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毛利元就VS宇喜田直家VS尼子経久
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0001日本@名無史さん
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2018/04/12(木) 20:46:02.69
中国地方最強の謀略王決定戦!
0083白馬青牛 ◆sKm0uQPecU
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2018/10/01(月) 02:31:06.61
>>80
また、九州君が捏造文創作やりだしたんか。
>>81
まずは兵力数が白髪三千丈じゃし、昭和の日華事変の中国軍兵力ですら、実数は
二割、三割兵力程度よ。
590 :白馬青牛 ◆8mr41B7alChB :2013/06/16(日) NY:AN:NY.AN 0
文献の数字を正しいとするもんは宗教カルトくらいのもんで、歴史学から既に逸脱
しとるじゃが。 昭和期の日華事変の例として、
 常徳城攻略でも、森金千秋氏は「日本側は、中国軍の守兵13,000と発表している
五十七師が、 多くても3,000名もなかったと思われる裏づけとして、遺棄死体502、
捕虜540の合計がわずかに1,042名であり、余丁万師長が率いて脱出した兵力は200名で
あったから、これを加えても1,242名となる。別に脱出した兵が1,000名としても
3,000名にはほど遠く、ましてや13,000というような兵力は計算上まったく成立しない
のである。  また、中国側が発表した、常徳会戦戦闘序列表によると、二戦区軍、
五個集団、三個兵団、十六個軍、四十五個師という天文学的なもので、われの
五個師団くらいで戦える相手ではないはずであったが、 一個師三千〜 四千、小銃が
二、三十名に一挺のような状態で、はなはだ非力な軍団であったのである。」
 あんた、公式発表や文献は基本的に「白髪三千丈」の物語じゃ云う認識すら
欠如しとんじゃけぇ。 ほいから、森金千秋氏の〔筆者注〕「軍の発表した敵軍、
師団の完全殲滅、撃滅などにはかなり疑義がある。「殲滅」で半分程度、「撃滅」で
三分の一程度の損害を与えたと見るべきであろう。それは、日本軍が 陣地突入後に
捕虜と遺棄死体合わせて十分の一程度の戦果が普通で、大方は常に後退して
しまっていることで明らかなとおりである。 」
0084白馬青牛 ◆sKm0uQPecU
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2018/10/01(月) 02:42:52.44
>>81
続き。「つぎに遺棄死体であるが、これも常に実数の二倍から三倍の誇張した計算が
なされている。たとえば一人の遺棄死体があったとするとき、同一戦場を通過した
部隊が仮に三個中隊あったとすると、それぞれ確認遺棄死体として報告されていた
からである。すなわち一人の遺棄死体が三人になるのである。軍の発表によると
二十四個師を少なくとも撃滅したことになっており、軍は常々中国の 一個師を平均
一万以上に見積もっていたが、これもまったくでたらめであって、もしも一万人平均
なら合計二十四万人の兵員があったことになる。それなのに ほとんど全滅したことに
なっている敵の遺棄死体は29,503(実数は10,000人くらいと思われる)、捕虜14,025合計
43,528名である。撃滅したはずの残る二十万人の 行方がわからないことになる。」
28 名前:イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2006/08/26(土) 01:07:32 ID:fSf5W6lR
>>シナにおける日本軍の損害は四五十万。 ざっと「キルレシオ」を30と仮定
しても、45万人×30で支那人を 1500万人は殺ってないとおかしい計算になり
ますw。50であれば 軽く2000万人をオーバーします(藁)。 
もちろん上記は「数字のトリック」があり、前スレでも述べたように日本軍は支那人
の遺棄死体のダブルカウントなどは当たり前(別に日本軍に限った話ではありません
がw)、さらに戦場では、そもそも遺棄死体をカウントする暇などないので、単純に
自軍(日本軍)の戦死者数を何倍かして報告するのが通例だった と言います。
一体どこでこの話を読んだか、ようやく思い出しまして『長沙作戦』(佐々木春隆著、
出版社 :1988年)でした。この話を横に置いたとしても、上記の支那人の遺棄死体は
かなり水増しされていると考えるべきです。また日本軍は、戦死者の他にも3倍の
負傷者がいます。よって全体の戦死傷者は約4倍と考えてください。 」
0085白馬青牛 ◆sKm0uQPecU
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2018/10/01(月) 03:42:19.20
>>81
島津軍が七千で明・朝鮮軍が十万じゃの馬鹿げな大嘘兵力比較がまず破綻しとる。
明、朝鮮軍の戦死者も、自軍の島津軍の戦死者まで加えて、何倍も水増し敵兵戦死者と
して、島津軍の捏造戦果の敵兵死者数が増えるわけじゃし、特に泗川じゃ、
明、朝鮮軍が島津の迂回殲滅から退却し、島津勢は追撃して逃げ遅れた敵兵を島津
諸部隊が通過するたびに、敵兵戦死者が水増しに捏造されるわいのう。
ほいから、泗川の戦い自体、釣り野伏せりの延長の迂回包囲殲滅云う近代戦の
マニュアル通りじゃし、正面は火力鉄砲隊の時間稼ぎで、正面激突の敵も味方も苦しい
激戦でも無ぁし、迂回包囲殲滅方式で、兵力温存の為に敗走した明・朝鮮軍を追撃
しただけの猫騙し勝利に過ぎんよ。ほんまの激戦ガチンコ正面戦闘なら、疲弊して
敵さんを追尾出来る暇なんか無ぁわ。 
まあ九州将兵の戦闘のやり方は正面激戦避け、迂回殲滅の外へ広がる円形運動で、
オカマ堀りでケツ掻く姑息な手法しか出来んけぇのう。接近膠着戦となると
士気低下で安易で楽な玉砕選ぶ弱さじゃし、幕末戊辰の鹿児島の薩奸が如く九州人は
政治的にも、猫だましで陰湿な謀略ばっかしよのう。
島津軍の関ヶ原の正面の一角を開けての遁走劇もお笑いなんじゃが、徳川方が
側面挟み撃ち隊形で島津軍は迂回を阻まれたけぇ、逃げ道は、一角を開けるしか
無ぁし、遁走で追撃された失態例の癖に正面一角開け逃げを正面突破と
自慢する阿呆らがおるけぇのう。正面激突でお互いに死力を尽くし正面撃破した
わけでも無ぁ逃げ道敗走で、食い止め時間稼ぎの部隊、兵を見捨てて殿が逃げる
お粗末な戦闘に過ぎんのにのう。激戦戦闘に弱い九州将兵の戦さじゃのこの
程度なんよ。
0086白馬青牛 ◆sKm0uQPecU
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2018/10/01(月) 03:51:04.46
>>82
724 :白馬青牛 ◆MSPArYuLmJK6 :2014/10/06(月) 00:59:54.02
 平治の乱でも、治承・寿永の乱でも、各豪族が分かれて行動しよったし、
瞬殺された事件じゃの無ぁわ。役職追放された豪族でも多くは土着したし、
東国武士が 地頭として移住してきても、初期の婚姻相手は地元豪族じゃし、
地元豪族系を抱えることで武力、兵力が成り立つんよ。
平賀勢自体、九州で攻略武勲を立てても一度も合戦で負けたことも無ぁし、
家臣を闇討ちにしたら、勝ったと喧伝する九州人は姑息で哀れじゃのう。
大友にも毛利は負けたことが無ぁし、大内輝広が大友に尻掻かれて(そそのかされて)、
山口で 反乱したけぇ、毛利勢は立花城も落としたのに、退却し大内輝広征伐に
向かうて、殿の浦宗勝さんらを立花道雪らは闇討ちしようと麻生隆実さんに実行せえ
と命じたが、麻生さんは、小早川隆景さんに、闇討ち計画に加担せん手紙を送り、
護送したよ。
関ヶ原でも、広島勢は戦闘しとらんよ。引き蘢り云うたぁ、徳川派の吉川広家さんが
家康の真裏の最先頭で動けるわけ無ぁし、背後が敵を襲うじゃの、正面激突に強い
広島勢は恥じゃけぇ出来るわけも無ぁわ。正面激突に弱い、側面攻撃しか特技が無ぁ
九州人の価値観を投影してもつまらんわ。
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