邪馬台国畿内説 VS ネッシー実在説
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周尺なり
通典の引く白虎通に曰く、夏は日を法とす。 説文解字のこの3文字に対する注記が以下に書いてある 中国の神話では昔、太陽は10個あってそれが一つずつ空に上がっていたのが、
ある時10個が一度に上がって、夜がなくなって灼熱になったので、9個を弓で射落とした、とある 尺で計れば、長さがはっきりする(極まる)=極まらざるなし 夏王朝は、日を法とする王朝で、日の数が10なので、10寸を尺とした 一歳の中は、一年中
一年が、十二月でぴったりということ 月を法とする王朝で、一年が12月だから12寸を尺とした 周朝は、五徳で言うと「火徳」なので、「地によりて生る」がよく分からないが
そう書いてあるので仕方がない 周朝は、地:陰の王朝なので、陰:女・婦人を法とした 周王朝は、地によりて生る陰の王朝で、婦人も陰なので、婦人の奄の八寸を尺とした 考えてみたけれど、奄の字はいまだに詳しいことが分からない ここに及び、その字、これより下では、周制(周の制度)では、八寸を尺としたという話だ 王制(礼記の一篇)によれば、いにしえには周尺の八尺を歩としていた 八咫鏡の件で言い負かされたのがよほど悔しいのか。
諦めろ。
平原遺跡が卑弥呼の墓。 >>528
それは、原田大六氏の単なる思いつきなんだよ >>528
>平原遺跡が卑弥呼の墓。
大体、平原遺跡とか 王制というのは、礼記の一篇の名称であると同時に、周朝初期やそれ以前の聖王による
理想的な治世の時代の制度、くらいの位置づけ 鄭注では、周尺の数(長さ、寸の数)はいまだに詳しいことははっきりしない 鄭注は、後漢の鄭玄(じようげん)が経書に施した古典の注釈。また,その経書。じょうちゅう。 礼制の(記述)から考えて、周(の制度で)も、なお十寸で尺としていたようだ(と鄭注に書いてある) 孔子の「礼制」による既成の秩序維持の考え方は周王朝期の礼制に依拠している 後漢の鄭玄は古文経の『周官』を中心として『儀礼』と『小戴礼記』を三礼として総合的に解釈する体系的な礼学を構築した 考えてみるに、春秋戦国時代には、変乱法度が多かった。 「蓋し」は、推論・推定を導く 「考えてみるに」程度の意味 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています