×。
お前は、・・・・詐欺師。」 さっきから戸数についてしつこく書き込んでいるものだが、
滅亡直前かつ王朝が把握した公式の数字(奴婢や屯田、逃散したものは含まず)であるとはいえ、あの劉備や孔明の蜀が、九州の一部を制したにすぎない勢力の2倍程度の国だと記されているのが釈然としないという認識。
3韓80国が総計で蜀の半分というのは、まあしょうがないのかなと思うが、北九州一帯だけで蜀の半分というのは…
陳寿は蜀出身だし、あからさまに貶めるようには書かないだろうし...
世界史で存在感の大きかったクシャーナ朝より人口が多いと記録されているわけだし、畿内であるべきだ!とまでは言わないが、それなりに大勢力であってほしいとは思うんだよね。 >>114
大月氏が戸10万口40万兵10万とあるから、単純に同比率とすれば高句麗は人口12万兵3万。
公孫淵討伐に数千の援軍を出したり、魏朝の幽州刺史毌丘倹(後に乱を起こしたときの動員兵力が5〜6万)に攻められた際、負けたものの滅亡には至らなかったという記載がある国力だから、動員兵力3万はそれなりに正確なんだろうね。
そうなると、戸数15万動員兵力15万の邪馬台国連合は、異民族としては相当の大国扱い(記載には司馬氏への忖度もあるだろうけど)。
対呉戦線の戦略的パートナーたりえる(と、少なくとも表向きはそう思われた)からこそ、「親魏」の封号なんだろうね。 >>104
>温暖で生活し易いのは沖縄か南九州だろ 福岡は九州では一番気温は低い<
楽浪や半島との比較の問題。 楽浪や半島と比べたら日本列島の半分以上は平均気温が高いだろう
中期の池上曽根で暖地に生息するクスノキを刳り貫いた井戸が出ている >>>113
>大陸の史書の方位の記述は間違うときは間違うから、
間違っているかどうかは一つずつ論証しないといけない<
伝聞「方向」情報であれば、間違う時があっても、
魏使らのような、役人たちが直接関与して計測した東西南北は、
間違える筈がない。 >>116
>そうなると、戸数15万動員兵力15万の邪馬台国連合は、<
(戸ではなく)「家」数で書かれた国(一大國と不彌國)は、
兵役納税には関係がないから、省かれ、
南九州の投馬國も、急場の動員には間に合わない。
>異民族としては相当の大国扱い(記載には司馬氏への忖度もあるだろうけど)。<
魏の役人たちには仕事であるから、忖度など、関係がない。
>対呉戦線の戦略的パートナーたりえる
(と、少なくとも表向きはそう思われた)からこそ、
「親魏」の封号なんだろうね。<
「対呉戦線の戦略的パートナー」にも、関係がない。
この男は、やはり・・・・詐欺師。 韓伝では「大國萬餘家 小國数千家 揔十餘萬戸」
「大國四五千家 小國六七百家 惣四五萬戸」だから
「家」数で書かれた国が兵役納税には関係がないということはなかろう 邪馬台国七万人は奴国二万人を含むんだよ。
投馬国や狗奴国は含まないけどね。 >>123
九州説はそういう珍読をしないとダメなんだよね
終わってるわ 伊都国奴国と重なる邪馬台「国」とは何なのか?
この時点でおかしいんだよ、伊都国が邪馬台国っていうのは >>121
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文は?
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! >>121
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! >>121
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネは?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! 個人的には邪馬台国連合は神聖ローマ帝国的なイメージがあるな。
複数の居住域が有機的に結びついて君主を擁するようになった小邦と、単独の都市のまま自治権を維持した存在とが、大きく一つの枠組みとして「帝国」を形成する。
投馬国や奴国などの万戸超の国はバイエルンやザクセンに当たる、みたいな感じ。
ある地域に複数の集落の遺跡があったとして、それぞれに単独の「国」を比定しがちだけど、ある共通の国の下部集落なのかもしれない。
極端な話、博多から筑後付近までの遺跡群は、それぞれ「〇〇国」として当てはめるのではなく、「奴国2万戸の構成要素の一つ」としてみるのが正しいかもしれない。
当時の高句麗3万戸に遜色ない国なのだから、むしろそれくらいの面積的広がりがあってもよい。
そうなると、邪馬台国はどこかという話は「オーストリア大公国はどこか」「ブランデンブルク伯領はどこか」になる訳で、その中の「卑弥呼の所在地」のウィーンやベルリンを探す話とは、地域と集落を探すことで次元を分けて考えなければならない。
「7万戸」という数字が先行しがちだが、マツリゴト用の集落としてはせいぜい数10戸程度の集落が、「邪馬台国連合」の行政府なのかもしれない、とか考えてみたり。 六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
簡単に言えば、「俺様偉い病」である。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者のみが発症する、心の病。
畿内説側の書き込み全てが>>1◆UiepmfCeDJqによる物であると信じ込む、一種の強迫観念である。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない九州説論者が、
畿内説に多くの賛同者などいるわけがないのだ、と自分自身を騙そうとすることで発症する。
>>1◆UiepmfCeDJqが自演によって多数派を装っているのだ、と言う発想は、
実は、自身が自演を頻繁に行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。 ザラコク
邪馬台国関連スレに出没する非常識異常行動者のひとり
呼称は、Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」から
古田武彦と彼が提唱した九州王朝説を盲目的に信仰しており、その信心の深さは、
世間的には偽書として決着している『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張するほど
自らを「素人おじん」と称することもあり、一見、自身を客観視できているかのようであるが、
その書き込み内容は、自分の信奉する説以外はすべて間違いだと決めつけてかかる、六拾弐病患者特有のもの
素人が専門家をこき下ろすという行為に疑問を感じなくなっているほど思考が硬直化している
「全レスバカ」と呼ばれることがあるほど片っ端からレスを付けまくるが、
ほとんどが他人の会話への横レスかつ超遅レスであり、周囲と会話が成立することはまずない
レスを付けることが目的化している節があり、その内容は、
他人の発言を長々と全文引用したあげく、賛成!とか間違いだ!とか数文字書き足すという程度のもの、
自分の都合のいいように語句を入れ替えただけのオウム返しのものなど、無意味なものばかりである
投稿数だけは圧倒的で、コピペ連投並みにスレを荒らす結果となっているが、本人に自覚はない
社用のPCで勤務時間中に5ちゃん投稿に血道を上げる問題経営者である
自分に不都合な情報を自分に都合が良いように勝手に脳内変換していることが多いが、
ソースを提示されても、自身の記憶や理解の方が正しいと主張する、傲慢な思考の持ち主
常駐していたYahoo掲示板を倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近5ちゃんに居付いてしまった
「生きる独善」との形容がぴったりな75歳 キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるように。
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも。
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。
「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。
「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、「しかり」など特徴的な言い回しの多用、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」頻発、名前欄への書き込み多用などの特徴ですぐに判別できる。
1◆UiepmfCeDJqfを奥村と呼ぶ、寺澤薫氏・同志社大学・纒向学研究センターをディスる、
草を生やす際に半角で1文字目大文字、?を連続させる、といった特徴もある。
キウスの書き込みを褒めたり、礼を言ったり、「ワロタ」と応じたりする書き込みは、すべて自演である。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。
日本語の読み書きが満足にできないこと、日本史や日本の地理に関する基礎知識がないことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。 岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張し、ありもしない大規模調査をでっち上げ、
学界の多数派である邪馬台国畿内説を破綻したと主張する、ゴッドハンドも真っ青の捏造常習犯である
自分は正しく、これまでの研究者がみんな間違っていた、などと平気で主張する、典型的「六拾弐病」患者
コテ+トリと、コテの九州王、伊都国女王、卑弥呼、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくる
糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチともよばれる
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読み、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読し、
平原遺跡出土鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張し、
魏志倭人伝中の「下戸」を「酒が飲めない人」と訳すなど、
お笑いエピソードには事欠かない
偽スレや妄想スレを立て続ける異常性に気がついていないのは本人だけ
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である ザラコク
>…< 嘘吐き騙し 南≠東 大和説 !。 ?。 ×。
キウス
スレ主 奥村 しかり 大笑い Ww いい線ついてる 正論 ヤマト王政 論じろ
岡上
八咫の鏡 伊都 平原 内行花文鏡 三種の神器 神道 キナイコシ 、、、 。。。
ハナホジ
物部 葛城 鴨 大物主 ヒメタタライスズ ミミ 出雲族
サイキバ
鉄がない 奈良湖 倉庫 2013年の大規模調査なんてない
日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/
研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、
宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。
立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。
研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。 650日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:03:02.66
元ねた見つけたわ
国土地理院時報(2000 no.94)
「近畿地方の古地理に関する調査(国土地理院地理調査部)
http://www-im.dwc.doshisha.ac.jp/~nihei/nara/index.php?%C6%E0%CE%C9%CB%DF%C3%CF%A1%A7%C3%CF%B7%C1%A1%A6%C3%CF%BC%C1%A1%A6%BF%E5%B7%CF
657日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:12:52.10
>>650のリンク先にある「奈良盆地の地形学的研究」53ページに
>なぜなら、奈良盆地が更新世以降において湛水し湖沼化したという事実は認められない。
とあるな 660日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:18:00.17
奈良県遺跡地図Web
http://www.pref.nara.jp/16771.htm
664日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:21:12.40
データベース名 遺跡
ID 11A-0104
市町村 川西
遺跡名 下永東方遺跡
所在地 磯城郡川西町下永東方
種類区分 集落・町屋,社寺
時代区分 縄文,弥生,古墳,奈良,平安,鎌倉,室町
時代詳細 縄文・晩〜古墳・後、奈良〜室町
遺跡概要 方形周溝墓、井戸、掘立柱建物、区画溝
遺物 縄文、弥生、土師、須恵、黒色土器、中世土器、木製品、石器、石製紡錘車、土馬
文献・備考 白米密寺伝承地、『下永東方遺跡』(文化財報86)2001、『奈良県遺跡調査概報2003年度第1分冊』2004、『奈良県遺跡調査概報2004年度第1分冊』2005
668日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:24:19.31
データベース名 遺跡
ID 11A-0123
市町村 川西
遺跡名 下永東城遺跡
所在地 磯城郡川西町下永東城
種類区分 集落・町屋,墓・墓地
時代区分 縄文,弥生,古墳,鎌倉,室町
時代詳細 縄文、弥生・中、古墳・前〜中世
遺跡概要 方形周溝墓、土坑、掘立柱建物、井戸
遺物 石器、弥生、土師、石釧、木器
文献・備考 『下永東城遺跡』(文化財報103)2003 674日本@名無史さん2018/01/31(水) 23:37:38.33
http://www.ksmt.com/panorama/130501nara/130501nara.htm
>2013.5.1 Kashihara 橿原
>飛鳥を自転車で回ろうと思い近鉄橿原神宮前駅へ。
>まず奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の「5世紀のヤマト〜まほろばの世界〜」を見学。
>5世紀の遺跡から出た資料が展示されており興味深いのですが、最も興味を引いたのが5世紀の地図。
>古奈良湖は既になく、奈良盆地全体が陸地をして描かれています。
(略)
>橿原考古学研究所の受付の方にお願いすると、水田の発掘担当者の方に直接話を聞けることになりました。
>運が良かったようです。
>担当者の方の話によると、
>
>1.縄文後期の遺跡が奈良盆地の一番低いところにも存在するので、縄文後期には既に古奈良湖は消滅していたと考えられる。
>法隆寺付近に古奈良湖が7世紀頃まであったという説は、どうやら間違いのようです。 これ、よくわからないんだけど
卑弥呼が九州に居て卑弥弓呼が大和に居て
卑弥呼んとこが卑弥弓呼ぶっ潰すか屈服させて大和に移ってそこで死んで埋葬されたみたいな説ってないの? >>87 同意
>「南≠東」の指摘に対して反論が出来ず、
悪口しか言えないのが、
人品骨柄の卑しさや・・・・性を物語る大和説者。 <
畿内説から明確な回答無し >>120
>福岡比定じゃ「南」もなにも関係ない <
萬二千余里がほぼ終わった不彌國の直ぐ「南」だから、
「福岡平野中部〜筑紫平野及びその周辺丘陵地」であり、
「南」が最後の決め手であり、
関係がある。 >>122
>韓伝では「大國萬餘家 小國数千家 揔十餘萬戸」
「大國四五千家 小國六七百家 惣四五萬戸」だから
「家」数で書かれた国が兵役納税には関係がないということはなかろう<
古田さんの三国志の分析は、「戸」の使用例からの「戸」の意味、
つまり魏などの直接的支配下であった事を示す、という事であったのであり、
だから、「家」は、
直接的支配下だとする事が出来ない半独立的なものだ、という事を示す事になり、
だから、韓でも、そのような意味で、「戸」と「家」とを書き分けている、
という事になる。 >>124
>九州説はそういう珍読をしないとダメなんだよね
終わってるわ <
大和説は、
古田さんの「戸と家とを何故書き分けたんだろうか?」の本が出てから、
もう40年位になるが、
未だにその理由の分析や議論をした形跡がない。
つまり、魏志倭人伝が全く読めていなかった訳で、
終わってるわ。 >>142
福岡の卑弥呼と熊本の卑弥弓呼の対立ならあったろうね。 >>125
>伊都国奴国と重なる邪馬台「国」とは何なのか?
この時点でおかしいんだよ、伊都国が邪馬台国っていうのは<
共立卑弥呼女王は、祭祀的支配中心であり、
実務的な(倭國や邪馬壹國の)行政は、左治した弟が担当し、
軍事的支配は、一大率の伊都国が検察していたんだから、
伊都国は、邪馬壹國は、ほぼ一体的であった、と言えるんだよ。 >>129
大和説は、論破されるといつもコレ。
wwや「早く言えよおまえ!」のヘイトスピーチ貼り付けの・・・・らが出て来る。 >>130
>個人的には邪馬台国連合は神聖ローマ帝国的なイメージがあるな。・・・<
幾らご講釈をのたまわれても、
「邪馬台国」という存在もしない文言を使っているようでは、
「親大和説」者である事がバレてしまいそうで、
信頼性が全くなくなってしまっているな。 >>151
>「早く言えよおまえ!」
これを繰り返し貼り付けているのは、頭のおかしい荒らし目的の九州説のやつだぞ
おそらくキウス
そんなことも分からないからザラコクは・・・・って言われるんだよ
まあ、日本人とは異なる価値観で生きてるから、何言ってもムダだけどな >>152
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文は?
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
さっさと言えよおまえ! >>152
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
さっさと言えよおまえ! >>152
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネは?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
さっさと言えよおまえ! ◎ここまでわかった日本書紀◎
2世紀末
倭国大乱と卑弥呼の即位
吉備・畿内同盟(百済、任那系)
考古学的証拠:墓、土器、特殊器台
文献的証拠:吉備に拠点を持つ孝霊天皇の娘モモソ姫が畿内の王大物主と政略結婚→大物主が死にモモソ姫が女王に
vs
山陰・北陸同盟(高句麗、新羅系)
考古学証拠:四隅突出墓の分布
文献的証拠:(3世紀後半だが)崇神代の記述 イツツヒコ「我の他に王はなし」
3世紀後半
台与の治世
吉備・畿内同盟
魏が弱体化し権威のバックを失い同盟が乱れ、崇神は大王位を失う
崇神、娘を宇佐の大王アマテラスの元に嫁入りさせる(トヨスキイリ姫=豊国の城に入った姫)
もう一人の娘を越の王大国魂に嫁入りさせようとするが失敗(ヌナキイリ姫=ヌナ川(越国のヒスイを産出する川)の城に入った姫)
(当然目的は山陰・北陸同盟の分断のため)
宇佐の大王アマテラスが死に嫁のトヨスキイリ姫が女王に >>142
>これ、よくわからないんだけど
卑弥呼が九州に居て卑弥弓呼が大和に居て<
これから、既に×。
狗奴國は女王国の南にあるから。
>卑弥呼んとこが卑弥弓呼ぶっ潰すか屈服させて、大和に移ってそこで死んで、
埋葬されたみたいな説ってないの?<
これも、「南≠東」に拠って×。 >>153
>>「早く言えよおまえ!」<
>これを繰り返し貼り付けているのは、頭のおかしい荒らし目的の九州説のやつだぞ<
これを繰り返し貼り付けているのは、
人種差別的な「反中」の国粋皇国史観人間である事がはっきりしているから、
頭のおかしい荒らし目的の大和説のやつだぞ。
「六拾弐病、全1病、ザラコク・・・」などの貼り付け病人間や、wwらと同じ仲間。 >>157
>◎ここまでわかった日本書紀◎・・・<
この男も、どうやら、大和説の貼り付け魔。
ssnの貼り付け論と似てはいるが、少し違う。 >>159
>人種差別的な「反中」
いや、九州説は主に半島系の人間だぞ
見れば分かる
ザラコクもそう
日本の歴史と比べて惨めだから、できるだけ日本の歴史を短く
邪馬台国も卑弥呼も小国のうそつきにしたがる 九州説は紀元前から三種の神器を奉じる倭国があったことになるが、畿内説だとせいぜい3世紀までしか王権が遡れないんだろ?
畿内は半島系が多いし、桜井市と天理市の関係とか、いろいろ政治的すぎる。
まともに資料解釈せず逃げてばかりなのも、その影響かな。 >>150
>伊都国は、邪馬壹國は、ほぼ一体的であった
ほぼ一体ってどんな妄想だ?
伊都国と邪馬壹國と別の国として書かれていることをまったく説明できていない
別の国を同じだと言い張るのは見苦しいだけ 九州説だと倭国は半島南岸から九州北部になるが、半島南岸が倭だと困る特定の人たちが畿内説を支持しているんだろうな。 伊都国、奴国、不弥国をあわせて倭、または邪馬台(いずれもヤマトと読む)でいいだろう。
帯方郡から一万二千里、三種の神器を祭る筑紫の日向。 >>166
>半島南岸が倭だと困る特定の人たちが畿内説を支持しているんだろうな。
畿内説でも、半島南部は倭国だよ
九州説は、現在の日本に繋がる政体の起源をできるだけ遅くし、歴史を短くし
さらには倭国女王の卑弥呼を、九州ローカルの一酋長に貶め、魏をだまして
王になったとしたい訳だ
日本国籍を持たない「市民」の方たちが、半島に近いところに
日本の起源を持ってきて、儒教道徳的に起源に影響を与えた半島えらいって
言いたいから 、九州説の工作をしている >>167
>伊都国、奴国、不弥国をあわせて倭、または邪馬台(いずれもヤマトと読む)でいいだろう。
いや、それなら邪馬台「国」の「国」が説明つかないだろ?
インチキ九州説は、すぐにでたらめを主張する >>160
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文は?
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! >>160
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! >>160
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネは?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! >>169
国邑(集落)としての国と、国家体制を持つ国の二つの意味があるんだよ。
邪馬台国すなわち女王国は後者。 >>162
大和説者は、「南→東」の、
バカ詐欺師だろ?。 >>165
>>伊都国は、邪馬壹國は、ほぼ一体的であった<
>ほぼ一体ってどんな妄想だ?
伊都国と邪馬壹國と別の国として書かれていることをまったく説明できていない<
当然、別の国だが、
女王國(≒倭國)としての支配体制内では、最も仲間同士。
奴國と伊都國との分裂前の倭奴國時代には、
卑弥呼が載っている松野氏姫氏系図にも、倭奴國王名や帥升らしき人物が書かれており、
卑弥呼は、その委奴の地の倭奴國から別れて大野に移った姫氏の分家の出であったように書かれ、
新唐書の日本伝には、倭奴國が伊都国の阿毎氏であった事も書かれており、
という事は、姫氏と阿毎氏は、倭奴國の地で「合同」していた、という事になり、
だから、卑弥呼も、元は、倭奴國系であった事になり、
同じ倭奴國系であった伊都国とは、親族的関係にあったらしい、という事になる。
>別の国を同じだと言い張るのは見苦しいだけ<
親族的な氏、同士の関係。 考古学的には、奴国から伊都国に王墓が作られる場所が移動している。 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 >>168
>九州説は、現在の日本に繋がる政体の起源をできるだけ遅くし、歴史を短くし
さらには倭国女王の卑弥呼を、九州ローカルの一酋長に貶め、魏をだまして
王になったとしたい訳だ <
関係がない。
現天皇家だけではなく、人類は全て、万世一系だ。
>日本国籍を持たない「市民」の方たちが、半島に近いところに
日本の起源を持ってきて、儒教道徳的に起源に影響を与えた半島えらいって
言いたいから 、九州説の工作をしている<
これは、 人種差別の殺戮戦争狂の国粋皇国史観の・・・・wwの投稿だな。 >>172
>畿内説の方が遅いだろ。
畿内説は、邪馬台国の前身から現在の日本の骨格は変わらないという立場だ
それに対して、九州説は大和朝廷と邪馬台国は繋がらない、すなわち邪馬台国後にしか
日本に繋がる国は始まらないという主張で、日本の歴史を短くしようという魂胆
さらに九州王朝説にいたっては、白村江の敗戦まで遅らせようというせこさ
「工作」といわれる所以だよ >>181
肥国は呉の太白の末裔であり、半島との関係はむしろ薄い。 >>182
万世一系の皇国史観なんて、時代錯誤だろ。 九州説はもともと江戸時代に国学者が考えた偽僣説が起源だからな
皇国史観が起源 >>182
>畿内説は、邪馬台国の前身から現在の日本の骨格は変わらないという立場だ
畿内説は皇国史観の亡霊。
学問ではなくイデオロギーとなってしまっている。 朝鮮半島に数万基ある支石墓は肥人種居住地域にしかない 万世一系の皇国史観で、九州の異民族の女酋長がこそ泥のようなことを
やらかしたんだろうというのが九州説の始まり >>185みたいに
「畿内説は皇国史観の亡霊。
学問ではなくイデオロギーとなってしまっている。」
と学問板なのに学問ではない論争にしようとするのが九州説
まともな九州説がいないのが、全ての荒らしの原因 >>1
> それは桜井市纒向以外にありえない。
政治思想のかたまり。 >>191
>> それは桜井市纒向以外にありえない。
>政治思想のかたまり。
そう思うなら、そう思うことの正当性を論証するために「根拠」を示せと何度言えば
ここは「学問板」
「纏向以外にありえない」の根拠は山盛りに書いてあるだろ!
その根拠に対して反論があるなら、誰でも確認できる根拠・ソースをつけて論じてくれ >>1
>纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、
妄想。 根拠無し。 >>1
>それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
妄想。 根拠無し。 >>193
>妄想。 根拠無し。
根拠なしと書くのではなく、妄想であると判断するに至った「理由・根拠」を書いてくれと何度言えば?
ここは「学問板」だ 妄想でないと判断するに至った「理由・根拠」を書いてくれと何度言えば?
ここは「学問板」だ >>151
>畿内は朱の生産地を擁しており
畿内に卑弥呼時代の「朱の生産地」は認められない。 あくまで、朱の精製地。 @阿波 >>195
そっちが根拠のないことを並べ立てているんだろ。
根拠を示せ。 >>15
>丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。
大和の前期前方後円墳から出土した朱の、イオウ同位体比は何れもマイナスの値を示す。ホケノ山古墳は-5.4、大和天神山古墳は-6.1、中山大塚古墳は-5.2である。
徳島の弥生時代終末から古墳時代にかけて朱を精製した遺跡と考えられている若杉山遺跡出土朱は-6.03±2.88%であった。
三重県丹生鉱山が-8.88±2.69、奈良県宇陀の大和水銀鉱山が-3.13±3.47で、ホケノ山・大和天神山・中山大塚古墳の値は両者の中間である
このことからホケノ山・大和天神山・中山大塚古墳の水銀朱は、三重県丹生鉱山と奈良県宇陀の大和水銀鉱山との中間値である、徳島若杉山の水銀朱の可能性が高い。 @阿波 >>198
>根拠を示せ。
逆質問に逃げるのが、詐欺師の基本
まあ、こちらの根拠はテンプレに山盛りなんだから、根拠がないと思うのなら
それがどの部分なのかを「論じて」くれ
もちろん、「論じる」のには「根拠」が必要だけれどな
ここは「学問板」なのだから、論争なら歓迎するよ
ただ、根拠なしの言いっ放しは無意味
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 >>200
>>根拠を示せ。
>
>逆質問に逃げるのが、詐欺師の基本
すごいブーメランなんだがw >>201
ほらまた、無根拠な感想を書いている
論争なら歓迎
だが、無意味な書き込みは止めな
あと、「市民」の工作はうざいから止めれ >>204
>あと、「市民」の工作はうざいから止めれ
そういう政治的な決めつけはやめようや。
ここは学問板なのだから。 徳島の水銀朱のイオウ同位体比は、由岐鉱山(-3.96 ±2.49)、水井鉱山(-3.63 ±4.47)で
岡山の和気鉱山が(-6.20)くらい >>183
で、呉の太伯の一行が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
漢服と木沓と原始漢字の金石文は?
. >>181
>纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、
と、言い切るには乱暴。 言い切るほどの資料はない。 @阿波 >>18
>纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、
と、言い切るには乱暴。 言い切るほどの資料はない。 @阿波 >>19
>伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。
畿内というよりも、阿波忌部との交流圏である。 もちろん、畿内も阿波忌部の交流圏。 @阿波 そもそも古代史にアホどもの言うような謎なんてない
弥生末期に畿内に出現した邪馬台国が九州から関東にまで全国的な連合を拡大し女王国を形成
その邪馬台国が系譜については不明としか言いようがないが、
勢力としては断絶することなくそのまま洗練発展していったのが大和朝廷
その勢力はその後の飛鳥、奈良、平安の朝廷ともつながっていく
謎の外国人の征服なんてないし、歴史から消えた謎の本当の支配者の国もないし、宇宙人も妖怪もない
史書や考古学的な見地に基づくいたって順当な動き
トンチキな妄想なんて入り込む余地はない >>182
>畿内説は、邪馬台国の前身から現在の日本の骨格は変わらないという立場だ<
大和日本国は、九州倭國の「自昔・・・東征毛人55国」の折に、
倭國から別れた別種の旧小国であり、白村江の後で、倭国を併合吸収継承したのであり、
従って、「畿内」なんて存在しなかったし、
「邪馬台国」なんても存在しなかった。
>それに対して、九州説は大和朝廷と邪馬台国は繋がらない、すなわち邪馬台国後にしか
日本に繋がる国は始まらないという主張で、日本の歴史を短くしようという魂胆
さらに九州王朝説にいたっては、白村江の敗戦まで遅らせようというせこさ
「工作」といわれる所以だよ <
九州説は知らんが、九州王朝説は、前項の通りであり、
大和日本国は、筑紫の倭国から別れた別種の旧小国であり、筑紫倭国の親族だ。 >>212
となると天皇家で最初に中国から倭王に冊封された人物が卑弥呼となるが、
これまでの天皇に卑弥呼や台代に比定しうる人物がいない
よって邪馬台国とヤマト王権は別物
むしろ強大化するヤマト王権からの侵略を防ぐために、
九州邪馬台国連合が魏から倭王に任じてもらったという考えが成り立ちうる >>185
>九州説はもともと江戸時代に国学者が考えた偽僣説が起源だからな
皇国史観が起源<
史料事実や史料実態に従えば、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れて、大和へ移った倭国の旧小国。 >>212
畿内説を信じるのは単純◯◯だという見本だな。
史書や考古学と矛盾しまくりだろう。 九州説とか言うパーがレス付けんな
鬱陶しい
基地外は基地外スレに行け
位置論争とかとうに終わってるんだよサルが よく見たら九州スレ無くなってんじゃん
基地外は何故か見当違いの畿内スレ荒らすだけだな
好きなだけ基地外隔離スレで喚いて来いよ
お呼びじゃねぇんだよ >>188
記紀の万世一系の皇国史観で、
九州の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国が、こそ泥のようなことをやらかして、
大和が、天地開闢以来、列島全体や東アジアの支配者であったんだ、と言い出したのが、
大和説の始まり。 >>217
史書や考古学と矛盾はないし、学界の通説だが? 旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。
新唐書
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。 だいたい夢ロマン九州説のお爺さんたちは
こういう掲示板には来ない
ここに来る荒らし連中は「差別」という語をしばしば使う >>189
学問板なのに、
「大和は天地開闢以来、列島の支配を約束された」とか、
「万世一系の皇国史観」とかの、
学問ではなく、宗教イデオロギー などで史料事実や史料実態を否定曲解して、
学問ではない論争にしようとするのが大和説。
大和説者にはまともな人がいないのが、全ての荒らしの原因 。 そして半島に一番近い福岡説は福岡の地理も考古知識も無い >>190
大和説は、もともと学問じゃなくて(・・・・的)宗教思想だからね 。 >>226みたいなウソが、平気でつけるのが九州説
異常ですね 福岡起源説は福岡の研究者の研究成果も完全に拒絶する >>224
ほらね
>>216みたいな史料事実は存在しない >>192
>>> それは桜井市纒向以外にありえない。<
>>政治思想のかたまり。<
>そう思うなら、そう思うことの正当性を論証するために「根拠」を示せと何度言えば
ここは「学問板」<
最も本質的な根拠は、「南≠東」。
>「纏向以外にありえない」の根拠は山盛りに書いてあるだろ!
その根拠に対して反論があるなら、誰でも確認できる根拠・ソースをつけて論じてくれ<
その「山盛り」の根拠とやらは、全て直接的な証拠ではなく、
史料事実を恣意的曲解捏造したものである、という事は、
もう3回も説明済み。 >>232
理由もなく断定することを
世間では説明と言わないのだよ >>195
>>>纒向遺跡の発掘状況等から、
ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており<
>>妄想。 根拠無し。<
>根拠なしと書くのではなく、妄想であると判断するに至った「理由・根拠」を書いてくれと何度言えば?
ここは「学問板」だ<
根本的に、纏向へ搬入された土器は、
「市」で取引されるような生活用品であり、
武具や威信財のような支配を示すものではなく、
東の東海方面のものが多く、西の方は河内ですら取引は微量であり、
筑紫や弥生銀座の「半島や出雲や西日本全域」からの搬入状況には全く劣っており、
大和説者が広言して来た「搬入が多い方が盟主だ」という主張なら、
逆に筑紫が列島の盟主になってしまうからだ。 >>232
>最も本質的な根拠は、「南≠東」
これが「最も本質的な根拠」ってことは、実際のところ「何一つ根拠がない」ってことだな
大陸の史書は方角を間違うときは間違う
この当たり前の一事で簡単に否定されてしまうことが「最も本質的な根拠」っていうのは
まるで論説としての体をなしていないということだ >>234
>大和説者が広言して来た「搬入が多い方が盟主だ」という主張なら、
そんなこと、誰が主張した? 神=王 の読み替え
崇神6年、宮中で天照大神と倭大国魂神の二神を祭っていたが
二神の神威の強さを恐れ、宮の外で祀ることにし
天照大神をトヨスキイリ姫に託し、
倭大国魂神をヌナキイリ姫に託した
↓
宮中で同盟国の王達を集めて会議をしていたが
プライドの高い各地の王達の意見を崇神がまとめきれず、会議が決裂してしまった
そこで崇神は各地の王に自分の娘を嫁入りさせて関係強化を図った >>234
九州じいさんは「理由・根拠」って言葉の意味を
今だに知らない
って
スゴイことだよな
w >>199
>丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、<
「弥生終末」という年代根拠は、「庄内」であったようだから、3世紀末の墓であり、
方形墳丘墓状であるから、筑紫倭國の「東征毛人55国」の将軍の墓であった可能性が高い。
>ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。<
ホケノは、「有槨」であるし、「庄内+布留」だから、3世紀末以後。
>桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは
水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。<
桜井茶臼山は、竪穴式石室墓であるからホケノよりも後の4世紀以後であり、
武具の多さから、東征毛人55国の将軍の墓であった可能性が高い。 >>243
ホケノ山が「有槨」だ、という根拠は?
「庄内+布留」だと3世紀末以後だ、という根拠は? ほとんど全ての場合、九州説は根拠を聞かれると自滅する。 >>200
>>根拠を示せ。<
>逆質問に逃げるのが、詐欺師の基本<
逆質問で逃げるのが、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説詐欺師の特徴。
根拠があるんなら、テンプレのその部分を転写しな。 お前らもいい加減九州説とか相手するなよ
構って欲しいだけの異常者なんだからほっとけよ >>250
無視してて、連中がリアルで犯罪おかしたらマズいだろ? >>210
>伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。<
唐古鍵なら、大和の在地の「毛人や出雲系銅鐸部族」の後裔であった可能性があるから、
伊豆七島との交易があった可能性がある。 >>253
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文は?
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! >>253
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! >>253
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネは?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! >>212
そもそも古代史に、大和説のアホどもの言うような謎なんてない。
九州倭国の「東征毛人55国」があったのであり、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であったんだし、
九州倭国は、白村江の後で、大和日本国に併合吸収継承されたのであり、
宇宙人も妖怪もない。 史書や考古学的な見地に基づく、いたって順当な動き。
>弥生末期に畿内に出現した邪馬台国が九州から関東にまで全国的な連合を拡大し女王国を形成<
「邪馬台国」も「畿内」も存在しないし、
九州から 瀬戸内〜近畿〜東海〜南関東を「東征毛人55国」したのは、九州倭国。
>その邪馬台国が系譜については不明としか言いようがないが、<
邪馬台国なんて存在しないし、
倭國(=東海姫氏國)の系図は、松野氏姫氏系図に書かれた通り。
>勢力としては断絶することなくそのまま洗練発展していったのが大和朝廷
その勢力はその後の飛鳥、奈良、平安の朝廷ともつながっていく<
大和が「朝廷」になったのは、701年。
謎の外国人の征服なんてないし、歴史から消えた謎の本当の支配者の国もないし、宇宙人も妖怪もない
史書や考古学的な見地に基づくいたって順当な動き
トンチキな妄想なんて入り込む余地はない >>257
あいかわらず、九州説は根拠をまったく言わないね
つまり、思い込みってことさ >>218
大和説とか言うパーがスレを出すな。
鬱陶しい。
基地外は基地外スレに行け。
位置論争とかは、「南≠東」に拠って、とうに終わってるんだよサルが。 >>259
そうやって悪口しか言えない九州説は負け組 >>257
九州説がべったり偽書に頼る体質は癒らないなー >>263
そうやって悪口しか言えない畿内説は負け組 >>219
よく見たら九州スレが殆ど無くなってんじゃん?。
九州スレは、何の問題も発生せず、
何故か、大和スレだけに問題があって、
皆が、大和スレばかりを批判するようになってしまってなってしまっていたのだな。
世間の皆さま、大和説がお呼びだそうですから、
好きなだけ大和説の・・・・スレを批判してくださいね。 >>223
学会や、教育界や、文部省や、右翼マスコミや、キョクウの国粋皇国史観らの大和説は、
「南→東」などのように、史書や考古学と矛盾ばかりだし、
国民の通説にも、批判否定されているんだが?。 ※重要
奈良県桜井市の箸墓古墳とは?
・「四段築成」で天皇の墓よりも格上の形状の古墳である。当時の人々は箸墓に眠る人は天皇より偉いと考えていたのは明らかである。
・箸墓に眠っているのは「女性」と言い伝えられている(天皇より偉い女性が箸墓に眠っている。)
箸墓自体が超強力な「物的証拠」である。 倭迹迹日百襲姫命
この名前を素直に読むと
「倭(ヤマトの)迹迹(ご先祖様で)日(太陽)百襲(百カ国をまとめあげた)姫命(ひみこ)」 になる。
中国の歴史書には卑弥呼以前は、倭には百カ国あったと書かれている。
卑弥呼は百カ国をまとめあげて女王になった。 >>225
だいたい史料事実や史料実態からの帰納的推論をする普通の九州説者たちは、
九州説の勝利を確信しているから、
こういう掲示板の人種差別的皇国史観の大和説スレには来ない。
ここにいる荒らしの大和説の・・・・ガキの連中は、
「人種差別的なヘイトスピーチ」の文言をしばしば使う。 >>227
そして筑紫からから相当遠い大和説者は、
「南→東」などのように、都合の悪い事実の否定曲解をするばかりで、
九州の地理も考古知識も殆どない。 >>229
「南→東」などみたいなウソが、平気でつけるのが大和説。
異常ですね 。 >>271
>九州説の勝利を確信
学問は勝ち負けではなく真理の探究が目的
でも、ここにいる九州説はザラコクをはじめ「勝ち負け」が目的
で、勝てば永遠に上位に立てるという歪んだ儒教価値観でしか物事を考えられない
そもそも、会話ができない相手なんだよ >>230
大和説者や大和起源説の学者は、誰かれの説に構わず、
「南→東」などの嘘つき騙しや、史料事実や研究成果も完全に拒絶する。 日本人が嫌がることすれば差別されるよw
日本人が嫌う民族は1種だけだから >>273
>「南→東」などみたいなウソ
こんなインチキしか根拠を挙げられないザラコク
大陸の史書は方角を間違うときは間違う
この当たり前の一事で簡単に否定されてしまうことしか書けない無能 >>233
「南→東」などの史料事実の否定曲解を、理由もなく断定することを、
世間では説明とは言わないのだよ。 普通の九州説者が来ないスレで毎日朝から連呼してるのは
普通の九州説者とは違う人種集団だということだな >>235
>>最も本質的な根拠は、「南≠東」<
>これが「最も本質的な根拠」ってことは、
実際のところ「何一つ根拠がない」ってことだな<
伝聞情報や・・・・情報ではなく、
周髀算経や礼記に記載された「東西南北」の決め方を知っている魏使らや、
役人たちや、、普通の人類は、
「東西南北」の間違いはしない。
>大陸の史書は方角を間違うときは間違う<
・・・・アホではなく、
普通の人類である限り、間違えない。
この当たり前の一事で、簡単に否定されてしまうことが、「最も本質的な根拠」。
それを、口先で否定してしまおうとするこの・・・・アホ男の論法は、
まるで論説としての体をなしていないということだ。 >>236
>>大和説者が広言して来た「搬入が多い方が盟主だ」という主張なら、
筑紫や弥生銀座が首都になる<
>そんなこと、誰が主張した?<
1年位前まで投稿していたYahooでも、
天誅やハイエナらの大和説者の全員が主張していたし、
明治大の佐々木氏も紀要で主張していた。 >>237
>神=王 の読み替え
崇神6年、宮中で天照大神と倭大国魂神の二神を祭っていたが
二神の神威の強さを恐れ、宮の外で祀ることにし
天照大神をトヨスキイリ姫に託し、 倭大国魂神をヌナキイリ姫に託した
↓
宮中で同盟国の王達を集めて会議をしていたが <
大和には「宮中」なんてなかったし、
大和は、筑紫倭国の「東征毛人55国」の一国に過ぎなかったから、
「同盟国の王達を集める」事もなかった。
>プライドの高い各地の王達の意見を崇神がまとめきれず、会議が決裂してしまった
そこで崇神は各地の王に自分の娘を嫁入りさせて関係強化を図った<
分裂幻覚の妄想になるね。 >>240
「南→東」などの史料事実の否定曲解をする大和説の・・・・ガキは、
「理由・根拠」って言葉の意味を今だに知らない って、
スゴイことだよな w 。 >>244
>ホケノ山が「有槨」だ、という根拠は?<
報告書。
>「庄内+布留」だと3世紀末以後だ、という根拠は?<
「布留」があったから。 >>246
反論できなくなって、荒らし始める「南→東」などの嘘つき騙しの大和説w。 >>247
ほとんど全ての場合、大和説は、九州説に根拠や反論を聞かれると、
自滅する。 >>250
お前らす大和説者は、いい加減、
九州説の反論や根拠に再反論をすることが出来なければ、
・・・・にならない前に、撤退してしまえよ。
お前らは、構って欲しいだけの精神的な異常者なんだから。 >>252
大和説者を無視してて、
連中がリアルで犯罪をおかしたり、殺人戦争を起こしたらマズいだろ?。 >>258
あいかわらず、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
根拠をまったく言わないね。
つまり、思い込みってことさ。 >>260
そうやって、史料事実に拠る反論が出来ず、
悪口しか言えなくなった大和説は負け組。 >>262
大和説がべったり、「南→東」などの嘘つき騙しや、
半分×偽書に頼る体質は癒らないなー。 >>265
>(大和説者が)悪口しか言えないという証拠は?<
掲示板。 >>268
大和説者の荒らし集団らには、
まともな日本の歴史というのが無いからな。
人種差別的殺戮戦争の国粋皇国史観しか無いからな。 >>269
>※重要 奈良県桜井市の箸墓古墳とは?
・「四段築成」で天皇の墓よりも格上の形状の古墳である。当時の人々は箸墓に眠る人は天皇より偉いと考えていたのは明らかである。
・箸墓に眠っているのは「女性」と言い伝えられている(天皇より偉い女性が箸墓に眠っている。)
箸墓自体が超強力な「物的証拠」である。<
天皇なんていなかったから、×。 >明治大の佐々木氏も紀要で主張していた。
福岡の庄内式の多くは搬入品ではなくて在地製作
「ただ搬入品となると,庄内甕・布留甕は少ない。
在地で大量に模倣生産するからであろう。」(佐々木) >>270
>倭迹迹日百襲姫命 この名前を素直に読むと
「倭(ヤマトの)迹迹(ご先祖様で)日(太陽)百襲(百カ国をまとめあげた)姫命(ひみこ)」 になる。<
「倭」は「ヤマト」ではないから、×。
>中国の歴史書には卑弥呼以前は、倭には百カ国あったと書かれている。
卑弥呼は百カ国をまとめあげて女王になった。、
「南≠東」に拠って、×。 >>274
学問は勝ち負けではなく真理の探究が目的。
でも、ここにいる大和説はwwをはじめ「勝ち負け」が目的。
で、勝てば永遠に上位に立てるという、
歪んだ国粋皇国史観の儒教価値観でしか物事を考えられない。
そもそも、会話ができない・・・・が相手なんだよ。 >>296
>福岡の庄内式の多くは搬入品ではなくて在地製作
その在地製作(東阿波型土器様式)を指導したのが、倭国(阿波)から進出した、筑紫忌部。 @阿波 >>276
日本人や人類が嫌がることすれば、批判差別されるよw。
日本人は、ネアンデルタールを始め、
南洋や大陸からの多数の流民部族の混合共存で出来た民族であったんだから。 阿波は土器製作者ではなくて蠱術師かイタコ芸人だろう >>277
周髀算経や礼記に拠って、
「日の出日の入り」などでの東西を決め、それに直交する方向で南北を決めた、
魏使らや中国役人や史家らは、
伝聞などの場合を除いて、「東西南北」は全く間違えない。
この当たり前の一事で簡単に否定されてしまうことしか書けない大和説者やwwは、
無能な・・・・。 >>279
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者が来るスレで、
毎日朝から連呼してる大和説者は、
史料事実を大事にする普通の九州説者とは、全く違う人種であり、
・・・・集団だということだな。 >>280
>(南→東を)誰が理由もなく断定した? 証拠は?<
誰も証拠を言っていないし、言えなかったから。 ウソブいているサギサギジジイがいるなあ…
俺のサイコガンで顔面を撃ち抜かれたいようだ。 >>300
で、南洋から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる南洋系石器とラピタ系生活土器とアウトリガーカヌーは?
で、中国から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系石器と中国系生活土器と中国系住居は?
. >>296
>>(搬入が広範囲で多いから大和が権力中心、論)
明治大の佐々木氏も紀要で主張していた。<
>福岡の庄内式の多くは搬入品ではなくて在地製作
「ただ搬入品となると,庄内甕・布留甕は少ない。
在地で大量に模倣生産するからであろう。」(佐々木)<
ダメだよ。
Yahooでのssnとの議論で、
佐々木の「搬入が広範囲で多いから大和が権力中心、論」を読んだから批判して、
その論考を「お気に入り」に入れておいて、
しばらくしてまた「お気に入りから出そう」としたら、出なくなっていて、
またしばらくしてssnが佐々木の論考がある、と言ったから、
出して見たら、また出てきて、それを読み返したら、
「搬入が広範囲で多いから大和が権力中心、論」の記載が消えていた。
他にも、柳田の「三雲の庄内先行」の話に関しても、
三雲の説明が非常に詳しく変わっていた。
という事は、佐々木は私の批判に負けて、自分の紀要での投稿を書き直した。 >>309
それはお前のPCがズビニ鉤虫に感染してるんだろ >>281
論破された嘘をいつまでも書き続けるところが、まともな人間ではない証拠
こちらが論証しているのは
「大陸史書の地理旅程記事での方角は間違うときは間違う」
といb、当たり前のこbニで、「確実な粕苒闥n」と「実麹ロの地理」が証給窒サのものだ
旧唐書の大理・安南間 「東」が「南東」の間違い
隋書の対馬・壱岐筑紫間 「東」が「南」の間違い
新唐書の屋久島種子島の位置 「東」が「南」の間違い
三国志の松浦・糸島間 「東南」が「北東」の間違い
これら複数の実例により
「大陸史書の方角が間違うはずがない」という命題は否定される
つまり、論理学的に「偽」だ
従って、
「大陸史書の方角が間違うはずがない」に依存した「論証抜きの南≠東」には意味がない
ザラコクは徳の低い悪人だから間違ったことばかり主張する
儒教道徳では嘘を突き通せば、自分に主張を通した正しい人=徳の高い人となるから
必死になって、嘘ごまかし捏造を総動員しているが、こっちの論拠は鉄板だから無駄なあがき
そして、恥をかかされた、恥をかかせる方が悪いのであって
自分は悪くないと言い出すまでがテンプレなんだが
まあ、自分で認めなくても、他人から間違っていると確認された時点で、
ザラコクは正しくない人=徳のない人だから、儒教道徳的価値観でも最下位の人間だな >>285
>報告書。
相変わらずバカだなぁ
「石槨」は、中に人が入れないから「槨じゃない」んだよ >>298
>歪んだ国粋皇国史観の儒教価値観
これが矛盾しまくりだって分からないんだろうな
儒教価値観は○国の価値観だよ
ザラコクのお仲間
誇らしいんだろ? >>302
>ネアンデルタール人は日本列島には来て無いだろw<
ネアンの遺伝子は、アフリカ以外の全世界の人類に、2〜10%混入しており、
東アジア一円には、等しく2.8%位混入しているらしい。
という事は、現生人類のアフリカ単独発生説の否定であり、
そして、ネアンを含めた多元発生であったのであり、
そして、アフリカ以外ではネアンの遺伝子や子孫が現在も生きていた、
という事になる。
東アジアでは、 >>316
そんなもの、槨の定義にはない。
棺を土に直接埋めないで、空間を作ることが槨。
ホケノは明確に槨とされている。 定形型古墳は槨があるからな。
箸墓古墳もほぼ間違いなく槨があるだろうな。 >>306
>ウソブいているサギサギジジイがいるなあ…
俺のサイコガンで顔面を撃ち抜かれたいようだ。<
サイコガンんて何か?知らないが、
怖い怖い。
キョクウの国粋皇国史観の大和説の・・・・は、怖い怖い。 >>319
現代人が勝手に槨と呼んだって、古代中国人には関係ない >>308
>それ、証拠でもあるの? ないよね w<
掲示板が証拠。 >>315
>旧唐書の大理・安南間 「東」が「南東」の間違い
隋書の対馬・壱岐筑紫間 「東」が「南」の間違い
新唐書の屋久島種子島の位置 「東」が「南」の間違い
三国志の松浦・糸島間 「東南」が「北東」の間違い <
これ、もう2回位、
反論済みの話だな。 >>316
石槨は槨じゃないなんて、馬鹿げているな。
それと、後期の大型古墳の石槨(玄室)は人も楽に入れるだろ。 >>323
ほら、証拠が出せない
つまりインチキだ >>324
反論ができないで罵るだけ、というのは
キミが論破された、ということだよ >>326
>それと、後期の大型古墳の石槨(玄室)は人も楽に入れるだろ。
玄室と石槨は別ものだぞ
無理な言い訳をするなぁw >>325
>これ、もう2回位、
>反論済みの話だな。
それ、ザラコクが反論したって言い張ってるだけで、
一切反論になってない
ザラコクの能力の低さが明白になっただけ
>>315だけで全ての日本語が読める通常の判断力のある人間は、
「大陸の史書の方位は間違うときは間違う」というのを理解できるんだがな
間違いを認められない人間に科学は無理だから「科学板」に出入りするのをやめるべきだよ >>318
ネアンデルタール人は絶滅しているから現生人類ではない
同時代に共存して、なんらかの接触があったというだけ >>332
>ネアンデルタール人は絶滅しているから現生人類ではない
同時代に共存して、なんらかの接触があったというだけ<
アフリカ以外の現生人類に2〜10%の遺伝子を残した、という事は、
ネアンは、
絶滅したのではなく、共存婚姻して子孫を残して生き延びていた、という事だ。 >>333の追記
人類皆兄弟。
東アジア人は、もっと近縁の兄弟。
しかし、大和説者らは、人類でも兄弟でもなく、皆・・・・。 >>327
>>掲示板が証拠<
>ほら、証拠が出せない つまりインチキだ<
私は、殆ど記憶で投稿しているし、
掲示板全体を探す体力も視力も暇もないし、
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、大体の近似的推論が必要であるのであり、
100%完全な根拠を要求するのは、脳が病気の・・・・である、
という事も知っているから、
・・・・と判ったケダモノに対しては、「ほぼ放置しておく」事にしているの。 >>331
>>>旧唐書の大理・安南間 「東」が「南東」の間違い
隋書の対馬・壱岐筑紫間 「東」が「南」の間違い
新唐書の屋久島種子島の位置 「東」が「南」の間違い
三国志の松浦・糸島間 「東南」が「北東」の間違い
>>これ、もう2回位、 反論済みの話だな。<
>それ、ザラコクが反論したって言い張ってるだけで、 一切反論になってない <
それなら、「反論になっていない」、という事を立証してみな。 >>336
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文は?
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! >>336
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! >>336
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネは?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! >>336
本当にザラコクはバカなんだな
旧唐書の大理・安南間 「東」が「南東」の間違い
隋書の対馬・壱岐筑紫間 「東」が「南」の間違い
新唐書の屋久島種子島の位置 「東」が「南」の間違い
三国志の松浦・糸島間 「東南」が「北東」の間違い
これらの比定地には異論はなく確定事項
その地図上の「実際の位置関係」と「史書での方角」が一致していない
一致していない以上は、どちらかが間違いだが、実際の位置関係は現実であって
動かしようがないから、「史書の方角」が間違っているのが明白
完璧!
ザラコクのやっていることは通らない誤読・珍釈を意味もなく書き連ねて
「反論した気分」になってるだけ
人の書き込みに×が付けられるえらい人って思うことだけが目的だから
根拠を挙げて論証するってことが一切できないのがザラコク >>341
>旧唐書の大理・安南間 「東」が「南東」の間違い <
「東」は、実際の方向計測ではなく、
「如至成都、通水陸行」方向の、伝聞的大体記載であり、ほぼ正しい。
>隋書の対馬・壱岐筑紫間 「東」が「南」の間違い<
一支国は、「大海中」から 「東」であるから、ほぼ正しい。
>新唐書の屋久島種子島の位置 「東」が「南」の間違い<
唐会要は、きちんと「本州四国の野人」を示していたから正しかったのであり、
新唐書は、その引用伝聞の失敗であった。
>三国志の松浦・糸島間 「東南」が「北東」の間違い<
「東南」は、出発時点の方向説明であるから、間違いではない。
以上、間違っているのは、・・・・「ww」の方。 >>342
もう○国人のように、うるさくしつこく言い続ければ相手が面倒になるから、そうなったら勝利宣言っていうザラコクにはうんざりなんだが
>伝聞的大体記載であり、ほぼ正しい。
「伝聞的大体記載」などという概念はない 「ほぼ正しい」に何の根拠もない
実際には南東なのに東と書いてあるのは明らかな間違い
>一支国は、「大海中」から 「東」であるから、ほぼ正しい。
大海中は起点にならない 起点は「直前の地名=対馬」からに決まっている
「ほぼ正しい」に何の根拠もない
実際には南なのに東と書いてあるのは明らかな間違い
>唐会要は、きちんと「本州四国の野人」を示していたから
そんなものは書いていない
>新唐書は、その引用伝聞の失敗であった。
ザラコクの言い分が正しいとしても(実際には根拠のないでたらめ)
引用伝聞の失敗の時点で「史書の方位の記述」が「間違っている」ことに変わりはない
ザラコクは自らの書いたコメントだけでも矛盾して意味のないものになっているのが常だ
>「東南」は、出発時点の方向説明
出発方向の方向説明で記載されているところなど、一つもない
ザラコクがあると言い張っているだけ
自分は正しいと思うから正しい以上のことは一切言っていなくて、まったく論証になっていない
したがって、ザラコクのいう「南≠東」には何の意味もない >>344
>「伝聞的大体記載」などという概念はない 「ほぼ正しい」に何の根拠もない <
成都と太和城にはきちんと里数と方向を記載されたが、
安南には里数が記載されずされず、通水陸行の方向記載だけだから、通行陸行路の伝聞的情報に拠っただけ。
>>一支国は、「大海中」から 「東」であるから、ほぼ正しい。<
>大海中は起点にならない 起点は「直前の地名=対馬」からに決まっている<
起点は「竹島」と書かれており、竹島からも東になる。
>>唐会要は、きちんと「本州四国の野人」を示していたから、新唐書は、その引用伝聞の失敗であった。<
>そんなものは書いていない <
唐会要倭国伝「倭國東海嶼中野人」。
>>「東南」は、(末盧國からの)出発時点の方向説明 <
>出発方向の方向説明で記載されているところなど、一つもない <
旅程や行程や行軍などの説明での「人類の常識」であり、
陳寿も、原則として、そのような「出発説明+途中説明+到着説明」の記載を順守している。
したがって、wwのいう「南≠東」には何の根拠もない。 >ネアンは、絶滅したのではなく
ホモ・サピエンスの亜種であるネアンデルタール人は
4万年前くらいに絶滅して現在生存していない
学問の場で現在生きているのは畿内説
説としては絶滅しておじいちゃんの夢となったのが九州説
ズビニ鉤虫など寄生しているのが九州王朝説 >>345
>安南には里数が記載されずされず、
これはザラコクが漢文が読めないだけ「如至成都」が距離を示している
これを否定するのはただの強弁で何の根拠にもならないぞ
>通水陸行の方向記載だけだから、
通水陸行にはどこにも「方向は含まれていない」だろう
ソンホン川という、内陸交通に使われる水行路を含むから特記されてものだ
>通行陸行路の伝聞的情報に拠っただけ。
安南は都護府が置かれた唐の国内 伝聞ではない
ザラコクのいうことはメチャクチャ
ザラコクは何の根拠もなく、嘘でたらめ捏造ごまかしを平気で書く頭のおかしい人
ザラコクは一般の日本人とは異なる、儒教的価値観に従って、工作を行っているだけの人間だから話が通じない
他人の書き込みを「×」とすることで、自分がえらくなったと感じられるのが喜びらしい
価値観も感性も、一般の日本人とはかけ離れている
非○三原則は大事
教えない助けない関わらない >>345
>起点は「竹島」と書かれており、竹島からも東になる。
その場合には、「対馬の前」に東至が入るって教えたのに無視して強弁する
漢文を読めない人間の珍解釈には意味がない
ザラコクは何の根拠もなく、嘘でたらめ捏造ごまかしを平気で書く頭のおかしい人
ザラコクは一般の日本人とは異なる、儒教的価値観に従って、工作を行っているだけの人間だから話が通じない
他人の書き込みを「×」とすることで、自分がえらくなったと感じられるのが喜びらしい
価値観も感性も、一般の日本人とはかけ離れている
非○三原則は大事
教えない助けない関わらない >>435
>唐会要倭国伝「倭國東海嶼中野人」。
それ、本州四国じゃない
漢文も読めないし、大陸史書での倭国の認識の変遷も分かってない人間が
適当なことを言っても本当に意味がない
ザラコクは何の根拠もなく、嘘でたらめ捏造ごまかしを平気で書く頭のおかしい人
ザラコクは一般の日本人とは異なる、儒教的価値観に従って、工作を行っているだけの人間だから話が通じない
他人の書き込みを「×」とすることで、自分がえらくなったと感じられるのが喜びらしい
価値観も感性も、一般の日本人とはかけ離れている
非○三原則は大事
教えない助けない関わらない >>345
>旅程や行程や行軍などの説明での「人類の常識」であり、
>陳寿も、原則として、そのような「出発説明+途中説明+到着説明」の記載を順守している。
ここで、現実を捻じ曲げているんだよな
基本は
出発地(今いるところ)
方向・距離
到着地
が書かれているだけ
それを、これは説明、あれは方位、と適当に自己流の誤読解釈をムダに書いているだけなのがザラコク
ザラコクは何の根拠もなく、嘘でたらめ捏造ごまかしを平気で書く頭のおかしい人
ザラコクは一般の日本人とは異なる、儒教的価値観に従って、工作を行っているだけの人間だから話が通じない
他人の書き込みを「×」とすることで、自分がえらくなったと感じられるのが喜びらしい
価値観も感性も、一般の日本人とはかけ離れている
非○三原則は大事
教えない助けない関わらない >>364
>>ネアンは、絶滅したのではなく
>ホモ・サピエンスの亜種であるネアンデルタール人は
4万年前くらいに絶滅して現在生存していない<
アフリカ以外の現生人類に遺伝子を2〜10%残した、
という事は、子孫が存在していた事になり、
絶滅していなかった、という事の証拠。
何でも絶対断定屋の・・・・大和説者らは、下らん事で、嘘つき騙しをする。
まともな学問の場で現在生きているのは九州説。
大和説は、「南→東」などの嘘つき騙しの似非学問。
人種差別的殺戮戦争狂の国粋皇国史観のキョクウなどに、
寄生にされているのがされ大和説。 >>352
ネアンデルタール人由来の遺伝子を現生人類が1.8〜2.6%保有していても
ネアンデルタール人の子孫が現代まで存在していたということにはならない
日本人学者の研究成果を完全無視して、「差別」の連呼で寄生商売しているのが
九州王朝説=福岡起源一元説 >>347
>>安南(の記載)には里数が記載されず、<
>これはザラコクが漢文が読めないだけ「如至成都」が距離を示している<
成都と太和城の説明には、きちんと「里数」が記載されている。
>>通水陸行の方向記載だけだから、<
>通水陸行にはどこにも「方向は含まれていない」だろう<
「東至安南」と、「通水陸行」の方向が示されている。
>>通行陸行路の伝聞的情報に拠っただけ。<
>安南は都護府が置かれた唐の国内 伝聞ではない<
旧唐書の筆者は、「大理付近→安南」の里数測定記録を見ておらず、
「通水陸行」の記録を見ていた(伝聞していた)事になるだけ。 >>349
>>起点は「竹島」と書かれており、竹島からも東になる。<
>その場合には、「対馬の前」に東至が入るって教えたのに無視して強弁する <
変な男。
「度百濟、行至竹島、南望身冉羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國」
であり、
「対馬の前」に東至が入っていない。
やっぱり・・・・か。 >>350
>>唐会要倭国伝「倭國東海嶼中野人」<
>それ、本州四国じゃない <
やっぱり変な男。
やっぱり倭國の東海嶼になるのは、本州四国。 >>351
>>旅程や行程や行軍などの説明での「人類の常識」であり、
陳寿も、原則として、そのような「出発説明+途中説明+到着説明」の記載を順守している。<
>ここで、現実を捻じ曲げているんだよな 基本は 出発地(今いるところ) 方向・距離
到着地 が書かれているだけ<
また、変な男。
それは、「位置説明」や「所在地説明」であり、
旅程や行程や行軍などの「移動説明」ではない。 >>357
>成都と太和城の説明には、きちんと「里数」が記載されている。
その里数(距離)が書かれている場所に対応するところに、如至成都って書いてあるんだから
これが距離を示しているんだよ
漢文が読めないやつが、グダグダ言っても無駄
臯遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C
方角 目的地 距離 その他
南 去太和城 十餘里,
東北 至成都 二千四百里,
東 至安南 如至成都, 通水陸行
漢文が読める人から見れば、ザラコクが書けば書くほど恥をかいているんだが
ザラコクはそういうのはお構いなしだから質が悪い
ザラコクは何の根拠もなく、嘘でたらめ捏造ごまかしを平気で書く頭のおかしい人
ザラコクは一般の日本人とは異なる、儒教的価値観に従って、工作を行っているだけの人間だから話が通じない
他人の書き込みを「×」とすることで、自分がえらくなったと感じられるのが喜びらしい
価値観も感性も、一般の日本人とはかけ離れている
非○三原則は大事
教えない助けない関わらない >>357
>「東至安南」と、「通水陸行」の方向が示されている。
その書いてある、「東」が「南東」の誤りだっていう話
ザラコクは何の根拠もなく、嘘でたらめ捏造ごまかしを平気で書く頭のおかしい人
ザラコクは一般の日本人とは異なる、儒教的価値観に従って、工作を行っているだけの人間だから話が通じない
他人の書き込みを「×」とすることで、自分がえらくなったと感じられるのが喜びらしい
価値観も感性も、一般の日本人とはかけ離れている
非○三原則は大事
教えない助けない関わらない >>357
>旧唐書の筆者は、「大理付近→安南」の里数測定記録を見ておらず、
>「通水陸行」の記録を見ていた(伝聞していた)事になるだけ。
また勝手なことを書いてる
安南都護府がなんなのか、一度きちんと調べてごらん
そういう妄想が入る余地が無くなるところまで
ザラコクは何の根拠もなく、嘘でたらめ捏造ごまかしを平気で書く頭のおかしい人
ザラコクは一般の日本人とは異なる、儒教的価値観に従って、工作を行っているだけの人間だから話が通じない
他人の書き込みを「×」とすることで、自分がえらくなったと感じられるのが喜びらしい
価値観も感性も、一般の日本人とはかけ離れている
非○三原則は大事
教えない助けない関わらない >>358
>「度百濟、行至竹島、南望身冉羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國」
>であり、
>「対馬の前」に東至が入っていない。
だから、「竹島から対馬に向かって東に進んでいる」っていうザラコクの説明が
通らないってことだよ
漢文だけじゃなく、日本語の論理も読み取れないから困る
まあ、ザラコクに説明してもムダなのは分かってるけどさ
ザラコクは何の根拠もなく、嘘でたらめ捏造ごまかしを平気で書く頭のおかしい人
ザラコクは一般の日本人とは異なる、儒教的価値観に従って、工作を行っているだけの人間だから話が通じない
他人の書き込みを「×」とすることで、自分がえらくなったと感じられるのが喜びらしい
価値観も感性も、一般の日本人とはかけ離れている
非○三原則は大事
教えない助けない関わらない >>354
>ネアンデルタール人由来の遺伝子を現生人類が1.8〜2.6%保有していても
ネアンデルタール人の子孫が現代まで存在していたということにはならない<
変な男。
遺伝子は性交渉で次々と子供に行くんだよ。
だから、(アフリカ以外の)現在人がネアンの遺伝子を持っているんだから、
お前も私も、アフリカ人でない限り、ネアンの子孫にもなるんだよ。 >>359
>やっぱり倭國の東海嶼になるのは、本州四国。
これは、「九州王朝が倭国」だという間違った前提から、間違った判断をしているだけで
まったく意味がない
そもそも、嶼という文字は、四国や本州のような大きな島には使われない
漢文が読めない人間が、誤読と妄想を書き散らしても無意味
ザラコクは何の根拠もなく、嘘でたらめ捏造ごまかしを平気で書く頭のおかしい人
ザラコクは一般の日本人とは異なる、儒教的価値観に従って、工作を行っているだけの人間だから話が通じない
他人の書き込みを「×」とすることで、自分がえらくなったと感じられるのが喜びらしい
価値観も感性も、一般の日本人とはかけ離れている
非○三原則は大事
教えない助けない関わらない >>355
>お前アホか 後年、天皇と呼ばれただろ<
それなら、当時は天皇ではなかった、という事だから、
それを「天皇」と書けば、そりゃ完全な嘘つき騙しだよ。 >>360
>それは、「位置説明」や「所在地説明」であり、
>旅程や行程や行軍などの「移動説明」ではない。
地理、旅程記事は、基本的に位置あるいは所在地を示したもので、
直線方向と直線距離で現されるのが基本
途中経過地があるときは、それぞれの経過地までの、直線方向と直線距離が
その都度示される
こういう基本を無視して、漢文の読めないやつが適当なことを書いてるから
本当に無意味
ただ、ザラコクは意味のあることを書くのが目的ではなく、単に畿内説スレへの
嫌がらせと、×をつけられる自分をえらいと感じるために書き込みをしているから
質が悪い
ザラコクは何の根拠もなく、嘘でたらめ捏造ごまかしを平気で書く頭のおかしい人
ザラコクは一般の日本人とは異なる、儒教的価値観に従って、工作を行っているだけの人間だから話が通じない
他人の書き込みを「×」とすることで、自分がえらくなったと感じられるのが喜びらしい
価値観も感性も、一般の日本人とはかけ離れている
非○三原則は大事
教えない助けない関わらない >>345
一度納得していたが、もう一度、原典と地図を確認した。人類の常識に働きかける良い説明だ。
ついてこれない者は放っておいても良いと感じたが、貴方の律義さにも感じ入る。 >>369
だれにも相手にされないからと言って、自分で自分を褒めちゃいかんやろ? >>367
>それなら、当時は天皇ではなかった、という事だから、
>それを「天皇」と書けば、そりゃ完全な嘘つき騙しだよ。
これが正当な言い分だと言い張るのがザラコク
要するに議論する気は最初からなく、単に「他人の書き込みを否定できる自分はエラい」って
感じるのが楽しくてたまらないのと、畿内説スレでまともな議論ができないように邪魔するのが目的 >>361
>>成都と太和城の説明には、きちんと「里数」が記載されている。<
>その里数(距離)が書かれている場所に対応するところに、如至成都って書いてあるんだから
これが距離を示しているんだよ
>臯遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C
方角 目的地 距離 その他
南 去太和城 十餘里,
東北 至成都 二千四百里,
東 至安南 如至成都, 通水陸行<
「如至成都」は距離(里数)じゃないよ。
既に何度も説明したように、
「東北至成都二千四百里」の通行路は、
大理から東の昆明に行く途中の、
揚子江の支流の最上流地になる「南華」や「楚雄」付近まで行って、
それから揚子江支流に沿って北へ下って行って、成都に行くルートであるから、
大理から「南華」や「楚雄」までは、「至成都」ルートと同じルートを通る事になり、
だから「如至成都」と書かれたのだよ。
そして昆明は、大理のほぼ東になるから、「東至安南如至成都通水陸行」の「東」でいい訳で、
「東」は間違いにはならない訳。 >>362
>>「東至安南」と、「通水陸行」の方向が示されている。<
>その書いてある、「東」が「南東」の誤りだっていう話<
大理から、東の昆明の手前の楚雄付近までは、如至成都ルートと重なり、
更に東の昆明まで行くんだから、通水陸行ルートの出発も「東」でよい。 >>363
>>旧唐書の筆者は、「大理付近→安南」の里数測定記録を見ておらず、
「通水陸行」の記録を見ていた(伝聞していた)事になるだけ。<
wwは、・・・・のように必死でヘイトスピーチをようにしているが、
・・・・のわめきには関心がないし、相手にしたって治る訳がないから、放置。 >>364
>「度百濟、行至竹島、南望身冉羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國」
であり、 「対馬の前」に東至が入っていない。<
>だから、「竹島から対馬に向かって東に進んでいる」っていうザラコクの説明が
通らないってことだよ<
また変な男。
私は、「対馬へは至っておらず、その南方の大海中を通って、又東至一支國」した、
という説明をしていたんだよ。 >>375
根拠もないデタラメ言うことを
世間では説明と言わないが >>366
>>やっぱり倭國の東海嶼になるのは、本州四国。<
>そもそも、嶼という文字は、四国や本州のような大きな島には使われない<
「嶼」には「島」と「小さい島」の両方の意味があり、
九州島付近に対して「依山島爲國邑」や「依山嶋爲居」などと書かれていたんだから、
九州の東に本州と四国があるので、
本州や四国が、九州よりも「小さい」と見られて、「嶼」という文字を使われた可能性がある。 >>368
>>それは、「位置説明」や「所在地説明」であり、
旅程や行程や行軍などの「移動説明」ではない<
>地理、旅程記事は、基本的に位置あるいは所在地を示したもので、
直線方向と直線距離で現されるのが基本<
位置説明と移動説明との区別も判らないような・・・・アホは、放置しておこうね。 >>372
ザラコクには「関わらない」が正解なんだけど、とりあえず一巡だけ相手をしておくよ
>「如至成都」は距離(里数)じゃないよ。
里数ではなく、距離を表す部分だって何度言っても分からないな、ザラコクは
距離がなかったら、地理情報として無意味だろう それが理解できないのがザラコククオリティ
>既に何度も説明したように、
ザラコクが何度「説明」したつもりでも、間違った意味のないものは「説明ではない」んだよ
>「東北至成都二千四百里」の通行路は、
>大理から東の昆明に行く途中の、
>揚子江の支流の最上流地になる「南華」や「楚雄」付近まで行って、
>それから揚子江支流に沿って北へ下って行って、成都に行くルートであるから、
これがまったく根拠がない 大理から成都へは直線方向で北東で、旧唐書にも「東北至成都」とそのまま書いてある
ここまでが根拠がないのだから
>大理から「南華」や「楚雄」までは、「至成都」ルートと同じルートを通る事になり、
>だから「如至成都」と書かれたのだよ。
この部分もでたらめ
>そして昆明は、大理のほぼ東になるから、「東至安南如至成都通水陸行」の「東」でいい訳で、
>「東」は間違いにはならない訳。
もしこんな言い分が通るのであれば、成都行きも「東北至成都」ではなく「東至成都」と書かれなければならないことになる
自分で書いているコメントの中だけで矛盾するほど、論理に欠けているのがザラコククオリティ >>373
>大理から、東の昆明の手前の楚雄付近までは、如至成都ルートと重なり、
>更に東の昆明まで行くんだから、通水陸行ルートの出発も「東」でよい。
途中まで東だから東で正しいというなら、成都までの行程が「東至成都」でなきゃならんだろうが!
成都が実際には北東なのに「東至成都」と書いてあり、同時に
安南が実際には南東なのに「東至安南」と書いてあるのなら、ザラコクの言い分が
正しいことになるだろう
しかし、成都へも直線方向の「東北至成都」と記してあるんだから、現実の地図と見比べれば
安南への方角が間違っているというのは、中学生でも確認できる訳だ
ザラコクの主張は、完全な間違い
ザラコクは何の根拠もなく、嘘でたらめ捏造ごまかしを平気で書く頭のおかしい人
ザラコクは一般の日本人とは異なる、儒教的価値観に従って、工作を行っているだけの人間だから話が通じない
他人の書き込みを「×」とすることで、自分がえらくなったと感じられるのが喜びらしい
価値観も感性も、一般の日本人とはかけ離れている
非○三原則は大事
教えない助けない関わらない >>374
自分の書き込みだけ引用部分だけ、二重引用しても意味がないだろうが!
反論したいなら、どこに反論しているのか明記しな! >>375
>「対馬へは至っておらず、その南方の大海中を通って、又東至一支國」した、
>という説明をしていたんだよ。
それが説明として、意味を成していないって言われてるんだよ
度百濟行至竹南望羅國「經都斯麻國」迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國
この、「經」都斯麻國を、対馬に至っておらず、と読むのが間違いだっていうのは
たいていの高校生なら分かる
ザラコクは、自分の都合のいい誤読を正しいと言い張るだけで、
意味のあることを本当にまったく言わない
ザラコクは何の根拠もなく、嘘でたらめ捏造ごまかしを平気で書く頭のおかしい人
ザラコクは一般の日本人とは異なる、儒教的価値観に従って、工作を行っているだけの人間だから話が通じない
他人の書き込みを「×」とすることで、自分がえらくなったと感じられるのが喜びらしい
価値観も感性も、一般の日本人とはかけ離れている
非○三原則は大事
教えない助けない関わらない >>378
>「嶼」には「島」と「小さい島」の両方の意味があり、
>九州島付近に対して「依山島爲國邑」や「依山嶋爲居」などと書かれていたんだから、
>九州の東に本州と四国があるので、
>本州や四国が、九州よりも「小さい」と見られて、「嶼」という文字を使われた可能性がある。
可能性はないよ
実際「依山島爲國邑」や「依山嶋爲居」などと書かれていて、「嶼」という文字は
使われていないだろ?
「嶼」は何かと問われて、簡単に答えるときは「島」だよと答えるけれど、
島の中でも大きくないものを表すための文字なんだから、四国や本州には使われない
きちんと自分で調べてみれば、確認できるぞ!
間違いを認められない人間とは、議論ができない
だからザラコクはここに書き込みしても本当に無駄
ザラコクは何の根拠もなく、嘘でたらめ捏造ごまかしを平気で書く頭のおかしい人
ザラコクは一般の日本人とは異なる、儒教的価値観に従って、工作を行っているだけの人間だから話が通じない
他人の書き込みを「×」とすることで、自分がえらくなったと感じられるのが喜びらしい
価値観も感性も、一般の日本人とはかけ離れている
非○三原則は大事
教えない助けない関わらない >>379
>位置説明と移動説明との区別も判らないような・・・・アホは、放置しておこうね。
そんな区別、最初から大陸の史書にはないから
ザラコクの頭の中でその場しのぎで作り上げたものだからな
最初は四至説明的表現って言ってたのに、いろいろ付け加えて矛盾だらけに
なっていったんだよな
本当に無能
ザラコクは何の根拠もなく、嘘でたらめ捏造ごまかしを平気で書く頭のおかしい人
ザラコクは一般の日本人とは異なる、儒教的価値観に従って、工作を行っているだけの人間だから話が通じない
他人の書き込みを「×」とすることで、自分がえらくなったと感じられるのが喜びらしい
価値観も感性も、一般の日本人とはかけ離れている
非○三原則は大事
教えない助けない関わらない ザラコクのお得意の「南≠東」は、本当に無意味
他人の書き込みに×というのが無上の喜びらしい
何の論証もなしで使える便利な反論を許さない根拠だと思い込んでいるらしいが、
大陸史書の方角は、いろんなところで実際に間違っている
ということで、ザラコクにいくら教えてもムダだし、関わらないのが一番だから
あとは放置するよ
ここまできちんと書いておけば、ザラコクがいくら言っても「逃げた」には
当たらないのは読んだ人には分かるだろう しっちゃかめっちゃかやな。
ちなみに昔とちがってネアンデルタール人は
現生人類であるホモ・サピエンスサピエンスに分類されてるから、我々人類はネアンデルタール人の子孫でもあるという
ざらこくさんの認識の方が正しいよ。 >>389
このスレのいいところが
しっちゃかめっちゃかと
心得るべし
畿内説がしっちゃかめっちゃかのスレ
でも楽しいよ 視てる分には >>390です
ザラコクさんも時々、感情ですべるが
彼の主張を論破した方皆無
畿内説のスレなのにネ ネアンデルタール人は、
ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス (Homo sapiens neanderthalensis) >>379
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文は?
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
さっさと言えよおまえ! >>379
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
さっさと言えよおまえ! >>379
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネは?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
さっさと言えよおまえ! >>391
だという証拠は?
トンデモ説の人は決して証拠を出さない ザラコクは論破「できない」よ
通常に意味できちんと(ザラコク以外の)誰にでも確認できる根拠を示して
ザラコクに主張を完璧に否定しても、ザラコクは認めないって言い張るからね
関わったら負けだ >>398の助詞がおかしいのは翻訳アプリのせいなのか? 文献で負け 遺物で負け 口で負け
パットしない畿内説 >>392
>ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス (Homo sapiens neanderthalensis)
これはあまり得意気に言ってもしょうがない
ネアンデルタール人は、DNAが採れてて現生人類との遺伝的差異もきちんと分かっている
現生人類との差(遺伝的距離)は、ヒト以外のグループであれば別種とされる程度の
大きさになっている
分類学における種の線引きをどこにするかは、結局はその判断をする「個人の考え」に
よるところが大きく、ホモ・ネアンデルターレンシス (Homo neanderthalensis)とする人も
プロの世界では多くいるよ
現状では、先のDNAの比較からネアンデルタール人の遺伝子が現生人類にも含まれることから、
交配可能だったと考えられるので同一種の中の亜種とするのが多数説だけれど、自由交配
できなかった(=交配隔離が成立していた)のだから別種とするのが相当とする考え方にも
十分な妥当性がある
いずれにしても、現生人類に遺伝子の一部が受け継がれているからネアンデルタール人は
絶滅していないなどというのは、頭のおかしいヒト以外は考えもしない暴論
遺伝子でいえば、ヒトと、チンパンジー・ゴリラとの共通遺伝子も多数確認されているが、
それがヒトの中でゴリラ・チンパンジーが生きていることを意味したりはしない
ネアンデルタール人という遺伝子プールを持った集団が失われた時点で、ネアンデルタール人は
絶滅している >>401
いくらウソついても
畿内説の圧倒的優勢は覆せないよ >>382
>>「如至成都」は距離(里数)じゃないよ。<
>距離がなかったら、地理情報として無意味だろう<
「大理付近から成都へ行くルート」と楚雄付近までは重複していて、
だから「 如至成都」と書いた。
>>「東北至成都二千四百里」の通行路は、 大理から東の(昆明に行く途中の)
揚子江の支流の最上流地になる「南華」や「楚雄」付近まで行って、
それから揚子江支流に沿って北へ下って行って、成都に行くルートであるから、<
>これがまったく根拠がない 大理から成都へは直線方向で北東で、
旧唐書にも「東北至成都」とそのまま書いてある<
大理付近から「東」へ楚雄付近へまで行って、
楚雄付近から「北」へ揚子江支流を下って成都へ行くので、「東北」になる。
>>そして昆明は、大理のほぼ東になるから、「東至安南如至成都通水陸行」の「東」でいい訳で、
「東」は間違いにはならない訳。<
>もしこんな言い分が通るのであれば、成都行きも「東北至成都」ではなく
「東至成都」と書かれなければならないことになる <
ならない。
成都へは「位置説明」であり、「方向+里数」説明。
安南へは、「通水陸行」の「移動説明」であり、「移動路」説明。 バカは無敵だから
「ぼくちゃんがしらないからみとめない」
「ぼくちゃんをひていするやつはいんぼうだからそれこそがしんじつのしょうこだ」
とか喚き続けるだけだから
相手するだけ時間の無駄 亀ト、生贄祭祀、殉葬。
河伯信仰。
殷との結びつきを考えたくなるな。 生贄=されてない
殉葬=されてない
骨占=3世紀末から4世紀
関係ないな >>383
>>大理から、東の昆明の手前の楚雄付近までは、如至成都ルートと重なり、
更に東の昆明まで行ってそれから安南に向かう事になるんだから、
通水陸行ルートの出発も「東」でよい。<
>途中まで東だから東で正しいというなら、
成都までの行程が「東至成都」でなきゃならんだろうが!<
ならない。
成都へは「位置説明」であり、「方向+里数」説明。
安南へは、「通水陸行」の「移動説明」であり、「移動路」説明。
そして、「大理付近から成都へ行くルート」と楚雄付近までは重複していて、
だから「 如至成都」と書いた。
また、「東北至成都二千四百里」の通行路は、
大理から東の(昆明に行く途中の) 大理付近から「東」へ楚雄付近へまで行って、
楚雄付近から「北」へ揚子江支流を下って成都へ行くので、「東北」になる。 >>384
>自分の書き込みだけ引用部分だけ、二重引用しても意味がないだろうが!
反論したいなら、どこに反論しているのか明記しな!<
国粋皇国史観のキョクウの・・・・の「ヘイトスピーチ投稿」部分は、
・・・・を相手に反論したって全くの無駄で無意味であるから、
放置する事にしている。
そして、世間の人々に、反論説明して置く事が必要な部分にだけ、
反論説明をしている。 >>385
>>(私は)「対馬へは至っておらず、その南方の大海中を通って、又東至一支國」した、
という説明をしていたんだよ。<
>それが説明として、意味を成していないって言われてるんだよ
度百濟行至竹南望羅國「經都斯麻國」迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國
この、「經」都斯麻國を、対馬に至っておらず、と読むのが間違いだ<
隋書は、「至」と「經」とを、
「違う意味である」ととして、はっきり区別した記載をしているから、
同じ「至」と解釈するのは、間違い。 しているって証拠は?
証拠を出さないのがトンデモ説
>>407
魏志倭人伝、日本書紀に殉葬があると書かれている。
纒向遺跡、鳥、鹿の遺物が出ている。生贄だろう。 >>386
>>「嶼」には「島」と「小さい島」の両方の意味があり、
九州島付近に対して「依山島爲國邑」や「依山嶋爲居」などと書かれていたし、
九州の東に本州と四国があるので、
本州や四国が、九州よりも「小さい」と見られて、
「嶼」という文字を使われた可能性がある。<
>可能性はないよ
実際「依山島爲國邑」や「依山嶋爲居」などと書かれていて、「嶼」という文字は
使われていないだろ?<
唐会要は、おそらく、
九州の東に「九州よりもずっと小さい四国」や、珠珠國の沖之島が存在がする、
という事を知っていて、「野人」という説明をした、
という事になる。 >>412
生贄=痕跡皆無
獣骨=用途不明。普通に飲食物の可能性が高い 日本書紀の埴輪説話=埴輪の起源と全く一致しない虚構と判明 まぁ事実無視して妄想だけでこじつけるなら何でも言えるわな >>388
>大陸史書の方角は、いろんなところで実際に間違っている<
周髀算経や礼記の「東西南北」を簡単に計測する方法を、
知っている魏使らや、役人たちが計測した「東西南北」に、
間違いが発生する筈がない。
あったとしても、それは、
現地の未開の住民からの情報や、未計測の情報の伝聞位しか起こり得ない。 >>413
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文は?
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! >>399
>他の人がわかればいいんだよ <
賛成です。
世間の人々が、大和説者や、安部政府文部省や右翼マスコミや、学会教育界やキョクウらの、
「南→東」などが、
嘘つき騙しであった、と判って貰えればいいんですよ。 >>417
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! 文献は一切無視か。
初期の古墳全て発掘していないのに、殉葬が無いとか。
デタラメも大概にしやなあかんで。 >>419
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネは?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! >>421
書いてることが間違ってると判明してるのを無視か
少なくとも古墳から殉葬の痕跡なんて一つも見つかってない
妄想だけで好き勝手な物語を作りたいなら小説でも書いてろ テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。 記紀が史書としての信憑性が弱いのは同時代の資料とのクロスチェックが出来ないから
書いてることそのまま信じるとか、独自解釈とかしてるから倭人伝バカみたいなのが出来上がる
だから考古学的な発見で補完している
で、その発見によってまさにその古墳の殉葬の部分の記述が嘘であったことが判明してる
そしてどの古墳からも殉葬の痕跡がない
そうなれば少なくとも「無かった」と言うほかない
「全部発掘してない」「溶けて消えた」なんてのはただの仮定の話でそんなものを根拠としてるなら妄想と言われても仕方ない
後世の生贄や人身御供と結びつけるのも根拠が薄く何でもこじつければいいという物ではない
自分の言ってることをよく考えて根拠が何もない事をまず自覚することだな >>425
魏志倭人伝に書かれているのは、妄想かな。
無いことをあえて書く理由は? 改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。 魏志倭人伝当時の古墳を発掘して、殉葬の有無を調べたという証拠を出せ >>402
>遺伝子でいえば、ヒトと、チンパンジー・ゴリラとの共通遺伝子も多数確認されているが、
それがヒトの中でゴリラ・チンパンジーが生きていることを意味したりはしない <
当然、ヒトやゴリラやチンパンジーとに分岐した先祖がいた事を示すのであり、
その意味で、ヒトとゴリラととチンパンジーとネアンなども「皆兄弟」である。
勿論、その意味でなら、生物が皆兄弟。
しかし、ネアン遺伝子がアフリカにはが存在せず、その他の地域全体には2〜10%存在している、
という事は、現世人類のアフリカでの絶対一元発生説の否定になるのであり、
ネアンデルタール人が、アフリカ以外の地域で存在していて、
それぞれの地域で「出アフリカ人やジャワ猿人や北京原人」などの、
いろんなどの人種といろんな交配があった、という事を示すのであり、
更に、東アジアでは、ほぼ2.8%位の均一的な混在があった、という事は、
東アジア地域全体が、ネアンと原人たちとの交配があって、その後、大きな攪乱はなかった、
という事になり、
東アジアは、更に「人類皆兄弟」度が高い、という事になる。
ネアンデルタール人という遺伝子プールを持った集団が失われた時点で、ネアンデルタール人は
絶滅している >>427
仕方ないよ、、、、
奈良のあの古墳は、天皇の妹を祭ってあるものなのだもの。。。
魏志倭人伝の世界の古墳とは、時代も、距離も、方角も、形もなにもかもちがうのだからね。。。。
テンプレートは嘘をちりばめて、その全てのことに言い訳しなきゃならないのだからね、、、 >>426
これも同じ
クロスチェックできない史料をそのまま鵜呑みに出来るわけがない
そして日本側の発見で殉葬が嘘であると分かった以上、こちらの記述も疑問を持ってみるのが当然
何故そんな記事を書いたのか理由は不明だがこれも「少なくとも真実ではない」と判断するのが妥当
なんの裏付けもなく「書いてるから」で済むならだれも困らない 将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている >>424
そうだね、、、
そして、僕たちは最近新しい情報を手に入れたね。。。 >>433
そうそう、僕たちは、とうとう、優れた考古学者が紹介してくれた大物主の倉庫が、古墳のことではなく、巻向駅から歩いていける、あのちっぽけな空き地にあったものだということを調べ上げてしまったものだものね。。。 >>434
そうそう、あのちっぽけな空き地の大規模発掘調査では、その柱の穴は、粗末な倉庫のものだということと、大物主時代の化石だらけだったことと、そして、そこが、魏志倭人伝時代の直前に湖の底だったことが判明したのだものね。 >>426
>魏志倭人伝に書かれているのは、妄想かな。
>無いことをあえて書く理由は?
これについては、共同墓地の甕棺墓列を殉葬と勘違いしたんじゃないかと
個人的には思っている
吉武高木遺跡や、吉野ヶ里遺跡では、庶民の共同墓地で甕棺墓列が見られ、
その甕棺墓列の先に、特定家系墓(厚葬墓)が存在する
概観だけ見れば、倭国にも殉層の風習があるように見える
甕棺墓時代の漢委奴國王のときの情報が、卑弥呼の埋葬のときにも紛れ込んだと
いうのが正解なんじゃないかな
魏志倭人伝は、後漢時の漢委奴國王、倭国王帥升等の朝貢時の情報に
多く依拠していることを意識しないと、読み間違うぞ >>435
倉庫の遺蹟は、実はネアンデルタールのものだったのではないのかな。。。 >>437
そして、あの古墳は魏志倭人伝時代からずっと後の時代の物だったことも、2013年に実施された別の大規模調査で判明したねw >>419
>>他の人がわかればいいんだよ <
>賛成です。
(ザラコクが間違っているって)他の人がわかればいいんだよ
賛成です
とザラコクが書いているのが笑える
ザラコクは本当に、文意を読み取るのが下手
さらに漢文がまったく読めない
それでえらそうなことを書いているのが、本当におかしい 論破されてしまったキナイコシが、些細な事の揚げ足取りをして、抵抗しているね。。。 >>440
ネアンデルタールのことで、ザラコク氏に負けてしまい、無教養を晒されてしまった腹いせなのではないのかな、、 >>441
キナイコシは、別の優れた考古学者から、殉葬のことでも論破されてしまっているね。。。 >>407
誰が書いたのか?は知らんが、
>殉葬=されてない <
倭人伝に、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」
と書かれているから、×。
>骨占=3世紀末から4世紀 関係ないな <
倭人伝に、
「其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火土斥占兆」
と書かれているから、×。 >>423
>書いてることが間違ってると判明してるのを無視か<
魏使らが、実見して記録した、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」
までもを、
「間違ってると判明」したとして、否定曲解か?。
・・・・か?。
>少なくとも古墳から殉葬の痕跡なんて一つも見つかってない<
祇園山やその周辺の古墳群にもある。
「国粋皇国史観」妄想だけで、
好き勝手な物語を作りたいなら、小説でも書いてろ、。 >ネアンデルタール人は絶滅している
絶滅していることは理解できたみたいだな
「人類皆兄弟」であっても喜八郎のように他人様のものを盗んではいけない >>425
>自分の言ってることをよく考えて根拠が何もない事をまず自覚することだな <
直接の(倭人伝の)実見記録までも無視しての)、
「殉葬存在せず」なんて、自分の言ってることをよく考えて、
根拠が何もない、なんて嘘つき騙しをしている、
という事をまず自覚することだな。 結局
殉葬については、未だ正体不明でいいのでは?
定型化された古墳からは殉葬の痕跡がないということは
垂仁天皇の時代はすくなくとも
3世紀には遡るってことだろうね。
史書の誤りって写し間違いのことだよな。
殉葬の痕跡がないから殉葬という記述は誤りだったとかいう論理は成り立たんぞ。
少なくとも 記述した人には殉葬に見えたから殉葬という言葉が出てくるわけだからな。
そうでなきゃ別の言葉になっとるわい。
まあ
そこは個人の素養の問題だから
あんまり外で公言すると頭おかしいと思われるからオススメしない。 >殉葬の痕跡がないから殉葬という記述は誤りだったとかいう論理は成り立たんぞ
無い物はない
根拠とされるものが何もないのであれば当然記述も誤りと判断するのが自然
神武東征も同様
九州から広まるものが何もない以上ただの伝説と判断される
痕跡、つまり根拠もないのにあると言い張ってる方が意味不明
それはただの妄想
そんなもので論など立たない
だから誰も相手にしない 「根拠など何もないけどあったと思う」
こんなもんで堂々と言い張れるんだから大したもんだとしか言いようがない >>431
>これも同じ
クロスチェックできない史料をそのまま鵜呑みに出来るわけがない <
これも同じ。
自然や歴史においては、単一孤立的な情報は、幾らでも存在する事が有り得。
だから、史料批判を十分にして、確率的に根拠採用すれば済む事。
しかし、「殉葬」に関しては、祇園山やその周辺墓にも存在が見つかり、
列島各地にも、痕跡は幾つもあった。
>そして日本側の発見で殉葬が嘘であると分かった以上、<
祇園山など、殉葬例が幾つもある。
>こちらの記述も疑問を持ってみるのが当然 <
「南→東」などの、
史料事実を否定曲解するような・・・・の「疑問をもってみる」大和説者では、
当然、信頼性も全くない。
>何故そんな記事を書いたのか理由は不明だが
これも「少なくとも真実ではない」と判断するのが妥当<
倭人伝に実見記録として記載された事を否定抹殺しようとするこの・・・・の発言は、
「少なくとも真実ではない」と判断するのが妥当。
>なんの裏付けもなく「書いてるから」で済むならだれも困らない<
「孤立的な実見記録」を、なんの裏付けもなく、
「信用出来ない」で済むなら、だれも困らない 。 わかってないな
そう思っててもいいけど
厚顔無恥な人だなと思われるからオススメしないよって言ってるのに。
上に書いてる人がいるだろう、
考古遺物で補完
って
邪馬壹も邪馬臺も
魏志倭人伝で記述されてるから話ができるわけでね。
考古遺物に歴史記述を否定する力はないよ。
考古遺物は喋れないんだから。 内行花文鏡は九州から伝わったものじゃない
ってこと?
九州から伝わったものは「なにもない」とか
言い過ぎなんと違う? 殉葬墓のことなら、それが、熊本城の地下に埋まっていることを、誰も否定できないな。。。 クロスチェックも出来ない資料では根拠たりえない
史書の記載が重視されるのはクロスチェックされてこそ
「史書だからすべてに優越する」とか思い込んでるならそもそも歴史を理解できてない
だから長らく記紀は「ただの物語、神話」と言われてきた
倭人伝も同様
魏のただの空想物語とさえも言われている
そうなれば根拠のない記載など「事実ではない」と言うほかない 全否定か全肯定しかない?そんなに現実世界は単純じゃないよ。
殉葬の記述はある
でも
殉葬の痕跡は見つかっていない
だから殉葬記述は間違いだ
じゃなくて
殉葬の痕跡がないところは邪馬臺國とは認められない
じゃないの。 >>453
鏡は基本的に中国から伝わってる物で九州から貰ってるもんじゃない
畿内に鏡が現れると言うことは畿内が中国と交渉を始めたと言うことで別に九州に主体があるわけではない
そして?製鏡については弥生末期には畿内は独自の鏡式を作り出して広めている
それが三角縁神獣鏡に繋がる
九州にこんなものは全くなかった
内行花文鏡もいわゆる平原の物と桜井茶臼山の物は別物
九州からの伝播ではない
ここに主体があると言うのなら九州の物がそのまま広まるはずだが400年無かったものが畿内の興隆とともに生み出されている
九州とは別の秩序を打ち立てていて連続性はない 史書は政治的なものだから事実記録として見るにはそこは割り引いて読まないといけないのは当然でしょ。
むしろ魏の友好国
しかも最東端の国のことをこんなに詳しく把握してますって記述の方が魏の政治的立場を補強すると思うけど。
歴史の理解とか言ってるけど
言ってる方がよくわかってないんと違う? 基本的には九州と畿内は関係がない。
ごく一部に移住とか交易がある程度。 >>456
>だから殉葬記述は間違いだ
>じゃなくて
>殉葬の痕跡がないところは邪馬臺國とは認められない
>>436にコメントはないの? >殉葬の痕跡がないところは邪馬臺國とは認められない
違うな
そもそも倭人伝は他資料との比較ができないのだからそのまま信じることなどできない最初から慎重に扱うべき書物
そして「殉葬の記載が虚偽と判明した以上、倭人伝の記載は更に信憑性が薄くなった」だ
最初から記紀と同レベルの信憑性の書物だと言うことをまず理解すべき 九州と畿内が関係がないことにすれば
異人の肥人が少数民族ではなくなるからな >>457
なるほどそこは九州からつたわったという立場じゃないんだな。
徳島にも前漢鏡が出たらしいからそれはそうかもしれないね。
大型化という意味で九州は進化したけど
畿内は別の様式を採用したと考えるわけね。
じゃあ遠賀川式土器は?九州起源じゃないの? 実際問題として、ただの並んだ墓と
殉葬って区別つかんだろ。
吉野ヶ里遺跡の墓列を殉葬と言っても
否定する方法はないよ。 「倭人伝に書いてある」は根拠にならない
「倭人伝に書いてある」+その痕跡が見つかった
で初めて根拠になる
記紀も雄略天皇の実在がほぼ確定したことでようやく歴史として扱える存在になってる
それが同時代資料と比較の出来ない資料の扱い方
他の文献が見つかって比較できるならそれに越したことはないが残念ながらそれがない
だから考古学を併用する >>462
むしろ、食料生産力では
肥後は最大勢力だからね。 >>463
影響の拡大と、ただの文化の伝播は似てるようで全く違う
遠賀川式の拡大は遠隔地に行くごとに形が代わり、在地で完全に別物として変化してる
発信源がどう変わろうが最早なんの連動性もない
これは技術だけが伝言ゲーム的に広まってることを意味している
政治的な動きでも、民族的な拡大でも、征服でも何でもない
そして庄内、布留式土器、古墳の拡散は連動性を持っている
在地の土器を外来の方式に塗り替えつつ定着し、発信源で変化すればそれに応じて地方でも同じように変化する
中央と地方の確立がその背景にある
そこには政治的な動き、民族的な拡大、征服などの背景を見出すことができる
故に「九州からの影響の拡大など何もない」と言うことになる 現在は随分研究が進んで邪馬台国は二つある事が分かっている。
一つは北部九州に存在した、もう一つは畿内説者の心の中に存在している。
畿内に古墳が多いのは、当時九州王の霊園として畿内は重宝された。
当時の畿内原人は鉄の武器を持っていなかったから九州勢に畿内を乗っ取られたという説が有力。 >>460
いや
>>436
殉葬ではないんだけど、殉葬と勘違いした。
ってことよね。実際それが現段階では穏当なところじゃないかな。
同時期に埋葬されたってことがわかれば確実に殉葬って言えるだろうけど。そこまでわからないでしょう。調査するとも思えない。
生きてる人をわざわざ殺した痕跡とか
どうやってわかるんだろうね。
直接見聞きしたから殉葬って表現になったと
いうことはできるだろうけど
それこそ憶測だからね
事実として記述以外の証拠がないとはわからないね。 >>468
>現在は随分研究が進んで邪馬台国は二つある事が分かっている。
こういう嘘を書くのは岡上? よくある起源説なんかでもある話だが「原型になった物」と「中心が広めている物」は似て非なるものだから注意が必要
銅鐸も原型とされるのは中国の馬鈴だそうだが、この地域の人々が銅鐸の地域の住人と言うわけでははい
方形周溝墓も同様
中心も連動性も無い物はただの文化の伝言ゲームでしかない
なんでも原型と結びつけてその動きも見ないで支配だの、主体だの言い出す人は少し冷静に考えた方が良い >>469
>同時期に埋葬されたってことがわかれば確実に殉葬って言えるだろうけど。そこまでわからないでしょう。調査するとも思えない。
甕棺は、甕棺編年が結構研究されているから、吉野ヶ里でもかなり長い時期の甕棺墓が
ごちゃ混ぜに埋葬されていることが分かっていたと思ったけどな
すぐにはソースが出せないけど 無いものを敢えて記載する理由がない。
魏志倭人伝と日本書紀揃ってだ。
しかも、マイナスのイメージがある殉葬。
事実として、尾張辺りは江戸時代まで人間を生贄にする風習が続いていた。
魏志倭人伝当時に殉葬があっても不思議ではない。 殉死という意味なら現代でもXのHの熱狂的なFANは後追い自殺したからな >>459みたいなことをシレっと言って
何も根拠を出さないから
九州説は馬鹿にされる 逆にどういう墓が出れば殉葬なんかね?
今のままじゃ、あれこれ言って
永久に殉葬がでなさそうだ。 >>436
>>魏志倭人伝に書かれているのは、妄想かな。 無いことをあえて書く理由は? <
>これについては、共同墓地の甕棺墓列を殉葬と勘違いしたんじゃないかと
個人的には思っている<
「個人的」な願望で、魏使らの直接的な実見記録を否定するのは、
分裂幻覚妄想の・・・・の願望と同じであり、×。
祇園山の発掘報告を書いた大和説学者らと同じ。
祇園山の発掘報告では、報告者の解釈や考えとは裏腹に、
墳頂の箱式石棺の埋葬とほぼ同時期に、墳裾の62個の複数埋葬があった、
という事を示してしまっている。 定義が決められないなら
ある程度密集したり並んだりした墓を
私はこの遺跡を殉葬の墓とした
と勝手に宣言するしかないわけだ。 「無いのに書いてる」と言うことに対して「何らかの意図があるからだろう」と考えるのは当然
ただ現実問題その根拠たり得るものは何もなく、記紀の記載は虚偽だと判明してる
発掘も大量に行われているがいまだに何も出てこない
そうなれば「あるから」ではなく「別な意図」と考える方が自然
垂仁天皇についてはその仁政と最近組み込んだ出雲系の勢力の権威を高める物語として出てくる
むしろその意図での記載と読む方が妥当 そもそも本来なら吉備の文化のハズの埴輪起源の物語を、
出雲系の勢力に組み込む辺りにこの時代の政治的な変動を想像することができる
古代や、記紀記載の時期の政治の動きを推察することができる物語
まぁ邪馬台国脳の人間にはそんなこと興味もないだろうがなw >>445
>>ネアンデルタール人は絶滅している <
>絶滅していることは理解できたみたいだな<
絶滅せずに、現在の(アフリカ以外の)人類に、子孫を残していた、
という事が、未だに理解出来ない(国粋皇国史観の)・・・・のようだなあ。
>「人類皆兄弟」であっても喜八郎のように他人様のものを盗んではいけない<
「人類皆兄弟」であり、
日本の考古学者や右翼マスコミなどのように、
「現生人類アフリカ一元発生」というような嘘つき騙しや、
和田キヨエをたぶらかして大量の尿入り?一升瓶を旧和田家宅に置いたり、
桐原詐欺師を使って古田さんから200万や領収書を詐取して、
国民を騙してはいけない。 どろぼう喜八郎の一見はまだ種の絶滅が理解できてなかった >>447
>結局 殉葬については、未だ正体不明でいいのでは?
>史書の誤りって写し間違いのことだよな。<
それは結局、
「魏使らの実地での見聞記録」という99.9%以上否定し難い史料事実を、
否定抹殺してしまう、
という犯罪者的行為になってしまうだよな。 >>479
>永久に殉葬がでなさそうだ。
少なくとも、九州説(というかザラコク)お気に入りの
平原1号墓と祇園山古墳は殉葬じゃないのがはっきりしてるよ
実際、弥生末期から古墳時代に大規模な殉層があったと考えるべき遺跡・遺構が
ないのは事実
吉備でも出雲での丹波でもない
甕棺墓列の例が出ていたが、家族墓としての方形集溝墓に複数の埋葬主体が
追葬されているのも、見ようによっては殉葬に見えたのかもしれない 魏使は発掘調査はやってないだろうから
追葬されてるとかはわからんだろ >>482
その説なら、魏志倭人伝の方が説明できないんだよ。
殉葬があった可能性が高いという解釈が無難。 >>448
>>殉葬の痕跡がないから殉葬という記述は誤りだったとかいう論理は成り立たんぞ<
>無い物はない<
祇園山があった、という事は、殉葬があった。
>根拠とされるものが何もないのであれば当然記述も誤りと判断するのが自然
神武東征も同様 <
神武東征にも、「日下」まで船で行けた、という河内湾存在時期を示す根拠があった。
>九州から広まるものが何もない以上ただの伝説と判断される <
「東征毛人五十五國」という証言があり、
瀬戸内〜近畿〜東海〜南関東への文化の伝来かあった。
鉄鏃も絹も庄内も前方後円墳なども九州から広がった。
>痕跡、つまり根拠もないのにあると言い張ってる方が意味不明
それはただの妄想 そんなもので論など立たない だから誰も相手にしない<
痕跡や根拠のある事を否定抹殺するのは、
安部政府文部省や右翼マスコミや右翼学会教育界や・・・・キョクウや、
「南→東」などの嘘吐き騙しばかり。
国民の7割は、誰も彼らを相手にしない。 奈良の人が口をつぐむ耳成山。
何があったのか?
元は火山の火口の跡らしいが。
耳成山の山頂を掘ったら何か出てきそう。 どろぼう一味が祇園山の集団墓群を殉葬墓だと言張っても
何も変わらない >>449
根拠があるのに、
大和説者は、「何もないと思うけど」などと堂々と言い張れるんだから、
「大した・・・・だ」としか言いようがないな。 >>491
記載されてる日本の方に弥生にも古墳にも殉葬の痕跡もないし、記事も虚偽だった
むしろ可能性が下がる要素しか見つかってない
中国側の記事としても変わらない
むしろ当事国でもない方の記載として倭人伝に信頼できない要素が増えたと言うことにしかならない
倭人伝そのもの信憑性が更に落ちる部分でしかない
まさか「外国人だから嘘書かないだろう」とか言うのだろうか
「可能性が高い」と言う理由がどこにもない
むしろ何を根拠にそう言うのか理解に苦しむ >>451
>邪馬壹も邪馬臺も
魏志倭人伝で記述されてるから話ができるわけでね。<
魏志には、「邪馬壹國」はあるが「邪馬臺國」はないねえ。
「魏志の記載の高慢な書き換え」の多い後漢書以後の「邪馬臺國」は、
名前の通りであれば、魏志の邪馬壹國とは違う国の概念。
>考古遺物に歴史記述を否定する力はないよ。 考古遺物は喋れないんだから。<
金印や金石文は、文献歴史解釈を拘束する価値はもっている。 >>452
>祇園山には殉葬墓はない<
発掘報告に拠れば、墳裾の62個に複数埋葬を含む小主体群は、
墳頂の箱式石棺とほぼ同時期埋葬であり、
すぐ100m余り近所に、集団的な部族墓地が存在しており、
だから、祇園山は、(50年以上に渡る)追葬集団墓地である事が否定される。 >>453
内行花文鏡は九州なら前漢の頃からあるはず。 卑弥呼の「鬼道により人を惑わす」ってのをさ
シャーマン的にとらえることが間違いなんだよ
権謀術数のことを「鬼の道」と言ってるのかもしれない
卑弥呼はかなりの策略家でしょ
魏とつながることで狗奴国を封じようとしたりね
そもそも博多湾地域のほうが物質的に豊かなのにその王を同盟国として飲み込んで従えちゃうわけだから
その「策略で人を惑わす」ってのを鬼道と言ったんだよ 九州と畿内が全く無関係なら、九州に滞在していた魏の使いが相手にしていたのは、ますます九州の倭国ということになるのだが? >>468
畿内の前方後円墳はわざわざ九州阿蘇から石を運んでいたりする。
故郷の石に執着していたのだろうね。
無関係の政権なら、そんな遠くから石を運ばないよ。 近所に集団墓地があっても祇園山も集団墓地だから
また少し違った集団だろうな >>455
>倭人伝も同様 魏のただの空想物語とさえも言われている<
魏使らの実地の観察記録であり、
金印や金石文と、同等かそれ以上の価値がある。
>そうなれば根拠のない記載など「事実ではない」と言うほかない<
だから、この(おそらく)wwの投稿は、
国粋皇国史観思想宗教に狂った「・・・・の分裂幻覚の妄想だ」というしかない。 >>503
阿蘇は畿内従属志向
博多は独立志向
要するに任那が百済新羅に徐々に飲み込まれてった流れと一緒だよ
沿岸部ってのは先進技術は手に入りやすいけど、政治的に不安定で
安定した内陸国にいずれ飲み込まれる >>502
これまた循環論法そのもの
九州説には論理が無い 日本の製品に韓国製部品が一つでも使われてたら「これは韓国のモノニダ!」ってなw
笑わせてくれる 阿蘇凝灰岩は阿蘇山噴火時の
火山灰が固まった加工しやすい石で
熊本、大分から産出する。
阿蘇凝灰岩層は山口にもある。
念の為。 >>489
>100歩譲れば倍塚も殉葬と言えなくはない
陪塚が100基もあったら、壮観なんてものじゃないなww >>456
>全否定か全肯定しかない?そんなに現実世界は単純じゃないよ。
殉葬の記述はある でも 殉葬の痕跡は見つかっていない<
祇園山が見つかっている。
>だから殉葬記述は間違いだ じゃなくて <
賛成。
>殉葬の痕跡がないところは邪馬臺國とは認められない<
残念ながら、祇園山は、5世紀の後漢書に書かれた邪馬臺國の地、であり、
3世紀の邪馬壹國の中の、一地域國名。
じゃないの。 祇園山が殉葬だって言い張ってるのはザラコクだけだ
ほかの九州説だってそんなことをいうやつは一人もいない
大体、古墳と甕棺墓では時代が違いすぎるし、古墳を作るときの地山成形で、
甕棺墓の上部を切ったりしてるんだから甕棺墓の方がずっと前からあるのが確実
これを殉葬だっていうなら、半径100メートル以内で出た人骨は
どんな時代のものであっても殉葬だわ 実はそうなんじゃないか?
畿内説が認めたくないだけで。 >>511
>阿蘇凝灰岩層は山口にもある。
熊本県の阿蘇じゃなくて、宇土半島(宇土市)あたりの石を使ってるみたいだね って言うか根拠薄弱な殉葬をあると言い張るとなんか良いことあるのか?
祇園山とか言うならそもそもアレ三角縁に葺石の出る4世紀のもんだぞ
しかも四角いんだが
アホは極まるとトコトンまで行くな >>518
ほら、また理由をまったく言わない
だから九州説はトンデモと言われる
w 日本の学術調査や学者の判断は一切拒絶する民族集団なんだから
もっと大きな自然の山を卑弥呼の墓と言張ればいいと思うんだが
阿蘇山とか久住山じゃまずいの? 平原遺跡と祇園山は似ているが、畿内説は平原遺跡が2世紀、祇園山は4世紀という。
祇園山が4世紀なのはいいとして、平原はもっとそれに近い、例えば3世紀でいいのではないか。
副葬品から見ると3世紀以降という見方ができるのだが。 祇園山の周囲の墓はその埋葬方法が方法も時代もバラバラなことからただの集団墓の可能性が高い
おそらく累代の墓を近所に系統的に作り出す弥生の方形周溝墓の考えを踏襲したもんだろう
祇園山に埋葬された首長の先祖伝来の墓だろう >>523
別に何世紀に持ってきたって構わんが、
どの道周囲全部畿内の土器だらけ、墓制だらけで小さな点的な存在であることに何の変りもない
むしろ新しくすればするほど惨めな様相が浮き彫りになるだけなんだが
時代をずらしたら卑弥呼の墓になって邪馬台国が登場すると思い込んでるならお笑いだな 思わずスルーしちゃったけど祇園山の形と平原全く違うだろ
そんなことも知らんでそんなアホ話してんのか
よく何も知らないで平気な顔で口出せるな
恥かくだけなのに 平原なんて卑弥呼にならんだろ
小さい方形周溝墓で、鏡はほぼ全部国産、極僅かな漢鏡も2世紀の物、周りに何の影響も及ぼしてない孤立した個人墓
しかもそこで終わって後に何も繋がらない
時代を誤魔化したら邪馬台国?
何寝言言ってんだろうな 平原には塗装されたニセモノ鏡がたくさん割られて捨ててあった
糸島の民は忌わしい過去を捨て去るかのように墳丘を削ってミカン畑を作っていた >>526
畿内の土器だらけでも
畿内の墓制だらけでもないよ。
円墳も方墳も、旧型の纒向型前方後円墳もあるね。
むしろ円墳が一番多くて、
前方後円墳は少数派だね。 >>497
そりゃ拘束はできるよ。記述の信頼性
という意味でね。厨二的0/1病か? >>531
その前にザラコクは・・・・だから、関わらないのが吉だよ 副葬品の豪華さで平原遺跡は圧倒的だよ。
しかも八咫の鏡を含む三種の神器が揃っている。
これを倭国の王墓と呼ばずして何が倭国王か? ザラコク氏を批判するなら、祇園山はあくまでも4世紀、平原遺跡が3世紀としないとね。
でもそうできないところに畿内説の弱みがある。
平原遺跡が卑弥呼の墓になってしまうからだ。 >>500
>内行花文鏡は九州なら前漢の頃からあるはず
ただ、舶載鏡の内行花文鏡は小さいから、平原のでかい仿製鏡とは区別した方が
いいと思う >>470
畿内説者の心の中に存在してる。
それと北部九州に邪馬台国は存在した。 >>534
>平原遺跡が3世紀としないとね。
これが、根拠がないんだよ
それに、平原遺跡ではなく平原1号墓と書けと何度言えば
1号墓、2号墓の周溝に、土坑墓があって、その土坑墓から鉄鏃・鉄鉇(ヤリガンナ)
・鉄刀子・ノミ状鉄器が出土している
この土坑墓遺物の編年は、弥生時代終末(200年〜250年前後)で問題ない
で、問題になるのが、この土坑墓が、周溝が埋まってから、その埋まった土を掘って
土坑を作っている点にある
周溝が埋まるまでの時間を50年と見ても、周溝が作られた時間=1号墓の埋葬時期は
150年〜200年の2世紀になってしまう
卑弥呼の墓と見るのは、妥当性が低すぎる 素環頭大刀なんか神器じゃないだろ
平原はそれで棺に封印してるし 内行花文鏡は弥生後期から九州で生産されていたことが確実だね。
畿内説によると2世紀の平原遺跡に最大の内行花文鏡がすでに副葬されていたからね。
畿内の銅鐸祭祀は内行花文鏡を至高とする九州のそれに塗りつぶされたんだよ。
それは平原遺跡に代表される三種の神器の祭祀として今日まで天皇家の祭祀の中心として継承されている。 >>530
大型墳墓祭祀そのものが九州に無かった
それがこの3世紀半ばに畿内から九州全域に広まりだす
北部九州では地表に墳丘を作らない地下式の方形周溝墓が主体
円墳も方墳も古墳時代から
格下の墓制として一般的
土器に至っては北部九州は庄内土器に塗りつぶされていると言っていい勢い
九州の個性が打ち消されて「無かったものだらけ」一色になるまさにその過程
三世紀の九州にどこにも独自の主体など見いだせない 平原遺跡の耳璫は魏以降の時代のものだけどね。
平原遺跡を2世紀にしても3世紀にしても、キナイセツには苦しいだろうな。 あーしまった
アホの九州説にレスしちゃったよ
またいつものバカが同じこと喚きだした
鬱陶しい こうやって言張るだけの人種が糸島厨
以前はあの蓋にヤタガラスが刻まれていると言張っていた >>538
魏の皇帝からもらった宝物だな。
剣は昔から中国でも威信財なんだよ。
一般兵は矛などを用いるのさ。 平原を魏の時代にしたって同じ
つかどこに持って来ても同じ
どうせキコエナイキコエナイするんだろうけどよ
・三世紀の九州は土器も墓制も「それまで一切なかった」畿内の方式に塗りつぶされ独自の主体など消滅している
・平原はその畿内の影響の中で孤立して周りに何の影響も与えない個人墓でしかない
・鏡のほぼ全ては国産でどことも系統が繋がらない(畿内の内行花文鏡は別物)
・小さい方形周溝墓
・後にもつながらずにそこで終わり
「時代を変えれば邪馬台国」とか笑わせてくれる
邪馬台国の会がいつも喚いてる「畿内の学者が年代をごまかしてる」とかいうトンチキな話を盲信してるんだろうけどよ 素環頭大刀は下級兵士の武器だよ
日本では高麗剣と呼ばれた >>546
>・三世紀の九州は土器も墓制も「それまで一切なかった」畿内の方式に塗りつぶされ独自の主体など消滅している
卑弥呼の死後のことだよね?
だったら何もおかしくないな。 >>548
三世紀真っただ中がそうなってんだよ
三世紀は頭から畿内の影響がハッキリ九州全域に広がるんだよ
北部九州なんてまさにそれが顕著でドップリ
平原なんてどこに持ってこようが卑弥呼の墓になんねーだよ ×三世紀にしたら卑弥呼の墓になる
〇三世紀にしたら周り全部完全に畿内の影響に塗りつぶされた惨めな個人墓としてさらに浮き立つ
アホか
まぁ邪馬台国の会が叫んでる「凄い財宝がある!」とか言うバカ丸出しの話だけ聞いて知ったかしてるだけだろうからな
肝心の邪馬台国時代の九州がどんなことになってるかなんて知りもしないんだろうよ 平原が三世紀だって言うなら倭人伝に出てくる
「たった千戸しかない一大卒に監視されて怯えてる惨めな伊都国王」
に完全に合致するな
時代を変えたところでただそうなるだけだ >>457
>鏡は基本的に中国から伝わってる物で九州から貰ってるもんじゃない <
これが、間違い。
九州を中心として列島にも古鏡とされた小型仿製鏡があった。
>畿内に鏡が現れると言うことは畿内が中国と交渉を始めたと言うことで
別に九州に主体があるわけではない <
小型仿製鏡は、半島〜九州に沢山あり、大和が中心ではない。
>そして?製鏡については弥生末期には畿内は独自の鏡式を作り出して広めている
それが三角縁神獣鏡に繋がる 九州にこんなものは全くなかった<
大和は、出雲銅鐸毛人部族の支配下であって、鏡祭祀もなかったのであり、
筑紫倭國の「東征毛人55国」に拠って小型仿製鏡が齎されたのであり、
三角縁も、当初は、筑紫に渡来した来た「呉系楽浪鏡師」たちに拠って造られたもので、
大和における中国系鏡の最初は、ホケノの画文帯であり、
大和の三角縁は、それ以後のもの。
>内行花文鏡もいわゆる平原の物と桜井茶臼山の物は別物<
これは不明。
平原のは、明帝の下賜鏡が元になったものであるんだろう、という事は判るが、
桜井茶臼山のは、出来が立派過ぎて、明帝の下賜鏡そのものであった可能性があり、
卑弥呼や壹與から東征将軍に下賜された明帝鏡そのものであった可能性がある。
>九州からの伝播ではない
ここに主体があると言うのなら九州の物がそのまま広まるはずだが400年無かったものが畿内の興隆とともに生み出されている
九州とは別の秩序を打ち立てていて連続性はない <
だから×。 >>551
一大率により近隣から畏怖される、伊都を都とする強大な女王国だろ。 予想通りのアーアーキコエナイが来たか
まぁサルに教えてやった方がバカだったなw 一大率は伊都にあり、諸国がこれを恐れ憚っていたんだろ?
卑弥呼の直属の役職だろ。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 あーはじまったはじまった
いつもの奴らが来ちゃったよ
基地外呼び込んじゃったわ
わりぃ、位置論争とかしてる異常者放置で >>458
>史書は政治的なものだから
事実記録として見るにはそこは割り引いて読まないといけないのは当然でしょ。<
史書が政治的なものであるのは、当たり前。
しかし、三国志は、晋政府の命令で書かれたものではなく、
陳寿が、魏の役人たちの「実務上の記録」などを元にした客観性の高い史書であるから、
政治性は殆どない。
>むしろ魏の友好国 しかも最東端の国のことをこんなに詳しく把握してます
って記述の方が魏の政治的立場を補強すると思うけど。<
根本的に間違い。陳寿が魏使らの実見記録を殆ど踏襲しているだけ。
>歴史の理解とか言ってるけど 言ってる方がよくわかってないんと違う?<
何やら、三国志の信頼性を抹殺しようとしているように見えるけど?。。
根本的に、キミは、
三国志の記載が、自論に都合が悪い、というだけのように見えるけど?。 じゃあ話題変えるか
三角縁神獣鏡はどういう風に考えてる?
意見を聞いてみたい
九州説のキチガイはレスすんな 三角縁神獣鏡は、オリジナルの宝飾鏡が魏からの下賜鏡としてあったのだと思う
そういうのは、大王墓クラスに副葬されたのだと思うが、発掘できないand/or盗掘済みで
舶載鏡の実物が出るのは難しそう
そして、魏皇帝からの舶載宝飾鏡の模倣鏡として、仿製鏡の三角縁神獣鏡が大量に作られて
初期の前方後円墳祭祀(前方後方分を含む)の宝具として、祭祀連合たる倭国の
メンバー首長層に配布されたのだろう
だから、仿製鏡であっても鈕孔が長方形であるとか、鏡背面に乳を持つとかの
魏鏡の特徴を持っているのだろう >>556
逆に言えば、わざわざ直属の機関を置いて監視していないと簡単に乱れる程度の結束だったってわけじゃん >>459
>基本的には九州と畿内は関係がない。 ごく一部に移住とか交易がある程度。<
基本的に、大和は、
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国で、
倭国の「東征毛人55国」に拠って支配された国であり、
倭国の地方の市を監督する「大倭」職、という附庸國の関係であった。 >>564
結束は、王が代替わりすれば簡単に乱れる程度のものだよ
一旦まとまったものが、倭の五王の前の時代にはまた分裂して
倭の五王が再度征服した
という流れも当然考えられる
日本だって70年前はアメリカと戦争してたんだぞ? 今日本がアメリカと同盟してるからって80年前も同盟してたことにはならないし
逆に今は日本と北朝鮮は敵対してるけど、80年前は北朝鮮は日本の一部だったんだから
そういうことは頻繁にありえる
3世紀には九州と畿内がひとつの国だったけど
4世紀に分裂して
5世紀にまたひとつの国になった
なんてことは当然想定できる だから倭の五王が「先代の王は西に東に征服し〜」と言ったって
その「時代にはじめて征服した」とは限らないし、「それ以後はずっと同じ国になった」とも限らない
なんでそんなこともわからないかね >>564
>基本的に、大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国で、
そんな史料事実は無いな >>461
>違うな
そもそも倭人伝は他資料との比較ができないのだから
そのまま信じることなどできない最初から慎重に扱うべき書物<
違うな。
魏使らの「実地での実見記録」を元にして書かれた、客観性と信頼性の非常に高い記録。
だから、この男(おそらくww)は、
「自説の国粋皇国史観大和説」にとっては都合が悪いから、
口先騙しで否定抹殺してしまおう、、としている・・・・詐欺師。
>そして「殉葬の記載が虚偽と判明した以上、倭人伝の記載は更に信憑性が薄くなった」だ<
そして「殉葬の記載が真実だと判明した以上、
倭人伝の記載は更に信憑性がたかく高くなった」だ。
最初から、
「倭国の存在や歴史を抹殺盗用造作」した記紀とは、
全く客観性と信頼性の高いレベルの書物だ、
と言うことをまず理解すべき。 >>567
>だから倭の五王が「先代の王は西に東に征服し〜」と言ったって
先代の王、ではなく、祖禰躬甲冑擐(祖禰躬ら甲冑を擐き)だから、
先祖代々くらいの意味だよ
この倭王武の上表文の西服衆夷六十六國だけで、九州じゃないって分かるよな
九州の西に66国もないから 第一回遣隋使は傍系の王子が勝手に派遣したものだからな
だから国書も持っていけなかったし国王の名前も「えーっと、、、アマタリシヒコ(天の満ち足りた人)だよ」 とぼかした言い方でしか答えられなかった >>462
>異人の肥人が少数民族ではなくなるからな<
肥人は、始めから「倭人の中に含まれている」という記述だ。 >>571
祖禰は個人名だよ
「禰」に先祖代々なんて意味はない
ワカタケルが「武」になったように
タケシウチスクネが「禰」になっただけ 魏志倭人伝によれば倭国の周囲は5千里だということ
中国四国は含まれておらず、九州を指しているといえる
そもそも魏志倭人伝に中国四国瀬戸内海を明確に示す描写なし そもそも倭の五王時代は「倭」を姓としてたのに
遣隋使では「アマ」が姓と言ってるし
宋に対しては「王」が姓と言ってる
外国に対して名乗る姓なんて適当だったんだよ >>575
そもそも倭人は里数を知らない
周旋5千里ってのは中国が勝手に書いたことにすぎない
中国には本州が認識できてなかっただけで、倭人は本州含めて連合を形成していた >>464
>実際問題として、ただの並んだ墓と 殉葬って区別つかんだろ。<
祇園山は、
墳頂の箱式石棺とほぼ同時期に、
墳裾に62個の(複数埋葬を含む)主体が、重複が殆ど全くなく、
墳頂に対して側面を正対させて、整然と陪葬されているし、
墳裾の第1主体に、「鏡片を付けて剣などを副葬された成人女性」が甕棺に埋葬されており、
「追葬」墓としては、
100m位の近所の祇園山第2古墳群が別に存在しているんだから、
祇園山は殉葬であった、と区別が付く。 しかし、>>558みたいなコピペを
なんど完全論破されても
貼り付け続けてる人って
なんなんだろうね
偏執狂かな >>578
それの、どこが殉葬である理由なの?
??? >>574
>祖禰は個人名だよ
>「禰」に先祖代々なんて意味はない
また密度の高いトンデモが出たな
>タケシウチスクネが「禰」になっただけ
では、オアサヅマワクゴノスクネは、どんな名前になるんだい? >>575
>魏志倭人伝によれば倭国の周囲は5千里だということ
これ、何度も話題に出てるけど、三国志での「周旋」に一周するとか、
周囲という意味はないそうだ
いろいろなところに寄りながら進む、くらいの意味だって >>576
>宋に対しては「王」が姓と言ってる
宋書では、倭讃、倭隋、って書き方だから、あえて言えば
「倭」が姓のように使われているね
まあ、この場合は、「倭の」という形容詞的な使い方と見れば十分だと思うけれど
倭国、倭王と同じ扱い >>465
>「倭人伝に書いてある」は根拠にならない<
魏使らの実見記録を元にして書かれたから、客観性と信頼性が非常に高く、
記紀のような「倭國の存在や歴史を抹殺盗用造作」した半分偽書に比べて、
はるかに信頼性が高く、
思想宗教的な影響がある可能性がある金印や金石文よりも、信頼性が高い。
>「倭人伝に書いてある」+その痕跡が見つかった で初めて根拠になる<
実際に、筑紫で見つかっているが、大和では見つかっていない。
>記紀も雄略天皇の実在がほぼ確定したことで<
「天皇」なんて、大和には存在していなかったから、実在も×。
>ようやく歴史として扱える存在になってる<
倭国の別種の旧小国レベルの存在でしかない。
>それが同時代資料と比較の出来ない資料の扱い方
他の文献が見つかって比較できるならそれに越したことはないが残念ながらそれがない
だから考古学を併用する <
梁書の扶桑國に、王の名前として「名國王爲乙祁」と書かれ、
乙祁は「ヲツナ」「オツナ」の顕宗や仁賢の名前になる事が、
雄略の存在の傍証になっている。 >>580
ザラコクに論理は通じないから、考えるだけ無駄だよ
関わらないのが一番 >>586
宋史の方だね、了解
この部分だね
宋史/列傳 凡二百五十五卷/卷四百九十一 列傳第二百五十/外國七/日本國
「國王以王為姓,傳襲至今王六十四世」
確かに、「国王、王を以って姓と為す」って書いてあるわ >>572
タリシヒコは天皇の名前でしばしばあるけど? >>584
九州説じいさんが
「倭人伝に書いてある」と言ったとき
多くの場合それは
トンデモ解釈フィルターで
「倭人伝に書いてある」
と個人的に妄想してるだけなので
「倭人伝に書いてある」は根拠にならない >>467
>影響の拡大と、ただの文化の伝播は似てるようで全く違う
遠賀川式の拡大は遠隔地に行くごとに形が代わり、在地で完全に別物として変化してる
発信源がどう変わろうが最早なんの連動性もない
これは技術だけが伝言ゲーム的に広まってることを意味している<
当たり前。土器は、生活用品であり、伝播模倣が原則。
それが、全く同一的なものが存在した時に、元の地域からの征服移住行為があった、
という可能性が考えられるもの。
>政治的な動きでも、民族的な拡大でも、征服でも何でもない <
そして庄内、布留式土器、古墳の拡散は連動性を持っている<
庄内と前方後円墳は、筑紫の発祥である事ははっきりしているが、
布留は、南加賀の発祥の可能性がまだ残っている。
しかし、いずれも、大和発祥は消えた。
>在地の土器を外来の方式に塗り替えつつ定着し、
発信源で変化すればそれに応じて地方でも同じように変化する
中央と地方の確立がその背景にある
そこには政治的な動き、民族的な拡大、征服などの背景を見出すことができる<
土器は、原則として関係がない。
墓は、同一や特異性の一致があれば、
元の地域からの征服やその将軍の支配下になっていた可能性がある。
故に「自昔・・・東征毛人55国」があった、という事が最も可能性がある、
と言うことになる >>582
対馬海峡が三千里だから、九州北部をあちこち歩いて五千里だな。 >>469
>殉葬ではないんだけど、殉葬と勘違いした。 ってことよね。
実際それが現段階では穏当なところじゃないかな。<
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
でも読みな。
>同時期に埋葬されたってことがわかれば確実に殉葬って言えるだろうけど。
そこまでわからないでしょう。調査するとも思えない。<
祇園山は、宝賀氏の紹介によれば、「ほぼ同時期」にしかならないよ。
>生きてる人をわざわざ殺した痕跡とか どうやってわかるんだろうね。<
「殺した」ではなく、「宗教的な殉葬希望者が出て来て、改めて募った」んだろう。
でなくっちゃ、墳裾の第1主体の、
「鏡片を付けて鉄剣や豪華な?衣装のまま」の成人女性の説明が付かないし、
奴婢が100余人も が集まらないよ。
>直接見聞きしたから殉葬って表現になったと いうことはできるだろうけど
それこそ憶測だからね 事実として記述以外の証拠がないとはわからないね。<
魏使らが「嘘を付く」必要が全くないから、
この男も、都合の悪い史料事実を否定抹殺する詐欺師であり、
おそらく、「南→東」の嘘つき騙しの大和説者。 >>477
これみたいなことをシレっと言って、 何も根拠を出さないから、
「南→東」などの嘘つき騙しのように、大和説は馬鹿にされる。 >>478
>(殉葬)でも、みつからない<
でも、祇園山が見つかっている。 >>479
>逆にどういう墓が出れば殉葬なんかね? <
墳中心の埋葬主体に対して、
明らかに同時期埋葬で、
墳中心の主体よりも格下の位置で、
墳中心主体を周りから守ろう、とする形の墓や墓群。
陪葬とは少し違う。
>今のままじゃ、あれこれ言って 永久に殉葬がでなさそうだ。<
この男も、祇園山を否定したそうであり、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者仲間のようだ。 >>598
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文は?
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! >>481
>定義が決められないなら ある程度密集したり並んだりした墓を
私はこの遺跡を殉葬の墓とした
と勝手に宣言するしかないわけだ。<
定義なんて、「個人の自由」の範疇であり、絶対的のものなどある筈がない。
要は、墳中心の主体に対して殉死するかのように、
ほぼ同時期に、その周りに造られた墓。
陪葬に近いが、
陪葬は原則として、時期が少し遅れた死後であり、中心主体の近くに埋葬される。
そして、魏使らは、確実に「殉葬」である事を確認出来たから、記録した。 >>600
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! 畿内説はヨイショすればいい
自己満足で人生ハッピー ハッピー >>600
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネは?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! >>482
>「無いのに書いてる」と言うことに対して「何らかの意図があるからだろう」と考えるのは当然・・・<
祇園山があるから、この男も×人間。
>ただ現実問題その根拠たり得るものは何もなく、記紀の記載は虚偽だと判明してる
発掘も大量に行われているがいまだに何も出てこない
そうなれば「あるから」ではなく「別な意図」と考える方が自然<
関係がない。
魏使らは「殉葬」を見たから、記録した。
>垂仁天皇についてはその仁政と最近組み込んだ出雲系の勢力の権威を高める物語として出てくる
むしろその意図での記載と読む方が妥当<
天皇なんていなかったんだし、
いずれにしても、この男の、分裂幻覚妄想の・・・・詐欺師の大和説者。 >>594
どうでもいいけど
過去にいって 聞いてきたの?そこまで強弁できる神経が私にはわからない。
あなたの言ってることに検証可能な科学的要素は一つもないよ。 >>483
>そもそも本来なら吉備の文化のハズの埴輪起源の物語を、
出雲系の勢力に組み込む辺りにこの時代の政治的な変動を想像することができる
古代や、記紀記載の時期の政治の動きを推察することができる物語<
記紀は半分×書であり、論拠にはならない。
>まぁ邪馬台国脳の人間にはそんなこと興味もないだろうがなw<
「邪馬台国」なんて存在しないから、×であり、
この男も、分裂幻覚妄想の嘘つき騙しの・・・・大和説者。 >>485
>どろぼう喜八郎の一見はまだ種の絶滅が理解できてなかった<
和田キヨエをたぶらかして、桐原詐欺師で国民を騙した、偽書説派や大和説派は、
まだ、自分等の信仰する国粋皇国史観の絶滅が、理解出来ていないようだ。 >>488
>少なくとも、九州説(というかザラコク)お気に入りの
平原1号墓と祇園山古墳は殉葬じゃないのがはっきりしてるよ<
祇園山は、ほぼ同時期埋葬だから、明らかに殉葬だ。
>実際、弥生末期から古墳時代に大規模な殉層があったと考えるべき遺跡・遺構が
ないのは事実 吉備でも出雲での丹波でもない <
10人前後の小規模殉葬例は、あった。
>甕棺墓列の例が出ていたが、家族墓としての方形集溝墓に複数の埋葬主体が
追葬されているのも、見ようによっては殉葬に見えたのかもしれない <
祇園山は、ほぼ同時期であったから、追葬にはなっていないし、
魏使らは、「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」の確認が取れたから、
記録した。 ツガルなんかもう誰も本物だと思って無いよ、どろぼう偽書詐欺集団 >>489
>100歩譲れば倍塚も殉葬と言えなくはない<
陪葬は、陪葬人が死んだ後の陪葬者の本葬として行われるものであり、
だから通常は一人の葬儀であり、
だから祇園山のような「62人以上」の多数の、同時期ではないものに対しては、
陪葬にならない。 >>490
>魏使は発掘調査はやってないだろうから 追葬されてるとかはわからんだろ<
魏使らは、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」
という実見記録を残しているから、
発掘調査をする必要もないし、
追葬ではない、という事も知っている。 どろぼう偽書詐欺集団が祇園山に目をつけてウソを連呼しているということは
祇園山集団墓地を同じ人種の墓だと考えているんだろうな >>494
「南→東」などの嘘つき騙しで、
和田キヨエを誑し込み、桐原詐欺師を一味にした通説大和説一味が、
祇園山の同時期集団墓群を「殉葬墓ではない」と言張っても、
何の信頼性もない。 何の証拠もないのに善意の和田キヨエさんを連呼で悪者のように仕立て上げる
どろぼう偽書詐欺集団 >>496
>記載されてる日本の方に弥生にも古墳にも殉葬の痕跡もないし、記事も虚偽だった<
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
によれば、列島にも、筑紫の祇園山など以外にも、吉備や中部にもなど殉葬墓があった。
>むしろ可能性が下がる要素しか見つかってない 中国側の記事としても変わらない<
中国でも始皇帝の墓のように、殉葬があった。
>むしろ当事国でもない方の記載として倭人伝に信頼できない要素が増えたと言うことにしかならない
倭人伝そのもの信憑性が更に落ちる部分でしかない<
祇園山は、倭人伝の信憑性の根拠にもなる。
>まさか「外国人だから嘘書かないだろう」とか言うのだろうか
「可能性が高い」と言う理由がどこにもない
むしろ何を根拠にそう言うのか理解に苦しむ <
この・・・・は、むしろ何を根拠にそう言うのか理解に苦しむ。
おそらくwwなんだろうが。 >>498
だいたい「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者や、
安部公明政府の文部省や、右翼マスコミや、学会教育界や、
キョクウの戦争狂らのニセモノ屋は、似たようなウソを言う。 日本の政府、文部省、マスコミ、学会教育界すべてが
どろぼう偽書詐欺商法のじゃまになるということだな >>593
>対馬海峡が三千里だから、九州北部をあちこち歩いて五千里だな。
たぶん違うよ(確信はない)
おそらく、循海岸水行七千里+周旋五千里で、萬二千里っていう計算だと思う
実測地ではないし、萬二千里ありきの数あわせだよ >>617
そういう罵声って、なんの反論にもならないから >>600
>定義なんて、「個人の自由」の範疇であり
これでは科学には程遠い
ザラコクは無視するしかないな >>504
>近所に集団墓地があっても祇園山も集団墓地だから また少し違った集団だろうな<
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
より引用。
(祇園山古墳) こうしてみると、裾部外周で確認された多数の主体のうちの、
殆どが、当該方墳とほぼ同時期の築造とみられることになる。
また、祇園山古墳と小さな谷を隔てて南約百Mの地には、
四基からなる径一五M以下の小円墳群(祇園山古墳群)が存在する。
このうち、祇園山二号墳では、その墳丘下及び周辺部で、
石蓋土壙墓二基、箱式石棺一基、壺棺一基(布留U式併行期)という埋葬遺構や、
中世(十二、三世紀代)の土壙墓一基も発見された。
同墳には石室の構築がなされており、須恵器・土師器などの出土物の事情も併せて、
六世紀中葉以降の築造とみられているが、
かろうじて古墳と確認されたという他の古墳や埋葬遺構が
全てこれと同じ事情・時期かどうかは定かではない。
なかには、祇園山古墳の広い意味での兆域内にあって
同墳と密接な関係をもった墓があったのではなかろうか。
なお、県教育委員会の報告書では、祇園山遺跡を集団墓とみてか、
「墳頂部石棺への追葬が行われたことは大いにあり得るが、三世代以上の巾をもつとは考え難い」
と記すが、
弥生終末期の墳墓であれば、
大塚初重氏のように、集団墓ではなく、特定個人の墓とみたほうが妥当であろう。
墳頂部石棺には遺存物がなく、追葬の証拠は全くない。
以上。
だから、祇園山古墳群自体は、祇園山古墳の追葬的時期になっているのではあるが、
なっているの祇園山古墳が追葬だ、という証拠にはならない。 >>607
>和田キヨエをたぶらかして、桐原詐欺師で国民を騙した、偽書説派や大和説派は、
それ、安本美典氏の話だろ
畿内説と何の関係もない >>506
>(>ピンク石)上納献上だよ <
継体物部軍が、磐井を騙して倒して、継体らが倭國の王家に参加出来た事で、
継体の遺族?が、「憧れのピンク石」を獲得出来たんだよ。 大蔵官僚定年後に系図は研究してるようだが
考古はちらっと本読んだ程度の感想文 >>507
>阿蘇は畿内従属志向 博多は独立志向
要するに任那が百済新羅に徐々に飲み込まれてった流れと一緒だよ
沿岸部ってのは先進技術は手に入りやすいけど、政治的に不安定で
安定した内陸国にいずれ飲み込まれる <
いや、違うだろうなあ。
継体の墓までは大和付近にピンク石の墓がなかったんだから、
やはり、継体や遺族が九州倭國の磐井を倒して、倭国王家に参加出来たから、
憧れのピンク石を手に入れる事が出来たんだろう。 磐井は、筑紫神社に祀られている筑紫神だったのかな‥
筑紫風土記
かつて筑前と筑後の境にある山に荒ぶる神がいて、往来する人々の半分は生かしたが、半分は殺した。
それでこの神のことを人命盡神(ひとのいのちつくしのかみ)というようになった。
筑紫君・肥君たちが神を祀ると、以後、道行く人は神に殺されなくなった。
それで、筑紫神という。 >>626
筑紫君の没落で
大和に対する従属度が高まったから
貢物も増えただけだよ 阿蘇ピンク石は産地地元では石室の一部にしか使われてないから
品質が良いものは献上していたということだな >>508
>これまた循環論法そのもの 九州説には論理が無い<
「九州と畿内が全く無関係なら、九州に滞在していた魏の使いが相手にしていたのは、
ますます九州の倭国ということになるのだが?」
という事は、仮定をした場合の「?」の疑問や問題提起の話であり、
まだ循環論を構成していない。
だからこの「循環論法」ヘイトスピーチ者(おそらくww)が、
また分裂幻覚の妄想病を起こした。 >>630
循環でないなら
「九州と畿内が全く無関係」という理由は
なんだ? >>509
>日本の製品に韓国製部品が一つでも使われてたら「これは韓国のモノニダ!」ってなw
笑わせてくれる<
何でも、人種差別的ヘイトスピーチ街宣の嘘つき話にすり替えて、
国民を韓国憎しにして殺戮戦争に誘導しようとするなんて、
wwは全く悪質であり、・・・・過ぎる。 >>629
うん
九州は搾取されてる従属国そのまんまだね 博多湾沿岸は畿内や山陰の影響をダイレクトに受けているが
中南部はほとんど影響は無い
九州という括りがおかしい >>632
ザラコクは政治思想狂いだな
だから歴史をねじ曲げる >>514
>どろぼうニセモノ屋は連呼民族集団 <
人種差別的な殺戮戦争の鼓舞扇動のヘイトスピーチをするwwは、
安部自民公明文部省や右翼マスコミや右翼学会教育界や、
キョクウのやくざ暴力団仲間の、
嘘つき騙しの・・・・謀略大和説仲間。 政治思想じゃなくて被差別意識、妬み根性が非常に強い民族集団だな >>637
九州説は、すぐ論破されるからヘイトスピーチに逃げる 阿倍自民だの戦争は素性を隠すためだな
実際はマスコミ、学会からトンデモ、偽書を指摘されて
詐欺商売のじゃまをされた逆恨み >>515
>祇園山が殉葬だって言い張ってるのはザラコクだけだ
ほかの九州説だってそんなことをいうやつは一人もいない <
ほら、wwはしゃーしゃーとして、嘘を付く。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
に拠れば、
宝賀さんらのグループの方以外にも、
村下要助、田中幸夫、奥野正男、石野博信、廣木順作、足立倫行
らの名前が挙がっている。
>大体、古墳と甕棺墓では時代が違いすぎるし、<
大体、祇園山の墳頂は箱式石棺であって、
甕棺は、墳裾の62個の殉葬墓の中に3個あるだけなのに。
>古墳を作るときの地山成形で、 甕棺墓の上部を切ったりしてるんだから
甕棺墓の方がずっと前からあるのが確実<
これも、逆に、先に殉葬墓を造って、その中央に地山成形して、
「四隅円弧の不定形の冢」を造った、という事になるから、
殉葬墓の一部は本体墓とほぼ同時代のものになっただけなのに。
>これを殉葬だっていうなら、半径100メートル以内で出た人骨は
どんな時代のものであっても殉葬だわ<
これも、墳裾の殉葬群は、半径が15〜20m位の円弧 20付近にあるだけなのに。
wwは、嘘を付きまくる。 >>519
>って言うか根拠薄弱な殉葬をあると言い張るとなんか良いことあるのか?<
祇園山は、列島で唯一の、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」
を満たす墓。
>祇園山とか言うならそもそもアレ三角縁に葺石の出る4世紀のもんだぞ<
三角縁は、筑紫の志登のが一番古く、卑弥呼の頃。
葺石は、弥生墳丘墓が初元。
>しかも四角いんだが アホは極まるとトコトンまで行くな <
四隅円弧の「不定形」であり、「長径」で記載される形。 >>520
ほら、また「理由が既に言われている」事を隠して、
「まったく言わない 」と嘘つき騙し宣伝をする。
だから大和説は、嘘つき騙しの・・・・トンデモだ、と言われる。
w >>616
>によればって、元官僚の素人だから
宝賀寿男氏の古系図の研究は参考にしてるよ
神武から崇神まで5世代というのは、参考値として妥当だと思う
宝賀氏は最近文章を発表してないと思うが、ご存命なんだろうか
最近の研究成果をきちんと見れば、宝賀氏も畿内説に鞍替えすると思うがね >>522
大和説者は、
魏志倭人伝の都合の悪い記載を一切否定曲解する嘘つき騙しの詐欺集団なんだから、
もっと大きな自然の山を卑弥呼の墓と言張ればいいと思うんだが。
三輪山とか葛城山とか混合さんじゃまずいの?。 >>642
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文は?
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
さっさと言えよおまえ! >>642
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
さっさと言えよおまえ! >>642
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネは?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
さっさと言えよおまえ! >>523
>平原遺跡と祇園山は似ているが、畿内説は平原遺跡が2世紀、祇園山は4世紀という。
祇園山が4世紀なのはいいとして、平原はもっとそれに近い、例えば3世紀でいいのではないか。
副葬品から見ると3世紀以降という見方ができるのだが。<
祇園山は、(筑紫の)庄内や三角縁があるし、
殉葬に甕棺が3個あるし、
鏡片を貰って剣や豪華な服装や衣装の成人女性がいるし、
前方後円墳ではなく不定家の高冢のだから前方後円墳の前であるから、
3世紀半ばでぴったりなの。 >>645
反日詐欺集団と違って
畿内説は学者の研究成果が根拠だから >>524
>祇園山の周囲の墓はその埋葬方法が方法も時代もバラバラなことからただの集団墓の可能性が高い
おそらく累代の墓を近所に系統的に作り出す弥生の方形周溝墓の考えを踏襲したもんだろう
祇園山に埋葬された首長の先祖伝来の墓だろう<
祇園山の周囲の墓は、墳頂の箱式石棺の周りの墳裾に、
墳頂へ正対するような方向で、
殆ど重複もせずに綺麗に、
62個全部がほぼ同時期に造られているから、
何世代にも渡る集団墓ではなく、陪葬墓でもなく、
殉葬墓でいいの。 >>651
ザラコクは嘘も百回を地で行くからな
相手にしても有益なことは何一つないよ
一般の日本人とは価値観の異なる儒教道徳の価値観の持ち主で、
どんなに明確に間違いを突きつけられても絶対に認めないからね
間違いを認めるのは下位の人間っていう価値観だから >宝賀さんらのグループの方以外にも、
>村下要助、田中幸夫、奥野正男、石野博信、廣木順作、足立倫行
>らの名前が挙がっている。
殉葬墓とか言ってるのは素人の宝賀と廣木だけだろ >>526
>(平原)別に何世紀に持ってきたって構わんが、
どの道周囲全部畿内の土器だらけ、墓制だらけで小さな点的な存在であることに何の変りもない
むしろ新しくすればするほど惨めな様相が浮き彫りになるだけなんだが
時代をずらしたら卑弥呼の墓になって邪馬台国が登場すると思い込んでるならお笑いだな <
何だ?、誰かが紹介した明治大の佐々木の「こっそり書き直し論考」では、
筑紫の庄内や布留は、筑紫の自前での製作土器だ、
と紹介していたぞ。
どっちなんだい?。
ややこしいから、大和説者同士で、意見を統一してくれよ。 62個全部がほぼ同時期に造られているというのはウソだろ >>619
精密測量ではなくても、概ねの距離はわかるだろう。
古代人だって馬鹿ではない。 >>528
>平原なんて卑弥呼にならんだろ<
平原は、玉と鏡の女王の形であり、魏志での壹與の墓にぴったりだよ。
>小さい方形周溝墓で、鏡はほぼ全部国産、極僅かな漢鏡も2世紀の物、<
これ、大和説学者の柳田のインチキね。
明帝の下賜鏡が元になった事を示す「尚方作」鏡の事をこっそり隠しているし、
洛陽晋墓の内行花文鏡や方格規矩鏡との比較をしていない欠陥論であるし・・・。
>周りに何の影響も及ぼしてない孤立した個人墓 しかもそこで終わって後に何も繋がらない<
いや、その後も那珂八幡などの弥生銀座の古墳や、銚子塚や端山などが続いたし、
壹與自身も、魏の薄葬令にモロに制約されて、外観上は巨大豪華には出来なかったから、
内装や副葬で豪華にした。
時代を誤魔化したら邪馬台国?。
何寝言言ってんだろうな 。 >>650
そういう罵声って、なんの反論にもならないから >>529
>平原には塗装されたニセモノ鏡がたくさん割られて捨ててあった<
本物は、地方の30国の豪族王や臣下の東征将軍だどに下賜したし、
一部は鏡片にして臣下に与えたものもあったし、
楽浪鏡師らに頼んで副葬ように複製して貰ったものもあったし。
>糸島の民は忌わしい過去を捨て去るかのように墳丘を削ってミカン畑を作っていた<
外表面的には、魏の薄葬令に縛られて、巨大豪華には、し辛らかったし。 反日詐欺集団は日本の学者はインチキだという立場だから
日本とは関係ない異民族から見た日本の歴史だな >>532
その前に「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
オームやキョクウなどのような、殺人宗教的な国粋皇国史観の怖い・・・・が多いから、
関わらないのが吉だよ。 >>537
>1号墓、2号墓の周溝に、土坑墓があって、その土坑墓から鉄鏃・鉄鉇(ヤリガンナ)
・鉄刀子・ノミ状鉄器が出土している
この土坑墓遺物の編年は、弥生時代終末(200年〜250年前後)で問題ない<
こりゃダメだ。
まず、1号墳と2号墳の周溝の位置関係と、
その土坑墓の個数や位置関係をはっきり示さなくっちゃ、納得しようがない。
また、鉄器類の年代比定根拠も、魏使らは確実に鉄鏃を確認しているんだし、
3世紀末以後ホケノから鉄鏃が出ているんだから、3世紀後半を否定する事もあり得ない。
>で、問題になるのが、この土坑墓が、周溝が埋まってから、その埋まった土を掘って
土坑を作っている点にある 周溝が埋まるまでの時間を50年と見ても、周溝が作られた時間=1号墓の埋葬時期は
150年〜200年の2世紀になってしまう<
50年と見積もるのも、疑問。
墳丘表面や周溝外周の構造にも依るし、確保された流入流出水路条件にも依る。 ホケノのような、北部九州の副葬品に
近い古墳では鉄鏃が出てますが、
箸墓古墳のような完形前方後円墳では
鉄鏃が出たという話はあまり聞きませんね。 >>538
>素環頭大刀なんか神器じゃないだろ 平原はそれで棺に封印してるし<
明帝の詔書では「五尺刀二口」だけで、柄頭の状態など指定していないんだし、
5尺もあれば、大刀だし、
神器としても、何らおかしくない。 >>658
>精密測量ではなくても、概ねの距離はわかるだろう。
>古代人だって馬鹿ではない。
海路はそもそも測ってない
釜山−対馬間と、壱岐−末慮間ではほぼ倍くらい距離が違うがともに千余里になっている
1日で漕ぎ渡れる渡海は一律千里としているようだ
陸路で距離を測れるのは比定地がはっきりしている末慮ー伊都間と、伊都−奴国間しかない
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
しかし、1里に当たる距離が50メートルと200メートルで、4倍も違うんだよ
きちんと測った距離ではないだろう
概ねの距離というのも難しい
そもそも、末慮国から東南陸行五百里では、どうやっても伊都国には着かないし、
いろんな情報が紛れて混乱しているのは明らか
この行程記事だけが九州説の拠り所なのだが、頼りにはならない >>669
>箸墓古墳のような完形前方後円墳では
>鉄鏃が出たという話はあまり聞きませんね。
そもそも発掘してないからね
情報があったらびっくりだ >>540
>大型墳墓祭祀そのものが九州に無かった<
吉野ヶ里には、既に30m以上位の墳丘墓があった筈だし、
魏の文帝の薄葬令も効いている。
>それがこの3世紀半ばに畿内から九州全域に広まりだす <
これが×ね。
前方後円墳は、那珂八幡などが最も古いし、
大和の前期前方後円墳は、大和の庄内期だから、3世紀末以後。
>北部九州では地表に墳丘を作らない地下式の方形周溝墓が主体<
祇園山は、明らかに高冢古墳の嚆矢。
>円墳も方墳も古墳時代から 格下の墓制として一般的 <
晋の武帝期の天円地方思想時代は、円墳と方墳(の分離?)が格上。 >>540
>土器に至っては北部九州は庄内土器に塗りつぶされていると言っていい勢い
九州の個性が打ち消されて「無かったものだらけ」一色になるまさにその過程
三世紀の九州にどこにも独自の主体など見いだせない<
これも×。
庄内は三雲が先行し、
「東征毛人55国」で獲得された瀬戸内〜近畿〜東海が模倣生産を始め、
市を介して、筑紫に搬入上納した。 >>542
あーしまった。
ついうっかり、国粋皇国史観のキョクウの殺人狂の・・・・アホの大和説に、
レスしちゃったよ。
またいつもの人種差別戦争・・・・のバカが、同じヘイトスピーチを喚き出すわ。
鬱陶しい ウソブいてるんじゃないか?
ウソブいてるんじゃないの? >>543
こうやって言張るだけの人種が、国粋皇国史観の殺人戦争狂の大和厨。
以前は東大寺古墳の刀を言張ってして自慢じていた。
筑紫の「鬼道政治の卑弥呼」は、五尺刀を貰っても使いようがなく、
姻族の阿毎氏の(一大率の)伊都国王に使って貰うのが一番で、
東征将軍に授けて、近畿で頑張って貰うのが一番であったんだし。 >>668
>その土坑墓の個数や位置関係をはっきり示さなくっちゃ、納得しようがない。
つまりザラコクは、遺跡の平面図のような基本事項さえ抑えずに
妄想で書き散らしてるってことだ
まあ、ザラコクのやっていることは科学(歴史学)とは無縁の、日本貶め工作だから
何かを書いた気になればそれで十分なんだよな
Yahooのように出禁にできればいいんだけど >>546
>・三世紀の九州は土器も墓制も「それまで一切なかった」畿内の方式に塗りつぶされ
独自の主体など消滅している <
庄内なども前方後円墳も筑紫が先行、「東征毛人55国」で出来た大和が模倣。
>・平原はその畿内の影響の中で孤立して周りに何の影響も与えない個人墓でしかない <
平原は、倭國女王の墓。
>・鏡のほぼ全ては国産でどことも系統が繋がらない(畿内の内行花文鏡は別物)<
「尚方作」鏡は、明帝の下賜鏡が元になっており、
下賜の内行花文鏡は、地方の豪族や東征将軍に下賜され、
鏡片にして臣下に与えられ、平原の破鏡にも使われた。
>・小さい方形周溝墓 ・後にもつながらずにそこで終わり <
晋の武帝らの天円地方で、前方後円墳の方墳部になった。 >>644
毎年、古代氏族の研究シリーズを出してるぞ
秀吉の系図なんてのにも手を出してるらしい >>674
>庄内は三雲が先行し、
ザラコクよ、ウソは百万遍連呼しても
ウソのままだぞ >>680
ありがとう
アマゾンでググったら「古代氏族の研究」っていうのをシリーズで出しつつけてるんだね
健在なら、それはそれでよかったと思うよ >>679
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文は?
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! >>679
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! >>679
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネは?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! 殺人戦争で版図拡大したのは、関西の犬食部落民団体の福岡起源一元説だけ 現在では随分研究が進んで邪馬台国は二つある事が分かっている。
一つは北部九州に存在した、もう一つは畿内説者の心の中に存在している。
畿内に古墳が多いのは、当時九州王の霊園として畿内は重宝されたからである。
当時の畿内原人は鉄の武器を持っていなかったから九州勢に畿内を乗っ取られたという説が有力な説。 私どもが行った現代日本人頭骨の分析から見ても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で『特殊な日本人』ともいえる
(埴原和郎・国際日本文化研究センター名誉教授)
畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属している
(池田次郎・京都大学名誉教授)
大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い
(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)
関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多いが、沖縄の人は眉や髭が濃く、ぱっちりした二重まぶたの人が多い
(中橋孝博・九州大学大学院教授)
熊本は古来より北からの流れと南からの流れが見事に交錯してきた美人の産地
(松下孝幸・土井ヶ浜人類学ミュージアム館長) ウソブいている、脳味噌と心臓と目玉を無麻酔でほじくり出されたい
サギサギ「在日チーノ」が居るなあ。
じゃあ、チーノの脳味噌と心臓と目玉をほじくり出すか。 九州は半島と戦ってきたからな。
今でも最大の朝鮮人部落は畿内。 最近読んだ縄文語についての話では
日本の方言を比較言語学で解析すると
一様な音韻体系になりそれが縄文語だと著者は言うわけだが
その日本列島に均質にあった縄文語の上に
四声をもつ中国語を話す人たちがやってきて
彼らが縄文語を習得するにあたって
言葉は縄文語、アクセントは中国語由来の四声で喋るという言語に変質した。これが近畿を中心とする関西方言の本質という。
例えば戸はトではなく関西圏では実はトーと
音写するのが正確である。
戸が=トが
トーが
言われてみればなるほど。 >>688
で、倭が呉の太伯の末裔である事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と漢服と木沓と龍信仰は?
で、倭が太伯の末裔であるとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
. >>694
いつまでウソブいてるんだサギサギ在日チーノ。
さっさと日本から失せろ!
馬鹿層は騙せてもインテリは騙せなzいぞ。 弥生期の山東半島と土井ヶ浜人骨ってそっくりなんだよね? 九州が壊滅したアカホヤ層の後の異人肥人地域の土器は
朝鮮の土器だよ
韓国の被差別地域に数万と密集する支石墓も肥人地域だけにある しょうがねえなあ。
じゃあ、京大コブラ様が無麻酔で
在日サギサギチーノ、
在日サギサギチャンコロの、
脳味噌と、
心臓と、
目玉を、
取り出すぞ。
おえい、日本人の低学歴の馬鹿層!
ちゃんと見とけよ。 >>694
1000%在日チーノだよな、おまえ。
で、縄文期に中国語を話す中華ブタが渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰は?
. >697
で、山東半島から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネは?
今この瞬間に言えおまえ! >>691
昔から畿内には半島渡来人が入植してるからなぁ。
記紀にも載ってるし。 >>701
考古学板で聞いたら?
綾羅木遺跡と陶ケン
海童神社
鏡
銅剣
四眠蚕
くらい?かな聞いたことあるのは。 >>703
んん??
その考古学板を守護している京大コブラこと土器キッドだが何か用か?
サギサギ在日チーノ。
で、山東半島から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネは?
今この瞬間に言えおまえ! 畿内は記紀にも記載されるくらい国家ができてから
特殊技能をもった帰化人が入植するが
九州西部の場合はほとんど人がいなくなった後に半島から来てるから
半島の先住民と同根で、弥生開始期の土器も東部は瀬戸内系に属するが
西部は様式が異なる >>700
>1000%在日○○だよな、おまえ。
(引用時に一部伏字)
こういうのは、日本人はあまり書かないんだけどな
日本語は使えても、そういう感覚が分からないんだろう >>547
>素環頭大刀は下級兵士の武器だよ 日本では高麗剣と呼ばれた<
まだ「鉄矛」が出来た頃の3世紀の筑紫倭国では、
「五尺刀」であれば、将軍クラスの所有武器だよ。 >>548
>>・三世紀の九州は土器も墓制も
「それまで一切なかった」畿内の方式に塗りつぶされ独自の主体など消滅している<
>卑弥呼の死後のことだよね? だったら何もおかしくないな。<
何だか変な文だな。
三世紀の九州は、
「土器も墓制も畿内の方式に塗りつぶされていない」し、
「独自の主体も消滅も」していない。 >>349
三世紀真っただ中がそうなってんだよ。
三世紀以前から、筑紫倭國の影響がハッキリ大和に広がるんだよ。
「東征毛人五十五國」の結果や結末が顕著でドップリ 。
箸墓なんて、どう誤魔化そうが、卑弥呼の墓になんねーだよ。 >>550
>×三世紀にしたら卑弥呼の墓になる
〇三世紀にしたら周り全部完全に畿内の影響に塗りつぶされた惨めな個人墓としてさらに浮き立つ
アホか
まぁ邪馬台国の会が叫んでる「凄い財宝がある!」とか言うバカ丸出しの話だけ聞いて知ったかしてるだけだろうからな
肝心の邪馬台国時代の九州がどんなことになってるかなんて知りもしないんだろうよ<
これも、何の話なのか?、さっぱり分からない投稿だな。 >>551
>平原が三世紀だって言うなら倭人伝に出てくる
「たった千戸しかない一大卒に監視されて怯えてる惨めな伊都国王」
に完全に合致するな
時代を変えたところでただそうなるだけだ<
これも意味不明だな。
平原は、明帝の下賜鏡が元になった事を示す「尚方作」の、
21枚の方格規矩鏡があるから、間違いなく3世紀だ。 >>555
予想通りの(何を言って上げても)アーアーキコエナイの、
国粋皇国史観の分裂幻覚妄想の大和説らが来たか。
まぁサルに教えてやったのが失敗だったなw。 古田犬食部落どろぼう偽書詐欺集団は脳の情報許容量が非常に小さい >>559
あーはじまったはじまった。
いつもの国粋皇国史観の人種差別戦争狂の大和説の奴らが来ちゃったよ。
基地外呼び込んじゃったわ。
わりぃ、警察にも通報せず、位置論争とかしてる異常者放置で。 >>561
じゃあ話題変えるか。
三角縁神獣鏡はどういう風に考えてる?。
意見を聞いてみたい 。
大和説のキチガイはレスすんなよ。 どろぼう偽書詐欺集団の古田を不用意に雇用してしまったS薬科大も
事件発覚後研究室を廃止してるからな
大学の恥だと考えたんだろう >>562
>三角縁神獣鏡は、オリジナルの宝飾鏡が魏からの下賜鏡としてあったのだと思う<
洛陽から0〜1枚しか出土しないから×だし、
三角縁も神獣鏡も、魏系ではなく、呉系の鏡だったの。
>そういうのは、大王墓クラスに副葬されたのだと思うが、発掘できないand/or盗掘済みで
舶載鏡の実物が出るのは難しそう<
一番古いのは糸島の志登のものであり、大王墓ではないの。
>そして、魏皇帝からの舶載宝飾鏡の模倣鏡として、仿製鏡の三角縁神獣鏡が大量に作られて
初期の前方後円墳祭祀(前方後方分を含む)の宝具として、祭祀連合たる倭国の
メンバー首長層に配布されたのだろう<
呉系楽浪鏡師らの中に、三角縁神獣鏡を造る人がいて、
卑弥呼への下賜鏡を見て筑紫での商売を断念して、地方の豪族からの注文製作に切り替え、
大和が、 鏡作り神社を造って子弟に教わらせて、粗悪な副葬用の三角縁神獣鏡を大量に造らせたの。
>だから、仿製鏡であっても鈕孔が長方形であるとか、鏡背面に乳を持つとかの
魏鏡の特徴を持っているのだろう <
鈕孔に関しては、
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai5/sankakuf.html
の「六」以降で反論されているよ。 >>563
>逆に言えば、わざわざ直属の機関を置いて監視していないと
簡単に乱れる程度の結束だったってわけじゃん<
元々「共立」という事が、強い支配ではない、という事であり、
卑弥呼は、(強力な軍事的支配ではなく)「鬼道的な女王」であって、
軍事的支配中心は、(伊都国の)一大率が担当していたのだよ。 一大率が担当していたのはもともと非倭人雑居地域の伊都国王がいる北部九州だけ
本州の女王国内の倭人の国はそれぞれの在地の首長が統治 >>565
>(共立)結束は、王が代替わりすれば簡単に乱れる程度のものだよ
一旦まとまったものが、倭の五王の前の時代にはまた分裂して
倭の五王が再度征服した という流れも当然考えられる<
考えられない。
壹與の後の倭國の王らは、晋に継続して遣使を送っており、
317年頃にまた姫氏の王に戻って久留米〜八女付近に遷宮してからも、
東海姫氏國として倭の五王を輩出した。 >>566
>3世紀には九州と畿内がひとつの国だったけど 4世紀に分裂して
5世紀にまたひとつの国になった なんてことは当然想定できる<
出来ない。
晋書や梁書に記録されているように、晋に継続して遣使を派遣し、
倭王旨は七支刀を貰い、
倭の五王らは宋などに遣使した。 >>567
>だから倭の五王が「先代の王は西に東に征服し〜」と言ったって
その「時代にはじめて征服した」とは限らないし、「それ以後はずっと同じ国になった」とも限らない
なんでそんなこともわからないかね <
倭王武は上表文で「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
と、「自昔からずっと」だった、と書いている。 >>568
>なんでそんなこともわからないかね<
そりゃ、この男が、
国粋皇国史観の、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説に狂った・・・・アホだから。 >>571
>この倭王武の上表文の西服衆夷六十六國だけで、九州じゃないって分かるよな
九州の西に66国もないから<
「服」は、「征」や「平」のような他動詞ではなく、
「服する=服属する」という自動詞だから、
「西は衆夷六十六國が服属していた」という意味になり、
「服」を「服属せしめてあった」という意味に使っており、
という事は、
倭王武らは、以前から「西」にいた、と言っている事の証拠になる。 >>792
真っ赤なウソ
普通に「服」も他動詞で使う >>572
>第一回遣隋使は傍系の王子が勝手に派遣したものだからな <
開皇二十年、俀王姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩奚隹彌、遣使詣闕。
上令所司訪其風俗。
使者言俀王以天爲兄、以日爲弟、天未明時出聽政、跏趺座、日出便停理務、云委我弟。
高祖曰:此太無義理。
於是訓令改之。
という文のどこにも「傍系の王子が勝手に派遣した」なんて事は、書かれていない。 トゥームレイダーという映画が現在上映されている
卑弥呼の墓を探し当てるという内容でインディジョーンズみたいな冒険映画
卑弥呼が棺の中で抱えている鏡は三角縁神獣鏡だった >>726
>倭王武は上表文で「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
と、「自昔からずっと」だった、と書いている。
ずばり、倭国(阿波)を発った忌部一族が拓殖していった東・西・北の展開記述だね。
東征毛人五十五國 =近畿以東(北関東含む)
西服衆夷六十六國 =西瀬戸内・九州
渡平海北九十五國 =東瀬戸内・山陰・北陸 @阿波 >>674
>祖禰は個人名だよ 「禰」に先祖代々なんて意味はない<
私の持っている漢和辞典では、「禰」は、
1、ちちのたまや、親の廟
2、廟に祭りたる父の稱
3、かたしろ、行主
とある。 上表文では高句麗征討を要請(or宣言)しているから
「渡平海北九十五国」は朝鮮半島 >>576
>そもそも倭の五王時代は「倭」を姓としてたのに<
「倭」は、中国から「倭人」と呼ばれていた時からの「部族」呼称であり、
それが「国の呼称」にもなったもの。
個々の部族民の「姓」ではない。
>遣隋使では「アマ」が姓と言ってるし<
「アマ」ではない。
「阿毎」と書かれているのであり、
おそらく「アマ(天、海)のイ」の音韻の「漢字での音訳」。
>宋に対しては「王」が姓と言ってる<
これも、そのような記録はないな。 >>737
高句麗征討の要請と「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
とは文脈が違うだろ >>577
>そもそも倭人は里数を知らない
周旋5千里ってのは中国が勝手に書いたことにすぎない <
魏使らが「萬二千余里】を記録しているから、
ているからそれから「郡から狗邪韓國までの七千余里」を引いた残り。
>中国には本州が認識できてなかっただけで、倭人は本州含めて連合を形成していた<
梁代においても、
足摺付近の侏儒國や、出雲の文身國や、越の大漢國や、
毛人蝦夷地の女國が存在していたんだから、
倭国の東征毛人55国は、瀬戸内〜近畿〜東海〜南関東の征服地。 >>585
「南→東」などの嘘つき騙しの、国粋皇国史観に狂ったアホの大和説者には、
論理は通じないから、
相手にしたって無駄なだけだよ。
余り関わらないで、世間の人々に説明しておこう、とするのが一番。 >>739
すぐ後から
高句麗に入朝の妨害されたことを書いているだろ だからそれと「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
とは文脈が違うだろ
西服衆夷六十六國はどうすんのさ >>744
じゃ結びの高句麗征討と関係のない自慢話でも書いてるのか? >>588
>この部分だね
宋史/列傳 凡二百五十五卷/卷四百九十一 列傳第二百五十/外國七/日本國
「國王以王為姓,傳襲至今王六十四世」
確かに、「国王、王を以って姓と為す」って書いてあるわ <
ありゃりゃ?。
それでは、宋史は、
「王年代紀」の大和の天皇家の「次守平天皇、即今王也。凡六十四世」を踏襲している事になるから、
大和天皇家の姓を「王」だ、と言った事になり、
だから、隋書の俀國のタリシホコの姓の「阿毎」や新唐書の筑紫城の倭奴國の「阿毎」ではない、
と言っている事になり、
更に、日本書紀私記の「東海姫氏國=倭國」とも違う、と言っている事になり、
だから、宋史も、
筑紫倭國と、大和日本国とは違う国であった、
と証言してしまっていた、事になってしまったではないか。 >>748の追記
という事は、当然、
宋史も「卑弥呼や壹與も、大和の女王ではない」と証言していた事になり、
大和説がぺけであって、九州説が正しい、と証言していた事になる。 聖徳太子が初代天皇だったというだけの話。
四天王寺の元々の名前は天皇寺だったと言われている。
四天王寺は創建当時から、木造の鳥居があったらしい。
文献に残る一番古い鳥居の記述は、四天王寺の鳥居。 推古女帝の摂政だよ
男系主義の記紀が女帝と書いてるんだから >>589
>タリシヒコは天皇の名前でしばしばあるけど? <
宋史は、大和の天皇の姓は「王」だ、と言っており、
隋書に書かれた「多利思北孤」の姓は「阿毎」なんだから、
多利思北孤は、大和の王ではなかった、という事になるんだが。 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌
倭王、姓はアマ、字はタリシヒコ、号はアハ君。
倭王と書いてあるだろう。
アハ、阿波、淡、烏 >>597
>祇園山は集団墓だから見つかっていない<
墳頂の墓と、墳裾の(複数埋葬がある)62個の墓が「ほぼ同時代」に造られた、
という事になったから、(50〜100年間での集団墓ではなく)、殉葬。 >>605
>どうでもいいけど
過去にいって 聞いてきたの?そこまで強弁できる神経が私にはわからない。
あなたの言ってることに検証可能な科学的要素は一つもないよ<
大和説の・・・・アホの詐欺師の誹謗など、関心もないし、どうでもいいけど、
祇園山の発掘報告の中の、(報告者の解釈ではなく)、
発掘事実や発掘実態からの、、人類の常識に拠った判断だ。 >>754
日本の研究者は集団墓群は同一時期ではないからそうは考えていない
どろぼう偽書詐欺集団が、殺して周りに埋めていると言張っているだけ >>609
偽書説派や大和説者なんか、
もう誰も、普通の人間だ、なんて思って無い。
国粋皇国史観に狂った嘘つき騙しの・・・・詐欺師集団。 >>612
国粋皇国史観のどろぼう偽書説大和説の詐欺集団が、
祇園山に目をつけて、ヘイトスピーチを連呼しているということは、
祇園山が皇国史観大和説にとっては、致命的だと判った、
という事なんだろうなあ。 青森県教育庁編『十三湊遺跡発掘調査報告書』には、
「なお、一時公的な報告書や論文などでも引用されることがあった
『東日流外三郡誌』については、捏造された偽書であるという評価が既に定着している」
と記載されるなど、現在では公的団体も偽書であることを公表している。
犬食部落民詐欺集団は、連呼でいやがらせを続けている 筑紫倭国の王家が上古の皇祖であった、というのは、何が都合悪いのだろうか。 >>614
>何の証拠もないのに善意の和田キヨエさんを連呼で悪者のように仕立て上げる
どろぼう偽書詐欺集団<
旧和田家宅は、一旦不動産屋の所有になって綺麗にされていて、
それを、貧乏な筈の和田キヨエが買い取れて、
その後で、旧和田宅に沢山の尿入り?の一升瓶が出て来た、という事は、
和田家や不動産屋がそんなものを置いておく筈がないんだから、
和田キヨエが置いた犯人だ、という事にしかならない。
そして、家を買うお金や、尿入り?の一升瓶を用意した共謀者は、
反喜八郎や反古田の右翼組織であり、
和田キヨエに「反喜八郎」のビラを造る金を出し、手伝った右翼マスコミ関係者。 祇園山古墳は「葺き石」「方墳」なので、阿波國石井出身の忌部豪族の墓だろう。 のちの蘇我一族である。 @阿波 >>618
>日本の政府、文部省、マスコミ、学会教育界すべてが
どろぼう偽書詐欺商法のじゃまになるということだな <
なんせ、「南→東」などの史料の抹殺隠蔽改竄や、
自衛隊や財務省も記録を隠蔽改竄する、
「どろぼう偽書詐欺」人種だからなあ。 阿波にしては気の利いたことを書くな。
確かに蘇我氏の墓と共通点がある。 >>765
>確かに蘇我氏の墓と共通点がある。
なんで、阿波國石井出身の忌部豪族の墓としたか、分かるかな? @阿波 >>767
まぁ、訳も分からず祇園山がああだこうだ言ってるようじゃね。 @阿波 >>621
>>定義なんて、(定義した人の)「個人の自由」の範疇であり<
>これでは科学には程遠い ザラコクは無視するしかないな<
この男も、不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
数学や論理学や法学のように100%絶対断定や定義を決める事が、
その時点で ウソ騙しになってしまい、
非学問的非科学的になってしまうのだ、
という事が判らない「科学には程遠い」・・・・アホの詐欺師人間。
まるで、安部自民公明政府の、蓮池や自衛隊の問題での誤魔化しとそっくり。 まあ魏志倭人伝には瀬戸内海も四国も描写がないからな
畿内に邪馬台国があるなら、瀬戸内海や四国は通り道のはずなのにね 石井か。
やっぱり石だな。
大和朝廷は。
牛鬼伝説の石。
若草山山頂古墳は昔は牛塚と呼ばれていた。
応神以前の大和朝廷の最後の王の墓かもね >>628
>筑紫君の没落で 大和に対する従属度が高まったから 貢物も増えただけだよ<
宋史が、
大和天皇家は「王」という苗字であるとし、
阿毎氏とは違う姓である、と区別していたんだから、
阿毎氏の筑紫の倭国や、阿毎氏の天子のタリシホコの国とは違うの国だ、
と証言している事になる。
そして、大和は白村江まで、倭国の別種の旧小国であって、
白村江の後で、倭国を併合吸収継承した事になる。 >>762
何の証拠にもなっていない
詐欺集団が商売をじゃまされた腹いせに
善意の人まで陥れようとしている >>633
>うん 九州は搾取されてる従属国そのまんまだね<
ダメだな。
大和は、倭國の別種の旧小国であったのであり、
大和が盟主になったのは、白村江の後の701年。 >>769
話に流れも追わずに自分の書き込みにも責任を持たずに適当なことしか書かないザラコク
殉葬の定義をザラコクの勝手で決めていい訳ないだろうが
そんなのが個人の自由の範疇だったら同じ言葉を使っているように見えて
まったく意思疎通ができず、共通認識も得られない
まあ、まともな日本人とザラコクとでは価値観が根本から違うし、
意思疎通も最初から無意味だけどな >>634
>博多湾沿岸は畿内や山陰の影響をダイレクトに受けているが <
筑紫倭國は、
出雲からは国譲りをして貰ったが、
瀬戸内〜近畿〜東海〜南関東は、「東征毛人55国」をした地域であり、
ダイレクトに影響を与えた方。 >財務省も記録を隠蔽改竄する、
>「どろぼう偽書詐欺」人種だからなあ。
祇園山集団墓地を殉葬墓ではないかと感想文を書いてるのが元大蔵官僚 >>635
大和説者は、国粋皇国史観狂の政治思想狂いだな。
だから歴史をねじ曲げる。 鸚鵡返し程度しかできない知能の低い人種に
泥棒が書いた偽書見せて小銭集めていたのが詐欺師古田 素性を特定されないように反戦もいっしょに連呼しなさいと飼育したのは古田だろう >>639
大和説は、
「南→東」の嘘吐きや、
「大和は倭国の別種の小国」の否定や、
倭国の「東征毛人55国」の否定の嘘吐き騙しをするから、
すぐ論破されてしまい、ヘイトスピーチに逃げる。 >>650
>畿内説は学者の研究成果が根拠だから<
「畿内」なんて存在しなかったから嘘つき騙しだし、
「畿内説の学者」は、全員「南→東」などの嘘吐き騙しだから、
根拠にならない。 ジャブ聴イタ?死刑スタッフ以外ニグループ100件以上介護保険税金泥棒殺ッテマス100森友ノロウイルス虐待スイッチ押死耶手ゲローン戦争シテルンデシタッケ郡大報酬薬害公害モヤシテ老害麻薬王盗難ケタチガイ違反重々振戦山炉ウドモ処分死ネ世
https://potato.5ch.net/test/read.cgi/welfare/1461959989/ 理由のない
いい加減なことを
断定してるばかりの
狂った九州説爺さんがいる >>651
>祇園山では庄内は出てない<
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
から引用。
都出比呂志氏の表でも、
赤塚古墳を箸墓古墳とほぼ同時期(纏向3式=庄内2式。最近では布留0式とするのが多い模様)において、
それに先立つ時期(纏向2式=庄内1式)に祇園山古墳と妙法寺古墳を置き、
なかでも祇園山のほうを最古としている。 >>782
九州説はこんなウソを平気でつく
人品骨柄卑し
笑) >>786
ほら、庄内は出てないだろう
九州説は悪質なウソばかりついているな >瀬戸内〜近畿〜東海〜南関東は、「東征毛人55国」をした地域
宗教史の研究で得た知識を利用して
渡来人が日本列島に住んでいた民族を殺戮戦争によって征服支配したという
被差別層が食い付くエサを与えて商売したのが詐欺師古田の一元説 火の国に流れ着いたニセ姫氏だとか南九州の投馬国だとかは
政界用語でいう所謂毒饅頭 >>657
>当然ウソ 須恵器も出てる<
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htmの引用。
須恵器については、甕が竪穴式石室の内から採取された以外は、原位置をとどめない、ほかに・高坏蓋・甕が外周部から出土している、と報告書に記される。
これら須恵器は、甕を除けば所謂古式須恵器として見慣れたもので、陶邑窯の年代基準に従えば、大略五世紀後半代に比定されると記される。
しかし、県内でも、五世紀後半を遡る古墳に陶質土器が伴う例が、最近の調査によって増えつつある。
製作地はともかくとしても、須恵器の国産開始以前に半島からの将来品を使用する時期が存在したことは明らかである。
初期須恵器の流入を勘案すれば、県内における須恵器の副葬あるいは葬送儀礼への使用と生産開始期が全体的に繰り上がる可能性がある、とも同報告書に記される。
小田富士雄氏によると、「須恵器の源流となった瓦質土器(楽浪式漢式土器)の流入は対馬・壱岐・北部九州の弥生後期遺跡にみられ、やがて陶質土器の伝来にまで継承されている」とされる。
九州における須恵器生産は、T期(その開始は古墳中期と同じく、AD四〇〇年頃としている)から始まるが、
それ以前の0期(弥生後期・古墳前期)では、瓦質土器(金海式軟陶等)・陶質土器(金海式硬陶・伽耶土器)が輸入されたとみている。
(長過ぎとして×にされたので、以下は省略) >>671
>海路はそもそも測ってない <
測ったから書けた。
>釜山−対馬間と、壱岐−末慮間ではほぼ倍くらい距離が違うがともに千余里になっている
1日で漕ぎ渡れる渡海は一律千里としているようだ <
古田さんの計算では、水行は1日450里(短里)だから、千余里は二日余り要した事になる。
>陸路で距離を測れるのは比定地がはっきりしている末慮ー伊都間と、伊都−奴国間しかない
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
しかし、1里に当たる距離が50メートルと200メートルで、4倍も違うんだよ
きちんと測った距離ではないだろう <
それ、始めから比定地を誤魔化した計算だよ。 自分に都合のいいものしか信じないよなぁ
複数の情報を調べてみてクロスチェックするってことをしないし、間違いを絶対に認めない
知らない 調べない 理解しない >>678
>>その土坑墓の個数や位置関係をはっきり示さなくっちゃ、納得しようがない。><
>つまりザラコクは、遺跡の平面図のような基本事項さえ抑えずに
妄想で書き散らしてるってことだ<
いや、古墳の年代は棺内や副葬物が直接的根拠になり、平原もそれで判断しており、
周溝は、参考程度にしかならない、と言って置いてあるんだよ。 >>793
>古田さんの計算では、水行は1日450里(短里)だから、千余里は二日余り要した事になる。
この計算が間違っているというか、端から根拠がない
そして、寄港するところのない大海上の船の上で夜明かししたら流されて終わりだよ
二日あまりなら、二夜過ごさないといけない
これが致命的だって思い至らないところが能なしの証
そもそも短里なんてないから >>795
でも、遺跡の平面図すら把握せずに、適当に書いてたのは事実だろうが! >>681
>>庄内は三雲が先行し、<
>ザラコクよ、ウソは百万遍連呼しても ウソのままだぞ<
柳田の「ついうっかり」発言が根拠。 >>793
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文は?
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! >>798
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! >>686
>殺人戦争で版図拡大したのは、関西の犬食部落民団体の福岡起源一元説だけ<
日本人は世界1だと宣伝して、近隣諸国への蔑視や敵対を煽って、憲法改悪をして、
国民を戦争に強制して、自分らは命令する側で栄耀栄華を貪ろう、とするのが、
安部自民公明政府や、国粋皇国史観の大和説者ら。 >>800
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネは?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! 平原遺跡は棺内や副葬物が年代の根拠にならないから
学者が周溝の出土物と総合的に判断している
詐欺集団のパシリは鏡に尚方とあるからという
いかにも詐欺師らしいことを連呼をしている 何の関係も無い政府だの戦争まで出して
とにかくいっしょになって主要勢力の悪口を叫ぶのが被支配最下層の姿
倭人伝は倭国の体制側の歴史 >>804
で、その遺跡名と、その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と
瓦屋根に土壁の中国系住居と石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと
漢服と木沓と漢字の金石文と日常食の蒸し餃子とワンタンは?
. >>722
>一大率が担当していたのはもともと非倭人雑居地域の伊都国王がいる北部九州だけ
本州の女王国内の倭人の国はそれぞれの在地の首長が統治<
当然、「東征毛人五十五國」の将軍や軍が統治したの。 柳田が言ってた三雲の庄内は搬入品
現在はTB期以降の福岡製(大和の庄内の模倣)だと判明している >>809
で、江南の中粒種のイネは?
石刃の石耜と石鋤は?
. >>727
>>久留米〜八女付近に遷宮 <
>裏付ける遺跡がない<
博多湾岸の繁栄にストップがかかった事と、
聖徳太子伝暦の証言と、
倭王旨の七支刀人形のこうやの宮の「桐の御紋」の王。 >>731
>真っ赤なウソ 普通に「服」も他動詞で使う<
動詞の本来の意味は、その文字に「す」や「する」を付けてみればわかる。
「服」なら「服す」や「服する」であり、自動詞。 >>750
>聖徳太子が初代天皇だったというだけの話。
四天王寺の元々の名前は天皇寺だったと言われている。
四天王寺は創建当時から、木造の鳥居があったらしい。
文献に残る一番古い鳥居の記述は、四天王寺の鳥居。<
聖徳太子は、厩戸の善光寺との往復手紙の「命長七年(646年)」の記載のために、
書紀の造作でっち上げ、であった事が確定している。 漢文読解の注意点(主に学部生向け)
日本語では使役のような意味の他動詞として読まない字も、
漢文ではその一字だけでそう読んだ方がよいことがあります。
例えば、「服従」を動詞として読む場合、
「(主語が目的語に)服従する」という意味が真っ先に思い浮かぶでしょうが、
しかしこれは「(目的語を主語に)服従させる」という意味になる場合もあります。
しかも『戦国策』秦五の「勝而不驕、故能服世。約而不忿、故能従鄰」などのように、
「服」にも「従」にもそれぞれ一字だけで「目的語を主語に……させる」という意味・用法もあり、
端から決めて掛かるわけにはいきません。
http://gtrk.web.fc2.com/kambunchuiten.html >>759
>青森県教育庁編『十三湊遺跡発掘調査報告書』には<
青森県教育庁では、
「安部自民公明政府や右翼マスコミや学会教育界」の嘘吐き騙しの「教育界」なんだから、
始めから全く信頼性がない、からなあ。 日本国民は詐欺集団を信頼してないから
詐欺集団が信頼する団体のほうが信頼できないから >>809
で、その徐福集団が渡来定着した遺跡名と、その生活痕たる三足や耳の付いた
中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と石刃の中国系耕作用農具と
漢服と木沓と漢字の金石文と日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、江南の中粒種のイネは?
で、石耜と石鋤は?
早く出せよおまえ! >>761
>畿内説も考古学者も祇園山には特に目をつけていない<
大和説学者も大和説考古学者も、
祇園山が、列島では唯一の「jun葬者奴婢百餘人」を満たし得る墓である、
という事がバレると都合が悪いから、
発掘解釈で誤魔化したり、
「冢、徑百餘歩」でイチャモンを付けて否定抹殺しようとしているから。 >>773
>何の証拠にもなっていない 詐欺集団が商売をじゃまされた腹いせに
善意の人まで陥れようとしている <
所有者が二度も変わった家に、突然、「大量の尿入り?の一升瓶」を置けるのは、
最後の所有者の和田キヨエしかいない。
そして、そんなものを用意した共犯者は、
「喜八郎家や古田さんをどうしても陥れなければならなかった」大和説者や右翼マスコミや右翼組織。 >>775
「殉葬」とは、
敬愛尊敬していた人の死に際して、
その死を悼んで「その死後も共にいて上げたい」として、
死する事を選んだ葬儀。 >>780
東日流に、倭人や大和軍らに負けて流浪して共存建国して栄えた毛人蝦夷の国があった、
というの事をどうしても認めたくない、
人種差別的殺戮戦争狂の国粋皇国史観右翼組織や、
右翼マスコミや、右翼学会教育界の・・・・人種。 >>785
理由のない いい加減なことを 断定してるばかりの
狂った大和説の・・・・男らがいる。 >>787
大和説はこんなウソを平気でつく 人品骨柄卑し 笑)。 >>787
大和説はこんなウソを平気でつく 人品骨柄卑し 笑)。 >>787
「都出比呂志氏の表でも、
赤塚古墳を箸墓古墳とほぼ同時期(纏向3式=庄内2式。最近では布留0式とするのが多い模様)において、
それに先立つ時期(纏向2式=庄内1式)に祇園山古墳と妙法寺古墳を置き、
なかでも祇園山のほうを最古としている」
だから、都出氏は、(ついうっかり?)、
祇園山に庄内が出ている事を前提にしての書き方、
をしている事になる。
祇園山から庄内が出ていなければ、祇園山古墳の名前を出す筈がない。 >>789
>>瀬戸内〜近畿〜東海〜南関東は、「東征毛人55国」をした地域 <
>宗教史の研究で得た知識を利用して
渡来人が日本列島に住んでいた民族を殺戮戦争によって征服支配したという
被差別層が食い付くエサを与えて商売したのが詐欺師古田の一元説<
宋書に紹介された「倭王武の上表文」という一級史料と、
梁書時点での認識を根拠にした(私の)推論論理。 安直に断定してるとは思ったが
やっぱり勝手に妄想してただけか >>790
>火の国に流れ着いたニセ姫氏だとか南九州の投馬国だとかは
政界用語でいう所謂毒饅頭 <
魏志から通鑑前編までの歴代中国史書群に共通する認識と、
新撰姓氏録や日本書紀私記や野馬臺詩や松野氏姫氏系図などの列島側史料などから、
得られた史料事実であり、史料実態。 >>825
>祇園山が、列島では唯一
唯一だとしたら、列島には殉葬の風習は「なかった」という証明でしかないんだが
その辺の論理矛盾には気づきもしないんだろうな >>830
>大和説はこんなウソを平気でつく 人品骨柄卑し 笑)。
要するに、こうやって日本人を貶める書き込みをすることが
とにかくうれしくて楽しくてしょうがない、というのがザラコクの価値観
他人を批判する文に「笑」が付けられるというのが、一般の日本人とは根本的に違う
日本人を悪くいい、日本の歴史、卑彌呼の存在を矮小化するのが目的だから、
歴史の真実とは無関係に、嘘でたらめ捏造ごまかしを平気で書き続けるし、
どんなに明確に間違いを指摘されても、絶対に認めないし誤らない
なぜなら、ザラコクの認識・価値観では、自分が日本人よりえらい=必ず正しいと
信じ込んでいるから
○国人と考え方、価値観がまったく同じ >>835
そんな認識があると
言っている歴史学者はいない >>792
>>古式の 須 恵 器<
>瓦質土器でも陶質土器でもない<
内倉氏の報告では、
筑紫の遺跡からはあちこちで、
弥生土器と「全く色合いが白い陶器」様の混在した出土が存在した、
体験を語っておられ、
現地の発掘担当者は、
それらは全部、後代のものが洪水などで流されて来て、混在したんだろう、
という妄想で抹殺隠蔽してしまっていた、
と書いておられた。
しかし、それらの遺跡の全部で、
「弥生土器と白い陶器様土器」ので洪水などでの混在などでのが、起こる筈がない。
ここでも、発掘担当者は、先入観かか?上司の大和説学者の命令か?で、
発掘実態の改竄行為、という犯罪者的行為をしていた、という事になる。 >>832
お前の連呼してる国は「ついうっかり王朝」にしろよ >>784
国粋皇国史観大和一元列島支配教という思想宗教的な「結論先にありき」人種の、
・・・・大和説者らは、
自分に都合のいいものしか信じないよなぁ。
複数の情報を調べてみてクロスチェックするってことをしないし、
じぶんらの間違いを絶対に認めない。
知らない 調べない 理解しない。 >>840
読みにくいから興奮せずに書けよ
内倉って元新聞記者のか? 学問の場では素人の感想じゃ根拠にならないんだよ >>796
>>古田さんの計算では、水行は1日450里(短里)だから、
千余里は二日余り要した事になる。<
>この計算が間違っているというか、端から根拠がない
そして、寄港するところのない大海上の船の上で夜明かししたら流されて終わりだよ
二日あまりなら、二夜過ごさないといけない
これが致命的だって思い至らないところが能なしの証<
「何とか号」とかの航海実験でも、全く自力航行が出来ず、結局機械船に曳航されてしまったし、
「持衰」が必要な位なんだから、当然昼間一日だけでは全く渡海出来ない状態であった訳で、
それが致命的だって思い至らないところが、
反古田の大和説者が能なしの証。
長里なら、もっと矛盾が発生するだけなんだし。 >>797
>(平原1号墳と2号墳とそれらの周溝や土坑墓などの位置関係)
でも、遺跡の平面図すら把握せずに、適当に書いてたのは事実だろうが!<
何度かちらっとは見たが、年代に関しては、
(棺や副葬品に比べて)傍証にしかならない事は判っていたし、
関心がなかった。 「何とか号」は自力航行が出来なかったんだから
参考にならんだろw >>806
>平原遺跡は棺内や副葬物が年代の根拠にならないから
学者が周溝の出土物と総合的に判断している <
21枚の「尚方作」の鏡、という金石文の存在が、殆ど絶対的年代根拠。
>詐欺集団のパシリは鏡に尚方とあるからという
いかにも詐欺師らしいことを連呼をしている<
明帝の下賜鏡が元になった、という事は否定しようがない。 なんでも鑑定団にもってくるニセモノも大抵有名作家の名前が書いてある >>808
>何の関係も無い政府だの戦争まで出して
とにかくいっしょになって主要勢力の悪口を叫ぶのが被支配最下層の姿
倭人伝は倭国の体制側の歴史 <
何故「南→東」というような、・・・・のような嘘つき騙しのするのか?や、
何故、wwらがしきりに人種差別蔑視的な投稿に拘るのか?や、
何故大和説者が、偽書説に拘るのか?、
などを考えて見れば、最終的には、
安部政府文部省の「皇国史観大和一元支配説の意図や方針」が諸悪の原因、
という事にならざるを得ない。 >>812
>柳田が言ってた三雲の庄内は搬入品
現在はTB期以降の福岡製(大和の庄内の模倣)だと判明している<
その大和からの搬入論が、米田の、
「加美や久宝寺での(布留ではなく)庄内と伽耶の陶質土器との共存」などで、
3世紀第4四半世紀になってしまい、
大和は、三雲よりも50年近く遅れていた、という事になってしまっていた。 >「加美や久宝寺での(布留ではなく)庄内と伽耶の陶質土器との共存」
これがウソだから3世紀第4四半世紀にはならない >>851
それ、ザラコクの捏造でしょ
全くのウソ >>819
>漢文読解の注意点(主に学部生向け)
日本語では使役のような意味の他動詞として読まない字も、
漢文ではその一字だけでそう読んだ方がよいことがあります。
例えば、「服従」を動詞として読む場合、
「(主語が目的語に)服従する」という意味が真っ先に思い浮かぶでしょうが、
しかしこれは「(目的語を主語に)服従させる」という意味になる場合もあります。
しかも『戦国策』秦五の「勝而不驕、故能服世。約而不忿、故能従鄰」などのように、
「服」にも「従」にもそれぞれ一字だけで「目的語を主語に……させる」という意味・用法もあり、
端から決めて掛かるわけにはいきません。<
「服」を(名詞ではなく)動詞として使われていても、
その本来の意味の「服す」は、自己の行為を示す自動詞なのであり、
それを他動詞として使っても、
「服せしめた」というように、服するのは自己の行為であり、
元の「自己の行為を示す自動詞」的な意味が消える事がありません。 zarakokuは漢文を読めないが、現代国文法も知らないんだね どういうことだろうか。。。
851日本@名無史さん2018/04/06(金) 07:34:23.83
>>812
>柳田が言ってた三雲の庄内は搬入品
現在はTB期以降の福岡製(大和の庄内の模倣)だと判明している<
その大和からの搬入論が、米田の、
「加美や久宝寺での(布留ではなく)庄内と伽耶の陶質土器との共存」などで、
3世紀第4四半世紀になってしまい、
大和は、三雲よりも50年近く遅れていた、という事になってしまっていた。 >>858
考古学を勉強すればするほど、纏向が大物主の倉庫だったことが、腑に落ちるのではないのかな。。。 >>858
それ、ザラコクが適当に思いついた
真っ赤なウソでしょ? >>859
全く勉強していない人がそんな妄想をする テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は無いもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。 改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。 >>862
九州説はどうしてそんな嘘がつけるんだろう
(あきれ顔で慨嘆) 論破されてしまったキナイコシが、あきれ顔を演じて狼狽を隠して、抵抗しているね。。。 >>863
仕方ないよ、、、、
奈良のあの古墳は、天皇の妹を祭ってあるものなのだもの。。。
魏志倭人伝の世界の古墳とは、時代も、距離も、方角も、形もなにもかもちがうのだからね。。。。
テンプレートは嘘をちりばめて、その全てのことに言い訳しなきゃならないのだからね、、、 >>854
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文は?
で、呉王夫差の後裔が山門に渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! >>863
同感だよ。
邪馬台国と関係ないことばかり書き連ねてあり、何かを証明した気分になって自己陶酔している、気持ちの悪い文章だよ。
学問する文章ではない。 >>854
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! 敗残の九州説には、もう悪口しか言えない老人が残るばかりか >>854
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネは?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今すぐ言えよおまえ! チャキチャキの江戸っ子気質というのは、家康の頃に大阪から移民してきた難波っ子気質を継承している。
しかし大阪の摂津住吉が博多住吉を起源にしているのを見ると、実は博多っ子の喧嘩っ早い気質を受け継いでいることがわかる。
筑紫倭国のヤマト魂とも言える。 土器といい古墳といい
実は阿波の発掘成果が編年に反映されてない気がする。
ヤマトの語源も実は阿波の地勢からきたのではないかと思い始めたよ。 >>821
日本国民は、
「南→東」などの嘘つき騙しをし、それをどうしても撤回出来ないのような、
大和説学者や詐欺集団を信頼してないし、
その詐欺師集団が信頼する上部組織や団体の方も、
信頼出来なくなっているから。 >>824
つくづく、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者や、安部自民公明政府文部省って、
素人騙しだなあ。 ここの連中は俺が来るまで20年間も中国から来た来た詐欺も潰せなかった中卒レベルの馬鹿ジジイの集まり。
詐欺師も悪いが、そんな詐欺も潰せないおまえらの考古学力の低さ、不勉強さ、
頭の弱さ悪さが一番悪い!
俺が現れなかったら、おまえら詐欺られたまま鬼籍に入るところだったんだぞ。
本当に邪馬台国の連中は頭の弱い、頭の悪い中卒レベルのジジイばーっかり。 >>878
日本の公的機関を信頼できないなら祖国に帰れよ 実際ここにいる九州説もどきは、九州説も九州王朝説も信じているわけじゃなくて、
日本人の学問に×を付けて貶めたいだけの工作員だよ
漢文も読めないし、日本語も怪しいし、遺跡がどんな状態でどのような配置なのかも
知らないまま憶測で捏造でたらめを書き続けている
嘘をつくことに一切罪悪感のない文化であり価値観だからできること
一般の日本人とは違う 現在は随分研究が進んで邪馬台国は二つある事が分かっている。
一つは北部九州に存在した、もう一つは畿内説者の心の中に存在している。
畿内に古墳が多いのは、当時九州王の霊園として畿内は重宝されていたからである。
当時の畿内原人は鉄の武器を持っていなかったから九州勢に畿内を乗っ取られたという説が有力な説である。 >>834
この大和説者も、安直に断定してるとは思ったが、
やっぱり、倭王武の上表文と梁書の記載の整合性のある解釈が出来ないで、
勝手にアホな妄想をしてただけか。 >>836
>>祇園山が、列島では唯一<
>唯一だとしたら、列島には殉葬の風習は「なかった」という証明でしかないんだが
その辺の論理矛盾には気づきもしないんだろうな<
唯一というのは、「殉葬奴婢百余人」に適合する、という事でが、
祇園山が「列島唯一」であった、と言っていた訳で、それをこの男は、
「列島には殉葬の風習はなかった」という嘘つき騙しのすり替えをして、
誹謗している訳。
列島での殉葬の風習なら、
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko1.htm
の全体の中に、いくつかの例が書かれていた。 考古学の魅力を伝える人がなかなかいない。
畿内に文字の痕跡がないのは既定路線として、
同時期の阿波や吉備にはあるのかな? >>889
奈良に遷都する前の倭国(阿波)王都で、役人が習字をしていた木簡。
同時期の九州にはあるのかな?
奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
徳島県国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀末頃に阿波から奈良へ遷都(持統朝)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354
http://awakouko.info/modules/webphoto/index.php/photo/203/
http://www.geocities.jp/yasuko8787/kannonzi.htm 将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている >>862
そうだね、、、
そして、僕たちは最近新しい情報を手に入れたね。。。 >>892
そうそう、僕たちは、とうとう、優れた考古学者が紹介してくれた大物主の倉庫が、古墳のことではなく、巻向駅から歩いていける、あのちっぽけな空き地にあったものだということを調べ上げてしまったものだものね。。。 >>893
そうそう、あのちっぽけな空き地の大規模発掘調査では、その柱の穴は、粗末な倉庫のものだということと、大物主時代の化石だらけだったことと、そして、そこが、魏志倭人伝時代の直前に湖の底だったことが判明したのだものね。 奈良時代直前ではなくて
2世紀 3世紀がどうだったのかな? >>894
倉庫の遺蹟は、実はネアンデルタールのものだったのではないのかな。。。 >>896
そして、あの古墳は魏志倭人伝時代からずっと後の時代の物だったことも、2013年に実施された別の大規模調査で判明したねw >>895
>2世紀 3世紀がどうだったのかな?
2世紀 3世紀に倭人が書いた文字はどうだったのかな? @阿波 >>888
全く・・・
九州説の情報源って、せいぜい素人の書いたネット放言くらいだな
笑) 岡上氏が書籍を発売したというのは真実なのだろうか。。 2013年の大規模調査なんてない
日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/
研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、
宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。
立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。
研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。 >>900
畿内説を信じるキナイコシの脅威となるのではないのかな。。。 >>837
>和田喜八郎の家に関する 反日泥棒擁護集団のパシリが連呼している話と
和田キヨエさんの文書とは内容が違うな
和田の家どうこうよりも、泥棒喜八郎が書いた偽書の内容が偽書だから
和田キヨエさんの文書・・・ 和田の家の写真・・・<
和田キヨエは、喜八郎さんの従妹であり、終戦頃の子供の頃から、
(母子共に)本家の和田元市(喜八郎さんの父)家の横の家に住まわして貰って、
世話になっていたが、
喜八郎さんが、和田家文書の公開に踏み切って有名になってから、
偽書説キャンペーンが始まると、突然、偽書説派の説得要望に応じて、
喜八郎家の人々への確認も取らずに、偽書証言をし、
更に、(どこから金を貰ったのか?知らんが)、
喜八郎さんが偽書を書いた、というビラを大量に印刷して、配布して回る、
という、常識では考えられないような、異常な行動を起こした。
そして、喜八郎家が村八分に遭って、喜八郎さんも亡くなって、
喜八郎家が不動産屋に売却された後、
また、どこから金を手に入れたのか?は知らんが、和田キヨエがその家を買い取って、
それから、大量の尿入り?一升瓶が置かれた!
という事は、
普通の神経なら、元喜八郎家を買おうなんて考えもしない筈なのに、
和田キヨエは、子供の時から、本宅に対する強い憎しみと、本宅に勝ちたい、
という異常な執念を持っていた、精神的な異常者であったらしい、という事。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>906
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったと考えているのかな、、、 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>888
>いくつかの例が書かれていた。
元公務員が退職後にチラッと本読んで、何も根拠を示さず
「同時の埋葬(すなわち、殉葬)私には考えられる。」「殉葬の可能性が強いのではなかろうか。」
と素人の感想を書いているだけ
具体的な殉葬墓例は半島のものしか書いてない
そして慶尚南道の松鶴洞1号墳が2002年に3基の円墳だったことが判明した
前に書いた感想文だから情報も古い
退職後の小遣稼ぎで書くには
考古知識がほとんど無い九州説の立場のほうがよかろうと考えたのかもしれない もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。 >>904
善良な日本人の和田キヨエさんと、ウソつき、妄想癖常習犯の泥棒のパシリなら
和田キヨエのほうが信じられる >>914
次回のスレッドからは、論破されてしまったテンプレートを撤去すべきではないのかな、、、 >>913
>論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
九州説のスレを立てて、そこを盛り上げてから言え
岡上のやってることは、畿内説の名前を使って背乗り偽スレを大量に立てて
悦に入ってるだけじゃないか
学問板でやることじゃない! キナイコシは、なぜスレッドに張り付いているのだろうか。。。。 >>907
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 >>908
あの、鍵穴型の墓のせいじゃないのかな、、、
魏志倭人伝に書かれているものとは帯方郡からの方角も距離も形も違うけどね。。。 僕たちは、なぜか岡上氏だと勘違いされているね。。。
僕たちにとっては、あの博識な岡上氏と間違えられるのは光栄なのだけれども、、、、、
思い込みの激しい、キナイコシと皆に呼ばれている、奈良の狂った老人に、いわれのない誹謗をされている本当の岡上氏に、申し訳ないね。。。 岡上氏は、テンプレートを貼り付けているあの狂った奈良の老人には脅威のようだね。。。 もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。 >>913
信仰すること自体に喜びを見出した、畿内説が破綻していることを認めたくない、頑固な老人信者たちにも、畿内説以外の信仰対象がたくさんあることを、教えてあげられるっていうメリットもありそう。 もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。 >>917
2013年のあの大規模調査よりも、数年後のあれのせいでしょ。
勿論、2013年のあの調査が畿内説破綻の発端となったことには変わりないけど、、、
やっぱりとどめになったのはあれだね。。。 もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。 次回のスレッドからは、論破されてしまったテンプレートを撤去すべきではないのかな、、、 結局、九州説が学者の研究成果を素人考えで拒絶しなければならないということは
考古事実は九州説の可能性が無いことを示している
だからここのように荒らしでいやがらせするしかなくなった >>920
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 >>921
2013年以前から、桜井市のあの古墳は、卑弥呼の古墳ではなく、天皇の妹の古墳だと認定されているのにね、、、
しかも、天皇家直近の国家機関からの公式発表なのに。。。 >>923
仕方ないよ。。。
端から見ていると学識とIQの差がありすぎるのだもの、、、 >>924
でも、インタ−ネット工作が、観光客の対応に、猫の手も借りたい筈の、黄金週間もやまなかったね。 >>935
ここで騙しの宣伝しているのは、
奈良の観光関係の組合員や、公務員じゃないのかもね。
ひょっとすると、専門の下請け業者なのかな、、 >>926
なるほど、畿内説信者さんたちに、次の信仰の対象を選んでもらうわけね。
でも、選ばれた説の論者には、負け組や、疫病神に取りつかれたようで、かえって不気味、、、 >>928
しっ。だめだよ、それだけは。。。
発狂者が増えてしまうもの。 もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。 もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。 次回のスレッドからは、論破されてしまったテンプレートを撤去すべきではないのかな、、、 もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。 もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。 次回のスレッドからは、論破されてしまったテンプレートを撤去すべきではないのかな、、、 >>936
そんな、組織だった工作ではないと思うよ。
書いている内容が、狂人のように錯乱しているからね、、、、 >>938
そうだね。。。。
ただでさえ閑散とした桜井市周辺に、ブツブツつぶやく発狂者が徘徊するさまはおぞましすぎるね。。。
二度と訪れる予定はないけど、、、 もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。 次回のスレッドからは、論破されてしまったテンプレートを撤去すべきではないのかな、、、 天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの延べ何百時間にも及ぶ大規模調査が実施された2013年以来、箸墓古墳を卑弥呼の墓とは、誰も言い張らなくなってきたね。。。 >>943
でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。。 >>952
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている 東京オリンピックで海外から観光客が来る前に
この知能の低い荒らし連中はどこか見られないところに
移住させといたほうがいいのではないだろうか
日本人かと勘違いされてしまう キナイコシは、なぜスレッドに張り付いているのだろうか。。。。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったと考えているのかな、、、 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。 >>956
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 >>963
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 >>957
あの、鍵穴型の墓のせいじゃないのかな、、、
魏志倭人伝に書かれているものとは帯方郡からの方角も距離も形も違うけどね。。。 もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。 次回のスレッドからは、論破されてしまったテンプレートを撤去すべきではないのかな、、、 現在は随分研究が進んで邪馬台国は二つある事が分かっている。
一つは北部九州に存在した、もう一つは畿内説者の心の中に存在している。
畿内に古墳が多いのは、当時九州王の霊園として畿内は重宝されていたからである。
当時の畿内原人は鉄の武器を持っていなかったから九州勢に畿内を乗っ取られたという説が有力な説である。 なぜ、キナイコシは多くのスレッドに出張して、荒らし行為を行うのだろうか。。。 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1522987809/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>839
>>魏志から通鑑前編までの歴代中国史書群に共通する認識と、
新撰姓氏録や日本書紀私記や野馬臺詩や松野氏姫氏系図などの列島側史料などから、
得られた史料事実であり、史料実態。<
>そんな認識があると 言っている歴史学者はいない <
私の書いたのは、史料事実ばかり。
それを知らない、という歴史学者は、は、勉強不足のアホであるか?、
都合の悪い史料は始めから見もしない、という詐欺師であるか?、
見ても全く無視する・・・・か?、だな。 >>850
半分×書の記紀も偽書だし、
真書の都合の悪い部分を否定曲解するのもサギだし、
金石文の記載を無視するのはするのは犯罪者的だし。 >>852
>>「加美や久宝寺での(布留ではなく)庄内と伽耶の陶質土器との共存」<
>これがウソだから3世紀第4四半世紀にはならない<
ウソだ、というのなら、証拠を出せばよい。 嘘つき九州説さんは
「加美や久宝寺での(布留ではなく)庄内と伽耶の陶質土器との共存」
ってのが事実だって証拠が出せないだろ?
真っ赤な嘘だから
w >>857
>目的語とか、知らない九州説爺さんなんだろうなあ<
(表音文字ではなく)言語や表意文字の漢字は、
元の意味を持ったままで、いろんな品詞や働きをする文字として使う事が出来る、
という事が、「何でも断定する」しか脳がない大和説の・・・・アホは、
判らないんだろうなあ。 >>864
大和説者は、どうしてそんなに沢山の嘘がつけるんだろう。
(あきれ顔で慨嘆) >>871
敗残の大和説には、
もう悪口しか言えない戦争狂の・・・・アホ男が残るばかりか。 >>978
自動詞だ自動詞なんだと断定して言い張るzarakokuが
今日も墓穴を掘っている >>882
実際ここにいる大和説もどきは、纏向説も大和説も信じているわけじゃなくて、
逆に、人種差別的国粋皇国史観の、
政府文部省や右翼マスコミや右翼学会教育界や戦争キョクウの似非学問に、
はっきり×を付けてしまっているアホ人種だよ。 畿内説は畿内説を語らず個人攻撃に走るだけだな。
見苦しい。 >>899
全く・・・
大和説の情報源って、せいぜい素人の、
「文献考古の中の都合がよい文字やものを集めてこねくり回して」の放言くらいだな。
笑) キチガイはスレ埋め立てには本当に役に立つな
ほら、もう少しだから頑張れ
人生で一つくらい人の役に立ってみろ >>931
結局、大和説者が学者の研究成果までを拒絶しなければならなくなったということは、
考古事実は、大和説の可能性が無いことを示している。
だからここのように、荒らしでいやがらせするしかなくなった。 zarakokuは
他人の発言のオウム返しで
機械的に主語だけ入れ替えてるから
言ってることが支離滅裂だな >>977
>嘘つき九州説さんは
「加美や久宝寺での(布留ではなく)庄内と伽耶の陶質土器との共存」
ってのが事実だって証拠が出せないだろ?
真っ赤な嘘だから<」
古田史学の本に、米田敏行の投稿があったから、読んだだけだよ。
w 結局キウスもザラコクも二人揃って、九州説が心の病気だって証明してるのね >>994
結局wwもssnも阿波も、三人揃って、
大和説が心の病気だって証明してるのね 。 >>993
それを歪曲してウソ情報を流してるわけだな?
デマはいかんよ >>996
具体的に個人攻撃とは何で
まともな意見とはどんなものだ? このスレッドは1000を超えました。
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