◆戦においては圧勝
陸戦は殆どの戦いで勝利している。
海戦は李舜臣のゲリラ戦法で被害を受けたが戦局に影響するほどではない。

『明史・朝鮮伝』では秀吉の朝鮮出兵をこう総括している。
「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した。」

◆準備不足?
ルイス・フロイスの調査によれば、文禄の役で渡海した十五万人の内、死亡者は五万人、その殆どは過労死・餓死・凍死・病死であった。
朝鮮という土地が悪すぎたのか兵糧対策、防寒対策、衛生対策が不十分?これに反省してか慶長の役では籠城作戦をとる。

◆多くの朝鮮民衆が日本軍に味方した。

朝鮮の史料
『宣祖実録』『鶴峯集』には、日本軍の半分は朝鮮の民衆だった。
『燃藜室記述』には、城門を開けて日本軍を招き入れた。
『瑣尾録』には、募集しても義兵が集まらず、日本軍が来ると朝鮮の民衆が歓迎した。
『懲録』には、官吏が二人の王子を捕え日本軍に差し出す。

明の史料
平壌で取った首の半分は朝鮮人だった。

ルイス・フロイスも、朝鮮の民は「恐怖も不安も感じずに、自ら進んで親切に誠意をもって兵士らに食物を配布し、手真似で何か必要なものはないかと訊ねる有様で、日本人の方が面食らっていた」と記録しています。

半島南部は倭城を25城も築城できたのも朝鮮民衆の協力のおかげ?

◆捕虜というより亡命者や難民と呼ぶべきでは?

朝鮮の史料
『扶桑録』には、通信使が説得したが、処罰を恐れて帰国を希望する者が少なかった。

日本軍に協力してた者や、賤民だった者は帰国を拒否!