★★ 邪馬台国は【葛城】である【5】 ★★
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邪馬台国は葛城である。
葛城に住んでいたヒミコが判明したからである。
10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。
これで邪馬台国論争は終了する。
崇神陵=行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015年久住編年でもこれが最有力。
そして卑弥呼擁立の時代=庄内0式(2世紀末)まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを普通に遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人としてヒミコを探そうとしない。
ヒミコは記紀に登場しないという固定観念があるからであろう。
わしは探した。 ほらヒミコもトヨもいた。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
また神武から孝安まで不自然な事に正后はいても「妃」がいない。
彼らは複数の妃を持つ大王ではなかったからである。
つまり魏志に書かれた女王国とは神武〜孝安時代の事であり、 それは葛城王朝であった。
※考古学的根拠「国宝」中平銘鉄刀・和邇氏の系図は>>2 諸県君一族と推定される宮崎の西都原古墳群は、
高塚墳311基(前方後円墳31基、方墳1基、円墳279基)
前方後円墳を首長墓だとすると、
300年弱で31基ですから、
おおよそ一代平均在位11年を説明できると思われます。
そうすると円墳は首長ではない王族の墓ということになります。
纏向遺跡が卑弥呼の王権の遺跡であり、
纏向古墳群が王族墓だとすると、
この西都原と同じような状況でないとおかしい。
すなわち2世紀前半の其国の男王からトヨまで150年と仮定して、十数基の前方後円墳、
そして100数十基の円墳が必要になります。
とても説明できない。
だいたい纏向では2世紀前半の其国の男王の墓が説明できない。
このあたりについて、
一度プロの学者さんの見解をお聞きしたいと思っております。
私の結論は>>1の通り、纏向遺跡は卑弥呼の王権の遺跡ではないし、
箸墓古墳は卑弥呼墓ではないというものです。 ただし、2世紀前半の其国の男王の墓は高天原(御所市高天)にはない。
なぜならこの王は高天原を追放されたからだ。
そしてこの王の墓は山陰出雲にもない。
この王の墓の場所は御所市鳴神。
この王こそスサノオ=倭国王帥升だ。 御所市鳴神の高鴨神社祭神はアジスキタカヒコネ、別名 迦毛大御神(かものおおみかみ)
古事記で大御神と称されてるのは、他にはイザナギとアマテラスだけである。
相当、位の高いカミである。
アジスキタカヒコネ=剣、暴れる、高天原
時代を巧妙に変えてはいるがスサノオの事であろう。
スサノオには創作した神話を託し、
少し後に設定したアジスキタカヒコネは一人の人間としての実性を託した。
高天原(御所市高天)を追放され、少し南に下った御所市鳴神にスサノオの墓がある。
スサノオの墓の伝承地など他にどこにもない、。
つまりAD107年、後漢・安帝に謁見要請し、
何やら失敗し、新羅、出雲経由で泣きながら高天原に帰ってきた倭国王帥升ことスサノオの墓はここである。 東北地方の話
ホンモノの家は東北地方に住んでいる、住んでいた?
有名な話 スサノオでも何でも良い
悪く言うと、その他・・・の親戚みたいな家があるでしょ、
>>1この辺りに残っていたのかな?
本当の家というのがあるでしょ?
その家は東北地方 朝廷に仕えたりした後、
東北地方に追放されたとか?
本人というのがいるでしょ、
追放された本人? 仕えたりしたような話になっていない?、
それとも、ただの芸能関係の話なのかな?
ホンモノは系統が違うとか?
刀などを持って・・・という系統のほう ____
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. / (ー) (ー)\ <「説いたのはわしだ。参ったか。」
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ヽ -一””””~~``’ー?、 -一”””’ー-、
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒)) 近年の歴史学では神武や初期8代など古代天皇をはじめ、ニギハヤヒ、大物主、スサノオ、ことごとくその実在が否定されている。
しかし本当にそれでいいのだろうか。
新井白石や本居宣長の時代には「考古学」という学問すらない。
それに比べ今は膨大な考古学資料がある。
例えていうなら今の学者の筒には3千本の矢が入っている。
3千本もあるのだから、いずれ的に当たるだろうと彼らは己惚れている。
しかし何本矢を放とうが的に当たらない。
とうとう矢を放つことさえやめたような学者もいる。
それは卑弥呼が誰なのかさえ言えない学者である。
考古学資料から崇神天皇がおおよそ4世紀前半になる事が決まりつつある。
ならばその数十年前のトヨを探せばいいのに誰も探そうともしない。
卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという固定観念があるからだろう。
、
一方、新井白石や本居宣長の時代には筒に矢が1本しかない。
しかし彼らはその1本の矢で見事に的を撃ちぬいた。
その矢とは「倭国王帥升(Shuai sheng )はスサノオではないのか」というたった一本の矢=仮説である。
そして彼らはスサノオの5世代100年後にいる卑弥呼を簡単に見抜いた。
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しかしそれは自分の生まれ育ったこの日本の歴史が中国への土下座から始まるという耐えられない屈辱でもあった。。
だからこそ彼らは邪馬台国論争を創ったのである。 ____
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ヽ -一””””~~``’ー?、 -一”””’ー-、
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒)) 白村江敗戦後の新生「日本」。
魏志倭人伝に書かれた女王とその婿の関係を編集し直す必要があった。
そのためには新称号が必要であった。
その新称号が「天皇・皇后」である。
魏志倭人伝に書かれた3世紀前半の女王は新称号の「初代皇后」にされた。
「年すでに長大 夫婿なし」とは、
夫である神武に先立たれた卑弥呼(Bei mei hu)=比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、
つまりヒメ后の姿そのものである。 葛城は縄文人の土蜘蛛と大国主が支配する邪馬台国とは別の国だった。 >>969
大国主の系譜、に卑弥呼もトヨもいる。
左端が大物主(大国主)
神武をはじめ初期9代の【天皇】は最高位ではない。
彼ら大物主が最高位であり魏志の2世紀前半から続く其国の男王であった。
卑弥呼(Bei mei hu)とは簡単。
比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后
事代主
┣━━━━━━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)后━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命 崇神の時代に出雲の神宝が奪われる。
出雲振根の事件である。
その出雲の神宝とは何であろうか。
私は、今現在も三種の神器の一つである八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)ではないかと思っている。
面白いことに、大和で剣、玉、鏡の三種の神器が揃うのは
4世紀初頭あたり、桜井茶臼山古墳からである。
その前、3世紀前半のホケノ山古墳には勾玉がない。
ホケノ山の被葬者は「王」ではなかったからではないだろうか。
3世紀後半の箸墓古墳、もちろん発掘はされてないが、おそらくこの古墳にも三種の神器の「勾玉」はないと私は推測している。
崇神が出雲から力づくで神宝「勾玉」を奪った。
そして正真正銘の大王になった。
だからこの時代(4世紀初頭)以降、三種が揃うのであろう。 邪馬台国は葛城である。
4世紀前半、崇神により、卑弥呼やトヨを輩出した王家は絶やされた。
そして、5世紀後半。
「一言主大神」
雄略に対して「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」
かなり違和感があるのは、普通、日本語では「良い事も悪い事も知っている」などと、善が先にくる。
しかしこの一言主は雄略に対して悪事が先に来ている。
善事も…と後に続くのは、大王・雄略に対して悪事のみ言うのは直接過ぎるため、
本来言いたかった悪事を和らげる目的があったのではないだろうか。
では雄略の悪事とは何か、これは簡単。
眉輪王の変での葛城 円(かつらぎ の つぶら)焼殺事件である。
(続く) 雄略がまだ大泊瀬皇子であった時に眉輪王の変が起きる。
そして葛城の主である葛城円大臣(葛城 襲津彦の孫)が雄略に焼サツされる。
土地も娘も差し出すと懇願する葛城円を雄略は焼きコロした。
これらは事実であり、極楽寺ヒビキ遺跡として近年発見される。
普通、火事では火を消そうとするから、柱に水が掛かって全焼といえども根元は残ったりするものだが、
この極楽寺ヒビキ遺跡は土まで焼けている。
火を消そうとした痕跡が全くない。
燃えるがままに見ていたという恐ろしい遺跡だ。
ここで葛城円が焼きコロされた。
雄略が葛城で出会った一言主大神はこの事件をもちろン知っている。
したがって「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神」とは、
意訳すれば「おまえのとんでもない悪事を知ってるぞ、言ってやろうか」という恫喝であろう。
それに対してはさすがの雄略も怯んだ。
しかしながら一言主が土佐に流されたという続日本紀の記述は、一言主を祭神とする土佐一宮が存在することからも事実であろう。
これは「今回は流刑だけで済ましたが、それ以上言い続けるとどうなるか分っているな」という雄略側からの逆恫喝かもしれない。
この事件の直後から、葛城出自を自称する一つの豪族が台頭してくる。
彼らはやがて隆盛を極め、権勢をふるい、ついには日本の歴史で唯一、天皇を暗サツする。
その豪族とは蘇我である。 父を焼きコロされ、その焼きコロした男・雄略の妃にならなければならなかった葛城円の娘・韓媛の心中はいかばかりだったろう。
ところで葛城円には男子の跡継ぎはいなかったのだろうか。
系図に詳しい方にお聞きしてもどうやら韓媛しかいないようである。
普通に跡継ぎの男子はいたであろう。
ひょっとすればその人物が一言主かもしれない。
韓媛という名前に何か引っ掛かる。
韓で連想するのは、葛城出自を自称する蘇我、その蘇我稲目の祖父・蘇我韓子である。
蘇我韓子は雄略天皇9年までは生きていたようだ。つまり韓媛と同じ時代を生きていた。
韓媛・韓子(彦)
この二人はヒメヒコではなかったのか。
6世紀になり、なぜ蘇我が急激に台頭してきたのか、謎である。
もし蘇我の台頭に、葛城の主を焼きコロされ、それをなじった一言主も流罪となった、
そのすさまじい怨念が背景にあるとしたら納得できる。
怨霊を信じ真剣に恐れていた時代、葛城の怨念を持つ蘇我に対して、
朝廷側は強い加害者意識、罪悪感、そこからくる過度の忖度、禅譲、はれ物に触るような態度、
つまり隙を見せた、
その隙が蘇我の台頭を許したのではないだろうか。 邪馬台国は筑紫平野
卑弥呼の塚は久留米御井の祇園山古墳 >>976
それ、、政治家の「住みよい街を創ります」と同じく単なる主張。 >>978
崇神4世紀前半としてトヨは誰か、
その3世代前にいる卑弥呼は誰か、単的に述べている私の説は妄想ではない、
それができないで九九州だという君が妄想。 【肥国】
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。
筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
卑弥呼が筑後山門の出身で、筑紫も含めた倭国女王になったからかもしれない。
肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上大願寺にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社(與止日女神社)の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。 @近くに縄文遺跡があるから更に古いとする根拠がなく、反証から逃げ回るなよガイジ
はい、カマチョンコの敗走w
A蜘蛛窟の東側(通称こんもり)が塚である根拠がない上に、キチガイのうわ言でしかないと自覚しろゴミ
はい、カマチョンコの敗北ww
A-2そもそも土蜘蛛の住居跡と卑弥呼の墓に何ら因果関係はないし、池沼の妄想に過ぎないと知れクズ
はい、カマチョンコの惨敗www
B土蜘蛛塚が奴婢の殉葬地である根拠がないし、土蜘蛛塚自体は全国に数多く存在するぞカス
はい、カマチョンコの完敗wwww
B-2そもそも帰順しない者を指す「土蜘蛛」と身分制度で奴隷を指す「奴婢」は同一ではないのは考古学の常識だマヌケ
はい、カマチョンコの大敗wwwww
C蜘蛛窟東のこんもりと土蜘蛛塚は直線距離で3kmの距離があり無関係の遺跡だウンコ野郎
はい、カマチョンコの劣敗wwwwww
D卑弥呼(Bei mei hu)を比桃@(Bi mie hou)や比売后(Bi; mai hou)とこじつける根拠がない上に、糖質の呻きでしかないぞ池沼
はい、カマチョンコの負けwwwwwww
E鴨の語源がカミである根拠もないし、高鴨神社がそんなマヌケなこと言うわないだろ嘘つきキチガイ
はい、カマチョンコの自滅wwwwwwww
F高天彦神社の境内にある磐座は土蜘蛛塚ではなく白雲岳の中腹にあった御神体で、 高天彦神社の創建時に麓に遷座した物だと高鴨神社の鈴鹿宮司TEL:0745-66-0609(高天彦神社の所管社)が証言している事だ
はい、生きてる価値なしカマチョンコwwwwwwwww 神武東征のような大きな出来事があった、すればその時期はおおよそ分かる。
神武東征のような大きな出来事があれば考古学的に大きな変化が起きているだろうからである。
大和盆地において、それまで続いていた環濠集落が終わり、土師器の生産が始まり全国に派生し、そして古墳時代が始まるという大変革の時代は2世紀末の庄内0期である。
そしてそれは卑弥呼擁立の時代でもある。
神武を倭国王帥升の時代である2世紀初頭とか、
卑弥呼をアマテラスに見立てその5世代後の3世紀末を神武の時代にはできないのである。
2世紀初頭や3世紀末に大和盆地で大変革は見られないからである。
すなわち神武と卑弥呼は同じ時代、2世紀末から3世紀初頭なのである。
卑弥呼(Bei mei hu)とは、
比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、
つまりヒメ后=ヒメ(踏鞴五十鈴)媛である。 .
∧_∧ウソつくな ∧_∧ヒィ
(土蜘蛛) <l|l;`Д´>
三 ( つ つ 三(つカマチョンつ
三 人 ヽノ 三 / ゝ 〉
(__(__) (_(__)
ヒィィ! ∧_∧ ホラふくな!∧_∧
<`Д⊂彡 三 奴婢 )
⊂カマチョンノ 三G( こつ
人 Y 三(_,\ \
し (_) 三___) 神武天皇が卑弥呼の時代なわけなかろうもんW
2から9代の天皇の存在をお忘れですかW 俗に言う欠史八代の即位が異様に短いな
歴史を都合のいいように操作したらいかんな、大野さん 倭国大乱で神武が筑紫を出たんだろうなあ。
それくらいでちょうどだ。 .
妄想チョンコロ!
∧_∧
ウソツキが! (鈴鹿氏) ホラフキめ!
∧_∧ (`つ⌒ ) ∧_∧
(土蜘蛛)フ : ∧_∧ ⊂(奴婢 )
( )ノ ::< ∩∩>: \ )
/ / / ::(´ ノ ノ::シクシク… ( ( |
(_)_) ::( ̄__)__):: し(_)
↑カマチョンコロ >>986
>2から9代の天皇の存在をお忘れですかW
忘れてないよ。
ただし9世代ではないよ、あくまで9代。
1代平均在位約11年。
何も文句ない、
卑弥呼(Bei mei hu)とは簡単。
比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ(踏鞴五十鈴)后である。 >>987
>俗に言う欠史八代の即位が異様に短いな
即位なんてしてないよ、天皇なんて役職はなかったのだし。
第一彼らは「おおきみ」ではない。
神武でさえ「おおきみ」ではない。
神武時代の「おおきみ」は鴨王(かものきみ かものおおきみ)こと天日方奇日方。
神武の義理兄だ。
欠史8代時代の「おおきみ」とは天日方奇日方の男系子孫、つまり「大物主」だ。
崇神時代に易姓革命があり、最後の大物主が倒された。
そして現天皇家にまで至る。 >>992
>神武時代の「おおきみ」は鴨王(かものきみ かものおおきみ)こと天日方奇日方。
>神武の義理兄だ。
饒速日の方が格上だよ。
天神の子とされている。
鴨王は地祇に分類される。 >>993
>天神の子とされている。
>鴨王は地祇に分類される。
それは物部の史書・先代旧事本紀での話だろ。
物部が自分たちを天神の子としたのはあくまで自称。
実際には物部の郷、纏向古墳群を見ても大和盆地でのその立地は、
上下で言えば下、高低で言えば低、天地で言えば地、
つまり上、高、天である高天原の神々にはかなわない。
物部の自称を真に受けるな。 ____
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ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒)) >>994
>物部が自分たちを天神の子としたのはあくまで自称。
記紀でも同じ。
神武とは互いに天羽羽矢などを見せ合い、同族(天神)であることを確認している。 今のところカマチョンコロは↓に書かれてることを一つも反証できない上に、しつこく無根拠な妄想を書き続けることしかできてない
カマチョンコもっと頑張れ!カマチョンもっと張り切れ!
天が降ってくるから雨はアメ
西暦600年に倭王「阿毎多利思北孤」はアメ姓を自称している(中華書局『隋書』でAME TALISHIBUOKO AHOKIMIと断定済み)
また、アメ王によって自国(倭国)の阿蘇山の噴火が伝えられているため、倭国は北部九州で確定
なお、現代研究では阿毎の古音には七つの解釈がなされており、五段母音に音階すればアメの確率が約50%であり、アマの確率は15%以下
加えて、7世紀後半に天武天皇は尼(アマ)子娘を娶って当時最大支配域を持つ海人族であった宗像氏と姻戚を結んだ
天皇家が海人族であったなら改めて親戚関係を結ぶ必要はない
一方、8世紀初頭に完成した古事記では編纂者がワザワザ「訓高下天云阿麻下效此」と注釈をつけ、高+天の場合のみアマと読むよう指定されている
つまり高天原以外の天はアマとは読まないという揺るぎない傍証
同じく、8世紀初頭に完成した日本書紀では天照大神の誕生以前にアマが付く神が存在しない
天=アマ=海人だと妄想するカマチョンの反論は個人的願望や独自解釈に終止しており、根拠を示せていない
天 = ア マ = 海 人 だ と 妄 想 す る カ マ チ ョ ン コ の反 論 は 個 人 的 願 望 や 独 自 解 釈 に 終 止 し て お り 、 根 拠 を 示 せ て い な い
結論: 海 人 = ア マ ≠ 天 ( ア メ ) >>997
>天皇家が海人族であったなら改めて親戚関係を結ぶ必要はない
そんなことはない。
同族の別家系と姻戚関係により政権安定を図るのは定石だろ。
>一方、8世紀初頭に完成した古事記では編纂者がワザワザ「訓高下天云阿麻下效此」と注釈をつけ、高+天の場合のみアマと読むよう指定されている
「のみ」という部分が誤り。
例えばアマテラスもアメではない。
>つまり高天原以外の天はアマとは読まないという揺るぎない傍証
天の読み方の例として高天原を取り上げているだけ。
基本、「天の〜」はアマだ。
アメは後世の畿内なまり。 卑弥呼は肥国の山門の出身で、後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼はそれまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の国々は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に都の平原遺跡に葬られた。
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は筑紫が盟主となった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。 古代の神、すなわち王家には大きく分けて天つ神(天神)と国つ神(地祇)の分類がある。
天つ神はアマテラス(天照大神)の家系の神であり、海を越えてやってくる渡来人系の人々である。
天つ神のアマは、本来は海人の意味であったという説がある。
アマテラスの名前は、天上を照らす太陽神の意味ではなく、本来は海洋を支配する王「海照らす」の意味であり、対馬海峡の漁撈と交易により成立した海洋国である博多の倭国の王にふさわしい諡である。
そのような読み替えにより、神という超越的な存在を用いることなく、古事記などの記事をうまく説明することができる。
国つ神は天つ神以外の神々のことであるが、古来からの縄文系の人々や、アマテラスの直系ではない権力者である。
国つ神を代表するのは全国のクニをまとめていた大国主である。
サルタヒコも海上と陸上を支配する(照らす)神として紹介されているが、その支配権は博多湾沿岸などに限られるようだ。
ヤマツミ(山祇)とワダツミ(海祇)もそれぞれ博多湾周辺の陸上と海上を支配する国津神(地祇)の尊称である。
海洋と陸上の分割統治はアマテラス(天神)とスサノオ(地祇)、海幸と山幸にも見られる倭国の普遍的な王権の姿である。
倭国は海洋部(アマ)と陸上部(クニ)がしばしば分割統治されていた。
出雲の大国主を倒した後に海上と陸上をあわせた王が登場する。アマテラスから十種の神宝を継承した孫のニギハヤヒである。
ニギハヤヒの末裔である物部氏の伝記である先代旧事本紀における名は天照国照彦天火明櫛玉饒速日(アマテルクニテルヒコ アマノホアカリ クシタマ ニギハヤヒ)とあり、海洋と陸上を統治する王である。
その弟のニニギは古事記では天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニギシクニニギシ アマツヒコヒコ ホノニニギノミコト)と表記され、やはり倭国の陸海にまたがって君臨する王である。
古代においては兄弟相続が一般的であり、ニギハヤヒの後をニニギが継いだが、ニニギの王統が最終的に天皇家につながると考えられたために記紀ではニギハヤヒが重要視されなくなった。
実際には、物部氏は古代のヤマト王権において祭祀と軍事、すなわちヤマト王権の実権をほぼ掌握していたと考えられている。 このスレッドは1000を超えました。
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