>>194
幹候でも、地元広島ん将校がほとんどで、陸士出は、たまに他地域の神輿隊長担ぐ
けぇ、広島人の戦闘のやりかたを知らんで意思疎通出来ず悲劇にも成るし。
広島39Dでも、広島231聯隊の第二中隊で、「小川少尉(福岡県・陸士)は、この戦地に
来て 三ヶ月 ほど。年も若く兵隊の気心もまだ十分につかめてなかった。
 頭から射ちおろす敵陣と交戦数秒。じれた少尉は、敵の銃声が一時とだえた時に、
軍刀を引き抜き、"突っ込め"と走り出したが、誰もついて行かなかった。」
後にこの件は、桐野少佐が、十五年初年兵に「広島の者は手を挙げろ。」全員
広島出身だ。
「お前らの先輩はなっとらん。指揮官一人敵陣に突っ込ませておいて、誰もついて
行きはしなかった。」と、とんだ歓迎の辞であったが、
広島藤部隊「第一中隊記」じゃ小川少尉の戦死に、「その戦記を読まれる多くの
広島出身の戦争体験者は自らきまった解答を出されるのでないかと思う。広島人を
愛するが故に敢えて 一文を付け加える次第である。そして小川少尉の冥福を謹んで
お祈りする。」と。
ちなみに、第二中隊は宜昌防禦戦の武勲で感状を授与された部隊じゃ。無謀な
武将気分の 酔うた指揮官と心中しとったら後の武勲も無かったけぇのう。