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司馬遼太郎 Part14
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0003日本@名無史さん垢版2018/04/29(日) 18:59:34.82
なんかよう知らんが、Part13が落ちとった。
5ちゃんねるが2ちゃんねるに戻っとるし、よう知らんが続ける。
0005日本@名無史さん垢版2018/04/29(日) 19:00:44.08
【凡例】
★小説・紀行では物語の場所もしくは旅の場所を示す(余談のときは、項目を示す)。評論文では、項目を示す。
▽作品に出てくる語句・文章
▼作品には出てこないが、背景を理解するために必要だと思われる語句
【注意】
このスレッドでは、司馬作品を忠実かつリアルに画像化しているため、エログロ画像が含まれています。
18才未満の方あるいはご覧になりたくない方は、〈エログロ〉をNGワードに登録なさることを推奨いたします。
また、エログロ画像をレスされる方は、必ず〈エログロ〉の文字を添付してくださるよう、お願い申し上げます。
【注意】
多くのユーザーの方々が、現在進行中の司馬作品一作に集中して、注釈を加えたり、議論をなさっておられます。
他の司馬作品に関して議論ないしおしゃべりをなさりたい方は他の司馬スレへお引越しをお願い申し上げます。
0006日本@名無史さん垢版2018/04/29(日) 19:01:02.27
【1】〔数年後に削除予定〕http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1362974282/
【2】〔数年後に改訂予定〕http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1471228785/
【3】「街道をゆく」豊後・日田街道/大和丹生川(西吉野)街道/種子島みち/潟のみち/播州揖保川・室津みち/高野山みち
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1474718092/
【4】「街道をゆく」信州佐久平みち/「国盗り物語1」
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1477812018/
【5】「国盗り物語2」http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1480533004/
【6】「国盗り物語3」http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1483152411/
【7】「国盗り物語4」http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1488372192/
【8】「ひとびとの跫音」http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1494164526/
【9】「木曜島の夜会」「歴史と視点―私の雑記帖―」「評論随筆集−第50巻−1」
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1507878222/
【10】「評論随筆集−第50巻−2」「一夜官女」「権平五千石」
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1511343401/
0008翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23 垢版2018/04/29(日) 19:01:59.17
第21章 大警視(つづき)

大久保が新設の内務卿に就任したのは、11月29日である。征韓論分裂から一月あまりになる。ただし、「全国人民の安寧を図る」というこの省は、すぐには発足しない。
実務が開始されるのは翌年1月10日ということが決められた。実務開始に先立ち、大久保は参議職に兼ねて内務卿になったわけである。大久保が日本国の実権を事実上握るのはこのときからであった。
内務省に、警察組織も移管される。川路も大久保の部下になる。
0009日本@名無史さん垢版2018/04/29(日) 19:02:23.65
続きをやるからな。第21章「大警視」は三つばかり前スレに書いておる。
0010日本@名無史さん垢版2018/04/29(日) 19:54:55.58
★ポリス(つづき)

フランスが強かったのはポリスがあったから。そのフランスがプロイセンに敗けたのは(1871年)、プロイセンがフランスのポリスの制度を取り入れたから。
川路の論理の単純さには、畏れ入った。
0011日本@名無史さん垢版2018/04/29(日) 19:58:50.25
▽福澤諭吉
天保5年(1835年)、摂津国大坂堂島浜にあった豊前国中津藩(現・大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士・福澤百助と妻・於順の次男として生まれる。諭吉という名の由来は、儒学者でもあった父が『上諭条例』(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことによる。
0012日本@名無史さん垢版2018/04/29(日) 20:01:52.15
▼中津藩
天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐後、播磨宍粟山崎から黒田孝高が入部し、12万3,000石を領有した。その後、関ヶ原の戦いで戦功のあった子の長政が慶長5年(1600年)、筑前福岡藩に52万3,100石で加増移封された。
代わって同年、同じく関ヶ原の戦いで東軍方に付いた細川忠興が丹後宮津より39万9,000石で入封し、江戸期の中津藩が成立した。忠興は慶長7年(1602年)、藩庁を小倉城に移して小倉藩となる。
中津城は支城となり城代が置かれた。寛永9年(1632年)、第2代藩主・忠利は肥後熊本藩に移封となった。
0013日本@名無史さん垢版2018/04/29(日) 20:03:33.88
同年、播磨明石藩より小笠原忠真が小倉藩主として小倉城に入り、豊前北部15万石を領した。支城であった豊前中津城には忠真の甥・長次が播磨龍野藩より8万石で入封し再び中津城が藩庁となった。
享保2年(1717年)、奥平昌成が丹後宮津藩より10万石で入封。以後、明治4年(1871年)の廃藩置県まで9代・155年間支配するところとなった。廃藩置県の後、中津県・小倉県・福岡県を経て大分県に編入された。
奥平時代の同藩の出身者として、藩医であり『解体新書』を著した前野良沢、下級藩士出身の福澤諭吉がいる。また、福沢とは親戚にあたる増田宋太郎の2名をして、郷土の英雄として位置付けられている。
0014日本@名無史さん垢版2018/04/29(日) 20:43:46.12
黒田→細川→小笠原→奥平
小倉本藩は小笠原家のまま明治維新を迎える。
幕末の老中・小笠原長行(ながみち)は、第二次征長では小倉城で戦ったが、肥前唐津藩主なので要注意。
0015日本@名無史さん垢版2018/04/29(日) 23:29:40.61
★小野組東京移籍事件

拘禁された京都府大参事槇村正直を、長州閥の総帥木戸孝允が政治力で釈放した事件。
当時司法卿であった江藤新平と大警視川路利良は猛反発。
川路がこの事件に関する建白書を認め始めたのは、西郷が下野した明治6年10月23日の翌日である。
0016日本@名無史さん垢版2018/04/29(日) 23:36:13.13
▽小野組
小野組は明治に入ってからの通称で、「井筒屋」を名乗った江戸時代の豪商。糸割符商人。
小野家は初代新四郎則秀が江州高島郡大溝(滋賀県高島市)で、陸羽の物産と上方の物産を交易していたとされる。
安永5年(1776年)幕府の「金銀御為替御用達」となり、御為替名目金を自己の営業資金に流用し、京都では和糸・生絹・紅花問屋を、江戸では下り油・下り古手・繰綿問屋、盛岡では木綿商・古手商・酒造業を営んでいた。
0017日本@名無史さん垢版2018/04/29(日) 23:42:02.62
▽小野組転籍事件
慶応3年12月(1868年1月)に明治政府は財源確保のために「金穀出納所」を設けた際、三井三郎助・島田八郎左衛門とともに小野善助を「金穀出納御用達」とし、翌慶応4年1月には「出納所御為替御用達」に任じた。
明治3年、小野屋が本社機能を京都から江戸へ移そうとしたところ、長州藩出身で京都府権大参事の槇村正直によって為替業務に制限がかけられた。
明治6年4月に小野組は京都府庁へ転籍を申し出るに至った。小野助次郎は神戸へ、小野善右衛門は東京への転籍を希望したが、京都府庁はその届出を処理しなかった。
0018日本@名無史さん垢版2018/04/29(日) 23:51:57.17
▽島田組
京都で「蛭子屋」を名乗った江戸時代の豪商。呉服商、両替商を営んでいた。
元禄年間に山城国綴喜郡内里村(京都府八幡市)から京都に奉公に出た島田八郎左衛門が、京都で呉服商を創業し、次いで江戸尾張町、大坂天満橋に開店した。当初、徳田屋伝兵衛と称していたが、将軍徳川吉宗から蛭子の盃を拝領したことで「蛭子屋」を屋号とし、当主は八郎左衛門を称した。
0019日本@名無史さん垢版2018/07/12(木) 15:52:05.13
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