>>273
>相変わらず詭弁にもならない駄論を書き連ねているなぁ 本当に頭悪い
ザラコクの信奉する古田史学では、白村江まで九州王朝が存続しているっていう主張なんだろ?<

違うね。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku5/satiyam5.html
の「残映」にも書かれているように、古田説は、

ついで同じ『宋史』日本伝中、興味深い記事がある。
「天聖四年(一〇二六、後一条天皇、万寿三年)十二月、明州言う、
『日本国太宰府、人を遣わして方物を貢す。而も本国の表を持たず』と、詔して之を卻(しり)ぞく。
其の後も亦、未だ朝貢を通ぜず、南賈(なんこ)時に其の物貨を伝えて中国に至る者有り」。
日本国の太宰府から、中国(北宋)へ朝貢をもってきた、というのである。
明州からの報告だ(明州は今の寧波、すなわち、浙江省〔会稽道〕勤*県)。
しかも、日本国王の上表文をもたず、単独で自主的に献上してきたのだ。
しかし、中国の天子はこれをしりぞけた、というのである。
 十一世紀前半といえば、日本では平安期中期だ。九州王朝の滅亡(七〇〇年)からすでに三世紀を越えている。
しかるに、このような事実。 
ーーそれは一世紀志賀島の金印授与以来、九州王朝の根深い、対中国関係の伝統を物語っているであろう。
そして中国側から「朝貢」を拒否されてもなお、「南賈」(南方の商人)を通じて“「朝貢」の名なき朝貢”を送りつづけている、という。
わたしたちは、ここに東シナ海を渡って南朝と国交をもちつづけた九州王朝の永き残映を見ているのである。

という説だよ。

>そしてその間ずっと古墳を作ってるよな? でもその間ずっとしょぼい小さなものだけ
魏朝は、265年に終わってるんだが、その魏が終わった後 薄葬令をいつまで守ってたっていうつもりなんだ?<

墓は、横穴式石室や装飾古墳に中身を変えて、外からの見た目には薄葬令を守っている。