邪馬台国九州説(平原、筑紫、田川)
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たくさんの資料の宝庫九州
さあ語りましょう
畿内説は別のスレでお願いします 菅見ありがとう勉強したよ
中国の玉に熊本県の輸入品があれば面白いのにね >>96
>青玉がない阿波は邪馬台国候補から脱落でOK
で、青玉のあるところはどこかね?
「白珠青石」の青石は、その青色片岩中の藍閃石でしょう。 @阿波 >>91
>3世紀の阿波の石の宝飾品の現物は何処にあるの?
稲持遺跡(徳島県三好郡東みよし町稲持)は、弥生時代後期の玉作遺跡として代表的である。
斉一性の強い小型勾玉の一群が阿波地域を中心に
讃岐地域・吉備地域と西縁・伊予地域・豊前、筑前、肥前地域 に点在しており、石材・色調・形状から特定の場所で作られたと考えられる。 @阿波
蛇紋岩の製作遺跡 東みよし町稲持遺跡。徳島市矢野遺跡、上板町七条経塚遺跡
原石産出地 徳島県吉野川加茂谷川水系蛇紋岩 >>104その蛇紋岩がいろんな国々で見つかってたら
価値も高まるねぇ
出雲は少しづつ色々なものがでるから
大きな集会場だったんだろうか?
やっぱり
出雲>>>>>>>桃の種の県だわ >>105
>その蛇紋岩がいろんな国々で見つかってたら
>価値も高まるねぇ
だから、讃岐地域・吉備地域と西縁・伊予地域・豊前、筑前、肥前地域の国々で見つかってるでしょ。
>出雲は少しづつ色々なものがでるから
>大きな集会場だったんだろうか?
当然、出雲でも出雲忌部がもたらした蛇紋岩製勾玉がありますよ。 @阿波 >>96
>青玉がない阿波は邪馬台国候補から脱落でOK
で、青玉のあるところはどこかね?
いつも、黙り込むんだよね。でOK @阿波 その蛇紋岩が四国産だという科学的証拠はあるか
誰が検証したのかね
残念ながら蛇紋岩は日本全国で取れるんだよ
四国産の検証がみたい
四国を応援するきっかけが欲しいね >>108
>残念ながら蛇紋岩は日本全国で取れるんだよ
四国産の検証がみたい
それは、検証済みかもしれないし、まだ検証出来ていないかもしれない。
一方、蛇紋岩製の勾玉を造っていた遺跡は現在、阿波にしかないのも事実である。
このことから、おのずと蛇紋岩製勾玉が阿波製であると推察されるおでは? @阿波 >>104
吉野川で採取される蛇紋岩は茶色ぽくて青くないのだが? >>96
>青玉がない阿波は邪馬台国候補から脱落でOK
で、青玉のあるところはどこかね?
いつも、黙り込むんだよね。でOK @阿波 >>110
>吉野川で採取される蛇紋岩は茶色ぽくて青くないのだが?
なんで青くなくてはいけないのかな? @阿波 >>112九州の古墳内部の染色に青石色素が使われているから
>>109鉱物の含有率が同じ証拠ないと
これを認める訳にはイカン
九州説だろうと阿波や畿内説だろうと
後付けの編年史を検証したいのさ
本当の事実を知りたいだけ
どこかに秘密の闇があるような気もしている 青玉は翡翠だろ
金銀製品が登場するまでは日本の特産品だ >>114上からスレ読んでこい
本物の硬玉翡翠が日本のどこで出るのか >>115
少量なら各地で出るけど、
考古学的に一言で答えるなら新潟。 議論の前提条件が意味不明なんだが、
魏志「倭人」伝だからな。
北部九州倭国
東に渡海して、日本海沿岸に倭種
考古学的にも日本海沿岸には鉄器その他、
北部九州の文物が弥生早期から伝播している。
倭地の産物には、新潟の翡翠も入る。 新潟は翡翠と奴奈川比売
ここにも大国主が出てくる
大国主は本当に存在したのかなあ? 魏志倭人伝も日本書記もあまり信用してないんだよな(ポツリ)
私が一番信用しているのは万葉集 >>118
>新潟は翡翠と奴奈川比売
>ここにも大国主が出てくる
>大国主は本当に存在したのかなあ?
いたよ。倭国(阿波)にね。 新潟にも忌部の海人が進出している。
新潟の翡翠も持ち帰っている。 @阿波 >>118
人物だったか勢力だったかは別として、
八千矛神だし、最後も矛を譲るんだから、
考古学的には中広型銅矛の指導者だろう。 >>118
存在しなかったと考える理由もないなあ。
当時は朝鮮半島から筑紫に渡り、日本海に沿って出雲から越までの海運が流通の基本で、出雲はその中核に位置していたのでしょう。 >>119
解釈が難しいですが万葉集は改竄とかなさそうなので一番信用できそうですね
2番目は魏志倭人伝で改竄は無いようですが誤記とかありますね
3番目は日本書記で政治的な目的から大規模な改竄があるようですね。
>>124
王統を語る証明書には信用が必要です。
何かを割愛しているのなら、それ以外の部分は逆に正確に書かれているでしょう。
大国主などもそうです。 陳寿は、草書体で下書きを書いたまま
死んじゃってるんじゃね?
三国志に誤記が多いのは、そんなところだと思うの >>126
701年に行政単位が評から郡に変わってますけど日本書紀では評とか無かったことにされてましたからね
この年に大和王権が隠さなければならないような重大な政治変革があったみたいですね
特に600年代の記事とか改竄しまくりみたいですね。 >>126
>大国主などもそうです。
その大国主も唯一、阿波で大事にお祀りしていますから、ご安心ください。
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。 @阿波 族滅してようやく中興した蘇我氏を滅ぼした
中大兄が全部悪い
上宮王家は本来皇統で
本姓蘇我ではなかったのではないか?
蘇我宗家は倉山田だろう。 >>131
>蘇我宗家は倉山田だろう。
その蘇我宗家も、倭国(阿波)の「曽我氏神社古墳群」で祀っているから、ご安心を。 @阿波 >>128同意だね、聖徳太子の墓すら微妙なんだよねぇ
土蜘蛛と言われた人たちが、実は日本古来の体型で
(色が黒くて胴が短く手足が長く蜘蛛みたいだ)
渡来人に殺されまくったのではないのか?
とか思う
新潟の翡翠伝説や古文も700年頃になると
ぶっつり途切れるんだよ
この頃に宗教改革か鬼道禁止とか日本が乗っ取りとか
歴史に書かれてない何かあったと予想している 【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。 >>128
>この年に大和王権が隠さなければならないような重大な政治変革があったみたいですね
まさに重大な政治変革があった。
それは、倭国(阿波)からの奈良遷都。 白村江での敗戦があったからね。 @阿波 ナクサトベの本に書いてあったけど
手足が長いのはポリネシア人らしいね。
名草の人たちは元は九州の宮崎にいて
一旦 大分に出て 紀伊に来た段階で紀伊には
もう先住してたらしいけど。 白村江での敗戦があって奈良へ遷都したことを、「後世」に対して隠したかったんだろう。 @阿波 なるほどなあ
>>134ありえるね勉強になりました
阿波さん
自分は卑弥呼の墓は福岡県田川の鏡山神社だと思ってますよ
そう山全体が古墳と思っています
隣にあるのが台与の墓
山頂近くにあるのが河内大王の墓
鏡山神社の下にあるのが卑弥呼の墓 >>138
>自分は卑弥呼の墓は福岡県田川の鏡山神社だと思ってますよ
卑弥呼の墓より、民が大勢暮らした弥生末期集落遺跡群を探しなさい。 それが先決事項。 @阿波 https://trakl.exblog.jp/17652367/
倭国の最後の王
あんまり討論されないけど
確実に存在した人だから歴史を繋げられるね どこで読んだか失念したけど
鏡山神社を改築する際に
山頂で地盤沈下したらしい
その時に、直感で地下に古墳があると思ったけど
そのまま神社を建てたんだと
卑弥呼の墓の大きさとも一致する田川の円墳
神社の中腹にあるのが台与か?
山裾に並んでいるのが河内王か薩邪馬か?
田川の鏡山神社、1700年以上の歴史
いつか暇になったら東京から行くぞ 女王の墓を山腹に作ったりしないよ。
ちゃんと壹與の墓は独立してあるはず。 >>142あの鏡山自体が古墳だろうに
その山頂の少し下に墓を作れるのは
身内か関係者だけと想定するの。
山裾の宮内庁管轄の古墳が薩邪馬だね 卑弥呼は他に墓があって、山頂が壹與の墓、くらいが適当かと。 続いて【東】100里で築上町辺りが不弥国(千戸) @阿波 倭人伝は参考程度
数や距離はあてにならない
方角は間違えていないと思う
By松本清張 >>147
松本清張も「阿波」を知らなかったんだね。 @阿波 最近のニュースに出ていた赤村?の前方後円墳
始めは地形が似てるだけと思ってたが、横の老人ホームを
建設中に人工的な三角の岩が
出てきて、老人ホームの敷地に置かれているらしい
地元の人によると元から墓のある土地だから荒らされないように言われていた
みたいなコメントあったよ
もしかしたら大型の古墳の可能性が現実みを帯びてきたよ そりゃそうだ。
狗奴国が作った最大級の墓だからな。 古墳に使われる石としてはそれほど大きいわけではないな。 地元の文化財担当者が自然地形だといってる時点でヨタ話確定 自然地形だから古墳じゃないという理由は?
土台として前方後円の形に似た自然地形を選んだ可能性などもある。 >>154
わかってないなあ
田川はナマポ財政難だから下手な古墳で金出せないんだよ
本当は調べてあげたいけど全く予算なし
みんなで、ふるさと納税して、
考古学に使って下さいとコメントしよう 国家神道は
「ジャップは糞テンコロがずっと統一支配していた」
という嘘を主張してる。
それが嘘であることの有力な証拠が、卑弥呼の記述。
だから馬鹿ネトウヨどもは、
必死に卑弥呼は近畿にいたと嘘を主張して、
卑弥呼を天皇か何かだったということにしたい。
国家神道の嘘を守りたい。
卑弥呼スレは、毎回、この手のバカ工作員の書き込みで埋まる。 うん、磐座が墳墓になった可能性など、様々な角度から調べなくてはいけない。 マジレスすると田川なんて掘ればいくらでも
古墳なり土器片なり出るからな
山をチョイ上がれば途中に洞穴や石板の
入り口玄関みたいなのとかざらにあるからな
奈良の人にみせてやりたい位に沢山ある
マジで財政難だから調査もされないし
盗掘された後の古墳も放置状態だからな
金のある考古学の研究家は一度行ってみるべし
山々の雰囲気、山から見た平野の景色、歴史ある数々の神社
勘のいい人なら必ず感じるはずだ
>>160
田川辺りは二万戸の奴国だからね。 @阿波 >>155
>自然地形だから古墳じゃないという理由は?
この赤塚の前方後円墳もどきが西日本新聞で報道された直後に、
それ関連のスレがいくつか立てられてて、そこに昭和の時代の同じ場所の
航空写真(?)が貼られてたんだよ
それで見る限り、前方後円墳ではないのは確実
今、出回っている写真も、よく見ると、前方後円形なのは、
木を刈って作ったラインだってのが分かるよ
まあ、意図的にその形に木を切ったとは言わないけれど 国土地理院のはHPで地形図を見ることができる
それを見れば、あれを古墳だという専門家はいないと納得できる >国土地理院のはHPで地形図を見る
これが畿内説の言う正しいザ・学問 客観的な判断材料を提示するのは学問として当たり前のことだと思っていたが、九州説支持者にはそうではなかったようだ 樹形に左右されずに地面の高低差を正しく上空から測量できるので、古墳とかの形がはっきりわかるらしいよ。 >>173
それ赤外線じゃない
航空レーザー測量だ 航空レーザーかけるまでもなく自然地形だよ
国土地理院のホームページ行って地形図見てこいよ 見てきたw
中心が例の所
http://maps.gsi.go.jp/#16/33.639642/130.861523/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
同縮尺の仁徳天皇陵(大仙陵古墳)
http://maps.gsi.go.jp/#16/34.563872/135.487175/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1 航空レーザーによる赤色立体図と勘違いしてるんだろ
https://www.rrim.jp/ >>161奴国の王の墓と言われている
福岡県春日市の須玖岡本遺跡や須玖五反田遺跡
ここの発掘資料見たら凄いね
銅鐸の鋳型は出るわ、小型の鏡の鋳型は出るわ
鏃の鋳型、ガラス勾玉の鋳型、青銅剣まで
ほとんど自前で作っていたんだね
これで1割程度しか発掘してないそうです
田川あたりは奴国に含まれていないみたいなんですが? >>182
>田川あたりは奴国に含まれていないみたいなんですが?
春日市あたりは奴国に含まれていないみたいですね。 @阿波 岡本遺跡と比べたら奈良の遺跡は何だか違う
奈良は時代も違うだろうな 卑弥呼の墓の百余歩とは距離で150メートル位?
目立つ場所にあり、円墳か台状墳?
鏡山神社だなあ、やっぱり
大きさもピッタリでしょ >>185
>鏡山神社だなあ、やっぱり
大きさもピッタリでしょ
レベルが違う。
天照大神伝説の地は徳島市国府町「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」です。
御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神です。
また、大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が祀られているのが徳島の神山町にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)です。
大宜都比売命の別名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言われています。
※「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日孁女命」=「天照大神」 @阿波
「八倉比賣神社」
http://kamnavi.jp/en/awa/yakura.htm
「矢野神山 天石門別八倉比賣神社記 寫」
http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2016/09/27/213429
天照大神は倭国(阿波)に御座しました。
天照大神伝説の地は徳島市国府町の気延山「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」です。御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神です。
「殉葬奴婢百余人」は気延山一帯が未掘古墳だらけであることから、気延山の卑弥呼円墳近くに、殉葬されたのでしょう。
天照大御神は徳島県阿南市橘(出雲地方)で生まれ、徳島市国府町気延山(ご神体)
の「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」が鎮座まします円墳に手厚く葬られています。 あの古墳の大きさがとか、この古墳の大きさがとか、飽きた。
畿内説でも九州説でも。
もっと確定的な証拠が欲しい。
金印とか八咫の鏡とか。
平原遺跡しかないよ。 >>187
>もっと確定的な証拠が欲しい。
「其山有丹」でとっくに決着ついてるんだけどw @阿波 >>187
平原遺跡の唯一の問題点は、銅鏡百枚ですな。
もちろん4世紀国産▲ではなくて、
純粋に百枚がどの後漢鏡だったのか、そしてどこに行ったのかという問題ですが。 銅鏡百枚は、未だ発見されていない
見つからない方が良いかもしれない
だって、どうせ後漢鏡をベースに劣化したものだから
下賜品は、重要な順に書く
銅鏡百枚は、後ろの方で少なくとも魏にとって重要ではない これが魏の時代(260年)の記年鏡
つttp://yamatai.cside.com/katudou/image/290-7.gif
鏡の種類は、”獣首鏡”
ただしこれは尚方(官営工房)で作られたものでない 邪馬台国は九州にあったことは、江戸時代以来の常識
奈良盆地にも王国はあったが、邪馬台国とは別物 >>196
邪馬台国が九州にあったと見抜いた本居宣長の慧眼は凄いね
東遷があったことを考えれば、ヤマト国がもともと九州にない方が不自然 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています