畿内説スレからの転載

纏向遺跡で出土した桃の種の年代が仮に邪馬台国と同時代だとしても
それが邪馬台国=纏向遺跡とは限らない

Wiki:纏向遺跡を参考にすると

北九州では朝鮮由来の出土品が大量に発掘されているのに
纏向遺跡では朝鮮由来の出土品は非常に少ない

これは
北九州・・・大陸との交易が多い
纏向遺跡・・・大陸との交易が少ない
という根拠になる

そして同時に
北九州と纏向遺跡との交易も少なかったと累推できる

古墳時代にはヤマト王権が畿内と北九州の両方の支配を実現していたわけで
邪馬台国の年代〜古墳時代初期の間にどちらかがもう一方を征服、もしくは 従属させたのは明らか

ヤマト王権の王都が大規模な纏向遺跡だったというのは有力な説であり
同時代に並立していた北九州の中規模国家・邪馬台国が
畿内の大国・ヤマト王権に併呑されたと見るのが自然