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邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part13
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0001九州王垢版2018/05/08(火) 23:37:02.50
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1517445904/-100
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。
0002九州王垢版2018/05/08(火) 23:37:50.19
世有王

@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載) 魏の世には増減があったの意味

A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。

B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
現在、貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についている、つまりこれも魏の世には冠をつける役職についているの意味

C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)

D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。

C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は代々の意だが、魏代ではある。Bも代々の意だが、魏代ではある。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切

以上からは、世有王は、特別な使用でない限り魏の世の王が、と訳すのが妥当である。
0003九州王垢版2018/05/08(火) 23:38:25.74
2か所目は「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」の文である。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。

全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。

伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。

水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りであり、魏志倭人伝は全て矛盾なく解読することができます。
0004九州王垢版2018/05/08(火) 23:43:37.08
【里程】
漢代に楽浪郡を支配していた公孫氏が独自に制定したの里(短里)で実測
日本側の地名は漢代の地名(倭国の中に、末蘆国、伊都国、奴国・・・
魏が公孫氏の楽浪郡を滅ぼして押収した資料に短里使用が使用されており
これが魏略や三国志魏書の参考資料となる。

【日程】
魏代に魏使が出張日誌に記録
日本側の地名は魏代の地名(邪馬壹国、狗奴国、投馬国、などは魏代に新登場
この出張日誌が三国志魏書の参考資料に加わる。

※公孫淵は自立を目指し燕王を自称し独自の年号を制定しており、度量衡も独自のものを制定したと考えられる
短里も公孫淵が制定したものであろう。
0005日本@名無史さん垢版2018/05/09(水) 08:08:15.59
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg
0006厳原町垢版2018/05/09(水) 19:30:59.80
狗邪韓国 朝鮮半島南岸(巨斉島)
対海国 対馬島(厳原)
一大国 壱岐島(原の辻遺跡)
末廬国 唐津平野(中原遺跡)
伊都国 嘉瀬川扇状地(惣座遺跡)→ 奴国 佐賀平野中部西部(佐賀城城内)
不彌国 佐賀平野東部脊振山麓(吉野ヶ里遺跡)
投馬国 筑後平野沿岸部(?)
邪馬台国 筑後川中流平野(北野地域)+筑後平野内陸部(室岡遺跡)
卑弥呼の墓 祇園山古墳(径100歩=φ25.5m)
卑弥呼の居所(城柵) 久留米南部(?)
0007日本@名無史さん垢版2018/05/09(水) 19:35:20.06
孫栄健の邪馬台国の全解決を読め
0008日本@名無史さん垢版2018/05/09(水) 22:25:49.67
以前「ツクシ皇帝」とかいうコテハンいたけど「九州王」ってハンドル変えたのか?
0010日本@名無史さん垢版2018/05/11(金) 21:00:56.96
九州説で決まりだから、もう論点もあまりないね。
考古学会とかどうするんだろうね。
0011日本@名無史さん垢版2018/05/11(金) 21:15:15.75
矛盾無く読めるんだから伊都国説で決まりですね。
0012九州王垢版2018/05/11(金) 21:16:45.89
>>9
ツクシ皇帝とか知りませんね
九州王朝大好きさんとかもいましたけど別人ですよw
0014日本@名無史さん垢版2018/05/11(金) 21:25:49.05
倭皇帝は九州説が優勢になった途端いなくなっちゃったね。
潔い人だ。
0016日本@名無史さん垢版2018/05/11(金) 21:33:10.54
【伊都国】

伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。

伊都国の平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ないが、魏志に卑弥呼の王宮の下女は1000人とることと一致する。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都が分離されていたと考えられる。

伊都国には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む中国風山城(奈良時代は怡土城、戦国時代は高祖城と呼称される)があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。

アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓であると考えられる。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、
平原遺跡からはニニギが授かった三種の神器である八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。
0017日本@名無史さん垢版2018/05/11(金) 21:34:05.53
【肥国】

倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。

筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。

卑弥呼は倭国王を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の天津国は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。

肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
ただし肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は必ずしも良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。
0018日本@名無史さん垢版2018/05/11(金) 21:35:02.81
【豊国】

考古学は九州北岸のうち、宗像や遠賀川流域には甕棺墓がなく、さらに別の文化的勢力を想定する必要があることを示唆している。
博多湾沿岸の勢力を筑紫、遠賀川流域の勢力を豊国と呼ぶことができる。
この二つの国は、姻戚関係を通じて早くから倭国の権力の中枢として栄えた。
豊玉姫は大綿津見神(海神)の娘であり海を塞き止める力を持っていたが、大綿津見神の竜宮城のモデルが関門海峡にあった豊浦宮であるといわれていて、博多の天孫族から見た隣国である豊国の姿と考えられる。
博多湾岸の天神族が北方の朝鮮半島に向かう対馬海峡に航路を持っていたのに対して、豊国は関門海峡を中心に日本海側に航路を持っていて、
その支配域は邇藝速日命や天香山命など船に乗って日本海を攻略したアマテラスの直系ではない倭人の到達域とほぼ一致する。
ただしその起源は博多湾の志賀島であると言われており、筑紫の天孫族に追われて東に移動した様子が伺われる。
豊国は遠賀川流域文化の担い手であり、もともとは博多湾の志賀島まで勢力範囲だったが、次第に筑紫に取り込まれていく。
ここで制作された遠賀式土器は日本海沿岸を中心に広範囲に分布している。

後に仲哀が筑紫入りしたときは、筑紫日向の伊都高千穂宮(怡土の県主、現在の糸島市)と筑紫岡田宮(崗の県主、現在の北九州市)がそろって出迎え、仲哀は筑紫香椎宮に迎えられた。
仲哀自身も穴門豊浦宮(門司)の王であり、関門海峡を掘削して日本海側と瀬戸内海側の海運を可能とした豊国の外戚である。
現在では北九州市も筑紫すなわち福岡県に組み込まれ、豊前は大分県として東に圧迫されている。
0019日本@名無史さん垢版2018/05/11(金) 21:36:52.98
【筑紫】

筑紫とは博多湾沿岸を中心とする、倭国で最も古い勢力である。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、
井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある(年代は暫定的なもの)。
これらの遺跡からは、全国に先駆けてすでに三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
漢により冊封された王権の象徴としてはガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作の成立と同様にこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。

筑紫とは、そもそも博多湾を抑える要所である高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。
0020日本@名無史さん垢版2018/05/11(金) 21:39:05.14
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。
0021日本@名無史さん垢版2018/05/11(金) 21:48:33.39
【狗奴国】

狗奴国王の名前は卑弥弓呼といい、卑弥呼と瓜二つである。
卑弥呼とはもとより不和であるとある。
倭国大乱は倭国の王位をめぐる争いのことである。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。

このことから、狗奴国と邪馬台国は近縁関係であると推察される。
卑弥呼亡き後の争いは、狗奴国が筑紫に攻め上ったものであると考えられるが、壹與の共立によりこれが収まったということは、狗奴国も納得のいく人事であったということだ。
狗奴国熊襲は邪馬台国の南、熊本の勢力であるが、実質的には肥国の王家であり、肥前河上のヨド姫であれば熊襲の姫でもあるので狗奴国の納得のいく人事であった。
また、卑弥呼が筑後山門の出身であるならば、筑後も本来は肥国の一部に筑紫が膨張して張り出した部分であるので、卑弥呼とヨド姫も同属である。
壹與を邇邇芸の妃であり志賀島の海神の娘である豊玉姫に比定しないわけは、豊玉姫では狗奴国との争いを収める立場になれないからである。
後世には肥前のヨド姫は豊玉姫に習合されてしまうが、本来は別人である。

邇邇芸と神功皇后は天津神である筑紫王家、卑弥呼と卑弥弓呼と壹與は肥国王家、綿津見神と豊玉姫は豊国王家に属している。
いずれも連合国家である倭国を構成する中心的な王国である。
0022日本@名無史さん垢版2018/05/11(金) 21:49:13.55
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg
0023日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 10:12:00.85
筑紫の首都が伊都。
高祖山を中心として、漢代伊都(委奴)から魏代伊都(糸島市)へ遷都した。
筑紫の人々は地質が同じ肥国へと入植していった。

一対一対応じゃないけど、
肥国王家と思われるのは伊都王家から分かれた饒速日の系統だろうね。
大山祇の本貫が豊国。
何度かの倭乱のうちに次第に瀬戸内畿内へと押し出されていった。
0024日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 14:14:40.53
大山祇が豊国はいいと思うよ。
綿津見神でもあり、志賀島から遠賀川流域に移動したのだろう。

でも饒速日は東に行ったきりなのだから、肥国ははた別系統だよ。
0025日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 14:29:05.38
あげ
0026日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 16:03:56.39
大山祇と綿津見は別物でしょう。
大山祇は豊国土着もしくは筑紫から最初期に豊国〜日本海沿岸へ開拓していった
倭種一族。
綿津見は筑紫以北出身で後追いの倭人でしょうね。

豊国→日本海→瀬戸内→畿内と、
石器青銅器の大山祇がせっせと開拓しては、後から来た筑紫倭人が乗り込んできて、
最初は同盟→筑紫王家の争いに巻き込まれて領土割譲
の繰り返しという、ちょっとかわいそうな経過を辿ったのでしょう。

肥国が開拓されるのは考古学的には福岡県よりはだいぶ遅いですよね。
海沿いに日本海沿岸の方が先に開拓されて、肥国はその後です。
肥後の副葬品が充実してくるのは邪馬台国より後の4世紀からです。
肥国王家というか肥国支配者というのは、
もちろん饒速日その人ではなく、饒速日の子孫のことです。
0027日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 16:36:53.36
>>26
>大山祇と綿津見は別物でしょう。

なんだか同一視する意見があるんですよね。
どっちも博多湾を追い出されて東に移動しているように見えるし。
名前は国津神と天津神の対比をそのまま言い換えたような名前で、別なようにも見えますが、天津神だって邇邇芸の時に上陸してしまうので、名前は当てになりません。

肥国は後から開拓されますが、大山祇の東遷と時代がかなり違うので、明らかに別の氏族でしょう。
それこそ、熊襲です。
熊襲タケルの本拠地は肥前河上ですから、熊襲は肥国の王家です。
0028日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 16:40:48.90
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺

https://youtu.be/iBIA45CrE30
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
https://www.youtube.com/watch?v=SiHp41uWo1I
https://www.youtube.com/watch?v=zYBCTRryFP8
https://youtu.be/-wF31xbwqPM
0029日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 16:48:43.31
>>27
綿津見は追い出されていませんよ?
海神・龍神として北部九州各地の神社に祀られていますし、
豊玉姫も綿津見の一族ですよね。
大山祇が外戚のニニギよりも
綿津見を外戚とした山幸彦のほうが広く分布しています。

肥国はだいぶ後から開拓されているので、
肥国の熊襲というのは、筑紫王家の筋であり、狗奴国王家でしょうね。
0030日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 17:06:27.86
>>29
>海神・龍神として北部九州各地の神社に祀られていますし、
>綿津見を外戚とした山幸彦のほうが広く分布しています。

広くといえば聞こえはいいのですが、外周に追いやられているとも言えます。
おそらく伊都国王家がニニギ王家であり、中心部の王都は天津神に取られています。

>肥国の熊襲というのは、筑紫王家の筋であり、狗奴国王家でしょうね。

これは同意。
そして多分、卑弥呼も筑紫宗家ではなく肥国王家の女王。
卑弥弓呼は同族のライバルでしょう。
今度は筑紫天孫族宗家が追い出されて大和まで東征したのでしょう。
筑紫倭国の王統は目まぐるしく入れ替わり、天孫族の歴史書である記紀では卑弥呼が黒歴史になったのです。
優勢な勢力が入れ替わるという考古学的な状況にも一致します。
0031日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 17:20:59.87
>>30
伊都の高祖神社も綿津見系で占められていますよ。
そもそも志賀島に綿津見が鎮座しています。

卑弥呼は肥国王家の女王なのではなく、
卑弥呼と、肥国王家=狗奴国王家は同族なのでしょう。
どちらも筑紫宗家ではないから、記紀には記されなかった。

筑紫宗家+綿津見に対して、
肥国王家=狗奴国王家+大山祇が挑戦したのが、倭国乱。
たまたま筑紫宗家に戦時指導者となる適齢男子がいなかったので、
分家の卑弥呼擁立。

卑弥呼の長期政権中に成人した筑紫宗家の男性が外交や東征で活躍した。
狗奴国滅亡によって邪馬台国の存在する必要が無くなり、
倭国再統一が成就して大政奉還したわけですね。
0032日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 18:20:02.35
>>31
>伊都の高祖神社も綿津見系で占められていますよ。

祭神は彦火火出見なので、男系では天津神、女系では国津神ですね。

>卑弥呼は肥国王家の女王なのではなく、
>卑弥呼と、肥国王家=狗奴国王家は同族なのでしょう。

これって、同じことでは?

>狗奴国滅亡によって邪馬台国の存在する必要が無くなり、

肥前河上の淀姫が壹與なら、肥国王家は滅亡していないですね。
再統合しただけだと思います。
0033日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 18:32:25.91
>>32
彦火火出見自身は女系は大山祇ですが、
妻に迎えたのは綿津見一族の女性です。

歴代天皇によく見られたように、自身の母系外戚による支配に反発する。
だから彦火火出見は大山祇一族による政治介入を嫌って、
綿津見一族と手を結んだわけです。

それと、邇邇芸命が木花咲耶姫命だけを生涯愛し続けたので、
それはもちろん素晴らしい純愛ですが、
古代の筑紫宗家としては、男子が3人しか生まれなかったわけです。

大山祇一族は利権独占を夢見て喜んだでしょうが、
壱岐対馬からの海外交易利権を持つ綿津見一族にすぐ覆されます。

数少ない筑紫宗家の男子が兄弟喧嘩をしてしまい、
筑紫宗家の男子が彦火火出見→日子波限建鵜草葺不合命だけになってしまった。
皇子たる日子波限建鵜草葺不合命に産屋が作れなかったというのは、
つまり、生まれた時にまさに開戦直後だったわけです。

筑紫宗家の男子がわずか彦火火出見となり、
その子供が産まれようとするその好機を狙って、
戦争を仕掛けたのでしょう。
0034日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 18:41:26.10
>>33
>壱岐対馬からの海外交易利権を持つ綿津見一族にすぐ覆されます。

これ、天津神と限りなくプロファイルが被りませんか?

>筑紫宗家の男子が彦火火出見→日子波限建鵜草葺不合命だけになってしまった。

海幸が追い出されて行き着いたのが宮崎県で、魏志倭人伝の投馬国なんでしょう。
0035日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 18:45:04.09
一方の饒速日は、東西の各地に子孫を残した。

肥国王家=狗奴国王家は、要するに九州物部の出身でしょう。
筑後平野、つまり久留米や朝倉などを拠点に九州を南へ向けて開拓していった。

筑紫宗家の男子が一人二人しかいないのだから、
肥国王家の男子も王位継承権争いに参加してくる。
それが倭国乱でしょう。

卑弥呼は肥国とはまったく別で、
饒速日の子孫という点だけが共通の、肥国王家=狗奴国王家とは関係ない血筋。
だからこそ、邪馬台国側の女王に共立されたわけです。

>狗奴国滅亡によって邪馬台国の存在する必要が無くなり、

>肥前河上の淀姫が壹與なら、肥国王家は滅亡していないですね。
>再統合しただけだと思います。

肥前河上の淀姫は、後世の神功皇后の妹であり、
壹與ではありません。
親族でしょうけども。
肥国王家=狗奴国王家は、倭武尊によって滅ぼされました。
0036日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 18:53:18.60
>>34
重なります。

そもそも綿津見が天津神の一族だった、要するに分家の可能性が一番高いわけですし、
どうしても別にしたいのなら、
大陸出身、遼東出身、壱岐対馬出身、筑紫出身のどれかに当てはめるのも可能でしょう。考古学的には、半島出身というのは考えにくいと思います。

>海幸が追い出されて行き着いたのが宮崎県で、魏志倭人伝の投馬国なんでしょう。

前半は同意します。
後半は里程日程別々理論を考案した九州説の先人の方に同意します。
0037日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 20:01:50.71
>>35
>饒速日の子孫という点だけが共通の、肥国王家=狗奴国王家とは関係ない血筋。

饒速日こそ関係ない。

>肥前河上の淀姫は、後世の神功皇后の妹であり、

これはかなり後世の習合であるそうです。
淀姫の権威に相乗りしただけ。
0038日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 20:16:26.63
佐賀平野に倭人集落が営まれるのは、邪馬台国以降です。
勝利した綿津見が大規模な干拓事業を行ったのでしょう。

女王壹與が300年前後の肥前河上に居住した痕跡は皆無だと思います。

4,5世紀の神功皇后の時代になって、
広大な田園地帯となった肥前を、神功皇后の妹の領地として分け与えたのでしょう。
0039日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 20:42:50.46
>卑弥呼の長期政権中に成人した筑紫宗家の男性が外交や東征で活躍した。

この雌伏の時期が決定的に貴重だったわけです。
魏のエリート達と直接交流して、聡明な若い筑紫宗家エリートが様々な文物を吸収した。

そこから日本列島へ帰還して、
卑弥呼に政務を任せて
邪馬台国軍を動かしての征服。

これまで誰も見向きもしなかった土地を、
次々に灌漑干拓して、平野を生み出していったわけです。
<天孫族
0040日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 20:48:03.26
>>38
>女王壹與が300年前後の肥前河上に居住した痕跡は皆無だと思います。

狗奴国がすでに邪馬台国と対抗できるくらいに開発されていたなら、無理ではないでしょう。
肥前は吉野ヶ里遺跡に代表されるように、弥生時代にはすでに開発が進んでいました。
痕跡が皆無は言い過ぎです。
0041日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 20:54:56.14
中世においては、肥前河上の淀姫は豊玉姫と同一視されていました。
神功皇后の妹と同一視されるようになったのは1500年代からだそうです。
いずれも後世の習合だと思います。
0042日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 21:08:25.39
狗奴国王家は滅ぼされたわけです。

勝者である邪馬台国側の、綿津見一族が席巻して、
その血を引く神功皇后とその妹の淀姫が北部九州各地を支配した。

当然のことながら、
支配の根源である豊玉姫は崇められますし、
支配者である神功皇后ならびに妹の淀姫も崇められます。

後世には習合されます。
0043日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 21:57:12.02
神功皇后の妹という話そのものが、1503年に初めて出てきた話で、それ以前には記紀を含めてソースは全くないそうです。
神功皇后は卑弥呼より120年は後の人物なので、狗奴国云々はナンセンスです。
0044日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 22:10:19.59
>>39
この人物は、
宇佐古伝によれば 宇佐稚屋
のちの筑紫国造家につながる流れという。
0045日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 22:21:00.58
文献じゃなくて、考古学的に、佐賀平野に3世紀以前のまともな集落はありますか?
吉野ヶ里などは海岸沿いだったという話ですが。

土地が無ければ国は無い。
国が無ければ王もいないわけです。
0046日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 22:35:43.70
佐賀の埋蔵文化財
ttp://www.pref.saga.lg.jp/kiji0031784/index.html

佐賀平野東部では、吉野ヶ里遺跡(神埼市・吉野ヶ里町)などの拠点的集落があり、また海に近い低地には本分遺跡(みやき町)、高志神社遺跡(神埼市)など貝塚をもつ集落が分布する。
本行遺跡(鳥栖市)、姉遺跡(神埼市)などでは、青銅器生産が行われた。三津永田遺跡(吉野ヶ里町)、二塚山遺跡(吉野ヶ里町・上峰町)、目達原丘陵の遺跡群(吉野ヶ里町)などでは、青銅器などを副葬した墓地が確認されている。
 佐賀平野中央部では、惣座遺跡(佐賀市)、土生遺跡(小城市)などの大きな集落が所在するが、その全体像はまだよくわかっていない。
 佐賀平野西部では、椛島山遺跡(武雄市)や釈迦寺遺跡(武雄市)で見つかった甕棺墓・石棺墓などから、青銅器などの副葬品が見つかっている。
0047日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 22:38:47.36
>>39
むしろ、卑弥呼の長期政権下で不遇だった天孫族が、かつて東へ行き王国を築いているという饒速日を頼って筑紫を脱出したということではないでしょうか。
0048日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 23:53:26.58
>>46
それらの邪馬台国時代〜邪馬台国以前の肥前遺跡を地図で並べると、
佐賀平野が当時はまだ無かったことがよくわかります。

>>47
卑弥呼の長期政権下で不遇で、筑紫を脱出するくらいなら、
狗奴国と呼応して卑弥呼を倒そうとするでしょう。
0049日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 00:06:13.56
平野が狭かろうが、そこに遺跡があるのだから、肥国がなかったということにはなりませんね。
しかも狗奴国が熊本なら、邪馬台国とタイマンを張ることができる大国になります。
卑弥呼がもともと肥国出身なら、天孫族が肥国の狗奴国と手を結ぶことはまずないでしょう。
邪馬台国と狗奴国の対立は肥国内部の内輪揉めな訳です。
卑弥呼が倭国女王にまでなったので、倭国の都である伊都に行った隙を狙って卑弥弓呼が即位を宣言してしまったのでしょう。
0050日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 00:28:29.30
佐賀平野がまだ無いわけです。
肥国が無かったとは言えなくとも、
筑紫に対抗できるほどの国家はありませんでした。

狗奴国が熊本でも、熊本に王墓はありませんし、
鉄や銅は筑紫を通して供給されるわけですから、
2,300年遅れで筑紫によって開発中の熊本がタイマンで対抗できるはずもありません。

卑弥呼は肥国出身ではなく、
筑紫出身の饒速日の、
日本海側の子孫の一人が卑弥呼、
筑後以南の子孫の一部が狗奴国王家、
畿内の子孫の頭領が筑紫宗家の東征に屈した、
ということでしょう。

邪馬台国と狗奴国の対立は筑紫王家内部の内輪揉めな訳です。

兄弟喧嘩で山幸彦が海幸彦を倒してしまい、
筑紫宗家が山幸彦だけになったので、
その隙を狙って
卑弥弓呼(の父か祖父)が即位を宣言して伊都を急襲し、
山幸彦の皇子は戦乱の只中で出産せざるを得かなった。

山幸彦は凶刃に斃れ、
日子波限建鵜葺草葺不合命はまだ乳幼児なので、
既に年長で祭祀と政治に長けた卑弥呼が女王に共立された。

筑紫宗家の男子は日子波限建鵜葺草葺不合命だけであり、
卑弥呼もまた、饒速日男系の子孫だったわけです。
0051日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 01:07:46.38
>>50
>鉄や銅は筑紫を通して供給されるわけですから、
>2,300年遅れで筑紫によって開発中の熊本がタイマンで対抗できるはずもありません。

熊本は製鉄遺跡があるので、実際には鉄器には困っていなかったでしょう。
筑紫より数百年遅れとはいえ、3世紀までには肥国は強大な勢力となっていたのでしょう。

>日本海側の子孫の一人が卑弥呼、
>卑弥呼もまた、饒速日男系の子孫だったわけです。

まったく根拠がないですね。
女系が尊重され、女性首長がいるのは、九州の特徴です。
饒速日は男性上位の天津神の家系であり、女王が生まれる余地はありません。
0052日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 01:14:44.76
>>51
製鉄遺跡は各地にありますが、鉄原料の供給源が大事です。
筑紫と熊本が敵対したら、
熊本は鉄原料が入ってこないのですからどうしようもありません。
これは弥生時代の全ての地域について当てはまります。

考古学的に、伊都〜唐津〜壱岐対馬は、ガッチリと連携して
利権を独占していたことが明らかです。
楽浪土器や威信材は奴国ですら伊都より格落ちしますよね。

さらに、製鉄遺跡にもレベル差があります。

壱岐のカラカミ遺跡が最上位。
重要な鉄器はカラカミ遺跡のみで作られ、
あとの製鉄遺跡は、汎用品を作っていたに過ぎません。
0053日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 01:19:35.28
>女系が尊重され、女性首長がいるのは、九州の特徴です。
>饒速日は男性上位の天津神の家系であり、女王が生まれる余地はありません。

天津神もまた、九州の家系なのですから、
女王が生まれる素地はあるわけです。

共立というのも重要です。

天津神が男性上位であっても、
共立に参加する九州の部族が女性首長を重視するのなら、
緊急事態において、渋々女王を容認せざるを得なかったのかもしれませんし。
0054日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 01:30:52.58
>>53
>天津神もまた、九州の家系なのですから、

天津神は九州土着ではありません。
女系を重んじるのは九州の国津神の方です。

>共立に参加する九州の部族が女性首長を重視するのなら、
>緊急事態において、渋々女王を容認せざるを得なかったのかもしれませんし。

その場合、共立されるのは九州の国津神の女性首長です。
つまり肥国王家の女王が、倭国全体の女王となったのです。
一大率は、卑弥呼が天津神の領域である対馬海峡を治めるために働きました。
卑弥呼が天津神の歴史書である記紀で触れられていないのは、卑弥呼が国津神でありながら天津神より上位に立ったからです。
しかし卑弥呼が肥国を留守にしている間に肥後で卑弥弓呼が独立を宣言してしまったと。
もともと同じ家だから、素より不仲となるわけです。
0055日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 01:39:51.48
>>54
卑弥呼の共立が先行するというお考えのようですが、
それでは筑紫宗家を差し置いて、肥国の女性を倭国王に推薦する動機がありません。

男子が不足した筑紫宗家に対して、狗奴国王家が宣戦布告した。
だからこそ、
筑紫宗家の兄筋の女性がわざわざ共立されるわけです。


卑弥呼は天津神です。
記紀は天孫族の歴史書です。

7世紀において失脚した、卑弥呼の子孫がまだ力を持っていたからこそ、
念入りに黙殺する必要があった。
逆算すると、7世紀に失脚したあの有名一族が、というわけですね。
方形周溝です。
0057日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 02:15:22.24
>>55
>卑弥呼は天津神です。
>記紀は天孫族の歴史書です。

天津神のうち、九州に降臨して伊都国を建国した一族が天孫族なので、実質的に同じことです。
しかし卑弥呼には天津神らしい要素がない。
0058日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 02:16:55.50
>>56
蘇我氏の祖は武内宿禰。
邪馬台国の末裔である田油津姫を神功皇后と一緒に滅ぼした側です。
0059日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 09:14:19.44
景行が九州をぐるりと制圧したのですから、
景行の代に九州は統一されています。
三角縁神獣鏡が卑弥呼の治世を讃えているのですから、
邪馬台国の末裔は勝者の側にいるわけです。

後代の田油津姫は女王ではなく、地方首長。
邪馬台国の末裔の可能性は高いですが、トップではない。
邪馬台国の末裔のトップは仲哀や神功皇后。

倭国乱は、筑紫王家内部の内輪揉めだった。
景行がそれを終結させた。
神功皇后と田油津姫の争いもまた、邪馬台国末裔内部の内輪揉めだっただけです。
0060日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 11:33:51.81
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。
0061日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 11:56:02.42
倭国と邪馬台国は微妙に違うんだよ。
邪馬台国は田油津姫で終わり。
0063日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 14:32:40.07
田油津姫は神夏磯姫の末裔と伝えられている。
田油津姫は仲哀の御代、神夏磯姫は景行の御代であり、2世代違う。
神夏磯姫は4世紀初め、田油津姫は4世紀末くらいか。
神夏磯姫は壹與の娘か孫くらいということになる。
卑弥呼から田油津姫までが狭義の邪馬台国となる。
0064日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 15:14:41.22
神夏磯姫は八咫鏡を持つ邪馬台国女王でいいでしょう。
神夏磯姫の代に、景行が九州全土を制圧していますよね?

景行が統一したのだから、
その時点で景行以外が支配する邪馬台国は存在しえないことになります。
九州の支配者は景行になりました。
邪馬台国は消滅。あるいは、邪馬台国王=ヤマト王=景行、となりました。

邪馬台国vs狗奴国の戦いは終結したわけです。


景行の2世代後には、
九州の支配者は、筑紫橿日宮(香椎宮)の仲哀と神功皇后です。

大王である仲哀の支配下に、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮にそれぞれ配された官として、五十迹手と熊鰐
香春宮に配された官として、田油津姫
がそれぞれいた。

田油津姫と羽白熊鷲が、神功皇后に対して反乱を起こしたが、
大王である仲哀&神功皇后に、重要地点である五十迹手と熊鰐も合流して、
鎮圧されただけの話です。
0065日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 15:28:28.41
>>64
>その時点で景行以外が支配する邪馬台国は存在しえないことになります。
>九州の支配者は景行になりました。
>邪馬台国は消滅。あるいは、邪馬台国王=ヤマト王=景行、となりました。

景行天皇と神夏磯姫は共闘なので、消滅したとは言えない。
神夏磯姫の孫?の田油津姫が一定の権力を保持していたことは明らか。

>>64
>大王である仲哀の支配下に、

王ではあったが、王であったかは不明。
少なくとも、田油津姫は支配下ではなかった。
筑紫は少数勢力によるせめぎ合いが続いていた。
0066日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 15:33:59.87
神夏磯姫は橿日宮の女王であり、
景行の子孫である仲哀と神功皇后もまた橿日宮に入っているのですから、
神夏磯姫の支配権は仲哀に引き渡されています。

>筑紫は少数勢力によるせめぎ合いが続いていた。

4世紀末にそのような状況で、
しかも香春宮の田油津姫が邪馬台国女王として、
筑紫勢力と対峙しているのであれば、
あなたの邪馬台国観そのものを一から説明する必要があります。

2世紀中旬の倭国乱から、
3世紀の邪馬台国卑弥呼までの経過をどう考えているのですか?
0067日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 16:49:36.16
景行が事実上の倭王となったことは間違いないでしょう。
しかし神夏磯姫も女王ではあり続けたでしょう。
複数の宮家が並び存在する不安定な状況だったでしょう。
豊浦宮の仲哀の時代も、岡田宮と高祖宮の王家が別に存在していたわけです。
卑弥呼が伊都で倭国女王となっても狗奴国が反抗したように、仲哀が香椎宮で倭王となっても、香春宮の田油津姫が反抗していたわけですが、田油津姫にしてみれば自分の方が卑弥呼以来の正統であったはず。
仲哀は後世において天皇とされているので、おそらく天津神の末裔で、神夏磯姫と田油津姫が国津神の末裔でしょう。
記紀は天津神の歴史書という立場から、仲哀を正統として扱ったのでしょう。
しかし、両家ともにおそらく神功皇后により倒され、応神からは武内宿禰を祖とする新しい王朝でしょう。
0068日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 16:55:59.46
卑弥呼の前の男王70〜80年が日向三代なら、一代25年くらい。
記紀の通りなら、卑弥呼の即位を待たずして神武は筑紫を出ていたはず。
後世にも伊都高祖宮が登場するので、残留した天孫族もいたはず。
卑弥呼の元で伊都国の官とされた禰宜こそ、邇邇芸の末裔でしょう。
0069日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 17:41:56.75
>>68
>邇邇芸

日本書紀の本文では「天津彦彦火瓊瓊杵尊」としています
日本の皇祖神を貶める気は毛頭ないのですが、
瓊は珠・タマであり、杵はキネであり棒状のものです
つまり瓊瓊杵は、「玉二つに棒」という、
子孫繁栄のためにはこれ以上ない御名となっています
0070日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 19:28:09.24
漢委奴国王
親魏倭王

卑弥呼は倭の邪馬台国女王であって、倭国王じゃないよ。
倭国王は別にいたんじゃないの?

例えば天皇家がいるけど、将軍が幕府開いてるみたいな。
0072日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 20:15:44.39
>>69
まだ漢字が伝わる前の名前なので、字にあまり意味はないでしょう。
ニギは稲が賑やかに稔る様を述べた言葉であるという説があります。
0073日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 20:16:26.95
卑弥呼の称号は親魏倭王ですね。
0075日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 20:25:42.83
卑弥呼が倭國の王となったのは、247年年末。

246年迄は、卑弥呼は数ヶ国から共立されて女王国の王となった。

卑弥呼が邪馬台国の王であったことはない。

卑弥呼を共立した国々は、奴國、不彌國、投馬國、
それに邪馬台国を構成する4ヶ国、計7ヶ国である。

卑弥呼の城柵は、その4ヶ国の中心地であり、
それら7ヶ国の中心地である久留米南部に置かれた。
0077日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 21:28:42.23
名称の問題は自称他称、倭国王を名乗れば誰でも倭国王でしょう。

倭国=九州島の国、なのですから、
倭国王=九州島の全部を支配する王、です。

卑弥呼は南の狗奴国との戦争中に亡くなりましたから、
九州島を統一しておらず、
現実的な意味での倭国王にはなっていないわけです。

台与も激告諭されて戦いに挑むところで記述が途切れていますので、
倭人伝に書かれている範囲では
倭国王にはなっていないわけです。

記紀で言うならば、景行天皇親子が九州を統一しているので、
現実的な意味での倭国王ですね。
0078日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 21:31:59.54
倭国王とは、中国皇帝から承認される称号です。
言い張るだけではダメで、金印を受け取る前に国の様子を査察される必要があります。
0079日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 21:34:42.41
>>78
であれば、卑弥呼は
現実的にも狗奴国のせいで九州を統一していないし、
中国皇帝からも、親魏倭王(倭国王ではない)とされたし、
0082日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 21:47:13.95
>>79
実際に親魏倭王となっているのですから、倭王の条件は筑紫を支配すること、だけだったのでしょう。
008377垢版2018/05/13(日) 22:46:39.52
@「景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都 
 其年十二月 詔書報倭女王曰 ・・・・・」
A「正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王 并齎詔
 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝詔恩」

>>77の修正

247年は間違い。

@ 卑弥呼が倭國王と承認されたのは、238年(景初二年)
A 卑弥呼が倭國王として「詔書印綬」を受けたのは、240年(正始元年)
0084日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 22:52:24.84
>>82
倭王の条件は筑紫を支配することにあらず
倭王の条件は倭奴国の後継者であることだよ。
0085日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 22:57:15.28
漢が倭奴国王を任命してたから
漢から政権を禅譲された魏は倭奴国王の後継者を倭王を任命したんだよ
筑紫を支配するとか関係ない 。
0086日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 23:38:53.23
タテマエ上はその通りだが、実際には倭国大乱で王統が乱れているにも関わらず、卑弥呼が倭王に叙されているよ。
0087日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 23:53:56.43
「景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡」
と登場と同時に倭女王ですから卑弥呼は始めから倭奴国王の後継者扱い
つまり後継者であることを示す「漢委奴國王」で泥封した文書を持って行ったんだ。
0088日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 00:46:20.01
ああ、それは同意。
伊都の細石神社にあったという。
0089日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 06:25:57.56
だったら魏委奴國王になるだろ。
0091日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 07:17:02.55
中国側の国名が漢から魏に変わったから
日本が倭の国名も倭奴国から倭に変更したんだろう。
0092日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 07:17:55.11
中国側の国名が漢から魏に変わったから
日本側の国名も倭奴国から倭に変更したんだろう。
0093日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 07:21:22.01
後漢の倭奴国王は考古学的には伊都国の時代だから、好字に変えたんだろうな。
0094日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 07:23:00.23
細石神社が建てられている三雲南小路遺跡は、伊都国最初の王墓であり、筑紫の日向に降臨した邇邇芸と木花咲耶姫の王墓と言われる。
年代的には漢委奴国王印をもらった時代の倭国王墓である。
0095日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 07:27:32.69
倭国大乱は一つには「漢委奴國王」の印の所有権をめぐる争いだったんだろうな。
0096日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 07:40:07.22
>>95
>倭国大乱は一つには「漢委奴國王」の印の所有権をめぐる争いだったんだろうな。

いや、倭国乱は粟(邪馬台国)国内での争乱。 一方、記紀の国譲りは粟国と長国との統一戦争。  @阿波
       ↓
※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地

【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡
0097日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 11:27:43.98
>>91-94

「安帝永初元年 倭國王帥升等 獻生口百六十人 願請見」

「倭(倭奴國)」から「倭國」への名称変更は107年(永初元年)になされた。
0098日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 19:24:40.40
>>97
なるほど239年に「漢委奴國王」で泥封した文書など使わない。
0100日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 20:40:49.93
公孫氏が遼東から韓を抑えていたから倭は魏に239年まで入朝するにことができなかった
魏に行くのに手ぶらでは行けない、自分の正統性を示すには手持ちの「漢委奴國王」を使うしかないだろ。
0101日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 20:44:18.29
里程は漢使(<楽浪土器)による長年の実測だから、
里程における国名は漢代のものだろ。

日程は魏使の見聞録だから、
日程における国名は魏代のもの。
0102日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 20:45:45.69
>>107
間の帥升が倭国王を名乗ってるのだから「漢委奴國王」はあればいいけど、無くてもいいのでは?
0103日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 20:51:18.21
漢代だから倭國王帥升も「漢委奴國王」を受け継いで使っていた。
0104日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 20:57:48.53
>>103
それならそれで、107年に「漢委奴國王」を使って皇帝に初見したとしても、
帥升は、漢から委奴國王ではなく「倭国王」と認定されたのですから、
以後の封泥には「倭国王印」を使ったはずです。

全ての辺境王に金印を贈ったわけでは無いのですから、
金印で封泥をする必要はなく、
辺境王側で用意した印を漢魏側に登録しておけば、
それで以後はその印の封泥で通じるはずでは?
0105日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 21:01:34.51
魏は漢から禅譲を受けて外交関係も継承したので、卑弥呼も金親魏倭王印をもらうまでは漢委奴国王印を使ったはず。
0106日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 21:05:08.76
>>105
私も九州説なので、別にそれでいいのですが、
単純な話として、
中国側の史書において、
107年の帥升が倭国王と呼ばれているし、
魏志倭人伝に委奴国の言葉が出てこないので、純粋な疑問です。
0107日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 21:15:50.63
だから女王ってのは奴王の誤記なんだって
0108日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 21:15:56.16
漢委奴国王印が倭国王の印なんだよ。
0109日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 21:19:08.89
>>104
漢は倭に「漢委奴國王」の印を一度贈っているのですから
何回もは印を贈りません
帥升の記事にも印を貰ったなんて無い。
0110日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 21:24:29.78
妄想になるから不毛なことにいい加減気づけ。学問ではすでにないわ。
0111日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 21:25:28.88
漢には「漢委奴國王」で通用。
魏は漢から禅譲されてるから、最初は「漢委奴國王」で通用。
けれども魏に変わったのだから、印も「親魏倭王」に更新した。
だから二度目の帥升は印をもらっていないし、
二人目の台与も印をもらっていない。
0112日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 21:25:47.95
魏志倭人伝における倭の地理的定位
*野上 道男
h ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ajg/2015s/0/2015s_100012/_article/-char/ja/
対馬海峡の流速は0.5m/sec程度であり(九州大応用力学研WEB公開データ)、
速さがその4倍以下の人力船は大きく流される.
海図も羅針盤もなく航路距離は測定不可能な値である.
そこで倭人伝に記述されている里数は測量による直線距離であると判断される.
つまり天文測量である1寸千里法(周髀算経)で得られた短里による数値である.

帯方郡(沙里院)から狗邪韓国(巨済島)まで七千余里、
女王国(邪馬台国)まで万二千余里、
倭地(狗邪韓国と邪馬台国の間)は(周旋)五千里と記述されている.
これらの3点はほぼN143E線上にある.
この方位線は子午線と、辺長比3:4:5のピタゴラス三角形を作る(周髀算経と九章算術で頻繁に使われている) .
帯方郡での内角は36.78度であり(N143.22E)、東南(N135E)
あるいは夏至の日出方向を東とする方位系での南(N150E)の近似である可能性が高い.

1.2万里は斜め距離であり、南北成分距離は、1.2万里x4/5=9600里である.
1寸千里によると日影長の差は9.6寸となる.帯方郡は中国の行政内であるので、
日影長による定位が行われていたはずである.
現在の知識では郡(沙里院)の緯度は38.5Nであり、日影長は21.53寸と計算できる.
それより9.6寸短い11.93寸という値が得られる緯度は31.92Nである.
方位N143E線と合わせると郡から1.2万里の点は宮崎平野南部となる.

測定誤差に配慮すれば、倭人伝では邪馬台国は九州南部にあったと認識されていたといえる.
それより詳しい比定は考古学の問題である.
漢文法に時制はなく、「邪馬台国女王之所都」は文意を補って、
邪馬台国はかって(倭)女王(卑弥呼)が都して(治めて)いたところである、
と読むべきであろう.
邪馬台国が倭国の首都であるとするのは明らかに誤読である.
0113日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 21:28:43.70
「漢委奴國王」の様な印は一王朝が一度渡したら二度とは貰えない
なので貰った方は代々保管する
王朝が変わると卑弥呼のように新しい「親魏倭王」印がもらえる
壱与も晋が起こると使者を派遣して新たな印を貰おうとしている。
0114日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 21:30:05.27
野上 道男ってポンですねw
0115日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 21:31:30.62
>>112
と言うことは
九州南部の邪馬台国を都としていた卑弥呼は
魏代には
女王国である奴国いたと言うことだな。
0116日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 21:48:11.57
もうめちゃくちゃな妄想すぎるわw
0117日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 22:10:46.84
>里程は漢使(<楽浪土器)による長年の実測だから、
>里程における国名は漢代のものだろ。

>日程は魏使の見聞録だから、
>日程における国名は魏代のもの。

魏略逸文は里程のみで、見聞録が無いし、卑弥呼の墓や台与が出てこないから、
漢代の情報が主で、
正始元年(240年)に帰国した、梯儁等の簡単な話しか聞いていない。

魏志倭人伝は、日程が加わり、見聞録が加わり、卑弥呼の墓や台与まで出てくるから、
魏代の情報に更新された部分があり、
張政等の旅行日誌を陳寿が新たに参照している。


魏略逸文
>東南五百里到伊都国戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其国王皆属女王也
>其南有狗奴国男子為王其官有狗古智卑狗不属女王

>魏志倭人伝
東南陸行五百里到伊都国官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千余戸世有王皆統属女王国
0118日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 22:12:04.10
伊都国とは、高祖山を中心とする地域であり、
倭国の都であり続けた。

紀元前の伊都中心部は、高祖山の東。
旧伊都(委奴)。
吉武遺跡に宮殿があり、福岡平野側の奴国二万余戸と連続する、
万余戸の大都市であった。

紀元後に遷都した中心部が、高祖山の西。
我々の認識する伊都國。
高祖神社に宮殿があり、千戸の清浄な都。

大量の住人や工房によって汚染された奴国と日向峠で隔てて、
千戸に人数制限して、
千人の女性労働者による絹生産や、玉造工房など、
環境を汚さない産業のみ招聘。
0119日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 22:12:59.68
里程は漢代に楽浪郡史によって測定されたものだから、
漢代の各地国名を里程で連続記載。

半島南岸→対馬→壱岐→末路国東端上陸地点=筑前深江
が、全て東夷伝千里。

筑前深江駅から、県道49号線沿いに、東南陸行東夷伝五百里で、旧伊都。
0120日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 22:15:06.13
魏略逸文
漢代にはまだ、壱岐、末蘆、伊都、奴国その他に代々の王がいた。
つい最近までいたその王達が、卑弥呼を共立したという視点で書かれているから、

>其国王皆属女王也
倭国の各旧中小国の旧王達は皆、
(敵対する狗奴国男王ではなく)邪馬台国女王卑弥呼に属している。


魏志倭人伝
台与の時期まで記述した上で、
魏が密接に関わった上で、
邪馬台国女王と狗奴国王が覇を競う時代の視点で書かれているから、

>世有王 皆統属女王国
伊都国には魏の世に王(邪馬台国女王=親魏倭王)がいる。
倭国の皆は(敵対する狗奴国ではなく)女王国邪馬台国に属している。
0122日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 22:30:01.93
>>121
反論になってないよ。
0123日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 22:32:00.88
記紀と魏志倭人伝は、同じ倭国の同じ時代の内容を含んでいるはず。
筑紫の日向の伊都のクジフル山(高祖山の隣)の高千穂宮(高祖神社)が倭国の王宮であるという記事で、両者は一致している。
0124日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 22:32:30.04
邪馬台国ヲタは文系だから理系の論理性に欠けるから平気で妄想垂れ流す。
0125日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 22:36:05.93
理系は理系で歴史学や考古学の方法論を知らないから妄想全開だけどな
0126日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 22:41:30.15
邪馬台国はもはやこれ歴史学ではなく、
素人の歴史ヲタがなんの根拠もなくあれやこれや妄想垂れ流してるだけになってるわ。
0127日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 22:44:23.90
>>112

野上 道男氏は老人性痴呆になってしまっている。
0128日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 22:46:12.96
歴史学や考古学に則った研究で大勢は決しつつある
自分の説が一番、学者なんて信じないと主張するキチが、
それを認めずに騒ぎ立てている、というのがこの板の現実
0129日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 22:47:34.60
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)説は理系的な思考で根拠もしっかりしてますね。
0130日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 22:49:16.94
日本の歴史学や考古学は文系で情緒的で理論がハチャメチャですね
学問じゃなくて宗教的。
0131日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 22:52:52.72
理系であっても、方法論を無視したらそれは単なる妄想でしかないのに、それすら理解できない頭だと意味ないな
0132日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 22:55:14.24
方法論を無視したらそれは単なる妄想でしかないのに・・・正に畿内説のことですね。
0133日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 22:55:38.35
公園の三角ベースでホームラン王になったから、
メジャーでもホームラン王になれるんだ、
と主張するくらい滑稽なんだがな
0134本田垢版2018/05/14(月) 22:55:52.53
2014年4月から2015年3月にかけて、
伊都国歴史博物館で「三国志」魏志 烏丸鮮卑東夷伝
の講義が12回開催されました。

講師は西谷正先生でした。

講義の中で先生は
「発掘調査の結果、邪馬台国は伊都付近には無い。」
とおっしゃってました。

詳しい説明はありませんでした。

先生は今、「海の道むなかた館」館長なので、
お近くに御住まいのかたは先生に質問できるかもしれません。

西谷正 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%B0%B7%E6%AD%A3
0135日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 22:57:29.25
ついに伊都クズが学問そのものの否定をはじめたw
そりゃお前には難し過ぎたかも知れんがw
0136日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 22:59:35.00
畿内説とかに関わったら不幸になるよw
0139日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 23:14:23.95
理系とか文系とかの区別は無いんですけど
物事を理論的に考える必要があると思うんですよね
畿内説には理論も何も無くてただ畿内だ畿内だと結論しか無いんですよね。
0140日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 23:21:13.92
この板の九州説の書き込みを読んで論理的だと思えるなら、
君には論理的思考能力がないとあきらめた方がいい
0141日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 23:23:39.70
5CHでは誰の説だとか通説だから正しいとか権威とか通用しないですからね
主張の論理に誤りがないか証拠は有るかが問題。
0142日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 23:24:45.86
>>140
畿内説が論理的だと思えるなら論理的思考能力がないとあきらめたほうがいいですよw
0145日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 23:32:03.39
>>144自己紹介w
0147日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 23:37:30.98
>>146
貴方は自分で物事を考える能力を奪われ洗脳されているんですね
0150日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 00:52:46.07
>>131
歴史学の方法論は自然科学から見たら杜撰極まりない。
それで邪馬台国は畿内などと嘯いても、何の根拠にもならない。
0151日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 00:54:06.06
>>137
>などと言いつつ畿内説スレを荒らしまくっているくせになw

ここは九州説のスレなんだが。
0153日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 01:35:22.33
>>150
その杜撰極まりない歴史学の方法論で見ても、貴方の主張は杜撰極まりないって判定されているという現実を直視したら?
0154日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 05:26:27.75
>>120
>其国王皆属女王也
>倭国の各旧中小国の旧王達は皆、
>(敵対する狗奴国男王ではなく)邪馬台国女王卑弥呼に属している。

それだと当たり前すぎていちいち書く意味がなく不自然な文章になる
王の字は衍字で
「其国皆、属奴王也」
(対馬国から伊都国まで皆、奴国王に属している)
0155日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 06:38:33.40
>>125
方法論オンチの畿内説に言われてもなぁ。
半可通気取ってるだけなんだよなぁ
0156日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 07:24:21.87
>>152
被害妄想だな。
0157日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 08:47:35.15
畿内説はいくら声高に主張しても世間に受け入れられていない。
それは、なんの根拠もなく邪馬台国と関係がない妄想ばかり述べているから。
魏志倭人伝を信用しないで邪馬台国論争など、不毛なだけ。
0158日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 09:06:25.05
現実がまるで見えていないのか
あるいは息を吐くようにウソを吐いているのか
0159日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 11:06:15.16
畿内説とか全く説得力が無いからな
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)が世間に知られれば終わりだな。
0160日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 17:57:57.87
女王國は筑紫平野に在った(王都は筑紫平野の中央 久留米)
0161日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 18:09:53.44
なんの証拠もない自分勝手な妄想でこいつが犯人だと言ってるようなもんだぞ
0162日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 22:27:18.94
女王國筑紫平野説は緻密に組み立てられた説です。

女王王都久留米説に対応する3世紀の遺跡は未発見です。
多利思北孤の都も久留米です。

女王卑弥呼の墓は祇園山古墳になります。
0165日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 22:39:26.41
>>162
免田式土器や小型仿製鏡U型など、
邪馬台国時代に久留米と熊本は同じ経済圏にあります。
よって、そういうことだと思われます。
0166日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 22:52:10.91
久留米が邪馬台国王都なら、
南の熊本から北上するに当たって、まずは久留米が立ち塞がりますから、
久留米から西へ向かう吉野ケ里遺跡は勢力を維持していたでしょうし、
久留米から東北すぐの平塚川添遺跡は鉄器を全回収して放棄されたりしなかったでしょう。
0167日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 22:53:59.16
倭國王帥升の都は米多國(倭面土國)で吉野ヶ里遺跡になります。2世紀初頭

倭奴國は107年(永初元年)に帥升によって滅ぼされました。
帥升は倭奴國の捕虜を生口百六十人として安帝に獻じた。
0169日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 23:10:10.44
吉野ヶ里は単なる筑紫勢力の前線環濠集落で、
当時は有明海に面していて、長崎に逃げ込んだ建御名方と海上でやり合っていたのでしょう。
筑紫は北と東に軍事力を振り向けていましたから。
0170日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 23:19:09.80
久留米は邪馬台国の王都ではありません。女王國の王都です。
卑弥呼の居所です。

邪馬台国は4ヶ国連合国です。
小郡・朝倉浮羽・久留米三潴・八女の4地域です。
邪馬台国の盟主は八女です。
0172九州王垢版2018/05/15(火) 23:26:37.33
九州王朝大好きさんは自分のスレを立てれば?
内容が違うので混乱します。
0173日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 23:29:47.09
倭国本軍は筑紫から北や東に進軍したという意味です。
西方面には伊万里に銅戈が一本出ているくらいです。

長崎は直線距離では近いように見えて、
沿岸航海とはいえ外洋部分を長距離移動しなければなりませんし、
攻め込んでも島原などへ逃げ込まれると追いきれません。

肥前は基本的には大国主勢力が先に拡散していたのですが、
筑紫で大国主が失脚した。
佐賀は事代主系が主で、降伏した。吉野ヶ里に伊都王配下の支配官が着任。
長崎には武力抵抗を選んだ建御名方系が集結して、筑紫本軍がいない吉野ヶ里に対してやや優勢な年月を送ったわけです。
0174日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 23:30:06.18
邪馬台国九州説と大して変わらん。
つまりは九州に倭国という国があったということだからな。
0175日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 23:33:07.53
>>174
んなもん当たり前。
今ホットなのはその他の傍国がどこかとか、
狗奴国がどこかとか、そこらへん。
0176日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 23:55:18.39
狗奴国は熊本一択
0177日本@名無史さん垢版2018/05/16(水) 07:50:21.97
筑紫に大国主は保留するとしても、佐賀に事代主とか言われると、妄想としか言いようがない。
0178日本@名無史さん垢版2018/05/16(水) 15:09:49.13
狗奴國勢力の範囲

矢部川南岸〜緑川北岸 熊本県北部 中心地は菊池盆地 東鯷人二十餘國の北部地域

東鯷人二十餘國の範囲  横穴式墓と河童伝説の分布地
矢部川南岸以南・菊池盆地・熊本平野・八代海沿岸・人吉盆地 
0179岡上 ◆Lv09mLa3HM 垢版2018/05/16(水) 20:26:33.45
>>120
うーん、魏略を独立に読む視点を主張していて、
なぜそのアイデアが明確な形で出てこなかったのかと、ちょっと後悔しています。

小首長たる「ヒコ」が共立時には王として、共立後は官として描写されていたんですね。
例の論考は、ちょっとだけ加筆しますので、注付きで、ネタ採用させて頂きたいともおもいます。

ご報告まで
0180九州王垢版2018/05/17(木) 21:19:22.79
>>179
後漢書も卑弥呼共立以前の視点で書かれてるから
「國皆稱王丗丗傳統」と書かれてますね。
0181九州王垢版2018/05/17(木) 21:22:19.98
>>176
熊本も邪馬壹國にいれてよw
魏志倭人伝の記述からは邪馬壹國と狗奴國勢力との境界は分かりませんね。
0182九州王垢版2018/05/17(木) 21:24:26.01
>>170
久留米は邪馬台国の王都でも女王國の王都でもありませんし
卑弥呼の居所でもありません。
久留米は傍国の中の一国です。
0183日本@名無史さん垢版2018/05/17(木) 21:58:51.54
>魏志倭人伝の記述からは邪馬壹國と狗奴國勢力との境界は分かりませんね。

魏志倭人伝の記述ではなく、墓の形式分布から文化の境界を推定します。

邪馬壹國と狗奴國勢力との境界は、横穴墓の北限である矢部川南岸になります。

狗奴國勢力は、東鯷人二十餘國の北部地域になります。
0185伊都国女王垢版2018/05/17(木) 22:18:42.47
>>181
熊本は狗奴国
0186日本@名無史さん垢版2018/05/18(金) 14:42:24.49
>>181
>>185

狗奴国は熊本県の北部1/3
0187日本@名無史さん垢版2018/05/18(金) 18:27:28.43
>>183
古代考古学全般に言えるが、
墓の規格だけで「国の勢力圏」を決める方法が適切かどうか疑問

そもそも邪馬台国は「共立」だの「連合政権」だの言っておきながら、
墓の規格を統一できるほど強権だとは矛盾していることである
古代日本には様々な「神」が祀られ、すべて皇室に帰結するわけではないことを
みても、また後の武士の時代でも、各武家ごとに代々の宗派はあり、主君に臣従したからといって、主君と同じ宗派になるわけではないことをみても、
宗教だけで主従関係や支配範囲をみることは適切とは言えない

お墓を作る技術者集団が「国(クニ)」を超えて活動していたとみるべきではないか?
0188日本@名無史さん垢版2018/05/18(金) 18:43:59.49
>>187
>お墓を作る技術者集団が「国(クニ)」を超えて活動していたとみるべきではないか?

だから、倭国(阿波)を発った忌部一族が、倭国(阿波)墳墓工法を拡散しただけのこと。  薄型軽量土器も同じ。  @阿波
0190日本@名無史さん垢版2018/05/18(金) 19:44:57.89
>>189
えええ

日本語って不思議だなあ。
0191日本@名無史さん垢版2018/05/18(金) 21:36:43.75
狗奴国は熊本県の北部1/6の地域
0192日本@名無史さん垢版2018/05/18(金) 22:59:18.15
>>187
それには同意です
葬送文化や宗教の広がりでしょうね

ただ、"広がる"にはそれなりの交流が必要となるので、参考程度にはなるかと

つまり傍国の候補地には間違いないと思います

しかし、連合国の範囲はここまでという線引きは難しいですね
0193日本@名無史さん垢版2018/05/18(金) 23:07:05.92
>連合国の範囲

同じ文化圏の範囲だろ。
鉄器があって、中国朱があって、その範囲だよ。
0194日本@名無史さん垢版2018/05/18(金) 23:09:09.99
纒向は含まれないのですね?
0195日本@名無史さん垢版2018/05/18(金) 23:11:21.89
当たり前だ。
0196日本@名無史さん垢版2018/05/19(土) 20:12:07.46
中国朱で思い出しましたが、楯築墳丘墓。

よく、同時代最大の楯築墳丘墓を持ち出して、
北部九州の王墓など小さくて物の数ではない。
瀬戸内にすら巨大な墳丘墓を作る権力者がいたのだぞ。
などとおっしゃる方がいますが、
全くの見当違いですよね。

同じ倉敷市の、楯築墳丘墓のすぐ下に、有名な上東遺跡があります。

そうです。
洪水によって埋まって、当時の生活用具がそのまま出土した、
タイムカプセルのような貴重な遺跡です。

この上東遺跡には、鉄器がありません。
つまり、楯築墳丘墓を作った領民は、
鉄器を使っていなかったわけです。
0197日本@名無史さん垢版2018/05/19(土) 20:13:25.22
楯築墳丘墓は、まさに卑弥呼の時代の墓ですが、
木槨があり、
副葬品は、鉄剣1、ガラス玉と管玉、土製勾玉、大量の朱(おそらく中国朱)
銅鏡はありません。

おそらく中国朱を持つ武将墓が、
狗奴国王がまだ健在の卑弥呼時代に、
鉄器のない領民によって作られた。

そうです。
北部九州邪馬台国による瀬戸内海占領しかありえないわけですね。
0198日本@名無史さん垢版2018/05/19(土) 20:18:27.80
四隅突出型墳丘墓が邪馬台国の派遣した地方官であることも、
何度も示してきました。

楯築墳丘墓もまた、非常に貴重な上東遺跡によって、
鉄器の無い領民を邪馬台国軍が征服した武将墓であることが明らかなわけです。

これは説ではなく、考古学出土物から判明する結果です。

以上からわかるのは、
少なくとも弥生時代にあっては、墓の大きさは重要ではない。
権力の大きさはやはり副葬品で論じるべきである。

楯築墳丘墓に中国朱があるのであれば、
邪馬台国は、魏に朝貢する前から中国朱を入手できていた。
ということは、公孫氏と交易をしており、
魏など中国本土の情報を逐一入手していた、ということもわかります。

次には鳴門の萩原墳墓群にも同じく円墳と中国朱が到達するわけです。
0199日本@名無史さん垢版2018/05/19(土) 20:31:19.71
前スレで検討しましたが、
銅鐸とは、倭種倭人が開拓最前線の環濠集落に配備したJアラートなわけです。

それが、岡山市周囲には少ない。

もともとの古代出雲=豊国日本海沿岸の本拠地を筑紫勢力、
主に東征将軍スサノオの基地として奪われてゆき、
瀬戸内へと活路を見出したオオヤマツミ一族が、
新たに拠点としたのが岡山市周囲だった。

だから、岡山市にはオオヤマツミ主力がいるので、銅鐸が必要なかったわけです。

これも前スレで論じましたが、
時代を経て、倭国大乱で瀬戸内オオヤマツミは狗奴国側についた。

その本拠地が邪馬台国水軍によって攻め落とされて、
その領民が作らされたのが、楯築墳丘墓ということでしょう。
0200日本@名無史さん垢版2018/05/19(土) 20:41:56.74
淡路島に舟木遺跡や五斗長垣内遺跡といった鉄工房が運営されていました。
鉄原料は全て朝鮮半島から北部九州経由で輸入される。
それが淡路島に運び込まれ、その製品はまた、北部九州へと運ばれたわけです。

その経路上に上東遺跡がある。

誰がどう見ても明らかです。
舟木遺跡も五斗長垣内遺跡も、同時代の筑紫王、
つまり三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡の王が運営していたわけですね。

さらに、祭祀型銅戈です。
北部九州と、大阪湾沿岸に分布します。
間の瀬戸内はほぼスルーされています。

祭祀型武器がこのように両端で出土するのですから、
文明的に三百年ほど先行している北部九州倭国が東征(東遷ではありません)したことが
明らかなわけです。

北部九州側でも出土するのですから、
出陣式で祭祀を行って埋納し、占領地で祭祀を行って埋納したこともわかります。

二本の銅戈(銅矛)銅矛を並べて出陣式をする。
鳥居の形ですね。
もとは中広型銅矛から始まった祭祀形式ですから、つまりは八千矛神=大国主が
始めた祭祀形式なわけです。
記紀にいろいろ関連事項が出てきます。

さらに高地性集落が、瀬戸内海沿岸を東進して、大阪湾沿岸へと上陸していきます。
森林を管理して、炭を作っていたわけですね。
0201日本@名無史さん垢版2018/05/19(土) 23:00:24.69
祭祀型武器の分布も情報を与えてくれます。

北部九州を中心として、新たに分布する祭祀型武器が、入っていかない地域
=北部九州倭国が既に領土とした地域
なわけです。

紀元前に丹後半島に扇谷遺跡が営まれることから、
紀元前の日本海沿岸は、壱岐対馬⇔北部九州⇔丹後半島まで、
長期安定的に統一支配されていたことが確定します。

この後から祭祀型武器が登場します。

中広型銅矛(オオクニヌシ)は、瀬戸内海を東征しますが、
本来は北部九州から近いはずの日本海沿岸には入っていきません。
つまり、中広型銅矛が登場する以前に、北部九州から日本海沿岸は統一されて、
中広型銅矛は、新たに瀬戸内海を淡路島南あわじ市まで東征したわけです。

銅戈は、瀬戸内海には分布せず、
北部九州と大阪湾沿岸に分布します。
銅戈の分布先を見れば、
銅戈の時代に、北部九州倭国は、
南は熊本鹿児島へ、日本海沿岸を抜けて長野県柳沢遺跡へ、
そして瀬戸内海を抜けてついに大阪湾上陸し、さらに朝日遺跡まで進軍したわけです。

その次の広型銅矛は、宮崎県から四国の太平洋沿岸なわけですね。
0202日本@名無史さん垢版2018/05/19(土) 23:01:40.34
ちなみに、広型銅矛は、鋳型から推定される、作られたはずの数に比べて、
出土している数が少ないことがわかっています。

なぜなら、広型銅矛を埋めた場所の記憶が残っているうちに、
倭国大乱が起きたわけですね。
ですから、狗奴国側の筑後肥後豊後〜瀬戸内〜畿内においては、
筑前邪馬台国と敵対して朝鮮半島からの金属供給路が断たれたために、
広型銅矛を掘り起こして溶かして銅鏃など武器に再利用したわけです。

また、神籠石から広型銅矛が出ていますから、
神籠石というのは、倭国乱に備えて、主には狗奴国側が建設した防御施設であり、
北部九州における神籠石というのが、早期における
邪馬台国と狗奴国の境界線なわけです。
0203日本@名無史さん垢版2018/05/19(土) 23:12:37.69
銅鐸からも情報が得られます。

前スレで考察したように、
銅鐸は、倭人倭種が東方の開拓最前線の環濠集落に配備するJアラート。
九州本国から遥か遠いので、襲われたら銅鐸を鳴らして全員で籠城するしかないわけです。

突線鈕1式までの銅鐸は、
主にオオヤマツミ一族が、若狭湾八岐大蛇一族などの、石剣部族の領域へ食いこんで
形成した環濠集落に配備されたものでしょう。

ちなみに、石剣部族というのも農耕部族ですから、もとはといえば北部九州から
遠賀式土器を伴って東進した人たちです。
八岐大蛇がかろうじて残っているくらいで、神としては消え去りました。

石剣部族の最後が、銅戈による大阪湾攻略です。

それまでの畿内には、オオヤマツミが部族として入りこんでいただけ。
最大のものが下之郷遺跡などです。

北部九州倭国本国が、初めて本腰を入れて畿内攻略をしたのが、銅戈。

瀬戸内海側から銅戈。
琵琶湖〜川沿いに内陸側から、オオヤマツミ。
よって、長髄彦はそういうことでしょうし、
大物主擁立とは、大阪湾上陸作戦に協力してくれた御礼でしょう。
0204日本@名無史さん垢版2018/05/19(土) 23:27:28.45
突線鈕2式以降の、近畿式銅鐸と三遠式銅鐸。

よく、九州銅矛が、畿内銅鐸を攻め滅ぼしたという設定がありますが、
これは間違いであることが明らかです。

青銅原料も北部九州を経て供給されるのですから、
銅鐸が北部九州と敵対していたのなら、銅鐸はどんどん小さくなっていったはずです。
しかし、近畿式銅鐸は逆にどんどん巨大化していきます。
銅鏡なら何十何百枚に相当するのだろうという容積の青銅器です。

つまり、近畿式銅鐸とは、勝者の銅鐸です。
大型化して、本来の用途であるJアラートの役割を終えて、
祭祀青銅器となっていきます。

一方の三遠式銅鐸は、大型化する前に消滅する。
しかも使用された形跡がある。
0205日本@名無史さん垢版2018/05/19(土) 23:28:15.89
三遠式銅鐸は、柳沢遺跡から出土しました。
タケミナカタの領域です。

筑紫で大国主が失脚したわけですが、
大国主一派のうち、武力抗戦を選んだのがタケミナカタです。
ですから、タケミナカタ軍のいる越後には銅鐸はありません。
伊都王の倭国軍が攻めてきたら、銅鐸を鳴らして逃げるのではなく、
迎え撃つわけです。

近畿式銅鐸と三遠式銅鐸は、越後ではなく、
愛知県でせめぎ合っていたわけです。

つまり、実際に使われていて、早期に消滅した三遠式銅鐸は、
北部九州で失脚した大国主一派のうち、
武力を伴わない集団が東国に逃げ込んだ先で使っていた銅鐸。

近畿式銅鐸は、銅戈ニギハヤヒや、オオヤマツミ一族が作った勝者の銅鐸。

近畿式銅鐸と三遠式銅鐸は愛知県でせめぎ合っていました。
入り混じっています。

本来の用途は祭祀器ではなく、Jアラートですから、
敵から奪った銅鐸も、気にせずJアラートとして使用していたわけです。
0206日本@名無史さん垢版2018/05/19(土) 23:29:31.61
銅戈ニギハヤヒの倭国軍が、
柳沢遺跡を占領=タケミナカタ降伏

朝日遺跡に進軍
してくるに及んで、
大国主一派は降伏します。

ということはです、
その一帯の東国に出現する前方後方墳とは、
大国主残党によって築かれたということになります。

これを西方へ投射すると、様々なことがわかります。
0207日本@名無史さん垢版2018/05/19(土) 23:50:40.26
これも何度か書きましたが、
越後を誰が支配しているかで、筑紫王墓の翡翠に影響が及んでいるわけです。
>八岐大蛇
>スサノオ〜沼河比売・大国主
>タケミナカタ(筑紫と敵対)
>銅戈
>邪馬台国

筑紫で須久岡本の大国主が失脚して、 旧伊都(委奴)から、新伊都(日向)へ遷都。
ニニギが倭国王アマテラスとなり、ニギハヤヒが東征将軍スサノオになります。

タケミナカタが越後で反抗する。

だから、三雲南小路遺跡には、王妃2号墓に、翡翠がたった一つしかありません。
銅戈がギリギリ征服して翡翠を届けたのでしょう。

柳沢遺跡には近畿型銅戈が複数本出ています。
その戦利品として、母型の実家である唐古鍵にプレゼントしたのが巨大翡翠ですね。

時代は下って、
超豪華な副葬品を誇る女王墓である、平原遺跡に翡翠がありません。

近畿式銅戈部隊は狗奴国側なので、倭国乱時に越後で孤立して取り残されたのですね。
邪馬台国と敵対したので金属原料が枯渇し、最後は土製銅戈を作っています。
同じく近畿式銅戈が出土した青谷上寺地遺跡も狗奴国側についたため、
倭国乱が起きると攻め滅ぼされたわけです。

卑弥呼の代には、銅戈部隊はなんとか越後で粘った。
台与の代に、越後を落としたわけです。倭国の産物に青玉が記載されます。
よって、稲部遺跡の鉄工所を作ったのは台与。
占領した越後に高地性集落を作って、炭の供給地にします。
0208日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 00:10:14.67
不思議なことに、越後にはタケミナカタ諏訪神社が多数現存しています。
総本山の諏訪大社も堂々と存在しています。

つまり、銅戈部隊が柳沢遺跡を落として、
タケミナカタ一族のトーテムを滅却して
越後や信州を完全に支配下に置く前に、倭国乱が起きたわけです。

卑弥呼の父親である、一大率丹後若狭湾長官=太田南古墳群1号墓被葬者は、
倭国乱早期は筑紫伊都の救援に向かわなければならなかったので、
越後の銅戈部隊は瞬殺されなかった。

敵の敵は味方。

主力を北部九州に派遣した一大率丹後若狭湾支部は、
タケミナカタ勢力と同盟を結んで、
銅戈部隊を牽制したわけです。
0209日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 00:12:58.52
安芸の奥、周防(すわ)に籠ったタケミナカタは滅ぼされました。
銅戈や巴型銅器が出土しています。

そしてもう一つのタケミナカタ勢力が、長崎です。

銅戈部隊は、東方や熊本鹿児島には積極的に攻め込みましたが、
西方には、わずかに伊万里に一本出ているだけです。
長崎にタケミナカタが立てこもり、抵抗していたわけです。

吉野ヶ里遺跡は天下の名城ですが、
では何と戦うためにかような名城を築いたのか?

吉野ヶ里遺跡からは銅鐸が出土しています。
攻め込まれて銅鐸を鳴らし、領民を環濠内に総退避させる状況もあったわけです。

吉野ヶ里遺跡には鉄器が数百点も出土していますから、筑紫とは長期敵対していません。
筑紫銅戈部隊が熊本鹿児島へ攻め込んでいるのですから、南や東も味方。

つまり、
西の長崎タケミナカタが、吉野ヶ里をたびたび海上から攻略していたわけです。
0210日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 00:15:46.86
その長崎にもタケミナカタ諏訪神社が残っている。

吉野ケ里遺跡は神籠石ラインの狗奴国側ですから、狗奴国側についた。
鉄器が大量に出土しているので、平塚川添遺跡のように鉄器を全回収して撤退する暇もなく、
戦乱のうちに失われたわけです。

そう考えると、其余旁國のうち、
斯馬國=糸島市の、志摩郡(当時は文字通り島)
巳百支國=銅戈西端=伊都王統治西端の伊万里
伊邪國=伊佐国=諫早
=越後銅戈攻略と同じく、長崎タケミナカタと邪馬台国は同盟して、
諫早に進駐して水軍基地として、有明海へ出撃する拠点とした。


奇習である、粥占いが、
遥か離れた肥前と信州諏訪大社に残っています。

大国主一族の風習だったわけですね。

筑紫で失脚して、銅戈部隊に攻められて、
すんでのところで滅亡するところだったけれども、
倭国乱で邪馬台国と狗奴国が戦争を起こし、
銅戈部隊の大部分は狗奴国側になった。

よって、邪馬台国から同盟依頼を受けて、タケミナカタや大国主末裔は、
息を吹き返したわけです。
前方後方墳です。
0211日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 00:39:57.66
鉄工房遺跡に話を移します。

今から数年間、江戸時代の生活に戻してください。
と言われて、耐えられるでしょうか?
耐えられませんよね。

北部九州倭人も同じことです。

紀元前に、丹後扇谷遺跡鉄工所を作って鉄器文化になった時点で、
後戻りはできません。
鉄器そのものだけではなく、
鉄製工具を用いて作る様々な製品も生活に欠かせないわけです。

扇谷遺跡から、淡路島舟木遺跡までにタイムラグがあります。

鉄工房が無い時代は絶対にありえませんので、
どこかに未発見の鉄工房遺跡が眠っていることになります。

祭祀型武器の進行から考えると、
熊本。
福岡〜大分県の周防灘沿岸。
愛媛県の瀬戸内沿岸。
大三島など、淡路島より西の瀬戸内海の島。
などが候補となります。
0212日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 00:46:29.52
次に鉄工房遺跡が途絶するのが、
須久岡本王(大国主)が失脚して、
旧伊都(委奴)から、新伊都(日向)へ遷都した前後です。

葦原那珂津国が大洪水からの疫病で大混乱に陥り、指導者不在。
瀬戸内海オオヤマツミは、当然大国主のために木材や炭を供給する必要が無くなりますし、
舟木遺跡鉄工所は操業停止します。

銅戈ニギハヤヒが大阪湾攻略に成功して
五斗長垣内遺跡が稼働し始めるまでに、どうしたのでしょうか?
0213日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 01:04:50.54
ニニギ一行が、
疫病が流行する福岡平野〜早良平野の旧伊都(委奴)から、
日向峠を越えて
新伊都(日向)へと向かう途上に、
猿田彦が現れます。

猿田彦は、高天原から葦原中国までを照らし、
目は真っ赤。

伊勢出身の国津神で、
アメノウズメによって、故郷の伊勢へ送り届けられ、
アメノウズメと結婚して、猿女氏が始まります。

伊勢の阿邪訶の海で漁をしている時に、
比良夫貝に手を挟まれて亡くなります。
0214日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 01:05:14.71
前スレで考察した通り、
職工集団である忌部氏は、鉄工房の傍にいる必要があるわけです。

鉄器そのものを作る場合はもちろんですが、
その他の製品を作るにしても、鉄製工具でなければ精密な操作ができません。
鉄製工具が壊れるたびに注文したり、
細かい変更点などを指示したりする必要がありますから、
鉄工房の傍にいないと仕事にならないわけです。

ですから、丹後扇谷遺跡→淡路島五斗長垣内遺跡の周囲に、
神代忌部氏が分布しているわけです。

考古学的に、その次に日本列島に登場する鉄工遺跡は稲部遺跡ですから、
五大忌部に次いで登場する伊勢忌部は、稲部遺跡の周囲でしか仕事にならないわけで、
伊勢遺跡とも関連して、
神代弥生時代の伊勢とは、若狭湾〜琵琶湖周辺だったことになります。

つまり、猿田彦とは、若狭湾〜琵琶湖周辺の出身だったわけです。
0215日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 01:06:41.37
滋賀県高島市に、熊野本遺跡という高地性集落が見つかっています。

なんと、弥生時代の畿内集落に、鉄器や鉄滓が見つかっていたのです。
考古学上の大発見のはずですが、
ろくに保存もされずに忘れられようとしているわけです。

高島市の南には古代から崇められてきた比良山があり、
この辺りには、
白髭神社、水尾神社、など猿田彦を祀る、猿田彦に関連する神社が多数あります。

また、安曇川、志賀など、まさに北部九州系の地名が残っています。
0216日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 01:13:46.63
つまり、
葦原那珂津国が大洪水からの疫病で大混乱に陥っている状況で、
ニニギ一行が、
疫病が流行する福岡平野〜早良平野から、
日向峠を越えて
新伊都(日向)へと西へ向かう。

猿田彦が現れます。
もちろん一人きりではなく、
北部九州のワダツミ一族と一緒です。

猿田彦は、ワダツミ一族配下の、伊勢琵琶湖西岸の、
熊野本遺跡の鉄工房の頭領だったわけです。

倭王となるニニギ一行を出迎えるにあたり、
ワダツミ一族は伊勢の猿田彦を呼び寄せ、ニニギに面通ししたわけです。

北部九州倭人の集団の前に、
突然はるか東方の伊勢から来た修験者のような天狗のようないでたちの
猿田彦がぬっと現れる。

夕暮れ時だったのでしょう。

猿田彦の背後の西日が、その長い日差しで
背後の東方の高天原(旧伊都=委奴=早良平野)から葦原那珂津国までを照らします。

鍛冶場の頭領ですから、炎で焼けて
猿田彦の目は真っ赤です。
0217日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 01:19:09.11
ワダツミ一族は猿田彦を紹介し、
当面の間、猿田彦が仕切る、熊野本遺跡の鉄工房を使うことを提案します。

ニニギも猿田彦に興味を持ち、
猿田彦とと共に、アメノウズメを神代伊勢琵琶湖へ派遣して、
熊野本遺跡の鉄工房を実地調査させたわけです。

アメノウズメの視察に合格した熊野本遺跡はニニギによって使用することが決定し、
アメノウズメと猿田彦が婚姻することでニニギ側に取り込まれることが決定する。

緊急に鉄工房を必要とする緊急事態における、
極めて政治的な話です。

晩年の猿田彦は、
比良山での作業中に事故ったのか、
比良山のふもとで漁をしている時に事故ったのか。

琵琶湖は湖面は穏やかですが、
淡水湖ですので浮力が小さく、
海を行き来することに慣れた海人族にとっては、思わぬ水難事故が起きやすいのですね。
0218日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 01:37:55.24
現代国家は石油が血液であり、石油がなければ国家が回りません。

弥生国家は木材が血液であり、木材がなければ国家が回れなかったわけです。
ちなみに江戸時代までそうですね。

吉武高木王
 木材:日本海沿岸
 鉄工房:丹後扇谷遺跡

須久岡本王(オオクニヌシ:中広型銅矛)
 木材長官:スクナヒコナ
 鉄工房:淡路島舟木遺跡

三雲南小路王&銅戈将軍(ニニギ&銅戈ニギハヤヒ)
 木材長官:オオヤマツミ、瀬戸内〜大阪湾
 鉄工房:最初期熊野本遺跡→後に淡路島五斗長垣内遺跡

井原鑓溝王&広型銅矛将軍(山幸彦&海幸彦)
 同上

平原女王(卑弥呼)
 木材長官:ワダツミ配下の猿田彦一族
 鉄工房:半島に発見済み

???(台与)
 木材長官:猿田彦一族(越後〜琵琶湖〜川沿いの高地性集落)
 鉄工房:稲部遺跡 
0219日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 01:41:52.09
オオヤマツミが狗奴国側で戦ったため、
瀬戸内〜大阪湾沿岸の高地性集落や、淡路島鉄工房が操業停止したわけです。

その間隙をついて木材長官についたのが、猿田彦一族。

各神社に入っているのは、
神社の森をはじめとする、各地の森林を管理していたからでしょう。

邪馬台国の人にとっては、
役所に必ずいる、森林管理のおっちゃん達だったわけですね。

石油時代の現代人にはなかなかピンとこないわけです。
0220日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 07:18:57.42
説得力があるストーリーですね。

葦原中国の大洪水で遷都という話は初めて聞きましたが
どう言う痕跡なのですか?

また瀬戸内の海民には
オオヤマツミ
住吉
宗像

とあり、民俗学的には
オオヤマツミ族は南九州から移動して来た。
宗像族は宗像三神を奉斎するので北九州から。
瀬戸内土着が住吉神だというのです。

海民が流通路の要と思ってますからこれらの海民の分布とご説と整合取れますでしょうか?
0221日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 07:32:26.88
>>220
>とあり、民俗学的には
>オオヤマツミ族は南九州から移動して来た。

民俗学はたまにおかしなことを主張する。
0222日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 07:36:23.12
博多湾沿岸の筑紫の日向の小戸が発祥の地である住吉神が、瀬戸内となんだって?
デタラメもいいところだ。
0223日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 07:49:47.10
大ヤマツミは普通は神社の分布から瀬戸内と言われる。
ただし、記紀においては筑紫の日向に降臨した日向王家に姫が嫁いでいること、博多湾で国生みをしたイザナギのことされることから、大ヤマツミは博多湾における先代王であったとも考えられる。
また、大ヤマツミはスサノオとの関わりでも登場し、おそらく博多湾とは別系統の北陸の伝承である。
事実、大ヤマツミを祭る神社は新潟県に最多である。
0224日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 08:00:05.71
大山祇は綿津見(海神)と対になる語であり、国津神と天津神の言い換えである。
古代倭国の中心的勢力は筑紫、出雲、越であるが、そのうちの越の王が大山祇かもしれない。
福岡の香椎が越からの転化であると言われるように、もともと日本海側全域が越であったところに、出雲が成立し、その出雲を倒して筑紫が成立した。
出雲の大国主も元々は博多湾にいたという説もあり、年代順に北部に追われていった様子がうかがわれる。
最後に筑紫を征服した天津神の中心氏族である天孫族が天皇家の祖であると言われ、それ以外の在来勢力を一括して国津神と呼び、大山祇はその王の一般名詞であり、大国主は出雲の最後の王を指す固有名詞として使われることが多い。

大山祇は南九州とは関係ない。
0225日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 08:07:05.17
結局、住吉神、大山祇、宗像三女神のいずれも博多湾沿岸と関わりが深く、それが全国に拡散したことのなる。
おそらく拡散した時期が違うだけであり、九州北部からの文化の波及(征服?)を示しているだけである。
0226日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 08:14:01.46
安曇氏スレより転載、
起源は賛否あるかもしれないけど、
民俗としては明確に違うみたいよ。

>>66
98 :日本@名無史さん:2013/06/14(金) 11:16:37.40
宮本常一氏の研究によれば、三種類の海民が、瀬戸内海にみられるという。(「瀬戸内海文化の系譜」)
第一は、男女共漁をする海民で、北九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
かれらは宗像三神を信仰し、あわびや魚、海草を採取しながら移動する定着性の低い海民であった。
尼崎、海部などの地名が残っているのは、かれらの居住地と推定できる。
第二は、男漁女耕をする海民で、南九州から瀬戸内海に移動してきた海民である。
かれらは大山祇を信仰し、四国側を中心に定着し、後に村上水軍などの海上の武装勢力を形成した。
第三は、半農半漁をする定着民で、瀬戸内海に定着していた在来海民である。
かれらは、住吉の神を祀り、遠浅で磯漁の条件の良いところに居住した。
貝の採集に優れた技能をもっていたかれらは、あわびの採取、交易、製塩などに従事し、供御人などに任ぜられて朝廷との関係を結んだ。
0227日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 08:15:26.46
ふむふむと思ったページからの紹介

ttps://ameblo.jp/makoto-kodama/entry-12286813486.html

弥生時代当時の倭は漁業と海運業が主産業を為し、海人族が大活躍する国でした。
海人族には綿津見三神を崇拝する安曇族と、筒男三神を崇拝する住吉族、
及び宗像三女神を崇拝する宗像族と大きく三つの部族に分かれていました。

各部族の本拠地は安曇族が奴国、住吉族が不彌国、宗像族が宗像国だったと思われます。
三つの海人族は、それぞれの祭神を祀る神社を建て、航海の守り神としていました。
志賀島に在る志賀海神社は、奴国王だったと思われる安曇族の首長が、
港となる博多湾への船の出入り口となる志賀島に海神を祀ったものであり、
宗像大社は宗像市の辺津宮、大島の中津宮、沖ノ島の沖津宮の三社に分かれており、
住吉神社は当時の不彌国の範囲が現在の博多駅辺り迄伸びていたので、
博多駅前の地に住吉神社が建てられたのではないかと思われます。
0228日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 08:18:07.51
>>226
瀬戸内の民が、筑紫の日向を起源とする博多住吉の神を祀る理由がわからなくなってしまう。
単に九州北部から瀬戸内に移住した民の痕跡を見ているだけにしか見えない。
0229日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 08:26:06.90
>>228
>単に九州北部から瀬戸内に移住した民の痕跡を見ているだけにしか見えない。

その北部九州も倭国(阿波)の海人族。
瀬戸内とか日本海ばかり言ってるが、太平洋側の東海・関東が抜け落ちている。
それらすべては、倭国(阿波)の海人族の軌跡なのである。  @阿波
0230日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 08:34:44.26
関東は蝦夷の国であったが、次第に出雲や倭の勢力に侵食された。
関東の古地名の多くは蝦夷の言葉に由来する。
0231日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 08:38:16.23
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津


【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
0232日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 08:41:51.71
分類を推定してみよう。

紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
越の民の移動?

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
大ヤマツミ?

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
住吉の神(博多から摂津へ)

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
天孫族、皇祖
0233日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 08:49:47.54
京都や大阪の鴨川神社は大ヤマツミの子の三島の神に由来し、その子孫が大和の登美の長髄彦や登美の鴨主になる。
京都に鉾にまつわる祭りが多いのも頷ける。
京都、大阪、奈良の大きな寺社は、ほぼ全てその起源を博多湾に求めることができる。
0234日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 09:32:44.16
八幡神社総本社の大分の宇佐神宮。
天満宮本社の太宰府天満宮。
水天宮のルーツとなった久留米の水天宮
などもあります。
0235日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 16:40:58.48
『日本書紀』
猿田彦の登場する場面。

>有一~、居天八達之衢。其鼻長七咫、背長七尺餘、當言七尋。
>且口尻明耀、眼如八咫鏡而赩然似赤酸醤也。

猿田彦は弥生神代伊勢の熊野本遺跡の、鍛冶場の頭領ですから、
仕事道具の皮吹子を肌身離さず持ち歩いていたわけです。
筑紫式送風管ですね。

身長が七尺余ですから、漢尺で七尺=161センチメートル。
鼻というのは皮吹子で仕事に励む時の猿田彦の姿で、
漢尺で七咫=129センチメートル。

咫が長さを表す実例ですね。
同じ文章の中に八咫鏡があるのは何かの暗示でしょうか。

ひょっとしたら、八咫鏡の鏡を作成したのは
熊野本遺跡の猿田彦だったのかもしれませんね。
倭国乱で邪馬台国側についたわけですし。
0236日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 16:50:29.63
猿田彦は宗像を経由しての筑紫日向(伊都高祖山)への天孫降臨の道案内を務めた神であり、九州の人物。
0237日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 17:52:05.94
>>236
>猿田彦は宗像を経由しての筑紫日向(伊都高祖山)への天孫降臨の道案内を務めた神であり、九州の人物。

「猿田彦大神」と「天鈿女命」とは夫婦であることは日本神話に詳しい人はご存知でしょう。
徳島県鳴門市にある「大麻比古神社」の祭神は「猿田彦大神」とされています。
その大麻比古神社背後の大麻山には「猿田彦」を祀る祠があったという。
実はこの大麻山の隣には峰続きで「天円山(あまがつぶやま)」があります。
そして、この天円山山頂には「天鈿女命」を祀る「天ヶ津神社」が鎮座しています。
「猿田彦大神」と「天鈿女命」両神は仲良く阿波国鳴門の「大麻比古神社」裏手の「大麻山」・「天円山」に祀られています。  @阿波
0238日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 18:07:37.46
そんなところ(阿波)にいたら、筑紫の日向への降臨の案内はできないよね。
阿波には王権の証である内行花文鏡もないだろうw
0239日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 18:18:24.72
>>238
>そんなところ(阿波)にいたら、筑紫の日向への降臨の案内はできないよね。

「筑紫の日向」じゃなくて、
竺紫(とくし)の日向ね。
徳島県の橘(阿南市)の小門の阿波岐原。   @阿波
0240日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 18:20:55.18
>>238
>阿波には王権の証である内行花文鏡もないだろうw

倭国(阿波)いは、大概のものが有るから。  @阿波
0241日本@名無史さん垢版2018/05/20(日) 18:39:30.44
阿波は古代のコレクターの国
0242日本@名無史さん垢版2018/05/21(月) 19:30:56.49
尺咫

鏡職人ではなく、入れ物職人にとって必須の知識だったわけです。

八咫鏡も、王権を象徴する鏡をほいほい手に取って直径を測れるわけではないですよね。
ただし、入れ物は古くなると作り直すので、その時に入れ物の寸法は測るわけです。

編み籠でも木箱でもいいですが、モノを入れる入れ物を作るとします。
(簡潔にするため入れ物の壁厚は省略して考えます)
土台はモノと同じ大きさでいいとして、
側面については、モノの周囲全長が必要なわけです。
それぞれの一辺の長さが、
(入れるモノの周囲全長)×(側面の高さ)の長方形の側面素材を作って、
それを折ったり丸めたりして、土台に接着するわけですね。

古代の物差しがあるとします。
片方に尺、もう片方に咫が刻んであります。

径1尺の正方形のモノを入れる箱を作るなら、側面の長方形素材の大きさは、
(4尺)×(側面の高さ)となります。
正方形のモノであれば、物差しを1回当てて、同じ長さを4回でいいわけですね。

径1尺の円形のモノを入れる箱を作るなら、側面の長方形素材の大きさは、
(4咫)×(側面の高さ)となります。
円型のモノであれば、物差しを1回当てて、それに対応する咫を同じく4回です。

尺咫とは、現場の動きに現実的に対応した便利な尺度であるわけです。
職人さんは現場での師弟関係において技術を伝えていきますから、
学者さんが書斎で書く歴史書にはなかなか登場しないわけです。
0244日本@名無史さん垢版2018/05/21(月) 19:43:06.63
銅鏡だけでなく、土器でもなんでも、
円型のモノを入れる入れ物を作るには、
入れ物の側面の長さを決めるのに、円周長が必要です。
円型のモノを入れる入れ物全てが現物です。

根拠は、数学的な問題なわけです。
円周長を測定するための方法が何か?ということになると、
古代東アジアであれば「尺咫法」しかありません。
現代であれば、「円周率」ですね。

「尺咫法」は周代に定義されていますから、
「尺咫法」以外の、円周長を測定する方法を提示できなければ、
自動的に「尺咫法」が使われていたことになります。
0247日本@名無史さん垢版2018/05/21(月) 20:08:16.29
親方が注文を受けます。
「直径2尺の銅鏡を入れる、高さ半尺の入れ物」を作るように。

親方は注文を受けてすぐに、弟子に命令するわけです。
「直径2尺の円形の板」を2枚
「8咫×半尺の長方形の板」を1枚
作りなさいと。

大きい材料の方が調達するのが大変ですから、
8咫の長さの材料を見つけるほうが手がかかります。

よって、現物はほとんど誰も見たことが無いけど、
入れ物を作る注文が出たら、8咫の長さの材料を頑張って探さなければならないので、
八咫鏡。
0249日本@名無史さん垢版2018/05/21(月) 20:30:54.79
あえて論点をずらそうとしているのですか?
土器に入れる、ではないですよ。

銅鏡でも、お気に入りの土器でも(土器はたいてい円形ですよね)
王冠でも、璧でも、
円型のモノを入れる入れ物を作るには、
「尺咫法」が無いと作れない、という意味です。

古代の人が、
円周率=3.14を使って、直径×3.14を計算した痕跡のほうが無いですよね。

けれども、「尺咫法」は周代に規定されている。
咫=0.8尺、10咫=8尺ですから、
8対10で刻みを入れればいいだけです。小学生でもできます。

また、「尺咫法」を円周率に換算すると、3.2>3.14ですから、
中に入れるモノよりわずかに大きい入れ物ができるわけです。

入れ物職人さんにとっては簡単でとても便利ですね。
0250日本@名無史さん垢版2018/05/21(月) 20:40:41.83
土器なんて粘土紐を巻き上げて作るし、胴は円筒じゃなくて球の方が近いし、意味なし
鏡も径を揃えて作ってる訳じゃないから意味ないし
鏡の容器も鏡にあわせて径が変わるから意味ないし
伊都クズの妄想には全く根拠がなくて意味ないし
0251日本@名無史さん垢版2018/05/21(月) 21:01:28.00
妄想を押し通すためにさらにさらにと妄想を積み重ねていく
どんどん不確実性が高くなるだけの妄想タワーの出来上がり
0252日本@名無史さん垢版2018/05/21(月) 21:21:47.14
>>208
>不思議なことに、越後にはタケミナカタ諏訪神社が多数現存しています。

越後の諏訪神社は、戦国時代に長尾景虎とその家臣が分祀勧請したものが多いよ
戦国武将が武神の神社を信仰するってのは分かりやすいでしょ?
0253日本@名無史さん垢版2018/05/21(月) 21:27:07.24
>>242>>244>>247>>249
>尺咫法

そんな言葉はないww
咫尺って言葉はあるけどな

史記での「咫」の字の使用全例
矢長尺有咫
長尺有咫
  尺有咫は、尺(10寸)+咫(8寸)で、18寸の長さ
八寸曰咫
咫尺,八寸
  咫は8寸である
徒欲日夜望咫尺之地
舜無咫尺之地
奉咫尺之書
今拘學或抱咫尺之義
言拘學守義之士或抱咫尺纖微之事
  咫尺で、「少しの(ながさ)」程度の意味
  日本語で「ちょっと」を「一寸」と書くのと同じ発想

咫を円周を測るのに使っている例はない
0254日本@名無史さん垢版2018/05/21(月) 21:27:34.85
漢書での「咫」の字の使用全例
長尺有咫
石砮長尺有咫
  尺有咫で、18寸
八寸曰咫
張晏曰:「八寸曰咫。」
  咫は8寸
豈其與水爭咫尺之地哉?
奉咫尺之書
但日夜望咫尺之地
履咫尺之難
臣聞天威不違顏咫尺
且盲不見咫尺
咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喻輕率也。
  咫尺は、それ「あるいは長さ咫あるいは長さ尺」を簡単に言うもので、比喩である

咫を円周を測るのに使っている例はない
0255日本@名無史さん垢版2018/05/21(月) 21:28:12.11
三国志での「咫」の字の使用全例
未能進咫尺之地
終日行不離咫尺
加咫尺之書
  咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味

咫を円周を測るのに使っている例はない
0256日本@名無史さん垢版2018/05/21(月) 21:28:39.67
後漢書での「咫」の字の使用全例
其長尺有咫
石砮矢長尺有咫
長尺有咫
  尺有咫で18寸
八寸曰咫
八寸為咫
  咫は8寸
舜無咫尺之地
今拘學或抱咫尺之義
咫尺天儀
咫尺龍沙
咫尺言不以為遠也
夫欲千里而咫尺未發
去營咫尺
今以曲俗咫尺之羞
  咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味

咫を円周を測るのに使っている例はない
0257日本@名無史さん垢版2018/05/21(月) 21:29:23.70
史記、漢書、三国志、後漢書での「咫」の字の使用例を全例検索
史記9件、漢書12件、三国志3件、後漢書13件 の、全37件
うち、咫尺    で使われているのが23件  
   尺有咫   で使われているのが 7件
   八寸曰咫  で使われているのが 6件

「咫尺」は三国志の「未能進咫尺之地」(未だ咫尺の地を進むに能わず)のように、「一咫あるいは一尺程度のわずかな(距離)」程度の意味で、慣用句的に使われている

「尺有咫」は、矢の長さなどを表すのに用いられ、史記では「矢長尺有咫」(矢の長さ、尺あまり咫(=18寸))のような使われ方になる

「八寸曰咫」は、「咫」の長さの説明、つまり 咫=八寸

ここまでで、全37件中36件
残りの1件は「咫尺」の説明中に使われているもので、漢書の「咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喩輕率也。」
咫尺は「あるいは長さが咫あるいは長さが尺」を簡単に言うもので、軽率の喩えなり
というものだ

要するに「咫」は、
「尺とあまり変わらないわずかな長さ」 咫尺という熟語として使う
「具体的な八寸という長さ」      長さの単位として使う
という二つの意味での使い方しかない
そして、円形のものの周囲を測るために使われている用例は「一つもない」

咫を丸いものを計る単位に使った例は、邪馬台国前後にはない
咫を使っていたとされる周代を記録した大陸史書は史記しかないが、もちろん、史記にも咫を丸いものを計る単位に使った例はない

これによって、「咫は、円周率を3.2で近似するための便利な単位」という平原出土鏡を「八咫鏡」に『する』ための戯れ言は、完全に否定されたね

つまり、平原出土鏡は「八咫鏡」ではない
0258日本@名無史さん垢版2018/05/21(月) 21:29:59.41
平原1号墓出土鏡を、円周が八咫だから、八咫の鏡という人がいるが、
咫=8寸という長さの単位ではあっても、史記から後漢書の範囲で
咫を長さを表すのに使っている例は、石砮や矢の長さで「尺有咫」という慣用句的な
決まった表現で18寸を表す場合だけで、基本的には「咫尺」で「わずかな長さ」を
比喩的に表す熟語でしか使わない

平原1号墓が卑弥呼の頃であることを想定するならば、その時代に「咫」で
具体的な長さを測ることはない

したがって、平原1号墓出土鏡が円周が八咫であると認識されることもないし
八咫鏡と呼ばれることも、考えられることもない

しかも、破鏡供献されているので、千年以上後になって、発掘され復元されるまで
その間、その周囲の長さが知られることもない
この鏡が八咫鏡の語源となることもない

つまり、どうやっても平原1号墓出土鏡は八咫鏡とは無縁の鏡である
0259日本@名無史さん垢版2018/05/21(月) 21:30:56.52
邪馬台国の時代を含む大陸史書の全例検索をしても、
「咫」が長さの単位として使われている例が、事実上ない
「尺有咫」という決まり文句中で使われる例はあるが、
そのたびに「八寸曰咫」という注が付き、当時、既に「咫」が
実用される長さの単位ではなかったことが分かる

その状態で、「何かを測った」「何を測ってもいい」と主張すること自体が
意味を持たないんだよ
0260日本@名無史さん垢版2018/05/21(月) 22:30:26.03
咫も無意味!
魏志倭人伝の里も方角も無意味!
記紀はもっとナンセンス!


だって畿内説と矛盾するから。
0261日本@名無史さん垢版2018/05/21(月) 22:33:47.44
今でも鯨尺と言って
鯨尺8寸=一尺とする計測法があるよ。
今では和服に使われているらしい。
0264日本@名無史さん垢版2018/05/21(月) 23:09:46.46
尺の8割を咫とするのと、比率は同じだね。
やはり古来からそのような尺度はあったんだよ。
0265日本@名無史さん垢版2018/05/21(月) 23:10:40.82
キナイコシが計算を苦手とすることはよくわかった。
0266日本@名無史さん垢版2018/05/21(月) 23:30:28.55
伊都クズが基準が何かを理解できていないことはよくわかったw
0267日本@名無史さん垢版2018/05/22(火) 00:09:44.43
なによりもまず、咫が円周を測るのに便利な単位だった、
というのが完全に否定されているのを理解しろ
0268日本@名無史さん垢版2018/05/22(火) 00:12:11.14
次に、尺咫法というのが、でっち上げもいいとこってのも理解しろ
咫尺という熟語はあっても、尺咫法などという言葉はない

咫尺は今の日本の辞書でも大きいのには載っている
0270日本@名無史さん垢版2018/05/22(火) 04:54:03.00
>>268
円型のモノを入れる入れ物があった以上、
その入れ物の側壁の長さ=円型のモノの円周長
を簡便に計算する方法があった、ということです。

銅鏡の大きさはまちまちですから、
その都度円周長を簡単に導けなければならなかった。

咫尺法であれば、周代から存在している。(この時点で咫尺法の証明責任終了
曲尺と鯨尺の関係も同じ数学理論が使われているわけです。


否定したいあなたの方が、
「咫尺法以外の方法が存在した」ことを証明しなければなりません。
0271日本@名無史さん垢版2018/05/22(火) 05:08:50.88
咫尺法とは、10対8を使うわけです。
定規を当てるだけで、計算なしで円周長が得られるわけです。

差し金(曲尺)の角目と丸目も同じ理論ですね。
同じ定規の表と裏に、それぞれ10対8の角目と丸目が刻んであります。
咫尺法を応用して、
丸い木材から一辺何尺の角材が作れるか、
逆に角材から、直径何尺の丸材が作れるか、
計算なしですぐわかりますから、作業現場では大変貴重です。

咫尺も曲尺も全く同じ。
ローテクの計算機なわけです。
0272日本@名無史さん垢版2018/05/22(火) 05:30:08.97
>>261
>>263-264
なるほどです。
鯨尺と曲尺の関係も10対8なのですね。

衣服もまた、人体の各部を円柱に見立てて、
円柱を入れる入れ物なわけですから、
布地の幅=人体各所の円周率、として測る必要がありますね。

当初は大工さんと同じ曲尺ベースで鯨尺換算していたのが、
巻き尺の発明によって、鯨尺のみで仕立てるようになったのでしょう。


魏志倭人伝には倭人は貫頭衣を着ていたとあります。
素材を切り取るのに、
長さは、身体の縦長を尺で測ればすみますが、
幅は、身体の横長を測って、咫尺法で4倍の咫を採ればいいわけです。

咫は女性の手の大きさというのは、
女性が衣服を仕立てていたからですかね。
0273日本@名無史さん垢版2018/05/22(火) 05:37:54.37
>史記、漢書、三国志、後漢書での「咫」の字の使用例を全例検索
>史記9件、漢書12件、三国志3件、後漢書13件 の、全37件
>うち、咫尺    で使われているのが23件  
>   尺有咫   で使われているのが 7件
>   八寸曰咫  で使われているのが 6件

>「咫尺」は三国志の「未能進咫尺之地」(未だ咫尺の地を進むに能わず)のように、「一咫あるいは一尺程度のわずかな(距離)」程度の意味で、慣用句的に使われている
「咫尺」法が社会に広く使われていた証左ですね。
衣服の仕立て、銅鏡など円型のモノの入れ物の側壁、などなどを作るのに、
「咫尺」が使われていたわけです。

>「尺有咫」は、矢の長さなどを表すのに用いられ、史記では「矢長尺有咫」(矢の長さ、尺あまり咫(=18寸))
>「八寸曰咫」は、「咫」の長さの説明、つまり 咫=八寸

尺=10寸
咫=8寸
というのが、長い時代の広い地域で固定していたわけです。
咫尺が実用されていたからこそ、単位が固定されていた証左ですね。
0274日本@名無史さん垢版2018/05/22(火) 07:11:48.07
衣服の採寸は鯨尺がベースでしょ。

もし真っすぐの物差ししかない場合、
身体の縦寸と横寸を鯨尺で測って、
たとえば横寸が2鯨尺であれば、直径2鯨尺の円柱と考えて、
咫尺と同じ計算法で、衣服の円周長は、4倍して8の8曲尺。

咫尺が採寸に使われたのなら、
「未能進咫尺之地」などは、
未だ土地を採寸して切り取れていない=未だ全く進めていない
のようなより深い歴史的意味合いが出て面白いね。
0275日本@名無史さん垢版2018/05/22(火) 07:14:38.37
>>270
>円型のモノを入れる入れ物があった以上、
>その入れ物の側壁の長さ=円型のモノの円周長
>を簡便に計算する方法があった、ということです。

円形のものの大きさは、直径で示すんだよ
円周率がキッパリ分かっている現代でも、フライパンの大きさとか
直径で表してるでしょ? 28センチのフライパンとか

「咫」で計ったと主張する人で、円形のものの大きさを
円周で表した例を出してくれという問いに答えられた人がいない

円形の鏡が作れるんだから円が描ける訳だ
だったら「その入れ物の側壁の長さ=円型のモノの円周長」ではなく
中身よりも大きな半径で円を描いて、それに合わせて作れば済むこと

「簡便に計算する方法があった、ということです」
そんな方法を使うより、紐を巻いてその長さを測った方がもっと簡単
そして、その紐の長さは尺と寸で測れば済むし、そこに咫を混ぜても面倒になるだけ
0276日本@名無史さん垢版2018/05/22(火) 07:25:37.17
>>267
嘘つき
0277日本@名無史さん垢版2018/05/22(火) 07:27:28.88
>>270
>咫尺法であれば、周代から存在している。(この時点で咫尺法の証明責任終了

これが極限まで頭悪いよ?
「和同開珎が使われていたのは間違いない(この時点で和同開珎の証明責任終了)
 江戸時代にも和同開珎が使われていた」
ってのと同じことを言ってるようなものだよ?

周代に「咫」という単位があったことは、漢魏尺を使っている時代に
咫が使われていたことを意味しない

咫は周代に使われていた「身体尺」で、人によって長さが異なる
そして、秦の始皇帝による度量衡の統一以降の公定尺の体系に
一度も咫は入れられたことはなく、計量単位としては一度も用いられた記録がない

だいたい、咫二寸とか、咫三寸とかいう表現もあり得ない
咫二寸ではなく一尺だし、咫三寸ではなく尺一寸でないと分からない

咫は使おうと思っても使い勝手が悪いんだよ

円周を測るのに便利という人は、直径七寸の円の円周を咫で表してみればいい
少しも便利じゃないだろ?
0278日本@名無史さん垢版2018/05/22(火) 07:29:07.59
測らなくても計算で求められるのであれば、それがどれだけ便利なことかわからないだろうか。
0279日本@名無史さん垢版2018/05/22(火) 07:31:26.68
>>273
>尺=10寸
>咫=8寸
>というのが、長い時代の広い地域で固定していたわけです。

本当に論理的な解釈ができない人ですね
それが長い時代広い地域で固定定着していたら、八寸曰咫のような注は
「そもそも必要がない」んだよ
誰も使わない、誰も知らない短いだから、注記が必要になる
0280日本@名無史さん垢版2018/05/22(火) 07:32:34.09
訂正
× 誰も使わない、誰も知らない短いだから、注記が必要になる
○ 誰も使わない、誰も知らない単位だから、注記が必要になる
0281日本@名無史さん垢版2018/05/22(火) 07:34:32.04
>>278
>測らなくても計算で求められるのであれば、それがどれだけ便利なことかわからないだろうか。

つ「直径七寸の円の円周を咫で表してみればいい 」

さ、計算して見せて!
便利なんでしょ?
0282日本@名無史さん垢版2018/05/22(火) 07:43:09.86
>>273
>「咫尺」法が社会に広く使われていた証左ですね。
>衣服の仕立て、銅鏡など円型のモノの入れ物の側壁、などなどを作るのに、
>「咫尺」が使われていたわけです。

さっきまで「尺咫法」って言ってたのに、前言撤回かい?
本当に「調子がいい」ことですこと

そして、「咫尺」が具体的な長さに使われている例が「一例もない」ことは
すでに>>253から>>259で完全に示した

衣服の仕立てに使った例も、同じく「一例もない」

>>272
>鯨尺と曲尺の関係も10対8

ではなぜ、鯨尺であり曲尺であって、「咫」じゃないんだ?
「咫」が使われていない証明でしかないな
0283日本@名無史さん垢版2018/05/22(火) 08:22:42.52
当用漢字ではないから?
0286日本@名無史さん垢版2018/05/22(火) 08:59:40.87
王朝交代で色々は失われても
どういうわけか日本には周代の古い制度が伝わってるようだから、昔から日本人は古いものを尊重してたんだなぁ。
0287日本@名無史さん垢版2018/05/22(火) 17:39:17.91
>>278>>285
超便利だから、
現代の大工さんも差し金(曲尺)で角目と丸目を使っているわけですね。

古代の職人さんも咫尺で尺と咫を使っていたわけです。
差し金のように直角でないだけで、全く同じ構造の物差しだったのでしょう。

>>282
尺をベースに計算するので、
わかりやすいように尺咫の順に並べただけですが、何か?

言葉にいちいち突っかかって、議論の本質をずらして誤魔化していますが、
10対8の比率を利用することで、円周率3.14を用いるよりも
簡便に角と丸を数値変換できるのはいずれも同じです。
数学的には周代から現代まで全く同じ理論が現場で使われ続けているわけです。
歴史に興味があるのであれば、感動的だと思いますが。
0288日本@名無史さん垢版2018/05/22(火) 17:52:37.32
キナイコシは歴史に興味があるのではなく、歴史を闇に葬りたいだけ。
0289日本@名無史さん垢版2018/05/22(火) 18:07:15.80
>>288
>歴史を闇に葬りたいだけ。

日本の歴史を永遠の謎にしたいのは間違いでしょうね。
0290DJgensei artchive gemmar垢版2018/05/22(火) 18:09:57.83
天魔ヤマ?レベルがサイズだよな。
0291日本@名無史さん垢版2018/05/24(木) 06:30:23.38
>>287
>尺をベースに計算するので、
>わかりやすいように尺咫の順に並べただけですが、何か?

分かりやすいも何も、根拠が一切ない
平成の人間の「妄想の産物」による「造語」だってだけじゃんw

あたかも古来、そういう言葉、考え方が存在したみたいに書くなよ!
あったら記録に残るだろ?
それが一切ない

>現代の大工さんも差し金(曲尺)で角目と丸目を使っているわけですね。

現代の大工さんが使っているのは、
丸目はきちんと3.14のπ、角目は1.41のルート2の目盛だよ
3.2なんて円周率の近似値としては使えない

古代の人をバカにしすぎだし、全然便利じゃない
0292日本@名無史さん垢版2018/05/24(木) 07:14:15.26
つ「直径七寸の円の円周を咫で表してみればいい 」

さ、計算して見せて!
便利なんでしょ?
0293日本@名無史さん垢版2018/05/24(木) 07:47:20.58
八咫鏡の良いところは、端数が出ない予定調和になることですね。
七咫鏡とかだと、径が尺では端数が出てしまう。
だから八咫鏡はその大きさであることが大事だったと。
0294日本@名無史さん垢版2018/05/24(木) 22:57:48.41
だーかーらー、平原1号墓出土鏡の円周が八咫だっていうのは昭和に入ってから言われ出した戯れ言
ちゃんとした咫の長さで測れば「8.63咫」だぞ?

どこがぴったりなんだ?
0295日本@名無史さん垢版2018/05/25(金) 00:52:09.55
逆に考えるんだ。

平原遺跡の鏡こそが八咫の定義なんだ。
0296日本@名無史さん垢版2018/05/25(金) 01:03:08.35
伊都国推しの人間にとっては、それがマジなんだぜ!
要するに根拠なしの思いつきだってことだ
0297日本@名無史さん垢版2018/05/25(金) 01:12:47.92
何にも矛盾しないし、古代史の謎が一気に解ける。
0298日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 00:03:34.13
いや「円周を咫で計る」も、「弥生時代の倭国で咫が意識されていた」も
現実と矛盾してるんだが?
0299日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 00:50:32.97
予定調和のようにぴったりハマっているよ。
0303日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 06:39:56.75
予定調和と予定調和のようにという比喩の違いもわからない脳認知障害者ですか
0305日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 14:54:42.12
方々でコミュ障の書き込みをしている一人くらいしか、九州説ってのは居ないんだなw
0306日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 14:57:48.41
書き込んでいないはずのスレで、コミュ障と言われた、などとキナイコシが書いていて、同一人物であることを告白していてワロた
0307日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 14:58:10.12
「現実と矛盾する」っていうのは
「予定調和のようにぴったりハマってない」って意味だよ

脳認知障害以前に、日本語の読み取り能力が足りないってことだろ?
単に頭が悪いだけ
0309日本@名無史さん垢版2018/06/01(金) 23:54:40.79
このスレ?
0310日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 00:02:21.22
合理的説明をすると都合のいいでっち上げだと叫ぶ池沼がいる
0312日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 07:56:02.06
合理的っていうのは、道理に合うっていう意味だよ?
理に合わないことは、合理的じゃないんだ
0313日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 07:58:57.39
あなたの思考パターンが合理的ではないですね。
0314日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 08:41:32.27
1 道理や論理にかなっているさま。「合理的な自然界の法則」

2 むだなく能率的であるさま。「合理的な処置」

どちらも八咫バカには当てはまらないな
0315九州王垢版2018/06/02(土) 09:06:31.04
>>305
日本史版には九州説の人が畿内説の人の2〜3倍いるようだけど
畿内説は少人数の人が連続投稿してるみたい。
0317日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 09:27:17.11
>>315
>日本史版には九州説の人が畿内説の人の2〜3倍いるようだけど
>畿内説は少人数の人が連続投稿してるみたい。

日本史板の九州説は、3人+αだよ

九州王さんはキャラぶれはもう気にしないことにしたの?
地金が透けまくりw
メッキし直したら?
0318日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 09:57:00.99
キナイセツの人は3人程度

スレ主とスプリング8ともう1人くらい
たまに下手な自作自演をしてる。
0319日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 10:38:55.40
俺は「葛城日本海」ってハンネにしようかなw

葛城は鴨厨先生とかぶるし日本海は伊都屑先生とかぶるが
そもそも鴨厨と伊都屑が同一人物なのかもあやふやだぬ
0321日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 16:36:32.11
そう思う根拠は?
0322日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 17:00:57.12
書き込みしてるのは10人ちょいぐらいで

畿内説は、3人ぐらい?揃って口が悪い。
九州説は10人弱って感じじゃない?
0323日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 17:36:02.95
九州説は揃って他人の話きく気がなさげなのが多くね?
自分の言いたいことにしか興味ないみたい

畿内説は馬の耳に念仏をそのままいくマメに説明する熱心なやつと
呆れてバカにしてるやつの両極端(だから最低二人はいるはず)

あと九州派だけでなく畿内説も細かくは割れてるな。
同一人物だと思ってたら矛盾してることいっててやっと気づくことがある
九州説がうるさすぎて畿内説同士の論争をみる機会がめったにないから
畿内説同士の内部事情がわかりにくくてフラストレーションがたまるは
0324日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 17:53:53.67
九州説もわりとバリエーションは多いのだが、畿内説がそれを理解しないから話が噛み合わない。
0325日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 17:54:18.23
ひとまず下賜鏡は
内行花文鏡
三角縁神獣鏡
画文帯神獣鏡
の三説、ということで。
0326日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 18:00:59.72
内行花文鏡は王権の象徴としての意味があるらしいけど、100枚は多すぎるんだよな。
全部が同じ鏡ではなかったかもしれない。
0327日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 18:04:53.33
>>324
×九州説もわりとバリエーションは多い
○九州説はめちゃくちゃバリエーションが多い
0329日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 18:42:37.30
青龍三年銘方格規矩四神鏡は確定 10枚くらいか
長宜子孫内行花文鏡も確定 5枚くらいか
残りは普通の方格規矩四神鏡だろう。


4世紀国産凸面はそもそも中国人にとっての銅「鏡」じゃない。
0332日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 21:00:38.58
少なくとも現時点で出土してる鏡は、畿内か九州かの決め手になるようなものは無いね
0333日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 21:01:10.59
今だ!333ゲットォォォォ!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄    (´´
     ∧∧   )      (´⌒(´
  ⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
        ̄ ̄  (´⌒(´⌒;;
      ズザーーーーーッ
0334日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 21:14:22.87
決め手も何も邪馬台国時代に対応して
洛陽で魏代まで使われていた銅鏡は
ほぼ北部九州から見つかっているのだから決定的だろ。

佐賀大和町の尼寺一本松遺跡で内行花文鏡が見つかっているのだから、
北部九州の銅鏡からの年代決定は100年間違っていたということだ。
あとは良心との戦い。

一本松遺跡周辺には與止日女神社や肥前国府跡などもあったから、
弥生時代に邪馬台=大和勢力がまずこの辺りに支配官を置いて、
佐賀平野の干拓を開始したのだろう。
0335日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 21:17:25.86
平原遺跡という決定的な遺跡が見つかっているのに、認めようとしていないだけだろ。
0336日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 21:32:00.93
魏は既に鉄鏡の時代に入っている。
鉄鏡といっても、金メッキや銀メッキだぞ。
曹操の墓に副葬されていたのも鉄鏡。
記録にも、魏の皇帝一族が使う鉄鏡の大きさや金銀様式が詳しく記載されている。

魏は新規デザインの銅鏡なんて作る興味も技術もない。
卑弥呼に贈る銅鏡百枚は後漢形式の銅鏡百枚を倉庫から取り出して一括処分しただけ。
新型の位至三公鏡は魏代末かもしれんが、おそらく全て晋代だろう。

公孫氏によって洛陽から遮断された日本では
銅鏡が珍重され続け、
桜馬場遺跡の無銘内行花文鏡をベースに、平原遺跡の超大型内行花文鏡が作られ、

卑弥呼が貰った平原の長宜子孫内行花文鏡のデザインをアレンジして、
その他の大型内行花文鏡が作られたんだろう。
それで年代も全部合う。
0338日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 22:02:35.85
桜馬場遺跡と井原鑓溝遺跡は完全に同時代の主従関係にあるのだから、
桜馬場に雲雷文帯の内行花文鏡が見つかった時点で、
井原鑓溝+桜馬場の主従コンビは2世紀と考えるのが妥当。

歴史書と照らし合わせると、107年の倭国王の最有力候補。

そうなると、考古学的時代差から逆算して、
57年の王は三雲南小路遺跡が最有力候補。
光武帝が新を滅ぼすのが23年、統一するのが36年だから、
57年に与えるのなら、新の奨励した方格規矩鏡はゼロで、
前漢鏡一式の三雲南小路は極めて妥当。

更にそうなると、70〜80年の男王時代を経て、
2世紀中盤の倭国乱に入り、
2世紀後半に擁立された卑弥呼が長期政権を経て、
3世紀の平原遺跡に超大型内行花文鏡と共に入ることで
史学上も考古学上もピッタリ符合する。
0339日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 22:05:14.81
>>338
>井原鑓溝+桜馬場の主従コンビは2世紀と考えるのが妥当。
>歴史書と照らし合わせると、107年の倭国王の最有力候補。

何を言っているんだ?
妄想の大概にしておけ。
0340日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 22:07:36.68
妄想しているときはワクワクする
0341日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 22:13:13.15
>>336
>桜馬場遺跡の無銘内行花文鏡をベースに、平原遺跡の超大型内行花文鏡が作られ、

ふむふむ
0342日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 23:00:35.18
洛陽焼溝漢墓に雲雷文帯内行花文鏡が副葬され始めるのが
76年以降。

洛陽と北部九州の時間差を考えると、
井原鑓溝+桜馬場の主従コンビは
どう考えても2世紀以降になる。

じゃあ3世紀まで持って行けるかというと、
魏志倭人伝には、末蘆国に官はおらず、
しかも末蘆国がうらぶれた様子が記されている。
漢との外交で栄えた末蘆国は、
後漢末の中国動乱、公孫氏の台頭、倭国乱によって、
魏代には落ちぶれていたわけだ。

よって、井原鑓溝+桜馬場の主従コンビは2世紀前半であり、
107年の洛陽との外交によって、銅鏡形式が洛陽最新型=雲雷文帯内行花文鏡に同期したことになる。
その数年後から数十年後に被葬者が亡くなって副葬されたわけだ。

当然のことながら、主である井原鑓溝にも無銘内行花文鏡はあったことになる。
107年の外交成果は今一つで、朝貢で貰ったのは内行花文鏡を数枚だけで、
方格規矩鏡は洛陽あるいはほとんどが楽浪郡で自腹で買ったものだろう。
0343日本@名無史さん垢版2018/06/04(月) 07:12:14.36
>>342
>方格規矩鏡は洛陽あるいはほとんどが楽浪郡で自腹で買ったものだろう。

自腹で買えるようなお金は、どうやって稼いだの?
0344日本@名無史さん垢版2018/06/06(水) 20:53:51.25
>>343
>蠶桑 緝績 出細紵 縑緜
>以婢千人自侍

明治日本政府と同じく、「絹」でしょうね。

富岡製糸場の女工が最盛期で400〜500人ですから、
伊都(女)王直営の絹生産力はその2倍以上の労働力を擁しており、
弥生時代としてはとてつもない絹生産力だったわけです。

国際市場環境としても、後漢は遠征続きでしたし、
黄巾の乱(184)以降は三国動乱へと突入していきますから、
中国での絹生産は激減し、
倭国産の絹価格は高騰したことが確実です。
逆に、だからこそ伊都王は千人の女工を集めて絹生産に注力したのでしょう。

楽浪郡に出向いた倭人、あるいは伊都へ駐する楽浪郡史や楽浪商人は、
絹と方格規矩鏡などを交換したわけですね。
0345日本@名無史さん垢版2018/06/06(水) 20:55:31.98
平原遺跡には大量の国産方格規矩鏡が副葬されています。
が、
倭人の銅鏡職人が舶載方格規矩鏡をお手本として練習した習作がありません。

あからさまな国産とわかる練習作が無くて、
いきなり舶載かどうか迷う高いレベルに達しているわけです。

つまり、107年の朝貢時に、洛陽で方格規矩鏡の職人をスカウトしてきたわけですね。
新の王莽の庇護下で働いていた方格規矩鏡職人が、
後漢時代に入って冷遇され、
師升達はその職人に目をつけて、勧誘したのでしょう。

ですから、井原鑓溝+桜馬場の方格規矩鏡は、本場洛陽からやってきた鏡職人が、
倭国で作った銅鏡の可能性もあります。
原料も職人も洛陽直輸入ですから、見分けはつけようもないでしょうね。

平原の方格規矩鏡になると、
本場の尚方出身の親方の指導を受けた、倭人の弟子たちが方格規矩鏡を作ったので、
銅鏡そのもののレベルは非常に高いけれども、文字の出来だけは今一つなわけです。
0346日本@名無史さん垢版2018/06/06(水) 23:32:52.81
>>344
>伊都(女)王直営の絹生産力はその2倍以上の労働力を擁しており、
>弥生時代としてはとてつもない絹生産力だったわけです。

東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。
千餘戸から婢千人は無理だな

それに婢千人が機織りしているはずもないし、ただ言うことだけが目的の思いつきだねぇ
0347日本@名無史さん垢版2018/06/06(水) 23:58:20.53
>>346
>千餘戸から婢千人は無理だな

ギリギリだけど無理じゃないよね。
王宮勤めの関係者しかいない方が、セキュリティ的には理想的だよ。
二万戸の博多奴国に王宮を作ったら、人の出入りが多くて警備が困難になる。
0348日本@名無史さん垢版2018/06/07(木) 06:28:50.53
>大人皆四五婦 下戸或二三婦

一家に23人から45人は奥さんがいて、
それぞれにそれなりの娘がいるのだから
単純計算で
伊都千戸なら、奥さんが20003000から40005000人。
娘を合わせると1万人は女性がいる計算になる。

このスレ=北部九州説だと、邪馬台国は7万戸の連合国家なのだから、
各家庭で養蚕して、繭を伊都へ集めて
伊都で紡績して、絹織物を専売品として対外の主力交易品の一つとしていたんだろ。
0349日本@名無史さん垢版2018/06/07(木) 07:34:25.03
絹もない鉄もない畿内と、桑を植えて蚕を育てて機を織っていた九州では、かなり生産様式というかライフスタイルが違っていただろうね。
邪馬台国の男女比が違うのは戦争が長くて男が死んだからだとも言われているが、畿内では戦乱の跡が少ないからそのような状況にもならない。
畿内は魏志倭人伝の記述と合わないことだらけ。
0350日本@名無史さん垢版2018/06/07(木) 08:07:08.27
そんなに男女比に差がある社会は存続できない
下戸と書いてあるのも、魏使の目に付くところに出られる上流階級の人間だよ
0351日本@名無史さん垢版2018/06/07(木) 08:16:44.52
>>344
>逆に、だからこそ伊都王は千人の女工を集めて絹生産に注力したのでしょう。

たしかに、卑弥呼の王宮になぜ千人もの奴婢が必要だったか考えた時に、何割かは機織りをしていたかもしれないですね。
記紀でも、アマテラスの王宮で奴婢が機織りをしていたと読める記事があります。

纒向説だと建物が少ないから、奴婢は屋根のない運動場のようなところに詰め込まれて何かの仕事をしていたとか言われているそうですが、ナンセンスですね。
0352日本@名無史さん垢版2018/06/07(木) 08:17:32.83
>>350
男が少なくても存続はできますよ。
0353日本@名無史さん垢版2018/06/08(金) 18:55:19.24
>あからさまな国産とわかる練習作が無くて、
>いきなり舶載かどうか迷う高いレベルに達しているわけです。

>つまり、107年の朝貢時に、洛陽で方格規矩鏡の職人をスカウトしてきたわけですね。

咫尺(漢尺)の伝来ですね。
見よう見まねの不出来な国産方格規矩鏡が存在しないことによって、
考古学的に証明されたわけです。

桜馬場遺跡(=井原鑓溝)の内行花文鏡をベースに
伊都王権の象徴的神鏡を作るよう命令が下って、
漢尺で直径二尺の内行花文鏡を作り上げたのでしょうね。

その入れ物を作る時に、容器の寸法の指図は、
直径二尺の円板を2枚(底と蓋)と、
八咫×半尺の長方形板を1枚(側板)
です。
0354日本@名無史さん垢版2018/06/08(金) 19:43:41.30
>>349
出土遺物からわかるように、弥生九州倭国では、
鉄器があって、絹の衣服を着ていたわけですね。
硯があって文字もある先進国家だったわけです。

それが九州倭国を出ると、一気に不便になるわけです。
東に渡海した、日本海沿岸の倭種地域なら、まだ鉄器も絹もありますが、
それ以外の地域だと、鉄器も皆無か痕跡だけで、
北部九州で言うと、500年くらい昔の菜畑遺跡の生活レベルまで落ちるわけです。

現代の感覚で言うと、
電化製品に囲まれて過ごしている我々が、
アフリカ奥地の寒村に放り出されるようなものです。

東征将軍スサノオなどであれば、
国家事業として、自分専用に鉄器を運ばせることができたでしょう。
各種の東征古墳の副葬品ですね。

しかし、左遷組や失脚組となれば、国家の支援は無い。
倭国の勢力範囲外に落ちのびて、
鉄器なし絹なしの未開人=毛人と同様の生活になってしまうわけです。
0355日本@名無史さん垢版2018/06/08(金) 19:44:03.42
出土遺物からわかることがもう一つあります。

弥生先進国である北部九州倭国は、
東方の各地を占領しては、そこからの租庸調を献上させていた、ということです。

平安京に広大な水田があったわけではありませんよね。
各地からの租庸調で首都の貴族以下人々は暮らしていました。
同じことで、伊都を頂点とする北部九州倭国も、
各地からの租庸調で七万戸を養っていたわけです。
土器の流れから明らかです。

祭祀用武器
鉄工遺跡(鉄原料は北部九州経由、鉄製品は北部九州に集中)
の分布からも
北部九州倭国が東方へ荘園を拡大していったことは明らかです。
0356日本@名無史さん垢版2018/06/08(金) 19:44:41.50
何が言いたいかというと、甕棺墓です。

北部九州倭国の貴族は、
鉄器や絹に囲まれて、
壱岐対馬経由で楽浪中国との交易も独占して、
東方からの租庸調があって、
まさにこの世の春を謳歌していたわけです。

寿命を全うして、生まれ変わるとしたら、
当然また「北部九州倭国に生まれたい」わけですね。

だから、同じ倭人であっても、
北部九州で亡くなった場合は、
北部九州に生まれ変わりたいから、甕棺墓に入る。

九州外で亡くなった場合は、
これまた北部九州に生まれ変わりたいから、舟型棺に入る。
魂が船に乗って、北部九州へ帰れますように、
という切実な想いですね。
0357日本@名無史さん垢版2018/06/08(金) 20:51:39.83
>>356
>北部九州で亡くなった場合は、
>北部九州に生まれ変わりたいから、甕棺墓に入る。
>九州外で亡くなった場合は、
>これまた北部九州に生まれ変わりたいから、舟型棺に入る。

目から鱗だ。
斬新だ。
0358日本@名無史さん垢版2018/06/08(金) 21:39:32.72
前スレで、大国主の生涯について考察しましたが、
その続きです。

大国主=八千矛神=中広型銅矛が、
第〇〇代東征将軍スサノオとなって幕府を開いたのが最高位で、
倭国王アマテラスにはなれなかった。

だからアマテラス一族ではなく、漢皇帝の権威を借りて、
倭国王=1世紀伊都国王に承認してもらった。


最古の王族=吉武遺跡(伊都)=アマテラスと、
振興の勢力=須久遺跡(那国)=オオクニヌシが、
お互いに呪文をかけあっているわけですね。

<伊都>アマテラスは、振興の那珂川那国オオクニヌシを抑えるために、
「那」ではなく、「奴」の字に置き換える呪術をかけた。
魏代伊都が魏使との外交時に使った文字は、「奴」国です。
魏ではなく、伊都が奴国と表記したわけですね。

<那国>その前の時代の、大国主が朝貢する時には、
本来であれば、漢伊都国王となるべきところを、
委奴としたわけです。
漢ではなく、那国大国主が、さんざん奴国として卑下されたのを
逆手にとって、伊都を委奴=馬鹿にしてきた奴国に委ねるんだよ、
としたわけです。

任那という文字が残っています。
那国に任せるということですね。
日本各地に残るのも、奴珂ではなく、「那」珂です。
0359日本@名無史さん垢版2018/06/08(金) 21:43:37.63
振興の須久に対して、
須久大国主とオオヤマツミ女王八上姫(因幡=稲場=鐘崎)が婚姻して、
勢力拡大しようとしたのを、

吉武アマテラス一族が警戒して、
須久大国主と 須勢理姫を結婚させて、取り込んだわけです。

日本海沿岸アマテラスと、
瀬戸内沿岸オオヤマツミの政治的綱引きですね。

その結果、
筑紫の吉武アマテラス+須久大国主(中広型銅矛)vs瀬戸内オオヤマツミ(銅剣)
の戦いとなり、
当然のことながら、中広型銅矛が圧勝します。
0360日本@名無史さん垢版2018/06/08(金) 21:48:35.71
大国主は、漢使による金印授与イベントのために、
吉武遺跡宮殿までの県道49号線整備に
自領福岡平野の木材を大量伐採して、洪水疫病を引き起こして失脚します。

大国主には180柱の子供がいたそうです。
旧百余国ですから、ほとんどの国の姫、
あるいはオオヤマツミ系だと女王に子供を産ませたわけです。
それが夷=夷守=ヒナモリであり、
徳川幕府と同じく、大国主の子孫が各国の支配者にすり替わっていった。

けれども、大国主が失脚してしまい、
ニニギ新伊都政府に恭順したのが、魏志倭人伝にある「副官」のヒナモリ。

しかし、恭順せずに落ちていった夷もいたわけです。
0361日本@名無史さん垢版2018/06/08(金) 21:54:14.35
大国主失脚時の倭国勢力範囲は、
日本海沿岸は越まで。
越後には、沼河姫と大国主の間に産まれたタケミナカタがいます。

吉武伊都アマテラスにとっての、東征将軍スサノオが、
須久大国主(スサノオ就任)にとっての、辺境攻略隊長タケミナカタですね。

瀬戸内沿岸は、淡路島まで。
大阪湾沿岸には、最後の石剣部族が残っていて、
これは今から銅戈将軍ニギハヤヒ(大国主の次のスサノオ将軍です)が調略します。

瀬戸内沿岸は銅剣オオヤマツミの勢力圏です。
0362日本@名無史さん垢版2018/06/08(金) 21:59:06.75
よって、
大国主の子孫のうち、ニニギ新伊都政府に恭順するのをよしとしない集団は、
日本海沿岸を北上して、
川沿いに内陸へと逃げていくことになります。

関東ですね。

越後から信州には、タケミナカタが腰を据えて、
能登半島を盾にして、伊都政府に武力抵抗します。

畿内にはまだ石剣部族がおり、銅戈ニギハヤヒと戦争して緩衝材となってくれます。
オオヤマツミ環濠集落はまだ点状に入りこんでいるだけで、
愛知県が大国主残党とオオヤマツミとの接触地域になり、
お互いに銅鐸=Jアラートを配備して、睨み合うわけです。

この状態が百年ほど続きますが、
越後信州タケミナカタの敗退。
大阪湾石剣部族の敗退と、オオヤマツミ領土を通過しての
銅戈ニギハヤヒ軍の朝日遺跡進軍。
によって、関東の大国主残党は降伏します。
0363日本@名無史さん垢版2018/06/08(金) 22:05:36.64
大国主残党の運命はここで潰えて、本来なら生口などとして
屈辱の歴史を迎えるはずでした。
畿内へ向かって、伊勢など東国の土器が移動していきます。
降伏したわけです。

しかし、倭国乱が起きます。

筑紫において、
筑前邪馬台国+オオワダツミ+日本海沿岸
vs
筑後狗奴国+オオヤマツミ+瀬戸内
の大戦乱が起きたわけです。

当初は狗奴国有利だったため、
邪馬台国は、狗奴国側についた銅戈と戦っていたタケミナカタに同盟を打診します。

結果として、邪馬台国+タケミナカタが勝利したので、
那珂川は那珂川であり、奴禍川などにはなったり、消えたりしなかったわけです。
0364日本@名無史さん垢版2018/06/08(金) 22:10:18.54
大国主時代に、
吉武アマテラス+須久大国主 vs 瀬戸内オオヤマツミ

大国主が失脚して、
伊都ニニギ
銅戈ニギハヤヒ+オオヤマツミ
vs
大阪湾石剣部族(大国主系とは無関係)
タケミナカタ+関東大国主残党

倭国乱が起きて、
伊都+オオワダツミ+タケミナカタ・大国主残党
vs 筑後肥後+オオヤマツミ

オオヤマツミと大国主は、八上姫との喧嘩以来ずっと
仲たがいし続けていたわけです。
敵味方がハッキリしていますね。
0365日本@名無史さん垢版2018/06/08(金) 22:18:01.02
超長くなって申し訳ありません。

ようやく本題(>>356)に戻りますが、
関東の前方後方墳とは、大国主残党の墓なわけです。

肥前のは、伊都ニニギに恭順した夷のもの。
出雲のもそうです。
(出雲は本来オオヤマツミ領土なのですが、中広型銅矛vs銅剣戦争の時に大国主が奪ったのでしょう)
大勢の夷が、泣く泣くひれ伏して、下戸あるいはその下の身分となったのが、
倭国乱のときに名誉回復したわけですね。

とういことは、
東日本に分布する舟側棺というのは、
那珂川流域、那国において優雅に暮らしていた大国主一族が、
一晩の洪水によって失脚し、
あれよあれよという間に関東まで落ちのびて、そこで侘しい未開人生活を送りながら、
漢から金印まで授与された輝かしい栄光の過去を想いながら、
いつか北部九州倭国へ帰れる日を夢見て、眠りについた。

そのような念のこもった棺ということです。

最大限の敬意が必要でしょうね。
0366日本@名無史さん垢版2018/06/08(金) 23:15:32.16
弥生時代の謎として、
高地性集落
銅鐸
甕棺墓
があります。

鉄工遺跡の発見によって、
高地性集落とは、木材から炭を作るための施設。
現代の採油所であることがわかりました。

銅鐸も、前スレで考察したように、
石剣地域に入植していく倭種環濠集落が、
収穫期の襲撃に備えて配備したJアラートであることがわかりました。

普段は乾土に埋めて劣化を防ぎ、収穫期に取り出して設置する。
高台に偽装して設置して、敵襲があれば銅鐸を鳴らして集落民を環濠の中へ避難させる。
銅鐸を鳴らし終えたらそのまま獣道を走って、近隣の集落などへ救援を呼びに行く、
というシステム。

甕棺墓は、何一つ不自由なく優雅に暮らしていた北部九州倭国の貴人が、
生まれ変わってもまた北部九州倭国に生まれ変わりたいという祈りを込めた葬儀。

あとは、なぜその甕棺墓が急速に廃れて、平原遺跡の卑弥呼女王が
木棺墓に入ったか?ですね。
卑弥呼が丹後の太田南遺跡1号墓の一大率長官の娘であることと関係があるとは思われますが。
0367日本@名無史さん垢版2018/06/09(土) 15:01:16.93
放射説は漢文的にありえない
0368九州王垢版2018/06/09(土) 16:25:06.31
>放射説は漢文的にありえない

そうですね、漢文的には連続して読むべきで放射説はあり得ませんね
但し距離(里)と時間(日)が連続して書かれてる場合は同じ行程を距離と時間で説明してるんですね。
0370日本@名無史さん垢版2018/06/09(土) 17:37:16.19
つまり日程はあくまでも帯方郡からの記録。
邪馬台国は九州北部ということだ。
0372日本@名無史さん垢版2018/06/09(土) 18:18:36.73
すぐ上に書いてあるけど?
0374日本@名無史さん垢版2018/06/09(土) 18:43:28.38
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺

https://youtu.be/iBIA45CrE30
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
https://www.youtube.com/watch?v=SiHp41uWo1I
https://www.youtube.com/watch?v=zYBCTRryFP8
https://youtu.be/-wF31xbwqPM
0375日本@名無史さん垢版2018/06/09(土) 18:44:38.52
目的地までの行程を最初は距離(里)で書いて途中から時間(日)で書いたら目的地までの距離も時間も分からない
だから正常な思考の持ち主は目的地までの行程を最初は距離(里)で書いて途中から時間(日)で書いたりしない
故に距離(里)と時間(日)が連続して書かれてる場合は同じ行程を距離と時間で説明してるんです。
0376日本@名無史さん垢版2018/06/09(土) 22:17:34.75
>>375
>故に

そんな解釈のいる読み方は必要ないんだよ
記録がそういう形のものしかないから、里程と日程で書かれているだけ

起点を途中で戻すみたいな書き方はない

両方分かっているなら、投馬国までは何里だ?
0377日本@名無史さん垢版2018/06/09(土) 22:29:08.65
投馬までは行っていないから、里程はわからないんだよ。
日程は倭人からの聞き取り。
だから投馬が朝鮮半島である可能性はない。
0378日本@名無史さん垢版2018/06/09(土) 23:11:31.76
>>377
それは仮説であって事実ではない
一つの解釈でしかないから、根拠にはならないね
0379日本@名無史さん垢版2018/06/09(土) 23:17:52.14
>>376
投馬国までは7000里だよ
狗邪韓国は投馬国の中の国邑なんだ。
0380日本@名無史さん垢版2018/06/09(土) 23:18:49.77
>>379
根拠なし
0381日本@名無史さん垢版2018/06/09(土) 23:28:11.07
>>380
根拠は説明済なんですけど。
0383日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 09:02:27.24
7000里に水行20日掛かったんだ。
0384日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 09:15:24.25
馬韓は統一されてないからね。
小国のどれかで足止め喰らったか、逆に盛大に接待を受けたか。

朝鮮通信使なんて対馬だけで1ヶ月。壱岐は一泊だけ。
釜山で病人が出て足止め喰らったりしてたし。
0385日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 09:34:10.82
魏使は馬韓の沖を通過してるだけで立ち寄ってないですから
途中で足止め喰らうことはないですね。
0386日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 09:40:44.99
>>385
帯方郡から狗邪韓国まで数百キロはあるので、寄港が必要でしょう。
意地でも上陸しなかったという理由が特にありませんし。

>循海岸水行

何度も往復しているのですから、沿岸の国々との友好もとれていて、
安全も確保されていたわけですし。
0387日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 10:13:44.04
途中の寄港地の描写もないし帯方郡から狗邪韓国までは一気に向かったのではないでしょうか
先任の太守弓遵は韓の反乱で死亡してますし、韓の治安は安定してなさそうですから。
0388日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 10:16:14.09
つまり、投馬国が半島ということはない。
0389日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 11:27:03.02
ないね
0390日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 11:30:11.40
>>388
何がつまり???
投馬国が半島ということはないの根拠は?
0391日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 12:11:14.07
お前はキナイコシと同類だな。
日本語の対話のリテラシーがない。
話の流れについてこれていない。
0392日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 13:21:12.21
数百キロを一気に向かえないでしょ。
寄港していることは確実。
0393日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 13:22:53.31
手漕ぎの古代船の場合、平均1.7ノット、最大速で3ノット
天候にも影響されるので、2ノット=時速3.7kmとします

魏の使節が6月頃に来たとして、
朝8時に出航して、交代制かつ途中休憩計1時間で夕方5時まで漕いだとして
8時間×3.7=29.6km(1日に約30km)

地図で帯方郡から半島南岸まで(ソウルから釜山)が、だいたい500km
500÷30=16.7


速度と漕ぎ手労働を多めに考えて約17日ですから、
天候その他のアクシデントも考えると
帆を張って進んだ分を入れて
水行20日は妥当ですね
0394日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 13:57:30.12
投馬国が出雲なら半島に領土があってもおかしくはないな
0395日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 14:34:07.29
半島の領土は狗邪韓国として明記されている。
0396日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 15:56:27.95
△半島の領土は狗邪韓国として明記されている。

〇漢代における半島の領土は狗邪韓国として明記されている。

◎漢代における半島の領土は狗邪韓国で、魏代における半島の領土は投馬国として明記されている。
0397日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 16:53:32.15
魏志倭人伝は議題に使われていた地名で統一されている。
王都が倭奴国ではなく伊都国と書いてあるからね。
0398日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 22:09:30.02
本当に九州説はでたらめだなぁww

狗邪韓国と投馬国とは別に書いてあるのに同じだとか常識に合わない読み方を正しいと言い張るし
0399日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 22:14:48.12
九州説では投馬国は宮崎県。
0400日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 22:28:27.48
>>398
常識じゃなくて思い込みだね。
0401日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 22:33:59.66
△半島の領土は狗邪韓国として明記されている。
○半島の倭人の国は狗邪韓国として明記されている。

△漢代における半島の領土は狗邪韓国として明記されている。
◎漢代における半島の倭人の国は狗邪韓国として明記されている。

×漢代における半島の領土は狗邪韓国で、魏代における半島の領土は投馬国として明記されている。
◎漢代における半島の倭人の国は狗邪韓国で、魏代においても半島の倭人の国は狗邪韓国で変わっていない。
0402日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 22:42:28.03
投馬国への日程の方が邪馬台国への日程よりかかっているんだよ。
0403日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 22:43:47.98
×王都が倭奴国ではなく伊都国と書いてあるからね。

◎王都が倭奴国ではなく伊都国でもないと書いてある。
 王都は卑弥呼のいる邪馬台国内の何処か(久留米)。
 伊都国は以前の倭國の王都である。
0404日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 23:08:19.95
>>402
投馬国までは帯方郡から水行20日
邪馬台国へは投馬国から更に水行10日陸行1日。

>>403
邪馬台国内の伊都国が倭國の王都である。
0405日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 23:12:09.23
>>404
どちらの日程も帯方郡からだよ!
投馬国へは福岡で上陸せずに海路を宮崎まで南下するんだ!
0406日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 23:29:33.15
投馬国
郡から水行20日の道程(水行2万里=水行1千里×20日)

邪馬台国
郡から水行10日陸行1月の道程(水行1万里+陸行1千里)

水行1日≒1000里=80km
陸行1月=海行1月≒1000里=80km
0407日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 23:41:24.49
投馬国は宮崎県、邪馬台国は福岡県で良さそうですね。
0408日本@名無史さん垢版2018/06/11(月) 00:18:06.83
>>407
>投馬国は宮崎県、邪馬台国は福岡県で良さそうですね。

それだと、投馬国が邪馬台国より北にならない

投馬国までは何里だ?
0409日本@名無史さん垢版2018/06/11(月) 01:00:50.54
>>408
>それだと、投馬国が邪馬台国より北にならない

そもそもそんばことは書いてない!
0410406垢版2018/06/11(月) 01:11:09.94
投馬国は有明海東岸筑後平野沿岸部(大牟田〜筑後川河口)5万戸20万人

邪馬台国は筑後平野内陸部と北野地域(筑後川中流平野)で中心地は久留米 7万戸28万人


1戸構成人数は成人平均4人(戸主男1人、女平均3人)
0413日本@名無史さん垢版2018/06/11(月) 07:02:41.11
>>405
漢文的には連続して読むのが基本ですから投馬国の次に邪馬台国ですよ
邪馬台国の日程を帯方郡からとする理由はなんですか?
0414日本@名無史さん垢版2018/06/11(月) 07:19:28.40
あなたも投馬国への日程は帯方郡からだと思っているのでしょう?
0415日本@名無史さん垢版2018/06/11(月) 07:24:12.81
里程も日程もそれぞれ帯方郡から連続して読むべきでしょう?
なんで投馬国と邪馬台国の日程をそれぞれ分けて帯方郡からとする理由が分からないな。
0416日本@名無史さん垢版2018/06/11(月) 07:37:06.32
日程はいずれも帯方郡からのものですよ。
0417日本@名無史さん垢版2018/06/11(月) 08:19:05.79
>>416
だからその根拠は?
0418日本@名無史さん垢版2018/06/11(月) 11:20:14.36
>>417

全道程(移動の動詞がある文)12000里は不彌國で終了。
各国間の道程距離里数の起点は前述の国になっている。

不彌國の南の位置に投馬國と邪馬台国がある。(移動の動詞がない文)
両者への全行程は帯方郡が起点になる。
0419日本@名無史さん垢版2018/06/11(月) 11:50:56.90
>>418
>不彌國の南の位置に投馬國と邪馬台国がある。・・・何で不彌國の南の位置に投馬國と邪馬台国があると言えるのか?

>移動の動詞がない文・・・何のこと?
0420日本@名無史さん垢版2018/06/11(月) 20:23:58.56
>>418
>全道程(移動の動詞がある文)12000里は不彌國で終了。
>不彌國の南の位置に投馬國と邪馬台国がある。(移動の動詞がない文)

不弥国が邪馬台国なんじゃない?
0421日本@名無史さん垢版2018/06/11(月) 20:41:53.16
移動の動詞がある文  動詞:「行」「渡」
・・・東行至不彌國 東南陸行五百里至伊都國 又南渡千里至末蘆國

移動の動詞がない文 「至」は動詞ではない。
・・・東南至奴國 南至投馬國 南至邪馬壱國
0422日本@名無史さん垢版2018/06/11(月) 21:12:35.85
>>421
何で移動の動詞がないと
両者への全行程は帯方郡が起点になるの?
0424日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 00:21:49.89
宮崎県
0425日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 08:57:42.07
至は方角や時間など何でも何なんに至ると使われる
南へ投馬国に至る、南へ邪馬台国に至る・・・理由なしには起点には戻らないよな
順次郡から投馬国が南へ至る水行20日、投馬国から邪馬台国が南へ至る水行10日陸行1月だよな。
移動の動詞がないと起点が戻るとか???
0426日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 09:39:20.52
投馬国に至った(ゴールした)なら、次の記事はまた振り出しからだよ。
0427日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 11:01:07.39
>>426
説明になってないな
至が動詞ではないなら投馬国にゴールではなく、「南の方へ20日水行すると投馬国に至る」との説明文でしょ。特に理由が無ければその後に続く文は更に先の説明文ですよ。
0428日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 11:31:40.83
至るだから動詞的に使っているよね。
0429日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 17:06:45.83
「至」は動詞ではない。
英語の「to」の様なもの。 A to B
「至」を日本語にする時に動詞として訳される。
0430日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 17:23:59.30
動詞かどうか関係なく、一々元に戻る理由がないな
漢文的には特に理由が無ければ順次続けて読むのが基本だよ。
0431日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 17:44:53.48
@「従郡至倭」
郡の先の倭に至るには 
郡を通って倭に至るには 
郡を経由して倭に至るには
郡より倭に至るには

A「循海岸水行・・・・・東行至不彌國百里」

B「南至投馬國水行二十日」 水行で20日かかる距離

C「南至邪馬壱國水行十日陸行一月」 水行で10日かかる距離と陸行千余里(=海行一月)
0432日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 17:50:28.15
A「循海岸水行・・・・・東行至不彌國百里」 郡から女王國までの道程12000余里
0433日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 18:40:20.75
平原の超大型内行花文鏡と数枚の方格規矩鏡の成分分析の結果が、
前漢鏡の範疇だということは、
甕棺墓勢力=百余國の王達の持っていた伝世鏡を全部取り上げて
改鋳したのかもしれませんね。

107年 桜馬場&井原鑓溝 無銘内行花文鏡 洛陽方格規矩鏡工招聘

2世紀中旬 倭国乱 甕棺勢力粛清 前漢鏡回収(伊都王伝世鏡除く※2

2世紀後半 卑弥呼擁立 超大型内行花文鏡&方格規矩鏡へ改鋳(※1

240年 平原舶載内行花文鏡、青龍三年銘方格規矩鏡など伝来(※3

240年銅鏡百枚のうち、
青龍三年銘方格規矩鏡など、新興国の魏鏡に権威は無く、改鋳あるいは臣下配布
後漢鏡は貴重で、平原遺跡副葬や重要拠点(丹後一大率=籠神社)配布

卑弥呼の墓には、
※1 超大型内行花文鏡&方格規矩鏡
※2 キ龍文鏡
※3 240年舶載内行花文鏡
などが副葬

舶載内行花文鏡(後漢鏡)は、政治的に重要なので、丹後一大率=籠神社などへ配布
青龍三年銘方格規矩鏡(魏鏡)は、単なる記念品で、卑弥呼の親族や旧来臣下へ配布
0434日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 18:40:47.33
3世紀後半 銅鏡百枚のうち魏鏡を改鋳して大型内行花文鏡(※4

※1 平原超大型内行花文鏡は
桜馬場&井原鑓溝の無銘内行花文鏡をモデルに、
甕棺墓王達から取り上げた前漢鏡を改鋳

※4 その他大型内行花文鏡は
平原舶載後漢内行花文鏡をモデルに、
銅鏡百枚中の魏鏡を改鋳
0435日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 18:45:20.86
>>431>>432
何が言いたいのか分からん?
0436日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 18:47:00.56
>>433>>434
くだらない妄想だな。
0437日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 19:10:03.84
>>436
反論になっていない。
0439日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 19:25:32.09
個人の妄想に反論の必要はないな
楽しんでください。
0440日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 19:30:00.36
>>438
材料が必要だろ?
0441日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 21:57:44.87
黄巾の乱が184年
公孫氏が189年ですから、
180年代に青銅原料の不足が始まります。

公孫氏と交易するしかなかったでしょう。
倭が公孫氏の勢力下に入ったというのは、青銅原料のため仕方なく腰を低くして接したのでしょうね。

一方の公孫氏側は、魏と敵対しているので、絹が手に入りません。
ここにも倭国の絹産業が栄える動機があったわけですね。

ちなみに鉄原料は朝鮮半島東南部から入手できるので
倭国そして伊都邪馬台国にとっては安定供給されます。
0442日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 21:59:00.05
邪馬台国に加盟して卑弥呼を共立した旧王達は、服従の証に代々の伝世銅鏡を献上して、
超大型内行花文鏡の作成に参加した。
共立の証ですね。

邪馬台国は朝鮮半島や公孫氏と交易できるので、
それなりに青銅原料を入手できますが、
南の狗奴国は鉄原料も青銅原料も完全に断たれます。

当時の北部九州で鉄鏡は使われていなかったようですから、
生活必需品としての銅鏡が作れなくなると困ります。

広型銅矛や銅戈、銅鐸、場合によっては手持ちの銅鏡を溶かして、省エネで作ったのが
小型仿製鏡U型ですね。
0443日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 22:00:49.86
邪馬台国時代に分布する小型仿製鏡のうち、特に内行花文、日光系のものが、
狗奴国王の鏡でしょう。

邪馬台国側は、小さな王権鏡を作る動機がありませんから。
0444日本@名無史さん垢版2018/06/14(木) 23:21:06.57
>>442
>生活必需品としての銅鏡が作れなくなると困ります。

鏡が必需品などという話は聞いたこともないが?
0445日本@名無史さん垢版2018/06/15(金) 09:01:20.69
使用している銅の量からすると贅沢品。
0446日本@名無史さん垢版2018/06/15(金) 09:11:36.33
鏡は生活必需品ではなく贅沢品で権威の象徴だな
呪術的な意味合いもあったんだろう
0448日本@名無史さん垢版2018/06/15(金) 09:50:00.59
>>447
それは漢や魏でのことでしょ、倭では金属製品は贅沢品で権威の象徴だったんじゃないの。
0451日本@名無史さん垢版2018/06/15(金) 11:30:51.90
供給が止まれば価値が上がるんだけど。
0452日本@名無史さん垢版2018/06/15(金) 13:15:14.45
売れないだろ
0453日本@名無史さん垢版2018/06/15(金) 13:51:05.80
>>451
鉄は朝鮮半島の南部から手に入れられたけど公孫氏のせいで銅は輸入が途絶えたんだ。
0454日本@名無史さん垢版2018/06/15(金) 18:18:20.62
>>453
>公孫氏のせいで銅は輸入が途絶えたんだ。

3世紀までに銅は銅鐸用として瀬戸内近畿で生産されてる。
0455日本@名無史さん垢版2018/06/15(金) 19:11:47.97
国産の銅は698年に産出したものが始まりとされるじゃないかな。
0456日本@名無史さん垢版2018/06/15(金) 19:56:50.05
九州でも香春山で古くから採掘されている。
神功皇后が田油津姫を攻め滅ぼした理由の一つは香春山の銅だよ。

和銅年間に武蔵国から銅が出たのは、あくまでも畿内勢力の支配下では初めてということ。
0460日本@名無史さん垢版2018/06/16(土) 00:00:08.81
九州の銅も瀬戸内の銅も手に入れられなかった大和の弱小勢力w
鉄も絹もない
筑紫の倭国勢力が大和に侵攻するまで、大和は辺境の地だった
0462日本@名無史さん垢版2018/06/16(土) 01:38:49.67
鉄は朝鮮半島に買い付けに行っていたが、4世紀には銅は国内で供給できていたんだよ。
大和は蚊帳の外だけどね。
0464日本@名無史さん垢版2018/06/16(土) 02:41:32.20
瀬戸内沿岸で出土する銅鐸の銅は、瀬戸内沿岸産の銅
0465日本@名無史さん垢版2018/06/16(土) 07:19:15.60
>>463
ちっとは史料を読めよ。
0466日本@名無史さん垢版2018/06/16(土) 07:20:25.21
畿内、というか奈良盆地がいかに遅れていたかよくわかるな。
人は住んでいただろうが、3、4世紀に大和が覇権を握るわけはないな。
0470日本@名無史さん垢版2018/06/16(土) 08:25:01.86
ヒミコは誰なのか、キチッッと特定し、その居住地と墓を特定すること。
それをしていない纏向説も九州説も空想である。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津        E孝安 D孝昭
トヨ津   (250年頃)C懿徳 
ヒメ踏鞴        B安寧
ヒメ踏鞴        A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武 

ヒミコとはヒメ(踏鞴五十鈴)媛であり、住まわれたのは葛城である。
墓は大和盆地最上座の高天原(御所市高天)にある日本最古の神社の境内にある。
径百余歩の塚で魏志倭人伝の記述通り、周囲に奴婢が埋葬されている。
奴婢とは土蜘蛛である。

https://textream-cimg.west.edge.storage-yahoo.jp/58/b6/1835208-96a8cbd6169180a157075d145f086b7f/24/b0c96b994750a363867d0a717b81e934.jpg
0471日本@名無史さん垢版2018/06/16(土) 08:29:19.05
「高天原にある日本最古の神社の境内」

何も難しい事はなかった。
卑弥呼の墓、単純明快な場所にあった。
0473日本@名無史さん垢版2018/06/16(土) 09:21:24.99
>>472

じゃ消えろ
0474日本@名無史さん垢版2018/06/16(土) 10:54:29.20
>>471
自分のスレでどうぞ。
0475日本@名無史さん垢版2018/06/16(土) 12:27:25.68
>>462
>鉄は朝鮮半島に買い付けに行っていたが、

☆三国志東夷伝韓条の記載と相反するようですが。
>國出鐵韓濊倭皆従取之

>>462
>4世紀には銅は国内で供給できていたんだよ。
>>454
>3世紀までに銅は銅鐸用として瀬戸内近畿で生産されてる。

☆国産金属の使用は、鉄器が5世紀頃、青銅器は7世紀頃から、
というのがどの研究でも前提条件となっていますが、
何か新発見でもありましたかね?
0476日本@名無史さん垢版2018/06/16(土) 14:41:56.44
長登遺跡、中村遺跡、国秀遺跡などが6世紀以前から採掘されていたと考えられているが、年代は不詳。
749年には380トンの奈良の大仏が作られており、銅の採掘開始がその直前というのは考えにくい。
0477日本@名無史さん垢版2018/06/16(土) 14:58:34.88
>749年には380トンの奈良の大仏が作られており、銅の採掘開始がその直前というのは考えにくい。

7世紀に銅の採掘が開始されたからこそ、
8世紀に奈良の大仏が作られたと考えられていますね。

6世紀以前に「日本の銅が使われた銅製品」についての
成分分析報告があったら教えてください。
ましてや3世紀ともなると一大センセーションですけど。
0478日本@名無史さん垢版2018/06/16(土) 15:26:30.52
奈良の大仏は陸奥の国で金が見つかったから。
0479日本@名無史さん垢版2018/06/16(土) 19:36:06.12
まあ、定説では、国産銅は和銅年号からだね。
0480日本@名無史さん垢版2018/06/16(土) 20:11:40.38
定説は疑えということだよ。
単に畿内日本国の範囲で見つかったのは、という話で、倭国のことではない。
0482日本@名無史さん垢版2018/06/16(土) 21:19:03.23
キナイセツのことですね。わかります。
0485日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 12:38:53.86
北部九州説だと伊都=筑紫の日向という基準点があるので、
記紀を読んでいくと面白いですね。

韓国に向かう、という点については既に考察されていますが、
笠沙の岬(笠紗之御前)はどうでしょう。

筑紫の日向(伊都)から笠沙の岬までは真の道が通じている、
つまり陸続きなわけですね。
韓国に向かう立地を褒め称えた次に、笠沙の岬まで道が通じている、ということは、
笠沙の岬=東松浦半島、つまり末蘆国の交通要所なわけですね。

ニニギは天孫降臨した後に、笠沙の岬でコノハナノサクヤ姫に出会います。
考古学的には、宇木汲田〜柏崎の遺跡群に相当します。
伊都と密接に関係する遺跡群ですね。

文献・考古学・地理が全て絡み合って無理なく再現されます。
0486日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 12:39:17.20
コノハナノサクヤ姫は大山祇の娘とあり、
筑紫天孫族と、豊国大山祇(古代出雲)との政略結婚に見えます。

筑紫天孫族天神族は、
紀元前に若狭湾八岐大蛇を倒して扇谷遺跡を建設した、
日本海沿岸の覇者=アマテラス

豊国大山祇は、
山鹿貝塚から続く女王国で、筑紫より先行して東方進出していたけれども、
日本海制圧は鉄器筑紫に追い抜かれてしまい、
瀬戸内沿岸〜畿内へ事業展開していきます。

一書に、ニニギが笠沙の岬で美しい
鹿葦津姫(=コノハナサクヤ姫)に出会った際に、何者か尋ねたところ、
「天神が大山祇を娶って産んだ子です」と答えたとあります。

ということは、コノハナサクヤ姫は、
父親は、天神族、おそらく五皇子(勿論オシホミミ以外の4人)のいずれかで、
筑紫アマテラス王族直系の男系。
母親が、その天神族に嫁入りした、大山祇女王の女系。
ということなのでしょう。
0487日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 12:50:33.28
コノハナサクヤ姫の父親が、
唐津に居を構えて末蘆国を治める天神族、
おそらく五皇子(勿論オシホミミ以外の4人)のいずれかであれば、
壱岐対馬ルートを介した外交や交易を監督しており、
渡来系の技術者なども多数抱えていたはずです。
例えば、応神天皇が呉から縫工女4人を勧誘した際に、
途上の宗像氏がそのうち1人をゲットしたような感じです。

一方で、コノハナサクヤ姫の母親が、
その天神族に嫁入りした、大山祇女王の女系であれば、
瀬戸内〜畿内に荘園を所有しているはずです。
琵琶湖周辺もまた、下之郷遺跡以来、大山祇一族が体を張って開発して来た
重要エリアですね。先のスレで検討しましたが。
0488日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 12:56:07.42
猿田彦は、
旧伊都(吉武遺跡宮殿など)一万戸から、
新伊都(三雲遺跡高祖宮など)千戸へと、
天孫降臨するために日向峠を西へと越えるニニギ一行を
東から出迎えるわけです。

日没間近の夕日を背にして、猿田彦が現れるので、
猿田彦は背後からの夕日で光り輝くように見え、
その夕日はそのまま、日向峠から見て東方の、
早良平野=旧伊都=高天原=紀元前吉武遺跡宮殿と、
福岡平野=葦原那珂津国
を照らすわけです。

新伊都側から出迎えるということは、
猿田彦は、コノハナサクヤ姫の父親、
つまり唐津に居を構えて末蘆国を治める天神族、
の配下であり、
もちろんコノハナサクヤ姫の父親とその配下の兵達と一緒に
ニニギ一行を出迎えに来た先頭にいたわけですね。
0489日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 12:58:46.24
>>485
>笠沙の岬(笠紗之御前)はどうでしょう。
>筑紫の日向(伊都)から笠沙の岬までは真の道が通じている、
>つまり陸続きなわけですね。

笠沙の岬は志賀島でしょう。
博多湾に傘のように被っています。
天浮橋は海の中道です。

木花咲耶姫の実家は志賀島の海神神社でしょう。
この氏族は、天孫族と姻戚を結びながらも東の遠賀川にまで追いやられていきます。
これが筑紫岡田の宮の豊国王家、後の岡の県主です。
木花咲耶姫の父である大山祇は天照ではなくイザナギの子なので、天照の兄弟です。
出雲に降ったスサノヲも天照の兄弟です。
筑紫、豊国、出雲は同一の氏族の分家同士ですね。

考古学的にも、これら日本海沿岸が栄えていた地域であり、倭国の中心は福岡です。
後漢書は倭国を朝鮮半島南岸から九州北岸までの対馬海峡にあったと記録しています。
0490日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 13:02:41.22
先に検討しましたが、
猿田彦は比良山を崇める高島市熊野本遺跡出身の工人。
旧伊勢=琵琶湖周辺のうち、
比良山の周囲が、コノハナサクヤ姫の母親の荘園だったのでしょう。

猿田彦とは、
コノハナサクヤ姫の父親が得た、渡来系の工人そのもの、
あるいは、
渡来系の工人に師事した倭人工人。
そのどちらかなわけです。

だから漢から直輸入の円周計算法=咫を駆使している。
0491日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 13:09:33.08
山上の集落で工房を経営する猿田彦は、
山伏の祖とも言われているように、
木材を得るための森林管理の専門家でもあるわけです。

鼻が七咫というのは、丸い皮ふいごでしょう。
山伏のように大きなほら貝でもいいですが。
なんでそれが鼻かというと、
日本オオカミ、山犬、熊などの猛獣避けに鳴らしていたわけですね。

ニニギ一行も衛兵を従えていたでしょうが、
峠越えでは細長い隊列となって離れてしまい、心細い。
衛兵たちも平野の人間なので、細い峠道ではおどおどする。
日が沈んできて、獣の遠吠えなど聞こえてきたところに、

猿田彦が現れるわけです。

山中暮らしの猿田彦は、慣れた様子で皮ぶいこをぶうぶう鳴らして獣を払い、
その賑やかな姿に、
ニニギたちはまさに救いの神のように感じて、その後の扱いに大きく影響したのでしょう。
0492日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 13:12:23.88
>>489
私も昔はそう思っていましたが、
それだと天孫降臨した先の日向から陸続きであることを、
褒める理由がなくなります。
0493日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 13:42:07.39
猿田彦は海と山をともに照らす(支配する)と書いてあるので、博多湾を守る将軍職です。
福岡市早良区にズバリ猿田彦神社があります。
彼は福岡の旧勢力の代表として邇邇芸を王として迎え、伊都まで案内し、新王の高祖宮建設に奉仕したのです。
こうして成立したのが卑弥呼の前の男王「日向三代」の伊都国の倭王家です。

その後、倭国大乱により天孫族は筑紫を離れて、親戚の饒速日が先に王国を建設しているという大和に落ち延びます。
代わりに倭王に共立されたのが卑弥呼になります。
卑弥呼と神武の年代が近いことは、鴨厨さんの考察のとおりですが、大和は邪馬台国と直接の関係はないのです。
0494日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 13:49:26.49
>>493
>親戚の饒速日が先に王国を建設しているという大和に落ち延びます。

饒速日が先に王国を建設しているという大和の王国の痕跡は? それも妄想かね?  @阿波
0495日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 13:51:16.36
>大和は邪馬台国と直接の関係はないのです。

魏志倭人伝でも、
邪馬台国は邪馬台国(正確には、邪馬壹國=邪馬一国)

大倭(大和)
は明らかに区別されていますね。
0496日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 13:56:25.76
ニニギ(アマテラス)の兄である饒速日(スサノオ)は、
銅戈将軍として、考古学出土物そのままに、
大阪湾上陸作戦、安芸上陸作戦、越後信州攻略戦、と転戦していきます。

基本的に、畿内に作られる環濠集落+銅鐸というのは、
大山祇一族の事業ですから、
唐古鍵の長髄彦が首長なのではなく、
その妹の登美夜毘売(三炊屋媛)が女王であり、

唐古鍵女王と饒速日が結婚して、内陸と瀬戸内から、
大阪湾沿岸の最後の石剣部族を挟撃したということでしょう。
0497日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 14:04:58.51
スサノヲはあくまでも日本海にしか足跡がなく、むしろ朝鮮半島に渡ったりしてますね。
出雲がその拠点ですから。

瀬戸内の開拓は豊国から進出した大山祇(天照の兄弟)とその息子の三島神らの事績です。これはスサノヲとは別系統で、登美の鴨王家となります。
綿津見神社、三島神社、賀茂神社などがその拠点です。
当時はそのまま王宮や役所だったのでしょう。
京都、大阪、奈良がその主な範囲です。

そこに同居していたのが饒速日(天照の孫)であり、そこに筑紫を脱出した神武が合流します。
0498日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 14:05:50.68
【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。

その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。

この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。

いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。
0499日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 14:07:01.39
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。
0500日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 14:09:13.55
大倭王がいたのは、九州北部の邪馬台国です。

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国(朝鮮半島南岸)まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
0501日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 14:25:13.45
大倭が出てきたので脱線しますが、
大物主というのは、
大国主の治世に海外から現れて、大国主が設置した、わけです。

現代の我々日本人にとっては、
海外と言えば、北は朝鮮や中国、東はアメリカ合衆国です。

が、弥生時代の北部九州倭人にとっては、
海外と言えば、北は朝鮮や中国ですが、東は本州や畿内なわけです。

少彦名や大物主など、海外からやって来た神々というのは、
朝鮮や中国からの可能性もありますが、
本州出身である、という可能性もあるわけです。
0502日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 14:25:47.47
北部九州説だと、
大国主は葦原那珂津国=福岡平野の有力者ですから、
須久岡本の主となります。

考古学的には、
紀元前に、吉武高木王(高木神)=アマテラスが、
配下の王族将軍スサノオを派遣して、日本海沿岸を制圧。

紀元前後に葦原那珂津国が新興してきて、
中広型銅矛が、主に瀬戸内沿岸へと侵攻。
播磨を拠点とする広型銅剣と戦い、荒神谷遺跡で降伏調印式を行います。

中広型銅矛が失脚してから、
銅戈が大阪湾上陸作戦を行います。
0503日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 14:27:04.85
大国主=八千矛神=中広型銅矛祭祀の須久岡本有力者
の活動範囲は、
紀元前からの筑紫アマテラス領域=北部九州〜日本海沿岸と、
紀元前後の銅矛銅剣戦争の勝利領域=瀬戸内沿岸

瀬戸内沿岸は淡路島までであって、
大阪湾にはまだ上陸していません。

また、銅矛銅剣戦争のあおりで、大山祇銅剣祭祀は下之郷遺跡を一旦放棄しており、
畿内内陸からは北部九州勢力は一時遠のいているわけです。

考古学的に判明しているこの状況下で、
大国主が大物主を据えたわけですね。
0504日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 14:28:11.44
硯の出土状況を見て見ますと、
伊都三雲遺跡、奴国那珂比恵遺跡など邪馬台国中枢の沿岸遺跡に加えて、
内陸の筑前町からも硯が複数出土しています。

伊都などに一大率という北部支配機構があったのと同様に、
筑前町などにも南部支配機構があったわけですね。
一方が都庁でもう一方は府庁のようなものです。

庄内式など土器の流れを見ても、
一番集中するのは那珂川流域ですが、
大分から上陸して、川沿いに日田などを経て筑後へと入る流れも判明しています。

以上から、北部九州説における大国主=中広型銅矛が設置した
大物主とは、
筑前町の旧三輪町に設置された、大倭という交易職であり、

当然のことながら、弥生時代の総合商社である大山祇一族が
その運営に深く関わっており、

饒速日銅戈将軍が大阪湾上陸を果たして本格的に畿内侵入をすると、
交易の舞台が畿内へと移動したわけですね。
0505日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 14:54:07.10
>>498
>いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。

いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも倭国(阿波)を発った忌部一族にその起源があることになる。  @阿波
0506日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 14:55:49.55
>>500
>大倭王がいたのは、九州北部の邪馬台国です。

北部九州は「其山有丹」で邪馬台国論争の資格なし。  @阿波
0507日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 14:59:11.44
>>503
>大国主=八千矛神=中広型銅矛

【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。   @阿波
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】   @阿波
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47852915.html?__ysp=44CM5YWr6Ym%2B56We56S%2B44CN44CR
0508日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 15:13:18.90
>>503
>大国主=八千矛神=中広型銅矛祭祀の須久岡本有力者
>の活動範囲は、
>紀元前後の銅矛銅剣戦争の勝利領域=瀬戸内沿岸
>瀬戸内沿岸は淡路島までであって、
>大阪湾にはまだ上陸していません。

よくわからないけど、大山祇は伊予まで、その息子の三島神は摂津にいるのに反映されているのかもしれないですね。
彼ら瀬戸内や畿内の開拓の祖の実年代もなんとなくわかりますね。
その少し後に神武が畿内に入るので、平原遺跡の卑弥呼との前後関係も想像できるというもの。
0509日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 15:20:58.35
>>508
>平原遺跡の卑弥呼との前後関係も想像できるというもの。

想像だけではだめですよ。  根拠がないと。  @阿波 
0510日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 15:37:31.14
>>508
大山祇は元は遠賀川流域(古代出雲=豊国)が本貫でしょうね。
西に筑紫がいるので、大山祇は東へ進出したわけです。

筑紫天神族と婚姻を繰り返してお互い協力したのはいいものの、
筑紫で政争が起きるたびに巻き込まれて、領土を筑紫倭国へと組み込まれていった、
ということでしょう。

大山祇が伊予までに見えるのは、
大山祇女王国として独立していたのは大国主との戦争までだからで、
(銅剣分布域)
その後は大山祇系列の部族として、相変わらず東方開拓をしていたのでしょう。
大山祇の系譜である様々な神や部族がそれですね。

大山祇一族は最後の最後は畿内に独自国を作ったかもしれませんが、

失脚した大国主末裔が関東方面に入り、
愛知県まで先に分布してしまっていたので、

倭国乱で狗奴国側について敗北した時点で
大山祇末裔の独立可能性は断たれ、
あとは邪馬台国系倭国に吸収されてしまいます。
0511日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 15:48:51.53
九州における大国主の系譜は木花咲耶姫で早々に天孫族に吸収されていますね。
畿内においては長髄彦が倒されて実権を失ったようです。
0512日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 15:49:07.20
北部九州教の信者が読経してるな
0513日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 15:49:38.59
違った。
大国主ではなく大山祇。
0514日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 15:50:08.13
>>512
畿内説論者は何も語ることができない。
哀れだ。
0515日本@名無史さん垢版2018/06/23(土) 16:18:29.73
>>511

想像だけではだめですよ。  根拠がないと。  @阿波 
0516日本@名無史さん垢版2018/06/26(火) 22:42:22.23
出土分布が極端に偏っている地域というのは示唆的なわけです。

たとえば阿波です。
銅鐸は沢山出土していますが、
祭祀型武器は銅剣だけで、銅矛も銅戈も出土していません。

北部九州説なら、説明ができます。

神代出雲(=豊国日本海沿岸)出身の大山祇一族が瀬戸内沿岸の開発に乗り出した。
西の大分や愛媛などに拠点を置いているので、
東に突出して、畿内大阪湾石剣部族と海を隔てて面する阿波の最前線集落には、
Jアラート=銅鐸を配備した。

だから同じ四国の瀬戸内沿岸でも
東の徳島には銅鐸があって、
西の愛媛には銅鐸が無い。

愛媛の銅剣集落群は、大山祇一族の瀬戸内拠点だったわけですね。
攻める側だから、銅鐸は必要ないわけです。
0517日本@名無史さん垢版2018/06/26(火) 22:43:30.03
中広型銅矛大国主と、大山祇女王八上姫が、夫婦喧嘩の銅矛銅剣戦争をおっぱじめたので、
中広型銅矛祭祀に対抗して、瀬戸内大山祇は平型銅剣祭祀を始めた。
戦国武将の旗印みたいなものです。
敵味方の識別のために軍舟の舳先にでも掲げていたのでしょう。

出撃前に2本並べて戦勝祈願を行って1本埋納し、
勝利占領したら、勝利祈念式典を行って、もう1本を占領地に埋納します。
鳥居の原型ですね。

阿波に銅矛が出土しないのはなぜか?

瀬戸内平型銅剣分布域というのは、大山祇女王の八上姫が統率する独立国家だったからです。

愛媛あるいは兵庫かもしれませんが、銅鐸の無い場所が拠点。
激しい戦いの末に、愛媛は占領される=愛媛に中広型銅矛埋納
中広型銅矛が淡路島に上陸=瀬戸内沿岸の制海権を中広型銅矛に奪われる

結果、大山祇女王国は全面降伏して、
日本海側の大山祇拠点だった島根荒神谷遺跡で降伏調印式を行ったわけです。

八上姫が降伏したら、八上姫の領土は全て降伏するわけですから、
阿波を中広型銅矛軍が直接攻撃=中広型銅矛を埋納、することはなく、
自動的に阿波も中広型銅矛の支配下に入ったわけですね。

日本政府が降伏してGHQが東京にやって来たら、
自動的に日本全土がGHQの支配下に入ったのと同じことです。

だから愛媛には銅矛が出土するのに、阿波には出土しない。
出土する必要が無いわけです。
0518日本@名無史さん垢版2018/06/26(火) 22:45:50.80
阿波は海を挟んで大阪湾と向かい合っているのに、
銅鐸はあるのに銅戈は出ない。

これも北部九州説なら説明がつきます。

中広型銅矛大国主が筑紫で失脚して、
銅戈饒速日が大阪湾攻略を開始します。

愛媛や阿波は大国主と八上姫の夫婦喧嘩の結果、
既に北部九州倭国の支配下に入っているので、
新たに銅戈が占領して勝利の埋納をする必要が無い。
だから出土しないわけです。

また、出土しないことから逆に、出陣式も行われていない。

瀬戸内沿岸には、大阪湾上陸作戦に出陣できるような軍隊は当時存在せず、
九州の銅戈埋納地から饒速日軍が出陣したか、
あるいは
畿内の銅戈埋納地から大山祇軍が出陣したか、
ということですね。
0519日本@名無史さん垢版2018/06/26(火) 23:02:06.61
大山祇の活動を四国瀬戸内沿岸だけ見てみると、

紀元前3世紀〜1世紀
 愛媛を拠点にして、瀬戸内沿岸を開発
 西の淡路島、徳島にはJアラート=銅鐸配備

1世紀早期
 中広型銅矛と戦争
 平型銅剣祭祀
 筑紫との物量差は大きく、短期間で決着がついたので、
 西に銅鐸配備して睨み合うような時期はなかった
 青銅原料があっという間に尽きて、土製祭祀銅剣や木製矛

1世紀前半以降
 高地性集落を建設して炭を作り、淡路島鉄工所へ供給
 大国主失脚までは嫌々ながら
 大国主失脚後は饒速日と協力的に
 木材&炭供給をしているのだから、大阪湾攻略戦への兵員供給免除
0520日本@名無史さん垢版2018/06/26(火) 23:07:21.31
紀元前3世紀〜1世紀
 愛媛を拠点にして、瀬戸内沿岸を開発
 西の淡路島、徳島にはJアラート=銅鐸配備

紀元前3世紀〜1世紀
 愛媛を拠点にして、瀬戸内沿岸を開発
 「東」の淡路島、徳島にはJアラート=銅鐸配備


ずっと上の>>488でも猿田彦が「西」から出迎える、ですね、
あちこち間違えてすみません。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)
0521日本@名無史さん垢版2018/06/27(水) 01:01:13.69
コノハナサクヤ姫について書いたと思っていて、書いていませんでした。

天孫降臨したニニギが、
笠沙の岬で出会ったコノハナサクヤ姫と結婚して、
一夜を共にする。
一夜を共にしただけなのに、コノハナサクヤ姫が妊娠したと言うので、
国津神との子供じゃないのかと疑いをかけるわけですね。

これは妙な話ですよね。
国津神のトップであるオオクニヌシが討たれて、
それから天孫降臨して、
支配者となったニニギの后なわけです。

天神と大山祇の娘で、しかも、
大王ニニギの后に手を出す国津神なんてありえないわけです。
嫌疑だけでも討たれるレベルですよね。

つまりこれは、
まだ国津神が勢力を持っていて、
天神族の娘に夜這いをかけてもおかしくないような時代が、
女性が妊娠出産しうる10ヶ月のうちにあった、

オオクニヌシが失脚したのは、
コノハナサクヤ姫が妊娠を報告した時から、
10ヶ月以内だった、ということですね。
0522日本@名無史さん垢版2018/06/27(水) 01:02:59.08
そしてオシホミミについてですが、
最初はアマテラスからオシホミミに葦原中国を治めるよう命令が下り、
天の浮橋から葦原中国を覗いてみたところ、
葦原中国は大変騒がしくて手に負えない、と言って断るわけですね。

そしてすったもんだの末に、
出雲(なぜか出雲にいる)のオオクニヌシが討たれて、
再度オシホミミに命が下ると、
すったもんだの間に、子のニニギが生まれたので、ニニギを降臨させましょう、
ということになるわけです。

降臨したニニギが結婚した相手に、
国津神との子供じゃないのかと疑いをかけるということは、
オオクニヌシの失脚から、ニニギが結婚するまでは10ヶ月以内なわけですから、
ニニギが生まれたというのは、
ニニギが元服したということであり、
(古代の子供は幽体であり、成人して初めて人間となる)
古代の元服は12-15歳。

后を娶って子作りをして、一人前の男として后に嫌疑までかけるからには、
結婚した時には15歳と考えられるわけです。

神話からは、
ああ、オオクニヌシ失脚からコノハナサクヤ姫妊娠までは10ヶ月以内ね、
その間にニニギは15歳になったのね、
というだけの話ですが、
北部九州説だと考古学に投影できるわけです。
0523日本@名無史さん垢版2018/06/27(水) 01:06:11.51
紀元前に吉武高木王(初代アマテラス)が田熊石畑遺跡(初代スサノオ)を派遣して
日本海沿岸を制圧。(丹後扇谷遺跡の長期運営)

紀元0年前後に那珂川流域が振興してきて、
上流の高級住宅地・須久岡本から中広型銅矛王(オオクニヌシ)を輩出。

中広型銅矛王(オオクニヌシ)は、 平型銅剣女王(ヤガミヒメ)を裏切ってスサノオに就任し、
夫婦喧嘩の末に平型銅剣女王国(旧出雲・新出雲・瀬戸内沿岸)を降伏させて占領。

中広型銅矛王(オオクニヌシ)は 那珂川流域の人口爆発・工房乱立を抑制できず、
森林長官のスクナヒコナが死去すると、敵対するオオヤマツミは助けてくれず、
領内の森林荒廃。

中広型銅矛王(オオクニヌシ)はスサノオ将軍職に満足せず、
アマテラス就任を希望するが、天神族から許可が下りず、
漢皇帝に朝貢して金印入手。
漢使来訪(57年)のため福岡県道49号線沿いを整備するのに領内木材を大量緊急伐採。
57-58年の普通レベルの豪雨で土石流発生。続いて疫病発生。

荒廃した福岡平野から須久岡本の中広型銅矛王(オオクニヌシ)は古代出雲の宗像へ脱出。
早良平野から旧伊都吉武の天神族は新伊都糸島へ脱出。

立岩遺跡(オシホミミ)は天の浮橋=海の中道から、那珂川流域を見渡したところ、
被災民と疫病人で阿鼻叫喚の有様で、
これはヤバイだろうと引き返した。

自領の兵力が消失した中広型銅矛王(オオクニヌシ)を、
越後のタケミナカタなどが救援に来る前に、
筑紫天神族が出兵して制圧。だから勝負が早かった。

立岩遺跡(オシホミミ)は自らは立たず、息子のニニギ(三雲南小路1号墓)を推薦擁立。
ニニギ(三雲南小路1号墓)は、笠沙の岬(柏崎)のコノハナサクヤ(三雲南小路2号墓)と結婚。
0524日本@名無史さん垢版2018/06/27(水) 01:08:39.32
文献と、北部九州説を、考古学に投影すると、

大集落と工房群が密集していた那珂川流域の須久岡本王が、
金印授与のために無理に無理を重ねて森林乱伐して、洪水疫病を起こして自滅した。

自滅してからは、東の古代出雲の宗像へ避難したのだから、
西にある唐津の柏崎の姫にちょっかいを出せたはずが無く、

三雲南小路1号墓王が15歳で吉武から三雲に遷都して
柏崎の姫と結婚するのは、
古代出雲で須久岡本王が討たれた時より前の、
那珂川洪水から10ヶ月以内。
0525日本@名無史さん垢版2018/06/27(水) 01:11:37.90
比恵那珂遺跡の洪水層の上=57・58年より前
比恵那珂遺跡の洪水層の下=57・58年より後

吉武宮殿の政治的利用期間は57まで
三雲が倭国首都となったのは、58年
(三国志東夷伝倭人条と合致)

三雲南小路1号墓王は58年に約15歳で倭国王に就任。
妻の三雲南小路2号墓王妃は柏崎遺跡の姫で、父は吉武王の男系、母は豊国大山祇の女系

三雲南小路1号墓王は43年頃生まれ
その長男は58-59年生まれ

三男は3つ子同時出産と考えるなら、同じく58-59年生まれ。
(この場合、107年師升は三雲南小路1号墓の孫)
火事伝記を生まれについての夫婦喧嘩のごたごたと考えるなら、生まれはもっと後になる。
(この場合、107年師升は三雲南小路1号墓の三男)

中広型銅矛は57年より前
祭祀型銅戈は58年より後

58+70-80=122-138、がXデー
0526日本@名無史さん垢版2018/06/27(水) 01:39:52.28
邇邇芸は降臨した時は子供用の着ぐるみに包まれた幼児。
木花咲耶姫との婚姻は10年は後でしょう。
それに弥生時代の通い婚なので、通わなかった他の日に他の男(自分の一族以外は全員が国津神)が通わなかった保証はない。
後世の入内を想像してはいけない。
0527日本@名無史さん垢版2018/06/27(水) 02:08:31.28
平定された天孫族が支配する世の中で
国津神が、
天神族のしかも大王の后になるほどの貴族女性に通うことはありえません。

大王の后が一夜で妊娠しただけで疑いをかけること自体も異常だし、
その相手が10年前に平定された国津神と疑うことも異常なわけです。
せめて疑うなら、他の天神族であるはずなわけですね。

それがいきなり国津神を疑うというのは、
大国主=葦原色許男神
もしくはその一族が、
失脚前には各地の貴族女性に181柱の子供を産ませまくったからです。
0528日本@名無史さん垢版2018/06/27(水) 02:10:44.45
天孫族が支配する世の中で
平定された国津神が、
天神族のしかも大王の后になるほどの貴族女性に通うことはありえません。

大王の后が一夜で妊娠しただけで疑いをかけること自体も異常だし、
その相手が10年前に平定された国津神と疑うことも異常なわけです。
せめて疑うなら、他の天神族であるはずなわけですね。

それがいきなり国津神を疑うというのは、
大国主=葦原色許男神
もしくはその一族が、
失脚前には各地の貴族女性に181柱の子供を産ませまくったからです。
0529日本@名無史さん垢版2018/06/27(水) 02:17:32.09
>自分の一族以外は全員が国津神

天津神と国津神を対比すると、
あたかもそのような錯覚を覚えますが、
それも妙なわけですね。

そもそもは、天津神が大山祇と婚姻を結んで
八岐大蛇を成敗したわけです。
大三島の大山祇総本社は天津神仕様ですね。

後から大国主が現れるわけですから、国津神のほうが遅い。

天津神の世界に、大国主が現れて、いろいろ頑張ったけれども、
ある日失脚して、結局は天津神がニニギを大王に立てた。
と読むのも一理あるわけです。
0530日本@名無史さん垢版2018/06/27(水) 06:19:45.16
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】

徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。   @阿波

【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】   
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47852915.html?__ysp=44CM5YWr6Ym%2B56We56S%2B44CN44CR 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)
0531日本@名無史さん垢版2018/06/27(水) 07:29:51.10
>>529
>後から大国主が現れるわけですから、国津神のほうが遅い。

天津神の一族以外はすべて国津神です。
大国主の系統だけでが国津神はありません。
なので、天孫が即位しても、多数の国津神がいたわけです。
邇邇芸のセリフは、「何処の馬の骨とも知れない男の子だろう」程度の意味です。
そもそも木花咲耶姫と一夜しか関係を持っていない点も、入内ではなく、通い婚であったことを示唆しています。
何しろ弥生時代の当時は王族でさえも小さな高床建物に一人一人住んでいたはずです。

>>528
>大国主=葦原色許男神
>失脚前には各地の貴族女性に181柱の子供を産ませまくったからです。

これは、大国主の名前に複数の人物が集合されているせいもあります。
あと、貴族という身分制度はなく、各地の環濠集落の首長くらいがほとんどかと思います。
0532日本@名無史さん垢版2018/06/27(水) 07:50:41.54
>>531
記紀の解釈だけでは説得力に欠けますよ。
記紀に沿った物証が伴わなければ、単なる妄想。  @阿波
0533日本@名無史さん垢版2018/06/30(土) 18:19:25.58
唐津=笠沙岬
新伊都=筑紫の日向=糸島平野
旧伊都=高天原=早良平野
葦原那珂津国=福岡平野(板付遺跡)

古代出雲=豊前の日本海沿岸
出雲(筑紫倭人にとっての東隣り倭種地域)は時代と共に東へと移動

超古代出雲=宗像など遠賀川より西
超古代伯耆=遠賀川より東

稲場=鐘崎
0534日本@名無史さん垢版2018/06/30(土) 18:20:40.62
山鹿貝塚から出土した巫女指導者の遺体からは、
「埋葬後」に骨が抜き取られていたことがわかっています。

宗教的な理由から、遺体に刃物を入れて傷つけることが良しとされず、
一旦埋葬して時間をおいて遺体が腐乱して柔らかく溶けてから、
神職者が荘厳な儀式とともに墓を開けて、
素手でそっと骨を抜き取ったのでしょう。

身に着けていた装飾品などは荒らされていませんから、
神聖なる宗教的儀式であって、
抜き取った骨は、神事における神器、お守りなどに使われていたと考えられています。

以上が考古学的にわかっているわけですが、
記紀にありますよね。
0535日本@名無史さん垢版2018/06/30(土) 18:21:26.68
イザナギはイザナミの遺体を出雲の国境に埋葬します。
出雲と伯耆の国境ということですから、
超古代は、豊国の日本海沿岸のうち、
葦原那珂津国の東隣り、宗像など遠賀川より西が、超古代出雲。
遠賀川より東が、超古代伯耆だったと考えられます。

山鹿貝塚もその辺りですから、
イザナミは縄文時代から続く遠賀川流域を中心とする
豊国縄文人国家の巫女女王で、
生まれ故郷の聖地に埋葬されたのでしょう。

国家を想定する理由は、
イザナミご遺体からの骨取り神事を覗いたイザナギを、
八雷神部族全部が追いかけたからです。

部族がバラバラなら、イザナミの部族だけが追いかけてくるはずです。
カモさんの先祖がここに入っているので、そういうことなのですね。
豊国日本海沿岸の河川のどれかが出身流域でしょう。
0536日本@名無史さん垢版2018/06/30(土) 18:22:18.67
亡き妻を一目見たいと思って覗き見したものの、
変わり果てた姿に驚いて声を上げてしまった。
イザナギは葦原那珂津国に逃げ込んで、岩で蓋をするわけです。

神様なのですから、高天原に逃げ込むかと思いきや、
葦原那珂津国です。
つまりイザナギは福岡平野も領有していたわけです。
筑紫イザナギと、豊国出雲イザナミですね。

イザナミは豊国出雲出身の巫女なので、死後は骨取り神事が待っている。
そんな姿を夫に見られたくないという個人的な理由もあったでしょうけれども、
骨取り神事は、限られた神職と一族関係者しか見てはいけない、
という出雲部族での宗教的ルールがあったのでしょうね。

部外者に見られたら、大いなる祟りがある、ということだったのでしょう。

古代人にとって祟りは本当に存在します。
禁を犯して、その後に病気になった時、大雨あるいは日照りになった時、
それは古代人にとっては祟りです。

だから怒って全部族総出で追いかけてきたわけですね。
0537日本@名無史さん垢版2018/06/30(土) 18:23:15.83
出雲イザナミは超古代出雲と超古代伯耆の間、おそらく遠賀川河口周囲にあった、
山鹿貝塚近傍の聖地に骨取り神事のため葬られました。

一方のイザナギは、葦原那珂津国ではなく、
筑紫の日向まで移動してから禊をします。

つまり、筑紫イザナギにとっての、祓いをする聖地は、
筑紫の日向にあった、ということです。
超古代から聖地だったので、筑紫の日向=伊都の官は、禰宜に通じる爾支なわけですね。
0538日本@名無史さん垢版2018/06/30(土) 18:23:57.95
考古学的には、
菜畑遺跡からの唐津〜糸島がイザナギ系。元は壱岐でしょうか。
山鹿貝塚からの稲作導入して、遠賀式土器を伴って稲作を全国拡散したのがイザナミ系。

時々喧嘩しながらも婚姻して、
板付遺跡からは大陸系と縄文系の双方が出土します。
甕棺墓から矛も見つかっていますね。
環濠集落ということは、
おそらくですが、壱岐〜唐津〜糸島のイザナギ系と、遠賀イザナミ系が同盟して、
北部九州の他の勢力を征服していったのでしょう。

また、縄文時代の山鹿貝塚の骨取り神事が、イザナミにつながり、
大山祇女王国までつながるということは、
遠賀式土器の人々はイザナミと同根であり、
出雲大山祇と若狭湾八岐大蛇の戦いも、大元は同じ古代出雲=豊国出身の部族同士の
日本海沿岸支配権をめぐる争いだったことになりますね。
0539日本@名無史さん垢版2018/06/30(土) 19:19:35.81
素晴らしいですね。
筑紫王家と豊国王家の姻戚関係は邇邇芸以降の代で明白ですが、それ以前のイザナギの代からの伝統であったことになります。
那珂川流域と遠賀川流域はそれぞれ独自の文化を維持したまま共存していましたが、その関係が記紀において明確に個人名とともに記録されていたことになります。
倭国の拡大とともに出雲の地名が九州から本州に移動した経過も明らかにしてあります。
矛盾がない完璧な考察だと思います。
0540日本@名無史さん垢版2018/07/01(日) 08:14:09.77
完璧な既知の外w
考古学的?

時系列的に
伊弉冉伊弉諾が2万年前〜BC1000以前
天照 大国主 BC1000
神武 BC1000〜BC600 奈良で即位
事績は創作w

遠賀川式は稲作に拘泥する必要はなく、
神武以降の山陰瀬戸内海の中国地方から東西北への広がり
しかし、BC2〜300年、九州は銅鐸時代に再度断絶する。
古墳時代への進化は九州より吉備、出雲側が先

九州については、前漢〜公孫氏との繋がりは、本州諸国とは違う
九州の豊富な考古資料が明かすが、本州側の青銅器他の史料の出自は何故謎なのか。

金印の57年九州委奴国〜247年邪馬台国 と 
300年?纏向遷都に繋がる 吉備出雲畿内勢力は、明らかに並立するが
これを、うやむやにしているのが、日本古代史の癌、邪馬台国論争である。

愚の骨頂が、いいかげん無理スンナw の九州東遷説。
で、出雲と伯耆 が 九州? 矛盾がない完璧な考察です、感動すますたwww
0541日本@名無史さん垢版2018/07/01(日) 08:35:44.22
8世紀に書かれた記紀の記述内容で3世紀の邪馬台国論争をするのは馬鹿げていますね。
0542日本@名無史さん垢版2018/07/01(日) 08:45:49.64
>>540
そんなデタラメでスカスカな年代が信じられるわけない。
0543日本@名無史さん垢版2018/07/01(日) 10:12:24.89
デタラメでスカスカな年代?

2万年前〜BC1000 氷河期〜縄文時代
弥生時代、菜畑〜板付遠賀川〜BC600東方拡大
農地、墾田の私有、領有で縄文共産制の崩壊〜核家族化、人口減少〜弥生化の過程

BC300〜 
本州 銅鐸時代、地域集落の連携、法、軍事の発達 地方王権の成立
200〜300年 中央集権〜古墳時代
九州 地域集落の発展と連携、余剰人員の東方進出? 四郡 漢の影響 青銅器時代
57年〜247年 金印〜邪馬台国時代

2〜300年 大和朝廷の関東以西統一 200〜350 半島進出百済新羅建国
4〜500年 倭の五王 南朝と半島利権交渉、540 任那割譲
600年 北朝、隋唐成立 660 百済滅亡

中国史、半島史、考古学に比定可能な、この時系列は実在であって
記紀の天皇年号による、無理無理、創作事績は全く当てはめる必要が無い。

神功皇后記に卑弥呼の朝貢の史実が併記されるが年代と事績の一致は無い。
銅鐸時代と倭の五王時代を知らない。 記紀の限界は500年。 
中国が南朝による統一であれば、倭の五王は歴史化したかもしれない。
白村江海戦は、朝鮮半島38度線を日本と南朝の隋唐?で分断したかもしれないwww

しかし、これ、スカスカが正解。
0544日本@名無史さん垢版2018/07/01(日) 17:03:56.26
>>543
妄想年表w
0545日本@名無史さん垢版2018/07/06(金) 19:24:16.26
蛆の集る遺体に八雷神というのが落差が大きすぎて違和感があったのですが、
山鹿貝塚で謎が解けましたね。

逆に山鹿貝塚の巫女指導者の骨があちこち抜き取られているのも、
説話で謎が解けましたね。

縄文時代から続いていた風習。
弥生時代に入る頃には、
古代出雲(超古代出雲+超古代伯耆、豊国の日本海沿岸)には8部族がいて、
巫女指導者を頂いて結束していた。

巫女指導者が無くなると、骨取り神事が行われる。
8部族がそれぞれ骨を取る部位を決めた上で、神事を開始。
一度埋葬したのを掘り返すから、蛆はいても、蠅は飛んでいない。

最も腐敗が進んでいる部位
=最も早く来世へと生まれ変わる部位
=その部位の骨を担当する部族に、「次の巫女指導者が転生する」
ダライ・ラマに似ていますね。

古代豊国の、縄文文化を色濃く受け継いだ風習を、
壱岐対馬経由で海外と通じた先進的な部族が見ると、
ギリシャ出身の小泉八雲が日本を「死者の支配する国」と捉えたのと同じように
「黄泉の国」と惧れを感じたのでしょうね。
0546日本@名無史さん垢版2018/07/08(日) 12:22:03.53
>>544
>山鹿貝塚で謎が解けましたね

>>545
>8部族がそれぞれ骨を取る部位を決めた上で、神事を開始

8部族って、具体的には?
0547日本@名無史さん垢版2018/07/12(木) 13:48:32.92
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

WFM
0548日本@名無史さん垢版2018/07/14(土) 00:43:15.90
アゲ
0549日本@名無史さん垢版2018/07/16(月) 20:06:34.59
このスレもすぐ過疎るなぁ

まあ、伊都国説に興味のあるやつも、そうそういないかw
0551日本@名無史さん垢版2018/07/17(火) 10:01:39.60
>>550
>議論の余地もなく鉄板だからだよ。

そうだね
伊都国と邪馬台国が別に書いてあるのを無視しないと成り立たない時点で、
九州説の中でも雑魚中の雑魚だしw

議論の余地もなく、「鉄板のトンデモ」だから、誰も興味を持ちゃしないww
0552日本@名無史さん垢版2018/07/17(火) 18:39:16.96
>>551
代案を示したいなら、
まずは奴国の3倍以上の人口のある国をみつけてからだな

もちろん、文化的に発展していないと話にならない。邪馬台国は「都」なんだから

伊都説は考古学的には問題無い説なのが大きい
0553日本@名無史さん垢版2018/07/18(水) 14:57:06.95
>>552
>伊都説は考古学的には問題無い説なのが大きい

どこが?
自分で自分を否定するのがマイブームなの?

>まずは奴国の3倍以上の人口のある国をみつけてからだな

伊都国の人口はたったの「有千餘戸」だぞ?

伊都国説推しには、クズしかいないのかな?
0554日本@名無史さん垢版2018/07/18(水) 16:49:03.07
邪馬台国は博多湾沿岸の総称で、魏志倭人伝では伊都国、奴国、不弥国から構成されるのだろう。
0555日本@名無史さん垢版2018/07/18(水) 17:01:33.65
>>554
>邪馬台国は博多湾沿岸の総称で

それにしては、遺跡がお粗末だね。  邪馬台国が泣いてるよ。  @阿波
0556日本@名無史さん垢版2018/07/18(水) 19:13:09.32
もうオレはジジイなんでなんとか
生きてるうちに邪馬台国の場所を確定してほしい。
九州でも機内でもアワでも構わん。

頼むから確定してくれ。
0557日本@名無史さん垢版2018/07/18(水) 19:18:58.58
>>554
>邪馬台国は博多湾沿岸の総称で、魏志倭人伝では伊都国、奴国、不弥国から構成されるのだろう。

伊都国 有千餘戸
奴国  有二萬餘戸
不彌国 有千餘家

全部合わせても、二万二千余にしかならないよ

>>552の「まずは奴国の3倍以上の人口のある国をみつけてからだな 」は
どこに行ったんだ?

その場しのぎがしのげてないぞww
0558日本@名無史さん垢版2018/07/18(水) 19:19:54.99
>>556
>頼むから確定してくれ。

畿内で事実上確定してるから安心してw
村おこしその他に気を使っているだけだから
0559日本@名無史さん垢版2018/07/18(水) 20:38:44.48
邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている

1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

斯馬国〜-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算
0560日本@名無史さん垢版2018/07/18(水) 20:45:31.06
>>556
>頼むから確定してくれ。

「其山有丹」でとっくに確定済み。 だって、倭国(阿波)しか該当しないでしょ。  @阿波
0561日本@名無史さん垢版2018/07/18(水) 22:58:23.71
>>553
罵倒だけでは意味が無いな。
3世紀前半で考古学的に奴国の3倍以上の国がありそうな所をまず上げてくれないか?
0562日本@名無史さん垢版2018/07/18(水) 23:11:22.59
横だけど
・備中(津寺遺跡とか)
・出雲(青木遺跡とか)
・河内(久宝寺遺跡とか)
0563562垢版2018/07/18(水) 23:26:21.14
↑にあげてる遺跡名はおおまかな場所を探しやすくするためのもので、
必ずしも中心集落というつもりではないので、念のため
0564周髀算經の記述内容はBC1120年頃には成立していた垢版2018/07/19(木) 03:12:33.11
>>556
>もうオレはジジイなんでなんとか
>生きてるうちに邪馬台国の場所を確定してほしい。

邪馬台国は「官」1名「次官」3名の4名によって統治されている連合国だ。
其々の官の統治地域は、小郡 朝倉(浮羽) 三瀦 八女である。
擁立された卑弥呼はそれら4地域の中心地である久留米の城柵を都とした。

矢部川以南が邪馬台国と対立している狗奴国であることから、
(矢部川南岸以南は岩壁に岩穴を掘る横穴墓文化地域)
邪馬台国の官伊支馬の統治地域は八女である。
0565日本@名無史さん垢版2018/07/19(木) 08:16:41.98
>>561
>3世紀前半で考古学的に奴国の3倍以上の国がありそうな所をまず上げてくれないか?

※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地

【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡  @阿波
0566日本@名無史さん垢版2018/07/19(木) 08:25:09.85
前の男王までは倭は筑紫(筑前)だけだったが、卑弥呼の時に肥国も参加して、卑弥呼は肥国から倭国全体の女王に共立されたのだと思う。
でもあくまでも倭としての王都は伊都だったので、卑弥呼は伊都またはそのすぐ近くにいたはず。
0567日本@名無史さん垢版2018/07/19(木) 08:26:57.60
>>566
妄想はもういいから。  @阿波
0568日本@名無史さん垢版2018/07/19(木) 16:57:22.24
>3世紀前半で考古学的に奴国の3倍以上の国がありそうな所をまず上げてくれないか?

奴国の領域
佐賀平野中部西部・・・2万戸8万人

邪馬台国の領域
北野地域(筑後川中流平野)+筑後平野東部(内陸部)・・・7万戸28万人
0569日本@名無史さん垢版2018/07/19(木) 19:29:53.52
>>568
妄想はもういいから。  @阿波
0570日本@名無史さん垢版2018/07/20(金) 02:30:47.39
妄想は誰だ?  

 アワ ワワワー 阿波
0571日本@名無史さん垢版2018/07/22(日) 08:45:08.22
>>546
古代出雲=豊国の女王は8部族による「共立女王」だったわけですね。
そして実子相続ではない。
これが縄文から暮らしていた豊国を中心とする人々のしきたりだったとすると、
卑弥呼→宗女台与を共立した勢力というのも、古代出雲系の人々だったことになります。

人口比率としては
早くから遠賀式土器と共に東方へ入植していった
古代出雲系の人々が最多だったでしょうから、
天神族など甕棺墓エリートによる専制政治に対しての何らかの社会変革があったのでしょう。
三雲男王と、平原卑弥呼とは、親族であっても直列ではない可能性が高いでしょうね。

大山祇は銅戈将軍と一緒に瀬戸内〜畿内開発をしていたわけですから、
倭国乱では狗奴国側だったことになります。
しかし大山祇系の人々というのは広範囲にいるわけで、
邪馬台国側においても大山祇系の人々が活躍していたわけですね。
保元・平治の乱のような状況だったのでしょう。
0572日本@名無史さん垢版2018/07/22(日) 08:48:34.71
八雷神は神産みと関係なく元々存在していたわけです。
八山津見神と建御雷神がカグツチから産まれます。
八岐大蛇も元は古代出雲(豊国)と同根。
八上姫は古代出雲・新出雲(島根)旧伊勢(滋賀)瀬戸内沿岸(淡路島まで)を領有。
八咫鏡を作ったのは旧伊勢の熊野本遺跡出身の猿田彦一族。大山祇系の荘園お抱えの工人。

八上姫が対銅矛戦争で使用した旗印が平型銅剣。
降伏時に武装解除して献上したのが大量の武器銅剣。

逆に銅矛有力者が失脚した時の制圧軍の大将が、建御雷神で、使用武器は剣。

八、雷、剣。
0573日本@名無史さん垢版2018/07/22(日) 09:14:23.21
国津神は女系継承なんだよ。
実子相続ではないわけではない。
0574日本@名無史さん垢版2018/07/22(日) 09:22:49.01
実子相続ではない。というのは、
実子には相続させないという意味では無いですよ。
条件さえ合えば実子相続となる場合もあるでしょう。

大国主は女系継承ではありませんよね。
0575日本@名無史さん垢版2018/07/22(日) 09:31:21.59
大国主は婿養子だから、女系継承だよ。
スサノオにいびられていた話があったろ。
0577日本@名無史さん垢版2018/07/22(日) 09:44:59.02
出雲王朝だろ。
0578日本@名無史さん垢版2018/07/22(日) 10:11:12.74
直列ではない。
文身で身分や出身地が一目で分かる。人前に出ない。
同一資料にて委奴国王と倭国王は区別されている。
倭王であって倭国王ではなかった?
0579日本@名無史さん垢版2018/07/22(日) 11:14:05.74
倭王と倭国王は同じだよ。
0580日本@名無史さん垢版2018/07/29(日) 04:57:15.25
スサノオは新羅
スは須恵器からも分かるように、金属を意味してた
新羅の「し」もスから来ていて金属由来
つまり新羅とは金属もっと言えば鉄の国と言う意味

邪馬台国は筑紫にあった
古来、あの地域を筑紫と呼んでた
0583日本@名無史さん垢版2018/07/30(月) 18:13:32.22
言い回しの揺らぎ。

旧唐書

倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
0585日本@名無史さん垢版2018/07/31(火) 21:58:25.70
されてないね。
倭国=筑紫=倭奴国=伊都国だ。
0586日本@名無史さん垢版2018/08/03(金) 11:10:35.30
>>585
>倭国=筑紫=倭奴国=伊都国だ。

× 倭国=筑紫
○ 倭国=倭人の国 時代によって異なる
0587日本@名無史さん垢版2018/08/03(金) 14:27:35.59
倭人の土地は倭地だが、倭国ではない本州(邪馬台国から東に渡海したところ)を含んでしまう。
魏志倭人伝では倭国=邪馬台国とは区別されている。
0588日本@名無史さん垢版2018/08/03(金) 18:44:12.62
>>587
>倭国=邪馬台国

これは明確に間違い
倭国の中の、女王の都するところの地名が邪馬台国

そして、倭地の中で女王の共立に参加した範囲が女王国であり、倭国
0589日本@名無史さん垢版2018/08/03(金) 18:48:09.89
ただ、混乱を招きやすいのが、女王国が多義的に使われているところ

女王国=共立連合=倭国で大体書いてあるんだけれど、
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」
「自女王國以北特置一大率檢察諸國」
の2ヶ所は、女王国=邪馬台国になっている

女王国=倭国で
女王国=邪馬台国なら
倭国=邪馬台国にしたくなるけれど、
「邪馬台国=『女王国』」≠「『女王国』=共立連合=倭国」
という関係になっている
0590日本@名無史さん垢版2018/08/03(金) 19:51:45.84
対馬海峡が女王国の北とあるので、女王国は筑紫くらいの範囲に思える。
0591日本@名無史さん垢版2018/08/03(金) 20:07:57.55
>>590
正解
0592日本@名無史さん垢版2018/08/04(土) 13:35:57.82
>>590
>対馬海峡が女王国の北とあるので、女王国は筑紫くらいの範囲に思える。

狗邪韓国も不彌国も投馬国も、女王国の北なんだよ
女王国を筑紫にしてしまうと、投馬国が入る余地がない

女王国=倭国の意味の時には、もっと広く取らないと破綻する
0593日本@名無史さん垢版2018/08/04(土) 13:42:45.69
投馬国は宮崎都万。
いい加減にしつこいぞ。
0594日本@名無史さん垢版2018/08/04(土) 14:05:09.57
>>593
>投馬国は宮崎都万。
>いい加減にしつこいぞ。

だから、それだと、女王国より北にならないでしょ?
0595日本@名無史さん垢版2018/08/04(土) 14:18:10.53
投馬国の方が帯方郡からの日程が長いよ。
0596日本@名無史さん垢版2018/08/04(土) 14:46:11.09
>>595
>投馬国の方が帯方郡からの日程が長いよ

つまり、そう読んではだめだってことだ
水行の起点は帯方郡ではない

南へ行くだけで着いたら、倭人在帶方「東南」大海之中とも矛盾するし、
不彌国までの行程で、いくらか東に行った後、そこから南へ行かないと
「魏志倭人伝の中で話が合わない」
0597日本@名無史さん垢版2018/08/04(土) 15:29:00.35
ここまでのまとめ=邪馬台国は畿内に在った
0598日本@名無史さん垢版2018/08/04(土) 17:04:22.77
>>596
>つまり、そう読んではだめだってことだ

だから、投馬国が邪馬台国より北にあると考えると矛盾だらけになるんだよ。
0599日本@名無史さん垢版2018/08/04(土) 17:05:22.45
>>596
>不彌国までの行程で、いくらか東に行った後、そこから南へ行かないと

投馬国へは陸行がないのだから、上陸せずに海路を行くんだよ。
0600日本@名無史さん垢版2018/08/05(日) 07:40:43.35
>>599
不彌國、玄界灘沿岸から水行して、投馬国の海岸に着くだけだろ?
陸行など入らない
0601日本@名無史さん垢版2018/08/05(日) 07:57:34.35
不弥国まで陸行しているじゃないか。
それはおかしい。
筑紫に上陸せずに南に水行して宮崎だよ。
0602日本@名無史さん垢版2018/08/05(日) 16:16:55.10
>>601
>不弥国まで陸行しているじゃないか。

何を言ってるんだい?
普通に順次式で、不彌国から先が水行だけで陸行を含まないってだけだぞ?

魏使倭人伝の旅程記事、と言っているものは、地理・旅程記事であって、
倭国の地理の紹介も兼ねているから、実際の魏使の行程そのものを
記している訳ではない

途中で陸行が入るのがおかしいと言い出すなら、そもそも末慮国による必要はない
末慮国の位置を示すために、壱岐ー末慮ー伊都という行程で示してあるだけ
0603日本@名無史さん垢版2018/08/05(日) 18:16:07.78
投馬国の位置

投馬国は帯方郡から水行二十日で陸行はない。
水行二十日のルートは、
帯方郡→一支國→平戸島→西海→角力灘→天草灘→
→島原湾→有明海→有明海東岸(投馬國)

平戸島まで水行10日、
平戸島から九州西部海岸をぐるっと回って有明海東岸まで水行10日、
帯方郡から有明海東岸の投馬國まで合計水行20日。

九州西部海岸は潮流も速く(潮待ち時間が長い)風も強く(風待ち 逆風の時は進めない)、
波除け板だけの古代半構造船では、
1日に航海できる距離は平均20kmが限度である。
0604日本@名無史さん垢版2018/08/05(日) 19:07:54.12
遣唐使船が九州から直接上海に行くルートでは
距離千キロに対して平均20日ほど。
特に寄れる島などもないから、交代
して24時間航行を続けるしかない。

一日50kmなので一時間あたり2キロちょっと。
0605日本@名無史さん垢版2018/08/05(日) 19:11:16.59
朝鮮半島経由なら、壱岐、対馬、朝鮮半島と
随時休息が取れるだろうから
夜間は航行しなくて済む。

一日20km程度なら妥当なところかな。
もっと短いかもしれない。
風待ち、潮待ちも必要だからね。
0606日本@名無史さん垢版2018/08/06(月) 11:19:38.66
>>603
>帯方郡から水行二十日で陸行はない。

これがまずおかしいんだって
旅程記事の途中で、起点が振り出しに戻るような文献が他に一例でもあるなら出して欲しい

一例もないはずだよ
0607日本@名無史さん垢版2018/08/07(火) 20:07:55.14
>>606
同じ行程として読めばそうだが、日程記述に変更なるのに、直線的にただ読めばいいとは思えない

こういう場合は並列的に読む場合が多いのでね

起点がどこかは意見に違いがあるだろうが
0608日本@名無史さん垢版2018/08/10(金) 23:17:13.08
>>589
丗有王 皆統屬女王國・・・この女王國は伊都国のこと
南至邪馬壹國 女王之所都・・・この女王は卑弥呼のこと
自女王國以北 其戸數道里可得略載・・・この女王國は伊都国のこと
此女王境界所盡・・・この女王は邪馬台国のこと
其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王・・・この女王は卑弥呼のこと
自郡至女王國 萬二千餘里・・・この女王國は伊都国のこと
自女王國以北 特置一大率・・・この女王國は伊都国のこと
傳送文書 賜遣之物詣女王・・・この女王は卑弥呼のこと
女王國東渡海千餘里・・・この女王は邪馬台国のこと
去女王四千餘里・・・この女王は邪馬台国のこと 
倭女王遣大夫難升米等詣郡・・・この女王は卑弥呼のこと
詔書報倭女王 曰・・・この女王は卑弥呼のこと
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和・・・この女王は卑弥呼のこと
0609日本@名無史さん垢版2018/08/13(月) 19:40:32.31
>>607
後漢書で邪馬台国まで一万二千里と明記されているので、九州北部からさらに何ヶ月も移動しませんよ。
起点は楽浪帯方です。
0610日本@名無史さん垢版2018/08/14(火) 23:15:20.91
>>607
>直線的にただ読めばいいとは思えない

思えない、というのはただの感想ですね
根拠ではない

>こういう場合は並列的に読む場合が多いのでね

多いというなら、実例をいくつか例示してくれ
0611日本@名無史さん垢版2018/08/14(火) 23:18:50.51
>>608
>丗有王 皆統屬女王國・・・この女王國は伊都国のこと

東南陸行五百里、到伊都國。(中略)有千餘戸。世有王、皆統屬伊都國。

おかしいと思わないかね?
0612日本@名無史さん垢版2018/08/14(火) 23:23:16.21
>>609
>後漢書で邪馬台国まで一万二千里と明記されているので、

ここで既に間違い
後漢書のここのその国は、倭国であって邪馬台国ではない

>九州北部からさらに何ヶ月も移動しませんよ。

魏使倭人伝に明記されていることをかって解釈でねじ曲げちゃダメだよ

>起点は楽浪帯方です。

結論ありきで逆算してもダメ
戸数も、投馬国の位置も矛盾するだけだよ
0613日本@名無史さん垢版2018/08/14(火) 23:41:25.69
投馬国の位置が矛盾て何?
投馬国が朝鮮半島南部だとかいう謎理論?
0614日本@名無史さん垢版2018/08/15(水) 02:00:52.16
女王国は奴国だ
そして奴国は山と川を持っていた
奴国は八女〜英彦山まで横に細く長い地域
金印に書いてある通り
伊都国は渡来系の墓場
呉系か他の系統かで争っていた
0615日本@名無史さん垢版2018/08/15(水) 08:02:31.31
>>613
投馬国は戸数、道里が略載されている、女王国以北の国

宮崎都万に持っていったら、九州説の主張する博多湾付近の
邪馬台国より南になっちゃうだろ
それに南に行くだけで邪馬台国に着くなら、倭人伝冒頭の
倭人在帶方「東南」大海之中、依山島爲國邑とも矛盾する
0616日本@名無史さん垢版2018/08/15(水) 08:15:41.07
投馬国は里程が記載されていない。
帯方郡から女王国までのルート上にない。
0617日本@名無史さん垢版2018/08/15(水) 09:30:20.12
>>616
その通り、投馬国は、帯方郡から水行20日の宮崎都万だ。
航路は、
帯方郡〜末蘆国1万里10日、
末蘆国〜(九州沿岸西回り)〜宮崎都万1万里10日。
0618日本@名無史さん垢版2018/08/15(水) 09:37:50.01
>>617
>その通り、投馬国は、帯方郡から水行20日の宮崎都万だ。

冗談にしても、そりゃ手漕ぎじゃ無理だろ。  @阿波
0619日本@名無史さん垢版2018/08/15(水) 09:39:09.96
伊都クズは、頭の中身も糸クズ
0620日本@名無史さん垢版2018/08/15(水) 09:51:02.86
>>618
おまい、「時間の問題」とはなんじゃ、お盆のせいで仏心がついたのか、、、

帯方郡から末蘆国まで漕ぎ下っているのに、なんで島陰の多い九州島の西岸を漕ぎ下れぬのだ
潮の沿岸反転流を利用して下るのが当時の常道、
実際に必死で漕ぐのは川内あたりのわずかな区間よ
(ま、九州東岸の日向灘は、海岸ノッペリで潮が早すぎ、とても下れぬがな・・・)
0621日本@名無史さん垢版2018/08/15(水) 10:00:56.03
>>620
>帯方郡から末蘆国まで漕ぎ下っているのに、なんで島陰の多い九州島の西岸を漕ぎ下れぬのだ
>潮の沿岸反転流を利用して下るのが当時の常道、


そんなら、「投馬国」なんかへ行かずに、ひとっとびで「邪馬台国」へ行けば?  面倒くさい。  @阿波
0622日本@名無史さん垢版2018/08/15(水) 10:22:53.95
>>621

こういう人は、大胆な発想をするくせに、詰めが甘いんだよね。  @阿波
0623日本@名無史さん垢版2018/08/15(水) 11:18:59.56
>>621
気が利かぬやつだ
末蘆国からは二股に分かれる。
投馬国は、そのまま船で九州西岸を漕ぎ下り、10日で1万里、到る宮崎都万国の港。
邪馬台国へは、ここで上陸し、東南陸行500里で佐賀川上の伊都国官衙へ到る。
そして東行100里の不彌国へ。ここから南へひとっとび肥後邪馬台国女王之都に至る。この間2000里、ひと月の旅、
0624日本@名無史さん垢版2018/08/15(水) 11:21:57.61
>>623

相手を間違えた。  @阿波
0625日本@名無史さん垢版2018/08/15(水) 11:51:29.84
>>616-617

その通り、投馬国は、帯方郡から水行20日の有明海東岸だ。
航路は、
帯方郡〜末蘆国 水行10日、
末蘆国〜(九州沿岸西回り 早瀬瀬戸経由)〜福岡県みやま市瀬高 水行10日。
0626日本@名無史さん垢版2018/08/15(水) 12:18:59.77
>>625

そんなら、「投馬国」なんかへ行かずに、ひとっとびで「邪馬台国」へ行けば?  面倒くさい。  @阿波
0627日本@名無史さん垢版2018/08/15(水) 12:39:13.93
そうか。
関門海峡が3世紀には通過出来なかったと言われているのでどうするのかと思っていたが、九州西岸沿いに回ればいいのか。
帯方郡からだと、えんえんと南下するように見える。
納得した。
0628日本@名無史さん垢版2018/08/15(水) 12:56:37.35
>>625

末蘆国からは二股に分かれる。
投馬国は、そのまま船で九州西岸を漕ぎ下り、水行10日、到るみやま市瀬高の港。
邪馬台国へは、末蘆國で上陸し、東南陸行500里で佐賀惣座の伊都国官衙へ到る。
そして東行100里の不彌国へ。
ここから南に筑後八女の邪馬台国城柵(環濠集落)に至る。
この間陸行1月(=海行1月)1000里の道程。

邪馬台国の女王之都は、上記邪馬台国城柵(環濠集落)とは異なる。
(邪馬台国の女王之都は邪馬台国中央部にある久留米)
0629日本@名無史さん垢版2018/08/15(水) 12:57:56.42
>>626

末蘆国からは二股に分かれる。
投馬国は、そのまま船で九州西岸を漕ぎ下り、水行10日、到るみやま市瀬高の港。
邪馬台国へは、末蘆國で上陸し、東南陸行500里で佐賀惣座の伊都国官衙へ到る。
そして東行100里の不彌国へ。
ここから南に筑後八女の邪馬台国城柵(環濠集落)に至る。
この間陸行1月(=海行1月)1000里の道程。

邪馬台国の女王之都は、上記邪馬台国城柵(環濠集落)とは異なる。
(邪馬台国の女王之都は邪馬台国中央部にある久留米)
0630日本@名無史さん垢版2018/08/15(水) 19:30:28.22
>>611
伊都国の説明だからおかしくないだろ。
0631日本@名無史さん垢版2018/08/15(水) 20:33:12.61
自動詞と他動詞の区別ができとらんな
英語はゼロ点だったろうな!
0632日本@名無史さん垢版2018/08/15(水) 21:38:02.03
>>631
???
0633日本@名無史さん垢版2018/08/15(水) 21:48:37.85
世有王、皆統屬女王國。
伊都国には魏の世に王がいた、倭の国々は皆女王国に統属していた。

世有王、皆統屬伊都國。
伊都国には魏の世に王がいた、倭の国々は皆伊都国に統属していた。
0634日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 07:16:52.32
>>616
>投馬国は里程が記載されていない。
>帯方郡から女王国までのルート上にない。

魏志倭人伝に書いてあるのは「自女王國以北、其戸數『道里』可得略載」であって
『里程』ではない

『道里』は日数でも表せる

投馬国は、戸数も道里も略載されているから、女王国より北だよ
0635日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 07:53:44.67
投馬国は里程が記録されていない。
郡使が通過したルート上ではなく、邪馬台国より南と考えられる。
0636日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 07:56:54.19
>>634
日数を云うときは「旅程」だろ
0638日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 12:23:13.52
>>635
>投馬国は里程が記録されていない。
>郡使が通過したルート上ではなく、邪馬台国より南と考えられる。

戸数と日数(道里)が、両方書かれているだろ
それに、郡使のお役目として、五万戸の倭国第二の大国はきちんと見て報告する必要があるし
そのために出雲経由のルートにしたのだろう
0639日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 13:12:44.82
投馬国は日程のみで里程の記載はない。
0640日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 13:46:20.53
>名曰卑弥呼。。。
>有男弟佐治国。。。以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食伝辞出入居処。
>宮室楼観、城柵厳設、常有人持兵守衛。。。

この伊都国かどこにあったのか知らぬが、
卑弥呼が住まいしていた環濠王宮の場所を教えてくれ。婢千人というからには、それなりの規模だったはず。
0641日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 14:50:20.62
>>640英彦山
0642日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 15:05:35.08
>>641
英彦山の何処にそんな遺跡があるんだ?
0643日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 15:07:43.73
>>635
郡使が通過したルート上にないものを何で記載したんだ?
行ってもない所の情報をどうやって知ったんだ、超能力かw
0644日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 15:13:02.95
>>640

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡  @阿波
0645日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 15:25:40.32
>>644
コザコザはよろしい、黙っとれ

卑弥呼と1000人の婢が住まいしたという環濠王宮はどこだ
今宿小学校のあたりか
それとも怡土国博物館のあたりか
0646日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 17:15:18.91
>>645
発掘調査してくれ
未だ埋もれてるな。
0647日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 17:49:49.19
>>645
無茶振りしちゃ、可哀そうだろ。
そんなこと、答えられるのは倭国(阿波)だけなんだからさ。  @阿波
0648日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 17:57:31.77
>>643
投馬国の記事が挿入されたのは、それが大事な大国であったから。
0649日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 18:01:44.17
>>645
魏志倭人伝では卑弥呼の宮城を環濠集落とは表現していない。
宮城や楼閣という用語は用いられており、城郭都市ではあったのだろう。
他の九州の環濠集落とは異なり、中国式山城であった怡土城がその本体だろう。
高祖山の峰々に楼閣がつらなり、王宮は山腹の高祖宮が相当する。
詳しくは怡土城でくぐってくれ。
0650日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 18:07:21.78
>>648
>投馬国の記事が挿入されたのは、それが大事な大国であったから。


書くぐらい大事な国なら行くだろ、普通。  @阿波
0651日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 18:12:00.82
怡土城の起源は分かっていない。
記録が残っているのは8世紀以降である(九州ではなぜかよくあること)。
しかし周辺は紀元前から三種の神器を副葬された王墓が集中し、弥生文化の発祥地である。
東に福岡平野、西に糸島平野、北に博多湾があり、「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故に、 此地は甚吉き地かな」
というニニギの国見の詔によく一致する。
すなわち怡土城こそ筑紫の日向の高千穂宮であり、倭国の王都なのである。
0652日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 18:12:36.74
>>650
王都が邪馬台国なのだから、二番目の国に行く必要はない。
0653日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 18:18:59.01
>>639
>投馬国は日程のみで里程の記載はない。

だから、魏志倭人伝に書いてあるのは「道里」
勝手に「里程」に書き換えて否定しても、何の意味もない

道里は、里数でも日数でも表しうるし、実際日数で書かれている他例もある
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
0654日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 18:22:03.57
>>652
>王都が邪馬台国なのだから、二番目の国に行く必要はない。

途中に二番目の国があれば寄るだろ、普通。  @阿波
0655日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 18:24:46.16
>>653
投馬国は里程がないのだから、道「里」にはならないよ。
0656日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 18:26:59.37
>>653
その引用例はちゃんと里程が書いてあるじゃないか。
通過したところはちゃんと里程がわかるんだよ。
通過していないところは日数だけの伝聞情報となるんだ。
0657日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 18:59:30.49
>>656
>東至都護治所四千七百四十里、

この行は、東の方角と里だから、道+里程=道里である。


>西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。

この行は、西の方角と日だから、道+日程=旅程である。
0658日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 19:12:10.03
怡土城
>奈良時代の天平勝宝8年(756年)から神護景雲2年(768年)にかけて築城された中国式山城で、
文献によれば吉備真備のち佐伯今毛人が築城を担当したことが知られる。

>他の古代山城(朝鮮式山城・神籠石系山城)が飛鳥時代の天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の築城とされるのに対して、
>怡土城は、奈良時代の築城である点で特色を示すほか、文献上で築城担当者・築城期間が明らかな点、
及び他の古代山城のような朝鮮式山城でなく大陸系の中国式山城である点でも重要視される遺跡。

>>649 >>651
苦しい説明じゃのう。文献上で築城機関が特定されとるそうではないか。
明らかに時代が新しすぎるわ。
0659日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 19:18:59.92
>>653
大月氏國の位置関係を説明した文ですね
大月氏國の東4740里で都護の治所に至る
大月氏國の西49日で安息に至る
大月氏國の南はケイ賓と接している
0660日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 19:21:51.89
>>658
>>他の古代山城(朝鮮式山城・神籠石系山城)が飛鳥時代の天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の築城とされるのに対して、

これ根拠がないいい加減な説ですね、朝鮮式山城・神籠石系山城の築城時期に付いては現在も不明ですよ。
信用ならない引用だな。
0661日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 19:26:13.30
>仲哀天皇はイトテを褒めて、「いそし」と言いました。
>これから、イトテの本国を名付けて、伊蘇(いそ)の国と言うようになりました。
>今、伊都と言うのは訛っているのです。
>21日に儺県(なのあがた)に着いて、橿日の宮に居を構えました。

仲哀天皇の時代に「伊蘇(いそ)の国」と呼ぶようになり、
その後、これが訛って怡土(伊斗、伊都)などというようになったのだから、
これまた時代が新しすぎるわ。苦しいのう、、、、
0662日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 19:31:37.03
怡土は、高麗人の天の日鉾が下ったところというではないか。
なんで卑弥呼と一緒にするのか。
0663日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 19:32:48.57
奈良時代や戦国時代に築城したという記録があるだけで、いつものように7世紀以前の築城の記録が失われているだけ。
地理的条件を考えれば、ここに砦の一つも築かないわけがない。
0664日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 19:33:16.69
>>658
天平勝宝八歳(七五六)六月甲辰【廿二】》○甲辰。始築怡土城。令大宰大弐吉備朝臣真備専当其事焉。
とは書かれてるが新築なのか改築なのかは分からないですね。
0665日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 19:36:31.92
>>660
何をおっしゃる。
ウィキを参照せよととのことだったから、参照・引用してやったのに・・・、
信用できぬのはオマイら高麗人。
0666日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 19:37:00.91
>>661
神功皇后の実年代は卑弥呼より120年も後なのに、伊都の命名説話がある方がおかしい。
神功皇后の項だけはやたらと命名記事が多い。
魏志倭人伝を否定することもできないので、関連記事を捏造してミスリードを狙ったと考えられる。
逆に言えば、奈良時代の日本人は、魏志倭人伝を九州の記事だと理解していたということ。
奈良の人たちにとって、魏志倭人伝は明らかに九州の話題だった。
0667日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 19:38:30.16
>>662
天の日鉾の話はもっと後世の話。
福岡にはしばしば渡来人がやって来たというだけのこと。
0668日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 19:40:55.83
中国の史書にもしばしば筑紫城などの記事があるが、特定されていない。
福岡城のさらに下層にあったかもしれないが、筑紫の日向のクシフル山と呼ばれた高祖山であったかもしれない。
0669日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 19:44:46.72
>>668
>中国の史書にもしばしば筑紫城などの記事があるが、特定されていない。


倭国(阿波)にも「筑紫城」の謂れ、あるよ。  @阿波
0670日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 19:45:35.55
>>665
ウィキは参考にはなっても
そのまま信用はできないからね。
0671日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 19:47:06.21
>>666
ならば、何も疑われそうなねつ造記事を入れることはなかったであろう。
伊蘇の国だったなどと言わず、
最初から伊都の国でしたー、と書けば、それで万事落着したはず。
そうしなかったのは、アメノヒボコの件は真実だったから、それを欺くようなウソは書けなかったんだよ。
0672日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 19:49:05.56
高祖神社の周りをもっと年代別に発掘調査するとおもしろいかもしれない。
目の前の三雲であれだけ発見が続くくらいだからね。
ただ、いかんせん290ヘクタールは広すぎて、予算が厳しそうだ。
0673日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 19:52:00.45
そういえば、伊都城の一部とも言われる
高祖神社は神功皇后が再建したんだよね。
再建前は今の大門にあったらしい。
その大門は、伊都城の大門があったからだそうだ。
0674日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 19:53:47.68
天の日鉾も事実であったろう。
ただ、それとは別に倭国創建の説話があったということ。
卑弥呼がヤマト王権と平行する筑紫の王権だったからこそ、扱いに苦慮したんだよ。
天皇家の祖地である筑紫の日向も削れないし。
0675日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 19:57:01.88
>>673
ということは、4世紀末に伊都城を再建した記録があるということ。
3世紀中頃に魏の使いが見た楼閣は伊都城のものであった可能性がある。
使いが滞在したのは、その大門の目の前の伊都国なのだから。
0676日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 19:59:26.07
>>666
>魏志倭人伝を否定することもできないので、関連記事を捏造してミスリードを狙ったと考えられる。

こういうのを、語るに落ちる、という。

なんでミスりードをねらったんだろな。
糸島は「怡土・伊都」ですよー、ですから、倭人伝の伊都国はこのあたりだったのかもしれませんねー
と、記紀はミスリードしようとしたのです・・・、といいたいんだろ。

では聞くが、ホントの伊都国はどこにあったんだ。え、わからないってか。
そうだろな、それが明確になると困ることがあったんだよな〜。大和朝廷(と糸島市役所)は・・・。
0677日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 21:16:30.36
>>657
>この行は、東の方角と里だから、道+里程=道里である。

時々これを書くやつがいるけれど、道里の道に「方角」という意味はないぞ
「道里」で一語

例えば、《九章算術》の《均輸》に、計算問題としてこんなのが出ている
今有均輸粟:甲縣一萬戶,行道八日;乙縣九千五百戶,行道十日;
丙縣一萬二千三百五十戶,行道十三日;丁縣一萬二千二百戶,行道二十日,各到輸所。
凡四縣賦,當輸二十五萬斛,用車一萬乘。欲以「道里」遠近,戶數多少,衰出之。
問粟、車各幾何?

距離は全部日数で書かれているが、それを「道里」遠近と表現してるだろ?
日数書いてあっても、道里略載になるんだよ
0678日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 21:18:24.29
>>663
>いつものように7世紀以前の築城の記録が失われているだけ。
>地理的条件を考えれば、ここに砦の一つも築かないわけがない。

おれが、九州説が大嫌いなのは、こういうところ
結論ありきで、記録にないものを「あったはずだ」「ないわけがない」と
理由にならない理由をほざいて捏造する

大嫌い
0679日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 21:39:12.08
取り敢えず4世紀の記録はあるらしいね。
0680日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 22:56:33.92
>>679
>取り敢えず4世紀の記録はあるらしいね。

「らしい」じゃなくてソースを出して!
0681日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 23:10:29.89
日本の8世紀以前の記録は焚書されて残ってない。
0682日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 23:46:02.94
九州諸将軍記

「神代より鎮座あり、神功皇后、韓国より帰還ののち、当社の社殿を乾(北西)の方に向け御建立」と記されている。
この機縁で神功皇后を相殿に祀ったと記されている。
現在の社殿は「怡土城建設時に高祖村の大霜の地から現在地に移された」。
旧社殿の場所は今の社殿から西方向約800メートルにある。
0683日本@名無史さん垢版2018/08/16(木) 23:52:51.10
日本書紀の年代だと卑弥呼の時代のことになってしまうけどね!
これで高祖宮が3ないし4世紀にはあったことがわかったね!
0684日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 00:20:02.09
江戸時代の文献、しかも軍記物を持ち出してきて
3・4世紀のことが分かると言ってしまう歴史学無知
0685日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 00:25:33.95
要するにケチつけたいだけなんだろ。
君みたいなのが日本史を暗黒に塗りつぶすのだろうな。
0686日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 00:26:37.98
そのうちポツダム宣言受諾さえも信用できないと言い出すよ。
0688日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 07:52:58.42
反論できなくなると、関係のないことまで持ち出して罵倒に走るよな
九州説はレベルが低い
0689日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 07:54:05.73
>>681
>日本の8世紀以前の記録は焚書されて残ってない。

そんなアホな。
役人が一生懸命、習字をしているような程度の文字文化だっただけ。  @阿波
0690日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 08:20:29.19
歴史とは結局のところ後世において記録したものに過ぎない。
それを否定するなら、歴史学は成り立たなくなる。
8世紀の史料は信用ならん、戦国時代の史料は信用ならん。
そのうち、昭和の史料は信用ならん、平成の史料は信用ならんとなるぞ。
現代のことでさえ、ほとんどは伝聞なんだ。
0692日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 10:57:54.01
>ポツダム宣言受諾

伊都国連呼ジジイの頭の中では、
日本の敗戦と伊都説がセットなんだろうな
0694日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 13:34:03.91
>>693
それがほとんど失われている場合は、複数の後世の史料を比較する。
伊都が倭国の王都である筑紫の日向であり、高祖山(日向山)に王城があったらしいことが推察できる。
それを、一つ一つの根拠がわずかであるからといって潰していけば、全体像は見えなくなってしまう。
0695日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 16:07:17.63
>>694
>高祖山(日向山)に王城があったらしいことが推察できる。

江戸中期の九州諸将軍記にもそんなことは書いてない
0696日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 17:04:37.53
>>694
>一つ一つの根拠がわずかであるから

わずかならいいんだけど、妄想は根拠にならない
0697日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 17:47:37.37
複数の史料をつなげて書いているだけだよ。
創作した部分はほとんどない。
畿内説のテンプレよりは少ないはず。
0698日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 18:59:35.06
>>697
>創作した部分はほとんどない。

創作してるんじゃんww

そもそも怡土城は、奈良時代の天平勝宝8年(756年)から神護景雲2年(768年)にかけて
「築城された」って記録されてるんだぞ?

その前から怡土城(高祖城でもいいけど)があったら、それを拡充したとかの記録になるだろう
8世紀以前に、怡土城があったと考えるべき理由はないし、記録はむしろなかったと判断する理由になる
0699日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 19:03:03.72
>>698
>その前から怡土城(高祖城でもいいけど)があったら、それを拡充したとかの記録になるだろう

神功皇后が再建したという記録があるよ。
0700日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 19:52:53.55
>三韓征伐凱旋後、神功皇后は神恩に報いようと高祖神社神殿を建てますが、
それを乾(いぬい)北西に向けたといいます。
北西は糸島の遺跡の銀座通りです。> ・・・←怡土城ではないぞ

>この地の県主・五十迹手(いとて)を調べて行くと「筑前名所図会」にその出自が書かれていました。
五十迹手(いそとて)は高麗国意呂山より天降って来た日拝の苗裔であると筑前風土記に書いてある。>
>高麗国とは高句麗の事です。
五十迹手は高句麗のウルソンから天下って来た日拝の末裔だそうです。>

どうやら糸島は、高麗人の巣窟らしい
0701日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 20:00:25.18
天皇家とこうくりが同祖だから(ぼぞっ)
0702日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 20:03:07.19
>>699
>神功皇后が再建したという記録があるよ。

日本書紀だと思うけれど、原文を出して
0703日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 20:04:42.66
>>702

九州諸将軍記

「神代より鎮座あり、神功皇后、韓国より帰還ののち、当社の社殿を乾(北西)の方に向け御建立」と記されている。
この機縁で神功皇后を相殿に祀ったと記されている。
現在の社殿は「怡土城建設時に高祖村の大霜の地から現在地に移された」。
旧社殿の場所は今の社殿から西方向約800メートルにある。
0704日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 20:06:17.74
高祖宮と伊都城はほぼ同じものだろ。
大門があったのだから、ただの神社ではなく防御機能を持った施設だったはず。
0705日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 20:20:49.40
高祖神社
<伝承では、古くは大下の地に鎮座した。
建久8年(1197年)に原田種直が当地に入るに際して、
高祖神社宮司の上原氏と姻戚関係を結ぶとともに、高祖山の怡土城跡に高祖城を築城してその麓に高祖神社を移したという>
0707日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 22:37:54.29
高祖神社の発祥は神代で開始時期は不明。
神功皇后が現在の大門付近に社殿を建立。
伊都城の築造時に今の場所に移された。
0709日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 23:02:02.76
伊都城の中心の王宮が高祖宮
0711日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 23:06:07.54
ウソを取り繕うためにウソを重ねる、これが九州説脳クオリティ
0712日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 23:06:31.96
今の場所も伊都城の内側、むしろより神奈備の中腹の良い立地だよ。
0714日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 23:12:13.69
史料批判なんて知りません
都合の悪い類例・用例は無視します
でも専門家のいうことよりも自分の主張が優れてます

…即入院が必要なレベルだな
0715日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 23:15:21.74
立ち退かせてるというよりは
築城の区画整理と神社大規模化だろ
0718日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 23:18:56.64
博多湾に面して、福岡と糸島を両方に睨みを効かせることができる城だからね。
弥生時代の倭国王墓に囲まれた、まさに倭国の王城にふさわしい。
0719日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 23:20:43.45
ほら、根拠を明らかにせずに結論だけw
学問じゃなく自分自身を信仰する宗教だなw
0720日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 23:21:07.08
筑紫の日向のクジフル山の高千穂宮は、九州で最大級の強固な山城でした。
0722日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 23:22:31.03
反論が弱々しいな。
0724日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 23:23:26.73
論理的思考ができないガイキチさんには反論しても理解できないからね
0725日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 23:23:53.56
伊都城以外のどこに王城を想定できる?
纒向になんかそんな遺構はないもんな。
0727日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 23:24:50.95
魏志倭人伝の楼閣高くしてという記述も、峰々に楼閣が連なる姿だとわかる。
0730日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 23:27:45.09
妄想チェリーピッカーは最強だな
なんたって自分のおかしさに気がつかないんだから
0732日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 23:30:13.16
伊都クズ「歴史学の方法なんて知らん!俺様が正しい!」

周囲「かわいそうに…」
0733日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 23:32:36.71
糸島は、高麗人の巣窟!
0734日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 23:33:12.16
これだけ妄想が得意なら、本書いて売ってみたら?
案外、ファンタジーとして受けるかもよ
0736日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 23:36:19.50
高祖は詫蘇のなまり
古代氏族の詫蘇氏はどんな氏族でしょうかねぇ
0737日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 23:41:49.47
皇祖が降臨したからじゃない?
0738736垢版2018/08/17(金) 23:42:10.64
訂正 詫蘇→託杜
0739日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 23:46:43.94
伊都城が、倭王墓に囲まれた立地であることは、考古学的に明らかなわけだからね。
だったら王城が必要だろ?
吉武高木は王宮だけど、そこから数百年の後だから、もっと大きな王城があって然るべき。
0742日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 23:53:06.55
嘘はどれだけ重ねても嘘
妄想はどれだけ重ねても妄想
こんなことすら分かっていない人がいるようです
0743日本@名無史さん垢版2018/08/17(金) 23:58:46.68
いろんなスレでいい加減な知識で書き込んでボコられてるのな
それでも現状を正しく認識しないのは自己暗示が強いのか
状況を把握できないほどの馬鹿なのか
0744日本@名無史さん垢版2018/08/18(土) 00:08:30.64
糸島は博多湾の入り口にあり
交易や水軍の船舶の把握に優位な位置にあり
望楼のあった高祖山からは
博多湾全域が見渡せる。

軍事拠点として有効である。
0745日本@名無史さん垢版2018/08/18(土) 00:31:24.08
糸島は高麗人の巣窟、
軍事拠点としてさぞかし重要だったことだろう
0746日本@名無史さん垢版2018/08/18(土) 00:32:26.88
邪馬台国側に基肄城と大野城、狗奴国側に菊池城。
ここまでは魏志倭人伝から読み取れる。
伊都国と奴国をあわせて女王国と呼ぶわけだが、その中心に卑弥呼の宮城である伊都城(高千穂宮)があったと。
0747日本@名無史さん垢版2018/08/18(土) 01:09:23.68
>>746
>ここまでは魏志倭人伝から読み取れる。

いろんなところで何度も書いているんだが、
魏志倭人伝を含め史書は、暗号書でも判じ物でもないんだから、
頭をひねって解釈しないと読み取れないような書き方はしてないんだよ

読み取らなければならない内容は最初から書いてない

それを読み取ったという主張は、結論ありきで結論に寄せていますという
告白に他ならない

>伊都国と奴国をあわせて女王国と呼ぶわけだが

呼びません
伊都国、奴国と邪馬台国を重ねるのは、単なる二重帳簿詐欺
0748九州王垢版2018/08/18(土) 06:55:37.74
>>746
>>747
>邪馬台国側に基肄城と大野城、狗奴国側に菊池城。
>ここまでは魏志倭人伝から読み取れる。

流石にそれは無理だな。それを判断するには考古学的なものに頼るさかないだろう。

>伊都国と奴国をあわせて女王国と呼ぶわけだが、その中心に卑弥呼の宮城である伊都城(高千穂宮)があったと。

伊都国と奴国が女王国の中心地であったことは読み取れますね。
0749日本@名無史さん垢版2018/08/18(土) 06:56:35.41
訂正
さ→し
0750日本@名無史さん垢版2018/08/18(土) 07:37:01.92
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg
0751日本@名無史さん垢版2018/08/18(土) 08:01:09.53
746 名前:日本@名無史さん 2018/08/18(土) 00:32:26.88
>邪馬台国側に基肄城と大野城、狗奴国側に菊池城。
>ここまでは魏志倭人伝から読み取れる。

典型的な差魏志の口上だな
0752日本@名無史さん垢版2018/08/18(土) 17:24:20.54
糸島の「高祖」の読みは「たかす」

高祖神とかの、「こうそ」とは別物
0753日本@名無史さん垢版2018/08/18(土) 18:09:44.68
意味はほぼ同じ。
掛詞だな。
0754日本@名無史さん垢版2018/08/18(土) 18:12:28.89
梯儁、張政は倭国内で報告書を作成したが検閲にあったため軍事情報等を
暗号にして挿入した。そのため、魏志は両名の記述をそのまま引用する必要があり、
交互に入れたために記述に不統一性が生じた。

まず、投馬国と対海国は発音が大体同じでツマ国(対馬)を表している。

女王国については、都市別に追うと、帯方郡→狗邪韓国→対海国→一大国→末廬国
→伊都国→奴国→不弥国という経路であり、伊都国には女王がいるという記述が
ある一方、帯方郡から南に水行20日で投馬国(対馬)、投馬国から水行10日陸行1月で
邪馬壱国に行き着くという記述が別にある。投馬国は対馬、壱岐、呼子、松浦辺りの
領域で5万戸、邪馬壱国は伊都から東部一帯で7万戸であり、女王国は島、沿岸部の
投馬国、都がある陸部の邪馬壱国という両国で構成されているということであろう。

時間差のある別々の報告書のもののため、長官、副官は異なっている。

とか妄想してみた。暗号をどう解くのかは知らね(゚听)
0755日本@名無史さん垢版2018/08/18(土) 20:42:42.87
>>753
>意味はほぼ同じ。
>掛詞だな。

また適当なことをw

宅蘇氏の「たくそ」が、「たかす」の語源だろ?って言われてるのに
0756日本@名無史さん垢版2018/08/18(土) 20:45:19.84
>>754
>検閲にあったため軍事情報等を
>暗号にして挿入した。

誰が、何のために、検閲したんだ?wwwww
もう、デタラメしか書けなくなったのか?w
0757日本@名無史さん垢版2018/08/18(土) 21:11:34.17
>>755
>宅蘇氏の「たくそ」が、「たかす」の語源だろ?って言われてるのに

ソースは?
0758日本@名無史さん垢版2018/08/18(土) 22:23:56.50
>>757
>ソースは?

Wikipediaでもこれくらい出てるよ
自分でちったぁ調べたらどうだい?


『和名抄』では筑前国怡土郡に託杜郷(たこそごう、託社郷)が見えるほか、
「筑前国嶋郡川辺里戸籍断簡」や『東大寺文書』では当地で宅蘇氏(たくそうじ)一族の居住が
知られ、現在残る棟札にも「詫祖大菩薩」の記載が見えることから、これらと「高祖」・
「高礒(高磯)」が関連づけられる
0759日本@名無史さん垢版2018/08/18(土) 23:13:49.58
そんな後世の文書はあてになりません。
0761日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 00:59:26.40
>>756
誰が何のためは妄想で補完するところだよ。

自分は暗号とか関心ないし。

>>759
後世の文章が当てにならないじゃそこで思考停止
じゃん。停止したい奴は停止すればいいんだけど。

んじゃ、ROMに戻るか。
0762日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 01:01:41.93
畿内説の真似をしたまでさ。
彼らは都合よく二枚舌を使い分ける。
0763日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 01:20:37.83
>>759
>そんな後世の文書はあてになりません。

何を言ってるんだ?
現代の高祖山という地名の語源を調べるのに和名抄が後世ってことはないだろ?

九州糸島説の主張では、今の高祖山はかつての日向山で怡土城であって、
古来高祖山だったとは言ってないだろうが?
0764日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 01:22:42.78
>>761
>誰が何のためは妄想で補完するところだよ。

では科学ではないな
学問(文系)の日本史板で、妄想を論拠に出すなら、相手にされず軽蔑されるだけ
0765日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 05:55:33.92
伊都クズの頭の中では
平原の時代より和名抄は新しい!
と判断したんだろ

バカ丸出しだな
0766日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 08:08:55.19
和名抄は10世紀だろ
平原の時代より700年後のものだろ。
0767日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 08:23:08.75
畿内説はいつもダブルスタンダード
0768日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 08:59:55.46
糸島は、高麗人の植民地
0769日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 10:11:01.08
>>766
和名抄には高祖はなく託杜
高祖の地名が確認できるのはそれより後
時系列で考えれば一目瞭然
和名抄が新しいから〜とかいう主張はアホ
0770日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 11:45:15.19
>>767
>畿内説はいつもダブルスタンダード

そして、自分が言われて口惜しかった批判をオウム返しで書き込んで満足するw
もちろんどこがダブスタなのかという「具体的な指摘は」なしで、だ
0771日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 11:48:08.68
>>766
>平原の時代より700年後のものだろ。

細かいことだけど、「800年」くらいだと思うよ
平原1号墓のあと3,4号墓が家族墓地の平原遺跡に作られているから、
古墳時代まで1世代以上あることが分かる

平原1号墓は、九州説のいう年代よりも古い
0772日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 13:28:57.81
>>771
その程度では、副葬品の年代比定を覆すことはできない。
0773日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 14:34:15.38
糸島は高麗人アメノヒボコの植民地
平原は、高麗人の墓場
0774日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 14:48:39.40
平原遺跡は中国の影響の方がはるかに強い。
0775日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 15:32:37.71
>>772
>その程度では、副葬品の年代比定を覆すことはできない。

副葬品で、細かい年代比定ができる異物はないだろ?
年代指標として一番あてになる舶載鏡は、やたら古いのが2枚だけだし
0776日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 15:49:24.68
>>772
>その程度では、副葬品の年代比定を覆すことはできない。


お墓より、重要なのは卑弥呼の時代の集落遺跡だよ。  @阿波
0777日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 16:25:58.32
耳璫は魏晋代以降
0778日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 17:22:20.68
イト国は倭の五王のうちの1人
イト国と邪馬台国は別々
イト国の下に邪馬台国あり
0779日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 17:25:05.71
>>778
妄想がすごいな

世有王、皆統屬女王國。を言いたいのだろうが、松本清張以来、『A統属B』を
「AがBを従えている」、ここでは伊都国王が女王国を支配していると解釈する人がいるが、
三国志においてそのような用例は無いということが解っている。

伊都国王は女王国に従っているという解釈以外はない。
0780日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 18:12:03.74
>>779
>伊都国王が女王国を支配していると解釈する人がいるが

違いますよ
魏の世、倭の国々は皆女王国に従っていた。
です、女王国が伊都国です。
0781日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 18:15:17.58
>>750
明らかに間違っているのは
不彌国 福岡市東区(香椎宮) と投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)

倭人伝の記述通りに進むと不彌国は那珂川町、春日市、大野城市方面だし
投馬国は朝鮮半島です。
0782日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 18:33:01.12
>>781
>不彌国は那珂川町、春日市、大野城市方面
そこまでは100里ではとおすぐる
0783日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 19:06:52.54
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。

治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。

では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。

「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。

女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。
0785日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 19:11:44.70
>>781
ご意見ありがとうございます。
不弥国へは、魏志倭人伝の方角が若干間違っているという解釈です。
ただし、香椎宮が当時にあったかどうかがそもそも不明なので、あくまでも暫定的なものです。

あと、投馬国はすでに何度も説明していますので省略しますね。
0786日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 19:21:59.98
>>785
自作自演、おっかれさん
0787日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 22:43:45.96
>>780
>女王国が伊都国です。

それが二重帳簿詐欺
伊都国は女王国の端っこの方の一部で、一大率を派遣される遠地
0789日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 23:06:16.28
ずっと後世の不確かな情報で強弁するつもり?
0790日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 23:09:29.35
託杜が存在していた時代以前には高祖が存在していた証拠ない
歴史オンチには理解できないだろうが歴史学的にはこれで決まり
0791日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 23:33:14.79
まあ、上古における名称は日向山や久慈古山なんだろうからな。
0792日本@名無史さん垢版2018/08/19(日) 23:49:57.97
>>791

どこの山が?
0793日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 00:30:29.38
>>779
>伊都国王が女王国を支配していると解釈する人がいるが

違いますよ

魏の世、倭の国々は皆女王国に従っていた。

女王国は、奴國 不彌國 馬投國 邪馬壹國の4ヶ国連合体(卑弥呼女王を共立した国々)。

女王の都(環濠城柵)が置かれたのが、邪馬壹國の国内。(邪馬壹國の環濠城柵とは別の場所)
0794日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 00:34:16.77
修正
>>779
>伊都国王が女王国を支配していると解釈する人がいるが

その通りですね。

魏の世、倭の国々は皆女王国に従っていた。

女王国は、奴國 不彌國 馬投國 邪馬壹國の4ヶ国連合体(卑弥呼女王を共立した国々)。

女王の都(環濠城柵)が置かれたのが、邪馬壹國の国内。(邪馬壹國の環濠城柵とは別の場所)
0795日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 00:42:00.97
馬投國w 相変らずのチョンボジジイ
0796日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 00:44:18.27
対案

>伊都国王が女王国を支配していると解釈する人がいるが

その通りですね。

魏の世、倭の国々は皆女王国に従っていた。

女王国(邪馬壹國)は、伊都国 奴国 不弥国の連合体(卑弥呼女王を共立した国々)。

女王の宮城が置かれたのが、邪馬壹國の国内。
0797日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 00:52:32.51
女王國の位置(奴國 不彌國 馬投國 邪馬壹國の4ヶ国)
筑後平野ほゞ全域

奴國
佐賀平野中部西部

不彌國
佐賀平野東部(吉野ヶ里近辺)

馬投國
有明海沿岸部筑後平野(大牟田以北)

邪馬壹國
有明海内陸部筑後平野と筑後川中流平野(北野地域)

参考
伊都國
佐賀平野中北部(嘉瀬川扇状地の北部)
0798日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 00:55:26.32
修正
× 筑後平野ほゞ全域

◎ 筑紫平野ほゞ全域
0799日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 07:02:03.16
>>789
>筑紫平野ほゞ全域


九州は「其山有丹」で、最初っから落選!  @阿波
0800日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 08:24:38.36
>>787
邪馬壹國は北部九州地域全体の名称で、投馬國は朝鮮半島南岸地域
邪馬壹國中最大の国邑が奴國で女王国卑弥呼の都が伊都国
邪馬壹國側に卑弥呼の都が在ったから「邪馬壹國 女王之所都」と記された
投馬國には女王国の都がないってこと。
女王国とは伊都國と奴國のことである
一大率を朝鮮海峡付近の国々に置いて支配していた。
0801日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 08:30:31.42
>>800
>邪馬壹國は北部九州地域全体の名称で、投馬國は朝鮮半島南岸地域


九州は「其山有丹」で、最初っから落選!  @阿波
0802日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 12:05:54.79
>>800
>邪馬壹國は北部九州地域全体の名称で、投馬國は朝鮮半島南岸地域

これが通ると思ってるところがすごいな
朝鮮半島南岸地域に、戸数5萬戸の大国はないよ

のっけからおかしいし、最後までおかしい

コメ番もちょうど800だし、嘘八百でちょうどいいってか?
0803日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 13:11:12.88
朝鮮海峡って、対馬海峡のことか?
投馬国半島説の背景が透けて見えるよ。
やはり投馬国は宮崎県、邪馬台国は福岡県、狗奴国は熊本県でいいだろう。
0804日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 13:20:38.28
>>803
>やはり投馬国は宮崎県、邪馬台国は福岡県、狗奴国は熊本県でいいだろう。

そんな妄想、いいわけないだろ。  九州は「其山有丹」で、最初っから落選!  @阿波   
0805日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 14:22:01.24
>>803
>投馬国は宮崎県、邪馬台国は福岡県、狗奴国は熊本県

よそのスレでの確定事項だが、
日数も道里の表現として普通に使われている

つまり、投馬国の
南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
も、道里、戸数が略載されている、女王国以北の国ということになる

投馬国が宮崎都万だと、北部九州説と矛盾するよ


道里が日数でもよい例示
《九章算術》[西漢 - 新] 紀元前120年-20年
《均輸》
今有均輸粟:甲縣一萬戶,行道八日;
乙縣九千五百戶,行道十日;
丙縣一萬二千三百五十戶,行道十三日;
丁縣一萬二千二百戶,行道二十日,各到輸所。
凡四縣賦,當輸二十五萬斛,用車一萬乘。欲以「道里」遠近,戶數多少,衰出之。問粟、車各幾何?

各県から輸所までの日数が書かれているのを、「道里」と表現している
0806日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 14:59:44.59
「夷人は里数を知らず、但だ日を以て計るのみ」
0807日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 15:08:22.78
>>805
>よそのスレでの確定事項だが、

お前の頭の中ではそうなんだろうよ。
0808日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 15:55:04.15
九州説に漢文は無理
0809日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 16:18:25.48
日数しか問題文に書かれていない
その上で「道里遠近」を考えろとしている

日数が、道里と表現されていることは、漢文を習いたての中学生でも分かるぞ
0810日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 16:19:58.83
>>806
>「夷人は里数を知らず、但だ日を以て計るのみ」

《九章算術》は、大陸の国内向け文書で、夷人は出てこないよ
>>805に対するレスじゃないのかもしれないけれど、念のため
0811日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 16:36:23.09
「倭人も里数を知らず、但だ日を以て計るのみ」
0812日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 17:22:39.74
>>802
>朝鮮半島南岸地域に、戸数5萬戸の大国はないよ

根拠はなんだね?君の思い込みだろ。
0813日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 17:26:52.77
>>811
よって、投馬国のように郡使が通過しなかった土地は倭人からの伝聞のみ。
邪馬台国は、日程と里程の両方が記載されている。
0814日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 18:20:00.27
>>813
>よって、投馬国のように郡使が通過しなかった土地

基本的に認識がおかしい。
0815日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 18:46:12.38
>>813
>邪馬台国は、日程と里程の両方が記載されている。

邪馬台国行きの里程がどこに記載されているんだ?

南至投馬國                   水行二十日。
官曰彌彌、副曰彌彌那利。            可五萬餘戸。
南至邪馬壹國 女王之所都            水行十日陸行一月 
官有伊支馬 次曰彌馬 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

投馬国の旅程記事と、邪馬台国の旅程記事は、
完全に構造が同じで対応関係がはっきりしている

この二つについて、異なる読み方をする人は、インチキ読みだと思えばいい
0816日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 18:52:22.59
>>812
>根拠はなんだね?君の思い込みだろ。

ほらよ
三國志卷三十/魏書三十/烏丸鮮卑東夷傳第三十
韓条 弁辰
大國四五千家、小國六七百家

半島南部に当たる弁辰諸国は、大きくても四五千家だ

少し広げて韓全体で見ても
大國萬餘家、小國數千家
で、数万の大国はない

九州説は、九州説の身内の文章しか読まないから、知識が足りないんだよ

朝鮮半島に、五万戸の大国はないと烏丸鮮卑東夷傳そのものに書いてある
0817日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 18:55:24.14
>>815
>南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月。
>自郡至女王国万二千余里。

普通は、この2文を以て、郡から邪馬台国の都までの日程及び里程と解釈するんだがなあ。
0818日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 19:06:55.25
普通は、     ×

特殊な人は、 ○
0819日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 19:23:15.44
女王国と邪馬台国は一致しないからね

北海道=札幌じゃないのと一緒
0820日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 19:27:44.03
東京から北海道まで900キロ
東京から函館まで680キロとあるからといって、
東京から札幌まで900キロじゃないし、
函館から札幌まで、220キロでもない

東京から札幌までは830キロだし、
函館から札幌までは150キロ
0821日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 19:45:29.30
女王国と邪馬台国は一致すると考えれば、万事めでたく解決するんだがなあ。
0822日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 19:49:03.76
>>815
>邪馬台国行きの里程がどこに記載されているんだ?

お前は魏志倭人伝のどこを読んでいるんだ?
0823日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 19:50:23.61
>>816
>半島南部に当たる弁辰諸国は、大きくても四五千家だ

それは同意するけど、

>九州説は、九州説の身内の文章しか読まないから、知識が足りないんだよ

投馬国が半島だなどと言っているのは、九州説のごく一部だ。
一緒にされると迷惑だ。
0824日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 19:51:34.40
>>819
道都=札幌
くらいの意味だよ。
0825日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 19:53:09.14
もちろん、一万二千里はぼんやりとした「倭国の真ん中」などではなく、女王が都する邪馬台国までの距離だよ。
つまり邪馬台国は九州にあった。
0826日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 20:49:43.81
>>825
>もちろん、一万二千里はぼんやりとした「倭国の真ん中」などではなく、女王が都する邪馬台国までの距離だよ。

そんなことはどこにも書いてない

そして、仮定の話として短里があったとして、短里が76メートルとすると
九州上陸まで10000里で残り2000里は150キロほどになる

末慮国や博多湾沿岸から筑紫平野の有明海沿岸まで50キロしかない

伊都国、奴国に邪馬台国を持ってくるのは無理な数字しか出ないよ

萬二千里は女王国までであって、邪馬台国までではない
まずそこをきちんと把握しよう

魏志倭人伝「自郡至女王國萬二千餘里」
魏略   「自帯方至女國万二千余里」
後漢書  「樂浪郡徼去其國萬二千里」
梁書   「去帶方萬二千餘里」
隋書   「古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」
旧唐書  「去京師一萬四千里」
新唐書  「去京師萬四千里」

邪馬台国までと書いてあるのは一つもないし、かなりざっくりした表現なのが分かる

隋書で「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」という書き方になっている
『昔はこう云っていた』というのは、「今は違うことが分かっているけど」ということを
意味している

隋書では、裴世清の記録でこの萬二千里が間違っていることが把握されたから、
『古云』が付いている訳だ
0827日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 21:09:06.16
隋の時代には短里をやめたからだよ。
0828日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 21:22:12.49
>>827
>隋の時代には短里をやめたからだよ。

短里をやめたら、萬二千里が萬四千里になるのか?
短里ってのは、15%くらい短いだけだっけ?
0829日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 21:28:22.25
一万四千里は長安からだね。
0830日本@名無史さん垢版2018/08/20(月) 21:56:56.50
帯方郡の海岸から女王国の中心地である伊都国と奴国の国境までのを距離(7000里+1000里+400里+400里+1000里+300里+300里+1000里+500里+100里)と
所要時間(20日+10日+1日(1日は1月の誤記))と
総距離(12,000里)とで3重に併記している。

旁國(奴国から奴国まで)を通過する21か国の国名と
総距離(5,000里)とで2重に併記している。

女王国から裸国、黒歯国までも同じ行程を距離(4,000里)と
時間(1年は12日を12月1と見間違えての誤記)とで2重に併記している。

陳寿は丁寧に説明している。
0831日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 00:05:48.24
>>829
つまり、実測値ではない数値が使われ続けているってことだ
さすがに唐代に短里があったとは言わないだろ? 九州説でも?
0832日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 00:08:03.90
>>830
>1日(1日は1月の誤記)

こういうご都合主義の捏造をしないと成りたたないのが九州説
末慮国から奴国まで1日で行けるのかい?
0833日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 00:10:18.67
だから、唐代では記述が変わるんだろ。
0834日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 01:08:59.03
帯方郡起点が長安起点になって、2千里しか違わないってことは、
半島の付け根の方から萬二千里ってのは変わってない扱いだぞ

でも、唐代に短里や東夷伝里がないには認めるんだろ?
だったら同じ里程の魏志倭人伝でも短里なんてないんだよ
0835日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 01:18:18.41
意味わからん
勝手な謎論理を展開しても説得力ないよ
0836日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 01:23:26.97
「俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中」(隋書)
だから唐代に書かれた隋書では変ってないな
0837日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 10:55:16.29
それで、唐代にも東夷伝里あるいは短里があったと主張するのかしないのかどっちなんだ?
0838日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 12:19:25.16
>>832
漢や三国時代は文書は木簡や竹簡に書かれていた
文字の染みなどで1日を1月と見誤る可能性は極めて高い
同じように一大國も一支國の誤記であろう
幾ら文字が染みても南を東とは見誤る可能性はないけどね。
0839日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 13:00:21.71
>>838
>文字の染みなどで1日を1月と見誤る可能性は極めて高い

でもそうすると、北部九州説の行程論と合わないよ?

末慮国から伊都国、奴国、不彌国までの陸行七百里を、
1日で踏破したという主張をするのかい?

一大率のいる伊都国も足早に素通りして?

この辺も、ウソにウソを重ねている状態になっているのに早く気づくといいね
そもそもの短里が捏造なんだから

それで、唐代にも東夷伝里あるいは短里があったと主張するのかしないのかどっちなんだ?
0840日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 13:08:03.25
『三国史記』巻第四 新羅本紀 智證麻立干紀では
十三年夏六月 于山国帰服 歳以土宜為貢 于山国在溟州正東海島 或名欝陵島 地方一百里 

普通の里なら欝陵島が40q四方(1600 km²)となってしまうが、短里なら約8q四方(約64km²)となり72.82 km²の現実の欝陵島と近い値になる。
0841日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 13:14:25.29
>>839
宿泊地は伊都国だと書かれているから
末慮国から伊都国までの陸行五百里(40q)を、
1日で踏破したという主張ですけど?
時速4q/hで10時間
十分に1日で行けますよね
何か問題ありますか?
0842日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 13:38:35.12
>>841
だとすると、伊都国までで終着ということになるけれど、
合計は萬五百里にしかならないよ?

残りの千五百里は関係ないってことにするのかい?

それとも、最初から萬二千里は、邪馬台国の比定地を考えるのには
意味がないというのに同意するのかい
0844日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 13:48:31.31
文字の染みなどで1日を1月と見誤る可能性は極めて高かったら
画数が多い漢字は字が潰れまくりだな
行程で比定するのは無理だな
0845日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 14:09:24.48
>>841
ひとつ取り繕うと、ひとつ以前の主張と矛盾するのが分かるかい?

九州説の行程パズルは、無理読みの寄木細工なんだよ

部分部分では尤もらしく言い繕っても、結局各部で矛盾する
0846日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 14:20:50.34
何も矛盾なんかないよ?
畿内説は矛盾を解決するために魏志倭人伝を無視しているみたいだけどねw
0847日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 15:06:29.84
>>846
>何も矛盾なんかないよ?

これまでの九州説の主張まとめ

邪馬台国までの里程は魏志倭人伝には書いてないに対して
九「萬二千里が、邪馬台国までの里数、里数と日数が両方書いてある」

同じ旅程の里数と日数だとすると、陸行一月は北部九州ではおかしいに対して
九「一月は一日の間違いだから大丈夫」

一日の間違いだと、末慮国から不彌国まで一日で行くことになりおかしいに対して
九「伊都国までだから、一日で行ける」

伊都国までなら萬五百里、邪馬台国まで萬二千里と言っていたのと矛盾する

今のところこれには返答してないね
0848日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 16:35:13.60
思いっきり矛盾してるのを突きつけられたら黙っちゃったかな?
0850日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 16:59:11.00
まあ、
「女王国の首都は伊都国」
「邪馬台国は伊都国奴国周辺」
「水行は帯方郡起点で、日数と里数は並列表記」
「邪馬台国までの里数は萬二千里で明記されてる」
って、さんざん言ってきてるからねぇ

「邪馬台国は伊都国奴国周辺」と
「邪馬台国までの里数は萬二千里で明記されてる」は
単純な足し算で、矛盾してるってことがすぐ分かる

これを解消するのが、島巡り仮説だけれど、
いまさら島巡り仮説を言うやつもいないだろ
0851日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 17:26:04.14
>>842
帯方郡の海岸から女王国の中心地である伊都国と奴国の国境までの距離(7000里+1000里+400里+400里+1000里+300里+300里+1000里+500里+100里)
丁度12000里ですが。
0852日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 17:27:00.28
>>850
島巡り仮説を否定する根拠は?
0853日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 17:33:26.57
>>850
少なくとも、島の大きさの分は入ってないな

論じても正解は陳寿にしかわからんから、あんまり重視してないが…
陳寿は算数はできたと思うので九州説のが妥当とは思う
0855日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 17:38:26.20
島巡り仮説的なものが、他の地理旅程記事で見つけられたら教えてくれww
0856日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 17:40:21.07
島巡り仮説の欠点はね、島の大きさは、旅程としては書かれていないってことなんだ

それに、韓が方四千里と書かれているからといって、
韓を通過する旅程で書かれてもない8千里を足したりはしないだろ?
0857日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 18:02:12.66
そして、島巡り仮説の最大の欠点は、そう読む必然性がまったくないこと
0858日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 18:03:02.51
島巡り仮説の存在理由が、1500里を消費すること以外に何もないからね
0859日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 18:04:18.65
それと、島巡り仮説を使っても、伊都国が邪馬台国の首都にはならない
島巡り仮説を使っても、100里余るから、奴国まで行くしかない

そうすると、邪馬台国の首都は伊都国というのと齟齬が出る
0860日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 18:22:57.21
途中の里程の表記に「余り」があるよ。
0861日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 19:28:02.06
古田史学の会のウェブページに書いてあった文章
「このうち伊都国から奴国までの100里は、直線行程(主線行程)ではない横道に逸れた、
 つまり傍線行程であると位置付けたため、その結果1400里足りなくなりました。
 この「足し落し」部分を「島めぐり・半周読法」により、対海国(対馬・下県郡)
 800余里と一大国(壱岐)600里の計1400里を『見つける』ことが出来たのです。」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/masakisi/himika26.html
『 』は私が付けた

正直だよね
『見つけた』って書いてるww

つまり、普通に読んだらそうは読めないってこと

史書に限らず、多くの文書は読む人に情報を伝えるために書かれているのだから、
暗号書や判じ物でもない限り、普通に読んで内容が読み取れるように書かれている

見つけなきゃならないような読み方は、作者・編者の意図から外れている

島めぐり半周読法は、無理読みの代表
0862日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 19:29:31.36
あと、島めぐり読法を「見つけた」古田史学の会の見解では、邪馬台国は
不彌国に距離0で接してすぐ南にあるらしいよ

伊都国・奴国とは重ねないww
0863日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 21:53:18.82
>>855
中国は大陸国家なので海上の経路を説明した文事態がない。
>>859
島巡り仮説を使うと伊都国と奴国の間の国境までが12000里となる。
>>862
古田史学の会の島巡り仮説は中途半端で見解は明らかに誤りです

島巡り仮説が正しいと考えられる分け。
@倭人伝では帯方郡から女王国までを12000里と記しているので
行程を合計すれば12000里になるはずである
島巡り仮説を導入すれば帯方郡から伊都国・奴国までが12000里になる。

A島巡り仮説を導入すると末廬國への到着地点は呼子付近となり
「東南陸行五百里 到伊都國」がほぼ正しくなる。

B島巡り仮説でなく島の面積とすると現実の面積と著しく合わない。
0865日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 23:29:42.16
>>863
>島巡り仮説を「使うと」伊都国と奴国の間の国境までが12000里となる。

語るに落ちてるねぇ
結論ありきの逆算でしかないってw
0866日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 23:32:06.13
>>863
>中国は大陸国家なので海上の経路を説明した文事態がない。

ならば、島巡りを旅程に算入するなどという特殊事情がもしあるなら
必ずその旨明記されてるだろ?
他例からの類推や常識は通用しないんだから

つまり、注記も特記事項もない時点で、そんな読み方はないんだよ!
0867日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 23:34:02.43
>>863
>古田史学の会の島巡り仮説は中途半端で見解は明らかに誤りです

どこがどう間違っているのか具体的に言わないなら、ただの難癖で意味なしだよ
島巡り仮説を教えてくれた恩人に対する礼儀がなってないなw
0868日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 23:34:42.09
>>866
だから「自郡至女王國 萬二千餘里」と書いたんだよ。
0869日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 23:36:34.14
>>863
>?倭人伝では帯方郡から女王国までを12000里と記しているので
>行程を合計すれば12000里になるはずである
>島巡り仮説を導入すれば帯方郡から伊都国・奴国までが12000里になる。

これはただの循環論法で、結論を理由だと言い張ってるだけ

「答えが合うように計算したら、答えがあってるから計算が正しい」
これと同じことしか言ってない
意味ないだろ?
根拠にも理由にもなってない
0870日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 23:36:53.03
結論ありきで九州北部までを一万二千里と定義したんだよ。
それでいいじゃん。
それが魏志倭人伝の世界観なんだよ。
0871日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 23:38:39.82
>>867
島巡り仮説に従えば壱岐の南端からは東松浦半島の北の端に着くことになる
更に次は末廬国と伊都国の国境までが500里となり
次の100里で伊都国と奴国の国境までとなる。
0872日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 23:39:43.63
>>863
>?島巡り仮説を導入すると末廬國への到着地点は呼子付近となり
>「東南陸行五百里 到伊都國」がほぼ正しくなる。

これも大うそだねえ
島巡りをしようがしまいが、外洋航路には関係ない
島巡りをしたから到着地点が変わるなんてことはない

呼子にしたところで、伊都国は東南にはならないし、
呼子から東南方向に歩き出したらすぐに海だ
0873日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 23:40:24.51
>>869
どこが循環論法なんだ?
何の為に「自郡至女王國 萬二千餘里」と書いてあると思ってるんだ?
0874日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 23:42:38.84
>>872
呼子からほぼ南方向に歩き
唐津付近でほぼ東に方向を変えて歩いたんだよ
だから東南。
0875日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 23:45:05.73
>>868
>だから「自郡至女王國 萬二千餘里」と書いたんだよ。

頭悪い人なのかな?
「だから」になってない

渡海経路に島巡りで距離に算入するという注記も注釈もない理由になってない

魏志倭人伝は《九章算術》のような「算書」じゃないんだから、
合計があるから計算しろという書き方はない
0876日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 23:48:00.20
>>870
>結論ありきで九州北部までを一万二千里と定義したんだよ。

つまり、意味のない数字だって認めるんだな?
ならば、邪馬台国の比定地探しには使えない
九州説の唯一の拠り所の行程パズルに意味はないと認めるんだね!

九州説は成立しないってことで、終了!
お疲れ様でした
0877日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 23:51:27.47
>>871
>島巡り仮説に従えば壱岐の南端からは東松浦半島の北の端に着くことになる

また適当なことを書いてるなw

むしろ島巡り仮説に忠実に従えば、壱岐の南岸を東の端まで航行しなきゃならないから
東松浦半島からは離れていくぞ

対馬海流でも東に流されるし、東松浦半島に着くためには思いっきり海流に逆らわないと行けない
無茶をさせるねぇ
0878日本@名無史さん垢版2018/08/21(火) 23:54:36.14
>>876
魏志倭人伝は、九州が邪馬台国だという前提で書かれているんだよ。
畿内が出てくる余地はない。
0879日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 00:10:48.57
>>874
>呼子からほぼ南方向に歩き
>唐津付近でほぼ東に方向を変えて歩いたんだよ

またデタラメ書いてる
唐津から東に行っても伊都国には着かない
その後、北に行かないとダメ

>だから東南。

だから、東南にはならないんだよ、どうやってもな
0880日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 00:12:19.38
>>878
>九州が邪馬台国だという前提で書かれているんだよ。

その「前提」は、九州説の頭の中にしかない
まあ、言ってしまえば妄想の類いだよな
0881日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 00:16:55.08
>>873
>どこが循環論法なんだ?
>何の為に「自郡至女王國 萬二千餘里」と書いてあると思ってるんだ?

その萬二千里に合わせるための島巡り仮説だって白状してるじゃないか
そこで、理由と根拠が循環してるんだよ

実際、萬千三百里だったら、島の二辺じゃなくて、一辺を算入するって言うだけだろ?
結論に合わせて計算法を変えてるんだから、計算が合うから正しいなんてのは通らない
0883日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 01:29:42.98
行程は九州説でも住んでるところによって読み方が違うからな
学問じゃないしお爺さんがパズルで遊ぶのはべつにいいと思う
0885日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 07:09:00.33
ムサシは死んだ
フルタも死んだ
九州王朝説も、死んじまったのだ。。。
0886日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 07:11:01.16
>>882
>足し算ができれば、普通は九州説になるからね


行程がどうこう言う前に、邪馬台国論争はとっくに決着済み。 
そして、九州は「其山有丹」で邪馬台国論争の参加資格は端から無し。  @阿波
0887日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 07:22:33.65
どう計算しても畿内にはならないからといって、ちゃぶ台を返そうとするなよ。
畿内説の負けは確定しているんだよ。
0888日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 07:48:12.63
当時、九州には
半島・大陸と交流できる強大な「倭国」があり、大勢の「倭人」が住んでいた。
かたや大和は片田舎の小国で、僅かばかりの倭種が細々と暮らしているに過ぎなかった。

にもかかわらず、フルタは、
畿内大和には、すでに強大な諸国が台頭して、一大帝国を形成していた。
その対抗軸として、九州福岡辺りに弱小の女酋国家があり、支援を売るべく大陸に媚を売っていた。
それが「九州王朝」の卑弥呼であった・・・。
このようなロジックで、倭人伝を講釈しようとしていたかのように読める。
内心は、あくまで畿内大和王朝が主、田舎九州王朝は従、にすぎなかったのであろう。
0889日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 08:41:25.53
>>875
君の方が頭悪いんだよ
「自郡至女王國 萬二千餘里」と書いている以上は行程きょりは12000里なんだよ
だから各行程距離を合計すれば12000里になる
計算の合わないことを陳寿は書かない
つまり島巡りで距離に算入するという注記が「自郡至女王國 萬二千餘里」なんだよ。
>>877
意味不明?ちゃんとした日本語でお願いします。
>>879
現地で確認してみてください
君の言ってることの方がデタラメだよ。
>>881
島の二辺ですよ?
>>883
パズルではなく倭人伝の正しい読み方の研究ですよ
倭人伝の研究を放棄したら邪馬台国論争にならない。
0890日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 08:43:39.40
>つまり、唐代にいたっても、実測地と関係のない里程が書かれていたということで、
それを参考に比定地を探しても意味がないってことだ<

「唐代の実測」の記録はないんだから、唐代学者は、魏志の実測記録を参考にする。
当たり前の事。

大和説は、唐代の里記載の上でも、嘘つき騙しの行程パズル以外、何も根拠がない 。
0891日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 11:26:10.18
>>889

韓国、北部九州は起源に関する個人研究は盛んだね
0892日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 11:27:17.69
>>889
>「自郡至女王國 萬二千餘里」と書いている以上は行程きょりは12000里なんだよ
>だから各行程距離を合計すれば12000里になる

これについては、>>870
>結論ありきで九州北部までを一万二千里と定義したんだよ。

って書いてるだろ
実測値でもないし意味のある数字じゃない
0893日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 11:29:37.54
>>889
>意味不明?ちゃんとした日本語でお願いします。

島めぐり仮説では、島の二辺をたどらなくちゃいけないから、
壱岐の北西端について、西の辺を南下して南西端で東に向かって
南東端から南下しないといけないんだろ
0894日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 11:32:33.57
>>889
>島の二辺ですよ?

それは、たまたま萬二千里と書いてあるから島の二辺としてるだけで
たまたま萬千三百里だったら、島の一辺を算入するって計算するだけだよって話

結論に合わせて二辺にしてるだけで、何の根拠もない
結論に合わせて計算してるのに、計算が合うから正しいと言い張るのはただの循環論法
0895日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 11:34:49.08
>>889
>パズルではなく倭人伝の正しい読み方の研究ですよ

正しい読み方を「研究」する時点で、方法論として間違ってるんだよ
魏志倭人伝の「正しくないところを確認する」までならいいけれど、
「こう読んだら正しい」を言い出したら、それはただのパズル

根拠のないただのお遊びにしかならない
0896日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 11:52:26.48
いやあ、今どき本気で島巡り仮説を主張するやつがいるとは思いもよらなかったよ

どうやっても正当性を示せない数字遊びしか、九州説の頼れるものはないんだな
改めて、九州説の追い込まれ具合が如実になったな
0897日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 12:03:55.71
「認知症の発症リスクを最も下げるものは何か」という大規模な実験が、
トロント大学のDr.Raza Naqvi率いる科学者たちによって行われて
成果を発揮したのが、パズルによる脳トレーニングだったということだから
行程パズルも悪くは無いけれども、どうしても1パターンになってしまうから
いろんなパズルをやったほうがいいと思う
0898日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 12:21:12.06
>>892
どこが結論ありきなんだ
陳寿は「自郡至女王國 萬二千餘里」と書いておきながら
12000里の内訳を書いてないなんて有り得ないっですよ。
>>895
矛盾ない読み方が正しいんです。
>>896
結局島巡り仮説を否定する根拠は畿内説に都合が悪いからだけですね。
0899日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 12:27:02.40
>>894
方可〇〇里は縦横の変が〇〇里の土地の意味ですから
縦横二辺じゃないといけませんよ
魏使が通過した距離。
0900日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 12:33:02.55
>>899
>方可〇〇里は縦横の変が〇〇里の土地の意味ですから
>縦横二辺じゃないといけませんよ

いけませんよ、という言葉こそ、問うに落ちず語るに落ちたことの証明
0901日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 12:36:08.93
>>900
何で?
縦横の一辺の長さが〇〇里の土地の意味だから縦横二辺の長さでしょ???
0902日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 12:49:39.01
島を通過するのにわざわざ島の2辺に沿って進むのか?
バカじゃねーの?
0903日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 13:01:56.98
中国史書の、地理・旅程記事は、国の中心点と中心点の間の距離と方角で示すのが基本
まあ、古代のことや、長距離になるとそこまで正確でもないけれど、基本はそういう書き方になってる

九州説のいう、国の端に着くところまで、とか、出発方向、とか、島の二辺をめぐる、とか
いうのは全て、他例を一つも挙げることなく、結論ありきからの逆算を、こう読めば正しいと
言い張っているだけの循環論法

決して正しいことを客観的論理的に示すことのできない牽強付会の強弁に過ぎない
0904日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 14:30:27.12
>>901
>縦横の一辺の長さが〇〇里の土地の意味だから縦横二辺の長さでしょ???

航路の途中の島の横を通るのだから、一辺の長さを加えるのが当然でしょ???
と何の差異もないんだよ

要するに、如何様にでも説明は付けられる
それを結論からの逆算で、二辺としているだけで合理的な理由は何もない

今余っているのが1500里だから、二辺と言っているだけで
余っているのが800里だったら、「それぞれの島の1辺を加える」っていうだけだよ
0905日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 14:56:37.91
>>903
中国は大陸国家ですから島から島への旅程記事の例がないだけ。
>>904
今の航海なら島に近づかずいて航海する必要はないが
昔の航海は島から島へですから島の北岸に着いたら南岸まで島を半周する必要がある
数学に強ければ正確に距離を算出できるけど
計算できなかったので簡易的に二辺としているだけ。
0906日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 15:02:52.48
>>905
>昔の航海は島から島へですから島の北岸に着いたら南岸まで島を半周する必要がある

こんなこと書いていて、恥ずかしくならないの?
0907日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 15:09:20.59
仮にも島と島の間を渡れる外洋船なのに、島を半周しなきゃいけないって
おかしいと思わないのかい?

渡海千里3回は、全て、南方向で書いてある(最後は明記はしてない)
朝鮮半島の海岸沿いのときは乍南乍東ときちんと、東にも行くことを明記している

島の二辺で、南側を東に行く行程が書いてないのはどうしてだ?
島に沿って南にいくなら、一辺分だけの方が筋が通ってるじゃないか?

どちらにしても、島めぐり仮説ってのは「九州説ってこんなバカなことを
根拠にしてるんだぜ」という文脈でしか、言及されないものだと
早く自覚できるといいね

島めぐり仮説で検索をかけてごらんw
0908日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 15:11:59.32
>>907の補足
「仮にも島と島の間を渡れる外洋船なのに、島を半周しなきゃいけないって
 おかしいと思わないのかい? 」

もう少し分かりやすく書こうか

外洋船なんだから、外洋から目的の港につけて、目的の港から出航するだけだよ
島を半周する必要はない
0909日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 16:11:29.62
島の2辺を加えた場合、海峡間水行は4400里になるんだけど、
里数と日数の重ね読み案では
水行を1日千里として「水行十日」を郡からスタートにして
1万里=10日で九州島上陸だったんじゃなかったの?
0910日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 16:14:45.28
「水行10日、陸行1月」っていうのは、水行の後に陸行したという意味じゃ無くて
水行したり、陸行したりした、それぞれの合計日数らしいよ
0911日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 16:20:27.80
>>908
外洋船と言っても沿岸航海ですから
陸地の見える範囲内での航海
海峡の一番狭い所を渡り最寄りの港に入港して次の港へ
必然的に島の北の港に着き、南側の港に回る必要がある。
>>909
海峡間水行は4400里でここを10日で渡った
>1万里=10日で九州島上陸だったんじゃなかったの?
私は知りません、別の人が言ったことでは?
0912日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 16:22:34.44
>>910

どこからどこまでを「水行十日陸行一月」したの?
九州説は人によって違うんだけど
0913日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 16:27:02.16
>>911

水行二十日の投馬國を朝鮮半島な
九州説でも特殊な人間だけだよな
0914日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 16:54:18.88
投馬國を朝鮮半島側に比定してるのは朝鮮の人なんだろうけど
糸島側の遺跡のことはあるていど日本人の九州説も知ってるから
朝鮮半島側の5万戸の領域の遺跡を提示して九州説とは別名の説にしたほうがいいよ
九州説としてレスすると会話が紛らわしい
0915日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 16:58:36.64
>>913
倭人伝の記述に従えばそうなる
水行二十日、7000里で投馬國(狗邪韓國)
更に水行十日陸行一日(月)、5000里で邪馬壹國(伊都国、奴国)
0916日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 17:00:09.94
>>914
生粋の熊本県民ですw
0917日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 17:04:36.53
>>915

なぜ「水行十日陸行一月」の後の「日」だけ字が滲んで「月」になったの?
中国の竹書に書かれた他文献の「月」も「日」が滲んでるという説?
0918日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 17:12:09.79
>>916

熊本駅西側もコリア系がけっこう多かったみたいだけど
北部九州側の7万戸に2万戸も含まれてるなら
朝鮮半島側と九州側とどっこいの領域だな
朝鮮半島側の倭国の投馬國遺跡群を提示してよ
0919日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 17:14:34.74
>>915
総時間を示すのに水行が二回も出たらまずいだろう。
読み方が違うんだよ。
0921日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 17:20:07.44
>>915
>水行二十日、7000里で投馬國(狗邪韓國)

ここでも二重帳簿詐欺をするのか?

狗邪韓國と投馬国は別の国だろ?
それに狗邪が倭人の国だったら、狗邪倭国だろうに

狗邪韓國は烏丸鮮卑東夷傳の弁辰にある弁辰狗邪國だろう

そして、弁、辰韓、合二十四國のうち、大國四五千家、小國六七百家だから、
半島南部にはどうやっても五万戸の国は入らない

半島南部投馬国説は成り立たない
0922日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 17:22:06.74
>>911
>必然的に島の北の港に着き、南側の港に回る必要がある。

そういう妄想はいいから
対馬や壱岐の、「島の北の港」遺跡なんてないだろ?
0923日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 17:22:21.10
今後は九州説と区別するために名称を熊コリアン伊都説にして
朝鮮半島の考古中心の研究が課題だな
0924日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 17:26:07.90
よそのスレで出てたけど、日数も「道里」の表記だからな

つまり
投馬国
「南至投馬國、水行二十日」「可五萬餘戶」
邪馬台国
「南至邪馬壹國(女王之所都)水行十日、陸行一月。」「可七萬餘戶」
で両方とも、道里、戸数が略載されている

つまり、投馬国は自女王國以北、其戶數道里可得略載の中に入る、
邪馬台国より北の国

北部九州説はここで破綻する
0925日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 17:29:41.08
>>924
>北部九州説はここで破綻する


とっくに「其山有丹」で破綻してるよ。  @阿波
0926日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 17:35:23.91
>>917
隋書の月も日だろうな。
「其國境東西五月行南北三月行各至於海」
0927日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 17:40:45.31
>>924
>よそのスレで出てたけど、日数も「道里」の表記だからな

詐欺師
0928日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 17:41:25.84
>>926

唐の時代のも月も滲んでるのかw
熊コリの課題は半島の考古と滲んだ月の収集
0929日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 17:44:21.65
>>921
狗邪韓國と弁辰狗邪國が同じ国だとの根拠はない
単に名称が似ているから同じじゃねえってぐらい。

入らないってのは思い込みです。
>>922
港の遺跡?船が入港できればいいだけの場所ですよ。
>>924
邪馬壹國の首都圏である伊都国、奴国以北が自女王國以北です。
0930日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 17:54:23.83
>>929
狗邪韓国は船がつけるくらいの小さな港町だったんだろうなあ。
5万戸の領土なんかじゃないよなあ。
リアス海岸にへばりつく集落だろうな。
つまり投馬国は宮崎。
0932日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 18:40:22.48
>>927
>詐欺師

あーここに出たか
反論一つできないときの、根拠なしの一言レス!w

《九章算術》[西漢 - 新] 公元前120年-20年
《均輸》
今有均輸粟:甲縣一萬戶,行道八日;乙縣九千五百戶,行道十日;
丙縣一萬二千三百五十戶,行道十三日;丁縣一萬二千二百戶,行道二十日,各到輸所。
凡四縣賦,當輸二十五萬斛,用車一萬乘。欲以「道里」遠近,戶數多少,衰出之。
問粟、車各幾何?

各県から輸所までの、日数が書かれているのを、「道里」と表現しているのが分かるな?
「道里」は「旅程」であって、「日数」でも表せる
「道里」は「里数」とは限らない
0933日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 18:41:20.39
>>929
>港の遺跡?船が入港できればいいだけの場所ですよ。

つまり実証もできないものを勝手に言い張ってるだけの根拠なしってことだな
0934日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 18:42:13.00
>>929
>入らないってのは思い込みです。

つ大國四五千家、小國六七百家

五万戸の大国はない
0935日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 18:43:29.08
>>929
>邪馬壹國の首都圏である伊都国、奴国以北が自女王國以北です。

いくらそんな二重帳簿詐欺をしても、今度は可七萬餘戶が矛盾する
北部九州説は、無理矛盾だらけを強弁しているだけ
0936日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 19:01:06.27
>>932
>「道里」は「旅程」であって、「日数」でも表せる

東夷の人は道里を知らず、日を以て計るのみ
倭人も道里を知らず、日を以て計るのみ
よって、やむを得ず、道里の代替に日数を以て示したのだ
0937日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 19:05:21.51
>>936
>代替に日数を以て

日数を以って道里を略載したんだろ?
何も問題ないな

里数を知っている漢土の県の話でも、輸所までの道里を日数で普通に表してるんだから
何も問題のない、普通の表記法ってこと

つまり、投馬国は「自女王國以北、其戶數道里可得略載」の国
0938日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 19:10:51.04
島巡り合算て古田君の真骨頂やな?
まあ個人的には眉唾やけど(ごめん
ただし東夷伝には方◯◯◯里が国同士の位置関係距離感表現するにあたり重要な因子やな?

夫餘在長城之北,去玄菟千里,南與高句麗,東與挹婁,西與鮮卑接,北有弱水,方可二千里。戶八萬

高句麗在遼東之東千里,南與朝鮮、濊貊,東與沃沮,北與夫餘接。都於丸都之下,方可二千里,戶三萬。

東沃沮在高句麗蓋馬大山之東,濱大海而居。其地形東北狹,西南長,可千里,北與挹婁、夫餘,南與濊貊接。戶五千

挹婁在夫餘東北千餘里,濱大海,南與北沃沮接,未知其北所極。


陳君の島ふたつの方◯◯里表記の意味これ如何に?
つうか2辺たすと満二千どこや?出雲?
0939日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 19:15:05.45
ダックは卑弥呼さんと邪馬壱切り離せば正解なんやけどな(残念や
0940日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 19:20:17.61
>>937
里数そのものでなく、あくまで代替品としての日数さ

やっぱり倭人も、そこを理解できないんだなww
0941日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 19:29:00.27
あーそうか
厳密には千里は渡海距離やね?
島巡り分は別かもなー
ただし伊都は伊都で卑弥呼さんの都で邪馬壱ではないなー
0942日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 19:29:15.55
>>936

>倭人も道里を知らず、日を以て計るのみ

「夷人不知里數」隋書

夷人(倭人)は里数を知らない
0943日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 19:40:49.04
>>926
「其南海行三月 有𨈭牟羅國 南北千餘里 東西數百里」
これも日の誤記だな。
0944日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 19:41:14.15
お?
ダックの技決まったな?
1本!それまで!
0945日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 19:43:26.25
>>943
それはどうやろ?ご都合主義や?
0946日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 19:44:27.27
>>934
投馬国は弁韓や辰韓とは別に在ったの。
>>935
可七萬餘戶の邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
0948日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 19:45:55.02
隋書て信濃まで旅行しはったやつやろ?
0949日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 19:45:59.33
>>945
朝鮮半島から𨈭牟羅國(済州島)へは3日もあれば渡れるよ。 
0950日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 19:46:36.65
>>943
>里数そのものでなく、あくまで代替品としての日数さ

《九章算術》《均輸》 の問題は、最初から最後まで日数
代替品とかではなく、道里遠近そのものが日数

道里というのが、今でいう距離とほぼ同じ意味の熟語として使われてるんだよ
0951日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 19:49:52.50
>>938
>夫餘在長城之北,去玄菟千里,南與高句麗,東與挹婁,西與鮮卑接,北有弱水,方可二千里。

夫餘は、長城の北にあり、玄菟を去ること千里、南は高句麗と東は挹婁と西は鮮卑と接し着たには弱水がある
方は二千里ばかり

二辺を測ったら、四千里になるね 玄菟からは千里だけど
0952日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 19:50:55.32
>>946
>投馬国は弁韓や辰韓とは別に在ったの。

それ、どの辺?
半島南部には、そんなに広い平野部もないんだが?
0953日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 19:51:51.31
あー
済州島の話でしたか
なんか勘違いしてた(ごめん
0954日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 19:52:19.05
>>946
>旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

其餘旁國遠絕、不可得詳。って書いてあるんだから、人口の分からない国がいくらあっても
邪馬台国の人口は分からないだろ
0955日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 19:52:54.69
>>950
>夷人(倭人)は里数を知らない
    ↑
これが目に入らぬのか
おぬしもノー天気なやからだ
0956日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 19:55:01.61
>二辺を測ったら、四千里になるね 玄菟からは千里だけど<

ん?
島巡りの舟の話ちゃいますよ?
少し考えてからレスしはったらえええよ?
0957日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 20:01:58.58
済州島に5万戸も入らないよ。
宮崎平野くらいなくちゃ。
福岡平野と筑後平野と佐賀平野を足した邪馬台国が7万戸なんだから。
0958日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 20:05:08.96
>>955
>これが目に入らぬのか
>おぬしもノー天気なやからだ

それ、話題の本筋からずらされてるから

今話題にしてるのは、大陸の紀元前の算書で、
日数が普通に道里として書かれていること
0959日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 20:06:29.28
>>956
>島巡りの舟の話ちゃいますよ?
>少し考えてからレスしはったらえええよ?

もちろん、島めぐりの船の話と違うよ?
国の間の距離は、国の中心間の距離で書かれてるってこと
方二千里とかは関係ない
0961日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 20:13:25.33
>>958
だからよ、
その「大陸の紀元前の算書」を、今、したり顔で講釈してるのは、
ほかならぬ東夷の倭人だってことよ
0962日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 20:21:56.59
>>961

この爺さんは何が言いたいのかわからんな
0963日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 20:27:04.26
漢人は道里(=旅程)を里数と日数で表す
夷人(倭人)は里数を知らないから日数だけで表す
0964日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 20:40:20.97
>>963
>漢人は道里(=旅程)を里数と日数で表す
>夷人(倭人)は里数を知らないから日数だけで表す

それでいいよ?
日数を「道里じゃない」とか言う人がいるから、それを確認してるだけ
0965日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 20:43:54.90
>>958
だからよ、
その「大陸の紀元前の算書」を、今(5ちゃんで)、したり顔で講釈してるのは、
ほかならぬ東夷の倭人だってことよ
0966日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 20:46:05.97
>>965

だから何?
0967日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 20:46:25.20
>>959
まあ落ち着いて下記読みなはれ
玄菟と夫餘と挹婁の関係に絞ってみた
中心同士やったら玄菟と挹婁が二千以下になって夫餘の方可二千里が収まらん?

夫餘在長城之北,去玄菟千里,南與高句麗,東與挹婁,西

挹婁在夫餘東北千餘里,濱大海,南與北沃沮接,未知其北所極。
0968日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 20:52:17.93
>>966
結局、おぬしも東夷の倭人の血筋だったってことよ。最後まで言わすな!
0969日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 20:56:34.09
>>968

うん、それで何?
0970967垢版2018/08/22(水) 20:58:29.12
国境がひしめきあってない世界やったらお互いの辺境同士の距離表現かもよ?
0971日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 21:01:22.06
>>957
宮崎平野にも5万戸も入らないよ。
0972日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 21:07:49.40
7万戸は出雲か吉備か河内やな?
狗奴国が吉備から近江が有力やから出雲に一票
0973日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 21:36:50.04
出雲は倭種
吉備、河内は裸國 黒齒國。
0975日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 21:49:19.18
卑弥呼さんのときは女王国は筑紫目線だから出雲も渡海千里の倭種や
でも陳君や壱与ちゃんの時は押しも押されぬ邪馬壱となるんよ?
0976日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 23:39:14.61
>>973
>裸國 黒齒國。

実在しない伝説の国を、日本列島上に置こうとする人はトンデモ
0977日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 23:44:16.01
>>975
>邪馬壱

これ、なんて読むの?
日本では、万葉集をはじめ、記紀の中の歌も含め上代の日本語が伝えられているが、
上代に母音の連続する言葉はないそうだよ

「邪馬壱」で何て読むつもり?
0978日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 23:45:33.85
>>968
そうやって、投馬国が戸数道里が略載されている国だってことから
話をそらそうとしてるんだろ?
0979日本@名無史さん垢版2018/08/22(水) 23:46:16.55
壱にもトの音があるそうだから、ヤマト
0980日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 00:44:17.65
>>979
>壱にもトの音があるそうだから、ヤマト

では邪馬台国(ヤマト国)で何も問題ないなw
0981日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 00:52:49.21
倭と書いてヤマトと読み、九州北部から日本海沿岸にかけてのこと。
0982975垢版2018/08/23(木) 05:52:09.69
>>977
おはようさん
倭人がヤマネいうてたのをききとらんかったんやろ
出雲市山根(わりとマジレス
0983日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 08:38:48.22
>>976
「去女王四千餘里 又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至」
女王を去る4000里また裸國、黒齒國がある、また在る場所はその南東に船行で一年くらいで至るか。
この船行一年は船行十二日を船行十二月と見誤ったものであろう
距離で4000里、約320q、船で十二日の所に裸國、黒齒國がある
裸國 黒齒國は吉備、河内であろう。 
0984日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 11:09:41.10
>>983
>裸國 黒齒國は吉備、河内であろう。

むちゃくちゃ書いてるなw

黒歯国、裸国辺りは、魏使からの報告ではなく淮南子墬形訓からの情報

淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「K齒民」、玄股民、毛民、勞民;

倭国が東の世界の端で、そこから
東の世界の端を南に行ったところに「黒歯國」があって、
南の世界の端を西へ行くところに「裸国」がある
0985日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 14:45:00.73
日本人じゃないからな
0986日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 15:32:28.38
>>984
裸國、黒齒國の名称を拝借したものであろう。
0987日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 16:45:31.68
>>986
>裸國、黒齒國の名称を拝借したものであろう。

実体がないのに、拝借も何もないだろうに
そうまでして、自分の非を認めるのがいやなのかい?
0988日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 16:49:49.28
フランス学者のピエール・ユアール(Pierre Huard)とモーリス・デュラン(Maurice Durand)によると、
東アジアにおけるお歯黒文化の範囲は
「南はインドネシア、東はソロモン・マリアナ諸島、北は日本、西は中国南部とインド南部である。
インドシナではこの習慣は北緯 25 度 35 分を超えない」という。
ベトナムの考古学者はホン河・マー河流域におけるドンソン時代(紀元前第 1 ミレニアム)の遺跡で
黒く染められた人骨歯牙を数多く見つけた。
ドンソン文化とほぼ同時期の中部ベトナム平野部を中心に、
甕棺葬と、有角式や双獣頭式の玦状耳飾りを指標とし、
各種の鉄器、紅玉髄や瑪瑙、そしてガラスビーズを伴うサーフィン文化が確認されている。
0989日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 17:43:50.69
>>988
いろいろ書いてくれてるけど、弥生時代の日本にお歯黒文化が
あったって話にはならないよね?

吉備河内が裸國 黒齒國という>>983は、トンデモだろ?
0990日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 17:51:08.86
>>989

まあ、あったとしたらベトナムの紀元前の遺跡で見つかっている文化と共通性がある
北部九州甕棺分布地域には一部あった可能性はなくはないだろうね
0991日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 18:01:26.06
日本のお歯黒文化はいつ始まったんだ?
0992日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 18:07:24.25
調べたら、古墳時代にはお歯黒があり、遺体や埴輪に痕跡があるのだそうだ。
少なくとも3世紀半ばにはあったとさ。
鑑真が奈良時代に持ち込んだ技法が優れていたが、それより前から風習そのものはあったとのこと。
0993日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 18:09:38.13
キナイコシの「ないない」主張がまた始まった。
0994日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 18:14:01.00
>>992

6世紀の東大阪の大藪古墳だな
『和名類聚抄』には、「歯黒国、在東海中、其土俗以草染歯、故曰黒歯 俗云波久路女」
と記される。
0995日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 18:28:28.21
ただ、一次情報がない
ポーラ化粧品のウェブページですら、
「縄文時代の古墳から発掘された人骨や埴輪に、お歯黒の形跡を見ることができます。
 3世紀末に記された中国の『魏書』(通称:魏志倭人伝)に
「黒歯国東海中に有り」と記載されており、当時すでにお歯黒が行われていたことが伺えます。」

などと書いてあり、「縄文時代の古墳」とか、「3世紀」の典拠が結局魏志倭人伝だったりとか、
みんな、どこかで読んだことの二次情報ばかり

埴輪、鉄漿で検索しても、鉄漿を表現していると考えられる埴輪はヒットしない
0996日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 18:35:26.06
ありがとう
大藪古墳、調べたよ

「北側の棺内に5体、南側の棺に2体、玄室前部に1体、羨道(せんどう)部に3体以上、
 計11体以上の人骨が埋葬されていた。石棺内の人骨は、追葬の際、先葬者の遺骨を
 集めて収納したものと認められ、古墳時代後期(6世紀末〜7世紀初)における
 多人数埋葬の一つのあり方を示すものとして有名。
 
 『形質人類学者島五郎の鑑定』によると、
 熟年・壮年期の人骨10体のうち6体までの歯牙(しが)には
 黒色彩色が施されていた『らしい』。」

どうやら一次情報はこれだけみたいだね

島五郎先生は、大阪市立医科大学(現・大阪市立大学医学部)の解剖学の教授で
「高松塚古墳出土人骨の研究」をした人だそうだ

大藪古墳以外の、古墳時代の鉄漿の例はどうやら見つからないようだね
大藪古墳は古墳時代後期(6世紀末〜7世紀初)

3世紀っていうのは、先のポーラ化粧品のページのような、伝聞だけのようだ
0997日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 18:38:05.88
日本に黒歯国があったっていうのは、やはり無理だろう

魏志倭人伝でも「又有裸國、黒齒國、復在其東南、船行一年可至。」と
倭国から遠く離れた国として書いてるんだし
0999日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 18:48:10.84
倭国(九州)から遠く離れた黒歯国(大阪)だけの習慣だったのかもね。
1000日本@名無史さん垢版2018/08/23(木) 19:05:15.53
卑弥呼さんの都が伊都で壱与ちゃんの都が出雲の邪馬壱だったことを御理解頂きました?
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