★★ 邪馬台国は【葛城】である【5】 ★★
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邪馬台国は葛城である。
葛城に住んでいたヒミコが判明したからである。
10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。
これで邪馬台国論争は終了する。
崇神陵=行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015年久住編年でもこれが最有力。
そして卑弥呼擁立の時代=庄内0式(2世紀末)まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを普通に遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人としてヒミコを探そうとしない。
ヒミコは記紀に登場しないという固定観念があるからであろう。
わしは探した。 ほらヒミコもトヨもいた。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
また神武から孝安まで不自然な事に正后はいても「妃」がいない。
彼らは複数の妃を持つ大王ではなかったからである。
つまり魏志に書かれた女王国とは神武〜孝安時代の事であり、 それは葛城王朝であった。
※考古学的根拠「国宝」中平銘鉄刀・和邇氏の系図は>>2 故・金関 恕(かなせき ひろし)氏が奈良県天理市和爾の東大寺山古墳から発見した「国宝」中平銘鉄刀。
金関さんは2018年3月の考古学雑誌で、この刀は卑弥呼の五尺刀ではないかという見解を言われてたようだ。
仮にそうだとして、謎の豪族・和邇氏と卑弥呼の関係が分からなかった。
説いたのはわしだ。
参ったか。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造) >>1
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰と亀卜は?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えおまえ! 訂正
×2018年3月の考古学雑誌
〇2017年3月の考古学雑誌 >>3
わしは殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたと思ってないので消えてくれないか? >>5
おまえだバカヤロウ!
このサギブキジジイが。 >>5
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰と亀卜は?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えサギブキジジイ! 鴨主の父親の説はいろいろある。
父親と盃を交わすと誓約したら、盃が空の彼方に飛んで言ったとも。
つまりは大物主云々は適当に言っているだけで、鴨主の父親は不明。
そもそも、トイレで用を足していたら、流れてきた赤い矢が刺さって子供ができたとか、見知らぬ男が夜な夜なやって来て、みたいな話だろ。
大物主の子どもとしておけば体面がいいとでも思ったんだよ。
実際には大和に大物主なんていなかった。 ヒメタタラ姫の父親は当時から不明だったということ。 >>13
ヒメ(蹈鞴五十鈴)のお父さんは事代主神=えべっさん >>5
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰と亀卜は?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ! 応神天皇元年を390年と考え、そこからの平均在位を計算できる。
平均在位と言っても短すぎるのも長すぎるのも、
正確な数値が出ないと思われるので、
30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見た。
・25代平均 応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年 11,28年
・28代平均 応神天皇390年〜42代文武天皇没707年 11,32年
・30代平均 応神天皇390年〜44代元正天皇没724年 11,13年
・33代平均 応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年 11,33年
・35代平均 応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年 11,17年
11年弱が平均在位。
さらに古くなると若干在位が短くなると考え、
「11年」で計算してみる。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、15代遡ってみる。
11年×15代=165年。
応神天皇390年ー165年=225年。
神武元年は3世紀前半。
卑弥呼の時代である。
卑弥呼とは「ヒメ」蹈鞴五十鈴媛である。 >>20
日本書紀で父は神、兄は王。
これ以上の人材はいない。 持統で終身在位の原則がなくなり、在位のあり方が大きく変わっているのは考慮しないのか 統計学を習ったことないでしょ?
・25代平均 ・28代平均 ・30代平均 ・33代平均 ・35代平均
このデータの取り方、25代までのデータが全てに入り込んでいいるから、
独立なデータになっていなくて、単に25代までのデータの末尾がゆれるだけなのは当たり前
大陸王朝の正史からデータを取ると
前漢 17年
後漢 16年
魏晋 11年
東晋 9年
南朝 7年
隋・唐 16年
こんな感じだよ
そして、応神天皇の即位年は、決めがたい
確実なところでは、推古天皇か用明天皇の辺りまで下る
敏達天皇でもいいけれど
で、基準年は用明天皇即位年に取れば586年、平均は気を使って11年から16年として、
代数は実質的な天皇であった神功皇后を入れる必要があるので22代遡ると
平均 11年
586-11x22=344 ---> 344±8年 ---> 336〜352年
平均 16年
586-16x22=218 ---> 234±11年 ---> 223〜245年
意味のある計算にはならないのは分かるかな?
安本美典氏の発表以来、どれだけツッコミが入ってるか、知らない訳でもあるまいに 文帝 煬帝 恭帝 高祖 太宗 高宗 睿宗 武則天
24 12 1 9 23 34 0 21 これで平均すると16年になるんだが?
隋の7年ってどういう計算だ?
それと、応神天皇400年が、まず怪しいと言っているのに、
崇神天皇からの系譜は
崇神 垂仁 景行 ヤマトタケル 仲哀 応神
成務
で、天皇の代数と世代数が一致している
もしこれが、一代10年そこそこだったら、それこそおかしいだろう
10歳で、次の世代を仕込むことになるぞ
仁徳 履中 市辺 仁賢
反正 顕宗
允恭 安康
雄略
みたいな、天皇の代数では9代で、世代数では4世代みたいなところと一緒にしてはダメだよ
この辺もきちんと見ると、一世代30年くらいになっていて、生物学的にも無理のない値になる
あんまり適当なことを書かないことだよ >>19
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰と亀卜は?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えおまえ! >>23
>そして、応神天皇の即位年は、決めがたい
いや決めれる。
25代武寧王の墓から買地券が出た。
つまり武寧王(501-523)は絶対的年代だ。
そこから遡る百済王の年代も同じく。
辰斯王(385-392)
阿莘王(392-405)
腆支王(405-420)
久尓辛王(420-427)
毗有王(427-455)
蓋鹵王(455-475)
文周王(475-477)
三斤王(477-479)
東城王(479-501)
武寧王(501-523)
応神3年条において百済国の阿花王 (392-405)の即位を伝えているが、
『東国通鑑』『三国史記・百済本紀』は、阿花王の即位を392年と記しており、
逆算して求められる 応神元年は390年である。
応神は390年元年である。
ならば崇神は4世紀前半である。
ならばヒミコは決まったも同然である。 >>24
>で、天皇の代数と世代数が一致している
もしこれが、一代10年そこそこだったら、それこそおかしいだろう
10歳で、次の世代を仕込むことになるぞ
世代間と在位の意味が分かってないようだ。
平均在位が平均11年、一世代間は20年であろう。
新唐書にあるように開化の曾孫が神功皇后ならば、
妃との関係で開化は崇神と同世代と推定できる。
ならば崇神から応神まで4世代。
上記、応神は390年元年なので崇神は4世紀前半になる。
何か文句あるのか? >>24
>この辺もきちんと見ると、一世代30年くらいになっていて、生物学的にも無理のない値になる
あのなぁ、 一世代30年ってそれ昭和だから。
平成の今は36年。
この前ラジオで言ってた。
卑弥呼の時代の平均寿命は40年に満たない。
ならば一世代間20年が妥当。 >>27
>ならばヒミコは決まったも同然である。
最後の一行が不要なんだよ。 >>30
崇神が4世紀前半ならばまずトヨが決まる。
そしてその前のヒミコが決まる。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
邪馬台国はヒメ(踏鞴五十鈴)やトヨ津が住んだ葛城で決まる。 >>31
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰と亀卜は?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えおまえ! 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 >>33
>天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
>天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
適当な事を書くなボケ >>33
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰と亀卜は?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
さっさと言えおまえ! 自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國(中略)次有奴國 此女王境界所盡 其南有狗奴國
― 『三国志』魏書東夷倭人
訳文:女王国より北は、その戸数、道程を簡単に記載し得たが、その余の旁国は遠く険しくて、詳細を得られなかった。
次に斯馬国(中略)次に奴國有り 此れ女王の境界の尽くる所なり その南に狗奴國有り
斯馬国(伊勢志摩)
奴國 (名古屋 語源が那古野、那古)
狗奴國 (磐田・袋井 久努(くぬ)国造 三遠式銅鐸の最終集積地)
こんな感じでしょう。 狗奴国との国境は天竜川だから、二番目の奴国は伊那、恵那、浜名のナ国か、
あるいは、美濃、信濃のノ国のように思いますね。
狗奴国連合の西端が磐田、袋井だっただけで、狗奴国連合は天竜川以東から
関東一帯に広がっていて、3Cの巨大古墳の集まりから、沼津北部にある
弥生後期から古墳前期頃の巨大集落遺構である足高尾遺跡群が狗奴国連合の
都だったように思いますね。 鳥越憲三郎の説で邪馬台国は奈良県の大和郡山市の矢田町だという説があり、
それに乗っかってもう地元では30年以上も
「卑弥呼コンテスト」ってのをやって町おこししてる。
ここはニギハヤヒ伝説の残る「矢田坐久志玉比古神社」もあり。
ここら一帯も広義の葛城に含まれる。
邪馬台国は葛城である >>39
>ここら一帯も広義の葛城に含まれる。
>邪馬台国は葛城である
その通り。
10代崇神が4世紀初頭から前半。
ならばそれ以前の3世紀の王権は葛城。
トヨもヒミコも葛城。
こんな簡単な話が分からないボンクラどもが古代史界に多い。
わしは残りの人生が30年にも満たないだろうが、
ネットに繋がる限りこれを言い続けようと思う。
わしなりの男子一生の業である。 >>39
>ここら一帯も広義の葛城に含まれる。
>邪馬台国は葛城である
後世に「葛城」と言われる一族も忌部一族なんですよ。 葛城神社のある鳴門出身ですね。
紀伊水道を渡ってすぐのところが本貫地。 @阿波 >>40
間違った学説に一生を捧げるなど、虚しいですね。 >>42
むなしいだろうな、九州説はもちろん、纏向説もw まあ長い目で見たら阿波は間違いなく、いつか此の国の中心やったと思う。
其れが魏志倭人伝に記載された時点で阿波だったのか何処だったのか等と言うのは進捗状況を知る為には大切だとも思うんやが。
先ず、なんでも大陸由来半島経由と言う事にしたいヤカラが正史を歪めてるのを念頭に置いとかないと見誤ってしまうんやろな。 葛城の勢力は邪馬台国大和朝廷内の権力闘争で、出雲尾張連合に負けたんじゃないかな。
そして女王国から発展した初期の大和朝廷に支配され虐げられていた元々の畿内の住民、九州北部の住吉明神、関東の鹿島明神が手を組み、神功皇后応神を旗頭にして反旗を翻したのかもしれない。
『日本書紀』によれば、
大和国の当麻邑(たいまのむら、現奈良県葛城市當麻)に住み、強力を誇って生死を問わない勝負をする者を欲していた。
これを聞いた垂仁天皇が出雲国から勇士であると評判の野見宿禰を召し寄せ、捔力(すまひ)で対戦させたところ、互いに蹴り合った後に、腰を踏み折られて死んだ。
蹴速の土地は没収されて、勝者の野見宿禰の土地となったという。 >>33
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰と亀卜は?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
さっさと言えおまえ! 辰斯王(385-392)
阿莘王(392-405)
腆支王(405-420)
久尓辛王(420-427)
?有王(427-455)
蓋鹵王(455-475)
文周王(475-477)
三斤王(477-479)
東城王(479-501)
武寧王(501-523)
百済25代武寧王(501-523)は墓から買地券(金石文)が出てるのでこれは絶対年代。
ならば阿莘王擁立が日本書紀・応神3年条だから応神元年は390年。
ならば応神から30年後の平均在位は11年弱だから、 神功皇后を入れて6代遡る10代崇神は4世紀前半。
ならば魏志倭人伝のトヨまであと数十年、トヨとは4代天皇・懿徳の皇后のトヨツ姫だと分る。
ならばヒミコはその少し前の最高位の女性、ヒメ(踏鞴五十鈴)媛だと分る。
ならばトヨツ媛もヒメ(踏鞴五十鈴)媛も住んだのは葛城(奈良県御所市)であるから、
邪馬台国の女王が住んだ場所は奈良県御所市であると分る。
文句あるか? 訂正
×応神から30年後の平均在位は11年弱だから
〇応神から30代後の平均在位は11年弱だから >>53
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらした事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰と亀卜は?
で、殷の難民が渡来定着して水稲をもたらしたとウソブているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
今言えこのサギブキジジイ! 葛城っていっても広い。
葛城の中のどこかで話がいろいろ食い違ってくるぞ
卑弥呼の王宮は奈良県大和郡山市矢田町のどこかだろう 何もないところばかり王都に持ち上げなければいけない畿内説は悲しいね。
それが桜井市だろうが御所市であろうが。 >>58
>葛城の中のどこかで話がいろいろ食い違ってくるぞ
高天原(御所市高天))の麓。
4世紀前半の崇神時代の大神神社より古い明神大社が複数ある。
この時点で3世紀のヒミコやトヨの王権は葛城だと決まりなのだが。
ヒミコの住んだ宮は長柄神社こと姫の宮が最有力であろう。 >>60
>ヒミコの住んだ宮は長柄神社こと姫の宮が最有力であろう。
ヒミコの住んだ宮より、民が大勢暮らした弥生末期集落遺跡群を探しなさい。 それが先決事項。 @阿波 >>61
>民が大勢暮らした弥生末期集落遺跡群
それは田原本でも鴨都波でも唐古鍵でもどこでもいい。
聖地・高天原(御所市高天)は健在なのだから。 >>62
>それは田原本でも鴨都波でも唐古鍵でもどこでもいい。
そんな鴨都波や唐古鍵より、民が大勢暮らした弥生末期集落遺跡群を探しなさい。 それが先決事項。 @阿波 >民が大勢暮らした弥生末期集落遺跡群
例えば日本全国のどの弥生末期集落遺跡群なら@阿波の許容範囲内なの? >>62
>聖地・高天原(御所市高天)は健在なのだから。
根拠なし。 >>64
例えば
【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡 @阿波 >>67
そりゃ、そうだろう。 「阿波」を知らない「井の中の蛙」なんだから。 @阿波 卑弥呼の王宮は奈良県大和郡山市矢田町
鳥越憲三郎がいってるからこれで決まりw >>65
>>聖地・高天原(御所市高天)は健在なのだから。
>根拠なし。
根拠なしって、今も日本最古の明神大社が複数存在している。
ヒミコなどの王族がどこに住んだか。
人間が生きていくために最も必要な物、それは水であり、彼ら王族が住んだのは水源だ。
高鴨神社、長柄神社、高天彦神社、ことごとく水源だ。
この中の長柄神社(姫の宮)が最もふさわしい。
祭神はシタテルヒメ。
お父さんは大国主、お母さんは宗像三女神。
それを示すように神社北から銅鐸と多鋳細文鏡が出ている。
出雲の祭器(銅鐸)と北部九州の祭器(多鋳細文鏡)である。
この最良の水源にある王宮がシタテルヒメ一代で終わるわけはない。
ヒメ(踏鞴五十鈴)=ヒミコが住んだのもここであろう。 >>69
何もない。
せめて明神大社の一つでもあれば。 一般に大神神社が日本最古などと言われてるが意味が分からない。
高天原(御所市高天)近辺にある孝昭天皇の頃に社殿が創建された高鴨神社、
弥生時代の遺跡のある長柄神社や高天彦神社の方が古い。
その中でも最古にして奈良盆地最上座の位置にある高天彦神社、
ここの境内に径百余歩の塚があり奴婢が埋葬されている。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/87_18_2.jpg
埋葬された奴婢とは土蜘蛛だ。 >>72
御所市高天の高鴨神は、阿波国加茂の「鴨神社」からの勧請である。 頭が高い。 @阿波 奈良の田舎を基準にされてもねえ。
関東でさえ、天穂日命が創建したと伝えられる関東最古の大社である鷲宮神社があり、縁起の通りなら天孫降臨よりも前、それこそ神武より何代も前になる。
高天彦神社なんて、演技もろくにわからないではないか。 >>74
> 関東でさえ、天穂日命が創建したと伝えられる関東最古の大社である鷲宮神社があり、縁起の通りなら天孫降臨よりも前、それこそ神武より何代も前になる。
◇栃木県下都賀郡石橋町橋本の鷲宮神社祭神は天日鷲命。
「天日鷲命」は勿論、忌部の始祖神ですね。 @阿波 >>74
御所市の高天は古くから高天原最有力地であり、
神武が来た時には、当地に事代主神や鴨王がいたわけで、つまり大和朝廷発祥地。
その神武以前の王権は考古学的にも弥生時代から始まっている。
関東の例など何の反論にもならん。 >>75
>せめて明神大社の例を出せ。
倭国(阿波)でもいいかな?
延喜式内明神大社
・天石門別八倉比売神社(社名自体が荘厳だね)
・一宮神社
・上一宮大粟神社 >>77
事代主も鴨王も、外来の征服者だろう。
本家の筑紫や出雲の宗家の存在を無視するなよ。
大和はそれらの出先の植民地。 >>80
>本家の筑紫や出雲の宗家の存在を無視するなよ。
いやいや、ちゃっかり便乗しちゃ遺憾だろ。 @阿波 >>80
鴨は神、アイヌ語のカムイ。
>出雲の宗家
無視していない。
加茂岩倉と兄弟銅鐸である松帆銅鐸がBC2〜BC4世紀。
このころに出雲から近畿〜関東にかけてカモ(神)族が移住したのであろう。
カモ地名はもちろんカミ、カノ、クノ、クナという地名が残る。
>本家の筑紫
豚骨ラーメンの話? >>78
>格付けははるか後世のものだから無意味
はるか後世でさえ、高位にランクされてない神社の例を出すな。 >>82
>鴨は神、アイヌ語のカムイ。
どうかな?
鷲とか鷹とか熊もよくある名前だから、氏族のトーテムという説もある。
まあ、熊も隈、神から転じたらしいけど。
古代の王族は全て神だから、鴨王だけ特別なわけではない。
それをさも特別なように語るのは詐欺。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 神奈(カナ)川
鎌(カマ)倉
カモ地名はどんどん見つかる。 >>84
>古代の王族は全て神だから、鴨王だけ特別なわけではない。
鴨族以外の古代の王族って誰?
弥生時代には文字があったのだから王統伝達できたわけで文献から出せるよね?
言え。 天照大神の孫である天孫邇邇芸は、筑紫日向の高千穂宮で即位しました。 天孫邇邇芸は日向の高千穂宮だろうね。
でもアマテラスの宮がないよね? 天照は高天原にいて、邇邇芸だけが筑紫に降臨しました。
高天原からは、出雲へも筑紫へも関西へも船で移動したことが記紀の記述から伺えます。 >天照は高天原にいて
具体的にどこ?
神武以前なのだから、さぞかし高名な明神大社なんだろうね? 明神って神仏習合後の新しい概念であろうがなかろうが、
弥生時代の遺跡がある水源地に建つ明神大社は古代より霊験あらたかで神々の地にふさわしい。
筑紫ではどこ? 筑紫から神武が渡ったなら、
筑紫は王権の祖地なんだから、
神武以降も当然「王」がいたわけだね。
誰なんだろ、そして神武以後どうなったのだろ。
スズリが発見されて弥生時代から文字があったわけだから、
当然「王統譜」が残ってるはずだよね? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています