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天下人のナンバー2を語ろう
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0001日本@名無史さん垢版2018/05/11(金) 23:39:27.84
武家政権の草創期、天下人の創業を支えた優れたナンバー2達がいた。
ナンバー2はトップとは異なる資質・能力を持って、組織作りに貢献した。
そんな異能のナンバー2を主軸に、組織論・部下の心得まで またーり語りましょう。

【盟友】   北条時政  佐々木道誉  前田利家
【ブレーン】 大江広元  夢窓疎石   天海
【外様】   梶原景時  明智光秀   藤堂高虎
【筆頭】   和田義盛  高師直    井伊直政
【親族】   源義経   足利直義   豊臣秀長
【黒幕】   二条良基  千利休    茶屋四郎次郎
【重鎮】   三浦義村  斯波義将   土井利勝
【参謀】   黒田如水  本多正信 

※あくまで個人の主観です。 似たタイプを仕分けてみました。
0002日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 00:31:39.29
信長とナポレオンにはナンバー2も参謀もブレーンもいなかった。
天才型独裁者は1人で決め、部下は全員横並び一列の駒だから。
0003日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 03:12:49.69
しいて言えば光秀か秀吉かね
0004日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 03:44:16.99
>>3
佐久間信盛が追放されたから後は光秀がナンバー2だな
信盛追放の理由を述べた信長の文章でも光秀、秀吉の順だし、
それから本能寺までは畿内の織田軍を統括していて、武田攻めでも、その後に予定されていた毛利攻めでも信長と一緒に動いているからね
そういえば正親町天皇の前で行われた馬揃え仕切ったのも光秀だったね
0005日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 07:42:33.32
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺

https://youtu.be/iBIA45CrE30
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
https://www.youtube.com/watch?v=SiHp41uWo1I
https://www.youtube.com/watch?v=zYBCTRryFP8
https://youtu.be/-wF31xbwqPM
0006日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 22:11:48.07
平清盛にはNO,2はいないのかね。強いて言えば倅の重盛か?
大河ドラマでは家人の平時貞だったな。
0007日本@名無史さん垢版2018/05/12(土) 23:41:54.08
>>6
平時忠だろNo2は
0008日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 00:57:09.19
時忠の雑魚感は半端ない。 ナンバー2という意味は官位や序列の意味ではない。
まだ頼盛ならわかる。安倍政権における石破さんの立ち位置がこの人。
0009日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 14:34:30.21
>>1の見方がわからない
0010日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 15:23:58.57
>>9
組織におけるナンバー2というのは色々な定義づけが可能です。肩書や序列が最も解り易い行けれど、
実力やトップとの親疎(距離)によるもの、あるいは専門能力によってその組織では
他に並ぶ者のない人材なども「ナンバー2」と考えられます。
 3つの幕府や織豊政権において、そういったナンバー2を集め、似たような役割の人を集めてみました。
実はこの表は私の思い付きではなく過去に読んだ本の中で挙げられた人達であります。 他紙多彩な「ナンバー2」の面々を眺めると、 その武家政権の成り立ちや性格も浮かび上がり興味深いものがあります。

以前 BS−TBSで放映されてた「THEナンバー2」なども参考にしました。
0011日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 15:42:59.99
解りづらいケースを2つ解説します
【ブレーン】
 幕府創業者の文官ブレーンで特に、政権構想・国家構想に指導的役割を果たした人たちです。
大江広元・・・・・鎌倉幕府評定衆。文字通り幕閣、社会主義国で言えば政治局員ですな。
          この人は守護地頭の設置を強く勧め、また承久の乱では逡巡する北条父子に対して
          幕府軍東上を強硬に主張した人でもあります。
夢窓礎石・・・・・当代随一の禅僧であるとともに尊氏の政治顧問。 室町幕府の憲法である建武式目制定の
          諮問に預かってますな。
天海・・・・・・・・・家康を東照大権現に神格化し、 徳川幕府の「神権政治」を築いた人です。
          風水にも詳しく、江戸を「霊的バリアー」で防御された都市計画を立案しました。
0012日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 15:56:04.68
BS−TBS THEナンバー2
http://www.bs-tbs.co.jp/no2/backnumber.html

↑少し異論もあるんですけどね。 まあ参考まで。 番組は面白かったです。

【黒幕】
二条良基・・・・・足利義満のお師匠さんです。 同時に滅びかけてる北朝を立て直し、
          現在まで皇室(北朝天皇)を存続させた功績者です。 大分以前、月刊「歴史読本」の
          ナンバー2特集でこの人を室町幕府のナンバー2に挙げてる人がいたので真似しました。

ま、こんな具合で仕分けたのが>>1ということで。
0013日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 21:14:46.68
>>12
その番組は見てたけど、
家康のナンバー2が複数いて、醒めてしまった記憶が残ってる
0014日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 21:21:57.02
信長にも家康にもナンバー2はおらん
真性の独裁者だからな

秀吉には秀長というれっきとしたナンバー2がおったが
これは、秀吉は信長の部下としていくつもの戦線を掛け持ちしなきゃならなかったので、
留守居役がどうしても必要だった名残だろうね
0015日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 22:40:26.71
天下人ってだれ?
例えば足利尊氏は天下人だろうが、室町幕府最強は足利義満でしょ
藤原道長や後白河法皇も天下人ですかい?
鎌倉執権政治の時代は天下人は得宗ですかい?
0016日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 23:19:34.81
>>15 
北条時代のナンバー2で有名どころを挙げると、北条時房・政村・宗方、安達泰盛など。一応 >>1では「武家政権の草創期」「創業」というコトバで範囲指定をしましたが、 別に平安王朝でも戦国大名でもいいスよ。独自のナンバー2論をやっちゃってください。
 足利義満は私の主観で「第2創業者」と捉え、義満スレでも書き込みする位のファンなので、義満のナンバー2を2人もごり押ししたんですけどねえ。足りませんか? つ二条良基 斯波義将

本当は凄い斯波義将 (ウィキ) 
0017日本@名無史さん垢版2018/05/13(日) 23:34:45.11
発射ミス
斯波義将
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AF%E6%B3%A2%E7%BE%A9%E5%B0%86
この人、北条義時と少し似てるんよね。

義満のナンバー2としては細川頼之は外せないんだけど、幼少期の後見人ちゅうのは、
ちょっと私の主旨からずれるのでパスしました。 まだ弟の大納言満詮を入れたいけど
この人は影薄すぎ。豊臣秀長とは大違い。
弟繋がりで行くと保科正之はナンバー2の鉄板だけど幕府創業期でもないし、トップは幼君だし、
これもアウトにしてみました。
 組織の創業者、それに仕えるナンバー2。 サラリーマンなら一家言ありましょう。
0018日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 22:37:31.28
武田信玄のナンバー2は誰になるかね?  候補者が多くて決めかねる。
0019日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 22:41:53.97
武田信繁というわかりやすいのがおるだろうが
0020日本@名無史さん垢版2018/05/14(月) 23:46:26.44
山本某に1票
0021日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 00:40:00.70
では謙信は?
0022日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 01:34:40.66
【ブレーン】快川招喜 武井夕庵 大久保長安
【重鎮】猪子兵助 稲葉良通
【親族】織田信忠 津田信澄
【黒幕】本田正信 同正純
0023日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 12:36:20.35
>>21
よう知らんけど、NHK的には直江景綱だな。
>>22
小物臭がするんだが・・・・・・。  ま、その意気やよし。
0024日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 15:34:22.58
>>22
武井夕庵のウィキを読むとこの人渋いね。大江広元と被るね。 あまり解明されていない織田政権の一端が知れる。
猪子は重鎮ではなく【側近】だな。石田三成とか大岡忠光 加納久通あたり。
本多正純もこの系統じゃないかな?
ヒトラーとマルチン・ボルマン。 最近では北朝鮮の刈り上げ君とその妹みたいな。
0025日本@名無史さん垢版2018/05/15(火) 21:27:42.71
カリアゲは世襲だろ
ただの三代目
0026日本@名無史さん垢版2018/05/17(木) 09:39:10.88
細川政元や三好長慶も天下人として忘れないでください。
0029日本@名無史さん垢版2018/05/17(木) 20:37:40.67
北条得宗専制・・・・平頼綱
足利尊氏政権・・・・高師直
細川京兆専制・・・・上原元秀
三好政権・・・・・・・・松永久秀

これら剛腕型ナンバー2というのは新興勢力を代表する時代の開拓者でもあるんよね。
こう眺めると、織田信長というのはナンバー1とナンバー2を兼任していた感じだね。
つまり、「信長にはナンバー2はいない。」 という事につながる。
0030日本@名無史さん垢版2018/05/17(木) 21:01:16.75
誰かも書いているが、「家康にはナンバー2はいない。」「家康にはナンバー2が多すぎる。」
この2つは矛盾しているようで実は根っこの部分で同じこと言っているのだと思う。
家康も“右腕”はいないんだな。“指”ばっかりだ。
徳川四天王+本多正信でやっとこさ>>29クラスの面々と釣り合う。その分 家康にはブレーンやスタッフが多く、各人の能力を十分に見抜いた人材活用を行った。
人使いの名人としては日本史上 家康に勝る者はいないだろう。組織作りの天才の所以だね。
0031日本@名無史さん垢版2018/05/19(土) 14:43:19.91
再来年の大河ドラマは明智光秀が主役だと。 従来の説では光秀の生まれは1528年で信長の6歳年長だったが
最近の研究では1515年説が有力視されてきた。 さあNHKはどっちを取るのか楽しみ。
斎藤道三の国盗りは実は親父と二代でやったとか、 信長は室町幕府を滅ぼさずそのまま存続を認めた(鞆幕府)とか、
歴史観も変わってきている今日この頃。
0032日本@名無史さん垢版2018/05/19(土) 16:59:27.25
信長下げて光秀上げる気まんまんだろ
NHKだからなw
0033日本@名無史さん垢版2018/05/22(火) 23:19:22.47
素浪人からナンバー2にまで抜擢した人物に謀反を起こされる信長って、
トップとしてはダメダメだろ
0034日本@名無史さん垢版2018/05/23(水) 14:18:39.59
急成長する新興企業のワンマン社長などがそうであるが、年齢。学歴などを問わず、
徹底した能力主義・成果主義で人材を重職に抜擢する人事政策をとる者は、
降格人事も情け容赦なく行う。織田信長と明智光秀の関係がその典型であろう。
 明智光秀の前半生は詳らかではない。通説に従えば土岐氏庶流明智氏の出で、
斎藤・若狭武田・朝倉氏家臣を経て、足利義昭の側近となり、義昭と信長の連絡役となった。
その後光秀は才能を信長に認められて寵臣となり、織田家中で初の城持ち大名となる。(諸説あり)。
本能寺の変の一年前 光秀は家臣へ宛てた書状の中で信長に対する盲目的なまでの感謝と崇敬を吐露している。
 しかし、信長の気まぐれなのか、些細なことで不興を買った光秀は所領を召し上げられ、
まだ征服していない土地を新両として与えられる。新両は自分の力で獲って来い、というわけである。
0035日本@名無史さん垢版2018/05/23(水) 14:23:23.69
かつて歴史学者の高柳光寿は光秀を「近畿管領」と呼んだ。細川幽斎・筒井純系らを
与力としてつけられ、近畿地方の治安責任者となったことをこう表現したわけだが、
個人的にはこれは過大評価・誇張表現だと思う。
小和田哲夫も「近畿方面軍司令官」と呼んでいるが、羽柴秀吉・柴田勝家・滝川一益等は
毛利や上杉などの大大名を正面攻撃する部隊司令官と同列に扱うのは少し違和感がある。
まあ、それはともかく、林・佐久間ら宿老追放後の織田家中において家臣団筆頭格にまで登り詰めた光秀が
「近畿方面軍司令官」から「中国方面軍司令官補佐」に格下げされたことは
先の所領没収と合わせて、光秀にとっては精神的に相当きつかったと思う。
新参者同士で良きライバルであった秀吉の幕下というのも複雑である。 
日大のアメフト選手ではないが、光秀の“追い詰められ感”は後世の我々にも容易に想像できる。
 光秀の信長への想いは、一年前の盲目的な忠誠から自分の生存を脅かすものとなり、
排除の対象となった。 光秀の心の動きがこういう流れであったとすれば、
上司信長の人心管理術が根本的に間違っていたのではないか?
 NHK大河ドラマ「信長」では最終回のラストで疲れ切った光秀が「これでやっと眠れる」と呟いていた。 このシーンを書いた脚本家の光秀観に納得した。
0037日本@名無史さん垢版2018/05/24(木) 21:08:07.87
光秀の家臣には幕府の旧奉公衆が何人かいた。 光秀自身が奉公衆明智氏の出とも言われている。
また、一説によると本能寺の変後、朝廷より征夷大将軍補任の口宣があったとのこと。
(今はあまり聞かないが、昭和後期は定説みたいになってた)
明智幕府というのもなんかワクテカ
0038日本@名無史さん垢版2018/05/24(木) 21:21:24.83
明智幕府ってさ
後継者がいない
譜代の家臣もいない
豊臣と同じで維持できないじゃないか
0040日本@名無史さん垢版2018/05/25(金) 13:28:15.09
「明智幕府」で話を広げてみる。
豊臣政権の実務を担った官僚筆頭として有名なのが、石田三成 長束正家ら五奉行である。
織田政権でこれに近いのが、村井貞勝 松井友閑 武井夕庵らであろう。
松井友閑は室町幕府の奉行衆から織田家に仕官し、織田信長の右筆となった。松井は信長の秘書官に留まらず、本願寺や三好など敵対勢力への外交交渉にも辣腕を発揮した。
 幕臣時代から京・堺の豪商らと親交があり、情報収集能力・政界遊泳術に長けてそうだ。事実、本能寺の変後は秀吉に接近して、右筆、堺代官となった。
もし、明智光秀が三日天下に終わらず順調に新政権を発足させたならば、
松井友閑は明智幕府に参画した可能性が高い。
武井夕庵も元々は美濃斎藤家の右筆であり、同郷出身ということで光秀に重用されるかもしれない。
 室町幕府や織田政権の吏僚は豊臣政権や徳川幕府へと再雇用されてその命脈を維持し続けた。
「明智幕府」もその流れに沿った展開となっただろう。
0041日本@名無史さん垢版2018/05/25(金) 21:19:03.68
>>38
明智秀満
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E7%A7%80%E6%BA%80

有能なナンバー2の資質として挙げておきたい点は、「場合によってはトップに異論・苦言を言えること」である。 
これが出来るナンバー2がいない組織はイエスマンばかりで、トップが間違った判断をした時に修正を行う装置が無い欠陥を抱え込むことになる。
上記ウィキペディアに見る逸話を読むと、明智秀満は親分にズケズケと諫言する熱血漢である。
斎藤利三と並ぶ明智家の重臣であり、男子のいない光秀の後継者に成り得る立場でもある。 
琵琶湖を馬で渡る、など虚実相い交じったエピソードを持つ人物なので、次期大河ドラマ「麒麟がくる」でも出番が多そうだ。
0042日本@名無史さん垢版2018/05/25(金) 23:02:22.78
>>1の中で北条時政は【盟友】ではなく【親族】だな。兄弟と違うけど。
というか、時政をナンバー2になったのは頼朝時代ではなく実朝時代。
実朝は傀儡将軍なので実質ナンバー1とも言える。
0043日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 04:21:20.35
今度は明智キチガイかよw
0044日本@名無史さん垢版2018/05/26(土) 10:31:55.36
松井も武井も本能寺後光秀を天下人にするために集結してないのに
勝手に光秀の家臣になりたがってたことにするな
光秀幕臣説ヲタは日本史板でも大河板でも大暴れしてるな

幕臣ヲタによれば光秀は足利義昭の側近ナンバー1で
次期将軍としてふさわしい立ち位置にいたというのだが
永禄年間の「明智」を光秀だとしても足軽衆という雑用係にすぎんというのに
0046日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 11:04:28.29
秀吉は家康を牽制する対抗馬として弟秀長を抜擢し、官位や石高で家康に並ばせた。
秀長没後は竹馬の友である利家を重用、これまた秀長の代わりに持ってきた。
豊臣政権の不幸は、将来の家康台頭を予見して 抜擢した2人が予想より早く没したことである。
これは蒲生氏郷にも言える。
野心家のナンバー2を掣肘する役目を負っていたナンバー3の不在が家康の幸運。
0048日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 18:56:52.29
>>46
利家も秀長も家康より年上だ
家康よりも先に死ぬことが予見できなかったわけではないだろ

秀吉の失策は徳川を善人に見すぎたことにある
秀頼の叔母である江を自分の養女にして徳川秀忠に嫁がせ
徳川秀忠に秀頼の後見人になってもらおうとした
利家や秀長に期待していたなら自分の養女はそっちへ嫁がせなければならなかった

結局、秀頼の叔母が徳川に嫁いでいようが
秀頼は叔母の夫であり正室の父である徳川に殺されてしまったが
0049日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:42:00.19
記者: 「秀頼公を殺せ」と指示しましたか?

家康: 言ってないと思います。
秀忠: 「潰せ」とは言いましたが、「殺せ」とは・・・、記憶に無いっす。
0050日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 19:44:57.73
日本史上最高のナンバー2は井上コーチ
というわけで 50get
0051日本@名無史さん垢版2018/05/27(日) 21:14:56.30
>>48
秀吉が晩年に設けた五大老は幼君を支えるための集団指導体制であるが、
この中でも徳川家康がダントツの実力者であるので、秀吉没後そう遠くない時期に崩れることは、
秀吉は予見していたんだと思う。
制度論としての五大老は家康VS四大老という構造を本質的に有している。
前田利家亡き後、その跡を継いだ利長が家康の最初の標的となり敢え無く陥落、次の標的は会津の上杉景勝となった。 このあと、五大老は徳川・前田VS毛利・上杉・宇喜多と分裂するわけだが、「四大老は家康の押さえ役」という秀吉の裏構想はまあ機能したと言える。
 従来、毛利輝元は安国寺恵瓊や石田三成に説得され西軍総大将に祭り上げられた凡将の見方が多い。 しかし近年では「毛利輝元は意外に積極的だった」という見方がなされている。
 小田原征伐時、輝元は秀吉より聚楽第留守居役を仰せつかり、「この城を輝元に預け、皆は輝元を天下殿と思え」という秀吉の言葉も残っている。 
小早川隆景在世中の話だが、秀吉は「東国は徳川、西国は毛利の仕置に任せる」と言ったことがあり、 輝元はその時の感激を書状にして隆景に送っている。
 三成の決起後、家康の留守居を追い出して大坂城西の丸に収まった毛利輝元が浅野長政を除く四奉行を従えて秀頼を奉戴する姿は、秀吉の描いた未来予想図どおりではなかったか。
0054日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 19:12:38.02
>>51
秀吉が家康に天下を取られることを生前から見越していたなら
朝鮮出兵で投入した全兵力と全財産を掛け全大名に命じて
徳川を潰したらよかったじゃん
秀吉存命中ならできたと思うぞ

違うだろ
家康は秀吉の妹旭姫を娶り秀吉の生前は
「私こそは太閤様の義弟」「私がいる限りは義兄上さまに甲冑を着させません。
私になんでもお命じください」と豊臣家一門のような顔をしていたんだよ
秀吉はすっかり騙された
0055日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 20:59:47.55
源義経が兄頼朝の勘気を蒙った理由を歴史書はいくつか挙げている。
頼朝の許しを得ずに後白河法皇から官位を貰った、平氏討伐の功績を誇り驕慢な振る舞いが多かった、軍令・軍律を無視してスタンドプレーに走る等々。
要するに義経は人格的に未熟 我儘であり、 義経とそりが合わない讒言魔の梶原景時の報告を頼朝が信じたという事である。
兄弟のコミュニケーション下手がそれに輪をかけて両者の疑心暗鬼を生み、近親憎悪に発展した。 
まあ、古くからこういう解釈で兄弟対決は処理されてきた。 
後白河法皇の兄弟離間策に嵌められたという解釈もこの文脈上にある。
 しかし最近は義経の内心、具体的には兄への対抗心や上昇志向に兄弟対決の原因を求める説がある。 
これは法皇が鎌倉幕府に対抗するために義経を取り込んだ、という従来の説を進めて、
義経の側にも「魚心あれば・・・」なんとかの気負いがあった、という見方である。 
無論、義経には最初から頼朝への叛意があったわけではない。
 源義朝の嫡子であり政治手腕と人望に勝る武家の棟梁たる兄に対するリスペクトを抱きながらも、
軍事的才能は自分の方が上で、母の身分を別にすれば自分も源氏の棟梁としての資格は十分にある、という自尊心が義経にあった、とする解説である。
義経の驕慢さも根っこはココだと言うわけだ。 
0056日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 21:06:14.47
義経が頼朝に対抗して京都に“第2幕府”を創れるほどの能力も人望もないことはその後の歴史で証明されるわけだが、
平家滅亡直後の義経を見つめる頼朝の眼には相当ヤバい危険分子に移った事であろう。  
屋島・壇ノ浦の合戦においては東国遠征軍よりも義経が組織した現地召集部隊が活躍し、
法皇周辺には反鎌倉派の公家や寺社勢力も存在した。 
また、間の悪いことに頼朝とソリの合わない叔父の源行家も義経の元に転がり込んできた。
義経は義経で、 完全に終わっているのに自らの復権を信じて止まない平時忠の娘を妻に娶るというサプライズを見せてくれる。 
義経は存在すること自体が 「第二の木曽義仲」である。  これはもう討たれて当然である。
0057日本@名無史さん垢版2018/05/28(月) 23:46:39.22
存在することが罪というなら、上総広常もそれにあたるね。
軍事力では御家人中最大であり、鎌倉幕府初期の実質ナンバー2とも言える。
広常は朝廷からの独立志向が強く、政治路線としては頼朝と正反対だった。
傲慢無礼で不遜な態度であり、後世の高師直や上原元秀のルーツみたいな男だ。
この人も討たれて当然の人ですよ。 (尤も、広常に謀反の意志は無く、討滅後、頼朝は悔やんだという。)
0058日本@名無史さん垢版2018/05/29(火) 09:55:25.45
鎌倉幕府の成立については歴史学界では2つの対立見解がある。
東国国家論(主に東京大学系)と権門体制論(主に京都大学系)がそれで、
現在も論争が続いている。幕府草創期にも路線対立があって、
この際京都の貴族とはサヨナラして坂東は独立独歩でやっていこうという考えと、
朝廷とは上手に付き合って自治権の拡大を志向する考えで、上総広常は前者の代表格である。
富士川の戦い後、すぐさま平氏討伐の上洛を果たそうとする頼朝に対し、
広常はまずは坂東を固めることを進言した。
頼朝への臣従を明らかにしない常陸佐竹氏への討伐進言は、元々広常と佐竹氏が所領争いをしており、広常の私怨の側面が大きいが、
頼朝は「広常は『なんで、今後も京都に気を遣わねばならんのだ』と常々語っていた。」と、
証言しているので、広常は真正の東国独立派だったのだろう。
結局、1183年10月、いわゆる「寿永の宣旨」によってこの路線問題は決着するのだが、
単なる偶然か、この2か月後に広常は誅殺されている。
 義経もそうだが、政権ナンバー2が消されることによって「鎌倉幕府」は成立をみる。
0061日本@名無史さん垢版2018/05/30(水) 03:05:59.12
立花道雪
0062日本@名無史さん垢版2018/05/30(水) 20:04:15.45
立花道雪は大友宗麟の家臣にしておくのはもったいない人物だ。 主君と家臣が逆だったらよかったのに。
宗麟は凡将ではなかったが、晩年の凋落がすさまじい。
0063日本@名無史さん垢版2018/05/30(水) 20:39:15.81
立花なんてまた地方の小城主にすぎんのに
大河板にいる宗茂ヲタか
0064日本@名無史さん垢版2018/05/30(水) 21:23:01.50
道雪の話を無理やり宗茂に結びつけようとするアンチってどうよ
0065日本@名無史さん垢版2018/05/30(水) 21:49:02.50
大友宗麟も名将の部類に入ると思うが、道雪や高橋紹運などの優秀な家臣団に恵まれれたところが大きい。
最盛期には8カ国の太守となり、天下をも射程圏に入れる立場になった。 しかし、結果はご覧のとおり。
息子に家督を譲ったとはいえ、家運がダダ下がりの中でキリスト教にのめり込む宗麟の姿を
立花道雪はどう見てたんだろうか? 
0066日本@名無史さん垢版2018/05/30(水) 21:49:43.28
道雪って宗茂時代よりも小さい領主だったよな
0067日本@名無史さん垢版2018/05/30(水) 23:44:58.49
>>66
領地の多寡にかかわらず、家臣がどんどん離反していく主家に留まり、老体に鞭打って最後まで忠義を尽くす道雪の人生哲学がいいんだよ。
「武士は二君にまみえず」というのは平和な江戸時代の「あるべき武士像」であって、源平合戦の頃より、武士は主君をころころ替えるのが当たり前だった。
道雪の同僚 高橋鑑種は毛利元就のヘッドハンティングを受けて大友家を離れようとした。
別に俺は宗茂オタではないが、立花道雪の薫陶と名将高橋紹運のDNAが、戦国武将の“完成形”である立花宗茂(ちょっと盛ってみましたw)を生み出したと思う。

立花道雪は知略・実戦に優れ、文化面にも心得がある。 戦国武将としては最高クラスの武将だよ。
0068日本@名無史さん垢版2018/05/31(木) 12:09:31.82
>>67
最後まで忠義を尽くした忠臣なら楠木正成や真田信繁もそうだと思うが
ここは忠臣スレではなく天下人のナンバー2スレだぞ?
そもそも大友宗麟が天下人ではないのに大友宗麟の忠臣が
天下人のナンバー2などであるはずもない

完全なスレチ
0070日本@名無史さん垢版2018/05/31(木) 20:40:22.15
>>69
不比等のどこが凄いのか正直よくわからない。 正直、この人は名前負けと違うんかと。
正直、詳しく説明してもらうと助かるのですが正直。
0071日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 10:46:53.98
大宝律令を作ったことしか思い浮かばない
0072日本@名無史さん垢版2018/06/02(土) 21:11:53.42
豊臣秀吉ーー黒田如水コンビが最強でしょ
0075日本@名無史さん垢版2018/06/03(日) 17:14:02.64
黒田長政はその遺書の中で『関ヶ原で徳川に天下を獲らせたのは自分と父親である。』と述べている。
だが、実の所、関ヶ原の勝敗を決定的にしたのは長政よりもむしろ吉川広家であろう。
実際に広家は出雲15万石から防長二ヶ国29万石余石の恩賞を受けた。
 しかし、この評価は広家にとって心外であり、自分への恩賞などとんでもない話であった。
関ヶ原合戦で見せた広家の西軍サボタージュはあくまで毛利本家を守るためであって、
その結果が毛利本家の改易とあっては本末転倒である。
 広家の必死の嘆願の結果、彼に与えられるはずだった領国に毛利家が転封され、
吉川家は毛利本家の家臣のまま岩国3万石の領主となった。
幕府は吉川を独立した大名にしようとしたが、毛利本家がそれを認めなかった。
本家の為に良かれと思ってしたことがその後250年も本家の恨みを買い、
反対に徳川から厚遇を得たのは人生の皮肉である。
0076日本@名無史さん垢版2018/06/03(日) 17:16:27.19
風雲急を告げる幕末、長年疎遠だった毛利本家の危機を救うために奔走したのが
十二代岩国領主吉川経幹である。 
第一次兆州征伐の折には長州藩と幕府・朝廷の間を調停し、
第二次長州征伐(四境戦争)の際には芸州口の戦いに活躍した。 
この四境戦争の勝利が徳川幕府崩壊の引き金になったのは周知の通りである。
徳川に天下を獲らせ吉川は、徳川から天下を奪ったことで
「関ヶ原」の失敗に始末を付けることが出来た
0077日本@名無史さん垢版2018/06/06(水) 15:47:52.61
江戸幕府を下から支えた弾左衛門こそ幕府ナンバー2だな
0079日本@名無史さん垢版2018/06/08(金) 17:45:48.84
>【外様】 藤堂高虎 (>>1
>立花道雪の薫陶と名将高橋紹運のDNAが、戦国武将の“完成形”である立花宗茂を
生み出した (>>67)

藤堂高虎も立花宗茂も外様大名としては異例の厚遇を得た人物だが、
高虎は豊臣秀吉の死後さっさと豊臣家を見限って、関ヶ原前より家康になびいてその信頼を得たのであるのに対し、
宗茂はバリバリの西軍、負け組からの敗者復活である。共に三代の徳川将軍に仕え、
重用された理由は武将としての才能は勿論のこと、その人柄も大きい。特に宗茂はその面が顕著である。
 脇坂や松倉などの日和見参加組には見られない、宗茂を貫く主家への徹頭徹尾の忠誠心の厚さが、
仇敵徳川家にとっては非常な魅力に映った。宗茂を語るにはやはり立花道雪と高橋紹運の二人の父は外せない。
0081日本@名無史さん垢版2018/06/08(金) 21:05:35.88
<ウィキペディアから一部引用>
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、その直前に徳川家康から法外な恩賞を約束に東軍に付くように誘われたが、
宗茂は「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い拒絶した。
家中でも重臣・薦野増時は西軍に勝ち目なしと東軍への味方を進言したが、「勝敗に拘らず」と増時を留守に残し西軍に参加した。
そして石田三成率いる西軍に属し、伊勢方面に進出する。

・・・・・・・関ヶ原から大坂城に逃げ帰った宗茂は籠城・徹底抗戦を毛利輝元に進言したが、
吉川広家の「家康は毛利家を不問に付す」という話を信じてこれを却下してる。
んで、柳川に逐電した宗茂は改易と。
じゃが、「勝ち組」広家と「負け組」宗茂はしばらくして立場が逆転する。  
人生何が起こるか、わからんね。
0083日本@名無史さん垢版2018/06/08(金) 21:14:53.72
立花ヲタが必死に立花宗茂を徳川家康のナンバー2にしようと常駐してる
大河板も日本史板も荒らしてる
0085日本@名無史さん垢版2018/06/08(金) 22:16:27.75
>>82
立花宗茂って、あまりにパーフェクトヒューマン過ぎて、逸話をそのまま信じられないこともあるね。
まあ逸材であることは事実だろうが、「日本無双」とか聞くと少し引く。

>>83
敢えて言うなら家康のナンバー2というより秀忠・家光のナンバー2だな。相伴衆。そういう意味では伊達政宗とも似ている。
宗茂と違って政宗は天下の副将軍気取りの大大名だから、こちらは本当のナンバー2だな。 
仙台城だったか瑞巌寺だったか、に天皇を迎える御幸の間があったらしいし、徳川と伊達は一種の競合関係か?
戊辰戦争時には輪王寺宮を東武皇帝に担ぎ、権征夷大将軍になったとの見方もあるし(かなり眉唾w)、
この「伊達中華思想」もなんかワラカス。
0086日本@名無史さん垢版2018/06/09(土) 10:56:13.57
>>84
立花ヲタって往生際悪いよね
連日次期大河は立花宗茂で決定したとネットに連投したり
天下のナンバー2は立花宗茂だといったり
自演が酷い
0087日本@名無史さん垢版2018/06/09(土) 11:03:29.42
自分が気に食わないレスはみんな同一人物に見えるやつって
うざいし格好悪いな
0088日本@名無史さん垢版2018/06/09(土) 16:36:21.46
立花が徳川政権のナンバー2はあり得ないだろ
築城家で大坂の陣の先鋒で和子入内に汗をかいた藤堂にはまったく及ばない
本拠地の場所や石高の差がそれを証明している
0090日本@名無史さん垢版2018/06/09(土) 19:59:58.10
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺

https://youtu.be/iBIA45CrE30
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
https://www.youtube.com/watch?v=SiHp41uWo1I
https://www.youtube.com/watch?v=zYBCTRryFP8
https://youtu.be/-wF31xbwqPM
0092日本@名無史さん垢版2018/06/09(土) 22:32:55.05
通のおススメは松平忠明
0093日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 20:35:47.67
松平忠昭は家康の外孫であると同時に養子になっている。
家格は譜代大名だが、
実質的には親藩大名であり、“弟”である御三家の藩祖たちより20歳程の年齢差を考えれば、
家康死後の秀忠体制下での松平忠昭は徳川一族の最長老ということになろうか。
  大坂夏の陣後、家康の特命で忠明は大坂藩主となり、戦災で灰塵に帰した大坂の再建にあたることになった。 
家康がこの大役に忠明を抜擢したのは単に自分の孫だからという理由ではあるまい。
実際に忠明は大坂の復興と市街地拡大に手腕を発揮し、後世に「水都大阪」と呼ばれる基礎を作った。
  松平忠明は豊臣秀吉・五代友厚と並ぶ大阪建設の偉人として再評価されつつある。
 また二代将軍秀忠は死の間際に忠明を井伊直孝と共に大政参与(家光の後見人)に任じた。
松平忠明は石高・官位において御三家の下風に立つが、年齢・経綸に加えて幕政においても
事実上の徳川一門筆頭となった。
0095日本@名無史さん垢版2018/06/10(日) 22:08:00.92
松平忠明は大坂の陣に参加した親族衆で、忠直・忠輝が改易された結果、
唯一の存在になったからな
0096日本@名無史さん垢版2018/06/11(月) 09:44:31.19
土井利勝は家康の御落胤という俗説がある。(『徳川実紀』など)
西田敏行主演のドラマではその設定でやってた。肖像画だけでいうと、似てるっちゃあ似てる。
秀忠は実の兄弟より、この2人の「 」付き兄弟の方を信頼してたとしたら、 秀忠も本当は寂しい奴だったのか、と。(TT)
0097日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 11:52:45.63
>>86
こんな所まで来て立花憎しに凝り固まってるお前が余程酷いよ
ヲタに意見するなら該当スレでやってこい
0098日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 13:11:00.04
俺が未だに彼女がいないのは立花のせい。 おまえに俺の心の痛みがわかってたまるか
0099日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 13:39:26.49
>>97
立花専用ヲタスレは一人で回しているので誰も来ないからって
他のスレ荒らししているお前が邪魔だよ
おまえのために立てた立花専用ヲタスレでお前一人でやってれば済む話
0100日本@名無史さん垢版2018/06/12(火) 13:51:15.36
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