北条泰時は日本史上唯一の革命家
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えらいシブいスレやな。続法窓夜話で穂積陳重先生も激賞しとったで(´・ω・`) 泰時って合戦に際してはあんまりいい所がない
和田合戦の時は二日酔い、承久の乱でも総大将自ら川に飛び込もうとするし
吾妻鏡の記述を見てても泰時をちょっと茶化してる所がある 朝廷内の皇位継承に口出しし出家予定の後嵯峨天皇を即位させたため
公家たちから嫌われた
御家人たちから絶大な信頼を得ていた尼将軍・北条政子が死去してからは
北条独裁ではなく御家人たちによる合議制にせざるを得なかった >>107
御成敗式目を参考に建武式目を定めた尊氏はくしくも泰時の子孫の一人
江戸時代の寺子屋ではこれが書道の手本
実質明治憲法発布まで日本の憲法がこれだったと言える >>127
さすがに違うわ
朝廷が定めた飛鳥浄御原令やら大宝律令のほうが先行するし
もっと多くを網羅している
御成敗式目は幕府御家人にのみ有効な法令で
朝廷や庶民は無関係だったし 北条泰時がいなければ鎌倉幕府はもっと短命で終わっていただろ 北条氏と鎌倉幕府
執権北条氏は、なぜ自ら将軍とならなかったのか。その謎を解き明かした興味深い本です。
鎌倉時代の武士の荒々しい実像を初めて知った思いがしました。鎌倉時代の武士たちは、自分たちを「勇士」と称していたが、要するに野蛮人だった。
京都の王朝貴族は東国武士を蔑んで「東夷」(あずまえびす。東に住む野蛮人)と呼んだが、そのとおりだった
紛争解決方法として相手を殺すことを即座に選ぶ武士たちが作った鎌倉幕府は、まさに蛮族の政権であり、王朝のような知識の蓄積はほとんどなかった。
鎌倉武士たちは支配機構を手探りで作っていった。鎌倉幕府の歴史は、東夷たちの悪戦苦闘の歴史であり、すなわちムダな流血の連続だった なにわ武士だよ源平は
治承四年、ポンコツ平家と臆病な畿内童貞侍の皆さん、水鳥の羽音に狼狽し我先にと逃げ帰る。
山槐記…宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww
吉記…於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww
吾妻鏡…所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww
寿永二年、ポンコツ平氏は山城、大和、摂津、和泉、紀伊の包茎侍どもを招集(『盛衰記』)、木曽討伐に向かうも惨敗。
河内長野の貞弘戦死、季国戦死、摂津の重経、紀宗時らは尻尾を巻いて逃げ帰りました。
寿永三年、負け犬行家さんと石川源氏が連合で木曽に喧嘩を吹っ掛けるも、信濃の猛将樋口様にビビって小便漏らしながら逃亡。
【なにわのトップ】
摂津の国守護は剛毅の士・長沼宗政様(下野国出身)
河内の国守護は知勇兼備・三浦義村様(相模国出身)
和泉の国守護は弓馬無双・佐原義連様(相模国出身)
悲報、相模和田氏出身の河内国司・藤原秀康さんと弟の秀澄さんが長年の京暮らしで都の悪風に染まり
幕府から「天下乱逆の根源、この両人の謀計に起こる(承久の乱)」とまで言われてしまう。 アベコロナ「コラ吉村早く宣言解除して、府民みんなで、馬鹿騒ぎしろや、変異株が退屈しとるやんか」
いそじん「すんまへん、もう少し待ってくださいなんとかしますから」 北条義時はチンギス汗と同時代人だな。
安藤五郎を十三湊に配したのは、北回りでモンゴル軍が攻めて来るのを警戒したからか。 >>143
あるわけない、とは言えない。
義時の時代、モンゴルと対立していた東夏国が日本に同盟を求める使者を送って来ている。 >>144
そんな話はない。どこで聞いた話?妄想?
あとずっとあとになるけど、三別抄の使者が来てもとんちんかんな対応しかできなかったも思い出してくださいな。ついでに時宗の元使節へのむちゃくちゃな「対応」とか(笑) >>145
日本は三別抄の使者にとんちんかんな対応なんかしてないぞ。
幕府が朝廷に三別抄からの牒状を提出したのは1271年9月。
この牒状の差出人が三別抄からのものだと判明してるのは「国都を珍島に移した」という
一文があるからだが、実は4ヶ月前の1271年5月時点で、珍島は元高麗連合軍の攻撃によって陥落。
三別抄の主力部隊は壊滅し、擁立した王も殺されてるんだよね。
朝廷が困惑しスルーしたのは当たり前の反応。
時系列無視してそれを批判してる連中が、とんちんかんなんだよ。
ついでに時宗の元使節への「対応」は完璧だろ。
13世紀には東洋から西洋まで様々な国がモンゴルと外交を行ったが、時宗以上の
「対応」を行った国があれば具体名をあげてくれ。 >>146
それは見解の相違だと思うぜ。とりあえずさ、144の妄想の件は気にならないみたいだな。 東夏国が使者を送って来たのは、マイナーなだけでちゃんと史料にある話だよ >>148
嘘つくなよ。ないから。中世の史料は限られてるんで、確認はできないなんてないし。 >>149
吾妻鏡元仁元年二月廿九日条
百錬抄元仁元年四月十一日条 >>150
あほくさ。
高麗人が越後に流れ着いて、朝時が取り次いで頼経に連中の弓矢を進上しただけの話だよ。バカ?ちゃんと読めよ、吾妻鏡。 >>148
まともな中世史料にマイナーもへったくれもねえよ。妄想はいいかげんにしてくんね? >>151
吾妻鏡には、漂着船の遺品の中の銀簡に記された謎の4文字が記載されてるんだけど、
それがロシア領内の東夏国の城跡から発掘された銀簡の文字と一致したんだよ。
だからこの漂着船には東夏国の国使が乗船してたことが判明してる。
そいつらは京都を訪れてることから、明らかに政治的な目的で来日した。
この事実は、学術的にはそれなりに注目されて論文もいくつかあるけど、一般的には
マイナーな話だろ。
現におまえは知らなかったじゃん。 >>153
それは金国の通行証だよ。バカ?
その話はマイナーな史料でもなんでもねえしな(吉川の現代語訳吾妻鏡の注にある話だよ。9の197ページにあるよ) >>153
お前はどうせネット上のヨタ話を鵜呑みにしたんだろ。
金国の通行証持ってた連中が密使とか、バカな妄想はうぜえよ。 漂着した奴が密使なら、ジョン万次郎も日本の民主化を訴えるためにアメリカに渡ろうとした密使かもな(笑)(笑) >>154
金じゃないよ。
金なんて当時はモンゴル軍の侵攻で日本海沿岸とは完全に切り離されてたじゃん。
東夏国はその日本海沿岸部で金から独立した国。
東夏国の通行証持ってたんだから東夏国の国使なんだよ。
妄想はいいかげんにしなさい。 >>157
通行証もってたら密使だかよ。お前の妄想だな。もしくはヨタ話の受け売り。 >>157
お前さー、私が提示した吉川の現代語訳の注見てないのか?金国の通行証って明記されてるぞ。マジで妄想は止せよ。 金国の通行証が、なんで東真国の通行証になるんだ?ひでえ妄想だよな笑 >>159
また妄想書いてるよ。
東夏国の通行証だよ。
東夏国の遺構で発見された通行証と一致したんだから。 >>161
金の通行証だよ。だから出土場所なんか関係ないし、吉川の吾妻鏡にもいえよ、あほ。 通行証は金国のなんだよ。つまり持ってる奴は高麗人でもあるかもしれないわけだよ。通行証だからね。
なんにせよ金の通行証なのは学術的にも確定した話だよ >>162 >>163
諦めろ。
最新の学説では東夏国からの使者だったのが定説。
『元・明時代の女真(直)とアムール河流域』中村和之
>なおこの牌子は、年代から考えて金ではなく東夏のものと考えなければならない。 北条泰時の時代は、まだ北条氏嫡流の力は万全ではなかった。
北条氏嫡流の力が別格になったのは、北条時頼の時代から。
その頃から、北条氏嫡流のことを得宗と言い出した。 >>166
得宗は北条義時のことだから
ただ北条時頼は次男坊で早世した兄で先執権の経時には男子がいたのに
まだ幼いという理由から執権になった
時頼は兄の遺児たちをすべて出家させて執権を譲らず
自分こそが北条義時の嫡流であり
自分の子孫だけが北条宗家として優先的に執権の座に就くと宣言した
これをもって得宗政治の確立とはいえるだろうがな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています